カール・マルクスの「物象化」とはなにか

前置き

 アンソニー・ギデンズについて調べているときに、「物象化」という概念がわからないと前へ進むことができませんでした。前に学習したはずなのに忘れてしまっていたので、再度復習することにします。

目標:物象化を理解すること、難しい言葉を簡単な言葉に置き換えること、抽象的な概念を具体的に考えること。

カール・マルクスとは

プロフィール

カール・マルクス

カール・ハインリヒ・マルクス(ドイツ語: Karl Heinrich Marx、1818年5月5日 – 1883年3月14日)は、プロイセン王国(現ドイツ)出身のイギリスを中心に活動した哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。彼の思想はマルクス主義(科学的社会主義)と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた

物象化とは

物象化の定義

物象化(ぶっしょうか)(Versachlichung)

本質的な関係(人と人との関係)が市場の合理性(資本主義)に支配され、物と物との関係のように疎遠な対抗的な威力(疎外)として現象すること

・実際は社会関係でありながら、物的な関係のようにみえてしまうこと*1

人間の関係という見えないものが、物の関係になってこの世に現れてくる、ということ*2

人間的な諸現象をあたかもモノででもあるかのように 理解すること,つまり非人間的な,あるいはおそらくは超人間的なものとして,理解することである。いいかえれば,物象化とは人間の活動の産物をあたかも人間の産物以外の何物かであるように理解すること―たとえば自然的事実,宇宙の法則の結果,あるいは神慮の顕現等々として理解すること(バーガー&ルックマンの定義*3)

社会的現実は客観的なものとして人びとを拘束するが,その起源が人びと自身にあることが忘れられることがあり,それを「物象化」と呼んでいる。そして,「物象化」も社会的世界のひとつのプロセスであり,この世界を特徴づけている*3

Person(人格)がSache(物)に転化してしまう事態*4

Person(人格)がSache(物件)のようになってしまうこと(田中孝一氏は物象化は誤訳で、物件化が正しいと主張している。)

(物件の説明:人格は手段として売り買いされてはいけないが,Sache は手段として売り買いできる。そのような事物は通常「物件」と呼ばれる。物件の一般的な意味は「物」。)

物件化とは労働の疎外過程である。疎外とはよそよそしくなることであり,労働の疎外とは労働者が労働過程そのものから疎遠になることである(*4、44頁)

 

物象化の解釈

「社会関係」の具体例:貨幣を使って商品と商品を交換するとします。この「交換関係」は「社会関係」です。なぜなら、人間と人間との関係だからです。社会関係の定義を調べると、「社会において社会集団を形成している諸個人が、相互作用に基づいて持続的にかつ安定的に営むことから一定の行動様式を築いて行い合っている関係(wiki)」と出てきます。要は、諸個人(=人間)の行為によって形成されている関係なのです。

 ところが社会関係であるはずの「交換関係」が、「物と物との交換」のように見えてしまうことがあります。これを「物象化」といいます。あたかも「貨幣にものを購買する能力が具わっているように錯覚し、貨幣を崇拝」してしまう場合があり、マルクスはこれを「貨幣の持つ物神性」として指摘しました。

もっとわかりやすい例:「お歳暮やプレゼントを「お気持ち」として交換するのも、人間関係という目に見えない物が、物の交換関係になって現れている(小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、359頁)」

 これはわかりやすい例ですね。お歳暮を贈るというのは、「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません。贈られた物を、贈られた人が「これからもよろしくお願いします」という気持ちを物から読み取るものだと思います。気持ちが物として現れている、つまりこれは物象化だといえます。人間関係は目に見えませんが、それが物と物との関係になると、目に見えるのです。

 素朴な疑問ですが、気持ちをプレゼントやお歳暮で表現するということが物象化であるとすれば、問題ないのではないかと思ってしまいます。おそらく物象化の中でも、悪い物象化があるようですね。それが「物神崇拝(フェティシズム)」だと思います(次の項で扱います)。マルクスの文脈でいうところの、貨幣の物神性ですね。奴隷制度は、人間が人間に命令し、労働させるものです。いわば、人間の主体性を否定するものであり、人間を物として扱う制度です。本来、人間と人間はお互いに主体性をもって行動するはずでしたが、人間が人間を物として扱うようになっているのです。これは「物象化」であるといえます。近代化したあとの世界では、奴隷制度がなくなっていきました。しかし、資本主義が発展していきました。資本主義の本質は、資本家に対して人間が自分の労働力を売り渡すというものです。つまり、人間を「手段としての物」として扱うのであり、「物象化」が起こっているといえます。

生産関係は、人間関係:たとえばトマトを生産するとします。種を植えて、水を上げて、トマトを作るとします。農家はそのトマトを消費者に売ります。トマトを作るという労働は、お金という貨幣に変わります。人間関係は目にみえないものでした。したがって、人間関係である生産関係も目に見えないことになります。生産関係は目に見えませんが、トマトと貨幣という物と物の関係は目に見えます。あるいは、人間関係としての労働の関係が物と物の関係になったということもできます。

 資本(事業をするのに必要な基金)も同じように、労働という関係の蓄積が、資本という目に見える形でこの世に現れていると理解できます。マルクスは過去の労働の蓄積を、「死せる労働のかたまり」と呼んでいます。近代においては生産者と消費者というよりも、資本家と労働者という生産関係の方が多いです。

物象化の説明:盛山和夫『叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究』(論文)

「社会的世界の客観性は,それが人間に対して彼の外部に存在する何物かとしてあらわれる,ということを意味している」(バーガー&ルックマン1966=1977:152)の引用から始まる部分は,「物象化」を説明するところの一部である。「物象化」について,バーガー・ルックマンは「物象化とは人間的な諸現象をあたかもモノででもあるかのように理解すること,つまり非人間的な,あるいはおそらくは超人間的なものとして,理解することである」(同:151)と述べている。この部分だけからは,「社会的事実をモノのように分析する」デュルケームが想像されるのだが,かれらの意図はそこにはない。それは, 続けて「いいかえれば,物象化とは人間の活動の産物をあたかも人間の産物以外の何物 かであるように理解すること―たとえば自然的事実,宇宙の法則の結果,あるいは神慮 の顕現等々として理解すること―である」(同:151)とあることからわかる。かれらの 主張は,“社会的現実がモノのように人びとを拘束するのではない”というところにはな い。社会的現実は客観的なものとして人びとを拘束するが,その起源が人びと自身にあ ることが忘れられることがあり,それを「物象化」と呼んでいる。そして,「物象化」も 社会的世界のひとつのプロセスであり,この世界を特徴づけていると主張しているので ある。 

貨幣の持つ物神崇拝(フェティシズム)

物神崇拝の定義、及び解釈

物神崇拝(ぶっしんすうはい)

・「貨幣や資本をあがめているのは、この世に現れている「ものの姿」、物象化した現象にとらわれていて、本質が見えていないことになります。これをマルクスは、物神崇拝(フェティシズム)とよび、それまでの経済学を、『神学』と形容しました。資本主義社会は、人間が作ったはずの貨幣や資本が神になって、人間を支配している世界だというのです(*2、361頁)。

・「資本は労働者が生産諸手段を使うのではなく,生産諸手段が労働者を使うことによって生み出される。つまり資本主義とは労働者が本来使うべき生産手段によって労働者が使われている転倒した関係である。そしてこの転倒した関係が人格の物件化であり,物件の人格化なのである(*4、44頁)。」

 人が物を使うべきなのに、物が人を使っているような状態が、資本関係です。人は主体性をもつゆえに人なのですが、物(資本)に人が使われているということで、主体性を失ってしまっています。マルクスの言葉でいえば、人が「疎外」されています。労働者が労働過程そのものから疎遠になってしまっているのです。

 物が人を使うということは、物が人を「支配」するということでもあります。資本が神のようになり、人間を支配している。このことを物神崇拝というのです。物が人のように人格化、あるいは神のように神格化されてしまっている状態です。

貨幣という一面的な物を得るためだけに生きる人間は,彼自身の本来の豊かさを失い物のようになってしまっている。彼は物のようになってしまった人間,物件化された人間なのである(*4、43頁)。

 

資本家は資本家としてはただ資本の人格化でしかなく,労働に対立してそれ自身の意思や人格を授けられている労働の被造物でしかない。ホジスキンはこれを,その背後に搾取する諸階級の欺瞞や利害が隠されている純粋に主観的な錯覚として摑んでいる。彼は,表象様式が現実的諸関係そのものから生ずること,後者が前者の表現なのではなくてその逆であるということを見ない。これと同じ意味でイギリスの社会主義者たちは言う,“我々は資本家ではなくて資本を必要とする”と。だが,彼等が資本家を取り除くならば,彼等は労働条件から資本であるという性格を取り去るのである(Marx[1972]: 290─291)。

 

 

利子はただ利潤の一部,すなわち機能資本家が労働者から搾り取る剰余価値でしかないのに,今や反対に,利子が資本固有の果実として,本源的なものとして現れ,利潤は今や企業者利得という形式に転化して,再生産過程で付け加わる単なるアクセサリーやおまけとして現れる。ここでは資本のフェティッシュな姿も資本呪物の表象も完成している。我々がG─G′で持つのは,資本の概念を失った形式,生産諸関係の最高度の転倒と物件化,すなわち,利子を生む姿,資本自身の再生産過程に前提されている資本の単一な姿である。それは,貨幣または商品が再生産とは独立にそれ自身の価値を増殖する能力─最もまばゆい形での資本の神秘化である(Marx[1964]: 405)

物件化とは

物象化か物化か物件化か(田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」(論文))

 「Versachlichung=物象化」という訳語が正しいかどうかというのが論点です。「Sache=物象」なのかどうかということです。カントはPerson(人格)とSache(物)を対立させて考えました(詳しい説明は次の頁にあります)。それをマルクスは継承しました。Sacheを物象として捉えるか、物として捉えるかという問題です。もし物として捉えれば、物象化ではなく「物化」となります。

 田中氏は物象という日本語が、人格の対概念とは思われないといいます。「物象」とは、物として現れている存在か,存在が物として現れることであり、「現象」していることを意味しています。つまり、「認識」の問題なのです。本当は物ではないなにかが、物として「現れている」ことが、物象化なのです。しかしこれはVersachlichung の真意を歪めるものであると、田中氏はいいます。マルクスのいうVersachlichungは認識ではなくて存在そのものにかかわるカテゴリーだからです。VersachlichungはPerson(人格)がSache(物)のように「現れる」かどうかではなく、Personが実際にSacheになるという、存在論的な次元を可視化する概念です。であるからこそ、物象化ではなく、物化といったほうが正しいといえます。

 (認識論とは、 「いかにして真正な認識が成り立つかを,認識の起源・本質・方法・限界などについて研究する哲学の一部門」です。認識とは、「人間(主観)が事物(客観・対象)を認め,それとして知るはたらき」です。存在論とは、「あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い究め、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察し、規定する学問」です。現れるとは、「今までなかったものが姿を”見せる”」という意味なので、認識だと思います。)

 田中氏はVersachlichungの訳として、「物件化」を主張しています。物件とは、「人格は手段として売り買いされてはいけないが,Sache は手段として売り買いできる。そのような事物」です。物という大きなカテゴリーの中で、売り買いできるものと売り買いできないものを区別し、手段として売り買いできるものを「物件」と私は解釈しました。物象化<物化<物件化の順に正しい訳だといえます。

 

 

マルクスの言う物象化に当たる言葉としては,Versachlichungや Verdinglichung が あ る。両者の内,Verdinglichung は素直に訳せば「物象化」というよりもむしろ「物化」になる。使用頻度や使用されている文脈からしても,Versachlichung こそが「物象化」の原語に当たると考えられる。そしてこれはマルクス研究者の間では定説的な解釈でもあると思う。では Versachlichung が物象化だとして,この言葉は本当に物象化なのか,つまり「物象化」というのはVersachlichung の訳語として適切なのだろうかということである。Versachlichung という言葉を物象化と訳すことは,この言葉を物象化の「原語」と見なすこと同様に定説になっているが,こちらの定説の方は,それを疑うべき大いなる理由がある。「物象化」は誤訳の可能性があるということである(40頁)。

 

資本主義とはそこにおいて物件の人格化と人格の物件化が生じているような社会のあり方であり,この矛盾は資本主義社会の細胞単位である商品に内在する矛盾だということである。人格が物件化された結果,物件化された存在において物件が人格化されることになる。一度成立すると,これらは同じ事態の両面として,対立物の統一の関係になる。なお,ここでは「現れる」や「認められる」という表現から,物件化もまた現れという認識論上の問題としてのみ扱われているような印象を受けるが,そう
ではなく,現実的な対立を問題にしているということを注意する必要がある(山本[1985]:117)(42頁)。

カントによるpersönlichとsachlichの区別(田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」(論文)41頁~)

Person とは:責任能力がある行為の主体

Sacheとは:全く責任能力が無い物(Ding)

 マルクスはVersachlichung(物象化)という言葉を、Person(人)とSache(物)が対立する意味内容(概念)として用いたそうです。物象化とは、人と人との関係が、物と物の関係として現れることです。Person(人)の正反対の方向の内容としてのSache(物)の関係になってしまっていると理解できます。ドイツ語ではPersonとSacheを対立させて使うことは、ごく普通のことだそうです。日本では人間の反対の言葉は、なんでしょうね。動物、ですかね。

 マルクスは、こうしたPersonとSacheの対立を、常識として前提するのではなく、自覚的に用いているそうです。PersonとSacheの対立を哲学原理までに高めた人物が、イマヌエル・カントであり、マルクスはそれを受け継いでいるのです。

イマヌエル・カント

イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 – 1804年2月12日)は、ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる(wiki)。

 カントはPerson(責任能力がある行為の主体)とSacheと(全く責任能力が無い物)に二分しました。人間が人間たる理由は、人間が単なる物ではなくて「人格」であるところにあるといいます。ここでいう人格とはおそらく、人間が主体的であることだと私は解釈しています。主体的というのは、「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」を意味します。他人に道具のように扱われるようなものは受動的であり、他人の意志によって動いているので、主体的ではありません。カントは人間を「専ら手段として扱ってはならない」という道徳律を立てましたが、これは人間が単なる「物」ではなく、「人格」であるからです。Sacheの例として、「商品」などが挙げられます。商品にはPersonのように主体性がなく、人格ではないからです。商品は「手段」として用いられるものであり、道具なのです。もちろん「貨幣」も手段であり、Sacheです。

 カントがなぜこのような道徳論を主張したのかというと、「奴隷制」を完全に否定するためです。奴隷制とは。「一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間つまり奴隷が、身分ないし階級として存在する社会制度」です。Personである人格、つまり主体性が否定され、Sacheである物のように扱われる制度です。人間を手段として、物のように扱うべきではないという道徳論はこのような文脈で主張されています。物として扱われることは、「商品」として扱われることと同じです。 人間を商品として扱い、物のように売り買いする制度なのです。カントは人間が本質的に平等で,他者に手段として扱われることのない自律した自由な存在であることをPersonと Sacheの対立図式において基礎付けようとしたのです。

カントを批判的に継承したマルクス(田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」(論文)41頁~)

 カントは資本主義の本質をつかめていなかったそうです。それに対して、マルクスはつかめていました。高校や大学を卒業する学生(労働者)、自分の意志で、つまり「主体的」に自分の労働力を資本家に提供します。雇ってくださいと言って、雇われるのです。カントの文脈でいえば、Personとしての人間は主体的であることが条件なので、自分の意志で労働力を提供することは、人格的な行為だといえます。

 マルクスはこうした面だけしか見ることができなかったカントを批判しているのです。人間は基本的に、働かなければ生き延びることができません。働かなくても生きていけるという文脈の上で、あえて主体的に働くことを選んでいるわけではないのです。働くということは、自分を労働力として資本家に売るということも意味します。もちろんサラリーマンや工場の労働者以外にも、農業者などもいます。しかし、近・現代社会においては農業者よりも、賃金をもらって働く人間のほうが多いのです。自分を道具として資本家に売り渡すということは、自分を物として扱っていることにもなります。主体的に、自分を物として売り渡すという二面性があるのです。この場合の主体性も、自分で望んでいるというより、資本主義という制度が、それを強制している(売り渡さなければ生きていけないから)といえます。

まさに労働者という人格的存在が Sache に転化する Versachlichung という事態が, 資本主義という社会制度によってもたらされているのである(41頁)。

  Versachlichungとは「物象化」です。Person(人格)がSache(物)に転化してしまう事態が、物象化なのです。カントは人間の人格性を否定する「奴隷制度」を批判しました。近代化に伴って、「奴隷制度」は廃止されました。しかし、近代化は資本主義の発展をも意味しています。資本主義は、人間の労働力を商品として資本家に売り渡すという構造、つまり物象化をともなっています。したがって、資本主義は人間の人格性を否定する制度であり、「賃金奴隷制」としても捉えることができるのです。これがカントに対するマルクスの批判です。

 

その他

抽象的に無限化する貨幣について(真木悠介の『時間の比較社会学』より抜粋)

前提:商品をW、貨幣をGで表す。

1:貨幣以前のプリミティブな商品交換(WーW’)

具体例:魚(W)と肉(W’)の商品交換

 この場合、「具体的有限な生活欲求の充足目的となる」。貨幣のように、抽象的無限することはない。

2:貨幣が単なる「交換手段」として機能している場合(WーGーW’)

具体例:100円(G)を使って肉(W)を得る。

 この場合、本質は1と変わらない。

3:貨幣がそれ自体として追求され、商品の購入ー販売が逆にそのための手段となる場合(GーWーG’)

具体例:2においては、肉を食べるためにGを使ったので、お金を増やすためにGを使ったわけではない。3においては、お金を増やすために、木材を買い、家を作って売る場合などが考えられる。この場合、100万円(G)で木材(W)を購入し、販売することによって1000万円を得るとする。2の場合は商品の獲得を目的としていたので、その関心は「質」にあるが、3の場合は貨幣の増大を目的としているので、その関心は「量」にある

 

そして関心が質的な具体性を捨象された量へと向けられるかぎり、欲望はもはや完結して充足しうる構造を失う。〘GーWーG’〙とは”資本”の定式に他ならないが、資本の本質はまさしくこのような、際限を失った無窮動にある。資本はこの価値増殖の運動〘GーWーG’〙において、媒介となる商品(W)の質については本質的に無関心である。

(真木悠介『時間の比較社会学』、岩波文庫、301~302頁)

 

参考・引用文献

*1那須壽『クロニクル社会学』、有斐閣アルマ

*2小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書

*3盛山和夫「叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究」(論文)

(CiNii論文 PDF)

*4田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」(論文)

(CiNii論文 PDF)

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蒼村蒼村

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