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	<title>バートランド・ラッセル | 創造法編集社</title>
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	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
	<lastBuildDate>Sun, 14 Jul 2024 12:28:37 +0000</lastBuildDate>
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	<title>バートランド・ラッセル | 創造法編集社</title>
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	<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:27:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-1" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-1">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">還元公理</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">還元公理</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">還元公理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">オーダーの区別を消去してくれる？</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">将軍の例で考えてみる</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">還元公理を導入する理由</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">ラムジー､ウィトゲンシュタイン､ゲーデル､クワインからラッセルへの批判</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">内包的/外延的</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">内包､外延とは一体・・・？</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる？</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">世界を記述し尽くせるか</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">「結果的に完全な記述となっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ」</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">還元公理は「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」である</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">次回の予定､ベイトソンとの関連</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">次回の予定</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">精神の基準リスト</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">還元公理</span></h2>
<h3><span id="toc7">還元公理</span></h3>
<h4><span id="toc8">還元公理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>還元公理</strong></span>：</big>いかなる属性についても､それと同値な(=全く同じ項たちにあてはまる)述語的属性があるという公理のこと｡</p>
</div>
<p>任意の命題関数がその変数に関してある特定の形で表現できることを主張している｡</p>
<p>還元公理は<b>タイプ・オーダーの二次元的な分岐を､一元的なタイプの階層へと整理する公理</b>だという｡</p>
<p>あるいは「クラスに関してオーダーの区別を消去してくれること」とも表現されることがある｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:還元公理､整理<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>「還元公理――いかなる属性についても､それと同値な(=全く同じ項たちにあてはまる)述語的属性がある｡」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,81p</p>
<p>「還元公理は､タイプ・オーダーの二次元的な分岐を､一元的なタイプの階層へと整理する公理だ｡これは､便宜的な装置のようにも見えるが､哲学的にかなり興味深い含みを持つ｡『偉大な将軍に必要な述語的属性をすべて持っていた』という属性Fは､第２オーダーの非述語的属性だが､この属性Fは､何らかの第一オーダーの､つまり述語的な属性と実は同じものだというのだ｡」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,81p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">オーダーの区別を消去してくれる？</span></h4>
<p>どうして還元公理がオーダーの区別を消去するのか｡消去してしまったらパラドクスがまた生じてしまうのではないか､と思ってしまう｡しかし厳密にはオーダーを消去するというより､実質的にオーダーはないのも同然だ､というイメージになるのかもしれない｡</p>
<p>なぜなら､異なるオーダーのそれぞれの属性が実質的に同じ属性だとみなすからである｡<b>分けるのをやめるのではなく､分けられたものを同じだと見なす</b>のである｡例えば「偉大な将軍に必要な述語的属性を全てもっている」という属性はn+1オーダーであり､具体的な「勇敢」などの属性はnオーダーである｡しかし､n+１オーダーはnオーダーに還元できる､一致できるという考え方を導入するのである｡たとえばaかつbかつc…というように無限に列言していく形で等価(同値)とみなすわけである｡</p>
<p>例としては適切かどうかはわからないが､すこし考えてみよう｡例えばオレンジジュースを凍らせるとする｡再び解凍すると､オレンジジュースが得られる｡この場合､凍ったオレンジジュースと解凍されたオレンジジュースは､同じ物体の異なる表現といえるのではないだろうか｡</p>
<p>厳密にはすこし違うだろうとかいう考え方は隅に置くとこの考え方はわかりやすいと考える｡高いオーダーの属性も､低いオーダーの属性に還元できる｡還元できるというのは言い換えれば同じであり､「<b>互いに同値な属性</b>」と表現される｡</p>
<h4><span id="toc10">将軍の例で考えてみる</span></h4>
<p>(１)「偉大な将軍に必要な述語的属性を全て持っているという属性」=Fはn+1オーダーである｡</p>
<p>(２)具体的に勇敢､好色､穏健…と属性を無限のように挙げていって得られる集合(F以外)はnオーダーである｡</p>
<p>(３)nオーダーにある具体的な属性をすべて「かつ」で結びつけていく｡</p>
<p>全ての属性をもっている必要があるので､勇敢であり､かつ好色であり､かつ穏健であり・・・と無限のようにある属性を列挙してつなげていく(F以外)｡このようなオーダーをG’と表現する｡</p>
<p>(４)さらに具体的な偉大な将軍が特有にもつ属性を列挙していくオーダーを考える｡そうしてA(例えばナポレオン)だけがもつ属性､またはBだけがもつ属性といったように列挙していき､それらを「または」で結びつけていくそうだ｡</p>
<p>こうしてまとまった長い述語を「<b>選言的述語</b>」というらしい｡述語が複数の選択肢のうちいずれかであることを示すということだ｡こうした長い述語をGと表現する｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3975" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png" alt="" width="805" height="764" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png 805w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7-800x759.png 800w" sizes="(max-width: 805px) 100vw, 805px" /></a></p>
<p>三浦さんの図(『ラッセルのパラドックス』,82p)を参考に作成した｡</p>
<p>還元公理によって､F=G’=Gとなるという図である｡FはG’に還元することができ､G’はGに還元することができる｡</p>
<p>ここで重要なのは「<b>どんな非述語的属性も､他の述語的属性に還元することができる</b>」という点である｡</p>
<p>こうして考えると､何かを具体的に分かりやすく説明したり､比喩を使って説明したり､まるで違った表現で説明する行為とすこし似ていると感じた｡つまり､同値の属性に適切に還元できるということが､説明の能力に関連してそうであり､深い理解の証となりそうである｡ベイトソン的にいえば(トートロジーであるにも関わらず)「理解のボーナス」が多角的な説明によって生じるという点が重要になる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:選言的述語<br />
「これは､言われてみればその通りだろう｡偉大な将軍の一人一人について､彼だけが持っていて他の何物も持っていない述語的属性を選び出そう｡ある瞬間に特定の言葉を発した､という属性でもいいし､出生時の正確な場所と時刻でもいい｡各々の偉大な将軍についてそうした述語的属性を少なくとも一つ選んで列挙し､それを『または』で結んだ長い述語を作ろう(『選言的述語』と呼ばれる)｡この述語Gは､いささか人工的だとはいえ､第一オーダーの述語的属性であることに変わりはない｡『すべての属性』に言及した属性ではないからである｡こうして､非述語的属性F『偉大な将軍に必要な述語的属性をすべて持っていた』は､述語的属性Gに還元できる｡他のどんな非述語的属性についても､似たような還元の工夫ができるだろう｡反例を発見した人はいない｡還元公理は正しそうだ｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,83p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">還元公理を導入する理由</span></h3>
<h4><span id="toc12">ラムジー､ウィトゲンシュタイン､ゲーデル､クワインからラッセルへの批判</span></h4>
<p>還元公理がない場合の分岐タイプ理論でどういう問題が生じていたか､という点を理解するといいのかもしれない｡</p>
<p>たとえば「非可述的定義を含む実数論､したがって解析を十分に展開できない」という問題があったそうだ｡何を言っているか私には理解出来ない｡</p>
<p>しかし三浦さんの「数学の根本に矛盾があるというのは致命的な病気なので､それを治すことは何よりも優先されなければならないが､悪循環原理は､あまりに多くのものを禁じすぎて､矛盾追放後のクオリティ・オブ・ライフを保証できていないというべきだろう」という表現ですこし理解することができた｡</p>
<p>単純なタイプ理論ですら多くのものを禁じており､分岐タイプ理論でさらに多くのものを禁じてしまったというイメージだろうか｡</p>
<p>では還元公理の導入で「非可述的定義を含む実数論」が可能になったのか､という話は私には理解できない｡おそらく可能になったのだろう｡</p>
<p>しかし問題は還元公理が正しいかどうかである｡これに対してたくさんラッセルは批判されたらしい｡ざっくりいえば還元公理の導入を正当化する論証を欠いているそうだ｡もともとラッセルがタイプ理論を構築した理由は悪循環原理の徹底であり､その特殊論のうちに論理的パラドクスの解消や意味論的パラドクスの解消というものがあった｡しかし徹底させればさせるほど数学の大部分が困難になってしまうという問題があった｡</p>
<p>ラムジーによって意味論的パラドクスをそもそも論理学や数学で解消する必要があるのか､などという批判も出ている｡ラムジーは還元公理が帰納的なものである(演繹体系ではない)という批判も行っている｡さらにラムジーは「無限連言」という代わりの方法も提案したそうだ｡</p>
<p>他にもウィトゲンシュタインが「還元公理が考えられない世界も考えられる」と批判したらしい｡</p>
<p>たとえばゲーデルは悪循環原理の要求が高すぎる点､無限連言による方法は無限の直観が入りこまざるを得ない点などを批判している｡</p>
<p>また､ゲーデルはラッセルのオーダーの定義にはテクニカルな問題があると考えたそうだ｡ゲーデルは「外延の同一性を担保に非可述的命題関数を容認し､悪循環原理を事実上放棄した」という｡なかなか難しく何を言っているか分からないが､おそらく還元公理の良さは認めつつも､オーダーという考え方に問題があると考えたのだろう(？)｡</p>
<p>ラッセルの目的は数学を論理学によって展開することであり､悪循環原理の徹底によって要請されるタイプ理論によって数学の大部分が困難になるというのは問題だということはわかる｡</p>
<p>その困難さを解決するために都合よく､その場しのぎで(アドホックというらしい)還元公理を導入するのはよくない､と批判を受けたというわけだ｡</p>
<p>「そもそも非述語的属性が述語的属性に還元されるということがわかっているなら､始めからオーダーなどで分けなければいい」というクワインの批判もあったそうだ｡</p>
<p>三浦さんの説明では「<b>タイプはリアルな違いだが､オーダーは語り方､表現法の違いに過ぎない</b>」というわけである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:クワイン､語り方<br />
「どうせ述語的属性だけで話が済むというならば､始めからオーダーなど分けなければいのに､と思われるだろうか｡実際､そのような批判をクワインが述べている｡タイプの違いは論理的にリアルな違いだが､オーダーの違いはリアルな違いではなく､単に語り方､表現の方の違いにすぎないのだから､尊重する必要があろうか｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,83p</p>
<p>「ところが、分岐タイプ理論を含む『プリンキピア』の体系は、その複雑さや非生産的側面に関して他の陣営から厳しく批判された。分岐タイプ理論の目的は、悪循環を含みうる非可述的定義の全面禁止によって確実な基礎を築くことだった。だがそのままでは、非可述的定義を含む実数論したがって解析を十分に展開できない。そこで、ラッセルらは、分岐タイプ理論を十全に展開するために、非可述的定義を部分的に可能にする「還元公理」を要請する。それは、任意の命題関数に対し、それと外延を等しくする可述的関数が存在するという公理である。しかし還元公理は、直観を欠いたアドホックな前提にすぎず、その必要もないと散々に批判された。還元公理の意義は、クラスに関してオーダーの区別を消去してくれること、言い換えれば、クラスに関しては外延性が成り立つことが保証されることである。こうして、クラスに関してはタイプの区別だけが問題となり、オーダーの区別を無視した非可述的定義が可能になる。しかし、これでは何のためにオーダーを導入したのか判然としない。ラッセルらは、還元公理が純粋にプラグマティックな正当化を持つとしているが、その導入を正当化する論証を欠いていた（Whitehead&amp;Russell(1927),p.xiv;cf.Church(1956),§59.）。」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,54p</p>
<p>「ゲーデルによれば、オーダーの理論は悪循環原理（VCP）に基づく。したがって、その批判は、VCPの厳密な分析によってなされる。VCPは、「いかなる全体も、その全体によってのみ定義しうるメンバーを含むことはできない」というものであった。そもそもVCPは、「定義によって導入される数学的対象は人間による構成と独立に存在するものではない」という構成主義的態度によって要請された。しかしVCPは、非可述的定義を認めず数学の大部分を破壊するため、要求としては強すぎる。全称量化を用いずに自然数を定義するには、ラムジーが提案したような無限連言による方法があるが、そこには無限の直観が入り込まざるを得ないとゲーデルは考えた。また、致命的なことに、オーダーの定義にはテクニカルな問題があって、自然数の帰納的定義に失敗しており、自然数が分岐タイプ理論から導出されるかすら明らかでない（G¨odel(1944),p.146）。そこでは、ラッセルは外延の同一性を担保に非可述的命題関数を容認しており、VCPを事実上放棄している。彼の数学的対象の存在に関する単一性の信念を支持するゲーデルにとって、一貫性を欠きまともに数学を展開できない以上、非可述性を避けるため概念に構成的階層を導くラッセルの立場は不合理に映ったのである。」</p>
<p>池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,55p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">内包的/外延的</span></h3>
<h4><span id="toc14">内包､外延とは一体・・・？</span></h4>
<p>すこし難しい話として､「内包的/外延的」という区別がある｡</p>
<p>三浦さんの説明によれば､「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくるような場合､その論理を『内包的』」と呼ぶらしい｡</p>
<p>正直､何を言っているかわからない｡「全ての事項が分からない」から､「全ての事項のうち､いくつかはわかる」へ､さらに「AとBとCが特にわからない」へ進めたらいいのだと思う｡とりあえずはどこが､どのようにわからないかを明らかにすることが「わかる」ための第一歩である｡だからこそ「わからなかったログ」も重要だろう｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内包(ないほう)</strong></span>：</big>一般に､ある概念や言葉が意味する共通の性質や特徴のこと｡概念が適用される事物に共通な性質の集合のこと｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外延(がいえん)</strong></span>：</big>一般に､その概念や言葉が指し示す具体的な対象のこと｡概念が適用される事物の集合のこと｡</p>
</div>
<p>例:「鳥」の内包は、羽、翼、卵を産むなどの共通の特徴｡学者という概念の内包は「学問の研究者」である｡</p>
<p>例:「鳥」の外延は、ペンギン、雀、ワシなど、実際に存在する鳥の個体｡学者という概念の外延は､Aという医者､Bという医者である｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる」場合､その論理を「内包的」という｡</li>
<li class="sample">「個体を優先して命題の真偽だけを問題にする」場合､その論理を「外延的」という｡</li>
<li class="sample">ラッセルは個体よりも普遍を重んじ､「真偽の定まり方を問う」内包的論理を重視している｡</li>
</ol>
<p>「現在医者として知られる全ての人物を列挙した集合のリストをつくる｡このリストにのっている人は医者である｡」というような外延的定義をラッセルはあまり重視していない､ということになるのだろうか｡</p>
<p>なぜなら､このような定義は集合や概念の本質的な「性質」に着目した定義ではないからである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:内包､外延<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84-85p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc15">属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる？</span></h4>
<p>「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる」場合､その論理を「内包的」というという説明は私にはまだ意味不明である｡</p>
<p>たとえば非述語的属性を述語的属性に還元すると､表現法が異なってくる｡この場合､属性が従う論理が異なる｡この論理というものが何を指しているか､私には意味不明である｡思いつくのはオーダーが異なるという点である｡「勇敢かつ・・好色かつ・・」というような論理形式と､「Aだけがもつ属性または・・・Bだけがもつ属性または・・・」といったものは「表現法」であり､それぞれが属するオーダー(論理)が異なると言ったほうがいいのかもしれない｡</p>
<p>といっても､AかつBやAまたはBのオーダーは同じであり､すべての・・・というような表現の違いがでてくると､その属性が従うオーダーが明確に変わりそうである｡あるいは「かつ」と「または」では相対的なオーダー差が対応していくと考えていくこともできるのかもしれない｡</p>
<p>論理形式は異なるが､しかし「共通の属性」について言及されているという点は同じである｡つまり､表現が異なると論理は異なるが､いずれも内包的である｡いずれも「属性」を重視している｡</p>
<p>例えるなら「医者である人々」よりも､「医者である人々がもつ性質」が重視されるのが内包的論理であり､また「医者である人々が持つ性質」を<b>多様な表現</b>で説明していることになる｡同じ値の異なる表現という点がポイントとなる｡同じ属性の異なる論理階型(=オーダー)と読み替えれば､論理形式が異なってくる､という意味合いがすこし理解できる｡</p>
<p>では､仮に外延的論理であった場合は､「表現が異なると論理が異なるということがない」ということになるのだろうか｡共通の性質というものをあまり考慮しないので､医者のリストさえ全て挙げることができれば､異なる表現というものが必要ないのかもしれない｡</p>
<p>つまり､表現法を多様にする(例えば述語的属性だけではなく､非述語的属性も取り入れる)ということにあまり意義を感じないのかもしれない｡それゆえに､外延的論理を重視する人達からすれば､内包的論理を重視する人たちは「余計な付け足し」だと思うのかもしれない｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:内包､外延<br />
「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくるような場合､その論理を『内包的』という｡ラッセルの論理学は､個体を優先して命題の真偽だけを問題にする『外延的』論理ではなく､個体よりも普遍を重んじ､真偽の定まり方まで問う内包的論理であるため､正確に同じ項の集まりにあてはまる属性を別個のものとして区別することが必要になるのだ(同一の項たちにあてはまる属性を述語的と非述語的に区別するのはムダ､という批判をする論理学者は､クワインをはじめ､『内包的論理』の重要性を否定する人々である)｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">世界を記述し尽くせるか</span></h3>
<h4><span id="toc17">「結果的に完全な記述となっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ」</span></h4>
<p>三浦さんによれば､ラッセルの論理学が内包的とならざるをえないのは「<b>個別的事実で世界が記述し尽くせるとはラッセルは考えなかったから</b>」らしい｡</p>
<p>たとえばラッセルは「『私が列挙したのは､宇宙の全ての個別的事実である』と付け加えない限り､あなたは宇宙の完全な記述をまだ成し遂げていないだろう」と述べている｡</p>
<p>たとえば無限のようにある「偉大な将軍に必要な属性」をひとつひとつ､述語的属性を全て列挙しつくせたと仮定する｡しかし､これでも「完全な記述」は完成しないという｡</p>
<p>なぜなら､「偉大な将軍に必要な属性を全てもっている」というような非述語的属性を付け加える必要があるからである｡あるいは「偉大な将軍に必要な属性はこれらの他に残っていない」というような非述語的属性でもいいのかもしれない｡とにかく､「<b>非述語的属性が完璧な記述には必要だ</b>」というのである｡もちろん､意味論的パラドクスを解決するために非述語的属性(オーダーの区別)が必要だという理由もあるのかもしれない｡しかしそのためだけだとしたらアドホック(その場しのぎ)だと批判されてしまう｡もっと根本的な導入の正当化が必要になる｡</p>
<p>非述語的属性は述語的属性に還元できるという前提があるのにもかかわらず､それでも必要なのかとラッセルを批判する人の気持ちが私にはわからなくもない｡</p>
<p>しかしベイトソンで私は「トートロジー(同義反復)を増やすことは蛇足ではなく､プラスアルファの理解のボーナスがあるという視点」を学んだので､仮に還元できたとしても異なる表現の重要さを理解することができる｡</p>
<p>「非述語的属性が完璧な記述には必要」ならば､「述語的属性と非述語的属性を区別するオーダーという考え方も必要」になるのだろう｡</p>
<p>したがって､「述語的属性だけでいい」という考え方にラッセルは同意できないということになる｡非述語的属性が述語的属性に還元できるからといって､不要とはならない｡世界の完全な記述は「<b>結果的に完全な記述となっているだけでは足りず</b><b>､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ</b>」というのがラッセルの考えらしい｡微妙なニュアンスの違いを理解することは難しい｡たとえばオセロをしていて､結果的､実質的に自分の駒のほうが多いとする｡しかし結果的に多いだけでは何となく足りない｡「自分の駒のほうが多い」と勝利宣言する必要がある｡この比喩が正しいかどうかはわからないが､私の理解はそういうイメージとなる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:「非述語的属性が完璧な記述には必要だ」<br />
「ラッセル論理学が内包的とならざるをえないのは､個別的事実で世界が記述し尽くせるとはラッセルが考えなかったからである｡『あなたが宇宙のすべての個別的事実を列挙し尽くすのに成功したとしても……『私が列挙したのは､宇宙のすべての個別的事実である』と付け加えないかぎり､あなたは宇宙の完全な記述をまだ成し遂げていないだろう』(論理学原子論の哲学)｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,85p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">還元公理は「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」である</span></h4>
<p>他にも三浦さんは､還元公理が「<b>すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定</b>」だと説明している｡これは興味深く､ひとつの重要なコード(鍵)となりそうである｡</p>
<p>述語/非述語の項目で､「美しい」という属性が述語的属性ではなく､非述語的属性を省略形で述べた可能性があることを学んだ｡このように､<b>一見､述語的属性に見えるものも非述語的属性の可能性がある</b>､ということを理解するために述語的属性/非述語的属性というオーダーの区別は重要である｡</p>
<p>そして､非述語属性を一端述語的属性に還元して議論しなおすということも重要であるという｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍が必ずもつ属性のうち､すくなくともひとつの属性をAさんもBさんも共有する」という文章があるとする｡しかしそれゆえに､AさんとBさんは似たような人物だ､とは必ずしも推論できない｡なぜなら､具体的にどの属性が共有されているか､上記の文章(非述語的属性)だけでは判断できないからだ｡</p>
<p>たとえばAさんは好色という属性をもち､Bさんは勇敢という属性をもつというようにオーダーをひとつ下げてから判断をすると､類似性を過大評価することがなくなりやすくなる｡</p>
<p>これはなかなかおもしろい｡「<b>述語的属性への還元に備える</b>」という姿勢が大事だということを学ぶことができた｡気づかないうちに､高オーダーだけで説明してしまっていて､何を意味してるかが曖昧で伝わりにくくなっていることがあるのは注意する必要がある｡意識的にはしごを登ったり降りたりする反復が大事であり､登っているのに降りたつもりになっているような混同をできるだけ避けるようにしたい｡結果的に同じことを意味しているとしても､コミュニケーションの受け手側の誤解しやすさには差があるだろう｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」<br />
「『勇猛である』『好色である』……がすべてナポレオンにあてはまることを個別に述べ尽くしたとしても､『これらの他に､偉大な将軍に必要な属性は残っていない』と付け加えないと､ナポレオンの完全な記述は得られない｡つまり､『偉大な属性を&#8221;すべて&#8221;持っていた』といった非述語的属性は､述語的属性に還元できるからといぅて､不必要とはならない｡世界の完全な記述というのは､結果的に完全な記述になっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であることをも明示しているべきなのだ！かくして､ラッセル的世界記述では､どうしても非述語的属性が持ち出されなければならないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,85p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">次回の予定､ベイトソンとの関連</span></h3>
<h4><span id="toc20">次回の予定</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4d6c3b1a0c0701c8ac2bd68aa436871f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3976" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4d6c3b1a0c0701c8ac2bd68aa436871f.png" alt="" width="729" height="306" /></a></p>
<p>まず､大前提として､右の図のように今回の動画は創造発見学の一つのカテゴリーだという位置づけである｡そして一番根本的なカテゴリーだと考えている｡</p>
<p>・次回はベイトソンが論理階型理論をどのように用いているかを紹介していきたい｡すこしだけ先取りしておく｡</p>
<p>・ベイトソンは「論理の世界」と「現象(現実)の世界」の違いについて語っている｡</p>
<p>たとえば論理の世界は「<b>無時間的</b>」であり､現象の世界は「<b>時間的</b>」であるという｡たとえば論理の世界ではラッセルが行ったように発生したパラドクスは「なかったもの(最初から存在していないもの)」とされてしまうか､そもそも「生じないもの」という演繹体系を構築する｡しかし<b>現象の世界では生じたパラドックスを「なかったものと」として葬り去ることはできない</b>｡また､自己言及的なシステムが山ほどあるという点がポイントになる｡</p>
<p>ベイトソンは論理の世界と現象の「重要な違い」について語りつつも「重要な類似」についても語っている｡</p>
<p>その「重要な類似」が､「学習の現象」に論理階型理論のようなものが当てはまる」というものである｡たとえばタイプ０とタイプ１が区別されるように､学習０と学習１が区別されていく｡</p>
<p>また､ベイトソンの「<b>ダブルバインド</b>」という概念が論理階型の混同によって生じるという点も重要になってくる｡</p>
<p>次回はいきなり学習理論やダブルバインド理論を扱うのではなく､ベイトソンが考えた論理階型の混同の例を見ていくことにする｡</p>
<p>例えば「地図」と「土地」は違う､「鎖のつなぎ目が切れること」と「どのつなぎ目が切れるか」は違うなど､さまざまな論理階型の違いを学んでいく｡一通り学んだ後で､学習理論へ接続していき､さらにそこからダブルバインド理論へ接続していきたいと考える｡</p>
<p>「世界を二元化しない《精神》の定義は､どんな基準をもってすることができるのか｡」(グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』125p)</p>
<h4><span id="toc21">精神の基準リスト</span></h4>
<p>最後に､ベイトソンが考える精神の判定基準のリストを引用していく｡要するに､こうした基準をもっていれば､なんらかのシステムは精神と認められるというわけである｡たとえば思考､進化､エコロジー､生､学習などはこうした基準を満たすシステムでのみ起こるとベイトソンは考える｡それゆえに､認識論を考える前提として精神の基準リストを理解する必要がある｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「精神とは相互作用する部分(構成要素)の集まりである｡」</li>
<li class="sample">「精神の各部分間の相互作用の引き金は､差異(ちがい)によって引かれる｡」差異とは時間上にも空間上にも位置づけられない非実体的な現象である｡差異はエネルギーにではなく､負のエントロピー/エントロピーに関係する｡</li>
<li class="sample">「精神過程はエネルギー系の随伴を必要とする｡」</li>
<li class="sample">「精神過程は､再帰的(あるいはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする」</li>
<li class="sample">「精神過程では､差異のもたらす結果を､先行する出来事の変換系(コード化されたもの)と見ることができる｡」変換のルールは比較的(すなわち変換される内容より)安定したものでなくてはならないが､それ自体変換を被ることもありうる｡</li>
<li class="sample">「変換プロセスの記述と分類は､その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす｡」</li>
</ol>
<p>正直言って､最初にこれらのリストを単に見たとき､私には理解不能であった｡</p>
<p>そしてこのリストを一部でも理解するために､まず論理階型理論を理解しよう､というのが今回の動画の主な試みであった｡ベイトソンの主張だけでも理解できる人がいるかもしれないが､私の視点で異なる表現をすることによって､理解のボーナスが生じることを期待する｡</p>
<h2><span id="toc22">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc23">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc24">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc25">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc26">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc27">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc28">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc29">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc30">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc31">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc32">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc33">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:25:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">単純タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">単純タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">集合におけるタイプ分け</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">性質におけるタイプ分け</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0"></a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">要素の範囲の広さとタイプ分けの関連性</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">ある存在者のタイプは固定的(絶対的)か､流動的(相対的)か</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">項と述語とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">文や命題の階型はややこしい</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">個物も属性も､存在者である</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">命題は属性である</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">単純タイプ理論を用いて命題の要素をタイプ分けしてみる</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">嘘つきのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">嘘つきのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">嘘つきのパラドクスをタイプ分けする</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">嘘つきのパラドクスのタイプ分けの結論</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">嘘つきのパラドクスを分岐タイプ理論で扱うとどうなるか</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">分岐タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">分岐タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">ベリーのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">ベリーのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">単純タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">分岐タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">オーダーを区別することで結局なにが変わったのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">命題関数</a><ol><li><a href="#toc33" tabindex="0">命題関数とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">述語的/非述語的</a><ol><li><a href="#toc36" tabindex="0">述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">非述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">全体への量化を含む非可述的定義</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">ナポレオンの例</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">機能等価としてワクワクする世界</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc43" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc45" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">タイプ理論</span></h2>
<h3><span id="toc7">単純タイプ理論</span></h3>
<h4><span id="toc8">タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>追記:2024/07/14</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>タイプ理論</strong></span>：</big>タイプ理論は､悪循環原理に従いながらも､明らかに有意味な命題をきちんと命題として認めさせてくれる理論｡</p>
</div>
<p>たとえば悪循環原理に従うと「排中律」など大切な原理が意味をなくなるが､タイプ理論によって有意味なものとして認めることが可能になるという｡</p>
<p>タイプ理論は単純タイプ理論と､分岐タイプ理論に分かれる｡両者は共に､タイプやオーダーといった階型を導入することによって不都合を解消しようとする理論である｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:タイプ理論の説明</p>
<p>「タイプ理論は､悪循環原理に従いながらも､M2のような明らかに有意味な命題をきちんと命題として認めさせてくれる理論である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』<br />
55p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">単純タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>単純タイプ理論</strong></span>：</big>この世にあるもの(存在者)をすべてタイプ(階層)に分けて考える理論のこと｡</p>
</div>
<p>ベイトソンを学んでいると､ややこしい用語が出てくる｡それが「<b>タイプ</b>」と「<b>オーダー</b>」である｡この違いが私には全く理解できなかった｡</p>
<p>どちらも「階層(階級)」と日本語で表現できるものである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/5e854a370b9377bf197025f731cd7556.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3947" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/5e854a370b9377bf197025f731cd7556.png" alt="" width="277" height="234" /></a></p>
<p>ざっくりいえば使われる文脈によって階層をタイプといったりオーダーといったりしているような印象を受ける｡</p>
<p>タイプ理論ではタイプが主に扱われ､分岐タイプ理論ではタイプと､同じタイプ(階層)の中でさらに異なるオーダー(階層)が扱われるというイメージである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:単純タイプ理論の説明</p>
<p>「タイプ理論では､この世にあるものをすべて階層に分ける｡タイプ０､タイプ１､タイプ２､……というふうに｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc10">集合におけるタイプ分け</span></h4>
<p>具体例を見ていこう｡</p>
<p>最下位のタイプ０は「個物」と呼ばれ､その「個物」の集合がより上位のタイプ１､「個物」の集合の集合がより上位のタイプ２､「個物」の集合の集合の集合がより上位のタイプ３・・というように階型が上がっていく｡</p>
<p>例えば「あの紙」より「紙」のほうが階型が高い｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/239c4c71b2adcd02b24b29687452005b.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3948" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/239c4c71b2adcd02b24b29687452005b.png" alt="" width="535" height="431" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>※仮に特定の人間などを最小の個物とし､タイプ０と仮定した場合｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:集合におけるタイプ分け</p>
<p>「たとえば､あなたや私やあの犬､この猫､この机､そのボールペンなど､個物が一番低階層の『タイプ０』に属する｡次に､人類(個々の人間の集合)､犬一般(個々の犬の集合)､机一般(個々の机の集合)はひとつ上の『タイプ１』に属する｡タイプ１集合の部分集合､たとえば日本人､セントバーナード､白い机などといった集合や､合併集合､たとえば人間か犬であるものの集合､机かボールペンであるものの集合､といったようなものも､含む要素の範囲の広さが違うだけなので､同じくタイプ１に属する｡さらに､人間の集合の集合(たとえば､各国ごとの国民の集合､サッカーチームの集合､男と女という二つの要素から成る集合など)､犬の集合の集合(セントバーナード､マルチーズ､柴犬､ドーベルマンなどを要素とする『犬種』という集合)などは､タイプ２に属する｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">性質におけるタイプ分け</span></h4>
<p>性質とは「個物がそれを持つかどうか問うことが意味をなすような属性」を意味する｡最下位のタイプ０である「個物」よりも､「個物がもつ属性である性質」のほうがタイプが上位である(タイプ１)｡</p>
<p>例:「赤い」という性質は､「赤い個物の集合」と同じレベルに位置している｡「あの紙」よりも「赤い」のほうが階型が高い｡では属性同士のタイプはどうなっているのか､という問題があるだろう｡この問題は後で扱う｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3949" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994-800x458.png" alt="" width="564" height="323" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994-800x458.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994.png 821w" sizes="(max-width: 564px) 100vw, 564px" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<h4><span id="toc12"></span></h4>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:性質におけるタイプ分け</p>
<p>「集合についていま述べたタイプ分けは､性質についてもあてはまる｡まず､『赤い』『熱い』『大きい』『勇敢である』のような､個物にあてはまる性質(つまり､個物がそれを持つかどうか問うことが意味をなすような属性)はタイプ１である｡なぜなら､個物がタイプ０であり､赤い個物の集合はタイプ１であって､『赤い』という性質は赤い個物の集合と同じレベルに位置しているはずだからである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,58p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc13">要素の範囲の広さとタイプ分けの関連性</span></h4>
<p>【ポイント】<b>含む要素の範囲の広さが違うことが論理階型の違いをあらわすわけではない</b></p>
<p>たとえば人類という集合も､日本人という集合も､犬という集合も､セントバーナードという集合も同じタイプ１に属すると<span style="text-decoration: underline;">考えることができる</span>｡</p>
<p>比喩的にいえば横の広さではなく､縦の長さが重要になるということだろう｡要素の集合よりも､要素の集合からなる集合のほうが論理階型が高い｡</p>
<p>たとえば日本人のほうが､(たとえば東京都にある)サッカーチームという複数の集合からなる集合より人数は多く､(横の)範囲は広そうだ｡</p>
<p>いやいやそもそも人間も原子の集合であり・・いや細胞の・・・と言い出すこともできるかもしれない｡つまり､<b>同じような概念でも集合の定義次第で論理階型の高低が変化する</b>｡</p>
<p>どのようなタイプとみなすかは人それぞれ､というわけではない｡一定のルールがある｡しかしどこまでをクラスのサブクラス､あるいは個物と表現するかについては表現者の状況によるのだろう｡</p>
<p>原子や細胞レベルまで考える必要がない､という合理的な理由があればそれらをわざわざ一番低いタイプと明記して分析をする必要がないのではないだろうか｡</p>
<p>食べ物のサブクラスに果物､甘いもの､リンゴを置くのではなく､いきなりそのリンゴを置くというように表現(定義)することも可能だったことと似ている｡</p>
<p>しかしサッカーチームと日本人は同じ論理階型であり､日本人よりも複数のサッカーチームからなる集合のほうが論理階型が高い｡これを抽象化すれば､集合よりも､集合の集合のほうが論理階型が高い｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:含む要素の範囲の広さが違うこと</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,55p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">ある存在者のタイプは固定的(絶対的)か､流動的(相対的)か</span></h4>
<p>ある存在がどのタイプかというのは絶対的で固定的なものではなく､相対的で流動的なものということになる｡</p>
<p>純粋な数理論理学からすれば､そんなものは知ったことではないとなるのかもしれない｡</p>
<p>例えばリンゴと日本人のどちらが論理階型が高いのか､と問われれば難しいだろう｡リンゴをあのリンゴなどの個物からなる集合､日本人をあの田中さんなどの個物からなる集合と安直に定義すれば､論理階型は同じとなる｡</p>
<p>論理学においては絶対的なルールがある｡それは要素よりも集合が､集合よりも集合の集合のほうが論理階型が高いというルールである｡論理学は具体的な内容を扱うというよりも､形式を扱う学問である｡</p>
<p>三浦俊彦さんの説明では「<b>タイプ理論の骨子は､さまざまな存在者を相対的に異なったタイプに分離することなので､特定のタイプの絶対的な順位を突き詰めることは重要でない</b>」とある｡</p>
<p>日本人や人類という概念をどのように考えるか､というのは論理学の範囲ではないのだろう｡「要素(個物)の集合」と「要素の集合の集合」という抽象的なクラスを比べた場合､必然的に後者のほうがタイプが高い､「項」よりも「属性」のほうがタイプが高い､論理階型の特定の組み合わせはナンセンスだといったことがとりあえずは重要なようである｡</p>
<p>追記:2024/07/14</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>体系的あいまいさ</strong></span>：</big>・論理学､そして日常言語の多くの文が､実は別々のタイプに属する多数の命題を一挙に述べているだけで､どのタイプに属しているかが曖昧だという事態のこと｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:タイプは相対的､体系的曖昧さ</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,61p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">項と述語とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>ラッセルは項と述語を以下のように定義している｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>項</strong></span>：</big>タイプにかかわらず個物のようにふるまうもの</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語</strong></span>：</big>項の持つ属性のようにふるまうもの</p>
</div>
<p>【ポイント】<span style="color: #0000ff;"><strong>項や述語のタイプは文によって変わる </strong></span></p>
<p>三浦さんの例では「たとえば『地球は青い』と言えば項は地球､述語は青だが､『青は色である』と言えば青は項として登場してくることになる｡項のタイプは､文によって変わってよい｡」という｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:項と述語の違い､流動性<br />
「『個物』『属性』という言葉は､それぞれタイプ０､１に固定された存在者を指すように受け取られるが､相対的なタイプ差だけを示すためにラッセルは､タイプにかかわらず個物のようにふるまうものを『項』､項の持つ属性のようにふるまうものを『述語』と呼ぶ｡たとえば『地球は青い』と言えば項は地球､述語は青だが､『青は色である』と言えば青は項として登場してくることになる｡項のタイプは､文によって変わってよい｡ただし､項､述語というと言語表現そのものを指す文法用語のニュアンスがあるが､あくまでさまざまな存在者を指すので注意しなければならない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,59p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">文や命題の階型はややこしい</span></h3>
<h4><span id="toc17">個物も属性も､存在者である</span></h4>
<p>単純タイプ理論において､性質におけるタイプ分けというものを学んだ｡「個物よりも個物がもつ属性のほうがタイプが上位である」というルールである｡</p>
<p>たとえば「赤い」というのは「そのリンゴ」という個物がもつ属性であり､論理階型が１高い｡そして「赤い」は「赤い個物の集合」と論理階型が同じである｡</p>
<p>「個物」と「属性」はいずれも「<b>存在者</b>」である｡個物は具体的に存在し､属性は個物に付随する性質や特徴として抽象的に存在する｡</p>
<p>具体的にいえば「そのリンゴ」も存在者であり､「赤さ」も存在者である｡しかしこれらは「個物」と「属性」に区分して考えることができる｡それではペガサスという名前に対応する存在者は？という問題になると､フッサールの「無対象表象問題」とつながっていくので面白い(詳細はフッサール第一回の動画で説明)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<h4><span id="toc18">命題は属性である</span></h4>
<p>「存在者」を文章や命題によって表現する場合､話が複雑になってくる｡</p>
<p>まず大前提として､「<b>命題</b>」は個物ではなく､属性である｡つまり抽象的な存在である｡「S(主語)はP(述語)である」というのが基本的な命題である｡</p>
<p>具体的にいえば､「このリンゴは赤い」は命題であり､このリンゴは主語であり､赤いは述語である｡</p>
<p>三浦さんは「<b>命題とは､現実世界を項とする属性として解釈できる</b>」と説明している｡ここでいう現実世界とはナポレオン&#x1f9cd;であったり､りんご&#x1f34e;であったり､あるいは赤さ&#x1f534;や果物&#x1f9fa;などを意味する｡つまり､あらゆる「存在者」を意味する｡「指示対象」ともいえるかもしれない｡</p>
<p>ということは､命題全体が指示するような「<b>事態</b>」もなんらかの意味で存在するのだろう｡このあたりはフッサールと関連が深そうだ｡ただし､ラッセルが事態についてどう考えていたか私にはよくわからないので､省略する｡「<b>命題関数</b>」などと関係がありそうな話だが､まずは保留する(後で少しだけ扱う)｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「このリンゴは赤い」は命題であり､属性である</li>
<li class="sample">「このりんご」は「主語(項)」であり､属性である｡</li>
<li class="sample">「赤い」は「述語」であり､属性である｡</li>
</ol>
<p>このように､命題も属性であり､それぞれのパーツも属性であると言える｡</p>
<p>要するに､命題も主語も述語も「指示(表現)」に過ぎず､「指示対象そのもの」ではない｡「このリンゴ」は指示であり､眼の前にある&#x1f34e;は「指示対象」である｡もちろん､&#x1f34e;一般のような直接には目に見えない抽象的存在であれ､存在するのであり､指示対象になりうる｡</p>
<p>そして指示において､何が主語であるか､述語であるかは流動的である｡たとえば「地球は青い」ともいえるし､「青は色である」ともいえる｡それゆえに､「青い」という指示が固定的に「述語」として振る舞うわけではなく､「項」として振る舞うこともある｡要するに､同じ存在者を主語として扱ったり述語として扱っている｡</p>
<p>「このリンゴは赤い」という文章において､「このリンゴ」は個体のようにふるまうので「項」である｡つまり主語である｡「赤い」は属性のようにふるまうので「述語」である｡</p>
<p>しかし､「このリンゴ」という表現(指示)は個体ではない｡あくまで個体として振る舞っているに過ぎない｡たとえばメニューと実際の料理が違うのと似ている｡もしこれらを同じ次元で同一視すれば論理階型の混同になる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:命題のタイプについて<br />
「前章で､排中律に則して『命題の階層』を見たが､ここで改めて正確に言い直すと､命題の階層は､実はオーダーである｡命題とは､現実世界を項とする属性､として解釈できるからだ｡命題『人間は死ぬ』は､現実世界にあてはまる述語的属性である｡命題『人間は死ぬというのは真である(真なる命題すべての中に『人間は死ぬ』が含まれる)』は､第２オーダーの属性である｡……等々｡どの命題も､同じ現実世界を項とする属性なので､命題にタイプの区別はないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,80p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc19">単純タイプ理論を用いて命題の要素をタイプ分けしてみる</span></h4>
<p>単純タイプ理論のみを用いて区別してみよう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/8e1a844ff3fd47a24732fca1364021ec.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3951" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/8e1a844ff3fd47a24732fca1364021ec.png" alt="" width="411" height="350" /></a>この&#x1f34e;は個物であり､タイプ０である｡「このリンゴ」は「個物を指示する表現」であり､タイプ１である｡&#x1f534;(赤さ)は属性であり､タイプ１である｡「赤さ」は「属性を指示する表現」であり､タイプ２である｡</p>
<p>ここで困るのは､<span style="color: #ff0000;"><strong>命題をいかなるタイプにするべきか</strong></span>という点である｡私はタイプ３になるかと思っていたが､どうやら単純タイプ理論ではそうではないらしい｡</p>
<p>まず､「赤い」がタイプ２なのはタイプ１への言及だからである(タイプ１という項がタイプ２という述語をもち､述語の方が階型が高くなければならない)｡仮に「このリンゴは赤い」という命題がタイプ２よりも上位なら､タイプ２自体への言及がどこかに含まれている必要がある｡もし命題が項であるなら､いずれかの「存在者(指示対象)」への指示であり､このいずれかの存在の階型がポイントとなるだろう｡</p>
<p>純粋に､現実の存在である赤さがタイプ１であり､このリンゴがタイプ０なので､それらへの言及と考えてタイプ２と考えてもいいかもしれない｡あるいは命題内のパーツで一番高いタイプが２だから､という理由付けも考えたが､すこしスッキリしない｡</p>
<p>タイプ１とタイプ０の関係をあらわす関数として､タイプを１高くすると考えればタイプ２だというのは少しスッキリする｡あるいはタイプ０とタイプ１からなる「事態」なるものが実在すると考え､この実在をタイプ２に置けば事情は変わるのかもしれない(これだとタイプ３になってしまうが)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4e653081d2e769d6acbbdc5d8a92bc43.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3952" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4e653081d2e769d6acbbdc5d8a92bc43.png" alt="" width="437" height="269" /></a>「AはBである」に対してさらに何か言及があるとすれば､その言及はタイプ３となる｡つまり､「真である」はタイプ３となる｡</p>
<p>たとえば「この林檎は赤い」という命題がタイプ２であるとすれば､『「このリンゴは赤い」は真である』という命題と「真である」という属性はタイプ３となる｡</p>
<p>三浦さんはある場所で「正確には､命題の階層はタイプではなくオーダーに属するが､説明の都合上､真理を項-述語関係でシュミレートして､当面はタイプとして扱わせていただく」と説明している｡</p>
<p>ここが頭が混乱するポイントなのだが､いったいどういうことか｡そもそも意味論的パラドクスは単純タイプ理論では解決できないから､分岐タイプ理論が必要になったという理解を私はしていた｡ということは､三浦さんは実質的には分岐タイプ理論で説明しているが､単純タイプ理論風に記述しているということか､あるいはたまたま単純タイプ理論でも解決できるような単純な意味論的パラドクスなのか｡まずは三浦さんがシュミレートしたという「嘘つきのパラドクス」を見ていこう｡その後で､分岐タイプ理論でも説明してみよう｡</p>
<p>追記(2024/07/14):「私はタイプ３になるかと思っていたが､どうやら単純タイプ理論ではそうではないらしい」というのは､三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分けに(単純タイプ理論)おいて､タイプ１に「この文」が､タイプ２に「この文は真である」が置かれていたからである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分け<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,60p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">嘘つきのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc21">嘘つきのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>たとえば「この文は偽である」というような嘘つきのパラドクスを考えてみる｡もしこの文(「この文は偽である」)が偽であった場合､「この文は偽ではない」ということになる｡つまり､この文は正しい(真である)｡この文が正しい場合､「この文は偽である」ということになる｡</p>
<p>つまり､「この文は偽ではない」と同時に「この文は偽である」というパラドクスが生じてしまっている｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6ab1a7e1b3ade68f6d18cfa2c8a90615.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3953" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6ab1a7e1b3ade68f6d18cfa2c8a90615.png" alt="" width="500" height="366" /></a>たとえば近くに手紙があるというような状況で「この文は偽である」と言われた場合､我々は偏屈でもない限り､それが指示している特定の文章が偽のことを書いてあるんだな､と思うだろう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4586e99fa4d7dd76b91f829adc9a7e34.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3954" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4586e99fa4d7dd76b91f829adc9a7e34.png" alt="" width="501" height="147" /></a>イメージとしてはこれら２つの反応のうち､どちらかになる｡</p>
<h4><span id="toc22">嘘つきのパラドクスをタイプ分けする</span></h4>
<p>「この文」は個物のようにふるまうので項(主語)であり､「偽である」は属性のようにふるまうので述語である｡</p>
<p>従って､「この文」をタイプ１とすれば､「偽である」はタイプ２となる｡ここまではいい｡では､上記のように考えると「この文は偽である」という命題(項)はタイプいくつか｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e71526d0038178aa0dae14cb3409c51a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3955" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e71526d0038178aa0dae14cb3409c51a.png" alt="" width="554" height="336" /></a>結論から言うと､先ほど検討したように「この文は偽である」という命題(項)のタイプは２である｡</p>
<p>なぜなら､この命題は「この文(個物)」というタイプ０と「偽である(属性)」というタイプ１の関係からなる､より上位のタイプ１の項目であると仮定することができるからである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6290a1a4c26674bd843fad25e6ac99a8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3956" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6290a1a4c26674bd843fad25e6ac99a8.png" alt="" width="480" height="452" /></a>図にするとこのようになる｡</p>
<p>タイプ３の「偽である」とタイプ２の「偽である」は一見､同じ属性に見える｡しかしその属性を持つ項のタイプが違う｡</p>
<p>タイプ２の場合はタイプ１の性質であるから+１されたものとなり､タイプ３の場合はタイプ２の性質であるから+１されたものとなるという違いがある｡</p>
<h4><span id="toc23">嘘つきのパラドクスのタイプ分けの結論</span></h4>
<p>「この文は偽である」という文章を解体とすると「この文」(タイプ１､項)と「偽である」(タイプ２､述語)となる｡従って､「偽である」という性質はタイプ１の項に対して向っている｡</p>
<p>タイプ２の「偽である」が､タイプ２である「この文は偽である」という項の性質となることはできない｡もしそれが可能ならパラドクスになりうるが､しかしタイプ理論により､同じタイプ同士では主語述語関係を結ぶことはできず､無意味な文章となる｡AはBであるといっているのに､勝手にA+BはCであると解釈してはならない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f8d1bc559b42b162143a21fcbbf1f8f2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3957" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f8d1bc559b42b162143a21fcbbf1f8f2.png" alt="" width="649" height="624" /></a></p>
<p>「この文は偽である」という文章は､「(タイプ１に属する)この文は､偽である」と読み替えることができる｡</p>
<p>つまり､階型を限定する､はっきりさせるというテクニックによってパラドクスが解消される｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分け<br />
「しかしタイプ理論では､『この文は偽である』の中の『この文』がLのことだとしたら､『この文は偽である』全体はLを指すことができない｡なぜならば､述語は項よりもタイプが上なので､さ「……は偽である」という述語を『この文』という項にあてはめた結果は､必ず『この文』という項にあてはめた結果は､必ず『この文』より高いタイプとならざるをえないからである｡こうして､『Lは偽である』は､名づけるとしたらLとは別の名､たとえばL２という名で呼ばなければならない｡L２が自分自身とは別の文Lについて『Lは偽である』と述べることには､なんの矛盾もないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,60p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">嘘つきのパラドクスを分岐タイプ理論で扱うとどうなるか</span></h4>
<p>さて､問題はこれらを分岐タイプ理論で表現するとどうなるのかという点である｡分岐タイプ理論は後で扱うのだが､先取りしておく｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">分岐タイプ理論では「属性に対してオーダーを設ける」という方法をとっている｡</li>
<li class="sample">命題自体にタイプの区別はない｡<a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e6c2b6a46d7e094633efb42333caac43.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3958" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e6c2b6a46d7e094633efb42333caac43.png" alt="" width="609" height="233" /></a></li>
</ol>
<p>例えば分岐タイプ理論で「AはBである」という命題のタイプとオーダーを考えるとする｡</p>
<p>Aは項であり､タイプ１である｡Bは述語であり､タイプ２である｡「AはBである」もタイプ２である｡ここまでは単純タイプ理論と同じである｡※現実世界のタイプ分類は省略している(タイプ０に個物､タイプ１に属性などがくる｡)</p>
<p>しかし､分岐タイプ理論では「『AはBである』はCである」という命題はタイプ３に属さない｡「AはBである」はCであるという命題は､タイプ２の､<b>第二オーダーに属する</b>｡「AはBである」という命題は､タイプ２の､<b>第一オーダーに属する</b>ことになる｡</p>
<p>では､「Cである」という属性はどこに属するのか､という疑問も生じる｡順当に考えれば､タイプ２に属するのだが､タイプ２のどこに属するのか､正直判断に困る｡私はオーダー２に置かれると考えている｡</p>
<p>CはAやB､そしてAはBであるに対する言及なので､それより高い「階層(階型)」にある必要がある｡しかし､タイプ３にくるのはおかしい｡なぜなら､タイプ２のオーダー２にCがすでにあるからである｡従って､タイプ２のオーダー２にくるのが適切である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/cb8ed4d4a996e63e6ea57feb709d6968.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3959" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/cb8ed4d4a996e63e6ea57feb709d6968.png" alt="" width="638" height="726" /></a></p>
<p>図にするとこのような違いとなる｡</p>
<p>要するに､A以外のあらゆる属性は同じタイプに位置し､そのタイプ内でオーダーが分かれるというわけである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ff25f007030315edc1f00d159507b0e1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3960" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ff25f007030315edc1f00d159507b0e1.png" alt="" width="735" height="455" /></a></p>
<p>嘘つきのパラドクスをあてはめてみると､上の図のようになるだろう｡</p>
<p>オーダー１同士で組み合わせることはできない｡したがって､「この文は偽である」という文章における「この文」が､「この文は偽である」という文を指すという解釈はできない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/acbcc75b447c78cea46940fe4d547530.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3961" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/acbcc75b447c78cea46940fe4d547530.png" alt="" width="612" height="483" /></a></p>
<p>「この文」は先程の絵で言えば､手紙に入っている文章(L１､タイプ１)であり､「この文は偽である」という文章(L2,タイプ２のオーダー1)を指すのではない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3962" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d-800x534.png" alt="" width="800" height="534" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d-800x534.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d.png 842w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<p>三浦さんが単純タイプ理論でシミュレートしたという図を参考に作成し､引用しておく｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3963" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d.png" alt="" width="732" height="524" /></a></p>
<p>三浦さんは分岐タイプ理論の図の例も出しているのでこちらも引用しておく｡「ナポレオンは､偉大な将軍に必要な(第一階層の)属性をすべて持っていた」というような文のケース｡こちらは単純タイプ理論ではシミュレートできないような､複雑なケースなのだろう｡</p>
<p>ナポレオンの場合はタイプXはタイプ１であり､実在したナポレオン(現実の項)をタイプ０とすることができるのだろう｡</p>
<p>もし「将軍は､偉大な将軍に必要な・・・」と文章を変えれば､タイプXはタイプ２であり､オーダーが分かれるタイプは３であるということができる｡</p>
<p>ところで､「『AはBである』はCである」という第二オーダーの命題は､「非述語的属性」か､と私は疑問が生じる｡後で非述語的属性とは何かを考えていく｡</p>
<h3><span id="toc25">分岐タイプ理論</span></h3>
<h4><span id="toc26">分岐タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>分岐タイプ理論</strong></span>：</big>単純なタイプ理論に加えて､さらにオーダーと呼ばれる階層を導入した理論のこと｡各タイプが無数のオーダーに分かれることから分岐と呼ばれるらしい｡</p>
</div>
<p>ラッセルはなぜ新たな理論を作る必要があったのか｡単純なタイプ理論だけでは「<b>悪循環原理</b>」を実現できないからだという｡単純タイプ理論で「論理的パラドクス」は解消できたが､「意味論的パラドクス」が解消できないという問題が生じたということである｡</p>
<p>分岐タイプ理論で「意味論的パラドクス」も解消できた｡しかしさまざまな問題が生じたという(数学に制約を課しすぎるなど)｡問題の解消のため､「<b>還元公理</b>」というものをラッセルは導入する｡しかしこの公理を導入することでもさまざまな問題が生じたという(批判も多い)｡結局､ラッセルは「還元公理」を縮小する形になったいう(どういう形か､私にはよくわからない)｡</p>
<p>まずは単純タイプ理論だけでは解決できないような意味論的パラドクスとはなにか､という問題を見ていく｡</p>
<p>この問題はポアンカレによって批判されたらしい｡</p>
<p>たとえばラッセルは「<b>ベリーのパラドクス</b>」といわれている問題をとりあげている｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:分岐タイプ理論<br />
「つまりタイプ理論は､タイプとオーダーという､２つの次元に沿った階層区分を備えた体系なのである｡これまでナポレオンについて例を出してきたが､項をナポレオンではなく『将軍であること』とすれば､１タイプ上の項-属性関係が論じられ､そのタイプの中でまた､最低位オーダーの属性､次のオーダーの属性…等々が論じられることになる｡これが『分岐タイプ理論』だ｡各タイプが無数のオーダーに分かれることから､分岐と呼ばれる(逆に､各オーダーがタイプに分かれるとみなすこともできる)｡各タイプの中で､基本的な属性､つまり最もオーダーの低い属性を､ラッセルは『述語的』と名づけた｡第一オーダーの属性はすべて述語的である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,79-80p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">ベリーのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc28">ベリーのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ベリーのパラドクス</strong></span>：</big>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という数は、何文字で名付けられるか？</p>
</div>
<p>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という文章自体が十九字であり､名付けることができてしまっているという奇妙な事態をどう考えていくかが重要になる｡こういうパラドックス的な文章を考える度に私は頭がモヤモヤしてしまう｡</p>
<p>最小の自然数をaとする(このaは名前ではない)｡aは19文字以下で名付けることができないが､19文字以下で名付けることができてしまっている｡これは矛盾(パラドクス)である｡</p>
<p>「名付ける」というのは認識と対象の関係を含んだ心理的な概念であり､数学や論理学の範囲外だとラムジーに批判されていたそうだ｡こうしたパラドクスを特に「<b>意味論的パラドクス</b>」という｡嘘つきのパラドクスにおける「嘘」も同様なのだろう｡更に重要なのは､このベリーのパラドクスが単純タイプ理論によって解消できないという点である｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:ベリーのパラドクス<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,74p</p>
<p>池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,53p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">単純タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</span></h4>
<p>(1)一九字以下で名づけられない最小の自然数の集まりは､例えばどのようなものがあるか｡たとえば３０文字で名づけられる最小の自然数があると仮定してみる｡</p>
<p>ここでは３０文字で「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」と名づけられる自然数12345678だと仮定する(適当に仮定しただけ)｡「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」は名前である｡したがって､名づけられた当の数字(自然数a)よりも論理階型が高い｡</p>
<p>(２)「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」という名前をメンバーとして持つ､クラス(集合)がある｡これが「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスである(名前ではない)｡</p>
<p>クラスはメンバーの一員となることはできない｡したがって､「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスに「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」というメンバーは入ることができるが､「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスは入ることができない｡</p>
<p>悪循環理論に反しているから自己言及的なクラスを認めない(名前の全体などというものはない)と仮定しても問題が生じる｡</p>
<p>例えば自然数aをnタイプ､「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」という名前をn+1タイプとする｡</p>
<p>そしてn+1タイプである「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち(x)」に対する言及として「(xは)一九字以下で名づけられない最小の自然数である」という述語を考える(「その名前は１９文字以下である」と限定する言及のイメージ)｡この場合､タイプn+1に対する言及なので､その言及はタイプn+2に属することになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3964" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de-800x539.png" alt="" width="800" height="539" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de-800x539.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de.png 811w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<p>単純タイプ理論で分けて考えると､このような図になるだろう｡</p>
<p>なぜ「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という述語と､「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という項目が同じタイプn+2に位置するのか｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/24aa4512762b51e0d7b6241a9d5c764e.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3965" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/24aa4512762b51e0d7b6241a9d5c764e.png" alt="" width="614" height="284" /></a></p>
<p>AとBとCのような記号で考えるとわかりやすい｡CであるはBであるに対する言及であるから､タイプが１高い｡そして「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前はcを内部に含むものであり､cより下のタイプに属しているのはおかしい｡したがって､n+2タイプに属する｡正直このあたりの理屈はいまいちわかっていない｡</p>
<p>しかし､ここで問題が生じる｡</p>
<p><b>タイプnの自然数aに対する名前は全てタイプn+１に属するべきである</b>｡このタイプn+1を仮にm+1とする｡</p>
<p>m+1=n+1=n+2となってしまい､おかしい｡要するに､タイプnに対する言及である名前は､タイプn+1に来ているはずであるのに､タイプn+2に一部が来てしまっている｡後で検討するように､仮にn+2に属している「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前を､単にn+1に移動しただけでは問題は解決しない｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:タイプnの自然数aに対する名前は全てタイプn+１に属するべきである<br />
「さてしかし､ベリーのパラドクスのこの解決で用いられた『階層』の区別は､『タイプ』の区別ではないことは明らかだろう｡十九字以下で名づけられない最小の自然数をaとし(念のため､『a』は名前ではありません)､あが十九字以下で名づけられないという場合の(たとえば三十字による)名づけがタイプnにおいてだとすると､『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前は､タイプn+1に属していなければならない｡しかし､その両方ともが､同じ自然数aに対する名づけなのである(タイプnの場合は三十字の名づけ､タイプn+1の場合は十九字での名づけ)｡しかしこれはおかしい｡自然数aがタイプmの存在者だとすると､自然数aの名前は､タイプm+1であるはずだ｡すると､右の二つの名前の階層について､m+1=n+1でなければならない｡これは不合理である｡となると､名前の階層は､同じ項aよりも１タイプ上のタイプの内部で分かれているような階層でなければならない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,76p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc30">分岐タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</span></h4>
<p>単純タイプ理論における問題を解消するために､分岐理論ではタイプ１の内部で階型(オーダー)を考えていく｡Cであるという述語がBであるという述語よりも<b>高いオーダー</b>であり､また「『AはBである』はCである」は「AはBである」よりも<b>高オーダー</b>であると考えていく｡</p>
<p>そうすれば､タイプnの名づけは全てタイプn+1に属するという点でスッキリする｡つまり､タイプm+1=n+1となり､不都合は生じなくなる｡こうした不都合をなくしたうえで､特定の階型に限定した言及と見なすという作業を行っていくことになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f0887dfcaefb17a45842ff7aa8f57466.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3966" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f0887dfcaefb17a45842ff7aa8f57466.png" alt="" width="648" height="352" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ada447e13fcff877ec2641e7363f1c39.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3967" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ada447e13fcff877ec2641e7363f1c39.png" alt="" width="644" height="364" /></a></p>
<p>・図にするとこのようなイメージとなる</p>
<p>ラッセルは『「一九字以下で名づけられない最小の自然数」は何だろう』という文章の中に､ある但し書きが常に隠れていると見なさなければならないという｡</p>
<p>但し書き:「<b>第n階層(オーダー)の名前で名づける</b>」</p>
<p>オーダーという概念を体系に導入し､このような但し書きが隠れているとみなせば､パラドクスは解決する｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:第n階層(オーダー)の名前で名づける<br />
「『プリンキピア』でのラッセルの診断はこうである｡『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前は､『名づけられる』という限定によって､名前でありうるものの全体に暗に言及している｡しかし自分自身がその全体の一要素なので､悪循環原理に違反している｡よって､名前の全体などというものはないのであり､いろいろな名前は階層に分かれているとしなければならない｡つまり､『第n階の名前で名づけうる』というような但し書きが常に隠れていると見なさねばならない｡そうすれば､『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前そのものは､『名づけられない』とされた範囲外の一階層上の名前なので､それ自体が十九字以下であっても､その名の指定する性格づけとは矛盾は生じないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,74-75p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc31">オーダーを区別することで結局なにが変わったのか</span></h4>
<p>『「<b>(n+1オーダーの名前で名づける)一九字以下で名づけられない最小の自然数」は何だろうか</b>』と解釈できるようになったのである｡</p>
<p>n+1の名前は(例えば)「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」が選ばれることになる｡「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前がより上の階層の名前となり､選ばれる範囲に含まれなくなる｡これでパラドクスが解消されるというわけである｡</p>
<p>両方の範囲が同時に選ばれうるような理論だと､問題が生じてしまう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/9b86f8e54b15128e896dcf98eb365029.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3968" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/9b86f8e54b15128e896dcf98eb365029.png" alt="" width="569" height="402" /></a>例えばこのように単純タイプ理論で考えてしまうと､確かに名前はn+1の階層で全て収まっている｡しかし１９文字以下であり､かつ２０文字以上である(１９文字以下ではない)名前で名づけられる自然数aというものが存在することになってしまう｡そんな自然数aは､おそらくないだろう｡</p>
<h3><span id="toc32">命題関数</span></h3>
<h4><span id="toc33">命題関数とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>属性</strong></span>：</big>個物にあてはまる性質のこと｡</p>
</div>
<p>属性は「<b>１項関係</b>」とも呼ばれる｡</p>
<p>たとえば「あの空は青い」というときの「あの空」は個物を名指すもの(項,主語)であり､「青い」は属性を名指すもの(述語)である｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>命題関数</strong></span>：</big>「xは青い」というような変項(空欄)を含む枠組みのこと｡</p>
</div>
<p>「xは青い」というような変項(空欄)を含む枠組みをラッセルは「<b>命題関数</b>」と呼ぶ｡</p>
<p>「あの空は青い」というように､変項に具体的な個物を代入すれば「<b>命題</b>」(真偽が判定可能な文)となるからである｡</p>
<p>事態と命題関数､そして命題との関連性はよくわからない｡今回はあまり触れない｡</p>
<p>「xはyよりも青い」という文章では変項が２つある｡この場合は「２項関係」となる｡変項が１つの場合をラッセルは属性ではなく「１項関係」と呼んでいる理由は､<b>ラッセルが属性よりも関係を命題関数の本性だと考えた</b>からだそうだ｡</p>
<p>２項以上の関係は､それぞれの属性間の関連性を示すという点が重要となるのだろう｡「xとyは青い」は２項以上だが､しかし実際は「xは青い」､「yは青い」と言っているに過ぎないのだろう｡「xよりyのほうが青い」という場合は､さきほどのような分割はしにくい｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:命題関数</p>
<p>「『xは死ぬ』『xは人間である』『xはyの父親である』『xはyにzを与えた』のように､空欄(変項)を含む枠組みを､ラッセルは『命題関数』と名づけた｡変項に具体物(項)を代入すれば命題となるので､項から命題への関数､とうわけである｡変項が一つの場合を『属性』と呼び､n個以上の場合を『n項関係』と呼ぶのが普通だが､総括的に捉えるためにラッセルは属性を『１項関係』と見なし､属性よりも関係こそが命題関数の本性だと考えた｡」</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,66p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc34">我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</span></h4>
<p>たとえば「このリンゴは赤い」というのは命題である｡その命題を生み出したであろう「<b>なにか</b>」が眼の前にほんとうにあるのか｡「このリンゴ」という属性(項)だけにしぼったとしてもやはりそれを生み出した「なにか(個物)」､「<b>それ</b>」があるのか｡「このリンゴは赤い」から「このリンゴ」を抽出する作業は全体から引き算をしてなにかをとりだすようなイメージなのかもしれない｡<b>我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</b>｡ラッセルはこれに関して「<b>センスデータ</b>」を語るのだが､今回は省略する｡</p>
<p>これはフッサールの「感覚与件の謎」ともつながる､思ったより深い問題(存在論)なのだろう｡ハイデガーならそれは学問の対象にすることが難しい､贈与されたものだというかもしれない｡ベイトソン的にいえばなんら体系をもたない､関係しないような独立した個物のようなものを想定することは難しいというのだろう｡差異がなければ我々に情報として届かず､差異は２つ以上の個物の関係から生じるからである｡</p>
<h3><span id="toc35">述語的/非述語的</span></h3>
<h4><span id="toc36">述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>項</strong></span>：</big>個物のようにふるまうもの｡例:あの犬､犬､私､あなた､われわれなど｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語</strong></span>：</big>項の持つ属性のようにふるまうもの｡赤い､勇気があるなど｡</p>
</div>
<p>文章において何が項になるのか､述語になるのかは固定的ではなく､流動的であることを学んだ｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語的属性</strong></span>：</big>各タイプの中で最もオーダーの低い属性のこと｡</p>
</div>
<p>・基本的な属性であり､「可述的」と表現されることもある｡</p>
<p>例:赤い､人間である､美しいなど｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:述語的属性</p>
<p>「ナポレオンについていえば､述語的属性とは､『頑固である』『人間である』『癌で死んだ』等々､私たちが基本的と認める『普通の性質』のことだ｡先ほどの､『偉大な将軍に必要に必要な属性をすべて持っていた』のような､オーダーの高い属性は､いかにも普通ではない､基本的ではない属性のように思われるだろう｡そういう属性は『非述語的』である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>「しかしたいていの非述語的属性は､述語的属性に還元されたとき､その表現法は､日常言語の表現とは似ても似つかぬものになっていなければならない｡一般には､多くの述語的属性の複雑な組み合わせ(先ほどのGのような)によって表現されなければならないことになるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc37">非述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>非述語的属性</strong></span>：</big>「すべての属性」になんらかの形で言及した､述語的属性に還元しにくい属性のこと｡</p>
</div>
<p>基本的ではない属性であり､「非可述的」と表現される｡たいていの非述語的属性は､述語的属性に還元されたときに､日常言語の表現とは似ても似つかぬものになっている｡</p>
<p>例:「全ての人間のうち半分」､「すくなくとも果物の中のひとつ」､「典型的な赤さ」､「全ての属性をもつ」､「宇宙の全ての個別的事実」</p>
<p>例えば「全ての属性をもつ」は､「すべての属性をもつ」という属性をもつことになり､自己言及的なので非述語的属性に分類されている｡</p>
<p>「宇宙の全ての個別的事実」という個別的事実もその中に含まれていることになり､自己言及的なので非述語的属性である｡これらのケースは果物のクラスに果物というメンバーが含まれてはならない､というケースとはすこし違うという点に注意する必要がありそうだ｡</p>
<p>このように､「全ての属性」に言及していることが重要になっていきそうだ｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:非述語的属性<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc38">全体への量化を含む非可述的定義</span></h4>
<p>非可述的属性は「<b>全体への量化を含む非可述的定義</b>」というように難しい言葉で表現されることがある｡「<b>量化</b>」とは一般に､論理式が適用される領域の個体の量を指定することらしい｡</p>
<p>量化だからといって全体へと言及しているとは限らないか､私にはよくわからない｡たとえば「１０個のうち､いくつかリンゴがある」という言い方は全体への量化を含んでいそうだが､「そのリンゴがひとつある」という命題は量化を含むが､全体への量化を含んでいなさそうである｡では､「そのひとつのxは典型的な赤いリンゴである」と表現しなおすとどうか､など様々な困惑はあるが､ひとまずそのように整理できそうだ｡</p>
<p>たとえば「<b>量化詞</b>」として「全ての」や「少なくとも１つの」､「ほとんどの」､「誰かが」､「誰もが」というような範囲を限定するような言葉がある｡これらの量化詞は､「全体への量化を含む」､つまり「<b>全体に言及する量化詞</b>」といえそうである｡</p>
<p>「典型的な」という言葉も「全体と多くの属性を共有している」と言い換えれば非可述的属性に近づいているとわかる｡言葉には隠れた､あるいは省略された要素があると考えると､複雑になっていくように感じる｡</p>
<p>「この世にある全ての人間のうち､すくなくとも一人は私だ」などという言葉ならわかりやすい｡</p>
<p>しかし､「すくなくともひとつは私の物だ」という場合はどうか｡通常は「そのひとつ以外の他のもの」があるという前提であり､それらの全体があるという前提で言及されていそうだ｡つまり､「そこにある全ての物のうち､すくなくともひとつは」というような全体への量化が含まれていそうだ｡</p>
<p>例えば「全てのリンゴ」を具体的に日常言語に置き換えるのは困難だろう｡「家にある全てのリンゴ」とより限定すればどうだろうか｡しかしリンゴが何を意味しているのか､あるいは家は何を意味しているのだろうか｡これでは曖昧である｡世界中の家かもしれないし､リンゴの絵も含まれるかもしれない｡「全てのリンゴ」はあのりんごと､そのリンゴと､近所のリンゴと､・・・と無限に足していった先の集合を表すような表現だろうか｡ものすごく限定すればたしかに可述的にはなりそうなイメージはあるが､いったいどのような限定をすれば適切なのだろうか｡</p>
<p>「少なくとも1つの属性」なども同様に難しそうだ｡オーダーを分けない場合は､「偉大な将軍に必要な属性」のうち､「少なくとも1つの属性」の中に「偉大な将軍に必要な属性」が入りかねない｡一つと言いながら､全ての属性をもっているという怪しい文章となる｡その場合は､第nオーダーの､と但し書きがあるとみればいいことを学んだ｡</p>
<p>たとえばベリーのパラドクスは「１９文字以内で名づけられない自然数の集合全体」への量化を含んでいるという｡このように考えていくと､「<b>オーダーとは命題関数に含まれる量化を反映して設けられる階層のことである</b>」という初見では意味不明な難しい表現もすこし理解することができる｡全体への量化を含んでそうな場合は高オーダー､含んでいなそうなら低オーダーと区別していくイメージである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:全体への量化を含む非可述的定義</p>
<p>「ラッセルは、論理学の公理ではないこの原理を論理的に実装すべく、オーダーの理論を整備し、タイプ理論を意味論的パラドクスの生じないものとした。オーダーとは、命題関数に含まれる量化を反映して設けられる階層のことである。こうして作られた分岐タイプ理論では、オーダーnの命題関数への量化を含む命題関数のオーダーは、n+1になるとされる。よって、あるオーダーの命題関数全体に対する量化を含む命題関数は、それらよりも高いオーダーを持つ。先のベリーのパラドクスでは、自然数nのオーダーと名前(＊)のオーダーが区別され、意味論的パラドクスは解消される(Whitehead&amp;Russell(1927)訳者「解説」および戸田山(2007)を参照)」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」53p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc39">ナポレオンの例</span></h4>
<p>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という例が私には数学的でイメージしにくい｡私の場合は三浦さんのナポレオンの例でより鮮明に理解することができた｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍に必要な全ての属性」は全体の量化を含んでいる｡なぜなら､「全て」という量化詞が使われているからである｡さらに､「偉大な将軍に必要な全ての属性」も属性であり､必要な属性であると考えると､自己言及的である｡</p>
<p>「偉大な将軍に必要なのは勇敢さだ」という文章では､「勇敢さ」に限定されているため､全体の量化を含んでいないのだろう｡とはいえ､例えば「勇敢さ」や「偉大な」､「必要な」､等々が「典型的な〇〇」の省略された形とみれば､非述語的属性をもってきそうだが､ここでは検討しないでおく｡しかしそうしたことを言い出すと「典型」ではない「完全な形」で言及することは難しいなと思ってしまう｡私はある単語に対して適当な､それこそ普通はこういう意味だろう､こういう要素を満たしていればOKだろうというような曖昧な使い方を普段しているからだ｡</p>
<p>「偉大な将軍に必要な全ての属性」というのがオーダーが高いというのは何となく理解できる｡</p>
<p>たとえば勇敢である､賢い､好色であるというような属性をあるタイプの中で最も低い属性=「可述的属性」だと仮定する｡</p>
<p>そうした列挙しうる属性を全て含んでいるような属性は､オーダーが高く､非可述的である｡たとえばみかんよりも果物のほうがタイプが高いと考える単純タイプ理論と類比的に考えると､すこしわかりやすい｡</p>
<p>たとえば三浦さんは「<b>…性質を共有する</b>」というような言い方は「非述語的属性」だという｡なぜなら､<b>属性の全てに言及している</b>からだという｡「首都に必要な属性を少なくとも一つ持つ街に住む」なども非述語的属性を含んでいることになる｡「首都に必要な属性全て」に言及した言い方だからである｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍が必ずもつ属性のうち､少なくとも一つ持つ」という言い方をするとする｡これは「偉大な将軍が必ずもつ属性」という「全て」の属性にたしかに言及している｡そして具体的にどの属性かは言及されていない｡この高いオーダーだけの文章では､最も低いオーダーの属性がどれであるかは読み取ることができない｡つまり､可述的属性が特定されていない｡これも非可述的と表現できるのかもしれない｡</p>
<p>発言した本人の頭ではわかっているのかもしれないが､文章の中では読み取ることができず､可述的属性に還元することは難しい｡</p>
<p>AもしくはBもしくはCもしくはDもしくは・・と無限に続くような形なら可述的属性に還元することはできそうだが､日常言語で表現できそうにない､という意味で非可述的である｡そもそもそのように還元するためには本人が考えている集合全体が分かっているというような前提があるのではないかという疑問が生じるが､しかしここではあまり考えないでおくことにする｡このあたりはアプリオリに概念の本質がある､というような話と関連してくるのかもしれない(フッサールの本質直観へと接続する話)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3969" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d-1.png" alt="" width="732" height="524" /></a></p>
<p>以前､引用した図がこちら</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:ナポレオンの例<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,78-79p</p>
<p>キーワード:「…性質を共有する」</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,86-87p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc40">機能等価としてワクワクする世界</span></h4>
<p>われわれがいちいち具体的に還元して表現しないのは､困難であり､不便だからだろう｡曖昧に高オーダーを使ったほうが楽なのだ｡</p>
<p>実生活ではそれでもいいかもしれないが､しかし高オーダーばかり着目していて低オーダーの違いを軽視すると､学問上の問題が起きる｡社会学者のマートンが､マンハイムの概念が明確ではないと批判していたことと重なってくる｡仮説で最もらしいことを言っていたとしても､概念がルーズに使われている場合､仮説も結局はルーズになってしまうのであり､「分かった気になってしまう」のである｡</p>
<p>私が社会学や哲学を学んでいて思うことは､私が「分かった気になってしまう」という連続であるということだ｡「厳密に､それがどういう意味なのか具体的に､可述的属性に還元してください」と言われた場合､私はおそらく答えられないものが多いだろう｡曖昧に理解しているからである｡そもそも曖昧に説明されているからだ､という問題も一部あるかもしれないが､こういう視点が重要だという点は理解していくべきだろう｡</p>
<p>ベイトソン的な文脈で言えば両者を混同すると実生活において「病気」になるケースもある｡ユーモアにおいて意図的に混同するようなケースと違って､混同が当たり前となるような日常であり､本人は混同していると思っていないようなケースだろう｡たとえばアスペルガー症候群が相手の比喩を比喩だと受け取れないというケースを考えればわかりやすい(これは比喩だ､という言外のメッセージは論理階型(オーダー)がひとつ上のメタメッセージである)｡</p>
<p>ベイトソンの文脈で言えばこうした論理階型の混同は先天的な遺伝と後天的な環境の両方が関係しているという点がポイントなのだろう｡示唆的にポイントをとりあげるとすれば､「ある人物に論理階型を混同<span style="text-decoration: underline;">せざるをえなくさせた</span>家庭環境とは？」という視点だろう｡</p>
<p>ここからが個人的に面白い｡社会学においてマートンやルーマンの「<b>機能等価</b>」で感じたようなワクワクがここにはある｡学問は面白いと感じる瞬間である｡ドアを開いて異なる世界に行って覗き見るような､そういう驚きがある｡それこそトランスコンテクスチュアルな状況であり､文脈を変えてある要素を解釈していくような連続である｡ドアをたくさん開くための大事なコード(鍵)だなと思う瞬間である｡</p>
<p>たとえば「美しい」とか「偉大である」というような普通の属性(可述的属性)すら､実は非可述的属性を省略形で述べたものである可能性が高いという｡</p>
<p>たとえば「この絵は美しい」と表現する時､「美しいというような理想型と多くの性質を共有する」という意味合いなのかもしれない｡</p>
<p>この高いオーダーでは具体的にどの属性をもっているのかがわからない｡「美しい絵が必ずもつ全ての属性」のうち､いったいどれだけ多くの具体的な属性をもっていれば我々は美しいと表現するのだろうか｡これは美学の動画で扱ったC.アレグザンダーの美学にもつながる視点である｡ちょうどアレグザンダーが「<b>名付けえぬ質</b>」と呼んでいたものが､「非可述的属性」とリンクして面白い｡」</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3970" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg" alt="" width="512" height="510" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg 512w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9-60x60.jpg 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9-120x120.jpg 120w" sizes="(max-width: 512px) 100vw, 512px" /></a>私はモネのある絵がとても美しいと思うのだが､しかしあらゆる美しさの全てが当てはまるかというと､そうではないとも思ってしまう｡そもそもあらゆる美しさを私は言語化できない｡</p>
<p>「等価のものがあるという視点」は「<b>還元公理</b>」というものが関連してくるので､最後に取り上げることにする(後編の記事になります)｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:非述語的属性の省略形<br />
「実際､『美しい』とか『偉大である』とか『健康である』のような普通の属性ですら､実は『理想型と多くの性質を共有する』のような非述語的属性を省略形で述べたものである可能性が高い｡述語的な属性に還元してから論じないと､頓珍漢な議論になったり､愚かな結論が導かれたりしかねない｡還元公理は､すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定なのだ｡つまり､高オーダーの属性の存在を不要として見過ごすのではなく､その流通の現状をまず認めた上で､述語的属性への還元に備えねばならないということである｡右に見た『……性質を共有する』といった非述語的属性にちなんで､後期ウィトゲンシュタインの『家族的類似』を思い浮かべた人もいるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,87p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc41">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc42">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc43">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc44">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc45">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc46">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc47">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc48">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc49">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc50">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc51">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc52">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:21:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-3" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-3">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">ラッセルのパラドックス</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">基本方針</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">論理階型理論</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">論理階型理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">悪循環原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">クラスとメンバー(基礎知識)</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">クラスとメンバーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">何がクラスで､なにがメンバーかは絶対的ではなく相対的？</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">ラッセルのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">パラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">ラッセルのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">純粋なラッセルのパラドクスの例(論理的パラドクス)</a></li></ol></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">床屋のパラドクス</a><ol><li><a href="#toc19" tabindex="0">床屋のパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">ルール１､「自分自身を含む要素全体の集合」を集合と認めない</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">R = { | ∈ }</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">論点先取り､循環論法に陥ることもパラドクス？</a></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">ルール２､「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を集合と認めない</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">R = { | ∉ }</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">R = { | ∉ }はそれ単体ではおかしくない？</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">ルール１だけを守ったとしても､矛盾が生じてしまうケース</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">【疑問】直接的に含む､間接的に含む？</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc30" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">ラッセルのパラドックス</span></h2>
<h3><span id="toc7">基本方針</span></h3>
<p>１:私はベイトソンの主張する認識論を厳密かつ体系的に理解したい｡ラッセルの論理階型理論(タイプ理論)を理解するのはそのための手段である｡</p>
<p>２:私は物理学も数学も､論理学も詳しくない｡論理階型理論について専門的に説明することはできない｡そのため､難解な数式や記号はほとんど扱わない｡あくまでもベイトソンの主張と関連する限りの､最低限の論理階型の理解を目指す｡</p>
<h3><span id="toc8">論理階型理論</span></h3>
<h4><span id="toc9">論理階型理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>論理階型理論(タイプ理論)</strong></span>：</big>自己言及によるパラドックスを回避するために､この世にあるもの(存在者)をすべて階型(タイプ､オーダー)に分けて考える理論のこと｡</p>
</div>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)が提唱したといわれている｡論理階型理論は「<b>単純タイプ理論</b>」と「<b>分岐タイプ理論</b>」に大きく分かれている｡</p>
<h4><span id="toc10">悪循環原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>論理階型理論は主に以下の２つのルールを守るような論理学の体系を整備するものであり､またそのための前提を設定するものである｡まずはルールだけ見ていく(この時点で理解できなくてもOK)｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">正式な論理的・数学的言説において､「クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえない」｡</li>
<li class="sample">正式な論理的・数学的言説において､「クラスは、そのメンバーから(正しく)除外されるものの全体がつくるクラスのメンバーにはなりえない」｡</li>
</ol>
<p>このようなルール(方針､原理)をラッセルは「悪循環原理」と呼んでいる｡悪循環原理を守るためにはタイプ理論(論理階型理論)が必要であるという順番｡名前的にややこしいかもしれないが､悪循環を防ぐ原理という意味である｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:論理階型理論における２つの主張</p>
<p>「まず《論理階型理論》が､どんな事柄を問題にするのか､示しておこう｡この理論は次のことを主張する｡――正式な論理的・数学的言説において､クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえないこと｡ものの名前は名付けられたものとは違うこと｡『ジョン・ベイトソン』は､あの少年を一個のメンバーとして含むクラスであること｡等々｡みな､わかりきった､あえて主張するまでもないことだが､しかし､のちに見ていくように､行動科学の理論のなかに､ものの名前と名づけられたものとを混同するような――湯気たちのぼる料理をメニューの紙切れと混同するような――論理階型づけ(logical typing)のミスが見られるのは､けっして珍しくないのだ｡」<br />
『精神の生態学』,383p</p>
<p>「この理論が主張することのなかには、それほど当たりまえではないことも含まれる。『クラスは、そのメンバーから(正しく)除外されるものの全体がつくるクラスのメンバーにはなりえない』というのがそれだ。[クラスは当のクラスの一員ではないけれども、同時に当のクラスの一員ではないものすべてから成るクラスの一員でもない。]椅子というものを一まとめにして椅子のクラスをつくるとき、個々のテーブルなりスタンドなりの傘なりは、『非・椅子』という名の巨大なクラスに属するといえる。しかし、その『非・椅子』のクラスの一項目に『椅子のクラス』は数えられない。正式な言説で、それを含めたら、誤りなのである。」 <br />
『精神の生態学』384p</p>
<p>「では､『クラスに属さないものの全体がつくるクラス』は一個の『クラスに属さないもの』だろうか｡《論理階型理論》は､これにも『否』と答える｡次のように対称的に考えれば､お解りだろう｡<br />
a:非・椅子のクラスは椅子のクラスと抽象の等級(オーダー)が同じである｡すなわち両者は同じ論理階型に属する｡<br />
b:椅子のクラスが椅子でないとすれば､それに相応して､非・椅子のクラスも非・椅子ではない｡論理的な言説を支配するこの規則が破られるとき､パラドックスが生じ､その言説は行き倒れになる――これが論理階型理論の最後の主張点である｡」<br />
『精神の生態学』384p</p>
</blockquote>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>悪循環原理</strong></span>：</big>ある集まりが､その全体によってしか定義できない要素を含む場合､その集まりは全体を持たない｡</p>
</div>
<p>全体を持たないということは「存在しない」､というより「存在しないということすら言えない」ということであり､ラッセルは議論の対象にすらならないという｡ベイトソンの表現で言えば「<b>なかったものとして葬ってしまう</b>」ということである｡</p>
<p>悪循環原理は生じてしまったパラドックスをナンセンスであり､なかったものにするというニュアンスがある｡そしてタイプ理論はそもそもそうしたパラドックスを生じさせないような仕組みを整備するというニュアンスがある｡対処療法ではなく､根本療法へと進んでいくというイメージだろうか｡</p>
<p>単純タイプ理論や分岐タイプ理論という難しい話を後回しにして､先にざっくりと先程の２つのルールを具体的に理解していくことにする｡</p>
<p>そもそも私のようにクラス(集合)とはなにか､メンバー(要素)とはなにかすら曖昧な人もいるのではないだろうか｡そうした基礎的な部分を先に扱っていく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:悪循環原理の定義<br />
「ラッセルは､パラドクスのこうした普遍的な性格に鑑みて､自分が自分自身の規定に当てはまるかどかを問うことが間違いのもとだと考えた｡つまり『自己言及』を禁ずることが､パラドクスの回避の道であるとした｡そこで『悪循環原理』が定式化される｡悪循環原理――あつ集まりが､その全体によってしか定義できない要素を含む場合､その集まりは全体を持たない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,44p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">クラスとメンバー(基礎知識)</span></h3>
<h4><span id="toc12">クラスとメンバーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>クラスとはいわゆる集合であり､要素の集まりである｡たとえば私が昨日食べたリンゴ､さっき店で売られていたリンゴ､今イタリアで誰かが食べているリンゴはそれぞれ違う｡「眼の前に今あるこのリンゴ」は燃えるが､「リンゴ」は燃えないという言い方をすれば区別がわかりやすいかもしれない｡</p>
<p>それぞれの具体的なリンゴは同じリンゴというクラス(集合)のメンバー(個体､要素)である｡学校のクラスは一緒だけれども､それぞれ違う生徒という言い方でも理解できるかもしれない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3918" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3-800x582.png" alt="" width="352" height="256" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3-800x582.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3.png 948w" sizes="(max-width: 352px) 100vw, 352px" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージになる｡</p>
<p>たとえば哺乳類というクラスには人間やゴリラがメンバーとして含まれていると考えることができる｡日本人というクラスには私や近所の田中さんというメンバーが含まれていると考えることができる｡</p>
<h4><span id="toc13">何がクラスで､なにがメンバーかは絶対的ではなく相対的？</span></h4>
<p>もちろん､人間が人種の集まりとして捉えられたりする場合は人種はメンバーとなり､人間がクラスとなると考えることもできる｡</p>
<p>また､人種を人間というクラスのサブクラスとし､さらに私というメンバーがそのサブクラスに含まれていると考えることができる｡「考えることもできる」というのは私が暫定的にそう考えることにした､一般的にそう分類されているというようなものにすぎない｡明日には新たな分類が合理的とされ､一般的ではなくなるかもしれない｡しかし､論理学のほとんどはこうした文脈に左右されるような曖昧なものではなく､「ある前提に基づけば､ある帰結が確実に導かれる」というようなカッチリとした演繹的体系である｡</p>
<p>論理学は「<b>形式</b>」を扱うものであり､人間とはなにか､人種とはなにか､それらの関係はどういうものかといった「<b>内容</b>」を扱うものではなく､絶対的なものではないことに注意する必要がある｡そうしたものを扱うためには論理学以外の学問などを考慮する必要があるだろう｡</p>
<p>たとえば､ラッセルは「いかなる白いものも白い」という文章すら論理的真理と認めず､「ある性質について､その性質をもついかなるものも､その性質をもつ」と言えばようやく論理的真理と認められるという｡また､「<b>いかなるクラスでもない最小の構成要素とはなにか</b>」というテーマもラッセルでは重要になるので面白い(ベイトソンでも)｡</p>
<h3><span id="toc14">ラッセルのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc15">パラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パラドクス</strong></span>：</big>一般に､「正しい前提から正しい推論を経て間違った結論(たとえば矛盾)に至る」現象を指す｡</p>
</div>
<p>個人的にパラドクス(パラドックス)という言葉はややこしい｡なぜなら､パラドクスだからといって必ずしも矛盾していないというニュアンスがあるからだ｡たとえば循環論法や論点先取りは必ずしも矛盾とはいえないが､しかし間違った結論を引き起こすことがあり､パラドクスとも表現できる｡このことを念頭においておく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:パラドクスの定義</p>
<p>「総じてパラドクスとは､『正しい前提から正しい推論を経て間違った結論(たとえば矛盾)に至る』現象を指す｡論理上は､『正しい前提』に『正しい推論』を適用すれば必ず『正しい結論』が出てくるのに｡どこがおかしかったのか｡解決としては､前提が間違っていたか､推論が間違っていたか､結論が実は間違っていないのか､のどれかとなるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,9-10p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc16">ラッセルのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ラッセルのパラドックス</strong></span>：</big>「自分自身を含まない集合の集合」を考えたとき、それが自分自身を含むかどうかでパラドクスが生じる問題のこと｡</p>
</div>
<p>より詳しくいうと､「自分自身の要素ではない集合の集合」(集合R)というものを考えた場合､この集合Rが「自分自身の要素ではない」と仮定しても､「自分自身の要素である」と仮定してもパラドクスが生じてしまうような事態のこと｡</p>
<p>この定義だけを単体で見ると､論理学に疎い人は何を言っているか､よくわからない｡具体的にゆっくり後で見ていくことになる｡</p>
<p>ラッセルのパラドクスは床屋のパラドクス､嘘つきのパラドクス､グレリングのパラドクス､ベリーのパラドクスなどの日常言語に置き換えられて説明されることがある｡</p>
<p>床屋のパラドクスは「論理的パラドクス」であり､それ以外のパラドクスは「意味論的パラドクス」と分類されることがある｡たとえば嘘とはどういう状態なのか､名付けるとはどういう状態なのかというのは論理学の範疇ではない､とラッセルは批判されることがある｡純粋に論理的で形式的なものが論理的パラドクスと考えるイメージなのだろう｡いずれも純粋なラッセルのパラドクスと類似しているが､論理的な言語を日常言語によって具体化したという点で曖昧さを含み､厳密には同じではないのかもしれない｡</p>
<p>今回は「床屋のパラドクス」と「ベリーのパラドクス」を主に扱う(ベリーのパラドクスは後半に)｡</p>
<p>まずは論理的パラドクスを日常言語をできるだけ使わず､かつ難しい論理学の記号や数式も使わずに形式的な形で見ていくことになる｡ここで完全に理解する必要はなく､後でさらに具体例を見ていく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:ラッセルのパラドクスの説明</p>
<p>「ラッセルのパラドクスは周知だと思われるが，「自らを要素としない集合をすべて集めてできた集合は，自らを要素とするであろうか」というものである。たいていの集合が「自らを要素としない集合」である。たとえば，「犬」という集合の要素は，柴犬だったりブルドッグだったり，あるいは飼い犬のポチというように，何か具体的な個体である。決して「犬」のイデアなるものは含まれない。こうした集合全体を考えた場合，要素と「する」と仮定すると「しない」という定義に反し，「しない」と仮定すると「する」を要請されるわけである。これは，「すべての集合の集合」という，無限を囲い込む思考実験に必然的に伴う問題である。では他方，「自らを要素とする集合」とは何であろうか。たとえば，「言葉」という集合はどうであろう。「言葉」というのも言葉である。また，「私の思考」という集合は。「私の思考」も私の思考の一部である。こうした集合の場合，パラドクスは起こらない。」</p>
<p>鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」,48p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">純粋なラッセルのパラドクスの例(論理的パラドクス)</span></h4>
<p>まず､「<b>自分自身の要素ではない集合</b>」とはなにか｡</p>
<p>たとえば「自分が飼っている犬」や「近所の犬」をメンバーとしてもつような「犬という集合」を考える｡この場合､「犬という集合」の中にメンバー(要素)として「犬という集合」は入らないだろう｡それゆえに､「犬という集合」は自分自身の要素ではない､つまり自分自身を要素として含まない集合である｡他にも人間､食べ物､コンピューターなど､我々が挙げるような集合はほとんど「自分自身の要素ではない集合」である｡</p>
<p>従って､「自分自身の要素ではない集合」の「集合」ということは､我々が考えるようなほとんどの集合をメンバーとするような集合となる｡犬という集合や人間という集合など､さまざまな集合がメンバーとして入ることになる｡</p>
<p>このような大きな集合を<b>集合R</b>と表現しておく｡</p>
<p>(１)集合Rが「<b>自分自身の要素では</b><b>ない</b>」と仮定する</p>
<p>つまり､集合Rという集合の中に､集合Rというメンバーはないと仮定するわけである｡これは犬というクラスの中に犬というクラスがメンバーとして入ってこないという仮定と似ている｡</p>
<p>しかし､もし集合Rが「自分自身の要素ではない」ならば､集合Rは「自分自身の要素ではない集合の集合」であるので､集合Rの要素になっていなければならなくなる｡つまり､集合Rは「自分自身の要素ではない」と仮定したのにも関わらず､「自分自身の要素である」というパラドクスが生じる｡</p>
<p>(２)集合Rが「<b>自分自身の要素で</b><b>ある</b>」と仮定する</p>
<p>もし集合Rが「自分自身の要素である」ならば､集合Rは「自分自身の要素ではない集合の集合」であるので､「自分自身の要素ではない集合」でなければならない｡つまり､「自分自身の要素である」と仮定したのにもかかわらず､「自分自身の要素ではない」というパラドクスが生じる｡</p>
<p>結論:「自分自身の要素ではない集合の集合」(集合R)というものを考えた場合､この集合Rが「自分自身の要素ではない」と仮定しても､「自分自身の要素である」と仮定してもパラドクスが生じてしまう｡これがラッセルのパラドクスである｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:ラッセルのパラドクスの説明</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,39-41p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">床屋のパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc19">床屋のパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>床屋のパラドクス</strong></span>：</big>ある村に一軒しかない床屋は､自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る｡さて､村人の一人であるこの床屋自身は､自分の髭を剃るのか､剃らないのか｡</p>
</div>
<p>床屋のパラドクスはラッセルのパラドクスを日常言語によって具体化したものとして知られているらしい｡</p>
<p>(１)床屋が自分で自分の髭を剃ると仮定する</p>
<p>床屋は自分で自分の髭を剃ると仮定してしまうと､自分の髭を剃ってはならないことになる｡</p>
<p>なぜなら､「自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る」からである｡村人の中に自分が含まれているので､自分で髭を剃ることはできない｡</p>
<p>(２)床屋が自分で自分の髭を剃らないと仮定する</p>
<p>床屋が自分で自分の髭を剃らないと仮定してしまうと､自分の髭を剃らなければならないことになる｡</p>
<p>なぜなら､「自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る」からである｡村人の中に自分が含まれているので､自分で髭を剃らなければならない｡</p>
<p>このように､どちらに仮定しても反対の結果が生じてしまい､「剃る､かつ剃らない」のようなパラドクスが生じてしまっているケースである｡</p>
<p>ここで重要なのは「村人全員」という集合の中に､自分が要素として含まれているということである(自己言及的)｡</p>
<p>この矛盾は、ラッセルのパラドクスにおける「自分自身を要素とするかどうか」の矛盾と類似した構造を持っていると考えることができる｡</p>
<p>(１)ラッセルのパラドクスでは、自分自身を要素としない集合全体の集合が存在するかどうかを考えることで矛盾が生じる。</p>
<p>(２)床屋のパラドクスでは、自分で髭を剃らない村人全員の髭を剃る床屋が自分の髭を剃るかどうかを考えることで矛盾が生じる｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:床屋のパラドクスの説明</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,42-43p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">ルール１､「自分自身を含む要素全体の集合」を集合と認めない</span></h3>
<h4><span id="toc21">R = { | ∈ }</span></h4>
<p>「自分自身を含む要素全体の集合」を記号化すると､以下のようになるらしい｡</p>
<p>R = { | ∈ }</p>
<p>(１)Rは「集合」を意味する｡(２){要素の表現 ∣ 条件} ※集合の要素を選ぶための条件｡(３)∈は「属する」と読む｡</p>
<p>自分自身(x)を含む集合(x)という条件を満たす､集合(x)ということになる｡こうした集合Rを集合と認めない､というルールが必要だとラッセルはいう｡</p>
<p>端的に言えば､「<b>クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえない</b>」というルールが必要になる｡</p>
<p>ラッセルはそうしたルールを破るとパラドクスが生じると考えたからだ｡</p>
<p>たとえばリンゴというクラスには赤リンゴや青りんごといったメンバーがあることは理解できる｡しかしリンゴというクラスにリンゴというクラスというメンバーが含まれてくると､「<b>どこかおかしい</b>」となるのではないだろうか｡論理学に疎い私でも直観的にそう感じる｡教室の中にAさん､Bさん､Cさん・・というメンバーと同列的に「教室さん」が座っているような違和感である｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:数式の参考に</p>
<p>離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc22">論点先取り､循環論法に陥ることもパラドクス？</span></h4>
<p>たとえば哺乳類というクラスは､主に帰納的に決められていく｡複数の動物に「母乳で子供を育てるという行動」が見られたとする｡つまり､メンバーの共通点を一般化して見出したわけである｡</p>
<p>ここで重要なのは､メンバー単体では哺乳類というクラスは導き出されないという点である｡人間やゴリラ､クジラなどはそれぞれ「違う」けれども､「同じ」要素をもっているというような比較によって生まれるのである｡</p>
<p>一方で､メンバーが一体しかいない「類」を考えることは理論的に可能では､と私は疑問が生じる｡しかし帰納によって分類するという例では､あまり現実的ではないケースではないだろうか｡帰納的一般化にはなんらかの「差異」が必要になり､「差異」は異なる個体があってはじめて成り立つからである｡「いままでの分類に属していない」､「一体しかメンバーに含まれない」というのは結局「比較」が必要であり､一体のメンバー単独で見出されるものではない｡</p>
<p>帰納におけるメンバーの比較において､そのメンバーに「哺乳類」が並んでいたらおかしい｡つまり､自分を使って自分を生み出そうとしている形になる｡メンバーの比較によってクラスが生じるのにも関わらず､すでにメンバーにクラスがいるのである｡</p>
<p>こうした状態を「<b>自己言及的</b>」と表現する｡論理学の世界では「<b>循環論法</b>」や「<b>論点先取り</b>」といわれ､論理的誤謬の一種と扱われる｡ラッセル的にいえばタイプミスであり､論理階型の混同である｡</p>
<p>正直な話､式単体で私には「矛盾」が生じているとは思えない｡Aかつ非Aのような状態が生じているとは思えない｡</p>
<p>なんとなく､循環論法的だなとか､赤いリンゴというメンバーとリンゴというクラスをごちゃごちゃにしちゃよくないよね程度の論理的ミスなら理解できる｡</p>
<p>しかしパラドクスの定義は必ずしも「矛盾」を意味せず､「誤り」が含まれていると考えていくことができる｡そしてラッセルの時代以前の集合論においては､正しい前提と正しい推論であると思われており､それにも関わらず誤りが生じてしまっていたという点が重要になる｡こうした事態を「パラドクス」と表現することは理解できる｡</p>
<p>そしてラッセルは正しい前提が実は正しくないのではないか､と思い修正を試みるようになる｡具体的には「無制限変項の原理」が修正されていくことになる｡無制限変項の原理をタイプ(階型)ごとに適用する､というタイプ理論によって修正していくわけである｡要するに､無制限変項の原理の範囲をより限定的にしたというわけである｡</p>
<h3><span id="toc23">ルール２､「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を集合と認めない</span></h3>
<h4><span id="toc24">R = { | ∉ }</span></h4>
<p>「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を記号化すると､以下のようになるらしい｡</p>
<p>R = { | ∉ }  ※∉は属さないという意味</p>
<p>ラッセルは集合を以下の２つに分け､またすべての集合は以下の２つのどちらかだと仮定した｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>第一のグループ</strong></span>：</big>自分自身を要素として含まない集合｡例:人間の集合､椅子の集合など｡R = { | ∉ }/p&gt;</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>第二のグループ</strong></span>：</big>自分自身を要素として含む集合｡例:集合の集合､抽象物の集合など｡R = { | ∈ }</p>
</div>
<p>先ほど､自分自身を要素として含む集合を集合として認めないということを学んだ｡つまり､第2グループの否定である｡</p>
<p>有名な第二グループに「集合の集合」がある｡あらゆる集合を「集合の集合」というクラスはメンバーとしてもっている｡しかし「集合の集合」というクラスも「集合」であり､メンバーである｡</p>
<p>したがって集合の集合というクラスは集合の集合というメンバーをもつ必要がある｡これは自己言及的である｡</p>
<p>抽象物の集合も､「抽象物の集合」が抽象物なので､同様のケースである｡</p>
<p>自己言及的な集合は自分の靴紐をひっぱって自分を宙にもちあげるような､ナンセンスなイメージと表現されることがある｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:第一のグループ､第二のグループ</p>
<p>「集合を２つに分けよう｡第一のグループは､自分自身の要素ではない集合｡第二のグループは､自分自身の要素である集合｡定義上､この２つのグループですべての集合は尽くされている｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,37p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">R = { | ∉ }はそれ単体ではおかしくない？</span></h4>
<p>その点､第一グループであるR = { | ∉ }集合として認めていいのではないか､と思ってしまう｡</p>
<p>たとえば「人間の集合」という場合に､私やあなたはメンバーとして含まれるが､「人間の集合」はメンバーとして含まないという話だ｡私たちが思いつくような集合はほとんどこの第一グループに属しているという｡たしかに集合の集合のようなものは例外だろう｡人間の集合､マウスの集合､机の集合､服の集合など､いくらでも挙げられる｡どうしてわざわざこの集合を否定する必要があるのか｡※実は自己言及的なものが現実世界ではたくさんある､という話は次回のベイトソンで扱う｡</p>
<p>ここからが面白い｡ラッセルによると､ルール１をまもったとしても､問題が生じるケースがあるというのである｡</p>
<p>この問題は私にも「矛盾」が生じていると理解できる例である｡</p>
<p>追記(2024/07/12):R = { | ∉ }単体では不都合がないが､全てのR = { | ∉ }からなる集合R２のような集合を考えると不都合が生じてしまう｡これは､Rのような集合を集合として認めてしまっているからだ｡それゆえに､Rを集合として認める事はできない｡そういう話だろう｡たとえばゲームでは組み合わせによっておそろしく強い効果を発揮するようなものがある｡単体ではあまり強くないのにも書か関わらず､２つの効果が合わさって､ゲーム自体をバグらせてしまうような(あるいは一瞬で勝利してしまうような強すぎる)ものを考えてみる｡それゆえに､どちらか､あるいは両方を「禁止」するのである｡たとえばカードゲームではそれが「禁止カード」と言われ､存在自体が否定される｡</p>
<h4><span id="toc26">ルール１だけを守ったとしても､矛盾が生じてしまうケース</span></h4>
<p>例えば､この緑のリンゴ､あの赤いリンゴといったあらゆるリンゴのメンバーの集合であるリンゴというクラスを考えてみる｡このクラスをRとする｡</p>
<p>次に､あらゆるリンゴのメンバーを含まないクラスを考えてみる｡このクラスをNとする｡このクラスNには肉や魚､猫やゴリラなど､リンゴというクラスのメンバー以外のあらゆるメンバーが含まれている｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3922" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8-800x357.png" alt="" width="800" height="357" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8-800x357.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8.png 827w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>さて､ここで集合R(クラスR)はクラスNの要素か､それとも要素ではないか｡</p>
<p>つまり「あらゆるリンゴの集合」は「あらゆるリンゴのメンバー以外のメンバーを全て含む集合」に属するのかどうかという話である｡</p>
<p>(R= {| ∈ }を集合として認めないというルール１より､リンゴというクラスはリンゴというクラスのメンバーではない｡したがって､リンゴというクラスはクラスNのメンバーとなる｡</p>
<p>つまり､リンゴというクラスRは､R = { | ∉ }ということになる｡ルール２ではR = { | ∉ }を集合として認めないというものであった｡認めるとどんなことが生じるかを見ていくことになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/b89ef85dcb8c1c57bbd29488482378e8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3923" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/b89ef85dcb8c1c57bbd29488482378e8.png" alt="" width="602" height="641" /></a>先程のリンゴの話を図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>ここで問題が生じる｡クラスNはあらゆるリンゴのメンバーを含まないクラスであったはずである｡しかしクラスRを含むということは､そのメンバーを間接的に含むということにもなってしまうのではないか｡</p>
<p>つまり､「クラスNはあらゆるリンゴのクラスのメンバーを含まない」といっているにもかかわらず､「間接的にリンゴのクラスのメンバーを含んでいる」ことになってしまう｡こうした自己準拠に起因するようなパラドクスを<b>ラッセルのパラドクス</b>という｡</p>
<p>(１) R = { | ∈ }を認めるとパラドクスが生じる｡だからこうした集合を認めない｡</p>
<p>(２) R = { | ∉ }を認めてもパラドクスが生じる｡だからこうした集合も認めない｡</p>
<p>(３)この２つに共通しているのは､自分を定義するのに自分を含めるとか､含めないとかいう自分への言及(自己言及)が必要になるからである｡２つの集合を集合として認めないような体系の整備が必要となる｡ラッセルはタイプ理論などで対応しようとした｡現代集合論ではツェルメロ＝フレンケル集合論などがその例らしい｡</p>
<h4><span id="toc27">【疑問】直接的に含む､間接的に含む？</span></h4>
<p>・一端､私の中で生じた疑問を整理する｡</p>
<p>論理学に疎い私には「リンゴというクラスがクラスNのメンバーになるという事態」がいまいち理解できない｡これ単体でみると､リンゴというクラスの中のメンバーを「<b>直接的</b>」にはメンバーとして持っていない｡たとえばある人Xが「人間が好き」と言っているからといって､「Xが田中さんを好き」だとは限らない､といえば何となく納得してしまう｡しかし「<b>間接的</b>」にはメンバーとしてもつことになるという考えもできる｡「人類」の中に「田中さん」も要素として含まれているからである｡</p>
<p>他の比喩も使ってみよう｡バラバラのクッキーが入った袋が入ったビニール袋というものがあるとする｡たしかにビニール袋に直接バラバラのクッキーが入っているわけではないが､ビニール袋の中に入っているだろう｡つまり､間接的には入っている｡</p>
<p>そもそも「人間が好き」などという言葉が曖昧なのだろう｡我々は人間というクラスに含まれる全てのメンバーが好きだという意味で「人間が好き」を使っているのだろうか｡「全てのメンバーのうち､ほとんどが好き」だとか､「一部が好き」だとかそういう意味で使っているかもしれない｡どういう意味で使っているかなど､よく考えずに使っている｡</p>
<p>こうした曖昧なもの(非可述的なもの)を明瞭なもの(可述的なもの)へと還元するとどうなるか｡私には正直わからない｡「優しい人が好きだ」という意味で実は使われているかもしれない｡しかし「優しい人」という言葉も曖昧である｡もしかしたら今まで会ってきた特定のAさん､Bさん､Cさんが好きだという意味で使われているかもしれない｡ここまで還元すると､AでもBでもCでもない田中さんが好きとは限らない､ということに納得できる｡</p>
<p>もっと抽象度を上げて考えてみる｡たとえばA,B,Cと言う要素をもつRというクラスがあるとする｡</p>
<p>そして､A,B,Cという要素以外の全ての要素を持つNというクラスがあるとする｡この場合､NというクラスはRというクラスをもつことになる｡なぜなら､ルール１より､R = { | ∈ }を集合と認めないからである｡それゆえにR = { | ∉ }となる｡従って､NはRというクラスをもつ｡</p>
<p>この場合､Nというクラスは直接的にA,B,Cという要素を持つことになるわけではない｡</p>
<p>しかし､Nというクラスは間接的にA,B,Cという要素を持つことになる｡なぜなら､NというクラスはRというクラスをもち､RというクラスはA,B,Cという要素を持つからである｡</p>
<p>それゆえに､A,B,C以外の全ての要素を持つNというクラスが間接的とはいえA,B,Cという要素を持つことになる｡それゆえに､矛盾が生じる｡</p>
<p>もし仮に､「直接的にA,B,C以外の全ての要素を持つ」とNクラスが定義されていれば話は別だが､しかしそうではない｡結局は直接的にせよ間接的にせよ､矛盾が生じることになる｡</p>
<p>これ以上話をややこしくすることは避けたいが､しかし疑問がある｡「食べ物」というクラスはクラスRのメンバーではないので､当然クラスNのメンバーとなるだろう｡しかし「食べ物」というクラスはリンゴというクラスをメンバーとしてもっている｡これで先程の問題と同じような矛盾が生じる｡</p>
<p>あるいは､食べ物というクラスはいちいちサブクラスを通す必要がない､と考えることもできる｡例えばリンゴというクラスや果物というクラスを通して間接的に「あのリンゴ」をもつのではなく､食べ物が「あのリンゴ」や「そのカレー」といった個物を持つと表現すればいい｡とはいえ､Nクラスは食べ物というクラスをもつかぎり､やはり間接的にクラスRのメンバーをもつことになってしまうので矛盾が生じる｡そのため､ルール１やルール2が必要である､という結論になるのだろう｡</p>
<h2><span id="toc28">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc29">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc30">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc31">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc32">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc33">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc34">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc35">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc36">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc37">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc38">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc39">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
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