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	<title>哲学 | 創造法編集社</title>
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	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
	<lastBuildDate>Mon, 25 Aug 2025 06:49:34 +0000</lastBuildDate>
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	<title>哲学 | 創造法編集社</title>
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	<item>
		<title>【１ワード社会学第五回】フーコーの｢パノプティコン｣とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2025/08/25/one-word-sociology-panopticon/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 25 Aug 2025 06:49:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミシェル・フーコー]]></category>
		<category><![CDATA[１ワード社会学]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 動画での説明はじめに社会学とはなにかフーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説パノプティコンベンサムにおけるパノプテ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc3" tabindex="0">社会学とはなにか</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">フーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">パノプティコン</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">ベンサムにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">フーコーにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">パノプティコン=権力の特殊なあり方</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">近代以前の権力概念</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">近代以降の権力概念</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">要素よりも関係や体系が先にあるとはどういう意味か</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">権力と秩序の関係とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">刑罰の歴史とは</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">【1】古典的主義時代(17世紀から1789年のフランス革命にかけて)｢身体刑｣</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">【2】18世紀の刑罰制度の改革における｢処罰｣</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">【3】19世紀における｢監獄｣という処罰</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">パノプティコン=規律･訓練(ディシプリン)の技術</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">規律･訓練(ディシプリン)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">主体的であると同時に服従的であるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">規律･訓練の技術とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">フーコーにおける｢空間の配分｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">フーコーにおける｢活動の統制(活動のコード化)｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">フーコーにおける｢発達･発展｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">パノプティコンから得られる教訓</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">ものごとは単線的ではなく複線的</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">制度の偶発性と抵抗の可能性</a></li></ol></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc30" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">新睦人「社会学のあゆみ」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">動画での説明</span></h2>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="///www.youtube.com/embed/CwfUuxH_P4I?si=9ylGUXeU2u0OJ9YL" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"><span data-mce-type="bookmark" class="mce_SELRES_start">﻿</span></iframe></div>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<p>ショート動画で1分で説明しているバージョンも投稿していますm(_ _)m</p>
<h2><span id="toc2">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc3">社会学とはなにか</span></h3>
<p>社会学とは､｢<b>社会を対象とする学問</b>｣のことである｡そして社会とは基本的に｢<b>人々の社会的行為の相互作用の集まり</b>｣を意味する｡</p>
<p>なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが､根本的には｢<b>社会を分析し､よりよい社会へ導くため</b>｣だといえる｡社会とはなにか､どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/11/27/durkheim-4-1/">【基礎社会学第三六回(1)】エミール･デュルケムの社会学とはなにか､学ぶ意味や価値はあるのか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/692dc39654b332d6dc4442b3d36bb6e1.png"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-4898" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/692dc39654b332d6dc4442b3d36bb6e1.png" alt="" width="599" height="474" /></a></p>
<p>この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている｡要するに､<b>アイデアをひらめくための情報を学ぼう</b>というわけである｡ビジネス､友人関係､学業､さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい｡</p>
<p>できるだけ<b>１ワード</b>に説明する対象を絞っていく｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/75819fcbf127ad1ddf9febb5998aeacc.png"><img decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-4899" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/75819fcbf127ad1ddf9febb5998aeacc.png" alt="" width="418" height="520" /></a></p>
<p>基本的な説明プロセスは､上の図の通りである｡</p>
<h2><span id="toc4">フーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説</span></h2>
<h3><span id="toc5">一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_12-57-31.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5038" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_12-57-31.jpg" alt="" width="187" height="293" /></a></p>
<p>フーコーはフランスの哲学者であるが､管理の社会学や刑罰の社会学､あるいは教育の社会学でもよく参照されることが多い｡実際､多くの社会学の基礎テキストでフーコーの内容が(ときには社会学者として)扱われている｡『監獄の誕生』をいきなり説明する前に､フーコーがそもそも何のために学問をしているのかという前提を軽く扱っていきたい｡</p>
<p>たとえば社会学者であるパーソンズやルーマンのように社会システム理論のようなマクロ(大きい)な分析のための一般的な知の道具をつくることをフーコーは目的としていない｡ある範囲に適応できるようなメゾ(中間)な分析のため｢理論｣や｢法則｣を発見することも目的としていない｡</p>
<p>かといって現象学のような哲学の体系を１から作ることも目的としていない｡人間や社会のあるべき姿､ある種の正解･規範を提示することも目的ではない｡単に統計分析や実地調査のような実証的な分析をミクロ(小さい)な範囲でただ積み重ねることも目的ではない｡</p>
<p>フーコーの目的は｢<b>批判</b>｣にあるという｡</p>
<p>しかしこの批判は社会学におけるマルクスや批判理論家のように､現実にある不平等や抑圧構造を分析し､それらを改善･変革していくために批判していくことを意味しない｡</p>
<p>フーコーはそもそも｢あるべき社会のかたちや制度のありかた｣を提示することに関心をもっていないようにみえる｡このあたりは社会学者のルーマンと似ている(そんなことは人間ごときにはわからないという冷めた立場にある)｡</p>
<h3><span id="toc6">フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>フーコーのいう｢批判｣とは､ある現象を<b>検討･分析</b>することだという｡</p>
<p>そうした分析の意図は｢<b>現に存在するものを､あるいは存在しなかったかもしれないもの､今あるようには存在しなかったかもしれないものとして記述すること</b>｣にあるという｡ここがなかなか面白い｡これもルーマンの<b>コンティンジェンシー</b>(偶有性,別様でもありうること)とつながってくる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/09/05/niklas-luhmann-1-1/">応用社会学第一回:「社会システム理論は楽しい」(前編)</a></p>
<p>たとえば我々は真理､理性､主体や権力などは必然的であり､動かし難く遠い昔からあるものだと信じがちである｡たとえば｢日本国民｣という概念が遠い昔からあるとほとんどの人たちは思っている｡</p>
<p>しかしフーコーはそれらの概念は歴史的･社会的に構成されたものであることを言説(人々が語ったもの)を経験的に分析することによって明らかにしようとするわけである｡絶対的なものが実は偶発的なもの､つまり他でもありえたものかもしれないと歴史を紐解いて分析していくわけである｡このような方法を<b>考古学</b>とフーコーはいう｡ニーチェの系譜学に影響を受けている｡</p>
<p>現にある固定的な制度､構造､概念や関係を｢<b>あたりまえ</b>｣と思わずに､柔軟に｢他でもありうる｣､｢逆でもありうる｣､あるいはありえた､なぜそうなったのか､どう機能し､どう機能していないか(あるいは逆機能)などを分析していくのがフーコーのスタイルであるといえる(このように考えると､社会学者のマートンに近づく)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/03/12/robert-king-merton-2/">【基礎社会学第三十五回】ロバート・K・マートンの実証的機能分析とはなにか</a></p>
<p>そして『監獄の誕生』の目的は､<b>｢自発的な主体性｣が歴史的にいつごろ､どのようにして形成されたのかを明らかにすること</b>にある｡たとえばなぜ我々は他人が見ていなくとも赤信号を渡れないのか｡自発的に法律を守るような態度をとっているのだろうか｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>近藤哲郎｢フーコーにおける権力分析のパラダイム 『監獄の誕生』 の方法と論理｣(1990),39-41p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,132p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc7">パノプティコン</span></h2>
<h3><span id="toc8">ベンサムにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/21ae2e40054104af2aa0dbbb377ef38d-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5046" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/21ae2e40054104af2aa0dbbb377ef38d-1.jpg" alt="" width="227" height="284" /></a></p>
<p>ベンサムはイギリスの哲学者であり､功利主義の創始者として知られている｡</p>
<p>※功利主義とはできるだけ多くの人が幸福になるように行動すべきだと考える考え方のこと(最大多数の最大幸福)｡ある制度の良し悪しが快楽や苦痛の量によって判断される｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ベンサムにおけるパノプティコン(英:Panopticon)</strong></span>：</big>中央の監視塔から全ての独房を見渡せる監獄を意味する｡</p>
</div>
<p>日本語では一望監視施設という｡ギリシャ語のpan(すべて)と､opticon(見るもの)に由来する｡ベンサムが当時の非人道的な刑務所の環境を改善するために考案したものだという｡常に監視しておくことで､適切な態度を身につけさせ､社会に復帰させるという､いわゆる｢<b>矯正</b>(きょうせい)｣を目的としている｡さらに､監視者が少なくて済むという､経済的効率性も考慮されている｡</p>
<div id="attachment_5047" style="width: 679px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_13-03-52-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-5047" class="wp-image-5047 size-full" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_13-03-52-1.jpg" alt="" width="669" height="396" /></a><p id="caption-attachment-5047" class="wp-caption-text">N・アルー＝ロマン『懲治監獄の計画』より(右)</p></div>
<p>重要な構造の特徴は以下の2点である｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">中央に監視塔を置き､周囲に独房を円形に配置する｡</li>
<li class="sample">監視塔からは全ての独房が見渡せるが､囚人からは監視者が見えない｡</li>
</ol>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,135p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),61p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),62-63p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">フーコーにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>フーコーにおけるパノプティコン</strong></span>(英:Panopticon)：</big>｢常に監視されているという意識から､自発的に権力に服従する｣という近代社会特有の管理･統制のあり方､仕組みのこと｡</p>
</div>
<p>ここでいうパノプティコンは仕組みや制度の象徴､比喩表現にすぎず､学校や病院､家庭などでもパノプティコンと類似した仕組みが浸透しているという点が重要である｡具体的には｢<b>権力のあり方</b>｣､｢<b>規律･訓練(ディシプリン)のあり方</b>｣の2点が重要になってくる｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢社会学小辞典｣､有斐閣､新板増補版第四刷,504-505p</p>
<p>香月孝志,｢社会学用語図鑑｣,プレジデント社,第一刷,206p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,108p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc10">パノプティコン=権力の特殊なあり方</span></h2>
<h3><span id="toc11">近代以前の権力概念</span></h3>
<p>近代以前の権力は､抑圧･強制･搾取といったようにネガティブで一方的に押し付けられ､かつ所有できる｢<b>もの</b>｣のように捉えられていたという｡たとえば｢国家が国民を支配する権力をもっている｣とか､｢上流階級が権力を独占し､労働者階級を支配している｣といった言い方がされていた｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,156p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">近代以降の権力概念</span></h3>
<p>近代以降では､権力は所有されるものではなく､<b>人と人との相互作用､相互関係の中で生成し､機能するもの</b>であると考えられている｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,157p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc13">要素よりも関係や体系が先にあるとはどういう意味か</span></h4>
<p><b>要素よりも関係や体系が</b><b>先にある</b>という点が重要である(フッサールの現象学やルーマンの社会システム理論とも類似する)｡</p>
<p>しかしこのあたりは哲学的でなかなか理解することが難しい｡フーコーは主体という概念も関係と無関係にあるわけではなく､関係が先にあって､要素が主体として構築されると考えられている｡</p>
<p>たとえば｢私｣が｢私とは無関係な目の前のペン｣を手に取るという考え方自体､近代的な捉え方だというわけである｡そのような区切り方は一定の関係､フーコー的に言えば｢<b>近代的知</b>｣を前提とする｡</p>
<p>たとえば教師と生徒が学校という場所で出会って会話することによって権力がその場所で作用するのである｡教師が生徒や学校とは無関係に､独立的に権力を道具のように所有しているわけではない｡人に権力が帯びるというより､人間関係に権力が帯びる､人間関係の場に権力が帯びるというイメージ｡</p>
<p>学校では教師はどうあるべきで､生徒はどうあるべきといったような｢<b>安定したルールや慣習</b>が先にある｡こうした細かく具体的なルールをさらに体系付ける知の体系がいわゆる<b>エピステーメー</b>(episteme)である｡こうした安定した枠組み､関係(いわゆる<b>構造</b>)の中に人間Aと人間Bという要素が位置づけられることで､人間Aは教師になり､人間Bは生徒になるのであり､そしてそれらの関係として一種の｢<b>社会関係</b>｣が生じ､この関係に権力が働くのである(権力関係)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/09/05/niklas-luhmann-1-1/">応用社会学第一回:「社会システム理論は楽しい」(前編)</a></p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,131-132p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">権力と秩序の関係とは</span></h4>
<p>社会学者の桜井洋さんは｢<b>権力とは､社会の秩序が成立する仕方である</b>｣と説明している｡</p>
<p>秩序のあり方は一方的な｢命令･服従｣だけではない｡｢<b>人の行動や考え方を方向づける力</b>(強制的な力だけではない､より広い範囲の<b>生産的な力</b>)｣のことなのである｡</p>
<p>フーコーは｢<b>支配関係</b>｣を固定的で逆転が難しい上下関係だとみなし､上下関係が逆転可能な｢<b>権力関係</b>｣と区別している｡</p>
<p>たとえば会社の上司と部下の関係は支配関係ではなく権力関係の場合が多く､部下が上司よりも出世することはありうる｡フーコーいわく､｢<b>権力のあるところには抵抗の可能性がある</b>｣という｡</p>
<p>たとえば母親が子供に｢<i>勉強しないとろくな大人になれないかもね</i>｣と言うとき､そこにはミクロで対面的な相互作用が生じている｡我々は通常､この関係を一方的な強制や支配とはみなさないだろう｡</p>
<p>しかし一定の行動､2人の間の秩序を促すような｢<b>力=権力</b>｣をそこに観て取るはずである｡いわば｢調教｣ともいっていい力である｡この相互作用は｢家庭｣という場所において生じるからこそ､力が強くなる｡たとえば友人や知らない人に同じことを言われても､無視するかもしれない｡</p>
<p>我々のほとんどあらゆる相互作用によって権力は生じ､染み込んでいるのであり､しかもその力(働き､機能)は<b>なかなか目に見えない</b>｡よく目に見えるのはその結果(勉強する/勉強しない､赤信号を渡る/渡らない)だけである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,157p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,107p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">刑罰の歴史とは</span></h3>
<h4><span id="toc16">【1】古典的主義時代(17世紀から1789年のフランス革命にかけて)｢身体刑｣</span></h4>
<p>｢<b>身体から精神へと権力の向かう関心が移行した</b>｣という点がパノプティコン的な権力特有のあり方において重要であるということを理解していく｡</p>
<p>前近代的な権力の関心は王権による｢<b>身体刑</b>｣が主流であったこととも関係してくる｡この時代はいわゆる古典主義時代である(17世紀から18世紀後半ごろ)｡法は君主の権力を体現するもの､犯罪は君主に危害を加える行為であり､むち打ちや処刑などを民衆の前で公開することで､君主の権力を再認識させるという秩序維持の機能があったという｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,106p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">【2】18世紀の刑罰制度の改革における｢処罰｣</span></h4>
<p>18世紀には身体に対する罰が批判され､刑罰制度を改革しようとする人たちが現れてくる(法律学者のベッカリーアなど)｡</p>
<p>｢<b>かわいそうだから少なく処罰する</b>｣という動機ではなく､｢<b>より良く､合理的に処罰する</b>｣という点がポイントである｡18世紀には生活水準が上がり､人口が増え､ブルジョワジー(資本家)が現れ､財産を狙う民衆の犯罪が増加していたという背景がポイントになる｡ムチ打ちや処刑などの｢<b>身体に対する権力による恐怖</b>｣では非効率的だというわけである｡｢危険の消去｣ではなく､人々をより教育して有効に､効率的に国家のために使うための｢教育(矯正･調教)｣という方向性の転換ともいえる｡</p>
<p><b>ではもっと効率のよい(人を操作するための)合理的な権力のあり方とはなにか</b>という点が問題になる｡それが18世紀においては｢<b>合理的な基準で処罰することによって､犯罪は割に合わないことを人々に認識させること</b>｣であったという｡</p>
<p>たとえばベッカリーアは『犯罪と刑罰』で､｢刑罰は見せしめよりも法則的で比例的であるべき｣と述べ､｢<b>教育</b>｣を重視している｡権力者が気分や賄賂で処罰を決めるのではなく､｢この行為をするとこういう罰が科される｣と明確に､痛みのような質ではなく､労働の量などで｢<b>記号</b>｣として可視化することによって､<b>自発的･自律的に法を守らせる効果を刑罰に期待した</b>のである｡これが身体から精神への権力の方向の変化である｡身体に刻むのではなく､精神に訴えかけ､予防するのである｡脅迫ではなく教育である｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,107p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),49-50p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">【3】19世紀における｢監獄｣という処罰</span></h4>
<p>この提案の時期には監禁刑はまだ主流ではなく､またこの改革者たちは(とにかく全員ぶち込め的な)監禁刑を批判している｡</p>
<p>したがって､監禁ではなく｢<b>社会に与えた害に相当する公共的な土木事業などに従事する</b>｣といった刑罰が改革案では考えられていたそうだ｡しかし､1810年の刑法典ではそのような改革案とは対照的に､大規模な｢<b>監獄</b>｣の設立が計画され､実施されていくことになる｡監獄の計画も犯罪者たちの矯正(教育)という点では共通しているが､その手段(技術)が異なるというわけである｡この具体的な手段については次の項目で｢<b>規律･訓練(ディシプリン)</b>｣を扱う｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,107p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc19">パノプティコン=規律･訓練(ディシプリン)の技術</span></h2>
<h3><span id="toc20">規律･訓練(ディシプリン)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff00;"><strong>規律･訓練</strong></span>(英:discipline)：</big>身体の細部に働きかけ､その内部から規格に合致した主体を形成していく力､技術のこと｡</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/1c710b39ddbf95a568c235dcead97b69.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5041" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/1c710b39ddbf95a568c235dcead97b69.png" alt="" width="214" height="150" /></a></p>
<p>｢<b>規格</b>｣は同じようなクッキーが量産されるイメージをすればわかりやすい｡すこし歪んだクッキーの頭は､歪んだ部分を切り落とされて調整されていくのである｡金髪に染めてきた生徒は規格外であり､規格化して黒くしないといけない｡遅刻が多い社員は減給したり叱責してまともにしなくてはならない｡</p>
<p>もちろん､強制ではなく､できればそもそも染めないという形で自発的に､あたかも自分が自由に選んだというような形で権力を行使する方が効率的で合理的であるとみなされる｡明確に規格が文章化されている場合もあれば､その場の暗黙の了解とされている場合もある｡｢風紀を乱さないように｣､｢マナーを守って｣など抽象的に記述され､主体側が自発的に考えて行動するわけだ｡</p>
<p>規律とは一般に｢人の行為の基準として定められたもの｣や｢秩序｣を意味する｡いわば｢ルール｣である｡</p>
<p>たとえば教室では｢廊下を走ってはいけない｣､｢手を挙げて発言しなければならない｣､｢髪を染めてはいけない｣といったルールがある｡監獄においても､起床や就寝時間､トイレ､シャワー､運動､あらゆる動作に規律がある｡</p>
<p>そしてそれらは常に｢<b>監視</b>｣されているという点が重要である｡さらに教師や看守がいないところでも､自分で自分を律し始めるという点がポイントである｡教師がいないからといって廊下は走らないし､看守がいないからといって大きな音を立てたりしなくなる｡</p>
<p>規律だけでは有効に働かない｡規律に基づいた行動パターンなどを｢<b>訓練</b>｣によって反復的に身につけさせなければならない｡</p>
<p>たとえば学校の運動会では行進練習を行い､矯正施設では作業訓練などを行わせる｡ルールを頭で理解させるだけではなく､身体知として､無意識に身体が覚えて実行するようになるまで繰り返しルールを叩き込んでいくのである｡ブルデューで言えばハビトゥスのような次元にまで叩き込むイメージとなる｡</p>
<p>刑務所帰りの人はトイレに行く際に無意識に許可を求めてしまうエピソードを聞いたことがある｡そのくらいに身体に規律が訓練によって叩き込まれているのだといえる｡｢ショーシャンクの空に｣という映画では刑務所の秩序に慣れ､外に出るのが怖いという囚人がいた(結局出所して自殺してしまう)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2025/08/06/one-word-sociology-habitus/">【１ワード社会学第三回】ブルデューの｢ハビトゥス｣とはなにか</a></p>
<p>制裁への恐怖によって覚えるというより､それが秩序立った関係を構成するからという方が直感的には近い｡体罰などなくとも､｢<b>あいつは正常ではない</b>｣と見なされかねない視線がつねに存在するのである｡教師からだけではなくクラスメイトから､看守からだけではなく囚人仲間からの監視もある｡たとえば学校の不良にとっては教師より不良仲間からの視線のほうが重要になりうるともいえる｡</p>
<p>学校で勉強に励むのは教師への恐怖というより､そうしないと社会に適合できず､排除されてしまうからだろう(意識しているかはわからない)｡学校だけではなく､家庭でも勉強に励まないと人間関係から排除されてしまう可能性がある(ネグレクトなど)｡</p>
<p>秩序のためには適合が必要であり､その適合のあり方が規律と訓練を身体に叩き込み､無意識のレベルで実践できるようになることだといえる｡トイレで手を洗うことをいちいち我々は意識しない(これは本能ではなく､教育の効果である)｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,109p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,135p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),53p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">主体的であると同時に服従的であるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>刑罰はできてしまった異常者(犯罪者､落ちこぼれ､無職)を事後的に排除しようとするのではなく､事前にそもそもそのようにならないように徹底的に調教(矯正)する｡</p>
<p>ゆりかごから墓場まで､あらゆる場所で規律と訓練の技術が適応されるのである｡家庭､学校､職場だけではなく､電車の中､雑踏､トイレなどあらゆるところでその場に適した規律があり､我々はそれを知として把握し､さらに実践を通して身体に埋め込んでいる｡</p>
<p>たとえば電車で目線を合わせないのも我々は無意識的に行っているのであり､だからこそ､そこでは秩序(権力)が生じているのである｡文章化されずとも､周りとの相互作用によってそのような秩序のあり方､｢その場における正常｣を繰り返し経験して察し､覚えるのである｡</p>
<p>しかも強制ではなく､｢<b>主体である私</b>｣が｢<b>自由の行使として</b>｣そうしているのだと思っている点が重要になる｡</p>
<p>フーコーによると主体(subject)という言葉にはもともと｢<b>臣下</b>｣という意味があったそうだ｡臣下とは一般に｢権力者に服従する人｣を意味する｡</p>
<p>人々は自分を主体であり､自由を行使できると感じているのと同時に､そのような自発的な行動をするように権力によって規律を内面化させられているのである(服従している)｡</p>
<p>もっと直接的に言えば､権力に自発的に服従することによって｢主体｣が発見され､構築されるのだという｡主体化とは服従化なのである｡権力の関係の中で自分の行動や判断､個性が形成されるのであり､関係の外ではもはや野生動物のようなものだろう｡我々は猿のような人間を｢主体的｣とは通常見なさない｡価値を内面化するパーソンズや､定言命法における自由概念のカントと類似する｡</p>
<p>要するに､｢<b>権力に服従することを通して､自分が主体だという意識が生じる</b>｣ということである｡もちろんこうした｢自発的に服従する主体｣は近代における典型的な現象であり､そうではない主体のタイプもありうるだろう(反抗的な主体など)｡しかしいずれにせよ権力を通して主体が意識されることには変わりがないといえる｡</p>
<p>学校で勉強することを選んだり､就職活動することを選んだり､電車では大きな声を出さないことを選んだり我々はする｡厳格な細かい規律と訓練が｢<b>選んでいるという感覚</b>｣を生み出していくのである｡あるべき選択肢があり､それをきちんと自分で選ぶという感覚､あるいは選ばないという感覚が生じる｡自分で１から選択肢を作り出すことは難しい(ランダムにサイコロをころがすように選択をするわけでももちろんない)｡</p>
<p>もちろん学校へ行かないという選択､働かないという｢<b>反抗</b>｣の選択をすることもある｡しかし､｢学校へ行くべきだと思っているけど､行かない｣ということは､行くべきだという規律は｢<b>内面化</b>(調教)｣されているわけである(だからこそ不登校や引きこもりは良心の呵責､自分の異常性で苦しむのである)｡</p>
<p>産まれたときから常に､すでに権力の内側にあるのであり､その中でしか主体(他ではないかけがえのない私､個人､個性､パーソナリティ)は感じられないのである｡それゆえに､権力に抵抗する方法はないじゃないか､とフーコーは批判されることがある(たとえば社会学者のハーバーマス､サイードなど)｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,132p</p>
<p>･｢社会学｣､有斐閣､第十一刷,68p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,109p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,134p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">規律･訓練の技術とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>規律･訓練の技術は､少なくとも次の4点に整理できる｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">空間の配分: 身体を位置づけ可視化する｡</li>
<li class="sample">活動の統制: 時間割と手順で行為を規範化する｡</li>
<li class="sample">時間の累積: 線形の発達段階を組み､評価と到達点を設定する｡</li>
<li class="sample">力の総体化: 個々の身体を連結して効率的に働かせる｡</li>
</ol>
<p>このようなある場(装置)における規律･訓練の効果を最大にしようとする技術をフーコーは｢<b>戦術</b>(tactique)｣と呼んでいる｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),54p</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,108p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc23">フーコーにおける｢空間の配分｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/a99ee76032315c79726896e643999446.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-5048" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/a99ee76032315c79726896e643999446.png" alt="" width="224" height="215" /></a></p>
<p>｢<b>空間の配分</b>｣とは､ある集団を閉じ込められた場所に置き､それぞれの位置を決定する処理のことである｡</p>
<p>たとえば監獄なら監房がわかりやすい｡囚人は所定の位置が定められ､管理されるのである｡学校なら｢教室｣という場所であり､それぞれの個人の席が空間的に割り当てられている｡職場や工場も自分の働く場所が割り当てられ､管理される｡ここで大事なのは身体の位置が把握され､細かく管理･監視されているということである｡</p>
<p>このように細かく割り当てられることで｢個人｣や｢主体｣がくっきり浮かび上がって来るという点もポイントだろう｡まるでだれもかれも類似して一体だった箱にマス目がつき､個人が浮かびあがるのである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),54p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),55-56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">フーコーにおける｢活動の統制(活動のコード化)｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>｢<b>活動のコード化</b>｣とは､時間の配分のようなものである｡たとえば監獄では何時に起床し､何時に働き､何時に寝るか､あらゆる｢身体の動き｣に関するスケジュールが管理されている｡</p>
<p>すべての時間が有効に活用されるように､細かく身体が管理される(<b>解剖学的</b>という比喩をフーコーは使う)｡これは学校や工場､会社でも同じである｡場合によっては家庭でも細かく管理する親はいるだろう｡</p>
<p>このようにして｢<b>権力によって操作される身体</b>｣が発見されていくのである｡幼い頃から無意識に細かく執拗に管理されているうちに､自発的に従うようになっていくのである｡教師や親､上司がいなくても､自発的に彼らの意に沿うような人間が誕生していく｡</p>
<p>ミード的に言えば｢一般化された他者｣の意に沿うような人間が典型だろう｡｢誰かが見ているかもしれない｣というときの｢誰か｣が監視者であり､それは誰でも､なんでもありうるのである(ダミーの監視カメラも想像力で他者となる)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/08/18/geoge-herbert-mead-3/">【基礎社会学第二十七回】G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」とはなにか</a></p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),56p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),57p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">フーコーにおける｢発達･発展｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>｢<b>時間の累積</b>｣とは､時間が空間の管理の枠組みに組み込まれ､加算されていくことである｡</p>
<p>とくに｢<b>発達･発展</b>｣という概念が重要である｡空間や時間の管理によって計画は一定の方向性や目的を帯び､社会は進歩するもの､個人は発達するものという観念が形成される｡こうして､個人の能力の発達のために空間や時間が管理され､それが社会の進歩へと関連付けられ､結果として管理の技術そのものがますます発展していくのである｡</p>
<p>どのくらい能力が発達したかなどが｢学歴､資格､給料｣などで可視化され把握されていくのであり､個人もまたそれを内面化し､自分はどれくらい発達しているのかを自発的に把握し､自己管理していくのである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),57-58p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc26">パノプティコンから得られる教訓</span></h2>
<h3><span id="toc27">ものごとは単線的ではなく複線的</span></h3>
<p>パノプティコンという革命的装置や技術が天才によって突然できて､その技術が学校や工場､家庭などあらゆる場所に浸透していって､個人は自発的に権力に服従する効率的･合理的な管理社会･監視社会になっていったね､という単純な話ではない｡｢パノプティコン､すごい仕組みの監獄だったね｣で終わる話でもない｡</p>
<p>パノプティコン以前の｢<b>全体的な時代の流れ</b>｣､デュルケム的に言えば集合意識や社会の潮流､マンハイム的に言えばイデオロギーが重要である｡いわゆる知の体系(エピステーメー)がそうした仕組みの一般化と浸透を促したといえる｡ジンメル的にいえば､様々な糸が交差していった結果として､特定の方向に糸が伸びざるをえなくなり､複雑な糸の在り方が生じていくともいえる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/11/27/durkheim-4-3/">【基礎社会学第三六回(3)】エミール･デュルケムの｢集合意識と集合表象の違い｣を解説</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/02/19/karl-mannheim-1/">【基礎社会学第三十一回】カール・マンハイムの「イデオロギー」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2021/12/04/georg-simmel-1/">【基礎社会学第五回】ゲオルク・ジンメルの「形式社会学」とはなにか</a></p>
<p>問題はそういう土壌の考古学的把握であり､発見であるとえる｡あくまでもパノプティコンは目に見えやすい権力関係､権力体系の｢<b>シンボル</b>(メタファー､モニュメント)｣にすぎないという点が重要になる｡</p>
<p>もし仮に物理的な建築や建築計画であるパノプティコンが存在せずとも､パノプティコン的な仕組みは浸透していった可能性がある｡重要なのは規律･分類･監視という権力技術そのものが､当時の知の体系や社会的秩序の中で生まれ､拡散していったことである｡</p>
<p>ベンサムによるパノプティコンの構想以前に､たとえば学校では時間によるスケジュール管理は存在し､ペストなどの罹患者の管理のための空間の区切り方､監視のあり方なども既に存在していた｡</p>
<p>フーコーの言葉でいうと｢<b><i>起源のさまざまな､出所もばらばらの､しばしば些細な過程の多種多様な集まりとして､さまざまに裁ち直されたり、くり返し現れたり､互いに模倣したり､相互に支えあい､適用領域のちがいで区別され､近似的なものになり､徐々に､総括的な方策の完成図を描き出す､そうした諸過程の集まりとして理解する必要がある</i></b>｣のである｡</p>
<p>ある技術や制度の完成はある個人の意図的な作成というような必然ではなく､かといって完全なランダムではなく､偶発的で全体的な流れによって､意図せざる結果として生じてきたものだといえる｡人口の増加や交流の増加､犯罪の増加に対応できる別の知のありようももしかしたらあったかもしれない｡</p>
<p>偶発的に生じてはいるが､制度は維持され､再生産されていくうちに頑強になり､関係が固定化し､変えがたく必然的に生じているように思われていくのである｡</p>
<p>意識すらできない､言語化すらできないほど｢あたりまえ｣のことは変えがたいのである(魚にとって水が意識されないように)｡しかしフーコーはそうした｢あたりまえ｣のことは実は社会的に形成されたものであり､｢ほかでもありえた｣という視線で捉え直すことの重要性を主張するのである｡</p>
<p>｢〇〇は✗✗の観点からするとよくない､変えるべきだ｣という提案､ではなく､｢<b>まずは冷静に柔軟に別の角度から捉え直してみよう</b>｣という提案であるといえる｡</p>
<p>パノプティコン以降では､教室や病院のような限定的な場所だけではなく､ありとあらゆる場所で一般的にそうした規律･訓練の技術が浸透していったというだけである｡そのひとつに警察などの国家権力ももちろんある｡</p>
<p>さらに規律の形が柔軟になっていった点も重要だ｡現代社会では監視カメラの発展､インターネットの発展などによってさまざまな規律･訓練の技術が柔軟に浸透してきているといえる｡デジタル技術によってより細かく個人は管理され､より広範囲に監視されるようになるのである｡</p>
<p>さらには少数が多数を監視するのではなく､多数が少数を監視するという<b>シノプティコン</b>という考え方も出てきている(芸能人の不倫を国民が総叩きにするようなイメージ)｡強制だけでなく｢<b>欲望や承認</b>｣を媒介に自発的な自己規律を促す仕組みもでてきている｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),47-48p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">制度の偶発性と抵抗の可能性</span></h3>
<p>フーコーは主人と奴隷の関係のように､服従関係が固定してしまっている｢支配関係｣をあまり評価していないようにみえる｡</p>
<p>例えばフーコーは｢<b>あらゆる社会関係を『自由と自由の間の戦略的ゲーム』に変換することは､</b><b>意味のある目標だ</b>｣と述べている｡固定的な支配関係を逆転できるような｢権力関係｣の中に自分を位置づけることが重要というわけだ｡規律･訓練の技術が高度であればあるほど､われわれの身体を内側から支配し､ある制度をあたりまえだと思わせ､服従を促すのである(しかも<b>服従をあたかも自由な選択だと思わせる</b>)｡</p>
<p>親のいいなり､教師のいいなり､上司のいいなりになることもときには(ほとんどの場合といってもいいが)必要である(ある社会で偶発的に正常だとみなされていることをこなすということでもある)｡支配関係が全て悪であり､抵抗するべきであるといっているわけではない｡</p>
<p>しかしそれを｢あたりまえ｣と素朴に呑み込むのではなく(われわれはそれを服従とすら意識していないことが多いが)､それらは偶発的な関係であり､逆転も可能な関係である｢<b>戦略ゲーム</b>｣として捉え直すことが重要だという話だ｡世の中にはさまざまな固定化した制度や関係があり､かならずしもよい結果を生んでいるとは限らない｡単なる奴隷ではなく､変革の可能性をもった主体であるという点が重要だと感じた｡</p>
<p>たとえば選挙制度がある限り､与党と野党の立場は入れ替わりうるのである(抵抗可能性があるからこそ､自分勝手ではなく柔軟な政策を促せるのである)｡いじめっこに｢こいつは強く抵抗するかもしれない｣と自覚させることで､事態は好転することもあるかもしれない｡｢<b>開かれることの重要性</b>｣ともいえる｡</p>
<p>とはいえ､｢なにが､どういう根拠で悪であり､変革するべきなのか｣という正当性を誰がどのように判断するのかが問題となる｡｢<b>それがいいとはかぎらない､悪いともかぎらない､ただし固定的なあり方はよくない､柔軟性や流動性はいい</b>｣と言っているだけではフワフワして説得力がない｡</p>
<p>とはいえ､我々を<b>不安</b>にさせ､｢<b>ものごとを考えるきっかけ</b>｣にはなる｡フーコーは晩期に『性の歴史』などで生存の美学などを通して抵抗可能性を提示しようとしたらしいが､今回は扱いきれないのでこのあたりで終わることにする｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,107p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc29">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc30">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc31">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/466jk6T">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</a></p>
<h4><span id="toc32">「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4fVtwmj"> 「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</a></p>
<h4><span id="toc33">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/45Q1qnA">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</a></p>
<h3><span id="toc34">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc35">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc36">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc37">新睦人「社会学のあゆみ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LG8hpn">新睦人「社会学のあゆみ」</a></p>
<h4><span id="toc38">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00IR44T26/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00IR44T26&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=f2712c443f380f792438b51627b4e2de" target="_blank">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる！</a></p>
<h4><span id="toc39">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4880593508/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4880593508&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=009f3e2b26ad145fcf5b5b9af985ac34" target="_blank">社会学 第五版</a></p>
<h4><span id="toc40">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc41">クロニクル社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641120412/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641120412&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=70dbea010ff34843c3a086a108837a11" target="_blank">クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)</a></p>
<h4><span id="toc42">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
<h3><span id="toc43">参考論文</span></h3>
<p>･藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018)[<a href="https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/6768601/15_p047.pdf">URL</a>]<br />
&gt;フーコーの著作の要約的な文章で助かった｡説明も平易である｡論文というより､ノートのように感じた｡</p>
<p>･近藤哲郎｢フーコーにおける権力分析のパラダイム 『監獄の誕生』 の方法と論理｣(1990)[<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/34/3/34_39/_article/-char/ja/">URL</a>]<br />
&gt;説明は平易ではないが､フーコーの｢目的｣や｢方法｣に関して述べられていて面白かった｡今度じっくりと精読してみたい｡</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>【応用哲学第五回】フッサールの現象学における「カテゴリー的直観」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/02/16/husserl-5/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2024/02/16/husserl-5/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 16 Feb 2024 00:31:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[フッサールの現象学におけるカテゴリー的直観とはなにかについて説明している記事です｡]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-3" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-3">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">フッサールのプロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a></li></ol></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">認識</a><ol><li><a href="#toc6" tabindex="0">前置き</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">認識とは､意味</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">心理学主義と論理学主義とは､意味</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">心理学主義の誤り</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">論理学主義の誤り</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">フッサールの考えの変遷</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">認識の主観的条件と客観的条件</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">認識が満たす必要のある主観的条件とは</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">認識が満たす必要のある客観的条件とは</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">主観的条件に取り組むことは一種の心理学主義ではないのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">志向の充実化</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">志向の充実化とは､意味</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">物理的表現現出とはなにか､意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">事態の充実は可能か</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">志向の充実化の例</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">なぜ感性的直観以外の直観作用が必要とされるのか</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">追記:意義志向と意義充実の合致において､合致されているものは同じものなのか</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">カテゴリー的直観</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">直観とはなにか､意味</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">作用質料(志向的質料)についておさらい</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">カントとフッサールの直観に対する考え方の違いとは</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">感性的直観とはなにか､意味</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">補論:「がある」について</a></li></ol></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">カテゴリー的直観とは</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">カテゴリー的形式とは</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">カテゴリーという言葉の由来について</a></li></ol></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">名辞的作用と命題的作用</a><ol><li><a href="#toc33" tabindex="0">名辞的作用とはなにか､意味</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">命題的作用とはなにか､意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">カテゴリー的分節化とは</a><ol><li><a href="#toc36" tabindex="0">【第一の作用】</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">【第二の作用】</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">【第三の作用】</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">補足内容:現出学的意味概念と現象学的意味概念</a></li></ol></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">綜合的な作用とイデア的な作用</a><ol><li><a href="#toc41" tabindex="0">綜合的な作用とはなにか､意味</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">補論:アリストテレスの形相と質料</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">イデア的作用とはなにか､意味</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">原初的場面への遡示</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">想像作用とはなにか､意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">補論:「志向的質料」と「対象的契機」の違い</a><ol><li><a href="#toc47" tabindex="0">「志向的質料」とはいったいなにかがいまいちわからない問題</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">何らかの一般的な意味とは</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">補論:「志向的質料」と「対象」の混同について</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">「何らかの一般的な意味」という表現はややこしい</a></li></ol></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">【修正】追記:「知覚的意味」とはいったいなにか､私がよく理解していない問題</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">結論</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">時系列</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">先述定的意味とはどういう意味なのか問題</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">述定的分節化の分類､解釈の分類問題</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">志向的内容と実的内容の区別の問題</a></li></ol></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">言語的意味という言葉のややこしさ</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">カテゴリー的代表象</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">カテゴリー的代表象とは､意味</a><ol><li><a href="#toc60" tabindex="0">心的紐帯とは､意味</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">「対象的契機」と「志向的対象」の違い</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">「基づけている作用同士の質料を結合するもの」とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">カテゴリー的代表象がなぜ必要なのか</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">【補論】命題と事態の違い</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">カテゴリー的代表象の問題点</a><ol><li><a href="#toc66" tabindex="0">カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していない</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">カテゴリー的代表象は反省によってはうまく見いだせない問題</a></li></ol></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">次回の予定</a></li></ol></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc70" tabindex="0">今回の参考になる文献</a><ol><li><a href="#toc71" tabindex="0">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</a></li></ol></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc73" tabindex="0">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">谷徹「これが現象学だ」</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc78" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc79" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc80" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc81" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc82" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc83" tabindex="0">参考論文リスト</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<p><strong>・この記事の「概要・要約」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/xufrY6p4xDc" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">フッサールのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2876" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg" alt="" width="268" height="372" /></a>エトムント・フッサール(1859-1938)はオーストリア出身のドイツ人。哲学者であり数学者。主な著作は『論理学研究』(1900-1901)、『イデーン』(1913)、『内的時間意識の現象学』(1928)、『デカルト的省察』(1931)など。</p>
<p>あらゆる学問の基礎づけとなる本質学としての現象学を提唱した。現象学は２０世紀哲学の新たな流れとなり、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティなどに影響を与えている。社会学ではアルフレッド・シュッツに影響を与えている。</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/">【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/04/25/husserl-3/">【応用哲学第三回】フッサールの現象学における「射影(射映)」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/02/11/husserl-4/">【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</a></p>
<p>今回の記事は前回の記事を前提に説明していくので、こちらを先に見ておくと理解がしやすくなります。</p>
<h2><span id="toc5">認識</span></h2>
<h3><span id="toc6">前置き</span></h3>
<p>前回､感性的直観とその代表象を主に扱った｡今回はその後半として､カテゴリー的直観とカテゴリー的代表象を扱う｡前回述べたように､代表象作用(統握作用)を扱う理由はノエシス・ノエマを理解するためである｡</p>
<p>カテゴリー的直観は主に『論理学研究』で主張され､『イデーンⅠ』における本質直観及び形相的還元の先駆とされている｡</p>
<p>カテゴリー的直観と本質直観はほとんど同じ意味合いだが､完全に同義ではない｡たとえば『論理学研究』における「統握意味」は『イデーンⅠ』ではノエマ的意味と言われるが､異常なほどの意味の拡張がされている(例えば意味は命題であるなどとも言われる)｡したがって､カテゴリー的直観と本質直観の違いについても扱う必要がある｡</p>
<p>しかしすべてを扱っていくと動画が長くなってしまうので分割することにする｡</p>
<p>また､形相的還元を本格的に理解しようとするならば､超越論的還元を深く理解する必要がある(もっといえば､本来は他の全ての現象学の概念を理解する必要がある)｡そのため､本質直観と形相的還元を扱った後､超越論的還元を主題的に扱う予定である｡</p>
<p>今回はカテゴリー的直観だけではなく､認識について軽く触れることにする｡</p>
<p>本来ならば「<b>真理</b>」あるいは「<b>明証性</b>」と共に別の動画で主題的に扱うような内容だが､しかしカテゴリー的直観と密接に関連しているので少しだけでも触れることにする｡「なぜ､ある概念を学ぶ必要があるのか」という文脈とセットで理解しないと､その概念を学ぶ意義が薄れてしまう｡つまり､常に全体と部分を結びつけて理解を進める必要がある｡</p>
<p>現象学の学習は全体と部分を往復するような作業の連続であり､全体を理解するたびに部分の理解が変わっていく｡もうこれで部分は理解したと思った次の瞬間､その理解は不十分であるということに気づく｡</p>
<p>水泳で前に進んでいるかどうかすらわからないような段階から､進んでいるかどうかは別として「前」がわかる段階へと至れば初学者を抜けられるのだと思う｡「それ(純粋意識)」を理解したい､というような「それ」がわかれば､前がわかる｡</p>
<p>しかし「それ」を理解するのは一苦労である｡フッサールさえ「それ」を言語化することが困難だと述べている｡</p>
<p>それでも「前」が分かると泳ぐのは面白い｡同時に､「前」の理解が進むたびに､深く深く掘り下げるたびに､「前」があるかどうかすら再びわからなくなるのだから､やはり現象学を学ぶ人は常に溺れている感覚になるのではないだろうか｡現前と不現前の反復である｡上級者は一回溺れきった上で､そこから新しい哲学をはじめるのだろう｡</p>
<h3><span id="toc7">認識とは､意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認識</strong></span>：</big>意義志向が充実化という形で直観と同一することが体験されること｡</p>
</div>
<p>言い換えれば､「思念されるものと､直観的に与えられているものそれ自体との一致」が認識である｡端的に言えば「<b>志向の充実化</b>」である｡『論理学研究』において主張された｡完全に一致した場合は真理が得られているといえるのであり､その一致具合が「<b>明証性</b>」と関わっている｡たとえば完全に一致した場合は「<b>十全的明証性</b>」であり､そうでない場合は「<b>不十全的明証性</b>」である｡</p>
<p>たとえば「隣の部屋にリンゴがある」という文字が紙に書いてあるとする｡口に出したり頭の中で考えて主張したりしてみてもいい｡そして我々はこの文字､表現を､そしてこの表現が指示している事態を､意味を理解することができる｡</p>
<p>たとえばこのリンゴ(対象)を赤いリンゴ(意味)として､あるいは青いリンゴ(意味)として解釈､統握して志向するかもしれない｡その対象が実際にあるかどうか､実際(<b>現実</b>)に赤いかどうかはこの時点ではわからない｡実際に､隣の部屋に行って､目で見て､有り有りとした直観が私に与えられることによって､そうした空虚的な志向が充実されるのである｡</p>
<p>認識を言い換えれば「<b>知る</b>」ということである｡なお､直観は「<b>見る</b>」という言葉で多義的に表現されることがある(視覚だけではなく､触覚などを含めた多義的な用語)｡知るためには見る必要があるというわけである｡</p>
<p>何も見たことがない場合は認識は不可能である｡「読書だけで何かを知ることができる」と一般的には言うかもしれない｡例えばアメリカには自由の女神があると書かれていれば､実際に見なくても知った気分になる｡</p>
<p>しかし､本で書かれた内容は誰かが「見た」ことを前提としている以上､<b>起源</b>､<b>歴史</b>､<b>痕跡</b>､<b>系列</b>がある｡誰も自由の女神を見たことがないと思っていては我々はそれを知った気分になれないだろう｡ピタゴラスの定理ですら､その当のピタゴラスは見ることを土台として本質を知ったのだといえる｡そのものを見ることができそうにないブラックホールも､なんらかのデータ､たとえば周りの星の動きを「見る」ことによってその存在が推論されたものだと言える｡</p>
<blockquote>
<p>「例で示した知覚志向と表意志向の相互関係は「志向－充実」の関係を保持しており、両者が時問的ずれをもって現われる場合にその構造はより明らかになる。すなわち、始めは単に記号として機能しているにすぎない表現に、あとから直観が付け加わる場合がそれである。例えば「この紙は白い」という表現を意味志向において単に表意的に理解することができる。しかる後に実際に紙を見て、それがまさに自いことを知覚的に直観してその意味を対象的に認識するのである。単に志向された意味が、直観によって充実される。まず最初に言表を理解している場合、意味志向は遂行されているが、しかし何かが認識されているわけではない。意味は単に思念されているだけである。その意味に対応する直観が付け加わることによって充実化意識が体験され、認識が成立する。それゆえ対象の認識と意味志向の充実とは、「同一の状況を異なる視点から述べた」ものにすぎない。空虚な表意と直観との相違は感覚与件の有無に基づき、それが充実を与えるのである。<br />
ここで注意しなければならないことは、志向された意味と充実された意味とが同一であるということである。表意と直観の一致である充実化統一、すなわち意味志向が充実化という形で直観と同一することが体験されるのである。そしてこの同一化的合致の体験が認識と言われる。単に思考された対象が、いまはまさにそのように規定されたものとして直観されるということを体験するということと、直観作用の志向的本質が表現作用の意味的本質に適合するということは、同じ事象の別の表現にしかすぎないのである。」<br />
鈴木康文「フッサールにおける直観の可能性について」,90P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc8">心理学主義と論理学主義とは､意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>心理学主義(心理主義)</strong></span>：</big>・心理学が対象とする「心(主観)」の研究によって､論理学などあらゆる学的営み(客観)を基礎づけようと考える立場｡心理学によって発見される人間の心理構造や心理作用の規則性によって数学や論理学を基礎づけようとする考え方｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>論理学主義</strong></span>：</big>・「心(主観)」とは独立して「真理(客観)」が存在すると考える立場｡論理学(たとえばフレーゲは数学を論理学の一種と見なしている)が諸学問を基礎づけるという考え方｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>・心理学主義の定義の参考<br />
「ここで心理学主義とは､心理学が対象とする『心』の研究によって､数学をはじめとするあらゆる学的営みを基礎づけようとする考え方である｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,43P</p>
<p>「こうした心理学によって発見される人間の心理構造や心理作用の規則性によって数学や論理学を基礎づけようとする考え方が､『心理(学)主義』である…｡」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,73p</p>
<p>・論理学主義の定義の参考</p>
<p>「近代の自然科学は数学に依拠して展開した｡しかし､(数学をそれほど必要としない)精神科学を含めて言えば､諸学問/諸科学は論理学に依拠しているということになるだろう｡フレーゲのように数学を論理学の一部だとみなしてもよいだろうが､そこまで強く主張しないにしても､数学と論理学が諸学問/諸科学の基礎学だ､とは言えるだろう｡」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,72p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">心理学主義の誤り</span></h4>
<p>例えば1+1=2であるという事態は､いつ・誰が・どこでそれを発見するか､考えるかに関わらず､常に真(不変)である｡</p>
<p>変化するのは「<b>認識対象</b>(客観)」ではなく､「<b>認識作用</b>(主観)」である｡認識作用は時間的経過の中で始まりと終わりがある心理的な過程であるが､しかし認識対象は時間位置をもたない｡常に「ある」であり､1+1=2で「あった」とはならない｡</p>
<p>本質的､必然的ないわゆる「<b>アプリオリ</b>な存在」は事実的､偶然的ないわゆる「<b>アポステリオリ</b>な存在」に還元することはできない｡</p>
<p>偶然的なものによって必然的なものを基礎づける試みは､<b>カテゴリーミステイク</b>(範疇誤認)を犯してしまっている｡従って､心理学の一部に論理学があるのではないし､心理学によって論理学を基礎付けることは出来ない｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:もし心理学主義の主張を認めると､蛇には蛇の心理作用があり､人間には人間の心理作用があるので､それぞれの心理学というものが成り立ち､それゆえにそれぞれの論理学というものが成り立ってしまう｡また､人間の中でも､田中さんと鈴木さんには違う心理作用があるとか､ある国の人々､ある文化では違う心理作用があるといったようなことがありうる｡そうしてしまうと､学問における真理は普遍的なものではなく､相対的な､個別具体的な､アドホックなものになってしまう｡しかし､１+１=２であるというような数学的真理は特殊的な真理ではなく､普遍的な真理ではないだろうか｡各人各様､各人真理作用各様な真理にすぎないという主張を受け入れることは難しい｡経験的・個別的・偶然的なものから理念的・普遍的・必然的なものを基礎付けるのはおかしい｡</p>
<blockquote>
<p>「しかし､この心理主義には大きな問題が隠れていた｡心理主義的に考えると､数学や論理学は､人間の心理構造や心理作用の規則性といったものに基礎をもつということになるだろう｡しかし､そうすると､人間以外の生物にとっては別の数学や論理学が妥当するのだろうか｡あるいは､人間のなかでも､いささか異なった心理構造をもった人にとっては別の数学や論理学は妥当するのだろうか｡この方向で考えると､結局､生物それぞれ､各人それぞれに､数学や論理学があるということになる｡ピタゴラスの定理はもちろん､『３+３は６である』というのも､人によっては(あるいは別の時代の人や別の文化の人にとっては)真理ではないということになるかもしれない｡もっと極端には､私においてすら､私がこの時点で認めている数学的真理も､私の心理作用の働き方が変わったときには､そうでなくなるかもしれない｡このように見てくると､心理主義の問題がよく見えてくるだろう｡数学的真理は､古代でも現代でも､東洋でも西洋でも､あなたにとっても私にとっても､いつでも普遍妥当的なのではないか｡」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,73ー74p</p>
<p>「つまり､この批判は､一方で､心理学主義が『心』という(そのままでは)経験的・個別的・偶然的であらざるをえないものによって『数』をはじめとする理念的・普遍的・必然的なものを基礎づけようとする『カテゴリーミステイク』を犯してしまっている点を突いているかぎりで､『もっとも』なのである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,42P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc10">論理学主義の誤り</span></h4>
<p>たしかに認識対象は認識作用に還元することはできない｡なぜなら､客観的なものは主観的なものを<b>超越</b>している何かだからである｡</p>
<p>しかし､認識対象､たとえば客観的真理(認識対象)は<b>主観的作用(認識作用)の中で知られる</b>というのも事実である｡人間は主観の外に出られない､主観を通して客観を構成する､客観を認識するのだから､主観の外に､独立して客観があるというのも臆見なのではないか､という問題が生じる｡</p>
<p>アプリオリなものがアポステリオリなものとは独立に成り立つことを認めてしまっている論理学主義はおかしい｡たとえばアプリオリな「数」が独立に存在しているという承認自体が､すでにアポステリオリな「心」と関わってしまっているし､<strong><span style="color: #0000ff;">関わらざるをえない</span></strong>｡</p>
<p>修正:(誤)たとえばアポステリオリな「数」が独立に存在している→(正)<strong>アプリオリ</strong>な「数」が独立に存在している(2024/02/18)</p>
<p>つまり､「<b>パラドックス</b>」に直面してしまうのである｡</p>
<p>そうした意味で､論理学主義には問題があり､この点では心理学主義に分がある｡</p>
<p>一方で､アプリオリなものがアポステリオリなものと関わることは偶然にすぎないのか､二次的なものなのか｡もしそうした関わり合いが<strong><span style="color: #0000ff;">本質だとすれば</span></strong>､どういう<b>関係</b>にあり､どういう<b>条件</b>が必要なのかを心理学主義は解明できてない｡もしそうした解明をするならば､<span style="background-color: #ffff99;">どうした方法論が必要になるか</span>と現象学は考えていく｡そして､超越論的還元(エポケー+現象学的反省)や形相的還元という特殊な態度､方法が必要だと考えていくのである｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:もし何の主観的作用が可能ではないような世界を想像してみる｡極端に言えば､全員が赤ん坊の世界である｡そんな世界では､そもそも「客観的真理」というものを知ることはできない｡もし知ることがあれば､それが我々が構成したものにすぎないのか､我々の構成とは独立して存在しているのか､と悩むこともできるかもしれない｡しかし一度も知られない､構成されない場合､そうした悩みすら不可能である｡そもそもそれを言語化することも､学問的に認識することも可能ではない｡１+１=２である､と認識することも出来ない｡もしかしたらそういう「客観的真理」なるものがあるかもしれないが､出会わないのであり､出会えない｡もし一度でも出会えれば､人間はそれが心理的作用とは独立に存在するのだ､と思い､信じることもできる｡しかし出会えなければ､そんなことすら思えないのである｡蛇からすれば､１+１=２であるという客観的真理をおそらく知ることはないだろうし､それが我々が主観と独立して存在するかという問いすら発することもないだろう｡そもそも主観がなければ､客観を定義することすら困難である｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:ポイントは､論理的・理念的なものが「心」と取り結ぶ関係への問いである｡言い換えれば､現出物(理念的対象)は現出を突破して､現出からの飛躍において構成され｡志向される､見出される､知られるというわけである｡また別の言い方をすれば､我々は直接経験的なものから理念的なものを抽出､抽象するのである｡どういう構造で飛躍するのか､どうして飛躍が可能なのかが難問というわけである(超越の謎問題)｡何段階もの突破があるというわけである｡数学的なものや論理学的なものは､直観的・経験的な基礎をそれでももってしまっているる心理学によって論理学は基礎づけられないが､しかしそれでもなお､論理学には心理学的な基礎をもつという､一見矛盾しているようなイメージである｡この後者の､「直観的・(直接)経験的な基礎」の捉え方次第では､結局は心理学主義になってしまう｡直接的経験､とりわけ「志向性」とはどういう構造をもつのかを捉えることが､「直観的・(直接)経験的な基礎」を捉えることとつながってくる｡ポイントは､たまたまある人間にのみ備わっている特殊な「直観的・(直接)経験的な基礎」を捉えることにではなく､あらゆる人間に必然的に備わっている基礎を探し出す点にある｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:たとえば数学では､ある任意の与えられた数に１を付け加えるならば､新しい数が生じると考える｡この操作は誰がやっても､どんな時にでも妥当する｡つまり､そうした結果はアプリオリに､必然的に保証されるのである｡しかし､すべての数を験すことは不可能である｡なぜなら､人間は有限の存在だからである｡言い換えれば､我々の心的作用は無限ではない｡それにもかかわらず､この数学の本質は無限に当てはまるように思える｡しかし､無限に当てはまるように思えるということと､実際に無限であるということは別である｡なぜならば､我々は全ての数を実際に確かめたわけではないからである｡心理学主義に留まることはできないという立場と､それにもかかわらず心理学主義に留まってしまうような､両義的な立場を考える際に参考になる｡いわば､有限な作用をどういうわけか突破して､超越して､無限な対象を我々は志向しているのである｡どうしてそのような超越が､突破が可能になるのか(有限から無限の飛躍問題)｡それを説明できないことには心理学主義に陥ってしまう｡紀平さんの言葉で言えば､もし作用が有限であるならば､「潜在的無限(可能性としての無限といったところだろうか)」や「有限の数」という対象しか成立しない｡もし作用が無限であるならば､「無限」は成立する｡しかしわれれの作用は無限ではない｡もし「無限」という対象があるとすれば､我々の有限な作用からではなく､なにか別の作用が必要になるのではないか､ということになってしまう｡フレーゲのような第三の領域的なものだろうか｡</p>
<blockquote>
<p>「しかし他方で､理念的・普遍的・必然的なものがその本質においては『心』という経験的・個別的・偶然的なものとは独立に成り立つことをあらかじめ認めてしまっている点で､『やはりおかしい』のである｡『数』の独立性のこの承認自体が､何らかの仕方ですでに『心』と関わってしまっている｡関わらざるをえないことの意味を､この批判は十分に考え抜いてはいないからである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,42P</p>
<p>・キーワード:関係<br />
「皆さんにはすでにお分かりであろう｡フッサールは決して単純に論理学主義にくら替えしたわけではなかったのである｡しかし論理学主義の主張ならびにその心理学主義批判の中には､彼自身も全面的に賛同する正しさがある｡とりわけ『プロレゴーメナ』で､彼はそれを明示したのである｡だが､心理学主義が一から十まで誤っていたわけでもないのである｡とりわけ､彼の当初からの疑問である&lt;『数』のような理念的・普遍的なものが､いかにして『心』という経験的・個別的なものにおいて捉えられるのか&gt;に答えるためには､論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお､その論理的・理念的なものが『心』と取り結ぶ関係への問いが残っているのである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,50P</p>
<p>・キーワード:パラドクス</p>
<p>「『序説』の中心的で積極的な課題は､客観性と学問的認識が理念性を前提とするということを示すことだった｡しかしながら､たとえ学問的客観性を論理学の心理学的基礎と一致させることが不可能であるとしても､なお客観的真理が認識する主観的作用の中で知られるという明白なパラドクスに直面する｡そして､フッサールが指摘するように､認識の可能性の一層実質的な理解を獲得しようと望むならば､客観的理念性と主観的作用のこの関係が探求され解明されなければならない｡どのように理念性が認識主体によって正当化され妥当とされうのかを規定する必要がある｡」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,14P<br />
「簡潔にこれまでの説明を要約することにしよう｡フッサールは理念性を心理的過程に還元する心理主義的試みを批判する｡適切な分析は認識作用と認識対象(この場合は論理学の法則)の間の還元不可能な差異を示す｡この差異は保持されなければならない｡もっとも､この二つのものの間の関連､その十全的分析が空虚な要請で済ますことができなければ､踏査しなければならない関連は存続するのだが､理念性を理解したければ､最終的に理念性が与えられる意識作用に立ち戻らねばならない｡しかしながら､この主観性へと立ち戻ることは心理主義への逆戻りではない｡何よりもまず､対象を作用へと還元する試みなどはなく､ただ対象を作用との関係あるいは相関関係において理解する試みがあるだけである｡第二に､フッサールは､このような作用のアプリオリな構造を理解し記述したいのである｡彼は作用の生物学的発生や神経学的基礎を露わにしようとする自然主義的説明には関心がない｡」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,16P</p>
<p>「ここでいわれる明瞭な原理とは、「付け加える（plus）」、すなわち「そして」という操作である。例えばある任意の与えられた数に1を付け加えるならば、新しい数が生じる。この操作は無限に継続可能であり、それによって無限の数を形成することができる。この構成原理が無限集合においては非常に重要であり、この原理に従って新たな数を産出する限り、その確実性はアプリオリに保証されるのである。しかしそうすると、ここでいわれている無限ということは、有限の延長線上にある無限、閉じることのない無限であって、つまりは潜在的無限であるということになる。しかしこのようにいわれる無限が「認識の必然的な制限を越え」た「本質的に新たな内容」ということができるであろうか。この問いに答えなければならないのであるが、フッサール自身は、この無限集合を「想像的な概念」（XII，S．221）であって、「普通は妥当しない」（ebd．）として自らの考察からは排除してしまっている。しかしこの無限集合に対するフッサールの態度のうちにこそ、彼が心理学主義から訣別せざるをえなくなるような地点をみいだすこともできるのである。先にも述べたが、有限なわたしたちは無隈の数を数えることはできない。このことは同時に、もしも無限というものが存在するとするならば、それは主観的な作用とは全く別の種類のものとして存在しなければならないということを意味している。逆に言うならば、この無限を認めえないということこそ、フシサールが作用とそれによって把握される対象との区別が十分にできていないということの誰となるであろう。すなわち、数え、そしてそれを反省することによって数が成立するという前提のもとでは、無限を認めるならば、心的作用も無限でなければならないし、作用が有限であるならば、有限の数しか、あるいはせいぜい潜在的無限しか成立しえないからである。」<br />
紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,95p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">フッサールの考えの変遷</span></h4>
<p>1:フッサールの『算術の哲学』(1891)という著作が心理学主義的だとフレーゲに批判された｡</p>
<p>2:フッサールは『論理学研究』(1900)第一巻『純粋論理学への序説(プロレゴーメナ)』においてフレーゲの批判を認め､心理学主義を徹底的に批判した｡</p>
<p>3:フッサールの『論理学研究』(1901)第二巻『現象学と認識論のための諸研究』では打って変わって､心理学主義的な傾向が見えた｡人々にはそれが心理学主義への逆戻りに見えた｡</p>
<p>4:フッサールは『論理学研究』が論理的なものと心的なものとの関係を十分に解明することができず､両者は「<b>分裂したままにとどまっている</b>」とナトルプに批判された｡</p>
<p>5:『イデーンⅠ』において､論理学主義的でも心理学主義的でもない地点である「<b>純粋意識</b>」というアイデアを取り入れるようになる｡そしてそれが一体なにものなのかという分析が､どうやったら捉えることができるのかという分析がはじまっていくのである｡つまり､論理学主義か心理学主義かという二者択一を超えて､新しい主義が選択されるのである｡いわば､超越論的論理学主義ないし超越論的心理学主義とでもいうべきものである｡</p>
<p>そしてその主要な方法が「現象学的還元」と「形相的還元」である｡また､そうした方法を通じて<b>ノエシスとノエマのアプリオリな相関関係</b>を明らかにすること､またその条件を明らかにすることである｡</p>
<p>6:ただし､『イデーンⅠ』では「純粋意識」が一体何ものかについての立ち入った考察が行われていない｡他の著作で掘り下げられていくことになる｡そして特に掘り下げで重要な著作が『内的時間意識の研究』である｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:フレーゲの論理学主義とフッサールの違いは重要になる｡フレーゲが論理的なものは直観や経験と無関係に､それ自体で独立していると考えたのに対して､フッサールは論理的なものは直観的・経験的な基礎をもつものと考えているという点である｡ただし､こうした直観や経験､いわゆる「志向的体験」を正しく捉えることが出来ないと､心理学主義に陥ってしまうという｡それでは､「志向的体験」を正しく捉えるとはどういうことなのかが問題となってくる｡どういう「方法論」や「態度」においてそれは可能になるのかということである｡そしてその主要な方法論が後の「現象学的還元」ということである｡『論理学研究』時点ではまだ確立していない｡</p>
<blockquote>
<p>「数学の基礎を追い求めていたフッサールは､当時の新傾向であった心理主義にかなり惑わされはしたが､しかし､そもそも数学者として出発した者として､結局のところ､数学的真理が『各人各様』(あるいは各心理作用各様)だというところに向かってしまう考え方を受け入れることはできなかった｡そして､その後､『プロレゴーメナ』(序説)と名付けられた一九〇〇年の『論理学研究Ⅰ』で､フッサールは(ある意味で過剰なまでの自己批判を込めて)強烈な心理主義批判を展開し､論理学を心理学から完全に切り離して『純粋論理学』として展開すべきことを主張した｡だが､当時､フレーゲも心理主義に強く反対していた｡フレーゲは､論理学的なものは､直観や経験などとは無関係に､それ自体で独立した領分を形成している､とみなした｡論理学的なものは言語に関わるが､フレーゲの論理学は､自然的な日常言語からさえも解放されねばならないほど(そのために彼は『概念技法』を編み出した)､直観や経験から純化されたものである｡プロレゴーメナ以後のフッサールは､数学や論理学がアプリオリな学問であることを認める｡アプリオリなものの擁護という点では､フッサールとフレーゲは近い｡しかし､両者には重要な違いがある｡フッサールでは､数学的なものや論理学的なものは――フレーゲの考え方とは違って――直観的・経験的な基礎をもつのである｡その基礎は直接経験=志向的体験なのである｡だが､この直接経験=志向的体験をどう捉えるか､あるいは､その本性はどういうものなのか､が問題なのである｡これを正しく捉えないと､心理主義に陥る｡」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,75-76p</p>
<p>「皆さんにはすでにお分かりであろう｡フッサールは決して単純に論理学主義にくら替えしたわけではなかったのである｡しかし論理学主義の主張ならびにその心理学主義批判の中には､彼自身も全面的に賛同する正しさがある｡とりわけ『プロレゴーメナ』で､彼はそれを明示したのである｡だが､心理学主義が一から十まで誤っていたわけでもないのである｡とりわけ､彼の当初からの疑問である&lt;『数』のような理念的・普遍的なものが､いかにして『心』という経験的・個別的なものにおいて捉えられるのか&gt;に答えるためには､論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお､その論理的・理念的なものが『心』と取り結ぶ関係への問いが残っているのである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,50P<br />
・論理学主義か心理学主義かという二者択一を破棄したという趣旨<br />
「私の見るところでは､フッサールは､心理学主義と論理学主義の二者択一を破棄する第三の途としてみずから切り拓いた超越論的現象学の拠って立つ次元が､はたして『純粋自我』と呼ばれるべきものであるかどうかについて､なお疑念を払拭することができないでいたのである｡より正確に言い直せば､みずからがいまや到達したはずのそれがいかなる次元であるかについて､自身もいまだ確信がもてなかったのである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,63P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">認識の主観的条件と客観的条件</span></h3>
<p>Q 認識が可能であるならば充たされなければならない条件とはなにか</p>
<p>A 主観的条件と客観的条件である</p>
<p>「すでに述べたように､心理主義を拒絶することと共にフッサールはまた､認識が可能であるならば充たされなければならない条件を特定しようとし､可能性の理念的でアプリオリな条件の二つの類型､すなわち客観的(論理的)条件と主観的(ノエシス的)条件を区別する｡」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,13-14P</p>
<h4><span id="toc13">認識が満たす必要のある主観的条件とは</span></h4>
<p>認識する主観が真理と虚偽､妥当性と非妥当性､事実と本質､明証と不条理を区別する能力をもっていなければ､客観的認識も学問的認識も可能ではない｡</p>
<p>真理であると認識するためには主観が必要になる｡端的に言えば､「認識作用」が必要ということ｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:では認識作用がそもそも可能になるためには､どういう条件が必要なのかと掘り下げていく｡そこではキネシステーゼや自我､時間といった条件が掘り下げられていくことになる｡このような事象内容をもたない本質に関わる論理学､とくに狭義の論理学を基礎付けるような論理学を「超越論的論理学(純粋論理学)」とフッサールは呼んでいる｡要するに､超越論的現象学が確立されることで､それに基づいた超越論的論理学が可能となり､さらにそれが超越論的ではない論理学を基づけるというわけだろう｡なお､このような超越論的論理学は､事象内容をもつような本質に関わる学問､つまり存在論(領域論､対象論)と区別する必要があることに注意する必要がある｡たとえば心理学や物理学は存在論である｡こうした事実学や本質学とった分類は次回深掘りする予定である｡</p>
<blockquote>
<p>・キーワード:主観的条件</p>
<p>「客観的条件は､あらゆる可能的な理論にとってのアプリオリな基礎を構成し､理論の概念そのものを犯すことなしには犯されることのない根本的な原理､構造､法則である｡ここでフッサールは整合性と無矛盾の要求について述べている｡しかしながら､もっと驚くべきことにフッサールはまた可能性のいわゆる<strong>ノエシス的</strong>条件に注意を向けるのである｡これは､実現された認識について主観的で語らねばならないならば､充たされない条件である｡もし､認識する主観が､真理と虚偽､妥当性と非妥当性､事実と本質､明証と不条理を区別する能力をもっていないならば､客観的認識も学問的認識もどちらも可能ではないだろう｡」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,13-14P</p>
<p>・キーワード:超越論的論理学</p>
<p>「しかしながら、フッサールにとっては、領域存在論は、事象内容をもった本質に関わるアプリオリな理論だった。しかも、事象内容をもった本質は重要な成分だが、しかし、すべてではない。論理学と諸学問の基礎づけのためには、事象内容をもたない形式的成分に関わるアプリオリな理論も必要である。いや、さらに、存在の構成理論、時間の構成理論、空間の構成理論、間主観性(他者)の構成理論といったものも同様に必要である。そして、これらはすべて、直接経験＝志向的体験の分析によって基礎づけられることになる。フッサールの目的にとっては、この分析のほうが、より重要だった。この分析は『超越論的論理学』と呼ばれるが…」<br />
谷徹「これが現象学だ」,103P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">認識が満たす必要のある客観的条件とは</span></h4>
<p>いわゆる論理的条件であり､例えば整合性と無矛盾の要求などが挙げらている｡</p>
<p>無意味なものは排除される｡たとえば「白いそして」のような文法的に有意味ではない言葉や､「丸い四角」など矛盾律に反するような言葉も排除される｡つまり､無意味の時点で真理は不可能とされる｡ちなみに､中立的な存在は真理に関わることが出来ないとされている(白雪姫が存在するかどうかなど)｡</p>
<p>たとえばリンゴが眼の前にあるかどうかの真理はある程度「認識作用」に明証性が左右されるが､しかし「丸い四角」が在るかどうかは形式的に排除されるのである｡</p>
<p>この客観的条件はいわゆる「形式命題論」といわれ､「形式存在論」と合わせて「純粋論理学」を形成するとされている｡</p>
<p>なお､「無意味」と「誤謬」は違うということに注意する必要がある｡1+1=3という事態が真であると思っていたが､よく考えれば違っていた､ということはありうる｡</p>
<p>このように考えていくと訂正不可能な本質､真理というものは厳密に言えば､もしかしたらないかもしれない｡たとえば量子力学ではAと同時に非Aのような事態が真とされている｡しかしフッサールは<b>訂正不可能な本質は理念(理想)的であり､無限の営みの先にあるものとして考えていたにすぎない</b>ことに注意する必要がある｡実際に辿り着けるかは別として､そうしたものが営みの先にあるという意識､責任感が重要という力点の置き方である｡この点はM・ウェーバーに似ているのかもしれない(ウェーバーはフッサールの書籍を読んでいる)｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:フッサール自身も､「<span style="color: #ff0000;"><strong>明証概念は誤りやその後の訂正を排除しない</strong></span>」と述べている｡また､真理は「統制的理念」であり､無限の努力においてのみ到達することのできる目標として捉えている｡また､フッサールが哲学をすることの動機は「倫理的動機づけ(絶対的自己責任における生のための倫理的努力)」と関連しているという｡ザハヴィの言葉で言えば「<span style="text-decoration: underline;"><strong><span style="color: #ff0000; text-decoration: underline;">フッサールにとって決定的なことは絶対的真理を所有することではなく､絶対的自己責任における生を生きようと試みることそのもの､すなわち思想と行動を可能な限り洞察に基礎付けるように試みることそのもの</span></strong></span>」である｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:狭義の論理学においては「言語とそこに現れている論理を扱う独立の学科」である｡そして広義の論理学では､さらに「諸学問の基礎付け」を役割があるという｡この基礎付けには形式論と存在論の二つが関わるとされている｡存在論とは対象論とも呼ばれ､「論理学的な表現が指し示している当のものについての理論」である｡この後者の存在論を含むゆえに､広義の論理学､新しい論理学だと言える｡また､真理の条件に関わるものを「最広義」の論理学の役割だという｡たとえば「無意味の排除や矛盾の排除」などは狭義の論理学だけでも可能だという｡いわゆる形式論理学における命題論を意味している｡命題論とは言語的な結合の仕方を考察する部門のことである｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:論理学は２つの条件に関わるといわれている｡(１)無意味を排除するという条件(形式命題論)｡(２)対象の意味領域を確定するという条件(形式存在論)｡</p>
<blockquote>
<p>・キーワード:形式命題論､誤謬､無意味</p>
<p>「形式命題論のレベルで無意味ではない言語表現が､実在的に存在する対象か理念的に存在する対象の充実した直観に対応する場合には､そしてこの場合にのみ､『真理』が可能になる｡無意味なものは､真理に関わることができない｡ただし注意していただきたいが､無意味ということは､誤謬ということではない｡誤謬とは､それまで真理だと思われていたが反証されたもののことである｡ところが､無意味は､そもそも､真理にも誤謬にも関わることが出来ない｡それは､真理以前そして誤謬以前に､排除されるべきものなのである｡こうした無意味を言語的なレベルで可能なかぎりあらかじめ排除しておくのが､形式命題論の役割である｡｡そして､この先行的排除を免れたものだけが､真理や誤謬という身分をもつことができる｡」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,91-92P</p>
<p>・キーワード:訂正可能性､失効可能性､概念的分析</p>
<p>「もちろん､フッサールはある受動的な凝視を通してありとあらゆる対象の本質への不可謬の洞察を獲得することができるとはけっして主張しないだろう｡反対に､形相的変更は過当な要求をする概念的分析であり､これは多くの場合に失効可能である｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,57p</p>
<p>・キーワード:責任,訂正可能性,絶対的真理,努力,無限の理念,共同体</p>
<p>「しかしながら､こうしたことにもかかわらず､フッサールを基礎づけ主義者と呼ぶことにとについては､少なくともその述語が伝統的認識論の意味で用いられるならば､まさに誤解を招くものがある｡フッサール自身が『形式論理学と超越論的論理学』の中で考察しているように､もっぱら絶対的に確実な真理に基づいている学問を確立する試みそのものが､最終的に学問の本性そのものについての誤解を伴っているものなのである｡第一章で指摘したように､フッサール自身は明証概念は誤りやその後の訂正を排除しない｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,100p</p>
<p>「私はすでに､フッサールは十全的で結論となる真理を統制的理念として､すなわち無限の努力においてのみ到達することができる目標として捉えていることを述べた｡それにもかかわらず､後の現象学者よりずっと広範に､フッサールは認識と客観性の条件にかかわる問いにかかわってきたということは正しい｡しかしながら､哲学することへのフッサールの動機に気づくべきである｡それはまずもって理論的な動機づけではなく､実践的な､あるいはもっと正確には､倫理的動機づけ――絶対的自己責任における生のための倫理的努力――である｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,101p</p>
<p>「この規範的な動機づけは､十全的基礎を成立させる試みが無限の理念であるということをはっきりと理解するときに､特に重要となる｡まさしく絶対的自己責任に対する要求こそが､絶対的明証性を探求する際に前へと駆り立てることができるのである｡別の言い方をすれば､フッサールにとって決定的なことは絶対的真理を<strong>所有すること</strong>ではなく､絶対的自己責任における生を生きようと<strong>試みること</strong>そのもの､すなわち思想と行動を可能な限り洞察に基礎づけるように試みることそのものである｡そして､フッサールがまだ公刊されていない原稿の一つで言明しているように､個人の自己責任はまた共同体に対する責任を伴うのである｡自己責任は他の主観との関係においてのみ十分に実現可能なのである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,102－103p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc15">主観的条件に取り組むことは一種の心理学主義ではないのか</span></h4>
<p>経験的心理学のような取り組み方で主観的条件を明らかにするわけではない｡主観的条件に取り組むが､しかし心理学主義的に取り組むわけではない｡</p>
<p>フッサールは「可能性の実在的条件あるいは因果的条件､事実的心理学的条件や神経学的条件」を明らかにしようとしているわけではなく､「<b>理念的条件</b>」に関心がある｡事実ではなく､本質に関心がある｡</p>
<p>「<span style="color: #0000ff;"><strong>認識が可能でなければならない場合にどんな主観も所有していなければならない能力</strong></span>」を明らかにすることにポイントがある｡具体的内容はそこまで重要ではない｡この「どんな主観も」という力点の置き方が重要であり､<strong><span style="text-decoration: underline;"><span style="color: #ff0000; text-decoration: underline;">ある特定の個人の心の中でどんなことが起こっているかということに力点があるわけではない</span></span></strong>｡また､それらの特定の個人の平均や傾向を明らかにしようとしているわけでもない｡</p>
<p>たとえばプロテスタントがカトリックより自殺率が高い､男より女のほうが包容力がある､日本人は勤勉だ､特定の状況では人間は狂気に陥る､学習効率が上がるというような「事実」や「事実的､蓋然的規則」､またどうしてそうした傾向､規則が生じるかといった特定の構造､因果関係に関心があるわけではない｡</p>
<p>フッサールはすべての人間に共通している意識の構造､必然的な本質に関心がある｡もちろん､経験的心理学や社会学が必要ではない､価値がないといっているのではなく､まずはそうした学問の土台となる現象学が優先であるという話である｡現象学は他の全ての学問を基礎づける学問であることを目指し､また他の学問の成果を前提としない､無前提の学問を目指しているのである｡</p>
<blockquote>
<p>「もし､認識する主観が､真理と虚偽､妥当性と非妥当性､事実と本質､明証と不条理を区別する能力をもっていないならば､客観的認識も学問的認識もどちらも可能ではないだろう｡このことがフッサールを一種の心理主義へと至らせないのかを尋ねたいという誘惑に駆られるかもしれないが､意識は､明らかに経験的心理学以外の学問分野によって探求することができるし､フッサールが強調するように､フッサールは可能性の実在的条件あるいは因果的条件にではなく､理念的本質に関心があるのである｡すなわち､フッサールのねらいは､ホモ・サピエンスの成員が現に事実上認識に到達することができる場合に充たされねばならない事実的心理学的条件あるいは神経学的条件を発見することにではなく､認識が可能でなければならない場合にどんな主観も(その経験的あるいは質料的構成にかかわらず)所有していなければならない能力を踏査することである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,13-14P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">志向の充実化</span></h3>
<p>意義志向とは前回学んだ通り､<b>言語的記号</b>を意味的に解釈することによって「<b>思念された対象</b>」への関係を実現する働きのことである｡表意的作用が代表例であり､理解的統握とも呼ばれていた｡「単に記号的な語の理解」とも言われることがある｡</p>
<p>言語記号は「私の前のこのリンゴ」や「吾輩の辞書に不可能はないの人」というように個的で具体的なものを指示する場合と､「リンゴは赤い食べ物である」というように理念的で普遍的なものを指示する場合がある｡</p>
<p>前者を<b>アポステリオリ</b>な対象､後者を<b>アプリオリ</b>な対象という｡実在的存在と理念的存在という区別でもいい｡どちらにせよ､表意作用単体では空虚的に､ただ思念されるだけであり､直観的な充実が伴っていない｡</p>
<p>「意義充実」とは感覚内容を意味的に解釈することによって、自らに固有の質料によって対象へと関わる作用のことであった｡</p>
<p>この「意義充実」は意味付与作用､意味充実作用とも呼ばれている｡</p>
<h4><span id="toc17">志向の充実化とは､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向の充実化</strong></span>：</big>「意義志向から意義充実化への移行体験」のこと｡</p>
</div>
<p>この移行の過程において､2つの作用が合致することにより､認識統一が形成されるという｡</p>
<p>つまり､空虚的に思念されるものにすぎなかった実在的ないし理念的対象が､充実されるのである｡なぜ表意的作用が「空虚」であるかというと､「感覚内容」がないからである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/10b8ec0a5e1c0e19d96d13c333442239.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3462" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/10b8ec0a5e1c0e19d96d13c333442239.png" alt="" width="741" height="307" /></a></p>
<p>簡単に図にするとこのようになる｡</p>
<blockquote>
<p>「第五研究・第六研究において、フッサールは意義志向や意義充実化の作用を志向的体験一般の構造のうちに位置づけることで、志向の充実化と呼ばれる事態の具体的な内実を明らかにしようと試みる。そこでは、志向の充実化は意義志向から意義充実化への「移行体験」(ⅩⅨ/2,582)であるといわれる。そして、この移行のプロセスにおいて両作用は「合致」して「認識統一」(ibid.)を形成し得るとされる。それが「合致」であるためには、両作用に共通の要素が存在していなければならず、そしてそれが「移行」体験であるためには、両作用の間には何らかの差異が存在していなければならない。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」､5P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">物理的表現現出とはなにか､意味</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/old-letters-436501_640-e1707421330183.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3415" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/old-letters-436501_640-e1707421330183.jpg" alt="" width="240" height="160" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>物理的表現現出</strong></span>：</big>・何らかの色や形態を持つ物理的対象を構成する作用</p>
</div>
<p>リンゴを今まさに見ていないときにリンゴの感覚内容は私に与えられていない｡つまり､空虚的にあたえられているにすぎず､実的に与えられていないのである｡</p>
<p>もちろん文字を読むためにはなんらかのインクや染みといった物理的知覚を伴い､そうした意味での感覚内容はある｡「物理的表現現出」と呼ばれている｡</p>
<p>しかしそうした物理的表現現出が固有に意味を形成するわけではない｡</p>
<p>黒インクでも青インクでも､チョークの粉でも「リンゴ」という文字を表すことができるのであり､そうした物理的なものに対応する感覚は､意義志向の対象とは何の関わりももたないという｡</p>
<p>黒インク､青インクだからといった理由でリンゴという文字を見てリンゴという対象へ空虚的に志向できるわけではないのである｡</p>
<p>また､表意的作用はたしかに知覚作用に基づけられているが､しかしどういう意味・対象を志向するかについて知覚作用は表意的作用にとって非本質的である｡充実されなくても空虚的な志向は可能だからである｡つまり､実在するリンゴがあるかどうか､そうした実在するリンゴを知覚するかどうかは表意的作用にとっては非本質的であるという話｡</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは表現を有意味な記号として定義する。言語は表現の典型例である。例えば私が植物事典を読んで、そこに〈菜の花は黄色い〉と書かれていたとする。私はそこに書かれた黒い文字を見ているが、それを単にインクの染みとして捉えているのではなく、有意味な記号として捉え、何ごとかを理解している。つまり、ここには二つの作用体験がある。一つは「物理的表現現出」の作用であり、これは何らかの色や形態を持つ物理的対象を構成する作用である。そして、もう一つの作用が意義志向である。意義志向とは、第一研究でのフッサールの規定によれば、言語表現の「理解」のことに他ならない。そして、私たちはこの両作用の統一の中で、何らかの対象性（事態）へと関係しているとされる。しかし、もし私が菜の花を実際に見たことはないとすれば、その意義志向における対象性への関係は空虚なものである。「対象に対する表現の関係が単なる意義志向にとどまる限り、その関係はまだ実現（realisieren）されていない」(ibid.,44)。そして、「最初は空虚な．．．意義志向が充実化されることによって、対象的関係が実現される」(ibid.)。こうして、フッサールは表現作用の分析を通じて、物理的表現現出、意義志向、意義充実化という三つの契機を取り出すのである。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」,５P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">事態の充実は可能か</span></h3>
<p>問題は､意義志向から意義充実への移行過程において､<b>何が合致するのか､何が共通したものとなるのか</b>である｡</p>
<p>作用(作用性質)が合致するわけではないだろう｡対象が現出することができる最も低次で最も空虚な仕方は表意的作用であり､対象が現出することができる最も高次で最も充実な仕方は知覚作用である｡両者の作用が共通しているとはいえない｡</p>
<p>たとえばリンゴは､「赤色のリンゴ」という「意味」として与えられているとする｡こうしたリンゴ一般のような「言語的意味」を「<b>本質(質料的本質)</b>」と呼ぶ｡こうした言語的意味としてのリンゴは腐ることがないし､食べることもできないし匂いもかぐこともできない｡いわば「理念的意味」をまとった「理念的存在」である｡</p>
<p>作用が両者に共通していないとすれば､「<b>志向的質料</b>(作用質料)」に共通する余地がありそうだ｡詳細は後で扱う｡</p>
<h4><span id="toc20">志向の充実化の例</span></h4>
<p>染谷昌義さんの説明する「志向の充実化」の例を紹介する｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">わたしが飛び立つカラスを見て、「ほらカラスが飛び立ったよ」と言ったとする。</li>
<li class="sample">このとき､「ほらカラスが飛び立ったよ」というわたしの発話､表現作用は、わたしのこのときの「知覚作用（直観作用）」によって充実されており、認識作用が成立している。</li>
<li class="sample">このとき､私は「ほらカラスが飛び立ったよ」という表現がまさにその通りであるという体験をしており、私はカラスが飛び立つということを「知った（認識した）」のである。</li>
</ol>
<p>染谷さんによると､この際､感性的な知覚(感性的直観､端的な知覚)によって「カラス」という個的対象や「飛び立ち」という個的対象が充実されているという｡</p>
<p>このように「カラス」や「飛び立ち」は名辞的であり､概念を表した言葉である｡こうした名辞的な対象は感性的な知覚によって直観可能､つまり充実可能だという｡※カラス一般や飛び立ち一般が感性的な知覚単体で主題的に充実されているわけではない｡あくまでも､目の前のカラス､目の前の飛び立ちという意味である｡言語的意味ではなく､知覚的意味を帯びた対象という方がわかりやすい｡</p>
<p>一方で､「カラス」や「飛び立ち」が充実されたからといって､「カラスが飛び立った」という「<b>事態</b>」が充実されるわけではないという点が重要になる｡</p>
<p>つまり､感性的知覚だけでは認識が成立しないということになる｡カラスを確かに見ているのであり､飛び立ちを確かに見ている｡しかしそれだけではなにかが足りない｡</p>
<p>※後半で「命題」と「事態」という用語を区別して考えていくことになり､振り返って今このコメントを書いている｡「カラスが飛び立った」というのは志向的質料が結合したものであり､「命題」とする｡そしてこの「命題」を媒介として､「カラスが飛び立った」あるいは「目の前のある事態」が志向されるのである｡端的に言えば､命題を意味として､事態を対象として区別していく｡つまり､空虚から充実に変わるのは命題であり､空虚的な命題を通して志向された空虚的な事態が､充実的な命題を通して充実的な事態へと変わっていくのである｡その意味では､事態の充実とも､命題の充実ともいえる｡</p>
<blockquote>
<p>「次のような例で考えてみよう。わたしが飛び立つカラスを見て、「ほらカラスが飛び立ったよ」と言ったとする。このとき、フッサールによれば、「ほらカラスが飛び立ったよ」というわたしの発話「表現作用」（厳密には表現作用内の意味志向）は、わたしのこのときの「知覚作用（直観作用）」によって充実されており、知覚作用と統一化し、認識作用が成立している。このときのわたしは、「ほらカラスが飛び立ったよ」という表現がまさにその通りであるという体験をしており、わたしはカラスが飛び立つということを「知った（認識した）」のである。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,101P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc21">なぜ感性的直観以外の直観作用が必要とされるのか</span></h4>
<p>感性的知覚によって2つの対象が与えられ､充実されたが､それらを「<b>関係づける</b>」作用が必要になる｡</p>
<p>カラスの例では､「カラス」を主語的なものとして､「飛び立ち」を述語的なものとして「<b>分節化</b>」する作用が必要になる｡あるいは両者を繋げるものが必要になる｡たとえば「SはPである」のような要素である｡</p>
<p>感性的な知覚､感性的直観だけでは認識が成立しないことが確認された｡</p>
<p>そこで､新たな種類の直観が必要とされることになる｡それが「<b>カテゴリー的直観</b>」である｡</p>
<h4><span id="toc22">追記:意義志向と意義充実の合致において､合致されているものは同じものなのか</span></h4>
<p>動画では扱いきれなかったが､これは重要になるだろう｡</p>
<p>フッサールによれば､意義志向においては「自由」であり､意義充実(志向の充実化)の段階では拘束され､無差異になっているという｡ということは､違ったあり方も可能であった意義志向が､可能ではなくなるというイメージだろうか｡</p>
<p>また､志向の充実化における合致が「統合や融合」であり､<span style="color: #0000ff;"><strong>意味的本質は変わらないとしても､意味志向に独自の性格は何らかの形で変容される</strong></span>という説明も重要である｡変わるものと､変わらないものがあるということである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9c480d7ddca18370021805d51ffcbc6f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3464" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9c480d7ddca18370021805d51ffcbc6f.png" alt="" width="615" height="677" /></a></p>
<p>フッサールは線分で例えているという｡図にすればこうだろうか｡たとえば「隣の部屋にリンゴがある」という文字を見て､理解するとする｡そして実際に行く前には､黄色いリンゴとして対象を志向することも､ピンクのリンゴとして対象を志向することも自由である｡しかし実際に行って目の前で見てしまった以上､つまり志向の充実化が行われた以上､もはや赤いリンゴとしてしか志向することが出来ず､黄色いりんごとして志向することは困難である｡つまり､意味が拘束されるのである｡</p>
<p>こうした拘束性が言い換えれば不可避性であり､不可疑性であり､明証性である｡もう疑えないようなものが直観的に我々に与えられるのである｡文字だけなら空虚なので可疑的なのである｡ドラマのシーンでもよく「証拠を見せろ､現物を見せろ」という｡ムーミンのスナフキンも「目で見たものなら何でも信じる」という｡我々は直観的に与えられているものを疑うことは難しいのである｡論理的には夢かもしれないと疑うことは可能だが､そこまで言い出したら我々は何も言うことはなくなってしまう｡</p>
<blockquote>
<p>「意味作用と意味充実作用とのこの「合致統一（Deckungseinheit）」（HuaXIX,571）についてフッサール自身はのちの第六研究において次のように説明している。「〔この合致統一において、〕以前は《自由》であったこの意味志向が、合致の段階においては《拘束され（gebunden）》、《無差異（Indifferenz）》になっている。しかもこの意味志向はこの〔意味充実作用との合致統一という〕複合体と独特の仕方で非常に緊密に統合ないし融合されているのであるから、たとえその意味的本質は変わらないとしても、しかしその〔意味志向に独自の〕性格はやはり何らかのかたちで変様される」（HuaXIX,571）。そしてこの変様は次のように線分になぞらえて説明されている。「たとえば、まず空白の背景の上に一本の線分だけを考え、次にその線分を或る図形の構成部分として考えてみよう。後者の場合その線分は他のいくつもの線分と交叉し．．．、それらと接し合い．．．．、それらによって分断される．．．．．。〔…〕同じ線分（すなわち内容が同一の線分）といえども、それがどのような現象的関連のなかで現れるかに応じて、われわれに対してはそのつど別の現れ方をするわけである。したがってまたわれわれがその線分を、それと同質の線や面と繋ぎ合わせるならば、その線分はこの背景のなかに融け込んで《無差別（unterschiedlos）》となり、〔他の線や面との〕現象面での区別と独自の妥当性を失うことになる」（HuaXIX,571f.）。」<br />
橋詰史晶「フッサール現象学における普遍性の問題」(本文),76P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc23">カテゴリー的直観</span></h2>
<h3><span id="toc24">直観とはなにか､意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>直観(直観作用)</strong></span>：</big>・対象そのものをそれ自体でもたらす作用｡直観作用とも呼ばれる｡「それ事態というあり方で所与性へともたらすような様々な種類の意識のあり方」とも呼ばれる｡作用の種類に応じて対応する対象をそれらなりに明証的に与える直観が存在する｡たとえば理論的な論証や概念的分析であったとしても､原的所与への抽象的な証拠をもたらす限りで､直観と見なすことができるという｡極端に言えば､表意的作用以外のほとんどが直観的作用だろう｡その中でも知覚における直観作用が､「原的な直観」と『イデーンⅠ』において言われることになる(そこからさらに個的直観と本質直観に区分される)｡</p>
</div>
<p>『イデーンⅠ』においてはノエシスの作用の一つである(統握､定立､直観という3つの作用にまとめられている)｡</p>
<p>『論理学研究』においては作用性質は作用が措定的か､非措定的かを規定するという｡(存在の)措定とは「対象が現に存在する」とみなすことである｡</p>
<p>疑っている場合は非措定的だといえるし､確信している場合は措定的だといえる｡</p>
<p>ただし､作用性質は「対象への指示関係」を確立しないことに注意する必要がある｡赤色ではなく､対象(リンゴ)の赤色などの対象へむけた規定は作用質料によって可能となるのである｡</p>
<p>もちろん作用質料単体ではそうしたことは不可能であり､作用性質とセットで可能となることから合わせて作用本質といわれる｡</p>
<blockquote>
<p>「前期フッサールの主著である『論理学研究』における「直観」は独特の概念である。それはいわば「拡大された意味における直観」であり、いわゆる感性的直観に限定されるものではない。知覚のうちに直接その対象を持たない非感性的な対象性もやはり直観の対象であり、現に直観されているというのがフッサールの立場であった。フッサールによれば、直観一般に関して、対応する対象を「それ自体(selbst)」というあり方で、所与性へともたらすような様々な種類の意識のあり方、ないし直観する作用があるのである。つまり作用の種類に応じて対応する対象をそれらなりに明証的に与える直観が存在するのだ。したがって感性的直観とは別に、算術的な対象や幾何学的対象に関する直観等々もまた、フッサールの言う「直観」に含まれることとなる。このとき、「それ自体」という様態を支えるのが「充実化」の構造である」<br />
越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 ,205P<br />
「…それゆえフッサールは敢然と立ち向かい直観という概念を拡張する。すなわち感性的直観についてかたることができるだけではなく、カテゴリー的直観についても語ることができるのである。形式的に言えば、直観は対象そのものをそれ自体でもたらす作用であり、これはしばしば複雑な知性的はたらきを要する。理論的論証あるいは概念的分析でさえ、事態、本質的特徴、あるいは原的所与への抽象的な証拠をもたらす限りで、直観とみなすことができる。その直観は必ずしも感性的でも単純でも非推論的でもなく、単に非表意的なのである。」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,53-54P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">作用質料(志向的質料)についておさらい</span></h4>
<p>※詳細は以前の記事を参照｡特に第一回と､前回の記事｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/02/11/husserl-4/">【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</a></p>
<p>作用質料が「どの対象が志向されるのかを規定する」のであり､「対象が何として統握されみなされるのか」をも規定するという｡</p>
<p>たとえばある対象が翼をもつ､尻尾をもつ､白っぽい､蹄がある・・というような作用質料をもつとする｡そうするとわれわれは､ペガサスという対象を志向することになる｡そのような作用質料をもつのにもかかわらず､金魚という対象を志向することはできないだろう｡</p>
<p>つまり､同一の作用質料が異なる対象を志向､指示することはできないのである｡ただし､異なる作用質料が同一の対象を志向することは可能である｡１+４=５と２+３=５は異なる作用質料と同一の対象のケースである｡しかし１+４=５であり､１+４=６であるというようなことは不可能だろう｡</p>
<p>また､作用質料と対象を区別する必要がある｡なぜなら､同じ対象に異なる作用質料をもつことができるからである｡たとえばプロの電話技師における電話への意味付けと､素人の意味付けは異なるだろう｡</p>
<p>我々は一般に､「電気信号から変換された空気の振動」として電話を志向しない｡私なら「声だけで遠く離れた人と会話できる道具」として志向する｡</p>
<p>ナポレオンをよく知っている人は「ワーテルローの敗者(意味)」としてナポレオン(対象)を志向するだろうし､よく知らない人は「なんとなくフランスの偉い人(意味)､男性､戦争の英雄」としてナポレオン(対象)を志向するかもしれない｡</p>
<p>しかし､同じナポレオンという対象が志向されているのである｡ナポレオンの存在を疑うことも可能であり､実在すると確信することことも可能であることから､異なる作用で同じ対象が志向されることも可能である｡</p>
<p>作用質料はおおまかに､「<b>統握形式</b>」と「<b>統握意味</b>」に分けることができる｡</p>
<p>統握形式とは「対象が表象される仕方」のことであるという｡表意的か､直観的か､混合的かに区別することができる｡そしてこの直観的のグループに知覚がある｡統握形式はいわゆる「パースペクティブ(観点)」であり､統握意味はいわゆる「概念」として考えるとシンプルである｡</p>
<p>ただし､あくまでも「仕方」であり､実際の統握作用(作用性質)とは分析的には区別する必要がある(ほとんど切り離せないほど一体的だが)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a6dda7de2d74deb15d5f744a7b2cbd4e.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3466" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a6dda7de2d74deb15d5f744a7b2cbd4e.png" alt="" width="980" height="583" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a6dda7de2d74deb15d5f744a7b2cbd4e.png 980w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a6dda7de2d74deb15d5f744a7b2cbd4e-800x476.png 800w" sizes="(max-width: 980px) 100vw, 980px" /></a></p>
<p>基づけ関係を図でざっくり分類するとこのようになる｡</p>
<p>意味構成作用が直観的であり､意味表現作用は非直観的である｡また､知覚が最も直観的な作用であるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>「表意作用や直観作用は、客観を目指すので「客観化作用」と呼ばれる。直観作用はさらに知覚、想像作用などに区分される。この客観化作用が対象に関係する仕方はまず、(1)作用性質(2)作用質料(あるいは代表象)の契機に規定される。(1)作用性質は、作用が措定的か、非措定的かを規定する。信憑なのか、あるいは懐疑なのか、願望なのか、あるいは保留なのか、その様式のことである。それに対して(2)作用一貸料・代表象は意味に関わるが、(a)統握形式、(b)統握一貸料、(C)統握された内容の契機を含んでいる。(a)統握形式は、対象が表象される仕方のことで、表意的か、直観的か、あるいは両者の混合した仕方で表象されるかによる。(b)統握質料は、対象がどの特定の「意味」で表象されているか、ということで向じ対象が、異なる意味で規定されることによる(「統握意味」とも表される)。(C)統握された内容は、対象が、どの記号、あるいはどの呈示的内容によって表象されるかということで、後者はいわゆる感覚内容・ヒュレーを指している。フッサールは、このように作用の構成要素を区分した上で、さらにすべての客観化作用が代表象を内蔵しており、またどの作用もそれ自身ひとつの客観化作用であるか、あるいは客観化作用に基づいている、と規定している。」</p>
<p>鈴木康文「初期フッサールにおける注意の問題」,17-18P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc26">カントとフッサールの直観に対する考え方の違いとは</span></h4>
<p>1:今まで直観といえば、伝統的に「感性」のみに限定されていた｡</p>
<p>たとえばイマニュエル・カントは「である」や「SはPである」､「もし&#8230;ならば」といったカテゴリー的なものを「<b>感性</b>」によって捉えることができないとみなし､それは「<b>悟性</b>」によってはじめて捉えることができるとみなしている｡</p>
<p>2:フッサールは直観概念を拡大し、「感性的直観」に加えて「カテゴリー的直観」を導入した。</p>
<p>また、「カテゴリー的直観」は「感性的直観」に基づくとされている。つまり､両者は並列的なものではなく､連続的なものであるという発想である｡「感性的直観」がまずあり､次に「カテゴリー的直観」が可能であるということになる(基づけ関係という)｡</p>
<p>最初から「カテゴリー的直観」というものが可能になるわけではない｡</p>
<p>そうした意味で､先験的なカントの意味合いとは異なる｡まずカテゴリー的直観を体験しなければならないからである｡体験の前(先)にあるわけではない｡産まれたときから備わっているわけではない｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:読み返すと､この文章はどこかわかりにくい｡おそらく､「カテゴリー的直観が可能となるためには､”感性的直観”をまずは体験しなければならないと私は言いたかったのだろう｡「まずカテゴリー的直観を体験しなければならない」という言い方は不適切になるのではないだろうか｡感性的直観という体験の後にあるので､それはもはや先験的ではないというわけである｡</p>
<blockquote>
<p>「カントは、『感性(直観)の形式』と『悟性のカテゴリー』を峻別したうえで、主観性には後者もあらかじめ備わっている、とみなした。これに対して、フッサールは、第一に『直観』と『悟性』を連続的に捉える(言い換えれば、峻別された『直観』と『悟性』は認めない)。そして、第二に、直観の『形式』(空間と時間)と悟性の『カテゴリー』がともに直接経験＝志向的体験から成立すると見る。まず、第一の側面である。フッサールにとって、すべての基礎は直接経験＝志向的体験である。そして、これは『直観』に与えられる。しかし、この直観は、感性的・感覚的なものに限定されたカント的な直観とは異なる。それどころか、フッサールは、直観の一種として『カテゴリー的直観』というものを認める。カテゴリーという言葉は、『カテゴレイン』というギリシャ語に由来するが、これはもともと言語的に『述定する』とか『述語をつける』といった意味をもつ。カントのカテゴリーももちろんこの意味をもつが、カントでは、それは悟性のみがもつ成分である。それゆえ、カントでは、直観は、述定された事態を捉えることはできないことになる。ところが、フッサールのカテゴリー的直観は、直観でありながら、述定的・構文的な構造をもった『事態』を捉える。たとえば、『白い花』は『対象』だが、『この花は白い』は『事態』である。フッサールは、前者の『対象』のみならず、後者の『事態』も直観されるとみなすのである。フッサールによれば、こうした直観が直接経験＝志向的体験の次元で働いている。かくして、フッサールの直観は、カントのように悟性と峻別されない。さらに、第二の側面について言えば、カント的なカテゴリーは純粋論理学(形式論理学)に対応する。しかし、こうしたものは、フッサール的にみれば、主観性にあらかじめ備わっているのではなく、直接経験＝志向的体験から抽出されてくる。これがどのようにして抽出されてくるのかを示すのが現象学(超越論的論理学)のしごとであるが、これについては後述しよう。」<br />
谷徹「これが現象学だ」,120-121P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">感性的直観とはなにか､意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感性的直観(端的な直観)</strong></span>：</big>・感性的に充実するような作用。たとえば「(個的な)黄色」や「(個的な)紙」がこうした端的な知覚直観によって充実されるという</p>
</div>
<p>いわゆる「名辞的意味」は感性的に直観され、充実されるということになる。しかし、「命題」や「事態」「本質(例:黄色の本質)」は感性的に直観できないという。ただし､『論理学研究』とは違い､『イデーンⅠ』では「命題的意味」も感性的直観によって捉えることが可能であるとみなされる｡</p>
<p>例:「この紙は白色である」というような分節化した知覚の場合、「この」や「~は&#8230;である」といったカテゴリー的形式は端的な知覚直観単独においては充実化されない｡</p>
<p>一方で､「机の上にあるそれはリンゴである」というような空虚な志向から､実際にリンゴを見るという充実の作用へと移行したとしても､単独で「&#8230;は&#8230;である(述定形式、命題形式)」といった理念的対象がカテゴリー的直観によって充実されるわけではない。</p>
<p>それらが充実されるためには、まず机やリンゴといった実在的対象が充実される必要がある。つまり、感性的直観によって充実される必要がある。要するに､カテゴリー的直観はなんらかの形で感性的直観に依存しているのである｡</p>
<p>そして、感性的直観に基づいた作用であるカテゴリー的直観ないしカテゴリー的作用によって充実される。こうした段階を経て、「認識」が、つまり「言語が表現する通りの事柄を知る」ということができるようになる。</p>
<p>ただし､こうした直観作用は認識作用であり､認識対象は認識作用とはある程度独立的であるという点は抑えておく必要がある｡感覚内容が作用の中に含まれるのに対して､そうした本質､いわゆる「理念的志向的内容」はそうした具体的な作用からある一定の独立を維持するといわれる｡あるいは､感覚内容が内在的であるのにたいして､それらは超越的であると言われる｡</p>
<p>たとえば目の前にリンゴがあるとする。そしてリンゴを知覚する。これが端的な知覚である。</p>
<p>まず言語記号があるのではなく､まずリンゴという実物があるケースである｡この場合リンゴは学問的に認識されている､知られているのではなく､単に知覚されているのである｡たしかに我々はリンゴを見ている｡しかし知ってはいないのである｡リンゴを知るという行為はより複雑なプロセスが必要になり､一撃では顕在的に､主題的に与えられない｡</p>
<p>感性的直観は複雑なプロセスではなく、フッサールの用語で言えば<b>一撃</b>で、一挙に「個的な対象」が直観されるような作用である。</p>
<p>リンゴを直観するだけならば表意的作用やカテゴリー的直観は必要ないということになる｡したがって､感性的知覚とカテゴリー的知覚は相互的基づけ関係ではなく､感性的知覚がカテゴリー的知覚を基づけるという､一方向的な基づけ関係にあるといえる｡他の学問にとって現象学は必要不可欠だが､現象学は他の学問がなくても成立するのと同じである｡</p>
<blockquote>
<p>「本質をえるためにまず必要なものは、ここでは個的な音であり、それは個的、あるいは経験的直観によって与えられるものである。そして次に諸々の音との比較において共通なものが本質として直観されるのである。従って本質直観によっていきなり本質が与えられるわけではなく、それは常に個的直観から転化されるものなのである。単なる個的直観が本質を与えるのではないということには注意しておかなければならない。個的直観はあくまでも本質直観のための基盤なのであり、それによって時間空間をこえ、すなわち事実的なものではない本質が与えられることはないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,59-60P</p>
<p>「知覚の対象はわれわれに対し直接与えられる。フッサールの言葉で言えば、「一撃で」与えられる。まず知覚の対象に対する志向があり、次にその志向に合致するものが「直観的に」与えられるのがそのプロセスであり、知覚のプロセスはこれで完結している。この2番目プロセスにおいて志向の意味に合致する対象を「それ自体で」与える働きをするものが充実化の作用である。これに対しカテゴリー的対象は、一連の基づける作用においてのみ与えられるものであり、一挙に与えられるものではない。フッサールによればこれらの基づける作用によって基づけられた作用は、基づける作用が志向していたのとは違った、新たな対象を与えるのである。これが感性的直観に対するカテゴリー的直観の特徴である。」<br />
越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 ,203P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc28">補論:「がある」について</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9d7513dcbff2969c3e9630a54ab5a0f9.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3468" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9d7513dcbff2969c3e9630a54ab5a0f9.png" alt="" width="813" height="344" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9d7513dcbff2969c3e9630a54ab5a0f9.png 813w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9d7513dcbff2969c3e9630a54ab5a0f9-800x338.png 800w" sizes="(max-width: 813px) 100vw, 813px" /></a></p>
<p>以前､「がある」というものを感性的に知覚ないし直観できるような趣旨の図を私は作成し､示してしまっていた｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/">【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</a></p>
<p>しかし感性的直観によって捉えることができるのは名辞的なものであるということだった｡つまり､「リンゴ」は捉えられるが､「リンゴがある」という事態は「リンゴである」という事態のように､カテゴリー的直観を必要とするのではないかという話である｡</p>
<p>上の図のような書き方だと誤解を生む可能性がある｡</p>
<p>一方で､染谷昌義さんは「である」のような要素はすでに感性的直観に､名辞に含まれている可能性を指摘している｡おそらくここに影響を受けて図を当時つくったのだと思う｡</p>
<p>ただし､フッサールの見解を理解するという意味では､やはり「がある」や「である」はカテゴリー的直観の充実対象として区別しておくことにする｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8ddc109309c0acbd44c98a9af337d65c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3469" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8ddc109309c0acbd44c98a9af337d65c.png" alt="" width="927" height="480" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8ddc109309c0acbd44c98a9af337d65c.png 927w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8ddc109309c0acbd44c98a9af337d65c-800x414.png 800w" sizes="(max-width: 927px) 100vw, 927px" /></a></p>
<p>図にし直すとこうなるだろう｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:フッサールは『論理学研究』第二版において､「「《根源的》判断は,《変様された》作用〔名辞的作用〕の内に,或る一定の仕方で《論理的に》《含まれている(リーゲン)》」と述べているらしい｡つまり､名辞的なものにもなんらかの述定が含意されているというわけである｡これは全体的知覚でも言及されることになる｡ただし､含意というように､潜在的なものであるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>「このフッサールの見解は、先に提示した考え方とは真っ向から対立する。充実された知覚言明（表現）にとって枢要なのは、基づけている部分知覚による部分意味の充実ではなく、その上位にくる判断作用（表現作用）であると見なされているからだ。さらには、このような考え方を延長すれば、「カラスが飛び立ったよ」という知覚判断の場合に、さらにその部分意味に関しても、「xはカラスである」という知覚判断、「yは（xの）飛び立ちである」という知覚判断が介在しているとも考えられる。この場合、判断作用の一部分としての命名作用もまた判断作用の一亜種と見なされる。こうして、基づけている端的な知覚の役割は、命名作用の更に深層部で、上述したxやy（それらがどのようなものであるにせよ）を知覚することへと追いやられて行く。カラスと飛び立ちの端的な知覚だけでは、「カラス」や「飛び立つ」という名辞的表現作用さえ充実できないことになる。いやむしろ、端的な知覚において直観されるのが、事物であれそのモメントであれ、あるいは関係であれ、それらが同一な＜対象＞である限りにおいて、すでに対象「である」という最低限のカテゴリー形式が入り込んでいるかもしれない」</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,109p</p>
<p>「『論研』第二版のフッサールによれば,「《根源的》判断は,《変様された》作用〔名辞的作用〕の内に,或る一定の仕方で《論理的に》《含まれている(リーゲン)》」(XIX/1,S.488)のである。」<br />
高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,117p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">カテゴリー的直観とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カテゴリー的直観(カテゴリー的志向、複雑な志向)</strong></span>：</big>・綜合的な作用とイデア的な作用に分かれ､前者はカテゴリー的形式を充実する作用､後者は「普遍的なもの､イデア的なもの」を把握しようとする作用であるとされる｡</p>
</div>
<p>『イデーンⅠ』の言葉でいえば､前者は「形式的本質」を充実する作用であり､後者は「質料的本質」を充実する作用であるといえる｡感性的直観が事実的､個的､偶然的なものを主題的に充実するのに対して､カテゴリー的直観は本質的､普遍的､必然的なものを主題的に充実するという違いがある｡</p>
<p>カテゴリー的直観は感性的直観よりも高次の作用であるとされている。単純な志向(感性的直観、感性的な志向)に基づけられた複雑な志向である。</p>
<p>カテゴリー的直観は知覚作用ではあるが､しかし端的な知覚(感性的直観)という狭義の知覚とは区別されることに注意する必要がある｡</p>
<blockquote>
<p>「しかしながら、フッサールの対象概念は非常に幅広く(基本的にそれについて何かを述定することができるあらゆるものは対象である)、根本的に言えば、フッサールは対象の２つの異なる類型を、すなわち実在的(知覚的)対象と理念的(カテゴリー的)対象を区別している。結局のところ、梨の木あるいはエンパイア・ステート・ビルについて考えることが可能であるだけではなく、正義、数字の３、無矛盾の原理についても、あるいは『緑の本が机の上の紙の下にある』という事態(Sachverhalte)についても考えることが可能である。要するに、単純な志向は別にして、単純な志向に元付けられる複雑な志向あるいはカテゴリー的志向もあり、フッサールは(個的で偶然的なものとは対照的に)普遍的で本質的なものに向けられていることを考えているだけではなく、述定、活用、総合化などのすべての形式をも考えている。単純な志向から複雑な志向へのこの一歩は知覚から思惟への一歩である。私は椅子を見て、触れることができるし、青という色を見ることができるが、椅子は青色であるということを統握して理解することができても、それは文字通り見たり触れたりできるものではない。なぜなら、これは物理的空間に位置を占めていない事態であるからである。」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,52P</p>
<p>「前節で私たちは知覚を意義充実化の作用として扱った。しかしフッサールによれば、意義充実化の作用として捉えられるのは、知覚を典型例とする「感性的直観」だけではない。〈菜の花は黄色い〉という意義志向のうち、〈菜の花〉や〈黄色〉に関しては、通常の知覚によって充実化されるといえそうである(5)。しかし、〈～は…である（ist）〉という「命題形式そのものを構成する」ところの「カテゴリー的形式」(ibid.,658)は、一体何によって充実化されるのだろうか。istを一例とするようなカテゴリー的諸形式の客観的相関者は実在的な諸契機ではなく(ibid.,665ff.)、目で見たり、耳で聞いたりするなど感性的に知覚できるようなものではない。それゆえistのようなカテゴリー的形式を充実化するためには、感性的直観とは異なる「カテゴリー的直観」が必要であるとされる。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」,6-7P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">カテゴリー的形式とは</span></h3>
<p>【定義】<b>カテゴリー的形式</b>:「この」や「である」、「～は…である」、「かつ」、「ひとつの」、「もし～ならば～」というような命題形式そのものを構成するような形式のこと。</p>
<p>実在的な諸契機ではなく、目で見たり、耳で聞いたりするなど感性的に知覚できるものではないとされている。</p>
<p>感性的なものの内に対応する契機のないものともいわれる。また、「カテゴリー的対象」や「理念的対象」とも呼ばれる。物理的空間に位置を占めていない､思念される対象である。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8975cd827543f21d69ed5cb07ac3cf6a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3470" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/8975cd827543f21d69ed5cb07ac3cf6a.png" alt="" width="671" height="405" /></a></p>
<p>なお､『イデーンⅠ』においてはこのような本質の分類がされている｡次回､詳細を扱う｡</p>
<blockquote>
<p>「しかしながら、リンゴ「であること」や赤色「であること」、メロディー「であること」、隣接している「であること」は、感性的知覚によっては知覚することはできない。「であること」（存在）や「すべての」や「いくつかの」といった量化概念、さらには否定や「ならば」「かつ」「または」という論理定項、こういった命題を構成するカテゴリー形式は、イデアールな性格を有する為、感性的には知覚不可能なのである。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,108P</p>
<p>「例えば、「この椅子はクッションつきでかつ黄色である」という知覚言明において、「この」「である；かつ」は感性的に充実されるわけではない。「黄色」は見ることができるが、「黄色であること」、つまり存在は見えない。しかし、言明されている事態が現に知覚されている以上、こうしたカテゴリー的形式の諸契機も固有の種類の対象性なのであり、決して主観の心理的産物ではないのである。つまり、カテゴリー的なるものは、感性的直観と同じように原的な自体能与において証示可能であり、このような直観がカテゴリー的直観と呼ばれる。」<br />
山下哲朗「カテゴリー的直観と存在への問い」,61-63P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc31">カテゴリーという言葉の由来について</span></h4>
<p><b>カテゴリー</b>は「述定する」や「述語をつける」という意味をもつ「カテゴレイン」というギリシャ語に由来する言葉。</p>
<p>したがって、カテゴリー的とは述定的とも言い換えられる。述定とは述語を使って性質を帰属することである｡たとえばあれは赤い､あれは甘い､あれはつやつやしてるなど｡</p>
<p>SistPなどがカテゴリー的形式として挙げられる。イマニュエル・カントにおいては悟性のみがもつ成分であるとされており、直観においてSistPは捉えることができないとされている。日本語で言えば､「SはPである」の&#8230;は&#8230;であるにあたる｡Sは主語であり､Pは述語であり､それらを繋ぐものがカテゴリー的形式というイメージである｡繋ぐもの(ist)が捉えられないのだから､SistPというような<b>命題(命題形式)</b>も捉えられない､つまり直観できないことになる｡命題が捉えられないのだから､命題によって志向される<b>事態</b>も捉えられない｡</p>
<p>フッサールにおいては命題や､それを通した事態も直観によって捉えることができるとされている。つまり、カントにおいては直観が感性的・感覚的直観に限定されているのに対して、フッサールは直観をカテゴリー的なものも直観されると拡張したことになる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/0fe4fd89be1e75d74e19cd6c6180f43c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3471" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/0fe4fd89be1e75d74e19cd6c6180f43c.png" alt="" width="1508" height="564" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/0fe4fd89be1e75d74e19cd6c6180f43c.png 1508w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/0fe4fd89be1e75d74e19cd6c6180f43c-800x299.png 800w" sizes="(max-width: 1508px) 100vw, 1508px" /></a></p>
<p>感性的直観(感性的志向)とカテゴリー的直観(カテゴリー的志向)の関係を図で整理するとこうなるだろう｡</p>
<p>追記:事態とは述定的・構文的な構造をもっているものという説明は重要であり､またそれらが直観されるというのも重要になってくる｡ただし､いきなり事態が直観されるのではなく､意味を媒介とするのであり､したがって命題の直観が順序的には先だろう｡カテゴリー的直観という複雑な知覚の場合は､感性的直観よりも時系列的に段階を経ることがいえる｡なぜなら､一挙に与えられるものではないからである｡</p>
<blockquote>
<p>「それどころか、フッサールは、直観の一種として『カテゴリー的直観』というものを認める。カテゴリーという言葉は、『カテゴレイン』というギリシャ語に由来するが、これはもともと言語的に『述定する』とか『述語をつける』といった意味をもつ。カントのカテゴリーももちろんこの意味をもつが、カントでは、それは悟性のみがもつ成分である。それゆえ、カントでは、直観は、述定された事態を捉えることはできないことになる。ところが、フッサールのカテゴリー的直観は、直観でありながら、述定的・構文的な構造をもった『事態』を捉える。たとえば、『白い花』は『対象』だが、『この花は白い』は『事態』である。フッサールは、前者の『対象』のみならず、後者の『事態』も直観されるとみなすのである。フッサールによれば、こうした直観が直接経験＝志向的体験の次元で働いている。かくして、フッサールの直観は、カントのように悟性と峻別されない。さらに、第二の側面について言えば、カント的なカテゴリーは純粋論理学(形式論理学)に対応する。しかし、こうしたものは、フッサール的にみれば、主観性にあらかじめ備わっているのではなく、直接経験＝志向的体験から抽出されてくる。これがどのようにして抽出されてくるのかを示すのが現象学(超越論的論理学)のしごとであるが、これについては後述しよう。」<br />
谷徹「これが現象学だ」,120-121P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">名辞的作用と命題的作用</span></h3>
<h4><span id="toc33">名辞的作用とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>名辞的作用</strong></span>：</big>・名辞的に対象を直観する作用｡名辞とは「名詞」「動詞」や「形容詞」など､幅広い「概念」を意味する｡『論理学研究』においては「意味と対象的関係との区別のための最も明晰な事例」として名辞的作用が挙げられている｡また､『論理学研究』において「一定の精確な意味で､対象的なものを表象する作用」として定義され､作用の典型であるとみなされている｡また､『論理学研究』において「全ての究極的に基づける客観化作用は名辞的作用である」ともいわれている｡</p>
</div>
<p>例えば「リンゴ」や「走る」､「ツヤツヤ」といったものを直観する作用である｡</p>
<p>こうした名辞的に直観する作用は「感性的直観(端的な知覚)」である｡感覚内容が意味付与(統握)によって「対象的契機」を自己呈示するようになる｡つまり､「(対象の)ツヤツヤ」や「(対象の)赤色」というように対象化される｡これが代表象作用であった｡ただし､一般的なリンゴのような概念は感性的直観によって(単体では)直観できないことに注意｡</p>
<blockquote>
<p>「「究極的な基づけを行なうべき作用が,一定の精確な意味で,対象的なものを表象する」(XIX/1,S.480)。フッサールは,『論理学研究』初版(1900/1901年)(本稿では特に断らない限り初版を指す。以下『論研』)においてこのように述べる。我々は,この叙述に,『論研』のフッサールによる名辞的作用の取扱いが端的に示されていると考える。上記引用文中で言及されているような作用とは,結局のところ名辞的作用に他ならない。意味作用の志向性を考察する際,確かに,我々はまず第一に名辞的作用に目を向けるであろう。作用の対象的関係は,述定(例えば「イェーナの勝者は強い」)ではなく,名辞的作用(例えば「イェーナの勝者」)において,端的に分明になると思われるからである。実際,『論研』においてフッサールは例えば,「意味と対象的関係との区別のための最も明晰な事例」(ebd.,S.53)として名辞ないし名辞的作用を引き合いに出す。そしてフッサールは,述定と対比して,名辞的作用を「一定の精確な意味で,対象的なものを表象する」作用と捉える。『論研』のフッサールは,名辞的作用を,言わば作用の典型と見倣すのである。その上,精確な意味で対象を表象する作用として,名辞的作用は,他の作用の「究極的な基づけを行なうべき作用」でもある。『論研』においてフッサールは,作用の基づけ関係を考究する。それによれば,まず,願望や意志等々の「非客観化作用」は「客観化作用」に基づけられる(ebd.,S.519)。しかし更に,客観化作用同士の問でも,述定という作用は名辞的作用に基づけられるという関係が存するのである。述定という作用は,精確な意味で対象に関係する作用を,主語作用等として必要とする。従って,「全ての究極的に基づける客観化作用は名辞的作用である」(ebd.)と言われる。そして,それは結局,「全ての作用は常に名辞的作用に基づけられている」(ebd.)ということを意味するわけである。かくて,『論研』のフッサールにとって,名辞的作用は,全ての作用を基づけるものとして志向性の究極的な基盤であり,意味作用の典型として志向性探究の第一の基礎を提供するものに他ならないのである｡」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,111p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc34">命題的作用とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>命題的作用</strong></span>：</big>・名辞的作用の質料にカテゴリー的形式化を施すことによって成立するカテゴリー的作用のこと。「全体Aは部分aを持つという仕方で部分全体関係を構成する作用」のこととも言われている。また､「述定」が完全な命題的作用として表現される場合がある｡</p>
</div>
<p>名辞的作用に基づく作用であるとされる。名辞的作用が志向していたのとは違う、新たな対象が与えられるという。</p>
<p>命題的作用における「志向的質料」と表意的作用における「志向的質料」は等しい(<b>適合する</b>)とされている。</p>
<p>では､「カテゴリー的形式化(カテゴリー的分節化)」とはいったいなにかについて説明していく｡</p>
<blockquote>
<p>「カテゴリー的直観（一般的にいえばカテゴリー的作用）なるものは、いかにして成立するのか。私たちの志向的体験は、質料の区分に応じて「命題的作用」と「名辞的作用」とに分類される。フッサールによれば、命題的作用は、それを基づける名辞的作用の質料に「カテゴリー的形式化」を施すことによって成立するカテゴリー的作用である。具体的に、〈Aはαである（αを持つ）〉という仕方で「部分全体関係」を構成するカテゴリー的作用が、知覚に基づいて成立する様を見ていきたい。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」,6-7P</p>
<p>「本稿では,「述定Pradikation」(S.58)という術語を,「完全な命題的作用」(S.58)を表すために用いる。」<br />
高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,116p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc35">カテゴリー的分節化とは</span></h3>
<p>Q 具体的にどのように命題的作用(カテゴリー的分節化)は遂行されるのか</p>
<p>A:三段階のプロセスを経て遂行されるという｡</p>
<h4><span id="toc36">【第一の作用】</span></h4>
<p>全体を一挙に端的に知覚するような作用がある。対象を一つのものとして、分節されていない仕方で、一目で把握する。全体としての対象そのものに向けられた作用であり、フッサールはこれを「<b>全体的な知覚</b>」と呼ぶ。</p>
<p>第一の作用の時点では分節されていないが、しかし<b>部分αは含蓄的に志向されている</b>という。これが､感性的な知覚においても本質的な要素が非主題的､潜在的に志向されているということと繋がってくる｡</p>
<p>たとえば「椅子」という全体の対象が向けられているケースを考えてみる｡いわば､名辞的に与えられている｡これがいわゆる端的な知覚であり､感性的直観である｡</p>
<p>しかし､「椅子」だけではなく､含蓄的に「全ての規定」もこの時点で与えられているという｡例えば「椅子の色､大きさ､形」といったものも与えられているという｡</p>
<p>含蓄的というのはおそらく「潜在的､非主題的」と同じグループの言葉だろう｡日常の言葉でいうと無意識だが､しかし現象学の言葉で言えば無意識ではなく､主題的ではない意識であり､無ではない｡</p>
<p>体験されているが､経験されていないとでもいえばいいのだろうか｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/dfa9a45efbd9986df310196d94fa07f6.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3514" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/dfa9a45efbd9986df310196d94fa07f6.png" alt="" width="484" height="335" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:第一の段階</p>
<p>「フッサールは、総合するカテゴリー的作用を遂行するプロセスを、三つの段階に分けて分析している。第一の段階では、対象を一つのものとして、分節されていない仕方で、一目で把握する。この際に遂行されている作用は、全体としての対象そのものに向けられた、端的な作用である。フッサールはこれを「全体的な知覚(Gesamtwahrnehmung)」と呼ぶ。この場合、その対象に含まれる諸々の部分は志向されてはいるが、表立って志向されているのではなく、含蓄的に志向されているにすぎない。」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 101~102P</p>
<p>キーワード:第一の作用<br />
「フッサールによれば、命題的作用は、それを基づける(6)名辞的作用の質料に「カテゴリー的形式化」を施すことによって成立するカテゴリー的作用である。具体的に、〈Aはαである（αを持つ）〉という仕方で「部分全体関係」を構成するカテゴリー的作用が、知覚に基づいて成立する様を見ていきたい。このカテゴリー的作用は、三段階のプロセスを経て成立する。第一に、全体Aを一挙に端的に知覚するような作用がある。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」 ,7P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc37">【第二の作用】</span></h4>
<p>全体知覚のうちで含蓄的に志向されるにすぎなかった部分aへと向かう部分志向が、固有の知覚作用として際立たせられる。</p>
<p>こうした形で対象を客観化する作用をフッサールは「<b>分節作用</b>」と呼ぶ。含蓄的(潜在的)だったものが明示的(顕在的)になる。</p>
<p>しかし、この段階では何か新たな対象が現れているわけではなく、「対象そのもの」は分節作用を遂行する以前のままの対象だという。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ca6705b91e4de07453a617ea29fa058b.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3473" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ca6705b91e4de07453a617ea29fa058b.png" alt="" width="519" height="354" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ca6705b91e4de07453a617ea29fa058b.png 1109w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ca6705b91e4de07453a617ea29fa058b-800x545.png 800w" sizes="(max-width: 519px) 100vw, 519px" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:第二の段階<br />
「第二の段階は、第一の段階ではまだ含蓄的に志向されているに過ぎなかった諸々の部分が徐々に際立ってくることにより、作用主体の関心を惹く段階である。この段階において対象の各部分が改めて志向されるのである。こうした形で対象を客観化する作用を、「分節作用(gliederndeAkte)」という。この段階になって初めて、それまで含蓄的でしかなかった対象の各部分が、明示的な対象となることができるのである。注意すべきは、この段階で何か新たな対象が突如現れるわけではない、という点である。対象そのものについて言えば、対象は分節作用を遂行する以前のままの対象である。」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 101~102P</p>
<p>キーワード:第二の作用<br />
「第二に、全体知覚のうちで部分αへと向かう部分志向が、固有の知覚作用として際立たせられる。そして、この第一の知覚作用と第二の知覚作用とは、両者が共通の代表（部分αに対応する代表）を有していることによって統一される。」</p>
<p>福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」 ,7P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc38">【第三の作用】</span></h4>
<p>「第一の知覚作用」と「第二の知覚作用」は統一される｡</p>
<p>どのようにして統一されるかというと､<b>両者が共通の代表を有していることによって</b>であるという｡</p>
<p>全体的な知覚作用と部分的な知覚作用に共通しているのは､部分的な質料である｡椅子と椅子の脚は､同じ椅子の脚という質料を有している｡</p>
<p>統一された、統一自身が代表象として機能することで、A(全体)はa(部分)を内蔵するものとして現出するようになる。</p>
<p>この第三の段階において､「命題的作用」が形成されることになる｡命題の典型例は「S ist P」である｡</p>
<p>つまり､「SはPである」ということである｡いわゆる主語と述語､全体と部分に分けられるということである｡</p>
<p>犬は足が速いと表現する場合､足が速いというのは部分であり､それだけで犬全体を表しているわけではない｡こうした部分全体関係を､つまり「<b>命題(新たな志向的質料)</b>」として捉える作用が命題的作用であり､カテゴリー的作用であり､カテゴリー的直観なのである｡「<b>述定的分節化</b>」ともいう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/20cfce153c6dcbd30dc35695758066ae.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3474" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/20cfce153c6dcbd30dc35695758066ae.png" alt="第三の作用" width="537" height="347" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/20cfce153c6dcbd30dc35695758066ae.png 1092w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/20cfce153c6dcbd30dc35695758066ae-800x516.png 800w" sizes="(max-width: 537px) 100vw, 537px" /></a></p>
<p>上手く図で表現できている自信はないが､こういうことだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:第三の作用<br />
「第三に、この統一自身が代表象として機能することで、「Aはαを内蔵するものとして現出する」(ibid.,682)。この第三の段階において、〈Aはαである（αを持つ）〉という基づけられた命題的作用が形成される。そして、このように知覚に基づいて成立するカテゴリー的作用を「カテゴリー的直観」と呼ぶことができる。「[部分全体関係という]このような典型的な事態を所与として構成する基づけられた諸作用を明示することと、ここで用いられた定言的言表の諸形式を（それらの直観的起源と十全的な充実化とに遡って）明晰にすることとは、一つのことである」(ibid.,681)。この場合のカテゴリー的直観とは、知覚に基づいて顕在的な綜合（述定）を遂行することに他ならないといえるだろう(7)。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」 ,7P</p>
<p>キーワード:第三の段階<br />
「第三の段階では、分節する特殊な知覚の対象を、新たなカテゴリー的直観において、志向する。この段階で、基づける作用相互の対象の間に新たな関係をうち立てたり、あるいは一つの全体としての対象を捉える端的な作用の対象と、その独立的な諸契機を捉える作用の対象との間に新たな関係をうち立てたりすることができる。こうした関係を立てるのは基づけられた作用であるが、この作用においてカテゴリー的関係に関わる成分も、それに応じて、新たな性格を帯びる。こうして三つの段階を経ることで、カテゴリー的な作用は遂行されるのである。したがって、カテゴリー的作用を、知覚とは別な種類のものでありながら、やはり同じく知覚の対象に関する端的な作用でしかないと考えてはならないのである。カテゴリー的作用が、「様々な作用性格に基づけられると同時に、それらの作用性格を抜きにしては考えられないような、ある新たな作用性格」をもつのであるということの実質は、概略以上のようになる。」<br />
越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 101~102P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc39">補足内容:現出学的意味概念と現象学的意味概念</span></h4>
<p>論理学では命題の「<b>主辞</b>」と「<b>賓辞</b>(ひんじ)」とをつなぎ、両者の関係を言い表す表現を「<b>繋辞</b>(けいじ)」という｡要するに､主語(S)と述語(P)をつなぐ言葉である｡</p>
<p>たとえば「クジラは哺乳類である」における「&#8230;は&#8230;である」というような「カテゴリー的形式」である｡</p>
<p>(一般的な)クジラは「<b>賓辞</b>」であり､現象学では「質料的本質」とも呼ばれる(『イデーンⅠ』)｡「このクジラは哺乳類である」というような場合の「このクジラ」は質料的本質ではなく､いわば「質料的事実」である｡</p>
<p>「<b>現出学的意味概念</b>」が一般的意味(言語的意味)であるのに対して､「<b>現象学的意味概念</b>」は志向的対象そのものとしての意味であると呼ばれ､いわば特定の対象や個体を指示しているものである｡ただし､このように意味が拡張されたのは『論理学研究』(1901)ではなく､『意味の理論についての講義』(1908)においてである｡こうした「概念(意味)」を対象に繋げるものが繋辞なのであり､つながった関係の全体が「命題」であるということになる｡繋辞(カテゴリー的形式)が充実されることで命題が充実され､事態が充実されるのであり､それらがカテゴリー的直観によって直観されるということになる｡</p>
<p>なお､『意味の理論についての講義』において名辞的作用と命題的作用の関係が変化していることについて今回の動画では触れることができない(第一回の動画で少し触れているのでそちらを参照)｡たとえば高野考さんは名辞的作用から命題的作用(述定的作用)への優位性の変化として捉えている｡</p>
<blockquote>
<p>「我々はフッサールの意味概念から始めよう。フッサールは『論研』において,意味の心理学主義的解釈を拒否するために,意味と意味作用とを峻別する。すなわち,個々の意味作用の多様に対し,意味を意味作用の「スペチエス的spezifisch統一体」(ebd.,S.107)と捉えるのである。しかし,フッサールは,『意味論』において,この「『論研』が用いる意味の概念」(S.35)すなわち「現出学的phanologisch意味概念では済ますことができない」(S.84f,)ことを認める。そして,「志向的対象そのものintentionaler Gegenstand als solcher」(z.B.S.35f.,141)としての意味,つまり意味作用の相関者としての意味の概念を導入する。まさに意味作用の志向性を,つまりは意味作用との相関関係を顧慮するが故に,フッサールは,意味作用のスペチエスという現出学的意味概念とは別の,「意味の新たな概念」(S.38)すなわち「現象学的phanomenologisch意味概念」(S.38)を明確に導入することとなるのである」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,111-112P</p>
<p>「本稿を主導したモチーフは,フッサール意味論における名辞的作用から述定への優位性の転移を明らかにするというものであった。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,116P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">綜合的な作用とイデア的な作用</span></h3>
<p>フッサールによると､カテゴリー的作用は綜合的な作用とイデア的な作用に区別することができるという｡</p>
<p>では､どのような違いがあるのか｡</p>
<h4><span id="toc41">綜合的な作用とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>綜合的な作用(総合の作用)</strong></span>：</big>・基づける対象に向けられ続けていることによって性格付けられる作用｡分節作用によって事態を対象化する働き｡例:「この椅子は黄色である」といった事態を構成する作用｡</p>
</div>
<p>先程学んだ三段階を経る作用である｡まず椅子全体が知覚され､そこから椅子の黄色という契機が注意され､対象化され､際立ち､取り上げられる｡そして椅子全体に黄色が関係づけられ､「この椅子は黄色である」という新たな対象､つまり「<b>事態</b>」として対象化される｡</p>
<p>ポイントは､「基づける対象に向けられ続けている」という点である｡つまり､端的な知覚ないし感性的な直観がまず先にある必要がある｡</p>
<p>たとえば「椅子」が知覚されたり､「黄色」が知覚されたりする必要がある｡こうした端的な知覚に依存していると言い換えてもいい｡そうした要素から独立して志向することはできないのである｡「この椅子」ではなく「あの椅子」というように自由に想像によって変更できないというわけであり､終始「この椅子」に縛られるのである｡要するに､「一般的な椅子」へ向かう作用とは別なのである(抽象化ではなく形式化である)｡</p>
<p>先に､潜在的(含蓄的)に部分が志向されているという点も重要である｡</p>
<p>端的な知覚においてまさに顕在的に「椅子」が全体的に知覚されているが､しかし同時に潜在的に椅子の色や材質､脚といった部分も知覚され､我々に与えられているのである｡</p>
<p>「この椅子は黄色である」という「事態」が綜合的な作用によって構成されたからといって､端的な知覚によって与えられていた「椅子」や「黄色」という「実在的な部分」が変わるわけではない｡</p>
<p>ただし､綜合的作用によって結合されているのは感覚内容や代表象ではなく､「志向的質料」であるという点が重要になる｡</p>
<p>たとえば全体Aの質料と､部分aの質料が結合されるのである｡こうして結合された「命題」は､もはや感性的ではなく､<b>非感性的</b>であり､<b>新たな対象(イデア的な新たな対象性)を呈示していく</b>｡例えば椅子が感性的直観によって一撃で､端的に志向されていたときの志向的質料とは別の志向的質料が､複雑な志向的質料が与えられているのである｡</p>
<p>また､こうした結合を促すものには感覚内容に対応するものが見当たらない｡「S ist P」というカテゴリー形式には「リンゴ」のように赤っぽい､ツヤツヤというような感覚内容がない｡カテゴリー形式は感性的､実在的ではなく､非感性的で理念的である｡そうした理念的なものによって結合されて生じた「命題」を通して志向されたものも､もはや感性的な対象とはいえないのである｡我々は「命題」を感性的に直観することはできず､「命題」は単なる感性的な合成物ではない｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:よくよく考えてみれば､綜合的作用のなかにも直観の度合いが高いものから低いものまで度合いがあるのだろう｡たとえば今まさに「この机」を見ている場合は､感性的直観作用がほとんど同時に生じている｡しかし､「昨日みたあの机」という場合は､想起の作用になる｡想起は感性的知覚に基づいているが､想起を通して綜合的作用を行う場合は､感性的知覚への距離が遠くなってしまう｡つまり､直観の度合いも低くなるといえる｡興味深い問題として､厳密には想起以外に綜合的作用は可能とならないというような話もあるが､今は置いておく(これは感覚内容の謎問題､生き生きとした現在の問題と関わる)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:綜合的な作用<br />
「最終的には、フッサールはカテゴリー的作用の２つの異なる類型を区別する。綜合的なものとイデア的なものである。前者の類型は基づける対象に向けられ続けていることによって性格付けられるのに対して、後者の類型は違う。『本はテーブルの上にある』ということをはっきり理解することは一層高次の対象を志向することである。しかし、この綜合的対象は『本』と『テーブル』という基づけける要素を含み、それから独立に志向することはできない。」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,54P</p>
<p>キーワード:綜合的な作用<br />
「カテゴリー的直観について、ハイデガーは総合の作用とイデアチオンの二つに即して説明を与えている。総合の作用とは、たとえば「この椅子は黄色である」といった事態を構成する作用である。椅子を端的に（感性的に）知覚している場合、この椅子に含まれる諸契機（黄色いとか四足であるとか）は際立たされることがなく、椅子は全体として顕在化している。こうした椅子という事象の全体から、「黄色」という契機を取り上げ、これを椅子全体に関係付けることで、椅子と一，黄色」との連関（事態）を対象化するはたらきが総合の作用である。<br />
「黄色」を椅子という全体の部分として（あるいは椅子を「黄色」を部分として含む全体として）関係付けることは、端的に知覚されていた事象の全体を、〈部分と全体Vという連関へと分節するはたらきであって、その意味で端的な知覚に基づいている。しかし、事態が構成されても、端的に知覚されていた事象自体にはいかなる変化ももたらさない。事態は、「黄色」や「クッションつき」のような実在的な部分ではなく、イデア的な、新たな対象性なのである。」<br />
山下哲朗「カテゴリー的直観と存在への問い」,61-63P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc42">補論:アリストテレスの形相と質料</span></h4>
<p>アリストテレスはこのように分類していた｡</p>
<p>「形相」は物事の本質的な特性やあり方を指し、「質料」はその実体を成す基盤となる物質を指す。</p>
<p>例えば、銅像においての形相は像としての形状やデザインであり、質料はそれを成す銅そのものになる。</p>
<p>フッサールも同様に､実在的な内容､質料に形相が含まれていると考えている｡</p>
<p><b>質料が先にあって後から形相があるというわけではない</b>｡形相のおかげで質料があるのであり､それなしでは我々は何ものも対象化することができないだろう｡設計図なしに銅像が作られたわけではない｡</p>
<p>ただし､どちらが先に独立的にあるかというような議論をフッサールは行っているわけではない｡(神経組織の刺激のように)因果関係の前後を明らかにしようとしているわけではない｡</p>
<p>たしかに感性的直観にカテゴリー的直観は一方的に基づけられ､依存しているが､しかし感性的直観の時点でも本質､形相は潜在的に捉えられているのであり､それゆえに質料と本質は常に一体的である｡主題的に際立たせて取り出すために感性的直観が先に必要であるにすぎないといえるのではないか(とはいえ､これらの関係は感覚内容と志向的質料ほど一体的ではないのかもしれない)｡</p>
<p>どちらもお互いを必要とするという議論をフッサールはしている｡統一が先にあるというイメージであり､そこから我々が抽象的に､分析のために分離するわけである｡机の色と形は分離することが出来ないが､しかし分析のために色と形を分離させて考えることはできることに類似している｡おそらく､どちらが先かというのは感覚内容そのものを孤立して捉えることが難しいのと同様に､知ることはできないのだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:感覚生理学,神経学,認識論,パースペクティブ,無前提性</p>
<p>「フッサールは､感覚生理学あるいは神経学にではなく､認識論に関心があるのであり､こう主張しているのである｡『一角獣を想像すること』､『来たるべき収穫を待ち望むこと』､『４の平方根について考えること』が『何を意味するのか』というようなといに対する答えは､経験的事実的に含まれている物理的要素や因果的要素から抽象する際に生じることができる､と｡こう言えるのは､フッサールがまさしく意識の厳密に不変で本質的な本性に関心がある――経験的に意識に随伴するだろう神経学的過程の本性には関心がない――からだけではなく､また､意識の認知的次元に関心があり､意識の生物学的基層に関心があるのではないからである｡フッサールは経験を<strong>一人称のパースペクティブ</strong>から与えられるとおりに記述したいのである｡何かが私の脳の中で生じているということは､例えば枯れていくオークの木を見る私の経験の一部分ではない｡だからすでに早い時期に､フッサールは現象学の(形而上学的)<strong>無前提性</strong>を強調している｡現象学は(主観的作用であれ世界内的対象であれ)現出するものについての信頼できる記述にほかならないと思われており､結果として形而上学的学問的な要請や思弁を避けるべきである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,18p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc43">イデア的作用とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>イデア的作用(形相的作用､イデアチオン)</strong></span>：</big>・基づける対象に向けられ続けていることによって性格付けられない作用。ただし､綜合的作用と同様に､この作用もまた感性的作用に基づけられた作用である｡理念化的抽象や普遍者直観とも呼ばれる｡「非主題的な理念をそれとして取り出すことで（勝義の）理念を獲得すること」とも呼ばれる｡※勝義とは一般に､その言葉の本質的な意味のこと</p>
</div>
<p>「個体的なもの、実在的なもの」からの「抽象」によって「普遍的なもの､イデア的なもの」を把握しようとする作用。『イデーンⅠ』においては「<b>形相的還元</b>」と呼ばれる｡もちろん､イデア的作用においても綜合的作用は重要になる｡しかし､綜合的作用に留まっているのではなく､その先を行くというイメージだろうか｡この椅子は木でできている(事態)､想起や想像で考えたある椅子はプラスチックでできている(事態)・・・ということは木やプラスチックは椅子の本質ではないのかもしれない(事態)・・・と考えていくのである｡</p>
<p>例えば「家具」の本質を考えるとする｡その場合､なんらかの感性的知覚ないし感性的直観に基づいている必要がある｡たとえば実在する「椅子」を少なくとも一脚は知覚する必要､出発点とする必要があるだろう｡</p>
<p>隣の部屋の「椅子」を想起する場合もあるかもしれない｡想起も結局は知覚(感性的知覚)に基づいているのである｡一度も見たことがない椅子を思い出すことはできないだろう｡</p>
<p>想像も同様であり､結局はなんらかの感性的知覚へと遡ることになるだろう｡馬も鳥も見ないでペガサスが最初に想像されたとは考えられない(もちろんペガサスが実在したという可能性もあるが)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:イデア的な作用<br />
「対照的に、イデア的あるいは形相的作用は普遍的なものを、個体的なものあるいは単一のものから抽象によって把握しようとする。この過程で、通常イデア的あるいは形相的作用は具体的で独特の対象を出発点とする―目的が家具そのものについて考えることであるならば、目下座っている椅子を観察することから始めるだろうが―、この対象は単純に開始点であり、イデア的過程はそれに固定されたままであることはない。」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,54P</p>
<p>キーワード:イデアチオン<br />
「イデアチオンもまた、端的な知覚に基づく作用である。イデアチオンは、例えば何らかの赤い個体から、「赤」一般というイデア的対象を抽象化的に見て取るというように、個体の端的な拙捉に基づいて、何らかの理念・一般者を新たに対象化する作用である。ハイデガーは、イデアチオンのうちに重要な意義を見ている。すなわちアプリオリの根源的意味の発見である。例えば、環境世界において家を端的に把捉する際、あらかじめそれを家として見ることではじめて家の具体的把捉も可能になるというように、家の理念は端的な知覚において（対象化されない仕方で）いつもすでに見られていると言える。そうした非主題的な理念をそれとして取り出すことで（勝義の）理念を獲得することがイデアチオンである。他方で、この非主題的な理念自身は、具体的な個物の内にいつもすでに現にあって、その存在を可能にする「構造化より先なるもの」である。「アプリオリ」と呼ばれているのは、存在者の存在における構築継起のこうした先行的性格である。」<br />
山下哲朗「カテゴリー的直観と存在への問い」,61-63P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc44">原初的場面への遡示</span></h4>
<p>あらゆる志向性は何らかの感性的直観､端的知覚を出発点とするのだろう｡いわば､痕跡として残っているのである｡たとえば１+１=２であるという本質やピタゴラスの定理が最初に発見､認識される際には必ず感性的知覚を通していたということになる｡我々はこうした「<b>原初的場面への遡示</b>」を通して､小学校などで１+１=２であるということを理解することができるのである｡「<b>すでに体験された原体験から絶えず養分を得ている</b>」とも表現されることがある｡※『論理学研究』以降の内容を含んでいる</p>
<p>重要なのは､イデア的作用は「基づける対象に向けられ続けている必要がない」という点である｡</p>
<p>眼の前の椅子から出発したとしても､我々はそこから､そこを離れて､自由に連想していくことができる｡たとえば､眼の前の椅子だけではなく､あらゆる椅子を想像で考えてみる｡椅子に共通してる本質とはなにか､「座ることができる」という性質だろうか､などと考えていく｡</p>
<p>例えばダイヤとルビーとサファイアが散りばめられた､高さが1000キロメートルある椅子を考えることもできるのであり､その対象へと志向することもできるのである｡</p>
<p>想像した結果､やはり椅子の本質にダイヤやルビーは関係がないな､しかしある程度の高さや幅は必要ではないか､というような思考を巡らせていくのである｡</p>
<blockquote>
<p>「たしかに「意味」や「本質」は,本性的に,知覚において与えられねばならないものではない。だが,そうだとしても,それはどこでどのようにして生じたのであろうか。生じた瞬間があったならば,それは感性的知覚の場面以外にありえただろうか。-『イデーンI』における論点の変化は,このような問題意識から生じたものだと思われる。「意味」や「本質」を既存のものとして跡づけ的に直観の対象として指定するだけではなく,はじめてそれが捉えられた現場を,現実の場面として取り押さえる作業を怠ってはならない。このことが,先に見た「理性の現象学」の課題にほかならない。もちろん,『イデーンI』以後のフッサールも,論理学や数学における諸概念や諸認識の妥当性が,そのつど知覚において確かめなければならないとは考えなかったであろう。だが、それへの意識の関わりが可能となっているということは,それがはじめて実現した原初的な現場の痕跡を何らかの仕方で含んでいるはずであり,志向的構成を解明する作業(志向的分析)はこのことを考慮に入れなければならない,とフッサールは考えたはずである。この事情をK・ヘルトは、入門者向けに次のように解説している。<br />
「構成の研究に対しては一連の課題が課せられるが,それらの課題は、あらゆる種類の志向的体験はその原体験〔=原的な場面〕への関係によって互いに指示しあっているという考え方によって秩序づけられる。つまり,どの意識のうちにも、事象への近さが欠けている時には,やがて来るかいつか可能な原体験への予示が含まれているというだけでなく,また,それがすでに事象への近さや事象との一致に到達している時には,すでに体験された原体験から絶えず養分を得ているのである。意識はその事象内容からして他の志向的体験を遡示しており,もしそれがなかったら意識そのものが不可能になるだろう。」<br />
論理学や数学で主題とされるイデア的諸対象が理解されるとき,この原初的場面への遡示が何らかの仕方で含まれているのであり,われわれの理解もそこから養分を得ているのである。ピタゴラスの定理を今日のわれわれが知覚において独自に発見することは,あるとしてもきわめて稀であろう。だが,今日われわれはそれを学校で習得することによって理解することができる。この場合のわれわれの理解は,何らかの仕方でピタゴラスの知覚経験を遡示しているのである。」<br />
宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」､50-51p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc45">想像作用とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>想像作用</strong></span>：</big>・(１)「存在の措定」にとらわれることなく自由に「知覚」を思い浮かべる作用のこと｡(2)一定の直観的内容をもつが､表意的作用と同じように対象を間接的に志向する作用のこと｡(3)感覚内容に基づいて対象的契機を呈示するが、自己呈示という仕方で呈示するのではなく、感覚内容と対象的契機との間に成立している類似性の関係に基づいて、対象的契機を写像的に呈示する働きのこと｡</p>
</div>
<p>「<b>想像</b>」は「存在の措定」にとらわれることなく自由に「知覚」を思い浮かべる作用である｡「想像」については形相的還元の項目で扱う予定である｡なお､『イデーンⅠ』において「想像」は想起の「中立性変様」であると呼ばれている｡確かに「思い浮かべる」という点では想像と想起は共通性をもっている｡また､想起の変様であるならば､想起は知覚に基づけられているため､やはり想像は知覚に基づけられていることになる｡</p>
<p>例えば「１０００キロメートルの椅子」を想像しているとき､すくなくとも私はそれが実在するとは思っていない(否定しているのではなく､実在するかどうかには関心がない)｡つまり､「存在の措定」をしていないのであり､そういう態度を「中立的態度」と呼ぶ｡また､知覚的態度からそうした態度への移行を「中立性変様」というのである｡</p>
<p>例えば椅子の本質を「<b>イデア的対象(理念的対象)</b>」といったり､「<b>言語的意味</b>」と言ったりすることがある｡</p>
<p>「眼の前に椅子がある」という「事態」は「椅子一般」ではなく「眼の前のまさにある椅子」に意識を向け続ける必要があるが「椅子一般(言語的意味)」を考える場合は､必ずしもその必要はない｡</p>
<p>イデア的対象にも次元の違いがあり､たとえば幾何学における本質はそうした言語的意味よりもイデア性が高いという｡たしかにあらゆる馬が遺伝の変化によって全員尻尾がなくなったり脚が遅くなったりしたら､馬は尻尾がある､馬は足が速いといった本質が変化するかもしれない｡</p>
<p>しかし三平方の定理というような本質が変化することはそれに比べれば可能性は低いといえそうだ｡それらは実在の馬のようには依存しないからである｡演繹的か､帰納的かといった違いもあるのかもしれない｡</p>
<blockquote>
<p>「それに対して、想像的志向とは、たしかに感覚内容に基づいて対象的契機を呈示するが、自己呈示という仕方で呈示するのではなく、感覚内容と対象的契機との間に成立している類似性の関係に基づいて、対象的契機を写像的に呈示する働きであるとされる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」(2),17P</p>
<p>「想像的(写像的)作用はある一定の直観的内容をもつが､表意的作用と同じように対象を間接的に志向する｡」<br />
ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,41-42p</p>
<p>「また，「想起」と同様に対象が想い浮かべられてはいても，その対象が現実には存在しない（しなかった）と思われている場合，そこには対象が現にそこに存在するという定立は含まれておらず，そうした作用こそ「想像作用」にほかならない。こうして，知覚，判断，想起などのように対象を定立する作用と対照的に，対象を定立しない態度は「中立的態度」と呼ばれ，そうした態度に移行することは「中立性変様」と呼ばれていた。」<br />
小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,24P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">補論:「志向的質料」と「対象的契機」の違い</span></h3>
<h4><span id="toc47">「志向的質料」とはいったいなにかがいまいちわからない問題</span></h4>
<p>私がいまいち理解できていない灰色の部分がある｡それは､「志向的質料」と「対象的契機」の違いである｡今更そんなことを理解できていないのか､と恥ずかしい｡しかしよくわかっていないのである｡より根本的なことを言えば､「志向的質料」がなにかよくわかっていない｡よくわからないままここまで記事を作ってきたのである｡というよりわかっているつもりで進んできたが､しかしよくよく考えればよくわかっていないのである｡</p>
<p>しかし「よくわかっていないことがわかった」ことは個人的に大きな進歩である｡理解が足りていないと､「わかっていない点すらわからない」のである｡</p>
<p>フッサールを学んでいるとこの繰り返しで常に不安になる｡穴の空いたバケツに水を汲んでいる気分になる｡</p>
<p>たとえば感覚内容は「赤っぽい」というような言語化できないような素材だとする｡そして志向的質料が付与されることによって､「対象の赤さ」といったような対象的契機が現出する｡</p>
<p>それでは「志向的質料」の役割とはいったいなにか｡もちろん､「対象への関係(指示関係)の構成」である｡それは理解できている｡</p>
<p>しかし､「赤っぽい」というものから､「対象の赤っぽさ」へと変えることだけが志向的質料の役割ではないだろう｡「対象の～」という点だけではないはずである｡というよりもっといえば「赤っぽい」とすら言えないような､概念とすら言えないような､非言語的な感覚が「感覚内容」なのだから､「赤っぽい」というのは志向的質料を付与されなければ生じないのではないだろう｡<b>言葉で説明せざるをえないから感覚内容の例を「赤っぽい」と概念的に言っているだけ</b>である｡</p>
<p>感覚内容における「赤っぽさ」も何か変化があったはずである｡つまり､何か(感覚内容)が<b>「何(志向的質料)として」把握されるにおける「何として」の部分</b>である｡「<b>統握意味</b>」の部分である｡</p>
<p>要するに､感覚内容の「赤っぽさ」と志向的質料の「赤っぽさ」の違いに行き着くわけである｡</p>
<p>たとえば『イデーンⅠ』において「<b>質料的本質</b>」と呼ばれるもの､『論理学研究』において「<b>理念的存在</b>」と呼ばれるものが「志向的質料」だと考えれば事態は簡単である｡つまり､刻々と陰影や広がりが変わりゆくような感覚内容の「赤っぽさ」と､そうした変化に左右されないような､普遍的､理念的､イデア的な「赤っぽさ」という違いであれば理解は簡単である｡あるいは対象性の有無だけなら理解は簡単だった｡</p>
<h4><span id="toc48">何らかの一般的な意味とは</span></h4>
<p>※動画では非言語的意味を「知覚的意味」と表現していたが､記事では修正している｡後に修正箇所を詳述するが､非言語的意味は知覚的意味と先述定的意味の両方を含んでいる｡</p>
<p>しかし､フッサールは「<span style="color: #0000ff;"><strong>非言語的意味</strong></span>」と「言語的意味」を分けて考えている｡言語的な意味ではないが、<b>何らかの一般的な意味が</b>付与されているのである｡この何らかのという表現が曲者である｡</p>
<p>例えば宇多浩さんは「通常､私たちがあるものをあるものとして解釈するという場合､それはあるものを何らかの一般的な意味によって解釈するということを意味している｡したがって､ここでいわれる感覚内容の解釈というはたらきもまた､たとえ言語的な意味ではないにせよ､何らかの一般的な意味を感覚内容に付与し､それによって感覚内容をある意味として解釈するということを意味していることになろう」と説明している｡</p>
<p>表意的作用において言語的意味(空虚的意味)が媒介とされ､知覚作用において非言語的意味(充実的意味)が媒介とされていると解釈すれば､それらが一致するとはどういう事態なのだろうか｡</p>
<p>両者が違うからこそ､一致が重要になる｡違うからこそ､認識が目指され､真理の獲得が目指されるのである｡</p>
<p>通常の知覚(端的な知覚)では完全に一致することはほとんどないのではないだろうか｡フッサールも外的知覚において十全的な明証性において与えられることはほとんどないと主張している｡</p>
<p>要するに､完全な一致ではなく､何かの「<b>部分的</b><b>な適合</b>」といったほうが充実概念としてはノーマルなありかたなのかもしれない｡より高次の作用であるイデア的作用においても「<b>訂正可能性</b>」が無限につきまとうのである｡例えばもうこれで机の本質をとらえきった､と言い切れるような瞬間､つまり真理の獲得は理想的なものだということになる｡もっと直接的に言えば､「真理の獲得は可能性としてはありうるにすぎない」というようなイメージである｡数学的に言えば「極限」だろうか｡</p>
<p>宇多さんはフッサールの『論理学研究』における考え方は知覚における統握のあり方を不明瞭なものにしてしまうという｡</p>
<p>「意義志向における理解的統握と意義充実における客観化的統握との区別」を曖昧にしてしまうからである｡</p>
<p>言語的記号を意味解釈する場合と､感覚内容を意味解釈する場合の「意味解釈」の違いは一体どこにあるのか｡</p>
<p>このように知覚的な統握作用固有のあり方が不明瞭になってしまうという問題が出てくる｡もちろん､フッサールは発生的分析によって固有のあり方を掘り下げていくのであるが､『論理学研究』時点ではそれができておらず､<b>いわば言語的な指示関係の類比として感性的知覚の作用が説明されてしまっている</b>というわけである｡</p>
<p>たとえば『受動的綜合の分析』や『経験と判断』などで､感覚内容が「類型」や「歴史」をもつものとして､「何らかの一般的な意味」の内実が掘り下げられ､それらはイデア的意味(言語的意味､普遍的意味)と区別されるのである｡意味と意義の峻別といってもいい｡</p>
<p>表意的作用(意義志向)における志向的質料と､感性的知覚(意義充実)における志向的質料が一致した場合が「認識」だという点がこれですこし理解できた気がする｡</p>
<p>まず､刻々と変わりゆく､何らかの濃淡､陰影､斑などを含んでいる赤色の「感覚内容」と､何らかの一般的な赤色である「先述定的意味」は異なる｡そしてさら「言語的意味」と「非言語的意味」は異なるというわけである｡前者は空虚的であり､後者は充実的である｡もしそれらが完全に一致するのならば､それらは同じ「志向的質料」であるが､しかし一致しないのならば､それらは別の「志向的質料」と言わざるをえない｡部分的に同じものをもっているにすぎない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4bdd8349d9ef6964cd2f5d65121efa1d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3498" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4bdd8349d9ef6964cd2f5d65121efa1d.png" alt="" width="681" height="564" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4bdd8349d9ef6964cd2f5d65121efa1d.png 935w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4bdd8349d9ef6964cd2f5d65121efa1d-800x662.png 800w" sizes="(max-width: 681px) 100vw, 681px" /></a></p>
<p>ざっくり図にすればこうなるだろう(動画における図も修正している)｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:「言語的な指示関係の類比として感性的知覚の作用が説明されてしまっている」と述べた｡しかしフッサールは言語意味解釈的な働きが知覚の場面へと適用されるということを明確に否定している｡言語意味解釈､つまり意義志向は感覚内容に解釈を施すことではないという違いで明確に区別している｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:(1)『論理学研究』において「意義」と「意味」は区別されていない(現象学的意味と現出学的意味すら区別されていない)｡(2)『イデーンⅠ』において、意義を狭義に「<b>言語的意味</b>」として扱い、意味を広義に「<b>先述定的意味</b>」と「<b>知覚的意味</b>」も含む意味として扱うようになった。(3)重要な点は、「言語的意味」と「知覚的意味」が区別されている点である｡(4)要するに､『論理学研究』時点では用語法上でいえば意義と意味は区別されず､どちらも意味として用いられていたが､しかし「知覚的意味」､要するに「命題的意味」が感性的な知覚において捉えることが出来ないゆえに､感性的な知覚において捉えられる先述定的意味と明確に分けて考えられていた｡それが『イデーンⅠ』において､感性的な知覚においても知覚的意味だけではなく､命題的意味が捉えられるようになったというわけである｡ただし､現出学的意味は感性的知覚だけでは捉えられないのではないか｡したがって､形相的還元が必要になってくるというわけである｡たとえば全てのリンゴに共通している性質のような､いわゆる「本質」を取り出す概念的分析である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:なんらかの一般的な意味</p>
<p>「たとえば、フッサールは第五研究、第15節において「感覚はここで対象的な〈解釈〉ないしは〈統握〉をこうむる」(ibid406)と語り、知覚的な統握作用を一種の「解釈」の働きと言い換えている。また「論理学研究」の補遺においては、統握作用に関して次のように記されている。「私は手回しオルガンを聞いている。その感覚された音を私はまさに手回しオルガンの音として解釈している(強調は原著者)」(XIX/2762)。 <br />
統握の働きは、ここで感覚内容をあるものとして解釈する働きともいわれており、感覚された音は、この統握の働きによって、私にとって客観的な手回しオルガンの音として現出するとされる。これらの叙述から分かるとおり、知覚的な統握作用は、知覚対象の有体的な現出を可能にする働きであると同時に、感覚内容をあるものとして解釈する働きとしても捉えられていたといえる。それでは、この感覚内容を解釈する働きとは、具体的にどのような働きとして理解されるのだろうか。通常、私たちがあるものをあるものとして解釈するという場合、それはあるものを何らかの一般的な意味によって解釈するということを意味している。 <br />
したがって、ここでいわれる感覚内容の解釈という働きもまた、たとえ言語的な意味ではないにせよ、何らかの一般的な意味を感覚内容に付与し、それによって感覚内容をある意味として解釈するということを意味していることになろう。そして、知覚的な統握作用がこうした感覚内容の意味解釈的な働きとし理解されるかぎり、そこには感覚内容がそれでもって解釈されるべき〈意味〉という契機が介在しているはずである。実際、フッサールは、統操作用のうちにこのような意味的な契機が介在していると考え、それを彼は第六研究において、「統握意味(Auffassungssinn)」(ibid.622)と呼んでいる。この統握意味とは、「私たちが感覚的な内容を何として〉統握する」(ibid,623)際の何にあたるものである。それゆえ、ここで握作用とは、感覚内容をこのような意味によって解釈するような働きとして捉えられていたと考えることができる。<br />
」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,５p</p>
<p>キーワード:言語的な指示関係の類比</p>
<p>「統握作用とは、その原語の意味からすれば、あるものをあるものとして把握、ないし解釈するということを意味しているが、この統握の働きが、一方では多様な感覚内容を統一的な事物へとりまとめる働きとして、他方では、言語的記号をある意味として解釈する働きとして理解されている。その意味で、この概念は事象に即した概念であるというよりも、むしろさまざまな場面に適用しうる多義性を含む概念ではないかと考えることもできる。そして、統握概念のこのような多義性が両者の区別を曖昧にしてしまい、その結果、一方の言語理解における意味解釈的な働きが知覚の場面へと適用されるようになったのではないかと推測することもできる。<br />
むろん、フッサール自身はこうしたことを明確に否定しており、彼は第一研究において、知覚的な統握作用は言語的な意味解釈と同じ意味で、あらかじめ対象化された感覚内容に解釈を施すことではないとして、両者を明確に区別している(vglXIX/1.80)。だが、にもかかわらず、この概念の中にある種の多義性が含まれていたのは事実であり、この多義性が後に述べるように、「論理学研究」における知覚理論の根本的な問題へと導くことになる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,7p</p>
<p>キーワード:意義,意味,言語的意味,先述定的意味,知覚的意味</p>
<p>「『論理学研究』において、フッサールは、意義(meaning/Bedeutung)といい(sense/Sinn)をまだ区別していなかったが、後に、意義(Bedeutung)を狭く言語的意味(meaning)として理解し、意味(Sinn)を先述定的意味(meaning)と知覚的意味(meaning)とを含む一層包括的な概念として理解したのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」222P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc49">補論:「志向的質料」と「対象」の混同について</span></h4>
<p>もうひとつ灰色になりかねない点がある｡「志向的質料」と「対象」の混同である｡</p>
<p>たとえば机の本質は様々な志向的質料によって規定される｡いわば､対象にさまざまな規定がまとわりついている｡我々はイデア的作用によって､「志向的対象(主語)」を主題的に志向するのであり､「志向的質料(述語)」を志向するわけではない｡「対象」を志向するために､「志向的質料」を媒介とするのである｡</p>
<p>机は脚をもっている､という本質を考える際､あくまでも脚は机の部分である(脚がない机もあるという話は一旦おいておく)｡</p>
<p>別の態度によって､脚の本質はなにか､と脚を主語にして考えることもできる｡「意味」なのか「対象」なのかは､その時々の述語か主語なのかの違いなのだろう｡</p>
<h4><span id="toc50">「何らかの一般的な意味」という表現はややこしい</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">我々が表意的作用をカテゴリー的直観で充実させる時､充実させるのは「特定の知覚における感覚内容」ではない｡</li>
<li class="sample">充実させるのは「志向的質料」である｡そして綜合的作用における「志向的質料」よりも､イデア的作用における「志向的質料」のほうがより複雑なプロセスを経ているといえる｡</li>
</ol>
<p>イデア的作用の場合は､より一般性が高い意味を媒介にして､対象を志向するのだろう｡たとえば「このバラは赤い」という場合よりも「色は広がりを持つ」という場合のほうが一般性が高い｡</p>
<p>理念として到達可能であるという意味合い､いわゆる表意的作用における空虚的な「質料的本質(現出学的意味だけではなく現象学的意味も含める)」を完全に充実できるかどうかが問題になる｡</p>
<p>例えば「色は広がりをもつ」という表意的作用を考えてみる｡実際に知覚して､例えば「この黄色いコップは広がりをもっている」ことが確認されるとする｡そこで､ある程度「空虚」は「充実」される｡つまり､空虚的な志向的質料が部分的に志向的質料によって充実され､適合するだろう｡これだけなら「綜合的な作用」のみで可能かもしれない｡</p>
<p>しかしそれだけではなく､他の青いコップ､緑のペン､あるいは想像上の紫の棚・・といったように作用を重ねていく別の作用がある｡これは単発の綜合的作用だけではなく､イデア的作用を必要としているつまり､形式化と抽象化が両方必要とされる｡</p>
<p>なお､フッサールはこのような明証性を「当必然的明証性」と呼び､外的知覚における明証性(十全/不十全)とは区別している｡目の前の青いペンの青色が広がりをもつかどうかと､色は広がりをもつかどうかは､別の話なのである(事実学と本質学の区別)｡</p>
<p>個人的には「何らかの一般的な意味」という表現がすこしややこしい｡赤一般や白一般がカテゴリー的直観(イデア的作用)によってのみ捉えられると表現されることがあるからだ｡</p>
<p>フッサールが後に区別することになる､「現象学的概念」を充実させる志向的質料が「何らかの一般的な意味」に該当し､「現出学的概念」を充実させる志向的質料が「普遍的意味」とわけたほうがわかりやすい｡「このバラ」は現象学的概念であり､「バラ」は現出学的概念である｡前者は感性的直観によって充実可能だが､後者はカテゴリー的直観を必要とするのである｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:ザハヴィの言葉で言えば､現出学的概念よりも現象学的概念のほうが対象を直接的に指示しているという｡もっとも「このバラ」の場合は実在的対象が主に想定され､「バラ」の場合は理念的対象が主に想定されていることになるのだろう｡しかし両者とも「理念的意味」が媒介されていると一応は言える｡しかしその理念的意味の内実が全く同じではないだろう｡より直接的に充たされうるのが「現象学的概念」であるという離しという意味からすれば､より空虚的､間接的なものが理念的対象を志向する場合の理念的意味だともいえるかもしれない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a03f8fcb39b78bdf2fe0cf3123fab90a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3499" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a03f8fcb39b78bdf2fe0cf3123fab90a.png" alt="" width="516" height="606" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a03f8fcb39b78bdf2fe0cf3123fab90a.png 697w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a03f8fcb39b78bdf2fe0cf3123fab90a-682x800.png 682w" sizes="(max-width: 516px) 100vw, 516px" /></a></p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:動画で示していた図を修正した｡この修正の理由についてはあとの項目で説明している｡大きな修正としては､知覚的意味を命題的意味(およびその充実の意味)のの言い換えとして用い､先述定的意味を名辞的意味(およびその充実の意味)の言い換えとして用いた点である｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:ところで､現出学的意味を獲得するためには､当然命題的意味も捉えられていなければいけないのだろう｡つまり､綜合的作用がなければイデア的作用は不可能ではないだろうか｡たとえば目の前の机の色は赤色である､昨日店で見た机の色は青色であった｡それゆえに､やはり机の本質は赤色という点にはないのではないか､と考えていくとする｡その過程で､「S ist P」というようにはや「命題的意味」として把握されているのであり､カテゴリー的作用を我々は遂行している｡こうした遂行なしに､まるで感性的直観のようにシンプルに､一挙に本質を顕在化させることができるとは考えにくい｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:たとえば机を辞書で引いてみると､「物をのせる台。特にその上で読み書きをする台」と出る｡これは我々が言語習得前に直観するような「先述定的意味」と同じだろうか｡もしかしたら一致するものがあるかもしれない｡しかし､辞書ほどに明示的に､顕在的に､はっきりと我々は捉えているだろうか｡そこまでの一般性を捉えているだろうか｡それゆえに､「言語的意味ほどではないにせよ､なんらかの一般的な意味が」と表現されるのである｡もちろん､こうした辞書の意味が完全に机の本質を捉えきっているかどうかは別だが､しかし言語習得後によってより複雑な分節作用が可能となり､より顕在的に､主題的に捉えられるのだろう｡極端に例えるならば､言語を持たない部族がいると仮定して､リンゴは「食べられるものだ」､「丸いものだ」という本質はなんとなく把握できているようなイメージが「何らかの一般的な意味」である｡例えばある部族の長が偉いということは誰しもが理解しているが､どう偉いのかをどれだけ複雑に説明できるのかは言語の有無によって変わる｡しかし偉いということは言語を用いずにも理解できているのである｡</p>
<h3><span id="toc51">【修正】追記:「知覚的意味」とはいったいなにか､私がよく理解していない問題</span></h3>
<h4><span id="toc52">結論</span></h4>
<p>そもそも「知覚的意味」という用語を私はいったいどこからもってきたのか｡思い出せる限りで言えば､以下の３つである｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">ザハヴィの「フッサールの現象学」</li>
<li class="sample">鈴木敏昭さんの「クオリアへの現象学的接近」</li>
<li class="sample">富山豊さんの「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」</li>
</ol>
<p>結論からいえば､私は動画内で「知覚的意味」を「名辞的意味(感性的意味)」として､もしくは名辞的意味(感性的意味)と命題的意味(カテゴリー的意味)の両方を担うものとして捉えていたが､そう捉えてしまうのは誤りだということになる｡<strong>「知覚的意味」は命題的意味と表現するのが正しい</strong>と今では私は考えている｡そして<strong>「名辞的意味(感性的意味)」は先述定的意味として表現するのが正しい</strong>と今では考えている｡まとめていえば､「非言語的意味(非表意的意味)」が知覚的意味と先述定的意味に分類され､言語的意味と対置されるというわけである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/33c5bcf79ce5926caf6c272b0e8857d8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3500" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/33c5bcf79ce5926caf6c272b0e8857d8.png" alt="" width="679" height="500" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/33c5bcf79ce5926caf6c272b0e8857d8.png 1110w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/33c5bcf79ce5926caf6c272b0e8857d8-800x589.png 800w" sizes="(max-width: 679px) 100vw, 679px" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/64eb8463f70440029f0db56292e8ecba.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3493" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/64eb8463f70440029f0db56292e8ecba.png" alt="" width="683" height="603" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/64eb8463f70440029f0db56292e8ecba.png 884w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/64eb8463f70440029f0db56292e8ecba-800x707.png 800w" sizes="(max-width: 683px) 100vw, 683px" /></a></p>
<p>結論の図である｡もしかしたら今後修正するかもしれない｡</p>
<p>フッサールは意味を「知覚的意味」と「先述定的意味」に分類し､さらに意義と分けている｡もし「知覚的意味」が「名辞的意味」であった場合､「先述定的意味」は「命題的意味」ということになるだろう｡</p>
<p>しかし先述定的意味における「先(pre)」という接頭辞は､後に続く言葉に先立つという意味である｡端的に言えば､非述定的意味とでもいうべきものである(連続的､先後的であるが､同義ではない)｡したがって､命題的意味ではないない意味と解釈するべきであり､「先述定的意味」は「名辞的意味」であると解釈したほうが適切である｡</p>
<p>『イデーンⅠ』においてはノエマ的意味が主に「知覚意味」と表現されているという｡このノエマ的意味については多大な論争があるためにここでは詳細を扱えない｡しかし､フッサールはノエマを命題として捉えていることから､「ノエマ的意味」もまた命題的構造の中で捉えられていることは推測できる｡したがって､「知覚意味」はやはり「命題的意味」として捉えたほうがいいのかもしれない｡ただしノエマ的意味を命題的意味として捉えてしまうと､名辞的意味はどいったいどこへいったのかと疑問が生じる｡この問題はノエシス・ノエマを主題的に扱う記事で扱うことになるだろう｡もっとも､「拡張」というのだから､ノエマ的意味は名辞的意味でもあり､命題的意味でもあるという幅を持つ多義性として捉えてもいいのかもしれない｡</p>
<p>もっとも､『論理学研究』では「意味」と「意義」が用語的に区別されていないという点からして､知覚的意味という用語や先述定的意味という用語を持ち出して早急に用語をスッキリさせる必要はなかったのかもしれない｡なぜなら､この記事の内容の殆どは『論理学研究』だからである｡しかしそうはいっても､曖昧な用語が乱立していると理解しにくいので､『イデーンⅠ』の用語を扱ってでもスッキリさせておきたい｡</p>
<p>今回は意味を「非言語的意味」として､意義を「言語的意味」として区別した｡両者の違いは主に空虚的か充実的かであり､どちらも理念的意味である｡いわば､非言語的意味は充実的な理念的意味であり､言語的意味は空虚的な理念的意味である｡たとえば実際にペガサスを見なくても､つまりペガサスを見てなんらかの感覚内容が私に与えられなくても､私はペガサスという中立的対象をペガサスという空虚的意味を通して志向できるからである｡</p>
<p>ただし､後年の『受動的総合の分析』や『経験と判断』で掘り下げられるように､理念的意味とは呼べないような､原解釈的意味とでも呼ぶべきものが「類型」として登場する｡これは感覚内容に志向的質料(理念的意味)が付与される前の意味とでも呼ぶべきものであり､理念的意味とは区別されるだろう｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>知覚的意味</strong></span>：</big>・(１)『イデーンⅠ』において(２)『イデーンⅠ』における知覚ノエマにおける基礎的な部分が「知覚意味」と呼ばれている｡いわゆる「ノエマ的意味」と等しい｡(2)『論理学研究』においては端的にいえば「命題的意味」にあたる｡「先述定的意味」が名辞的意味に相当し､「知覚的意味」が命題的意味に相当する｡また､先述定的意味､知覚的意味､言語的意味は特に区別されず､意味と意義は用語の上では区別されていなかったという｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>先述定的意味</strong></span>：</big>・(１)『論理学研究』においては端的にいえば「名辞的意味」にあたる｡(２)言語習得前の「述定的分節化」を伴わない作用を「<strong>先</strong>述定的分節化」と呼ぶことにすれば､この作用における意味は「先述定的意味」である｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>類型</strong></span>：</big>『受動的総合の分析』の場合では名辞的意味として解釈される前にも､感覚内容の時点で前もあってある種の解釈が､つまり「原解釈」とでも呼ぶべきものがされているという｡この原解釈という受動的作用における意味は『『経験と判断』』において「類型」と呼ばれることになる｡いわば､原解釈的意味とでも呼ぶべきものかもしれない｡統握される前に､すなわち志向的質料が付与される前の意味というわけであり､いわゆる「理念的意味」と区別される意味であるといえるだろう｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理念的意味</strong></span>：</big>・(１)具体的志向の本質とよばれる｡(２)私が繰り返すことができ､その同一性を失うことなしに他者が共有することができるものとも説明される｡(３)明らかに理念的意味ではない意味と呼ばれるものとしては､類型が挙げられるだろう(まだまだこの分野は掘り下げていないため考察の余地はあるが)｡(4)理念的意味は､いわば空虚的な理念的意味(言語的意味)と充実的な理念的意味(非言語的意味)に分類することができる(両者の違いは充実しているかどうかであり､同じ志向的質料であるともいわれう)｡ただし､非言語的意味の中の類型は例外であるといえるだろう｡(５)理念的意味の中でも､現象学的意味よりも現出学的意味のほうがより「直観的に指示される」という｡たとえば「この花は黄色い」という状況を我々は簡単にイメージできるが､形は色をもつという事態はやや複雑なイメージである｡私のイメージでは､現象学的意味の中にも現出学的意味は含まれているが､しかし潜在的にであり､顕在的ではないというイメージである｡顕在的にさせるためには複雑な作用(イデア的な作用など)が必要になる｡たとえば「この花は黄色い」という事態の中にすでに「すべての形は色を持つ」という本質は潜んでいるが､しかしより明確に取り出す､抽象化するためには「あの花､その花､想像の花､あの車､そのリンゴ」といったように(理論的には無限の)多くの物を見て､比較して､概念的分析を行う必要があるというわけである｡これが『イデーンⅠ』においては形相的還元と呼ばれる｡安直に言えば「体験すること」と「経験すること」の違いである｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>言語的意味</strong></span>：</big>・(1)充実なしに､つまり対応する感覚内容や心的紐帯といった内在的内容なしの空虚的な作用における意味のことである｡(2)いわば､空虚的な理念的意味である｡(３)空虚的な知覚的意味(命題的意味)や空虚的な先述定的意味(名辞的意味)とは言い難い｡なぜなら､空虚な時点で知覚的意味や先述定的意味とはいえないからだ｡あえて言語的意味をいうなら､知覚的意味や先述定的意味に充実されるのを待つ空虚的な理念的意味である｡もっとも､充実化を伴わなくても表意的作用はそこで完結するため､表意的作用にとって言語的意味は本質的であり欠かせないが､知覚的意味や先述定的意味は欠くことが可能であるといえる(4)とはいえ､なんらかの痕跡はあるのではないかという問題は残る｡なんら直観作用を遂行したことがない人間が､極端に言えば文字しか見たことがない人間がリンゴや紅色を空虚的に志向することができるのだろうか｡やはり痕跡が必要なのではないか｡ザハヴィの言葉で言えば､「入り組んだ概念についての適切な認識を欠いている」のである｡</p>
</div>
<h4><span id="toc53">時系列</span></h4>
<p>１:『論理学研究』(1901/1902)では志向的質料は「理念的意味」として専ら考えられていた｡カテゴリー的知覚(カテゴリー的直観)のみが命題的意味をとらえることができるとされている｡</p>
<p>２:『意味の理論についての議論』(1908)では志向的質料は「理念的意味」はさらに「現象学的意味」と「現出学的意味」に分類されることになる｡</p>
<p>３:『イデーンⅠ』(1913)においては､感性的知覚(感性的直観)において名辞的意味だけではなく命題的意味も捉えることができると考えられるようになる｡</p>
<p>４:『受動的総合の分析』(1922)や『経験と判断』(1938)において､理念的意味とは区別される､より受動的な作用における意味である「類型」が掘り下げられる｡</p>
<h4><span id="toc54">先述定的意味とはどういう意味なのか問題</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/86d061274fa9d2107741149b80ad6947.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3485" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/86d061274fa9d2107741149b80ad6947.png" alt="" width="770" height="772" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/86d061274fa9d2107741149b80ad6947.png 770w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/86d061274fa9d2107741149b80ad6947-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/86d061274fa9d2107741149b80ad6947-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 770px) 100vw, 770px" /></a></p>
<p>図にするとこうなる｡</p>
<p>先述定的意味とは､命題的意味では「ない」のではないか｡つまり､「名辞的意味」を指しているのではないか｡</p>
<p>１:もし仮に言語習得がなければ命題的意味として媒介することができないならば､我々は言語を習得しなければ知覚することが不可能になる｡厳密に言えば『論理学研究』においては感性的知覚は可能かもしれないが､しかしカテゴリー的知覚は不可能になる｡『イデーンⅠ』においては「ノエマは命題である」とまで言われることになるのであり､もはや知覚全体が､そしてさらに知覚に基づけられているあらゆる作用が､要するに志向的体験が不可能になってしまう｡</p>
<p>２:我々は､言語習得をする前に知覚作用を遂行することは可能である｡</p>
<p>まず､「名辞的作用」､つまり端的な知覚や感性的知覚､感性的直観は分かりやすく可能である｡これは端的に､｡AをBとして解釈し､Cを志向する場合のBは名辞的意味である｡このBとして解釈するという作用は表意的作用(言語的作用)を「述定的経験」とするならば､「先述定的経験」とでもいうべきものである｡</p>
<p>次に､「命題的作用」はどうだろうか｡ここがややこしい｡綜合的な作用は可能だが､イデア的な作用は不可能というケースや､両方が可能というケース､両方が不可能というケースも考えられる｡しかし我々は綜合的な作用を行わずに言語習得が可能なのだろうか｡</p>
<p>もちろん『イデーンⅠ』においては命題的意味が感性的知覚の領域にまで拡張されたといえるのであり､そのため､命題的作用も言語習得前に遂行することは可能であるといえる｡</p>
<p>また､言語的作用と綜合的な作用を比べると､言語的作用のほうがより複雑で詳細な解釈作用を行っているようにもみえる｡その点においても､原述定的分節化作用と述定的分節化作用として区別できる｡単純な作用か､複雑な作用かというように安直に分類していいものなのかは保留しておくべき問題である｡この分類は､認識には至っていないが認知には至るというような分類と類似している｡特に学問的認識は言語的作用を前提とするからである｡</p>
<blockquote>
<p>・キーワード:先述定的経験,類型,『経験と判断』,混乱,カオス,連合</p>
<p>「フッサールにおいて能動的経験と判断とはほぼ等しいものである。つまりわたしたちが何らかのものを能動的に経験しているならば、その際常に判断を行っているのであり、判断を行うとは、主語対象に対して何らかの規定を与えることである。そして先述定的であるということは能動的（述定的）経験に先立つということである。能動的経験は判断であるとしても、判断を行うためには、判断する対象が判断に先立ってわたしたちに与えられていなければならないのである。そのように対象に規定を能動的に与える以前に、単に対象を受容している段階が先述定的経験である。そこでは確かに能動的に規定が与えられているわけではないが、「『所与』の単なる『混乱』ではなく、一定の構造、濃淡、様々な仕切を持った場」（EU，S．75）であるとフッサールはいう。そしてこの場を支配する法則は連合であり、それにより所与は単なる混乱ではないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,155P</p>
<p>キーワード:意味と意義の区別</p>
<p>「『論理学研究』において、フッサールは、意義(meaning/Bedeutung)といい(sense/Sinn)をまだ区別していなかったが、後に、意義(Bedeutung)を狭く言語的意味(meaning)として理解し、意味(Sinn)を先述定的意味(meaning)と知覚的意味(meaning)とを含む一層包括的な概念として理解したのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」222P</p>
<p>キーワード:命題的内容と命題的態度､理念的意味､理念的意義</p>
<p>「言うまでもなく､同じ性質は異なる質料と結合することがあり､同じ質料が異なる性質と結合することがある｡…『百合は白い』ということを否定すること､『百合は白い』ということを判断すること､『百合は白い』かどうかを問うことが可能であるのとちょうど同じである｡したがって､志向的質料と志向的性質のフッサールの区別は命題的内容と命題的態度の現代の区別とのある一定の類似性を帯びている(もっとも､フッサールがけっしてすべての志向的体験を本性上命題的であると捉えなかったということを強調しておくことは重要であるが)｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,32-33P</p>
<p>キーワード:内在的内容,志向的内容,私秘的,感覚的成素</p>
<p>「すでに述べたように､フッサールはまた作用の内在的内容についても語っている｡これでもって何が仮定されているのか｡私が座りながらペンを吟味していると想定してみよう｡私が一瞬目を離し､そしてその後改めてペンに目を向ける｡この場合､私は同じペンについての二つの異なった知覚(と二つの異なった現出)をもつ｡しかし､いったいどこに差異が見出されるのか｡それは同じ志向的対象と同じ志向的内容であるが､しかし､二つの数的に異なった知覚､独自の別個の内在的内容をともなう二つの心的過程が扱われている｡知覚は経験であり時間的な意識の過程である｡知覚の内在的内容は心理的過程としての具体的な作用を共に作り出す諸々の契機あるいは位相である｡作用を超越する志向的対象や志向的内容(結局のところ､同じ対象は､他者によって同じく私によって､異なる作用における同じ理念的な意味によって志向されることがある)とは対照的に､内在的内容は厳密的な意味で心の内部にあり私秘的である｡だから､数的に異なる作用において生じる同じ内在的内容について語ることは意味をなさない｡しかし､この内在的内容とはいったい何であるのか｡すべての作用は現在生じている主観的志向という意味で内在的内容をもっている｡その上､いくつかの作用はさらに内在的要素､すなわち感覚的成素を含んでいるのである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,35-36P</p>
<p>キーワード:先言語的,先述定的,言語哲学,知性主義,発達心理学</p>
<p>「だから､フッサールは言語的意味が世界との先言語的かつ先述定的遭遇に根ざしているということを主張することになる｡この脈絡で先(pre-)という接頭辞を用いることは､当該の経験が言語(あるいは言語習得)に時間的に先立つという事実を指示しているだけではなく､世界を知覚的に直知することが言語的意味の恒久の条件であり源泉であるという事実をも指示している｡たとえある人が『深紅色』､『緋色』､『朱色』のような語句を知っていようとも､その人が盲目であり､それゆえこれらの色を見ることができないならば､その入り組んだ概念についての適切な認識を欠いているだろう｡先言語的経験というフッサールの概念は､すべての意味が本性上言語的であるという言語哲学の想定に対する批判を必然的に伴う｡フッサールにとって(メルロ=ポンティにとってのように)この考え方は知性主義的抽象の所産であり､知覚されたものがいったいどのように言語的記述にとっての手引として機能することができるかを把握することを不可能にする｡意味(Sinn)と感性(Sinnlichkeit)を相互に分離すること､対象の知覚的所与と対象の述定的分節化との間の連続性を否定することは､概念的に志向することと知覚との間の関係を不可解かつ偶然的にすることである｡先言語的な認知的能力の存在､同一化という先言語的総合の存在を否定すること､何かを何か<strong>として</strong>把握することは言語使用を前提とするということを主張することは､言語使用者がいったいどのように言語をそもそも学習することができたのかを理解することを不可能にするだけではなく､現代の発達心理学の成果と矛盾してもいる｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,42-43P</p>
<p>キーワード:所与の様態,概念化,空虚と充実</p>
<p>「要するに､存在は､現象学的には､所与の独特の様態として解釈される｡知覚的所与は対象の自己現前と同一視される｡実際､ベルンハルト・ラングは以下のように書いている｡</p>
<p>『充実との関係で､同じ対象に向けられた二つの志向は､純粋に表意的概念的志向が､同じ対象に向けられた他の直観的志向において『それ自身』を充実するという仕方で合致する｡以前に『単に』意味されていたものは､いまやそこで直観的充実における『それ自身』としてある｡単に志向的な対象と実在的な対象との差異は残存する｡しかし､この差異は､『実在的』なものではなく､『所与の様態』にかかわるものである｡つまり､<strong>所与の仕方</strong>における対象は､『空虚な』概念化と直観的に『充実された』概念化との間で異なる｡しかしながら､空虚から充実にわたるこの志向的様態において与えられる対象は同一のものであり続ける』</p>
<p>」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,44-45P</p>
<p>キーワード:知覚意味</p>
<p>「フッサール自身『イデーンI』第八八節において知覚を範例としてノエマを導入した後､知覚ノエマにおける基礎的な部分を「知覚意味」と呼んでいる(HuaIII/1,S.203)｡同節のこれに続く四段落の論述の流れを考慮すれば､ここでフッサールが述べているのはおおよそ以下のようなことである(HuaIII/1,S.203-205)｡我々は知覚において様々な対象を様々な仕方で､様々な相貌において経験している｡こうした知覚経験において､もし仮に錯覚や幻覚などの事情で対象が現実には存在しなかったのだとしても､我々がどのようなものを知覚していると看做していたかという知覚体験の志向性の働きはそれによって否定されるわけではない｡対象が現実には存在しなかったとしても､我々が特定の志向的性格をもった体験を確かに有していたという事実はそれによっては揺るがないし､そこで知覚されていると看做されていたものが(想定上)どのようなものであったかという規定性は対象の現実性に左右されない｡それゆえフッサールは､そうした規定性を対象の現実性によって左右されない体験そのものの本質的な構成要素と看做し､これを志向的内容としての「知覚意味」と呼んだのである｡」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」､245p</p>
<p>キーワード:志向的内容の分類,実的内容の分類</p>
<p>「そもそも『論理学研究』の初期志向性理論において、作用の実的内容と志向的内容は存在論的に交わりをもたない領域を区切るための概念対ではない。というのも、「志向的内容」という多義的な名称で名指されうるものとして「志向的対象」、「志向的質料」、「志向的本質」の三者を同書第五研究第一六節において列挙した後、第二〇節において作用質料、第二一節において志向的本質を作用の実的内容に帰属させている(HuaXIX/1,S.429-430,435)。「実的内容」と「志向的「内容」とはそれがいかなる意味でその作用の「内容」と呼ばれるかという観点の違いを特徴づけるための概念であり、志向的内容を実現しているものがそれ自体として別の観点から見れば作用の実的な内容でもあるという可能性はこの区別によって排除されてはいない。」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」,246p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc55">述定的分節化の分類､解釈の分類問題</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/1309dd8417ece448a1c5542497effca2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3495" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/1309dd8417ece448a1c5542497effca2.png" alt="" width="569" height="374" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/1309dd8417ece448a1c5542497effca2.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/1309dd8417ece448a1c5542497effca2-800x526.png 800w" sizes="(max-width: 569px) 100vw, 569px" /></a></p>
<p>図にするとこうなる｡</p>
<p>(１)言語習得後の複雑な「述定的分節化」の作用を､単に「述定的分節化」と呼ぶことにする｡この作用における意味は「言語的意味」である｡空虚な命題的意味である｡</p>
<p>(２)言語習得前の単純な「述定的分節化」の作用を､「<strong>原</strong>述定的分節化」と呼ぶことにする｡この作用における意味は「知覚的意味」である｡単純な命題的意味である｡充実的な命題的意味である｡(A)『論理学研究』では感性的知覚においては述定的分節化が行われていないとされている｡「知覚的意味」として捉える作用は綜合的な作用やイデア的な作用であるということになる(動画では知覚的意味と先述定的意味を逆の意味で用いてしまっていたが)｡(B)『イデーンⅠ』では感性的知覚においても述定的が行われているとされている(意味が命題的意味にまで拡張されている)｡</p>
<p>(３)言語習得前の「述定的分節化」を伴わない作用を「<strong>先</strong>述定的分節化」と呼ぶことにする｡この作用における意味は「先述定的意味」である｡『論理学研究』における感性的知覚単体の作用のケースなどが相当する｡もちろん､カテゴリー的知覚の場合も､この感性的知覚の段階がある｡</p>
<p>(４)統握(解釈)される前に､感覚内容がどのように解釈されるのかをある程度指定するような役割が掘り下げられるのは『受動的総合の分析』など､ずっと後になってからである｡いわば､意味が付与される前にも､何らかの解釈が行われていると分析されるようになる｡例えば感性的知覚(端的な知覚)の場合も､統握作用が存在する｡つまり､感覚内容が名辞的意味として解釈され､志向的対象を志向するのである｡『受動的総合の分析』の場合では名辞的意味として解釈される前にも､感覚内容の時点で前もあってある種の解釈が､つまり「原解釈」とでも呼ぶべきものがされているという｡この原解釈という受動的作用における意味は『『経験と判断』』において「類型」と呼ばれることになる｡『論理学研究』や『イデーンⅠ』では感覚内容は全く意味をもたないものとされていたが､しかしある程度意味を指し示すのであり､その意味で感覚内容の次元は「先解釈」ではなく､「原解釈」とでも呼ぶべき次元として捉え直されるのである｡</p>
<p>(５)「言語的意味」､「知覚的意味」､「先述定的意味」は全て「統握意味=志向的質料=概念」である｡ただし､類型は統握意味と区別する｡</p>
<p>(６)「言語的意味」は「知覚的意味」や「先述定的意味」に基づけられている｡「知覚的意味」は「先述定的意味」に基づけられている｡さらに先述定的意味は類型に方向づけられることになる｡</p>
<p>(７)原～というのは､分節化を伴うものであり､先～というのは分節化を伴わないものとして区別している｡</p>
<p>(８)言語的意味を空虚な概念化(いわば言語的解釈)として関連付け､知覚的意味や先述定的意味を充実された概念化(いわば知覚的解釈)として関連付け､さらに原解釈として､概念化の方向を指し示すような次元が存在すると整理することができる｡原解釈が知覚的解釈を基づけ､知覚的解釈が言語的解釈を基づけるのである｡もし仮に歴史を一切もたないような孤立的な､最初の感覚内容があるとすれば､それは原解釈的ではなく､先解釈的なのかもしれない｡ただし現象学ではそうした感覚内容が与えられる現場を捉えることは困難を極めている(生き生きとした現在の反省問題､感覚内容の謎問題と関わる)｡</p>
<p>とりあえず正しいかどうかは置いておいて､私はこの用語法でまずは整理しておきたい｡今後変わるかもしれない｡フッサールを学んでいると私はとんでもない間違いを書いてしまっているのではないかと､常に不安になってしまう｡特に動画の場合は修正が難しいのでなおさらである｡</p>
<p>私はどうやら､細かいことにこだわるくせに深く学ぼうとしないことが多い(例えばザハヴィの本を何度も読んでいるくせに､理解していない部分を放ったらかしにして過ごしている)｡表面の小手先だけで､こういうことにしとこう､こういうことではないかと精査しないままやり過ごしてしまいがちであるので反省したい｡</p>
<p>ただし､あまり深くこだわりすぎると前に進めないので､バランスが大事になるのだろう｡わからないところはわからないと素直に認めて､そこで記しておき､後回しにすれば良い｡そうすれば全体が深まるにつれて部分の解決が見えてくる｡部分だけに深く目をやっていても解決しにくい｡少しずつ過ちを繰り返して進んでいくしかない｡直観的に正しいと少しでも思える理解を何度も修正させて進めていきたい｡</p>
<h4><span id="toc56">志向的内容と実的内容の区別の問題</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>志向的作用</b>：対象に適格に向けられていることを可能とする契機。「作用性質」とも呼ばれ、知覚作用や判断作用、表意作用といった対象への関わり方を規定するものである。これが「統握作用」にあたる。</li>
<li class="sample"><b>志向的質料</b>：どのように対象が与えられるかを規定する契機。「異なる性質をもつ複数の作用が共有する内容として取り出された契機」とも定義されることがある。これが「統握意味」である。作用質料とも呼ばれ、作用質料と作用性質がセットで「志向的本質」と呼ばれる。</li>
<li class="sample"><b>志向的対象</b>：感覚内容が統握作用により統握意味を付与され超越的に構成されたもの｡</li>
</ol>
<p>こちらも分類が灰色の領域である｡ただしこの記事で補足的､追記的に扱うのはヘビーすぎるので次回以降の適切なタイミングで扱いたい｡いくつか､解決しなければならない事項を暫定的に列挙するだけに留める｡実的内容と志向的内容の定義は控えることにする｡</p>
<p>１:「内在的」であるものと「内在的内容」は区別できる｡たとえば志向的作用は内在するが､内在的内容ではない｡同じ内在でも､種類が違うというわけである｡さらに､「内在的内容」は「志向的内容」と区別されている｡いわば「実的」と「超越的」の区別である｡</p>
<p>２:『イデーンⅠ』においては志向的内容と志向的対象がいかにして区別されるかという点で争いがある｡</p>
<p>３:『イデーンⅠ』においてヒュレーとノエシスは実的に内在すると言われ､ノエマは実的に内在しないといわれる｡ノエマが内在的か､超越的(志向的)かについても解釈に争いがある｡ノエシスを作用性質(志向的作用)に､ノエマを作用質料(志向的質料)か志向的対象､あるいはその両方というふうに分類されているわけである｡もちろん､このノエマについては解釈に争いがある｡また､単にノエシスを志向的作用として単に名前だけを変えただけなのか､ノエマを志向的質料として単に名前を変えただけなのか､という解釈の問題ともいえる｡</p>
<p>４:(1)論理学研究』においては､志向的内容が「志向的対象､志向的質料､志向的本質」の３つが挙げられ､内在的内容と区別されている｡(2)一方で､同じ『論理学研究』において､志向的本質(志向的質料と志向的作用の複合体)は作用の時間的流れに内在的であると主張する｡(3)これらの主張は､一見矛盾しているようにみえる｡いわば､志向的内在であるのと同時に､実的に内在しているといっているようなものだからである｡ザハヴィの解釈によれば､内在的内容は作用の中に含まれれるのに対して､理念的志向的内容(志向的質料)は作用から一定の独立を維持するとしている｡要するに､志向的質料と志向的作用は一体的であり､この一体となった志向的本質は感覚内容を含んでいるゆえに､ある程度は実的に内在しているというわけである｡ただし､志向的本質を分析的に分けてみると､その契機として「志向的質料」を見出すことができる｡この孤立させた志向的質料は実的内容を含んでいないゆえに､一定の独立を維持しているわけであり､感覚内容のような仕方では実的に内在しているとはいえない｡ただし､完全に独立しているわけではなく､切り離せない契機であり､作用の内在的内容(実的内容)は志向的質料を例示するような関係にある｡後の類型のように､ある程度方向性を定めるようなものだろう｡</p>
<p>5:さらに､表意的作用は「第二の意味での超越」であるとも表現されることがある｡つまり､表意的作用における「志向的本質」は知覚的作用における「志向的本質」とは違い､内在ではなく､超越であると言えるのではないかという問題である｡ここでいう内在は「絶対的で明晰な所与性、絶対的な意味での自己所与性」とされている｡つまり､ここでいう内在は端的に感覚内容のことを指しているのだろう｡表意的作用には志向的本質と直接的に対応する感覚内容が欠けているのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:理念的志向的内容,理念的意味､スペチエス,例示</p>
<p>「志向は質料と性質の複合体に他ならないが､どうしてフッサールは､以前にその複合体を理念的志向的内容として記述したのに､この複合体は作用の時間的流れに内在的であると唐突に主張することができるのか｡その解決は『論理学研究』でフッサールが擁護した意味の理論の中に見出すことができる｡当時､フッサールは､以前にその複合体を理念的志向的内容として記述したのに､この複合体は作用の時間的流れに内在的であると唐突に主張することができるのか｡その解決は『論理学研究』でフッサールが擁護していた意味の理論の中に見出すことができる｡当時､フッサールは理念的意味(私が繰り返すことができ､その同一性を失うことなしに他者が共有することができるもの)と意味の具体的作用(何かを志向するという主観的過程)とをある理念性とその具体的例示との関係として理解していた｡彼が言うように､理念的意味は具体的志向の<strong>本質</strong>である｡『したがって､意味は意味するというそのつどの作用にかかわる｡…例えば､<strong>スペチエス</strong>における赤がここにある紙片にかかわり､このすべての同じ赤を「もっている」』｡したがって､作用の内在的内容は同じ類型のほかの作用においても同じようにしるしとされる理念的志向的内容の例示である｡内在的内容は作用の構成部分を作り上げているので文字通り作用の中に含まれるのに対して､理念的志向的内容は具体的な作用からのある一定の独立を維持するのである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,36p</p>
<p>キーワード:ノエマ,実的</p>
<p>「さて、フッサールは、「ヒュレー」と「ノエシス」は意識に「実的に内在する」が、「ノエマ」は意識に実的には属さず「志向的に内在する」、と言う。確かに、感覚与件は、当の意識の流れのなかで、そのつど言わばナマで与えられるものであるした、それについて対象として把握して「意味」を付与する作用は、当の意識が、意識の流れのなかで、そのつど言わば一回限り遂行するものである。意識に「実的」reelに属するとは、このように、そのつどの意識に実際に含まれ、意識の流れの中に実際に座を占める、ということを言っているのである。問題なのは、「ノエマ」の存在性格である。ノエマは意識に「実的」には属さない、と言われる。これに関しては注意が必要である。後にフッサールは、「ノエマを体験から切り離し実的契機という性格をノエマに否定する根拠は存在しない」(Hua,BdXIS.335)として、ノエマにも「実的」な存在性を認める記述をしているようである。ノエマも、或る者が成る意味付与を現にしている際には、当の意識の時間流の内にしっかりとした位置を占める以上、それが当の意識に「実的」に属するということは、実際のところ否定することはできない。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,14p</p>
<p>キーワード:志向的内容</p>
<p>「フッサールによれば、事物の現出は、現出する事物ではなく、「現出が＜意識の関連に属するものとして〉われわれに体験されるのに対し、事物は＜現象界に属するものとしてわれわれに現出するのである」（XIX／1，S，359－360）が、「現出それ自身は現出せず、それらは体験される」（XIX／1，S．360）のである。従って、わたしたちが何らかのものを知覚している場合、その知覚作用を実際に構成しているのは、色彩感覚などの実的内容である。しかしながら、わたしたちが何らかの対象を見ている場合、意識を構成しているそのような感覚内容を見ているわけではなく、まさにその対象を見ているのである。従って、感覚内容は現出するものではないのである。それに対して現出している対象は、わたしの意識の中に実際に含まれているわけではない。しかしそのような対象を見ているということは、その対象は意識と何らかの関係にあるといえるであろう。あるいは実的内容が統握によって客観化されることにより、対象が現出するのであるから、実的内容とは違う意味ではあるが、その対象も意識の中にあるということもできるであろう。フッサールはこれを志向的内容という。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,115P</p>
<p>キーワード:志向的内容の分類</p>
<p>「フッサールによると作用の実的内容とは、「具体的な部分であるか抽象的な部分であるかを問わず、作用の諸部分の全体であり、換言すれば、作用を実的に形成する部分体験の全体である」（XlX／1，S．4n）とされる。そしてこのような実的内容を扱うのは、純粋記述的心理学であるとされる悩。さてわたしたちはこの作用の実的な内容を体験し、所有しているのではあるが、その内容を知覚してはいない。わたしたちが知覚しているのは、現出している事物である。例えぱわたしたちが赤いポストを見ているとき、わたしたちはそのポストを体験しているのではなく、その色彩感覚を体験しているのであり、そのようなものが実的内容といわれる。この実的内容を解釈し、わたしたちにとって対象化させる働きが統握あるいは統覚である。フッサールはこの統握を「私に対する対象の存在を始めて形成する一つの体験性格である」（X脳／1，S．397）とか「統覚とは体験それ自身のうちに、記述的内容のうちに、感覚の生の存在に対して見いだされる付加物（血）erschuB）」（XlX／1，S．399）と定義している。先にも述べた通り志向性とは、「ある特定の仕方で理解されたものとしての何かを意識することjであり、この「として」の働きを統握が行っているのである。この統握の働きによって、実的内容が解釈され、志向的内容になるのであるが、フッサールは志向的内容として（一）志向的対象、（二）志向的質料（その志向的性質に対する）、（三）志向的本質の三つをあげている。意味とは「直観と何らかの関係を持ちうる意味志向のうちに伏在する」（Xl）（／1，S．352）のであるから、この志向的内容のどれかが理念的な意味に対応する作用における意味的なものであるはずである。それゆえこの志向的内容を吟味し、どの内容が意味に対応するものなのかを明らかにしなければならない。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,117-118P</p>
<p>キーワード:第二の意味で超越的,表意的作用,空虚,内在</p>
<p>「従ってフッサールの課題は、意識がいかにして意識の「外」にあるような超越的な対象に関わることができるのかということを明らかにするということになるのである。『論研』では意識の実的内容と志向的内容の区別が重要な役割を果たしているが、ここではむしろ超越と内在という対立が重要なものになる。普通実的ということで考えられうるのは、意識の内に本当に存在するようなもの、すなわち内在するものとして見出されるものである。しかし先にも述べたように、わたしたちが知覚しているような事物は、意識の内に実的に内在しているわけではないので、それらのものは超越的とよばれるのである。さらにフッサールはこれとは別の超越があるということを指摘する。そのことによって内在ということの意味も変化するという。そこで内在ということは、「絶対的で明蜥な所与性、絶対的な意味での自己所与性」（II，S．35）であるとされる。そして「対象的存在者を確かに思念ないし措定してはいるが、しかしそのものを直観していない認識は、すべて第二の意味で超越的である」（ebd．）とされる。それらの認識は、「直接的に直観され把捉されるものを超えでる」（ebd．）とされる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,49P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc57">言語的意味という言葉のややこしさ</span></h3>
<p>「言語的意味」という言葉もややこしさを加速させているのかもしれない｡質料的本質は「言葉の意味(言語的意味)」と解説されることがよくある｡言語によってはじめて遭遇できるものなのか､遭遇したものを言語で表現しているだけなのかによって大きく変わる問題である｡</p>
<p>我々は､言語を獲得していない状態でも「知覚」が可能である｡すくなくともフッサールはそう考えている｡一方で､(学問的)「認識」は､言語を獲得している必要があると考えているのである｡なぜなら､表意的作用は言語の獲得を前提としているからである｡</p>
<p>ザハヴィの解釈によれば､全ての意味が言語的であるという立場にフッサールは批判的である｡<b>何かを何かとして解釈するという作用(統握作用)は､言語習得以前に可能</b>なのである｡作用性質は孤立して存在できないのだから､作用質料､つまり志向的質料も一体となっている｡</p>
<p>つまり､言語習得の前に､志向的質料を我々は感覚内容に付与することができるのである｡</p>
<p>我々は言語を獲得していない状態でも､感性的知覚(直観)だけではなく､カテゴリー的な知覚(直観)が可能である｡そもそもいかなるカテゴリー的な知覚なしに､言語習得は可能になるとは思えない｡</p>
<p>ここもキーポイントだろう｡もちろん言語習得後のほうがより複雑な分節化が可能になるのかもしれないが､我々は言語習得前にも分節化が可能なのである｡</p>
<p>問題は､どの程度の複雑な作用が可能かということである｡綜合的な作用は言語習得前に可能だとしても､<b>イデア的な作用は難しいのではないだろうか</b>｡</p>
<p>また､命題や事態の直観は言語習得前でも可能だというのがフッサールの考えということになる｡だから､<b>志向的質料の結合体である「命題」を「言語的意味」と表現するのは個人的にややこしい</b>(追記:それゆえに､言語習得後にはじめて可能になるような命題的意味を<strong>述定的意味</strong>=言語的意味､言語の習得前にも可能な命題的意味を<strong>先述定的意味</strong>として区別するということになる)｡</p>
<p>より高次に思えるようなイデア的な作用､いわゆる「<b>形相的還元</b>」は言語の習得が不可欠なのだろうか｡言語の習得前の子供も､ある現象を事態として直観することは可能かもしれないが､しかし形相的還元まで可能なのだろうか｡</p>
<p>机の上にリンゴがあることは直観できても､リンゴの本質は甘さである､といった高度な､概念的分析はできるのか｡</p>
<p>とはいえ､子供がなんら本質､イデア的意味を直観できていないというわけではなく､顕在的に､主題的に､操作的に際立たせることが難しいということである｡体験しているが､経験していないのである｡ニュアンスはすこし違うかもしれないが､上手い絵を描くことはできるが､どうして描くことができるのか､技術を説明できない､「何となく」というレベルの次元である｡</p>
<p>仮に言語習得していたとしても､認識における部分的に適合している割合の違いが重要となる｡電話技師と我々なら電話に対して電話技師のほうがより認識における十全性が高いといえるのかもしれない｡老人と子供なら､子供のほうがインターネットやゲームに対して認識が優れているだろう｡我々は同じ対象を違った明証性で､違った志向的質料､違った志向的作用を伴って志向しているのであり､それぞれのパースペクティブが異なるという点が重要になる｡</p>
<p>いずれにせよそうした志向的質料のお陰で､志向的質料を媒介とすることによって､我々は(志向的)対象を構成することができるのであり､対象へと志向することができるのである｡A(感覚内容)をB(志向的質料)として解釈(志向的作用)することで､C(志向的対象)を志向するのである｡</p>
<p>そして我々は自然的態度において対象を主題的に意識しているのである｡</p>
<p>これが『論理学研究』における「志向性」の本質的な構造である｡その際､対象が現実に､実在しているかどうかに関わりなく､例え錯覚であっても､(ペガサスなどの)ファンタジーであっても分析が可能だと言われる｡それゆえに「対象」ではなく､「対象への媒介としての意味」に重きが置かれているといわれることがある｡</p>
<p>また､そのため､言語的指示の類比として志向性が考えられていると解釈されることがある｡フレーゲ的とも言われることがある｡</p>
<blockquote>
<p>「だから､フッサールは言語的意味が世界との先言語的かつ先述定的遭遇に根ざしているということを主張することになる｡この脈絡で先(pre-)という接頭辞を用いることは､当該の経験が言語(あるいは言語習得)に時間的に先立つという事実を指示しているだけではなく､世界を知覚的に直知することが言語的意味の恒久の条件であり源泉であるという事実をも指示している｡たとえある人が『深紅色』､『緋色』､『朱色』のような語句を知っていようとも､その人が盲目であり､それゆえこれらの色を見ることができないならば､その入り組んだ概念についての適切な認識を欠いているだろう｡先言語的経験というフッサールの概念は､すべての意味が本性上言語的であるという言語哲学の想定に対する批判を必然的に伴う｡フッサールにとって(メルロ=ポンティにとってのように)この考え方は知性主義的抽象の所産であり､知覚されたものがいったいどのように言語的記述にとっての手引として機能することができるかを把握することを不可能にする｡意味(Sinn)と感性(Sinnlichkeit)を相互に分離すること､対象の知覚的所与と対象の述定的分節化との間の連続性を否定することは､概念的に志向することと知覚との間の関係を不可解かつ偶然的にすることである｡先言語的な認知的能力の存在､同一化という先言語的総合の存在を否定すること､何かを何か<strong>として</strong>把握することは言語使用を前提とするということを主張することは､言語使用者がいったいどのように言語をそもそも学習することができたのかを理解することを不可能にするだけではなく､現代の発達心理学の成果と矛盾してもいる｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,42-43P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc58">カテゴリー的代表象</span></h3>
<h3><span id="toc59">カテゴリー的代表象とは､意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カテゴリー的代表象</strong></span>：</big>・志向的質料を補完することによって代表象として機能している心的紐帯を意味する｡心的紐帯とは基づけている作用同士の質料を結合するものであり､感覚内容と類比的なものである｡</p>
</div>
<p>前回は主に「感性的な代表象」を学んだ｡</p>
<p>つまり､感覚内容に､志向的質料が付与され､感覚内容が代表象として機能し､対象的契機を呈示するというものだった｡</p>
<p>今回はいわば「カテゴリー的な代表象」であり､カテゴリー的内容に志向的質料が付与され､カテゴリー的内容が代表象として機能し､対象的契機を呈示するということになる｡志向的質料が付与され､代表象として機能するようになったカテゴリー的内容を､カテゴリー的代表象というのである｡</p>
<blockquote>
<p>「感性的な知覚作用の代表象とは、或る質料によって対象に関係づけられている現出内容（対象の眺め・統握された感覚内容）であった。ではカテゴリー直観の代表とはどのようなものであろうか。カテゴリー的代表象説が捉えようとしているのは、簡潔に言えば感性的知覚における感覚内容に対応するような統握されるべき「思考の内容」、しかも充実度の差異を示すような内容である。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」､102P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc60">心的紐帯とは､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>心的紐帯(psychishesBand)</strong></span>：</big>・基づけている作用同士の質料を結合するものであり､感覚内容と類比的なものである｡「心的結合子」､「心的結合体」､「心的内容」とも呼ばれることがある｡心的紐帯自体は､感覚内容のように体験はされるが経験はされず､対象化もされず､志向的質料でもない､統握を待つ素材のようなものである｡その機能は語るが､一体どのような内容なのかについてフッサールはあまり語っていないという｡</p>
</div>
<p>カテゴリー的内容とカテゴリー的代表象は区別する必要がある｡そして志向的質料を付与される前のカテゴリー的内容を「心的紐帯」や「心的結合子」と呼ぶ｡感性的直観における「感覚内容」に相当する概念である｡</p>
<p>感覚内容ですら､それを孤立して捉えること､感覚内容が与えられる現場を捉えることが難しい｡「心的紐帯」なるものを捉えることはもっと難しいのかもしれない｡もっといえば､それらが本当に「在る」のかどうかわからないのである｡しかし「無い」としたらどうやって志向性が可能になるのか理解できなくなる概念である｡</p>
<p>また､心的紐帯に志向的質料が「付与」され､カテゴリー的代表象として機能するとはどういうことか､いまいちわからない｡</p>
<p>「付与」というより「補完」といったほうがわかりやすいかもしれない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bc5cb390bb372c256550c07e87d6b108.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3502" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bc5cb390bb372c256550c07e87d6b108.png" alt="" width="1046" height="515" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bc5cb390bb372c256550c07e87d6b108.png 1046w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bc5cb390bb372c256550c07e87d6b108-800x394.png 800w" sizes="(max-width: 1046px) 100vw, 1046px" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9be817f20dc1e619a389d80141ea3f79.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3503" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9be817f20dc1e619a389d80141ea3f79.png" alt="" width="1267" height="537" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9be817f20dc1e619a389d80141ea3f79.png 1267w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/9be817f20dc1e619a389d80141ea3f79-800x339.png 800w" sizes="(max-width: 1267px) 100vw, 1267px" /></a></p>
<p>図にするとこうなるだろう｡</p>
<p>心的紐帯は志向的質料の結合を促す「謎の内容」であり､志向的質料の結合はいわゆる「命題」である｡そう考えると､命題は純粋な質料から出来ているのではなく､謎の内容を含んでいる｡</p>
<p>S(志向的質料A)ist(心的紐帯)P(志向的質料a)という形である｡istが謎の内容にあたる｡たとえば「田中さんは優しい人だ」というのも､田中さんと優しい人を結びつける､関連付ける､いわば補完する心的紐帯が重要になる｡</p>
<p>そしてそれらが結合するだけではなく､その結合体が､呈示することが重要になる｡いわゆる対象的契機を呈示するのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:心的結合体</p>
<p>「しかし、『論理学研究』の代表象理論の構造では、カテゴリー的直観が充実化作用であるためには、そのうちに直観的代表が含まれていなければならない。しかし、カテゴリー的直観における直観的代表とはいかなるものなのだろうか。フッサールが最終的に提出するのは、基づける作用の質料（全体Aの知覚作用の質料と部分αの知覚作用の質料）を結合する「心的結合帯（psychishesBand）」(ibid.,701)なるものである。フッサールがこの心的結合帯を見出す仕方は、感性的直観の直観的代表である感覚を見出す際と類比的である。その心的結合帯は「顕在的な．．．．（ここで《顕在的》とは本来的、直観的という意味だが）同一化作用や集合作用などにおいて体験されている」(ibid.,702)といわれるのである。感性的直観において感覚が体験されるのと同様に、カテゴリー的直観においては心的結合帯が体験されている、というわけである」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」､7P</p>
<p>
「ここで言われている「心的内容」が一体どのような内容であるのか、フッサールは何も語らない。しかもそれは、基づけている作用同士の質料を結合するものである。この心的内容が「基づけられた対象の客観的統一として［事態の統一として］統握されるというかたちで、つまり基づけている対象同士の同一性関係や部分全体関係など［たとえば主述関係］として統握されるというかたちで、綜合する直観［カテゴリー直観］は成立している」12。カテゴリー形式（綜合のモメント・カテゴリー的モメント）を非感性的にであれ直観的に代表する内容は基づけている作用の質料を撒き込みながら統握される。フッサールが各質料を結合する心的内容もまた質料であると言わなかったのは、その内容もまた統握される内容であるからであり、まただからこそ、それは「どんな基づけられた作用にとっても唯一の内容」13、「共通要素」と言われたのである。質料を結合する唯一の内容（カテゴリー的代表象）が、主述関係や集合関係というカテゴリー形式の差異を示す統握意味によって統握され、事態を統一しているカテゴリー形式というモメントが「現出する」、これがフッサールの考えであった。たとえ、反省の上ではどんなに統握意味と代表象内容が区別できないにしてもである。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,104P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc61">「対象的契機」と「志向的対象」の違い</span></h4>
<p>ところで､先程のケースの場合の「対象的契機」と「志向的対象」の違いはいったいどこにあるのだろうか｡たとえば実物の机を見て､我々は全員「同じ志向的質料」を用いてその実物の机である「志向的対象」に志向するわけではない｡たとえば「母親の大事にしている何か」という志向的質料が付与されるかもしれないし､「後で勉強に使う何か」という志向的質料が付与されるかもしれない｡あるいは「単に木材でできているもの」かもしれないし､「ウォールナット材」として付与されるかもしれない｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:「何か」は『イデーンⅠ』において「未規定のX」などと呼ばれることになる｡なんの規定もされていない､裸の基体のようなものである｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:この「何か」に対する規定であるということがが対象性であり､「対象的契機」と言われる所以である｡志向的質料は確かに「どの対象が志向されるのかを規定する」役割をもっているが､しかしそれはあくまでも規定であり､志向的質料単体は媒介にすぎないのである(志向的対象とは区別される)｡「赤い」という志向的対象､「それ(何か)は赤い」という対象的契機､「それ」という志向的対象のようなイメージである｡すくなくとも『論理学研究』の時点では､志向的質料は志向的対象への媒介であり､かつ､この媒介の先に実際に対象(実在的対象や理念的対象)が存在せずとも志向性は成立すると考えられていた｡「何かは赤い」､「何かは甘い」というように我々は対象的契機を獲得するのであるが､しかしその何か､たとえば&#x1f34e;が存在しているかどうかに関係なく我々は志向的体験を遂行することが可能である｡それは錯誤の場合に分かりやすく､&#x1f34e;だと思っていたが実は&#x1f34a;だったということがありうる｡しかし&#x1f34e;だと信じていた間は､確かにそれは実在する対象として志向されていたのであり､本当は実在しなかったとしても「同じ現象学的､ないし心理学的記述」が得られるのである｡</p>
<p>このように､我々は「異なる志向的質料」によって､「同じ志向的対象」へ志向することがある｡「異なる志向的質料」ならば､当然､「異なる対象的契機」が現出することになるだろう｡それゆえに､「志向的対象」と「志向的質料」､「対象的契機」は異なるというわけである｡</p>
<p>たとえば単に「板を支えるもの」として捉えただけの脚の志向的質料を述語として構成した事態と､「傷つけないように先端に保護剤があるもの」として構成した事態というように､対象的契機を複数にわけて考えることができる｡記号的に表現すれば｡An×Bn→Cn､Cn→Dといったイメージだろうか｡Aは感覚内容や心的紐帯､Bは志向的質料､Cは対象的契機､Dは志向的対象である｡</p>
<p>複数の対象的契機はまとめられ､「椅子は脚をもっている」という事態､つまり志向的対象が現出する｡</p>
<p>事態は実在物ではないが､しかし対象ではある｡いわゆる「理念的対象」であり､「理念的存在」である｡そして「理念的対象」を志向するために､われわれは「質料的内容」を媒介とするのである｡</p>
<p>１:志向的質料が結合された段階では､まだ「志向的質料の結合体」である｡</p>
<p>そこから「対象的契機」を呈示することによって､対象性を獲得する｡つまり､存在するものとしてみなされるのである｡</p>
<p>２:なんら対象性を獲得しない場合､それを我々は志向性とは呼ばない｡</p>
<p>志向性とは､「何か」の意識であり､この「何か」とは対象であり､存在である｡それが実在的であれ､理念的であれ､中立的であれ､「対象」を構成する作用が志向性である｡そしてカテゴリー的直観(知覚作用)は志向性のひとつである｡</p>
<p>３:対象的契機はほとんどの場合単一ではなく､対象的諸契機という形で現出する｡</p>
<p>机に脚があるという事態に対して､我々は単一の事態のみを呈示するわけではないだろう｡そもそも時間的な問題がある以上､複数にならざるをえないだろう｡たとえば目の前に机があるという事態を直観する場合も､刻々と時間は過ぎていくのだから､「目の前にあった机」と「目の前にある机」と「目の前にあろう机」というように複数の事態､複数の対象的契機が呈示されるのだろう｡</p>
<p>また､こうした感性的直観を出発点としつつも､そこから離れることができるカテゴリー的作用も対象的契機は複数になるといえるのかもしれない｡</p>
<p>そもそも今見えている机と今見えていない想像の机を志向的質料として媒介する時点で､それは複数の対象的契機になるのだろう｡そして両者に共通する､なんらかの抽象化された対象が､理念的対象として､つまり机の本質としてまとめあげられ､志向されるのだろう｡</p>
<p>前回学んだように､「対象的契機」は「本来的に呈示されない対象的契機への隣接的な仕方での関係を可能にする働き」もある｡</p>
<p>この作用は「表意的志向」と呼ばれるが､「表意的作用」とは違う作用なので混同しないようにする必要がある｡</p>
<p>たとえばサイコロの１の面しか実際には感覚内容が与えられていないが､２から６の面も､隣接的な仕方で捉えていて､対象的契機を隣接的に呈示しているのである｡</p>
<p>であるとすれば､カテゴリー的作用も同様に､そのような隣接的な呈示がありうるのだろう｡</p>
<h4><span id="toc62">「基づけている作用同士の質料を結合するもの」とは</span></h4>
<p>第一作用における「全体知覚の作用」における「質料」と､第二作用における「部分知覚の作用」における「質料」を結合するものが謎である｡</p>
<p>たとえば「昨日食べたリンゴが机の上にある」という命題は「結合された質料(志向的質料)」である｡ここで重要なのは､カテゴリー的代表象が結合しているのは「基づけている作用の代表象や感覚内容」ではないということである｡ここがきわめて大事なのだが､いまいち分かりにくい｡</p>
<p>第一作用の「全体的知覚」はいわゆる「端的な知覚」なのだから､当然「感覚内容」が契機に含まれている｡つまり､「感覚内容」が「統握作用」によって「志向的質料」を付与され､「代表象」として機能し､「対象的契機」を現出し､それらがまとまって「志向的対象(現出物)」が構成されているのである｡諸現出が現出物へと突破するといわれる｡</p>
<p>このようにして例えば机を見る場合､自然的態度においては主題的に「机(志向的対象)」が見られているのである｡脚や素材､用途といった志向的質料は意識があまり向けられていない｡もちろん､カテゴリー的作用においても同様であり､志向的対象が主題的に見られている｡</p>
<p>第二の作用においては全体的知覚が分節されてく｡つまり､部分志向が際立ってくる｡この場合も「感覚内容」が伴っている｡もちろん､「志向的質料」も伴っている｡</p>
<p>例えば机の「脚」に注意が向き､「脚」が対象化されるようになる｡いわば脚の感覚内容に統握作用によって志向的質料が付与されるのである｡</p>
<p>この時点ではカテゴリー的代表象はまだ機能していないだろう｡安直な比喩でいえば､肉やじゃがいも､野菜といった素材(志向的質料)が用意されているだけの段階であり､カレー(命題)という料理はできていない｡</p>
<p>そして第三の作用において､第一の作用と第二の作用が統一される｡つまり結合するのである｡</p>
<p>結合されるのは「志向的質料」というのがポイントであった｡端的にいえば「意味」であり､「何かが何かとして解釈される」の「何かとして」の部分である｡対象が「何であるか」を決定している質料とも呼ばれる｡</p>
<p>例えば「机全体の質料」と､「机の部分である脚」の質料が､同じ質料を共有しているゆえに､結合されるという｡たしかに机は脚の質料も含んでいるだろうし､全体的知覚においては含蓄的､潜在的に志向されていた｡</p>
<p>しかし同じ質料をもっているからといって､お互いがなんの媒介もなしにくっつくわけではないだろう｡</p>
<p>「志向的質料(全体)」と「志向的質料(部分)」が「心的紐帯」によって結合することはわかる｡つまり､「S ist P」､「SはPである」という形で結合されるわけであり､両者が「関係づけられる」わけである｡</p>
<p>しかし「心的紐帯」なるものはいったい何者なのかについては<b>フッサールはあまり語っていない</b>という｡しかもカテゴリー的代表象という考え方は後年撤回されることになる｡カレーの比喩で言えば具材を繋げる水や小麦粉のようなものだが､しかし水や小麦粉は肉や野菜と同じ次元の素材なので比喩としては正しくないのかもしれない｡具材ではない､つまり志向的質料ではない謎のなにかなのである｡</p>
<p>例えば端的な知覚(感性的直観)においては「感覚内容」が代表象であるとされていた｡それらは言語化できないような何かであり､志向的質料とは区別されている｡</p>
<p>しかしカテゴリー的作用においては､そのような「感覚内容」がリンゴの本質を呈示してくるわけではない｡そこで､「感覚内容」とアナロジー的に､カテゴリー的作用にも「心的紐帯」のようなものがあるのではないかとフッサールは考えたのである｡感覚的代表象(端的な代表象)ではなく､カテゴリー的代表象が呈示してくるのである｡</p>
<p>たとえば染谷昌義さんの解釈によれば､フッサールはカテゴリー的直観を感性的直観の「<b>類比</b>(一方で成り立つのと並行的な性質が他方でも成り立つこと)」として考えているという｡いわば流用しているわけである｡</p>
<p>また､福島裕介さんの解釈でも「心的結合帯を見出す仕方は、感性的直観の直観的代表である感覚を見出す際と類比的」だという｡</p>
<blockquote>
<p>「更なる問題点はカテゴリー的代表象理論にある。フッサールは1920年に書かれた『論理学研究』第二版への序文において、カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していないと述べる(ⅩⅨ/2,535)。フッサール自身はその理由について何も明示的に述べてはいないが、感性的直観である知覚とのアナロジーによって、カテゴリー的代表としての心的結合帯なるものを見出す仕方には、やはり問題があったように思われる。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」､9P</p>
<p>「周知のようにフッサールは『論理学研究』第六研究において、伝統的に感性にのみ限定されていた直観概念を拡大し、感性的直観に基づけられた直観、すなわちカテゴリー直観を導入した。これによって、空虚な志向としての単なる言語表現がカテゴリー直観によって充実されてこそ、言明が表現する通りの事柄をわたしたちは「知る」ことができるという独自の認識論を提起したのである。しかしながら、その反面カテゴリー直観の導入は、大きな難問を抱え込むことになる。それが後にフッサール自身が破棄することになる「カテゴリー的代表象説」である。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」101P</p>
<p>「ここで言われている「心的内容」が一体どのような内容であるのか、フッサールは何も語らない。しかもそれは、基づけている作用同士の質料を結合するものである。この心的内容が「基づけられた対象の客観的統一として［事態の統一として］統握されるというかたちで、つまり基づけている対象同士の同一性関係や部分全体関係など［たとえば主述関係］として統握されるというかたちで、綜合する直観［カテゴリー直観］は成立している」12。カテゴリー形式（綜合のモメント・カテゴリー的モメント）を非感性的にであれ直観的に代表する内容は基づけている作用の質料を撒き込みながら統握される。フッサールが各質料を結合する心的内容もまた質料であると言わなかったのは、その内容もまた統握される内容であるからであり、まただからこそ、それは「どんな基づけられた作用にとっても唯一の内容」13、「共通要素」と言われたのである。質料を結合する唯一の内容（カテゴリー的代表象）が、主述関係や集合関係というカテゴリー形式の差異を示す統握意味によって統握され、事態を統一しているカテゴリー形式というモメントが「現出する」、これがフッサールの考えであった。たとえ、反省の上ではどんなに統握意味と代表象内容が区別できないにしてもである。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,104P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc63">カテゴリー的代表象がなぜ必要なのか</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">どんな直観作用も､作用性質､作用質料､代表象という３つの側面をもっている｡</li>
<li class="sample">感性的直観においては､代表象は作用質料が付与された「感覚内容」である｡</li>
<li class="sample">カテゴリー的直観においては「感覚内容」がない｡であるとすれば､作用性質と作用質料しかなく､３つの側面をもつという条件を満たすことが出来ない｡</li>
<li class="sample">そもそも「代表象」はあらゆる直観の本質であり､欠くことはできない｡なぜなら､<b>ある志向性が空虚であるか充実であるかを決めるのは代表象の有無だから</b>である｡表意的作用は代表象がないゆえに､空虚的であり､感性的直観やカテゴリー的直観は代表象があるゆえに､充実的なのである｡</li>
</ol>
<p>表意的作用はカテゴリー的作用の一種であるとも表現されることがある｡カテゴリー的作用が空虚的であるケースを「表意的作用」と表現するのである｡</p>
<p>個人的にここがすこしややこしい｡表意的作用は言語を前提としていると私は解釈していたからだ｡もし言語を前提とせずに表意的作用が可能だとすれば､認識も言語を前提とせずに可能となるのでしょうか｡</p>
<p>しかし､すくなくとも学問的認識はやはり言語を前提とするだろう｡ザハヴィの言葉で言えば､「<b>先言語的な</b><b>認知</b><b>能力</b>」に相当するものが､言語を前提としない表意的作用と直観作用の一致なのかもしれない｡</p>
<p>フッサールは「<b>学問的認識の可能性を言語を考慮に入れることなしに理解することは出来ない</b>」と述べているからである｡このケースで言えば､単純な認識と複雑な認識というふうに分けることができるのかもしれない｡</p>
<p>表意的作用(空虚的なカテゴリー的作用)とカテゴリー的作用(充実的なカテゴリー的作用)の違いが単に「心的紐帯」の有無にあるとすれば､「志向的質料」はどうなのか｡そもそも心的紐帯が全くないカテゴリー的作用というのは可能なのか｡</p>
<p>ここも個人的にややこしい｡というより理解が灰色の部分である｡よく､この場合の志向的質料は「等しい」とか､「合致する」といったように表現されることがある｡</p>
<p>有り有りと直観的に志向されているか､それとも非直観的に志向されているかの違いしかなく､その違いを「心的紐帯」の有無でしか判断できないのだろうか｡</p>
<p>カテゴリー的作用は感性的作用に基づいているから､その感性的作用における「感覚内容」の有無も重要になってくるだろう｡ただし､それだけでは､単体では表意的作用において志向されていた「事態」は充実されないのである｡机や脚は何らかの形で充実されるかもしれないが､「机は脚をもつ」という<b>事態は充実されない</b>のである｡</p>
<p>やはり､心的紐帯というものが必要になり､またそれが代表象として機能することで事態が命題(志向的質料の結合体)によって充実されるという方式が必要とされるのである｡</p>
<p>表意的作用において空虚的に､志向的質料(命題)を媒介として志向されていた志向的対象(事態)と､カテゴリー的作用において充実的に､志向的質料(命題)を媒介として志向されていた志向的対象(事態)というふうに分類できる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/d85872a2bc7298ef739b26d8a00822da.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3505" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/d85872a2bc7298ef739b26d8a00822da.png" alt="" width="810" height="577" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/d85872a2bc7298ef739b26d8a00822da.png 810w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/d85872a2bc7298ef739b26d8a00822da-800x570.png 800w" sizes="(max-width: 810px) 100vw, 810px" /></a></p>
<p>表意的作用が充実される図をまとめるとこうなるだろう｡</p>
<p>認識は空虚的な表意的作用が直観作用において充実されることであり､その充実の度合いが十全的な場合は「真理」である｡</p>
<p>また､前のスライドでは表意的作用(非直観的作用)では「言語的意味(イデア的意味)」であり､直観的作用では「統握意味(知覚的意味)」だと述べた｡どちらも志向的質料です｡代表象が充実の機能を満たしている場合は知覚的意味といったほうがいいのかもしれない｡そして充実の機能として志向的質料を補完する材料が心的紐帯や感覚内容という話だった｡</p>
<p>つまり､言語的意味と知覚的意味の違いは「代表象の有無」であり､志向的質料としては等しいのだろうか｡</p>
<p>たとえば「机は脚をもっている」と表意的作用によって志向するとする｡この場合､空虚的である､つまり代表象が欠けているにも関わらず「志向的質料」を媒介にして「志向的対象」が志向されている｡この欠けているという説明が正しいのかどうかわからない｡そもそも代表象がない状態でどうやって対象的契機が呈示されるのだろうか｡志向的質料が単体で呈示してくるのだろうか｡それとも､何らかの､乏しい代表象が付随しているのだろうか｡あるいは表意的作用も知覚作用に基づいているゆえに､そこからなんらかの代表象を利用するのだろうか｡ひとまずこの問題は置いておく｡</p>
<p>実際に机を見た場合､まず感性的直観において､机が知覚されるだろう｡</p>
<p>つまり､「感覚内容」に「机の何らかの一般的な意味(統握意味､知覚的意味)」が付与され､それらが代表象となり､対象的契機を呈示し､それらがまとめられ､「志向的対象」が構成される｡</p>
<p>そして次に､カテゴリー的作用が生じる｡その際に､机という全体から机の脚という部分が際立ってくる｡つまり､分節化されてくる｡さらに机は脚をもつという新しい対象として捉えられていく｡</p>
<p>この場合､「机は脚をもつ」という新たな「志向的質料(命題)」を媒介にして､我々は「机は脚をもつ」という「志向的対象(カテゴリー的対象､理念的対象､事態)」を志向していることになる｡</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは直観のカテゴリー的な作用はそれがどのような種類のものであれ、(1)性質、(2)志向的質料（統握意味）、そして(3)代表の3つの側面を持っているとする。そしてこの前提から主題となる疑問をひき出して見せる。知覚の場合は質料と代表の違いは明確だが、カテゴリー的作用の場合、それらは代表を持たず代表はそのカテゴリー的作用を基づけている何らかの作用のうちにしかないということになってしまう。これは3つの前提に反するというわけである。しかしフッサールは、代表が（カテゴリー的直観をも含む）直観全体にとって本質的なものであるという立場を崩さない。そこでカテゴリー的代表象(kategorialeRepresentation)の概念が要請されるのである。空虚であるということと充実化されていることとの相違はまさに代表の有無に左右されるのであり、代表こそが充実を与えるというのが『論理学研究』におけるフッサールの立場であった。カテゴリー的直観においても空虚な表意とその充実という区別は当然存在している。したがって単に対象を「表意的に(signitiv)」志向する作用も、それと並行して同じ対象をそれ自身として現前化する作用もカテゴリー的に直観するという事態のうちに含まれていることになる。しかし両者の作用の志向的質料が同じである以上、カテゴリー的直観についても、新しい対象を構成する成分が他ならぬ代表象であり、対照的なものを内容的に（質料的にではなく）提示し、体験された内容を思念された対象の代表として統握するのだと理解せざるを得ない、としている。」<br />
越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 ,104-105P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc64">【補論】命題と事態の違い</span></h3>
<p>なかなかややこしい｡意味と対象が違うのは理解できるが､しかし言葉でどのように表現したら良いのだろうか｡</p>
<p>まず最初の区別は､「机は脚をもっている」という志向的質料は「命題」であり､「机は脚をもっている」という志向的対象は「事態」であるという区別である｡しかしこれだとややこしさがどこかに残っている気がする｡「机は脚をもっている」という点が重なっているからである｡</p>
<p>あるいは「机は脚をもっている」という志向的質料によって､「目の前の<b>ある事態</b>」が志向されているというほうがシンプルである｡</p>
<p>その「目の前のある事態」がどのような意味で媒介されるのかは多様であるが､「目の前のある事態」は各人で同じだというわけである｡もちろん「目の前」ではなく､イデア的なある事態とすれば､「理念的対象」になるだろう｡目の前のある事態､形式化されたある事態､抽象化されたある事態､中立化されたある事態というように分類していくことができる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/Face_or_vase_ata_01.svg_.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3506" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/Face_or_vase_ata_01.svg_.png" alt="" width="294" height="385" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/Face_or_vase_ata_01.svg_.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/Face_or_vase_ata_01.svg_-611x800.png 611w" sizes="(max-width: 294px) 100vw, 294px" /></a></p>
<p>たとえば､「脚は机をもっている」という意味によって「目の前のある事態」が志向されているケースもありうる｡この場合は「机は脚をもっている」とは違う志向的質料だろう｡</p>
<p>しかし､同じ「目の前のある事態」が志向されているのである｡この話はルビンの壺を思い出させる｡人として見ようが､壺としてみようが､どちらも同じ「目の前のあるもの(絵)」を志向しているのである(絵に対する志向だとすこし代表象の話がややこしいが省略する)｡</p>
<p>「かわいい動物」として志向されたり､「食用の動物」として志向されたりするが､しかし同じ&#x1f416;という「或るもの」が志向されている｡</p>
<p>ある人は「自分の兄」として志向し､ある人は「同僚」として志向するが､同じ&#x1f468;という「或るもの」が志向されているのである｡</p>
<p>こう考えると､志向的対象は説明する際にぼやけた表現のほうがわかりやすいのかもしれない｡</p>
<p>「その事態」とか「その本質」とか､そういうイメージである｡こうした考えがノエシス､ノエマ構造におけるノエマの「X」に繋がっていくと考えれば理解が進んでいく気がする｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bac2ba09b6ccc87fbd76c8d80b98b6de.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3507" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/bac2ba09b6ccc87fbd76c8d80b98b6de.png" alt="" width="351" height="208" /></a></p>
<p>『イデーンⅠ』では志向的対象は「<b>規定可能なX</b>」と表現されている(もちろん､解釈がわかれる問題ではある)｡</p>
<p>つまり、述語である以上、なんらかの「<b>或るもの</b>」についての述語であるという話。◯◯は甘い、◯◯は酸っぱい、◯◯は丸っぽい、〇〇は種があるというように複数の述語があり、この〇〇が「或るもの」にあたる。</p>
<p>そしてこの「或るもの」をフッサールは諸述語の「統一点」、「結合点、「担い手」として表現していく。「<b>基体</b>」とも表現される。</p>
<p>たとえばイエナの勝者とワーテルローの敗者も、「或るもの」に対する異なる述語である(ここではナポレオンを想定している)。</p>
<p>命題と事態は意味と対象の区別であると考えていけばわかりやすいのかもしれない｡ただし､あくまでも『論理学研究』の時点では感性的直観における意味は命題的ではなく､<b>カテゴリー的直観特有である</b>点に注意する必要がある｡</p>
<p>だからこそ､『イデーンⅠ』において知覚的意味が命題として捉えられることを「(異常な)拡張」というのである｡</p>
<p>カテゴリー的直観に特有だった「命題」としての志向的質料が感性的直観にまで拡張されたということである｡それゆえに､心的紐帯というものが必要なくなったとも考えられる(感覚内容のみでOKになった)｡そしてより複雑な作用であるイデア的作用が個別に「<b>形相的還元</b>」として扱われるようになっていったイメージである｡</p>
<p>私の中でごちゃごちゃになってしまっていたものがすこし解決した気がする｡</p>
<blockquote>
<p>「フッサールはこうして還元を経て獲得された『純粋現象』を『意味』としても捉え直し､分析を進めてゆくことになるのだが､このような『意味』の用法に関して､『イデーンⅠ』のある注で次のように述べていることを忘れてはならないだろう｡そこで彼は『《意味》という概念の､異常ではあるがそれなりに許容できる拡張を敢えて行う』と述べているのである｡」<br />
斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,85P</p>
<p>「『イデーンI」における「ノエマ」(「心理学的ノエマ」)は,その中心に核(Kern)をもつとされ,この核は諸述語(Prädikate)とその担い手であるXからなるとされている。このXは,それ自体においては何ものでもない空虚な存在であり、単に諸述語に統一を与える結節点である。そして,このような諸述語からなる「ノエマ的意味」に関するフッサールの叙述は,先に<br />
見た「本質直観」に関する叙述と大きく重なっている。とりわけ注目すべきことは,「ノエマ」を「命題(文Satz)」として示しても構わないとフッサールが述べていることである。「これによって命題(Satz)という概念は,並はずれた仕方で,おそらくは怪訝にも思えるほど拡大されたわけだが,しかしやはり,ある重要な本質統一の枠内において拡大されたのである」(1,305)フッサールは言う。」<br />
宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」44~45P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc65">カテゴリー的代表象の問題点</span></h3>
<h4><span id="toc66">カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していない</span></h4>
<p>フッサールは1920年に「カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していない」と述べている｡そして､<b>その理由については何も明示的に述べていない</b>という｡</p>
<p>したがって､フッサールが直接的に問題点を述べたというより､フッサールが一体何を問題と考えたのか読者側が解釈する必要がある｡その解釈は『論理学研究』の中身から､あるいはそれ以降の変遷から探っていく必要が出てくる｡</p>
<p>多くの論文を見て共通して指摘されている問題点は､「<b>感性的直観である知覚とのアナロジーによって、カテゴリー的代表としての心的結合帯なるものを見出す仕方</b>」であるという点である｡これに基本的に尽きるといっていいのだろう｡</p>
<p>感性的直観には感覚内容という代表象がある｡それゆえにカテゴリー的直観にもそれに対応する心的紐帯という代表象があると類比的に考えるのは単純すぎないかというわけである｡しかも心的紐帯が一体何者であるかについてフッサールは『論理学研究』では深く語っていない(他の著作でも)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:カテゴリー的代表象を是認していない<br />
「更なる問題点はカテゴリー的代表象理論にある。フッサールは1920年に書かれた『論理学研究』第二版への序文において、カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していないと述べる(ⅩⅨ/2,535)。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」､9P<br />
キーワード:アナロジー<br />
「更なる問題点はカテゴリー的代表象理論にある。フッサールは1920年に書かれた『論理学研究』第二版への序文において、カテゴリー的代表象についての理論をもはや是認していないと述べる(ⅩⅨ/2,535)。フッサール自身はその理由について何も明示的に述べてはいないが、感性的直観である知覚とのアナロジーによって、カテゴリー的代表としての心的結合帯なるものを見出す仕方には、やはり問題があったように思われる。いずれにせよ、このフッサールの言葉を真剣に受け取るならば、私たちはカテゴリー的代表象に代わる新たな充実化の理論を探し求めなければならない。とりわけistを含む命題的意義志向の充実化は、現象学的認識論にとって必須の課題である。この新たな理論は充実概念の展開によって行われる。『論理学研究』のフッサールは知覚における充実をもっぱら直観的代表すなわち感覚のうちに見出していた。フッサールは感覚を孤立して考察するのではなく、統握との連関において感覚が果たす機能の面から充実概念を捉えていた(vgl.ibid.,616)という点は十分に考慮されなければならないとしても、やはり『論理学研究』における充実は、感覚という体験の実的契機と密接に結びついた仕方で考察されていた。この『論理学研究』における感覚に偏重した充実概念は、『イデーンⅠ』において新たな仕方で捉え直される。この点については、本稿3.3で確認する。」<br />
福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」､9P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc67">カテゴリー的代表象は反省によってはうまく見いだせない問題</span></h4>
<p>たとえば染谷さんによれば､以下の問題があるという｡</p>
<p>カテゴリー的代表象には例えば「&#8230;は~である」という形式がある｡この形式の場合､知覚と想像ではカテゴリー的形式の違いが見当たらないという｡</p>
<p>たとえば「カラスが飛び立つ」という知覚と､「ペガサスが飛び立つ」という想像の場合で､両者を繋ぐものは同じである｡つまり､ある一回だけの作用だけに与えられている独自の代表というものがないのではないかというわけである｡</p>
<p>感性的直観の場合は､そのつど感覚内容が違う｡それは経験されてはいないけれども､体験されているものである｡たとえばちょっとした陰影の違い､身体の向きの違いによって我々に与えられる感覚内容はその都度違う｡極端な話､時間は止まらないのだから､ほんの僅かでも時間が進む限り､感覚内容も変化するのである｡</p>
<p>つまり､感性的直観の場合には､そのつどの作用において､そのつどの､固有の感覚内容が､独自の代表がある｡</p>
<p>しかしカテゴリー的代表の場合はどうだろうか｡「&#8230;は&#8230;である｡(istないしis)」はそのつどの作用において変化するだろうか｡</p>
<p>フッサールはこうした疑問に対して､「<b>カテゴリー的代表象は反省によってはうまく見いだせない</b>」という｡なぜなら､統握された意味に染み込んでいるからだという｡そのため､「ist」や「and」にしか注目できないという｡これらが「<b>共通したもの</b>」と言われる｡つまり､実態としてはそのつど異なるカテゴリー的形式だったとしても､我々は同じようなカテゴリー的形式にしか注目できないというわけである｡そういうわけで､そもそも心的紐帯と志向的質料の違いも曖昧なのである｡結局は志向的質料的に心的紐帯が見出されるからである｡つまり､なんらかの一般的な心的紐帯しかうまく見いだせないのである｡</p>
<p>反省によって確認できないものがあるというのはすこし問題があるのかもしれない｡そうした違いが類比によってあるべきだというような､非直観的な､抽象的な構築(構成ではなく)になってはいないだろうか(同様に､感覚内容も構築的にあるべきだ､ないと全てが説明できなくなるような､原事実的なものと解釈されることになるのだが)｡</p>
<p>もしカテゴリー的代表象に独自の代表象がないとすれば､感性的代表象の類比として考えるやり方は間違っているのではないか｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">カテゴリー的形式は､何らかの形で充実される｡</li>
<li class="sample">しかし､その充実の説明を感性的代表象の単なる類比による「カテゴリー的代表象」で説明することには問題がある｡</li>
<li class="sample">もし「カテゴリー的代表象」で説明することができれなければ､意義志向がいかにして意義充実され､認識が成り立つのかという「意義充実化」の問題が不明瞭になってしまう｡</li>
</ol>
<p>たとえばハイデガーやガダマーは「解釈学的アプローチ」によってカテゴリー的代表象の議論を発展させた｡あるいは認知科学､社会構築主義､ポスト現象学､脳科学といった別の分野でも議論がある｡それは置いておいて､フッサールは『論理学研究』以降､認識の成立をどのようにして説明していったのか､いわば改善していったのかを後で見ていくことになる(別の記事で)｡</p>
<blockquote>
<p>・キーワード:反省,共通要素,類比<br />
「以上で見てきたカテゴリー形式の代表象の問題点をまとめてみよう。第一に、フッサールが譲歩しているのにも拘わらず、カテゴリー形式、たとえば「…は～である」という形式に関する限り、その「知覚」と「想像」とで、また「知覚」内部においても「カラスが飛び立つ」と「ガラスが割れている」とでは、述定形式の「意味」の上でどのような差異があるのか判然としない。そして第二に、それらカテゴリー形式の内容としては、一種類のものしか認められないというのであれば、どうしてカテゴリー形式に関しては「同じ内容」と言ってはいけないのだろうか。「共通要素」と言った回りくどい言い方をするのだろうか。結局のところ、カテゴリー的対象（事態）やカテゴリー形式に関しては、それらの直観的代表象として一体何が役立ち得るのかは、そもそもカテゴリー直観が端的な感性的直観でない以上、感性的直観との類比によっては明らかにできないと思われる。命題的構造を持った思考内容に関して、それが充実されることを認めるにしても、だからといって思考内容自身に感覚内容に類した性格を帰属できることは即座には帰結しない。おそらくフッサールがカテゴリー的代表象説を破棄した理由もこの点にあると予想される。」<br />
染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,104-105P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc68">次回の予定</span></h3>
<p>次回､本質直観と形相的還元を学んでいく予定である｡</p>
<p>本質直観や形相的還元､及びその周辺の新しい用語や説明によってカテゴリー的代表象というものがなくても､意義充実化を説明できるようになるかどうかが重要になってくる｡</p>
<p>それらが終わり次第､超越論的還元を学び､ようやくその次にノエシス・ノエマを主題的に扱っていきたい｡ただし､超越論的還元というテーマも非常に複雑な問題であり､違う概念を主題に理解する必要が生じ､長引くかもしれない｡</p>
<h2><span id="toc69">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc70">今回の参考になる文献</span></h3>
<h4><span id="toc71">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4bsDI33">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</a></p>
<h3><span id="toc72">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc73">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IZy3FD">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></p>
<h4><span id="toc74">谷徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3ZOIL7M">谷徹「これが現象学だ」</a></p>
<h4><span id="toc75">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3yOvz6C">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></p>
<h4><span id="toc76">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/40ihCcR">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></p>
<h4><span id="toc77">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oJEWCN">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></p>
<h3><span id="toc78">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc79">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc80">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc81">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc82">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc83">参考論文リスト</span></h3>
<p>※次回の記事と合わせたものなので､今回だけの参照ではないです</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 (<a href="https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/2529">URL</a>)</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/26/0/26_1/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2441/17452_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf">URL</a>)</p>
<p>宮原有「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiW5rbt2Pj7AhWysVYBHXOyATcQFnoECA8QAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F13446554%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw2mOEgXDu8hhOlMpOe9eq5M">URL</a>)</p>
<p>宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」(<a href="https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=116&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>橋詰史晶「フッサール現象学における普遍性の問題」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwifz_G1gqb8AhUClFYBHTvOAUsQFnoECAoQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F144468215.pdf&amp;usg=AOvVaw091hClckfDy6BEFnj9u-QG">URL</a>)</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/25/2/25_2_111/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>高野考「意味と時間 フッサールにおける意味の最根源への遡行」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwia2pnYubz9AhU-rlYBHVZaA7cQFnoECBIQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D10571%26item_no%3D1%26attribute_id%3D20%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw2Wr3rIHTyqQoJ_aPTrtcej">URL</a>)</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/39/0/39_102/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p>山下哲朗「カテゴリー的直観と存在への問い」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/235974463.pdf">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念表象媒体の研究の一環として」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1223&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29#">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける像意識と想像――１９１２年から１９１８年にかけての思想の進展」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」(<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/11/kiyou14_all.pdf#page=23">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1318&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29">URL</a>)</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/223195751.pdf">URL</a>)</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no118_10.pdf">URL</a>)</p>
<p>西尾大樹「現象学的真理論の起源､フッサールとラスクの真理概念」(<a href="https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/14812">URL</a>)</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」(<a href="http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.2_2004/someya.pdf">URL</a>)</p>
<p>村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」(<a href="https://www.crc.mie-u.ac.jp/seeds/pdf/20091217-114412_gai1.pdf">URL</a>)</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwia7Yeu-6L8AhVns1YBHYuKDs04ChAWegQIChAB&amp;url=https%3A%2F%2Fmuroran-it.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8373%26item_no%3D1%26attribute_id%3D24%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw3GnkqKy-XeSOME9bnml_ux">URL</a>)</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2014/65/2014_242/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p>福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/96282/1/Tronso_35_04.pdf">URL</a>)</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/56649305.pdf">URL)</a></p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける直観の可能性について」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwjVv-ni7aGEAxXjh1YBHbF9DOsQFnoECBkQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F23962%2Ffiles%2F10.pdf&amp;usg=AOvVaw289BOckMoVy-Vv_hfMjAUk&amp;opi=89978449">URL</a>)</p>
<p>鈴木康文「初期フッサールにおける注意の問題」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/41583">URL</a>)</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/44/0/44_94/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 11 Feb 2024 02:13:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[フッサールの現象学における代表象理論とはなにかについて説明している記事です｡]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">フッサールのプロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">その他</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">統握図式の整理</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">前置き</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">統握の多義性</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">『論理学研究』における統握図式</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">『物と空間』における統握図式</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">『イデーンⅠ』における統握図式</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">統握図式の修正</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">時間的な関係の問題</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">『受動的総合の分析』以降の統握図式</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">内的時間意識と統握図式の関連</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">上方と下方の問題</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">『経験と判断』,類型論</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">意識のはたらきの共通了解</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">代表象とはなにか</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">客観化的統握と理解的統握</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">客観化的統握とはなにか､意味</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">理解的統握とはなにか､意味</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">「理解的統握」は「客観化的統握」に基づけられている</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">「意味」の中身の謎問題</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">志向的作用とは</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">表意的作用のケース</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">対象を志向する様々な仕方(作用性質)､所与の仕方の違いについて(最も空虚な作用､最も充実な作用)</a></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">志向的質料とは</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">作用質料の機能について掘り下げて理解していく</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">志向的質料による「指し示し」</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">客観化作用とはなにか</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">客観化作用の分類</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">基づけ関係の例</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">直観的志向の分類(想像的志向､純粋知覚的志向)</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">表意的志向とはなにか､意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">直観的志向と表意的志向の合体が知覚(全体的知覚)</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">否定されるべき知覚の代表象理論</a><ol><li><a href="#toc38" tabindex="0">否定されるべき知覚の代表象理論とは､意味</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">現象主義とはなにか､意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">感覚内容の契機と対象的契機</a><ol><li><a href="#toc41" tabindex="0">相互的基づけと一方的基づけ</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">感覚内容と対象的契機の違いとは</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">肯定されるべき知覚の代表象理論</a><ol><li><a href="#toc44" tabindex="0"> </a></li></ol></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">代表象の形式と端的な代表象</a><ol><li><a href="#toc46" tabindex="0">【コラム】代表するとはそもそも？？</a></li></ol></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">指示と呈示の違いとはなにか</a><ol><li><a href="#toc48" tabindex="0">感覚内容の呈示によって、対象的契機は形成される</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">『受動的総合の分析』の言葉を使えば「触発」のイメージ</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">純粋直観的な統握と表意的な統握</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">感覚内容は対象的契機の対応関係</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">過剰思念とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">知覚の代表象理論の難点</a></li></ol></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc55" tabindex="0">今回の参考になる文献</a><ol><li><a href="#toc56" tabindex="0">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</a></li></ol></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc58" tabindex="0">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">谷徹「これが現象学だ」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc64" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">参考論文リスト</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/E_2uZOp9FrI" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約」はyoutubeの動画の<span style="color: #00ff00;">冒頭</span>にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">フッサールのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2876" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg" alt="" width="268" height="372" /></a>エトムント・フッサール(1859-1938)はオーストリア出身のドイツ人。哲学者であり数学者。主な著作は『論理学研究』(1900-1901)、『イデーン』(1913)、『内的時間意識の現象学』(1928)、『デカルト的省察』(1931)など。</p>
<p>あらゆる学問の基礎づけとなる本質学としての現象学を提唱した。現象学は２０世紀哲学の新たな流れとなり、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティなどに影響を与えている。社会学ではアルフレッド・シュッツに影響を与えている。</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/">【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/04/25/husserl-3/">【応用哲学第三回】フッサールの現象学における「射影(射映)」とはなにか</a></p>
<p>今回の記事は前回の記事を前提に説明していくので、こちらを先に見ておくと理解がしやすくなります。</p>
<h4><span id="toc5">その他</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<p>次回､カテゴリー的直観､カテゴリー的代表象を扱います｡</p>
<h2><span id="toc6">統握図式の整理</span></h2>
<h3><span id="toc7">前置き</span></h3>
<p>キネステーゼや自我の説明の複数の記事を作り終えたが、しかし「ノエシスとノエマ」という厄介な概念、またそれらと「ヒュレー（感覚内容）」及び「射影」との関係の理解が浅いと感じた。</p>
<p>ノエシスとノエマの概念の理解が浅いままキネステーゼを説明したとしても何も頭に入ってこない。</p>
<p>かといってキネステーゼの記事でそれらを説明しようとすると過剰なほどの長尺になってしまう。</p>
<p>そのため、キネステーゼの記事の前に、「ノエシスとノエマ」を説明する記事を作成することにした。しかしその中の「代表象」が長くなってしまったので記事をさらに分割することにした。</p>
<p>なお、キネステーゼ等の記事はこの新しい理解のもとに、また最初から作り直す予定である。</p>
<p>『論理学研究』においてフッサールが感覚内容や志向的作用・志向的内容・志向的対象をどのように考えていたか、「代表象」を通して理解していく。</p>
<p>この「代表象」は難解だが、しかしこの項目を理解できていないとノエシス・ノエマの理解も浅くなってしまう。正直な話、初めてフッサールを学んだ時、この「代表象」で躓いて動画に盛り込めなかった記憶がある。今回はリベンジということになる。</p>
<p>「ノエシス・ノエマ」を再び取り上げることになった最初の私の動機は「<b>統握</b>」とはそもそもなにか・・・という疑問から生じたものだった。統握の理解の原点には『論理学研究』がある。</p>
<p>それゆえに統握の理解とともに、『論理学研究』における代表象の理解を進めていく。なお、基本的な用語の説明は以前の記事で扱っているので省略することがある。代表象に関する主要な内容は宇多浩さんの「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」に基づいている。</p>
<h3><span id="toc8">統握の多義性</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>統握(Auffassung)</strong></span>：</big>・何かを何かとして「解釈」する作用のこと。</p>
</div>
<p>あるいは「<b>意味付与</b>」する作用や「<b>生化</b>(活性化)」する作用ともいわれている。あるものをあるものとして「<b>把握</b>」,ないし「<b>まとめる</b>」働きとも表現される。</p>
<p>しかしこの「統握」が多義的であり、時期によって意味が変わるので曲者である。</p>
<p>とくに何かを「何か(あるもの)」として、という場合のこの「<b>あるもの＝統握意味</b>」が論点となる。</p>
<p>ここでいう「何か」とはなにか。知覚における「統握意味」とはなにか、「解釈」とはどのような「対応関係」を指しているのか。あるいは「意味」として解釈される「<b>感覚内容</b>」とはいったいなにものなのか。こうした説明が時期によって変わっていくのである。</p>
<h3><span id="toc9">『論理学研究』における統握図式</span></h3>
<p>『論理学研究』(1901/1902)で最初の「<b>統握図式</b>」が示された。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>統握図式</b></strong></span>：</big>・(死んだ)「感覚内容」とそれを活性化する、生気づける、魂を吹き込む、解釈する、意味付与する、「統握」というスキーム(枠組み・図式)。</p>
</div>
<p>時間的に感覚内容が先であるという印象を与えている。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>感覚内容</b></strong></span>：</big>・それ自身は志向的ではなく、実的な構成要素であり、またいかなる意味ももっていないとされている。例：「赤さ」や「ツヤツヤ」など。</p>
</div>
<p>『論理学研究』の時点では「死んだ素材」であり、統握をただ待つだけの存在ということになる。統握によって、「<b>意味</b>」が付与されることによってはじめて「リンゴ(対象)の赤さ」や「リンゴ(対象)のツヤツヤ」といった規定が可能になる。どのように統握されるかについての感覚内容側の具体的な指示が統握「前」にはないということになる。</p>
<p>もし統握がなく、「死んだ素材」のままならば、それらは現象しない。体験はされるが、しかし経験、対象化されない。富山豊さんの表現で言えば「知覚の束」、「感覚の狂想曲」に近いのかもしれない。この時点の分析では、いわゆる「混沌(カオス)」と表現してもいいものなのかもしれない。</p>
<p>例えば樹木と青空とリンゴが別々に存在するということすら成り立たない。緑色、赤色、ツヤツヤ、青色、フワフワ、高い、低い、といった言語化できないような感覚が押し寄せてくるイメージである。こうした<b>「感覚内容</b><b>そのもの</b><b>」を現象学的分析でとりだせるのか(対象化、客観化できるのか)</b>というのは重要な問題であり、後で扱う。とりあえず今は、『論理学研究』時点では感覚内容は死んだ素材として扱われていることを抑えておく。</p>
<h3><span id="toc10">『物と空間』における統握図式</span></h3>
<p>その後、例えば『物と空間』(1907)などで感覚内容が掘り下げられ、キネステーゼ感覚やアスペクト与件が分析される。そこで、感覚内容はより動的に説明されるようになる。</p>
<p>「<b>統握という作用がなぜ現出物を現出させるのか</b>」その掘り下げの過程が晩年まで続いていくのであり、その経過の一つがキネステーゼ分析である。</p>
<p>例:我々はリンゴを見て、我々の意識とは独立に、リンゴが客観的時間及び空間的に位置づけられているものとして構成している。私が見ている間以外リンゴは存在しない、表を見ている間は裏が存在しないなどと意識していない。</p>
<p>つまり、我々は「<b>超越物</b>(=現出物＝志向的対象)」を構成し、この超越物を見ているのであり、能動的に意識し、経験しているのである。感覚内容や志向的作用、志向的内容が能動的に意識されているわけではなく、それら(<b>内在物</b>)は受動的に、潜在的に、非主題的にしか意識されていない。</p>
<p>こうした掘り下げは言い換えれば「<b>超越の謎問題</b>」とつながっていく。「<b>なぜ感覚内容(内在)が統握によって捉えられることで、志向的対象(超越的対象)が構成されるのか</b>」という問題である。</p>
<p>この過程が『論理学研究』時点では謎だらけなのであった。『物と空間』よりすこし前に、1907年の『現象学の理念』で、はじめて「現象学的反省」という現象学の方法が提唱されている。『物と空間』は「<b>現象学的反省</b>(内在的知覚)」をふまえた分析であるということに注意しておく必要がある。フッサールの学問は現象学的反省以前と以後がターニングポイントになるからだ。</p>
<p>なお、現象学的反省(エポケー＋現象学的還元)については後で扱う。端的に言えば、非主題的な要素である感覚内容や作用、意味を主題的にする作用である。</p>
<h3><span id="toc11">『イデーンⅠ』における統握図式</span></h3>
<h4><span id="toc12">統握図式の修正</span></h4>
<p>『イデーンⅠ』(1913)において『論理学研究』の統握図式が修正される。</p>
<p>簡単に言えば、二元論的な<b>分離</b>傾向をもつ統握図式が、より<b>一体的</b>なものとして改丁されていく。しかしこの「一体」という意味合いがわかりにくい。また、統握は「<b>ノエシス</b>」と呼ばれ、「<b>ノエマ</b>」とセットで「<b>モルフェー(志向的形式)</b>」と呼ばれることになる。また、感覚内容が「<b>ヒュレー(感性的質料)</b>」と表現される。ただし、ノエシス、ノエマ、ヒュレー、モルフェーの意味合いについても以前の用語を「単に言い換えたもの」として扱うことはできず、議論が分かれるので後で扱う。</p>
<p>ただし、ヒュレーの意味や志向性に関する分析は、『イデーンⅠ』時点ではあまり進んでいないのが現状。</p>
<p>要するに、感覚内容が有する積極的な役割やその動的な性質については十分に解明されていない。</p>
<p>しかし、解説が全くされていないわけではなく、「物と知覚」における「<b>射影</b>(射映)」という概念が『イデーンⅠ』においても触れられ、感覚内容（ヒュレー）がいかに動的に与えられるかの過程が『物と空間』を踏まえて説明されている。</p>
<p>（１）ヒュレーとモルフェーは概念的には区別されるが、実質的には<b>分離不可能</b>な２つの契機が不可分に結合しているといわれる。</p>
<p>（２）ヒュレーは「それ自身のうちに<b>少しも志向性をもたない</b>感覚的なもの」であり、モルフェーである「意味付与による統一」を受けて、「具体的な志向的体験が成立してくるゆえんのもの」と説明される。</p>
<p>ヒュレーは『論理学研究』と同様に、(単体では)「対象との関係を持たない」、つまり志向性や意味をもっていない。</p>
<p>しかし『論理学研究』とは違い、「対象」との間に「意味」が介在するようになった。ヒュレーは作用(ノエシス)によって「意味」を通して、対象に関係する。もちろん『論理学研究』においても統握においても媒介としての「意味」は扱われていたが、『イデーンⅠ』においてはこの「意味」が大幅に拡張されることになる。しかしこの意味＝「<b>ノエマ的意味</b>」がなにものかについては議論があり、この内容を特に次回扱う。</p>
<h4><span id="toc13">時間的な関係の問題</span></h4>
<p>Q　感覚内容が時間的に「先」にきて、その「後」で統握され、現出物の現出が生み出されるという時間的な関係ではないということなのか。</p>
<p>これもまた複雑な、解釈に議論がある問題である。『イデーンⅠ』においても、時間的には感覚内容が「先」で、統握は「後」にあるものとして扱われている印象がある。ただし、それらは「独立的部分」ではなく、「非独立的部分＝<b>契機</b>」であり、お互いが独立して存在することがありえないような、そうした相関関係にある。</p>
<p>要するに、分析のために、便宜的に時間的な前後関係として扱っているような印象がある。実態としては前後関係にない、一体的なものとして扱われている印象がある。</p>
<p>荒金直人さんの説明によれば、フッサールは「統握内容と統握の区別は、経験の感性的側面と意味的側面の区別であり、分析上それなりの妥当性はあるが、この区別を絶対化して各側面を実体化することはできない」と考えていたという。</p>
<p>分析のために便宜上、ヒュレーとノエシス、ノエマを切り離して考えているが、しかし志向的体験においてそれらは切り離し難く一体となって生じているというわけである。分析において、時間的な前後関係として、抽象的に分離することはできるかもしれないが、あくまでもそれは分析のためであり、実態がどうなっているかは一体的としか言いようがない、抽象的なままにとどまる。</p>
<p>つまり「<b>よくわからない</b>」という印象を受ける。そもそもこの頃フッサールは受動的意識の分析を深く行っていないため、感覚内容の内実は不透明なのである。</p>
<p>例えばカッシーラーは『論理学研究』及び『イデーンⅠ』におけるフッサールを批判して、「現象学的考察の立場には、『質料それ自体』も『形式それ自体』もありはしない。あるのはつねに全体的体験だけであり、この全体的体験が質料と形式という視点のもとにたがいに対比され、この視点に従って規定されたり分節されたりするだけなのである」と述べている。</p>
<p>視点(分析、態度)によって両者は分類されるにすぎない、という点はキーポイントである。これはノエマの理解でも重要になってくる。</p>
<p>これに対して小熊正久さんは「カッシーラーが引用している部分（『イデーン第一巻』）を見ると、その叙述は、質料と形式という二つの別種の層が存在して、その両者は関連を欠くといった印象を与え、カッシーラーが抱いた不満にはもっともな点もある」という。</p>
<p>もっとも、小熊さんにとってはその両者をつなぐもの、媒介として「<b>射影</b>」が『イデーンⅠ』でも扱われていたという点が重要になる。その射影を前回扱っている。射影についてはこの記事の後半でも掘り下げて扱う。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは志向性の構成要素である「体験」について、その「感覚的所与」という契機とそれに意味を与えるはたらきをする「統握」という契機とを区分する。その区分について、カッシーラーは、1913年に公刊されたフッサールの『イデーン第一巻』＊1を引きながら次のように述べている。</p>
<p>「フッサールは、体験の全体を二つの部分、つまり、まだいかなる〈意味〉も内蔵していない「初次的内容」と、志向性という独特なものを基礎づける体験ないし体験契機とに分けるのである。感覚的体験、つまり色所与・触覚所与・音所与といった感覚的所与の上層に、いわばそれを生気づけて意味を付与する一つの層、詳しく言えば、『おのれのうちにはいかなる志向性ももたない感覚的なものから、まさしく具体的で志向的な体験が成・・・・・・立してくるような一つの層』が見出されるということになる」＊2。</p>
<p>そしてカッシーラーは次のようにこの区分を批判する。</p>
<p>「だが、&#8230;いったいこの［感覚的所与の層を基盤として意味付与的な層において志向的体験が］成・・・・・・立してくるという過程そのものは、純粋に現象学的に明示しうるものに属するのであろうか。&#8230;われわれには、『形式なき質料』とか『質料なき形式』といった言い方をする権限が与えられるものであろうか。&#8230;現象学的考察の立場には、『質料それ自体』も『形式それ自体』もありはしない。―あるのはつねに全体的体験だけであり、この全体的体験が質料と形式という視点のもとにたがいに対比され、この視点に従って規定されたり分節されたりするだけなのである」</p>
<p>と。たしかに、カッシーラーが引用している部分＊3（『イデーン第一巻』§85）を見ると、その叙述は、質料と形式という二つの別種の層が存在して、その両者は関連を欠くといった印象を与え、カーシーラーが抱いた不満にはもっともな点もある。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,1P</p>
</blockquote>
<p>・フッサールは『イデーンⅠ』において非独立的部分＝契機を「抽象物」、独立的部分を「具体物」と規定しなおしている。</p>
<p>たとえばフッサールは『受動的構造の分析』(1922)において、 「<b>感覚という純粋に受動的な世界について語ることは抽象である</b>」という趣旨を述べているという。要するに、他の部分と切り離された純粋な、孤立した感覚というものは一種の「構成」ではなく「構築」された分析上の抽象物にすぎないということである。我々は孤立した感覚というものを現象学的反省によって対象化できるのか、という点も議論になってくる。</p>
<blockquote>
<p>「だから､フッサールは感覚という純粋に受動的な世界について語ることは抽象であると書くことができる｡感覚は能動的キネステーゼとの相関関係においてのみ理解することができる｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,232P</p>
</blockquote>
<p>例えばフッサールは「統握とは感覚与件の『生気づけ』である。それでもなおも後に残る問題は、統握は感覚与件と同時に始まるのかどうか、それとも感覚与件は、かりにどれほどわずかな時間差であったにせよ、生気づける統握が始まる以前に、構成されていなければならないのかどうかという問題である。後者の方が当たっていると思われる」と『内的時間意識の現象学』(1928)で述べている。</p>
<p>※『内的時間意識の現象学』は死後出版であり、実際にはフッサールが1905年頃の広義及び1910年の補足に基づいている。この引用文は1905年であり、『イデーンⅠ』の前、『論理学研究』の直後の解釈ということになる。</p>
<p>少なくとも『論理学研究』における外的知覚の統握図式においてはやはり、<b>感覚内容が時間的に先</b>であるということになるのではないか。</p>
<p>ただしこうした時間的前後の分析はフッサールによると「対象の知覚」を説明する場合に一定の有効性をもつということであり、<b>「内的時間意識」を説明する場合にはそうした分析は通用しなくなる</b>という。</p>
<p>なぜなら感覚内容は統握(<b>能動的志向性</b>、解釈)の前に統握(<b>受動的志向性</b>ないし原解釈)を受けているのであり、またそうした受動的志向性がさらに統握(<b>先志向性</b>、先解釈)を条件として、その中でまとまっているからである。</p>
<blockquote>
<p>「しかし、外的知覚から、新しい知覚としての反省的な内的知覚へと段階を進めることは、はたして意味のあることなのだろうか。つまり、感覚を取り出すために反省を遂行する場合に、私たちはすでに知覚的に統握された感覚を前提にしている。すでに述べてきたように、感覚内容は、外的知覚のなかで、「素材」として“あらかじめ受動的に与えられていた”。そして外的知覚としての「統握」が、時間的に先行する「感覚内容」という「死んだ素材」を生気づける（魂を与える）ことによって、対象が呈示されたのである。それゆえ、外的知覚が機能する直前に、時間的に先行する感覚内容があらかじめ与えられていたはずなのである。<br />
「知覚は統握が始まるその瞬間に生ずるのであるから、それ以前に知覚を云々することはできない。統握とは感覚与件の「生気づけ」である。それでもなおも後に残る問題は、統握は感覚与件と同時に始まるのかどうか、それとも感覚与件は、かりにどれほどわずかな時間差であったにせよ、生気づける統握が始まる以前に、構成されていなければならないのかどうかという問題である。後者の方が当たっていると思われる」（Ⅹ/110）。<br />
感覚与件ないし感覚内容は、知覚以前に構成されていたことは、上記のフッサールの文言からも明らかである。しかし、もしそうであるならば、内的知覚において見出される感覚〔内容〕は、すでに内的知覚にも先行していなければならない。なぜなら、内的知覚であれ外的知覚であれ、両者は知覚であり、感覚は知覚以前に構成されていなければならないからである。先のメレの引用したフッサールのことばにあるように、内的知覚（ヒュレー的反省）が「新しい知覚」であるにせよ、フッサールは感覚がその「新しい知覚において生気している」といっているのだから、感覚内容は「新しい知覚」に先行しているはずである。それゆえ、ヒュレー的反省という「新しい知覚」は、二重に遅れているといわざるをえない。つまり、第一に、感覚内容が外的知覚以前に受動的に与えられており、次に、その感覚内容を外的知覚が生気づけた後に、ようやく、最初に与えられた感覚内容に対して、ヒュレー的反省が行われるのだから。」<br />
森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について,190-191P</p>
</blockquote>
<p>要するに、能動的にまとめる前に、すでに感覚内容は何らかのかたちでまとまっていて、さらにそのまとまりの前にもまとまりがあるというわけである。能動的志向性の図式だけでは通用しないという話。</p>
<p>ただしこの整理した内容は『イデーンⅠ』以降、晩年の内容まで含んでいることに注意。とくに原事実、つまり先志向性、先解釈の領域は晩年の内容が中心となる。</p>
<p>端的に言えば『イデーンⅠ』の内容は主に「能動的志向性」のみになる。『イデーンⅠ』では内的時間意識の研究の内容が棚上げされている。例えば『イデーンⅠ』で「あらゆる体験の普遍的特性としての時間については、特別に論ずる必要がある」、「私たちのこれまでの論述は時間の全次元についてほとんど沈黙を守ってきたし……またやむを得ず沈黙を守らざるをえなかった」と述べている。</p>
<p>感覚内容は統握(<b>能動的志向性</b>、解釈)の前に統握(<b>受動的志向性</b>ないし原解釈)を受けているのであり、またそうした受動的志向性がさらに統握(<b>先志向性</b>、先解釈)を条件として、その中でまとまっている。先志向性はもはや先統握ともいうべきものであり、統握ではないものになる。自分ではない、なにかによってまとまっているというより、自分が自分をまとめているような印象である。システム論で言えば自己言及的になるだろうか。有名な言葉で言えば「<b>流れつつ、立ち止まっている</b>」生き生きとした現在の次元である。</p>
<p>受動的志向的次元や先志向的次元では、能動的志向性の図式だけでは通用しないということだけを抑えておく。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/30cb636644e74a7cf34f7e77e447961c.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3407" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/30cb636644e74a7cf34f7e77e447961c.jpg" alt="" width="609" height="778" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/30cb636644e74a7cf34f7e77e447961c.jpg 881w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/30cb636644e74a7cf34f7e77e447961c-626x800.jpg 626w" sizes="(max-width: 609px) 100vw, 609px" /></a></p>
<p>そして生き生きとした現在の領域ではもはや現象学的分析の射程が及ばなくなる範囲、要するに「<b>よくわからない</b>」領域、そうなっている、それが与えられていると想定せざるを得ない、所与の「<b>原事実</b>」に到達する。</p>
<p>エポケーによって超越的なものは判断が中止されているはずであり、内在のみ(実的内在:ヒュレー＋志向的内在:モルフェー)が残るはずである。しかし、それでもなお、原事実のような「<b>内在かつ超越</b>」とでも言わざるを得ないようなものに到達してしまう。であるとすれば、「内在かつ超越」に依存した「内在」は純粋に内在ではなく、これもまた「内在かつ超越」ではないのか、となってしまう。あるいは、素朴な対象の実在の信憑とは違った意味での別の超越が、すべてを浸しているということになる。素朴な信憑(超越)ではなく<b>考えに考え抜いて、それでも前提せざるを得ない信憑の底(超越)</b>である。これがあらゆる現象の起源ということになる。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:内在かつ超越</p>
<p>「</p>
<p>『現象学的還元とは､一切の超越者(私に内在的に当てられていないもの)に無効の符号をつけることである｡すなわち､その超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで､せいぜい妥当現象として定立することである｡たとえば､一切の心理学や自然科学など､あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず､したがって､それらを私にとって[認識批判学]の手がかりになりうる妥当的真理の体系として､また前提としても､利用してもならない』</p>
<p>ここで言われている『超越者』という言葉には説明が必要だろう｡括弧の中で彼自身が説明しているように､それは『私に内在的に与えられていないもの』､この意味で私を『超越』するものを意味する｡ここで『私に内在的に与えられていないもの』は『実的(reell)』と呼ばれる｡したがってその否定である『現実的』(irreal)とは､『超越』のことにほかならない｡自然としての世界や数学的理念の世界､総じて『客観(Objekt)』と呼ばれるもののすべては『超越者』である｡こうした『客観』に対して通常暗黙の内にされている『真理妥当』や『存在妥当』を停止することを､ここでフッサールは宣言しているわけである｡だが､この『超越者』という言葉は､いずれ破棄されなければならない立場をそれこそ暗黙の内に前提してしまっている嫌疑を免れえない｡なぜなら､彼はこの『超越者』を､私に『実的に』与えられたものを超えているにもかかわらず､『志向的』には『内在』するものと考えているからである｡ここに､すでに触れたブレンターノ由来の『志向性』概念が取り入れられているわけだが､それは『超越者』の『内在』という奇妙な事態を出現させてしまう｡実際フッサールは､『内在的超越』などといった形容矛盾以外の何ものでもない言葉を使ったりもしてリウのである｡こうした形容矛盾にまで追い込まれる事態は､『超越者』の場合にかぎらず､フッサールでしばしば起こることなのだが､それは､そこで使われている概念枠組みがもはや有効に機能しなくなる地点にまで､事象そのものへの彼の肉薄が進んでしまっていることの証左であもる｡」</p>
<p>斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,77-78P</p>
<p>キーワード:『イデーンⅠ』における時間の棚上げ</p>
<p>「超越論的還元を経て獲得された次元こそ､フッサールにとって､そこから総じて哲学が出発すべき第一の地点､この意味で『絶対的な』次元であったことは言うまでもない｡話はこの『絶対的なもの』をめぐって展開する｡</p>
<p>『現象学的還元を通して､超越論的意識の領分は､ある特別の意味で《絶対的な》存在の領分であることが明らかとなった｡それを存在一般の原範疇(私達の言葉では原領域)であって､他のすべての存在領域はこれに根ざし､それらの本質上すべてこれに依存している』(『イデーンⅠ』,141)</p>
<p>ところが</p>
<p>『あらゆる体験の普遍的特性としての時間については､特別の論ずる必要がある』(『イデーンⅠ』,161P)</p>
<p>なぜなら</p>
<p>『時間は､それだけでまったく完結した問題領域､しかも異常に困難なそれを示す表題』(『イデーンⅠ』,162P)</p>
<p>だからである｡したがって､</p>
<p>『私達のこれまでの論述は時間の全次元についてほとんど沈黙を守ってきたし､……またやむを得ず沈黙を守らざるをえなかった｡』(『イデーンⅠ』,162P)</p>
<p>しかし『時間』が､現象学にとって『絶対者』である超越論的な次元におけるあらゆる体験=現象の『普遍的特性』であるとすれば､</p>
<p>『私達が還元によって明るみにもたらした超越論的《絶対者》は､本当の意味で究極のものではない』(『イデーンⅠ』,163P)</p>
<p>ことにならざるをえない｡還元の最初の時点において『絶対者』と見えたものは､実は</p>
<p>『それ自身､ある深い､またまったく独特の意味で､構成されたもの』､</p>
<p>『その源泉をある究極の真に絶対的なものの内にもつもの』(『イデーンⅠ』,163P)</p>
<p>だったのである｡ここで彼が『究極の真に絶対的なもの』と読んだものこそ『時間』であることは､いまや明らかであろう｡時間問題に彼が与えた位置が『純粋自我』のそれとまったく並行するものであること､しかも時間問題に関しては､この引用箇所の注記にあるように『一九〇五年に本質的な点において完結にいたxtつあ』(同年の広義『内的時間意識の研究』のことである)とされていることも､ここで確認しておこう｡もっとも時間問題は､ここでのフッサールの言明とは裏腹に､この一九〇五年の時点をはるかに超えて､彼の現象学の全期間にわたって､その後も追求されつづけたのではあるが｡</p>
<p>」</p>
<p>斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,265-267P</p>
</blockquote>
<p>フッサールは1909年に『認識の現象学への導入』において以下のようなことも述べていたことにも注意しておく必要がある。</p>
<p>「呈示ということは、外的知覚において、感性的内容が最初に据えられたり存立したりしていて、次に、何かを行う、すなわち呈示するということではない。同様に、統握は、われわれが最初に単なる感覚内容、物的与件を眼前にしていて、つぎに、それによって何かを行う、つまり統握的活動を行使することではなくて、統握とは、実的に物的与件と一体になっていてそれを生気づけ、浸している性格以外の何物でもないということである｡」</p>
<p>また、重要な指摘が以下の『認識の現象学への導入』の引用文にもある。</p>
<p>「そこ［現れの時間的広がり］においては諸部分と抽象的位相が区別されうる、しかし諸位相と諸部分はそれ自体で存在していて、あとからの総合によって一緒に結合されるのではなく、<b>統一が最初のもの</b>なのである。知覚はそのつど必然的に連続的な統一である。分割と位相の取り出しとしての区別の可能性はなるほどその本質に基づいて存しているが、それは<b>単なる可能性</b>にすぎない」</p>
<p>「一体となっている」ということは現象学的分析(現象学的反省、内在的知覚)において直観的に与えられるとする。</p>
<p>一方で、孤立したそれぞれの契機は直観的に与えられず、それらは分析的に構築されたものにすぎず、取り出せるかどうかはその「可能性」があるにすぎないということにつながっていく。</p>
<p>では一体となっている「感覚内容の契機」は孤立させて後から取り出せることができるのだろうか。その「可能性」はどのくらいあるのか。また、その「後からの取り出し」は直観的に構成されて与えられるのか、与えられないのか。あくまでも非直観的な分析的な構築にとどまるのか。</p>
<p>「<b>諸位相と諸部分はそれ自体で存在していて、あとからの総合によって一緒に結合されるのではなく、統一が最初のもの</b>」という点も重要である。</p>
<p>この掘り下げは1922年の『受動的総合の分析』や晩年の分析などで特に行われている。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:『認識の現象学への導入』(1909)における統握の考え方,統一が最初のもの,単なる可能性</p>
<p>「例えば、時間的なものとしての音は、汽笛や太鼓の音といった超越的なものと捉えられていない限りで、「内在的」である。しかし、それは、音の現在的な現れ（射映）を超えた過去的なものを含む限りにおいては「超越的」なのである。こうして、反省の深まりに応じて、当初考えられていた「内在」は一種の「超越」を含むということをフッサール自身が認めることとなったのである。前章で見た、「感覚的所与」と「統握」については、次のように述べられている。</p>
<p> 「呈示ということは、外的知覚において、感性的内容が最初に据えられたり存立したりしていて、次に、何かを行う、すなわち呈示するということではない。同様に、統握は、われわれが最初に単なる感覚内容、物的与件を眼前にしていて、つぎに、それによって何かを行う、つまり統握的活動を行使することではなくて、統握とは、実的に物的与件と一体になっていてそれを生気づけ、浸している性格以外の何物でもないということである」（EPh.,S170）。</p>
<p>だが、こうした統握のあり方は、反省のあり方、反省によって設定される「位相」のあり方にも関わる事柄である。</p>
<p>「そこ［現れの時間的広がり］においては諸部分と抽象的位相が区別されうる、しかし諸位相と諸部分はそれ自体で存在していて、あとからの総合によって一緒に結合されるのではなく、<strong>統一が最初のもの</strong>なのである。知覚はそのつど必然的に連続的な統一である。分割と位相の取り出しとしての区別の可能性はなるほどその本質に基づいて存しているが、それは<strong>単なる可能性に</strong>すぎない」（EPh.,S64）。</p>
<p>「統一が最初のもの」で、諸位相を取り出すことは「単なる可能性」にすぎないということは、反省は位相の変遷やそこで起こっていることを全面的に捉えることはできないということを含意するであろう。もちろん、現出について、その本質を反省的に分析することは可能であり、それが、『物と空間』、『認識の現象学への導入』などの分析に結実したわけであるが、この「位相」にまつわる問題は、意識のあり方についての再考察を求めるものであろう。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念表象媒体の研究の一環として」,19-20P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">『受動的総合の分析』以降の統握図式</span></h3>
<h4><span id="toc15">内的時間意識と統握図式の関連</span></h4>
<p>1922年『受動的総合の分析』や1931年『デカルト的省察』、1938年『経験と判断』(これもまた1920年代に書かれたメモや研究をフッサールの死後まとめたもの)などにおいて、さらに感覚内容が深みをもって掘り下げられる。</p>
<p>要するに、より発生的な分析が試みられるようになる。</p>
<p>・今回の動画で「内的時間意識」は扱いきれない。しかし統握との関連だけ触れておく。内的時間意識は『内的時間意識の現象学』以外でも扱われている。</p>
<p>高野考さんによれば、従来の『論理学研究』及び『イデーンⅠ』のような「統握図式」を時間意識の説明に使用しようとした場合、２つの問題に直面するという。</p>
<p>１：「<b>任意の統握</b>」の問題</p>
<p>感覚内容は、統握によって初めて生化されるような死んだ素材ではなく、任意の統握を許すものではない。感覚はそれ自身時間的に機能するからである。</p>
<p>２：「<b>無限後退</b>」の問題</p>
<p>感覚内容は、統握によって初めて意識されるようになるのではなく、統握されることなしに、原意識の内で原本的に意識される。</p>
<p>また、斎藤慶典さんも同様に「統握作用と統握内容」という枠組みが内的時間意識において通用しないということをフッサールは発見したと説明している。</p>
<p>たとえば「いま、本を読んでいる」、「かつて本を読んでいた」、「やがて本を読むだろう」というように、同一の内容(本を読むという事態)が「異なる統握作用」によって捉えられるという図式では説明できないということになる。同じ内容ではなく、異なる内容だからである。フッサールの内的時間意識の用語で言えば、「たった今」は「原印象」において与えられている感覚内容であり、「かつて」は「把持」であり、「やがて」は予持である。（１）今までは同じ感覚内容を異なる作用、異なる意味において捉えることができるという図式だった。（２）しかし内的時間意識の次元(原印象から把持への移行)において、変化するのは作用ではなく、感覚内容であるということになる。</p>
<p>斎藤さんは以下のように述べている。</p>
<p>「いま私がある音を聴いているとすると、原感覚において与えられている音(感覚与件)は現に鳴り響いている音であるが、把持において与えられているのは現に鳴り響いている音でもなければ、その残響でもない。それはあくまで『もはやない』音なのである。そうだとすると、原感覚と把持では、そもそもその『内容』をなす与えられているもの自体が別ものであることになる。これはすなわち、原感覚(現在化)から把持(準現在化)への移行において生じているのは、いったん与えられたもの(統握内容)の把握の仕方(統握作用)の変化では<b>ない</b>ことを示している。『いま』という統握作用が『たったいま』という別の統握作用に変化したのではないのである。『いま』与えられているのが実際に鳴り響いている音の『感覚』であるのに対して、『たったいま』において与えられているのは決して『感覚』ではない以上、そう言わざるをえない。したがって、時間意識には『統握(作用)──統握内容』という分析の枠組みが通用しないのである。」(斎藤慶典「フッサール起源への哲学」,272P)</p>
<p>・「感覚内容(ヒュレー)がそれ自身機能する」という点が重要になってくる。</p>
<blockquote>
<p>「内容－統握図式とは、「それ自体では言わば死んだ素材であトートるような感覚内容が、統握により、生化する意味を獲得する」という図式に他ならない。この図式は、確かに対象の知覚を説明する際には一定の有効性を持つと考えられる。しかし、フッサールによれば、時間意識に関しては、この図式は次の二つの問題に直面することになるのである。」</p>
<p>高野考「意味と時間フッサールにおける意味の最根源への遡行」,273P</p>
<p>「我々は上で、内容－統握図式が孕む二つの問題を指摘し、事象に即して考察するならば、それらの問題は解消されるということを論じた。その議論の結論をまとめれば次のようになる。(1)感覚は、統握によって初めて生化されるような死んだ素材ではなく、任意の統握を許すものではない。感覚はそれ自身時間的に機能するからである。(2)感覚は、統握によって初めて意識されるようになるのではなく、統握されること無しに、原意識の内で原本的に意識される。感覚はそれ自身機能するからである。此処で見て取れるように、どちらの結論でも、眼目となっているのは、感覚がそれ自身機能するということに他ならない。」<br />
高野考「意味と時間 フッサールにおける意味の最根源への遡行」,277P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc16">上方と下方の問題</span></h4>
<p>宮坂和男さんの表現で言えば、「<b>フッサールの思考は,上方の問題を見つめながらも、同時に間違いなく下方に移動している</b>」という。上へ行ったり、下へ行ったりしているのである。</p>
<p>そして『論理学研究』では上への志向、「イデア的、理念的、言語的意味」といった「上方(本質)」へ向かっていき、感覚内容はどちらかといえば軽視されていた。</p>
<p>『イデーンⅠ』で「感覚内容」、及びそれが最も十全的に与えられる作用である「知覚」が「表意作用(言語表現、言語理解)」を基づけることがより強調され、「知覚」がより重視されるようになる(本質直感が知覚によって可能になるとされる)。</p>
<p>そして『内的時間意識の現象学』や『受動的総合の分析』では「原感覚、原事実、原志向性」といったような「下方(感覚)」へ向かっていたということになる。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールの探究は,上方においては,高次のイデア的対象と意識との関わりを捉えようとし,下方においては,それが発生した感性的知覚の場面を取り押さえようとしているこのように両方向に分裂してゆく思惟の運動のなかにあって,フッサールの考察は上下動を繰り返していったと思われる。『論研』のフッサールの探究は上方に位置する事柄に向かい,「イデーンI』の「理性の現象学」以降のフッサールの考察は下方へと向かって行った。この下方に向かう思考のなかで「受動性」の次元が探究され,「生活世界」が主題化されてゆくことになったと思われる。フッサール現象学の「主題的概念」の見定めがたさや,「ノエマ」概念につきまとう二面性は,この両極に分かれる思惟の動向を反映していたのである。」<br />
宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」,51-52P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">『経験と判断』,類型論</span></h4>
<p>1938年の『経験と判断』において、対象が何もの「<b>である</b>」かを判断形式の下に理解するのに先立って、われわれは既に対象を何ものか「<b>として</b>」端的かつ受容的に＜解釈＞しているのであると説明されるようになる。</p>
<p>先述定的(非言語的)経験において、すでに、<b>方向性が予め下図を描かれている</b>という点がポイントになる。もはや感覚内容はただ統握を待つだけの、死んでいる、無意味、無内容な静態的な事態ではなくなる。特に、「<b>類型論</b>」が重要になってくる。</p>
<p>類型論についても「内的時間意識」と同様、この動画で詳細を扱いきれない。要点だけを述べておく。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>類型</strong></span>：</big>・「私たちの経験を規制するような認識の枠組み」であり、認識する際には必ずこの「枠組み」を通して行わなければならないという。類型は「<b>習慣</b>」や「<b>再生的連合</b>」とも呼ばれる。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">対象は我々が<b>能動的に規定を与えるより先に、受動的に与えられていなければならない</b>。述定的経験より先に、先述定的経験がある。</li>
<li class="sample">対象は私たちを触発し、私達はそれを受容している</li>
<li class="sample">対象は「<b>連合</b>」の働きによって、ある程度「<b>構造化</b>」されている。</li>
<li class="sample">対象は能動的にではないが、規定を受けている。能動的に判断するために整えられていく。過去の経験を呼び起こし、見えていない部分を予科する(準備のようなもの。予想や予持よりさらに受動的)。</li>
</ol>
<p>類型は「<b>習慣</b>」や「<b>再生的連合</b>」とも呼ばれる。対象は全く跡形もなく消え去るのではなく、習慣として所有され、いつでも連合的に呼び起こすことができるという。</p>
<p>たとえば「リンゴを見る」という知覚の場合、「過去にリンゴを見た」というような習慣、類型を通して私たちはリンゴを見ているのである。言語を全く所有していない状態を仮定し、そのような規定がどのように行われているかについての分析のイメージ。まさに、下へ下へと、イデア的なものがまさに形成される現場へと降りていく。そうして現象学は論理学や数学、物理学といったあらゆる他の学問を基づけていくのである。近現代において感覚内容は曖昧で主観的とされ軽視されているが、しかし感覚内容こそが重要である。また主観的な生活こそが目的であり、学問はその手段にすぎない。</p>
<p>まず受動的にヒュレーがそれ自体として機能し、受動的な解釈を行い、どのように能動的に解釈(統握)されるのか、いわば解釈の方向を規定する解釈というわけである。</p>
<p>「リンゴ」や「赤い」という言葉ないし言語的意味を知る前に、我々は&#x1f34e;を何らかの形で分節し、「何か」としてすでに<b>原解釈</b>しているのである。言語を会得している段階より細かく複雑な分節ではないかもしれないが、しかし全く分節されず、なにも意味をもたない死んだ素材ではない。また、恣意的な分節ではなく、なんらかの不可疑的な分節であると言えるのではないか。なお、こうしたいわゆる「分析哲学ないし言語哲学」と「現象学」の関係は次回掘り下げる予定である。</p>
<blockquote>
<p>「述定的経験においては、この二つのものを能動的に把握するということがおこなわれて、「Sistp」という判断が構成されることになる。この判断は前述定的経験の層で生じている合致総合（Dec㎞ηgssyn出esis）を基盤にして成立している。つまり基体Sと規定pは常に何らかの重なり合いを持っているのである。この総合は事象上の共通性に基づいた総合であるといってよいであろう。この述定作用は、「Sistp」という判断の構成において止まるわけではなく、認識関心の進展につれてさらなる判断を産みだしていくことも可能である。そうすると「Sistpmdqundr＿usw」というような判断が構成されることもある。またあるいは「Spistα」といった判断を構成することもある。前者では集合的結合（und）という新たな自発性が問題となり、後者では名詞化が問題となる。集合的結合は、そもそもは『算術の哲学』において基数概念の分析の際に用いられていた概念である。さて、「Sistpmdqmdr＿usw」という判断において、規定p，q，r．．はそれぞれ基体Sと事象上の共通性によって総合されているが、他方p、映、．という規定は、それぞれundによって集合的に結合されている。このp，q，rは相互に重なり合っている必要はなく、基体とその規定との総合とは区別されなければならない。以上のような解明によって知覚されたものが沈殿して、類型を形成することになるのであるから、類型もまた同様の構造を持っているといえるであろう。すなわち類型とは基体と規定、あるいは主語と述語というように分節化された構造を持っているのである。この類型という概念の構造が、『イデーンI』でのノエマ的意味と同じであることは明らかであろう。『イデーンI』においてノエマとは、それを介して対象へと関係するところのものであった。他方類型とはわたしたちの経験を規制するような、つまり認識の枠組みであるが、わたしたちが何らかの事物を認識する際にはその枠組みを通して行わなけれぱならないのであって、それゆえにわたしたちはその類型を通して対象に関係するということができるであろう。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,159P</p>
<p>「ッサールの連合には二種類の働きがあるとされる。一方はいわば共時的な連合であり、他方は通時的な連合である。しかしこの二つは全く別々のものではなく、その二つが協同して働いているといった方がよいであろう。前者の連合は、白い紙の上の赤い斑点という例でフッサールが語っているものである。白い紙の上のいくつかの赤い斑点は、互いの同質性によって融合する。そして白い部分もそれはそれで同質性によって融合する。また白い部分と赤い部分は対照をなしているが、しかし視覚的に与えられるものという同質性も持っており、それはそれで総合へともたらされる。このようにして根源的な対象の場がうち立てられるという。このような連合によってはじめて対象が世界から浮かび上がってくるがゆえに、フッサールはこれを原連合となづけている。後者の連合について。これはまた再生産的連合ともいわれる。下図、そしてまた類型という問題にとって重要なのはこの再生産的連合である。対象は様々な経過を経て構成されてくるが、それは時間とともに流れ去ってゆき、最終的には「全く空虚で生命なき過去へと沈み込んでしまう」（EU，S．137）のである。とはいえ、先にも述べたがその対象は全く跡形もなく消え去るのではなく、むしろそれは習慣として所有され、そしていっでも連合的に喚び起こされることができるのである。このことが可能となるためには、「同じもと似たものの間で前もってすでに『感性的』統一が受動的に構成されていなければならない」（EU，S．209－210）のである。さて、このように前もって構造化された対象からの触発に自我が応諾するならばそこから先述定的経験における対象把握が始まる。その経験が進行するにつれて、対象は、能動的にではないが、より詳細な規定を受けることになり、わたしたちが能動的に判断するために整えられていくのである。その際経験は常に現在の経験と似た過去の経験を喚び起こし、それによって地平が描かれていくことになる。たとえばわたしたちが何らかの事物を見ている場合、意識においては、その対象と似た対象を見た過去の経験を喚び起こし、そしてその見えていない部分を予料しているのである。未規定的な地平が過去の経験の喚び起こしによって予描されるとするならば、その地平は確かに未だ未規定ではあるが、しかしながらそれは既に知っているものであるということになるであろう。そこでフッサールは『イデーンI』において「未規定性とは規定可能性のことである」と述べていたのを今や、「未知性は既知性の一様態である」（EU，S．34）という。そうであるとするならば、わたしたちの経験は既に知っているものを超えることはないということになるのではないだろうか。もちろん、経験が常に過去の経験の単なる反復であるというわけではない。例えば私が何らかの物を見ている場合、常に過去の似た対象を見た経験が連合的に喚び起こされ、その対象の未だ見えていない部分に関する予料が形成される。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,157P</p>
<p>「フッサールにおいて能動的経験と判断とはほぼ等しいものである。つまりわたしたちが何らかのものを能動的に経験しているならば、その際常に判断を行っているのであり、判断を行うとは、主語対象に対して何らかの規定を与えることである。そして先述定的であるということは能動的（述定的）経験に先立つということである。能動的経験は判断であるとしても、判断を行うためには、判断する対象が判断に先立ってわたしたちに与えられていなければならないのである。そのように対象に規定を能動的に与える以前に、単に対象を受容している段階が先述定的経験である。そこでは確かに能動的に規定が与えられているわけではないが、「『所与』の単なる『混乱』ではなく、一定の構造、濃淡、様々な仕切を持った場」（EU，S．75）であるとフッサールはいう。そしてこの場を支配する法則は連合であり、それにより所与は単なる混乱ではないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,155P</p>
<p>「多様な規定(現出)を統制するXは、もはや、意味付与を待ち受ける素材ではありえない。Xは、述語と結合して初め、て解釈的な意味の次元へと高められる先解釈的な所与ではなくむしろ、多様な述語が知覚の主題に照らして適正であるか否かを判別する基準として、前もって与えられた原解釈的な意味なのである。このような原解釈的意味は、『経験と判断』において「類型Typus」と呼ばれる。端的に言って、それは、知覚の主題の「何」である。」<br />
梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,8-9P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">意識のはたらきの共通了解</span></h4>
<p>たとえば「人間が自分の意識のありようを表象、表現(=記述)する仕方は無限にありうるのではないか。だとすると意識のはたらきの共通了解などというものは成立するはずがない」という反論が現象学に対してあるという。</p>
<p>竹田青嗣さんによれば、例えば目の前の石ころの形状、色合い、重さ、感触などは私に自由な解釈を許さないと言う。つまり恣意的な解釈を許さない。明らかに重い、明らかに赤いのに、軽くて青い石だと知覚直観することは難しい。また、「１＋１＝２」ではなく３だと本質直観することも同様に難しい。原的直観にはこの不可疑的な、恣意的な解釈を許さない知覚直観と本質直観があるとフッサールはいう。</p>
<p>確かに与えられている感覚内容に恣意的な解釈は許されないかもしれない。しかしそうした直感を言語によって表現する場合は、私とあなたでは異なると言うことができる。あれは岩だと言う人もいれば、石という人もいるかもしれません。水色という人もいれば、青色という人もいるかもしれない。</p>
<p>しかし竹田さんによれば、「<b>解釈するレベルだけで意見が違っているのであって、私とあなたで全く違う石ころが見えているわけではないことを必ず直感している</b>」という。この「<b>同じ物を感覚しているという直感の不可疑性こそが、人間世界にある共通理解を生じさせ、またそのことによって言葉一般を可能にしている根本的な土台だ</b>」という。これは重要な点である。</p>
<p>紀平和樹さんによれば、類型論における予描は「無歴史的アプリオリズム」として構想された現象学の挫折を意味するという。</p>
<p>対象は常に、すでにその内に歴史、習慣、つまり類型をもってしまっている。常に対象は既に類型を通して、外部地平、過去の地平を通して捉えられることになる。これが類型＝歴史による制約であり、一種の「超越」である。感覚内容はつねに類型とセットで我々に現れるため、感覚内容それ自体を無歴史的に捉えることは難しいだろう。</p>
<p>感覚内容だけではなく、イデア的概念、言語的意味も「<b>はじめて実現した原初的な現場の痕跡</b>」を何らかの仕方で含んでいるということになる。</p>
<p>こうした痕跡がないような「ピタゴラスの定理」や「数字の１」、「色は広がりをもつ」というような本質を考えることは難しい。したがって常に知覚が、感覚内容が原的なのである。そして言語的意味やイデア的意味(幾何学など)はそうした知覚に基づいて生じているのである。一方で、われわれは１＋１＝２を考えるたびに、そうした基づけを行っているのだろうか。そうした基づけの痕跡が何らか含まれているかもしれないが、しかしそうした原初的な現場で必要だった知覚が毎回反復されているわけではないだろう。</p>
<p>たとえばピタゴラスの定理をはじめてピタゴラスが考えだした時、なんらかの<b>感性的な知覚、知覚的意味</b>があったはずである。こうした現場を我々はそのつど知覚において確かめているわけではないが、しかしそうした痕跡、歴史、類型を含んでいるということになる。</p>
<p>要するに、言語的意味は知覚的な意味、先述定的な意味に基づけられているのであり、それなしには成立し得ないということになる。「すべての意味が言語的である」という考えをフッサールは批判しているわけである。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共通了解､不可避性</p>
<p>「つぎに､いま&lt;私&gt;が目の前にひとつの具体的な石ころを見ているとしよう｡この石ころが&lt;私&gt;に与える形状､重さ､感触､色合い等々のものは､&lt;私&gt;にはほとんど自由な解釈を許さない｡それは､<strong>むこう側から</strong>&lt;意識&gt;にやってきて､その恣意をいわばねじ伏せるように自己の諸性質を<strong>告げる</strong>からである｡ところでいま隣にいる誰かと&lt;私&gt;とのあいだで､この石ころの形状､色あい等々について”意見”が違ったとしよう｡しかしその場合わたしたちは､石ころの感覚の表現が違っている､あるいはそれを<strong>解釈するレベル</strong>だけで&#8221;意見&#8221;が違っているのであって､&lt;私&gt;と彼とで全く違った石ころが見えているわけではないということを必ず直感している｡そしてこれが具体的経験(知覚経験)というものの特質なのだ｡肝心なのは､わたしたちの具体的知覚経験におけるこのような特質､つまり&lt;私&gt;と他人とは同じものを感覚しているという直感の不可避性こそが､人間世界にある共通理解を生じさせ､またそこのことによって言葉一般を可能にしている根本的な土台だ､ということなのである｡さて､このことからまずつぎのことがわかる｡一般的に､推論や臆見を含むような認識(&lt;伝聞､情報の世界&gt;､&lt;神話=フィクションの世界&gt;に関する認識)では､判断(その表現)nさまざまな差異は本質的なものである｡ところが直接的具体的経験の判断では､その表現の違いは単に表現の違いであって､その表現の違いの底には同一事象の経験があるという直感があるから､この違いは本質的なものであはない｡ところで､さきに見たような現象学の問い方は､厳密に言うと意識事象の直接的な経験の記述であって､その解釈ではない｡だからこの答え方は､表現の違いが生じた場合も､ある共通了解を成立させる可能性をもっているのである｡こう言うことができるだろう｡『あいつの頭は硬いよ』という誰かの判断は<strong>解釈</strong>だから他の<strong>解釈</strong>も成立する｡しかし『石は木やガラスより硬い』という判断は､全くの解釈とは言えないのだ｡そういうわけで､先に見たような現象学的な答えの特質は､いわば<strong>形而上学的な問いを</strong>､&lt;主観&gt;の内在における､<strong>誰でもが確かめうる</strong>具体的経験として問いすすめるようなかたちに変更したという点にあるといっていいだろう｡」</p>
<p>竹田青嗣『現象学入門』65-66P</p>
<p>キーワード:原初的な現場の痕跡</p>
<p>もちろん,『イデーンI』以後のフッサールも,論理学や数学における諸概念や諸認識の妥当性が,そのつど知覚において確かめなければならないとは考えなかったであろう。だが、それへの意識の関わりが可能となっているということは,それがはじめて実現した原初的な現場の痕跡を何らかの仕方で含んでいるはずであり,志向的構成を解明する作業(志向的分析)はこのことを考慮に入れなければならない,とフッサールは考えたはずである。この事情をK・ヘルトは、入門者向けに次のように解説している。<br />
「構成の研究に対しては一連の課題が課せられるが,それらの課題は、あらゆる種類の志向的体験はその原体験〔=原的な場面〕への関係によって互いに指示しあっているという考え方によって秩序づけられる。つまり,どの意識のうちにも、事象への近さが欠けている時には,やがて来るかいつか可能な原体験への予示が含まれているというだけでなく,また,それがすでに事象への近さや事象との一致に到達している時には,すでに体験された原体験から絶えず養分を得ているのである。意識はその事象内容からして他の志向的体験を遡示しており,もしそれがなかったら意識そのものが不可能になるだろう。」<br />
論理学や数学で主題とされるイデア的諸対象が理解されるとき,この原初的場面への遡示が何らかの仕方で含まれているのであり,われわれの理解もそこから養分を得ているのである。ピタゴラスの定理を今日のわれわれが知覚において独自に発見することは,あるとしてもきわめて稀であろう。だが,今日われわれはそれを学校で習得することによって理解することができる。この場合のわれわれの理解は,何らかの仕方でピタゴラスの知覚経験を遡示しているのである。」<br />
宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」､50-51p</p>
<p>キーワード:無歴史的アプリオリズム､類型</p>
<p>「さて、先述定的経験の層は意識の最下層である時間意識の上に積み上げられている。それゆえ先述定的経験は時間意識と共に流れ去っていく。つまり現在の顕在的経験もやがて過去の地平へと流れ去り、最終的には「全く空虚で生命なき過去へと沈み込んでしまう」（EU，S、ユ37）のである。レかしそれは跡形もなく消え去ってしまうのではなく、習慣的な所有物として、「常に新たな能動的で連合的な喚起（Wec㎞ng）に向けて準備している」（ebd．）のである。つまり経験は「根源的に構成された意味形態を習慣的知識として自分のうちに取り込んでいる」（ebd．）のであって、それ自身のうちに自らの歴史を担っている。現在の顕在的経験とは、そのような厚みを持ったものなのである。それと相関的に対象の側でもその歴史を持っということがいえる。ここに二重の超過の原因もある。意識も対象も共にその内に歴史を担っており、顕在的な部分が常に地平に取り囲まれていることによって、それは常に自らを超えてその歴史を喚び起こさざるをえないのである。従って無限に進行する可能的経験も、無限に多様な現出系列も共に、その歴史による制約を受けなければならないのである。従って可能的経験という地平であれ、無限な現出系列という地平であれ、それが地平であるならば、それは常に歴史による制約を受けており、どのような地平が形成されるかは、常に既に前もって予描されているのである。これは明らかに「無歴史的アプリオリズム」として構想された現象学の挫折を意味するであろう。以上のように、明証性の理論の分析は、必然的に現象学的還元の理論を挫折に導くのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,156p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc19">代表象とはなにか</span></h2>
<h3><span id="toc20">客観化的統握と理解的統握</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/50eb3247a08e4152e341de9daf4925a8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3414" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/50eb3247a08e4152e341de9daf4925a8.png" alt="" width="385" height="256" /></a></p>
<p>『論理学研究』(1901/1902)における統握図式の掘り下げを行っていく。ここで、統握図式や代表象が主張された。</p>
<p>「<b>統握作用</b>」は「<b>客観化的統握</b>」と「<b>理解的統握</b>」の二形態に区別される。まずはこの２つの区別を理解するところからはじめる。</p>
<h4><span id="toc21">客観化的統握とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>客観化的統握</b></strong></span>：</big>・感覚内容を意味的に解釈することによって、自らに固有の質料によって対象へと関わる作用。「<b>意義充実</b>」と言い換えられるようになる。「感覚内容に資料的な意味を結びつけると同時に、そのように結びつけられた資料によって、作用が感覚の多様を越えて統一的な現出対象へと関わることを可能にする働き」とも規定される｡</p>
</div>
<p>多様な感覚内容をとりまとめ、「<b>統一的な客観的対象</b>」ないし「<b>対象的契機の現出</b>」を可能にする働きともいわれる。</p>
<p>この客観化的統握が、主に知覚における統握となる。ある対象へ「どのように」関わるのか、「自らに固有の質料によって対象へと関わる」という関わり方が知覚作用の関わり方というわけである。こうした作用は「<b>志向的作用(作用質料)</b>」とも呼ばれている。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/old-letters-436501_640-e1707421330183.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-3415 size-full" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/old-letters-436501_640-e1707421330183.jpg" alt="" width="240" height="160" /></a></p>
<p>例えば目の前にあるリンゴを見て、リンゴがあるという意識が生じている知覚のケースなどが挙げられる。</p>
<p>リンゴという文字を見てリンゴの一般的意味をイメージするのと対照的に、まさに目の前のリンゴを見ている。「感覚内容という固有の質料」が与えられ、それらが意味付与されることによって対象が構成されている。</p>
<p>特に知覚作用は<b>有り有りと</b>我々に与えられている。この「有り有り」とした性質は<b>有体性・原本性</b>と呼ばれ、素朴に現実に存在するという意味合いの<b>実在性・現実性</b>と区別される。</p>
<p>現実性・実在性は「<b>現象学的反省</b>(エポケー+超越論的還元)」によって判断が中止されるが、有体性や原本性はそうではなく、むしろそうした「実在性・現実性」が構成される、信憑される根拠の底として示されるのである(※『論理学研究』の時点で現象学的反省は扱われていない)。ただし、こうした根拠の底としての原的直観や感覚内容が、あらゆる認識の「<b>最小構成要素</b>」として解釈され、批判されることがある。ただし、竹田青嗣さんいわく、こうした解釈は間違っているという。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/apple-1122537_640-e1707421375774.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3416" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/apple-1122537_640-e1707421375774.jpg" alt="" width="340" height="218" /></a></p>
<p>リンゴを見てつやつやしている、赤っぽいという感覚が我々に「<b>不可疑的、有体的に</b>」に与えられる例を考えてみる。</p>
<p>紫っぽい、ザラザラしているといったように勝手に、任意に変更することはできない。だからこそ知覚直観は「<b>原的</b>」な直観であると呼ばれている。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:客観化的統握</p>
<p>「統握作用は感覚内容とともに志向的体験の実的な構成要素をなすものであり、それはおもに意義志向における〈理解的統握〉と直観作用における〈客観化的統握〉とに分けられる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,12p</p>
<p>「直観作用、とりわけ知覚作用における客観化的統握は、感覚内容を意味的に解釈することによって、対象の有体的な現出を可能にする働きであるとされる。この知覚における統握作用もまた、それに固有の質料と性質を有している。だが、この客観化的統握が先の理解的統握と大きく異なる点は、それが統握の基盤としての感覚内容を必要とし、この感覚内容が質料や性質と並んで、知覚の重要な契機をなしているという点である。それゆえ、知覚における統握のあり方を考察する際には、作用の質料、性質と並んで、第三の契機としての感覚内容(これは志向充実の連関においては、「充実(Fülle)」とも呼ばれる)を考慮に入れなければならない。それでは、直観作用における統握作用は、これら三つの契機によってどのように説明することができるのだろうか。ここでもやはり知覚作用を例にとるならば、知覚における客観化的統握は、それ自身、自らのうちに固有の資料を有しており、この質料を介して特定の対象へと関係する。だとするならば、先の意義志向の場合と同様、ここでも質料との連関において、知覚的統握は次のように理解することができるだろう。すなわち、知覚的な統握作用は、まずもって感覚内容を意味的に解釈することで統一的な対象の現出を可能にする働きであるが、知覚的な統握のこのような働きは、それが自らのもつ質料を感覚内容に付与こうして感覚内容に付与された資料が感覚内容を越えた統一的な対象を指示することによって、はじめて可能になると考えられる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,13p</p>
<p>「その意味で、知覚における客観化的な統握とは、感覚内容に資料的な意味を結びつけると同時に、そのように結びつけられた資料によって、作用が感覚の多様を越えて統一的な現出対象へと関わることを可能にする働きであると規定することができる｡」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,1４p</p>
<p>キーワード:認識の最小単位､先構成論的な批判､合成論的な要素構成主義</p>
<p>「これらの反論の要点をひとことで括ることができる｡これらが主張するのは､要するに､&lt;意識&gt;に生じていることの『<strong>根源現象</strong>』をつきとめることはできないということだ｡フッサールは､&lt;知覚&gt;やら&lt;本質&gt;直観やらを『根源現象』､つまり認識の最小単位(元素)として置いた｡ところがどのような&lt;知覚&gt;がそれ以上分割出来ない最小単位かを規定することなどできないのではないか｡さまざまな反論はそう言うのである｡この批判はまた､基礎と見られている&lt;知覚&gt;も､よく考えればすでに別のもの(言葉､時間､地等々)によって構成されている､と主張する点で､<strong>先構成論</strong>的な批判と呼んでおくことができる｡」</p>
<p>竹田青嗣『現象学入門』,92p</p>
<p>「このように､フッサールの&lt;内在―超越&gt;原理は､&lt;知覚&gt;経験をよく内省し直したすえに､そこに､原理上いつでも限りなく疑いうるような側面とそれについて疑うことができないような側面のあることを指摘しているのであって､認識を､<strong>構成された全体</strong>とその<strong>構成要素</strong>に分けているのではけっしてない｡さきの反論が現象学をそのように受け取るのは､それがまさしく､合成論的な要素構成主義として現象学を理解しているからである｡」</p>
<p>竹田青嗣『現象学入門』,9５p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc22">理解的統握とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理解的統握</strong></span>：</big>・言語的記号を意味的に解釈することによって「思念された対象」への関係を実現する働き。「<b>意義志向</b>」と言い換えられるようになる。対象への関係は、統握作用が自らのもつ意義的本質を言語的記号に付与し、このようにして付与された意義的本質が思念された対象を指示するという仕方によって可能になるという点がポイントになる｡</p>
</div>
<p>・単なる語感や文字に意義を与える作用。意義付与作用とも呼ばれる。意義志向においては、原的直観のような「<b>充実</b>」は存在せず、「<b>空虚</b>」と表現されている。言葉を理解する作用と言葉として表現にする作用は正確には別だが、しかし表意作用としてセットで扱うことにする。</p>
<p>こうした理解的統握も志向的作用といえるが、しかし知覚的作用(客観化的統握)に基づけられた作用であるとされている。</p>
<p>例えば「リンゴ」という文字表現を理解する場合、目の前にリンゴがあるわけではない。</p>
<p>しかし、我々は文字によって表象されている[リンゴ]という意義を理解することができる。そして[椎名林檎]という意義としても理解することが可能だろう。あるいは[iphone]としても可能かもしれない。文字を見た場合に我々が赤い、ツヤツヤしていると意味づけているいわば「一般的リンゴ」という対象は食べることができないし、燃えることもないし、腐ることもない。なぜなら「思念された対象」だからである。</p>
<p>もちろんそうした空虚なものが、充実されることもある。たとえば「隣の部屋のリンゴ」という文字を見て、実際に隣の部屋にいってリンゴがあることを確認した場合、空虚的な表現が知覚的に充実されたことになる。しかし充実されなくとも表現は可能なので、この充実は必要不可欠ではない。たとえば「火星の宇宙人」という文字を通して我々はそれが意味するものを理解することができるのである。</p>
<p>理解的統握の場合、知覚のような固有の質料が与えられていないといえる。鉛筆で書かれた文字でも、チョークで書かれた文字でも同じである。むしろそうした物理的、固有的、その都度的なものに依存しない、本質的なもの、イデア的な「言語的意味」が重要になる。</p>
<p>たとえば「木」という文字表現を理解する場合の「木」は燃えないし壊れない。そしてそうした理念性、イデア性、一般性ゆえに、そうした意味ないし対象は他者と共有でき、コミュニケーションの形成を可能にする。</p>
<p>客観的時間の中で過去、現在、未来の各時間位置を持つものが「<b>実在的対象</b>(リアリテート)」に対して、そうした時間位置を持たないがどちらにも現れることができるものを「<b>理念的対象</b>(イデアリテート)」という。たとえば１＋１＝２で「あった」というように時間位置をもつことはない。つねに１＋１＝２で「ある」という単一の位置をもつのである。しかし幾何学や数学よりもイデア性が言語的意味の場合は低次であることに注意。たとえば「馬」という意味はイデア性をもつが、しかし現実に存在する多様な馬との出会いを前提とする。しかし点や円といった幾何学的対象に出会うことはできない(※この内容は1929年の『形式論理学と超越的論理学』)。</p>
<blockquote>
<p>「そうすると、これまで述べてきた意義志向において機能している統握作用(理解的握)は、先の質料のもつ対象指示的な機能を考え合わせるならば、次のように規定することができるだろう。すなわち、意義志向における理解的統握は、言語的記号を意味的に解釈することによって思念された対象への関係を実現する働きであるが、この対象への関係は、統握作用が自らのもつ意義的本質を言語的記号に付与し、このようにして付与された意義的本質が思念された対象を指示するという仕方によって可能になると考えられる。<br />
その意味で、意義志向における統握作用は、その根底において質料、ないし意義的本質のもつ対象指示的な機能に支えられているということができるだろう。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,12p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc23">「理解的統握」は「客観化的統握」に基づけられている</span></h4>
<p>また、「理解的統握」は「客観化的統握」に<b>基づけられている</b>とも説明されている。</p>
<p>「理解的統握」はまず、「客観化的統握」によって、物理的な客観としての単なる言語的記号が現出している必要がある。たとえば「リンゴ」という文字が現出する。それは物理的なチョークの粉を見るという知覚だとする。そうした物理的な知覚によってはじめてまとまった、対象化された何かとしての出現が可能となった言語的記号に対して、「理解的統握」を行うのである。声の場合も感覚があるので同様である。視覚、聴覚、触覚などあらゆる感覚を経ずにこの記事を理解することが不可能なのと同じである。</p>
<blockquote>
<p>「それに対して、前者の理解的な統握とは、直観的な表象作用に基づけられた高次の作用性格であるとされる。すなわち、言語的理解においてはまず、上記の統握作用によって物理的な客観としての単なる言語的記号が現出し、それに基づいて第二の統握、すなわち理解的統握としての意義志向が遂行される。この理解的統握は、言語的記号の直観的な現出に基づき、それに対して、あたかも言語的な意味解釈を施すかのように意義を付与し、それによって言語的な意味理解を可能にするとともに、先の言語的記号とはまったく異なる新種の対象性、つまり表現され、思念された対象性への関係を可能にする。したがって、理解的統握とは言語的記号の現出に基づいて遂行される一種の意味解釈的な働きとして理解することができよう｡」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」､4p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">「意味」の中身の謎問題</span></h4>
<p>※この内容は第五回で掘り下げた</p>
<p>問題は、客観化的統握における感覚内容を意味的に解釈する、という「意味」の中身である。</p>
<p>フッサールは「客観化的統握」において、つまり知覚的な統握作用において、感覚内容がある「意味」として解釈されているという。</p>
<p>その「意味」は言語的な意味ではないが、<b>何らかの一般的な意味が</b>付与されているというのである。どちらも意味解釈ではあり、意味付与であるが、その「意味」が異なるというわけである。では、「客観化的統握」の「意味＝<b>統握意味</b>」とはなにか。</p>
<h3><span id="toc25">志向的作用とは</span></h3>
<p>※この内容は第一回で深く扱っている</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>志向的作用</b>：対象に適格に向けられていることを可能とする契機。「作用性質」とも呼ばれ、知覚作用や判断作用、表意作用といった対象への関わり方を規定するものである。これが「統握作用」にあたる。</li>
<li class="sample"><b>志向的質料</b>：どのように対象が与えられるかを規定する契機。「異なる性質をもつ複数の作用が共有する内容として取り出された契機」とも定義されることがある。これが「統握意味」である。作用質料とも呼ばれ、作用質料と作用性質がセットで「志向的本質」と呼ばれる。</li>
<li class="sample"><b>志向的対象</b>：感覚内容が統握作用により統握意味を付与され超越的に構成されたもの｡</li>
</ol>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/01efc8907249a02ddb471549b121fdcc.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3421" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/01efc8907249a02ddb471549b121fdcc.png" alt="" width="684" height="439" /></a></p>
<p>※フッサールは志向的内容を「志向的対象、志向的質料、志向的本質」に分類し、その後、作用質料(志向的質料)および志向的本質を実的に内在するといい、志向的対象は志向的に内在するというように分類している。端的に志向的作用(作用性質)、志向的内容(作用質料)、志向的対象(作用対象)でもいいのではないかと第一回目の動画では思っていたが、右の図のような理解で進めていく。暫定的な分類であり、次回さらに解釈が分かれる議論を扱う。</p>
<h4><span id="toc26">表意的作用のケース</span></h4>
<p>たとえば「隣の部屋のリンゴ」という文字列(言語記号)を見て、隣の部屋のリンゴ&#x1f34e;(志向的対象)へと間接的に志向するとする。</p>
<p>しかし何か「媒介」されないと対象へと志向することはできない。「志向的質料」を通してはじめて対象への関係が構成されることになる。</p>
<p>ナポレオンという文字を見て[イェナの敗者]や[ワーテルローの勝者]、[吾輩の辞書に不可能はないの人]といった意味を通して同じナポレオン&#x1f471;が志向されるケースが表意的作用ではイメージしやすい。言語的理解の場合はイメージしやすいが、しかし「統握意味、知覚的意味」といった場合はより複雑になる。</p>
<p>たとえば「林檎の赤さ」という知覚的意味を・・・と言葉を使って話すと言語(表現､記号)のようになってややこしい。もちろん現象学的分析ではそうした知覚的意味を記述する際に言語(表現､記号)に変換していくことになるのだが、それらは区別する必要があるのである。</p>
<p>たとえば隣の部屋のリンゴを一度も見たことがない場合は、想起ではなく、「<b>想像作用</b>」を通す必要があるかもしれない。私は「赤く、丸く、ヘタがあって、コブシサイズの、１個のリンゴ」を想像するかもしれない。</p>
<p>しかし友人A「緑で食べかけの林檎(グリーンアップル)」を想像するかもしれない。あるいは、友人Cは「隣の部屋の林檎」は存在するか疑わしい、誰かがすでに食べただろう、というような違う作用を選択するかもしれない。大事なのは「同じ対象」を「異なる作用」、「異なる意味」を通して志向しているという点である。身近な例で言えば、部下に嫌な上司と思われても、奥さんにとってはいい旦那さんだということもある。しかし同じ人物が違う意味を媒介として志向されているのである。すべての側面・視点から同時に対象を志向することは不可能であり、その点でこうした物(者)への知覚は不十全的であり、理念的、可能性としての十全さにとどまると言われるのである。</p>
<h4><span id="toc27">対象を志向する様々な仕方(作用性質)､所与の仕方の違いについて(最も空虚な作用､最も充実な作用)</span></h4>
<p>私は隣の部屋に実際に行き、リンゴを知覚し、「赤いリンゴ」を見ることによって、単なる空虚的な志向から、充実的な志向へと変えることもできる。</p>
<p>しかし、リンゴの表面しか見ることができず、その裏面を(同時に)見ることはできないのだから、結局、不十全的に知覚するに過ぎない。裏側はもしかしたらないかもしれない、という可能性は残ってしまう。裏側を見たときも、その瞬間だけ表側はないかもしれない。では「<b>いま見ている側だけなら十全的に与えられるのか</b>」という問題だが、それも複雑な問題が絡んでいる。この問題は内的時間意識の動画で詳しく扱う予定である。また補足すれば、外的知覚、<b>物の知覚は必然的に今見ている側面以外の側面もセットで見てしまう(＝射影を通して与えられる)</b>。したがって「いま見ている側だけの意識」という非射影は内的知覚、いわゆる現象学的反省という手法と関わってくる。</p>
<p>想像も疑いも知覚も、同じ志向的対象(&#x1f34e;)へ向かっているのであり、その向かい方、「所与の仕方」が空虚的か充実的か、非直観的か直観的かで変わっている。</p>
<p>作用によって「所与の仕方」が変わるのである。具体的にその差異を説明していく。</p>
<p>（１）対象が現出することができる最も低次で最も空虚な仕方は表意的作用。</p>
<p>（２）対象が現出することができる最も高次で最も充実な仕方は知覚的作用。</p>
<p>（３）表意的作用(言語的作用)は指示関係をもつが、対象はどんな具体化された仕方でも与えられない。</p>
<p>（４）想像的作用は一定の直観的内容をもつが、表意的作用と同じように、対象を「間接的に」志向する。</p>
<p>（５）表意的作用は対象を偶然的代表象(言語記号)経由で志向する</p>
<p>（６）写像的作用は対象を対象に対するある一定の類似性を帯びる代表象(写像)経由で志向する</p>
<p>例:「ナポレオンの絵画&#x1f3a8;」の経由でナポレオン&#x1f471;を志向する。「ナポレオン」という文字の経由でナポレオンを&#x1f471;志向する。文字そのものはナポレオンと似ていないが、しかし絵はナポレオンと似ているので「類似性」を帯びるといわれる。</p>
<p>（７）<b>知覚的作用が、対象を一番直接的に与える</b>とされている。写像のように、「一定の類似性を帯びる代表象経由」で志向されるわけではない。写像や言語のような代表象ではないが、知覚における志向的質料には代表象を付与する機能、「記号」のような指示過程がある。谷徹さんの表現でいえば、「諸現出(射影されたもの)という『記号』によって媒介されているため、現出者(志向的対象)の知覚は厳密には直接的ではない」。いったいこれはどういうことかを後半で理解していくことになる。</p>
<p>（８）フッサールは「言語的志向」よりも「知覚的志向」が根本的だと考えている。言語的志向は「基づけられた志向」である。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:作用性質､最適な仕方､階層関係､再現前化､現前化､偶然的代表象､類似的代表象､指示関係</p>
<p>「こうした対象を志向するさまざまな仕方は関係なくはない｡反対に､フッサールによれば､対象をできるかぎり直接的､原初的､最適な仕方で与えるそれらの能力によって諸々の様態を段階づけることができるという意味で､それらの間には厳密な階層関係がある｡対象は多かれ少なかれ直接的に与えられうる｡つまり､対象は多かれ少なかれ<strong>現前的</strong>である｡さまざまな認識のレヴェルについて語ることができる｡対象が現出することができる最も低次で最も空虚な仕方は表意的作用である｡確かに､こうした(言語的)作用は指示関係をもつが､ただし対象はどんな具体化された仕方でも与えられない｡想像的(写像的)作用はある一定の直観的内容をもつが､表意的作用と同じように対象を<strong>間接的</strong>に志向する｡表意的作用は対象を偶然的代表象(言語記号)経由で志向するのに対して､写像的作用は対象を対象に対するある一定の類似性を帯びる代表象(写像)経由で志向するのである｡まさにただ現実の知覚だけが対象を直接的に与えるのである｡これが対象そのものをその生々しい現前において呈示する志向の唯一の類型である｡フッサールが述べるように､再現前化のすべての類型は､対象が直接的に､原初的に､最適な仕方で与えられる場合の所与の様態である本来の現前化に関係し､そこから導出された作用である｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,41-42p</p>
<p>「上記のことを考えれば､フッサールが言語的志向を知覚的志向よりも原初的ではなく根本的でもないと捉えていることは明らかなはずである｡専門用語を用いて言えば､言語的志向は<strong>基づけられた</strong>志向である｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,42p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">志向的質料とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向的質料</strong></span>：</big>・経験がかかわるものを特定する成素のこと。あらゆる作用に内在する質料的契機。「<b>作用の質料</b>」、「<b>統握意味</b>」とも呼ばれる。端的に言えば「<b>意味</b>」である。</p>
</div>
<p>詳細な説明は第一回の記事において行っている｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p>※なお、『論理学研究』の時点で用語上、「意義(meaning)」と「意味(sense)」は厳密に区別されていない。『イデーンⅠ』において、意義が狭義に「言語的意味」であるとされた。ただし『イデーンⅠ』における「意味＝ノエマ的意味」は「命題」であると言われたり「知覚的意味」と「先述定的意味」を含むと言われたりと、非常に広義であり、かつ議論が分かれるのでここでは扱いきれない。</p>
<p>例：フッサールは「私は手回しオルガンを聞いている。……その感覚された音をまさに手回しオルガンの音として解釈している」と述べている。これは知覚における作用質料ということになる。</p>
<p>例：火星に知的生命体がいると表象しているのであれば、「火星に知的生命体がいる」というのが作用質料となる。この場合は想像かもしれないし、判断かもしれない。ただし火星に知的生命体がいることは知覚できないだろう(厳密に言えば、たとえば火星を特殊な装置で覗けると騙され、生命体がいるように見えるような仕組みを作った場合、その実在はどうあれ、当人にとっては生命体が知覚されることになる。それゆえに実在するかどうかに関わらず志向性分析は可能だと『論理学研究』時点では言われる。ここは重要なので覚えておく必要がある。</p>
<p>「感覚された音」が感覚内容にあたり、「手回しオルガンの音(として)」が志向的質料にあたる。</p>
<p>こうした意味を<b>言語的な意義と区別して</b>、「<b>統握意味</b>」と呼んでいる。何かを何かとして解釈するというまさに「何かとして」にあたる部分である。</p>
<p>追記:第五回で説明するように､簡易的に志向的質料=統握意味として扱い､そこから言語的意味と”知覚的”意味を区別するようにした</p>
<p>ではいったい言語的意味ではない意味とは何を意味しているのか。「リンゴ」という文字を見て我々に与えられる[リンゴ]という言語的意味と、&#x1f34e;を直接見て我々に与えられる[リンゴ]という統握意味・志向的質料、言うならば「知覚的意味」はどう違うのか。ここがキーポイントになる。</p>
<p>言語的意味はイデア的であり、イデア的な意味は腐らないし燃えなかった。いわば過去形になりにくい客観的・本質的意味である。しかし知覚的意味はどうだろうか。知覚的意味が言語化しにくいものであるという点、ないし主観的な要素を多分に含むという点は挙げられる。たとえば白色という言語的意味と、まさに私が今見ているスライドの文字の知覚的意味は全く同じではない。いわば一般的白と特殊的白だろうか。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記(2024/02/16):意味と意義についての詳細な説明は以下の記事の「【修正】追記:「知覚的意味」とはいったいなにか､私がよく理解していない問題」を参照｡<a href="https://souzouhou.com/2024/02/11/husserl-4/">【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</a></p>
<blockquote>
<p>キーワード:なんらかの一般的意味,手回しオルガンの音,統握意味</p>
<p>「たとえば、フッサールは第五研究、第15節において「感覚はここで対象的な〈解釈〉ないしは〈統握〉をこうむる」(ibid406)と語り、知覚的な統握作用を一種の「解釈」の働きと言い換えている。また「論理学研究」の補遺においては、統握作用に関して次のように記されている。「私は手回しオルガンを聞いている。その感覚された音を私はまさに手回しオルガンの音として解釈している(強調は原著者)」(XIX/2762)。 <br />
統握の働きは、ここで感覚内容をあるものとして解釈する働きともいわれており、感覚された音は、この統握の働きによって、私にとって客観的な手回しオルガンの音として現出するとされる。これらの叙述から分かるとおり、知覚的な統握作用は、知覚対象の有体的な現出を可能にする働きであると同時に、感覚内容をあるものとして解釈する働きとしても捉えられていたといえる。それでは、この感覚内容を解釈する働きとは、具体的にどのような働きとして理解されるのだろうか。通常、私たちがあるものをあるものとして解釈するという場合、それはあるものを何らかの一般的な意味によって解釈するということを意味している。 <br />
したがって、ここでいわれる感覚内容の解釈という働きもまた、たとえ言語的な意味ではないにせよ、何らかの一般的な意味を感覚内容に付与し、それによって感覚内容をある意味として解釈するということを意味していることになろう。そして、知覚的な統握作用がこうした感覚内容の意味解釈的な働きとし理解されるかぎり、そこには感覚内容がそれでもって解釈されるべき〈意味〉という契機が介在しているはずである。実際、フッサールは、統操作用のうちにこのような意味的な契機が介在していると考え、それを彼は第六研究において、「統握意味(Auffassungssinn)」(ibid.622)と呼んでいる。この統握意味とは、「私たちが感覚的な内容を何として〉統握する」(ibid,623)際の何にあたるものである。それゆえ、ここで握作用とは、感覚内容をこのような意味によって解釈するような働きとして捉えられていたと考えることができる。<br />
」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,５p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">作用質料の機能について掘り下げて理解していく</span></h4>
<p>宇多浩さんの説明では、作用質料とは「作用がそのつどの対象性を統握しているということを規定するだけでなく、作用がその対象性を＜何＞として統握し、作用がその対象性に対していかなる<b>メルクマール、関係、範疇的形式</b>を割り当てるのか、ということをも規定する」という作用契機である。</p>
<p>『イデーンⅠ』ではこうした「形式」を与えるという意味で「志向的形式(<b>モルフェー</b>)」とも呼ばれ、<b>ヒュレー</b>(感性的質料)と区別されていた。ただしそれが単なる表現の変化かは議論が分かれる(後に扱う)。</p>
<p>ここで重要なのが「作用質料(志向的質料)」、つまり「意味」が<b>対象性</b>に対しての規定を行うという点である。</p>
<p>「感覚内容」が単体で対象性に対しての規定を行うわけではなく、その意味で、単体では死んだ素材とみなされる余地があるといえる。</p>
<p><b>統握のおかげ</b>で意味をもち、また<b>意味のおかげ</b>で<b>対象へと接続される</b>のである。『イデーンⅠ』の言葉で言い換えれば、「ノエシスがヒュレーに形式を与え、そこに対象関係が成立し、ノエマという超越的なものが構成される」のである。</p>
<p>『イデーンⅠ』ではノエシスという言葉が使われ、このノエシスは統握・定立・直観に分類されている。</p>
<p>つまり、ノエシスの作用のひとつが「統握」なのである。対象が確実か、可能的か、蓋然的か、肯定的か、否定的かといったいわゆる「信念様式や存在様相」は「定立」に属している。そして直観において、「Sがある」とか、「AはBより高い」、「スベスベしている」とかいった「事物」、「性質特徴」、「事物同士の関係」といったものが直観される(知覚直観の場合)。１＋１＝２と言った場合は本質直観となり、合わせて「原的直観」と呼ばれる。</p>
<p>こうして考えていくと、以下のようになるのだろうか。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「赤っぽい」といったような感覚内容がある。</li>
<li class="sample">「赤っぽい」といった感覚内容に対して意味が付与される。たとえば「リンゴの赤っぽさ」といったような「物的・対象的な規定」としての意味が付与される。感覚内容だけでは「リンゴの～」といった対象性が皆無だが、意味が付与されることによって「リンゴの～」という対象性が与えられる。目の前に赤色の「リンゴ」が存在して、私はそれを見ているのである。</li>
<li class="sample">「リンゴの赤色」が私には容易に疑えないほどありありと与えられている。</li>
</ol>
<p>目の前のりんごの色が青色だとはどうしても思えない。目の前に様々な意味を媒介して構成されたリンゴが実在しないなんて、どうしても疑うことが出来ない。この場合の定立は、おそらく信念様式は「確信」であり、存在様相は「確実的」である。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/MS458A2817_TP_V4-e1707445436698.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3424" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/MS458A2817_TP_V4-e1707445436698.jpg" alt="" width="300" height="179" /></a></p>
<p>今触ったマウスにインフルエンザの菌、あるいは未知のウイルスが存在するかもしれない。あるいは夢を見ていて、本当はマウスに触っていないかもしれない。しかし一般的にそんなことはわかりはしないし、きりがない。ウイルスがついていないマウスとして、夢ではないものとして、マウスを構成し、その構成された超越物を我々は見ているし、触っている。</p>
<p>この場合の定立は、おそらく信念様式は「確信」であり、存在様相は「確実的」である。</p>
<blockquote>
<p>「質料は本来、作用の意味的な内容に関わるものであるかぎり、質料はこのような表象の内容的な違いをも考慮に入れた仕方で対象的関係を規定しているはずである。<br />
そこで、このような内容的な違いを考慮に入れるならば、質料は次のように規定することができる。すなわち、質料とは「作用にはじめて対象的なものへの関係を付与するもの、しかも、きわめて特定の関係を付与するものであり、その結果、この質料によって、単に作用が思念する対象的なものが一般に規定されるのみならず、作用が対象を思念する仕方までもが明確に規定されることになる」(ibid429)。言い換えれば、資料とは、「作用がそのつどの対象性を握しているということを規定するだけでなく、作用がその対象性を何〉として統握し、作用がその対象性に対していかなるメルクマール、関係、範疇的諸形式を割り当てるのか、ということをも規定する」作用契機であり、それは「いわば性質を基づける対象的握の意味(ないし簡潔に統握意味)」(ibid430)である。<br />
先に、統握作用に関する考察の中で、統握意味とは感覚内容を意味的に解釈する際の〈何〉にあたるものとされたが、ここではより一般的に、あらゆる作用に内在する質料的な契機として理解されている。そして以上の質料の規定において特徴的な点は、作用の対象的関係において質料の果たす役割が強調されている点である。作用の志向的内容である性質と質料は、それぞれ別の仕方で作用の対象的関係のあり方を規定しているが、なかでもとりわけ質料は、作用のもつ特定の対象的関係を可能にする、という志向性にとってきわめて重要な役割を果たすものと考えられている。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,10p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">志向的質料による「指し示し」</span></h3>
<p><b>質料は</b><b>作用の向かう対象の在り方を「指し示している」</b>という。</p>
<p>こうした対象指示的な機能が、作用の対象的関係＝志向性を可能にしているという。詳細は後ほど扱う。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a4e64d227c74e7f32df2f9af025b1a45-e1707476505977.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3425" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/a4e64d227c74e7f32df2f9af025b1a45-e1707476505977.png" alt="" width="600" height="296" /></a></p>
<p>整理するとこのようになる。</p>
<p>・追記</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>対象指示的な機能</strong></span>：</big>・質料が自らのもつ意味的な内容によって、作用がいかなる特定の対象に、いかなる対象的諸規定でもって関わるかをあらかじめ指し示す働きのこと｡対象指示的な働きによって､志向的体験が可能となるという点がポイントであり､また『論理学研究』では志向的質料が重視されている点の論拠でもある｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>キーワードー:対象指示､対象的関係<br />
「ということは、質料とは自らのもつ意味的な内容によって、作用がいかなる特定の対象に、いかなる対象的諸規定でもって関わるかをあらかじめ指し示す働き、つまり、作用の対象指示的な働きを可能にする役割を果たしているということができる。つまり、ここで質料が作用の特定の対象的関係を規定するということは、資料が作用の向かう対象のあり方を指し示す〉ということを意味しており、このような質料のもつ対象指示的な機能が、作用の対象的関係、つまり志向性という特性を可能にしていると考えられる。ここにおいて、私たちは「論理学研究」における志向性概念の中心的な部分に到達している。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,11P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">客観化作用とはなにか</span></h3>
<h4><span id="toc32">客観化作用の分類</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>客観化作用</strong></span>：</big>・統握作用のこと。それ自身、自らに固有の質料と性質をもち、自らに固有の対象的関係を有する作用のこと。客観を目指すゆえに､客観化作用と呼ばれる｡</p>
</div>
<p>問題は、どのようにして固有の質料と性質をもつのかである。同じ対象であったとしても、その対象に対して異なる作用、異なる意味をもつことができるのである。想像したり、判断したり、想起したり、予測したり、表現したりといった様々な作用の一つとして知覚作用がある。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ec353b7cde1cfa98f7a0001eb94c141c-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3428" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ec353b7cde1cfa98f7a0001eb94c141c-1.png" alt="" width="328" height="199" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ec353b7cde1cfa98f7a0001eb94c141c-1.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ec353b7cde1cfa98f7a0001eb94c141c-1-800x486.png 800w" sizes="(max-width: 328px) 100vw, 328px" /></a></p>
<p>客観化作用を分類するとこのような図になる｡</p>
<p>志向的作用の第二規定によれば、「あらゆる作用は、それ自身、表象であるか、表象を基礎にもつ」という。たとえば表象を基礎としてもつ作用に「疑う」という作用がある。「リンゴを見る」という表象がまずあることによって、本物のリンゴかどうか疑ったり信じたりすることが可能になる。</p>
<blockquote>
<p>「表意作用や直観作用は、客観を目指すので「客観化作用」と呼ばれる。直観作用はさらに知覚、想像作用などに区分される。この客観化作用が対象に関係する仕方はまず、(1)作用性質(2)作用質料(あるいは代表象)の契機に規定される。(1)作用性質は、作用が措定的か、非措定的かを規定する。信憑なのか、あるいは懐疑なのか、願望なのか、あるいは保留なのか、その様式のことである。それに対して(2)作用一貸料・代表象は意味に関わるが、(a)統握形式、(b)統握一貸料、(C)統握された内容の契機を含んでいる。(a)統握形式は、対象が表象される仕方のことで、表意的か、直観的か、あるいは両者の混合した仕方で表象されるかによる。(b)統握質料は、対象がどの特定の「意味」で表象されているか、ということで向じ対象が、異なる意味で規定されることによる(「統握意味」とも表される)。(C)統握された内容は、対象が、どの記号、あるいはどの呈示的内容によって表象されるかということで、後者はいわゆる感覚内容・ヒュレーを指している。フッサールは、このように作用の構成要素を区分した上で、さらにすべての客観化作用が代表象を内蔵しており、またどの作用もそれ自身ひとつの客観化作用であるか、あるいは客観化作用に基づいている、と規定している。」</p>
<p>鈴木康文「初期フッサールにおける注意の問題」<br />
「この考察によって得られた最終的な結論は、この規定において使用されている〈表象〉という概念は、客観化作用、すなわち自らに固有の質料によって対象へと関わる作用として理解されるべきである、ということである。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,15P<br />
「こうして第五研究において、作用の一クラスとしての客観化作用という概念が導入された後、第六研究における充実総合の分析の中で、この作用がさらに三つの働きに分類される。すなわち、客観化作用は表意的志向と直観的志向とに区分され、さらに後者の直観的志向が想像的志向と純粋知覚的な志向とに分けられる(図3参照)。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,1６P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc33">基づけ関係の例</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/eda38ed7a991bed64c5a93a2d8778831.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3429" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/eda38ed7a991bed64c5a93a2d8778831.png" alt="" width="834" height="513" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/eda38ed7a991bed64c5a93a2d8778831.png 1020w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/eda38ed7a991bed64c5a93a2d8778831-800x492.png 800w" sizes="(max-width: 834px) 100vw, 834px" /></a></p>
<p>こちらの図は基づけ関係のイメージとして便利かもしれない。「<b>基づけ</b>」とはXがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができないということであり、Yに還元できるという意味ではない。</p>
<p>・追記</p>
<p>１:作用(能動的志向性)は客観化作用であるか､客観化作用に基づいている作用かどちらかである</p>
<p>２:客観化作用の中でも､基づけ関係がさらにある</p>
<p>３:志向性の第二規定は､「あらゆる作用はそれ自身、表象であるか、表象を基礎にもつ」という｡これは客観化作用か､客観化作用を基礎にもつという点とつながってくる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:基づけられた作用</p>
<p>「そして、表象概念がこのように理解されたとき、志向性に関する先の第二の規定は次のように理解されることになる。すなわち、あらゆる志向的な作用は、それ自身、自らに固有の質料と性質をもち、自らに固有の対象的関係を有する客観化作用であるか、それとも願望作用や価値作用など、その質料と対象的関係を客観化作用から引き受け、その意味で客観化作用に基づけられた作用であるかのいずれかである。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,15P</p>
<p>キーワード:志向的作用の第二の規定,表象<br />
「第五研究において、志向性の基本構造を提示したフッサールは、引き続き志向的作用の第二の規定、すなわちあらゆる作用はそれ自身、表象であるか、表象を基礎にもつ〉という規定に関する詳細な考察を行う。この考察によって得られた最終的な結論は、この規定において使用されている〈表象〉という概念は、客観化作用、すなわち自らに固有の質料によって対象へと関わる作用として理解されるべきである、ということである。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,15P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc34">直観的志向の分類(想像的志向､純粋知覚的志向)</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>直観的志向</strong></span>：</big>・感覚内容に対して、それに対応する対象的契機を呈示するという機能を与えるような志向。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>想像的志向</strong></span>：</big>・感覚内容に基づいて対象的契機を呈示するが、自己呈示という仕方で呈示するのではなく、感覚内容と対象的契機との間に成立している類似性の関係に基づいて、対象的契機を写像的に呈示する働き。例:白い馬をペガサスとして想像するケースなど</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>純粋知覚的志向</strong></span>：</big>・感覚内容と対象的契機との間に、「<b>自己呈示</b>」という仕方での対象的関係を確立する働き。「<b>純粋知覚的な統握</b>」とも呼ばれる。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「つまり、これらの志向に特徴的な点は、それらが感覚内容に対して、それに対応する対象的契機を呈示するという機能を与える点であり、言い換えれば、感覚内容とそれに対応する対象的契機との間に直接的な呈示(Darstellung)という仕方の関係を作り上げるという点である。<br />
このような機能をもつ直観的志向は、さらに純粋知覚的志向と想像的志向とに分けられ、それに応じて、それぞれの機能も分化される。まず前者の純粋知覚的な志向は、「純粋知覚的な統握」(ibid.)とも呼ばれ、それは感覚内容の「あらゆる部分や契機を、それらに対応する知覚対象の部分や契機の〈自己呈示〉と見なす」(ibid.590)働き、すなわち、感覚内容と対象的契機との間に、〈自己呈示〉という仕方での対象的関係を確立する働きと考えられている。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」(2),16P</p>
<p>「それに対して、想像的志向とは、たしかに感覚内容に基づいて対象的契機を呈示するが、自己呈示という仕方で呈示するのではなく、感覚内容と対象的契機との間に成立している類似性の関係に基づいて、対象的契機を写像的に呈示する働きであるとされる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」(2),17P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc35">表意的志向とはなにか､意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>表意的志向</strong></span>：</big>・直観的な志向に「<b>隣接的</b>」という仕方でまとわりつく間接的な志向のこと。感覚的内容に基づいて、本来的に呈示されない対象的契機への隣接的な仕方での関係を可能にする働き。</p>
</div>
<p>この志向によって、感覚内容と対応していない対象のさらなる部分や側面への表意的な関係が可能になるという。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/46943c687cb226639adee19845a96ae9.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3431" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/46943c687cb226639adee19845a96ae9.png" alt="" width="411" height="180" /></a></p>
<p>POINT：意義志向や理解的統握が、言語的な意味理解の文脈を離れて使用されるようになったという。</p>
<p>つまり、表象を基礎とする作用である「表現」や「表現の理解」という文脈を離れて、表象を構成する作用のひとつとして理解されるようになる。ここがポイントであり、ややこしい。表意的作用とも理解的統握とも区別された新しい概念として使われる。</p>
<blockquote>
<p>「表意的志向とは、本来、言語的表現の意味理解の働きとして、これまでいわれた意義志向とほぼ同義の概念として導入されたものである。しかし、この概念は言語的な意味理解の文脈を離れても使用されるようになり、そのときそれは、先の直観的志向とともに全体的な直観作用を構成する契機として捉えられるようになる。すなわち、その場合の表意的志向とは、直観的な志向に隣接的な仕方でまとわりつく間接的な志向であり、この志向によって、感覚内容には「本来的な呈示へともたらされない、対象のさらなる部分や側面への表意的な関係」(ibid.609)が付与される。つまり、直観作用、ないし知覚作用において機能している表意的志向とは、感覚内容に基づいて、本来的に呈示されない対象的契機への隣接的な仕方での関係を可能にする働きであると考えられる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,17P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">直観的志向と表意的志向の合体が知覚(全体的知覚)</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>全体的知覚</strong></span>：</big>・純粋知覚的志向に表意的志向がまとわりついて、両者が一体となったような志向のこと。</p>
</div>
<p>純粋知覚的志向という<b>部分志向</b>と、表意的志向という<b>部分志向</b>の複合として考えられている。</p>
<p>全体的なイメージとしては、足し算というよりは掛け算のイメージだろう。たとえば宮原有さんの説明によれば、知覚体験＝感覚素材×統覚作用となるという。そして全体的知覚が可能だとすれば、それは部分的知覚＋部分的知覚……＋部分的知覚となるという。つまり、部分的知覚は乗法的集合であり、全体的知覚は加法的集合であるという。</p>
<p>※ここでいう全体的知覚は全体的な知覚作用のことではない。たとえば今目の前を見ると、マウスやコンピューター、ディスプレイが見える。マウスの知覚、コンピュータの知覚などの加法的集合というイメージ。要するに、「全体的な知覚作用」は部分志向からなる乗法的集合であり、「全体的知覚」はそれら乗法的集合の加法的集合ということになる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:あらためて考えてみると､全体的知覚も全体的な知覚作用も等しいといったほうがいいのかもしれない｡いわば､潜在的ないし含蓄的な部分志向が部分的知覚であり､それらは顕在的な全体的知覚と共に作用しているのである｡顕在的な意識において部分を合わせて全体にする作用と､潜在的な意識において部分を合わせる作用というように区別してしまっていたが､宮原さんの挙げている例はどちらかといえば「潜在的な意識」である｡つまり､やはり全体的知覚も全体的な知覚作用も等しい｡もし､顕在的な全体的な知覚作用があるとすれば､別の作用として区分できるだろう｡はっきりと､パソコンがある､マウスがある・・・としっかり知覚していき､パソコン環境があるという知覚をそう呼ぶとすればだが｡純粋知覚的志向×表意的志向=部分志向､「部分志向+部分志向N」=全体的な知覚作用ないし全体的知覚であるといえる｡つまり､これがいわゆる「感性的知覚」である｡</p>
<p>たとえばコップの知覚は、色、形、素材といったように異なる存在形態が掛け算のように組み合わされて構成されているイメージである。</p>
<p>一方、目の前の景色が知覚される場合の、コップの知覚、キーボードの知覚・・といったようなそれぞれの同じような存在形態の対象が合算されるようなイメージである。</p>
<p>感覚素材×純粋知覚作用＋感覚素材×表意的作用＝対象契機＋対象契機になるというイメージだろうか。対象契機がさらにまとまるためにはさらなる全体的統握のようなものが必要になるのだろう。詳細は後に扱うことになる。</p>
<blockquote>
<p>「まず、知覚を形成する非独立的部分としての「契機」には、大きく分けて二つある。それは「素材」としての感覚とそして作用性質としての知覚や注視、注目作用である。それらが集まって、ひとつの単位としての知覚体験を構成するが、感覚素材と作用そのものとは存在形態としては別々のものであり、それらと体験とも存在形態は異なっている。つまり、「集まる」といっても＋、つまり加法的集合ではなく、×、つまり乗法的集合になっている。加法的集合と乗法的集合とを式で表すと下記のようになる。この場合、(1)によって生ずる和は、部分と全体とが同じ存在形態のものであり、それはちょうどレゴのブロックをいくつか組み立ててひとつの対象を作るようなものである。(2)によって生ずる積は、構成要素が互いに全く違う存在形態であってもよいのであり、その演算から出てくる結果もまた違った存在形態となる。例えば、赤いレゴの一つのブロックは「赤」という色と「立体」の形とからなっているとも言えるし、「プラスチック」という素材もその構成要素であると言える。それぞれ、色、形、素材はみな〈存在形態〉としては異なっている。以上の概念を使って知覚体験、感覚素材、統覚作用、注意作用、さらには個別的知覚と全体知覚との関係を説明すれば下記のようになる。……</p>
<p>・一つの知覚体験は、その非独立的部分たる要素として、感覚素材や統覚作用、ないしは注意作用を有している。従って、知覚体験＝感覚素材×統覚作用となる。つまりΠの関係である。・われわれの目の前に展開している客観性全体を知覚する、全体的知覚といったものが可能であるとするならば、そのような全体的知覚に対して、個々の事物や出来事を対象とする知覚は、その独立的部分となっている。つまり、全体的知覚＝部分知覚＋部分知覚＋……＋部分知覚となる。つまり、Σの関係となる。」</p>
<p>宮原有「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,11P</p>
<p>「この表意的志向が純粋知覚的な志向にまとわりつき、両者が一体となることで、全体的な知覚作用が成立すると考えられる。以上の考察に従えば、知覚作用の具体的な構造は、次のように記述することができる。すなわち、まず知覚作用は純粋知覚的志向と表意的志向とからなる志向の複合体をなしている。そして、その中で、前者の純粋知覚的志向は、感覚内容とそれに対応する対象的契機との間に〈自己呈示〉という仕方での対象的関係を確立し、後者の表意的志向は、感覚内容と残余の本来的に呈示されない対象的契との間に隣接性〉という仕方での対象的関係を確立する。<br />
知覚作用とは、これら自己呈示的、および隣接的な仕方で対象へと関係する志向の複合体をなしており、知覚における事物の現出とは、これらの志向の複合からなるものとして捉えられていたといえる｡」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,17P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">否定されるべき知覚の代表象理論</span></h3>
<p>問い：『論理学研究』の時点において、知覚作用において機能している「<b>統握</b>(客観化作用)」と、「<b>事物</b>(現出物、志向的対象、超越的対象)」の現出作用を結びつけるものはなにか</p>
<p>答え：「<b>代表象</b>」</p>
<p>しかし、この「代表象」というのがややこしい。</p>
<p><b>フッサールは「知覚の代表象理論」を否定したのではなかったのか</b>。</p>
<p>知覚は<b>無媒介的な直知</b>ではなかったか。また、『物と空間』ではそうした結びつきは「射影」と考えられているが、どう違うのか。</p>
<p>なかなかややこしいが言葉の記号や絵の記号のような媒介としての代表象ではない、という点がポイントになってくる。あらゆる代表象を否定しているわけではないということになる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:「志向的対象」と「代表象」を同一視するような､あるいは類似しているものと見るような態度がよくないのだろう｡あくまでも､代表象は潜在的に体験されるものであり､顕在的に経験されるものではない｡</p>
<blockquote>
<p>「私はしばしば<strong>志向的対象</strong>について語ってきた｡これは､何らかの心的構築と同一視されるべきでなく､端的に私の志向の対象である｡私が万年筆を見るならば､その時それはこの実在のペンであり､私の志向的対象であり､ペンについての何らかの心的写像､模写､代表象ではない｡実際フッサールは､知覚の場合には､当該の対象についての直接的で媒介されていない直知があるということを主張しようとしていた｡この主張をすることによって､フッサールは直接的で媒介されていない直知があるということを主張しようとしていた｡この主張をすることに拠って､フッサールは直接的知覚的実在論の一形式を擁護しており､それによって､知覚の代表象理論としてなお大変よく知られている理論に真っ向からぶつかっている｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,23p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc38">否定されるべき知覚の代表象理論とは､意味</span></h4>
<p>知覚の代表象理論には、否定されるべきものと、肯定されるべきものがあるということになる。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>否定されるべき知覚の代表象理論</b></strong></span>：</big>・(１)対象は意識の外部に在り、対象の代表象は意識の内部にあると素朴に主張する。(２)あらゆる知覚は､二つの異なる存在者､心の外部の対象と心の内部の代表象とを含むと主張する｡(３)フッサールによると､このような理論は「二つの異なる存在者が素朴に存在するという想定」の時点で否認されるという｡外部の対象と､内部の代表象や写像があると主張することは､何も説明しないという｡知覚を「心のなかで一枚の絵画を所有する」という比喩や､「カメラで写し取る」というような比喩は､何も説明していないというわけである｡</p>
</div>
<p>例：意識の外部に存在するバラが私の感覚器官を触発し、そして、これがバラの「<b>心的表象</b>」を私の意識に生じさせる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記１:では､どのようにそれらをつなげるのか､つまり主観的なものから客観的なものへの構成を説明するのかという点が問題になる｡それがいわゆるフッサール独自の「知覚の代表象理論」というわけである｡言語的記号や絵画は<span style="text-decoration: underline;">対象化される</span>代表象である｡しかし､代表象として機能する感覚内容は対<span style="text-decoration: underline;">象化されない</span>｡同じ代表象であっても､対象化されるか､されないかというのはは大きな違いである｡<span style="color: #0000ff;"><strong>対象化されないということは､つまり「存在者」ではない</strong></span>ということである｡なぜなら､「存在」というのは構成されるものだからであり､現出するものであるからである｡端的に言えば､なぜか我々に与えられているとしか言いようがない「感覚内容」が､我々の志向的作用によって統握され､いわば触発され､対象的契機を呈示し､志向的対象という「存在者」を構成するというわけである｡このように主観的なものから客観的なものが構成される過程を説明できるような理論が重要であり､単に写し取るとか､因果関係で神経から説明するような理論では説明になっていないというわけである｡では､我々が構成しない間も客観的なものはあるのかと真剣に問うとすれば､それは「わからない」としか言いようがない｡感覚内容というものはほんとうにあるのか､その現場を我々は捉えることができるのかと真剣に問うとすれば､それも「わからない」としか言いようがない｡しかし後者に対しては､それが「ない」と仮定してしまえばその後の説明が全て崩れてしまうような前提であり､いわゆる「原事実」の次元､そうであるとしか言いようがない次元の問題である｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">・追記２:これはいわゆる「主観と客観の一致問題」と関わってくる｡あるいは心理学主義と論理学主義の対立とも関わってくる｡たとえば論理学主義(客観主義的解釈)の場合､主観には依存せずに客観というものがあると素朴に前提してしまっている(否定されるべき知覚の代表象理論)｡一方で､極端な心理学主義(主観主義的解釈)は全てが主観にすぎない､客観といわれるものは我々の主観が構成したものにすぎないという立場(実在は主観性に依存する)をとる｡ただし､フッサールの立場は､心理学主義か論理学主義かという二者択一ではなく､その立場を超えたところにある｡フッサールは一見､心理学主義に近いように見える｡なぜなら､人間は主観の外に出られないという立場を取るからである(主観と客観の一致は論理的に不可能という立場をとる)｡それゆえに､『論理学研究』においてフッサールは自らの学問を「記述的心理学」と名乗っていたのである｡しかし､もちろん､それは後に訂正されることになるが､本格的に訂正されるのは「超越論的還元」という主要概念が主張されてからである｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">・追記３:(１)ザハヴィによれば､心の外部の対象と､その対象についての心の内部の代表象を区別するならば､「いかにして意識の中にある表象が現実に､意識の外部の何かに対応しているということを知るのか」という問題が生じるという｡二つが似ているかどうかを知る中立的な立場がないのである｡(２)この「中立的な立場」という視点は重要になり､超越論的還元後の視点と関わってくることになる｡(３)もし感覚内容が因果的に影響を受けたときの物理的現象は､「分子の振動の記号(実在的な何かの記号)」にすぎず､志向的対象と似ていないということになる｡実在はそれ自体であるがままに経験はできないというこになる｡我々は分子の振動の記号そのものを「見る(経験する)」ことはできないということになる｡要するに､なんら意味を付与せずに志向的対象を構成することができないということとつながってくる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:素朴な知覚の代表象理論,代表象的指示関係,寄生</p>
<p>「この理論は知覚の客観と知覚の主観との関係を確立する仕方についての無害な問いで始まる｡私が赤いバラを見ていると想定してみよう｡この場合､私はバラについての経験をもつが､もちろんこのことは物理的対象としてのバラが私の意識の中に現存するということを意味することはありえない｡それゆえ知覚のだいひょ鵜匠理論は､バラが私の感覚器官を触発しているということ､そして､このことがバラの心的表象を触発しているということ､そして､このことがバラの心的表象を私の意識に生じさせるということを主張する｡そうするとこの理論によれば､あらゆる知覚は､二つの異なる存在者､心の外部の対象と心の内部の代表象とを含むことになる｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,23p</p>
<p>「対照的に､フッサールはこう主張する｡意識と対象との志向的関係を､対象は意識の外部にあり､対象の代表象は意識の内部にあるということを主張することに拠って解明したと思うことは誤りである､と｡このような理論によっての決定的な問題が残り続ける――すなわち､なぜ定義上対象とは異なる心的対象が､それにもかかわらずわれわれを対象へと導くのかを説明するという問題である――｡フッサールの批判は主にこの困難に基づいているが､二つの存在者があるという想定はそれだけでもう､経験に忠実ではないものとして否認されねばならない｡私がバラを知覚するとき､それは､このバラであり､私の知覚の対象であるものにほかならない｡内在的バラが､すなわち､バラについての心の内部の写像あるいは代表象があると主張することは､フッサールが正しく強調してるように､何も説明しない純粋な要請である｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,23-24p</p>
<p>キーワード:記号,分子の振動の記号,代表象理論</p>
<p>「知覚の代表象理論をまた多くの付加的な困難が歪ませる｡一つだけ述べてみたい｡心の外部の対象と､その対象についての心の内部の代表象を区別するならば､次の問いを避けることは困難である｡すなわち､いかにして意識の中にある表象が現実に､意識の外部の何かに対応しているということを知るのか｡二つを比べる中立的な立場へのいかなる通路もないだけでなく､多くの認識論者が世紀の変わり目で結論づけていたように､二つがそっくりであることはまったくありえないと思う多くの理由がある｡ブレンターノが書いているように､感覚器官が因果的に影響を受けたときに生じた物理的現象は､実在的な<strong>何かの記号</strong>､すなわち､分子の振動の<strong>記号</strong>である｡現象には明らかにこのような振動と共通のものは何もないので､ブレンターノはこう結論づけている｡物理的現象は､事実と符合するようにはその原因をまったく代表象などしておらず､そういうわけで､感覚経験は誤解を招く恐れのあるものとして非難されねばならない､と｡換言すれば､実在はそれ自体であるがままに経験されはしないのである｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,221p</p>
<p>「われわれはこの問題をすでに解決済みであるかのように考えてしまうことが多い。古代の原子論者は事物から小さな像のごときもの(エイドーラ)が発散し空中を飛んでわれわれの眼の中に入り,魂に取り込まれることによって視覚が成立すると考えたと言われている。こうした説明を嘲笑するのは簡単であるが,実はわれわれも知覚を考察する場合にも知らず知らずのうちにこうした図式にとらわれてしまうことが多い。すなわち,知覚を「心の中で一枚の絵画を所有する」とでも表現されるような事柄とみなしてしまうのである。そうすると,「物はどのように現われているか」という問題は消えてしまうが、振り返ってみると、実はこうした言説において「知覚」については何も語られていないし,何の説明もされていないことに気づくのである。何の動きも感じられないしんとした小部屋のなかで壁にかかっている絵を眺めているという状況を想像してみると,そこでは,部屋や絵画だけでなく「知覚そのもの」にも変化がないように思われがちである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,1P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc39">現象主義とはなにか､意味</span></h4>
<p>また、フッサールは「<b>現象主義</b>」も批判している。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現象主義(phenomenalism)</strong></span>：</big>・直接的に与えられる記号(センスデータ)を手がかりに、この記号によって「<b>代理</b>」される現物(実在)を推論するという段階的なプロセスで説明する立場のこと。現出と現出する対象を区別せず､感覚複合態と対象的徴表の複合態を同一視する立場｡</p>
</div>
<p>意味によって汚染される以前の無垢なセンスデータ(いわゆるクオリア、感覚的な質)が最初に観察されていて、このセンスデータに解釈を加えることによってはじめて、物言語を用いて志向されたり伝達されたりする事物対象が認識されるという説明。一見するとフッサールの説明と類似しているがどうなのか。</p>
<p>例えばフッサールにおける「理解的統握」、表意的作用にはそうした現象主義的、代表象的要素がある。裏を返せば、客観化的統握、つまり「知覚」にはそうした要素がないということになる。</p>
<p>たとえば「そのリンゴ」という文字は、リンゴという実物の代表象であるといえる(理念的対象の代表象でもよい)。つまり、「リンゴという文字」が「リンゴ」という実物を代表象している。このような文字的な記号と、知覚的な記号は違うということになる。これは言語的意味と統握意味(知覚的意味)が異なるということと繋がってくる。</p>
<p>他にも、例えばナポレオンが書かれた絵を通してナポレオンが代表象される場合でも、まず絵が、絵の具の層が、額縁が、物理的対象として知覚されている必要がある。</p>
<p>それゆえ、フッサールは「<b>代表象的指示関係は寄生的だ</b>」と述べている。</p>
<p><b>知覚はどんな「心的対象」によっても媒介されていない</b><b>という</b>。竹田さんの説明で言えば、フッサールの理論は「カメラ図式」ではなく「リトマス図式」である。ありのままに現実を映すのではなく、対象を験(ため)すという。リトマス紙がいわば主観であり、対象をそれぞれの関心に応じて感じ取っているのであり、そして対象の意味を通して対象を構成しているのである。小熊さんの表現でいえば、われわれは「心の中で一枚の絵画を所有するように知覚しているわけではない」ということになる。</p>
<p>言語記号は「<b>偶然的代表象</b>」と呼ばれ、絵画のような記号は「<b>写像的代表象</b>」と呼ばれる。</p>
<p>リンゴでもアップルでもポムでもいいように、必然的ではなく偶然的なのである。絵の場合はナポレオンと似ている、類似している、「対象物をあるがままに写して描き出すこと(写像)」という意味合い。まさにカメラレンズ図式である。フッサールはこうした意味での代表象が知覚にはないと主張している。</p>
<p>ということは、知覚作用における代表象は言語や絵画のように「偶然的」や「写像的」ではないということになる。いったいそのような在り方の代表象とはどういう事態なのか。</p>
<p>そもそも、まず「客観化的作用」があり、そこで「リンゴ」という文字が我々に「物理的対象」として与えられるという。そうしてはじめて「理解的統握」が可能となる。</p>
<p>つまり「リンゴ」という文字が実在的なリンゴを代表象することが可能となるためには、代表象として解釈される対象が最初に客観化的統握、つまり知覚されなければいけないのである。したがって言語的記号が何かを代わりに表すためには、まずは知覚が、つまり客観化的作用が必要なのである。</p>
<p>１：「客観化的統握」において、林檎を指示する「<b>文字の</b><b>ような</b><b>記号存在</b>」、「<b>絵の</b><b>ような</b><b>記号存在</b>」は一切見出されない。</p>
<p>２：また、原的に与えられるのはまさに「林檎」であり、実在の記号として働く「<b>センスデータ</b>」が与えられているわけではない。この与えられているわけではないとは、要するに「そのもの」を対象化できないということであり、現象させることができないということになる。例えば机の足を取ることはできるが、色だけをとることは難しいのと同じ。我々が見ているのは机であり、机のあらゆる要素の中から色だけを見ることは難しい。また、色だけに着目して見たとしてもそれは「机の色」という物的規定であり、それはすでにセンスデータではない。「机の茶色」と「茶色っぽさ」は違うのである。しかし「机の茶色」は「茶色っぽさ」という感覚に依存しているのである。</p>
<p>・現象主義では、センスデータを対象化可能な所与と見なしている点に問題がある。</p>
<p>フッサールの現象学においては、センスデータは知覚を実現する「<b>契機</b>」であって、それ自体いかなる経験の対象でもない。外的知覚において「感覚内容」は体験されるが、経験されず、対象化されない。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:梶尾悠史さんによれば､現象主義は「解釈」を知覚において二次的な作用であると捉えるのに対して､現象学は「解釈」を知覚において一次的な作用であると捉えている点で違いがあるという｡一次的というのは､それがなくては知覚と呼べないような「本質」であるということである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:現象主義,感覚複合態,対象的徴表</p>
<p>「そして､すでに見たように､フッサールはまた現象主義(phenomenalism)もまったくあからさまに非難している｡</p>
<p>『現象主義的理論の根本的欠陥は､志向的体験としての現出と現出する対象(客観的対象の主語)の間を区別せず､それゆえ体験される感覚複合態を対象的徴表の複合態と同一視することである｡』</p>
<p>『現象的な外的事物の存在と非存在という問題がどのように決定されようとも､そのつど知覚される事物の実在性は､知覚する意識において知覚される感覚複合態の実在性として理解することはできないということについては疑いない』</p>
<p>このように､フッサールは志向的対象が感覚の複合体に還元することができるという見解を激しく批判している｡確かに､フッサールの観念論は世界内的実在を心の内容に解体することなど合意してはいない｡しかし､そうするとフッサールの観念論はどのように理解されるべきなのか｡」</p>
<p>ダン・ザハヴィ『フッサールの現象学』,105P</p>
<p>キーワード:センスデータ､現象主義</p>
<p>「現象主義が採る二段階説とフッサールの統握理論の決定的な違いは、前者がセンスデータを対象化可能な所与と見なすのに対して、後者においてセンスデータは知覚を実現する契機であって、それ自体いかなる経験の対象でもないということである。フッサールは知覚の主題となる対象と、知覚の契機として抽象化されるにすぎないセンスデータとを区別し、前者の超越的なあり方に対して後者には「実的reell」という特性を与える。煎じ詰めて言えば、知覚は本来的に解釈を含んでいると考える点で、フッサールは現象主義と対立する。現象主義は、知覚に付け加わる二次的な作用として解釈を考える。他方フッサールは、統握と呼ばれる解釈作用を知覚が本質的に含みもつ不可欠の契機と理解するのである。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,4P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">感覚内容の契機と対象的契機</span></h3>
<h4><span id="toc41">相互的基づけと一方的基づけ</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>基づけ</strong></span>：</big>・「XがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができない」というような状態を「XがYによって基づけられている」と表現する。</p>
</div>
<p>この「基づけ」には相互的基づけと、一方的基づけの２種類がある。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ef4f214cf407a87e83edebf33a21ce58.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3434" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/ef4f214cf407a87e83edebf33a21ce58.png" alt="" width="252" height="468" /></a></p>
<p>たとえば「王は臣下がいなければ存在できない」といったケースは相互的な基づけである。王は臣下がいなければ概念として成り立たず、臣下も王がいなければ概念として成り立たない。</p>
<p>机に「板」と「足」に分解できるという意味では相互的な基づけ関係にあるとはいえない。しかし、机における「色」と「形」は分解することができない。したがって、机における色と形のような関係は相互的な基づけ関係にあるといえる。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>契機(moment,非独立的部分､抽象的部分)</strong></span>：</big>・全体に対して相対的に非独立的なあらゆる部分のこと｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>断片(stuck,独立的部分､具体的部分)</strong></span>：</big>・全体に対して相対的に独立的なあらゆる部分のこと｡</p>
</div>
<p>このように分解できない関係、相互的な基づけ関係にあるような部分、要素、成素を「<b>契機</b>(非独立的部分、抽象的部分)」という。</p>
<p>成素はおそらく「構成要素」として解釈しておけばいいのだと思う。なぜなら現出物(志向的対象)を構成するために必要な要素として感覚内容や統握意味、統握作用といった要素があるからである。ただし、感覚内容は構成における因果関係的な「最小要素」を必ずしも意味するわけではない。あえていえば、「最も疑えないないような要素」である。「リンゴという事物」の存在よりも、「ツヤツヤしていると私が感じている」という事実のほうが疑いにくい。</p>
<p>反対に、相互的な基づけ関係にない関係における要素を「<b>断片</b>(独立的部分、具体的部分)」という。</p>
<p>「感覚的契機」や「対象的契機」はどちらかといえば机の「板」と「足」の関係というよりも、机の「色」と「形」の関係(相互的基づけ関係)に近い。どちらも机の構成にとって必要不可欠であり、どちらでも欠けたら机は成り立たない。</p>
<p>つまり、志向的体験(能動的志向性)において「感覚内容」及び「対象が有する諸規定(物的な規定)」はどちらも必要不可欠であり、非独立的部分ということになる。</p>
<p>「感覚内容」とは例えば色、形、香り、音、などの先述定的、非言語的な感覚的経験のことである。</p>
<p>「リンゴの赤色や、リンゴの丸さ」というように言語化できるような対象化されたものではない。「リンゴの赤色」の時点で、意味が付与され、意味的に解釈され、対象化され、意味が結び付けられている。</p>
<p>あえて言語化するならば、「リンゴの赤色」ではなく、「赤さ」が感覚内容である。</p>
<p>しかし感覚内容を孤立させ、それ自体を仮に対象化して取り出すことができたとしても、言葉で表現するのは難しいだろう。そのものをズバリ表現するような完璧な言葉など存在しない。言葉の表現の時点である程度本質化、一般化されてしまっている。</p>
<p>しかしそうした感覚内容がないと仮定すれば、我々は志向的体験が不可能になってしまう。したがって、「それ」は「ある(あった)」と言わざるをえない。これは複雑な問題であり、後半で「感覚内容の謎」として別枠で扱う。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:基づけ</p>
<p>「専門用語を用いて言えば、言語的志向は<strong>基づけられた</strong>志向である。XはYに基づけられているということは、Xが単純にYから導出することができる、あるいはYに還元することができるということを意味するのではなく、XがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができないということを意味するのである。だから、フッサールは言語的意味が世界との先言語的かつ先述定的遭遇に根ざしているということを主張することになる。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,42P</p>
<p>キーワード:相互的な基づけ､一方的な基づけ</p>
<p>「基づけには二種類あり、一つは相互的な基づけであり、もう一つは一方的な基づけである。前者の例としては先ほどの色と形の場合である。つまり色は形による補足を必要とするし、形は色による補足を必要とするということである。後者の例としては、判断性格とその根底である表象の関係である。つまり判断とは常に何かについての判断であるから、判断性格は、そのもとになる表象に基づけられているのであるが、その逆、つまりなんらの判断性格も持たない表象というものがあることも可能であり、それゆえ判断性格は表象を基づけているとはいえないのであって、表象が判断性格を一方的に基づけているといわれるのである。さらにフッサールは部分のうち、非独立的部分を契機（Moment）とよび、独立的部分を断片（Stuck）という｡</p>
<p>『全体Gに対して相対的に独立的な部分を断片とよび､Gに対して相対的に非独立的なあらゆる部分をこの同じ全体Gの契機(抽象的部分)とよぶ』</p>
<p>この定義においてもまたフッサールにとって重要な術語が導入されている。それは「抽象的」という語である。フッサールによれば抽象的であること、あるいは抽象体（Abstraktum）とは非独立的部分であるということと同義である。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」26P</p>
<p>キーワード:一方的基づけ</p>
<p>「ここで、基づけるということは、フッサールが全体と部分の理論において定義した基づけの意味において理解されなければならない。しかもそれは一方的な基づけであり、「現象学は常に哲学なしにでも可能であm」が、哲学は現象学なしには不可能なのであるということになるであろう。なぜなら、現象学は究極の自己責任を目指すものであり、自らによって自らを基礎づけ、それがあらゆるものを基礎づけるために一切の前提を排除し、原理的に現象学は一切いかなる学問にも依存しないということをフッサールは現象学の理念として語っているのであるから。そして基づけているということをこのように理解するならば、そしてフッサールの意図からするならば、現象学と哲学は不可分の統一を形成しているのであって、それゆえに全体としての哲学の一部であるということができる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,26P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc42">感覚内容と対象的契機の違いとは</span></h4>
<p>フッサールは「<b>感覚の色、感覚の拡がりなどは、色彩、延長などの物的規定に対して</b><b>まったく異なったもの</b>」だと述べている。この「全く異なったもの」という点はポイントである。たとえば絵のように「類似したもの」ではないということになる。</p>
<p>『論理学研究』における「<b>呈示は、類似したものによる類似したものの表象である</b>」といった発言を後でフッサールは自ら誤りだったと訂正している。</p>
<p>「感覚内容の契機」と「対象的契機」は<b>まったく異なるもの</b>であり、たとえばミカンとレモンが似ているというような次元の類似はない。「赤さ」と「林檎の赤色」はたしかに似ていそうだが、しかしカテゴリーが違うとでもいえばいいのだろうか。ナポレオンの絵を見て、本物のナポレオンかと思ったというような種類の類似性、呈示ではないわけだ。また、「対象的契機(現出)」と現出物も「似ている」が、「同等性」という関係になく「差異性」の関係にある。この場合、対象的契機はある種の「記号」であり、この記号を通して現出物が構成されることになる(これは射影で扱った)。</p>
<p>物的規定となっている時点で、まさにいまここに現れている動的な赤っぽい感覚と、「対象の赤色」という特定的、対象的、意味的、静的なものとは違うのだろう。しかしこうした感覚内容と対象的契機の比較は、感覚内容の正体が掘り下げられていない『論理学研究』の段階では不鮮明な印象がある。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4886a88f8f012a4664f0cf9ab5dd38ca.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3435" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4886a88f8f012a4664f0cf9ab5dd38ca.png" alt="" width="836" height="506" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4886a88f8f012a4664f0cf9ab5dd38ca.png 836w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/4886a88f8f012a4664f0cf9ab5dd38ca-800x484.png 800w" sizes="(max-width: 836px) 100vw, 836px" /></a></p>
<ol class="sample">
<li class="sample">感覚内容と対象的契機(対象的性質)は全く違うのだから、<b>交わることがないように見える</b>。</li>
<li class="sample">しかし、なんらかの「<b>対応関係</b>」はあるようにみえる。そしてその対応関係こそが『論理学研究』においては「<b>代表象</b>」であり、『物と空間』においてはさらに「<b>射影</b>」であるということになる。</li>
<li class="sample">同じ言葉で表現できるほど密接な関係にあるのかもしれない（赤っぽいとリンゴの赤色など）が、しかし両者は異なる概念であり類似という表現は似合わない。</li>
</ol>
<p>これらは『物と空間』において「感覚的内容」は「本来的現出」と<b>対応はしているが、そのものではない</b>と言及されることと重なってくる。</p>
<p>たとえば「感覚された色」と「統握され、対象的契機となった色」は違うし、「感覚された粗さ」と「統握され、対象的契機となった粗さ」は違う。</p>
<p>純粋知覚的志向(統握)は対象的契機を自己呈示的に指示し、表意的志向(統握)は対象的契機を隣接的に指示する。これらは本来的現出と非本来的現出と重なってくる。しかし問題は、どのようにしてこうして複数の対象的契機がまとまるのか、さらに統握されるのか、「現出物」が構成されるかである。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/e275409a8adb4be63b841251072d6a6a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3436" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/e275409a8adb4be63b841251072d6a6a.png" alt="" width="1182" height="395" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/e275409a8adb4be63b841251072d6a6a.png 1182w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/e275409a8adb4be63b841251072d6a6a-800x267.png 800w" sizes="(max-width: 1182px) 100vw, 1182px" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:対象の規定性</p>
<p>「つまり、フッサールにとって重要なのは、外的（超越的）知覚によってもたらされる感覚内容が、“何の”感覚なのか、“いかなる対象の”感覚なのかを問題にするのはあくまで外的（超越的）知覚に限られるということだ。例えば、“すべすべ”とか“凸凹”いう触覚の感覚内容は、それ自体では「単なる感覚内容」であって、“いかなる対象についての”感覚内容なのかは不明である。しかし、知覚的統握作用によって初めて、“私が見ている机の表面についての感覚”としての“すべすべ”の感覚内容であったり、“自分の骨張った手の甲の表面の感覚”としての“凸凹”の感覚内容であったりすることによって、感覚内容と対象との関係が結ばれることになる。そのとき、私たちが指先で感じた感覚内容の“すべすべ”や“凸凹”が、“いかなる対象の感覚なのか”という問いを発することができる（10）。それでは、感覚内容が「呈示する働きをもつ感覚内容」として、対象の性質（対象の規定性）といかなる関係にあるのだろうか。感覚が“何かの”感覚である限り、“何か”という対象の性質／規定性と無関係なはずはない。しかし、その一方で『物講義』においては、フッサールは、感覚内容は「物的与件（physischeData）（11）」と呼ばれているが、物的与件と対象的性質（規定性）とはまったく異なっており、物的与件および感覚内容は対象の性質をいっさい保持していないといっている。しかし、感覚内容と対象の性質とがまったく別のものであったとすれば、両者のあいだに何らかの関係がなければ、そもそも感覚内容は対象の性質を呈示することはできないはずである。そこで、フッサールは、感覚内容とそれが対応する対象の「徴表（Merkmal）」との関係について、両者は完全に区別されていなければならないけれども、同じ表現で示されるほどに密接な関係であると曖昧な表現に終始している。</p>
<p>    「すべての感覚されたないようには、知覚された対象の契機が対応しているのであり、その関係は私たちが同じことを表現することばを双方に用いるほど密接である。そのことばとは、感覚された色（empfundeneFarbe）と客観的な色合い（objektiveFärbung）、感覚された音と客観的な音、感覚された形態契機（empfundenesGestaltmoment）と物的形態（dinglicheGe-stalt）、等々」（ibid.）</p>
<p>しかし、感覚内容の定義からすれば、感覚内容は実的に与えられる体験を構成している契機であるのに対して、知覚された対象の性質あるいは徴表は、対象として知覚された物の側にあるはずだ。両者は明確に峻別されている。それゆえ、両者のあいだの関係は、絶対的に交わることができないはずである。もちろん、外的（超越的）知覚の志向性においては、それが「何かあるものについての知覚」として、対象との関係を取り結んでいた。しかし、感覚内容については対象との関係はありえないはずであり、対象の性質を感覚内容はいささかも含んでいない。それにもかかわらず、フッサールの言説を読む限りでは、感覚内容は対象の性質と対応しており、対象との関係を何らかの仕方で保持しているといわざるをえない。フッサールがいうように、確かに、感覚と対象の徴表（規定性）は対応しているかもしれないし、同じことばで表現できるほど密接な関係にあるのかもしれない。それでも、両者は厳密に区別されなければならないのだから、やはり両者の関係はいかなる関係にあるのかという問いを避けては通れない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について,184~185P</p>
<p>キーワード:類似性</p>
<p>「さらに、「感覚」と「原物」の「類似性」の理解に関して、かつてのフッサール自身の見解の訂正を示しているという意味でも、以下の言葉は注目に値する。「『呈示は、類似したものによる類似したもの表象である』。私自身がこの表現を、『論理学研究』の中で使用した。［LU.II/2(VIUntersuchung),§26（小論筆者による）］。にもかかわらず、この関連には、深刻な疑念が存立する。感覚の色、感覚の拡がりなどは、色彩、延長などの物的規定に対してまったく異なったものだからである。真の意味での類似性は、同じ包括的な類の下にたつ異なったものの関係である。従って私は今、この場合に、類似性による表象という言い方は避けるのである」（EPh.,S123）」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">肯定されるべき知覚の代表象理論</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>代表象理論</strong></span>：</big>・「意義充実化作用のうちに見出される呈示的内容が作用の質量と結びついて対象との直接的な関係性を実現すること」として特徴づけられた考え方のこと｡『論理学研究』における認識論の中心概念とされている｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>「こうして志向の充実化は、（A）意義志向がその志向的本質の適合性によって意義充実化の作用と合致し、（B）更に意義充実化作用のうちに見出される呈示的内容が作用の質量と結びついて対象との直接的な関係性を実現する、こととして特徴づけられた。（B）の考え方は「代表象（Repräsentation）」理論と呼ばれ、『論理学研究』における認識論の中心概念となっている。」</p>
<p>福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」,5P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc44"> </span></h4>
<h3><span id="toc45">代表象の形式と端的な代表象</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>代表象の形式</strong></span>：</big>・志向的質料と感覚内容との現象学的な統一</p>
</div>
<p>肯定されるべき、というのはすくなくとも『論理学研究』の時点でフッサールが正しいと思っていたということである。</p>
<p>１：統握作用は統握意味である質料を感覚内容に結びつける働きである</p>
<p>２：「質料と感覚内容との現象学的な統一」をフッサールは「<b>代表象の形式</b>」と表現する。そして、「質料と感覚内容との現象学的な統一」によって形成された両契機の全体のことを「<b>端的な代表象</b>」と表現する。</p>
<p>問い：なぜ、「質料と感覚内容との現象学的な統一」を代表象の形式と呼ぶのか</p>
<p>答え：<b>質料が感覚内容に対して代表としての性格を付与するから</b>である</p>
<p>１：統握作用は感覚内容を意味的に解釈することによって、感覚内容と質料を結びつけ、両者を現象学的な統一にもたらす。したがって、統握作用が代表象(動詞の形)と呼ばれている。</p>
<p>２：両者が統一された場合、質料は感覚内容に対して、それらに対応する対象的契機に対する代表の性格を付与するという機能をもつ。</p>
<p>・整理</p>
<p>質料は、感覚内容に対して、それに対応する対象的契機に対する代表の性格を付与する。</p>
<p>つまり、「感覚内容」が「対象的契機」を代表するという仕方で、対象的関係が確立される。</p>
<p>このあたりは複雑であり、自分の中で反芻するように何度も同じような説明をしていくが許していただきたい。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「質料」をそもそも「感覚内容」に結びつける作用は「統握」である。この統握作用はいわば「代表象作用」である。これは実的に内在している。</li>
<li class="sample">「代表としての性質の付与を可能にする」のは「質料」である。これも実的に内在している。</li>
<li class="sample">「代表としての性質が付与される」のは「感覚内容」である。「代表する」のは「感覚内容」である。「代表」は「感覚内容」である。質料が感覚内容に結びついている状態を「端的な代表象」と呼ぶ。これも実的に内在している。</li>
<li class="sample">「代表される」のは「対象的契機」である。これは実的に内在していない。</li>
<li class="sample">対象的契機がさらに統握され、「現出物(志向的対象)」が超越的に構成される。これは実的に内在していない。これがいわゆる志向的内容である。いわば、志向的に内在している。</li>
</ol>
<p style="padding-left: 40px;">追記:「質料と感覚内容との現象学的な統一」における統一(Einheit)は､総括(Inbegriff)と区別する必要がある｡基づけの相互関係が統一であり､単に一緒にあることが総括である｡</p>
<blockquote>
<p>・キーワード:代表象の形式､端的な代表象</p>
<p>「そこで次節では、この問題との関わりにおいて、第六研究でなされた代表象に関する分析を検討することにしたい。第七節代表象としての統握先述のように統握作用は、感覚内容を意味的に解釈することによって作用の対象的関係を可能にする働きであるとされた。その意味で、統握作用とはまずもって、統握意味である資料を感覚内容に結びつける働きであるともいえるが、第六研究では、この資料と感覚内容との現象学的な統一が「代表象の形式」と呼ばれ、その統一によって形成された両契機の全体が「端的な代表象」と呼ばれている(ibid621)。<br />
それでは、感覚内容と質料を結びつける統握作用が、ここでなぜ代表象と呼ばれているのだろうか。統握作用が代表象と呼ばれる理由について、フッサールは簡潔に次のように述べている。「それゆえ私たちは、質料と代表との現象学的な統一を代表象の形式と呼ぶのだが、それは質料が後者に対して代表としての性格を付与するかぎりにおいてである。」(ibid.)つまり、統握作用は感覚内容を意味的に解釈することによって、感覚内容と質料を結びつけ、両者を現象学的な統一にもたらすが、両者がこのようにして統一された場合、質料は感覚内容に対して、それらに対応する対象的契機に対する〈代表〉の性格を付与するという機能をもち、質料のもつこうした機能のゆえに、感覚内容と質料の統一が「代表象の形式」と呼ばれていたのである。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,18P</p>
<p>・キーワード:統一,総括</p>
<p>「フッサールは「基づけの統一性という言い方は、あらゆる内容が基づけによって、直接的にせよ、あるいは間接的にせよ、あらゆる内容と関連するという意味である」(XIX/1,S.282)とか、「真に統一するものはすべて基づけの相互関係である」(XIX/1,S.286)と述べている。従ってEinheitが統一と訳される場合には、二つ以上の部分が相互に関係しあって一つの全体を形成していることを意味する。それに対して「単に一緒にあること(einbloßesZusammen-sein)」(XIX/1,S.288-289)は統一とは呼ばれず、それは総括(Inbegriff)といわれる。」<br />
紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,26P</p>
<p>・キーワード:対象的契機は感覚内容ではない</p>
<p>「その射映そのものは感覚与件の内に数え入れられるのであるが、しかしその与件を統握によって生気づけることで、その与件は呈示的機能を果たすようになり、色彩や形態の現出を形成することになる。感覚与件は体験の実的構成要素、すなわち体験の内に実際に含まれているものであるが、しかしそのような与件によって呈示されてくるもの、すなわち物質的事物は、感覚与件とは異なり、体験の内に含まれているものではない。従って射映と射映されてくるものとは区別されなければならないのであり、射映は体験であるが、射映されてくるものは空間的な事物である。この区別は「与えられ方の原理的な相違」（m／I，S．88）に基づくものである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,51P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc46">【コラム】代表するとはそもそも？？</span></h4>
<p>例えば田中さんが日本のサッカー選手を代表するという場合、「代表される」のは「日本のサッカー選手」であり、「代表する」のは「田中さん」である。</p>
<p>そして「代表(代表象)」であるのも「田中さん」である。あるいは単に日本の国旗&#x1f38c;は日本を代表しているのであり、日本の国旗が日本を「代表する」といえる。</p>
<p>言語の場合は、「隣の部屋のリンゴ」という文字が、&#x1f34e;を代表している。この場合、代表するのは「隣の部屋のリンゴ」という文字であり、代表されるのは&#x1f34e;である。</p>
<p>類比的に考えていくと、田中さんは「感覚内容」にあたり、日本のサッカー選手が「対象的契機」にあたることになる。もちろん知覚の場合は田中さんとサッカー選手全体のように類似した、いわば同類の代表では「ない」ので同じように考えていくことはできない。</p>
<h3><span id="toc47">指示と呈示の違いとはなにか</span></h3>
<p>『受動的総合の分析』では『論理学研究』のように「統握すること(Auffasen)」を「解釈すること(Deuten)」と言い換えることを認めないという。</p>
<p>なぜなら「あたかも統握における内容と客観との関係が、言語記号とその指示する客観との関係であるかのような誤解を招くから」だという。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">言語記号の場合は、それ自体では指示される客観ではない。間接的に客観(対象的契機)を<b>指示</b>するにすぎない。</li>
<li class="sample">統握される内容(感覚内容)はそれ自身で客観(対象的契機)を<b>呈示</b>するという。</li>
</ol>
<p>この違いは重要であり、知覚が言語記号のケースのような代表象として理解されてはならないという意味合いである。知覚には知覚特有の代表象の在り方があるのである。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記:純粋知覚的志向における「自己<strong>呈示</strong>」と､表意的志向における「隣接的<strong>指示</strong>」のように､指示と提示が知覚作用の中でも分かれていることがポイントになるだろう｡宇多さんの図(17P)ではそのように区別されていた｡とはいえ､表意的<strong>作用</strong>における指示と表意的<strong>志向</strong>における指示は全く同じものではない｡</p>
<p>指示の場合はどのような客観を提示するかは主観が<b>任意(勝手)に決定できる</b>のに対して、呈示の場合はそのように<b>任意に決定することができ</b><b>ない</b>。</p>
<p>例えばリンゴという文字がiphoneや果物のリンゴを提示することはできるが、実物のリンゴがiPhoneを呈示することは難しいだろう。もしiPhoneを呈示しているのだとすれば、それは知覚作用ではなく想像作用である。</p>
<p>では、どのようにして統握される方向を前もって縛るのか、規定するのかという内容は『受動的総合の分析』の内容になるので今回は深く扱えない。</p>
<blockquote>
<p>「『論研』と同様に『受動的総合の分析』も、統握を〈意識の内容を客観と関係づける機能〉と解する。ただし同書は、『論研』とは異なり、統握することAuffassenを「解釈することDeuten」と言い換えることを認めない(XI,17)。その理由は、解釈するというときには、あたかも統握における内容と客観との関係が、言語記号とその指示する客観との関係であるかのような誤解を招くからだとされる。実際には、言語記号はそれ自体では指示される客観ではなく、間接的に客観を指示するにすぎないのに対し、統握される内容はそれ自身で客観を呈示するdarstellen」のである(XI,17)。〈指示すること〉と〈呈示すること〉の違いが最もよく現れるのは、どの言語記号がどの客観を指示するかということは主観が任意に決定できるのに対し、どの意識内容がどの客観を呈示するかということは、主観の能動的な統握に先だつ受動的な過程においてすでに決定されているということである。このような呈示は、内容(あるいは、それが最終的に関係づけられる客観)からの触発Affektionとして説明される。特筆すべきは、本論文第二節で示唆された「動向」の正体が、この触発にほかならないということである。つまり触発は、「意識された対象が自我に及ぼす動向」として定義されるのである(XI,148)。さらにこの動向の内実は、「触発が自我に、能動を行うよう呼びかけるdieAffektionruftdasIchzurAktionauf」ということによって説明される(XI,166)。そして、このよう触発による呼びかけを受動的に受けとり、それに「応答するantworten(I,166)」能動こそが、統握なのである。このとき、統握は任意になされるわけではない。各々の触発は、受動的に形成された「固有の閉じた領域eineigenes,abgeschlossenesReich」をもっており(XI,151)、そのような各々の触発には、それぞれ特定の統握による応答が求められているのである。そして、特定の対象が及ぼす触発は、他の対象が及ぼす触発と関係することでより強まるとされる。このとき、触発を及ぼす対象どうしの関係は、「類似性Ähnlichkeit」を原理とした「触発的コミュニケーションaffektiveKommunikation」と呼ばれる(XI,179)。それは、ある対象が及ぼす触発の力と、それに類似した他の対象が及ぼす触発の力の間の比例関係として定義される(XI,175)。」<br />
鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,100-101P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc48">感覚内容の呈示によって、対象的契機は形成される</span></h4>
<p>たとえば紀平和樹さんは「感覚内容(与件)を統握によって生気づけることで、その感覚内容は呈示的機能を果たすようになり、色彩や形態の現出を形成することになる」と説明してる。</p>
<p>そして、感覚内容は実的構成要素のうちに含まれているが、そうして形成されたもの、呈示されたものは体験のうちに含まれてくるものではないという。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「感覚内容」が呈示的な代表として機能することによって、「対象的契機＝現出＝射影されたもの」が形成される。</li>
<li class="sample">対象的契機は「事物(客観)」であり、そして空間的な事物である。たとえばサイコロの１の面や２の面、あるいは見えていない面など。</li>
<li class="sample">複数の「対象的契機」、つまり自己呈示と隣接呈示によって複数の対象的契機が形成され、それらが「まとめられる(統握)」ことによって、「現出物」が構成されるのである。</li>
</ol>
<p>たとえばサイコロの特定の面だけではなく、１から６のすべての面をもった、立方体としてのサイコロとして与えられる。我々はこのすべての側面をもったまさにこのサイコロを普段、見ているのである。１の面を見ているときだけ他の面がないなどとは思っていない。自分が見ていない間は存在しないなどと思っていない。そうした「総合、統合的なサイコロ」を見ているのであり、単一の対象的契機としての「ある瞬間の刹那の側面のサイコロ」を見ているわけではない。</p>
<blockquote>
<p>「その射映そのものは感覚与件の内に数え入れられるのであるが、しかしその与件を統握によって生気づけることで、その与件は呈示的機能を果たすようになり、色彩や形態の現出を形成することになる。感覚与件は体験の実的構成要素、すなわち体験の内に実際に含まれているものであるが、しかしそのような与件によって呈示されてくるもの、すなわち物質的事物は、感覚与件とは異なり、体験の内に含まれているものではない。従って射映と射映されてくるものとは区別されなければならないのであり、射映は体験であるが、射映されてくるものは空間的な事物である。この区別は「与えられ方の原理的な相違」（m／I，S．88）に基づくものである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,51P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc49">『受動的総合の分析』の言葉を使えば「触発」のイメージ</span></h4>
<p>すこし混沌とした理解に光が射してきた思いがする。感覚内容の呈示によって、<strong>対象的契機は形成</strong>されるのである。この言い方ならスッキリする。</p>
<p>表現が不適切かもしれないが、「閃き」が生じているようなものだろう。『受動的総合の分析』の言葉を使えば「触発」のイメージに近いのだと思う。あるいは「誘発」でもいいかもしれない。</p>
<p>そうした触発を発生させる作用が統握であり、その過程の契機が「質料」であるということになる。</p>
<p>フッサールはこうした統握や質料は実的に内在するとしていた。しかしそうした閃きによって生じてきたもの(対象的契機ないし現出、志向的対象ないし現出物)は、もはや実的に内在していないのである。</p>
<p>リンゴが落ちるのを見て「重力の法則」を閃いたとしても、その「重力の法則」はリンゴではないし、リンゴの感覚内容ではない。また、重力の法則は自らの部分としてリンゴの感覚内容を持っているわけでもない。まったくの別物である。しかしリンゴが落ちるのを見て、その感覚内容を受けて、重力の法則をひらめいたのであり、両者は切り離し難く密接な関係にある。</p>
<p>レゴブロックのように、１(感覚内容)＋１(質料)＝２(対象的契機)、2(対象的契機)+2(対象的契機)=4(現出物)となるわけではない。</p>
<p>質料が付与された感覚内容に影響を受けて、新しく、なにか生命が生じるような、新しい要素が閃いた、触発されたイメージである。子供は親の変化でも、親同士の合成でもなく、「別物」なのである。しかし「対応」はしているし、「影響」は受けている。なんらかのかたちでは「似ている」かもしれないが、カテゴリーが違う。まさに対象的契機や現出物は「超越的」に生じているのである。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">感覚内容が能動的統握にたいして触発する。これが受動的統握の段階である。</li>
<li class="sample">能動的統握が感覚内容に意味を付与する。これが能動的統握の段階である。</li>
<li class="sample">意味を付与された感覚内容は、自己呈示を行う。それによって触発され、「対象的契機」が形成される。</li>
<li class="sample">「対象的契機」が射影として与えられることになる。そしてそれら対象的諸契機がさらに統握されることによって、「現出物＝超越物＝志向的対象」が構成される。</li>
</ol>
<h3><span id="toc50">純粋直観的な統握と表意的な統握</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>純粋直観的な統握(自己呈示的代表象作用)</strong></span>：</big>・感覚内容に対して、対応する対象的諸契機の代表という性格を与える働き。感覚内容が対象的諸契機を「呈示的」な仕方で代表する。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>表意的な統握(表意的代表象、隣接的代表象作用)</strong></span>：</big>・感覚内容に質料を結びつけることによって、感覚内容とそれに対応する非本来的に与えられた対象的契機との間に、前者が後者を「隣接的」な仕方で代表するという関係を作り上げる働き。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/f4bbc7ab994ddcae38f5ce85af5a0bc3.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3438" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/f4bbc7ab994ddcae38f5ce85af5a0bc3.png" alt="" width="784" height="565" /></a></p>
<p>宇多さんの図を参考にして整理するとこのような図になる｡</p>
<h4><span id="toc51">感覚内容は対象的契機の対応関係</span></h4>
<p>安直に『論理学研究』の内容を図にするとこのようなイメージとなる。私の理解でいえば、「感覚内容×志向的質料＝対象的契機」であり、この掛け算を可能にする作用が統握作用である。問題はこの掛け算の内実であり、それが「自己呈示」ないし「代表象」ということになる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/40c65b2ab54610c6c4fe92509b4a7885.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3439" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/40c65b2ab54610c6c4fe92509b4a7885.png" alt="" width="998" height="763" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/40c65b2ab54610c6c4fe92509b4a7885.png 998w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/40c65b2ab54610c6c4fe92509b4a7885-800x612.png 800w" sizes="(max-width: 998px) 100vw, 998px" /></a></p>
<p>今回の内容をまとめるとこうなる｡</p>
<p>ただし、フッサールは後に、そのような時間的な前後関係として捉えることを実態論としては否定しており、分析的にそのように捉えることができる可能性があるに過ぎないとされる。</p>
<p>実態、直観としては、それらが一体であり、ほとんど同時的に生じるのである。</p>
<p>１:感覚内容は対象的契機に対して「<b>自己呈示する</b>」する。</p>
<p>２:質料は作用の向かう対象のあり方を呈示する。</p>
<p>宇多浩さんによれば、フッサールは「対象呈示的な働き」が「代表象によって可能とされる代表的な関係の一様態として捉え直された」という。要するに、質料単独で対象のあり方が決まるわけではなく、感覚内容が代表という形で直接的に関わってくる、一体となって呈示するというわけである。</p>
<p>まとめれば、統握は「感性的な感覚内容と質料を結びつけることによって、感覚内容と対象的契機との間に固有の関係、<b>前者が後者を</b><b>呈示的な仕方で代表する</b><b>という関係</b>を確立する働きとして理解される」という。</p>
<p>例:私が実際にリンゴを眼の前にして、リンゴを知覚するとする</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/neural-network-3322580_640-e1707600244284.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3440" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/neural-network-3322580_640-e1707600244284.png" alt="" width="300" height="296" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_narandaapple2_TP_V4-e1707600258726.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3441" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_narandaapple2_TP_V4-e1707600258726.jpg" alt="" width="300" height="200" /></a></p>
<p>１:この場合、知覚対象であるリンゴのある側面に対応する「感覚内容」を見出し、体験する。</p>
<p>２:統握作用によってこの「感覚内容」に「質料(統握意味)」が付与され、それらが一体となる。そして、一体となったこの「感覚内容」を「呈示的内容」ないし「直観的代表」ないし「端的な代表象」と呼ぶ。</p>
<p>３:感覚内容と質料が一体となったことで、感覚内容は「代表象」となり、「対象的契機」を代表するようになる。安直なイメージで言えば、「リンゴのツヤツヤ」が「ツヤツヤ」によって呈示的に代表されているのである。</p>
<p>４:このようにして、感覚内容は対象的契機と直接的に関係づけられ、それらと代表という形で「<b>対応</b>」することになる。<b>一見、混じり合わないようなお互い異なるものが、代表という形で、呈示という形で結びついた</b>のである。</p>
<p>５:感覚内容によって代表された「対象的契機」は、感覚内容のおかげ、そして統握による意味付与のおかげで、我々に次々と連続的に絶え間なく<b>現出</b>するようになる。例えば瞬きした瞬間に別の現出に変わるし、目を開いている間も微細なホコリがすこしリンゴに触れただけでも変わる。</p>
<p>対象的契機とは、たとえば「リンゴの表面」などが挙げられる。対象的契機は外的知覚においては単一ではなく、たとえば「リンゴの裏面」というもうひとつの対象的契機が外的知覚においては必ず存在する。つまり、必ず<b>射影として</b>与えられる。</p>
<p>リンゴの周りをぐるぐると私が見回せば、対象的契機１、対象的契機２、対象的契機３といったように次々と現出することになる(同時に、その度に裏面もまた不在という形で、感覚内容に対応していない形で、セットで現出、つまり射影する)。</p>
<p>こうした対象的契機は「<b>現出物</b>」と区別し、「<b>諸現出</b>」と呼ばれている。そして「超越の謎」はこの「<b>諸現出」がどのようにして「現出物」へと突破されるのか、超越的に構成されるのか</b>という問題であった。今まさに見えている面と、見えていない面を「まとめあげる」のはいったいどのような仕組みになっているのか、どのような条件が必要なのか。その条件の例が「統握」や「質料」であり「代表象」ということになる。</p>
<p>我々が普段、つまり外在的知覚において主題的に意識しているのは「<b>現出物の現出</b>」であり、「<b>諸現出</b>」ではない。端的に言えば、現出は現出せず、現出物のみが現出しているのである。言い換えれば、諸現出は「<b>体験</b>」されるだけであり、現出物のみが「<b>経験</b>」されるのである。体験は何か通ったのを感じたが何が通ったのかわからないようなイメージである。次々と変わる諸現出が「同一のもの」と見なすことができるような作用がなければ、経験はできないのである。感覚の狂想曲のようなものである。</p>
<p>何か特定の現出(射影そのものと呼ばれる)や、セットの現出(射影されたものと呼ばれる)がそれぞれ単独で客観として対象化、つまり現出させるためには特殊な方法が必要となる。それが「<b>現象学的反省</b>(内在的知覚)」である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_manmaruapple_TP_V4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter wp-image-3442" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_manmaruapple_TP_V4.jpg" alt="" width="300" height="450" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_manmaruapple_TP_V4.jpg 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/PED_manmaruapple_TP_V4-533x800.jpg 533w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p>イメージで言えば、知覚されるのは「まさにリンゴ」である。我々は通常、「リンゴ」という対象、超越的対象、物、現出物を見る。「リンゴのツヤツヤ」を見るわけでも、「ツヤツヤ」を見るわけでもない。刻々と変わりゆく感覚の遷移を潜在的に意識しているが、しかし見ているわけではない。それらは体験しているが、経験していない。</p>
<p>内部の作用自体を我々は主題的に意識せず、内部の作用によって構成された対象を我々は自然的な態度において意識しているのである。内部の作用自体を注意して見るためには、現象学的な方法(現象学的反省)が必要となる。</p>
<h4><span id="toc52">過剰思念とは</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/6bf70718903c24723cd9f3370ad5bc09-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3444" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/6bf70718903c24723cd9f3370ad5bc09-1.png" alt="" width="325" height="328" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/6bf70718903c24723cd9f3370ad5bc09-1.png 325w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/6bf70718903c24723cd9f3370ad5bc09-1-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/02/6bf70718903c24723cd9f3370ad5bc09-1-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 325px) 100vw, 325px" /></a></p>
<p>・感覚内容が、対象の内容を「生身のありありとした有様で」呈示することができるためには、ある種の「過剰」あるいは「付加物」が必要となる。そうして構成された現出物を「<b>過剰思念</b>」と言うこともある。</p>
<p>この付加物が「作用質料ないし統握意味」である。そして意味を付与することによって、感覚内容が対象の内容を有り有りと呈示することが可能になる。</p>
<p>フッサールは『論理学研究』の時点で、「呈示」を「類似したものによる類似したものの表象」と表現していた。類似という表現は後に撤回されることになるが、「表象」という言葉は重要になる。これがいわゆる代表象だからである。</p>
<p>意識の外部にあると信憑されている「実在的対象(超越的対象)」がどのようにして「表象」されるのか、意識に生じるのかという問題と重なってくる。</p>
<p>たとえば「(非言語的な､一般的意味をもたない)赤さ」が意味を付与されることによって、「リンゴの赤さ」という物的規定を自ら呈示ないし表象するようになるのである。</p>
<p>このような統握、呈示を経て、「リンゴ」が私の意識とは無関係に、外部に実在すると信憑され、構成されるようになる。赤い、丸い、つやつやした、一個の「リンゴ」が目の前に存在するということを知覚するのである。</p>
<blockquote>
<p>「現実に体験しているのは現出物の現出であって、端的に現出物それ自身を体験しているわけではない。それにもかかわらず我々はその体験に留まらず、その体験を通して、実際に与えられたもの以上のものである現出物を見ている。こうしたことをフッサールは過剰思念（Mehemeinung）とも表現しているが、この「より以上」（罵享箒）という事象へ眼差しを向け変える方法が現象学的還元なのである。自然的態度においてはこうした事象はいわば素通りしてしまい、隠されたままになっている」</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」,94P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc53">知覚の代表象理論の難点</span></h3>
<p>第一にカテゴリー的代表象の難点である。これは次回扱う。</p>
<p>第二に、「部分質料の総体はそれらに対応する対象契機の総体の現出を可能にするにすぎず、それらの対象的契機全体を担う統一的な事物の現出を可能にするとはいえない」という。要するに、現出物が構成される条件や過程は謎が多く、説明がまた足りていないというわけである。下へ下へと起源を掘り下げていく必要がある｡</p>
<p>もし統一的な事物の現出がそれでも可能だというのなら、「<b>統一的な事物の現出が質料のいかなる内部構造によって可能とされているのか</b>」が問われなければならないという。</p>
<p>これが分析されるのがそれ以降の作品であり、そのひとつが『物と空間』であり、キネステーゼ意識であるといえる。もちろん次次回に関わる最大の争点は質料の内部構造、つまり<b>ノエマとは一体どういう構造か</b>という点である。</p>
<p>本来的現出と非本来的現出がどのように互いに融合しながら、統一的な事物の現出が可能になっていくのか、発生的分析、動態的分析がされていくのである。</p>
<p>宇多浩さんによれば、1922年の『受動的総合の分析』において、フッサールは知覚を事物現出という知覚に固有の場面に即して考察することができるようになり、前期の言語論的に定位した代表象理論から解放されたという。</p>
<p>確かに統握を「解釈」と呼ぶように、指示論的に見えるような要素があった。実際にフッサールは、もはや統握を解釈と呼ぶことはできないと『受動的総合の分析』で述べている。</p>
<blockquote>
<p>「このように、知覚作用を個々の部分志向、ないし個々の代表象の総体として考え、知覚に内在する質料を個々の部分質料の体として見る見方は、統一的な事物の現出のあり方を整合的に説明できないという問題を含んでいるように思われる。むろん、フッサール自身がこのような見方に囚われていた、というわけではない。<br />
フッサールによれば、「現出における事物は、無数の個別的な規定性からなる単なる総体として存在しているわけではなく」、むしろそれらの規定性は、「つねに完全な統一的事物に即して考察されるにすぎない」(ibid,677)。それに応じて、知覚作用もまた、個々の部分志向が結合されることによって形成されるのではなく、それは「部分志向の直接的な融合としての端的な統一」(ibid.)を形成しており、この知覚作用の統一の中で、すでに統一的な事物が有体的な仕方で現出している。それゆえ、知覚作用は個々の部分志向からなる単なる混合、ないし単なる総体として理解されるのではなく、それ自身、すでにある種の統一性の原理を自らの内に含むものと考えられている。<br />
だが、かりに知覚作用がそれ自身のうちにある種の統一性の原理を含んでおり、その中で、すでに統一的な事物の現出が実現しているのだとするならば、私たちは、知覚を単に代表象の混合、ないし部分志向の体として捉える見方を越えて、それら部分志向の間に成立している統一性の原理、すなわち、個々の部分志向が互いに融合しあいながら、どのようにして統一的な事物の現出を可能にするのか、ということをさらに問わなければならないだろう。フッサールは、この知覚における統一性を、部分志向どうしの間に成立する合致統一である「同一化の統一」(ibid.678)として説明しているが、この同一化については、能動的な同一化綜合との対比がなされているにすぎず、それ以上の詳細な分析はなされていない。そこで次に課題になるのは、知覚における諸々の部分志向がどのようにして統一的な知覚作用へと統合され、それによって統一的な事物の現出を可能にするのか、という問題を明らかにすることである。この問題を明らかにすることで、はじめて私たちは知覚の現象学的なあり方をより整合的に理解することができるように思われる。本書の第三章では、この問題を一九〇七年夏学期の講義「物と空間』での知覚の分析に即して検討していくことにする。」<br />
宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,26-27P</p>
<p>「だが知覚をこうした感覚内容の意味解釈や代表象の働きとして捉える見方は，知覚のあり方を適切に記述したものではない。というのもそれらは本来，言語的な意味理解の構造を説明するのに適したモデルを知覚に適用することによってもたらされた見方であり，そのことは結果的に事物の「ありありとした現出」という，知覚に固有のあり方を覆い隠すことになったからである。ところで以上のような知覚の捉え方は，志向性に関する彼独自の考え方と密接に連関している。というのも，知覚を代表象として捉える見方の根底には，作用の対象的関係を，作用に内在する意味的な契機である質料のもつ対象指示的な機能によって説明しようとする見方（志向性の指示論的な見方）が存していたからである。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性 フッサール現象学における知覚理論」,1376P</p>
<p>「さて以上の志向性概念の発展に対応して，知覚の概念も大きな転換を遂げることになる。すでに申請者は第三章で知覚が志向の統一的な体系をなしていることを明らかにしていたが，この解明にもとづいてこの志向の体系としての知覚の構造を1920年前後の講義『受動的総合の分析』での知覚理論を手がかりにしてさらに詳細に分析した。第六章で申請者はこの講義での知覚理論を検討し，そこで知覚はそのノエシスーノエマ的な総合連関の中で統一的な事物を構成する超越論的な構成能作の体系を形成していることを明らかにする。このような知覚観に到達して初めて，フッサールは知覚を事物現出という知覚に固有の場面に即して考察することができるようになり，前期の言語論的に定位した代表象理論から解放されたのである。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性 フッサール現象学における知覚理論」,1377P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc54">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc55">今回の参考になる文献</span></h3>
<h4><span id="toc56">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4bsDI33">宇多浩「知覚と志向性―フッサール現象学における知覚理論」</a></p>
<h3><span id="toc57">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc58">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IZy3FD">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></p>
<h4><span id="toc59">谷徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3ZOIL7M">谷徹「これが現象学だ」</a></p>
<h4><span id="toc60">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3yOvz6C">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></p>
<h4><span id="toc61">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/40ihCcR">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></p>
<h4><span id="toc62">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oJEWCN">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></p>
<h3><span id="toc63">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc64">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc65">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc66">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc67">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc68">参考論文リスト</span></h3>
<p>※次回の記事と合わせたものなので､今回だけの参照ではないです</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」 (<a href="https://tohoku.repo.nii.ac.jp/records/2529">URL</a>)</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/26/0/26_1/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴス―フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2441/17452_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf">URL</a>)</p>
<p>宮原有「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiW5rbt2Pj7AhWysVYBHXOyATcQFnoECA8QAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F13446554%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw2mOEgXDu8hhOlMpOe9eq5M">URL</a>)</p>
<p>宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」(<a href="https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=116&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>橋詰史晶「フッサール現象学における普遍性の問題」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwifz_G1gqb8AhUClFYBHTvOAUsQFnoECAoQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F144468215.pdf&amp;usg=AOvVaw091hClckfDy6BEFnj9u-QG">URL</a>)</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/25/2/25_2_111/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>高野考「意味と時間 フッサールにおける意味の最根源への遡行」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwia2pnYubz9AhU-rlYBHVZaA7cQFnoECBIQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D10571%26item_no%3D1%26attribute_id%3D20%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw2Wr3rIHTyqQoJ_aPTrtcej">URL</a>)</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/39/0/39_102/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p>山下哲朗「カテゴリー的直観と存在への問い」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/235974463.pdf">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念表象媒体の研究の一環として」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1223&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29#">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける像意識と想像――１９１２年から１９１８年にかけての思想の進展」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」(<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/11/kiyou14_all.pdf#page=23">URL</a>)</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1318&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29">URL</a>)</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/223195751.pdf">URL</a>)</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no118_10.pdf">URL</a>)</p>
<p>西尾大樹「現象学的真理論の起源､フッサールとラスクの真理概念」(<a href="https://kwansei.repo.nii.ac.jp/records/14812">URL</a>)</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」(<a href="http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.2_2004/someya.pdf">URL</a>)</p>
<p>村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」(<a href="https://www.crc.mie-u.ac.jp/seeds/pdf/20091217-114412_gai1.pdf">URL</a>)</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwia7Yeu-6L8AhVns1YBHYuKDs04ChAWegQIChAB&amp;url=https%3A%2F%2Fmuroran-it.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8373%26item_no%3D1%26attribute_id%3D24%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw3GnkqKy-XeSOME9bnml_ux">URL</a>)</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2014/65/2014_242/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p>福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/96282/1/Tronso_35_04.pdf">URL</a>)</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/56649305.pdf">URL)</a></p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける直観の可能性について」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwjVv-ni7aGEAxXjh1YBHbF9DOsQFnoECBkQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F23962%2Ffiles%2F10.pdf&amp;usg=AOvVaw289BOckMoVy-Vv_hfMjAUk&amp;opi=89978449">URL</a>)</p>
<p>鈴木康文「初期フッサールにおける注意の問題」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/41583">URL</a>)</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/44/0/44_94/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
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		<title>【応用哲学第三回】フッサールの現象学における「射影(射映)」とはなにか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 25 Apr 2023 11:39:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[フッサールの現象学における射影とはなにか]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-5" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-5">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">今後の予定</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">フッサールのプロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">現象</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">現象とはなにか</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">【コラム】何の情報もやってこない所に何が言えるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">現象と志向性</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">純粋現象とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">現象と身体と時間の関係性</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">静態・発生的構成分析</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">「対象が意識から超越していることこそ最大の謎である」とはどういうことか</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">現出と現出物</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">現出とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">現出物とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">前回の復習：感覚的内容</a></li></ol></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">本来的な現出と非本来的な現出の違いとは</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">規定性と未規定性</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">目的論</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">視覚的ファントムと真のファントム</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">呈示とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">間接的呈示と根源的呈示の違いとはなにか</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">呈示と指示と指標と記号の違いとはなにか</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">呈示と指示の違いとはなにか</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">何が何を呈示するのか</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">顕在的と潜在的</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">呈示的知覚と自己呈示的知覚の区別</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">超越の謎問題</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">Q 特定の面だけを見るように意識を変えれば、現出の現出を見ていることになるのか</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">現出-現出物の具体例：サイコロのケース</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">現出-現出物の具体例：机のケース</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">現出-現出物の具体例：正方形のケース</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">現出-現出物の具体例：家のケース</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">現出-現出物の具体例：他のケース</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">二次元の場合は裏や他の側面がないのではないか</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">Q 外的知覚は「理念」にとどまり続け、また不十全的にしか与えられない。では「内的知覚」なら十全的に与えられるのか。</a></li></ol></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">射映</a><ol><li><a href="#toc39" tabindex="0">射映とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">（１）「射影」とは感覚的内容の「与えられ方」のことである</a><ol><li><a href="#toc41" tabindex="0">感覚的内容は「広がり」をもって与えられている</a></li></ol></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">不在の射映、地平的志向性とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">地平とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">（２）：射影とは感覚的内容の「機能」である</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">(３)：射影は不変か？</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">小熊正久さんによる「知覚における同一性と差異」の3分類</a><ol><li><a href="#toc47" tabindex="0">（１）知覚作用の変化・不変化</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">（２）知覚対象としての物や諸部分の変化・不変化</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">（３）自我の身体に関連する変化</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">コラム：形態射影と色彩射影、モネとピカソ</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">今回の整理と、次回の概要</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">・超越の謎のイメージ</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">・キネステーゼのイメージ</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">キネステーゼと時間</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc56" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc57" tabindex="0">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">谷徹「これが現象学だ」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc63" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/ThEnx5_L51E" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">今後の予定</span></h3>
<p>次回以降：キネステーゼを理解する</p>
<p>最終目標：フッサールの内的時間意識の理解</p>
<p>※アルフレッド・シュッツの現象学的社会学を理解するためにフッサールを急遽学んでいます。シュッツに関連があまりないフッサールの内容、たとえば間主観性の問題は扱えません。別途扱うかもしれません。</p>
<h3><span id="toc4">フッサールのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2876" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg" alt="" width="268" height="372" /></a>エトムント・フッサール(1859-1938)はオーストリア出身のドイツ人。哲学者であり数学者。主な著作は『論理学研究』(1900-1901)、『イデーン』(1913)、『内的時間意識の現象学』(1928)、『デカルト的省察』(1931)など。</p>
<p>あらゆる学問の基礎づけとなる本質学としての現象学を提唱した。現象学は２０世紀哲学の新たな流れとなり、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティなどに影響を与えている。社会学ではアルフレッド・シュッツに影響を与えている。</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/">【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</a></p>
<p>今回の記事は前回の記事を前提に説明していくので、こちらを先に見ておくと理解がしやすくなります。</p>
<h2><span id="toc6">現象</span></h2>
<h3><span id="toc7">現象とはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現象(Phänomenon)</strong></span>：</big>・諸現出と現出物の関係から成り立つもの(後述)。どちらが欠けても現象は生じず、また両方は常にセットで生じる。具体的に言えば、外界の様々な事象やわれわれの意識の内部に生起する心の活動や感情など。</p>
</div>
<p>例：雨が降っているのを見る。宝石は綺麗だと思う。昨日の夕焼けを思い出す。ペガサスを想像する。</p>
<p>フッサールの現象学はこうした「現象」を扱う学問であり、またこうした「現象」がいかにして構成されているか、どのように条件付けられているかを解明する学問である。</p>
<p>現象ではないものを探すほうが難しい。たとえば夢も見ずに気絶している間はなにか(現出物)が現象(現出)しているとはいえないかもしれない。「何」であるかと捉えることができないような、「いかなる仕方でも現象しないもの」を探すことは難しい。</p>
<p>たとえば幽霊は存在しないと判断する場合、幽霊を「存在しないもの」<b>として</b>捉えているので、これもひとつの現象になる。つまり、幽霊は現象していることになる。何かを何か<b>として</b>捉えるのは意識の本質であり、志向性の本質である。極論を言えば、言及できてしまうようなものはすべて現象しているということになる。ペガサスも、鬼も、神も、すべて「何か」として捉えることはできる。</p>
<p>この問題は、「プラトンのひげ」ともつながっていく(パルメニデスの動画を参照)。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/08/29/parmenides-1/">【基礎哲学第六回】パルメニデスの「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」</a></p>
<blockquote>
<p>「外界の様々な事象やわれわれの意識の内部に生起する心の活動や感情などをみな「現象」（Phänomenon）という。それに対して、「現出」（Erscheinung）といった場合、〈～が現出する〉といった動詞表現を念頭に置いて使用され、何らかの対象が「現出するもの」（das Erscheinende）と表現されるとともに、「現出」とは、そのようにして現出している「現象」そのものを指す。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」46~47P</p>
<p>「フッサールの現象学が主題とする「現象」は二重性を帯びており、そこでは現出概念がいわばかなめとなっていることは、よく知られている通りである。「現象（Phanomen）という語は、現出すること（Erscheinen）と現出物（Erscheinendes）との間の本質的な相関関係によって二重の意味をもっている」（戸崖）。現象学は現象学的還元によってこの現出物が現出するという現象の二重性を開示し、その相関関係を問うことから始まる」</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」93P</p>
<p>「『現出者』は『諸現出』によって媒介されている。『諸現出』は『現出者』へと突破されている。この二つの言い方は、同じことを述べている。『諸現出』と『現出者』とのあいだにこうした関係が成り立つのは、なにも正方形の場合だけのことではない。どんな対象の場合にもそうである。さて、『現象学』は『現象』についての『学問』である。しかし、『現象』の語は、右の関係からして、『諸現出』と『現出者』との二義性を孕むことになる。フッサール自身の言葉で言えば、『現象という語は、現出することと現出者との間の本質的な相関関係のおかげで二義的である』ということになるが、これも当然のことであろう。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」60P</p>
<p>「私たちの日常の自然な理性にとっては『真理』とは、実地の経験を通じて『学ぶ』ものであろうし、デカルト的懐疑の精神にとっては思考力のかぎりを尽くしてなお疑う余地のまったくないもののことであったとすれば、現象学における『真理』とは、それが『現象する』(姿を現す)ことをもってすでに『真』なのであるから、現象するかぎりですべては『真』なのである。しかも（世界の）すべては何らかの仕方で現象するもの以外ではないのだから、文字通り<strong>すべて</strong>は『真』なのである。それはもはや経験に照らして『学ぶ』必要も、思考のかぎりを尽くして『疑う』必要もない。何ものかの『現象』に居合わせる(立ち会う)だけでよいのである。ここでは、あえて『偽』というべきものを挙げるとすれば、『真(理)』が『現象すること』そのことなのだから、その対極にある『いかなる仕方でも現象しないもの(こと)』のみが『偽』であるかを言うことすらできないのである。世界がいかなる意味でも現象しないことをその対局にもった『現象すること』としての『真理』──これこそが、私たちの世界の最終的な基盤なのである。」</p>
<p>「フッサール起源の現象学」97P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc8">【コラム】何の情報もやってこない所に何が言えるのか</span></h4>
<p>ここで思い出すのが、雀部幸隆さんの言葉である。なんの情報もやってこない所、「何か」としてすら捉えられないようなものが「現象しないもの」なのだろう。とはいえ、「その先のもの」として捉えることはできるので、これも現象しているともいえる。</p>
<p>「……宇宙が膨張しつつあるというのは、早い話が、今まで何もなかったと考えられていた所からインフォメーションがやってきたということであり、インフォメーションの発信源が拡がったということである＞と。＜それなら、あなたがたはやっぱり宇宙を有限なものと考えているのだ。その先は一体何なのか＞と、わたしは子供みたいな質問を繰り返した。＜そんなことは知らない＞と、相手はけんもほろろである。しばらく議論は空回りしたが、そのうち、かれはきっぱり言ったものである。＜その先は何だとあなたは言うけれども、大体なんのインフォメーションもやってこない所のことについて、一体なにが言えますか？＞私は黙って引き下がらざるをえなかったが、そのうち得心したものである。なるほど、それがサイエンスというものか、と。<b>およそインフォメーションを欠き経験を欠く</b>事柄について、学問的にはどんな立言も可能ではない。わたしはそのとき改めて、経験科学の精神とは何かについて、その物理学者から教わったのである。と同時に、物自体と現象との峻別、限界概念ないし発見的概念としての理念といったカントの考え方が──<b>これはウェーバーの社会科学方法論の根底にある考え方でもあるのだが</b>──、すこしは分かったような気がするのである。」</p>
<p>(雀部幸隆「知と意味の位相」６７P)</p>
<h3><span id="toc9">現象と志向性</span></h3>
<p>フッサール第１回で扱った「志向性」は「現象」とほとんど重なってくる。なぜなら、志向性とは「現出」と「現出物」の関係を表す言葉だから。とはいえ、志向性のような関係がわかったとしても、どのような条件か、過程かというものが『イデーンⅠ』の時点では明らかになっていない。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><b>志向性</b>：「意識が何ものかに向けられている」という抽象的な性質、属性のこと。志向するとは、意識が「何もの、それ、何か」に向かうことを意味する。「自らを超えて指し示す」ことに特徴がある。「何か(現出)を何か(現出物)として解釈すること」に本質がある。知覚、想起、予想、判断などが志向性として挙げられる。</p>
<h3><span id="toc10">純粋現象とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>純粋現象</strong></span>：</big>論理的には疑うことは可能だが、疑う動機がそれ以上ないような次元の起源、底</p>
</div>
<p>１：リンゴが目の前に存在すると私は確信している。リンゴの匂い、手触り、触感等々の知覚によって確かめ、その存在、実在を信憑している。</p>
<p>２：もしかしたらこれは「夢」なのではないか、こうした確信、「<b>思われ</b>」は悪魔がそのように欺いているのではないか、と「<b>疑う</b>」ことはできる。つまり、<b>論理的には</b>、こうした信憑が生じていたとしても、<b>絶対にリンゴが実在するという証拠にはならない</b>。デカルト的な懐疑を行えば、論理的には疑うことができる。</p>
<p>３：フッサールの現象学は、このようなリンゴの客観的な実在を、言い換えれば「<b>絶対的真理</b>」を明らかにすることを目的として<b>いない</b>。</p>
<p>４：フッサールの現象学は、自然的態度の中で、つまり通常の人間の生活の中で、「これは本当に実在している」と意識的・無意識的に確信している「<b>条件</b>」や「<b>構造</b>」を明らかにすることである。こうした構造を突き詰めていくと、これ以上もう突き詰められないというような「<b>起源</b>」に突き当たる。</p>
<p>５：この起源、底が「<b>純粋現象</b>」と呼ばれる。「私には～と思われる」という現象は「絶対に疑いえない(<b>不可疑性</b>)」ものである。</p>
<p>論理的には疑うことは可能だが、<b>疑う動機がそれ以上ないような</b>次元の起源、底である。たとえば目の前に有り有りとしたリンゴが存在するというのは、自然的態度において、通常疑われることはない。もしかしたら幻覚かもしれない・・と論理的に疑うことはできるが、このように疑い出すと、底が壊れ、なにものも確実性をもって存在することができなくなる。</p>
<p>斉藤慶典さんによれば、純粋現象とは「まったくの不確実なものでありながら、そこから以外には世界は始まりようがないという意味で普遍的なもの」である。</p>
<p>竹田青嗣さんによれば、”生き生きとした現在”という海に浮かぶ人間の生の小舟の底板のようなものである。</p>
<p>ただし、そうした確信を疑ったり否定するのではなく、一旦保留、棚上げ、停止、スイッチを切る作業が「<b>現象学的還元</b>や<b>エポケー</b>」であり、保留した上でそうした確信(<b>自然的態度</b>)がどのように構成されていくのかを見ていくという作業が現象学では重要になる。自分の意識とは独立に、リンゴや他者が客観的に実在するという確信(思い込み、ドクサ)を一旦保留して考えていく。</p>
<p>このように還元されたものが「<b>超越論的主観</b>(<b>純粋意識</b>)」と呼ばれている。竹田さんによれば、この純粋意識とは玉ねぎの芽、といっても物理的な芽というより、新しい組織を作り出していく芽の「<b>はたらき</b>(機能)」それ自体を指しているという。つまり、主観にとっての世界の中の事物の存在の確信を作り出していく「はたらき」のことである。それが「時間」の機能や「身体」の機能、「自我」の機能として分析されていく。</p>
<blockquote>
<p>「『私には～と思われる』は、なるほど『～思われ』た当のものの存在＝真理定立からは独立であるから(つまり、定立が犯すかもしれない誤りとは無縁であるから)、ひとたびそのように思われたのであればその『疑いえなさ』は当の『思われ』の内部では絶対的である。しかし、この『思われ』自体にはそれ以上の根拠はないのであるから、デカルトにならっていえば、この『思われ』を可能にしている『思うこと』の文法そのものを破壊してしまう『悪しき霊』を想定することはあくまで可能なのである。『私には一足す一は二に思われる』とき、『一たす一は二』が誤っている可能性が問題なのではなくて(これは真理定立が謝っているケースである)、そのように『思われる』こと自体が、実は『思われ』とは似ても似つかないまったくの別物である可能性がなお想定できるのである。このときそこにいったい何が出現しているかは、もはやいかなる『確実性』をもっても語ることはできない。私自身は何か特定の『思われ』の中にしか居ないのだし、そもそもこの『思われ』の文法が破壊されていることの(欺かれていることの)想定自体もまた、『＜そのような想定が可能である＞と思われる』こと以外ではありえないのだから、『思われること』の確実性(それはその内部にあるかぎり『絶対に疑いえない』と言ってもよかったのだが )が破壊されれば、もはや何ものも確実性をもって存在することはできないのである。『存在することは出来ない』というこの主張すら、そうなのである(以下同様)。かくして、現象学が依拠する(そして私たちの世界のすべてが依拠する)『単なる思想』としての『思われ』(純粋現象)は、もはやそれ以上に遡ることの出来ない最終的な地盤であるがままで、まったくの不確実性と両立していることになる。別の言い方をすれば、それはまったくの不確実なものでありながら、そこから以外には世界は始まりようがないという意味で（世界のすべてはそこから始まっているという意味で）『普遍的』なのである。」</p>
<p>「フッサール起源の現象学」95-96P</p>
<p>「さて、竹内はフッサールの『絶対的明証性』という概念を、『いつも一切の真理を<strong>構成</strong>するもの』、と受け取っているが、これなどもよく出回っているまがいの現象学理解である。フッサールの＜絶対的＞明証性とはどういう概念だっただろうか。さしあたって言えば、ある事象の<strong>現実性</strong>が＜意識＞にとって疑いえなくなるような最終的根拠のことだ。たとえばつぎのような例をみよう。＜私＞は昨日誰かと、『今日の六時、新宿駅西口で』という待ち合わせの約束をしたと思っていたが、ちょっと記憶があいまいなので約束した時の記憶を想い起こしてみる。すると<strong>六</strong>という数字がはっきり浮かんできたのでまず間違いないと思う(記憶の反復可能性)。このとき、六時とともに五時とか、七時という言葉が入りまじって浮かんできたら、＜私＞は『六時』に約束したことの確実性を”疑う”だろう。そういう場合、自分の記憶が少し怪しいのでもう一度思い返してみるだろう。すると『六日(今日の日付)の六時に』と同じ六並びで約束したのだったという記憶がはっきり生じ、何度も思い直してみても、この明瞭さが反復されたとしよう。さて、このようなとき、＜私＞はもはや『六時の約束』の確実性を”疑えなく”なる。たとえばあえて疑おうと意志しようとしても、＜私＞にはこれを疑う動機がなくなってしまうのである。<strong>論理的には</strong>、いくら明瞭な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対に正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上『疑えなく』なる。たしかに六時だったという確信がいやでもやってくる。だから『明証性』とは、＜私＞がさまざまなものごとを『正しい』とか『ほんとうだ』とか思うことの、<strong>絶対的で『必然的な』</strong>根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。そしてこういう『明証性』の状態をどのように記述できるかを試みているにすぎない。このような『絶対的明証性』の概念が『絶対的真理』を構成するようなものでは<strong>まったくない</strong>ことは明らかだろう。この概念が意味するのは、『明証性』とは、人間がありありとした生の『経験』の中で、ものごとにたいして『これはそうだ』とか『これは本当だ』という確信的な心持ちを持つことの”条件&#8221;である。また、人間がさまざまなものごとに対して、このように疑問を持ったり、確信を得たりすることこそ、人間の生を&#8221;現実的&#8221;なものとして与えているゆえんなのである。だから、『明証性』とは、”生き生きとした現在”という海に浮かぶ人間の生の小舟の底板のようなものなのだ。もしこれが破れれば、いろんなものに関心をむけ、それを疑い、確かめつつ生きている人間の心は沈んでしまう。人間にとっての”現実性”というものが沈んでしまうのだ。」</p>
<p>「現象学入門」158P</p>
<p>「明証性とは、まずひとことで言うと、世界の諸事象に対する人間の<strong>自然な信憑</strong>(=<strong>確信</strong>)の、一番<strong>底を支える条件</strong>を意味する。つまり、それは<strong>信憑の根拠</strong>であって、一般に誤解されているように、事物の<strong>存在</strong>(実在)の確証ではない。たとえばひとつのリンゴが実在することの確証を与えるものではなく、それが実在するとひとが自然に信憑することの<strong>条件</strong>、なのである。いま＜私＞が自分の目の前にひとつのリンゴがあると思う。ところでデカルトによれば、それ(リンゴの像)がどれほどありありとしたものであっても、人間の理性は、ひょっとするとこの像は『夢』かも知れないと考える(疑う)権利を持っている。つまり、どれほど明証的(明晰判明)な意識としてひとつのリンゴをとらえていても、<strong>論理的には</strong>、このリンゴの像はリ<strong>ンゴの実在</strong>の<strong>証拠</strong>とはならない。ところがフッサールはこう考えた。たしかにデカルトが言うように、一個のありありとしたリンゴの像も、論理的にはそのリンゴの実在の証拠とはなりえない(『夢』かもしれない)。しかし現実的には、人間はそのようなありありとしたリンゴの像から、そのリンゴの実在を確信している。その理由はいったい何だろうか。その理由は＜主観＞の<strong>内側</strong>にこの確信を生じさせるなにかがあるからだと考えるほかはない。こうして現象学は、人間の明証性の根拠を、＜意識＞の内的な構造(<strong>妥当</strong>の構造)に求めることになる。」</p>
<p>「現象学入門」214P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">現象と身体と時間の関係性</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3ae9485f08190b16801018e1af332a3e.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3018" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3ae9485f08190b16801018e1af332a3e.png" alt="" width="605" height="295" /></a></p>
<p>（１）目の前にリンゴが実在すると確信するためには、「知覚」が重要になる。</p>
<p>（２）「知覚」を成立させるためには、感覚的内容や志向的内容、志向的対象、またそれらの関係としての統握作用など、さまざまな過程が必要になる。</p>
<p>（３）さらに、そもそも感覚的内容が与えられるためには、「時間」や「身体」が必要になってくる。つまり、現出を成立させる条件を遡っていけば、空間と時間に突き当たる。前者の問題が「<b>キネステーゼ</b>」として語られ、後者の問題が「<b>内的時間意識</b>」として語られていく。さらに両者の問題へと通じるキーワードとして、今回扱う「<b>射影</b>」がある。</p>
<h3><span id="toc12">静態・発生的構成分析</span></h3>
<p>１：リンゴ(現出物)が私に現象(現出)している。つまり私にはリンゴが実在するように思われる。イタリアはきっと綺麗な街だろうと、日本で想像する場合も、そのような形で(実際に見たことがないのにも関わらず)イタリア(現出物)は私に現象(現出)している。</p>
<p>２：そのように確信するような条件とは、構造とはなにか。これらを明らかにする作業を「<b>構成分析</b>」という。</p>
<p>３：構成分析は「静態的分析」と「発生的分析」に分かれる。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>静態的分析(satisch)</strong></span>：</big>・諸成分が最初から出来上がった状態において分析するもの。主に1920年まで、『イデーンⅠ』あたりまでが該当する。静態的現象学とも呼ばれる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>発生的分析(genetisch)</strong></span>：</big>・諸成分が出来上がってくる過程を分析するもの。1920年以降、『受動的総合の分析』や『内的時間意識の現象学』などが該当する。発生的現象学とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>例えば『論理学研究』(1901/1902)において、フッサールは「志向性」の分析を行った。</p>
<p>第一回で扱った「志向性」、第二回で扱った「統握」などは「静態的分析」である。たとえば統握は「何かを何かとして解釈する作用のこと」であり、初期の図式では死んだ素材である「感覚的内容」を「統握」によって生気づけ、活性化させ、意味付与するという図式だった。</p>
<p>こうした死んだ素材としての「感覚的内容」が修正されていく過程、つまり静態的分析から発生的分析にかけて、ただ統握を待ちうけるのではなく、ある程度方向性をもっていたり、「<b>機能</b>(はたらき)」をもってることが分析されていく。また、内的時間意識の次元ではこのような統握図式や志向性が適用不可能であるという点も重要になっていく。</p>
<blockquote>
<p>「しかしこれらの分析が、すでに『本質』として与えられた『対象』がそのようなものとして構成された(いわば、出来上がった)相のもとで、その構成分析を析出するという仕方でなされるものであるのに対して──これを彼は『静態的(satisch)』な分析、ないし『静態的現象学』と名付ける──、彼の関心はさらに、そのような『本質』としての『対象』がそのようなものとして構成されてくるいわば現場に降り立つことへと向かうようになる。具体的にはそれは、『現象すること』の基本的性格をなす『絶えざる時間的流動』の中で、そのような『本質』としての『対象』がどのようにして構成されてくるのかを問う『発生的(genetisch)』な分析、ないし『発生的現象学』という構成のもとで追求されるようになる。『本質』として『何ものか』が現象へといたるにあたっては、その顕在的相に先立つ潜在性の次元が、あるいは能動的ならびに受動的な発生の層がすでに機能しているのであり、現象はいわば『歴史』を、より正確には『前(先)史』をもつのである(ここであらためて、フッサールが『考古学』という名称に特有の愛着を示していたことを想いだしていただきたい)。この発生的現象学においても、分析は当然ノエマとノエシスの両面にわたって進められるべきなのだが、問題がこの自演にいたると、もはや現象のノエマ的側面とノエシス的側面は、かつての静態的現象学におけるほど明瞭には分離できなくなっている点にも注意スべきであろう。」</p>
<p>「フッサール起源の現象学」116P</p>
<p>「一九二〇年代のフッサールは、ノエマ的意味や時間・空間の構成や自我の構成を、さらに『発生』という観点から分析するようになる。これらの成分は、最初からできあがっているのではなく、ある過程を経て生じてくるものである。この過程を分析するのが、『発生的現象学』である。これらと対比的に、諸成分ができあがった状態において分析するのが『静態的現象学』──もっとも、これは発生的現象学が登場して以後、はじめて有効になる規定である──であるが、フッサールの分析の重点は発生的現象学へと移行していく。」</p>
<p>「これが現象学だ」182P</p>
<p>「この意味で『時間』は、語の普通の意味で『現象するもの』ではない。それはちょうど、かつて『イデーン』期のフッサールが、『純粋自我』に関して『一種独特な超越としての＜内在における超越＞』と呼んだのと同じような困難をともなった問題事象なのである。ここで『純粋自我』を引き合いに出したのは、たまたまのことではない。世界に現象する多様なるものが、その多様さにもかかわらず＜ひとつの流れ＞としてのある統一をいつもすでに有していることが、フッサールをして『純粋自我』という考え方へと向かわせた次第を私たちはすでに見たが、この同じ事態を彼はまさしく『時間』として捉え直し、『イデーンⅠ』では保留し・棚上げにせざるをえなかった『純粋自我』の解明を，『時間』の解明として行ったのである。」</p>
<p>「フッサール起源の現象学」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">「対象が意識から超越していることこそ最大の謎である」とはどういうことか</span></h3>
<p>なぜわれわれには実的には「感覚的内容」しか与えられていないのに、主題的に意識し、見ているのは「感覚的内容(現出)」ではなく「志向的対象(現出物、客観)」なのか。</p>
<p>言い換えれば、なぜ「<b>対象が意識から超越している</b>(フッサールは『<b>最大の謎</b>』と名付けている)」のかという問題になる。もちろん意識の外になにかあるかどうかはわからないので、対象の意識の内にある。実的(感覚的内容)を越えているという意味での「超越」であり、しかし意識の内にあるという意味では「内在」なので、志向的内在あるいは内在的超越と言ったりする。</p>
<p>静態的現象学では、超越しているということは確認できても、<b>どのような過程を経て超越しているか</b>という、発生的分析まで行われていない。</p>
<p>ノエシス-ノエマ構造が扱われるようになったり、現象学的還元が行われるようになった『イデーンⅠ』でも同様である。</p>
<p>こうした発生的分析を行うためには、「<b>時間の分析</b>」が必要になる。</p>
<p>フッサールは『イデーンⅠ』では、時間の問題は保留し、棚上げにしている。時間の問題が特に分析されるようになったのは1928年の『内的時間意識の現象学』である。さらにキネステーゼや射影など、さまざまな分析が必要になってくる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/988cc438751ac84f21087276f382696d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3019" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/988cc438751ac84f21087276f382696d.png" alt="" width="655" height="275" /></a></p>
<p>現象学の全体のマップを図にするとこのようなイメージになる。私の記事でいうと、第一回は志向性、第二回は知覚、第三回は現象というように、徐々に起源のほうへと移行していく。最終的にはもうこれ以上遡れないというような「原印象」という時間、いわば「先時間」へと遡っていくことになる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/94c305439adcb80339c30f0b775b9d8d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3020" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/94c305439adcb80339c30f0b775b9d8d.png" alt="" width="485" height="355" /></a></p>
<p>前回のノエシス-ノエマ構造による実的なものと志向的なものも振り返っておく。</p>
<p>すべては意識の内側に在るという意味で、青い円(意識)という場で現象は生じている。そして、赤い円しか与えられていないのにも関わらず、我々はそれを越えたものを見ている。</p>
<blockquote>
<p>「上でみたようにフッサールは、『論理学研究」おいて「志向作用」の分析を行ったが、その数年後、「対象が意識から超越していること」こそ最大の「謎」だと述べるに至る。そして、いかにして超越的な対象が意識されるのか、また、いかにして意識にとって対象の超越が存立しているのかを見ることこそ根本問題であり、その解明のために、対象の措定をやめて反省を行う「現象学的還元」という操作が必要であると考える。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」301P</p>
<p>「さてフッサールによれば、反省によって、意識に内在すると認められるのは、「感性的与件」と「意味的統握」であるが、その感性的与件は、超越的知覚においては、超越的なものの「射映Abschattung」としてはたらくのである。では、知覚における「媒体」としての「射映」はどのようにはたらき、超越的なものを呈示するにいたるのであろうか。この解明こそ、「超越の謎」の解明ということになろう。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」301-302P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc14">現出と現出物</span></h2>
<h3><span id="toc15">現出とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現出(Erscheinung)</strong></span>：</big>・感覚的内容であるとともに、対象の側面(アスペクト)であるという二重性をもつもの。後に「射影」とも言い換えられるようになる。現出物が名詞的に扱われるのに対し、現出は動詞的に主に用いられる。例えばサイコロの１面や、バラの「赤(色の感覚契機)」など。</p>
</div>
<h3><span id="toc16">現出物とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現出物(das Erscheinende)</strong></span>：</big>・現出する対象(≒志向的対象)を意味する。現出者とも呼ばれる。(特定の面ではない、いわばすべての面を含めた)サイコロや、机など、対象化された物。超越物。過剰思念。</p>
</div>
<p>たとえばバラを見て、「赤」という感覚的内容が我々に与えられる。</p>
<p>これを言い換えれば、「赤」が私に対して「<b>現出</b>」しているということになる。</p>
<p>他にも、丸い石を触ったとき、「スベスベ」していると感じた場合、「スベスベ」が私に対して「現出」していることになる。我々は「赤」や「スベスベ」を体験している。しかし自然的態度においてはそのような現出は主題的に意識されず、「丸い石(現出物)」を触ったという経験や、「赤いバラ(現出物)」を見たという経験のように、「対象」を主題的に見ている。</p>
<p>対象の側面とは、たとえばサイコロの１の面などが挙げられる。谷徹さんの説明では、「<b>物の現れ出る面</b>」だという。</p>
<p>側面はいわば、多様な面のうちの一つの面である。たとえばサイコロは１から６の面まであるが、一気に全ての面を見ることが出来ない。多くても３つだろう。そのうち実際に見られている面が、対象の側面である。とはいえ、実際に見ていない面も、<b>不在という形で現出している</b>ことが重要になってくる。</p>
<h4><span id="toc17">前回の復習：感覚的内容</span></h4>
<p><b>感覚的内容</b>(ヒュレー)：知覚作用を構成する契機、素材。(自然的態度においては)体験されていても対象化されることがなく、反省(現象学的反省)によってはじめて対象化されるもの。非志向的なもの。実的内容に属している。</p>
<p>たとえば丸い石の「スベスベ」や、バラの「赤」などが感覚的内容として挙げられる。もっとも、前述定的であり、言葉で表現できないようななにかである。フッサールは「白い紙という知覚体験」において、現象学的還元(要するに内的知覚)を行えば「白という感覚与件」を見出すことが可能だという。</p>
<blockquote>
<p>「私たちは、平行四辺形を『感覚』しているが、それを突破して、長方形を『経験』している。つまり、私達は、平行四辺形の感覚・体験を突破して、その向こうに長方形を『知覚』している。あるいは、平行四辺形を『体験』しているが、それを突破して、長方形を『経験』している。あるいは、こう言ってもよいだろう。私たちは『現出』の感覚・体験を突破して、その向こうに『現出者』を知覚・経験しているのである。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」56P</p>
<p>「現象学は、諸現出と現出者の関係を基礎においた学問なのである。ここにおいて、『現象学』という言葉の──先にそれの歴史的な由来について述べたが、それといわば対をなす──哲学的な意味が明らかになったと思う。現象学は、たとえば、実体(本体)と現象(仮象)といった意味での現象──これは、外部に実存する対象とその表象という図式のバリエーションにすぎない──を扱う学問ではない。このような理解は、還元以前のものである。還元を遂行するフッサール現象学は、あくまでも、諸現出と現出者との関係から成り立つ現象を扱う学問である。さて、直接経験(マッハ的光景)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きが『志向性』である。それゆえ、直接経験は、これらの言葉を用いて『志向的体験』と言い換えられる。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」61P</p>
<p>「フッサールによれば、事物の現出は、現出する事物ではなく、「現出が＜意識の関連に属するものとして〉われわれに体験されるのに対し、事物は＜現象界に属するものとしてわれわれに現出するのである」（XIX／1，S，359－360）が、「現出それ自身は現出せず、それらは体験される」（XIX／1，S．360）のである。従って、わたしたちが何らかのものを知覚している場合、その知覚作用を実際に構成しているのは、色彩感覚などの実的内容である。しかしながら、わたしたちが何らかの対象を見ている場合、意識を構成しているそのような感覚内容を見ているわけではなく、まさにその対象を見ているのである。従って、感覚内容は現出するものではないのである。それに対して現出している対象は、わたしの意識の中に実際に含まれているわけではない。しかしそのような対象を見ているということは、その対象は意識と何らかの関係にあるといえるであろう。あるいは実的内容が統握によって客観化されることにより、対象が現出するのであるから、実的内容とは違う意味ではあるが、その対象も意識の中にあるということもできるであろう172。フッサールはこれを志向的内容という。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,115P</p>
<p>「現象学が質料的な学問でありながら、形式的本質学を基礎づけられるとするならぱ、どのような可能性があるのであろう。それを明らかにすることがここでの課題である。まず考えられるのは二つの可能性である。すなわち、（1）現象学はいかなる学間も前提しないということ、そして（2）現象学は、あらゆるものが対象として現出する場、すなわち意識を主題としているということ。この二つによって現象学が学間の基礎づけを主張しえるための根拠となっていると考えられる。以下ではこの二つの根拠を考察し、現象学が最も基礎的な学問であるためには、どのような学問であるべきかを明らかにしたい。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,46P</p>
<p>「たえばわたしが目の前にあるカップを見ている場合を考えてみよう。それはステンレス製で表面はつるつるしているように見える。この場合、わたしは何を体験し、何が意識の「内」にあるのであろうか。フッサールによれば、色の感覚契機は、体験された、あるいは意識された内容であるのに対し、対象それ自身は、「体験されても意識されてもいない」（XIX／1，S．358）という。しかしもしも、対象それ自身が意識されても体験されてもいないのだとしたら、わたしたちはどのようにして対象を見ているというのであろうか。それに対してフッサールは「色には色彩感覚が、質的に規定された現象学的な色の契機が対応しているのであり、そしてこの契機が知覚の中で、従ってその契機自身に付属する知覚の組成要素（「対象の色彩現出」）の中で『統握』され、客観化されるのである」（ebd．）η1という。ここで重要なのは、現出（Erscheimng）、統握、客観化された対象、あるいは現出する対象の関係である。特に現出と現出する対象との相違を明確にしておかなければならない。フッサールによれば、事物の現出は、現出する事物ではなく、「現出が＜意識の関連に属するものとして〉われわれに体験されるのに対し、事物は＜現象界に属するものとしてわれわれに現出するのである」（XIX／1，S，359－360）が、「現出それ自身は現出せず、それらは体験される」（XIX／1，S．360）のである。従って、わたしたちが何らかのものを知覚している場合、その知覚作用を実際に構成しているのは、色彩感覚などの実的内容である。しかしながら、わたしたちが何らかの対象を見ている場合、意識を構成しているそのような感覚内容を見ているわけではなく、まさにその対象を見ているのである。従って、感覚内容は現出するものではないのである。それに対して現出している対象は、わたしの意識の中に実際に含まれているわけではない。しかしそのような対象を見ているということは、その対象は意識と何らかの関係にあるといえるであろう。あるいは実的内容が統握によって客観化されることにより、対象が現出するのであるから、実的内容とは違う意味ではあるが、その対象も意識の中にあるということもできるであろう172。フッサールはこれを志向的内容という。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,114-115P</p>
<p>「第二に、フッサールは作用の所与の様態と対象の所与の様態との差異を絶えず強調する。ペンのような物理的対象を取り上げるならば、それはその<strong>知覚的現出</strong>によって性格づけられる。対象を知覚するとき、現出するものと現出そのものとを区別しなければならない。なぜなら、対象はけっしてその全体性において現出せず、つねにある一定の限界づけらたパースペクティブから現出するからである(似たようなことは、対象について<strong>考える</strong>場合でも言える。)したがって、単一の現出が対象全体を捕えることはありえない。対象は、けっして単一の所与において余すところなく究明されはせず、単一の所与をつねに<strong>超越する</strong>。対象が現出の背後に何らかの仕方で隠れているという──不可知のカント的物自体のような──意味でもなく、対象が単にすべての現出の総和であるという意味でもなく、対象が様々な現出をすべて関連付ける同一性であるという意味において。」</p>
<p>「フッサールの現象学」20-21P</p>
<p>「フッサールは、現象概念についてかれが語った数少ないテクストのひとつである「五講義」において、現象という概念に否みがたい二義性が孕まれていることを指摘している。というのも、この概念は、現出(Erscheinung)を言い表わすと同時に、この現出のなかに現われる現出者(Ersheinendes)をも言い表わすからである。しかしフッサールによれば、この二義性は、表現の曖昧性にではなくむしろ事柄そのものに由来するものである。つまりこの二義性は、現出と現出者との本質的な相関性、現出がつねに何らかの現出者の現出(Ersche五nung-von)であることの反映とされるのである(H.14)。②そうであるとすれば、ハイデッガーとは異なり、フッサールにおいて現象として主題化されるものは、この〈現出者の現出〉という統一的事態であると言わねばならない。つまり、フッサールにとっては、現出と現出者とが区別されるとしても、この現出者は、それ自身を示さないものとして、それ自身を示す現出の彼岸に置かれるものではない。かれにとって現出者とは、現出のなかに現われるかぎりでの現出者なのである。つまり、現出と現出者との区別は、あくまでも現象の統一の内部に誇ける区別なのである(L11)。フッサールのいわゆる〈志向性〉という概念こそ、この現出と現出者との統一に対する名称にほかならない。というのも、志向性とは、現出者が現出を超越しているのではなく、むしろこの現出のなかに志向的に内在していること、つまり〈現出者の志向的現出〉を言い表わしているからである。そうであるとすれば、〈現出者の現出〉としての現象を可能ならしめるものは、現出者と現出とを繋ぐ〈の〉としてのこの志向性であると言わねぱならない。私は、この事態が孕む問題を明らかにしたいと思う。」</p>
<p>魚住洋一「フッサールにおける現象概念」,50-51P</p>
<p>「アグィーレも言うように、現出からみると現出は一面ではヒュレーであると共に、他面において対象のアスペクトで＾2）もあり、二重性を示している。ヒュレーや作用としてそれを統94握するノエシスは実的契機として体験に属するが、ヒュレーのうちで自らを射映という仕方で現出するものはノエマに属する。志向的対象であるノエマ自身、その意味的規定において「ノエマ的な対象そのもの」と「ノエマ的規定の相における対象」という二面性を保持している。後者は前者の意味的規定であり、あるものとして規定される当の内容のことである。前者はこうした意味的内容の極、意味の担い手であって、「すべての述語を捨象した純然たるX」とも表現されている。」</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」,95P</p>
<p>「現実に体験しているのは現出物の現出であって、端的に現出物それ自身を体験しているわけではない。それにもかかわらず我々はその体験に留まらず、その体験を通して、実際に与えられたもの以上のものである現出物を見ている。こうしたことをフッサールは過剰思念（Mehemeinung）とも表現しているが、この「より以上」（罵享箒）という事象へ眼差しを向け変える方法が現象学的還元なのである。自然的態度においてはこうした事象はいわば素通りしてしまい、隠されたままになっている」</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」,94P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">本来的な現出と非本来的な現出の違いとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>本来的な現出(読み)</strong>：</big>・物が知覚される際に、実際に見えている部分。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>非本来的な現出(読み)</strong>：</big>・物が知覚される際に、実際に見えていない部分。</p>
</div>
<p>※以前の動画で説明したように、「見える」という言葉は多義的であり、視覚以外にも触るなど、さまざまな意味合いがある</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/db66b4816acf980ced76eff69441599a.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3022" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/db66b4816acf980ced76eff69441599a.jpg" alt="" width="225" height="225" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/db66b4816acf980ced76eff69441599a.jpg 225w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/db66b4816acf980ced76eff69441599a-60x60.jpg 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/db66b4816acf980ced76eff69441599a-120x120.jpg 120w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /></a></p>
<p>たとえばサイコロを見るとき、１と５と、４の面が見えているとする。この場合、本来的な現出はこの見えている面である。</p>
<p>一方で、非本来的な現出は、２と３と、６の見えていない面である。</p>
<p>１：外的知覚においては常に、知覚されるものは全面的に与えられ<b>ない</b>。</p>
<p>フッサールの用語で言えば、「<b>不十全的</b>」に物は与えられるということになる。別の言い方をすれば、超越的、志向的に与えられる。</p>
<p>２：内的知覚においては常に、知覚されるものが全面的に与えられる。「<b>十全的</b>」に与えられるのであり、内在的、実的に与えられる。</p>
<p>たとえば目の前のリンゴが本物のリンゴかどうか、これらは十全的に与えられないので、いつまでも確定することがないという。目をつむったときは存在しないかもしれないし、裏側を見ているときだけ、表側がないかもしれない。</p>
<p>しかし、リンゴが赤いと感じた、ツルツルだと感じたという「実的内容（感覚的内容）」は、ひょっとしたらリンゴではないかもしれない、と疑う次元とは違う。もしかしたらツルツルだと感じていないのでは、と<b>疑うことは難しい</b>(論理的には疑えるかもしれないが)。この体験は、「<b>超越</b>」に対して「<b>内在</b>」と呼ばれる。こうした実的内容は十全的に与えられ、パースペクティブ(観点)的には与えられ<b>ない</b>。超越的なものは「<b>可疑的</b>」であり、内在的なものは「<b>不可疑的</b>」である。</p>
<blockquote>
<p>「まず,「感覚内容」の存在を認める根拠ともなっている,物の「本来的な現出」と「非本来的現出」の区別についてみておこう。物が知覚される際に,実際に見えている部分が「本来的現出」と呼ばれ,物の裏側などのように「見られていない部分」が「非本来的現出」と呼ばれている。知覚される物が全面的に現れることはなく,物の知覚的現出は必ず「本来的現出」と「非本来的現出」の部分に分けられる。こうした現れ方の差異があることによってはじめて諸現出は「同じ物」の現出とみなされるわけであるから,「非本来的現出」も物の現出全体や「同一性の意識」にとって不可欠である。だが,「本来的現出」と「非本来的現出」の違いを成立させているのが,前者に対応し後者に対応していない「感覚内容」であると考えられているのである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,5P</p>
<p>「外的知覚には必然的に、本来的に知覚されているもの（例えば物の正面）と非本来的に知覚されているもの（例えば物の背面）の区別がつきまとう。正面だけしか持っていない対象など、考えられない。「本来的現出は、分離されうるものではない。それはその本質によって、統握構成分のプラスによる補完を要求する」（S.51)。しかし非本来的現出は、「想像（ファンタジー）」の産物ではない。なぜなら物体的なものは、想像の中でさえ、一面的にしか現出しないからである。想像上の背面がさらに想像によって非本来的現出にもたらされるとするなら、無限遡行は避けがたい（S.55・56）。むしろ一面性ないし非十全性は、外的知覚の本質なのである。「外的知覚は空間的事物の知覚であり、そのようなものとして、一面的でしかありえない」（S.52）。」</p>
<p>中敬夫「一にして不可分の空間 (の) 経験: スピノザ・フッサール・ビラン」,55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">規定性と未規定性</span></h3>
<p>本来性と非本来性の区別には、さらに「<b>規定性</b>と<b>未規定性</b>」の区別が加わるという。</p>
<p>たとえば眼の前のサイコロの１の面が本来的な現出をしていたとしても、暗がりの中ではよく見えない、つまり未規定的に現出する部分が出るという。ただし、完全な未規定性ではなく。「<b>ある範囲内で予測の働く未規定性</b>」だという。</p>
<p>たとえば手の指が四本明るいところで見え、残りの１本がすこし影に隠れてあまりよく見えないというケースを考えてみる。しかし、四本の指の隣にある、指のような形をしている黒いものは、指だろう、と予測の働く範囲だと言える。サイコロの見えていない面、非本来的な現出も、同様に完全な未規定性ではないといえる。たしかに１，３，５と見えたら、裏面は２，４，６だろうと予測が働く。はじめてサイコロを見る場合でも、同じような絵柄が描かれている面だろう、と予測が働くのではないだろうか。</p>
<blockquote>
<p>「本来性と非本来性の区別には、さらに「規定性と未規定性の区別」（S.58）が加わる。例えば物の正面は本来的に現出してはいても、暗がりの中では多少とも未規定的に現出する。背面はさらにいっそう未規定的だが、それでもそれは「完全な未規定性」ではなく、「或る確として限界づけられた一般的圏域の内部での規定可能性」に属する「未規定性」(S.59）、つまり或る範囲内で予測の働く未規定性なのである。そして動態論的に見るならば、外的知覚の時間的過程とは、未規定性をより詳細に規定してゆく過程だとも言える。」</p>
<p>中敬夫「一にして不可分の空間 (の) 経験: スピノザ・フッサール・ビラン」,55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">目的論</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>目的論</strong></span>：</big>・一般に、何かの目的のためにある、という見地から物事を考える立場のこと。</p>
</div>
<p>前回「<b>理性の意志</b>」として扱ったものと重なってくる。</p>
<p>１：外的知覚は、ある「方向」をもった「過程」であるとフッサールは考えている。</p>
<p>２：外的知覚は、事実的には無限に「もうこれで終わりだ」というように確定することはない。つまり、「十全的知覚」へと至ることは原理的にありえない。つまり、「不十全的明証性」においてしか知覚されることはない。いわばどこまでいっても「近似」でしかない。</p>
<p>３：超越的に構成された対象が、十全的に与えられるというのは「理念」にとどまっている。フッサールはこうした対象の自己所与性を「<b>カント的意味における理念</b>」と表現している。カントは人間の理性では物自体に到達することができないと考えている。</p>
<p>ただし、フッサールはカントの物自体のような、多様な現出の背後に「<b>隠されたもの</b>」として考えているわけではない。また、対象は現出の単なる「<b>総和</b>」でもない。あくまでも、感覚的内容を通して構成され、未規定なものがなく、完全に規定された「現出者の現出」が理念的だと考えている。</p>
<p>４：意識は自己所与の明証性を目指すと考えられている。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>同一性の意識(Identitatsbewußtsein)</strong></span>：</big>・多様な現出を同じひとつの対象として意識させる意識のこと。</p>
</div>
<p>「<b>同一性</b>」を目指し、目的としている。別の言い方をすれば、未規定なものを完全に規定されているものへと完成させることを、<b>目的</b>としている。どうやら、そういうふうになっているというわけである。</p>
<p>ただし、同じだと思っていたが、後になって違っていたということもありうる。つまり、「<b>錯誤</b>」の可能性があるが、しかし「同じものだと思っている」ことは事実であり、同じものとして「現象」していることも事実であり、それが知覚の特徴である(極論、錯誤であっても知覚の分析には問題ないと解釈する人もいる)。</p>
<blockquote>
<p>「「より詳細な規定」が起こるのは、或る射映から別の射映に移行する際に諸現出間に合致の関係が生じ、未規定的なものが規定されたものへと移行する場合である。もちろん諸現出聞に不一致が露見し、「抗争意識」（S.96）が生ずる可能性もある。しかし抗争は合致を前提しているものであり、対象の統一性が破棄されるほどの矛盾が生じることはありえない（S.97）。いずれにせよ外的知覚の連続的過程は、端緒から或る「方向」を持った諸志向の過程なのである。「諸志向は正常な知覚においては予期志向（Erwartungsintentionen）である。（現出系列は或る目的論（einegewisseTeleologie)によってくまなく支配されている）」（S.103）。」</p>
<p>中敬夫「一にして不可分の空間 (の) 経験: スピノザ・フッサール・ビラン」,55P</p>
<p>「しかし、問題はわれわれの存在の有限性にある(vgL皿.387)。つまり現出の連関は、事実的には、無限の全体性においてではなくただ過程としてのみ存在する。したがって、思念された対象の自己所与性という極限理念は、この過程の〈テロス〉としてのみ理解することができるのである。フッサールは次のように述べている。「明証性(=十全的明証性)とは、意識生の全体に関わる普遍的な志向性のありかたである。この明証性によって意識生は〈理性〉を狙うだけでなく、たえずそれへと向かっていく傾性をもつという普遍的な目的論的構造を有するのである」働知覚の〈志向一充実〉の過程とは、テロスとしての理念へ向かう〈目的論的〉過程なのである。問題は、この人間の生のもつ「根源的な目的論的=傾性的構造」(IX.299)の可能性の制約を無限のテロスからではなく、有限の過程そのもののなかから摘出することにある。アグィレは次のように書いている。「世界を経験する生のもつ目的論は、有限性の意識の表現である。つまりそれは、知覚の体制を特徴づける有限性の表現なのである」</p>
<p>魚住洋一「フッサールにおける現象概念」,55P</p>
<p>「フッサールは,こうした事例について,そこでは「同一性の意識ldentitätsbewußtsein」がはたらき,それは,「それらの対象を同じーつの対象として意識させるが」,「それらの知覚を同一視して同じ知覚として評価するのではない」と言う。もちろん,この「同一性の意識」は,対象が「同じ物」であることを絶対的に保証するわけではない。たとえば,或る机を見てから自分の背後を眺め,再び以前の場所を見て,そこにあるのは先ほどの机であると判断したとしても,のちにそれらは実は違う机であることが判明したということもありうる。こうした誤りを避けるために中断することなく見続けるということも考えられるが,錯誤の可能性はつねに残る。けれども,そうした可能性があるとしても,われわれが変化する知覚のなかで或る対象を「同じ物」と認めることは確かであり,少なくとも日常において同一物を認める手段は知覚である。フッサールはこの「同じ物と認めること」を「同一性の意識」というのである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,5P</p>
<p>「フッサールはこの自己能与の明証性を「普遍的意識連関における機能（Funkhon）」（W皿、S．168）であるという。それゆえにこの自己能与へと向かう意識の働きは、個別的な意識のみならず、全意識連関を貫いているのである。ここでr機能」という語に注目しておかねばならない。この言葉はすでに『イデーンI』において用いられており、そこでは機能をいいかえて「意識対象性の構成」（㎜／1，S．196）としている。それをさらにいいかえて、「諸々のノエシスが素材的なものを生気づけながら、また互いに組み合わされて多様かつ統一的な連続と総合とになりながら、あるものについての意識を成立させて、その結果、その対象性の客観的統一がそこに調和的にはっきりと表され、かつ理性的に規定されるようになる」（ebd．）ということを意味しているという。ここではノエシスや素材といったことはおいておくとして、多様かつ統一ということに注意しなければならない。先にも述べたが、同一の事物に関して様々な現出が意識に与えられる。その際、感覚的な素材はその都度変化しており、多様である。しかしながらそのような多様性を通して同一の対象についての認識が成立するのである。このような観点から意識を研究することが機能的問題であるといわれる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,70P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">視覚的ファントムと真のファントム</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>視覚的ファントム</strong></span>：</big>・見られた対象の可視的部分のこと。そのつどの側面のこと。たとえばサイコロの１の側面だけ、１と３と５の側面だけ、など。</p>
</div>
<p>本来的な現出におけるアスペクト(側面)とほぼ同義。</p>
<p>また、これらの側面は常に同じように与えられるのではなく、そのつど異なる仕方で与えられる。たとえば陰影や角度だけではなく、どのように感覚するかも変わってくる(現出にはアスペクトと、感覚的内容という二重性がある点が重要)。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現出相(Apparenz)</strong></span>：</big>・多様な現出の連続の中で与えられた諸々の側面の統一体。視覚的ファントムはこの現出相を通じて、現出する。</p>
</div>
<p>たとえばサイコロの周りをぐるりと回って見ていけば、同じサイコロの多様な側面が我々に連続的に与えられる。１の面、３の面、５の面、と異なる視覚的ファントムが与えられていき、やがてすべての面を含めた統一体としての「THE・サイコロ」が超越的に我々に与えられる。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>最適現出相</strong></span>：</big>・最適に与えられる現出相</p>
</div>
<p>現出相には、そのつど、明暗や遠近などが一定の「周囲状況」の内にある。この周囲状況の中でも、特に最適に与えられる現出相が「<b>最適現出相</b>」と呼ばれる。</p>
<p>たとえばサイコロは暗すぎず、遠すぎないほうがよく見えるだろう。お酒を呑んでいないほうが、よく見える。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>真のファントム</strong></span>：</big>・最適ではない現出相から、最適現出相へと移行が可能という前提のもとで、やがて対象そのもの、完全に規定された「(これ以上最適なものがない)最適現出相」が得られた場合の対象のこと。</p>
</div>
<p>こうした対象は理念的であるが、我々はこの対象そのものを志向するという意味で、目的論的に考えられている。このような理念は「<b>漸近化の理念</b>」と呼ばれる。つまり、少しずつ完全な規定へと、近づいていくという理念だが、しかしその過程は無限だということ。</p>
<p>サイコロをぐるりと回してみて、それも最善の状況で捉えることで、今現在見えていない側面も含めて、サイコロそのものを統一体として捉えるようなイメージ。</p>
<blockquote>
<p>「現象学的には,視覚経験は「視る働き」と「視られた対象」との相関関係から成り立っている.分析は,この「視られた対象」を手引きとして進められる.まず,この「視られた対象」の可視的部分(dasSichtbare)は視覚的ファントムと呼ばれる.この視覚的ファントムはそのつどの「側面」(Seite)を与える.例えばサイコロであれば,そのつど与えられるのは,1の側面であり,3の側面であり・・・・という具合である.しかも,この側面は,それそれ常に同じ仕方で与えられるのではなく,そのつどの「アスペクト」において与えられる.このそのつどの諸々のアスペクトを通じて,私は対象の全側面を頂次眺め通して行く(durchlaufen閲歴する)ことができる.」</p>
<p>谷徹「キネステーゼ意識と相互主観性」,89-90P</p>
<p>「以上のような閲歴による諸々のアスペクトの連続性の中で与えられた諸々の側面の連続体ないし統一体が「現出相」(Apparenz)と呼ばれる.視覚的ファントムは全体として,この現出相を通じて現出するのである.さて,この現出相はそのつど一定の周囲状況(明るさ,暗さ,近さ,遠さ等々)の内にある.この多様な周囲状況の中でも特に最適な周囲状況の中で与えられる現出相が「最適現出相」と呼ばれる.そして,そのつどの(最適でない)現出相から最適現出相への移行可能性という理念を通じて,そのつどの現出相において,それと区別された「真のファントム」という理念が構成される.この真のファントムあるいは一般的には対象そのものはあくまでも理念であるが,それにも拘らす,我々の経験はこの対象そのものを志向するという意味で,目的論的に進行するのである.」</p>
<p>谷徹「キネステーゼ意識と相互主観性」,90P</p>
<p>「知覚とは、フッサールが〈真理確証(Bewahrheitung)〉とも呼ぶ〈志向一充実〉の過程なのである。しかし地平の解明とは、同時に新たな地平の企投でもある。というのも或る地平の脱パースペクテ:イブ化は、他の地平のもとへの再パースペクティブ化によってしか遂行されないからである。問題は、この地平の〈開在性(Offenheit)〉関わる。地平はつねに開かれている。そうであるとすれば、知覚に夢ける〈志向一充実〉の過程とはけっして一回的に完了するものではなく、無限に開かれた過程である。翻って言えぱ、この〈志向一充実〉の無限の過程のなかで、思念された対象の自己所一与性つまり&#8221;adaequatioreietintellectus&#8221;としてのその〈十全的明証性(adaquateEvidenz)〉は、この過程の極限Ilk定位される理念と化する。フッサールが、対象の自己所与性を「カント的意味における理念」(x.250)或いは「漸近化の理念(Appoximationsidee)」(皿.52)と呼称したのは、この意味においてである。しかしラングが指摘したように、この理念は、カントの物自体のような「そのパースペクティブ的現出の背後に隠されたものでは左く、完全に規定されたと考えられたこのパースペクティブ的現出そのもの」なのである。(つまリパースペクティブ的現出は、その連関の無限の全体を考えるかぎりにおいて、思念された対象の自己所与性つまり〈現出者の現出〉の統一を実現する絶対的次元なのである。フッサールは現象の志向性を主題化することによって、個々の現象をでなく、その指示連関の全体を絶対的左現象の次元として開示するのである」</p>
<p>魚住洋一「フッサールにおける現象概念」55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">呈示とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>呈示</strong></span>：</big>・一般的に、「差し出して見せること」を意味する。例えば「田中さんが学生証を呈示した」というような言い方をする。</p>
</div>
<p>フッサールで重要なのは、何が何を呈示するのか、どのような形式で呈示するのかという点である。</p>
<p>直接的な場合は「根源的呈示」と呼ばれ、間接的な場合は「間接的呈示」と呼ばれる。</p>
<p>【予備知識】一般的に、呈示は提示とほとんど同じ意味だが、提示の場合は特に「相手にわからせること」を含意する。</p>
<p>たとえば「証拠を呈示する」とは言わず、「証拠を提示する」という言い方をする(具体的なものではなく、抽象的なデータや根拠に用いることが多い)。呈示の場合は、単に差し出して相手に見せるという言い方をする(パスポートの呈示など、短い間のイメージ、また具体的な物のイメージ)。</p>
<h3><span id="toc23">間接的呈示と根源的呈示の違いとはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">根源的呈示(Präsentation)</span></strong>：</big>・眼前に現前するものの知覚のこと。目に見える直接的な知覚。「<b>現前化</b>」とも表現される場合がある。</p>
</div>
<p>例：サイコロの１の面を見ているときは、1の面のみが現前している。それ以外の面は感覚的内容としては与えられていない。したがって、根源的に呈示されていない。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>間接的呈示(Appräsentation)</strong></span>：</big>・眼前に現存するものの知覚の中に含まれてていて、それとともに現存するものの予測のこと。「<b>付帯現前化</b>」とも表現されることがある。根源的呈示に基づく想像的呈示と説明されることがある。</p>
</div>
<p>例：サイコロの1の面を見ているとき、それに伴って今現在見えていない2から6の面も我々は予測している。煙を見たときに火があると解釈する場合など。</p>
<p>ここで重要なのは、外的知覚は基本的に「間接的呈示」であるという点である。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">想像的呈示(<span dir="ltr" role="presentation">Vergegenw</span><span dir="ltr" role="presentation">ä</span><span dir="ltr" role="presentation">rtigung</span>)</span></strong>：</big>・眼前にないものの想像ないし想起のこと</p>
</div>
<p>全く根源的呈示に基づかないような空想というものがある場合、あるいは現存しているかどうかということが保留されている場合は純粋な想像的呈示になるのだろう。例えばペガサスを想像する場合、ペガサスが実在的存在(例：眼の前のリンゴ)であったり、理念的存在(例：数字の１)とは考えられておらず、あくまでも中立的存在として考えられている。サイコロの場合は、サイコロの裏面があくまでも実在的存在として予測されているのであり、ペガサスのように想像されているわけではない(ペガサスのように自由に規定できるようなものではない)。予測と想像のニュアンスの違いに注意したほうがいいのかもしれない。</p>
<p><b>外的知覚における非本来的な現出は「想像(ファンタジー)」の産物ではない</b>という。なぜなら、想像の中でさえ、対象は一面的(非本来的)にしか現出しないからである。もし非本来的な現出が想像の産出なら、無限遡行に陥ってしまう。それゆえに、想像作用と知覚作用は区別され、また知覚作用の非本来性は外的知覚の本質であるとみなされている。</p>
<blockquote>
<p>「訳者の船橋弘によれば，根源的呈示とは「眼前に現前するものの知覚のこと」（フッサール：船橋訳，前掲書，p.297.）である．これに対し，想像的呈示は「眼前にないものの想像ないし想起のこと」（同上書，同頁）である．前者は「現前化」とも訳出される．また，間接的呈示は本文中において説明する．間接的呈示は「付帯現前化」とも訳出される．以下を参照されたい（木田元ほか編（1994）現象学事典−「現前化／付帯現前化」の項−，弘文堂：東京，p.138．またはフッサール：船橋訳，前掲書，pp.296-320.）．」</p>
<p>石垣健二「身体教育によって育成する間身体性: 道徳性の礎として」,53P</p>
<p>「船橋弘によれば，間接的呈示とは「『根源的呈示』にもとづく『想像的呈示』である．すなわち『間接的呈示』とは，眼前に現存するもの−家の前面−の知覚の中に当然含まれていて，それとともに現存するもの−家の裏面−の予測のことである．この予測は単なる予測ではなく，知覚にもとづき，知覚と融合している」２２．すなわち，私がある家を見るとき，私に与えられるのは，私が立つ「ここ」から見える家の前面でしかない（根源的呈示）．しかし，家を知覚するということは，それをその家の前面としてのみ捉えるということではない．私は私に与えられた家の前面から，付随的に家の裏面をも予測しており（間接的呈示），その結果として，奥行きのあるものとして家を知覚しているのである．フッサールは，これと同様なことが，他者を経験する場合にも起こっていると考えるわけである．フッサールは次のように述べている．</p>
<p>われわれの知覚の領域の中に，ひとりの他の人がはいってくる，と仮定しよう．このことは第一次領域へ還元していえば，わたしの第一次自然の知覚領域の中に，一つの物体が現れることを意味する．・・・（中略）・・・この第一次自然および世界のうちにおいては，わたしの身体が，身体〔機能する器官〕として根源的に構成され，かつ構成されうる唯一の物体であるから，そこにあるその物体が物体であるにもかかわらず，身体として把握されるためには，私の身．．．体の統覚がその物体の中へ．．．．．．．．．．．．移し入れられる．．．．．．．のでなければならない．・・・（中略）・・・次のことは，はじめから明白である．それは，そこにあるその物体と私の身体とを，私の第一次領域の内部において結びつける両者の類似性のみが，そこにあるその物体を類比によって．．．．．．他の身体として把握することに対する動機づけの基礎を提供することができる，ということである。</p>
<p>すなわち，フッサールは，「私はそれらの各身体にそれぞれ一個の自我主観を感情移入する」ことで，他者の主観性へとたどり着くと考えるのである．それは，先述の家の知覚と基本的に同様である．他者は，はじめ自己に与えられたひとつの物体としてしかありえない（根源的呈示）．しかし，その物体は，自己の固有領域における物体つまり自己の身体と類似している．翻ってこの自己の身体は，自己の固有領域においてすでに自分にとって単なる物体ではなく，まさに自己が生きている身体として，さらには自己の主観性を内にもつ身体として構成されている．そうであれば，自己の身体と類似するその物体にも自己の固有領域と同等なものを移入して捉えられる．かくしてその物体にも自己ではない他の主観性がもたれているはずだというわけである（間接的呈示）」</p>
<p>石垣健二「身体教育によって育成する間身体性: 道徳性の礎として」,32P</p>
<p>「日常的現実はあくまで，直接的な関係の中で確認される現実だが，シュッツはそうした直接的関係にない認識の経路として，人間の記号や象徴による認識作用を検討している。その中で，シュッツはフッサールの「間接呈示」（appresentation）という概念に到達している。間接呈示とは，簡単にいえば「それ自体とは別の何ものかを指示している」関係である。煙と火という馴染みの例でいえば，「煙」を見たときに，それがそこには見えていない「火」があると解釈される時，そこには間接呈示がある。これは目に見える直接的な知覚である根源呈示（presenta-tion）と対になった形式である。さて，シュッツはこの間接呈示という関係にはすべて，「超越」という過程が含まれるという。なぜなら，煙から，見えていない火を解釈するとき，あるいは，そこに立体があるとすれば，いま見えている面から，見えていない裏面を予想し，解釈するときには何らかの思考の飛躍，つまり超越がなければならない。私が「ここ」として知覚しているものは，他者にとっては「そこ」であることを，私は超越として知っている。このような間接呈示，もっと一般的な呼び方でいえば象徴過程は，人類がほぼ３～４万年前に獲得したものであり，直接的な根源提示が，それより遙か以前，おそらく哺乳類時代のどこかの時点まで遡るのと対極的に高度な能力である。」</p>
<p>成田康昭「「メディア文化」 にとって 「現実」 とはなにか (&lt; 特集&gt; メディア文化研究の課題と展望)」,86-87P</p>
<p>「外的知覚には必然的に、本来的に知覚されているもの（例えば物の正面）と非本来的に知覚されているもの（例えば物の背面）の区別がつきまとう。正面だけしか持っていない対象など、考えられない。「本来的現出は、分離されうるものではない。それはその本質によって、統握構成分のプラスによる補完を要求する」（S.51)。しかし非本来的現出は、「想像（ファンタジー）」の産物ではない。なぜなら物体的なものは、想像の中でさえ、一面的にしか現出しないからである。想像上の背面がさらに想像によって非本来的現出にもたらされるとするなら、無限遡行は避けがたい（S.55・56）。むしろ一面性ないし非十全性は、外的知覚の本質なのである。「外的知覚は空間的事物の知覚であり、そのようなものとして、一面的でしかありえない」（S.52）。」</p>
<p>中敬夫「一にして不可分の空間 (の) 経験: スピノザ・フッサール・ビラン」,55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">呈示と指示と指標と記号の違いとはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>呈示(ていじ,<span class="" dir="ltr" role="presentation">Darstellung</span>)</strong>：</big>・説明</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>指示(読み)</strong>：</big>・説明</p>
</div>
<blockquote>
<p>「実際には、言語記号はそれ自体では指示される客観ではなく、間接的に客観を指示するにすぎないのに対し、統握される内容はそれ自身で客観を「呈示darstellen」するのである(XI,17)。(指示すること〉と〈呈示すること〉の違いが最もよく現れるのは、どの言語記号がどの客観を指示するかということは主観が任意に決定できるのに対し、どの意識内容がどの客観を呈示するかということは、主観の能動的な統握に先だつ受動的な過程においてすでに決定されているということである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,100P</p>
<p>「指示という現象をフッサールは、「一方の存在の確信が他方の存在の確信ないしは憶測の動機として体験される」と規定したのであった。ここで注意しなければならないのは、二つの存在のあり方である。もしもこの二つの存在が両方とも現前しているとするならぱ、一方の存在の確信が他方の存在の確信の動機づけになるということはなく、二つの存在は指示という関係において結びつけられることはないであろう。なぜなら両者はともに現前するものとして、それぞれその存在を確信することができるし、一方から他方を憶測する必要はないであろう。従って両者がともに現前している場合には指示という現象は生じないのである。指示という現象が成立するためには、一方の存在の現前と他方の存在の不在という事態が存立していなければならないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,102P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">呈示と指示の違いとはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>呈示(ていじ,<span class="" dir="ltr" role="presentation">Darstellung</span>)</strong>：</big>・一般的に、「差し出して見せること」を意味する。例えば「田中さんが学生証を呈示した」というような言い方をする。</p>
</div>
<p>例えば「リンゴ」という文字列は[リンゴ]という意味を<b>指示</b>している。目の前にある物体である＜リンゴ＞は[リンゴ]という意味を<b>呈示</b>している。</p>
<p>１：言語記号の場合、つまり知覚ではなく「表意作用」の場合は間接的に客観を指示する。言語記号の場合は、リンゴという文字列から任意にミカンを指示したり、椎名林檎(アーティスト名)やApple(会社名)を指示することも主観が任意に決定できる。</p>
<p>２：知覚の場合は言語記号の場合と異なり、<b>主観が任意に決定することができない</b>。</p>
<p>例：物体としてのリンゴを見て、我々は感覚的内容を受動的に獲得し、そこから能動的に解釈を行い、リンゴがあるということを知覚する。この場合、どのような客観が呈示されるかは、任意ではなく、受動的な過程においてすでにある程度決定されているという点が重要である。</p>
<p>物的なリンゴを見て、椎名林檎がいる、という「知覚」をすることははたして可能だろうか(妄想や想像なら可能かもしれないが)。文字の理解(表現作用の理解)なら可能かもしれないが、物的なリンゴ、つまり外的知覚の場合は難しいのではないか。</p>
<blockquote>
<p>「実際には、言語記号はそれ自体では指示される客観ではなく、間接的に客観を指示するにすぎないのに対し、統握される内容はそれ自身で客観を「呈示darstellen」するのである(XI,17)。(指示すること〉と〈呈示すること〉の違いが最もよく現れるのは、どの言語記号がどの客観を指示するかということは主観が任意に決定できるのに対し、どの意識内容がどの客観を呈示するかということは、主観の能動的な統握に先だつ受動的な過程においてすでに決定されているということである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,100P</p>
<p>「指示という現象をフッサールは、「一方の存在の確信が他方の存在の確信ないしは憶測の動機として体験される」と規定したのであった。ここで注意しなければならないのは、二つの存在のあり方である。もしもこの二つの存在が両方とも現前しているとするならぱ、一方の存在の確信が他方の存在の確信の動機づけになるということはなく、二つの存在は指示という関係において結びつけられることはないであろう。なぜなら両者はともに現前するものとして、それぞれその存在を確信することができるし、一方から他方を憶測する必要はないであろう。従って両者がともに現前している場合には指示という現象は生じないのである。指示という現象が成立するためには、一方の存在の現前と他方の存在の不在という事態が存立していなければならないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,102P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">何が何を呈示するのか</span></h3>
<p>Q　何が何を呈示するのか</p>
<p>A：「感覚的内容」が「対象(客観)」を呈示する。ただし、間接的に呈示されるのであり、言い換えれば対象は超越的に与えられる。</p>
<p>Q　どうやって感覚的内容が対象を呈示するのか</p>
<p>「統握」によって可能となる。知覚の理解において、この「感覚的内容」と「統握」の関係が重要になってくる。統握については前回の動画を参照。また、「射影」が対象の呈示に特に、媒介する機能として重要な要素となってくる(後述)。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/">【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc27">顕在的と潜在的</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">顕在性</span>(<span id="page13R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Aktualität,けんざいせい</span></span>)</strong>：</big>・意識的、措定的に、いま現にある対象を志向的に把持しているような＜意識＞と対象のありよう</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>潜在性</strong></span>：</big>・志向的に注意を向けられているとは言えないが、しかし全く＜意識＞に入っていないとは言えないようなありようのこと</p>
</div>
<blockquote>
<p>「『顕在的』は、意識的、措定的に、いま現にある対象を志向的に把持しているような＜意識＞と対象のありよう。『潜在的』は、たとえばひとつのリンゴを見ているとき、その背景としての机の表面やそばにあるコップなどは、志向的に注意を向けられているとは言えないが、しかし全く＜意識＞に入っていないとは言えない。この背景的知覚の『地平』は潜在的。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,233P</p>
<p>「どんな知覚もみな、それなりの知覚背景をもっていよう。特別の把握を受けた事物は、知覚的にそれと一緒に現出しているそれなりの事物的周囲をもっており、この事物的周囲は、特別の現存在宅皿を欠いている。しかしこのような事物的周囲もやはり、「現実的に存在している」周囲であって、この周囲が意識される仕方たるや、顕在的に存在定立するような眼差しが一本質可能性という意味において一その周囲に対しても向けられうるというような具合になっている。その周囲は、いってみれば、藩在南法金立の統一なのである。（㎜／1，S．257）」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」134~135P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">呈示的知覚と自己呈示的知覚の区別</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>呈示的知覚</strong></span>：</big>・それ自体ではなく、ほかのものを呈示するという意味での知覚。たとえば外的知覚は「呈示的知覚」に相当する。</p>
</div>
<p>「感覚的内容」が「統握」されて「超越」的な物についての知覚が成立する場合の知覚。それ自体ではなく他のものを呈示するという意味。間接的呈示であり、外的知覚のケース。ただし感覚的内容は体験され、意識されているという点は抑えておく必要がある。ただし、それらは非主題的、潜在的であるために「外的知覚」されることがないという話。「対象」として感覚的内容を知覚するためには反省が必要であり、反省を伴うような知覚を「内的知覚」という。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自己呈示的知覚</strong></span>：</big>・「感覚内容」や「統握」そのものが現れ、主題的に意識されているという意味での知覚。たとえば内的知覚は「自己呈示的知覚」に相当する。また、「現象学的還元」や「現象学的反省」と関わる。</p>
</div>
<p>他のものではなく、それ自体、つまり「感覚的内容」や「統握」そのものが現れるような場合の知覚。根源的呈示であり、内的知覚のケース。</p>
<blockquote>
<p>「この「呈示的感覚」と関連して,「呈示的知覚」と「自己呈示的知覚」の区別についてみておこう。上のように,「感覚内容」が統握されて「超越」的な物についての知覚が成立する場合には,その知覚は,それ自体ではなくほかのものを呈示するという意味で「呈示的知覚」と呼ばれている。だが,「感覚内容」や「統握」そのものが現われ,意識されている場合には,それらは「自己呈示的知覚」において与えられると言われる。その知覚においては,「感覚内容」が「現れている」,すなわち,「自己を呈示している」,と理解されているのである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」7P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">超越の謎問題</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越の謎問題</strong></span>：</big>・「対象が私に実的に与えられたものを超越して構成されるのはどのようにしてか」という問題。</p>
</div>
<p>１：現実に体験しているのは、現出である(たとえば石のスベスベや色などの感覚的内容、特定の側面)</p>
<p>２：現出物それ自身を我々は体験していない(例えば石そのもの)。与えられている感覚(現出)を「越えている」ので体験できない。</p>
<p>３：それにもかかわらず、我々は現出を通して(媒介、突破、貫通して)、現出物それ自身を構成し、また構成されたものを見ている(体験と区別し、「志向的体験」や「経験」という言い方をする)。<b>実際に与えられたもの以上のもの、超越したものである現出物を見ている</b>。</p>
<p>このような「より以上のもの」、「超越したもの」は「<b>過剰思念</b>」と表現されている。どのような過程において、我々はこのように超越的なものを構成しているのか、謎である。</p>
<p>・整理</p>
<p>１：現出物の現出を我々は「経験(志向的体験)」している</p>
<p>２：現出の現出を我々は体験しているが、しかし経験(志向的体験)していない</p>
<p>なかなかややこしい。たとえばサイコロのすべての面、いわば現出物を我々は構成し、またそれを対象化・客観し、それを我々は主題的に意識し、見ている。いわば、現出物の現出とは、現出物の構成であり、あえていうならば超越的現出になる。サイコロの本来見えている面や感覚的内容は、このような超越的現出ではなく、内在的現出であり、主題的に意識されていない。たとえば何気なくサイコロを見るとき、サイコロの特定の面だけ(感覚的内容、アスペクト)を意識したり、サイコロがどのような過程(作用)において現れているかを意識的に見ていない。しかし体験はしている。体験しているからこそ、内在的現出を媒介として、超越的現出が可能となるのである。</p>
<p>1901/1902年の『論理学研究』の時点では、謎のままであった。どうやら我々は過剰思念を主題的に見ていると記述することは可能だが、しかしどのような過程や条件でそれらが構成されているかという分析までは不十分だった。</p>
<p>1907年の「現象学および理性批判の主要部への序論」において「現象学的還元」の構想が述べられ、またそれを前提とした1907年の『物と空間』で徐々に「謎」が解明されていく。『物と空間』では特に現出と現出物、射影、キネステーゼなどが扱われている。今回は「超越の謎」問題の解明のひとつとして、特に射影を扱う。</p>
<p>その後、1922年の『受動的総合の分析』や1928年の『内的時間意識の現象学』でさらに謎の解明が続いていく。</p>
<blockquote>
<p>「上でみたようにフッサールは、『論理学研究」おいて「志向作用」の分析を行ったが、その数年後、「対象が意識から超越していること」こそ最大の「謎」だと述べるに至る。そして、いかにして超越的な対象が意識されるのか、また、いかにして意識にとって対象の超越が存立しているのかを見ることこそ根本問題であり、その解明のために、対象の措定をやめて反省を行う「現象学的還元」という操作が必要であると考える。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」301P</p>
<p>「さてフッサールによれば、反省によって、意識に内在すると認められるのは、「感性的与件」と「意味的統握」であるが、その感性的与件は、超越的知覚においては、超越的なものの「射映Abschattung」としてはたらくのである。では、知覚における「媒体」としての「射映」はどのようにはたらき、超越的なものを呈示するにいたるのであろうか。この解明こそ、「超越の謎」の解明ということになろう。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」301-302P</p>
<p>「知覚は広がりの契機を含むが,知覚を広がっていると表示するのは根本的に転倒している」,「空間は事物性の必然的形式であって体験の形式ではない」と言われている。そして総括的に,「知覚された対象(たとえば知覚された家)は実的には超越的である」8,「超越的に物として措定されているのと等しいものが知覚に内在しているわけではない」と表現されている。すなわち,「感覚内容」は「知覚作用」の内実をなすという意味で「実的(reell)」であり,「内在的」であるが,「対象的特徴」のほうは「知覚作用」に対して「超越的である」(知覚作用を超えている)という点で両者は区別されるのである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,6P</p>
<p>「＜内在―超越＞原理は、現象学において大変重要な概念なので、よく注意したいところだ。これまで見てきたことは、つまり、具体的に経験される事物は、『それの知覚を超越したもの』(第四二節)だということである。『この机がいまここにある』という経験は、意識に直接(＝『原的に』)与えられている『いまここにある知覚』とぴったり重ならない。いわば事物存在(机)は、原的な体験を越えた”構成された経験”だということだった。フッサールは、ここで『原的な体験』にあたるものを『内在』と呼び、”構成された事象経験”を『超越』と呼ぶ。この『超越』という言葉は、神とか絶対理念とかイデアなどの『超越』者(物)の概念とは何の関係もない。ひとつの机やリンゴがあるという具体的な経験の<strong>確信</strong>、これが『超越』呼ばれるだけのことだ。もはや明らかだろうが、フッサールによれば、『超越』(たとえばひとつの机があるという経験)は一種のドクサとして&#8221;構成&#8221;されたものだが、『内在』としての＜知覚＞体験は、原的な体験であり、<strong>いわばそれを疑うことに意味のない</strong>ような、『不可疑性』の根源と見なされるべきものである。」</p>
<p>「現象学入門」90-91P</p>
<p>「</p>
<p style="padding-left: 40px;">『世界ならびにこれに属する経験的主観性を遮断した(=スウィッチを切って、作動を止めた)残余として、私たちには純粋自我が残っているとすれば、これとともに一種独特な(構成されたものではない)超越、<strong>内在における一個の超越</strong>が姿を現わすことになる。この超越が各々のコギタチオ(=「私には～と思われる」における志向のはたらき)において演ずる直接に本質的な役割のために、私たちはたとえ多くの研究において純粋自我の問題の解決が留保されることはありうるにしても、この超越まで遮断することは許されないであろう(『イデーンⅠ』)』</p>
<p>ここで純粋自我の問題が『内在における超越』と言われ、その問題の『解決』が当面の間『留保』されざるをえないであろうという見通しが述べられていることに注目しよう。この時期の彼の用語法から言えば、『内在』とは現象学的還元によって獲得された領野のことで、そこでは本来あらゆる『超越』は括弧に入れられているのでなければならなかった。たとえば、この引用文でも述べられている『世界』の実在性などは典型的な『超越』(すなわち、その根拠が必ずしも明白でないままに、そのそれ事態での存在──即自存在──が暗黙の内に信じられているもの)であり、この『超越』をいったん機能させなくすることが『遮断』すなわち『スウィッチを切ること』であった。『内在』への還元である。ところが『純粋自我』は、その存在をこの意味での『内在』に還元することができないにもかかわらず、『遮断することは許されない』、『一種独特な超越』だというのである。それが、『内在』に還元できないのは、それは決して体験の多様の中に対象として(すなわち『現象するもの』として)姿を現してはいないからである。そうであるにもかかわらず、それを『遮断』できないのは、それが『現象するもの』の多様を統一し・中心化する機能を果たしているものでなかえれば、『内在』の領野において紛れもなく『多様な体験の<strong>ひとつの</strong>流れ』が成立していることの説明がつかないからにほかならない。したがって、現にこのような『ひとつの流れ』が成り立っている以上、それがいかにして構成されたのかが問われなければならないのだが、その構成原理と目された『純粋自我』が現象の内に(すなわち『内在』において)姿を見せていない(すなわち『超越』している)がゆえに、構成分析はこの問題に手をつけることができないまま、それを前提とせざるをえないのである。この『問題の解決が留保』されざるをえない所以である。」</p>
<p>「フッサール起源の哲学」220-221P</p>
<p>「ここで言われている『超越者』という言葉には説明が必要だろう。括弧の中で彼自身説明しているように、それは『私に内在的に与えられていないもの』、この意味で私を『超越』するものを意味する。ここで『私に内在的に与えられていないもの』、この意味で私を『超越』するものを意味する。ここで『私に内在的に与えられたもの』は『実的(reell)』と呼ばれる。したがって、その否定である『非実的(irreal)』とは、『超越』のことにほかならない。自然としての世界や数学的理念の世界、総じて『客観(Objekt)』と呼ばれるもののすべては『超越者』である。こうした『客観』に対して通常暗黙の内になされている『真理妥当』や『存在妥当』を停止することぉ、ここでフッサールは宣言しているわけである。だが、この『超越者』という言葉は、いずれ破棄されねばならない立場をそれこそ暗黙の内に前提してしまっている嫌疑を免れえない。なぜなら、彼はこの『超越者』を、私に『実的に』与えられたものを超えているにもかかわらず、『志向的』には『内在』するものと考えられているからである。」</p>
<p>「フッサール起源の哲学」78P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">Q 特定の面だけを見るように意識を変えれば、現出の現出を見ていることになるのか</span></h3>
<p>我々は自然的態度、つまり普通は「机」を見る場合、机の脚や天板、引き出しなど特定の部分を見ていない。それら全体を超越的に、まさに「机そのもの」としてみている。</p>
<p>次に、意識的に「<b>焦点</b>」を代えて、「脚」だけを見るとする。しかしこの場合も事情は同じであり、脚の「裏側」を同時に見ることはできない。したがって、机の「脚」もまた「超越」的に見るのであり、「過剰思念」として構成されることになる。つまり、このような単純な焦点の切り替えが「現象学的還元」や「現象学的反省」ではない。</p>
<blockquote>
<p>「表意的志向が対応する直観によって完全に充実されるとき、対象はまさしく志向されるとおりに与えられる──しかしこれは非常にまれな場合である──。私はすでに物理的対象は近く的に与えられると述べた。この事実には物理的対象が認識される仕方にとって直接的な含意がある。フッサールが書いているように、物理的対象についての認識は志向されるものと与えられるものとの合致が欠けていることによって性格づけられる。けっして対象はその全き全体性において知覚されず、つねに(明らかに三次元の対象にだけ妥当するのではなく、二次元の平面図にも同様に妥当する)ある特定のパースペクティヴから知覚されるのである。しかし、厳密に言えば、対象の射映が提示されるけれども、こうした射影はわれわれの志向するものではない。反対に、われわれは対象そのものを志向するのである。実際、フッサールは以下のように言っている。『ここでこの本を、上からあるいは下から、中からあるいは外から見ようとも、私はつねに<strong>この本</strong>を見ているのである。本はつねに同一のものであり、しかも、単に物理学的意味だけではなく、知覚自体の思念によっても同一である』。私は椅子を志向するのであり、椅子の前面や背面、座席、脚のパースペクティヴ的に与えられた表面を志向するのではない。もちろん、私は焦点を変えることを選択することができるし、代わりに脚の表面を(椅子全体の代わりに)志向することができるが、これも同様に射影において与えられることになる。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」４８－４９P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">現出-現出物の具体例：サイコロのケース</span></h3>
<p>たとえばサイコロを知覚する際、自然的態度において我々は統握を経て客観化され、対象化された「サイコロ」を主題的に見ている。</p>
<p>眼の前のサイコロの１の面だけしか見えていないにも関わらず、<b>２から６の面も見ている</b>のである。「サイコロを取って」と友人に頼まれたとき、特定の面だけ、見えている面”だけ”が意識的なケースはたしかに不自然に思える。</p>
<p>また、多様な視線や側面であるにも関わらず、我々は「一つの同じもの(同一物)」としてサイコロを見ている。見るたびにサイコロが変わるとは思っていない。</p>
<blockquote>
<p>「物(たとえばサイコロ)が見えるというのは、サイコロの『諸出現』(物の現れている面。サイコロでいえば二や五の面)が遠近法的に『感覚』されるだけでなく、それらを媒介にして『現出者』(面を現している当のもの。サイコロそのもの)がキュービズム的に『知覚』されるということ。私たちは諸現出を突破して現出者を見る。この媒介・突破の働きが『志向性』である。突破される諸現出は非主題的に『体験』(感覚)されるだけだが、現出者は主題的に『経験』(知覚)される。このことが起きる場面が、『志向的体験』である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,258P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">現出-現出物の具体例：机のケース</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/44febdf6531ecb9a399d0683d2c730a4.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3023" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/44febdf6531ecb9a399d0683d2c730a4.png" alt="" width="842" height="595" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/44febdf6531ecb9a399d0683d2c730a4.png 842w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/44febdf6531ecb9a399d0683d2c730a4-800x565.png 800w" sizes="(max-width: 842px) 100vw, 842px" /></a></p>
<p>例２：長方形の机を斜めから見れば「平行四辺形」に見える。正面から見れば「台形」に見える。</p>
<p>この場合、平行四辺形や台形は現出であり、長方形が「現出物」であるといえる。「平行四辺形」として感覚や体験はしていても、知覚や経験されるのは「長方形」であるという点がポイント。</p>
<p>サイコロと同様に、異なるパースペクティブ(観点、焦点)、つまり平行四辺形に見えたり台形に見えたりするにもかかわらず、「一つの物(同一物)」、つまり長方形(机)が知覚されている。しかしこの一つの物は実的には与えられておらず、超越的に構成され、与えられているという点がポイント。</p>
<h3><span id="toc33">現出-現出物の具体例：正方形のケース</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/1c1df0023f789029e711ca0b424bb423.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3024" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/1c1df0023f789029e711ca0b424bb423.png" alt="" width="842" height="595" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/1c1df0023f789029e711ca0b424bb423.png 842w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/1c1df0023f789029e711ca0b424bb423-800x565.png 800w" sizes="(max-width: 842px) 100vw, 842px" /></a>例３：正方形も同様である</p>
<p>フッサールはこのようなことを述べている。</p>
<p>「私は、等しくない角を感覚しているが、しかし、等しい角だと判断している。正方形は、たとえそれが等しい角をもっているはずだとしても、(それぞれの状況のもとで)等しくない角をもって『現出する』。平行四辺形は、正方形の現出であり、私に正方形を提示している。」</p>
<blockquote>
<p>「さらにフッサールは、『[諸現出の]直観は、記号として、[現出者の]直観を現している』とも言う。この『記号』という言葉に注目していただきたい。典型的な記号である言語記号は、それが指し示す当のものとは似ておらず(たとえば『丸い』という言語記号そのものは丸くない)、両者のあいだには大きな差異がある。これに対して、諸現出は現出者と似ている。いや似ているなどというより、諸現出なしに現出者そのものが成り立たないのだから、諸現出と現出者は一体だと言ってもよいほどである。しかし、だからといって、諸現出の関係性は『同等性』とだというわけではなく、(『等しくない角』と『等しい角』のように)微妙な差異性も含んでいる。現出がこうした特殊な意味での『記号』であることを示すために、フッサールは、括弧付きの表現で(『記号』)と言ったりする。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」59P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">現出-現出物の具体例：家のケース</span></h3>
<p>「たとえば一軒の家の諸知覚はその実的内容[知覚作用そのものに属している内容]の点ではきわめて異なっているが,同一の家の諸知覚である。・・・・・・或る場合にはその家は正面から見られ,別の場合には裏面から,そして,或る場合には内側からそしてまた別の場合には外側から見られる」(『物と空間』)</p>
<p>たしかに家の外側から見るのと、家の内側から見るのとでは、現出が異なっている。しかし、我々は「同じ家」を見ている。この同じ家は実的に与えられているのではなく、超越的に与えられている。いったいどういう仕組みで、この超越が可能となっているのか。異なるものが、どのように総合ないし統合されているのか。その条件とはなにか。</p>
<blockquote>
<p>「彼の典型例とは,たとえば同じ家や同じテープルといった「一つの同じ物」を「知覚する」ということである。その場合にはそれぞれの瞬間ごとに「知覚作用」は異なる(変化する)が,その知覚諸作用をとおして「一つの同じ物」(「同一物」)が知覚されている。</p>
<p>「たとえば一軒の家の諸知覚はその実的内容[知覚作用そのものに属している内容]の点ではきわめて異なっているが,同一の家の諸知覚である。・・・・・・或る場合にはその家は正面から見られ,別の場合には裏面から,そして,或る場合には内側からそしてまた別の場合には外側から見られる」(『物と空間』)</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,4P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc35">現出-現出物の具体例：他のケース</span></h3>
<p>例５：図形だけではなく、ほとんどあらゆるものが現出と現出物の関係にある</p>
<p>友人の後ろ姿を見ても、正面の顔を見ても、横顔を見ても、「友人」という現出物を我々は知覚している。確かに正面を見ているときに、もしかしたら後頭部は存在しないかもしれないが、存在すると確信し、全体として友人を見ている。サイコロの１面を見ても、ペンも消しゴムもマウスも同じ。</p>
<p>フッサールは以下のようにも述べている。特に物理学的意味だけではない、という点が重要。</p>
<p>「ここでこの本を、上からあるいは下から、中からあるいは外から見ようとも、私はつねに<b>この本</b>を見ているのである。本はつねに同一のものであり、しかも、単に物理学的意味だけではなく、知覚自体の思念によっても同一である。」</p>
<h3><span id="toc36">二次元の場合は裏や他の側面がないのではないか</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/cfe4cf7af6638dc27d41307de57978b3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3025" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/cfe4cf7af6638dc27d41307de57978b3.jpg" alt="" width="244" height="207" /></a></p>
<p>二次元の平面図の場合においても、同様である。たとえば光の当たり具合によって陰影が変わったりする。あるいはその時々の関心のあり方や集中度の度合い、文化の移ろいによって見え方は変化する可能性がある。</p>
<p>あるいは見る位置によっても変わってくる。見下ろすか、見上げるか、あるいは他の物との組み合わせによっても色は変化してみえるかもしれない。</p>
<p>そもそも二次元といえども、物理的な光の点や紙を通して我々に現れているのであり、物理的である限り裏や側面が厳密には生じる。また、たとえば<b>非物理的</b>な、「想像(空想)」の場合でも裏面は生じる。例えば今目の前にないリンゴを2回想像する場合、2回とも全く同じリンゴの現出か。艶や色、大きさ、それらは同一か。「<b>同一</b>」のものとして超越的に構成、対象化され、想像されていたとしても、しかし現出は「<b>多様</b>」であるはず。また、想像の場合でも、知覚と同様に、現出は本来的なものと非本来的なものに分かれるはずである。たとえば表と裏を両方同時に現出させるようにリンゴを想像することは難しい。</p>
<p>そもそも現出とは特定の面(アスペクト)だけを意味しているのではなく、感覚的内容も意味している。どのような感覚的内容として受け取るかは、毎回固定ではない。大きく見えたり、小さく見えたり、明るく見えたり、暗く見えたりする。</p>
<h3><span id="toc37">Q 外的知覚は「理念」にとどまり続け、また不十全的にしか与えられない。では「内的知覚」なら十全的に与えられるのか。</span></h3>
<p>この「内的知覚」が十全的に与えられるのかという問題は「生き生きとした現在の反省問題」とつながっている。時間の話と関連するので今回は深掘りできない。</p>
<p>要するに、内的知覚においても結局は「把持」を通して与えられるので「不十全的」な知覚だという話。把持というのは、現在のうちのひとつですが「まさに今(原印象)」ではなく、その「まさに今」が過ぎ去っていて、それを保持しているという意味合い。つかもうとした瞬間には過ぎ去っている。フッサールはこのようなことに気づき、「不十全的」ではあるが、しかし「<b>必当然的</b>」な知覚は可能であると考えるようになった。</p>
<p>「<b>必当然的明証性</b>」とは、本質に関する明証のこと。</p>
<p>目の前にあるペンや友人がもっているペンにも共通しているような明らかな本質のこと。たとえば「色は広がりをもつ」という本質はいつでもどこでも明証的に認識できるという。専門用語的に言えば「アポステリオリ」ではなく「アプリオリ」なものに関する明証性。時間や場所に関係なく妥当するような本質、類型。「誰」が「どこで」というような要素に左右されないような本質。人それぞれ、というような「多様」ではなく、「同一」的なもの。１＋１＝２は、常に２である。</p>
<p>こうした類型として、知覚は把握することができるのではないか、という話。たとえばうちの犬にも、近所の犬にも共通しているような本質、たとえば「吠える」といった「本質」を認識できるのではないのか、という話。</p>
<p>ただし晩年でフッサールは、こうした「本質」すら「原事実」に基づいているという考えをもつようになっていったそうだ。この問題は今回は深く扱えない。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>原事実</strong></span>：</big>・経験そのものの成立を支えるような、それなしには経験そのものが不可能になるような始原的な事実。直接経験、あらゆる現象はこの「現事実」が支えている。具体的には「私が存在するということ、流れつつ立ち止まる現在が生じるということ、他者が存在するということ」が挙げられている。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「十全的明証性は不可能である。これはフッサールを悩ませた。そこで、フッサールは、もうひとつの別の明証性によって学問的認識を確立しようとした。それは、『必当然的明証性』と呼ばれるものである。これは、アプリオリなものがもつ明証性である。たとえば、『色は広がりをもつ』は、いつでもどこでも明証的に認識される。色が広がりをもたないという事態はありえない(ちなみに、アフォーダンス理論が取り上げる『面色』のような、奥行きのない色は可能だとしても、広がりのない色はありえない)。この場合には色というものの『本質』が問題になっているわけだが、アプリオリな『本質』については、それ以外がありえないということの『必当然的明証性』が成り立つ。そして、フッサールは現象学がアプリオリなものを扱う『本質学』(厳密には超越論的本質学)であることを強調して、この必当然的明証性を見出すことに比重をかけた。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」110-111P</p>
<p>「ところが、最晩年のフッサールは、アプリオリな『本質』さえも、ある最も始原(起源/根源)的な『事実』に依拠するということを認めるようになる。この事実は『現事実』と呼ばれる。『原事実』も一種の『事実』ではある。それは、『原事実』が、通常の『事実』と同様、必然性をもたないからである。しかし、『原事実』は、次の点で、通常の『事実』とは大きく異なる。通常の『事実』は、それが成立していても成立していなくても、経験そのものがなくなってしまうわけではない。たとえば、パンダの白黒模様があのようになっているというのは『事実』ではあるが、たとえあの白黒模様が反転しているという『事実』があったとしても、その『事実』によって経験そのものが成り立たなくなってしまうわけではない。通常の『事実』はすべて、経験の枠内で生じるのであって、経験そのものの成立を脅かすわけではない。これに対して、経験そのものの成立を支えるような、そしてこれらなしには経験そのものの成立を支えるような、そして、これらなしには経験そのものが不可能になるような、特別な(始原的な)『事実』がいくつかあり、これらが『原事実』と呼ばれているのである。&#8230;&#8230;フッサールは、私が存在する(あるいは、経験の中心化が生じている)ということ、流れつつ立ち止まる現在が生じている(あるいは世界がある安定性をもって開かれている)ということ、そして、他者が存在するということを、『原事実』と呼んでいる。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」111-113P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc38">射映</span></h2>
<h3><span id="toc39">射映とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>射映(Abschattung)</strong>：</big>・私にとって現れてくる物の側面のこと。刻々と変わりゆく「見え」ないし「現出」のこと。「射映」とも訳されることがある。以前の現出という用語が射映と言い換えられるようになった。</p>
</div>
<p>物はつねに一面的にしか現出しないことが外的知覚の本質である。また、このような「<b>一面的</b>」という言葉は射影的と同義的に用いられている。</p>
<p>例：遠近、光沢、濃淡、細部の肌理のように、次々と変わっていくような現れのこと。たとえばサイコロを見ているときの１の面は射影であるが、ただし１の面を見続けている過程でも、射影は変化していく。影の形が変わったり、自分の姿勢や視線が変化したり、瞬きをして別の射影(現出)が生じていく。</p>
<blockquote>
<p>「五の目の面や、二の目の面などは、これまで『現出』と呼ばれていたが、『イデーンⅠ』では『射影』とも呼ばれる。こうした現出/射影は(直接経験における)『ノエマ的意味』を含んでいる。」</p>
<p>「これが現象学だ」、133P</p>
<p>「＜意識＞はある事物の総体を一挙にすべて表象することができない。事物は、特定の時点では、＜意識＞に必ずその一面だけが呈示される。<strong>一般的には</strong>＜意識＞が事物を受け取るときのこのような本性を射映と言うが、ここにも面倒な誤解がつきまとっている。たとえばこれを、ABCの面をもつ三角形を回転させて、＜私＞がつぎつぎに、A面B面C面を見ていく場合、＜私＞がABCの面の全てを一挙に見られないということ、と受け取りたくなる。ところが、これはむしろカントの図式なのである。現象学では、ABCの面をもつ三角形の物体がまず存在する、とは前提しない(それは&lt;主観―客観&gt;図式だから)。＜意識＞はそれぞれの時点では、『原的な所与』として事物の総体を与えられてはいない。現に与えられているものは、(その運動停止にかかわりなく)必ずある限定されたものなのに、それにもかかわらずわれわれは、現に与えられている所与以上のもの、所与を越えたものを<strong>経験</strong>している。そういう関係がわれわれの＜意識＞に直接与えられている所与と、具体的な事物経験との間に成立している。フッサールはただそのように言っているだけだ。」</p>
<p>「現象学入門」225-226P</p>
<p>「意識に現れている＜知覚＞相は、厳密にはけっして<strong>同一</strong>のものではなく、つねに変化し流れてゆくものだからだ。しかしそれでもひとは、『自分はひとつの(同一の)机を見ている』という確信を与えられている。ふっさーるによればこれは、『知覚と知覚事物(それ自体)とは』、『<strong>一つになって結合されている、ということはない</strong>』ということを意味する(四一節)。この自体の要点を整理しよう。１　＜知覚＞は知覚事物(机)をけっして<strong>一挙</strong>に全体として与えることはない。&lt;知覚&gt;はつねに知覚事物のある一面を、つぎつぎに異なった相で与えるだけだ(これは『射映』と呼ばれる)。２　意識には、事物の知覚は必ず『射映』というかたちでのみ与えられるが、それにもかかわらず意識はこれを、<strong>同一の</strong>事物(机)の知覚として受け取っている。論理上わたしたちは、＜知覚＞は微妙な違いをもった射映の連続として与えられるのに、なぜ同一の机を見ているという確信が生じるのか、と問うことができるわけだ。フッサールがこれを説明するために使うモデルは、&lt;コギタチオ―コギターツム&gt;という図式絵ある。これは大雑把にいうと、＜意識作用―意識対象＞と言い換えられるが、もっとわかりやすく言えば、＜机を見るという意識のはたらき―ひとつの机を見ているという事象の経験それ自体＞という具合に表すことができる。」</p>
<p>「現象学入門」89P</p>
<p>「しかし、これは大事な『しかし』だが、私がまた示したように、フッサールは知覚される対象の<strong>超越</strong>をつねに強調しているのである。対象が私の知覚作用の一部分ではないということは、対象のパースペクティブ的で地平的な所与から明白である。私がリンゴの木を見るとき、現出するものと現出自体とを区別することが必要である。なぜなら、リンゴの木はけっしてその全体性においてではなく、ある一定の限界づけられたパースペクティブから与えられるからである。それは、けっして直観的に与えられるその前面、背面、下面を含むリンゴの木全体ではなく、最も完璧な直観においてですらそうではなく、単一の射影にすぎない。それにもかかわらず、われわれが志向し経験するのは、直観的に与えられた射影ではなく、(普通)現出する対象なのである。中心的問いはこうである。いかにしてこれは可能なのか、と。」</p>
<p>「フッサールの現象学」,144-145P</p>
<p>「さて,以上のように両者は区別されるが,他方,それぞれの色や広がりの「感覚内容」と「対象の特徴」とは対応し合ってもいる。そうした対応を可能にしている積極的な事柄は何であろうか。この点で注目すべきなのは「射映Abschattung」という事態である。「射映」は,或る対象について見出される変わらない特徴のことではない。それは,遠近,光沢,濃淡,細部の肌理といった点で,刻々と変わりゆく「見え」ないし「現出」(Erscheinung,appearence)であり,その意味で,知覚「作用」という動的なはたらきに対応して,知覚の「実的な」契機をなすとともに,対象の色や延長の「射映」として,現に見えている対象の特徴や側面に対応するのである。だが「射映」自体は持続的な対象やその特徴ではないため,それが対象として知覚されるわけではない。そこで,やや逆説めいた言い方ではあるが,フッサールは上のように「赤の感覚は赤くはない」と言っていたのである。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,6P</p>
<p>「「射映」は物の側面であると言われることもあるが、それは、あくまでも私にとって現れてくる側面のことであり、そうした「射映」は、単なる感覚ではなく、陰影を伴うとともに、空間的かつ時間的な広がりをもつ感覚的な現れである。射映の「空間的広がり」は「知覚野」において与えられるが、その「知覚野」とはキネステーゼなどに対応し、それと相関的に成立するものである。他方、射映の「時間的広がり」を構成するのは「内的時間意識」である。音の感覚といった「源的な所与」が「過去把持」されることにより「現在的なもの」として対象が与えられるが、その「現在」は時間的な幅をもっている。そして、そうして意識された(例えばメロデイーのような)時間的対象は再び「想起」といった形で「再現前化」されうるようになる。こうして、知覚野において広がりつつ、しかも時間意識における広がりをももつ多様な所与が総合されて、「一つの物」の「多様な現れ」という形で「物」の「統握」がなされるのである。『内的時間意識の現象学』、『物と空間』や知覚に関する講義にみられるこうした分析は、まさしく「物の超越」の解明であり、「知覚的現出」の現象学的分析の最重要な成果であったと言えよう。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,302P</p>
<p>「私は、物の知覚という事例を手掛りとしたい。ところでこの問題に対するフッサールの出発点は、周知のように、物はつねに一面的=射映的(abschattungsmaβig)にしか現出しないという認識である。或る立方体を見ていると仮定しよう。私が見ているものはこの前面でしかない。しかし、「〈見られる〉物はそれに関してわれわれが〈真に〉見ているもの以上である」(VL51)。というのも、私はこの前面を立方体の前面として見ているからである。つまりこの前面を見るとき、私はけっして見ることのできないこの立方体そのものを見ているのである。見えないものを見るという知覚の〈越権行為(Pratention)〉がここにある(沮.3)。ここには与えられたものを越えた〈過剰(Mehr)〉、つまリワルデンフェルスの言う思念と所与の差異性が見出される。それゆえフッサールは「事物講義』のなかで、「個々の知覚は物を或る側面からしか現出させないが、それが思念しているものは、この物であってその側面ではない。&#8230;&#8230;把握の働き(Auffassung)は呈示の働き(Darstellung)より遠くに及ぶのである」と述べたのである(XVI.143)。つまり、知覚に含まれるこの思念は、狭義の〈知覚(Perzeption)〉を乗り越えてけっして知覚されえない対象そのものへ向かう&#8221;ad-perceptio&#8221;なのであり、それゆえ、フッサールはそれを〈統覚(Apperzeption)〉と呼称したのである(vg1.皿.336)。また、フッサールが対象を〈対象的意味〉と呼称するのも、それが所与に汲み尽くされないこの思念の過剰にほかならないからである。対象とは、〈意味〉に媒介されたひとつの被媒介態なのである。意識の〈対象志向性〉を定義するのはこのような事態である。」</p>
<p>魚住洋一「フッサールにおける現象概念」,52-53P</p>
<p>「いま目の前の机を見ているものとしよう。この場合見られた机は常に同一の事物であると意識され、そこではあるものが机として意味的に捉えられているのである。しかし机の知覚の方は意識の不断の流れのうちにあり、同一ということはありえない。つまり机は統一的なものとして現出するが、机の現出それ自身は、体験として連続的に変化する。同一の机は机の射映（＞σωo巨言掃）の連続的な多様において現出するのである。ここで知覚と知覚された机との間には志向的な相関関係が成立している。知覚された机は知覚に対して超越的であるが、しかしそれが机として意識されているが故に、志向的対象と呼ばれる。ここで意識の対象面がノエマ、意識の作用面がノエシスといわれる。知覚そのものは体験として意識に内在するので、「志向的」に対立する「実的」契機と呼ばれる。体験の実的契機は、ヒュレーとノェシスという二層をもつ。ヒュレーは感覚与件とも呼ばれるが、それはいわば素材としてそれ自身としてはなんら対象関係を持たない。ヒュレーは例えば知覚において統握一＞昌葛ω冒σ・一によって生化され（げg邑彗）、対象の現出が形成されるのである。いわばノエシスは素材としてのヒュレーに形式を与えて志向的体験を形成し、そこに対象関係が成立するのである」</p>
<p>鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」,94P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">（１）「射影」とは感覚的内容の「与えられ方」のことである</span></h3>
<p>体験のされ方、と言い換えてもいいのかもしれない。感覚的内容は固定的ななにかではなく、つねに流動し、陰影をもっていくような何かであり、このような陰影において与えられていく。何か単一の固定している実体ではない。</p>
<p>すこし例は違うかもしれないが、たとえば重力というのものは一種の説明原理であり、機能であり、「重力そのもの」はどこを探しても見当たらない。どうやら、サッカーボールを上に飛ばすと、下に落ちる。それとおなじように、どうやら物を知覚する際に、感覚的内容は射影的に与えられる。つまり、単一の側面だけではなく、複数の側面が超越的に統合され、与えられている。</p>
<blockquote>
<p>「現出としての射映についてみてきたが、さらに、次章以下でみるように、物や物の側面は、刻々と変わる身体（眼や手）の向きや動きを表すキネステーゼ（運動感覚）とともに、超越的な物として与えられる。また、こうした与えられ方は、より大きな空間的広がりに結びついている。このことは「射映」が「知覚領野」（視覚野や触覚野）における感覚の与えられ方であるということによって、可能になっていると考えられる。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,12P</p>
<p>「さて、「射映」という概念は、前に見たように、『論理学研究』や『イデーン第一巻』において見られ、次章以降でみるように講義『物と空間』、『認識の現象学への導入』にも見られるが、さらにのちの講義『現象学的心理学』（1925年夏学期）においても頻繁に使われている基本概念である。以下は、そこに見られる「射映」の叙述である。ここから、「射映」が感覚内容の与えられ方であること、そして、「媒体」という語は使われてはいないものの、強調点（小論筆者による）を付した部分が示しているように、「射映」が、われわれに対象を呈示するという点で「媒体的性格」をもっているということがわかる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「空間的客体的なものが知覚に即して現出する場合には、それは、感覚の所与を通してのみ、すなわち、感覚の所与が射映という主観的機能的な性格をもつことによってのみ、現出しうるのである」（PhPs.,S165）。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「一般にヒュレー（質料）的所与と呼ばれるのは、純粋に主観的に与えられる中核的内実としてそれらを越えて外へ導く意識様態であり&#8230;。ヒュレー的所与は、色の所与、音の所与、匂いの所与、痛みの所与などである&#8230;」」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,12P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc41">感覚的内容は「広がり」をもって与えられている</span></h4>
<p>捉えようとしたらすぐに手をすり抜けているような、その連続によって与えられていくイメージ。ただしすべてすり抜けていくわけではなく、「保持」されていくという。それゆえに感覚的内容は「広がり」をもつのである。例えばドレミというメロディーが、それぞれの音ごとに保持されなければ、ドレミというメロディーを我々は捉えることが出来ない。同じように、サイコロの１の面、２の面、３の面と見ていく場合も、それぞれの面が保持され、空間的、時間的な広がりをもっていることになる。</p>
<p>ただし時間的な広がりは「内的時間意識」、空間的広がりは「キネステーゼ」でそれぞれ扱う。</p>
<p>感覚的内容を点として、単体としてみれば、幅をもっていない。しかし、<b>痕跡の連続として</b>、いわば連結として見ていくならば、幅をもっているのであり、陰影を帯びているのであり、したがって<b>複数の感覚的内容が「射影」として与えられているという理解につながっていく</b>。</p>
<p>射影として単体で与えられて終わるだけでは体験で終わる。そこで、まとめあげるような統一の作用があることで、そうしたグラデーションをもった全体として、まとまりをもたせ、対象化(~を～として見る)を促す。複数の陰影を帯びて連続していく射影をまとめあげていく作用が、「<b>統握</b>」なのである。たしかに「感覚的内容だったもの」や「そもそも感覚すらしていないもの(<b>不在の射影</b>)」をも含んでまとめあげるという点で、超越的であり、だからこそそうした統握過程を経た経験が「超越的知覚(外的知覚)」と呼ばれるのである。</p>
<blockquote>
<p>「さて、『物と空間』（§19）によれば、「特別な総合的出来事」が、対象や対象的諸規定の同一性や差異の基盤に存する、とされている。その「総合的出来事」は、物の現出との関連では、「現出の時間的、空間的広がり」に対応している。それについては、総括的につぎのように述べられている。私はここで、現出の広がりという特徴をもつ現象学的現出形態を念頭においている。物の対象性の本質に属する空間的および時間的広がりはそれらにおいて構成されるのであり、すべての空間的時間的述語の源泉はそこに存するのである。この広がりは、対象としての物がもつ客観的延長ではなく、「射映」における「広がり」なのである。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,12-13P</p>
<p>「まず、「感覚的所与」といえども、それが時間的広がりをもつ限り、異なる位相において与えられるわけであるが、その異なる位相とはどのようなことか。フッサールは、位相の変化と連続的な現れの変化について、メロディーの例を使って次のように述べている。</p>
<p style="padding-left: 40px;">われわれは今、&#8230;たとえば歌われたメロディーの音を捉える。&#8230;メロディーのあの際だった位相［今の位相］は過ぎ去る。&#8230;以前の今は以前に知覚された音と共に過ぎ去っている。それを知覚にもたらした現出は、その音がもはやないのと同様に、もはやない。しかし現在の顕在的今において、以前の現出は単に過ぎ去って跡形もないのではない。むしろ痕跡はまだ残っている。そしてすぐさま解るように、選び出された以前の音の現出の痕跡ではなくて、その諸現出に関して経過した音の列全体の痕跡があるのだ」（Eph.,S179）。</p>
<p>このように、位相の変遷と共に音は過ぎ去るが、その痕跡は残り、音の系列全体が知覚されるということになる。「列全体の痕跡」の有り様はさらに次のように記述されている。</p>
<p style="padding-left: 40px;">第二の音の知覚においては第一の音が、第三の音の知覚において第二の音がまだ、そして、さらに遡って第一の音がまだ生き生きとしているということにわれわれは気づく。［ただし］まだ生き生きとしてはいるが、現実のものとして生き生きとしているわけではない。知覚的諸現出は顕在的に現にあるわけではない。もしそうであれば、われわれは現実の知覚的諸現出の共在をもち、そこには必然的に、複数の音の同時的共在が現出することであろう。しかし複数の音は現実には現存しない、現実に知覚されたものとしては現存しない―ただ今の音にのみそのことが妥当する―、むしろ、それらは単なる過去把持の形態において、濃淡の区別のある仕方で(inabgestufterWeise)現出するのである。</p>
<p>以上のように、痕跡の意識のされ方は「過去把持」と呼ばれており、その痕跡は「濃淡の区別のある仕方」で現出すると形容されているが、これに応じて、こうした有り方はまた、「射映Abschattung」とも表現されている。この用語は、『認識の現象学への導入』では「過去把持」と同義のものとして頻出する。それゆえ、われわれは「現出」としての「射映」が上のような仕方で「時間的広がり」をもつと解することができる＊1。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,16P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc42">不在の射映、地平的志向性とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">不在の射映</span></strong>：</big>・対象の地平についての意識。知覚はこの不在の射影が伴っているのであり、またこのおかげで、知覚は成立している。「<b>地平志向性</b>」とも表現されている。前の用語で言えば、「非本来的な現出」。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「フッサールによれば、直観的に現前的であるのは実際には単一の射影だけであるけれども、リンゴの木自体を知覚するのは、彼が<strong>地平的志向性</strong>と名付けるものの寄与のおかげである。フッサールは対象の現前の射影の直観的意識にはつねに不在の射影という対象の<strong>地平</strong>についての意識が随伴すると主張している。直観的に与えられたものに直接向けられているだけならば、対象そのものについての知覚的意識は可能ではない。」</p>
<p>「フッサールの現象学」145P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">地平とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>地平(Horizont)</strong>：</big>・時間的にも、空間的にも、理念の上でも、どこまでいってもその先があるという仕方で、現に私に体験されている事態のこと。「先行的に枠取りされた潜在性」とも説明されている。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/5bb2e4bb77157382b144e209dd4a28c7.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3028" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/5bb2e4bb77157382b144e209dd4a28c7.jpg" alt="" width="240" height="210" /></a></p>
<p>斉藤慶典さんの説明では、図に対する地が地平である。図として浮かび上がるためには、地に支えられて現象する必要があるという。そして地は直接的には現象しているわけではないが(潜在的、間接的に現象している)、<b>それにともなわれることなしには何ものも現象しない</b>という。</p>
<p>このように地平を考えていくと、サイコロの見えていない面だけではなく、サイコロの背景にある壁や机、庭、近所の人々、というようにより広範囲の地平として広がっていく。これをどこまでも広げていくと、「<b>世界</b>(世界地平)」となる。</p>
<p>フッサール「(対象の)どんな規定も最終的なものではなく、実際に経験されるものは同一のものについての可能的経験の地平を無限に持っている。……この無規定な地平は可能性の空間として、さらなる規定の歩みをあらかじめ指示しつつ、前もってともに機能しており、実際の経験の中ではじめてその内の特定の可能性を押しのけて選び取られるのである。」</p>
<p>１：直観的に現前的であるのは、単一の射影だけ。たとえば今現在、まさに現前的であるのは、サイコロの１の面だけ。しかしこれだけでは、サイコロの１の面だけ、ある側面だけを知覚している、という知覚すら生じない。</p>
<p>２：単一の射影<b>だけ</b>では、対象として構成することが出来ず、したがって外的知覚が成立しない。</p>
<p>３：外的知覚が成立するためには、単一の射影だけではなく、「もうすでにない射影」や、「これから生じるであろう射影」など、今は不在の射影についての意識が一緒に生じている必要がある。言い換えれば、非本来的な現出と、本来的な現出がセットになって、はじめて知覚が生じる。さらに別の言い方をすれば、直観的に与えられた射影を「<b>超越</b>」する必要がある。本来的な射影は非本来的な射影の「<b>おかげで</b>」対象を提示できるのであり、地平に埋め込まれている「<b>おかげで</b>」構成されるのである。</p>
<blockquote>
<p>「地平』とは、時間的にも空間的にも、そして理念の上でも、どこまでいっても『その先』があるという仕方で、現に私に<strong>体験されている</strong>事態のことである。直接にノエマとして現象するどんな『もの』も『こと』も、それだけで単独に現象しているのではなく、いわばそれらが『図』として浮かび上がるための『地』に支えられて現象する。この『地』は、直接に現象しているわけではないが、それにともなわれることなしには何ものも現象しない以上、すでに現象するものの領分に属しており、潜在的に『見えるもの』である。この証拠に、『地』として背景に沈んでいたものは、いつでも『図』として現象することができる。この机の背後の壁や窓、机自身の表面や引き出しの中味、などなど。しかもこの『地(じ)』は、どんな現象の現場にも居合わせていて、その中から何が『図』として浮かび上がるかをあらかじめ規定することはできない。つまり，それは無限の開放系なのである。」</p>
<p>「フッサール起源の哲学」235P</p>
<p>「というのもフッサールは、「地平とは、先行的に枠取りされた潜在性(vorgezeichnete Potentialittiten)である」と述べていたからである(1.82)。付帯的現前化は、可能な現前化の先行的企投として、現前化の地平を定義するものである。ところでこの〈地平〉とは、&#8221;Re-tention&#8221;および&#8221;Pro-tention&#8221;として志向性以外の何物でも左い。それは〈地平志向性〉なのである。さて、〈志向性〉概念に集約される現出者と現出との差異、思念と所与の差異は、二つの事態を含んでいることが明らかになった。つまりそれらは統覚による知覚の乗り越えとしての〈対象志向性〉であり、付帯的現前化による現前化の乗り越えとしての〈地平志向性〉である。そうであるとすれば、私の問いは志向性の可能性の制約に関わる以上、この両者の構造連関こそが問われねばならい」</p>
<p>魚住洋一「フッサールにおける現象概念」,54P</p>
<p>「決定的なことは、フッサールの論証を過小評価しないことである。彼は単に対象のあらゆる知覚は直観的に現前的であるものより以上のものを必然的に含んでいなければならないと論じているだけではない。何かを木<strong>として</strong>見るために、直観的に与えられた射影を超越し木の不在の射影を非主題的に共に志向しなければならないことになる(そういうわけで、あらゆる知覚はフッサールのことばでは『<strong>超出理解</strong>』を伴うのである)。換言すれば、リンゴの木は、現前(直観的に与えられた射影)と不在(直観的に与えられていない射影の多様)の間のこの遊動において直観的に与えられた超越的対象としてのみ現出することができる。最終的に、フッサールはまた、直観的に与えられる射影は対象の不在の射影に地平的に関係するおかげで対象を呈示しているにすぎず、現前的射影が現前的射影として構成されるのはただ地平に埋め込まれているおかげである、と主張しているのである。」</p>
<p>「フッサールの現象学」146P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">（２）：射影とは感覚的内容の「機能」である</span></h3>
<p>（１）感覚的内容は「広がり」をもっている</p>
<p>（２）感覚的内容は「射影」という<b>機能</b>によって、「広がり」をもつ</p>
<p>フッサールは「<b>感覚的内容とは不断に変化する射影のことである</b>」とも言っている点も抑えておく必要がある。変化するからこそ、広がりをもつのである。変化した後でも、変化前の感覚的内容が「保持」されているからこそ、感覚的内容は広がりをもっている。</p>
<p>１：感覚的内容が与えられる。体験される。</p>
<p>２：感覚的内容は射影として与えられる。単一の射影ではなく、不在の射影を含めた幅をもって経験される。もし感覚的内容がなければ、つまり<b>射映として機能していなければ</b>不在の射影も単体では対象を構成できないので、<b>外的知覚は成立しない</b>。また、感覚的内容はやがて不在の射影として変様し、過去にあった感覚的内容としての射影や、未来においてあるだろうという感覚的内容へとつながっていく。たとえばダダダダーンと一度聴けば、ダダダの時点でダーンが不在の射影として共に幅をもって現れていく。</p>
<p>３：複数の射影が統握されることによって、外的知覚(超越的知覚)が成り立つ。たとえば「ペンを見る」、「メロディーを聴く」といった知覚が成り立つ。</p>
<p>４：昨日食べたリンゴを思い出す場合は、知覚という志向性に基づけられた「想起」であり、一度リンゴを見たという「知覚」がなければ「想起」へと変様することができない。</p>
<p>それゆえに、感覚的内容が射影として機能することは、知覚以外の志向性にとっても重要になる。たとえば１＋１＝２であるという「判断」においても、もともと１という概念が感覚的内容を起源にもっているという点が重要になる。知覚以外の志向性は、知覚に「基づいている」のであり、それなしでは成り立たない。また、知覚によって「充実」されるのであり、知覚は特に重要視される。たとえば外にリンゴがあるという「判断」は、外に行ってリンゴを見るという「知覚」によって「充実」される。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2872" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png" alt="" width="977" height="686" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png 977w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1-800x562.png 800w" sizes="(max-width: 977px) 100vw, 977px" /></a></p>
<p>基づけ関係の図※イメージです</p>
<blockquote>
<p>「以前にみたように、「内在的知覚」において「感覚的所与」は「実的に」与えられる。だがもちろん、「感覚的所与」は「超越的知覚」においても重要な役割を果たしているのであり、その場合にこそ、「感覚的所与」は「射映」として機能し、それが「統握される」ことによって「超越的知覚」が成立するのである」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc45">(３)：射影は不変か？</span></h3>
<p>たとえば触らなければ目の前のコップは不変不動の特徴をもっているかのように思える。</p>
<p>しかしすこし視線がズレただけで違った現れを見せているし、またすこし部屋が暗くなったりしただけでも違った現れを見せている。自分がどこに関心をもつかによっても、違った現れをみせる。時間が経てば射影も変化する。そして時間を我々は止めることは出来ない。</p>
<p>フッサールによれば、射影が不変であるケースは「限界的事例」だという。</p>
<p>たとえば瞬きをすれば、射影は変化する。目を一瞬でも閉じたら、閉じる前とはもはや違う現出であり、射影であるという話。前回と全く同じ眼球の位置、遠近ではない。</p>
<p>仮に光の加減や陰影の加減、他のものを固定し、瞬きもせず、身体も一切固定するような極限的な、限界的な事例を考えれば射影が不変であるケースを考えることができるかもしれない。</p>
<p>しかし、現実には存在しないようなものであり、同一性、つまり対象の構成は基本的に射影の変化と関わってくる。感覚的内容が射影の変化を通して機能することによって、知覚は可能となる。</p>
<blockquote>
<p>「知覚作用は「射映」としての「感覚内容」および「統握」からなるので,それらの変化・不変化,すなわち,「時間の幅の中で射映を含む変化」が起こる場合と起こらない場合がある。変化が起こらない場合にも時間的位相は移行するけれども,その間に「射映」が不変であり,対象は同じ側面で呈示されるだけということもある。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,8P</p>
<p>「ところで,上の分類の(I)によると「射映」が変化しないこともあるので,必すしも「変化」が「同一性」の条件とは言えないのではないかという疑念が生じるかもしれないが,以下の文は,変化と無関係な同一性は現実には存在しないような「限界的事例」であるというフッサールの考えを示している。</p>
<p>『われわれが今まで考察してきた変化しない諸知覚は限界的事例であったし,理念化的虚構のような面をもっていた。というのは,位置や姿勢の変化,少なくとも[遠近に関連する眼球の]調整(Akkomo-dation)において動く眼差しの変化がないわけではないからである』</p>
<p>」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,10P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">小熊正久さんによる「知覚における同一性と差異」の3分類</span></h3>
<p>以下に見ていくように、射影は多様にさまざまな要因を伴って「<b>変化</b>(差異の発生)」しているのにも関わらず、我々は「<b>同一</b>」のものとして見ているという点が重要。</p>
<h4><span id="toc47">（１）知覚作用の変化・不変化</span></h4>
<p>時間の幅の中で射影を含む変化が起こる場合と、起こらない場合があるという。身体の運動によって射影が変化する場合はこれに含まない。先程検討したように、射影が不変の場合は限界事例である。</p>
<h4><span id="toc48">（２）知覚対象としての物や諸部分の変化・不変化</span></h4>
<p>(a)視覚における色、触感覚における手触りなどの質の変化。</p>
<p>(b)形、大きさなどの変化。</p>
<p>(c)場所的変化つまり動き。対象の動きにフッサールはとくに「運動的(kinetisch)」という用語をあてている。</p>
<p>(d)物の「全体と部分」の変化。これは上の(a)~(c)の区分と重なる。</p>
<h4><span id="toc49">（３）自我の身体に関連する変化</span></h4>
<p>・（１）の物の射影の変化は、自己の身体の動きに依存しているという。たとえば眼球の動きに依存している。</p>
<p>・（２）の対象が動く場合も、自己の体の動きに関連している場合がある。たとえば物に近づいていって動きを見る場合と、そうでない場合では変化が異なる。</p>
<p>（２）は、たとえば風船が膨らんでいくさま、暗がりの中で色が変化しているさま、風で動く落ち葉などが考えられる。</p>
<p>要するに、自分が動いているのではなく、対象が動いて変化するケース。自分が物の周りをぐるぐると動いたり、視線を動かしたりするケースは（３）にあたる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/c315c8b45c7293214d2d086911b27dd8.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3029" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/c315c8b45c7293214d2d086911b27dd8.jpg" alt="" width="191" height="264" /></a></p>
<p>では（１）はなんだ、とここで改めて疑問に思う。知覚対象の変化でもなく、知覚主体の変化でもない。知覚作用の変化である。知覚作用は感覚的内容と統握からなる。たとえばT１時点でA１というマウスが統握され、T２時点でA２というマウスが統握されるとする。この場合、どのように知覚作用が変化しているのか。仮に今マウスをじっと見つめて、知覚の作用において、刻々とマウスの意味やマウスからうける感覚が変化しないというケースがありうるのか。</p>
<p>たとえばマウスの裏側や側面といった「不在の射影」は毎回同じではない。あれ、どんな形だったかな、と曖昧になっている部分もある。もし仮に曖昧ではなく、毎回同じ不在の射影と感覚的内容がセットで構成されていれば、作用が不変というケースも有り得るかもしれない。しかし、それでもはやはり、（１）が不変であるとしても、（２）や（３）が変化するので、やはりすべてが不変である、つまり射影が不変であるケースは限界事例であるといえる。</p>
<blockquote>
<p>「(1)知覚作用の変化・不変化。知覚作用は「射映」としての「感覚内容」および「統握」からなるので,それらの変化・不変化,すなわち,「時間の幅の中で射映を含む変化」が起こる場合と起こらない場合がある。変化が起こらない場合にも時間的位相は移行するけれども,その間に「射映」が不変であり,対象は同じ側面で呈示されるだけということもある。射映の変化に影響を与えるものとして,自己の身体の運動やそれに伴う自己の身体と対象との関係があるが,これについては(3)でみる。また,自己の身体の運動はないが「対象の運動や変化」が射映や統握に影響を及ばす場合がある。それは次の(2)に分類される。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,8P</p>
<p>「(2)知覚対象としての物や諸部分の変化・不変化。これについてはさらに以下の区分が考えられる。</p>
<p>(a)視覚における色,触感覚における手触りなどの質の変化。</p>
<p>(b)形,大きさなどの変化。</p>
<p>(c)場所的変化つまり動き。対象の動きにフッサールはとくに「運動的(kinetisch)」という用語をあてている。</p>
<p>(d)物の「全体と部分」の変化。これは上の(a)~(c)の区分と重なる。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,9P</p>
<p>「(3)上の二種類の変化に「交叉する」のが,「自我の身体に関連する変化」である。(1)における物の射映の変化は主に自己の身体(眼球も含む)の動きに依存する。(2)における対象が動く場合についても,「身体の動きとの関連で対象が動く場ーーーたとえば,物をまわること,物に近づくことなどー&#8211;ーもあれば,身体の動きとの関連なしで対象が動く場合もある」。そしてそれらは主体によって区別されているのが通例である。」</p>
<p>小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」,9-10P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">コラム：形態射影と色彩射影、モネとピカソ</span></h3>
<p>個人的にこれは記憶に留めておかないといけない、あるいは共有しなければいけないという説明があったので引用しておく。これらの検討は別の機会に行う。</p>
<p>「レオナルド・ダ・ヴィンチは、ガラスをとおして対象を見る(写し取る)という方法でパースペクティヴ技法を研究した。この技法は、現出のみを抽出するのである。フッサールは現出を『射影』とも呼び、その射影を『形態射影』と『色彩射影』に区別している。この区別にしたがって考えるならば、ルネサンス期のパースペクティヴはこれ以外のパースペクティヴ技法も用いていたが、主要なのはやはり『形態』のパースペクティヴであった。その後、モネなどの印象派は、とりわけ『色彩』に注目したが、これは色彩射影を描くものだった。このように、ルネサンスと印象派の絵画は、それぞれ、現出の二つの側面を描いていた。しかし、それはまた、ともに感覚をかきだしていたということでもある。これに対して、ピカソなどのキュービズムは──直接にはルネサンス的な『形態』よりも印象派的な『色彩』を批判しながらだが──まさにキューブ(立方体・立体)を描きだそうとした。これは、現象学的に見れば、(感覚される現出ではなく)知覚される現出者そのものを描こうとした試みだと言えるだろう(谷轍『これが現象学だ』64~65P)。」</p>
<p>「何の動きも感じられないしんとした小部屋のなかで壁にかかっている絵を眺めているという状況を想像してみると、そこでは、部屋や絵画だけでなく『知覚そのもの』にも変化がないように思われがちである。だが、その想像では『知覚』という体験が考慮されていないだけである。実際の知覚に少しでも注意を向けてみれば、静止している絵画を知覚する場合にも、その知覚活動には無数の変化があるということに気づく。動かないものの知覚も変化するのである。『動いている背景』に関しても、それが知覚される際には物の動きがそのまま映しだされているように思われるかもしれないが、静止している物の知覚におとらぬ知覚の変化が起っていることであろう。知覚活動に多くの変化が含まれているとすれば、知覚とは心の中に一枚の絵画を所有するようなことだなどとは考えられないであろう(小熊正久『知覚における同一性と差異』,1P)。」</p>
<p>次回、キネステーゼについて掘り下げていくことで、射影の理解を深めていく予定。その後、内的時間意識に取り組む。</p>
<p>その前に、ざっくりとしたイメージとして図で整理しておく。※内容が大きく変わるかもしれません。</p>
<h3><span id="toc51">今回の整理と、次回の概要</span></h3>
<h4><span id="toc52">・超越の謎のイメージ</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/bf251300013279a4403358702795f453.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3031" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/bf251300013279a4403358702795f453.png" alt="" width="489" height="416" /></a></p>
<p>どの位相においても単一の射影では対象化されないので、料理がなにかはわからない。素材と影の素材のまま。もっといえば、言葉にすらできないような、「感覚的内容」としか言えないようなもの。</p>
<p>常に新鮮な素材は１つ(まさに今の位相)だが、それも捉えようとしたら消えつつあり、グラデーションのある影の素材がたくさんある。そうした多様の射影が統一され、「ステーキ」として我々は対象を構成し、「ステーキ」を主題的に見ている。対象がどのように構成されているか、どのような意味かといったものは主題的に見られていない。それを主題的に見る方法が「<b>超越論的還元</b>(反省)」である。</p>
<h4><span id="toc53">・キネステーゼのイメージ</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/565da1d1079109e209742a937551496b.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3032" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/565da1d1079109e209742a937551496b.png" alt="" width="1061" height="697" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/565da1d1079109e209742a937551496b.png 1061w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/565da1d1079109e209742a937551496b-800x526.png 800w" sizes="(max-width: 1061px) 100vw, 1061px" /></a></p>
<h4><span id="toc54">キネステーゼと時間</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3d74fead4f92027cac8399d536fa30cf.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3033" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3d74fead4f92027cac8399d536fa30cf.png" alt="" width="1163" height="758" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3d74fead4f92027cac8399d536fa30cf.png 1163w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/04/3d74fead4f92027cac8399d536fa30cf-800x521.png 800w" sizes="(max-width: 1163px) 100vw, 1163px" /></a></p>
<h2><span id="toc55">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc56">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc57">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IZy3FD">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></p>
<h4><span id="toc58">谷徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3ZOIL7M">谷徹「これが現象学だ」</a></p>
<h4><span id="toc59">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3yOvz6C">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></p>
<h4><span id="toc60">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/40ihCcR">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></p>
<h4><span id="toc61">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oJEWCN">斎藤慶典「フッサール 起源への哲学 (講談社選書メチエ)」</a></p>
<h3><span id="toc62">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc63">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc64">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc65">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc66">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc67">参考論文</span></h3>
<p>・小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1318&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29">URL</a>)</p>
<p>→知覚における射映に関して参考になる・本来的現出・非本来的現出知覚、現出、現出物、感覚与件等の理解</p>
<p>→今回の記事はこの論文を何度も読み直すことが重要になってきます。はじめのうちは全くわかりませんでしたが、他の論文や参考書を往来することによって、少しずつ理解できてきました。</p>
<p>・小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1223&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29#">URL</a>)</p>
<p>射映について参考になる</p>
<p>・谷徹「キネステーゼ意識と相互主観性」(<a href="https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00150430-00000080-0085">URL</a>)</p>
<p>・佐藤徹 「運動指導におけるキネステーゼ意識の把握に関する事例的考察-初心者の倒立練習に関して」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/bewegungslehre/15/0/15_25/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>・小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/235974463.pdf">URL</a>)</p>
<p>・中敬夫「一にして不可分の空間 (の) 経験: スピノザ・フッサール・ビラン」(<a href="https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=286&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>本来的・非本来的、規定性・未規定性,予期志向、目的論</p>
<p>・紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2441/17452_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf">URL</a>)</p>
<p>・魚住洋一「フッサールにおける現象概念」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/39175536.pdf">URL</a>)</p>
<p>現出・現出物の説明、現象の説明、射影の説明</p>
<p>・鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiS7o_E27D-AhWbfXAKHaSLBvYQFnoECAkQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftsukuba.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F23979%2Ffiles%2F10.pdf&amp;usg=AOvVaw1qKztNYlavBsDG9auqfAeg">URL</a>)</p>
<p>キネステーゼの説明を詳しく　ヒュレーの説明</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2023/04/25/husserl-3/feed/</wfw:commentRss>
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			</item>
		<item>
		<title>【応用哲学第二回】フッサールの現象学における「知覚」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 20 Mar 2023 04:33:11 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[フッサールの現象学における知覚とはなにか]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-6" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-6">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">今後の予定</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">フッサールのプロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">現象学における知覚の位置づけ</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">今回の全体的なマップ</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">知覚とは</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">外的知覚と内的知覚</a><ol><li><a href="#toc10" tabindex="0">外的知覚とは</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">内的知覚とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「見る」の多義性について</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">知覚と真理の関係とは</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">真理とは</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">存在論的な条件</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">認識論的な条件</a></li></ol></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">知覚と明証性の関係とは</a><ol><li><a href="#toc18" tabindex="0">明証性とはなにか</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">感性的直観による明証と悟性的直観による明証</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">原的明証と派生的明証</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">実然的明証と必然的明証</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">十全的明証性と不十全的明証性</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">直観</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">諸原理の原理とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">原的直観とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">【コラム】ジャック・デリダのフッサール批判</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">知覚直観とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">個的存在(個的対象)とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">事実と本質の違いとはなにか、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">本質直観とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">知覚直観と本質直観の関係とは</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">「感性的直観」と「範疇的直観」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">Q　範疇的に知覚される、あるいは充実されるとはいったいどういうことなのか</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">知覚直観と本質直観の関係</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">Q 「本質直観」と「知覚直観」はどちらが知覚の構成において時間的に先なのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">基づけや契機について</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">統一と総括の違いとはなにか</a></li></ol></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">定立</a><ol><li><a href="#toc39" tabindex="0">定立とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">設定立とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">存在様相とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">現在化と現前化の違いとは</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">中立性変様とは</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">想像と中立性変様の違いとは</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">想像と像意識の違いとは</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">
中立性変様と否定の違いとは</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">理性定立とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc48" tabindex="0">非理性的な定立というものはあるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">【コラム】知覚因果説について</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">動機づけ</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">動機づけとは</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">理性の動機づけと、動機づけとしての連合</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">(補足)動機づけられた可疑性と空虚な可疑性</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">蝋人形の例</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">パントマイムの例</a></li></ol></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">危機と意志、生きる意味について</a></li></ol></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">統握</a><ol><li><a href="#toc58" tabindex="0">統握とは</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">理解的統握と客観化的統握</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">
意義志向とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">理解的統握と意義充実</a><ol><li><a href="#toc62" tabindex="0">・意味と意義の違いについて</a></li></ol></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">
客観化とはいったいなにか</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">感覚内容とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc65" tabindex="0">感覚内容を言語的に表現することは可能か</a></li></ol></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">『論理学研究』(1901年)内容-統握図式</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">『物と空間』(1907年)内容-統握図式</a></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">『認識の現象学導入』(1909年)内容-統握図式</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">草稿(1909年)内容-統握図式</a></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">『イデーンⅠ』(1913年)内容-統握図式</a><ol><li><a href="#toc71" tabindex="0">ヒュレーとモルフェーとはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">『論理学研究』と『イデーンⅠ』における統握図式の違いとは</a></li></ol></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">規定可能なXとノエシス-ノエマ構造</a></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">『受動的総合の分析』(1922年)内容-統握図式</a><ol><li><a href="#toc75" tabindex="0">Q　感覚内容(感覚領野)が統握を単に待つだけの存在ではなく、「特定の構造」をもっているとはどういうことか。</a></li></ol></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">『内的時間意識の現象学』(1928年)内容-統握図式</a></li></ol></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc78" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc79" tabindex="0">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></li><li><a href="#toc80" tabindex="0">谷徹「これが現象学だ」</a></li><li><a href="#toc81" tabindex="0">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></li><li><a href="#toc82" tabindex="0">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></li></ol></li><li><a href="#toc83" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc84" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc85" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc86" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc87" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc88" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/w5yOxvf5psQ" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">今後の予定</span></h3>
<p>次回以降：現出と現出物の関係を理解する、射映を理解する</p>
<p>最終目標：フッサールの内的時間意識の理解</p>
<p>※アルフレッド・シュッツの現象学的社会学を理解するためにフッサールを急遽学んでいます。シュッツに関連があまりないフッサールの内容、たとえば間主観性の問題は扱えません。別途扱うかもしれません。</p>
<h3><span id="toc4">フッサールのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2876" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg" alt="" width="268" height="372" /></a>エトムント・フッサール(1859-1938)はオーストリア出身のドイツ人。哲学者であり数学者。主な著作は『論理学研究』(1900-1901)、『イデーン』(1913)、『内的時間意識の現象学』(1928)、『デカルト的省察』(1931)など。</p>
<p>あらゆる学問の基礎づけとなる本質学としての現象学を提唱した。現象学は２０世紀哲学の新たな流れとなり、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティなどに影響を与えている。社会学ではアルフレッド・シュッツに影響を与えている。</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p>今回の記事は前回の記事を前提に説明していくので、こちらを先に見ておくと理解がしやすくなります。</p>
<h2><span id="toc6">現象学における知覚の位置づけ</span></h2>
<h3><span id="toc7">今回の全体的なマップ</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/2f0e2ef7c7c20ed2b59467d8729b43a9.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2960" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/2f0e2ef7c7c20ed2b59467d8729b43a9.png" alt="" width="563" height="274" /></a></p>
<p>今回の全体のマップを示すとこうなる。知覚を理解するためには直観、定立、統握の３つの理解、およびそれらの関係が重要になる。ここからさらに「射映」や「内的時間」の理解が必要になる(今回は触れられない)。</p>
<p>ノエシスとはいわば意識作用(志向作用)であり、ノエマとは作用によって構成される対象(志向内容・対象)のことである。現象学はこの「<b>ノエシスとノエマの相関関係</b>(志向性)」を明らかにすることが重要になる。どのように知覚が構成されるのか、いわば「何を何として」、「どのように」、構成しているのかを明らかにするためには相関関係の分析が不可欠である。</p>
<h3><span id="toc8">知覚とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>知覚</strong></span>：</big>・時間的に「現在」に属している「意識」であり、対象を「生身のありありとした有様で」与える働きのこと</p>
</div>
<p>「生身のありありとした有様」には度合いがある。また、知覚は内的知覚と外的知覚に知覚はさらに分類されていく。</p>
<p>竹田青嗣さんによれば、知覚は「<b>自分のうちに生じるさまざまな意識表象のうち、意識の自由にならず、その思考力の彼岸にあるようなものとして現れ出る意識対象</b>」として定義できるという。※彼岸とは「向こう側の岸」という意味。離れて、というニュアンス。</p>
<p>例えば天使がいると想像する際に、翼の生えた天使や輪っかがない天使など、ある程度意識の自由がある。あるいは天使が存在すると信じる自由もあれば信じない自由もある。文字のリンゴの場合は赤いリンゴや緑のリンゴなどを意識できる自由がある。</p>
<p>ただし、目の前に物としての丸いリンゴがある場合、このリンゴは四角や三角として見る自由はほとんどない。まさに「生身のありありとした有様」で与えられるために、意識の自由になりにくいといえる。ただし、リンゴの表面を見ているときは裏面を見ることができないため、「全面的」には与えられず、外的知覚に留まることになる。</p>
<blockquote>
<p>「結論を言うとこうなる。私たちが＜知覚＞と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは＜想起＞、＜記憶＞、＜想像＞などが、ほぼ意識の志向力によってそれを遠ざけたり、呼び寄せたりできるのに対して、＜知覚＞だけは、つねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。つまり意識表象の兄弟たちの中で、＜知覚＞だけは、意識の志向性という親の言うことを聞かないわがまま息子なのだ。＜知覚＞だけは、もしそれを遠ざけたいとき”身体”的な働きによらなくてはならないような意識表象である。これを現象学的な見方で言えば、わたしたちは、自分のうちに生じるさまざまな意識表象のうち、意識の自由にならず、その思考力の彼岸にあるようなものとして現れ出る意識対象を＜知覚＞と呼んでいる、と言ったほうがいい。つまり、これが＜知覚＞とは何かについての”現象学的”な”定義”なのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」55P</p>
<p>「何らの媒介物も介さず対象そのものを直接的に把握していることが、知覚のメルクマールである。フッサールによると、「当のもの自身をその生身のありありとした現在において把握する」(ID.79)ことは、知覚が知覚であるための原理的な要請に属する事柄である。この要請に応えるべく、フッサールは、Bildtheorie知覚の写像説を「原理的誤(ID.78)謬」と呼んで断罪する。何ものかを「見る」ということは、すなわち、何ものかの「オリジナルを見る」ということである。対象と関係するために対象を代理するようないかなる記号存在も必要としない経験が、知覚なのである。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」2P</p>
<p>「ちなみに『物講義』では「知覚の本質的な性格は、客観の生身のありありとした有様で（leibhaft）現在についての「意識」であること、すなわち、それについての現象であることである」（XVI/15）と述べられている。フッサールによれば、知覚は時間的には現在に属しており、対象を「生身のありありとした有様で」与える働きである。それゆえ、一般的にいえば、知覚は、現前的（vergegenwärtig）であっても現在的（gegenwärtig）ではない「想像」と区別される。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,180P</p>
<p>「フッサールは、『論研』第五研究「志向的体験とその内容」という章の中で次のように述べている。「あらゆる知覚は、それ自身の対象を、生身のありありとした有様で（leibhaft）自己性の内に現在する（gegenwärtig）ものとして把握する志向によって特徴づけられている。知覚がこの志向に完璧な形で対応するのは、対象が知覚自身のうちに実際に、そしてもっとも厳密な意味で「生身のありありした有様で」現在し、しかもその対象がそのままのものとして、余なく把握されているときであり、したがって、知覚作用そのものの内に、実的（reel）に含まれているときである。そのとき、その知覚は十全的である」（L.U.II-1/354-355.強調フッサール）ここでフッサールは知覚全般について述べている」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,179P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">外的知覚と内的知覚</span></h3>
<h4><span id="toc10">外的知覚とは</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外的知覚</strong></span>：</big>・対象が全面的に与えられていない知覚のこと。超越的知覚とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>例えばサイコロの１の面を見ている時は、他の２から６の面が見えていないので、サイコロは全面的に与えられていない。しかし、サイコロの１の面を見ていたという外的知覚や、サイコロの１の面を見ていたにもかかわらず、他の面を含めた「サイコロ」として超越的に見ていたという外的知覚をさらに知覚することは可能であると考えていく(内的知覚)。</p>
<p>今回は主にこの「外的知覚」を扱っていく。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは自らの現象学のマニフェストともいうべき『イデーンI』のなかで、物知覚と呼ばれる外的知覚（超越的知覚）が現象学的研究にとって出発点となる経験であり、感性的経験としての根源的経験であるという意味で重要であると述べていた（Cf.III-1/81）。彼が物知覚を無視しえないのは、感覚によってもたらされた「素材（Stoff）」としての感覚内容が、知覚による「統握（Auffassung）」を経て、物の様々な性質を「呈示（Darstellung）」することによって、物の「現出（Erscheinung）」を与えるからにほかならない。つまりフッサールにとって、物現出は意識内容、いいかえれば、「体験（Erlebnis）」として「純粋自我」に寄与するのである。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」175-176P</p>
<p>「十全的な知覚としての内在的知覚に対して、三次元物体や外的世界を知覚する「外的（超越的）知覚」は、内的（内在的）知覚の否定として定義づけられる。フッサールによれば、外的（超越的）知覚とは、知覚作用と知覚対象とのあいだに密接不可分な結合が生じていない「志向的体験」（III-1/78）のひとつにほかならない。そして、外的（超越的）知覚の具体例が、「物知覚」である。物知覚では、知覚そのものの対象が体験のうちに実的に含まれておらず、「その物が本質的な統一などを一切なさずに成り立つ」（ibid./79）。それゆえ、物とは知覚に対して、「外的」に「超越」として存在している。そのため、（三次元的な）物は私たちの知覚にとって一面的にしか現出（erscheinen）せず、つねに射影によって部分的にしか自らを呈示しない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,181P</p>
<p>「以上の特性のゆえに、知覚そのものの反省的知覚は「内在的知覚」とも呼ばれるが、これに対して、「物の知覚」は次のように特徴づけられる。</p>
<p>「物の知覚も知覚されたものを把捉しており、物はそこにおいて有体的に与えられ把捉されている。しかしこの与えられていることないし把捉されていることは、［内在的知覚の場合と］本質的に異なっている。物は物の知覚の断片や部分ではない。物の知覚は、それが知覚するものを実的なすなわち本来的な意味で包括してはいないのである」(EPh.,S115)。</p>
<p>このような「客体を実的に捉えていない知覚」すなわち「不十全的な（inadäquat）知覚」は、「超越的知覚」と名づけられている。このように、「内在的知覚」と「超越的知覚」の区別は、それぞれにおける知覚対象の与えられ方の違いによるのである。</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,6~7P</p>
<p>「これに対して知覚は，あるモノの一瞬の見え（側面）が変化しながら一つのものの多様な側面のまとまりとして見えている。空間的なモノの知覚はこのような射映を通して与えられる。外にあるとされるモノの知覚のことを内在的知覚に対して外的知覚という。感覚と知覚の関係は，内在的感覚としての感覚が，外的知覚の対象と結びついた感覚の土台になっているということが重要である。」</p>
<p>露木 恵美子「「場」と知識創造―現象学的アプローチによる集団的創造性を促す「場」の理論に構築に向けて―」,47P</p>
<p>「例えばわたしはいま、わたしが向かっているコンピューターを知覚している。例えばそのモニターであるとか、キーボードであるとか、そういった物を知覚している。さて、わたしが目を動かしたり、体を動かしたりすることによって、その物は様々な姿を現すことになる。しかし見え方が変わったからといって、その物、つまりモニターやキーボードが変化するということではない。このように同一の事物が様々な側面から与えられてくることをフッサールは「射映（Abschattmg）」とよんだのである。その射映そのものは感覚与件の内に数え入れられるのであるが、しかしその与件を統握によって生気づけることで、その与件は呈示的機能を果たすようになり、色彩や形態の現出を形成することになる。感覚与件は体験の実的構成要素、すなわち体験の内に実際に含まれているものであるが、しかしそのような与件によって呈示されてくるもの、すなわち物質的事物は、感覚与件とは異なり、体験の内に含まれているものではない。従って射映と射映されてくるものとは区別されなければならないのであり、射映は体験であるが、射映されてくるものは空間的な事物である。この区別は「与えられ方の原理的な相違」（m／I，S．88）に基づくものである。物質的事物は常に射映を通して与えられるということ、すなわちそれは常にあるひとつの側面においてしか与えられないということであり、他方で体験として与えられるもの、すなわち反省によって対象化される体験は射映を通しておのれを呈示するということはないのであり、また「絶対的なものとして与えられ」（皿／I，S，92）ているのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,51P</p>
<p>「十全的とは「他であることを排除する」（m／1，S，317）ということであり、そこでは対象は己を隠すところなく全面的に与えている。それに対して不十全的であるということは、「別様に規定される」という可能性を残したものである。当然ここでも十全な明証性が不十全な明証性よりも優先されることは明らかであろう。従って、正当性の源泉は、原的な経験、つまり対象を有体的に与えるような経験における必当然的かつ十全な明証性ということになるであろう。従って事物知覚こそが現象学が分析すべき第一のものとなる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,151P</p>
<p>「しかしこの最も本原的な事物知覚の場面において、フッサールは重大な困難を抱えることになる。それは、事物知覚において十全な明証性は不可能である、という問題である。物理的事物の本質には、常に一面的にしか現出しないということが属している。つまりわたしたちが何らかの物理的事物を見ている場合、見えているのは、その対象の一面だけであり、その裏側や下はわたしたちには隠されているのであり、常に別様に規定される余地を残しているのである。「事物的実在、すなわちそのような意味での存在は、ある完結した現出においては『不十全』にしか現出することはできず、このように不十全に与える働きをする現出に基づく理性定立は、『最終的』」(III/1,319)のである。もしもわたしたちが物理的事物を見ている場合、見えている面だけが意識に与えられているならば、このような困難はありえない。しかし実際には、わたしたちはそのような事物を見ているときに、その事物は見えている面だけだとは思っていない。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,151P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">内的知覚とは</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内的知覚</strong></span>：</big>・対象が全面的に与えられている知覚のこと。現象学的反省とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>外的知覚は「内的知覚」を通して分析されていくことを抑えていく必要がある。『論理学研究』(1901/1902)の頃に「統握や直観、定立」は扱われているが、反省の手法はまだ確立されていない。確立するのは『現象学および理性批判の主要部の序論』(1907)の頃である。</p>
<p>自然的態度においてはもっぱら「対象」に意識が集中しているが、現象学的反省では「作用」や「内容」に意識が集中するように態度変更を行い、「対象化」する。</p>
<p>対象が実在すると素朴に信じること(<b>自然的態度</b>)をやめ(<b>エポケー</b>)、何が何としてどのように構成され、対象が実在すると我々は信じているのかを内省する作業である。</p>
<p>このように反省的に対象化された体験(作用や内容)が現象学的分析の基盤となるという。</p>
<p>ただし、このような反省はほんとうに可能なのかという問題が現代でも議論されており、また議論が分かれている。「<b>生き生きとした現在の反省問題</b>」とも呼ばれている。</p>
<p>クラウス・ヘルトによれば、現象学的反省とは「生き生きとした現在を後から覚認することである」と定義されている。</p>
<p>要するに、今まさに自分が「見ている(外的知覚)」ということを見る(内的知覚)のは時間的には後になってしまうのではないか、という話。後になるということは、なんらかの形で「変様(過去把持)」しているものを見ることになる。外的知覚と内的知覚を同時に行うことはできない。したがって、変容する前の外的知覚そのものを捉えることはできないのではないかという問題。ヘルトの言葉で言えば、フッサール現象学にとって「謎」にとどまるという。</p>
<blockquote>
<p>「メレが引用するフッサールの草稿によれば、感覚（内容）を“体験された感覚”として取り出す、「新しい知覚」（反省作用）は、もはや外的（超越的）知覚の領域には属していない。感覚内容が知覚にとって実的であるということがいえるためには、単なる外的（超越的）知覚によってではなく、その外的（超越的）知覚に対する「新しい知覚」としての反省作用によって見出されるということを認めなければならない。つまり、対象を知覚する外的（超越的）知覚を検討したところで、感覚がいかに与えられたかという、感覚と対象との関係は得ることはできない。それは、外的知覚を反省する「内的知覚」としての反省作用によって、可能になる。これこそ、『イデーンI』では「ヒュレー的反省」（III-1/349）と呼ばれるものにほかならない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,189-190P</p>
<p>「つまり、端的に樹木や家屋に対してまなざしを向ける段階から、その知覚自体にまなざしを向けるという「反省」（Reflextion）へと移行することが可能であるという。知覚自体には、本質的には、それ自体が何らかの仕方で対象化される可能性が属しているという。そのような反省によって、知覚自体とその知覚の内容（Inhalt）へもまなざしが向けられるのである（HuaXXIV,244）。しかし、この場合の反省というのは、「知覚とその内容に関係付けられた知覚」であり、いわゆる「内的知覚」である。つまり〈知覚の知覚〉である。ということは、「反省的知覚」において、端的な知覚の感覚的内容は「与えられる」のであるが、それはあくまでも反省的知覚によって「知覚された」ものとして与えられているのである。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,8~9P</p>
<p>「感覚と知覚の違いは，それが直接的に意識に与えられるか与えられないかということに関わる。たとえば，触覚はその触っている身体の部位，たとえば指先にそのまま感じている。この直接的な感覚のことを内在的知覚という。」</p>
<p>露木 恵美子「「場」と知識創造―現象学的アプローチによる集団的創造性を促す「場」の理論に構築に向けて―」,47P</p>
<p>「では絶対に疑いえないものとは何か。そのことを明らかにするために、ここでもう一度内在と超越という区別に立ち戻らなければならない。絶対に疑いえないものとは先にも述べたように「絶対的な意味での自己所与性」である。それではそういいうるものはいったいいかなるものだろうか。フッサールは『イデーンI』において内在的知覚と超越的知覚という区別を持ち込んでいる。それによれば内在的知覚とは「その諸体験の志向的対象がおよそ現実に存在している場合には、その志向的対象が、当の諸体験そのものと同じ体験流に属している」（皿／I，S．78）ということを意味するのであり、超越的知覚とはそのようなことが起こっていない体験のことであるとされる。前者の内在的知覚の場合、体験しているものはその体験流に属しているのであるから、知覚作用と知覚されているものとは「本質的にひとつの無媒介な統一を形成」（ebd）しているのである。それに対して超越的知覚の場合、知覚と知覚されているものは、「本来固有の本質的な統一」（III／I，S．79）をなしてはいないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,50P</p>
<p>「反省している作用と反省されている作用とは、同じ一人の人間の（あるいはより精確にいうなら同じ純粋自我から発する）作用なのであるから、そのときには知覚と知覚されているものはひとつの体験流に属しているということになる。錯覚であろうが、幻覚であろうが、何らかの物を知覚したという体験そのものを疑うことはできないのである、あるいはそのような体験の存在を疑うことは「ひとつの背理」（m／I，S．96）なのである。したがって反省によって対象として与えられるものは絶対に疑いえないのである。またそこから反省によって対象化された体験こそが絶対確実な地盤であり、現象学的分析がその考察を始める第一のものになるのである」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,50P</p>
<p>「ヘルトによれば、現象学的反省とは、生き生きした現在を「後から覚認すること（Nachgewahren）」である（cf.81,94/112,130）。つまり、たしかに現象学的反省は意識作用を捉えるが、その意識作用は生き生きした現在において働いている意識作用ではなく、時間的流れの中にある「過ぎ去りつつ‐過ぎ去った『位相』」（120/169）として構成された意識作用である」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,49P</p>
<p>「しかし、ヘルトによれば、フッサールは、生き生きした現在が「流れつつ‐立ちとどまる」ということを見抜いてはいても、これを現象学的に認めることができない（cf.104,134–137/145,189–193）。というのも、フッサール現象学は、現象学的反省において直観的に捉えられるものにのみ基づくというみずからに課した「プログラム的な要求」に拘束されているからである（cf.IX–X,104/4,145）。つまり、その「流れつつ‐立ちとどまる」ことは構築されるのではなく、それ自体が現象学的反省によって捉えられねばならない。しかし、現象学的反省の「後から」という性格ゆえに、これができない。すなわち、生き生きした現在はフッサール現象学にとって「謎」にとどまる（cf.141/197）。言い換えれば、ここでフッサール現象学は、〈反省の問題〉に直面しているのである。ヘルトは、その謎こそが、1930年から1934年にかけてフッサールを生き生きした現在へ向かわせた「不満と不安の原因」だと見定めている（cf.142/199–200）。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,51P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">「見る」の多義性について</span></h3>
<p>１：フッサールは対象を「知覚する」という言葉とほとんど同義的に「見る」という言葉を使う。</p>
<p>２：ただし、広い意味であり、眼球によって物を見ることだけではなく、聴く、触るといった他の作用全般を表す言葉である。大別すれば外的知覚(事物知覚、超越的知覚)、内的知覚(現象学的反省)、本質観取にわけることができる。「<b>原的直観</b>」とも大きく関連していく(後述)。</p>
<p>３：物理的に「見る」際の「<b>知覚直観</b>」だけではなく、「<b>本質直観</b>」によっても「見る」という点が重要になってくる(見るの代わりに「<b>洞察する</b>」が使われることがある。あるいは「<b>範疇的知覚</b>」)。たとえば「１＋１＝２である」という事態を物理的に「見る」ことはできないが、本質観取する(見る)ことはできる。１＋１＝２であるという「信憑」が与えられるという点が重要になる。</p>
<blockquote>
<p>「彼は『イデーンI』（第4篇第2章冒頭）で次のように述べている。</p>
<p>ひとが単に対象と言うとき、通常は、それぞれの存在範疇に属している現実的な、すなわち真に存在する対象のことが考えられている。そのとき、対象について何が言われようと―もし理性的に語られているなら―、その際には、考えられているものも言表されているものも、「<strong>基礎づけ</strong>」られ、「<strong>証示</strong>」されなければならないのであり、また直接的に「<strong>見</strong>」られ、あるいは、<strong>間接的に</strong>「<strong>洞察</strong>」されうるのでなければならない。<strong>原理的に言って</strong>、論理的な領域、言表の領域においては、「<strong>真に存在する</strong>」あるいは「<strong>現実的に存在する</strong>」ということと、「<strong>理性的に証示可能である</strong>」ということは<strong>相関関係にある</strong>4。（III/1,314）3）</p>
<p>このようにフッサールは「見る」ことの重要性を強調している。何かが現実的であると言えるためには、それは「見」られなければならない。逆に言えば、「見」られていない対象は現実的であるとは言えない。ただし厳密に言うと、この箇所の「見る」という語は、かなり広い意味で用いられており、眼球を使って物を見ることに限定されているわけではなく、今現実的に存在していると言える対象を知覚する体験全般を指している4）。だからそれは、視覚だけではなく、聴覚や触覚も含む広い意味を持っている。だが、たとえ広い意味で用いられていても、さまざまな知覚の働きを「見る」という語で言い表しているということは、彼が視覚を中心に考えていたことの証拠であると言えるだろう。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,106P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">知覚と真理の関係とは</span></h3>
<p>なぜ現象学にとって「知覚」が重要なのかの回答の一つとして、「<b>真理を基礎づけるから</b>」というものがある。他の志向性である判断や想像、想起などもたしかに真理と関連するものではあるが、知覚はその他の志向性を基づけるものであり、そもそも知覚がなければ判断ができない。したがって、最も根本的に真理を基礎づける志向性であるといえる。</p>
<p>では現象学にとって「真理」とは一体何なのか、という点が問題になる。</p>
<h4><span id="toc14">真理とは</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>真理</strong></span>：</big>・思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致</p>
</div>
<p>例えば「目の前にペンがある」という判断と、「目の前にペンがある」という事態を見るという知覚が完全に一致していれば、目の前にペンがあるということは真理といえる(事実の真理)。</p>
<p>・真理が成り立つためには、「存在論的な条件」と「認識論的な条件」という２つの条件をクリアする必要がある。</p>
<h4><span id="toc15">存在論的な条件</span></h4>
<p><b>存在論的な条件</b>：存在には「実在的存在」、「理念的存在」、「中立的存在」があるが、「中立的存在」は真理の成立に対応していないという。</p>
<p>例えば「眼の前のリンゴ」は実在的存在であり、「１＋１＝２であるという事態、リンゴそのものの意味」は理念的存在である。しかし、白雪姫やペガサスは中立的存在である。したがって、「ペガサスがいる」という判断と「ペガサス」を見るという知覚の対応関係によって真理を成立させることができない。昔話の「昔々おじいさんとおばあさんがいたそうだ」のように「伝聞形式」で存在がいわば無責任に語られるという。</p>
<h4><span id="toc16">認識論的な条件</span></h4>
<p><b>認識論的な条件</b>：知覚によって「<b>表意的志向</b>」が「<b>充実</b>」されるという条件のこと。表意的志向とは、言語表現のこと。</p>
<p>たとえば「隣の部屋にリンゴ」という表現が実際に知覚によって、つまり実際に隣の部屋に行って目視しない限り、「空虚」のままである(直観が伴っていない)。実際にリンゴが知覚されることによって「充実」されるのであり、対象が知覚において生々しく現前するのであり、実在的対象そのものを知覚は与えるのである。</p>
<blockquote>
<p>「&lt;知覚&gt;とは、物に関する実際の認識のことである。日常の経験で最も基本的な場面における認識である。フッサールも、これを最も根源的な認識形態と見ており、さらには「真理」を究極的に基礎付けるものとしての地位をこれに与えている。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,13P</p>
<p>「『論研』において、フッサールは真理を認識可能性と等置する。そして彼は対象の認識が対象の自己現出たる知覚によってもたらされると考える10。つまり、彼は真理という概念を知覚の可能性において理解していた。ここで、知覚が幻覚や錯覚と異なって、それにとって対象の実在が本質的であるとするならば、知覚可能性と真理概念の結びつきは明らかである。しかし、もしザハヴィの解釈が正しく、知覚と幻覚、錯覚が区別されていないならば、そのような「知覚」の可能性のもとで理解された「真理」がいかなる意味で真理と呼べるものなのかは全く明らかではない」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,１８９P</p>
<p>「さて、対応説的な立場において言語的意味が真理であるためには、第一に、存在論的な条件をクリアせねばならない。この場合、『存在』には三種類がある。アポステリオリなもの(事実的なもの)に対応する『実在的な存在』(時制変化する存在)、アプリオリなもの(本質的なもの)に対応する『理念的な存在』(時制変化しない存在)、そして、想像的・空想的なものに対応する『中立的な存在』(これは日本語で表現するのがややむずかしい)である。そして、真理が可能であるためには、言語的意味が実在的な存在をもつものに対応するか(この場合には『事実の真理』が可能になる)、理念的な存在をもつものに対応するか(この場合には『理性の真理』が可能になる)が必要である。言語的意味が中立的な存在をもつものに対応しても、本来の真理は成立しない(疑似真理といったものを認めれば、話は別だが)。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」104-105P</p>
<p>「右の真理が成り立つためには、第二に、認識論的な条件をクリアせねばならない。これに関するフッサール自身の定義を引けば、真理とは『思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致』である。この『思念されているもの』は、たとえば『言語(的判断)の意味』と言い換えることもできるし、『与えられてているものそれ自体』は『知覚された事態』などといいかえることができる。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」105P</p>
<p>「しかしながら、<strong>学問的に厳密に</strong>考えると、どうだろう。知覚的な直観経過においては、つねに新たな志向(予持)が生じており、それはまだ充実されていない。つまり、この新たな志向と充実の対応は確認されていない。家を見る場合であも、ひとつの側面を見たが、他の側面はまだ見ていない、いや、この側面を見ても、さらに他の側面はまだ見ていない、といった状態が進行していく。こうした未確定部分(まだ見ていない側面)が含まれているかぎり、これを含む諸現出との相関関係のなかで構成される現出者そのもの(家そのもの)が『十全的明証性』において知覚されることはありえない。それは、いつもなんらかの程度の『不十全的明証性』においてしか知覚されない。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」108P</p>
<p>「だが、『現出者』そのものは十全的明証性において捉えられないとしても、充実されている『現出』だけにかぎっては、どうだろう。これはいつも十全的に明証的なのではなかろうか。フッサールも長らくはそう考え、これにこだわっていた。しかしながら、充実されている諸現出にしても、諸現出はさしあたり非主題的に体験されているだけである。言い換えれば、それらはいつも突破されている。それらをまさにそれらとして明証的に『認識』するためには、それらを内在的に知覚せねばならない、すなわち『反省』せねばならない。そして、学問としての現象学はこの反省を方法とする。『現象学的方法は、徹頭徹尾、反省の諸作用のなかで働く』。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」108P</p>
<p>「しなしながら、フッサールは、『把持のおかげで、我々は意識を客観にする(=反省する)ことができる』と言う。つまり、反省によって主題的に捉えられるのは、把持された現出だけである。しかし、そうであるかぎり、把持されていないものは、意識の客観にならず、反省されず、それゆえ明証的に認識されない、ということになる。とすると、反省の居ては、把持された諸現出は十全的明証的において捉えられるとしても、(まだ把持されていない)原印象的現出は、そのように捉えられないことになる。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」109P</p>
<p>「フッサールは『現象学の理念』の冒頭で次のような問いを発している。</p>
<p>事象そのものに的中する認識の可能性についての反省が巻き込まれるいろいろな困難。どのようにして認識はそれ自体に存在する事象との一致を確認し、またそれらの事象に的中しうるのであろうか？（II，S，3）</p>
<p>この問いは『論研』においてものと知性との一致として述べられていた認識の最高の確証である明証性がいかにして可能かという問題を再び定式化したものと考えてよいであろう。『論研』においては、直観による充実によって明証性が与えられるとされていた。この問題にとって重要なのは、「志向されているがままの対象」と「志向されている対象そのもの」の区別であろう83。ものと知性との一致といわれる場合、問題は「志向されている対象のそのもの」と知性、すなわち作用とが一致するということである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,48P</p>
<p>「しかしわたしたちに与えられているものは何か。それは「志向されているがままの対象」とそれを現出せしめる様々な感覚要素のみであり、「志向されている対象そのもの」はわたしたちの意識の内のどこを探してみても見つかることはない。そうすると一切の明証性が不可能であるということになるのであろうか。そこからまた確実な認識は一切不可能であるということになり、フッサールが目指していたような学間体系までもが不可能であるということになってしまう。従ってフッサールの課題は、意識がいかにして意識の「外」にあるような超越的な対象に関わることができるのかということを明らかにするということになるのである。『論研』では意識の実的内容と志向的内容の区別が重要な役割を果たしているが、ここではむしろ超越と内在という対立が重要なものになる。普通実的ということで考えられうるのは、意識の内に本当に存在するようなもの、すなわち内在するものとして見出されるものである。しかし先にも述べたように、わたしたちが知覚しているような事物は、意識の内に実的に内在しているわけではないので、それらのものは超越的とよばれるのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,49P</p>
<p>「くどいようであるがもう一度確認しておくと、超越的知覚は絶対的なものを与えないのである。しかし超越的知覚という体験を反省することによって、今度は超越的知覚そのものは絶対的なものとしてわたしに与えられてくるのである。そうすると超越的知覚によって知覚されていた対象もまたわたしに絶対的なものとして与えられるようになるのである。なぜなら知覚するということは常に「何かを知覚する」ということであって、知覚と知覚されるものとは切り離しえないからである。従って知覚という体験を反省するということは同時に、そしてまた必然的にその知覚によって知覚されているものをもみずからの内に取り込むということになるのである。それは反省によってなされるのであるから、反省以前の素朴な知覚においてはその存在を疑いうるような対象も、反省によって与えられてくる場合には、一実際に存在していようと存在していなかろうと一絶対的な確実性をもって与えられてくるのである。しかしながらこの反省によって与えられてくるとはいえ、物質的事物はやはり体験を実的に構成するようなものではない。ここで内在も実的内在と志向的内在との二つに区別されなければならないのである。この志向的内在が、志向的対象、あるいはノエマとよばれるのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,51-52P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">知覚と明証性の関係とは</span></h3>
<h4><span id="toc18">明証性とはなにか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>明証性</strong></span>：</big>・曖昧さなく、明るくはっきりと見える状態、明らかな確実性のこと。明晰・判明に見える状態。特に言語表現(命題、意味)が充実される場合に用いる。命題判断の意味することが真に実在しているかどうかが確証されていることに対する形容である。</p>
</div>
<p>知覚によって表意作用や判断が常に完全に充実されるわけではなく、程度がある。この問題は「明証性」の度合いの問題だといえる。</p>
<p>言語の意味と知覚が一致した状態にあるならば、「明証性において体験される」という言い方がされている。たとえば酔っ払った状態でリンゴを見るのと、シラフでリンゴを見るのとでは、シラフで見ていたほうが明証性が高いといえる。明証性には多様な分類があるので、紹介していく。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/b4cfcb601af8c7aadb29e976a5828480.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2961" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/b4cfcb601af8c7aadb29e976a5828480.png" alt="" width="303" height="363" /></a></p>
<p>明証性の例を図にするとこのような感じになる。</p>
<p>１：明証性は世界の諸事情に対する人間の自然な信憑(確信)のいちばん底を支える条件である。</p>
<p>２：「<b>信憑</b>」とは、意識の自由を超えて、信じたくないと思っていたとしても信じてしまうような、意識の恣意性(気まま)をねじふせてくるように現れる「疑い難さ」のこと。</p>
<p>３：ある物の「実在すること」の確証を与えることではなく、実在していると「信憑」してしまう性質が重要になる。</p>
<p>４：現象学の課題は、<b>世界や事物が存在することの確実性を証明しようとするのでは</b><b>なく</b><b>、ただ、この確実性の信念がどのように生じるのかを＜意識＞の構造として明らかにする点</b>にある。そもそも主観の外に何か(いわゆる他者、世界など)が客観的に実在しているかどうかは人間にはわからず、ただ何かが実在しているという「信憑」があること、またその意識(主に自分の意識)があるということが明らかにされていくことになる。なぜ他人にも自分と同じような信憑や主観、意識があるとわかる(信憑する)のかという問題は「<b>間主観性問題</b>」といわれている。</p>
<p>つまり、信憑の条件、構造を明らかにすることが目的であり、意識や志向性、知覚の構造を明らかにすることとつながっている。知覚の条件とはなにか、とどんどん掘り下げていった過程に「<b>内的時間</b>」の分析がある。フッサールはナイフを研ぎすぎてナイフがなくなってしまったと比喩されることがある。掘り下げすぎて、現象学の手法の正当性が揺らいでくるようなイメージ。</p>
<h4><span id="toc19">感性的直観による明証と悟性的直観による明証</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感性的直観による明証</strong></span>：</big>・感覚与件を伴う知覚・想起などにより「見る」働きによる明証</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>悟性的直観による明証</strong></span>：</big>・本質・数学的真理を「洞察」する働きによる明証</p>
</div>
<h4><span id="toc20">原的明証と派生的明証</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>原的明証</strong></span>：</big>・対象を直接に与える直観として見る場合。知覚などがそのケースとして挙げられる。知覚は「原意識」とも呼ばれるように、他を基づけるような作用をフッサールは原～と表現する。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>派生的明証</strong></span>：</big>・原的なものに基づいている場合。想起などがそのケースとして挙げられる。</p>
</div>
<h4><span id="toc21">実然的明証と必然的明証</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>実然的明証</strong></span>：</big>・個的な事物や個的な事態による明証のこと。目の前にあるペン、私が今持っているペンなど。「<b>蓋然的明証性</b>」とも呼ばれる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>必然的明証</strong></span>：</big>・本質に関する明証のこと。目の前にあるペンや友人がもっているペンにも共通しているような明らかな本質のこと。たとえば「色は広がりをもつ」という本質はいつでもどこでも明証的に認識できるという。専門用語的に言えば「アポステリオリ」ではなく「アプリオリ」なものに関する明証性。時間や場所に関係なく妥当するような本質、類型。</p>
</div>
<h4><span id="toc22">十全的明証性と不十全的明証性</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>十全的明証性</strong></span>：</big>・十全的とは、対象が己を隠すところなく全面的に与えられているような状態。三角形の本質など、本質認識に関するものは十全的明証性が可能だといわれている。「内的知覚」などは「十全的(<b>実的</b>)」に与えられると表現されている。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>不十全的明証性</strong></span>：</big>・対象が部分的にしか与えられていないような状態。「別様に規定される」という可能性を残した明証性であると呼ばれている。例えば「外的知覚」などは「不十全的(超越的、志向的)」に与えられると表現されている。たとえばサイコロの側面を見ていないのにもかからず、実的なものを超えて、超越的にサイコロを知覚しているようなケース。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「この問題に対して、フッサールは、「真」とは定立の「明証」性Evidenzである、と答える。である、と答える。そして、「明証」とは、「命題」が「充実」されているということである。&#8230;&#8230;○「感性的」直観による明証と「悟性的」直観による明証─前者は、感覚与件を伴う知覚・想起等により「見る」働きによる明証であり、後者は、本質・数学的真理を「洞察する働きによる明証である。○「原的」明証と「派生的」明証──前者は、元的な「なま」の明証(例えば、知覚の際、定理の証明を遂行する際)であり、後者は、想起されたものの明証(例えば、記憶の際、定理を思い出して適用する際)である。○「実然的」明証と「必当然的」明証──前者は、個々の事物に関する明証(例えば、「このバラは赤い」について)であり、後者は、本質に関する明証(例えば、『赤いものは延長を有つ」について)である。○「十全的」明証と「不十全的」明証──前者は、対象が有する諸規定の全体に関する明証(例えば、「三角形」の諸規定に関して)であり、後者は、対象が有する諸規定中の部分的な明証(例えば、「このバラ」の諸規定に関して)である。本質認識においては、十全的な明証が可能だが、事物認識においては、現実には常に不十全的な明証にとどまり、十全的な明証は、あくまでも理念であり続ける。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,18-19P</p>
<p>「それは要するに、物が、白日のものにさらされ、曖昧さ(この漢字はもともと暗さを意味する)なく、明るくはっきりと見える状態である。明晰・判明に見える状態と言い換えてもよい。言語の意味と知覚の一致がこうした状態にあるならば、それは『明証性において体験される』ということになる。真理は、こういう状態でこそ真理と認められるのである。……言語的意味と知覚的事態が一致していることが<strong>完全に明証的に</strong>確認される場合には、その明証性は『十全的明証性』と呼ばれる。逆に、あまりはっきりしないならば、『不十全的明証性』ということになる。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」106~107P</p>
<p>「&#8230;&#8230;しかし、言語以前の知覚(直接経験＝志向的体験)そのものにおいても、より根源的な『対応』関係が見られる(現象学そのものの学問性にとっては、こちらがより重要である)。だが、知覚においては、より根源的なものと、より派生的なものが区別される。ここで用語上の注意が必要になる。ひとたび派生的なものが成立すると、根源的なものも、それと同列に捉えられてしまう。これを避けるために、根源的なものには『原』の前綴りが用いられる。『原……』は、それ以外のものの根源にある。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」107P</p>
<p>「新田（2006）は「解釈学的循環とよばれる全体と部分との交互規定の働きを、経験の次元において見出しこれに精緻な分析を加えたのは、フッサールの現象学である。フッサールは、一方で、知覚を、対象を直接に与える直観の原的明証性とみなすが、他方では、知覚を『解釈作用（deuten）』ともみなしている。このことは一見して矛盾し相容れない規定であるかのように見えるが、じつはフッサールによる志向性の規定には、方位性の契機や明証性の契機とともに意味的差異性の契機が含まれていることを顧慮すれば、このことはけっして矛盾したことではない。意味的差異性とは、志向性が何かを何かとして思念する意味規定の作用であることに基づいている。いいかえれば意味と意味されるものとの間に起こる差異化の働きである（243頁）」」</p>
<p>魏蜀楠「次世代交通サービスの社会実装に向けた政策分析のあり方―システム分析と 「解釈の循環」 概念から―」,58P</p>
<p>「フッサールが求める本来的な意味での明証は＜本質直観＞によって捉えられた対象であり，現象学における明証は本来「＜何＞が在る」という本質態で見出されることが求められる。</p>
<p>「何らかの対象が想定主張されたときにはその対象は何らかの領域および範疇に属するが，そうした領域および範疇にはすべて，ただ単に，意味ないし命題の根本種類が対応しているだけではなくて，また，こうした意味についての原的に与える働きをする意識の根本種類もが対応しており，そしてその根本種類に所属した形で，原的明証の根本典型もまた対応しているのである。原的明証は，本質的に，右のような性質の原的所与性によって動機づけられているからである。」（IDI.S.321，II-288頁）</p>
<p>ここでいう「原的明証」，「原的所与性」における「原的」については，「原的に対象を与える働きとしての経験は知覚である。この知覚という言葉はここでは普通の意味で，つまり，理論的経験としての正当性の証示といったことが話題となる場合のように，理解して言っている。」さらに，この直観は学問的認識の正当性を証示する基礎づけの根本源泉［Urquellen］なのである。（IDI.S11，I-60頁）」</p>
<p>渡邉伸「発生運動学の学問論的研究」,120-121P</p>
<p>「明証は領域ごとに異なる「原的に与える働きをする意識の根本種類」が対応している。知覚に与えられる類的本質（物的なもの，生命のあるもの，など）によって，それに対応した明証意識が構成される。真理はそのつどの存在範疇に属する領域的対象が実際にそこに存在することを直接的に「見る」ことができることである。この明証が言表されているものを「基礎づける」のである。そして，明証は事実的なものを見ることではなく，本質直観によって「見ること」，「原的に与える働き」，「生身のありありとしたありさまという性格（原的充実性）として」（IDI.S.315，II-279頁）知覚できることが明証であり，「事象内容」は見ること，知覚することによって明証となる本質可能性が把握される。フッサールは，学問はこのような基礎づけの体系的関連が要請されるとする。（LUI.S.30，34頁）学問論的基礎づけを支える＜明証＞は＜領域＞に対応した「根本典型［Grundtyps］」がある。明証は領域ごとに異なる。」</p>
<p>渡邉伸「発生運動学の学問論的研究」,121P</p>
<p>「十全的明証性は不可能である。これはフッサールを悩ませた。そこで、フッサールは、もうひとつの別の明証性によって学問的認識を確立しようとした。それは、『必当然的明証性』と呼ばれるものである。これは、アプリオリなものがもつ明証性である。たとえば、『色は広がりをもつ』は、いつでもどこでも明証的に認識される。色が広がりをもたないという事態はありえない(ちなみに、アフォーダンス理論が取り上げる『面色』のような、奥行きのない色は可能だとしても、広がりのない色はありえない)。この場合には色というものの『本質』が問題になっているわけだが、アプリオリな『本質』については、それ以外がありえないということの『必当然的明証性』が成り立つ。そして、フッサールは現象学がアプリオリなものを扱う『本質学』(厳密には超越論的本質学)であることを強調して、この必当然的明証性を見出すことに比重をかけた。」</p>
<p> 谷徹「これが現象学だ」110-111P</p>
<p>「十全的とは「他であることを排除する」（m／1，S，317）ということであり、そこでは対象は己を隠すところなく全面的に与えている。それに対して不十全的であるということは、「別様に規定される」という可能性を残したものである。当然ここでも十全な明証性が不十全な明証性よりも優先されることは明らかであろう。従って、正当性の源泉は、原的な経験、つまり対象を有体的に与えるような経験における必当然的かつ十全な明証性ということになるであろう。従って事物知覚こそが現象学が分析すべき第一のものとなる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,151P</p>
<p>「明証性とは、まずひとことで言うと、世界の諸事情に対する人間の<strong>自然な信憑</strong>(＝<strong>確信</strong>)の、いちばん<strong>底を支える条件</strong>を意味する。つまりそれは、<strong>信憑の根拠</strong>であって、一般に誤解されているように、事物の<strong>存在</strong>(実在)の確証ではない。たとえばひとつのリンゴが実在することの確証を与えるものではなく、それが実在するひとが自然に信憑することの<strong>条件</strong>、なのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,214P</p>
<p>「現象学の課題は、世界や事物が存在することの確実性を証明しようとするのではなく、ただ、この確実性の信念がなぜ生じるのかを＜意識＞の構造として明らかにする点にある。この信念(信憑)の成立のことを『妥当』と呼ぶ。……現象学の信念(信憑)とは、意識の自由を超えて、つまり、たとえ信じたくないと思ったとしてもそういう意識の恣意性をねじふせるように現れてくる『疑い難さ』のことである。明証性の項で、明証性とは、＜意識＞がつねにそのつど、事象の存在意味の内的な確証を見出していくことだと書いたが、これは＜意識＞にそのような信憑がそのつど生じているということでもある。だからこの事象の確証性を支えるものとしての明証性が、＜意識＞の『根本的特徴』と言われるのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,215P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc23">直観</span></h2>
<h3><span id="toc24">諸原理の原理とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>諸原理の原理</strong></span>：</big>・すべての原的に与える働きをする直観こそが、認識や判断の正当性の源泉であるという原理のこと。原的直観は本質直観と知覚直観の２つに分けられるという。</p>
</div>
<p>アリストテレスは『形而上学』の中で、一切の学問的研究においてその方法上の基礎とみなされるべき「原理の中の原理」があると主張している。フッサールは、それに相当するものが「原的直観が認識の正当性の源泉である」という点にあるという。ちなみにアリストテレスは「矛盾律」と「排中律」を挙げている。</p>
<p><b>原的</b>：生身のありありとした現実性において、ということ。</p>
<p><b>ありありとした現実性</b>：主観にとってこの現実性は意識がそれを疑う動機をもはや持てない懐疑の境界線だ、という意味。「有体性」とも表現されることがある。</p>
<h4><span id="toc25">原的直観とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>原的に与える働きをする直観</b>(originär gebende Anschauung)</strong></span>：</big>・意識にとって現実性というものを疑いえなくさせる源泉となるような直観。原的直観と略されることがある。</p>
</div>
<p>１：例えば知覚などが原的直観を伴うものであり、想起や想像はそうではないとされている。原的に対して、派生的と呼ばれる。</p>
<p>２：単に知覚において事物を見て取ることだけではなく、事物を見ながら同時に、意味や本質を見て取る働きを意味しているという。つまり、知覚直観と本質直観の両方の働きを、原的直観と呼ぶことになる。</p>
<p>例：目の前にペンが「ありありとした現実性」において在ると知覚していることを疑うことは難しい。自分の意識の自由で「ペンがない」という意識に変えることは難しい。疑うことができない次元という意味で、「<b>不可疑性</b>」とも表現されることがある。たとえばデカルトが「我が思っている」ということは疑いえないと主張したのと類似している。</p>
<p>・私(主観)と独立に物が客観的に実在しているかどうかは、<b>人間の能力では知ることはできない</b>。しかし、実在していると「信憑(確信)」していることは確かであり、その条件としての「原的直観」というものがどうやら人間には備わっている。そうした条件を明らかにしていく。</p>
<h4><span id="toc26">【コラム】ジャック・デリダのフッサール批判</span></h4>
<p>１：竹田青嗣さんによれば、デリダは諸原理の原理である原的な直観を「正しい認識を作り上げていくための起源としての出発点」として批判している。</p>
<p>２：しかし、フッサールの「認識の正当性の源泉」という言葉は、原的な直観が正しい認識のための基礎だという意味ではなく、「<b>人間のさまざまな判断がこれは間違いない(不可疑だ)という確信を伴う根拠だ</b>」と言っているに過ぎない。</p>
<blockquote>
<p>「明証性の問題において最も問題となるのは、物質的事物の知覚という場面で」ある。なぜなら、明証性とは物と知性の一致の経験であるが、そこでいわれている物とは、想像された物や想起された物であるよりは、まさにいま実際にありありと目の前にある「この物」のことであろう。なぜなら実際に実物として知覚されているものこそが有体的（Ieibha価g）にありありと知覚されているものであるからであり、想像された物や想起された物は、その実物の派生態と考えられるからである。ここにおいて「一切の諸原理の原理」というフッサールの主張がなされる。</p>
<p>すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉である。つまりわたしたちに対し「直観」のうちで本原的に(いわばその有体的な現実性において)提示されてくるすべての物は、それが自分を与えてくる通りのままに、しかしまたそれがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取らねばならない。(II/1,S.51)</p>
<p>それでは原的経験とは何かというと、フッサールは「感性的知覚こそは、諸々の経験的作用の中で、ある確かな意味において、一つの根元的経験（Urerfa㎞ung）という役割を演じていて、他のすべての経験的作用はおのれの基礎づけの力の主要部分を、この根元的経験から引き出してくる」（皿／1，S．81）という。従って、感性的経験こそが最も原的経験とみなされ、相関的に感性的経験において経験されている感性的事物こそが最も原的であるということになる。そしてそこにおける明証性こそが現象学的分析の正当性を基礎づけるものである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,151P</p>
<p>「人間の理性は、本性上一切の認識や判断を怪しいと疑う”権利”をもっている。ところが、あらゆるものを疑った果てに、ただひとつの種類の『確信』は原理的に『不可疑』なものとして残る。どんな認識や思想にも必ずさまざまな”臆見”がつきまとっているが、そのいちばん底には、もはや臆見と言えないもの、それを疑うことが無意味であるようないわば『確信』の底板というべきものがあると、原理的には言える。それをフッサールは『諸原理の原理』、つまり『原的な直観』と呼ぶのだ。だから彼はこれを、『認識の<strong>正当性</strong>の源泉』であると言うのである。しかし、このようなフッサールの発想はうまく受け取られずに、大きな誤解を呼んでいる。たとえばJ・デリダは、フッサールの『原的な直観』という概念を、”正しい認識を作り上げていくための『起源』としての出発点”と理解し、そのため、現象学は伝統的な形而上学を擁護している、といった批判を行っている。ところが、フッサールがこれを『認識論の正当性の源泉だ』と言うのは、『原的な直観』は『正しい認識』のための基礎だと言うのではなく、ただ人間のさまざまな判断がこれは間違いない(不可疑だ)という確信を伴うことの根拠だ、と言っているにすぎないのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,50P</p>
<p>「この『原的に与える働きをする直観』とは、＜知覚＞直観と＜本質直観＞であり、『原的に』ということの意味は、「その(略)<strong>ありありとした</strong>現実性において」ということだ。『原的』な直観とは、＜意識＞にとって<strong>現実性、現実存在、現実</strong>というものを疑いえなくさせる源泉となるような直観を意味している。想像、想起、記憶、再表象、これらは『原的』な直観ではない。＜知覚＞直観と＜本質＞直観の特質は、それらが他の諸表象と違って、＜意識＞の自由にとって彼岸である(ままならない)という点だ。そしてこの彼岸性(ままならなさ)こそ、それらが対象の現実性、現実存在の源泉となることの根拠である。もうひとつ重要なのは、それらを『端的に』、『それらが自分を与えてくるままに』受け取らねばならないことの理由である。『ありありとした現実性』というのは、＜主観＞にとってこの現実性は＜意識＞がそれを疑う<strong>動機</strong>をもはや持てない”懐疑の境界線”だ、という意味を持っている。この『ありありとした現実性』は、それをもし疑うなら、生の明証性の意識がどこにも存在しなくなってしまうような、懐疑、解析、認識の<strong>底板</strong>なのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,226-227P</p>
<p>「フッサールによれば、上のような様々な定立の仕方の中でも最も正当なものは、「直接的に『見る』こと（dasunmittelbare„Sehen“）」である（cf.III/1,43）。直接的に「見る」こととは、「原的に与える働きをする直観」、別言すれば、「生身のありありとした／有体的な（leibhaft）」現実性を具えた直観を意味する（cf.III/1,43,51）。こうした原的直観において捉えられているものごとは、〈現実に存在しないはずはない〉という原的な明証性を具えている3。『論理学研究』での表現を借りれば、「明証とは真理の『体験』にほかならない」（XVIII,193）のである。このように原的直観における明証性を真理の根源的審級として「原理中の原理」に据えることが、フッサールの下した哲学的決断であるとともに、根本主張である（cf.III/1,51,326）。すなわち、フッサールは次のように主張する。</p>
<p>次のような<strong>原理中の原理</strong>がある。<strong>あらゆる原的に与える直観が認識の正当性の源泉</strong>であるということ、すなわち<strong>「直観」のうちで原的に</strong>（いわばその生身のありありとした現実性において）われわれに<strong>呈示されてくるすべてのものはそれがみずからを与えてくるとおりに、</strong>とはいっても、<strong>それがその際にみずからを与えてくる限界内で端的に受け取らねばならない</strong>ということである。これについてはどんな考えられうる理論もわれわれを迷わせることはできない。（III/1,51）</p>
<p>こうした主張は、至って簡素ではあっても、或る種の根源性を具えている。というのも、真理性を問うてゆけば、直接的に「見る」ことに行き着くほかはないからである。つまり、直接的に「見る」ことによってはじめて、或るものごとが〈何〉であり〈どのよう〉であるのかについて判断を下すための権利根拠を得るのであって、如何なるものごとも、体験において与えられていることとの連関を失っては、その真理性を確かめることができなくなってしまう。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,9P</p>
<p>「まず,周知の「原的に与える直観(originärgebendeAnschauung)」が,この第一篇で提示されている(III/1,51)&#8217;ことを指摘しておかねばならないであろう。言うまでもなく,それは「あらゆる原理の原理」と呼ばれており,現象学の最重要の原理として指定されている。現象学研究者のあいだですら,ともすれば誤解されているむきがあるが,フッサールの「原的に与える直観」は,単に知覚において事物を見て取ることではない。この「直観」は「本質認識」を論じる文脈のなかで示されているのであり,事物を見ながら同時に「意味」や「本「質」を見て取る働きを意味しているのである」</p>
<p>宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」,39P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">知覚直観とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>知覚直観</strong></span>：</big>・ある個的対象をありありとした現実性において把握する意識のこと。個別直観や感性的直観、経験的直観、感性的知覚作用、原的な知覚、原的な経験とも呼ばれている。</p>
</div>
<h4><span id="toc28">個的存在(個的対象)とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>個的存在</strong></span>：</big>・「いまここにあるこのもの」というような、時間的・空間的な位置をもつ存在のこと。ある時やあるところでのみ妥当するというような「<b>そのつど性</b>(１回限り)」をもつ存在のこと。重要なのは、個的対象は「事実」的なものであるが、しかし「本質」的なものも貯蔵しているという点である。</p>
</div>
<p>「別のありかたをすることができた」という意味で「<b>偶然的</b>」と表現されることがある。他にも類似の概念として、「<b>アポステリオリ</b>・<b>実在的</b>・<b>事実的</b>・<b>個別的</b>」などと表現される。知覚直観は、「目の前に(空間性)」「今(時間性)」あるマウスを「見る」、「触る」といったように、時間的・空間的な位置をもつ存在と強く関わる。</p>
<p>例：「目の前にある赤いペン」は個的存在である。時間が経てば陰影が変わって違う色に見えたり、違った意味合いで捉えられたりする。しかし、「色は広がりをもつ」という本質は個的存在ではなく、いつでもどこでも妥当するような普遍的なものである。</p>
<h4><span id="toc29">事実と本質の違いとはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>事実</strong></span>：</big>・個的存在の偶然的な側面。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>本質</strong></span>：</big>・事実に含まれている必然的な側面。普遍的本質やエイドス(形相、形態)とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>例えば目の前に今ある机は「事実」であり、目の前にも隣の部屋にも、その他多くの机にも共通しているような机一般の性質は「本質」である。</p>
<p>知覚には「統握」という作用がある、という側面は「本質」である。田中さんがりんごを見たというのは「事実」であり、この知覚には上記の「本質」が属している。りんごを見た、リンゴを触った、リンゴを嗅いだというような知覚に必ず共通しているような構造とはなにか、条件とはなにかを分析していく作業が現象学における分析である。</p>
<p>事実を対象とする学問は「<b>事実学</b>」と呼ばれる。たとえば心理学や物理学がこれにあたる。</p>
<p>本質を対象とする学問は「<b>本質学</b>」にあたる。事実学を基礎づけるような学問であり、したがって、他の全ての学問を基礎づけるような学問である「現象学」がこれに相当する。</p>
<p>さらに本質は「形式的本質」と「質料的本質」に分かれ、現象学は「質料的本質」を扱うものだという。「質料的本質」とは机や鉛筆のように「内容」を伴った本質を意味する。一方で、形式の場合はそのような内容を伴わない、空虚な形式だという。別の区別では、現象学は「類型的本質」を扱い、数学などは「精密的な本質」を扱うといわれている。数学は「人の見ることのできないものを表現」しているが、現象学は「素朴な直観から直接取り出された本質を表現」しているという違いがある。</p>
<blockquote>
<p>「或る個的対象は、ただ単に一般に、一つの個的対象、一つのここにあるこのもの！、一つの一回かぎりの対象であるだけではなくて、それは、『それ自身において』これこれの性状においてある対象として、その特性を持ち、本質的な述語要素をそれなりに貯蔵させているものである。この本質的な述語要素は、その対象に、……帰属しなければならず、そうしてこそ、その対象に、他の二次的で偶然的な諸規定が帰属するようになれるのである。そういうわけで、例えば、どんな音もみな、それ自体として、或る本質を持ち、そしてその最上位に、音一般もしくはむしろ聴覚的なもの一般という普遍的な本質を持つのである。」</p>
<p>フッサール『イデーンⅠ』,第二節,孫引き　竹田青嗣「現象学入門」,58P</p>
<p>「『事実』とは、それぞれの『個的存在』にかかわり、したがって『偶然的』なものだ。ところが『本質』とは、その個的存在の”偶然性”に含まれている本質『必然性』の側面である。だからどんな『事実』もそこに『本質』を含み、したがってある『本質』として<strong>観取</strong>され、記述される。＜私＞がいま聞いている<strong>この</strong>音は、『<strong>いまここにあるこのもの</strong>』として『偶然的な事実存在』である。ところが、同じ<strong>この</strong>音は『音』一般といわれる『述語要素』を持ち、この側面は『必然的』なものだ。この音の前者の側面をわれわれは『事実』と呼び、後者の側面をその『本質』と呼ぶ。じつに明快である。それでもわかりにくい読者はこう考えればいい。＜私＞がある個物を見る(感覚する)。この個物はそれを＜私＞がいまここで経験しているものとしては『事実』である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれる(ピアノの音とか、『電車の音』とか)。この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが『本質』であると。要するに現象学で言う『本質』とは、言葉(それによって形成されるなんらかの理念)の<strong>意味</strong>のことだと考えていい。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,59P</p>
<p>「周知の通りフッサールは『イデーンI』の冒頭で学問を本質学と事実学とに二分している。フッサールにとって事実学とは経験科学であり、それは「空間一時間的に現存在するもの」（㎜／1，S．12）すなわち偶然的なものを定立するのである。従って事実学がそのような偶然的なものから何らかの法則を導き出したとしても、それは「事実上の規則」（ebd．）にすぎず、本質必然性という性格を持ち得ないのである。しかし偶然的なものは本質必然性と全く無関係なのではない。なぜなら、偶然的であるということは、「その本質に従えば、別のあり方をすることができたもの」なのであるが、それは同時に「あらゆる偶然的なものの意味には、まさにある本質、そしてある純粋に把捉しうるエイドスを持つということが属している」（ebd．）ということを意味しているからである。従っていかなる偶然的なものもその本質を持つのであり、むしろその本質によって空間一時間的に現存在するのである。さてこの偶然的なもの、例えば今わたしの目の前にあるこの机、この机は本質をもっているのであるが、それはまた上位の本質として机一般の本質をもっているのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」43-44P</p>
<p>「事実学においては偶然的な個物を定立するような経験がその学問を基づける作用である。しかしそのような経験によって定立されたものは、やはりその本質をもっているのであり、それにふさわしい領域に組み込まれることになる。誤解してはならないのは、ある偶然的なものは、まず存在し、その後にその本質に従ってある領域に組み込まれるということではない。逆に偶然的なものは、その本質が指定するところに従って存在するとフッサールは主張しているのである。そこから彼は「形式的な学問であれ、質料的な学問であれ形相的学問から独皿的でありうるような事実学は一つもない」（m／1，Sη）というのである。その理由として彼は二つのことを述べている。第一に、「経験科学は、どんな学問もみなそうであるが、対象に向かうものである以上、対象性一般の本質に属しているような諸法則に拘束されざるをえない。そのことによって、経験科学は形式的存在論的な諸学科の複合と関係することになる」（ebd．）のである。第二に「どんな事実もすべて養癖南な本質成素を含んでおり、そしてその事実の中に含まれている純粋本質に属する形相的真理はあらゆる可能な個別態（Einzelheit）一般と同様に、与えられた事実的な個別態に結びつけられているある法則を交付しなければならない」（皿／1，S．23）のである。現象学があらゆる学問の基礎づけを行おうとするならば、現象学は事実学であることはできないのであり、必然的に本質学でなければならないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」44P</p>
<p>「さて、数学や論理学は、アプリオリ・理念的・本質的・普遍的・必然的という存在論的性格をもったものについての学問(本質学)であり、心理学や物理学は、アポステリオリ・実在的・事実的・個別的・偶然的という存在論的性格をもったものについての学問(事実学)である。前者のものと後者のものは、そもそも『存在』の性格が違うのだから、後者から前者を基礎づけることはできない。さらに言えば、後者のものの学問は(事実的なものの測定にもとづいて)『精密学』になることができ、前者のものの学問は(本質的なものの構造連関にもとづいて)『厳密学』になることができるが、両者は別物である。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ！」78-79P</p>
<p>「アプリオリなものは、いつでもどこでも妥当するという『いつでも性』(普遍性)をもつが、アポステリオリなものは、ある時やある所でのみ妥当するという『そのつど性』しかもたない。『そのつど的なもの』から『普遍的なもの』を基礎づけることはできない。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ！」79P</p>
<p>「本質学は本質を対象とする学問であるが、フッサールはその本質をさらに二つに分けている。一方は質料的本質である。なぜなら上でわたしたちが考察していたこの机の本質、机一般の本質、そして物質的事物一般の本質といったような本質は、一定の内容を伴った本質だからである。フッサールはこれを本来的な本質であるという76。他方この質料的本質に対立するものとしてフッサールは形式的本質という概念を持ち出す。これは全く空虚な本質であり、「空虚な形式という仕方においてあらゆる可能的本質に適合する」（㎜ノ1，S，26）ものであるといわれる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,44P</p>
<p>「こで再び二種類の本質という話しに戻らねばならない。先にフッサールに従い本質を形式的本質と質料的本質に区別したが、さらに別の区別もある。一方で数学のような学科が扱う本質は、精密な本質といわれ、他方で現象学が扱う本質は、形態学的、あるいは類型的本質といわれる。この二つの区別は互いに交差するものであると思われる。前者の精密な本質は、精密な諸概念をその相関者として持っており、ということは精密な概念によって規定可能であるということであり、「カント的な意味での理念の性格」（皿／1，S．155）をもっており、『人の見ることのできないものを表現」（ebd．）しているのであるといわれる。これに対して、記述によって分析を進めていく場合のその記述の概念は、「素朴な直観から直接取り出された本質を表現する概念であって、何らの理念をも表現する概念」（ebd．）ではない。記」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,62P</p>
<p>「いま見てきたことで、フッサールがなぜ＜知覚＞直観を、判断や認識の「正当性の源泉」である『原的な直観』として示したかが明らかになったと思う。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」57P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">本質直観とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>本質直観(Wesensanschauung)</strong></span>：</big>・ある個的対象に属している「本質」の直観。ものごとに含まれる知(概念)を直観する働き。意味の理念性を捉える働き。</p>
</div>
<p>本質は本質直観によって与えられる。</p>
<p>例：「１＋１＝２である」という事態の直観。「色は広がりをもつ」という必然性の直観。</p>
<p>・フッサールにおける本質が取り出されてくる例</p>
<p>１：個的な音が知覚直観(経験的直観)において与えられる</p>
<p>２：諸々の音との比較において、共通なものが本質として直観されるようになる</p>
<p>本質は個的なものではない。したがって事実的なもの、時間的なもの、空間的なものを超えたものであり、いつでもどこでも妥当するような性質である。たとえばある色がある時では広がりをもち、ある時には広がりをもたないというようなものではなく、「いつどこでも色は広がりを持つ」というような普遍的な性質である。本質学は個的直観を基盤とした本質直観によって基礎づけられている。</p>
<p>知覚直観以外において、たとえば想像や想起においても本質直観は可能だとされているが、そもそも想像や想起は知覚に基づけられているので、結局は知覚直観が必要と考えることもできる。前回扱ったように、数字の１や２という概念も元々は知的直観を基盤としている。知覚的な直観から、能動的に成分を抽出(抽象)すると表現されることもある。</p>
<blockquote>
<p>「経験的直観、特に経験というものは、或る個的対象についての意識であり、かつ直感的意識として『対象を所与性へともたらす』ものであり、また知覚としては、対象を原的所与性へともたらし、つまりは、対象を『原的に』その『<strong>生身のありありとした</strong>』自己性において把握する意識へと、当の対象をもたらすものである。これと全く同様に、本質直観もまた、或るものについての意識であり、つまり或る『対象』についての意識であり、言い換えれば、自分の目差しがそれへと向かいつまた自分の直観のうちで『それ自身として与えられて』くるような何かの或るものについての意識である」</p>
<p>フッサール『イデーンⅠ』,第三節　孫引き 竹田青嗣「現象学入門」52P</p>
<p>「わたしたちの普通の経験は、偶然的な個物を定立するのである。それでは、空間時間をこえた本質をわたしたちは何によって知るのであろうか。周知の通り、フッサールはここで本質直観というものを主張するのである。本質はこの本質直観によって与えられるのである。この本質直観は『論研』において意味の理念性を捉える働きや範癖的直観として語られていたものと同種のものと考えてよいであろう。『論研』において、範麟的直観は感性的直観に基づけられているといわれていたが、『イデーンI』においては、個的直観は本質直観に転化させられることができるといわれている。この二つの直観の関係は、『論研』から『イデーンI』へのフッサールの思索の転回において変化しているわけではない。フッサールは次のようにして本質が取り出されてくるという。</p>
<p>この普遍的本質は、これを純粋に理解すれば、個的な音から（個別的に、あるいは他の諸々の音との比較を通して「共通のもの」として）直観しつつ取り出された<strong>契機にほかならない</strong>｛。（III／1，S．13傍点は引用者による）</p>
<p>本質をえるためにまず必要なものは、ここでは個的な音であり、それは個的、あるいは経験的直観によって与えられるものである。そして次に諸々の音との比較において共通なものが本質として直観されるのである。従って本質直観によっていきなり本質が与えられるわけではなく、それは常に個的直観から転化されるものなのである。単なる個的直観が本質を与えるのではないということには注意しておかなければならない。個的直観はあくまでも本質直観のための基盤なのであり、それによって時間空間をこえ、すなわち事実的なものではない本質が与えられることはないのである。従ってまたあくまでも経験的な法則であるような自然法則と、本質必然的な法則とは区別されなければならないのである。つまり自然法則はなるほど普遍的であるかもしれない、しかしそれは現実世界における普遍性なのであって、常に現存在定立を伴っているのであるが、それに対して本質必然性といわれているものは、そのような定立を伴っていないのである。ここでの考察をわたしたちは事実学から始めたのであるが、それは常に個的なものを定立するのである。しかしまた個的なものとは全く別種の本質もある。そのような本質を扱う学問が本質学とよばれる。事実と本質、個的直観と本質直観が無関係ではないのと同様、事実学と本質学も無関係ではない。そしてまた個的直観によって本質が獲られるのではないのと同様に、個的直観は本質学を基礎づけることはできない。本質学は本質直観によって基礎づけられるのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,59-60P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">知覚直観と本質直観の関係とは</span></h3>
<p>１：『論理学研究』(1901/1902)においては「範疇的直観」が「感性的直観」に基づけられると主張される。</p>
<p>２：『イデーンⅠ』(1912)においては「知覚直観は本質直観に転化させられることができる」と主張される。</p>
<p>この違いを見ていく前に、まずは「感性的直観」と「範疇的直観(カテゴリー的直観)」について見ていく。</p>
<h4><span id="toc32">「感性的直観」と「範疇的直観」</span></h4>
<p>※この項目は前回の記事の「補足：カテゴリー直観とはいったいなんなのか」を参照(出典もそちらに)</p>
<p>例えば「紙は白い」といった事態を表現ないし判断する場合を考えてみる。</p>
<p>この場合、感覚的直観に対応するものが、「白(色)がある」、「紙がある」といった要素である。もちろん正確には非言語的なものであり、濃淡や陰影などを含んでおり、一回きりの本質ではない要素である。</p>
<p>感性的直観(感性的知覚)は「事物」、「モメント」、「関係」にわけて考えることができる。たとえば事物は「紙がある」、モメントは「すべすべがある」、「白がある」、関係は「隣の机より高い」などである。このような要素は感性的に直観が可能だという。「感性的直観」は『イデーンⅠ』における「知覚直観」に対応する言葉であると言える(同義というより、先駆形態)。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/749460010f9a83ee8d183d415c612360.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2963" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/749460010f9a83ee8d183d415c612360.png" alt="" width="744" height="308" /></a></p>
<p>・感覚的知覚の分類をするとこのようなイメージになります。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/ed8bcac892986f12dfc4c402744b4b02.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2965" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/ed8bcac892986f12dfc4c402744b4b02.png" alt="" width="583" height="163" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/461bd5fc5e1656a5d90d945413ffe775.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2966" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/461bd5fc5e1656a5d90d945413ffe775.png" alt="" width="363" height="243" /></a></p>
<p>感性的直観が「実在的対象」を相関者にもつのに対して、範疇的直観は「理念的対象」を相関者にもつとされている。</p>
<p>範疇的直観は「判断」を構成する「知覚作用」であるといわれている。フッサールにおいて知覚とは、この時期において「感性的直観」だけではなく「範疇的直観」を含んでいる、広義の概念であるという点が重要になる。</p>
<p>知覚は定立的であり、中立的な想像と区別されている(定立や中立については後述)。</p>
<p>１：範疇的直観が捉えるのは「範疇的形式(カテゴリー的形式)」であるとされている</p>
<p>２：例えば「～は…である」という形式が挙げられている。「～がある」というのは感覚的直観によって捉えられるが、「～は&#8230;である」、いわゆる「S ist P」は感覚的直観のみでは捉えることができない。</p>
<p>「～は&#8230;である」というような形式は単なる物理的な知覚によって充実されない。形式は感性的に知覚されないという話。</p>
<p>３：範疇的直観はこのような形式の他にも、「意味」を捉えるものだとされている。言葉で表現されるような本質のこと。</p>
<p>例：「犬そのもの」や「果物そのもの」などは目や耳だけでは捉えることはできない「意味」。それに対して、私の飼っているポチや、眼の前を飛んでいた鳥などは、そうした意味ではない。</p>
<p>・スペチエスとは「<b>最低種</b>」を意味し、個体とは区別される。「事象内容をもつ質料的な本質」とも呼ばれる。たとえば「一」や「二」は「事象内容」をもたないので、「<b>形式的な本質</b>」という。</p>
<p>たとえば秋田犬は「最低種」であり、さらに犬はより上位の意味であり、「類」と呼ばれる。</p>
<p>・秋田犬、犬、哺乳類、生物というように普遍性の度合いが上がっていく。フッサールは最高類を「<b>領域</b>」と呼ぶ。「<b>物質的自然</b>」、「<b>生命的自然</b>」、「<b>精神世界</b>」の３つの領域があるとされる。</p>
<h4><span id="toc33">Q　範疇的に知覚される、あるいは充実されるとはいったいどういうことなのか</span></h4>
<p>１：カテゴリー形式を充実化するためには、カテゴリー的直観が必要である。</p>
<p>２：『論理学研究』(1901/1902)においては「<b>カテゴリー的代表象</b>」という説が主張されていた。ざっくりいえば、感性的直観における感覚と類比的に、範疇的直観においても「心的結合体」というものがあるのではないか、それによって充実され、体験されているのではないかという説。しかし、1920年に<b>撤回している</b>ため、今回は扱わない。</p>
<p>３：『イデーンⅠ』(1913)において新たな仕方で捉え直されるようになる。いわゆるノエシス-ノエマ構造の導入である。</p>
<h4><span id="toc34">知覚直観と本質直観の関係</span></h4>
<p>１：『論理学研究』では、範疇的直観は感性的直観に「基づけられる」と主張されている。</p>
<p>ようするに、感性的直観がなければ範疇的直観は成り立たないということ。ただし、「<b>基づける</b>」という意味は感性的直観に「還元」されるという意味ではないことに注意。</p>
<p>例：XがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができないということを意味する。Xが単純にYから導出することができる、ということを意味しない。</p>
<p>２：『イデーンⅠ』においては、「知覚直観は本質直観に<b>転化</b>させられる」と表現されるようになる。転化とは一般には、「 ある状態・物が別の状態・物に変化すること」を意味する。</p>
<p>紀平知樹さんによれば、『論理学研究』と『イデーンⅠ』における２つの直観の関係は、変化していないという。</p>
<p>たとえば仮に赤いリンゴを見て、「リンゴそのもの、一般」というような「本質」を「本質直観」のみではいきなり与えられないという。「知覚直観」がまず必要であるという話。しかしどのようにして必要となるのか。</p>
<p>（１）知覚直観単体で本質を与えるのではない</p>
<p>（２）本質直観単体で本質を与えるのではない</p>
<p>（３）知覚直観が「基盤」となって、本質直観が可能となり、本質が与えられる。</p>
<p>基盤、媒体、転化、契機、動機づけなど、似たような意味で表現されている。この二つの直観の関係は、統握においても「感覚内容を契機にして志向的内容が構成される」というような言い方がされているので重要となる(後述)。</p>
<h4><span id="toc35">Q 「本質直観」と「知覚直観」はどちらが知覚の構成において時間的に先なのか</span></h4>
<p>これはとても難しい問題である。たとえば『論理学研究』では感覚的内容がまず先にあって、それが意味賦与されて、対象が構成されるという「統握」の説明を行っている。</p>
<p>一方で、後にフッサールは1909年の草稿において、そうした区別は分析的に有効であるにすぎず、実際には本質がない感覚、感覚がない本質というものは考えられず、<b>一体である</b>ことが主張されるようになる。</p>
<p>竹田青嗣さんによると、「知覚の起源を探そうとすると循環してしまう」という。知覚は「覚」、つまり感覚だけでは成立せず、「知」、つまり概念や意味を必要とするという。しかし知は人間の身体(感覚器官)の働きがなければ成立しない。</p>
<p>要するに、一方的な依存ではなく、相互的に依存しているというわけである。</p>
<p>また、「転化」についての説明で竹田さんは、「どんな事実も言葉の意味(本質)へと置き直せる」と説明している。ただし、その置き換えが十全的なものとは限らないという。また、紀平さんによれば「知覚直観は本質直観に転化させられる」のと同様に、「本質直観も知覚直観に転化させられる」という。それゆえにやはり、両者とも「原的」であり、竹田さんの比喩表現で言えば「物の知覚と物の意味は兄弟」である。また、フッサールは本質直観(本質観取)を「<b>感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではない</b>」と説明している。</p>
<blockquote>
<p>「たとえば、赤いリンゴを見ているという個的(な知覚)経験において、何度確かめてもそれはひとつの赤いリンゴであるという確信が成立するためには、ある前提条件が必要である。この条件で最も重要なのは、そこにあるレベルでの概念(知)がすでに入り込んでいることだ。リンゴがなんであるかをまだ知らない幼児と大人とでは、またふつうの人とリンゴ作りとでは、赤いリンゴを見たときの”直観”のありようはひどく違っている。この違いは明らかにそこに入り込んでいる＜知＞＝概念の違いである。とすれば、『原的な』＜知覚＞が、現実知覚を構成するものとの要素とはいい難い。ふつうひとは、リンゴを一瞥しただけで、それがリンゴであること、およびリンゴがなんであるかを”直観”しているのであって、まず、赤い色、丸さ、重さ、つやなどの諸要素を『原的』に＜知覚＞し、つぎにそれを意識的に統合して一個の丸いリンゴの＜知覚＞像を得ているわけではないからだ。すると人間の個別的経験の『明証性』(たしかに事物がいまここに<strong>ある</strong>という直接経験の確実性)の基礎として、単なる＜知覚＞直観のほかに、どうしても＜本質＞直観、つまりものごとに含まれる＜知＞＝概念を”直観する”働きを考えざるをえなくなる。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,67P</p>
<p>「もろもろの事物は、知覚されたり、想起されたり、したがって『現実的』なものだと意識されたりすることができるし、或いはまた、変様された作用の中で、疑わしいものとか、空しい(幻覚的な)ものであるとかして……意識されることもできる。本質に関しても、事情は全くよく似ているのである。……本質もまた、ほかの対象と同様に、或る時は正しく、また或る時は間違った仕方で、思向されることができるのであって、後者の例が、間違った幾何学的思考の場合である。本質把握や本質直観というものは、ところで、多様の形態を持つ作用なのであり、とりわけ<strong>本質観取は、一つの原的に与える働きを作用であって、またそのようなものであるからには、感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである</strong>。」</p>
<p>フッサール『イデーンⅠ』,孫引き、竹田青嗣「現象学入門」,68-69P</p>
<p>「わたしたちの常識的な考え方は、物の＜知覚＞は、物が実在物であるがゆえに＜意識＞のありようと関係なく＜意識＞に現われ、物の＜意味＞(=知、概念)は、実在物ではなく抽象物であるがゆえに＜意識＞によって事物に賦与された(＝投げ与えられた)ものだ、と考えてしまう。ところがこれが違うのである。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,68P</p>
<p>「そういうわけで、物の＜知覚＞と物の＜意味＞は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に『疑いえないもの』の確信を与える働きをするのである。だから『知的直観』と『本質直観』は、独我論的＜自我＞という主にとって、意のままにならないやってかいな双子の兄弟と言っていい。」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,71P</p>
<p>「わたしたちの普通の経験は、偶然的な個物を定立するのである。それでは、空間時間をこえた本質をわたしたちは何によって知るのであろうか。周知の通り、フッサールはここで本質直観というものを主張するのである。本質はこの本質直観によって与えられるのである。この本質直観は『論研』において意味の理念性を捉える働きや範癖的直観として語られていたものと同種のものと考えてよいであろう。『論研』において、範麟的直観は感性的直観に基づけられているといわれていたが、『イデーンI』においては、個的直観は本質直観に転化させられることができるといわれている。この二つの直観の関係は、『論研』から『イデーンI』へのフッサールの思索の転回において変化しているわけではない。フッサールは次のようにして本質が取り出されてくるという。</p>
<p>この普遍的本質は、これを純粋に理解すれば、個的な音から（個別的に、あるいは他の諸々の音との比較を通して「共通のもの」として）直観しつつ取り出された<strong>契機にほかならない</strong>｛。（III／1，S．13傍点は引用者による）</p>
<p>本質をえるためにまず必要なものは、ここでは個的な音であり、それは個的、あるいは経験的直観によって与えられるものである。そして次に諸々の音との比較において共通なものが本質として直観されるのである。従って本質直観によっていきなり本質が与えられるわけではなく、それは常に個的直観から転化されるものなのである。単なる個的直観が本質を与えるのではないということには注意しておかなければならない。個的直観はあくまでも本質直観のための基盤なのであり、それによって時間空間をこえ、すなわち事実的なものではない本質が与えられることはないのである。従ってまたあくまでも経験的な法則であるような自然法則と、本質必然的な法則とは区別されなければならないのである。つまり自然法則はなるほど普遍的であるかもしれない、しかしそれは現実世界における普遍性なのであって、常に現存在定立を伴っているのであるが、それに対して本質必然性といわれているものは、そのような定立を伴っていないのである。ここでの考察をわたしたちは事実学から始めたのであるが、それは常に個的なものを定立するのである。しかしまた個的なものとは全く別種の本質もある。そのような本質を扱う学問が本質学とよばれる。事実と本質、個的直観と本質直観が無関係ではないのと同様、事実学と本質学も無関係ではない。そしてまた個的直観によって本質が獲られるのではないのと同様に、個的直観は本質学を基礎づけることはできない。本質学は本質直観によって基礎づけられるのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,59-60P</p>
<p>「ア・プリオリにその存在を疑えないものとして、デカルトが示した私、私の観念（コトバ）と体験（現象）だけから科学を構築できる、とフッサールは考えた。23そこで、現象学的還元による「内在―超越」構図を提示し、一切の認識は内在意識のうちで構成された確信（超越）であるとした。24「この机がいまここにある」という経験は、意識に「原的に」与えられている「いまここにある知覚」（クオリア）とぴったりは重ならない。よって事物存在は、構成された経験であって、知覚を超越したものである。オリジナルな体験を「内在」と呼び、構成された事象経験を「超越」と呼んだ。つまり、個々の原的な「知覚直観」が、意識の志向的統一によって「一つの机」という経験へ構成され、「存在する」という具体的な経験の確信（現実感）となる。」</p>
<p>青木秀雄「質的研究のための KJ 法の科学性に関する研究 3:「志」 と現象学の本質直観を中心に」,4P</p>
<p>「フッサールは、「主観/客観」図式から考える限り問題は円環するとして、「主観」の場所を徹底すること(コギト主義的立場)によって懐疑を極限化し、唯一「疑えないもの」を抽出しようと試みた。そして「妥当(確認)」の条件を確かめることに問題の核心があるとし、その条件として原的直観(知覚直観)と本質直観があるとした。ここで原的な所与とされる知覚直観は、カント的あるいは認知科学的な認識論の原型としての知覚ではなく、意識の自由にならないものとしての意味である。一方、本質直観とは言葉によって形成される理念の意味であると考えてよい。「事実」とは各個的な存在に関わり偶然的なものであるのに対して「本質」とはその個的な存在の偶然性に含まれる本質「必然性」の側面である。例えば「私」が今見ているこの偶然的な事実存在としてのあるモノは、絵画一般といわれるような「述語要素」を持ち、その側面は必然的である。このようにフッサールは、「主観/客観」という図式を展開するのではなく、徹底した「主観」の立場から還元し、実在する世界は確信(妥当)することでしかないことを示したのである。」</p>
<p>羽根義 「リアリティに関する 2, 3 の考察」,131P</p>
<p>「第一に,前期のフッサールは、知覚を「意味」や「本質」が見て取られる原初的な場面だとは見なしていなかった。知覚によって「色一般」のような本質や,命題の形をとる内容が見て取られるということは,やはり考えにくいことではないだろうか。この点について,『論研』のフッサールは,意味や本質は「意味志向」によって目指されるものでおり,知覚によって「充実」されることは「非本質的(außerwesentlich)」な事柄にすぎないと述べている(LU.II/1,50)。それに対して,上述のように『イデーンI』のフッサールは、知覚を「意味」や「本質」が見て取られる原初的な場面と見なしている。『イデーンI』では、あらゆる認識は「ここ,今(hicetnunc)」における知覚のなかにその権利源泉をもつとされているからである(III/1,316)。そこで得られる確かさは「原的な明証(originäreEvidenz)」ないしは「直接的明証(unmittelbareEvidenz)と呼ばれ,そこからさまざまな「間接的明証(mittel-bareEvidenz)」が導き出されるとされている。」</p>
<p>宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」,46P</p>
<p>「さて、事実(個物)と本質の区別において大事な点はいくつかある。まずひとつは、どんな『経験的もしくは個的直観』も『本質直観』(理念を観て取る働き)へと転化させられる(第三節)ということ。つまりどんな事実も言葉の意味へと置き直せるということだ。またこの意味への置き換えは、必ずしも十全なものとは限らないということ(＝言葉によって言い尽くせてしまうような事実と言い尽くせないような事実がある)。次に、どんな個的直観も本質直観へ転化されるのだが、本質直観は個的直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立すること。これはたとえば、いま＜私＞が現にある音を聴いていなくても、任意にたとえばヴァイオリンの音を想像的に喚起し、そのヴァイオリンの音は『音響だ』とか、『楽器の音だ』とか考えることができるということだ。さらに、これが重要だが、本質直観は『原理的に固有のまた新しい種類の直観なのでもある』(第三節)」</p>
<p>竹田青嗣「現象学入門」,59P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">基づけや契機について</span></h3>
<p>・基づけには二種類あり、相互的な基づけと一方的な基づけがある</p>
<p>たとえば「王は臣下がいなければ存在できない」といったケースなどが考えられる。一方で、机は板と足に分解できるので、相互的な基づけ関係にあるとはいえない。ただし、机は色と形に分解することができない。一方的な基づけの例としては、現象学は他の学問を基づけるが、他の学問に基づかれる必要はないケースが考えられる。</p>
<p>このように分解できない関係を「<b>非独立的部分</b>」、あるいは「<b>契機(抽象的部分)</b>」などという。本質直観や知覚直観は「非独立的部分」であり、「契機」であり、お互いの関係は「相互的な基づけ」にあると整理することができる。契機の代わりに「<b>媒介</b>」という言葉がもちいられることもある。一方で、独立的な部分を「<b>断片</b>」と呼ぶ。</p>
<p>さらに、「統一」という言葉も基づけとの関連で重要になってくる。</p>
<blockquote>
<p>「基づけには二種類あり、一つは相互的な基づけであり、もう一つは一方的な基づけである。前者の例としては先ほどの色と形の場合である。つまり色は形による補足を必要とするし、形は色による補足を必要とするということである。後者の例としては、判断性格とその根底である表象の関係である。つまり判断とは常に何かについての判断であるから、判断性格は、そのもとになる表象に基づけられているのであるが、その逆、つまりなんらの判断性格も持たない表象というものがあることも可能であり、それゆえ判断性格は表象を基づけているとはいえないのであって、表象が判断性格を一方的に基づけているといわれるのである。さらにフッサールは部分のうち、非独立的部分を契機(Moment)とよび、独立的部分を断片(Stück)という。</p>
<p>全体Gに対して相対的に独立的なあらゆる部分を断片とよび、Gに対して相対的に非独立的なあらゆる部分をこの同じ全体Gの契機(抽象的部分)とよぶ。(XIX/1,S.272)」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,26P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">統一と総括の違いとはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>統一(Einheit)</strong></span>：</big>・二つ以上の部分が相互に関係しあって一つの全体を形成していること。多数の部分に分解されないものを「単一的」と呼ぶ。ただし抽象的に取り出すことは可能だという。そして原的直観から抽象的に取り出されたものが、本質直観や知覚直観であるということができる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>総括(Inbegriff)</strong></span>：</big>・二つ以上の部分が単に一緒にあること</p>
</div>
<p>統一は一方が他方に単に還元される関係ではないという点が重要になる。比喩的に言えば、レゴブロックのブロックのように組み合わせるような関係にはない、つまり総括ではないということになる。今までの話でいえば、「知覚直観」は「本質直観」の単なる元素ないし起源ではないということになる。この点は、統握において「感覚内容」が「志向的対象(あるいは志向的内容)」の単なる元素ではないという主張を理解する際に重要になってくる。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは「基づけの統一性という言い方は、あらゆる内容が基づけによって、直接的にせよ、あるいは間接的にせよ、あらゆる内容と関連するという意味である」(XIX/1,S.282)とか、「真に統一するものはすべて基づけの相互関係である」(XIX/1,S.286)と述べている。従ってEinheitが統一と訳される場合には、二つ以上の部分が相互に関係しあって一つの全体を形成していることを意味する。それに対して「単に一緒にあること(einbloßesZusammen-sein)」(XIX/1,S.288-289)は統一とは呼ばれず、それは総括(Inbegriff)といわれる。次にEinheitが単一といわれる場合も明らかにしておこう。この場合はEinfachheitということと同義であろう。フッサールは「多数の部分へ分解されえないもの、すなわち少なくとも二つの離接的部分が区別されえないものは単一的(einfach)とよばれねばなるまい」(XIX/1,S.229)と述べている。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,26P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc38">定立</span></h2>
<h3><span id="toc39">定立とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>定立(Setzung/Thesis)</strong></span>：</big>・対象(何か)が何らかの仕方で存在するとみなされる意識の働きのこと。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/Redsugar0418017_TP_V4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2969" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/Redsugar0418017_TP_V4.jpg" alt="" width="429" height="286" /></a></p>
<p>例１：庭の花を見るという「知覚作用」は、「庭の花」が「ありありとした現実性」という仕方で「存在する」とみなされる意識の働きである。</p>
<p>例２：「その花はツツジである」という事態の「判断作用」、「昨日庭の花を見た」という「想起作用」も定立を含んでいる。しかし、知覚作用と違い、想起作用の場合は「その時点で現前していない」という点で、「何らかの仕方」という点が異なる。</p>
<p>このように、<b>「同じ花(対象)」を「違った仕方」で存在するとみなす意識の働きが複数ある</b>という点がポイントになる。いわば志向性の多様性であり、知覚はそのなかの一つである。「違った仕方」は「<b>所与性様式の相違</b>」とも表現される。</p>
<blockquote>
<p>「それでは、この「見る」の意味をさらに探っていこう。『イデーンI』のある付論では、「見る」ということ（および「洞察する」こと）には次の二つの意味があると言われる（III/2,618）。（1）定立の理性性格を<strong>動機づけるもの</strong>。定立の正当性の根拠としての「正当性根拠」。これがすなわち見ることである。（2）理性性格そのもの。5）このとき、この「定立」とは、対象が何らかの仕方で存在するとみなされる意識の働きのことであり、「理性性格」とは、対象が<strong>現実に</strong>存在するとみなされる場合に、その定立に与えられる性格のことである。ここから、「見る」と「動機づけ（Motivation）」とが密接に関係しているらしいということがわかる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,107P</p>
<p>「フッサール現象学では、何かが成り立っていると見做すことを「定立（Setzung/Thesis）」と呼ぶことから（cf.III/1,239,260,268–269）、この問いは次のように定式化されるとみてよい。すなわち、〈ものごとを現実的なもの（Wirklichkeiten）として定立する正当な仕方とはどのようなものか〉、と。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,3P</p>
<p>「現実性の問題に対する『イデーンI』での取り組みは、「エポケー」と呼ばれる方法をその発端としている。「エポケー」とは、いかなる存在定立に対しても、その妥当性をあらかじめ受け入れることなく、留保することを意味する（cf.III/1,61–64）。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,3P</p>
<p>「本論冒頭で例として挙げた、「ガスの元栓が現実に閉まっている」と定立する場面について考えてみよう。この際われわれは、「ガスの元栓が閉まっている」と知覚することによって、そのように定立することもあろう。また、「先程ガスの元栓が閉まっているのを確認した」と思い出すことによって、そのように定立することもあろう。また、「ガスの元栓は閉まっている」と人から聞くことによって、そのように定立することもあろう。フッサールによれば、上のような様々な定立の仕方の中でも最も正当なものは、「直接的に『見る』こと（dasunmittelbare„Sehen“）」である（cf.III/1,43）」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,8P</p>
<p>「こうした直接的に「見る」ことは、「<strong>どんな種類のものであれ原的に与える働きをする意識であるかぎりの見るということ一般</strong>」（III/1,43）と記されるように、広い射程を具えており、対象の種別によって制限されることはない。『イデーンI』ではそれに属するものとして、事物知覚、本質観取、反省が挙げられている（cf.III/1,14–15,50,90,95,168）。これらと対比的に、想起や伝聞においては、対象はありありとした現実性において直観されていない（cf.III/1,314–315）。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,10P</p>
<p>「たとえば庭の花を見るといった「知覚作用」や，その花がツツジであるといった「判断作用」は，その対象が現に存在するとする対象の「定立」を含む。また，そうした経験を，たとえば昨日の経験として「想起」するような場合には，対象も経験もその時点で現前してはいないが現前しているように経験するので「再現前化」されると言われる。この場合にも，対象は過去のものとはいえ存在したと見なされるので，それは定立されていると言える。これに対して，対象が見えていても，何らかの事情により，対象が存在しない（あるいは，存在しなかった）とみなされる場合には対象の定立は中止されている，と言われる。また，「想起」と同様に対象が想い浮かべられてはいても，その対象が現実には存在しない（しなかった）と思われている場合，そこには対象が現にそこに存在するという定立は含まれておらず，そうした作用こそ「想像作用」にほかならない。こうして，知覚，判断，想起などのように対象を定立する作用と対照的に，対象を定立しない態度は「中立的態度」と呼ばれ，そうした態度に移行することは「中立性変様」と呼ばれていた。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,24P</p>
<p>「すなわち、「想起」が以前の知覚作用などの「存在の措定」を含むのに対して、「想像」はそうした「存在の措定」にとらわれることなく自由に「知覚」を思い浮かべる作用であるという区別がなされた。また、作用問の時間意識上の関連も含めて、「再生産」といった諸作用全体の関連が明確化され、これに対する「中立変様」の独自性も浮かび上がってきた。これらのことが、「想像」と「中立変様」の関連の捉え直しを促したように思われる。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,303P</p>
<p>「そこでフッサールは，『イデーン第一巻』の「中立性変様」と題された§１０９において，「その変様は，それが加えられるとどのような臆見的様相もみな或る種の仕方でまったく停止させられ，まったく力を殺がれるというものである──しかし，それは，否定とはまったく別の意味においてである」と述べている。こうして，『イデーン第一巻』では，「想像作用は，&#8230;&#8230;想起の中立性変様である」と言われていたのである。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」24P</p>
<p>「ここで「<strong>再</strong>生」ないし「<strong>再</strong>現前化」としての「想像」とは，知覚などの「現前化」と対比される通常の想像であり，前節でみたように，「想い浮かべる」という点で「想起」と共通性をもつ中立的作用である。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」28P</p>
<p>「第１に「美的風景の観照」といった事例がある。１９１８年の「草稿１８番」には，「風景を美学的に観照する」場合について，次の叙述がある。</p>
<p>『われわれは現出するものを，<strong>あたかも</strong>それが現実である<strong>かのように</strong>，受け入れる。&#8230;&#8230;われわれはなるほど経験してはいる，しかし，われわれは経験の態度にあるわけではない。われわれは経験の措定を現実にともに行っているわけではない。われわれにとって現実は《かのような》現実となるのであり，《戯れSpiel》になるのである，客体が美的な仮象に，<strong>覚知的</strong>ではあるが端的な<strong>想像</strong>客体になるのである。』</p>
<p>ここで，この作用が「想像」の一種であるとされるのは，対象を見る際の態度が，事物の存在を措定しながらその探索を行うような「知覚的態度」ではなく，中立的であって事物の存在には関心が向かっておらず，美学的ないし美的観照の態度にあるからである。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」29P</p>
<p>「b）は，上のように「判断作用」を「表象的に客体化する」というのではなくて，直接その判断を留保し，判断される事態を「ただ思うだけ」である。これは，判断を下すことを想起したり想像したりするということではなくて，「今まさに，或る内容の判断を下すことを留保すること」なのである。そこで，以上のように判断に関して「想像作用」と「中立性変様」を区別できるとすれば，a）で示されたように，「想像」は「再現前化（想起）」の「中立性変様」なのであるが，b）のような場合があることを考えれば，「中立性変様」がすべて「再現前化」の「中立性変様」だというわけではない，ということがわかる。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」54P</p>
<p>「ノエシスというのは、対象を志向する意識の作用を広く指す語であって、いままで見てきたような「意味」を形成・付与する「統握」だけを指すものではない。これから見る「定立」という作用も、ノエシスの重要な作用である。「定立」Setzung/Thesisとは、存在するものとして「立てる」「置く」という作用である。統握されたノエマ的意味に、「存在」に関する契機を付け加えることである。意識は、様々の様相においてこれを行なう。ノエマの方も、単に「何であるか」だけではなく、それが「存在する」とか「存在するかも知れない」とかいった存在様相が付け加わった形で形成されてくる。ノエマ的意味にそれの存在様相が加わったノエマを「命題」Satzと言うのは、「定立されたgesetzt意味」ということを表現したものであろう。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,17P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">設定立とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>設定立</strong></span>：</big>・対象(何か)が現実のものとして存在するとみなされる意識の働き。</p>
</div>
<p>肯定・否定、特に「中立化(中立性変様、想定)」と区別した狭義の定立であるといえる。</p>
<p>つまり、「設定立的ではないもの」が「中立的」なものであり、対立軸的に考えられている。そしてお互いに「様相」が現実的か、非現実的かで異なる。</p>
<blockquote>
<p>「中立性変様が主題になるのは第109および110節からである。肯定、否定、懐疑などの様相や性格に対立し、それらから「完全に隔絶した立場にある」（III/1,247）ものとして中立性は登場する。その対立軸は「設定立的」であるか否か、つまり「現実」のこととして受け取られるか否かという点にある。こうした中立的な性格を表す表現が、後の節では「いわば」（“gleichsam”）様相とも名付けられる（III/1,256）。即ち、「いわば肯定」などという具合で、有意味でありつつも現実的な妥当性に囚われない在り方が表現される。」</p>
<p>田中俊「フッサールにおける中立的潜在性から中立的受動性への変遷について」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc41">存在様相とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>存在様相</strong></span>：</big>・信念諸性格(臆見的諸性格)の「<b>確実さ</b>」の度合いのこと。意識の信念作用の諸形態。</p>
</div>
<p>様相とは一般に、「事物の存在の仕方」を意味する。たとえば設定立は現実のものとして存在するとみなされる意識のはたらきではあるが、その働きが確信的か、懐疑的かといったように「様相」がさらに細かく分類される。</p>
<p>たとえば目の前に女性がいてそれを見る場合、女性が現実に存在していると「確信」している。しかしやっぱり人形かもしれない、と「疑う」というように「変様」する場合もある。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/a1b506ec2fc825e70a1a6dcc6d926397.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2970" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/a1b506ec2fc825e70a1a6dcc6d926397.png" alt="" width="634" height="514" /></a></p>
<p>図は存在様態の例。二宮公太郎さんの「フッサール哲学　早わかり」の図を参考に作成。</p>
<h3><span id="toc42">現在化と現前化の違いとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現在化(独;Gegenwärtigung)</strong></span>：</big>・対象を現にありありと捉えるという作用。例：知覚</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現前化(独;Vergegenwärtigung)</strong></span>：</big>・「現にない対象を現にあるもののように思い浮かべる」という作用。例：想起や予想</p>
</div>
<p>・「<b>所与性様式の相違</b>」の主要な区別として、「現在化」と「現前化」、さらに「中立化」というものがある。</p>
<blockquote>
<p>「志向性には、「現在化」（Gegenwärtigung）と「現前化」（Vergegenwärtigung）の区別がある。現在化という志向作用のグループには、知覚が含まれ、現前化のグループには、記憶（長期記憶としての想起）や想像が含まれる。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,2P</p>
<p>「フッサールは、すべての現象するものは現象学的時間の中で構成されると考え、その時間領域を「現在化（Gegenwiirtigung)Jおよび「準現在化（Vergegenwiirtigung）」に区分する。そこで特徴的なのは、〈現在という時間は幅を持つ〉ということである。今こうしている聞にも時間は到来しては過ぎ去るが、フッサールは、それを＜点＞ではなく＜一連のもの＞として現在とみなす。すなわち、現在化領域とは、〈今〉まさに事象が自の前でありありと現れている「原印象（Urimpression)Jと、原印象につなぎ止められつつもくたった今〉過ぎ去ったばかりの「把持（Retention)J、そしてくこれからすぐ〉原印象へと向かう「予持（Protention)Jからなる。また、準現在化領域は、現在から一旦途切れた時間領域のことである。すなわち、今日の昼食のメニューを「予期（Erwartung）」したり、昨日の夕食は何だ、ったかと「再想起（Wiedererinnerung）」したりする場合である。」</p>
<p>寺前典子「音楽のコミュニケーションにおける内的時間とリズムをめぐる考察 シュッツ音楽論およびフッサール現象学からのアプローチ」,60P</p>
<p>「この二つの系列の区別を要求するのは、「現在化(Gegenwartigung)」と、「現前化(Vergegenwartigung)」という、意識の根本的に異なる二つの様態である。フッサールによれば、現在化とは.知覚のようにその対象を現にありありと捉えるはたらき、すなわち「客観を根源的に構成するはたらき、&#8230;&#8230;何かをそのもの自身として眼前に呈示するはたらき」である。他方、現前化とは、例えば想像や想起のようにその対象を架空のものとして、或いは過去のものとしていま捉えるはたらき、つまり「客観そのものを眼前に呈示するのではなく、&#8230;&#8230;その客観を擬似的)に心像のうちに呈示する」はたらきである。したがって時間意識に関していえば、〈過去-(現在)-未来〉という第一の系列は現前化の系列であり、〈把持-原印象-予持〉という第二の系列は現在化の系列であると一応いうことができる。そ」</p>
<p>斎藤慶典「フッサール初期時間論における「絶対的意識流」をめぐって」,188P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">中立性変様とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>中立性変様(Neutralitätsmodifikation)</strong></span>：</big>・「あたかもしかじかであるかのような」という仕方で捉える意識のあり方。「存在の措定(定立)」にとらわれることなく自由に知覚などを思い浮かべるはたらき、仕方とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>定立することを否定するのではなく、停止している働き。「対象の存在を未決定のままにしておく」とも表現される。</p>
<p>例：幽霊は存在しないと判断するのではなく、幽霊を思い描きつつ、いるともいないとも思っていないような、定立に無関心な態度。</p>
<blockquote>
<p>「すなわち、「想起」が以前の知覚作用などの「存在の措定」を含むのに対して、「想像」はそうした「存在の措定」にとらわれることなく自由に「知覚」を思い浮かべる作用であるという区別がなされた。また、作用問の時間意識上の関連も含めて、「再生産」といった諸作用全体の関連が明確化され、これに対する「中立変様」の独自性も浮かび上がってきた。これらのことが、「想像」と「中立変様」の関連の捉え直しを促したように思われる。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,303P</p>
<p>「自分の顔と部屋の内部が鏡に映し出されているのを見る場合にも，われわれは，まさしく鏡のところに部屋の風景が実際に存在するとは認めていない。このように，事柄を非現実のものとして捉える意識，より正確には，「あたかもしかじかであるかのような」という仕方で捉える意識のあり方をフッサールは「中立性変様Neutralitätsmodifikation」と呼んだ。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,49P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">想像と中立性変様の違いとは</span></h3>
<p>１：「中立性変様」は想像作用に含まれている契機(非独立的要素)であるとされている。つまり、中立性変様がなければ想像作用というものは成り立たない。</p>
<p>しかし、中立性変様＝想像作用というわけではない。フッサールは「中立性変様と想像との混同が防止されねばならない」と述べている。</p>
<p>２：想像作用とは、「措定的な再現前化の中立性変様、つまり想起の中立性変様」であるとフッサールは述べている</p>
<p>知覚を再生する作用が「想起」であり、さらに「想起」が中立的に変化した作用が「想像」であるという話。</p>
<p>たとえば想起の場合は「昨日、庭に赤い花が咲いていた」というように「定立(現実存在の措定)」を含んでいる。このような定立に無関心に、自由に思い浮かべる作用が想像である。たとえば、「昨日、庭に白い花が咲いていた」というように変様して想像することができる。実際に存在していたのは赤い花であるが、白い花へと変様させたわけである。なんら知覚が関わっていない純粋な想像はありうるのだろうか。ペガサスの場合も、やはり最初は馬や鳥という知覚が関わっているのかもしれない。その意味では、想像はなんらかの志向性の変様だと言えそうだ。</p>
<p>想起ではなく、まさに今ある知覚に対して、判断を下すことを留保するというような中立性変様もあるという。</p>
<p>たとえば今現在、鏡を見つつ、鏡の中の景色や自分は実在しているとも、実在していないとも判断せず、否定もせず、肯定もせず、留保しているような事態、まさに「ただ思うだけ」という「中立性変様」がありうる。フッサールはこのような中立性変様を、（想起ではなく）知覚の中立性変様であるという。</p>
<p>今トイレに行っている友人は、目の前にはいない。しかし目の前にいるかのように想像することはでき、またその想像は「今友人が目の前にいる」という「知覚」の再現である「想起」が元になっている。こうした「想起」が「想像」の重要な要素である。では、天使の場合に「知覚(及び想起)」とどのような関係があるのかというややこしい問題は、前回の動画の「無対象表象問題」を参照。</p>
<blockquote>
<p>「しかし単に思い浮かべるだけといっても中立変様は想像とは異なるとフッサールはいう。簡単にこの両者の違いをフッサールに従って指摘しておくならば、まず想像とは、定立的な準現前化の中立変様であるということである。他方中立変様は、そもそも定立をなんら含んでいないのである」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」131P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc45">想像と像意識の違いとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>像意識</strong></span>：</big>・画像表象とも呼ばれる。肖像画や写真などによる表象のこと。写像的意識とも呼ばれる。想像のひとつだが、代表象がない「端的な想像(<b>空想</b>)」とは区別される。</p>
</div>
<p>想像が「想起」の中立性変様であるのに対して、像意識は「<b>知覚</b>」の中立性変様であるとされている。</p>
<p>フッサールは「端的な想像」を主要な想像作用としている。たとえば天使を想像する場合、富士山の画像を見て(介して)実物の富士山を想像するような作用ではなく、まさに天使を非現前的なものとして表象しているのだという。</p>
<p>空想と像意識の他にも、「<b>思いつき</b>」などが挙げられている。不意に、いわば「受動的」に空想が襲いかかってくるようなケースである。</p>
<blockquote>
<p>「後者すなわち「像意識」（画像表象）は「中立化」の一つの場合，つまり，「知覚の中立化」の事例と理解すべきであろう。実際フッサールは次のように言っている。「通常の変様されていない確実性において措定する知・覚・の・中・立・性・変・様・は，中立的な像客体の意識であると，われわれは確信することができる」。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,56P</p>
<p>「フッサールは当初、「想像作用」を、「精神に内在的な像」を表象し、それを介して「現に存在しないもの」を思い浮かべるという「複合的な作用」として理解していたが、1904/05年の講義『想像と像意識』の途上で、想像における現れ方の「非現前性」、「無性」に注目するようになった結果、そうした現れを通しての「端的な想像schlichtePhantasieJを主要な想像作用として認めるようになった。われわれは端的に、非現前的なものとして対象を表象するのであり、その際の現れ方は、「変幻自在性」、「浮動性」によって特徴づけられる。「イメージ」という語の示唆するところもあり、われわれは「想像」の名の下にいわゆる「画像」のような現出を考えがちであるが、上の分析はそうした謬見を一掃する重要な分析である。悪魔や天使を思い浮かべること、不在の友人を思い浮かべることは、それらの像を、あるいは、像を介してそれらを思い浮かべるのではなくて、不在という有り様においてであるが、直接、悪魔、天使、友人を思い浮かべることなのである。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,302P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">
中立性変様と否定の違いとは</span></h3>
<p>１：否定は「<b>非存在</b>」として定立する。否定は存在するということ自体を消すことはできず、設定立的性格に線を引いて消す働きであるとされている。</p>
<p>２：中立性変様は「非存在」とも「存在」としても定立しない。まるで存在するかのように、あるいは存在するか存在しないかを<b>未決定</b>にした状態での働きである。</p>
<blockquote>
<p>「さらにフッサールはまた新しい変様を提示するが、それは「高次の段階の変様」（皿／1，S．243）であるとされる。それは否定と肯定であ。フッサールによれば否定のノエマ的な働きは「対応する設定立的な性格に線を引いて消すこと（Durchstreichmg）」（ebd．）であり、肯定とは「あることの下に線を引く（unters位eichen）」（ebd．）ことである。否定においてある設定立的性格が棒線を引かれ消されてしまうのではあるが、しかしそれは存在するということ自体まで消してしまうことはできないのであり、従って否定とは、別の仕方で存在するという意味でもある。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,130P</p>
<p>「すなわち，この変様では，対象を「設定立」（ないし「定立」）する働きを停止するのであるが，「否定」のように，逆に非存在として定立することもなく，そうした意味での「実行成果をも作り出さない」のである。こうして，その変様は，「意識の上で，一切の実行成果を産み出す働きとは対蹠点に立つものであり，すなわち，実行成果を産み出す働きを中立化すること，なのである」。そして，その変様は，「『実行成果を作り出す働きを中止する』，『それを作用の外に置く』，それを『括弧に入れる』，『未決定のまま宙ぶらりんに放置しておく』」などの作用に含まれている，と言われている。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,50P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">理性定立とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>根源的理性定立</strong></span>：</big>・原的直観(現出)に動機づけられた存在思念をもつ定立のこと。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>完全な理性定立</strong></span>：</big>・対象がいかなる未規定部分も残さないように完全に規定されて(つまり十全的に)定立されること。</p>
</div>
<p>定立が真理である条件は、対象が原的直観に動機づけられ、かつ十全的に規定されることにある。</p>
<p>「ありありと現出すること」が重要になるが、ただし、主観とは独立した外部の客観の世界で起きることではなく、あくまでも主観の中でありありと現出しているということに注意。</p>
<p>外的知覚は不十全的な規定であり、その条件を満たさなさい。たとえばサイコロの１面を見ている時は必ず見られていない面、つまり未規定部分が存在する。定立、直観、統握が3セットで十全的に行われることがいかにして可能か、という点が問題になってくる。</p>
<p>１：広義の「見る」という作用は、定立の「理性性格」を「動機付けるもの」だとされている。</p>
<p>２：「<b>理性性格</b>」とは、対象が現実に存在するとみなされる場合に定立に与える性格のことである。</p>
<div>
<p>例：赤色のペンを見て、「この赤色は広がりを持っている」と定立したとする。黄色のレモンを見ても、やはり「この黄色は広がりを持っている」と定立したとする。</p>
<p>どの色を見ても広がりをもっているので、「色は広がりを持つ」という「本質」があるのではないか、と洞察してみる。この場合、何か対象を「見る」ということが動機づけとなって、定立に至っていることがわかる。</p>
</div>
<div> </div>
<div>
<p>では、「色は広がりをもつ」は自然法則なのではないか、本質必然的な法則とはなにかという点が疑問として生じる。</p>
<p>自然科学においては、まずは物が客観的に実在するという定立を自明のものとして無反省に前提におき、経験的な法則を探していく。しかし現象学では自明のものとしておかずに、一旦判断を停止(<b>エポケー</b>)し、反省(現象学的反省、還元)して、確かなものである知覚を根源にして積み重ねていき、本質を見つけていく(形相的還元)。たとえば実際に見えないけども「惑星バルカン」が理論的にはあるだろう、と自然科学では一時期考えられていたが、実際にそのような惑星はなかったことが現代においてわかっている。この例はすこしズレるかもしれないが、徹底的に知覚をもとに積み重ねていく、原的直観を重視する点が現象学の固有性といえるかもしれない。「事象そのものへ」というフレーズが有名。</p>
<p>主観と客観の関係のわかりやすい説明として、(客観的に)リンゴがあるから(主観的に)見えるのではなく、(主観的に)見えるから(客観的に)ある(と信憑できる)のだ、という説明がある。</p>
</div>
<p>本質を見つけ出す方法を「<strong>本質観取</strong>」といったり「<strong>形相的還元</strong>」といったりする。</p>
<p>「不確かな直観」から「誰もが納得できるような意味」へと練り直していく作業である。たとえばリンゴの本質は赤さではなく、甘さだ、酸っぱさだというようなものが本質など。</p>
<p>本質を見つけ出す方法を「本質観取」といったり「形相的還元」といったりする。<br />
「不確かな直観」から「誰もが納得できるような意味」へと練り直していく作業である。たとえばリンゴの本質は赤さではなく、甘さだ、酸っぱさだというようなものが本質など。<br />
リンゴや鉛筆だけではなく、正義や平和といった物理的には目に見えないものも本質観取することはできるという。ただしそれは、「絶対に正しい唯一の意味」という意味ではなく、「誰もが共通して認める意味」であるという。そうした意味は必ずしもすぐ得られるわけではなく、誰もが納得するような本質へと練り直す必要があるという。この練り直しの作業が本質観取であり、 多くの異なる人々の視点から考えたり、他者に話を聞いたり、想像の上で練り直したりして(想像変様)、普遍性のある意味へと練り直していく作業である。</p>
<h4><span id="toc48">非理性的な定立というものはあるのか</span></h4>
<p>現出や直観に基づかない盲目的な定立は非理性的な定立といえる。</p>
<p>たとえば自然的態度において、目の前に明らかにリンゴがあるにもかかわらず、これは魚であると信じたり、リンゴは実在していないと信じることも可能かもしれない。あるいは数学をきちんと理解しているにもかかわらずに、１＋１＝３だと信じることは可能かもしれない。しかしどうやら、人間は目の前にリンゴがあれば、ありありと現実的に与えられ、その存在を信じる生き物であり、そのような構造や条件がどうやら、ある。晩年でフッサールは「理性」を「理性的であろうとすること(<b>理性への意志)</b>」と表現していく。</p>
<blockquote>
<p>「同書においてフッサールは、定立が真理である条件を、それが原的かつ十全的に明証であることに見定める。フッサールは次のように述べる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">原理的に、（無制約的な本質普遍性というアプリオリにおいて）、対象それ自身が、<strong>原的に、</strong>かつ、<strong>完全に十全的に</strong>把握されうる<strong>可能的意識という理念</strong>は、ど<strong>んな「真実に存在する」対象にも</strong>対応する。逆に、この可能性が保証されている場合、まさにそのこと自体からして、その対象は、真実に存在している。（III/1,329）</p>
<p>「原的に」把握されることは、第一章で論じたように、定立が〈現出による動機づけ〉に基づいていることを意味する（cf.III/1,329）。これは「根源的な」理性定立とも呼ばれる（cf.III/1,329）。また、「十全的」に把握されることは、対象が如何なる未規定的部分も残さないように「完全に規定されて」定立されることを意味する。これは「完全な」理性定立とも呼ばれる（cf.III/1,329）。「原的」かつ「十全的」、すなわち、「根源的」かつ「完全」ということ、これをフッサールは真理性の条件に据えるのである。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,34-35P</p>
<p>「たとえば、目の前の樹木がはっきりと知覚されたならば、われわれは、そのありありとした明瞭な現出に促されて、その樹木が本当に存在することを自然に信じる。また、その樹木の種類をはっきり見てとった上で、&#8221;その樹木は本当に林檎の木である&#8221;と信じることもある。フッサールは、現在における最も明瞭で生き生きとした現出もしくは直観を「有体的(leib-haft)」や「原本的(originär)」と形容し(vgl.III/1,315)、そのような現出(直観)に動機づけられた上記のような存在信念を「理性的な定立」と呼ぶ(III/1,316)。たとえば、事物の有体的な現出にはいつでも、定立というものが属している。••••••その際、定立は実は、現出と独特の仕方で一つになっている。定立は現出によって「動機づけられて」いるのであり、しかも、これまた単に一般に動機づけられているのではなく、「理性的に動機づけられて」いるのである(ibid.)。逆に言えば、現出もしくは直観にもとづかずに盲目的に(blind)信じることは非理性的だということになる(vgl.III/1,」</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」,103P</p>
<p>「それでは、この「見る」の意味をさらに探っていこう。『イデーンI』のある付論では、「見る」ということ（および「洞察する」こと）には次の二つの意味があると言われる（III/2,618）。（1）定立の理性性格を<strong>動機づけるもの</strong>。定立の正当性の根拠としての「正当性根拠」。これがすなわち見ることである。（2）理性性格そのもの。5）このとき、この「定立」とは、対象が何らかの仕方で存在するとみなされる意識の働きのことであり、「理性性格」とは、対象が<strong>現実に</strong>存在するとみなされる場合に、その定立に与えられる性格のことである。ここから、「見る」と「動機づけ（Motivation）」とが密接に関係しているらしいということがわかる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,107P</p>
<p>「代表的著作『イデーン」第一巻の「理性の現象学」(III/1,314ff.)に依りながら、フッサールが理性と意識の関係をどのように捉えていたのかを明確にしておきたい。たとえば、目の前の樹木がはっきりと知覚されたならば、われわれは、そのありありとした明瞭な現出に促されて、その樹木が本当に存在することを自然に信じる。また、その樹木の種類をはっきり見てとった上で、&#8221;その樹木は本当に林檎の木である&#8221;と信じることもある。フッサールは、現在における最も明瞭で生き生きとした現出もしくは直観を「有体的(leib.haft)」や「原本的(originär)」と形容し(vgl.III/1,315)、そのような現出(直観)に動機づけられた上記のような存在信念を「理性的な定立」と呼ぶ(III/1,316)。たとえば、事物の有体的な現出にはいつでも、定立というものが属している。••••••その際、定立は実は、現出と独特の仕方で一つになっている。定立は現出によって「動機づけられて」いるのであり、しかも、これまた単に一般に動機づけられているのではなく、「理性的に動機づけられて」いるのである(ibid.)。逆に言えば、現出もしくは直観にもとづかずに盲目的に(blind)信じることは非理性的だということになる(vgl.III/1,」</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」,103P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc49">【コラム】知覚因果説について</span></h3>
<p>１：知覚因果説は知覚を外界の「写し」と考えるので、「カメラ・モデル」とも呼ばれる</p>
<p>２：現象学では知覚因果説を否定している</p>
<p>３：感覚器官が外界の対象からの情報を受け取り、情報が神経細胞を伝って脳に至り、脳が知覚を生み出すというモデル。唯物論的と言われる。</p>
<p>・外界の対象が知覚像と一致していることを確かめる方法がない、という困難がある。フッサールの現象学においても、意識の外に客観的に実在していると人間が「確信」する構造、条件は確かにあるが、しかし本当に実在しているかどうかは確かめる方法がないという点がポイントだった。</p>
<p>つまり、主観と客観の完全な一致という、従来の真理に対する考え方を否定した点にフッサールのポイントがある。</p>
<p>なぜ「聞く」という知覚が生じるのかという原因を探していき、それは物理的、外的な事象としての「音響」であり、その音響が鼓膜に刺激を与え、神経うんぬんというプロセスあるいは因果性を調べることは現象学の役割ではない。</p>
<p>以上をふまえたうえで、「動機づけ」を考えていく。</p>
<blockquote>
<p>「そして、音響の源泉は「ピアノ」だとしても、そこから生じる空気中の振動としての音は、それ自体が「対象」となって、鼓膜を刺激するのであり、聴覚神経の刺激の原因となっている。その場合、われわれの意識としてはどれが「対象」なのかは、簡単には特定できない。つまり、知覚などの認識作用の物理的原因が、そのような認識作用の「対象」であるという、知覚因果説のような素朴な想定は現象学的には認められない。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア（II)」、１P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">動機づけ</span></h3>
<h4><span id="toc51">動機づけとは</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>動機づけ</strong></span>：</big>・精神を統制している規則であり、物質的な自然を支配してる因果性から区別されるもの</p>
</div>
<p>フッサールは『イデーンⅡ』において、動機づけを「精神を統制している規則であり、物質的な自然を支配してる因果性から区別されるものである」と定義している。</p>
<p>たとえばある神経がある神経を刺激しているというのは現象学で言う規則ではないということになる。</p>
<h4><span id="toc52">理性の動機づけと、動機づけとしての連合</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理性の動機づけ</strong></span>：</big>・現実的な対象の定立をするように自我を動機づけるもの</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>動機づけとしての連合</strong></span>：</big>・自我の関与なく生じる任意の種類の体験（例えば感覚の発生）を動機づけるもの</p>
</div>
<p>フッサールは「動機づけ」をさらに「理性の動機づけ」と「動機づけとしての連合」に区別する。</p>
<p>神田大輔さんによれば、フッサールにおける動機づけとは「<b>現在のある部分を、過去に経験された類似の状況によって補うことを求める補完の要求</b>」であるという。</p>
<p>ただし、自然の因果性とは違い、動機づけは「<b>何かを要求するだけ</b>で、何かを結果として引き起こすのではない」という。たとえば火に水が触れれば蒸発するというのは因果性であり、動機づけの例ではない。あるいは熱いものに触れて反射的に手を離すなど。動機づけは因果性とは違い、必然的なものではないとされている。</p>
<p>たとえば足を動かそうと意志する場合に足は動く。これは因果性ではなく、動機づけであるという。あるいは「考えるな」と意志しても、考えてしまう場合があるのも、そうかもしれない。神田さんの言葉で言えば「命令や祈り」に近いという。</p>
<p>例えば友人がペットを飼っていて、自分もペットを飼ったケースを考えてみる。「客観的」な友人の行為が自分に影響を与えたように思えてしまう。</p>
<p>しかし実際は、「私が主観的に考えること」が、別の「私が友人について主観的に考えること」によって動機づけられているということになる。自然科学における物(客観)と物(客観)の因果関係とは違う。</p>
<p>理性の動機づけにおいては、「類似の部分の存在は類似の補完部分の存在を要求する」という。</p>
<p>神田さんの出すパントマイムの例や、フッサールの出す蝋人形の例を参考にして理解していく。難解な概念は平易な具体例がないと頭に入ってこない。</p>
<blockquote>
<p>「動機づけとは、『イデーンII』の論述によれば（IV,211-275）、精神を統制している規則であり、物質的な自然を支配している因果性から区別されるものである。フッサールは動機づけを「理性の動機づけ」（「自我動機づけ」）と、「動機づけとしての連合」（「連合的動機づけ」）の二つに区別する（IV,220ff.）。前者は、現実的な対象の定立をするように自我を動機づけるものであり、これが今問題になっている理性的な定立に関わる動機づけである。後者は、自我の関与なく生じる任意の種類の体験（例えば感覚の発生）を動機づける。しかし実際のところ、どちらの場合でも、動機づけとは〈現在のある部分を、過去に経験された類似の状況によって補うことを求める補完の要求〉であると言うことができる。理性の動機づけにおいては、「類似の部分の存在は類似の補完部分の存在を要求する」（IV,220）と言われる。それに対し、動機づけとしての連合においては、「新たに立ち現れる連関は、それが以前の連関の一部に類似したものであるとき、類似性の意味において継続し、以前の連関全体に類似する連関全体へ向けて自らを補完しようとするという傾向」（ibid.）が生じるとされる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,107-108P</p>
<p>「動機づけという概念を扱う際に注意しなければならないのは、先にも触れたが、自然の因果性との違いである。すなわち、<strong>動機づけは何かを要求するだけであって、何かを結果として引き起こすのではない</strong>ということである。何かを引き起こす（kausieren）のは自然の因果性における原因であり、動機づける（motivieren）ものはそのような意味での原因ではない。『イデーンII』では次のように言われている。</p>
<p>諸自然科学における自然の因果性は、その相関者を自然法則に持ち、その法則に従って、一義的に決まっている状況の下で〔結果として〕生じざるを得ないものが一義的に規定される（少なくとも物的自然の範囲内では）。（IV,229 )</p>
<p>&#8230;&#8230;ここで下される判断の形式は、見たところ客観的な判断の一つである。すなわち、</p>
<p>「私は私の友人によって動か（bestimmen）されている」、「私がそれをしたのは、彼がそれをしたから（weil）だ」などと言われる。しかし実際のところ、動機づけは因果性ではない。すなわち、私は私の友人によってではなく、私の友人についての表象によって、私が彼について「考えること」や、彼の行為について「考えること」によって動かされているのであり、そしてこの「動かす」というのは、ここでは、自然の意味において引き起こす（kausieren）ということを意味するのではなく、動機づけるということを意味する。すなわち、ある「私は考える」が、別の「私は考える」によって動機づけられているのである。（XIII,94）</p>
<p>ここでこの「から（weil）」は、物的自然における原因ではなく、動機づけるものを表す表現として用いられている」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,1021-1022P</p>
<p>「それでは、この「見る」の意味をさらに探っていこう。『イデーンI』のある付論では、「見る」ということ（および「洞察する」こと）には次の二つの意味があると言われる（III/2,618）。（1）定立の理性性格を<strong>動機づけるもの</strong>。定立の正当性の根拠としての「正当性根拠」。これがすなわち見ることである。（2）理性性格そのもの。5）このとき、この「定立」とは、対象が何らかの仕方で存在するとみなされる意識の働きのことであり、「理性性格」とは、対象が<strong>現実に</strong>存在するとみなされる場合に、その定立に与えられる性格のことである。ここから、「見る」と「動機づけ（Motivation）」とが密接に関係しているらしいということがわかる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,107P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc53">(補足)動機づけられた可疑性と空虚な可疑性</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理性的に動機づけられた可疑性</strong></span>：</big>・〈現出による動機づけ〉に基づいた可疑性</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>空虚な可疑性</strong></span>：</big>・〈現出による動機づけ〉に基づいた可疑性</p>
</div>
<p>フッサールの蝋人形の例で言えば、遠くから見れば「人が立っている」と思ったが、しかしあまりにも動きすぎていないので「疑わしくなっている」ような状況が「理性的に動機づけられた可疑性」だといえる。</p>
<p>一方で、あきらかに人であるにも関わらず、これは人形だと疑う場合は「空虚な可疑性」だといえる。</p>
<blockquote>
<p>「ここで付け加えておくと、可疑性も、〈動機づけられた可疑性〉と〈空虚な可疑性〉とに区別できる。〈動機づけられた可疑性〉とは、〈現出による動機づけ〉に基づいた可疑性である。例えば、少し離れた場所にある柳の木の下に、人が動いていると思っていたが、そ、れをよく見ていると、、、、、、、、、、実はその枝が風に揺れているだけかもしれないと、疑わしくなっていることである（cf.III/1,239–240）。これに対して、〈空虚な可疑性〉とは、そうした「理性的動機」なしに、「疑おうと思えば、疑うことができる」という「原理的な可能性」である（cf.III/1,98–99）。例えば、眼前にあるものを捉えている知覚を、理性的動機がないにもかかわらず、錯覚や夢であるかもしれないと疑うことである（cf.III/1,97–98）。」</p>
<p>佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」,37P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc54">蝋人形の例</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/wax-figure-ga5ff6be96_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2971" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/wax-figure-ga5ff6be96_640.jpg" alt="" width="380" height="280" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/wax-figure-ga5ff6be96_640.jpg 640w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/wax-figure-ga5ff6be96_640-150x112.jpg 150w" sizes="(max-width: 380px) 100vw, 380px" /></a></p>
<p>１：本当の人間に見た目がそっくりな蝋人形を遠くから「知覚(見る)」する場合、意識に現れている感覚内容は同じだという。</p>
<p>この話は、現象学的分析において幻覚も錯覚も知覚も変わらないという、前回の「無対象表象問題」とつながっている話である。</p>
<p>２：人間かもしれないし、蝋人形かもしれないと思うような疑念が生じる瞬間があるという。</p>
<p>この場合は、「人間」として感覚を解釈(統握)することも、「人形」として感覚を解釈(統握)することも可能であり、両者が拮抗している膠着状態にあるという。</p>
<p>このように解釈が対立している場合は、対象の存在を「定立」することはできないという。つまり、現実にあると信じることができない状態である。例えば砂漠における蜃気楼もそうかもしれない。オアシスがあるかもしれないし、ないかもしれない状態で、オアシスがあると確信することは難しい。</p>
<p>３：蝋人形に近づいていき、これは明らかに人ではないというような、一方の「動機づけの力を高める感覚」が現れた時、膠着状態は終わり、対象の定立が定立できる。</p>
<p>たとえば明らかに質感が違ったり、眼の動きがなかったり、そうした感覚が現れた時、<b>現実的な対象が存在していると信じる(思う)ように促される</b>という。</p>
<p>この「促される」と「動機づけられる」は似ている表現である。</p>
<blockquote>
<p>「</p>
<p style="padding-left: 40px;">蝋人形館を散策しているとき、われわれは階段の上で愛想よくこちらにウィンクしてくる見知らぬ婦人に出会う―これは誰もが知っている蝋人形館での戯れである。われわれを一瞬欺いたのは人形だ。われわれがこの欺きのなかに囚われているあいだ、われわれは、何らかの他の知覚と同様に、知覚をしている。われわれは人形ではなく、婦人を見ているのである。しかし、われわれがその欺きに気づいたなら、事態は反転し、今度は一人の婦人を表している人形を見ることになる。（XIX/1,458f.）</p>
<p>蝋人形館では、目の前にあるものが人間なのか、それとも人形なのかという疑念が生じる瞬間がある。その際、意識に現れている感覚内容は同じものだが、複数の解釈と定立が動機づけられる。私が受け取っている色や形の感覚は、人間についての感覚としても、人形についての感覚としても解釈することができる。そうなるとどちらとも決めがたい。このような場合、それぞれの解釈を動機づける力が拮抗し、膠着状態にあるのだとフッサールは言う。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「両者のうちのどちらも、疑いの間は抹消されず、その際それらは相互の対立のうちにあり、どちらもある種の力を持ち、どちらもそれまでの知覚の状況とその志向的内実によって動機づけられ、いわば要求されている」（XI,34）。</p>
<p>だが、一方の動機づけの力を強める感覚が現れたとき、その状態は終わる。例えば、より近くに近づいたとき、肉と血ではなく、蝋に対応すると解釈できる感覚が現れるなら、それは人間ではなく、人形だったということがわかる、というように。したがって、複数の有力な解釈が対立しているかぎりはまだ、現実的な対象の存在を定立することはできないが、ある圧倒的な動機づけの力が生じたなら、われわれはそこに現実的な対象が存在していると思うように促されることになる。すなわち、他を排除するほどの圧倒的な動機づけの力が生じているとき、理性的な定立は動機づけられると言えるだろう」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,110-111P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc55">パントマイムの例</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/astonishment-gcaad1a227_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2972" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/astonishment-gcaad1a227_640.jpg" alt="" width="403" height="268" /></a></p>
<p>・神田大輔さんのパントマイムの例</p>
<p>パントマイムとは一般に、「実際にはない壁や扉などがあたかもその場に存在するかのように身振り手振りのパフォーマンスで表現する形態」を意味する。</p>
<p>神田さんによれば、パントマイムは「補完的な動機づけをうまく利用した表現技法」であり、動機づけの重なり合い(対立)の例として用いることができるという。</p>
<p><b>存在を補完的に動機付ける働き</b>：〈A ならば B〉という連関が（様々な差異を伴いつつも）繰り返し経験されている場合に、もしその部分 A が意識に現れるならば、その連関全体を補完するもの、すなわち B の要求が生じること。</p>
<p>・たとえば壁が実際にはないのにも関わらず、壁がそこに存在すればするであろう身体の動きをすれば、壁の存在を要求する「動機づけ」が生じるという。</p>
<p>先程の蝋人形の場合も、実際には人ではないのにも関わらず、人であるような「部分」をもっていた場合、人であることの存在を要求する「動機づけ」が生じていたといえる。もちろん人形であるような「部分」をもっていた場合、人形であることの存在を要求する「動機づけ」が生じている。</p>
<p>重要なのは、部分的な現れにもかかわらず、「補完」が生じるという点である。</p>
<p>蝋人形の場合では、(人に見える)一部が見られていることによって、見えていない部分が補完されるケースを考えるとわかりやすい。たとえば前面だけ人にそっくり作られているが、後面は適当な素材でつくられていることもありえる。しかし前面が人なら、見ていない後面も人であろう、というような「補完」が生じ、全体として「人が現実に存在している」というような「定立」を生じさせるのである。</p>
<p>もし明らかに人形に見えているのにも関わらず「人が現実に存在している」と信じている場合は、定立ではあるかもしれないが、「理性定立」であるとはいえず、真理や明証性へとつながらなくなる。</p>
<blockquote>
<p>「そもそもパントマイムは、補完的な動機づけをうまく利用した表現技法であると言える。単純化して言えば、例えば〈AならばB〉という連関が（様々な差異を伴いつつも）繰り返し経験されている場合に、もしその部分Aが意識に現れるならば、その連関全体を補完するもの、すなわちBの要求が生じることになる）。パントマイムの役者が〈壁がそこに存在すればするであろう身体運動〉をするならば、たとえそこに壁はなくとも、そこに壁の存在を要求する動機づけが生じることになる。パントマイムに限らず、どのような種類の表現もこうした補完的な動機づけを利用している。婦人を「表している」蝋人形も、〈人間が存在するならば、これこれしかじかの仕方で現れる〉という具体的な連関の全体のうち、一部だけを表面的に模倣することによって、残りの部分をわれわれに補完させている。だがさらに言えば、当然ながら、現実的な対象についての経験もつねに、補完的な動機づけを利用している。われわれが感覚的な知覚を行うとき、知覚の対象はつねに一面的にのみ現われ、その全体は一挙に経験されない。直接に経験できるのはつねにその一部だけであり、残りの部分は「地平」として経験される。フッサールの考えでは、何かが現実的であると言えるためには、それは「見」られなければならないが、一部が「見」られているなら、「見」られていない部分も、パントマイムのようにその現実的な存在が要求されると言えるだろう。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」,111P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc56">危機と意志、生きる意味について</span></h3>
<p>１：ヨーロッパの諸学問は「危機」にあるという。なぜなら、「意味」や「目的」、「主観」、「生活」、「現実」といったものを軽視し、「客観的な事実」のみを重視してしまっているからだ。</p>
<p>２：「人間の生きる意味」は「生きることの目的」を問うことである。そして「理性」は「存在するとみなされているすべての事物、価値、目的に究極的に意味を与えるもの」であるとされている。したがって、「人間の生きることの目的」に「意味」を与えるものは「理性」であるといえる。</p>
<p>３：人間の生きる意味は歴史上、古代ギリシャから様々な形で問題にされ、問われてきた。しかし、実証主義の発展によって、そのようなことが問われなくなり、哲学などが軽視されるようになる。こうした事態は危機であるとフッサールは考える。</p>
<p>４：危機を克服するためには、新しい哲学である「現象学」が必要になる。フッサールは人間が理性を持ち、それを用いることによって先入観などから自由になり、理性的な洞察に基づいた答え(本質)を求めることは可能だと信じている。哲学は「不明瞭な段階から満足のゆく明証性へと、最終的には完全な洞察性に突き進むまでに至ることを求めるという課題」をもっていたという。こうした課題は神などによってではなく、歴史上の先人から受け継がれてきたものであり、変化は多々あるが、「歴史を貫く意志の方向」があるという。意志は受け継がれていくのである。</p>
<p>５：フッサールによれば、哲学者には「<strong>究極的なものへ向かう意志の徹底主義</strong>」が必要だという。</p>
<p>哲学以外の学問や芸術においては、知らず知らずのうちに人生の決断をしていることもありうるが、哲学においては「根源的な決意」を必要とするという。</p>
<div>
<p>ある人には「究極的な目的」、たとえば「人間の生きる意味」などを探究しなさいという「召命」や「呼び声」があるかもしれないが、しかしそうした要求に対して実際に「<b>決意</b>」があるとは限らないという。動機づけがあったとしても、無視されることもありうる。マックス・ウェーバーの「天職」と比較して検討していくのも面白いかもしれない。</p>
<p>私には「このままじゃ世界はやばい！哲学が必要だ！」というような呼び声があまり聞こえないし、また決意も足りていない。しかし、フッサールやウェーバーなどの歴史上の、先人たちの声を聞いていくうちに、なにかしらの「呼び声」を感じているのかもしれないなとは考えてしまう。つまり、ほんのわずかかもしれないが「意志の引き継ぎ」があるのかもしれない。</p>
<p>６：フッサールによれば、「理性的であろうとする」という「<b>理性への意志</b>」は偶然的、事実的な能力ではなく、人間にとって普遍的で主観的な構造形式だという。</p>
<p>たとえば今キーボードを見ているときでさえも、「理性への意志」をなんらかのかたちで含んでいると言える。</p>
</div>
<div>
<p>ただし注意するべきなのは、「意志」とその結果の関係は、因果関係ではないという点である。意志するということは、すなわち「動機づけ」であり、「<b>そのようにあれ</b>(フィアット)」と命じたり祈ったりすることである。</p>
<p>たとえばしっかりと集中しようと意志したとしても、実際に集中したという結果を得られるかは別である。</p>
<p>また笹岡健太さんによれば、フッサールはたしかに「理性への意志」は意識の本質であり、普遍的なものであると主張しているが、しかしそれに反するようなことも述べているという。</p>
<p>たとえば、「ペガサスの想像」という例などが挙げられる。「中立化への意志」と笠岡さんは表現し、「理性的であることを差し控えようとする意志」であるという。このような意識は、理性的な定立でもなければ、非理性的な定立でもないという。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「哲学の場合も、純粋な美を愛し求める者の場合と同じように、召命に基づいて哲学を選ぶことを決意する者が真の哲学者であるとされる。その際に考えられている哲学とは「普遍知（sapientiauniversalis）」のことであり、その呼び声は、「彼に向けて『普遍知』の理念から響き、そして彼に絶対的な専心没頭を要求する呼び声」（VIII,17）である。ここで「普遍知」と言われているものはフッサールが初期から一貫して求めてきた厳密で普遍的な学としての哲学であると言ってよいだろうし、『危機』で論じられた唯一の学問としての哲学とも別物ではないだろう。前述の美の国の例と同様に、哲学者になろうとする人は、哲学に対して「ある特別で無条件的な親近性」を持っているということになる。哲学に関心を持ったり、ときおり真理の問いを追思考し、自らその問いに引き続き従事したりすることは、まだ哲学者であることではない。それはちょうど、ディレッタントとして絵を書いたり彫刻したりすることが、たとえそれが全生涯のことであろうとも、まだ芸術家であることを意味しないのと同様である。（ibid.）そこに欠けているのは、「究極的なものへ向かう意志の徹底主義」（ibid.）である。それは、純粋な理念という極限への専心没頭においてのみ満足することができるものであるとされる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,185P</p>
<p>「『第一哲学』第三〇講義ではさらに、芸術などの文化領域には素朴さがありつづけるが、哲学は自らの道をすべての素朴さから区別するということが強調される。哲学以外の学問や芸術の領域においては、知らず知らずのうちに人生の決断をしているということもありうるが、哲学においては必ず、哲学に固有な、彼を哲学者にする根源的な決意、すなわち、「根源的な自己創造（ursprünglicheSelbstschöpfung）」を必要とする（VIII,19）。以上、Berufとしての哲学がどのようなものであるかについて確認した。ここからわかるのは、フッサールが考えている哲学とは、最終的に実現される究極目的である「普遍知」だけのことを指しているのではなく、そこへ至る手段すべてでもあるということである。もちろん、それを哲学と呼ぶためには、今見たような「究極的なものへ向かう意志の徹底主義」が貫徹していなければならない」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,186P</p>
<p>「フッサールの言う「ヨーロッパ諸学の危機」とは、大まかに言えば、〈ヨーロッパで発展した諸学問が、実証的な自然科学を模範とした結果、人間の生を適切に扱うことができなくなってしまった〉ということであると考えられる。さらに、学問が〈人間の生きる意味〉を考えられなくなっているということも強調されている。実証的な学問は、一般的に言えば、実際に確実に存在するとみなされる客観的な事実のみを認め、客観的な事実として認められないものを排除する。そうすると、〈人間の生きる意味〉のようなものは、そうした客観的な事実とは考えづらいため、学問の領域から排除されてしまう。それ〔＝客観的な事実だけを扱う実証的な学問〕は、われわれの不幸な時代において、きわめて宿命的な大変革にさらされている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまう。すなわち、この人間の生存全体に意味があるのか、それともないのかという問いである。（VI,4）」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,175-176P</p>
<p>「</p>
<p style="padding-left: 40px;">理性とは、存在するとみなされるすべてのもの、すべての事物、価値、目的に究極的に意味を与えるものである。すなわち、哲学の初期から、真理―真理それ自体―という語と、それと相関的に、存在者―オントース・オン〔真にあるもの〕―という語が表すものへの規範的な関係を与えるものである。（VI,10f.）</p>
<p>③ここから、フッサールは理性を〈あらゆる存在者に、何らかの理想的なものへの方向性を与えるもの〉であると考えており、そのような方向性が「意味」であると言われていることが分かる。したがって〈人間の生きる意味〉とは、人間が生きる際に目指すよう要求されている理想的なものへの方向性、すなわち〈何のために生きるのか〉ということ、要するに、〈生きる目的〉であると言える」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,176P</p>
<p>「このような歴史は、その中に生きている精神的存在としての私たちに課題を与えるものだとフッサールは言う。その課題とは、「歴史的な出来事の推移の中で&#8230;&#8230;不明晰な段階から満足のゆく明晰性へと、最終的には完全な洞察性に突き進むまで至る」ことを求めるという課題である（ibid.）。彼によれば、そうした課題の「統一と原動力」が歴史に精神的統一を与える（ibid.）。こうした課題は神のような超越的な存在によって与えられると考えられているわけではない。それはあくまでも、歴史上の「父祖」「先人」（VI,73）から受け継がれたものである。それはギリシアの原創設によって生じ、ここに「目的論の端緒」（VI,72）があるが、その後、歴史の中で受け継がれることによって、「追創設（Nachstiftung）」や「変化」をこうむる（ibid.）。それでもそこには、「歴史を貫く意志の方向」がある。哲学者が哲学者であるのは、そのような意志の方向の「相続者」、それを「共に担う者」としてあるかぎりである、とフッサールは言う（ibid.）。したがって、フッサールが『危機』の中で行っている歴史省察とは、〈歴史の中で哲学者や思想家たちが何を意志において目指したか、そしてそれがどのように受け継がれたり変様したりしたかということについての考察〉であるということになる。</p>
<p style="padding-left: 40px;">こうした、目標の原創設を遡って問う歴史の解明の仕方は&#8230;&#8230;、哲学者は本来何を目指すのか、精神的な祖先の意志に基づいて、そしてそのような意志として、哲学者においては何が意志であるのかについての、哲学者の真正な自己省察に他ならない。これはすなわち、自明性として哲学者の私的かつ非歴史的な研究の地盤となっている沈殿した概念性を、その隠れた歴史的意味において再び生き生きしたものにすることを意味する。それは、哲学者自身の自己省察において、同時に、父祖の自己省察を受け継いでゆくことを意味するのであり、それゆえ、思想家たちの連鎖、彼らの思考の社会性、思想上の共同性を再び目覚めさせ、それをわれわれにとっての生き生きとした現在へと転換するということだけではなく、このように現在化された全体的統一に基づいて、責任ある批判を行うことを意味する&#8230;&#8230;。（VI,72f.）</p>
<p>このように、フッサールが『危機』の歴史考察において明らかにしようとした目的論とは、こうした〈意志の受け継ぎ〉であったと言うことができる。」</p>
<p>神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」,178-179P</p>
<p>「ここで留意しなければならないのは、特に晩年において、フッサールは理性の定義に意志を含めるということである。すなわち、「人類は理性的であろうとすること(Vernünftigseinwol-len)によってのみ理性的である」(VI,275)というように理性が定義されるのである。そして、この「理性的であろうとすること」は、先に見たように、意識生にとって「普遍的で本質的根本特徴」であった。それゆえ、「[理性への意志としての]理性とは、いかなる偶然的事実的能力でもなく、可能な偶然的事実のための名称でもなく、むしろ、超越論的主観性一般の普遍的かつ本質的な構造形式である」(I,92)。この引用にも示唆されているように、フッサールにとって何かの「本質」とは、その何かのあらゆる個別例に必ず当てはまること(本質普遍性本質必然性)である(vgl.III/1,12f.,19f.)。それゆえ、上の引用では〈超越論的主観性は、或る場合にたまたま理性的であろうとすることもあるというわけではなく、むしろ、いかなる場合にも必ず理性的であろうとしている〉と述べられているのである。」</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」,104P</p>
<p>「前節で見てきたように、理性的な定立とは、&#8221;本当に存在する&#8221;、&#8221;本当に~である&#8221;と信じることであるが、このような信念(定立)を遂行しない意識がある。たとえば、上半身が人間で下半身が馬であるケンタウロスを想像する場合、たしかにこのケンタウロスは志向的に意識されてはいるが、本当に存在すると信じられているわけではない。なおかつ、&#8221;このケンタウロスは本当は存在しない&#8221;といった否定的な存在信念を遂行せずにケンタウロスを想像することもできる。このように対象について本当に存在するとも存在しないとも信じることなく単に想像することは、フッサールにおいては、中立性変様の一例と見なされる。なるほど、フッサールにおいて、中立性変様と想像との混同は防がれなければならないとも言われているが(III/1,250)、しかし、そのように言われるのは、「想像は&#8230;..全般的な中立性変様からは区別されなければならない」からなのである(ibid.)。想像は準現在化の中立性変様であって(ibid.)、中立性変様には他にも、現在化(知覚)の中立性変様といったものもある(Ill/1,251f.)。つまり、想像は、「全般的な中立性変様」と混同されてはならないが、「想像それ自身は、実際、一つの中立性変様である」(III/1,250)。」</p>
<p>笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」,105P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc57">統握</span></h2>
<h3><span id="toc58">統握とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>統握(Auggassung)</strong></span>：</big>・何かを何かとして「解釈」する作用のこと。あるいは「意味付与」する作用や「生化(活性化)」する作用ともいわれている。あるものをあるものとして「把握」する働きとも表現される。</p>
</div>
<p>「統覚」とほとんど同義である。「把握」と訳されることもある。</p>
<p>「理解的統握」と「客観化的統握」という二つの統握に区別されている。</p>
<blockquote>
<p>「統握とは、内容をもたない混沌とした感覚に意味を付与し、もってこれを「生化させ」(LU.II/1,75)知覚表象ヒュレーモルフェーを成立させる働きである。言い換えれば、統握とは、感覚素材hyleに一定の解釈形式morpheを与えることで、未規定の感覚を何ものか「として」志向される知覚対象へと高める、形式化作用である。このような形式化は原理的に、形式を与えられる素材の存在を前提して初めて機能しうる。そして、「〔統握する]志向は、統握される感覚と一体となって、完全な具体的知覚作用を形成する」(LU.II/1,383)とされる。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,3P</p>
<p>「</p>
<p>「統握（Auffassung）それ自身は決して新しい諸感覚の流入には還元されえず、それは作用性格、つまり「意識の仕方（Weise）」であり、「心理状態（Zumutesein）の仕方」である。私たちはこのような意識の仕方における諸感覚についての体験を当該対象の知覚と呼んでいる」（L.U.II-1/381）。</p>
<p>フッサールによれば、知覚は統握作用のひとつであり、感覚を「生気づける（=魂を与えるbeseelen）」作用である。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,181P</p>
<p>「それゆえ感覚内容が、対象の内容を「生身のありありとした有様で」呈示することができるためには、ある種の「過剰（Plus）」あるいは「付加物（Überschuss）」が必要となる。それこそが「意識の仕方」としての「統握」にほかならない。</p>
<p>「「統握」Auffassungとは、志向している対象に対して、それが「何であるか」ということを把握する意識の働きであり、それによって対象に与えられる規定が、「意味の核」としての「ノエマ的意味」である。……この「統握」に際しては、同一の対象を二通りに意味付けることも、逆に二通りの対象に同一の意味付けを与えることも、可能である。例えば、一枚の絵皿を一個の食器と観たり一個の装飾品と観たりするのは前者の例であり、また、宵の明星と明けの明星とを「太陽系第二惑星」として観るのは後者の例である。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,16-17P</p>
<p>「認識とは、意識の内部に対象に関する認識内容を「構成」（Konstitution）する働きである。そのようなプロセス自体を〈対象を構成する〉プロセスとも表現する。そのような構成のプロセスは、感覚が与えられる段階と、そのような感覚を「活性化する」（beseelen）働き、つまり〈意味を付与する〉（Sinngebung）段階とからなっている。後者の段階の作用を「統握」（Auffassung）と呼ぶ。あるいは、そのようにして成立した認識内容自体を「統握」と呼ぶことがある。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,3P</p>
<p>「内容－統握図式とは、「それ自体では言わば死んだ素材であるような感覚内容が、統握により、生化する意味を獲得する」(XVI,S.46;vgl.auchIII/1,ベゼーレントS.192,227;XIX/1,S.80,399,406)という図式に他ならない。この図式は、確かに対象の知覚を説明する際には一定の有効性を持つと考えられる。しかし、フッサールによれば、時間意識に関しては、この図式は次の二つの問題に直面することになるのである。」</p>
<p>高野考「意味と時間フッサールにおける意味の最根源への遡行」,273P</p>
<p>「知覚の対象は実的内在ではなく、志向的内在であるということであった。これは対象が意識の志向性という特性によって意識と密接に結びついているということを意味しているのである。つまりわたしたちは感覚与件を統握によって生気づけることによって、その対象を現出させるのである。統握という働きはすでに『論研』において述べられていた事柄である。すなわち統握とはあるものをあるもの「として」把握するという働きであり、そこにおいてわたしたちは対象に意味付与（Simgebmg）制を行っているのである。「ひとり経験のみこそが、事物にその意味を指定するゆえんのものなのである」（III！I，S，1oO）とフッサールはいう。こうして諸々の対象はそれぞれある意味としてわたしたちに与えられているのであり、ひいては世界もある意味として与えられるであろう。そこからまた次のようにいうことも許されるであろう。現象学的還元を施された純粋意識の領国においては対象の存在とは、意味としての存在であるということである。従ってまた、対象の存在を問うということはその意味を問うということでもある。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,54P</p>
<p>「さてわたしたちはこの作用の実的な内容を体験し、所有しているのではあるが、その内容を知覚してはいない。わたしたちが知覚しているのは、現出している事物である。例えぱわたしたちが赤いポストを見ているとき、わたしたちはそのポストを体験しているのではなく、その色彩感覚を体験しているのであり、そのようなものが実的内容といわれる。この実的内容を解釈し、わたしたちにとって対象化させる働きが統握あるいは統覚である。フッサールはこの統握を「私に対する対象の存在を始めて形成する一つの体験性格である」（X脳／1，S．397）とか「統覚とは体験それ自身のうちに、記述的内容のうちに、感覚の生の存在に対して見いだされる付加物（血）erschuB）」（XlX／1，S．399）と定義している。先にも述べた通り志向性とは、「ある特定の仕方で理解されたものとしての何かを意識すること」であり、この「として」の働きを統握が行っているのである。この統握の働きによって、実的内容が解釈され、志向的内容になるのであるが、フッサールは志向的内容として（一）志向的対象、（二）志向的質料（その志向的性質に対する）、（三）志向的本質の三つをあげている。意味とは「直観と何らかの関係を持ちうる意味志向のうちに伏在する」（Xl）（／1，S．352）のであるから、この志向的内容のどれかが理念的な意味に対応する作用における意味的なものであるはずである。それゆえこの志向的内容を吟味し、どの内容が意味に対応するものなのかを明らかにしなければならない」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,118P</p>
<p>「以上のことに注意しつつ『イデーンI『』第八五節を振り返ってみよう。この節の後半においてノエシス的諸契機として特徴づけられるものは、節の冒頭においては『志向性という特殊性を含むところの諸体験および体験諸契機』という仕方で導入されていた(HuaIII/1,S.192)。続いてこれに相当する契機が感覚的なものを『生気づけ』る『意味付与的』な『統握』として語られた後、ノエシス的諸契機という呼称が導入される段落においてはヒュレー的素材に志向性を与え、志向的体験を成立させる契機として特徴づけられている(HuaIII/1,S.192,194)」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」247P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc59">理解的統握と客観化的統握</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理解的統握(verstehende Auffassung)</strong></span>：</big>・言語的記号を意味的に解釈することによって思念された対象への関係を実現する働き。「意義志向」と関連している。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>客観化的統握(objektivierende Auffassung)</strong></span>：</big>・感覚内容を意味的に解釈することによって、対象の有体的な現出を可能にする働き。「直観作用」と関連している。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「だがヒュレー・モルフェー図式に依拠する統握理論を先に見た二段階説と混同してはならない。フッサールは表現経験と同様、知覚表象においても統握と呼ばれるある種の解釈作用が働いていることに注目し、言語表現における「理解的統握verstehende Auffassung」と直観的表象における「客観化的統握objektivierend eAuffassung」とをパラレルに論じ(LU.II/1,74f)。と同時に、同じ箇所で彼は、これら二種類の統握の差異に注意を促してもいる。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,3P</p>
<p>「統握作用は感覚内容とともに志向的体験の実的な構成要素をなすものであり、それはおもに意義志向における〈理解的統握〉と直観作用における〈客観化的統握〉とに分けられる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,12P</p>
<p>「意義志向とは、言語的記号の現出に基づいてなされる意味解釈的な働きであり、それによって言語的な理解が可能になるとともに、思念された対象性への関係が可能になる。だが、この意義志向も一つの統握作用であるかぎり、そこには統握意味としての質料が介在しているはずである。この意義志向における統握に固有の質料、ないし、それと性質をあわせた志向的本質を、フッサールは「作用の意義的本質」(ibid.)と呼んでいる。そうすると、これまで述べてきた意義志向において機能している統握作用(理解的統握)は、先の質料のもつ対象指示的な機能を考え合わせるならば、次のように規定することができるだろう。すなわち、意義志向における理解的統握は、言語的記号を意味的に解釈することによって思念された対象への関係を実現する働きであるが、この対象への関係は、統握作用が自らのもつ意義的本質を言語的記号に付与し、このようにして付与された意義的本質が思念された対象を指示するという仕方によって可能になると考えられる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,12P</p>
<p>「それでは、直観作用において機能する統握作用(客観化的統握)はどのように理解されるだろうか。直観作用、とりわけ知覚作用における客観化的統握は、感覚内容を意味的に解釈することによって、対象の有体的な現出を可能にする働きであるとされる。この知覚における統握作用もまた、それに固有の質料と性質を有している。だが、この客観化的統握が先の理解的統握と大きく異なる点は、それが続握の基盤としての感覚内容を必要とし、この感覚内容が質料や性質と並んで、知覚の重要な契機をなしているという点である。それゆえ、知覚における統握のあり方を考察する際には、作用の質料、性質と並んで、第三の契機としての感覚内容(これは志向充実の連関においては、「充実Fülle)」とも呼ばれる)を考慮に入れなければならない。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,13P</p>
<p>「さらにフッサールは、『[諸現出の]直観は、記号として、[現出者の]直観を現している』とも言う。この『記号』という言葉に注目していただきたい。典型的な記号である言語記号は、それが指し示す当のものとは似ておらず(たとえば『丸い』という言語記号そのものは丸くない)、両者のあいだには大きな差異がある。これに対して、諸現出は現出者と似ている。いや似ているなどというより、諸現出なしに現出者そのものが成り立たないのだから、諸現出と現出者は一体だと言ってもよいほどである。しかし、だからといって、諸現出の関係性は『同等性』とだというわけではなく、(『等しくない角』と『等しい角』のように)微妙な差異性も含んでいる。現出がこうした特殊な意味での『記号』であることを示すために、フッサールは、括弧付きの表現で(『記号』)と言ったりする。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」59P</p>
<p>「こうした『記号』によって媒介されているため、現出者の知覚は、厳密に直接的であありえない。直接経験における現出者の知覚が、じつは直接的ではないのである。では、現出者へのもっと直接的な関係があるのだろうか。幸か不幸か、現出者に対しては、これ以上に直接的な関係はありえない。知覚的な直接性は、(たとえば想起などに比べて)最も直接的でありながら、しかしそれでもなお、媒介された直接性なのである。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」59－60P</p>
<p>「では、これらの定義における「客観化することObjektivieren」と「定立することSetzen」とは何だろうか。順に見ていこう。第一に、「客観化すること」は、「統握Auffassung」という機能によってなされる。統握とは、フッサールの術語であり、次のように説明される。まず、能動的な作用に先だって意識の中に見いだされるものは、「内容Inhalt」である。この内容は、私たちの意識に与えられているものであり、それ自体では未だ客観とは何の関係もない。統握とは、この内容への「解釈Deutung」である(XIX/1,A75,76;XI,44)。内容をしかじかのものとして解釈(統握)することにより、はじめて〈しかじかのもの〉によって規定された客観と関わることができるように(3)なる。そして、この関係づけによって客観が意識に現れるようになり、客観化が達成されるのである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,95P</p>
<p>「第二に、『定立すること』とは、内容をしかじかのものとして統握することとは別に、この〈しかじかのもの〉によって規定された客観を、「存在するものと見なす」ことであるXIX/1A447-448)。客観がどのように存在するかを未決定のままにしても客観化が成立する以上、定立を行わないような客観化も可能である。この点に注目すると、客観化する作用のうち、定立を行わないものを表象、定立を行うものを知覚とするという先の定義が可能になるのである。なお、今後の議論と関連で重要なのは、知覚が後になって錯覚であると判明したとき、その時点から知覚は表象になるということである。それゆえ、表象が〈定立を行わない〉というときには、〈未だ定立を行っていない〉場合と〈かつて定立を行っていたがそれを撤回している〉場合の二通りが考えられるのである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,96P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc60">
意義志向とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意義志向</strong></span>：</big>・単なる語感や文字に意義を与える作用。意義付与作用、表意作用とも呼ばれる。意義志向においては、原的直観のような「充実」は存在せず、「空虚」と表現されている。</p>
</div>
<p>１：言語表現にとって本質的な働きである。</p>
<p>２：表象された対象への関係が可能になるという。</p>
<p>３：知覚などの直観作用に基づけられた高次の志向性である</p>
<blockquote>
<p>「『論理学研究』第二巻、第一研究の「表現と意義」に関する分析の箇所で、フッサールは意義志向と意義充実に関して次のように述べている。私たちは言語表現の理解において、まずもって語の表象をもつが、それは単なる語音ないし文字の表象ではなく、意義を付与された語音や文字の表象である。つまり、言語表現は語音や文字に意義が付与されることで、はじめて本来の意味での表現になりうるが、このような単なる語音や文字に意義を与え、それらを言語的表現たらしめる作用が、意義志向、ないし意義付与作用と呼ばれる(XIX/1,44)。この意義志向は、言語的表現を本来の表現たらしめるという意味で、表現にとって本質的な働きであり、それによって言語的な理解が可能になるとともに、空虚な仕方であれ、表現された対象ないし事態への関係が可能になる。それに対して、意義充実とは、意義志向において思念された対象性を直観的な所与にもたらすことで意義志向を充実する働きであり、想起や知覚などの直観作用がそのような役割を担っている。意義志向が直観作用によって適切な仕方で充実されるとき、両者は「認識の「統一」ないし「充実の統一」(ibid.)において互いに融合しあい、この「充実の統一」において本来の認識が実現する、とされる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,2P</p>
<p>「それに対して、前者の理解的な統握とは、直観的な表象作用に基づけられた高次の作用性格であるとされる。すなわち、言語的理解においてはまず、上記の統握作用によって物理的な客観としての単なる言語的記号が現出し、それに基づいて第二の統握、すなわち理解的統握としての意義志向が遂行される。この理解的統握は、言語的記号の直観的な現出に基づき、それに対して、あたかも言語的な意味解釈を施すかのように意義を付与し、つまり表現され、それによって言語的な意味理解を可能にするとともに、先の言語的記号とはまったく異なる新種の対象性、思念され対象性への関係を可能にする。したがって、理解的統握とは言語的記号の現出に基づいて遂行される一種の意味解釈的な働きとして理解することができよう。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,4P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc61">理解的統握と意義充実</span></h3>
<p>※この項目は前回の内容と重複</p>
<p>たとえば「リンゴ」という文字表現を理解する場合、目の前にリンゴがあるわけではない。しかし、我々は文字によって表象されている[リンゴ]という意義を理解することができる。</p>
<p>「隣の部屋にリンゴがある」と声に出したり、文字表現を理解する場合、実際にあるかどうかは不明なので、「<b>空虚的</b>」であるといえる。この空虚が現実のありありとした現出となるためには、実際に隣の部屋に行って「見る」必要がある。つまり、知覚によって直観的に「<b>充実</b>」される必要がある。こうした充実を、「<b>意義充実</b>」という。</p>
<h4><span id="toc62">・意味と意義の違いについて</span></h4>
<p>１：『論理学研究』において「意義」と「意味」は区別されていない</p>
<p>２：『イデーンⅠ』において、意義を狭義に「<b>言語的意味</b>」として扱い、意味を広義に「<b>先述定的意味</b>」と「<b>知覚的意味</b>」も含む意味として扱うようになった。</p>
<p>重要な点は、「言語的意味」と「知覚的意味」が区別されている点であり、「知覚的意味」は言語にできないような、あるいは言語化する前にあるような意味であり、概念であるということ。たとえば「赤さ」と言語化する前の、赤のような概念である。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記(2024/02/16):この時点ではよく理解できていなかったが､「先述定的意味」が言語化する前(つまり､述定的分節化を行う前)の意味であり､「名辞的意味」に相当する｡この記事で「知覚的意味」として私が扱ってしまっていたのはこの「先述定的意味」である｡「知覚的意味」はむしろ述定的分節化(原述定的分節化とでもいうべきものだが)が行われるような「命題的意味」に相当する｡言語を前提とした命題的意味と､言語を前提としない命題的意味を､述定的意味と原述定的意味と分類する｡このあたりのややこしい用語の整理は第五回の記事で検討している｡未だに修正の余地を残している｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記(2024/02/16):意味と意義についての詳細な説明は以下の記事の「【修正】追記:「知覚的意味」とはいったいなにか､私がよく理解していない問題」を参照｡<a href="https://souzouhou.com/2024/02/11/husserl-4/">【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc63">
客観化とはいったいなにか</span></h3>
<p>１：「感覚内容」がまず与えられる(後述)。この時点では、まだ「客観化」されていない。つまり、「<b>対象化</b>」されていない(志向的対象が構成されていない)。客観化＝対象化と考えてもいいのかもしれない。</p>
<p>たとえば「目の前にあるリンゴ」として解釈されたりせず、非言語的な「感覚」として与えられているだけ。例えるなら生まれたての赤ん坊が、リンゴが目の前にあるとまだ認識していないような状態(リンゴと自分、極端にいえば世界と自分は一体となっているようなイメージ)。いわば、自分の意識の外になにかあるという確信がまだ生じていないような状態。自分の外に「なにか」あると特定している状態が「対象化」であり、「客観化」である。</p>
<p>・客観とは一般的には「主観から独立して存在する外界の事物」を意味する。もちろん現象学では、主観から独立した事物が存在するという思い込みを一旦停止している。人間は主観から独立した事物が存在すると「信じている」のであり、この信憑の条件、構造を明らかにすることが重要になる。</p>
<p>そして、まず客観があり、それから主観が認識するのではなく、まず主観があり、それから客観が「<b>構成</b>」される(客観化)という順序で現象学は考えていく。</p>
<p>２：感覚内容は「統握」されることによって、はじめて客観化(対象化)される。この統握は能動的作用であり、感覚内容が与えられるのは受動的である。ただし、「能動的」といってもなんでも意識の自由になるわけではない。</p>
<p>３：「客観化」されたからといって、定立されるわけではない。</p>
<p>鈴木崇志さんによれば、「<strong>表象</strong>」は客観化するが定立しない作用であり、「知覚」は客観化し、かつ、定立する作用であるという。たとえば蝋人形の場合、最初は人間として客観化され、定立されていたが、だんだん近づいていって「人形」だとわかった場合、定立を撤回することになる。ほかにも、ペガサスを想像するケースのように、客観化はされるが実在しているものとして定立されていないケースもありうる。</p>
<p>４：知覚とは客観化され、かつ定立され、かつ直観されているケースだと言える。</p>
<p>前回整理したように、志向性はノエシス(志向作用)とノエマ(志向内容・志向対象)の相関関係として説明されている。</p>
<p>そしてノエシスは統握・直観・定立からなり、知覚はこのなかでも特に客観的統握、知覚直観・理性定立が重要になってくる。</p>
<blockquote>
<p>「｢自という感覚与件｣は､｢現象学的な色の契機｣であり､｢この契機が知覚の中で､したがってその契機自身に付属する知覚の組成要素(≪対象の色彩現出≫)の中で≪統握≫され､客観化〔=対象化〕される｣(Husserl1922=1974:145)ことによってノエマ的意味としての｢紙の自｣が構成されるのである｡そして､フッサールは､この客観化=対象化以前の｢白という感覚与件｣を見出すことが可能だと言っているのである｡フッサール自身､そのようなものを見出したと確信するような経験をしたのかもしれない｡しかし､｢白｣という言葉で表現可能である限り､それは意味を帯びているのだと我々は考える。」</p>
<p>村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」110-111P</p>
<p>「では、これらの定義における「客観化することObjektivieren」と「定立することSetzen」とは何だろうか。順に見ていこう。第一に、「客観化すること」は、「統握Auffassung」という機能によってなされる。統握とは、フッサールの術語であり、次のように説明される。まず、能動的な作用に先だって意識の中に見いだされるものは、「内容Inhalt」である。この内容は、私たちの意識に与えられているものであり、それ自体では未だ客観とは何の関係もない。統握とは、この内容への「解釈Deutung」である(XIX/1,A75,76;XI,44)。内容をしかじかのものとして解釈(統握)することにより、はじめて〈しかじかのもの〉によって規定された客観と関わることができるように(3)なる。そして、この関係づけによって客観が意識に現れるようになり、客観化が達成されるのである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,95P</p>
<p>「第二に、『定立すること』とは、内容をしかじかのものとして統握することとは別に、この〈しかじかのもの〉によって規定された客観を、「存在するものと見なす」ことであるXIX/1A447-448)。客観がどのように存在するかを未決定のままにしても客観化が成立する以上、定立を行わないような客観化も可能である。この点に注目すると、客観化する作用のうち、定立を行わないものを表象、定立を行うものを知覚とするという先の定義が可能になるのである。なお、今後の議論と関連で重要なのは、知覚が後になって錯覚であると判明したとき、その時点から知覚は表象になるということである。それゆえ、表象が〈定立を行わない〉というときには、〈未だ定立を行っていない〉場合と〈かつて定立を行っていたがそれを撤回している〉場合の二通りが考えられるのである。」</p>
<p>鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」,96P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc64">感覚内容とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感覚内容(Empfindungsinhalte)</strong></span>：</big>・知覚作用を構成する原因、契機、素材。体験されていても対象化されることがなく、反省によってはじめて対象化されるもの。非志向的なもの。意識はされている。</p>
</div>
<p>知覚作用を構成する原因、契機、素材。体験されていても対象化されることがなく、反省によってはじめて対象化されるもの。非志向的なもの。意識はされている。</p>
<p>１：感覚内容は、統握図式における統握される「内容」である。</p>
<p>２：感覚内容は、それ自身は志向的ではなく、実的な構成要素であり、またいかなる意味ももっていない。</p>
<p>３：感覚内容は確かに外的知覚の際に統握によって対象化されるが、<b>感覚内容”単体”が対象化されるわけではない</b>ことに注意する必要がある。いわば感覚内容×超越的内容＝志向的対象という形で対象化される。</p>
<p>４：感覚内容は、反省(内的知覚)においてのみ、抽象的に把握される。外的知覚においては、ただ体験されるだけである。内的に知覚されず、ただ体験されるだけの段階をフッサールは「<b>素朴な知覚</b>」とも表現している。ただし、反省的知覚においてはもはや非客観的存在ではなく、単体で対象化(客観化)される(後述)。</p>
<blockquote>
<p>「そして感覚内容とは、「知覚された対象の対応する内容に対して存在」しており、知覚にとっては「実的な内容そのもの」（XVI/45）のことである。ここで気をつけなければならないのは、感覚内容はそれ自体単独では意味をなさないということである。つまり、「諸々の感覚内容は、それ自体では知覚の性格について何も含んでおらず、一方の知覚された対象の方に、知覚が向かうことについても何も含んでいない」。しかも、感覚内容は「物対象的なものが生身のありありとした有様で存立する（inLeibhaftigkeitdastehen）ことを成り立たせている」わけでもない（XVI/45-46）。フッサールによれば、感覚内容はそれだけでは対象をそのものとして現出させることはできないし、知覚が対象に向かうに際して、その方向性すら含んでいない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,181-182P</p>
<p>「感覚は，一つの対象としてとりまとめる知覚の材料になっているので，その内容の側面に関して感覚素材と呼ばれる。知覚である色の広がりは感覚素材のまとまりであり，感覚である痛みの持続も感覚素材の持続的なまとまりである。それぞれは区別されており，そのまとまり方にも秩序がある。感覚とは，言語に表現される手前の生の感覚である。そして，この生の感覚の変化，ある特定の感覚が現れ過ぎ去ることが，時間意識を形成する。つまり，感覚こそが時間意識の源泉なのである。」</p>
<p>露木 恵美子「「場」と知識創造―現象学的アプローチによる集団的創造性を促す「場」の理論に構築に向けて―」,47P</p>
<p>「まず、後者の客観化的な統握に関していえば、それは感覚与件、ないし感覚内容と密接に関わる概念と考えられている。感覚内容とは、直観作用、とりわけ知覚作用を構成する契機であり、それは通常は体験されてれることはなく、心理学的反省によってはじめて対象化されるものである。フッサールによれば、この「体験された感覚の複合体が、ある作用性格、ある統握、思念によって生気づけられることによって、知覚表象が実現し、それによって知覚された対象が現出する」(ibid,80)とされる。つまり直観、とりわけ知覚に関していわれるところの客観化的な統握作用とは、体験された感覚複合を生気づけることによって、知覚された対象、ないし対象的契機の有体的なありありとした)現出を可能にする働きであるとされる。またここで、その働きが客観化的な統握といわれのていは、それが多様な感覚内容をとりまとめ、統一的な客観的対象、もしくは対象的契機の現出を可能にする働きと考えるられていたからであろう。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,3~4P</p>
<p>「例えば､ある哲学の入門書は､フッサールの議論を次のように(｢あえてわかりやすく｣という但し書きつきではあるが)説明する｡｢われわれが幾何学の証明を考えるとき､さしずめ紙の上に鉛筆で図形を描きながら考えるとすると､この紙の上の図形が感覚的素材(ヒュレ･一)であり､それをもとにわれわれが思考している幾何学的真理がノエマ的意味であり､ノエマ的意味をめざして思考しているJL､的作用がノエシスである｡｣(田島1998:37)この説明全体へのコメントは差し控えるが､紙の上の図形が感覚的素材=ヒュレー的契機であるというのは誤りだろう｡図形は｢図形｣という意味を帯びてしまっているし､たとえ｢図形｣という意味を帯びていないにせよ､｢紙の上の線｣といった意味は帯びているからである｡いまだ意味を帯びていない素材に外部からの作用ないしは加工が施されるということを主張するには､いまだ意味を帯びていない素材が何らかの形で生起し得ることを示さなければならない｡このことに関して､フッサールは､以下のように述べている｡白い紙の知覚体験において､もっと詳しく言えば､その紙の白さという性質に関係した知覚の構成要素のうちに､われわれは､適切に目差しを向け換えかっ純粋に心理的なものへと現象学的還元を施してゆけば､自という感覚与件を見出すであろう｡(Husserl1950=1979:161)ここで言う｢白という感覚与件｣は､ノエマ的意味としての｢紙の白｣とは異なる｡｢自という感覚与件｣は､｢現象学的な色の契機｣であり､｢この契機が知覚の中で､したがってその契機自身に付属する知覚の組成要素(≪対象の色彩現出≫)の中で≪統握≫され､客観化〔=対象化〕される｣(Husserl1922=1974:145)ことによってノエマ的意味としての｢紙の自｣が構成されるのである｡そして､フッサールは､この客観化=対象化以前の｢白という感覚与件｣を見出すことが可能だと言っているのである｡フッサール自身､そのようなものを見出したと確信するような経験をしたのかもしれない｡しかし､｢白｣という言葉で表現可能である限り､それは意味を帯びているのだと我々は考える。」</p>
<p>村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」110-111P</p>
<p>「感覚（ヒュレー的与件）について、S・ギャラガーは九つの定義を挙げている。しかし、私たちはそれらすべてを指摘する必要はない。それでも、これまでの論述に資するという意味で、下記に挙げておく（番号は、ギャラガーのそれに従う）。①ヒュレー的与件は、統握-統握内容という図式における内容である。そして、感覚与件は、類比的な形成材料（analogicalbuilding-staff）として機能する。②ヒュレー的与件は、意識の志向的構造に入っているが、それ自身は志向的ではない。例えば、フッサールは、それら感覚与件は実的な構成要素であり、構成成分、あるいは意識の要素であり、ある仕方で意識に「現在」する、という。そして、それはいかなる意味も持たない。③ヒュレー的与件は、反省において抽象的にのみ把握されうる、前反省的に生きられた体験である。それは、反省的作用を通じてしか知られることがない。フッサール自身、ヒュレー的与件が抽象的なものであると述べている。そしてまた、ヒュレー的与件は、非客観的存在であるが、それらが反省において主題化されるならば、その非客観的な身分を失う。つまり、ヒュレー的与件は抽象化され、反省のための対象になる。④～⑦省略⑧ヒュレー的与件は、すでにそこに存在しており、つねに利用可能であること、すなわち、それらヒュレー的与件を生気づける意識的統握にとってあらかじめ与えられているといわれている。⑨フッサールは、ヒュレー的与件と人間の身体との関係について、展開途上であり、一連の曖昧な志向を持っている。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,200-201P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc65">感覚内容を言語的に表現することは可能か</span></h4>
<p>フッサールは「白い紙という知覚体験」において、現象学的還元(要するに内的知覚)を行えば「白という感覚与件」を見出すことが可能だという。</p>
<p>ただし、村上直樹さんによれば「白」という言葉で表現可能である限り、それは「意味」を帯びているという。意味を帯びる前の「白のような、なにかの感覚」としかいえないようなものが感覚内容であるといえる。また、村上さんはそもそも、そのようにして<b>前述定的な感覚的内容を現象学的還元によって取り出すことは究極的には不可能なのではないか</b>、という。</p>
<p>・言葉にはできなくても、我々は体験しているのであり、それを(非主題的ではあるが)意識しているのであり、また内的に「知覚」することも可能であるとフッサールはいう。</p>
<p>ただし、宮原有さんは、そのようにして「感覚内容」を内的知覚によってとりだすことは本当に可能なのか、と疑問を投げかけている。宮原さんいわく、フッサールは「感覚素材は、知覚体験のみならず、体験作用全体の中から取り出して、そのもの自身として境界をはっきり設定できるかのように主張している」という。</p>
<p>例えば「赤い家」を知覚した後に、「赤い感覚内容」をとりだすことは可能か。</p>
<p>宮原さんは、赤い感覚はあくまでも「赤い家の赤さ」であり、まず「赤い家」という統握が成立してからではないと不可能であるという。したがって、知覚体験から感覚素材以外を引き算した結果、感覚素材が際立ってくるということになる。</p>
<p>ここで問題なのは、<b>感覚素材が与えられる瞬間というものを我々は確認できない</b>という点である。事後的に、こうなのだろうというように構築的に考え出されたものにすぎないという。であるならば、<b>感覚内容が統握に時間的に先行するかどうかも不確かになってしまうのではないか</b>、という重要な点につながってくる。また、そもそも感覚内容があるかどうかという点は、科学においてもクオリアが存在するかどうかの問題につながってくるので面白い。</p>
<blockquote>
<p>「このように考えると、目の前の現象全体から「赤い家」を取り出してそれを知覚するということと、赤い感覚素材そのものに注目し、取り出すということとは根本的に違った操作であるということである。感覚素材は、知覚体験のみならず、体験作用全体の中から取り出して、そのもの自身として境界をはっきり設定できるかのようにフッサールは主張しているが、これは事実問題として可能かどうか疑わしい。というのも、赤い感覚素材とは、あくまでもその「赤い家」の〈赤さ〉であり、その赤さを図（figure）として、背景としての地（ground）から切り離し、取り出し、境界づけることができるのは、「赤い家」という統覚が成立してからではないかと考えられるからである。それとも、統覚が成立してからあとに、そのような知覚体験全体から統覚的要素を引き算した結果、残余として感覚素材が取り出されるというのであろうか。端的な、素朴な知覚が成立してからあとで、それに対して遂行される「見つめながらの反省」（dieschauendeReflexion）、言い換えれば「反省的看取」によって感覚素材は、それ自身として際立ってくるというのである。ということは、われわれの意識においては、感覚素材そのものが与えられる瞬間というのは確認できないわけである。感覚素材、ないしは感覚内容が時間的に先行するという事態は意識上成立しえなくなる。したがって、前期から『イデーンI』（1913年刊）の中期まで前提されていた〈感覚素材（内容）とそれを活性化する統覚〉というスキームは、反省による理論的分析の結果、直観的に確認されることなく、〈構築的に〉考え出されたものであるといえよう。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,55-56P</p>
<p>「この記述の中で特に注目すべき点としては次の二点を挙げることができる。１．感覚内容自体は、反省的知覚によって、対象化され〈知覚される〉が、それ以前は、〈体験されている〉ということ。２．知覚経験において、「流れ去りつつある」（fließend）、ないしは「流動」（Hinströmen）というメタファーで表現されているのは、感覚的内容、ないしは諸感覚であるということ」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc66">『論理学研究』(1901年)内容-統握図式</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内容-統握図式</strong></span>：</big>・死んだ素材である「感覚内容」を「統握」によって生気づけ、活性化させ、意味付与するという図式。『論理学研究』の時点では、感覚内容はただ統握を待つだけの死んだ素材にすぎないというような扱いを受けている点が重要である。</p>
</div>
<p>死んだ素材とは、「それ自体では無意味で、無形式で、対象化されず、いかなる志向性も有しない素材」という意味合いである。いかなる志向性(あるいは方向性)をもっていない、という点が重要になる。晩年では統握される前になんらかの方向性をもっていると変化していく。</p>
<blockquote>
<p>「私たちは、このような付加物を統握の性格と呼ぶ。そして私たちは、感覚内容は統握を経験しているというのである」（ibid./46）。</p>
<p>またフッサールは、感覚内容と統握との関係について、感覚内容を「死んだ素材」として考えており、「死んだ素材（eintoterStoff）」に「魂を与える（beseelen）」という統握作用が働きかけると考えている。</p>
<p>「いわばそれ自体では死んだ素材であった感覚内容は、統握によって魂を与える=生気づける意義（beseelendeBedeutung）を獲得する。その獲得の仕方とは、それら感覚内容でもってあるひとつの対象が呈示される、というような仕方である」（ibid.）。</p>
<p>フッサールにとって、感覚内容に「魂を与える=生気づける」ことができるのは、「生化（beseelen）する」働きをもつ統握作用しかない。つまり、統握作用によって初めて、感覚対象は対象を意識に呈示させることができるのであり、感覚内容が「呈示する働きをもつ（darstellend）内容」（ibid.）として特徴づけられるのである。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」,182P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc67">『物と空間』(1907年)内容-統握図式</span></h3>
<p>『物と空間』(1907)では、「感覚は決して特徴の重複を提供するものではない」と主張している。</p>
<p>たとえば鏡像理論のように、物の色が感覚の色としてスクリーンに投射される「像」のように映し出されているという見方を否定している。</p>
<p>例えばリンゴを見ている時、まさに「リンゴという物」を見ているのであり、「像」を見ているわけではない。</p>
<p>たとえば「りんごの絵」を見て実物のリンゴをイメージするような関係のように、「赤色感覚」と「対象化された赤色」の感覚をその「類似性」や「像」という関係性でとらえるべきではない、という話。</p>
<blockquote>
<p>「だが、「感覚的所与」を事物の性質の「像」と解することは現象学的にみれば転倒した考えであると言われている。というのも、われわれは知覚において「像」を見ているのではなくまさしく物を知覚しているのであり、たとえ「像」が知覚に内在していると考えてみても、それは知覚の理解のために何も提供しないばかりか、むしろ、類似の二つものが同時に存在するという誤解を生じさせるからである。「像」という現象については、別途に現象学的解明が行われなければならないが、通俗的な「像」の理解によって「知覚」を説明することは本末転倒なのである。『物と空間』における以下の論述はそのことを示している。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「客観的特徴の同一性はけっして対応する感覚の同一性ではない。<strong>感覚</strong>は決して特徴の重複を提供するのではない。したがって、『像』という語を普通の意味で受け取るなら、知覚は、<strong>原物</strong>を<strong>類似性</strong>によって表象する第二の物として、対象の像を自らの内に含むのではない。知覚は、物全体の反復をも物の個別的特徴の反復をも含まない」（DR.,S45）。</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,8-9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc68">『認識の現象学導入』(1909年)内容-統握図式</span></h3>
<p>（２）『認識の現象学の導入』(1909)において、「呈示は、類似したものによる類似したものの表象である類似性」という『論理学研究』における主張が撤回される</p>
<p>１：「感覚内容」と、「感覚内容が統握されて対象化されたもの」は類似していると主張されていた。たとえば赤の感覚とペンの赤色は類似しているのであり、赤の感覚がペンの赤色を呈示することになる。</p>
<p>２：草稿では感覚の色と対象化された色はまったく異なったものであり、<b>真の意味での類似性とはいえない</b>と考えるようになる。たとえば目に見えているサイコロの１の面と、サイコロの1から６の面のような同じカテゴリーの単純な類似の関係ではない。サイコロの1の面だと解釈するためには、感覚内容を超えた情報、意味が必要になる。感覚は白さ、赤さ、すべすべ、四角っぽさなど、言語にはできないようななにかである。このあたりは複雑なので、次回「射映」において検討する予定。</p>
<blockquote>
<p>「さらに、「感覚」と「原物」の「類似性」の理解に関して、かつてのフッサール自身の見解の訂正を示しているという意味でも、以下の言葉は注目に値する。「『呈示は、類似したものによる類似したもの表象である』。私自身がこの表現を、『論理学研究』の中で使用した。［LU.II/2(VIUntersuchung),§26（小論筆者による）］。にもかかわらず、この関連には、深刻な疑念が存立する。感覚の色、感覚の拡がりなどは、色彩、延長などの物的規定に対してまったく異なったものだからである。真の意味での類似性は、同じ包括的な類の下にたつ異なったものの関係である。従って私は今、この場合に、類似性による表象という言い方は避けるのである」（EPh.,S123）」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc69">草稿(1909年)内容-統握図式</span></h3>
<p>（３）1909年の草稿において、統握図式の有効性に疑問をもつようになる</p>
<p>・知覚の場合、まず感覚内容(統握内容)があり、その次に、統握作用があるというような区別を絶対化する傾向に疑問を持つようになったという。分析的に知覚における統握内容と統握を区別することはそれなりに妥当であり有用ではあるが、この区別を<b>絶対化するべきではない</b>という話。</p>
<p>感覚内容だけが独立して実在し、直観的に観察できるというより、分析的に、構築的に、あるいは<b>抽象的に取り出すことができるにすぎない</b>という話につながってくる。</p>
<p>前半で扱った、「非独立的」や「契機」という用語とも関連してくる。お互いがお互いを基づけているのであり、片方がなければ片方も存在しない相互的な「基づけ」関係にある。たとえば社会学がなくても現象学は成り立つが、社会学には現象学が必要になるイメージ。この場合は片方が一方的に基づけているのである。しかし相互的な基づけ関係にある場合は、同時的であり、不可分にあるということになる。</p>
<blockquote>
<p>「しかしフッサールは、同時に、ヒュレーと志向様式の区別（言い換えれば「統握内容」と「統握」の区別）を前提としてその各々を分析する手法自体の有効性を次第に疑問視するようになり、ファンタスマを実体的なものとして捉える視点を放棄するようになる。1909年の草稿には次のように記されている。</p>
<p>私は〈統握内容と統握〉という図式を有していた。この図式には間違いなくそれなりの意味があった。しかし我々は、まず知覚の場合、そこに具体的な体験としての〔例えば〕ある色を統握内容として持ち、次に、現出を生み出す統握特性を持つのではない。同様に我々は、空想の場合もまた、ある色を統握内容として持ち、次に、空想の現出を生み出すような変化した統握を持つのではない。むしろ、「意識」は徹頭徹尾、意識であり、感覚もファンタスマも既に「意識」なのである22）。</p>
<p>統握内容と統握の区別は、経験の感性的側面と意味的側面の区別であり、分析上それなりの妥当性はあるが、この区別を絶対化して各側面を実体化することはできないと考えたのである。」</p>
<p>荒金直人「サルトルの像理論における類比的表象体の実体化について」,42P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc70">『イデーンⅠ』(1913年)内容-統握図式</span></h3>
<p>（４）『イデーンⅠ』(1913)において、感覚内容や統握という言葉の代わりに、ヒュレーとモルフェーという言葉が用いられるようになる。</p>
<p>また、単なる言葉の変化だけではなく、統握-内容図式も変化しているという。また、『イデーンⅠ』においてはノエシス-ノエマ構造という新しい考え方も出てきているため、それらとの関連性も理解する必要がある。また、『イデーンⅡ』ではヒュレーの概念の変化も重要になってくる。</p>
<h4><span id="toc71">ヒュレーとモルフェーとはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感覚的ヒュレー(hyle)</strong></span>：</big>・それ自身のうちに少しも志向性をもたない感覚的な要素(成素)あるいは契機のこと。例えば視覚的感覚、触覚的感覚、痛みや吐き気の感覚など。感性的質量やヒュレー的質量とも呼ばれている。ほとんど「感覚内容」と等しい。「流れ去りつつある」や「<b>流動</b>」という比喩表現で表されることもある。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向的モルフェー(morphe)</strong></span>：</big>・感覚的ヒュレーを活性化(生化、意味付与)させる要素(成素)あるいは契機のこと。解釈形式や志向様式とも呼ばれている。ほとんど「統握」と等しい。「形相」や「形態」とも解釈される場合がある。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「『論理学研究』で提起された統握理論の二元論的な傾向が、『イデーンI』へと部分的に受け継がれる。感覚的ヒュレーは「それ自身のうちに寸毫も志向性をもたない感覚的なもの」であり、「意味付与による統一」を受けて「具体的な志向的体験が成立るゆえんのもの」だと言われる(ID172)。志向的体験の内で「感覚的ヒュレーと志向的モルフェー」という概念的には区別されるが実質的に分離不可能な二つの契機が不可分に結合しており、これら二つの契機の「二重性と統一性」が志向性において支配的な役割を演じているとされる(ID.172)。以上のような記述は、』の志向性理論がヒュレー・モルフェー図式の完成形であることを示唆している。そうであれば、もっぱら実的な作用の側面から論じてきた統握理論を新たに普遍的な意味の次元へと鋳直したものとして、上の諸テーゼを理解することもできるはずである。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,5P</p>
<p>「したがって『イデーン』Iのうちにみられる「ヒュレー(Hy16)」という感覚規定のうちには,感覚がただ単に客観化的統握綜合に対して,その質料あるいは素材としての機能を果たすということだけが意味されているのではなく,まさにその意味付与的統握がはじめてその質料的与件を活性化するということ,つまり素材としての感覚与件に身体的に知覚するものとしての生きた自我への関係性を付与するということも語られているとみるべきであろう。10したがつてわれわれの自我は対象的なものへの顕現的志向関係においてのみ生きいきと作動しうるという現象学的前提から考えるならば,非志向的な感覚与件というのは生気のないものとして,すなわち精神を付与されていない素材(Hy16)としてしか見られないということなのであろう。」</p>
<p>高階勝義「現象学的感性論序説―フッサールの感覚概念をめぐって一」,6P</p>
<p>「すでに『論理学研究』において、志向性の分析が作用の内在的(実的)内容と作用の超越的相関体の区別をしなければならないことは明らかだった。この内在的内容は二つの異なる成素から，感覚と心理的過程としての具体的な志向から成り立っていた。『イデーンⅠ』においてフッサールはこの立場を取り続けているが、いまはや新しい用語法を用いるのである。実際、彼は次のように述べている。意識の流れは二つの異なる成素を含んでいる。(１)視覚的感覚であれ、触覚的感覚であれ、痛み、吐き気等の感覚であれ、非志向的感性的内容のレヴェル。フッサールは、感性的質料(<strong>ヒュレー</strong>)あるいは端的に<strong>ヒュレー</strong>的質料について語っている。(２)生化するあるいは意味を与える成素という志向的次元。フッサールは志向的形式(<strong>モルフェー</strong>)について語っているが、また、そしてもっと多く<strong>ノエシス</strong>あるいは<strong>ノエシス</strong>的成素についても語っている。これらの両方の療法が作用に内在的であるのに対して、超越的な、構成された相関帯はいまや<strong>ノエマ</strong>と呼ばれる。このノエマはしばしば志向されるがままの対象と同一視される。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」86-87P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc72">『論理学研究』と『イデーンⅠ』における統握図式の違いとは</span></h4>
<p>統握はノエシスのひとつの機能(ノエシス的諸契機)であり、ヒュレーに志向性を与え、志向的体験を成立させる契機として語られる。</p>
<p>端的に言えば「内容と作用」という言葉から、「素材と形式」という言葉に置き換わったという話。あるいは実的内容と志向的内容という区別から、ヒュレーとモルフェーという言葉に置き換わったといえる。ただしその関係性は変化している。</p>
<p>１：『論理学研究』においては、統握内容と統握が綜合作用を経て統一される切り離された独立の要素のように扱われていた。</p>
<p>２：『イデーン』においては、それぞれが独立しているのではなく、不可分であり、分析的にのみ分離可能な一つの知覚の二つの局面であると考えられるようになる。</p>
<p>カッシーラーが『イデーンⅠ』における統握理論について批判しているので参考になる。</p>
<p>『イデーンⅠ』においても『論理学研究』における統握理論の枠組みが引き継がれており、ヒュレーの層とモルフェーの層が分離して関連を欠いているような印象を与えるという。志向的体験から不可分な両者を抽象的に分離するのはよいが、そもそもヒュレーを契機(媒介)にしてモルフェーによって志向的体験が成立するという過程そのものを明示することはできないのではないか、という話。</p>
<p>一方で、小熊正久さんによれば、注意深く『イデーンⅠ』を見れば両者の共通点、関連性を見出すことができるという。ただしその関連性を理解するためには「射映」を理解する必要があるため、今回は省略して次回検討する。</p>
<blockquote>
<p>「『論理学研究』の統握理論は、直観と意味志向を区別した上で、それぞれを知覚の領域と概念の領域とに振り分ける。そして、知覚における志向の充実を意味志向と直観との合致綜合として説明する(vgl.,LU.II/2,§8)。これに対して『イデーンI』期において、知覚に関するフッサールの考え方は、より簡素なものへと洗練される。『論理学研究』と『イデーンI』との決定的な違いは、後者において直観と解釈が、綜合作用を経て統一されるべき切り離された独立の志向でという、他方で解釈という、二つの作用を含むのではない。知覚は、直観に対置されうる高次の概念的な理解に先立って、知覚意味を端はなく、むしろ、ただ一つの知覚が呈する二つの局面と見なされていることである。知覚は、一方で直観的に把握するauffassenただ一つの直観作用なのである。このように考えることで、フッサールは、意味という語の射程を概念の領域から知覚の領域へと「拡大し」その語義を「適切な仕方で変様」しえたのである(ID.256)。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」,8P</p>
<p>「フッサールは志向性の構成要素である「体験」について、その「感覚的所与」という契機とそれに意味を与えるはたらきをする「統握」という契機とを区分する。その区分について、カッシーラーは、1913年に公刊されたフッサールの『イデーン第一巻』＊1を引きながら次のように述べている。</p>
<p>「フッサールは、体験の全体を二つの部分、つまり、まだいかなる〈意味〉も内蔵していない「初次的内容」と、志向性という独特なものを基礎づける体験ないし体験契機とに分けるのである。感覚的体験、つまり色所与・触覚所与・音所与といった感覚的所与の上層に、いわばそれを生気づけて意味を付与する一つの層、詳しく言えば、『おのれのうちにはいかなる志向性ももたない感覚的なものから、まさしく具体的で志向的な体験が成・・・・・・立してくるような一つの層』が見出されるということになる」＊2。</p>
<p>そしてカッシーラーは次のようにこの区分を批判する。</p>
<p>「だが、&#8230;いったいこの［感覚的所与の層を基盤として意味付与的な層において志向的体験が］成・・・・・・立してくるという過程そのものは、純粋に現象学的に明示しうるものに属するのであろうか。&#8230;われわれには、『形式なき質料』とか『質料なき形式』といった言い方をする権限が与えられるものであろうか。&#8230;現象学的考察の立場には、『質料それ自体』も『形式それ自体』もありはしない。―あるのはつねに全体的体験だけであり、この全体的体験が質料と形式という視点のもとにたがいに対比され、この視点に従って規定されたり分節されたりするだけなのである」</p>
<p>と。たしかに、カッシーラーが引用している部分＊3（『イデーン第一巻』§85）を見ると、その叙述は、質料と形式という二つの別種の層が存在して、その両者は関連を欠くといった印象を与え、カーシーラーが抱いた不満にはもっともな点もある。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」,1P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc73">規定可能なXとノエシス-ノエマ構造</span></h3>
<p>・「<b>規定可能なX</b>」とはいったいなにか</p>
<p>(１)対象には「諸規定性」がある。たとえば樹木の知覚体験において、我々が明証的に意識しているのは樹木の色や輪郭、質感、大きさなどである。</p>
<p>一般に規定とは「ある事物の概念をはっきりきめ定めること」を意味する。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/520b0e6c596775b0ee471baba6661312.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2976" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/520b0e6c596775b0ee471baba6661312.png" alt="" width="265" height="155" /></a></p>
<p>フッサールは『イデーンⅠ』において、「諸規定」を記述の場面として想定し、「<b>諸述語</b>」として捉え直しているという。</p>
<p>つまり、述語である以上、なんらかの「<b>或るもの</b>」についての述語であるという話。◯◯は甘い、◯◯は酸っぱい、◯◯は丸っぽい、〇〇は種があるというように複数の述語があり、この〇〇が「或るもの」にあたる。</p>
<p>そしてこの「或るもの」をフッサールは諸述語の「統一点」、「結合点、「担い手」として表現していく。「<b>基体</b>」とも表現される。諸述語は「同じもの」に不可分に共属しているという点がポイントである。先程の例で言えば、&#x1f34e;に対する述語になる。たとえばイエナの勝者とワーテルローの敗者も、「或るもの」に対する異なる述語である(ここではナポレオンを想定している)。</p>
<p>谷徹さんの説明によれば、現出者からノエマ的意味をすべて剥がすと、それが収斂する形式的な極のようなものが抽象的に残り、これが「X」と呼ばれているという。</p>
<p>現出者とは今までの文脈で言えば、志向的対象であり、またあるときにはノエマとも呼ばれる。</p>
<p>つまり、ノエマにはノエマ的意味(志向内容、志向質料、統握意味、対象的意味)と、規定可能なXの両方を不可分にもつことになる。</p>
<p>フッサールは規定可能なXを「<b>客観</b>」、「<b>同一者</b>」、「<b>対象</b>」とも呼んでいる。</p>
<p>また、ノエマ的意味が「<b>述語ノエマ</b>」であり、規定可能なXを「<b>主語ノエマ</b>」として扱っている。</p>
<p>それゆえに、ノエマは内容であると同時に対象でもあると解釈できる。ただし、富山豊さんによれば、ノエマが層的に構造化された意味の内部に対象を内蔵する複合体である、というのは事態を単純化しすぎているという。</p>
<p>富山さんいわく、「規定可能なX」の役割は「<b>時間的に進行する具体的経験のうちで働く志向性の組織化機能</b>」だという。どういうことか。</p>
<p>リバーシブルな服の話が具体例として挙げられている。最初はおしゃれではないと思っていた服が、後になって実はおしゃれだとおもっていた服を裏返して着ているものだったという話。</p>
<p>おしゃれではないと思っていた服には、「規定可能なX」に諸規定を割り振る。たとえば「暗い」などの叙述が割り振られる。おしゃれだと思っていた服には、「規定可能なY」に諸規定を割り振る。たとえば「明るい」など。</p>
<p>時間的に後になって、実は「同じ服だった」ということがわかるためには、「認識の改丁」が必要であり、そのためには「<b>経験の組織化</b>」を導く機能がなければならないという。</p>
<p>・別々の極に同一化されていた諸規定性が、新たに単一の極を中心に「合併」されて、同一のノエマへと作り変えられる。</p>
<p>ださい服のXとおしゃれな服Yは別々の「規定可能なX」であったが、訂正されて合併されるようになる。</p>
<p>ここで重要なのは、いわゆる「志向的対象」と「規定可能なX」は同一のものではない、という点である。なかなか難しい。はじめから志向的対象がなにか決まっていて、それが「発見」されていくのではなく、度重なる「訂正(改丁)」によってXはYと同様だった、ZもXと同様だった、というように、改丁を重ねていくという話。ZはXとは違った、ということもありえるかもしれません。であるならば、やはり志向的対象と規定可能なXが一致するというのは理念的なものであり、設定的な仮説であり、イデア的なものなのかもしれない(もうこれで改訂をする必要がなく、他の述語も必要がないという状況はありえるのか。)。</p>
<p>富山さんの主要な結論を挙げて、「規定可能なX」についての話は区切りをつけて終わる。時間があれば、いつか改めて扱いたい。</p>
<p>１：「規定可能なX」と志向的対象は端的に一致するものではない</p>
<p>２：「規定可能なX」は経験の進行のなかでその志向的内容を組織化していく上で、対象の同一性に対応するべきものとして設定されるもの。</p>
<p>補足：梶尾悠史さんの新しいXの解釈も面白かったですが今回は扱えませんでした。気になる人はぜひ論文を見てください。</p>
<blockquote>
<p>「『イデーンI』において、知覚意味のXは、述語的な意味から区別すべき未規定的な意味契機と考えられていたことを想起しよう。そのような意味契機は、「これ」に付加される一切の属性的な意味から区別すべき、「これ」「何かあるものの非記述的な意味契機と正確に符合している。だが『イデーンI』において知覚意味のXは、未規定の」という消極的な性格づけしかなされていない。スミスの試みの主眼は、Xを「これ」の個別的な意味と捉えることで、Xの志向的な意味機能の内実について積極的に論じる点にある。」</p>
<p>梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」6P</p>
<p>「前節で確認されたように、ノエマはそのつどの作用の志向を特徴づける意味的な諸規定性をもち、そのノエマ的意味のうちにその同一極である「規定可能なX」をもつ。初めに、フッサール自身によるこの概念の導入の仕方を確認しておこう。「規定可能なX」の概念が導入される直前の第一三〇節において、フッサールはこれまで「諸規定性」と呼ばれていたものをその対象に関して「記述」する場面を設定し、これら諸規定性を「諸述語」として捉え返す(HuaIII/1,S.300-301)。そして続く第一三一節において、これらが諸「述語」である以上何らかの「或るもの」についての述語であるという議論を導いていく。そして、これらがそれについての「諸」述語である以上、それらは同じものに不可分に共属しているはずなのだから、この「或るもの」はそれらの「統一点」、「結合点」、「担い手」であると述べる。」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」,248P</p>
<p>「そもそも、「規定可能なX」の概念が何故必要であり、どのように設定されているのかという問題に戻ろう。それは、様々な可能な意味諸規定のうち特定のいくつかが「同じ対象」に帰属するものとして考えられる限り、我々の志向においてさしあたりそれらを「同じ担い手に属するものとして」特徴づけるために諸規定性のいわばフックとして、ある同一の「担い手」が要請されるからである。一見したところ先の議論もこの筋道を辿ったように思われる。しかしながら先の議論は、単一のノエマを孤立させて取り出してしまっていることによって、この「規定可能なX」概念の眼目を見えにくしてしまっている」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」,249P</p>
<p>「それゆえ、こうした経験の志向性を説明する場面で現れるのがノエマ的意味の概念であるならば、括弧入れを蒙った「対象」として還元後の現象学的記述において分析されるノエマ的意味の内部にも、単なる意味的諸規定性ではない同一性の担い手として何らかの同一極を設定しなければならない。これが「ノエマ的意味における規定可能なX」である。これはノエマと区別された超越的対象ではなく、「経験」ないし「志向的体験」の志向的構造を適切に分析するためにノエマの側になお設定されざるを得ない要素である。ノエマは、このXを構成契機として含み込むが故に、単純には意味とも対象とも看做し難い特異な性格をもつのである。」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」,250P</p>
<p>「さて、そうすると、ノエマは全体として意味である、と言っても大過ないことになる。しかし、このことを認めたうえで、あえて、この現出者からもろもろのノエマ的意味をすべて剥がしてしまおう。そうすると、それらが収斂する(形式的な)極のようなものが、抽象的に残る。これはまた、ノエマ的意味を剥ぎ取られているのだから、それ自体はノエマ的意味をもたないことになる。だから、これは『x』とも呼ばれる。基体は、純粋に抽象的にあるいは純粋に形式的に捉えられた現出者(X)である。」</p>
<p>「これが現象学だ」134P</p>
<p>「「私は一本の緑の木を知覚している」という場合、ノエマ的意味は、「一本の緑の木」である。このばあい述語は、「一本の緑の」であり、他方「あるもの」は「木」である。しかしこの「木」という対象は、「一本の緑の」という規定（述語）以外の規定をも持っているはずである。例えば「大きい」とか「幹が太い」とか「よく繁った」とかである。これら諸述語は、すべて同一の対象に関する述語なのであるから一多様な述語と同一の主語というソコロウスキーの指摘していたあの三つの構造のうちの一つに再び出会っているのであるが一、それらは区別されなければならないのである。この諸述語からは区別されるべきあるもののことをフッサールは「あらゆる述語を捨象された純然たるX」（m／1，S．302）と呼んでいる。このあるもの、あるいはXは、その言葉から明らかなように、全く内容空虚で形式的なものであり、またそれ故にこそ多様な述語をになうことができるのである、そしてその述語がXの内容をなすのである」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,143P</p>
<p>「では私たちはなぜ、それにもかかわらず、この流動するばらばらな知覚の奔流のなかで、個々の対象の存在を、そしてその不動の一体性を認識しうるのだろうか。フッサールによれば、それは私たちの意識が志向性をそなえているからだ。私たちは対象を知覚・認識するさい、感覚そのものの無秩序な流動にもかかわらず、それが統一的でまとまった対象であることを直観的に理解しており、ふつうそれを疑うことはない。志向性とは、こうした対象の直観的理解のための働きであり、ばらばらな知覚の流動的現れのなかに、対象の統一的本質をあらわす「形エイドス相」（「何か」、つまり「基体x」「現出者」「ノエマ的意味」「ノエマ的核」）を構成しようとする働きにほかならない。意識のそうした働きの側面をフッサールは「ノエシス」と呼び、そうした構成的働きに参与する流動的な諸感覚を「ノエマ」と名づけたわけだが、注意すべきなのは、志向性によって直観的に把握・理解される対象の本質の現れ（「形相」）を、彼が「意味」と呼んでいることである。」</p>
<p><span dir="ltr" role="presentation">貝澤哉</span>「アレクセイ・ローセフ『名の哲学』（1927）における「意味」の造形 : 形相的なものの可視性と彫塑性」,40P</p>
<p>「このことは、対象の同一性の事後的な判明の経験に際しては、ノエマ的意味における規定可能なXの当初からの同一性が「発見」されるという描像よりは、当初は異なる別々の極に同一化されていた諸規定性が、新たに単一の極を中心に「合併」されて同一のノエマへと作り変えられるという描像の方が適切であることを意味する。そしてじっさいフッサール自身が、『イデーンI』第一三一節において「合併する(zusammenschliessen)」という表現を用いているのである(HuaIII/1,S.302)。」</p>
<p>富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」,254P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc74">『受動的総合の分析』(1922年)内容-統握図式</span></h3>
<p>・『受動的総合の分析』(1922)において、感覚内容は渾沌(混乱)とした所与としてではなく、「<b>一定の構造を有する領野</b>」として扱われるようになる。晩年の『経験と判断』(1938)でも分析されている。</p>
<p>いわゆる「<b>受動性原志向性</b>の分析」である。</p>
<h4><span id="toc75">Q　感覚内容(感覚領野)が統握を単に待つだけの存在ではなく、「特定の構造」をもっているとはどういうことか。</span></h4>
<p>１：統握によって能動的に感覚内容に意味付与(解釈)する前に、対象は与えられている。しかし、「対象化」はされていない。</p>
<p>２：統握の前に、意味内容はどのようにして「与えられている」のか。意味内容は「<b>連合</b>(連想)」の働きによって構造化されている。</p>
<p>３：連合には「共時的な連合」と「通時的な連合」がある。</p>
<p><b>共時的な連合</b>：たとえば「白い紙の上のいくつかの赤い斑点は、互いの同質性によって融合する」とフッサールは例をあげている。</p>
<p><b>通時的な連合</b>：知覚などの対象化は時間とともに忘れ去られ、空虚へと沈んでいくが、しかし完全に沈んでいくわけではなく、「<b>習慣</b>」として所有されていく。そしていつでも連合的に喚び起こされるという。</p>
<p>４：対象は能動的な統握のためにすでに受動的に整えられている。それゆえに、自由に統握することはできない。</p>
<p>この違いは重要である。たとえば理解的統握の場合は、「リンゴ」という文字をみて、ミカンという[意味]を能動的に主観が任意に決定することができる。</p>
<p>しかし、客観化的統握の場合は、リンゴを見た瞬間にある程度受動的な領野でどういった対象、意味、客観が構成されるかは統握に先立つ受動的な過程ですでに決定されていることになる。もちろん、統握は実的ではない要素を含めて対象化されているため、完全に決定されているわけではないが、しかしある程度の方向は決められているということになる。例えば実物のリンゴをみて、これはミカンだと対象化することは難しい(不可能ではないかもしれないが)。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/fruit_dragonfruit.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2977" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/03/fruit_dragonfruit.png" alt="" width="254" height="272" /></a></p>
<p>生まれて初めてドラゴンフルーツを見る場合も、これは肉だと対象化することは難しい(なにか果物だ、というようなものが通時的な連合として呼び出されるのではないだろうか)。</p>
<blockquote>
<p>「まず第一に、受動的原志向性の分析は、ヒュレーの問題を中心として展開される。『イデーン』Ⅰの分析では、ヒュレーは単にノエシスの側に属する実有的な契機とされているにすぎなかったが、発生的分析ではなによりも『先所与性』の解明が中心問題となってくる以上、ヒュレーの問題は意味の原初的発生のさまざまの仕方から問われている。ということは、先所与性の領野において内在的合法則性の現象が見られるということである。ヒュレーは、なるほど対象化されないかぎり本来の意味でまた対象とはいえないのにもかかわらず、その領野は決して渾沌たるものでなく、すでに一定の構造と分肢化を有している。つまりある意味で、すでに対象意味としての統一性をもっている。フッサールは、この統一を受動的綜合として捉え、その機能に連想の名称を与えた。『連想という名称がわれわれに指示するのは、この内在的発生の、意識一般に属する形成と合法則性である。』」</p>
<p>新田義弘「現象学とはなにか」,90-91P</p>
<p>「フッサールにおいて能動的経験と判断とはほぼ等しいものである。つまりわたしたちが何らかのものを能動的に経験しているならば、その際常に判断を行っているのであり、判断を行うとは、主語対象に対して何らかの規定を与えることである。そして先述定的であるということは能動的（述定的）経験に先立つということである。能動的経験は判断であるとしても、判断を行うためには、判断する対象が判断に先立ってわたしたちに与えられていなければならないのである。そのように対象に規定を能動的に与える以前に、単に対象を受容している段階が先述定的経験である。そこでは確かに能動的に規定が与えられているわけではないが、「『所与』の単なる『混乱』ではなく、一定の構造、濃淡、様々な仕切を持った場」（EU，S．75）であるとフッサールはいう。そしてこの場を支配する法則は連合であり、それにより所与は単なる混乱ではないのである。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,155P</p>
<p>「フッサールの連合には二種類の働きがあるとされる。一方はいわば共時的な連合であり、他方は通時的な連合である。しかしこの二つは全く別々のものではなく、その二つが協同して働いているといった方がよいであろう。前者の連合は、白い紙の上の赤い斑点という例でフッサールが語っているものである。白い紙の上のいくつかの赤い斑点は、互いの同質性によって融合する。そして白い部分もそれはそれで同質性によって融合する。また白い部分と赤い部分は対照をなしているが、しかし視覚的に与えられるものという同質性も持っており、それはそれで総合へともたらされる。このようにして根源的な対象の場がうち立てられるという。このような連合によってはじめて対象が世界から浮かび上がってくるがゆえに、フッサールはこれを原連合となづけている。後者の連合について。これはまた再生産的連合ともいわれる。下図、そしてまた類型という問題にとって重要なのはこの再生産的連合である。対象は様々な経過を経て構成されてくるが、それは時間とともに流れ去ってゆき、最終的には「全く空虚で生命なき過去へと沈み込んでしまう」（EU，S．137）のである。とはいえ、先にも述べたがその対象は全く跡形もなく消え去るのではなく、むしろそれは習慣として所有され、そしていっでも連合的に喚び起こされることができるのである。このことが可能となるためには、「同じもと似たものの間で前もってすでに『感性的』統一が受動的に構成されていなければならない」（EU，S．209－210）のである。さて、このように前もって構造化された対象からの触発に自我が応諾するならばそこから先述定的経験における対象把握が始まる。」</p>
<p>紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」,157P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc76">『内的時間意識の現象学』(1928年)内容-統握図式</span></h3>
<p>「すべての構成が統握内容一統握という図式を有するわけではない」と訂正する。</p>
<p>特に時間の次元に対しては当てはまらないという。ただし、物の知覚(外的知覚)においては分析的には使えるとされている。</p>
<p>内的時間意識はフッサールの最後の記事で扱う予定。</p>
<blockquote>
<p>「事実,1928年にハイデッガーによって編集されて公刊された『内的時間意識の現象学』には,従来の「内容―統握」の二元論的な図式的解釈が,志向的体験のもっとも根源的次元である時間性の領域の考察においては,もはや通用しえないということを決定的に表明するような「註」が付されている。</p>
<p>「『感覚された(empfunden)』という言葉は,感覚されたものが感性的(sensuell)であるかどうか,つまりそもそもそれが感性的なものという意味で内在的であるかどうか,という点については何も語らないようなある関係概念を表示することになろう。換言すれば,感覚されたものそのものが,おそらく感性的なものとは全く別の仕方ではあろうが,すでに構成されているのかどうかということはまだ未解決のままであろう。――しかしこの区別はかたわらにおいておくのが一番よい。すべての構成が統握内容一統握という図式を有するわけではない。」」</p>
<p>高階勝義「現象学的感性論序説―フッサールの感覚概念をめぐって一」,18P</p>
<p>「内容－統握図式とは、「それ自体では言わば死んだ素材であトートるような感覚内容が、統握により、生化する意味を獲得する」(XVI,S.46;vgl.auchIII/1,ベゼーレントS.192,227;XIX/1,S.80,399,406)という図式に他ならない。この図式は、確かに対象の知覚を説明する際には一定の有効性を持つと考えられる。しかし、フッサールによれば、時間意識に関しては、この図式は次の二つの問題に直面することになるのである。」</p>
<p>高野考「意味と時間フッサールにおける意味の最根源への遡行」,273P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc77">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc78">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc79">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IZy3FD">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></p>
<h4><span id="toc80">谷徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3ZOIL7M">谷徹「これが現象学だ」</a></p>
<h4><span id="toc81">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3yOvz6C">竹田青嗣「現象学入門 (NHKブックス) 」</a></p>
<h4><span id="toc82">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/40ihCcR">新田義弘「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として (講談社学術文庫) 」</a></p>
<h3><span id="toc83">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc84">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc85">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc86">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc87">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc88">参考論文</span></h3>
<p>※各メモは個人的な振り返り用なのであまり気にしないでください。人によっては検索的に役立つかもしれません。</p>
<p>・梶尾悠史「知覚と解釈 フッサール現象学における統握理論をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/26/0/26_1/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握について参考に　統握図式</p>
<p>・森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/223195751.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→外的知覚と内的知覚について参考に 根源的印象　魂 知覚の本質的な性格について</p>
<p>・宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiW5rbt2Pj7AhWysVYBHXOyATcQFnoECA8QAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F13446554%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw2mOEgXDu8hhOlMpOe9eq5M">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握、素朴な知覚</p>
<p>・宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア（II)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwjQrqHs5vf7AhViHKYKHeOvClUQFnoECCwQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F35680784%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw3929e8q8u3ZBIhLHwJZuUm">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→知覚における意味と概念、知覚因果説</p>
<p>・宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」(<a href="https://books.google.co.jp/books?hl=ja&amp;lr=lang_ja|lang_en&amp;id=NiFAEAAAQBAJ&amp;oi=fnd&amp;pg=PA13&amp;dq=%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA%E2%80%9D+%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%9D&amp;ots=nc7RxKWPOB&amp;sig=ak0n-M-Tu-1zpPKwDQUmvJ-3B2c#v=onepage&amp;q=%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA%E2%80%9D%20%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%9D&amp;f=false">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→志向意義などについての説明　他、志向的作用、志向的内容、志向的対象のわかりやすい説明 理解的な統握と客観化的な統握に関する理解、感覚内容に関する理解</p>
<p>・鈴木崇志「フッサールによる, 人形の錯覚についての三つの分析」」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/44/0/44_94/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→知覚と表象の関係、統握の定義 解釈と統握の違いについて　呈示と指示の違いについて 定立と客観の違いについて 受動的総合の分析について</p>
<p>・小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1223&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29#">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→カッシッラーにおける統握の理解について</p>
<p>・小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1318&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→感覚内容について、同一性について、本来的な現出と非本来的な現出の違いについて 呈示的知覚と自己呈示的知覚について　想像によって補われているという誤解について　類似性による表象の撤回について</p>
<p>・小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/235974463.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握の図式の再検討、端的な想像</p>
<p>・田中俊「フッサールにおける中立的潜在性から中立的受動性への変遷について」(<a href="https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=4811&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→「空想」や「中立性変様」について参考になる</p>
<p>・中川明博「フッサールの範疇的直観について」(<a href="https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=4027&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→知覚及び空想による充実について</p>
<p>・露木 恵美子「「場」と知識創造―現象学的アプローチによる集団的創造性を促す「場」の理論に構築に向けて―」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsrpim/34/1/34_39/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→フッサール全般の用語の参考に 外的・内的知覚の定義</p>
<p>・村田憲郎「コメント論文：シュテルン、フッサールと「ロッツェ的想定」——ギャラガーの議論から——」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/epstemindsci/2/1/2_70/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→実的/志向的の区分の説明</p>
<p>・鈴木康文「フッサールにおける現出と身体の問題」</p>
<p style="padding-left: 40px;">→現出と現出物の説明 ヒュレー・ノエシス、ノエシスノエマ、射映の説明なども。</p>
<p>・石垣健二「身体教育によって育成する間身体性: 道徳性の礎として」(<a href="https://u-gakugei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=34994&amp;item_no=1&amp;attribute_id=21&amp;file_no=3">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→間接的呈示や根源的呈示、想像的呈示の参考に シュッツにおける間主観性との関連も参考になる(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/mscom/78/0/78_KJ00007018362/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p>・成田康昭「「メディア文化」 にとって 「現実」 とはなにか (&lt; 特集&gt; メディア文化研究の課題と展望)」</p>
<p style="padding-left: 40px;">→間接的呈示や根源的呈示、シュッツの呈示概念の参考に</p>
<p>・村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」(<a href="https://www.crc.mie-u.ac.jp/seeds/pdf/20091217-114412_gai1.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→感覚与件、ヒュレーの参考に</p>
<p>・鈴木敏昭「クオリアへの現象学的接近」</p>
<p style="padding-left: 40px;">→クオリアの参考に</p>
<p>・高野考「意味と時間フッサールにおける意味の最根源への遡行」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwia2pnYubz9AhU-rlYBHVZaA7cQFnoECBIQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D10571%26item_no%3D1%26attribute_id%3D20%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw2Wr3rIHTyqQoJ_aPTrtcej">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握図式の変遷に関して参考に</p>
<p>・荒金直人「サルトルの像理論における類比的表象体の実体化について」(<a href="https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/pdf%C2%A5AN10030184-20110930-0035.pdf?file_id=54467">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握図式の有効性への疑いについて</p>
<p>・荒金直人「サルトルの像理論における類比的表象体の実体化について」(<a href="https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/pdf%C2%A5AN10030184-20110930-0035.pdf?file_id=54467">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→1909年の草稿について</p>
<p>・木部敬 「『イデーン I』 への応答としての GG シュペートの 「言葉の内的形式」」（<a href="https://ynu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=7166&amp;item_no=1&amp;attribute_id=20&amp;file_no=1">URL</a>）</p>
<p style="padding-left: 40px;">→全般的な用語のわかりやすい説明 射映　ノエマ的意味　X</p>
<p>・高階勝義「現象学的感性論序説―フッサールの感覚概念をめぐって一」</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握図式の変遷について参考に　『内的時間意識の現象学』における訂正について</p>
<p>・家高洋「フッサールにおける時間意識の作用について」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/66953/ktsa_12_099.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→「時間意識の現象学」における統握の変遷について</p>
<p>・<span dir="ltr" role="presentation">貝澤哉</span>「アレクセイ・ローセフ『名の哲学』（1927）における「意味」の造形 : 形相的なものの可視性と彫塑性」(<a href="https://kgwu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=48&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→xについて参考に　諸現出と現出者やエイドス　意味について なかなかおおしろい</p>
<p>・神田大輔「フッサール現象学における「見る」ことと動機づけ 」(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no118_10.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→「見ること」の多義性について参考に。統握、動機づけ、蝋人形の例の説明も 定立の定義の参考に</p>
<p>・神田大輔「フッサール現象学における＜意志の受け継ぎ＞と動機づけについて」(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/665/665PDF/kanda.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→理性の意志、動機づけ関連 精神と自然の関係について　おもしろい　危機や生きる意味についても 愛について　天職について 有限な仕方で限界づけられているにもかかわらず、至福となる(時間の比較社会学との関連)</p>
<p>・渡邉伸「発生運動学の学問論的研究」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/bewegungslehre/28/0/28_117/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→「原的明証性」について参考に</p>
<p>・青木秀雄「質的研究のための KJ 法の科学性に関する研究 3:「志」 と現象学の本質直観を中心に」(<a href="https://meisei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=1546&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→知覚においての定立、知覚直観と本質直観について参考に</p>
<p>・羽根義 「リアリティに関する 2, 3 の考察」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/JST.Journalarchive/jje1965/29.Supplement_130?from=Google">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→知覚直観と本質直観について参考に</p>
<p>・佐藤大介「どうやってものごとは現実的なものとして認められるのか——フッサール現象学における現実性と反省の問題——」(<a href="https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/56838/20190712093752909486/K0005997.fulltext.pdf.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→現出と動機づけの関連、ノエシス・ノエマ関連、原的直観について、原理中の原理について、定立について詳細に説明 内的時間意識についても語られているので後でチェック サイコロの例などもチェック　内的知覚の限界についてもチェック</p>
<p>・宮坂和男「フッサールにおける本質直観について」(<a href="https://shudo-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=116&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→本質直観、範疇的直観などについて参考に ノエマの解釈問題 ザハヴィ</p>
<p>・笹岡健太「理性の目的論は意識の本質たりうるか フッサールにおける理性への意志をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrigakukenkyu/39/0/39_102/_article/-char/ja/">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→定立、動機づけ、理性への意志について参考に 意志と動機付けの関連についてチェック</p>
<p>・福島裕介「フッサールにおける志向の充実化について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/96282/1/Tronso_35_04.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→「カテゴリー的代表象」の撤回について</p>
<p>・斎藤慶典「フッサール初期時間論における「絶対的意識流」をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1987/37/1987_37_186/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→現在化と現前化の違いについて参考に、時間意識について後で参考にする</p>
<p>・小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」(<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/11/kiyou14_all.pdf#page=23">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→定立について参考に　中立性変様や否定なども</p>
<p>・中敬夫「フッサールにおける発生論的現象学の構想」(<a href="https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=171&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→　受動性　統握は動機づけ　</p>
<p>・富山豊「フッサール中期志向性理論における『対象』の同一性と『ノエマ的意味における規定可能なX』」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2014/65/2014_242/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→統握の説明、ノエシスノエマ問題、対象X</p>
<p>・紀平知樹「現象とロゴスニフッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性一」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2441/17452_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→フッサール全般の理解の助けになる　　２～3回以上は熟読しておくべきかもしれない　例えが多く助かる</p>
<p style="padding-left: 40px;">→とくにノエマの論争の参考にする予定 直観について 生きられた世界の記述 契機や非独立的部分の説明 質料的本質と形式的本質　内在的知覚と超越的知覚の区別 デカルトとの関連 射映とは 射映と射映されてくるものの区別 実的内在と志向的内在の区別　相関関係とはなにか 意識と実在的存在の区別 統握とはなにか 現象学と心理学の区別 純粋意識とはなにか 現象と因果関係の関わりとは　超越論的とはなにか 偶然的なものと必然的なもの　本質直観とはなにか　本質と形式の違い　現象学と言語の問題 純粋現象学と現象学的哲学の違い 相関関係＝枠組み 客観的なもの＝事物の同一性 意味付与作用と意味充実作用 　記号とはなにか 指示とはなにか 指示代名詞(ここ)　指示する意味と指示された意味の違い　知覚は意味を内蔵しないが、意味を規定する　実在的なものと理念的なものとの間の明確な線引き 新たな統握様式について(理念化的抽象) 志向されるがままの対象と志向されている対象そのものの区別 多定立的作用と単一定立的の違い　多光線的意識　全きノエマ</p>
<p>・二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」　(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwia7Yeu-6L8AhVns1YBHYuKDs04ChAWegQIChAB&amp;url=https%3A%2F%2Fmuroran-it.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8373%26item_no%3D1%26attribute_id%3D24%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw3GnkqKy-XeSOME9bnml_ux">URL</a>)</p>
<p style="padding-left: 40px;">→これも２～３回以上は熟読しておくべきかもしれない　一番平易に説明されている</p>
<p style="padding-left: 40px;">→フッサール全般の概要の知識整理。わかりやすい。特にノエシス・ノエマ、明証性関連について参考に 知覚と真理との関連　ノエシスと統握の相違</p>
<p>その他</p>
<p>・知覚因果説に対してわかりやすい説明のサイト(<a href="https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/141.html">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2023/03/20/husserl-2/feed/</wfw:commentRss>
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		<item>
		<title>【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 19 Jan 2023 10:38:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[フッサールの現象学における志向性とはなにか]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-7" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-7">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">今後の予定</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">今回の前提</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">フッサールのプロフィール</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">志向性</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">志向性とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">対象化とはなにか</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">我々は意識を通してしか、対象に近づくことはできない</a><ol><li><a href="#toc10" tabindex="0">補足：現象学的還元について</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">自然的態度とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">超越論的還元とはなにか、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">何も対象化を伴うことなく「見る」ことは可能か</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">対象を欠いているような意識は存在するか</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">志向性は均等か、不均等か</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">【応用】像意識とはなにか、絵を見るときの志向性について</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">想起と想像の区別、措定的現前化と措定的現前化の中立性変様の区別</a><ol><li><a href="#toc18" tabindex="0">追記</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">志向性の具体例：この対象はカエルなのか馬なのか</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">同じ対象と、異なる意味、我々が構成する「超越的対象」について</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">フッサールにおける構成とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">諸現出と現出者</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">人間の意識は外部へ向かっているが、しかし意識の外部というものがあるかどうかは別の話</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">ノエシス・ノエマ</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">志向性は対象の表象と、対象の表象を基礎とするものに区別できる</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">志向性の分析の概要</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">志向性の例</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">「対象の表象」と「対象の表象を基礎とするもの」</a></li></ol></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">実在的存在・中立的存在・理念的存在</a><ol><li><a href="#toc30" tabindex="0">実在的存在とは、意味</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">実在的存在とアポステリオリ</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">現実的対象と実在的対象</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">中立的存在とは、意味</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">理念的存在とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">異なる仕方で対象と関係するとは</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">現実的対象とはなにか</a><ol><li><a href="#toc37" tabindex="0">写像理論への批判</a></li></ol></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">超越的存在</a><ol><li><a href="#toc39" tabindex="0">超越的存在とは、意味</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">志向性における超越について</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">志向的対象</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">内在的内容とは、意味</a><ol><li><a href="#toc43" tabindex="0">感覚内容とは、意味</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">補足：超越的相関体とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">志向的対象とは、意味</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">実在的対象がある場合のケース</a><ol><li><a href="#toc47" tabindex="0">表現の志向性</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">全ての表象はそれが表象する対象をもっている</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">実在的対象は志向的対象である</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">無対象表象問題</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">実在的対象をもたない表象がある</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">フッサールはそもそもどういったものを「対象」と呼んでいるのか</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">補足：志向性と真理の関係について、真理の相関者とは</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">実在しようが実在しなかろうが、超越的対象である</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">関係説vs副詞説、志向的解釈説・選言的解釈説</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">個体論と関係論</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">志向性の対象が存在するのをやめる場合でも、志向性を失わない：共通項原理</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">意味と実在的対象との関係</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">単に志向されるだけの対象</a></li></ol></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">危機・本質直観・本質看取・形相的還元</a><ol><li><a href="#toc61" tabindex="0">補足：学問における危機と現実</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">補足：カテゴリー直観とは、いったいなのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">コラム：プラトンのひげ</a></li></ol></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">志向的内容</a><ol><li><a href="#toc65" tabindex="0">志向的内容とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">志向的作用と志向的内容の違いとは</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">名辞的作用とは、意味</a></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">「現出学的意味概念」と「現象学的意味概念」</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">二重の対象性とは</a></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">どういう条件を満たせば存在といえるのか、対象といえるのか</a></li><li><a href="#toc71" tabindex="0">無対象表象問題に対する回答としての「同一性判断」</a><ol><li><a href="#toc72" tabindex="0">志向的対象は我々が構成するものである</a></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">「昨日会った友人と今日会った友人」が同じである保証はあるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">表象とは</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">言語記号とそれ以外の記号の大きな違い、直観的かどうか</a><ol><li><a href="#toc76" tabindex="0">知覚は実在的対象そのものを与える</a></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">基づけ関係の図</a></li></ol></li><li><a href="#toc78" tabindex="0">作用と質料の区別</a><ol><li><a href="#toc79" tabindex="0">志向的内容の中ではじめて対象への関係が構成される</a></li><li><a href="#toc80" tabindex="0">最も直接的な対象の与えられ方であっても、「意味(志向的内容)」を媒介としている</a></li></ol></li><li><a href="#toc81" tabindex="0">充実と直観、真理について</a></li></ol></li><li><a href="#toc82" tabindex="0">ノエシス・ノエマ構造</a><ol><li><a href="#toc83" tabindex="0">意味と意義の違いとは</a></li><li><a href="#toc84" tabindex="0">ノエシスとは</a></li><li><a href="#toc85" tabindex="0">「志向されるがままの対象」と「志向される対象」の違いとは</a><ol><li><a href="#toc86" tabindex="0">定義</a></li><li><a href="#toc87" tabindex="0">2つの相違</a></li><li><a href="#toc88" tabindex="0">整理</a></li></ol></li><li><a href="#toc89" tabindex="0">超越論的主観性とは</a><ol><li><a href="#toc90" tabindex="0">補足</a></li></ol></li><li><a href="#toc91" tabindex="0">誤解されやすい点：フッサールは実在を否定しているわけではない</a></li><li><a href="#toc92" tabindex="0">ノエマとは、意味</a></li><li><a href="#toc93" tabindex="0">ノエマに関する解釈が２つに分かれている</a><ol><li><a href="#toc94" tabindex="0">東海岸解釈</a></li><li><a href="#toc95" tabindex="0">ザハヴィの解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc96" tabindex="0">意識作用は意味を超えて、貫通して対象を志向する</a><ol><li><a href="#toc97" tabindex="0">・東海岸解釈の図</a></li><li><a href="#toc98" tabindex="0">・東海岸解釈の図(というよりもザハヴィ、フィンク的な解釈)</a></li></ol></li><li><a href="#toc99" tabindex="0">ノエシス-ノエマ構造とは</a></li><li><a href="#toc100" tabindex="0">我々が日常で主に意識しているのは「志向された対象」であり、「志向されるがままの対象(ノエマ)」ではない</a></li></ol></li><li><a href="#toc101" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc102" tabindex="0">参考論文関連</a><ol><li><a href="#toc103" tabindex="0">小熊さんシリーズ（とくに次の動画で扱う。わかりやすい。）</a></li><li><a href="#toc104" tabindex="0">無対象表象問題関連の論文</a></li><li><a href="#toc105" tabindex="0">志向的内容・志向的対象関連</a></li><li><a href="#toc106" tabindex="0">フッサール基礎知識関連</a></li><li><a href="#toc107" tabindex="0">志向性について特に</a></li><li><a href="#toc108" tabindex="0">その他</a></li></ol></li><li><a href="#toc109" tabindex="0">参考書籍</a></li><li><a href="#toc110" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc111" tabindex="0">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></li><li><a href="#toc112" tabindex="0">谷徹「これが現象学だ」</a></li></ol></li><li><a href="#toc113" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc114" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc115" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc116" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc117" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/EXlOJejTmhY" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">今後の予定</span></h3>
<p>０：以前、フッサールについて扱った動画がありますのでこちらもぜひ参照してみてください。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<p>１：志向性とはなにか、ざっくり理解する</p>
<p>２：作用と内容と対象の区別を理解する(今回は主にここまで)</p>
<p>次回以降：統握図式を理解する、現出と現出物の関係を理解する、射映を理解する</p>
<p>最終目標：フッサールの内的時間意識の理解</p>
<p>※アルフレッド・シュッツの現象学的社会学を理解するためにフッサールを急遽学んでいます。シュッツに関連があまりないフッサールの内容、たとえば間主観性の問題は扱えません。別途扱うかもしれません。</p>
<h3><span id="toc4">今回の前提</span></h3>
<p>『論理学的研究』における志向性(1900-1901)と、『イデーンⅠ』における志向性(1913)、さらに『内的時間意識の現象学』(1928)における志向性では意味合いが変わってくる。今回は主に、『論理学的研究』をベースにして理解を目指す。あくまでもベースなので、中期や後期の説明の一部を用いることもある。</p>
<p>「現象を現象として記述すること」が重視されていた時代の概念が中心になる。中期における「超越論的現象学」が確立された以降のいわゆる「ノエシス-ノエマ構造」も軽く扱う。後期における「過去把持の縦の志向性、横の志向性」などの特殊な志向性は、この動画では扱えない(内的時間意識と深く関わる)。</p>
<h3><span id="toc5">フッサールのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2876" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/2023-01-08_15-26-53.jpg" alt="" width="362" height="503" /></a></p>
<p>エトムント・フッサール(1859-1938)はオーストリア出身のドイツ人。哲学者であり数学者。主な著作は『論理学研究』(1900-1901)、『イデーン』(1913)、『内的時間意識の現象学』(1928)、『デカルト的省察』(1931)など。</p>
<p>あらゆる学問の基礎づけとなる本質学としての現象学を提唱した。現象学は２０世紀哲学の新たな流れとなり、ハイデガー、サルトル、メルロ・ポンティなどに影響を与えている。社会学ではアルフレッド・シュッツに影響を与えている。</p>
<h2><span id="toc6">志向性</span></h2>
<h3><span id="toc7">志向性とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向性</strong></span>：</big>・「意識が何ものかに向けられている」という抽象的な性質、属性のこと。志向するとは、意識が「何もの、それ、何か」に向かうことを意味する。「自らを超えて指し示す」ことに特徴がある。</p>
</div>
<p>例えば、「何か」を見る、「何か」を想像する、「何か」を判断するというように、心的な作用に「対象」が伴うようなケース。心的作用に関連する「他動詞」として理解するとわかりやすい。</p>
<blockquote>
<p>「経験の構造を分析する際にフッサールがとりわけ注意を払っているのは、なにかについての意識であるということによってすっかり性格づけられる一群の経験、すなわち対象に向けられていること(objectdrirectedness)を具えている一群の経験である。この属性は志向性とも呼ばれる。単に愛し、恐れ、見て、判断するのではなくて、愛しいものを愛し、恐ろしいものを恐れ、対象を見て、事態を判断するのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」18P</p>
<p>「志向性とは「自らを超えて指し示す」という意識に固有の特徴を表す。それは意識の「～について」性という事実に関わる。また意識の中での対象の「内在」をも意味する（ギャラガー＆ザハヴィ，2011）」</p>
<p>鈴木敏昭「クオリアへの現象学的接近」,3-4P</p>
<p>「私が自我として生きる、意識の仕方の根本特性がいわゆる志向性であり、その都度何かを意識すること(Bewubthaben von etwas)である」(H,I,S.13)。意識は常に「何か」を「思念(meinen)」「志向(intendieren)」しているのである。これを「コギト(cogito)」と「コギタートゥム(cotitatum)」、又は「ノエシス(Noesis)」と「ノエマ(Noema)」の相属的関係と言い換えて、「志向性」の構造を性格づけることも許されている」</p>
<p>門脇俊介「志向性について」,190P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc8">対象化とはなにか</span></h3>
<p>志向性は「<b>他動詞</b>」として考えるとわかりやすい。他動詞は「<b>対象</b>」をもつことに特徴がある。いわゆるS(主語)V(動詞)O(目的語)のOである。「心的作用は何らかの対象に向かう」とも説明されている。</p>
<p>「見る」という動詞の場合は「何か」を見ることであり、「想起」という動詞の場合は「何か」を想起することであり、「想像」という動詞の場合は「何か」を想像することである。このように、対象を「<b>構成</b>」する作用を「<b>対象化</b>」<sup>*１</sup>という。<b>志向性によって「何か」が構成されてくる</b>のである。</p>
<p>*1：「対象を構成するプロセス」を「構成」と表現するそうです。</p>
<blockquote>
<p>「人間の認知活動を志向性、ないしは志向作用という。［日常言語では、心の働きを表す動詞、認知動詞がそれに対応する。例えば、見る、聞く、考える、想像する、思い出す、願望する、愛する、想定する、疑う、信じる等。］」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア（I）」,2P</p>
<p>「認識とは、意識の内部に対象に関する認識内容を「構成」（Konstitution）する働きである。そのようなプロセス自体を〈対象を構成する〉プロセスとも表現する。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア（I）」,2P</p>
<p>「我々が優先的に取り上げるふたつの規定のうちの一方は、心的現象ないし作用の本質を直接的に示している。その本質は任意のどの例においても明白に現れてくる。知覚においては何かが知覚され、像表象においては何かが像的に表象され、言表においては何かが言表され、愛においては何かが愛され、憎しみにおいては何かが憎まれ、熱望においては何かが熱望される、等々。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』,380P ※富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」30P孫引き</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">我々は意識を通してしか、対象に近づくことはできない</span></h3>
<p>POINT：<b>我々は意識を通してしか、対象に近づくことはできない</b>。ただし、すべての意識が「志向性」をもつわけではなく、たとえば「痛みを感じる」といった受動的意識体験もありうる。つまり、対象が欠けている意識と、欠けていない意識の両方があるが、いずれにせよ意識を通しているのであり、意識を通さない体験はない。<b>対象がどのようにして意識に現れるのかを分析することが「志向性分析」</b>である。志向性を伴う体験を「<b>志向的体験</b>」と呼ぶ。志向性分析を行うために、「<b>現象学的還元</b>」や「<b>形相的還元</b>」、「<b>超越論的還元</b>」という手法を用いる。</p>
<p>※マッハ的経験(直接経験、志向的体験)については前回の記事を参照</p>
<p>※志向的体験は「意識」とも言いかえられることがある</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/11/25/alfred-schutz-1/">【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</a></p>
<blockquote>
<p>「さて、直接経験(マッハ的経験)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きが『志向性』である。それゆえ、直接経験は、これらの言葉を用いて『志向的体験』と言い換えられる。さらにフッサールは、この志向的体験を、『意識』という概念──これは、フッサール自信が認めるほど多義的な概念ではあるが──でも表現する。意識というのは、伝統的には、これこそが実体(本体)だとみなされたり、逆に、そんなものは現象(仮象)だとみなされたりしてきた概念である。しかし、こうした理解も現象学にはまったく当てはまらないことは、もはや明らかだろう。現象学の『意識』は、諸現出と諸現出者の関係がそこで生じる場面(志向的体験)なのである。」</p>
<p>谷 徹「これが現象学だ」62P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc10">補足：現象学的還元について</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>エポケー</strong>：</big>・自明性(あたりまえ)を疑うための手法。判断保留、判断中止、括弧に入れる、と日本語では訳される。特に、自然的態度の元での判断をいったん中止することを指す。例：表象の外に出ることができると思いこんでいるような態度を一旦停止し、なぜそのように思いこんでしまうのか、そのような態度が構成されてしまうのか、理由を考えてみる。</p>
</div>
<h4><span id="toc11">自然的態度とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>自然的態度</strong>：</big>・エポケー以前の素朴な態度であり、自明な態度。ほとんど習慣的に、ふつうはこういうものだ、現象はこういうものだ、というような態度で接すること。時間・空間的現実が眼前に与えられているとおりに存在していると素朴に確信し、さらに世界が存在していると暗黙のうちに確信している非反省的態度のこと。例：表象の外に出ることができると思いこんでいるような態度。例えば富士山は自分の主観とは関係なく、客観的に存在していると思い込む。我々は、「客観的世界が実在している」という確信をもっているし、ほとんど疑わっていない。</p>
</div>
<h4><span id="toc12">超越論的還元とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>超越論的還元</strong>：</big>・自然的態度にあるふつうのひとにとってあたりまえのこと（自明性）をエポケーを通して事象そのものへと還元すること。こうした態度変更を自覚的に行うこと。表象の外部ではなく、表象の内部で、マッハ的な光景に引き戻すこと。エポケーを通して「意識に現れた対象」としてのみ捉えること(超越論的主観性への超越論的還元)。還元とは「引く」と「戻す」の合成語。超越論的とは、表象の外部に何かが存在していると我々が思い込む時の「何か」であり、そのなにかが「表象」を「超越」している。そして、こうした表象の外部の存在は、我々が表象の内部で構成しているものである。その意味で、「超越」を扱う学問であり、”超越論的”還元と呼ばれている。</p>
</div>
<p>ザハヴィによると、エポケーと超越論的還元は密接につながってはいるけれども、区別することが必要であるといいます。以下、ザハヴィの区別を紹介しておきます。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">エポケーとは、素朴な形而上学的態度を突如遮断することに対する述語である</li>
<li class="sample">超越論的還元とは、主観性と世界の相関関係を主題化することにとっての述語である</li>
</ol>
<p>いまいち違いがわかりませんが、要するにエポケーは入り口であり、現象学にとって重要なのは超越論的還元といったところでしょうか。</p>
<p>一旦措定を停止してみる、ということはなんとなく分かる気がします。まずは意識の外に対象があるという判断、思い込みを一旦自明視せず、停止してみるわけです。</p>
<p>一方で、停止しただけではなにか得られるわけではなく、「分析」する必要があります。とりわけ主観性と世界の相関関係、要するに主観と対象の関係をいわば頭を空にして取り組んでいく必要があるわけです。知覚はどのように構成されていくのか、独断と偏見を排除しつつ、整序して、説明していくわけですね。それが超越論的還元というわけです。</p>
<blockquote>
<p>「上でみたようにフッサールは、『論理学研究Jおいて「志向作用」の分析を行ったが、その数年後、「対象が意識から超越していること」こそ最大の「謎」だと述べるに至る。そして、いかにして超越的な対象が意識されるのか、また、いかにして意識にとって対象の超越が存立しているのかを見ることこそ根本問題であり、その解明のために、対象の措定をやめて反省を行う「現象学的還元」という操作が必要であると考える。こうして、超越的な「物」の知覚的な現れ方が考察の主題となる。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,301P</p>
<p>「フッサールはまた、この脈絡において超越論的還元についても語るのであり、そしてたとえエポケーと還元が密接に繋がっており、一つの機能的統一の部分であるとしても、時折エポケーを還元の可能性の条件として語るのである。したがって、その二つを区別することが必要である。エポケーは素朴な形而上学的態度を突如遮断することに対する述語であり、したがって、哲学の入り口に喩えられる。対照的に、<strong>還元</strong>は主観性と世界の相関関係を主題化することにとっての述語である。これは自然的領分からその超越的基礎へと導き戻す(re-ducere)長く困難な分析である。したがって、エポケーも還元も超越論的反省の要素とみなすことができる。その目的はわれわれを自然(主義)的独断論から自由にすること、われわれ自身の構成的(すなわち認知的意味付与的)寄与に気づかせることである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」70-71P</p>
<p>「とはいっても、非学問的な場面では、私たちは、富士山は私たちの表象の外に実存すると確信しており、それを表象の外で確認できるとおもいこむような傾向をもっている。こうした傾向はひとつの『態度』に対応している。この態度をフッサールは『自然的態度』と呼ぶ。この態度は、文字どおり『自然的』であるため、それが『態度』であることさえ気づかれないほどであるが、しかし、やはりひとつの態度である。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49P</p>
<p>「私たちは、ほんとうは、表象の外に出ることなく、富士山のような対象の実存を確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信しているのだろうか。この問いを解くためには、ひとまず、非学問的な思い込みを停止し、表象の外部に当該の対象が実存していると信じるような(自然的態度の)傾向にストップをかけなければならない。これをフッサールは存在の『エポケー(判断中止)』と呼ぶ。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49-50P</p>
<p>「【自然的態度】シュッツが『社会学的世界の意味構成』(1932)や『シュッツ著作集』Ⅰ―Ⅲ(1962-1966)等によって社会学に導入した現象学出自の概念。時間・空間的現実が眼前に与えられているとおりに存在していると素朴に確信し、さらに世界が存在していると暗黙のうちに確信している非反省的態度のこと。自然的態度の特徴は、自然的態度のうちにあるかぎり見えてこない点にある。日常生活世界は、そうした自明性によって特徴づけられる自然的態度から成り立っており、したがってこの態度の解明はすぐれて社会学の課題である。」</p>
<p>「社会学小辞典」,230P</p>
<p>「&#8230;&#8230;私たちの目を、表象の外部に向かわせるのではなく、その内部(マッハ的光景)に引戻さなければならない。学問的な解明は、このように引き戻された表象(光景)の内部で行わなければならない。この引き戻しをフッサールは『超越論的還元』と呼ぶ。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,50P</p>
<p>「では一体なぜ『リンゴがある』ことを信じて疑わないのか？その理由を考えるために、とりあえず『眼の前のリンゴは実在している』という判断を保留にしてみる(これをエポケーと呼ぶ)。すると、目の前に見えているリンゴは、とりあえず『意識に現れた対象』としてのみ捉えられる。フッサールはこれを、『純粋意識(超越論的還元)への超越論的還元』という難しい言い方で説明している」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">何も対象化を伴うことなく「見る」ことは可能か</span></h3>
<p>何も対象化を伴うことなく「見る」ことは可能か。そういう場合は「何も見ることができなかった」というのではないか。あるいは日常用語的には「無意識に見ていた」とでも言うのだろうが、現象学的には「無意識＋見ていた」という表現は両立しない*1。見ていたのなら必ず意識がある。体験していたのなら必ず意識がある。</p>
<p>たとえば微生物を日常生活で「見る」ことはできない。しかし「微生物がいる」と判断することは可能であり、「微生物」と表現することは可能であり、「微生物」を想像することも可能である。これらはすべて心の作用であり、志向性であり、対象化を伴っている。</p>
<p>*1：シュッツの内容</p>
<blockquote>
<p>「今や私たちは、『意識的』行為(『無意識の』行動に対比される)という通常の表象のもとになっている事柄について問題にしなければならない。『無意識の体験』という言い方は、これによってもし意識一般の作用しない体験が存在すると考えられているのであれば、それは明らかに背理である。なぜなら『体験』は意識の厳密な相関概念だからである。」</p>
<p>アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』84P</p>
<p>「特に何を知覚しているわけでもないがただ知覚することだけをしているということは不可能であるし、何かを想像しているわけではないがただ想像はしているということも意味を成さない。」</p>
<p>富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」,31P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">対象を欠いているような意識は存在するか</span></h3>
<p>Q対象を欠いているような意識は存在するか</p>
<p>A存在する</p>
<p>根源的受動の体験、感覚内容の受容における体験(次回検討する)、根源的時間意識における意識体験(次回以降検討する)などである。要するに、<b>あらゆる意識が志向的意識であるわけではない</b>、という話である。たとえば感覚だけを抽象的に取り出す場合は「スベスベ」を感じてはいても「何」がスベスベかという対象が欠けている。</p>
<p>ザハヴィが出す体験例では、「幸福、めまい、吐き気、不安」などである。シュッツが出す例では、「肉体的な苦痛を覚える場合や、誰かが自分の腕をつかんで上げ下ろしする場合」である。</p>
<p>たしかに何の前触れもなく体調が悪くなり、吐き気を感じる場合は「何か」に吐き気を感じるわけではない。シンプルに、吐き気がするのである。</p>
<p>※POINT：根源的受動の体験シリーズはシュッツ理解では重要になってくる。なぜなら、この体験の最中に同時に反省することは難しいからである。</p>
<blockquote>
<p>「通常の用語法では、私が肉体的な苦痛を覚える場合とか誰かが私の腕を摑んで挙げ降ろしする場合、この体験シリーズの経過は決して『行動』とは呼ばれていない。むしろ苦痛と『闘う』、『我慢する』、『そのなりゆきに任せる』といった私の苦痛に対する『態度』とか、同様にまた外から私の身体に向ってくる働きかけに対して私が『受け入れ』たり、『拒絶』したりすることなどが、日常用語法での行動と呼ばれるものである。ところで、この体験と呼ばれる体験は、本来受動的な体験として先にあげた例と根本的に関連し合っているけれども、決して同一であるわけではない。一方は、どちらかというと根源的受動の体験シリーズであるのに、他方は、この体験シリーズに対する『態度決定』である。そうだとすると『行動』というのは、フッサールの用語では『<strong>意味付与的な意識体験</strong>』であるということになる。フッサールは、『思考』の概念をその本質に即して最も一般的に限定するという重要でしかも困難な問題の研究に際して、すべての意識体験が必ずしも『意味付与』能力をもつとは限らないことを確認している。『根源的受動の体験、作用連合、そして根源的時間意識、つまり内在的時間性の構成が起る意識体験等々は、すべてそうであること(すなわち意味付与的であること)ができない。』」</p>
<p>アルフレッド・シュッツ『社会的世界の意味構成』71P</p>
<p>「……フッサールは後に、志向性はすべての人が何らかの仕方で経験し他者がそれを共にする限りで、極めて重要であると書いているけれども……、それにもかかわらず、あらゆる類型の意識が志向的意識ではあるわけではないということが言えるのである。また、非志向的である感覚以外に志向的対象を欠いているいろいろなその他の体験を、例えば、幸福、めまい、吐き気、不安等々を挙げることができる。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,39P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">志向性は均等か、不均等か</span></h3>
<p>たとえばぼーっと街中を歩く人々に眼差しを向けるときと、迷子の子供を探す時に人々に眼差しを向けるときでは、集中度が違う。これは子供ではない、これもそうではない、というように「誰」、つまり「対象」が重要になる。このように、<b>意識は常に均等ではなく、不均等でもある</b>ことがわかる。ぼんやりと人々を見ているときは、意識の程度の問題であって、０(無意識)ではない。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/500px-Face_or_vase_ata_01.svg_.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2858" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/500px-Face_or_vase_ata_01.svg_.png" alt="" width="204" height="267" /></a></p>
<p>なんらかのかたちで日常生活ではほとんどの場合、志向性が働いているといえる。コップを手に取ろうとしてコップを見ているときにはキーボードへの意識が弱まり、コップへの意識が強まる。たとえばルビンの壺はどちらか一方への意識が強まり、壺と顔を同時に、均等に強めること、つまり「顔」と「壺」を均等の強さの意識で同時に志向することはなかなか難しい。また、どちらに強さが生じるかも、その人次第である。</p>
<p>※POINT：フッサールは「意識」という概念を「拡張」して用いている。我々が日常用語でいうと無意識にあたる概念も、意識に含まれることがある。</p>
<p>※紫外線や細菌はたしかに「知覚」という志向性に関しては、意識を向けることができないのかもしれない。しかし判断という志向性によっては可能であるし、特殊な方法(顕微鏡や特殊なカメラ等)を用いれば知覚することも可能であるともいえる。</p>
<blockquote>
<p>「日常的な言葉遣いからすれば，志向的であると言うことは，意識が自覚的に対象と対峙することである。しかし，フッサールは，彼がよくするように，概念の拡張をして使用しているのではないだろうか。そして，それが「何ものかについての意識」という表現になったのではないだろうか。「不均等な意識の集中の在り方」という表現は，基本的に意識はすべてに向けられているが，向けられた対象によって，あるいは現象によって程度差があることを意味する。それがわれわれの日常的な在り方である。そして，この程度差こそが志向性として語られることにほかならない。この程度差がいかにして生まれるかについて議論することは難しいが，たとえばそれが突然の意味不明の爆発かもしれないし，私の好奇心に過ぎないかもしれない。しかし，そのときに受動的であろうと，能動的であろうと眼差しを向けるのである。不均等という表現の中には，既に述べたような程度の差とともに，私の志向性がほとんどおよばない現象や，紫外線や細菌のように，私が人間であるがゆえに能力的に直接体験できない現象も含まれている。」</p>
<p>中村豊「超越論的世界像―フッサール現象学の世界像―」,139P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">【応用】像意識とはなにか、絵を見るときの志向性について</span></h3>
<p>※絵のたとえを出すからには、像意識というややこしい志向性を整理する必要がある</p>
<p><b>像意識</b>：画像表象とも呼ばれる。肖像画や写真などによる表象のこと。写像的意識とも呼ばれる。想像のひとつだが、代表象がない「端的な想像(<b>空想</b>)」とは区別される。</p>
<p>知覚は実在的対象が対象となるのに対して、想像や画像表象は「非実在的対象」が対象となる。たとえば写真のリンゴを通して今目の前にあるわけではないリンゴを思い浮かべたりする。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>像物体</b>：絵画の絵画布や写真の台紙。知覚される物。絵の具のたんなる塊。</li>
<li class="sample"><b>像客体</b>：子供の写真や絵など。</li>
<li class="sample"><b>像主題</b>：子供の写真や絵で写された現実の子供</li>
</ol>
<p>１：画像表象においては「像客体」が媒体としての役割を果たしている。写真や絵は、いわば代表象である。何かを他のもの経由で志向するのであって、代表象機能をもっている。たとえばリンゴの写真経由で実在的リンゴを志向する。あるものが別のものの像となる。写真や絵は意識にとって代表象であるが、しかし知覚をまず前提としている(代表象として解釈される対象が最初に知覚される必要がある)。</p>
<p>２：<b>知覚における対象は</b><b>代表象を経由しない</b></p>
<p>知覚における志向的対象は心的対象ではなく、まさに目の前にある対象である。例えば目の前のリンゴを見るとき、なにか心のなかの対象(心的対象)を媒介として、代表象として、外的対象に接しているのではない。意識内に絵や写真のような代表象(心的写像、模写)があり、それを媒介にして対象と関係をもっているわけではない。心の外部の対象と心の内部の代表象という２つの対象があるわけではない。そうした考え方は、心の外部に対象があるという素朴な前提で物事を考えてしまっている。</p>
<p>３：知覚と空想、画像表象の作用の相違を理解する必要がある。</p>
<p>４：絵は「存在するもの」として我々に現れているわけでもなく、かといって「存在しないもの」として現れているわけでもない。いわば、<b>存在するかのようなものとして意識されている</b>という。</p>
<p>このような存在の変様を「中立変様」という。まず知覚によってインクや絵の具、紙などが物理的に知覚され、その後、知覚されるものが中立的に変様する。</p>
<p>５：想像作用は画像表象と空想に区別される。空想は代表象機能をもっていない。例えば、天使を想像する場合、天使のなにか心的対象、模写、写像、<b>代表象を媒介にして天使という対象へと志向しているわけではなく、まさに天使という対象を志向している</b>のである。ただし、その対象の性格は中立的存在と呼ばれ、実在的対象とは区別される。いわば、実在である「<b>かのように</b>」現出するにすぎない志向的対象である。</p>
<p>６：画像表象は物理的な絵や写真の知覚を経由するので「感覚的内容」が統握されるが、空想の場合は「感覚的内容」ではなく「<b>ファンタスマ</b>」と呼ばれ、たとえば「色の感覚があるかのような」素材だといえる。画像表象においては、いわば像物体が像客体の現出を支える関係として考えられているらしい。</p>
<p>※「不在という有り様においてであるが、直接、悪魔、天使、友人を思い浮かべる」という小熊さんの説明は重要です。なにか像を通して見ているとつい考えてしまうので、なかなか難しい。</p>
<p>※錯覚や空想の対象が心理的に存在するというのは、誤りだという点が極めて重要です。超越的に存在しているのです。</p>
<blockquote>
<p>「本論文で「画像表象」とは、肖像画、写真などによる表象のことである。フッサールの用語ではこれらは「像意識Jと表現されることが多いが、本論文のなかの「像表象Jや「精神的像表象」との混同を避けるために、「画像表象」の語を使う。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,299P</p>
<p>「第一は、諸作用そのもののもつ重要性である。これらの作用は、対象が意識に与えられる仕方であるので、意識と対象ないし世界との関連を考察する上で不可欠の意義を有する。「知覚作用」は、現実とみられる世界や対象が意識される際の基本的なあり方であり、他方、「想像作用」ゃ「画像表象」は、非現実の(可能で、あることも不可能であることもあるが、いずれにせよ現に存立していない)対象や世界が意識される際のあり方であって、これらは「中立変様」という契機を含む。それは、さまざまな可能性にかかわる「判断」ゃ「本質看取」、仮説的な意識、またメルヘンの読解などにも通じる「虚構的意識」として重要性をもつ。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,300P</p>
<p>「フッサールは当初、「想像作用」を、「精神に内在的な像」を表象し、それを介して「現に存在しないもの」を思い浮かべるという「複合的な作用」として理解していたが、1904/05年の講義『想像と像意識』の途上で、想像における現れ方の「非現前性」、「無性」に注目するようになった結果、そうした現れを通しての「端的な想像 schlichte Phantasie」を主要な想像作用として認めるようになった。われわれは端的に、非現前的なものとして対象を表象するのであり、その際の現れ方は、「変幻自在性」、「浮動性」によって特徴づけられる。「イメージ」という語の示唆するところもあり、われわれは「想像」の名の下にいわゆる「画像」のような現出を考えがちであるが、上の分析はそうした謬見を一掃する重要な分析である。悪魔や天使を思い浮かべること、不在の友人を思い浮かべることは、それらの像を、あるいは、像を介してそれらを思い浮かべるのではなくて、不在という有り様においてであるが、直接、悪魔、天使、友人を思い浮かべることなのである。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,302P</p>
<p>「画像を通しての表象を、フッサールは、先にみた講義『想像と像意識』(1904/05)の中で、扱っている。その際、「像意識」(画像表象)の解明のために、彼は、3種類の「像」を区別している。第一は、像とはいっても絵画の画布や写真の台紙のような「物」であり、そのような「物」として知覚される「物としての像」と言われる)。第二は、例えば子供の写真であれば、現実の子供とは異なるがそれに似た現れである(「像客体」と言われる)。第三は、上の例では、写真に写された現実の子供である(「像主題」と言われる)。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,303P</p>
<p>「これに相応して、想像における「感性的与件」と「統握」も考察し直され、両者ともに擬似的な(gleichsam)現れ、つまり「あたかも存在するかのような」ないし「然々であるかのような」現れ、すなわち、この意味で「非現前的な」現れとして理解されるようになる。例えば、赤のファンタスマは「赤があるかのような」現れであり、赤いセーターの想像は「赤いセーターがあるかのように」思い浮かべることであり、市庁舎の想像は「市庁舎が眼前にあるかのように」思い浮かべることなのであり、決して、知覚的現前があるのではないし、知覚野の中に想像物が現れるわけではない。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,302P</p>
<p>「もちろんなにか別のもの、たとえば火星人を表象しているのであれば、火星人がその表象の志向的対象であって、神や天使は志向的対象ではない。だが神を表象しているとき、志向された対象としての神と、神という超越的な存在とは同一のものであって区別できない。我々が超越的対象について語るときはすでに思念されている以上、それは志向的対象なのである」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」,166P</p>
<p>「もしフルートを吹く牧神ファウヌスについて考えるならば、私はファウヌスを志向する明確な構造を具えた志向的作用に直面する。しかし、このファウヌスは作用の中に内在的に含まれてはいない。どれほど注意深く作用を分析しても、ファウヌスを作用の部分として発見することはできないだろう。ファウヌスは私の意識には賭けているいくつかの性質、例えば、飛び回り、フルートを吹く能力を所持しちえるだけではなく、作用とは対照的に空想されたファウヌスはパースペクティブ的に現出しもする。さらには、錯覚や空想の対象が心理的に存在すると主張することは不条理な結果をもｔらすだろう。それは私が想像したり錯覚したりするようなピンクの象や黄金の山などが、想像作用そのものとしてまさに本当に現実に存在するということを含意するだろう。そういうわけで『黄金の山は存在しない』のような普遍的主張は偽であることになるだろう。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,22P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">想起と想像の区別、措定的現前化と措定的現前化の中立性変様の区別</span></h3>
<p>「<b>存在の措定</b>」とは「対象が現に存在する」とみなすことである。たとえば目の前のリンゴを見るという知覚の場合は、まさにリンゴが実在しているとみなし、信じている。しかしペガサスを空想する場合は、ペガサスが実在しているかどうかには無関心である。</p>
<p>１：想起は以前の知覚作用などの「存在の措定」を含む作用。言い換えれば、不自由に「かつてあった知覚」を思い浮かべる作用。同様に、予期や予想、予見、予科も「これからあろう知覚」を通して「存在の措定」を含む作用だといえる。</p>
<p>２：想像は「存在の措定」にとらわれることなく、自由に「知覚」を思い浮かべる作用。存在の措定、定立に無関心な作用であるため、中立的であり、中立的態度をとっている。</p>
<p>※措定的とは、ある事物を現実のものとして捉える意識です。中和性変様(中立性変様)とは、事柄を非現実のものとして捉える意識、あたかも現実のもののように捉えるような事態です。</p>
<h4><span id="toc18">追記</span></h4>
<p>・想起は以前の知覚作用などの「存在の措定」を含む作用。言い換えれば、不自由に「かつてあった知覚」を思い浮かべる作用。</p>
<p>・想像は「存在の措定」にとらわれることなく、自由に「知覚」を思い浮かべる作用。</p>
<p>・「これからあろう知覚」を思い浮かべれば「予見」や「予期」に近づくが、ただし「予見」や「予期」ないし「予科」は「措定的現前化」であり、「想像」は「措定的現前化の中立性変様」であるという点で区別される。ただし、シュッツの場合は「措定的現前化」と「措定的現前化の中立性変様」を区別せずに話を進めている(現象学的な説明が必要になってしまうため、省くと脚注にある)。要するに、予見や予期ないし予科は、「存在の措定」にとらわれるという点で、想起と同じように縛られるものであり、想像の自由さと区別される。</p>
<p>たとえば「うさぎが月で餅つき大会に遅れないためにこれから走るだろう」というような想像と、「学校に遅刻しないために田中さんはこれから走るだろう」というような予期は区別されるというわけである。「月にうさぎが存在する」といったように、対象が現に存在するとする対象の「定立」が想像では停止されている(中立的態度)。つまり、措定的現前化が停止されている(措定的現前化の中立性変様)。なぜなら、「うさぎが月で餅つき大会に遅れないためにこれから走るだろう」というような想像の場合、「うさぎは月に存在しない」と発言者によって思われているからである。まるで存在するかのように話を進めるために、「中立」と言われている。事物の存在には関心がないという点がポイントであり、その点で、中立的態度と知覚的態度(事物の存在を定立する過程を含む)は区別される。</p>
<p>・中立性変様の例：喫茶店のなかの光景が大きな鏡に映った風景であることに気づいて，鏡に映っているその風景をそのまま現実とは認めないという場合</p>
<p>・「想像作用は、想起の中立性変様である」とフッサールは述べていた(『イデーン第一巻』)。</p>
<p>・「思い浮かべる」という点では想像と想起は共通性をもつ</p>
<p>・想像は想起の中立的変様であるが、中立的変様がすべて再現前化の中立性変様だというわけではない</p>
<p>例：「今まさにある内容の判断を下すことを留保すること」は中立性変様にあたらない</p>
<blockquote>
<p>「たとえば庭の花を見るといった「知覚作用」や，その花がツツジであるといった「判断作用」は，その対象が現に存在するとする対象の「定立」を含む。また，そうした経験を，たとえば昨日の経験として「想起」するような場合には，対象も経験もその時点で現前してはいないが現前しているように経験するので「再現前化」されると言われる。この場合にも，対象は過去のものとはいえ存在したと見なされるので，それは定立されていると言える。これに対して，対象が見えていても，何らかの事情により，対象が存在しない（あるいは，存在しなかった）とみなされる場合には対象の定立は中止されている，と言われる。また，「想起」と同様に対象が想い浮かべられてはいても，その対象が現実には存在しない（しなかった）と思われている場合，そこには対象が現にそこに存在するという定立は含まれておらず，そうした作用こそ「想像作用」にほかならない。こうして，知覚，判断，想起などのように対象を定立する作用と対照的に，対象を定立しない態度は「中立的態度」と呼ばれ，そうした態度に移行することは「中立性変様」と呼ばれていた。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」,24P</p>
<p>「すなわち、「想起」が以前の知覚作用などの「存在の措定」を含むのに対して、「想像」はそうした「存在の措定」にとらわれることなく自由に「知覚」を思い浮かべる作用であるという区別がなされた。また、作用問の時間意識上の関連も含めて、「再生産」といった諸作用全体の関連が明確化され、これに対する「中立変様」の独自性も浮かび上がってきた。これらのことが、「想像」と「中立変様」の関連の捉え直しを促したように思われる。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,303P</p>
<p>「そこでフッサールは，『イデーン第一巻』の「中立性変様」と題された§１０９において，「その変様は，それが加えられるとどのような臆見的様相もみな或る種の仕方でまったく停止させられ，まったく力を殺がれるというものである──しかし，それは，否定とはまったく別の意味においてである」と述べている。こうして，『イデーン第一巻』では，「想像作用は，&#8230;&#8230;想起の中立性変様である」と言われていたのである。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」24P</p>
<p>「ここで「<strong>再</strong>生」ないし「<strong>再</strong>現前化」としての「想像」とは，知覚などの「現前化」と対比される通常の想像であり，前節でみたように，「想い浮かべる」という点で「想起」と共通性をもつ中立的作用である。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」28P</p>
<p>「第１に「美的風景の観照」といった事例がある。１９１８年の「草稿１８番」には，「風景を美学的に観照する」場合について，次の叙述がある。</p>
<p>『われわれは現出するものを，<strong>あたかも</strong>それが現実である<strong>かのように</strong>，受け入れる。&#8230;&#8230;われわれはなるほど経験してはいる，しかし，われわれは経験の態度にあるわけではない。われわれは経験の措定を現実にともに行っているわけではない。われわれにとって現実は《かのような》現実となるのであり，《戯れSpiel》になるのである，客体が美的な仮象に，<strong>覚知的</strong>ではあるが端的な<strong>想像</strong>客体になるのである。』</p>
<p>ここで，この作用が「想像」の一種であるとされるのは，対象を見る際の態度が，事物の存在を措定しながらその探索を行うような「知覚的態度」ではなく，中立的であって事物の存在には関心が向かっておらず，美学的ないし美的観照の態度にあるからである。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」29P</p>
<p>「b）は，上のように「判断作用」を「表象的に客体化する」というのではなくて，直接その判断を留保し，判断される事態を「ただ思うだけ」である。これは，判断を下すことを想起したり想像したりするということではなくて，「今まさに，或る内容の判断を下すことを留保すること」なのである。そこで，以上のように判断に関して「想像作用」と「中立性変様」を区別できるとすれば，a）で示されたように，「想像」は「再現前化（想起）」の「中立性変様」なのであるが，b）のような場合があることを考えれば，「中立性変様」がすべて「再現前化」の「中立性変様」だというわけではない，ということがわかる。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」54P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">志向性の具体例：この対象はカエルなのか馬なのか</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1b76b74.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2859" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1b76b74.png" alt="" width="324" height="268" /></a></p>
<p>※絵は山野豊さんの作品を参考に作成</p>
<p>たとえば、このような生物(何か)を見た場合、我々はなんと表現するだろうか。表現も志向性のひとつであり、対象への意識の向かい方である。</p>
<p>「カエル」などと文字や音声で表現するのではないだろうか。</p>
<p>さて、絵や実物を「文字や音声」で表現することの、どこが志向性なのか。</p>
<p>志向性といえるためには、「作用」、「内容」、「対象」という要素が重要になってくる。とりわけフッサールは「作用」と「内容」を不可分のセットとして扱い、「本質」とも表現している。</p>
<p>「カエル」と文字で表現する場合、(単純化すれば)作用は「表現」であり、内容は[カエル]であり、対象は＜絵＞である。作用があれば内容もあり、対象もあるということになる。したがって、これらの三項関係を理解することが、志向性理解にとって重要だということがわかる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1b82cb1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2860" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1b82cb1.png" alt="" width="336" height="391" /></a></p>
<p>私は先ほど「カエル」と表現したが、ある小学生が「馬」と表現したとする。この場合、作用が「表現」であり、内容は[馬]であり、対象は＜絵＞である。絵にするととっても話がややこしくなるので、実物だと仮定する。</p>
<p>なぜ馬なのか聞いたら、「馬が上を向いている」という。また、カエルを見たことも聞いたこともなく、知識として知らないというのである。したがって、馬かカエルという表現ではなく、端的に「馬」なのである。<b>小学生は[馬]として＜何か＞を見ている</b>のである。つまり、<b>どういった内容が構成されるかは、我々に依存している</b>のである。絵から発せられる色や形の「<b>感覚</b>」は、いわば「<b>きっかけ(契機)</b>」にすぎない。感覚そのものの中に馬やカエルは存在しない。感覚を超えて、<b>超越</b>して、<b>意味を構成する</b>。赤ちゃんはこの絵を通して馬やカエル、いわば「何」かを見るのか。極端な話をすれば、赤ちゃんはほとんど「何」も見ていないのではないか。単に感じているだけではないか。</p>
<h3><span id="toc20">同じ対象と、異なる意味、我々が構成する「超越的対象」について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/500px-Face_or_vase_ata_01.svg_-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2861" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/500px-Face_or_vase_ata_01.svg_-1.png" alt="" width="212" height="278" /></a></p>
<p>「<b>同じ</b>」絵(対象)であるのにも関わらず、「<b>異なる</b>」意味(内容)を我々は構成していることが分かる。意味を通して我々は対象へ向かうのであり、そこで志向された対象が同じだとしても、異なる意味を構成、いわば意味の中で「<b>対象への関係</b>」が構成され、違った観点から対象を把握され、「<b>対象の現出</b>」が構成される。たとえば、ルビンの絵を「壺として」見る人もいれば、「顔として」見る人もいる。AをBとして、<b>「何か」を「何かとして」志向するのであり、単に対象を意識するのではなく、</b><b>特定の仕方で</b><b>対象を意識する</b>。異なる観点(パースペクティブ)、異なる意味、概念の下で同じ対象へと向かっている。</p>
<p>絵そのものに最初から壺や顔があるわけではなく、我々が知覚や想像を通していわば<b>「意味を付与」して、「生気づけて」</b>、「壺」や「顔」として見るのである。この作用を「<b>統握</b>」という。我々は「<b>統握されたもの</b>」を見ているのであり、「意味付与」を一切媒介しない対象そのものを見ているのではない。<b>我々側の働きかけによって、意味が構成され、対象への関係は構成される</b>のであり、<b>我々側の働きかけから独立して存在するわけではない</b>。意味は事物に最初から埋め込まれているわけではなく、我々側が意味を事物に付与し、構成しているのである。たとえばペガサスが構成物であるのと同様に、目の前のペンも富士山もキーボードも我々の志向性による構成物なのである。その意味において、すべての対象は<b>我々が構成する対象</b>であり、「<b>超越的対象</b>」であるといわれる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/6acbb23925ef68c0ac19a00e42f20d31.webp"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2862" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/6acbb23925ef68c0ac19a00e42f20d31.webp" alt="" width="340" height="413" /></a></p>
<p>この絵はおそらく、若い女性に見えるのだと思うが、違う見方もあるそうだ。私は言われるまで、そういう見方をできなかった。しかし言われた途端に、そう見えてきた。</p>
<blockquote>
<p>「志向性の核心は、何かを<strong>何かとして</strong>解釈することからなるということが突き止められた。実際、フッサールは以下のように書いている。『われわれに「意識」される対象は、箱の中にあるように意識の中に単純にあって、単にその中に見出し摑むことができるものではない。……対象は、対象的志向のもつ様々な形式において、われわれにとってあり、妥当するものとして、何よりもまず<strong>構成</strong>されるのである。』」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,39P</p>
<p>「フッサール現象学では、「カエル」なら「カエル」に見える以前の何か描かれた画像らしきものの受動的感覚（体験）を「諸現出」と言い、これは「カエル」だなという能動的知覚判断（経験）をしたときの「カエル」を「現出者」と言う。要は、ある線描画がわれわれの身体感覚に与えられただけの段階を｢諸現出｣といい、その諸現出から｢ああこれは～だな｣というように特定の事物であると判断したときに、われわれに思い描かれる像を現出者というのである。ここでわれわれが留意すべきことは、諸現出の感覚体験はわれわれの動かすことのできない原体験であること、さらに、諸現出自体は常に一時的かつ一面的にしか体験されないために、そのままでは不完全な体験であって、記憶や想像の助けを待って初めて統一され、像を結び、意味を持つ経験となり、現出者となるということである。」</p>
<p>居細工豊「現象学的還元と認知意味論の客観主義批判」,3P</p>
<p>「こで私が強調したいことは、われわれの感覚器官に飛び込んでくる視覚像に｢カエル｣や｢ウマ｣などの｢意味｣を付与していることである。受け身的に「～に見える」としても、能動的に「～として見る」としても、いずれにしても、事物の認識（判断）には主体（欲望身体）が積極的に関与しているということである。すなわち、われわれは身体感覚を通して世界を捉えているのである。」</p>
<p>居細工豊「現象学的還元と認知意味論の客観主義批判」,2P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">フッサールにおける構成とはなにか、意味</span></h3>
<p>・「<b>構成</b>」という言葉はフッサールにおいて重要。</p>
<p>(1)たとえば構成という言葉を「創造的過程」、作るとか制作するという意味での「産出」だと解釈する人もいる。(2)実在の復元として構成すると解釈する人もいる。(1)は観念論的な解釈であり、(2)は存在論的な解釈である。</p>
<p>しかし、ザハヴィによればそれらはフッサールに対する誤った解釈であり、「<strong>顕現</strong><sup>*1</sup><b>と有意味性を可能にする過程として、すなわち構成されたものがあるがままに現出し、展開し、分節化し、自らを示すということを許す過程</b>」が構成の意味であるという。心が世界を作り上げているわけでもなく、かといって実在の世界を映しているわけでもない。ハイデガーは「構成することとは、存在者をその対象性において見えさせること」だと表現しているらしい。この話は主観と客観(世界、他者)の関係をどのように扱うのか、という話であり、間主観性問題、主客一致の難問とも関わる。この記事では扱いきれない。フッサール自身、時期によって考え方が違う。</p>
<p>※今回は暫定的に、「対象化」と同義に扱っていくことにする。「何を」というように特定して、意味づけていく過程である。</p>
<p>※１：動画では「根源」と表記してしまっていましたが、<span style="text-decoration: underline;">正しくは「顕現(けんげん)」です</span>。「はっきりと姿が現れること。また、物事をはっきりとあらわすこと」を一般に意味するそうです。</p>
<blockquote>
<p>「しかし、するといったい<strong>構成</strong>とは何か。非常に簡明な示唆をすれば、構成は、顕現と有意味性を可能にする過程として、すなわち構成されたものがあるがままに現出し、展開し、分節化し、自らを示すということを許す過程として理解されなければならない。ハイデガーが考察することができたように、『構成すること』は、作るとか制作するという意味での産出することを意味するのではない。それは『<strong>存在者をその対象性において見えさせること</strong>』を意味する。しかしながら、他の広く受け入れられた誤解とは反対に、この過程は、無から超越論的自我によって故意に衝動的に始められ制御されるかのように、にわかに生じるのではない。フッサールが一九三一年の草稿の中で指摘するように、構成には二つの原源泉、原自我と原非我がある。両者は分かちがたく一つであり、だから単独で考慮されるならば抽象的である。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」110P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">諸現出と現出者</span></h3>
<p>志向性を<b>諸現出を突破して現出者が知覚される</b>、と表現することもある(谷徹さんの解釈)。同じ対象だとしても、異なる視線で見た場合、違った見え方として我々に<b>現出</b>するのである。Aさんが上から見て、Bさんが下から見る場合、同じ対象の違った現れ方があるといえる。Aさんがすこし身体の位置を動かせば、さっきと違った現出が現れ、極端な話、まぶたをとじて開けば異なった感覚的内容を受容し、違った現出が現れるといえる。</p>
<p>たとえば今１の面だけが見えていて、転がして３の面だけが見えるとする。しかし、１の面が見えているときも、３の面が見えているときも、我々は＜サイコロのある特定の面&#x1f3b2;(諸現出)＞を[サイコロ(1~6の面からなる立方体、現出者)]として見ているのである。我々はサイコロのあらゆる面(志向的対象、※ただし物理的な側面が全て見えたとしても志向的対象とはいえない。主観的な側面にも関わるからである)を同時に見ることはできない。(ゲームなどの特殊な状況を除けば)「サイコロの１の面を見ている」とは言わずに、「サイコロを見た」というだろう。なんだ、あたりまえじゃないか、と思うかもしれない。しかし今、現に感覚されていない面を含めてサイコロという意味を構成するという作用は、冷静に考えると驚くべきことである。われわれはどうやら、そのように「構成できる能力」があるし、そのように「構成されたもの」を見ているのである。なんらかの余剰、なんらかの添加物と合わさって、我々は「何か」を構成し、対象を「何か」として見ている。<b>我々は一体何を見ているのか</b>、あらためて考えると、とても面白い話である。</p>
<blockquote>
<p>「物(たとえばサイコロ)が見えるというのは、サイコロの『諸現出』(物の現れ出ている面。サイコロでいえば三や五の面)が遠近法的に『感覚』されるだけでなく、それらを媒介にして『現出者』(面を現している当のもの。サイコロそのもの)がキューピズム的に『知覚』されるということ。私たちは諸現出を突破して現出者を見る。この媒介・突破の働きが『志向性』である。」</p>
<p>谷徹「本当にわかる哲学」,258P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">人間の意識は外部へ向かっているが、しかし意識の外部というものがあるかどうかは別の話</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1bcad95.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2863" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1bcad95.png" alt="" width="861" height="455" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1bcad95.png 861w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_1bcad95-800x423.png 800w" sizes="(max-width: 861px) 100vw, 861px" /></a></p>
<p>素朴に単純化するとこうなるが、実際はこのように単純ではない。この図では意識の外部に物や感覚、内容が存在しているような印象を与えてしまう。</p>
<p>もし、物を意識の外部にあると「<b>信じている</b>」という<b>超越的</b>な意味で、人間の意識の外部に絵を設定していいのだとすれば、こうなるのかもしれない。<b>人間の意識は外部へ向かっているが、しかし意識の外部というものがあるかどうかは別の話</b>であり、証明しようがない、というややこしい話である。とにかく人間の意識は意識の外部へ向かっているし、人間は意識の外部に何かが存在すると信じているのである。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/bfaf2c821163fdf73f0726d9e8168630.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2864" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/bfaf2c821163fdf73f0726d9e8168630.jpg" alt="" width="1771" height="1191" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/bfaf2c821163fdf73f0726d9e8168630.jpg 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/bfaf2c821163fdf73f0726d9e8168630-800x538.jpg 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/bfaf2c821163fdf73f0726d9e8168630-1536x1033.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1771px) 100vw, 1771px" /></a></p>
<p>こちらも同様に素朴に単純化したものである。</p>
<blockquote>
<p>「素朴に考えると、たとえば、富士山の表象が『実在する対象』をもつかどうかは──ちょうど写真と実物を見比べるように──じっさいに富士山を見ればわかると言われるかもしれない。そのときには私たちは、その富士山の表象の外に出て、そこに富士山そのものを見るということになるだろう。しかし、その富士山そのものを見ているときに、私たちはやはり新たな表象を用いているのではないか。とすると、この新たな富士山の表象がまたもや『実存的に存在する富士山』をもつかどうかが問われてしまう。そこでまたまた、その対象の外に出て富士山を見ようとすると、やはりまたまた同じ問題が生じてしまう。ということは、(ペガサスはもちろん)富士山でさえも、その表象の外に出て、その実在を確証することはできないということである。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49P</p>
<p>「とはいっても、非学問的な場面では、私たちは、富士山は私たちの表象の外に実存すると確信しており、それを表象の外で確認できるとおもいこむような傾向をもっている。こうした傾向はひとつの『態度』に対応している。この態度をフッサールは『自然的態度』と呼ぶ。この態度は、文字どおり『自然的』であるため、それが『態度』であることさえ気づかれないほどであるが、しかし、やはりひとつの態度である。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49P</p>
<p>「私たちは、ほんとうは、表象の外に出ることなく、富士山のような対象の実存を確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信しているのだろうか。この問いを解くためには、ひとまず、非学問的な思い込みを停止し、表象の外部に当該の対象が実存していると信じるような(自然的態度の)傾向にストップをかけなければならない。これをフッサールは存在の『エポケー(判断中止)』と呼ぶ。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49-50P</p>
<p>「近代哲学が提起した問題は、意識に現れた世界(主観)は意識の外部にある実際の世界(客観)と一致するのか否か(事実を正確に写し取っているのかどうか)、という『主客一致の難問』であり、デカルトは神を持ち出して認識可能だと言い、カントは認識不可能だと主張した。しかし、よく考えてみれば、『意識の外部に客観的世界がある』という前提そのものが、実は意識における確信(思い込み、先入見)にすぎない。そう考えたフッサールは、なぜ『客観的世界が実在している』という確信をもっているのか、その理由を問うべきだと考えた。客観的世界はどのような構造になっているのか、そもそも客観的世界は本当にあるのか、といった問題をいくら考えてみても、そんな問いに答えなど存在しない。しかし、客観的世界はある、という信憑の構造、確信の条件を明らかにすることはできる。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">ノエシス・ノエマ</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/3d0f569a7c36e3b5a20ffa9a284fe886.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2865" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/3d0f569a7c36e3b5a20ffa9a284fe886.png" alt="" width="675" height="355" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/052a007ea40e35304272ae1ed09a6f38.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2866" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/052a007ea40e35304272ae1ed09a6f38.png" alt="" width="655" height="345" /></a></p>
<p>意識の外に出られないとすれば、この円(赤・青含めて)の中に収まることになる。ただし、ノエマの解釈は議論が分かれている。</p>
<p>そして我々が意識の外へ向けていると思っている対象は、志向的対象(超越的対象)であることがわかる。</p>
<p>知覚をさらに知覚をすることを反省(内的知覚)といい、ノエシスやヒュレーを対象にできるというが、そうした反省自体が可能なのかどうか、議論がわかれている(生き生きとした現在の反省問題)。要するに、今まさに自分が「見ている(ノエシス)」ということを見るのは時間的には後になってしまうのではないか、という話。後になるということは、なんらかの形で変様しているものを見ることになる。外的知覚と内的知覚を同時に行うことはできない。</p>
<p>※後の項目で深く扱います</p>
<h3><span id="toc25">志向性は対象の表象と、対象の表象を基礎とするものに区別できる</span></h3>
<h4><span id="toc26">志向性の分析の概要</span></h4>
<p>１：志向性を「作用」、「内容」、「対象」の３つにわけ、それぞれの関係を分析することが重要になってくる。</p>
<p>２：また、志向性の「契機(媒体、土台)」として、「実的内容」と「作用、内容、対象(あえていうなら超越的内容ないし超越的相関体)」の分析、及び両者の関係が重要になってくる。さらに「実的内容」の「与えられ方」として「射映」が重要になる。2の項目は次回の動画で扱う予定。</p>
<p>意識が何の脈絡もなく対象へ向かうわけではなく、なにか「契機」が重要になる。たとえば「目の前のペンを見る」という知覚の場合は、ペンからなんらかの「<b>感覚内容</b>(実的内容)」が受容され、そこから[ペン]という意味内容が生じ、「ペンを見た」という知覚が生じる。では「感覚内容」は「意味内容」の構成とどのように関わっているのか、という点が重要になってくる。</p>
<h4><span id="toc27">志向性の例</span></h4>
<p>見る、聞く、考える、想像する、想起する、表現する、疑う、信じる、怒る、判断する等々。</p>
<p>要は<b>心の働き</b>を表す動詞であり、また「何ものか」を構成し、対象にしている場合、全て志向性であるといえる。錯覚や幻想であったとしても、志向性である。</p>
<p>特に見るや聞くといった、今「目の前にある何か」を対象にしている場合を「<b>知覚</b>」という。たとえば「目の前にあるペン(個体的意味)」を知覚することはできるが、「ペガサス」を知覚することはできず、また「ペンそのもの(普遍的意味)」を知覚することはできない。このように、志向性によって<b>それぞれ固有の志向の在り方がある</b>といえる。</p>
<h4><span id="toc28">「対象の表象」と「対象の表象を基礎とするもの」</span></h4>
<p>志向性は「<b>対象の表象</b>」であるか、「<b>対象の表象</b>」を基礎とするものかのいずれかに分類されるという。</p>
<p>たとえば知覚や判断は「対象の表象」だが、疑ったり信じたり、評価したりする作用は「対象の表象を基礎とするもの」である。</p>
<p>たとえば「私はこのリンゴが好き」という評価をするためには、まず「このリンゴ」を見る必要がある。あるいはそうした知覚に基づいて、「これはリンゴである」と判断する必要がある。知覚や判断などの志向性に一切基づかない評価は難しい。たとえば「隣の部屋にリンゴがある」という判断は、実際に隣の部屋に行ってリンゴを見ることで、「<b>充たされる</b>」という。このように「充たされる」ことは明証性と関係し、明証性は真理と関係してくる。<a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2867" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1.png" alt="志向性、現象学、基づけ関係" width="977" height="686" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1.png 977w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-800x562.png 800w" sizes="(max-width: 977px) 100vw, 977px" /></a></p>
<p>イメージでいうとこんな感じ。基づけとは、それがなくてはならないものとして、基礎づけること。フッサールが「知覚」を重視していることがポイントになる。</p>
<p>※図は今後修正するかもしれません。特に判断と直観の関係がまだぼやっとした理解のままです。</p>
<p>※基づけとは：<span style="color: #0000ff;"><strong>XがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができないということ</strong></span></p>
<blockquote>
<p>「私がノートを探しており、見つけるならば、見つけられたノート、あるいはもっと精確には知覚的に与えられたノートが、私の志向を満足させあるいは<strong>充実する</strong>状況が扱われている。最初、私は単に表意的志向をもっていたのに対して、それがいまや新しい志向によって充実されており、同じ対象が<strong>直観的</strong>に与えられるのである。最初に考えられていたことはいまや見られてもいる。意味志向と直観におけるその充実の関係は、概念/志向と直観との古典的関係と比較することができる。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,44P</p>
<p>(ベルンハルト・ラングの発言)「『充実との関係で、同じ対象に向けられた二つの志向は、純粋に表意的概念的志向が、同じ対象に向けられた他の直観的志向において『それ自身』を充実するという仕方で合致する。以前に『単に』意味されていたものは、いまやそこで直観的充実における『それ自身』としてある。単に志向的な対象と実在的な対象との差異は存在する。しかし、この差異は『実在的な』ものではなく、『所与の様態』にかかわるものである。つまり、所与の仕方における対象は、『空虚な』概念化と直観的に『充実された』概念化との間で異なる。しかしながら、空虚から充実にわたるこの志向的様態において与えられる対象は同一のものであり続ける。』」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,45P</p>
<p>「こうして第五研究において、作用の一クラスとしての客観化作用という概念が導入された後、第六研究における充実総合の分析の中で、この作用がさらに三つの働きに分類される。すなわち、客観化作用は表意的志向と直観的志向とに区分され、さらに後者の直観的志向が想像的志向と純粋知覚的な志向とに分けられる(vgl.ibid.,586.ff.)(図3参照)。こうして客観化作用が三つの志向へと区別されたのち、知覚作用の構造が、これら客観化作用の観点から解明される。それによれば、統一的対象の現出作用としての知覚とは、上記三つの志向のうち、純粋知覚的志向と表意的志向とからなる志向の複合体であるとされる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」,16P</p>
<p>「専門用語を用いて言えば、言語的志向は<strong>基づけられた</strong>志向である。XはYに基づけられているということは、Xが単純にYから導出することができる、あるいはYに還元することができるということを意味するのではなく、XがYによって条件付けられており、Yから独立に存在することができないということを意味するのである。だから、フッサールは言語的意味が世界との先言語的かつ先述定的遭遇に根ざしているということを主張することになる。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,42P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">実在的存在・中立的存在・理念的存在</span></h3>
<p>それぞれの志向性の固有の在り方を理解するためには、まずは「３種類の存在」について理解しておく必要がある。</p>
<p>存在には<b>実在</b>、<b>中立</b>、<b>理念</b>という３つの種類がある。それらと「超越」の違いとはなにか、また「現実」とはなにかといった理解を深める必要がある。</p>
<p>結論をいえば、存在＝超越と言われるように、<b>実在も中立も理念も、超越と区別できない</b>。つまり、実在的対象や中立的対象、理念的対象は「超越的対象」であり、<b>作用はこの超越的対象に志向している</b>。目の前のリンゴも富士山も数字の１も「超越的対象」であり、不完全な状態で与えられているにすぎない、という話。例外的に知覚の知覚、いわゆる「反省(内的知覚)」については「超越的対象」ではなく、特定の観点や側面ではなく、十全的に与えられ、「<b>内在的対象</b>」と呼ばれるが、そもそもこうした反省は可能なのかどうかで今でも議論が分かれている。見るという志向性は外的知覚(超越的知覚)であり、見るということをさらに知覚するのが内的知覚である。</p>
<h4><span id="toc30">実在的存在とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>実在的存在(リアリテート)</strong></span>：</big>・「<b>客観的時間</b>」の中で、過去、現在、未来の各時間に位置づけられるもの。</p>
</div>
<p>例：目の前にあるペン。目の前にあったペン。これからくる電車。昨日食べたリンゴ。ちなみに「現在」はさらに「把持、原印象、予持」へと分類され、「幅のある現在」として重視され「<b>内在的時間</b>(主観的時間)」と呼ばれる。</p>
<h4><span id="toc31">実在的存在とアポステリオリ</span></h4>
<p>実在的存在は<b>アポステリオリ</b>な存在とも言われる。要するに、時制変化する存在である。</p>
<p>たとえば今日あるペンは昨日あったペンに変わる。あの、この、あれ、というような「連体詞」がつくイメージ。人間は実在的ではないが、近所の田中花子さんは実在的である。犬そのものは実在的ではないが、近所のポチは実在的である。</p>
<p>これらの区別は言語記号の場合、「現出学的意味概念」と「現象学的意味概念」に区別される。要するに、普遍的意味と特殊的意味である。現象とは移ろいゆくものであり、今あったかと思うと去っているようなものである。たとえば「今見ている近所の田中花子さん」は、明日には「昨日見ていた近所の田中花子さん」に変わっている。しかし、１＋１＝２であった、というように普遍的、本質的な意味は基本的に変化しない。また、知覚には感覚内容があり、志向的作用・内容・対象があるという点も基本的に変化しない。したがって本質であり、現象学はこのような本質を明らかにする本質学であるといえる。</p>
<h4><span id="toc32">現実的対象と実在的対象</span></h4>
<p>現実的対象、という表現を行う時、この実在的存在が念頭におかれている。</p>
<p>たとえば「ペガサスは実在的対象に対応するものがない」、というように説明される。「現実的対象」と表現する時はほとんどこの「実在的対象」と等しい。なぜなら、我々はこの「実在的対象」をもっぱら現実に、日常生活において、<b>意識の外部に存在すると</b><b>信じている</b>からである。ペガサスや数字の１が現実に存在する、とは信じていない。ペガサスはイメージだが、目の前のリンゴはイメージではない、と思っている。</p>
<p>自然的態度において信じているかどうかの次元であって、それが”実際に”存在しているかの区別ではない。実際に存在すると主観(私の意識)から完全に離れて証明できるものなど<b>なにもない</b>のであり、その次元でいえば<b>すべての存在は超越的</b>である。ペガサスがその存在を主観に依存しているように、近所の田中さんの存在も同じく主観に依存している。我々は日常生活ではペガサスは主観に依存し、田中さんは依存しないと「信じている」が、<b>実際は同じような次元(存在＝超越)</b>である。</p>
<h4><span id="toc33">中立的存在とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>中立的存在(ノイトラリテート)</strong></span>：</big>・<b>擬似的時間</b>」のなかで、過去、現在、未来の各時間に位置づけられるもの。</p>
</div>
<p>例：白雪姫、ペガサス。「あろうそうだ」というように表現される。昔々、おじいさんとおばあさんが・・・あったそうじゃ、というように「伝聞形式」で存在する。我々の時間とは別の時間に属している。擬似的時間とは「白雪姫が今、リンゴを食べた」というように、我々とは違う時間のこと。</p>
<h4><span id="toc34">理念的存在とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>理念的存在(イデアリテート)</strong></span>：</big>・どちらの時間にも時間位置をもたず、どちらの時間にも現れることができるもの。</p>
</div>
<p>例：数字の１や三角形という概念、「ウラニウムは磁石から産出される」という事態、「１＋１＝２」であるという事態。<b>アプリオリ</b>な存在と言われる。時制変化しない存在。「１＋１＝２」であった、というふうに変化しない。「常にある」で表現される。「このリンゴ」は実在的存在だが、「リンゴそのもの」は理念的存在であるといえる。リンゴそのものは目に見えない(知覚できない)が、判断することはできる(リンゴはバナナではない、など)。</p>
<blockquote>
<p>「『存在』には、(さしあたり)三種類のものがある。すなわち、『実在的存在』(レアリテート)、『中立的存在』(ノイトラリテート)、『理念的存在』(イデアリテート)である。これを時間との関係で整理して定義すると、以下のようになる。客観的時間のなかで、過去、現在、未来の各時間位置に位置づけられるものは、実在的存在をもつ。擬似時間のなかで、過去、現在、未来の各時間位置に位置づけられるものは、中立的存在をもつ。どちらの時間の中にも時間位置をもたらず、どちらの時間にも現れることができるものは、理念的存在をもつ。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,154P</p>
<p>「したがって、意識の内部にある、意識作用自体や感覚的要素なども志向的意識作用の対象になりうる。しかしながら、その場合は、「超越的対象」とは呼ばない。それらの要素は、対象化されているとはいえ、「内在的」対象である。」</p>
<p>宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(2)」,2P</p>
<p>「フッサールは自らの現象学のマニフェストともいうべき『イデーンI』のなかで、物知覚と呼ばれる外的知覚（超越的知覚）が現象学的研究にとって出発点となる経験であり、感性的経験としての根源的経験であるという意味で重要であると述べていた（Cf.III-1/81）。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について,175-176P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc35">異なる仕方で対象と関係するとは</span></h3>
<p>「異なる」方法、仕方で対象を「持つ(所有)」。いいかえれば、異なる仕方で<b>対象と関係する</b>、といえる。このような異なる持ち方を「<b>作用の性質</b>」といい、またその際に持たれる内容を「<b>作用の質料</b>」という。</p>
<p>同じ質料でも違った性質が可能である。例えば、あるリンゴを「リンゴ」と文字で「表現」することも、リンゴとして「見る」ことも、リンゴとしての存在を「疑う」こともできる。</p>
<p>作用の性質と作用の質料は互いに独立して存在することのありえない抽象的な成素といわれ、両方セットの複合体を「<b>志向的本質</b>」とも表現している。しかし分析的には区別する必要があるという。</p>
<p>たとえば知覚の場合は今まさに目の前に実在する対象を持つ(実在的存在を持つ)。対象＝物理的対象ともいえる。</p>
<p>想像の場合は対象が実在するかどうか無関心である(中立的存在をもつ)。対象＝空想的対象ともいえる。</p>
<p>想起の場合は実在が過去となっているので、不明確な再生である(実在した存在を思い出す、疑似知覚、再知覚などとも呼ばれることがある)。今目の前にはないけれども、目の前にあったものを思い出している。対象＝エピソードともいえる。</p>
<p>「１＋１＝２である」と判断する(理念的存在を持つ)。対象＝事態ともいえる。</p>
<p>志向性には必ず「存在」が伴う。しかしそうした「存在」の性格がそれぞれ異なる場合がある、という話。たとえばペガサスは中立的存在であり、ペガサスを知覚することはできないが、想像することはできるし、信じることもできる。１＋１＝２であるということを知覚することはできないが、判断することはできる。</p>
<p>このように、それぞれの志向はそれぞれ異なる方法において、多様な性質の対象をもつことができる。存在の性格は違っても、いずれにせよ、志向があれば必ず「対象」をもち、「対象」へ向かうのであり、あるものが対象化されるのである。</p>
<blockquote>
<p>「志向的内容という概念は、作用の志向的質料、作用の志向的本質、志向的対象という三つに区分して説明されている。第一の志向的質料は作用質料とも呼ばれ、たとえば火星に知的生命体がいると表象しているのであれば、「火星に知的生命体がいる」というのが作用質料となる。これに対して、表象や判断といった対象への関わり方が志向的性質あるいは作用性質と名付けられている。そのため先の火星に知的生命体がいると表象するという例であれば、表象が作用性質であり、2×2＝4と判断しているのであれば、「2×2＝4」が作用質料となり、判断が作用性質となる。あらゆる作用は、この作用質料と作用性質とを備えており、この両者がなければ志向性をもった作用が成立しないため、フッサールはこの両者をまとめて志向的本質と呼ぶ。」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」,164P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">現実的対象とはなにか</span></h3>
<p>まずは我々が日常生活で素朴に、自然的態度において考えているような例をあげてみよう。</p>
<p>この例で出てくるのが「現実的対象」である。まずはこの「現実的」という意味合いを理解の目標とする。</p>
<p>我々は日常生活の上では、専門用語でいえば「自然的態度」においては、「目の前のペンが実在する」と<b>信じている</b>。言い換えれば、自分の主観やイメージ(表象)、心、意識、意味内容とは<b>無関係に独立して客観的に存在</b>するとあたりまえのように信じている。このような自然的態度における存在としての対象を「<b>現実的対象</b>」と呼ぶ。</p>
<p>これを理解するのは簡単なようで難しい。「現実的リンゴ」を考えてみたので、そのリンゴを使って説明したいと思う。</p>
<p>※現実的対象の定義はなかなか難しいですね。「真に存在する対象」などとも表現されることもあるそうです。今回はほとんど「実在的対象」と同じ意味で扱いました。</p>
<p>※話はすこしかわりますが、國領さんのメルロ・ポンティとフッサールの話はなかなかおもしろそうです。たしかになにがいったい現実的対象なのか、どう構成されるのかという問題はフッサール初期においてはいわば「棚上げ」にされていた問題です。幻覚も知覚も志向性分析にとっては大差がないことになります。しかし、「超越論的還元」を提唱していた時期になると、棚から降ろされるようになります。とはいえ、「超越論的還元」後において、現実的対象を適切に位置づけられたのか、という問題もあります。今回の記事では深く扱えませんでしたが、重要な問題です。</p>
<blockquote>
<p>「観念論：いかなる現実的対象も志向的空間に属する。言い換えれば、いかなる現実的対象も可能的な意識の対象である。（佐藤2014:161-162）以上の理解に基づけば、フッサールの観念論的見解とは、現実的対象（真に存在する対象）の必要条件に関するものである。つまり、何かが実際に存在するためには、それが、可能的な意識の対象でなくてはならない、というものだ。それゆえ、現実的対象から構成される現実世界とは、可能的な意識の対象からなる世界、佐藤の言葉を借りれば、「志向的空間」の真部分である。先の引用でコンラート゠マルチウスがみてとっているのは、この現実世界が何によって志向的空間の真部分として選びたされるのか、という問題である。たとえば、幻覚経験の対象も可能的意識の対象である。いま自分の目の前に小人が踊っている幻覚に陥っている主体を私たちは想像することができる。この小人は志向的空間に属するが、現実世界には属さない。しかもこうした幻覚は真正な知覚とまったく質的に区別不可能であるとしよう。この場合、一見すると、経験の内部にとどまるかぎり、現実の経験（あるいは真正な知覚経験）がまさに現実（ないし真正）であることを説明できないようにみえるのである。つまり、現実経験の条件が何であるかが問題になるのである。私の考えでは、この問題こそがメルロ゠ポンティの実在論的展開を主に動機づけるものである。実際、彼は、次のような観点で観念論的立場を導く反省的分析を非難している。」</p>
<p>國領佳樹「メルロ= ポンティの実在論的現象学 グールヴィッチとの隔たり」,73P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc37">写像理論への批判</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/020b5309fc14dd6233e50b2038bf89ba.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2868" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/020b5309fc14dd6233e50b2038bf89ba.jpg" alt="" width="530" height="256" /></a></p>
<p>「意識されることと無関係な対象そのもの」が素朴に想定されてしまっている。</p>
<p>このような図の見方は「<b>写像理論</b>」ないし「<strong>知覚の代表象理論</strong>」ともいわれ、フッサールはこうした見方を批判している。または知覚の代表象理論への批判である。心の中に何か代表象、写像、模写、絵のようなもの、類似のものがあって、それを通して我々は外的対象を見ている、というような理論をフッサールは批判している。</p>
<p>フッサールは三人称的な視点で作用と対象を関係づけるという仕方で問題を解決してはならないという。あくまでも<b>一人称的</b>な視点で関係づける必要がある。</p>
<p>※たとえばバラを見ているとき、実在のバラを見ているのであり、心の中にあるバラ、つまり心的イメージとしてのバラを見ているわけではない。この問題は意外と複雑です。端的に言えば意識の外に何かある、という素朴な前提をフッサールは否定しているわけです。心的イメージを媒介として、経由して、通して、意識の外にあるバラへ向かう、あるいは関係するという説明を批判していることになります。おいおい、フッサールも志向的内容を通して志向的対象(超越的対象)へと向かうんじゃないのか、と言いたくなりますよね。</p>
<p>しかし<strong>フッサールの場合は「人々が意識の外にあると信じている」というその信憑構造、ないし構成を「超越的」と呼んだのであり</strong>、<strong>”<span style="color: #0000ff;">実際</span>に”志向的対象が意識の外にあると言っているわけではない</strong>のです。ここが理解のターニングポイントだと思います。それと同時に、なんだ観念論か、結局意識の内側でしか”実際に”あるといえるものはない、なんだデカルトの「我思う故に我あり」か、などという独我論的な批判をフッサールはされることになります。しかしフッサールが観念論と存在論をどのように結びつけたのか、ないし間主観性問題をどのように乗り越えたのかという問題はこの記事では扱いきれません。ただしシュッツの関連で言えば、シュッツ自身は「フッサールが独我論を乗り越えられなかった」と解釈している点が個人的に重要になります。だからこそ、超越論的還元ではなく自然的態度において間主観性、つまり我々という「社会」を扱うことにします、となったわけです。もっとも、「私」においては現象学的な知見を使っていくところに、シュッツの現象学的社会学における「現象学」的要素があります。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/341a90cd54f0a918412a926a2384091b.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2880" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/341a90cd54f0a918412a926a2384091b.jpg" alt="" width="267" height="189" /></a></p>
<p>※ブレンターノが説明していた、「感覚器官が因果的に影響を受けたときに生じた物理的現象は、実在的な何かの記号、すなわち、分子の振動の記号である」という箇所はなかなかおもしろかったです。私の想像力や理解力が浅はかなのでわかりませんが、マトリックス的なアレを想像してしまいます。このようなわけのわからない記号をわれわれは「ペン」だとか「匂い」だとか「リンゴ」だとか言っているわけです。たとえは犬には色が見えないとか、ハエには紫外線が見えるだとか言いますけど、それぞれ「何か」として見ているものは違ってくることは容易に想像がつきます。</p>
<p>しかし見ている対象が同じであることもまた、なんとなく想像ができます。同じようなわけのわからないゴチャゴチャした記号(ないし感覚、ファンタスマ)を各人各様に「何か」として(統握して)見ているんだな、この「何か」がなにか「類似した心的写像」を通していないというのも、またなんとなく理解できます。たとえばベートーヴェンの写真とベートーヴェン本人は類似しており、またベートーヴェンの写真は「写像」です。しかし、これはフッサールでいうところの知覚ではなく、像意識です。</p>
<p>要するに知覚は像意識のように対象を捉えているわけではない、といいたいわけです。リンゴを見ているとき、リンゴという写像を通してリンゴにむかっているわけではなく、まさにリンゴを見ているわけです。しかしリンゴを見ているわけですが、リンゴそのものがありありと捉えられているかどうかは別物です。いわば、体験はできてもそれが認識されるか、経験されるかは別物だということができます。</p>
<p>※小熊さんいわく、「2つの誤解」が志向性に関連してあるようです。この誤解は極めて大事なのですが、個人的にわかりにくいです。「分かった気持ちになる」のですが、すこしたつと「ん・・どういうことなんだ」となる繰り返しです。というよりフッサールを学んでいるとこの作業の繰り返しです。なんどもなんども違う形で、多くの論文を見ていくなかで、すこしずつ理解できる感覚でした。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">志向性を物と物の間の物理的関係にような実在的(現実的、リアル)な関係と捉えるのは誤解である。</li>
<li class="sample">志向性を意識内部の二つの事柄の関係と捉えるのは誤解である。</li>
<li>フッサールの主張：たったひとつだけの「志向的体験」だけがある</li>
</ol>
<p>正直今もう一度読んでも小熊さんのこの２つの誤解、いまいちよく理解できません。ポイントになっているのは「<strong>意識の対象への関係</strong>」です。</p>
<p>まず第一に、「意識の対象への関係」は、「物の物への関係」とは異なるということです。たとえば日光と植物の関係、机と鉛筆の関係ではないわけです。たしかにそれはそうかもしれない、と思います。</p>
<p>自然的態度においては、物は意識の外部に、独立してあると考えられています。たとえば私が見ていない間も、目の前の鉛筆は存在するだろうし、私が死んだ後もその鉛筆は存在するだろうと確信しています。</p>
<p>たとえるなら物からなにか刺激が生じ、それが目に入り、それが意識になるというような「因果関係」で意識と対象の分析をすることはできませんよ、という意味だと思います。もし日光と植物の関係ならば、日光の〇〇が植物の成長を促した、というような因果関係で考えることができるのかもしれません。</p>
<p>第二に意識内部に「物」があると考えるのも誤りだという話です。これは先ほど紹介した、写像理論、ないし代表象理論と重なるものです。心的対象と意識の関係を扱うわけではありませんよ、という話です。小熊さんの話で言えば「意識内に絵や写真のようなものがあり、それを自我や志向的体験が見る」という関係ではないという話です。</p>
<p>これも理解できます。ただし「画像意識(像意識)」の説明にもなっていない、という点では少し「ん？」となりました。そもそも”知覚の”代表象ないし写像をフッサールは批判したわけで、像意識についてはそうなんだろう、というように思っていたからです。</p>
<p>ザハヴィの説明では、まず「物理的対象」として絵画を捉え、次に「解釈」を行うことで、その絵画があるものを代表象する、ないしあるものに関係するという説明でした。ただの紙やインクにすぎないベートーヴェンの絵画がベートーヴェンその人だと解釈するわけです。いわば代表象的指示関係といわれるものです。とはいえ、ザハヴィの要点は、<strong>まずは物理的対象として知覚される</strong>という点でした。知覚が代表象によって可能となるわけではなく、<strong>まず知覚があり知覚によって代表象が可能になる</strong>のです。したがって、心的対象と意識の関係という説明では「知覚」を説明できないので、「知覚」が条件である「像意識」も説明できない、ということになるわけです。まず前提条件が説明できないからその後の説明も説明になってないよね、という話です。</p>
<p>最後に、フッサールは「意識の対象への関係」をどのように説明したのか。という問題です。</p>
<blockquote>
<p>「&#8230;二つの事象が[志向的]体験のうちに現在しているのではない。対象が体験され、更にそれと並んでその対象に向かう志向的体験が体験されているというのではない。また、部分と全体というように二つの事象があるのではない。&#8230;たった一つ志向的体験だけが現在しているのである&#8230;」</p>
</blockquote>
<p>フッサールはこのようなことを言っているようです。ほとんど呪文のようなことを仰っています。</p>
<p>二つの事象というのは、「意識」と「対象」のことです。志向性とは「何者かについての意識」であり、「何かについての意識」であり、何かに向かう意識であるといままで説明してきました。この「何」が対象にあたり、また「何」の構成を対象化ないし統握というわけです。</p>
<p>結局は「意識の外になにか対象があるという思い込みを一旦中止しなさい」という主張の言い換えなんでしょうね。意識と独立した対象があると考えてしまうと、意識と対象という２つの事象があることになります。あるいは意識の内部に、心的対象があり、それを媒介として外的対象へと関係するという写像理論も誤りだということも今まで学んできました。</p>
<p>端的に言えば信じられるものはまず意識しかなく、意識によって対象が構成されるのであって、意識と対象のセットの「志向的体験」があるという話です。意識によってのみ対象は「現れる」のであり、「意味づけられる」のであり、「対象化」されるのであって、意識なしでは対象というものが構成されないと考えていくわけです。なかなか頭がいたくなる話です。</p>
<p>赤ちゃんをイメージすればわかりやすいかもしれません。極端な例ですが、産まれたての赤ちゃんにとって自我はなく、また志向性もないとすれば、いかなる対象との関係も構成できないということになります。いわば、「何」かを「何か」として把握することができないわけです。志向的体験もなく、ただ感覚的な体験だけがあり、分節化もなく、比喩的に言えば世界と一体になっているわけです。</p>
<p>しかし自我が形成されていくと、みかんをみかんとして見ることができるようになり、りんごとみかんは違うもの、コップや机とミカンは違うものととして分節化され、対象化され、意味づけされていくようになります。コップや机といった言語を知らないとしても、アレとコレは違う、といったような区別ができるようになっていくのだと思います。</p>
<p>※次田憲和さんがわかりやすい例え話をしていたので紹介します</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_88e0fa3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2882" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/Snag_88e0fa3.jpg" alt="" width="233" height="190" /></a></p>
<p>もし「志向的内容」がどの強度においても一切ない、つまり０だとすれば、我々はどうなるのか、という仮定である。極論、「実的内容」が受容されるだけの状態である(過去把持などの特殊な受動的志向性も考慮しないので、そもそも記憶というものが成り立たず、点が消え、点が消えの繰り返し)。</p>
<p>そうした想定に合致するのが「生まれたばかりの赤ん坊」である。赤ん坊が実際にそのような感覚をしているかどうかはおいておいて、考えてみよう。赤ん坊は志向性の強度がもっとも低いといえる。たとえば右の絵を見てもカエルでも馬でも絵でも白でも黒でも線でもなく、したがってあらゆる意味や記号が付与されず、また表象もされず、「<b>なにものか</b>」という感覚を受容しているだけである。フッサールはあらゆる意味や記号の規定を剥ぎ取られた抽象的な概念として、<b>X</b>と表現している。先ほどの用語で言えば、「志向的質料」が存在しないケースである。「何」に相当する部分が一切ないケースである。</p>
<p>たとえば目の前にリンゴがあっても、次田さんによれば「ばらばらの感覚のゆらめきとしてしか感知できない」という。また苦痛は「世界全体に閃きわたるようなものとして感じられる」という。１秒前の目の前のリンゴと今のリンゴが一体であるという意識も志向性にかかわるので、赤ん坊にはそうした一体であるという意識を伴わず、バラバラの感覚が襲ってくる。残像としても保持されないので、点が消え、点が消え、の連続であり、両者につながりがない。</p>
<p>たとえば指を切ってしまい怪我した時、「指が痛い」という言い方をする。つまり、対象化されている。もし対象化されないとすれば、どうなるのか。言葉に出来ないようななにかが感覚されているだけであり、まとまっておらず、バラバラであり、バラバラの連続のなにものかの「色の感覚」、「痛みの感覚」、「形の感覚」が位相の変化とともに襲ってくるのである。</p>
<blockquote>
<p>「私はしばしば<strong>志向的対象</strong>について語ってきた。これは、何らかの心的構築と同一視されるべきでなく、端的に私の志向の対象である。私が万年筆を見るならば、その時それはこの実在のペンであり、私の志向的対象であり、ペンについての何らかの心的写像、模写、代表象ではない。実際フッサールは、知覚の場合には、当該の対象についての直接的で媒介されていない直知があるということを主張しようとしていた。この主張をすることによって、フッサールは直接的知覚的実在論の一形式を擁護しており、それによって、<strong>知覚の代表象理論</strong>としてなお大変よく知られている理論に真っ向からぶつかっている。&#8230;&#8230;それゆえ知覚の代表象理論は、バラが私の感覚器官を触発しているということ、そして、このことがバラの心的表象を私の意識に生じさせるということを主張する。そうするとこの理論によれば、あらゆる知覚は、二つの異なる存在者、心の外部の対象と内部の代表象とを含むことになる。対照的に、フッサールはこう主張する。意識と対象との志向的関係を、対象は意識の外部にあり、対象の代表象は意識の内部にあるということを主張することによって解明したと思うことは誤りである、と。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,23P</p>
<p>「知覚の代表象理論に対するフッサールの主な反証は代表象と代表象的意識についての志向的分析にある。フッサールの批判は主に像を中心とする知覚の代表象理論、すなわち心的表象が類似性を経由することで(実在的対象の様に見えることで)実在的対象に関係するということを主張するような理論に向けられているけれども、フッサールの論証は本性上もっと根本的である。最終的に、その論証は知覚は間接的であるということと、知覚の対象そのものと異なる何かによって媒介されているということを主張するモデルに反撃しているのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,24P</p>
<p>「知覚の代表象理論をまた多くの負荷的な困難が歪ませる。一つだけ述べてみたい。心の外部の対象と、その対象についての心の内部の代表象とを区別するならば、次の問いを避けることは困難である。すなわち、いかにして意識の中にある表象が現実に、意識の外側の何かに対応しているということを知るのか。二つを比べる中立的な立場へのいかなる通路もないだけではなく、多くの認識論者が世紀の変わり目で結論づけたように、二つがそっくりであることはまったくありえないと思う多くの理由がある。ブレンターノが書いているように、感覚器官が因果的に影響を受けたときに生じた物理的現象は、実在的な何かの記号、すなわち分子の振動の記号である。現象には明らかにこのような振動と共通のものは何もないので、ブレンターノはこう結論づけている。物理的現象は、事実と符合するようにはその原因をまったく代表象などしておらず、そういうわけで、感覚経験は誤解を招く恐れのあるものとして非難されなければならない、と。還元すれば、実在はそれ自体であるがままに経験されはしないのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,221P</p>
<p>「じつは、私たちは、表象の外に出ていないし、出られないのである(表象と対象の関係は、写真と実物の関係と同じではない)にもかかわらず、自分が外に出ていると思い込んだり、出られると思い込んだりするのは、非学問的である。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,49P</p>
<p>「ところで、ブレンターノは「心的現象」つまり「心的作用」における「意識の対象への関係」を「対象の志向的内在intentionaleInexistenzJと特徴づけたが、フッサールは、この規定の暖昧さを払拭するために、批判的注意を行っている。表象媒体の現象学的分析にとって重要な意義を有するのでそれを見ておきたい。その暖昧さの一つは、志向性を、物と物の聞の物理的関係のような実在的(リアルな)関係と捉える誤解を生じさせかねないということである。例えば机と本といった物は「意識された」対象であると言ってよいが、「意識」そのもの(あるいは「自我J)がそれらと同じように「対象」であり、意識と対象の聞に実在的関係が成り立つわけで、はない。もう一つは、志向性を、意識内部の二つの事柄の関係のように誤解させる可能性があるということである。例えば、意識内に「絵や写真のようなもの」があり、それを「志向的体験」ないし「自我」が「見る」といった関係が成り立っているとする誤解である。もちろんこうした考えは、「志向性」をも「画像意識」をも正しく扱っておらず、またそれについて何の説明もしていないのである。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,300-301P</p>
<p>「では、こうした誤解を取り除いて考えてみた時、「意識の対象への関係」ということはどのように理解されるであろうか。フッサールは次のように言う。「&#8230;二つの事象が[志向的]体験のうちに現在しているのではない。対象が体験され、更にそれと並んでその対象に向かう志向的体験が体験されているというのではない。また、部分と全体というように二つの事象があるのではない。&#8230;たった一つ志向的体験だけが現在しているのである&#8230;」この箇所をみると、「意識が対象に向かう」あるいは「対象を志向するJという言葉でフッサールが言いたいことは、対象がしかじかの仕方で現れ、また、何らか意味づけられているということ、また、その際に意識のさまざまな様態があるということにほかならないことがわかる。言い換えれば、先に見たように、対象の「現出」とその「意味的統握」、「現出様態」が存するということなのである。」</p>
<p>小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」,301P</p>
<p>「しかしフッサールは、内在的内容である意味を通して関係する対象を、トワルドウスキのように単に超越的な対象として規定しているわけではない。すでに述べたように、超越的な対象も志向的な対象であって、この志向的対象は実的には内在しないものの、志向的には内在するものとみなしている。」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」,167P</p>
<p>「安易な単純化との誘りを恐れずに敢えて言えば、私はこの超越論的感覚を生まれたばかりの赤ん坊の意識内容に讐えうると思う。志向的構成を一切遂行しえない赤ん坊の意識内容においては、純粋現象学的な意味の主客構造=ノエシス/ノエマの分離が生じていないことに加え、身体構成も皆無に近い状態であろうから、実在的意味での主観/客観の分裂も生じていないと考えられる。いかなる実在化的統覚も駆使しえない意識主観は、感覚状態を身体の内に局所化して解釈することができず、従って自我を外界から区別されたものとして認識しえないであろうから、例えば目の前にリンゴがあってもそれをばらばらの感覚の揺らめきとしてしか感知しえないばかりでなく、たとえ手を傷つけられても「まさしくここにある手のここが痛い」と認知しえず、苦痛はいわば世界全体に閃きわたるようなものとして感じられるに違いなかろう。まさしくこの意味において超越論的感覚とは世界そのものであるような感覚と言えるのである。」</p>
<p><span dir="ltr" role="presentation"><span id="page40R_mcid2" class="markedContent">次田憲和</span>「感覚と身体―現象学的分析とその</span><span dir="ltr" role="presentation">超越論的意義―」,52P</span></p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">超越的存在</span></h3>
<h4><span id="toc39">超越的存在とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越的存在</strong></span>：</big>・我々の意識が構成した対象にすぎないのもかかわらず、意識の外にあると素朴に信じられているような存在のこと。意識の外の存在が証明できないにもかかわらず、まるで存在するかのようように確信されているという側面を、まさに経験を超える、限界や枠を超える、認識を超える、余剰する、付加されるという意味で「<b>超越的</b>」である。また、そのように考える思考を「<strong>超越化思考</strong>」という。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>超越化思考作用</strong>：</big>・私たちの構成や主観とは独立に、マッハ的光景の外に、それ自体ができあがっているかのように思い込むことをいう、超越的解釈とも呼ばれる。メロル＝ポンティによれば「上空飛行的思考」と呼んでいるらしい。</p>
</div>
<p>自然的態度において我々は「超越化思考作用」をどうやら行っているらしい。しかしどのような仕組みで、どのような構成でそれらが可能となっているのか、そこを解明する必要がある。</p>
<p>こうした超越をその構成の過程にまで引き戻す現象学における手法を「<b>超越論的還元</b>」と呼ぶ。どのように人々は超越しているのか、と解明する作業である。フッサールは「超越の謎」とも表現し、この探究に力を注いでいる。</p>
<blockquote>
<p>「ところが、私たちは、この構成を忘れてしまうと、存在＝超越しているものが、(私たちによる構成とは独立に)いわば最初からそれ自体でできあがっているかのごとくに思い込んでしまう。そして、そのような存在＝超越しているものを、マッハ的光景(表象)の外に出て、確認できると思い込んでしまう。この思い込みをフッサールは『超越化的思考作用』とか『超越的解釈』と読んでいる。あるいは、後にメロル＝ポンティは『上空飛行的思考』と呼ぶが、この表現も『言い得て妙』である。いずれにせよ、自然的態度はこうした傾向をもっている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,50P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc40">志向性における超越について</span></h4>
<p>志向作用があるということは、なんらかの強度において「超越」が存在することを意味する。</p>
<p>たとえば目の前のコップを見る時、コップの一面のみを「<b>感覚</b>」し、「<b>体験</b>」する。しかし、我々は正面だけではなく、裏面や側面、底を含めて過剰に、我々は超越的に「<b>見ている(志向している)</b>」のであり、「<b>経験</b>」している。私が目を離しているときはコップが存在せず、コップをみているときだけ存在する、とは思わず、コップは私の視線とは無関係に独立して存在すると確信している。こうした意識も「超越」である。端的に言えばこうした超越的対象は「体験」されず「経験(志向的体験)」されるのである。ただ素朴に体験されるにすぎないものは流れ過ぎ、対象化されない。</p>
<p>ではなぜ我々は現在感覚されていない面も含めて、まとまった意味としてコップを超越的に捉えることができるのか。それを理解するためには「射映」という概念、及び「現出」と「現出者(現出物)」、「感覚内容」と「統握」という関係を理解する必要がある。</p>
<blockquote>
<p>「私たちは、平行四辺形を『感覚』しているが、それを突破して、長方形を『知覚』している。あるいは、平行四辺形を『体験』しているが、それを突破して、長方形を『経験』している。つまり、私たちは、平行四辺形の感覚・体験を突破して、その向こうに長方形を知覚・経験している。あるいはこう言ってもよいだろう。私たちは、『現出』の感覚・体験を突破して、その向こうに『現出者』を知覚・経験しているのである。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」、56P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc41">志向的対象</span></h2>
<h3><span id="toc42">内在的内容とは、意味</span></h3>
<p>まず、「<b>内在的内容</b>」は「<b>実的内容</b>」と「<b>超越的相関体</b>」に分析的に区別されるという。超越的内容と呼んでいいのかもしれない。</p>
<p>なぜ分けられるのか。「実的内容」それ自身は志向されることがないからである。フッサールは実的内容を、「<b>真に内在的な内容</b>」と表現している。</p>
<p>志向されることがない、ということは「対象化」されることがないということである。厳密には「反省(内的知覚)」によって対象化される可能性があるが、今は置いておく。</p>
<p>実的内容は感覚内容とファンタスマ内容に分かれるという。今回は「感覚内容」のみを基本的に扱うことにする。ファンタスマ内容は、たとえばまるで今目の前にリンゴがある<b>かのように</b>空想する、というときの実的内容である。</p>
<blockquote>
<p>「すでに『論理学研究』、志向性の分析が内在的(実的)内容と作用の超越的相関体との区別をしなければならないということは明らかだった。この内在的内容は二つの異なる成素から、感覚と心理的過程としての具体的な志向から成り立っていた。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,86P</p>
<p>「ここで作用と呼ばれる志向的体験としての意識が内容をもつと考えられる。この内容という概念については、実的な内容と志向的な内容という二つの概念に区別されている。実的な内容とは「具体的か抽象的かに関わらず、作用の諸部分の全体」（HuaXIX/1,S.411）であって、時間の流れのなかで生成消滅するものであり、意識に真に内在的な内容とされる。この実的な内容には作用のほか、感覚、想像などの作用を構成しつつ、その作用の部分となってはいるが、志向されていない内容が含まれる。フッサールはこのように言う。いわゆる内在的内容がむしろ単に志向的（志向された）内容であるなら、他方で、志向的体験の実的な成素に属する真に内在的な内容は、志向的ではない。その内容は作用を形成し、必要な拠点として志向を可能にするが、その内容はそれ自身は志向されておらず、作用のうちで表象される対象ではない。私が見るのは色の感覚ではなく色のついた事物であり、私が聞くのは音の感覚ではなく歌手の歌である（HuaXIX/1,S.387）。」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」,163-164P</p>
<p>「意識に超越した対象が意識されていることの説明のためにフッサlルは、『論理学研究』において、意識の成素として非志向的な「実的(reell)」内容を導入した。この内容は、感覚与件やファンタスマ(Phantasma)であり、意識に内在している。そして、この内容を「解釈する」作用、統覚(Apperzeption)によって、意識から超越した志向的対象が現出する(意識される)のである。すなわち、実的な(内在的)領域と志向的な(超越的)領域、意識の内と外とが区別され、前者によって後者の成立が説明されることになる。」</p>
<p>家高洋「知の理論としての志向的分析:志向的対象を手引きとして」,23P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc43">感覚内容とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感覚内容</strong></span>：</big>・<b>感覚内容</b>：知覚作用を構成する原因、きっかけ、契機、媒介といわれている。感覚内容は体験されるだけであり、いかなる記号存在をも必要としない体験である。中期では<b>感覚的質料</b>(ヒュレー)とも呼ばれる。感覚与件とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>たとえば「色の感覚」、「形の感覚」、「匂いの感覚」、「痛みの感覚」などである。ペンを見たという知覚の際に、「色の感覚」を見た、「形の感覚」を見た、とは言わないだろう。しかし色の感覚がなければ「赤色のペン」を見ることはできないのであり、感覚は知覚の際の必要不可欠な契機であるといわれている。いわば「～の」といったような「何」が欠けている、対象化が欠けている要素が感覚内容である。「赤信号”の&#8221;赤」「赤信号”としての”赤」ではなく、単に「赤」というようなイメージ。統握以前の単なる感覚は体験されるにすぎず、志向的体験に至らない(とはいえ、両者を位相的に前後で分離できるかどうかは、時期によって解釈が異なる)。</p>
<p>※フッサールは以下のように言っていたらしいです。</p>
<p style="padding-left: 40px;">フッサール「白い紙の知覚体験において､もっと詳しく言えば､その紙の白さという性質に関係した知覚の構成要素のうちに､われわれは､適切に目差しを向け換えかっ純粋に心理的なものへと現象学的還元を施してゆけば､自という感覚与件を見出すであろう｡」</p>
<p>フッサールの例では「白」というのが感覚与件であり、「紙の白さ」という時点ですでに対象化されていることになります。</p>
<p>もっとも、村上直樹さんいわく、「白」という言葉ですら表現可能である限り、意味を帯びており、感覚与件では言えないということになります。言語化できないような「何か」、専門用語でいえばクオリアのようなものなのかもしれません。</p>
<blockquote>
<p>「この引用で「志向的体験の実的な成素に属する真に内在的な内容」と言われているのが実的な内容と呼ばれるものであり、その例として色の感覚、音の感覚が挙げられている。見るという作用は色の感覚を内容として持っているのだが、それが向かっているのはその感覚ではなく色のついた事物であるため、色の感覚を志向された内容と言うことはできない。そのためフッサールは感覚を実的内容として、志向された内容すなわち志向的内容と区別するのである。」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」,164P</p>
<p>「いまだ意味を帯びていない素材に外部からの作用ないしは加工が施されるということを主張するには､いまだ意味を帯びていない素材が何らかの形で生起し得ることを示さなければならない｡このことに関して､フッサールは､以下のように述べている｡</p>
<p style="padding-left: 40px;">「白い紙の知覚体験において､もっと詳しく言えば､その紙の白さという性質に関係した知覚の構成要素のうちに､われわれは､適切に目差しを向け換えかっ純粋に心理的なものへと現象学的還元を施してゆけば､自という感覚与件を見出すであろう｡」(Husserl1950=1979:161)</p>
<p>ここで言う｢白という感覚与件｣は､ノエマ的意味としての｢紙の白｣とは異なる｡｢自という感覚与件｣は､｢現象学的な色の契機｣であり､｢この契機が知覚の中で､したがってその契機自身に付属する知覚の組成要素(≪対象の色彩現出≫)の中で≪統握≫され､客観化〔=対象化〕される｣(Husserl1922=1974:145)ことによってノエマ的意味としての｢紙の自｣が構成されるのである｡そして､フッサールは､この客観化=対象化以前の｢白という感覚与件｣を見出すことが可能だと言っているのである｡フッサール自身､そのようなものを見出したと確信するような経験をしたのかもしれない｡しかし､｢白｣という言葉で表現可能である限り､それは意味を帯びているのだと我々は考える｡」</p>
<p>村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」,110-111P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc44">補足：超越的相関体とは、意味</span></h4>
<p>次に、超越的相関体は「<b>志向的作用</b>」、「<b>志向的内容</b>」、「<b>志向的対象</b>」に区別される。</p>
<p>１：(志向的内容の多義性の時期、『論理学研究』)「志向的内容」が「志向的質料、志向的本質、志向的対象に区別される、と表現する。</p>
<p>２：(志向的内容が一義的な意味へと変わっていく時期)「志向的質料」を「志向的内容」とフッサール表現するようになる。</p>
<p>１と２の両方の意味を扱うと大変ややこしくなるので、１の時期の「志向的内容」を「超越的相関体」と表現する。ザハヴィが「超越的相関体」と表現していたので流用する。あるいは「超越的内容」と表現すると、わかりやすいかもしれない。</p>
<h3><span id="toc45">志向的対象とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向的対象</strong></span>：</big>・作用が向けられる対象のこと。心、意識が向けられているもの。</p>
</div>
<p>まず、「<b>志向的対象</b>」とはいったいなにかを明らかにしていこう。これがなかなか手強い。フッサールは「たとえば我々が家を表象しているのであれば、その家のことを指す」と表現している*1。</p>
<p>対象が実在していない場合は「<b>志向的客観</b>」とも呼ばれるが、意味は同じである。実在的対象も、非実在的対象も同じ「<b>超越的対象</b>」であり、分析的な区別である。</p>
<p>たとえば「実在的対象」と命名されているからといって、意識から独立して目の前のペンが存在していることを意味しない。その意味において、「ペガサス」も「数字の１」も「目の前のペン」も同じ、「<b>超越的対象</b>」である。ただし、分析的にはそれぞれ、<b>中立的存在</b>、<b>理念的存在</b>、<b>実在的存在</b>に区分される。</p>
<blockquote>
<p>「私はしばしば<strong>志向的対象</strong>について語ってきた。これは、何らかの心的構築と同一視されるべきでなく、端的に私の志向の対象である。私が万年筆を見るならば、その時それはこの実在のペンであり、私の志向的対象であり、ペンについての何らかの心的写像、模写、代表象ではない。実際フッサールは、知覚の場合には、当該の対象についての直接的で媒介されていない直知があるということを主張しようとしていた。この主張をすることによって、フッサールは直接的知覚的実在論の一形式を擁護しており、それによって、<strong>知覚の代表象理論</strong>としてなお大変よく知られている理論に真っ向からぶつかっている。&#8230;&#8230;それゆえ知覚の代表象理論は、バラが私の感覚器官を触発しているということ、そして、このことがバラの心的表象を私の意識に生じさせるということを主張する。そうするとこの理論によれば、あらゆる知覚は、二つの異なる存在者、心の外部の対象と内部の代表象とを含むことになる。対照的に、フッサールはこう主張する。意識と対象との志向的関係を、対象は意識の外部にあり、対象の代表象は意識の内部にあるということを主張することによって解明したと思うことは誤りである、と。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,23P</p>
<p>「作用のもつ志向性の一般的な構造分析を主題とする『論理学研究』第五研究において、フッサールは「志向的対象」という概念を以下のように用いている。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「志向的内容の第一の概念については、面倒な予備的説明は必要ない。それは志向的対象に該当し、たとえば我々がある家を表象しているならば、まさにこの家のことである。(XIX/1,p.414)」</p>
<p>家の表象に対応する志向的対象とはまさにその家そのものであり、家以外のなにものでもありえない。このことは、より一般的には以下の箇所に明示されている。</p>
<p style="padding-left: 40px;">「一方の「単に内在的」もしくは「志向的」諸対象と、他方の、場合によってはそれらに対応する「現実的」かつ「超越的」対象とのあいだに、そもそも何らかの実的区別を行うならば、それは重大な誤謬である。(XIX/1,pp.438-439,第二版)」</p>
<p>」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,64~65P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">実在的対象がある場合のケース</span></h3>
<h4><span id="toc47">表現の志向性</span></h4>
<p>まずは志向性のひとつである、「<b>表現</b>」について扱っていくことにする。</p>
<p>たとえば＜ナポレオン＞を「ワーテルローの敗者(言語記号)」と名指すケースなどが挙げられる。「ワーテルローの敗者」という言語記号(言語記号は志向的内容を付与されている)によって、＜ナポレオン＞という「対象」を指し示している。</p>
<p>※ワーテルローの戦いでナポレオンが負けたことから、ナポレオンはワーテルローの敗者と呼ばれている。</p>
<h4><span id="toc48">全ての表象はそれが表象する対象をもっている</span></h4>
<p>１：志向性の基本的なテーゼは、「意識とは何かについての意識」である。</p>
<p>２：作用はすべて何らかの対象へと向かっている。したがって、<b>全ての表象はそれが表象する対象をもっている</b>。</p>
<p>３：「ワーテルローの敗者」という表象は、それが表象する対象である「ナポレオン」をもっている。</p>
<p>※綿引周さんによれば、フッサールは「すべての表象は対象を表象する」というテーゼと、「関係の存在は関係項の存在を含む」という２つのテーゼを主張しており、この２つを同時に主張してしまうと矛盾するそうです。なぜなら「円い四角」や「ペガサス」が表象する対象は存在しないからです。したがって、この矛盾をフッサールがどう解決しようとしたか、という点がポイントになります。綿引さんの解釈では、フッサールは「全ての関係が関係項の存在を含意するという以前に受け入れていた想定を退けた」そうです。このような「志向性という関係は例外的に関係項の存在を含意しないとみなす立場」を例外主義というそうです。また、この例外主義によって、無対象表象に対して対応していたそうです。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールによれば「表象」が作用として理解されようが、意味として理解されようが、いずれにせよ表象の対象や意味の対象という言い方がなされるときに生じる「一般的な困難」がここで問題となっている(ibid.)。様々な言い方がされているが、表象と対象の間のここで問題となっている関係を対象的関係と呼び「xはyを表象する」という二項関係述語によって表示するとすると、無対象表象の問題を構成し、以下の議論で主題となるのは次のテーゼである。(V)すべての表象は対象を表象する。当該箇所で表明されているこのテーゼに加えて「関係の存在は関係項の存在を含む」(XXII,315)という、少なくとも一八九四年の草稿では表立って受け入れられていた前提を置くなら矛盾が導かれる。というのもこの前提と(V)からは、すべての表象の対象が存在することが帰結するが、この帰結は同じ箇所で指摘される他方の事実、すなわち一部の表象(「ケンタウロス」や「丸い四角」)が表象する対象は存在しないことと矛盾するからである。」</p>
<p>綿引 周「１９０８年『意味の理論についての講義』無対象表象の問題に対するフッサールの応答について」,3P</p>
<p>「しかしそうだとすれば、無対象表象の問題にフッサールはどのような解決を与えたのか、そしてなぜその応答のなかで対象の同一性について論じる必要があったのか。定義解釈は、これらの疑問に対する最もよい説明をそれが与えるのだと称していた。しかしこれらの疑問に対しては、また別の回答がありうる。フッサールが志向的対象を消去可能な概念とみなしていたとは考えにくいし、フッサールは丸い四角の存在を受け入れていたわけでもない。このことはフッサールが(V)を額面通りに受け入れるべき真理であるとみなしていたこと、その代わりに、すべての関係が関係項の存在を含意するという以前には受け入れていた想定を退けていたことを強く示唆している。志向性という関係は例外的に関係項の存在を含意しないとみなす立場は「例外主義」と呼ばれる。つまりフッサールはこの例外主義的立場を採ることで無対象表象の問題に応答していた、と最初の疑問には答えることができる。」</p>
<p>綿引 周「１９０８年『意味の理論についての講義』無対象表象の問題に対するフッサールの応答について」,13P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc49">実在的対象は志向的対象である</span></h4>
<p>・ナポレオンのように実在する人物の場合、話は簡単である。このような対象を、「実在的対象」と呼ぶ。フッサールは「実在的対象」と「志向的対象」が並列してあるように考えたり実的に区別するのは誤りだと考えている。したがって、<b>実在的対象は志向的対象</b>であると解釈されている。ただし、方程式の関係のように中立的対象や理念的対象が志向的対象だからといって、実在的対象でもある、ということにはならない。</p>
<p>＜ナポレオン&#x1f471;＞が志向的対象である。そして「ワーテルローの敗者」という言語記号に付与されている、[ワーテルローの戦いの敗者]という意味(言語的意味＝意義)が志向的内容である。そして志向的作用は表現(名辞的作用)である。</p>
<p>我々は、単なる文字(インクのシミ、音)に付与されているにすぎない志向的内容を通して、あるいは突破して、あるいは貫通・超越して、「志向的対象」と関係し、我々は自然的態度においてはこの「志向的対象」を主題的に見ている。</p>
<blockquote>
<p>「「実際の対象」と「志向的対象」というふたつの異なる対象を並立させることをフッサールが明確に拒否している箇所は『論理学研究』にも「志向的対象」論文にも数多く存在する。」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,68P</p>
<p>「だから、フッサールの志向性理論とフッサールが影響をうけていた理論(例えば、ブレンターノの志向性理論、カジミエシュ・トワルドウスキの志向性理論)との決定的な差異の一つは、フッサールが、志向的対象はせいぜいのところ、実在的対象、心にとって超越的な対象へ近づくための媒介者としてはたらくだけの心の内部の内容として理解されるべきであるということを、断固として否定しているということである。フッサールが強調するように、対象が志向の対象である場合にのみ、すなわち、対象が志向的対象である場合にのみ、対象を志向することができるのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」30P</p>
<p>「だから、フッサールは志向的対象と実在的対象とを区別することには意味がないと主張したのだろう。すべての志向的対象が実在的であるという意味ではなくて、志向される対象が実際に存在するならば、志向される対象は、この実在的対象であり、それ以外ではなく、志向的対象であるという意味において。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」31P</p>
<p>「一方の「単に内在的」もしくは「志向的」諸対象と、他方の、場合によってはそれらに対応する「現実的」かつ「超越的」対象とのあいだに、そもそも何らかの実的区別を行うならば、それは重大な誤謬である。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』,pp.438-439,第二版 ※富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」　65P孫引き</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">無対象表象問題</span></h3>
<h4><span id="toc51">実在的対象をもたない表象がある</span></h4>
<p>・「丸い四角」や「ペガサス」のように実在しない場合、話は難しい。なぜなら、実在的対象と呼べるものが存在しないからである。</p>
<p>「全ての表象はそれが表象する対象をもっている」というテーゼによれば、「丸い四角」という表象も対象をもっているはずであるが、いったいどんな対象をもっているのか。この問題は「<b>無対象表象問題</b><sup>*1</sup>」と呼ばれ、いろいろと解釈がわかれているようである。実在的対象以外は対象をもつといえないのか、理念的対象や中立的対象はどうなのか、といったややこしい問題がある。</p>
<p>たとえば１＋１＝２である、というような判断の場合は、「判断の妥当性の相関者」として、１や２は対象であり、また理念的に存在するとされている。「one」や「une」といった言語記号に付与された意味である[1]は、理念的に存在しているとされている。つまり、フッサールは物理的対象だけではなく、真理、命題、概念も対象であると考えている。たとえば我々は「不可能性がある」、「過去がある」というような言い方をする。そうした意味で、不可能や過去も存在するといえる。</p>
<p>*1：富山さんが呼んでいました</p>
<blockquote>
<p>「しかし、そうしたすべての志向的体験、心的作用にとって対象への関係が本質的であるという思想は、「無対象表象問題」という困難にぶつかる。ここでは、「志向的対象」論文に従って纏めておきたい。心的作用はすべて何らかの対象に向かうという志向性理論の基本テーゼに従えば、すべての表象はそれが表象する対象をもつ。しかし、対象をもたない表象というものもまた存在するように思われる。」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,62P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc52">フッサールはそもそもどういったものを「対象」と呼んでいるのか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>対象</strong></span>：</big>・実在的対象だけではなく、イデア的対象や抽象的対象を含め、我々が存在すると述べざるをえないところの対象は、すべて対象であり、存在だといえる。</p>
</div>
<p>１：存在すると述べざるを得ないとは、言い換えれば措定することであり、定立することである。</p>
<p>２：存在するかどうかを述べることに無関心である中立的存在は、フッサール初期においては「存在」として認められていなかった。ただし、中期以降、中立的存在を認めるようになっていく。ただし、<b>中立的存在は真理に関わることができない</b>とみなされている。</p>
<p>たとえば富山豊さんは、「円い四角」や「ペガサス」、「完全数であるような最小の奇数」、「現在のフランス国王」といった「無対象表象(意味概念、志向的内容)」の場合、志向的対象はないと主張している。対象が存在しなくても、有意味な無対象表象においてその対象が何であるかという非本来的な語り方を排除しないという。こうした発想はクワインやラッセルに似ているのかもしれない。たとえば「Xはペガサスではない」というような語りにおいて、ペガサスについて語ることはできる。ちなみにこうした対象の不在は、後に検討する副詞説に相当する。</p>
<h4><span id="toc53">補足：志向性と真理の関係について、真理の相関者とは</span></h4>
<p>POINT１：<span style="color: #0000ff;"><strong>作用の対象はその真理性の相関者という形で分析される</strong></span></p>
<p>※相関とは一般に、二つのものが密接にかかわり合っていること</p>
<p><span id="page51R_mcid10" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">例えば当該判断の真理値決定に何か寄与を果たせば、対象であるといえる</span></span></p>
<p>POINT２：<strong><span style="color: #0000ff;">判断における対象は、主語対象ではなく事態である</span></strong></p>
<p>例えば「ナイフが机の上にある」という判断において、判断の対象は「ナイフ」ではなく、「ナイフが机の上にある」という「事態」である。</p>
<p>※事態とは一般に、物事の状態、成り行きのこと</p>
<p>例えば「１＋１＝２」という判断において、判断の対象は「事態」である。この場合、この「事態」は判断の妥当性の相関者として「<span style="color: #0000ff;"><strong>真に存在する対象</strong></span>」と言われる。別の用語では「理念的対象」などとも呼ばれる。</p>
<p>判断の妥当性の相関者とはいったいなにか。そもそもどのようにして判断の妥当性は判定されるのか。それには「充実化」というキーワードが重要になってくる。たとえば「ナイフが机の上にある」という判断の妥当性は、知覚によって実際に「見る」ことによって「<strong>充実化</strong>」されうる。実際に見て、ナイフがあることを確認した場合、判断の妥当性があるとみなされるのである。しかし、酔っ払っていたり、幻覚状態にあったり、暗闇でほとんど見えなかったり、触ったらただのバーチャル映像だった、なんていうこともある。このようにどの程度妥当性があるかは、「<strong>明証性</strong>」という別のキーワードが重要になってくる。たとえば暗闇でほとんど見えなかったら、明証性が低い、といった言い方をする。</p>
<p>明証性が高ければ高いほど、真理に近づくとされている。また、どのように充実化されるのかは、知覚や空想などの「<strong>直観</strong>」が重要になるという。いずれにせよ、このような真理にかかわる対象である限り、それは「存在」といえるのである。</p>
<p>例えば「隣の部屋の机の上にナイフがある」という判断の場合、実際にナイフがあるかどうかはわからない。しかし、なんら対象をもたない表象、たんなる意味ではなく、実在的な対象としてのナイフへと向かっているのある。たとえば実際に隣の部屋に行って机の上にあるナイフを見る場合のナイフと、先程した際のナイフは同一のものであるといえる。もちろん、実際に隣の部屋に行ってナイフがない場合もありうる。しかし、判断の時点では意識はたしかに「同じ対象」へ向かっているのである。なかなか難しい。</p>
<p>富山さんによれば、判断の場合は「<span id="page53R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">実在の対象から何らか</span></span><span id="page53R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の因果的経路で何らかの「受容」が為される以前にその関係は成立していなければ</span></span><span id="page53R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ならない</span></span>」という。実際にナイフがあろうがなかろうが、判断という志向性は成立するのである。もちろん、知覚は判断の「充実化」との関係で重要になるが、しかし<strong>志向性そのものの成立を担保しているわけではない</strong>という。</p>
<p>では「丸い四角がある」という判断は、真理に関わることができるか。いかなる方法によっても、その判断は妥当性を満たされないのではないか。であるとするならば、それは「存在」とはいえず、したがって「無対象」ではあるが何らかの「表象」であることになる。これが「無対象表象問題」である。</p>
<p>話はすこしかわるが、「言語」と「志向性」の関係の富山さんの話が面白い。しかし難しい。言語を全く知らないような状態を想像しにくい。言語がない状態でも志向性は可能か。産まれたばかりの赤ちゃんは志向性がほとんどないのではないか、という先ほどの例とつながってくるようにも思える。ママ、パパという言葉を覚えていくにつれて、少しずつ志向性は育っていくのである、と。富山さんは「<span id="page53R_mcid36" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">心の志向性と言語の志</span></span><span id="page53R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">向性とはいわば同時に成立してくるのではないだろうか</span></span>」と言っている。たとえば「ペン」を見る場合、ペンという言葉を私はすでに知っている。庭に生えている「草」の品種は知らないが、「草」という言葉を知っている。抽象度をあげていけば、「何か物体」があるというように言語化できる。そもそも猿に志向性はあるのだろうか。猿に自我はあるのだろうか。心が先なのか、言語が先なのか。あるいは同時なのか。難しい。</p>
<p>たとえばザハヴィは「何かを何かとして統握することは言語使用を前提とするということを主張することとは、言語使用者がいったいどのように言語をそもそも学習することができたのかを理解することを不可能にする」と主張している。つまり、ザハヴィの立場では<span style="color: #0000ff;"><strong>言語使用の前に、志向性は成立している</strong></span>のである。</p>
<p>富山さんいわく、「言語化された場面」で「どのような志向性」であるのかが切り出されてくるという。たとえば机にペンがあるという判断を非言語的に行うことはできるのか。ペンが消しゴムとは違うという判断を、非言語的にどのようにしてできるのか。言語の志向性が言語の使用以降に成立するのはわかるが、心の志向性も言語の使用以降に成立する、という考えはイメージしにくい。結局は志向性の度合いが弱いか強いといったような程度の問題ではだめなのだろうか。いかなる志向性も、言語の使用以前には成立しえないのだろうか。</p>
<p>とりあえずこの記事で扱える範囲を超えそうであり、かつ私にとって難解なので今後の課題とする。現象学と分析哲学の関わりも重要になってくるのかもしれない。</p>
<blockquote>
<p>「存在ということで「レアールな」存在だけを、対象ということでレアールな対象だけを理解することに慣れた人にとっては、普遍的対象とかその存在というような言い方は、根本的にまちがっているように思われるであろう。それに反して、そのような言い方をまずはある判断の、すなわち数や命題や幾何学的形象などについて下された判断の妥当性に対する指標として単純に受け取り、そしてその上で、他の場合と同様この場合にも、それについて判断が下されるものに対しては、判断の妥当性の相関者として、「真に存在する対象」という名称が明証的な仕方で与えられなければならないのではないかと自問する人にとっては、ここには何の障害も見出されないであろう。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』第二版,106P ※富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」孫引き32P</p>
<p>「「ナイフが机の上にある」という文においては、ナイフは確かに、それに関して（über）判断され、あるいはそれについて（von）言表されるところの対象である。しかしそれにもかかわらず、ナイフは第一次的な対象ではない。すなわちその判断の完全な対象ではなく、単に判断の主語の対象であるに過ぎない。判断全体に完全無欠な対象として対応しているのは判断された事態であり、そしてこの同一の事態が単なる表象においては表象され、願望においては願望され、質問においては質問され、懐疑においては疑われているのである。後者についていえば、先ほどの判断に相当する「ナイフは机の上にあるはずだ」という願望は、確かにナイフに関するものではあるが、しかしそこで私が望んでいるのはナイフではなく、ナイフが机の上にあること、そ<span id="page49R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">うなっていることである。そしてもちろんこの事態はそれについての判断と</span></span><span id="page49R_mcid1" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">も、まして判断の表象とも混同されてはならない。――つまり私が望んで</span></span><span id="page49R_mcid2" class="markedContent"></span><span id="page49R_mcid3" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いる</span></span><span id="page49R_mcid4" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のは判断や表象ではないからである。」</span></span><span id="page49R_mcid5" class="markedContent"></span></p>
<p>フッサール『論理学研究』第一版,416P ※富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」孫引き33-34P</p>
<p>「フッサールの初期志向性理論において判断の対象、より一般に作用の対象とは、その真理性の相関者という形で分析されるものである。だが、対象が真理の相関者であるとは具体的にはいかなることであろうか。フッサールにおいて対象とは、判断が成り立つところのそれ、述定の担い手、という形で判断の真理と相関的に考えられている。そして、具体的な表現に関してフッサールが実際に行っている志向性分析の実例を見るならば、判断の文脈における振る舞い方を規準として表現の対象的関係が分析されていることは明らかである。」</p>
<p>富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」,32P</p>
<p>「発言が対象ではなく意味につものであったならば、その発言が確証されるのは意味を分析することによってであり、花瓶というまったく異なる対象の在り方には依らないはずである。それゆえ、対象がいまだ不在の場で発言されたり解釈された命題であれ、それを理解する意味作用が対象として向かっているのは対象がじっさいに与えられる知覚等の場合と同一の対象でなければならないのであり、そうでなければ事後的な確証や反証という出来事、すなわちフッサールが充実という名称の下で分析している諸事象の理解はまったく不可能になってしまうのである。このような意味で、対象とは、判断がそれについて下され、その判断がそれについて真であるところの真理の相関者である。そうであるならば、判断の志向性は、知覚によって対象の現実的な現前が確認される以前に成立していなければならないし、したがって実在の対象から何らかの因果的経路で何らかの「受容」が為される以前にその関係は成立していなければならない。とするならば、志向性の成立を担保するのは、対象から何かを因果的に受け取る受容性の能力ではなく、むしろある経験をある判断の確証ないし反証と看做したり、ある判断をある判断の帰結と看做したり、ある判断とある判断を不整合であると看做したりといった、それらの正当化関係によって経験の諸作用を結びつける我々の振る舞いのネットワークの方である。」</p>
<p>富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」,35-36P</p>
<p>「そして、このライプニッツ‐フッサール的な志向性理解の方向は、「心の志向性」対「言語の志向性」の優先性争いという周知のテーマに対して、対立そのものを解消する方向性を示唆しているように思われる。というのも、『論理学研究』が洞察したような志向性の働きは、現前する眼の前の対象から心が単純に何かを受容する、といった仕方で成立するものではなく、諸判断やそれに類する諸作用の複雑なネットワークの意味論的振る舞いという高度に「言語化された」場面で成立しているものであり、こうした組織化された仕方で我々が言語を使用し、主張や正当化の振る舞いをそれに合わせた仕方でじっさいに行っているということにおいて、言語の志向性もまた成立してくるからである。ウィトゲンシュタインに由来し、ダメットが精力的に展開した意味の使用説とはそのような洞察に他ならない。そうであるならば、我々がある組織化された仕方で振る舞う様式のうちに、心の志向性と言語の志向性とはいわば「同時に」成立してくるのではないだろうか。」</p>
<p>富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」,36P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc54">実在しようが実在しなかろうが、超越的対象である</span></h4>
<p>ザハヴィは知覚と空想を比較し、「志向的対象」について説明している。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">知覚において、作用は存在<b>する</b>「超越的対象」を志向する</li>
<li class="sample">想像において、作用は存在<b>しない</b>「超越的対象」を志向する。</li>
<li class="sample">知覚も想像も、「超越的対象」を志向する。したがって、どちらも何らかの対象を志向するのであり、したがって志向される対象、つまり「志向的対象」をもっている。志向的対象以外の対象を我々は志向することができない(内的知覚における内在的対象を除く)。</li>
<li class="sample"><b>実在的対象かどうか、というのは志向性分析にとって本質的ではない</b>。なぜなら、いずれの対象も「超越的対象」だからである。</li>
</ol>
<p>１：「目の前のリンゴ」という言語記号は、目の前の&#x1f34e;を指示している。<b>「指示されたもの」が存在している</b>。リンゴは知覚することができる。</p>
<p>２：「ペガサス」という言語記号は、<b>「指示されたもの」が存在していない</b>。たとえばペガサスを知覚することはできない。</p>
<p>３：知覚と想像の違いは、「<b>指示されたものが存在しているかどうか</b>」であって、「対象」へと向けられているかどうかではない。知覚も想像も幻覚も、対象へと作用が向けられているのであり、したがって対象は志向されているのであり、「志向的対象」をもっている。</p>
<blockquote>
<p>「これまでの論述を考えると、次のことが明らかなはずである。(1)フッサールは、志向性は現実に存在する対象についての意識の単に一つの特徴であるだけでなく、空想、述定、記憶などを性格づけるものであると主張している。(2)フッサールは、志向される対象がそれ自体、意識の一部分ではない、あるいは意識に含まれてはいないということを論じている。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,26P</p>
<p>「枯れていくオークの木についての知覚とフルートを吹く牧神ファウヌスについての空想を比較するならば、&#8230;&#8230;(５)どちらの場合も、超越的な、心の外部の対象を志向しているあるいは指示しているということでなければならない。差異は、指示されたものが前者の場合存在するのに対して、後者の場合には存在しないからである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,26-27P</p>
<p>「表象の志向的対象は、表象の現実的な対象と同じであり、場合によっては表象の外的な対象と同じであって、この両者を区別することは矛盾である。&#8230;私が神や天使、叡智的存在そのものを表象しようと、物理的な事物や丸い四角形を表象しようと、ここで挙げられたもの、超越的なものはまさに思念されているのであり、そのため（単に他の言葉で言っただけだが）志向的客観なのである」</p>
<p>フッサール『論理学研究』439P　第一版　※ 満原健「志向的意識と場所的意識」166P孫引き</p>
<p>「あらゆる人は、次のことを認めねばならない。<strong>表象の志向的対象は、表象の現実的な、場合によっては、外的な対象と同じもの</strong>であり、<strong>両者の間を区別することは半意味的</strong>である、と。超越的対象は、<strong>表象の志向的</strong>対象でないならば、<strong>この表象の対象</strong>ではないだろう。そして、自明なことに、それは単なる分析命題である。表象、『志向』の対象とは、表象される、志向的な対象であり、それを意味するのである。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』439P　第一版　※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」30P孫引き</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc55">関係説vs副詞説、志向的解釈説・選言的解釈説</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f25031edb96ab251313b208d9b2e7c66.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2870" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f25031edb96ab251313b208d9b2e7c66.png" alt="" width="510" height="255" /></a></p>
<p>いろいろと解釈が分かれているらしい。関係説か、副詞説か。あるいは志向的解釈説<sup>*1</sup>か選言的解釈説か。志向性を対象との間、つまり「関係」として解釈すれば、AとBという複数の関係項の実在的存在を前提としてしまい、実在的対象をもたないペガサスや円い四角などの志向性を分析できなくなってしまうのではないか、という意見がある。</p>
<p>たとえば知覚の場合は関係説、空想の場合は副詞説というように選んでいけばいいのではないか、という説(選言的解釈説)もある。</p>
<p>*1：正しくは「志向説的解釈」でした</p>
<p>※いちおう整理していきましょう</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">関係説：志向性は、志向される対象が実際に存在するという関係的なものとフッサールを解釈する立場。この場合の「存在」は実在的対象もしくは理念的対象を指している。したがって、ペガサスや丸い四角のような中立的存在と後によばれるような対象との「関係」という意味において問題が生じる。なぜならば、関係は複数の対象の間に成り立つものであり、相手となる対象のいない作用に対して関係を語ることができないからである。</li>
<li class="sample">副詞説：志向説的解釈とも呼ばれる。志向性を対象との間、関係にではなく、心的作用単体に帰属するような「作用の性質」として説明するもの。たとえば対象が実在的にあろうとなかろうと、志向性の分析にとっては本質的ではない、とフッサールを解釈する立場。たとえば幻覚で実は目の前にペンがなくても、ペンがあったときと同じ表象があり、同じような知覚が生じていれば、記述において問題は生じない。実在しているかどうかは本質的ではないので、ペガサスや丸い四角などについても対象とすることができる。ただし、「知覚の自己現出」という真理に関わる問題はどう解決するのか、という問題が生じる。</li>
<li class="sample">知覚の選言説：実在しているようなペンは関係節、実在していないようなペガサスは副詞説というように、ケースバイケースで考える立場。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「他方、非関係的な解釈の場合には、こうしたケースは問題にならない。志向性を関係として解釈しないタイプの理論は、志向性を、対象との間にではなく心的作用単体に帰属するような作用の性質として説明する。サンタクロースについて考えるという作用は、単に、対サンタクロース的な仕方として特徴づけられるようなある特定の仕方で思考作用を遂行しているということに過ぎない。それは作用の性質、作用の様式なのである。それゆえ、相手となる対象の有無はそもそも問題にならない。志向性とは、いかなる仕方で考えるか、いかなる仕方で経験するかという体験様式の問題なのであり、それゆえ、この解釈は志向性の「副詞的」理論と呼ばれる。だが、副詞説にも難点がないわけではない。というのも、志向性がもし心的作用それ自体の性質、単に心的な性質なのであれば、それがいかにして現実と関わるのか、志向的対象がいかなる意味で実在する現実の対象と同じものでありうるのかが不明瞭であるとベルは主張する」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,66P</p>
<p>「志向性理論の整合的解釈として自身のテーゼを擁護する議論を、ベルはジレンマの形での問題提起によって展開する。志向性は、志向される対象が実際に存在することを要求するという本来の意味で関係的なものなのか、それとも、たとえ対応する適切な対象が実在しなくとも心的作用を特徴づけているような擬似関係的なものなのか。一般的にいって関係というのは複数の対象の間に成り立つものであるから、相手となる対象のいない作用に対して関係を語ることはできない。フッサールのいう志向性とは、関係なのか、そうでないのか。」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,65P</p>
<p>「さて、以上を踏まえた上で、フッサールの知覚論を志向説的に解釈することの検討に移ろう。志向説的解釈を支持するように思われる点は二つある。第一に、そして後に述べる選言説的解釈との対比において決定的に思われるのは、『論研』においてフッサールが共通項原理を奉じているように思われるという点である。この点を強調する論者としては、ザハヴィを挙げることができる。彼によれば、『論研』におけるフッサールは「作用の内在的本性は、対象が存在するかどうかに関わらず同じであり続ける。したがって志向的対象の存在そのものは現象学的には重要ではない」（Zahavi2003,40）と考えている。この主張は、フッサールの判断論については問題なく当てはまる。しかし、知覚論に関してはどうだろうか。ザハヴィは同様に当てはまると考える。&#8230;&#8230;第二の点は、既に確認したように、フッサールが知覚の志向性を判断の志向性と同様に、意味概念に訴えて説明しているという点である。知覚と判断の間の類比を強くとる志向説的解釈は、このことの自然な解釈を提供する。」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,188P</p>
<p>「知覚の選言説を一言でいえば、共通項原理の否定である。そして通常、この見解は知覚において対象が現前しており、したがって対象の実在が知覚にとって本質的であるという立場をとる際の最初のステップとして支持される。このとき、幻覚や錯覚にとって対象の実在が本質的ではないことは明らかなので、それらの志向性は知覚と共有する何らかの共通項によって説明されることはできない。したがって、対象の実在が知覚にとって本質的であるという立場は、選言説を含意する。」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,190P</p>
<p>「まず指摘すべきなのは、このような解釈の下では、フッサールが対象の自己現出としての知覚という観点から真理概念の分析を行っているということの妥当性が、きわめて疑わしくなるということである。『論研』において、フッサールは真理を認識可能性と等置する。そして彼は対象の認識が対象の自己現出たる知覚によってもたらされると考える10。つまり、彼は真理という概念を知覚の可能性において理解していた。」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,189P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc56">個体論と関係論</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/9091be7563a677523f777ed3a4fa1d49.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2871" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/9091be7563a677523f777ed3a4fa1d49.png" alt="" width="466" height="237" /></a></p>
<p>小熊英二さんが解説していた図も紹介しておく。</p>
<p>まず作用や意味があり、その後で対象が構成されてくるという考えである。はじめに対象があるのではなく、我々のその時々の作用や意味によって対象が現象してくる、という発想である。</p>
<p>たとえば小熊さんは「最初から私やあなたがあるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、すばらしいあなたとすばらしい私が、この世に現象します。仲が悪くなると、悪逆非道なあなたと被害者の私が私から見たこの世に現象する。これを、ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた、と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、私とあなたが現象しているのだ、と考える。」と説明している。</p>
<h4><span id="toc57">志向性の対象が存在するのをやめる場合でも、志向性を失わない：共通項原理</span></h4>
<p>ザハヴィは「<b>志向性は両者の関係項の存在を前提としないという事実によって性格づけられる</b>」と解釈している(副詞説)。※ただし、超越論的還元という発想の前の段階の志向性理論の話。</p>
<p>&#x2716;ペガサスという心の内部の対象(内在的対象)に志向的に関係している</p>
<p>◯ペガサスという心の外部の対象(超越的対象、外在的対象)に志向的に関係している。心の外部の対象を志向している、あるいは指示している。</p>
<p>◯ペガサスという心の外部の対象は、指示されたものが存在しない。心の内部にも外部にも、指示されたものは存在しない。</p>
<p>なかなか難しい。ものすごくざっくりいえば、<strong><span style="color: #0000ff;">「志向的対象」の「実在性」は志向性分析にとってそんなに重要じゃないよ</span></strong>、という話。</p>
<p>たとえば砂漠のオアシスが見えた時、私はこの砂漠のオアシスという対象に意識を向けている。もしたどり着いた時「幻覚」であったとしても、意識を向けていたということに変化はなく、したがって、「<b>志向性の対象が存在するのをやめる場合でも、志向性を失わない</b>」。幻覚だろうが錯覚だろうが知覚だろうが、つまり実在的存在であろうが非実在的存在だろうが、志向作用があれば志向内容があり、また志向される対象もあるという話。知覚も錯覚も幻覚も知覚的体験という上位の種に所属している、というような考えは「<b>共通項原理</b>」とも呼ばれている。ザハヴィはフッサールが「共通項原理」を主張していると解釈しているらしい。ようするに、共通項原理で無対象表象問題を解消しようとした、という話。このような解決を「<b>志向説解釈</b>」という。</p>
<p>幻覚のリンゴも現実のリンゴも同じなのだから、結局志向性の分析において「ペガサス」が実在するかどうかは本質的ではない、という話。我々は現に、ペガサスを想像し、判断し、信じ、疑い、表現しているのであり、「対象」としているのである。</p>
<blockquote>
<p>「いわゆる自然的関係とは対称的に、志向性は、両方の関係項を前提としないという事実によって性格づけられる(そういうわけで志向性を関係と呼ぶことをやめる方がもっとよいかもしれない)。AがBに因果的に影響を与えるならば、AもBも存在するに違いない。AがBを志向するならば、Aだけは存在するに違いない。私が馬に乗っているということが真である場合には、馬と私は存在するに違いない。私が馬を志向するということが真であるならば、馬は存在する必要はない。だから、志向性の重要な局面はまさしく、その<strong>存在からの独立性</strong>である。知覚であれ錯覚であれ、作用を志向的にするのはけっして志向的対象の存在なのではない。心は、外的な影響を通して志向的になるのではないし、志向性の対象が存在するのをやめる場合でも、志向性を失わない。志向性は、意識が対象によって影響を受けるときに生じる外的な関係ではなく、反対に、意識の本来的特徴である。意識が志向的に開かれていることは、意識の存在の不可欠な部分であり、外から加えねばならない何かではない。だから、志向性は二つの異なる存在者──意識と対象──の存在を前提としない。志向性を生じるために必要なすべては、対象に向けられているという適切な内的構造を具えた経験の存在だけである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」28-29P</p>
<p>「表象がある一定の対象に一定の仕方で関係するということを、表象は、実際、自らの外にそれ事自体で存在する対象の活動に負ってはいない。まるで表象が、真剣に受け取られるべき意味で対象に『向けられている』、さらには、例えば、ペンを使って書いている手のように、対象を使ってあるいは対象に即して生み出されるかのように負ってはいない。表象は、このおよそ表象にとって同じように外的にとどまるなんらかのものにではなく、もっぱら表象に独自の特殊性に負っているのである。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』451P※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」孫引き29P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc58">意味と実在的対象との関係</span></h4>
<p>葛谷潤さんによれば、「意味」の導入によって、無対象表象の問題の一部が解決できているという。</p>
<p>１：「ペガサス」という表現は「実在的対象」を欠いている。</p>
<p>２：「ワーテルローの敗者」という表現は「実在的対象」を欠いていない。なぜなら、ナポレオンを指示しているからである。</p>
<p>３：「ペガサス」は実在的対象を欠いているが、理解、信念、判断といった作用を遂行することができる。たとえば「ペガサスは存在する」と信じることはできる。この場合、「ペガサス」は対象であり、また「信じられている対象」である。したがって、実在的対象ではないが、志向された対象、つまり志向的対象であるともいえる。</p>
<p>例えばペガサスを信じるという志向性において、ペガサスが実在しているかどうかは本質的ではない。</p>
<p>例えば「丸い四角そのものは、円ではない」という判断をしたりすることはできる。この判断において、丸い四角が実在しているかどうかは本質的ではない。</p>
<p>このように、作用の分析において「対象の実在」が本質的ではないケースを考えることができる。極論を言えば、<b>すべての志向性において「対象の実在」が本質的ではない</b>、と言うこともできる。フッサールの言葉で言えば「それ」に向けられていればよいのであり、「それ」が実在しているかどうかは本質的ではない。</p>
<p>では「知覚」という作用についてはどうか、知覚だけは実在的存在が対象であることが本質的ではないか、という点では解釈がわかれている。</p>
<p>フッサール「通常の知覚と異常な知覚、つまり正しい知覚と誤った知覚の間の区別は、知覚の内的な、純粋に記述的な、ないしは現象学的な性格にとっては関わらない。」</p>
<p>ザハヴィはフッサールを副詞説的に解釈している。要するに、幻覚や錯覚であったとしても、知覚という作用の分析ではあまり違いはない、という解釈である。個人的には知覚は関係説、その他は副詞説でいいところどりをしている「選言的解釈説」でいいんじゃないかと思う。ただし、これらは主に『論理学研究』の時点での話であり、『イデーン』以降の超越論的還元を含めて話すと、すこし事情が変わってくる。『論理学研究』だけを見ると観念論的な偏りがあるように思えてしまうが、『イデーン』以降になると観念論と実在論のどちらをも乗り越えるような解釈ができている、というイメージ(この記事では扱えない)。</p>
<blockquote>
<p>「現象学的考察にとっては、対象性それ自身は無に等しい。というのも、それは一般的にいって作用にとって超越的であるからである。どのような意味で、またいかなる権利でその「存在」を語ろうと、あるいはまたその対象性がレアールであろうとイデアールであろうと、あるいは真実であれ、可能的であれ、不可能であれ無関係に、作用は「それに向けられて」いるのである。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』,427P　※富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」 孫引き67P</p>
<p>「『論研』においてフッサールは、表現理解や判断、信念といった諸作用の志向性を、意味という概念を用いて説明する。彼は、それらの作用がなにかについてのものであるという作用の志向性を、作用が意味を介してその対象に向けられていることとして捉える。この際、これらの作用が志向性を持つということは、その作用の意味との関わりに存するのであって、その作用の対象の実在は本質的ではないとは関係がないと考えられている。以上の点に関しては、解釈上も異論のないところであると言ってよいだろう。」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,183P</p>
<p>「作用の対象を決定する仕方としての意味を、作用の対象と区別されたものとして導入することのポイントの一つは、作用の志向性を作用の対象に直接言及することなく説明することが可能になるという点である。実際、意味概念の導入は、フッサールが『論研』以前の時期において取り組んでいた無対象表象の問題への解決策としても理解できる。「神ユピテル」や「正千面体」といった表現を考えてみれば分かるように、対象を欠く表現というものが存在する。しかし我々は、対象を欠かない表現の場合と全く同様に、それらを理解する作用を遂行できる。つまり、これらの作用は確かに志向性を持ち、それゆえ何かに向けられているのだが、しかしその対象は実在しない。一言で言えば、表現理解の作用にとって、その対象の実在は本質的ではない。もし作用の志向性を作用の対象に言及する形で説明しなければならないとすると、このような作用の志向性は不可解なものになる。これが無対象表象の問題であるが、これらの作用の志向性は対象から区別された意味に存しているのだとすれば、この問題は解消される。」</p>
<p>葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」,184-185P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc59">単に志向されるだけの対象</span></h4>
<p>１：作用があれば「それ」に向けられているのである。それが実在的か、非実在的か、可能的か、不可能的か、理念的か、中立的か、それらは<b>本質的ではない</b>。</p>
<p>２：「実在的存在」として存在しないとしても、「<b>対象を思念すること</b>」は存在している。したがって、思念されるものもまた存在する。ペガサスが思念されるとき、思念されるものとして、つまり志向されるものとして、「志向的対象」も存在する。フッサールはこうしたペガサスのような「思念された対象」を、「<b>単に志向されるだけの対象</b>」として、「<b>実在している対象</b>」と分析的に区分している。ただし、同じ「超越的対象」である点に注意。</p>
<blockquote>
<p>「いまや、決定的な問いは、『論理学研究』でのフッサールが、単に志向されるだけの対象と実際に存在している対象との間の差異についての現象学的説明を与えることができるかどうかである。どんな場合に、対象を実在敵と呼ぶことが適当なのか。対象が存在するということは何を意味するのか」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」31P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc60">危機・本質直観・本質看取・形相的還元</span></h3>
<p>理念的存在は実在的存在からの「抽象化」あるいは「理念化」によって構成されたものなので、全く実在的存在と接点がないわけではない。起源を遡れば「<b>直観</b>(知覚)」がある。そして知覚は「実在的対象」に関係している。ペガサスなどの中立的存在も、なんら知覚と関わりなく生まれたわけではなく、目の前の馬や鳥に対する知覚などに起源としては関連しているだろう。</p>
<p>フッサールの現象学はあらゆる学問の本質学として、知覚などの直接的な体験を通して数字などが構成されたことを明らかにしていく。知覚や現出や直観、いわば「事象そのもの」を軽視し、論理的・抽象的なもののみが価値のあるように考えているような状態をフッサールは<b>危機</b>だと考えている。</p>
<p>例えば「私の飼っている猫」という実在的存在から、基体だけを抽出する(時間位置や意味を剥ぎ取っていく)。そのようにして「１」という「理念的な存在」だけを取り出す。あるいは「猫」という意味だけを抽出する(猫そのものは理念的な存在である)。こうして取り出された成分を「カテゴリー的成分」という。知覚的な直観が先にあり、そこから能動的な抽象化という作用、またそこからの理念化という作用(たとえば正の数を前提にして負の数や虚数を考えていく)がある。</p>
<p>このように本質をとりだす作業を「<b>本質看取</b><sup>*1</sup>」、あるいは「<b>形相的還元</b>」と呼ぶ。人間はたいていの場合、本質を直観する能力をもっているらしい。例えばリンゴの本質は「赤く、丸く、甘酸っぱい」など。物だけではなく、概念に対しても可能だという。「<b>感性的直観</b>」と、それに基づけられた「<b>カテゴリー的直観</b>」というものがある。また、犬の本質などを取り出す場合は知覚だけではなく「<b>空想</b>」も可能である。なぜなら、「犬というもの」のような「理念的存在」はどの時間的位置にも現れることができ、客観的時間や空間に限定されないからである。</p>
<p>結局はこうした「知覚(直接的体験)」があらゆる学問の根底にありますよ、ということを基礎づけるという意味で、<b>あらゆる学問の本質学</b>として現象学は有用であるといる。</p>
<p>*1：本質看取ではなく、本質観取でしたm(_ _)m</p>
<blockquote>
<p>「では一体なぜ『りんごがある』ことを信じて疑わないのか？その理由を考えるために、とりあえず『目の前のりんごは実在している』という判断を保留にしてみる(これをエポケーと呼ぶ)。すると、目の前に見えているリンゴは、とりあえず『意識に現れた対象』として<strong>のみ</strong>捉えられる。フッサールはこれを、『純粋意識(超越論的主観性)への<strong>超越論的還元</strong>』という難しい言い方で説明している。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107P</p>
<p>「私はリンゴが『赤く、まるく、甘酸っぱいもの』だと考えることができ、言葉によって誰かに説明できる。また、それと同時に、『リンゴ＝甘酸っぱい果物』という全体の意味も<strong>直観</strong>されている。このように直感された意味は、誰もが<strong>共通して了解</strong>する意味なので、その対象の『本質』とも言える。そのため、こうした意味の直観をフッサールは『<strong>本質直観</strong>』と呼んでいる。それは知覚的な直観と同様、自分の意志によって変えることはできない。&#8230;&#8230;以上のように、<strong>意識に直観として与えられた本質や知覚像は、外界の客観的実在性を確信させる</strong>重要な条件となっている。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,108-109P</p>
<p>「たとえば、『記憶』という概念の意味は、記憶という言葉から直接思い浮かぶことの中にある。それが直観として与えられた記憶の意味なのだ。しかし、リンゴを見て『リンゴ』という意味が与えられる場合と違い、記憶についてすぐに思い浮かんだ言葉、記憶の意味は、自分の中でも十分に確かだと思えないような側面がある。多かれ少なかれ、他社の意見とも違うことだろう。だとすれば、それは私にとって自明視された記憶の意味ではあっても、誰もが納得するような記憶の本質とまでは言えない。本質とは、大勢の人間が共通して了解し得るような、普遍性のある意味のことであるからだ。現象学では、この最初に直観された不確かな意味を、誰もが納得するような本質へと練り直すことができる、と主張する。これが『本質観取』と呼ばれる思考法である。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,111P</p>
<p>「形相──ものが『何』であるかを決めている不可欠な(本質的)部分。アプリオリな成分であり、ノエマ的意味のなかに含まれている。これを得る作業(想像を用いることができる)が『形相的還元』である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,260P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc61">補足：学問における危機と現実</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>フッサールにおける危機</strong>：</big>・あらゆる科学の土台が軽視されていているという危機。その土台とは現実であり、事象であり、直接経験である。そうした土台を取り戻そうとする試みが、「現象学」であるとされる。</p>
</div>
<p>・本質構造の解明によって基礎づけられていない科学の現状をフッサールは「<b>危機</b>」だと考えた。学問全体が危機に陥っているとフッサールは考えていたという。</p>
<p>・フッサールは学問の基盤(始原、根源、基礎づけ)が「<strong>現実</strong>」にあると考えた。そして、科学はこの「現実」を覆い隠してしまうような危機に陥っているという。</p>
<p>・当時の科学は直接の経験・直観される現実性と離れ過ぎてしまっていたという。たとえばガリレオ・ガリレイによって「数学的に捉えられた世界」が真の世界、客観的な世界であり、<strong>直接経験の世界は見かけの世界</strong>、主観的な世界だとみなされて軽視されるようになっていたという。</p>
<blockquote>
<p>「ところが、当時、まさにその数学が、さらには諸学問の全体が、『危機』に陥っていると感じられるようになった。&#8230;&#8230;諸学問がいわば宙に浮いてしまい、抽象的で空虚な『理論＝理屈』になってしまったのである。諸学問の基盤が、そして諸学問の意味が、見失われてしまった。いや、むしろ諸学問みずからがおのれの基盤を──そしておのれの意味を──覆い隠してしまった、と言うべきかもしれない。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,12P</p>
<p>「まずもってフッサールがここで言う『現実』とは、簡単に言えば、私たちが見たり触れたりしてきる当のもの──ステッキで示されるようなもの──であり、もう少し正確に言えば、(あらゆる学説に先立って)直接に経験している当のものである。そして、この『現実』が諸学問の始原である。なんだ、当たり前だ、と言われるかもしれない。ところが、なんと、この現実が覆い隠された、見失われてしまった、だから学問の危機が生じた、とフッサールは考えるのである。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,13P</p>
<p>「他方で、自然/世界は、『数学』や『幾何学』の言語で書かれており、これによってこそ理解されうるというガリレイの考え方は、画期的だった。これが現代のイメージでの『科学』につながる。しかしながら、このときから、数学的に捉えられた世界(理念化された世界)が『真の世界』『客観的世界』だと思い込まれ、それとともに、直接経験の世界(生活世界)は『見かけの世界』『主観的な世界』だとみなされて、無視され、覆い隠されてしまうという逆説も生じた。高次の世界が登場すると、その基礎にある低次の世界は覆い隠されてしまうのである(逆に、覆い隠されてはじめて、低次の世界は、始原として求められることにもなるのだが)。このことをもたらしたガリレイを、フッサールは、『発見する天才』であるとともに、『覆い隠す天才』であるともいっている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,30P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc62">補足：カテゴリー直観とは、いったいなのか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>感性的直観</strong></span>：</big>・感覚的な知覚の内に対応するものが見つかるような直観のこと。例えば「(色として)白」などは感性的に直観できるという。それに対して、「白”である”」ということは感性的に直観できないという。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カテゴリー的直観</strong></span>：</big>・感覚的な知覚の内に対応するものが見つからないような直観のこと。表現作用を充実する作用であり、感性的で端的な知覚によっては把握できないカテゴリー形式を含んだ「事態」の知覚。例えば「白”である”」というような直観のこと。もし・・ならば～、そして、ひとつの、など。カテゴリー的直観は感性的直観に基づけられた作用であるという。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カテゴリー的形式</strong></span>：</big>・感性的なものの内に対応する契機のないもの。感覚的知覚における対応物である「質料的素材」と区別されるという。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カテゴリー的作用</strong></span>：</big>・結合したり、関係づけたり、区別したり、同一化したりするなどといった、対象との間にそれまでに存在しなかった新たな関係を見て取る作用</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>全体的な知覚</strong></span>：</big>・３つの段階からなる総合するカテゴリー的作用の第一段階をさす。第1段階では「対象をひとつのものとして、分節されていない仕方で一目で把握する」という。第二の段階では、対象の各部分が改めて志向される段階であり、またこのように対象を客観化する作用を「分節作用」という。第三段階ではカテゴリー的直観において志向する段階であり、作用相互の対象の間に新たな関係が打ち立てられたりする。このような三段階を経て、カテゴリー的作用は遂行されるという。</p>
</div>
<p>このカテゴリー直観というのは範疇的知覚(カテゴリー的知覚)といわれ、感性的知覚と区別されることがあります。また、範疇的代表象説(カテゴリー的代表象説)はフッサールが時期によって撤回したりしているようなので、深入りするの躊躇うところがあります(あまり理解できていないのもあります)。次回扱うかもしれません。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f4d0cb45815e7da530673fc73ac706a5.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2884" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f4d0cb45815e7da530673fc73ac706a5.png" alt="" width="1265" height="547" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f4d0cb45815e7da530673fc73ac706a5.png 1265w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/f4d0cb45815e7da530673fc73ac706a5-800x346.png 800w" sizes="(max-width: 1265px) 100vw, 1265px" /></a></p>
<p>ざっくりと区別すると、このようになります。知覚はとにかくややこしい。把持が知覚かどうかについては、いろいろと解釈がわかれそうです。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/c8fd78ff599cebbc5a9461ed89348016.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2885" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/c8fd78ff599cebbc5a9461ed89348016.png" alt="" width="485" height="375" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/87386a3972efa11ac6b80c16f0bf719e.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2886" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/87386a3972efa11ac6b80c16f0bf719e.png" alt="" width="675" height="310" /></a></p>
<p>感覚的知覚を区別するとこのようにないます。「である」は直観できませんが、「がある」は直観できるという点が重要だと思います。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは感性的直観とカテゴリー的直観の区別を、表現に対応する要素がどこに見出されるかという問題意識によって展開する。そこでまずはその議論に沿ってカテゴリー的直観の基本的な性格を確認する。例えば「紙は白い」といった事態を考えてみる。これらの表現のなかには、感覚的な知覚の内に対応するものが見つかるようなものもある。それが「紙」であり、また「（色としての）白」である。これに対して「&#8230;だ（&#8230;である）(&#8230;sein)」といった表現の部分に関してはそれに対応する要素を、「紙」や「白」の場合のように知覚の内容のうちに直接見出すことはできない。「白<strong>である</strong>」ということを、同じようにして、感覚的な知覚の内に直接求めることはできないのである。このようにカテゴリー的形式とは、さしあたり表現の中で、感性的なもののうちには、自らに対応する要素ないし対象の見当たらないような諸対象性のことだとされる。これを言い換えて、カテゴリー的形式は、感性的なものの内に対応する契機のないものであるとされるのである」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」204P</p>
<p>「こうしてフッサールはカテゴリー的直観とその充実化という基本問題に逢着する。さて充実化について詳述する前に今一点確認すべき性格がカテゴリー的直観には存在する。カテゴリー的直観には常に（究極的には感性的直観に）基づけられた作用であるという点がそれである。」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」205P</p>
<p>「カテゴリー的作用とは、結合したり、関係づけたり、区別したり、同一化したりするなどといった、対象との間にそれまでに存在しなかった新たな関係を見て取る作用なのである。カテゴリー的作用とは前もって与えられている志向的対象と、次々となんらかの仕方で関係させ、それらの対象をある一つのカテゴリー的な観点の元で（例えば、「部分と全体」という観点から）、それまでにはなかった、ある新しい統一をもたらす志向的作用のことだといえる。」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」203-4P</p>
<p>「フッサールは、総合するカテゴリー的作用を遂行するプロセスを、三つの段階に分けて分析している。第一の段階では、対象を一つのものとして、分節されていない仕方で、一目で把握する。この際に遂行されている作用は、全体としての対象そのものに向けられた、端的な作用である。フッサールはこれを「全体的な知覚(Gesamtwahrnehmung)」と呼ぶ。この場合、その対象に含まれる諸々の部分は志向されてはいるが、表立って志向されているのではなく、含蓄的に志向されているにすぎない。第二の段階は、第一の段階ではまだ含蓄的に志向されているに過ぎなかった諸々の部分が徐々に際立ってくることにより、作用主体の関心を惹く段階である。この段階において対象の各部分が改めて志向されるのである。こうした形で対象を客観化する作用を、「分節作用(gliederndeAkte)」という8。この段階になって初めて、それまで含蓄的でしかなかった対象の各部分が、明示的な対象となることができるのである。注意すべきは、この段階で何か新たな対象が突如現れるわけではない、という点である。対象そのものについて言えば、対象は分節作用を遂行する以前のままの対象である。第三の段階では、分節する特殊な知覚の対象を、新たなカテゴリー的直観において、志向する。この段階で、基づける作用相互の対象の間に新たな関係をうち立てたり、あるいは一つの全体としての対象を捉える端的な作用の対象と、その独立的な諸契機を捉える作用の対象との間に新たな関係をうち立てたりすることができる。こうした関係を立てるのは基づけられた作用であるが、この作用においてカテゴリー的関係に関わる成分も、それに応じて、新たな性格を帯びる。こうして三つの段階を経ることで、カテゴリー的な作用は遂行されるのである。」</p>
<p>越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」202-203P</p>
<p>「フッサールによれば、端的な感性的知覚によって知覚可能なものは次のような種類の対象に限られている。すなわち、事物（リンゴやイス）、事物を構成している性質特徴・モメント（リンゴの赤さや丸さやスベスベ、犬の吼えなど）、事物同士の関係（これには２種あり、一つは感性的統一形式―メロディー、鳥の群れ、庭、並木といったゲシュタルト的統一体であり、もう一つは外的関係―隣り合い接触関係、より高い－低い関係、左右の関係、位置関係などである）である23。これら感性的知覚によって知覚可能なものが実在的対象である。しかしながら、リンゴ「であること」や赤色「であること」、メロディー「であること」、隣接している「であること」は、感性的知覚によっては知覚することはできない。「であること」（存在）や「すべての」や「いくつかの」といった量化概念、さらには否定や「ならば」「かつ」「または」という論理定項、こういった命題を構成するカテゴリー形式は、イデアールな性格を有する為、感性的には知覚不可能なのである。」</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,108P</p>
<p>「周知のようにフッサールは『論理学研究』第六研究において、伝統的に感性にのみ限定されていた直観概念を拡大し、感性的直観に基づけられた直観、すなわちカテゴリー直観を導入した。これによって、空虚な志向としての単なる言語表現がカテゴリー直観によって充実されてこそ、言明が表現する通りの事柄をわたしたちは「知る」ことができるという独自の認識論を提起したのである。しかしながら、その反面カテゴリー直観の導入は、大きな難問を抱え込むことになる。それが後にフッサール自身が破棄することになる「カテゴリー的代表象説」である」</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,101P</p>
<p>「カテゴリー直観とは、表現作用を充実する知覚作用であり、感性的で端的な知覚によっては把握できないカテゴリー形式を含んだ「事態」の知覚である。＜カラスが飛び立つ＞という事態の「知覚」においては、＜&#8230;は～である＞という述定形式までが直観されている。このようなカテゴリー直観は、感性的知覚に基づけられていなければ成立できない。というのも、＜カラスが飛び立つ＞という事態の知覚は、＜カラス＞と＜飛び立ち＞という二つの対象2を端的に知覚する作用があって、これら二つの知覚作用を綜合（結合）することによって成立すると考えられているからである。フッサールの用語を使えば、＜カラスが飛び立つ＞事態の知覚は、カラス知覚と飛び立ち知覚に基づけられた作用であり、二つの作用を綜合する新しい作用である。この綜合作用によって、端的な感性的知覚によって与えられたカラスと飛び立ちという二つの対象が、主語的なもの（カラス）と述語的なもの（飛び立ち）とに分節化され、かつ関係づけられる。」</p>
<p>染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」,101-102P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc63">コラム：プラトンのひげ</span></h3>
<p>話はすこしそれるが、以前「パルメニデス」で扱った「プラトンのひげ」と話が似ている。</p>
<p><b>プラトンの髭</b>：「ないものも、なんらかの意味合いで、あらなければならない」というパラドックス。哲学者(論理学者)のクワイン(1908-2000)が「プラトンの髭」と呼んだ。「◯◯は存在しない」と言明してしまったために、〇〇は存在することになってしまうわけである。</p>
<p>パルメニデスの「在らぬ」が物理的なものか、概念的なものかについて解釈する際に使用されるパラドックス。例：ペガサスは「存在しない」と言明するとき、ペガサスについて概念的に述べられている以上、<b>ペガサスは</b><b>概念的に</b><b>「存在する」</b>ことになる。<b>もし概念的にも存在しないならば、「ないものは存在しない」と無意味なことを言っている</b>ことになってしまう。たとえばこの用法では、「ペガサスは存在しない」という言明が偽であるということになります。</p>
<p>ただし、フッサールの場合は「<b>作用の志向性を救うために非実在的対象を心的存在に帰する必要はない</b>」とザハヴィはいう。</p>
<p>要するに、心的存在としても、物理的存在としても、いずれにせよ<b>存在しているかどうかに関わらず、志向性の分析は可能</b>という話。そもそも実在的存在か、非実在的存在かという区別が志向性分析にとって本質的ではなく、重要ではないという話(ただし解釈が分かれたり、フッサール中期以降で変化したりする)。</p>
<p>関係説にこだわって関係項としてペガサスを心の中の心的な対象として要請する必要はない。たとえばペガサスを想像する場合、まさにペガサスという対象に対して志向しているのであり、ペガサスを写し取った心的な対象物や、ペガサスという物理的対象物へ志向しているのではない。まさにペガサスへ向かって志向しているのであり、言葉で表現するのならば「超越的対象」へ向かって志向しているのである。ややこしいが、「ペガサス(超越的対象)」を[ペガサス]という意味を介して関係しているのであり、[ペガサス]という意味が対象というわけではない。AをBとして解釈したからといって、AがBなわけではない。志向的対象＝志向的内容ではない。今日のペガサスの表象と、明日のペガサスの表象、Cさんのペガサスの表象とDさんのペガサスの表象は異なってくるかもしれないが、同一のペガサスという超越的対象、志向的対象へと向かって志向している、ということはできる。</p>
<p>※<a href="https://souzouhou.com/2022/08/29/parmenides-1/">【基礎哲学第六回】パルメニデスの「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」</a></p>
<blockquote>
<p>「いわゆる『非実在的』対象が心の内部にも心の外部にも存在せず、そういうわけでまったく存在しないということが認められるならば、結果は、錯覚、空想、誤った知覚やそれに似たものは志向的ではないということなのか。答えは否である。フッサールが打ち出そうとしている論点はまさしく、当該の作用は作用の対象が存在するかどうかにかかわらず志向的であるということであり、そして、まさにそういうわけで、作用の志向性を救うために、『非実在的』対象を、ある種の心的存在(あるいはブレンターノの用語法を用いれば、『志向的非存在』)に帰する必要はないということである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」22-23P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc64">志向的内容</span></h2>
<h3><span id="toc65">志向的内容とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向的内容</strong></span>：</big>・経験がかかわるものを特定する成素のこと。端的に言えば「意味」である。「表象」や「意識内容」と表現されることもある。志向的質料、作用の質料とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>表象とは一般に、「何かを用いてあるものを表すこと」であるといわれている。例えば「apple」という言語表現は、[リンゴ]という内容を表象している。【火星に宇宙人が存在する】という判断は[火星に宇宙人が存在する]という内容を所有している。</p>
<p>もちろん「apple」という文字はただのインクのシミやチョークの粉の塊、偶然的な記号にすぎないが、[リンゴ]という「意味」をもっている。たとえば「リンゴ」も「ポム」も「アップフェル」も「メーラ」も[リンゴ]という意味をもっている。</p>
<p>「このリンゴ(言語)」は[このリンゴ(意味)]を表象し、[このリンゴ]は＜このリンゴ(対象&#x1f34e;)＞の表象であるといえる。言語記号は志向的内容を表象し、志向的対象は表象される対象である。ややこしい。</p>
<blockquote>
<p>「あらゆる志向的経験はまた、鹿の経験であれ、猫の経験であれ、数学的事態の経験であれ、何かに向けられており、何かにかかわっている。フッサールは、経験がかかわるものを特定する成素を経験の<strong>志向的質料</strong>と呼んだ。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,32P</p>
<p>「たとえば、＜火星に知的生命体が存在する＞という単なる表象をする者は、＜火星に知的生命体が存在する＞という判断を行ったり、＜火星に知的生命体が存在するか＞という疑問を投げかけたりする者と同一の内容を有している。そして、このような「作用体験がまったく別の性質をもつ作用と共通してもつ、具体的な作用体験の構成要素」が作用の質料と呼ばれる。」</p>
<p>宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」9P</p>
<p>「第一の志向的質料は作用質料とも呼ばれ、たとえば火星に知的生命体がいると表象しているのであれば、「火星に知的生命体がいる」というのが作用質料となる。」</p>
<p>満原健「志向的意識と場所的意識」164P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc66">志向的作用と志向的内容の違いとは</span></h3>
<p>１：作用も内容も、別の仕方で「対象」への関係のあり方を規定している</p>
<p>２：作用の場合は、「対象への関わり方(資格)」を規定している。あくまでも資格であり、「どの」対象が「何として」統握されるといった「指示関係」を確立しない。</p>
<p>３：内容の場合は、「特定の対象への関係」を規定している。作用は「内容」を介することによって、はじめて特定の対象と関わることができる。（１）「どの」対象が志向されるかを規定する。（２）「何として」統握されるのかを規定する。<b>内容こそが対象との指示関係を確立するのであり、端的に「志向性」という特性を可能にする要素</b>であるといえる。</p>
<p>４：ただし、作用も内容も独立して存在することのできない抽象的な要素であり、常に２つで１つである。そのため、両方セットで「<b>志向的本質</b>」と言われている。</p>
<blockquote>
<p>「私が先に述べたのは、志向的対象が何らかの神秘的な疑似実在的存在者ではまったくなく、志向される対象と端的に同一であるということである──しかし、志向的内容についてはどうか。すでに述べたように、意識の志向性は、外的影響によってではなく、経験そのものの中の内的契機によって引き起こされるのである。簡潔に述べれば、市区的内容こそが意識を志向的にするのであり、向けられているということを作用に与えるのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」32P</p>
<p>「作用の性質と作用の質料とは互いに独立して存在することのありえない抽象的成素ではあるけれども、それにもかかわらず、フッサールは質料を優先する傾向がある。彼によれば、まさに質料こそが対象に向けられているということを作用に与えるのであるが、それに対して性質は単にこの指示関係に資格を与えるにすぎない、つまり性質は指示関係を確立しないのである。時折、フッサールもまた作用の質料を作用の理念的な<strong>意義</strong>あるいは<strong>意味</strong>と称しているが、彼の論点はまさしく対象に関して何かを<strong>意味すること</strong>によって対象を志向するということである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」33P</p>
<p>「意義あるいは意味こそが対象に向けられているということを意識に与えるのである(そして、もちろんこの脈絡で対象について語ることは、必ずしも現実に存在する対象ではなく、ただし公的対象、すなわち志向される対象を明示する)。もっとはっきり言えば、質料はどの対象が志向されるのかを規定するだけでなくて、対象が<strong>何として</strong>統握されみなされるのかをも規定する。だから、通例志向的『関係』は概念化に依存するものとして語られる。単に対象を意識するのではなくて、つねに特定の仕方で対象を意識する。すなわち何かに志向的に向けられていることは、何かを何か<strong>として</strong>志向することである。対象を何か<strong>として</strong>、すなわちある一定の概念化、記述の下で、あるいは、ある一定のパースペクティブから志向する(知覚する、判断する、想像する)。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」33-34P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc67">名辞的作用とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>名辞的作用</strong></span>：</big>・一定の精確な意味で、対象的なものを表象する作用。「名指す」ともいい、「対象を指し示す」作用を意味する。『論理学研究』のフッサールは名辞的作用を作用の典型と見倣しているらしい。意味と対象的関係との区別のための最も明晰な事例であるともいう。</p>
</div>
<p>対象を指し示すような志向性を、フッサールは「名指す」という。<b>名辞的作用</b>ともいう。</p>
<p>たとえば「ワーテルローの敗者」は名辞的作用である。「近所のポチ」、「隣の田中さん」なども名辞的作用である。このような、いわゆる文章ではない単純な名辞を「単称名辞」という。明示的作用は個体を表わす概念である。個体である条件は、時間的位置や空間的位置をもっていることです。目の前に今いるポチや目の前にいたポチは時間的位置や空間的位置をもっているが、数字の１は両方をもっていない。</p>
<p>たとえば「dog」という言語記号は[犬]という意味をもっている。しかし、[犬]という意味は[犬というもの]というふうに、一般的・普遍的・理念的な意味である。</p>
<p>１：[犬というもの]は対象を指示しない<b>意味</b>である。</p>
<p>２：＜私の隣にいるポチ&#x1f415;＞は<b>対象</b>である。</p>
<p>３：「Pochi next to me」は[私の隣にいるポチ]という意味をもち、＜私の隣にいるポチ(&#x1f415;)＞という「対象」を指し示している。「dog」は[犬]という意味をもち、特定の対象を指し示していない。</p>
<p>４：対象を指し示す意味と、対象を指し示さない意味の二種類の意味がある。</p>
<p>したがって、表現という作用は「意味」を媒介にして「対象」を指し示すこともできる、といえる。</p>
<p>たとえば「round square」という言語記号は＜ポチ&#x1f415;＞のような実在的対象は指し示さないが、[丸い四角]という意味を指し示し、もっている。また、「犬というもの」のような理念的対象を指し示している、ともいうことができる。しかしペガサスはどうか、円い四角はどうか、という問題になると、<b>どの対象(存在)も指し示していないのではないか</b>、という問題が生じる(中立的変様としての中立的存在として存在が認められていない時期がフッサールにある)。</p>
<p>これは先ほどの無対象表象問題とつながる。しかし<b>「意味」はもっているので、判断や表現、信念が可能であり、実在的・理念的対象が対応しているかどうかは本質</b>ではない、ということもできる。いわば向かっていればいいのであり、向かう先に実際にある必要はない、とでもいうイメージ。幻覚でリンゴがないとしても、イデア的なリンゴというものがないにしても、それらにむかうことはできるというイメージ。</p>
<p>※たとえば机の上にペンがある、という判断ないし述定は、まず「X＝机」であるというような名辞的作用が前提となっています。つまり、述定は名辞的作用に基づけられるわけです。要するに、名辞的作用がなければ述定はできないよね、というわけです。ただし、これは『論理学研究』の時点の話であり、『意味論についての講義1908年夏学期』では話が違ってくるようです。たしかにあらゆる言語が名辞的作用から始まるとすれば、ほとんどの志向性は名辞的作用に基づけられるといってもいいのかもしれません。とはいえ、この問題は言語の志向性や心の志向性の問題とも関わり、ややこしくなりそうです。</p>
<blockquote>
<p>「まず、論理学における主役は言葉や言語である。『意味』をもつ言葉や言語(記号)は『表現』と呼ばれる。たとえば『アブラカタブラ』という言葉はそもそも『意味』をもたないから、『表現ではない』。しかし、『犬』という言葉(さしあたり音声記号あるいは文字記号)は、『犬』という意味を持つ。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」129P</p>
<p>「しかも、『意味』は、ポチやシロと呼ばれるような個々の『対象』ではなく、『犬というもの』と表記したほうがような、一般的・普遍的・理念的なものである。『意味』と『対象』も異なるのである。このような『意味をもつ』ということは、『意味する』とか『意味を指し示す』と言い換えられる。したがって、表現は意味をもつ＝意味する＝意味を指し示す、と言える。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」129P</p>
<p>「『宵の明星』という表現は『意味』をもつ。その『意味』は、いささか冗長に言い換えれば、『夕方の空に輝く明るい星』といったものだろう。『明けの明星』も同様に『意味』をもち、それは『朝方の空に輝く明るい星』といったものだろう。この両者の『意味』は、「夕方の……」と『朝方の……』だから、明らかに異なっている。しかしながら両者は同じ『対象』(金星)を指し示している。『イエナの勝者』と『ワーテルローの敗者』の場合も同様であり、両者は同じ『対象』(ナポレオン)を指し示している。このような関係をフッサールは『名指す』と言う。『名指す』とは、『対象を指し示す』ということである。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」130P</p>
<p>「多くの場合、表現は、その『意味』を突破して(媒介にして)『対象』を指し示す。『イエナの勝者』と『ワーテルローの敗者』という表現は、その『意味』を突破して(媒介にして)ナポレオンという『対象』を指し示す。このナポレオンという『対象』は実在的な対象だが、『対象』が理念的な対象や、空想対象のような中立的対象であっても、同様である。表現のなかには『意味』は指し示すが、『対象』を指し示さないものがある。だが、ここでは、『意味』を突破して(媒介にして)『対象』を指し示す表現が重要である。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」130P</p>
<p>「意味作用の志向性を考察する際,確かに,我々はまず第一に名辞的作用に目を向けるであろう。作用の対象的関係は,述定(例えば「イェーナの勝者は強い」)ではなく,名辞的作用(例えば「イェーナの勝者」)において,端的に分明になると思われるからである。実際,『論研』においてフッサールは例えば,「意味と対象的関係との区別のための最も明晰な事例」(ebd.,S.53)として名辞ないし名辞的作用を引き合いに出す。そしてフッサールは,述定と対比して,名辞的作用を「一定の精確な意味で,対象的なものを表象する」作用と捉える。『論研』のフッサールは,名辞的作用を,言わば作用の典型と見倣すのである。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,111P</p>
<p>「その上,精確な意味で対象を表象する作用として,名辞的作用は,他の作用の「究極的な基づけを行なうべき作用」でもある。『論研』においてフッサールは,作用の基づけ関係を考究する。それによれば,まず,願望や意志等々の「非客観化作用」は「客観化作用」に基づけられる(ebd.,S.519)。しかし更に,客観化作用同士の問でも,述定という作用は名辞的作用に基づけられるという関係が存するのである。述定という作用は,精確な意味で対象に関係する作用を,主語作用等として必要とする。従って,「全ての究極的に基づける客観化作用は名辞的作用である」(ebd.)と言われる。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,111P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc68">「現出学的意味概念」と「現象学的意味概念」</span></h3>
<p>『論理学研究』(1901)では「現出学的意味概念」のみだったが、『意味の理論についての講義』（1908）において「現象学的意味概念」を追加するようになり、<b>拡張</b>された。</p>
<p><b>現出学的意味概念</b>：スペチエス的意味</p>
<p><b>現象学的意味概念</b>：志向的対象そのものとしての意味</p>
<p>スペチエスとは「<b>最低種</b>」を意味し、個体とは区別される。「事象内容をもつ質料的な本質」とも呼ばれる。たとえば「一」や「二」は「事象内容」をもたないので、「<b>形式的な本質</b>」という。</p>
<p>例えば、「秋田犬」は最低種でありうるが、「犬」は最低種ではない。このように、意味は「<b>類</b>」と「<b>種</b>」という段階構造をもち、最低限度に普遍性をもっている意味を「<b>最低種(スペチエス)</b>」と表現している。</p>
<p>秋田犬、犬、哺乳類、生物というように普遍性の度合いが上がっていく。フッサールは最高類を「<b>領域</b>」と呼ぶ。「<b>物質的自然</b>」、「<b>生命的自然</b>」、「<b>精神世界</b>」の３つの領域があるとされる。</p>
<p>ここで重要なのは、近所のポチや近所の田中さん、総理大臣の岸田文雄さんは「個体」、つまり「志向的対象そのもの」であって「最低種」ではないということである。</p>
<p>アプリオリなグループが理念的、本質的、普遍的、必然的であるとすれば、アポステリオリなグループが実在的、事実的、個別的、偶然的であるといえる。しかしアプリオリであれアポステリオリであれ、それらは存在であるとされている。ただしペガサスや円い四角はどうか、というところで議論がわかれる。中立的存在として扱われていない時期には、端的に対象(存在)がない、とみなされる場合もあった。その後、中立的変様としてはある、という言い方をしたり、実在的・理念的対象があるかどうかは本質的ではなく、みな超越的対象である、という言い方をしたり、同一性判断のもとで対象は構成される、という言い方をするようになる。</p>
<p>現象学的意味概念の例は「ワーテルローの敗者」である。</p>
<p>「ワーテルローの敗者」も「イエナの勝者」も、＜ナポレオン&#x1f471;(言語記号ではない)＞という「対象」を指示している、名辞的作用である。「秋田犬(最低種)」はなにか特定の対象や個体を指示していないので、「現出学的意味概念」とは区別される。</p>
<p>「かわいいあの犬」、「私に吠えたあの犬」も、同じ対象&#x1f436;を指示している。時間位置や空間位置に関係するものは、現出学的意味概念になりうる。たとえば「今目の前にあるペン」、「そこにあったペン」は、普遍的な意味をもっていない。「ペンはリンゴではない」と判断する時、ペンは普遍的な意味をもっているが、特定の対象を指示していない。</p>
<blockquote>
<p>「我々はフッサールの意味概念から始めよう。フッサールは『論研』において,意味の心理学主義的解釈を拒否するために,意味と意味作用とを峻別する。すなわち,個々の意味作用の多様に対し,意味を意味作用の「スペチエス的spezifisch統一体」(ebd.,S.107)と捉えるのである。しかし,フッサールは,『意味論』において,この「『論研』が用いる意味の概念」(S.35)すなわち「現出学的phanologisch意味概念では済ますことができない」(S.84f,)ことを認める。そして,「志向的対象そのものintentionaler Gegenstand als solcher」(z.B.S.35f.,141)としての意味,つまり意味作用の相関者としての意味の概念を導入する。まさに意味作用の志向性を,つまりは意味作用との相関関係を顧慮するが故に,フッサールは,意味作用のスペチエスという現出学的意味概念とは別の,「意味の新たな概念」(S.38)すなわち「現象学的phanomenologisch意味概念」(S.38)を明確に導入することとなるのである」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,111-112P</p>
<p>「事象内容をもつ質料的な本質は、『類』と『種』の段階構造をもつ。『犬』を例に取れば、それの最低段階の『種』は『秋田県』といったものだろう。ただし、誤解されやすいが、最低種(フッサールは『スペチエス』と呼ぶ)は『個体』ではない。最低種は、あくまでも種であるから、最低限度の普遍性をもっており、この普遍性のうちにもろもろの個体を包摂している。つまり、秋田犬という最低種は、種として最低だが、それでも個体ではなく、そこにはシロやポチといったもろもろの個体が含まれるのである(このことがしばしば誤解される)。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,95~96P</p>
<p>「フッサールは最高類を『領域』と呼ぶ。領域は三つある。『物質的自然』、『生命的自然』、『精神世界』である。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,96P</p>
<p>「フッサールは『形式的なもの』と『質料的なもの』の区別を重視する。『一』や『二』は事象内容をもたない『形式的な本質』だが、『石』や『犬』は事象内容をもつ『質料的な本質』である。フッサールは、前者に関わる『形式存在論』(形式対象論)と対比的に、後者に関わる『領域存在論』を構想した。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,95P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc69">二重の対象性とは</span></h3>
<p>フッサール「ある意味で、我々は対象自体を思念するということが言われる。また、ある意味で、我々は意味を思念するということが言われる」</p>
<p>（１）「対象自体(<b>志向的対象</b>)」＝例えば＜ナポレオンその人&#x1f471;(言語記号ではない)＞</p>
<p>（２）「意味(<b>志向的内容</b>)」＝[ワーテルローの敗者]や[イエナの勝者]など</p>
<p>このように対象が２つあることを、「<b>二重の対象性</b>」という。意味は志向的対象ではない。<b>意味と対象は区別される</b>。志向的内容と志向的対象は区別されるのである。正義についてそれぞれ考え方が違ったり、１という数字についてはほとんど同じだったり、内容と対象の違いについては程度の差があるが、両者は同一ではない。</p>
<blockquote>
<p>「現象学的意味概念の導入により,今や「二重の対象性」(S.37)が我々に対峙することになる。例えば「イェーナの勝者」という名辞的作用においては,我々は一方でナポレオンすなわち通常の意味での対象(「対象自体Gegenstand schlechthin｣(S.45))を,他方で現象学的意味(「意味された対象性そのものbedeutete Gegenstandlichkeit als solche」(S.45))を思念するのである。フッサールによれば,「或る意味で,我々は対象自体を思念するということが言われる。また,或る意味で,我々は意味を思念するということが言われる」(S。48)のである。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」,112P</p>
<p>「同様に、主観的表象をあきらめて客観的表象、すなわち意味と対象を同一視することもできない。というのも、単なる無意味な語音の寄せ集めと違い、こうした無対象表象には理解可能な意味は存在しているからである。それゆえ、意味が存在する以上、存在しないとされている「対象」を意味と同一視することもまたできない。かくして、無対象表象と思われた表象の場合でさえ、表象そのものとも意味とも異なる第三項としての対象、「志向的対象」が存在しなければならないように思われるのである。亡霊の登場である。」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,63P</p>
<p>「意味と対象とは同一視されるべきではないということは、たぶん異なる作用が異なる作用質料をもつが、同じ対象をもつことができる場合から殊に明らかである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,34-35P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc70">どういう条件を満たせば存在といえるのか、対象といえるのか</span></h3>
<p>１：たとえば「リンゴ」という言語記号に付与されている[リンゴ]と言う意味は、なにか実在的な対象を示していない。いわば「リンゴというもの」のように、知覚できないものである。</p>
<p>２：しかし、[リンゴ]という意味は、理念的存在であり、理念的対象になりうる。</p>
<p>３：フッサールはイデア的対象や抽象的対象を含め、<b>我々が存在すると述べざるをえないところの対象は、すべて対象</b>とみなしている。</p>
<p>４：したがって、<b>[リンゴ](志向的内容)は＜リンゴ＞という志向的対象と関係をもつ、ということができる</b>。たとえばリンゴと言われてそれぞれ各人が思い浮かべる志向的内容は三者三様かもしれないが、なにか本質的な、リンゴそのもののような、志向的対象が理念的存在としてあるとされている※プラトンのイデアを思い出させる内容であり、そんなものがありえるのかとは思うが、しかし我々はたしかに三角形そのものがなんとなくあるのでは、とも思い、志向することはある。そもそもそれをいい出したら、意識の外部に「このリンゴ」があるというのも、そんなものがありえるのか、というレベルでは同じ次元であり、超越している。</p>
<p>５：<b>円い四角やペガサスという意味を通して、志向的対象へ関係するということができない</b>。なぜなら、「我々が存在すると述べることができない」からである。三角形そのものや目の前の三角形定規が存在すると我々は考えることがあるが、円い四角の存在を考えることはできるか。◯と▢を同時に表現することは可能か。矛盾していないか。実在的にも理念的にも存在していないものを、どのように存在として、対象として扱うことができるのか。</p>
<p>したがって、<b>実在的存在や理念的存在とは別の在り方の、志向的対象というものが要請される</b>。どうやって要請されるのか。同一性判断において、というのがフッサールの回答。同一性判断という概念によって、予めイデア的なリンゴや、虚構的存在のペガサスや円い四角がまず最初に志向的対象として存在している、という前提が必要なくなるというのがポイント。</p>
<blockquote>
<p>「存在ということで「レアールな」存在だけを、対象ということでレアールな対象だけを理解することに慣れた人にとっては、普遍的対象とかその存在というような言い方は、根本的にまちがっているように思われるであろう。それに反して、そのような言い方をまずはある判断の、すなわち数や命題や幾何学的形象などについて下された判断の妥当性に対する指標として単純に受け取り、そしてその上で、他の場合と同様この場合にも、それについて判断が下されるものに対しては、判断の妥当性の相関者として、「真に存在する対象」という名称が明証的な仕方で与えられなければならないのではないかと自問する人にとっては、ここには何の障害も見出されないであろう」</p>
<p>フッサール『論理学研究』,106P 第二版　※富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」孫引き69P</p>
<p>「存在(Existenz)という術語はしばしば、レアールな現実の内部での現存(Dasein)、存在という意味で使用される。ここでは原始的でより普遍的な存在概念が内容的に豊かにされていて、その外延がレアールな対象に狭められているのである。真理、命題、概念といったものもまた対象であり、それらについてもまったき本来的な意味において存在ということがいわれるのであるが、しかしそれはレアールな現実において見出されうるような何ものでもない。「Aがある(EsgibteinA)」という表現が意味と真理を要求するのと同じだけ、存在概念の領域も同じ広さに達するのである。」</p>
<p>Karl Schuhmann, “Husserls Abhandlung &#8220;Intentionale Gegenstände&#8221; Edition der ursprünglichenDruckfassung,” Brentano Studien 3 (1991), pp. 158　※富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」孫引き69P</p>
<p>「かくして、イデア的対象や抽象的対象を含め、我々が存在すると述べざるを得ないところの対象は、すべてその存在を認められる。これは何も無茶な主張でもなければ神秘的な主張でもない。6という自然数が確かに存在するのだと主張することは、それが偶数であり、完全数であり、3の倍数であり、といった判断の妥当性を説明するような相関者が存在するということであり、それらの諸性質を満たすものがあると述べているに過ぎない。算術的真理の要求していないような存在概念の他の含意、たとえばこの世界のどこかに空間的位置を占めていて移動すれば探し当てることができるとか、質料をもつとか触れることができるといったことには一切コミットする必要がない」</p>
<p>富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」,70P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc71">無対象表象問題に対する回答としての「同一性判断」</span></h3>
<p>・<b>同一性判断</b>(同一性述定)</p>
<p>判断は「SはPである」という形式の作用。</p>
<p>例えば、「イエナの勝者はワーテルローの敗者と同じである」という判断は、同一性判断と呼ばれる。</p>
<p>この同一性判断において、同一的なものと思念されるのは「現象学的意味」ではなく、「志向的対象」であるという。つまり、上の例でいえば＜ナポレオン(&#x1f471;)＞が思念されている。「近所の犬は私にさっき吠えた犬と同じである」という判断で私が今思い浮かべているのは、＜ポチ(&#x1f415;)＞である。「今目の前にあるペンとさっきここにあったペンは同じである」という判断で私が今思い浮かべているのは＜私のペン(&#x1f58a;)＞である。このようにして意味内容と対象が区別されていく。</p>
<p>１：まず志向的対象があって、それが同一性判断の内で同一的なものとして捉えるのではない</p>
<p>２：<b><span style="color: #0000ff;">まず同一性判断があり</span>、その後、同一的なものとして思念されるものが志向的対象</b>である</p>
<p>このように考えることによって、「ペガサス」や「現代のフランス国王」などの指示する実在的対象をもたない「意味(表象)」、いわゆる無対象表象の問題を解消しようとしたといわれている。まず対象があると考えると、なぜペガサスには対象がないのか、という困難に陥るが、まず判断がある、と考えると困難に陥らずに済む。とはいえ無対象表象の問題はいろいろと今でも議論されているようである（今回はこれ以上深く扱えない）。「馬に翼が生えた生物」と「メドゥーサの子」は同一である、という判断において、同一的なものとして思念される＜ペガサス(志向的対象)＞とでもいえばいいのだろうか(それが妥当かどうかは別として)。</p>
<blockquote>
<p>「すなわち,「意味が思念されるものであるならば,その場合,我々は如何にして,《イェーナの勝者はワーテルローの敗者と同じである》と言うことができようか」(S.48),と。この問いに対するフッサールの答えは,この「同一性述定」(S.61)の内では,双方の名辞的作用の現象学的意味ではなく,対象自体が同一的なものとして思念されるのである,というものとなろう(vgl.S.48,51)。同一性述定の内で同一的なものとして思念されるのは,対象自体に他ならない。現象学的意味はそれへの不可欠な「媒介Medium」(S。44)を成すのである。従って,我々は,上の同一性述定の内で,双方の異なった現象学的意味を思念することを通してのみ(vgl.S.48),対象自体を同一的なものとして思念するのである。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」112P</p>
<p>「上述の困難に逢着し,蓋しフッサールは事柄の把握の逆転を敢行する。すなわち,まず対象(対象自体)があってそれが同一性述定の内で同一的なものとして思念されると捉えるめではなく,逆に,そもそも同一性述定の内で同一的なものとして思念されるものが対象に他ならないと捉えるのであるく3)。フッサールはこのように,意味論の領域において,同一性述定を基礎に据え対象を根本的に捉え直す。つまりフッサールは,同一性述定という脈絡においてその脈絡を基にして,対象を説明するのである。すなわち,対象とは同一性述定の内で同一的と思念されるものである,と。今や我々にとって,対象とは,同一性述定の内で同一的と思念される「同一的な統一点」(S.72)としての対象以外の何ものでもないことになる。もはや対象自体は問題ではない。同一性述定の内で同一的と思念されるか否かということを超えていると見倣される対象自体は問題ではない。」</p>
<p>高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」112P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc72">志向的対象は我々が構成するものである</span></h4>
<p>ナポレオンという志向的対象がまずあるのではなく、「イエナの勝者はワーテルローの敗者と同じである」という同一性判断がまずあり、その後「ナポレオン」が思念される。<b>志向的対象は我々が構成する</b>ということになる。</p>
<p><b>作用がなければ我々は対象と関係をもてず、意味を媒介しなければ対象と関係をもてない</b>のである。まず対象がある、という発想があるという素朴な考えを一旦停止する。<b>「志向的本質」がなければ、対象と関係をもてない</b>。</p>
<p>こう考えていくと、極端に言えば対象は後からおまけでついてくるようなものであり、本質的ではないのではないか、という発想も出てくる。ただし、ザハヴィによれば、「作用を記述する際に志向的対象を考慮に入れないこと」は実際の志向性分析と両立不可能であり、フッサール自身が後にそうした扱いは誤りだと認め、訂正したそうだ。観念論と実在論の間で揺れ動き、どのようにそれらを超えていくかがフッサール理解では重要になっていく。</p>
<blockquote>
<p>「志向性の核心は何かを何か<strong>として</strong>解釈することからなるということが突き止められた。実際、フッサールは以下のように書いている。『我々に『意識』される対象は、箱の中にあるように意識の中に単純にあって、単にその中に見出し摑むことができるものではない。……対象は、対象的志向のもつ様々な形式において、われわれにとってあり、妥当するものとして、何よりもまず<strong>構成</strong>されるのである』」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,39P</p>
<p>「意義の中で対象への関係が構成される。したがって、意味を具えた表現を用いることと表現しつつ対象と関係すること(対象を表象すること)は、同じことである。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』　※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,孫引き33P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc73">「昨日会った友人と今日会った友人」が同じである保証はあるのか</span></h4>
<p>「昨日会った友人と今日会った友人」が同じである保証はあるのか。しかし我々は、どうやら同じ友人である、と考えている。「意味(志向的内容)」を媒介にして、「志向的対象」へと向かっている。意味が生じるためには「志向的作用」がなければならない。このように、作用、内容、対象の関係が説明されていく。</p>
<p>「意味」は「言語記号」を通してだけではなく、単なる「記号」の場合もありうる。たとえば今日見たあるサイコロの一面、昨日見たサイコロの一面がそれぞれ記号となり、同一のもの、つまり「同じサイコロ(志向的対象)」として構成されていく。現出を媒介にして、あるいは突破して、貫通して「現出者」を我々は見ている。したがって、我々が主題的に見ているのは「志向的対象」であるといえる。</p>
<p>※ただし知覚における意味付与過程は複雑なので、次回以降扱う。</p>
<h3><span id="toc74">表象とは</span></h3>
<p>１：志向性は「表象」という「対象との関係」によって可能になる、とフッサールは言う。「意味」や「志向的内容」と「表象」はほとんど同義である。たとえば「ワーテルローの敗者」は＜ナポレオン&#x1f471;＞の表象である。</p>
<p>２：表象は「対象との関係」である。どんな関係か。何を介して表象されるのか、という点が重要になってくる。</p>
<p>フッサールによれば、文字などの「<b>記号</b>」を介して表象されるか、「<b>呈示的内容</b>」を介して表象される関係だという。後者は「対象が<b>直感</b>される」場合だという。また、後者の場合はさらに「<b>知覚的射映(感覚内容)」</b>と「<b>想像的射映(ファンタスマ)</b>」にわかれるという。</p>
<blockquote>
<p>「フッサール現象学の展開に即して言えば、『論理学研究』（とくに「第二巻第五、第六研究」）において「志向性」の解明が試みられたが、それによると、志向性は「表象」という「対象への関係」によって可能になる。そして、その関係は、「統握された内容」のはたらきの点から言うと、「対象があれこれの記号を介して表象されるか、あるいは、あれこれの呈示的内容を介して表象される」関係であるとされている（LU.II/2,§27）。そして、前者は文字などの記号を介して対象が表象される場合であり、後者は対象が直観される場合であるが、後者はさらに、「知覚的射映perzeptive Abschattung」ないしは「想像的射映imaginative Abschattung」＊1を介すると言われている（LU.II/2,§14b）。つまり、対象の表象は、記号、感覚ないし想像における射映を媒介としてなされるのであり、ここからみても「感覚的所与」としての「射映」を一種の「媒体」とみることは、フッサールの考えに適ったことと言えよう。」</p>
<p>小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」3P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc75">言語記号とそれ以外の記号の大きな違い、直観的かどうか</span></h3>
<p>たとえば単なる語音や文字に「意義(意味)」を与えるといった名辞的作用や叙述などの「表現」は、「<b>表意的作用</b>」と呼ばれる。このような表意的作用は、知覚的作用や想像的作用と大きく異なる違いがある。</p>
<p>その違いは、「<b>直観的かどうか</b>」である。たとえば「リンゴ」という文字列は単なる偶然的な記号(代表象)である。たとえばアップル(英)でもいいし、アプフェル(独)でもいいし、アアアアア(適当)でもいい。つまり、appleという文字列は確かにリンゴという意味を媒介に対象を間接的に志向するけれども、<b>直観の助けなしに空虚に思念される</b>という。目の前に&#x1f34e;があり、その&#x1f34e;に意識が向かうケースが直観的であり、単なる文字列を見て&#x1f34e;に意識が向かうケースが非直観的だというのはなんとなくわかる。また、&#x1f34e;の絵を見た場合は完全に非直観的というわけではないが、知覚のように直観的ではないというのも理解できる。</p>
<blockquote>
<p>「ノートがなくて私が『ノートは青い』と判断する状況を、ノートがあって私がそれを見て『ノートは青い』と判断する状況を比較するならば、同じ性質と質料を具えた二つの判断する作用が扱われている。しかし、その二つの作用の間には重要な差異、志向的本質を超えた何かにかかわるに違いない差異が残っている。どちらの場合も、私は同一の対象──すなわちノート──についての判断をするが、最初の状況では、私は空虚な志向を、あるいはフッサールがそう言うように、単に<strong>表意的</strong>志向をもつのに対して、第二の状況では、私は<strong>直観的</strong>志向を、あるいは、もっとはっきり言えば、ノートが生々しく現前的(leibhaftig)で、それ自体で直観的に与えられる知覚的志向をもつのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」40-41P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc76">知覚は実在的対象そのものを与える</span></h4>
<p>この文章は簡単なようで、かなり難しい。例えば「私の机にあるノート」について語ることと、「私の机にあるノートの絵や写真」を見ることと、「私の机にあるノート」を直接見る場合、どれも同じ対象(志向的対象)へ、異なる志向的内容を通して向かっている。</p>
<p>しかし、最も直接的とはいえ、<b>知覚の場合も結局は「記号」を媒介にして志向的対象と接する</b>のであり、志向的対象そのものを十全的に捉えることはできない。例えばサイコロの一面はたしかに十全的に与えられているが、サイコロの一面を見ている時、他の側面を見てはいない。次回は知覚と記号の関係について説明する予定である。</p>
<blockquote>
<p>「さらにフッサールは、『[諸現出の]直観は、記号として、[現出者の]直観を現している』とも言う。この『記号』という言葉に注目していただきたい。典型的な記号である言語記号は、それが指し示す当のものとは似ておらず(たとえば『丸い』という言語記号そのものは丸くない)、両者のあいだには大きな差異がある。これに対して、諸現出は現出者と似ている。いや似ているなどというより、諸現出なしに現出者そのものが成り立たないのだから、諸現出と現出者は一体だと言ってもよいほどである。しかし、だからといって、諸現出の関係性は『同等性』とだというわけではなく、(『等しくない角』と『等しい角』のように)微妙な差異性も含んでいる。現出がこうした特殊な意味での『記号』であることを示すために、フッサールは、括弧付きの表現で(『記号』)と言ったりする。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」59P</p>
<p>「こうした『記号』によって媒介されているため、現出者の知覚は、厳密に直接的であありえない。直接経験における現出者の知覚が、じつは直接的ではないのである。では、現出者へのもっと直接的な関係があるのだろうか。幸か不幸か、現出者に対しては、これ以上に直接的な関係はありえない。知覚的な直接性は、(たとえば想起などに比べて)最も直接的でありながら、しかしそれでもなお、媒介された直接性なのである。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」59－60P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc77">基づけ関係の図</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>基づけ</strong></span>：</big>・XはYに基づけられているということは、XはYに条件付けられており、<span style="text-decoration: underline;">Yから独立に存在することができない</span>ということを意味する</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2872" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png" alt="" width="977" height="686" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1.png 977w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/fb9acfec407cd752052b9510fda53aa1-1-800x562.png 800w" sizes="(max-width: 977px) 100vw, 977px" /></a></p>
<p>※修正するかもしれません</p>
<p>対象への志向が直接的かどうかを順に並べていくと、<b>表意的作用が最低</b>で、<b>知覚的作用が最高</b>だという話。その中間に空想やら想像やら判断やらが存在する。</p>
<p>仮に同じ志向的対象や志向的内容をもっていたとしても、志向的作用が異なれば直接的か間接的か、充実的か虚的かといったような性質的な差異が生じるという点が重要。</p>
<p>「リンゴ」という文字列単体では空虚であり、&#x1f34e;という対象が間接的に思念されているだけである。したがって、そこに「感覚内容」はない。チョークの粉やインクの染みのように物理的な感覚は体験されているかもしれないが、その文字列が表象している&#x1f34e;の感覚は直接的に体験されていない。</p>
<p>小説を読んでいる時に、ありありと対象が間接的に表象されているように感じたとしても、目の前にあるのは意味が付与されている文字である。どんなリンゴが表象されるか、つまりどんな意味を通して対象へと関係するかは人それぞれ、国によって変わるかもしれない。たとえば緑のリンゴしか見たことがない、聞いたことがない人からすれば、緑色のリンゴが表象されるだろう。それに比較して、もし文字ではなく、目の前に黄色のリンゴがあれば、AさんもBさんも意味を直観することになる。文字を通した概念の場合は人によって誤差があるかもしれないが、目の前のリンゴに対する感覚は、文字よりは直接的であり、誤差がすくないといえる。</p>
<blockquote>
<p>「最後に登場する「包括的意識」とは、ふたつの表象A、Bを部分として持つ全体であり、あるものとあるものを「同じ「もの」として意識する意識である。この意識をフッサールは「同一化」とも呼ぶ。フッサールのメレオロジー的な語彙用いるなら、この箇所で述べられているのは「AとBは同じものだ」という判断が下されるときAの表象との表B象は同一化を「基づける」ことである(フッサールの基づけ概念については『論研』第三研究を参照)。」</p>
<p>綿引 周「１９０８年『意味の理論についての講義』無対象表象の問題に対するフッサールの応答について」,6P</p>
<p>「上記のことを考えれば、フッサールが言語的志向を知覚的志向よりも原初的ではなく根本的でもないと捉えていることは明らかなはずである。専門用語を用いて言えば、言語的志向は<strong>基づけられた</strong>志向である。XはYに基づけられているということは、Xが単純にYから導出することができる、あるいはYに還元することができるということを意味するのではなく、単にXはYに条件付けられており、Yから独立に存在することができないということを意味するのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」42P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc78">作用と質料の区別</span></h3>
<p>Qなぜ「充実」や「直観」の話をするのか</p>
<p>A「作用」と「質料」を区別する必要があることを示すため</p>
<p>１：志向的作用は、<b>対象に適格に向けられていることを可能とする</b></p>
<p>２：志向的内容(志向的質料)は、<b>どのように対象が与えられるかを規定する</b>。</p>
<blockquote>
<p>「この観点から見ると、対象に(適格に)向けられていることを可能にする作用の部分、つまり志向的本質と、どのように対象が与えられるかを規定する作用の部分とを区別することが必要であることが立証される。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」41P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc79">志向的内容の中ではじめて対象への関係が構成される</span></h4>
<p>なかなか抽象的でむずかしい。</p>
<p>たとえば「隣の部屋のリンゴ」という文字列(言語記号)を見て、隣の部屋のリンゴ&#x1f34e;(志向的対象)へと間接的に志向するとする。しかし何か「媒介」されないと対象へと志向することはできない。<b>「志向的内容(意味、意義)」の中ではじめて対象への関係が構成される</b>。</p>
<p>たとえば隣の部屋のリンゴを一度も見たことがない場合は、想起ではなく、「想像作用」を通す必要があるかもしれない。私は「赤く、丸く、ヘタがあって、コブシサイズのリンゴ」を想像するかもしれない。しかし友人A「緑で丸いリンゴ」を想像するかもしれない。同じ対象であるとしても、違った内容を通して志向される。あるいは、友人Cはそんなリンゴは存在するか疑わしい、というような違う作用を選択するかもしれない。私は隣の部屋に実際に行き、リンゴを知覚し、「赤くて半分しか残っていないリンゴ」を見ることによって、単なる空虚的な志向から、充実的な志向へと変わる。しかし、リンゴの表面しか見ることができず、その裏面を見ることはできないのだから、結局、不十全的に知覚するに過ぎない(外的知覚)。</p>
<p>想像も疑いも知覚も、同じ志向的対象(&#x1f34e;)へ向かっているのであり、その向かい方、「所与の仕方」が空虚的か充実的か、非直観的か直観的かで変わっている。</p>
<p>「単に志向されたもの」と「実在的対象」は確かに差異があるが、しかし「同一」のものとして志向されるのである。</p>
<p>ザハヴィ「ノートについて語ること、ノートの写真を見ること、ノートに書くことは、三つの異なるノートに直面することではなく、三つの異なる仕方で与えられた同じノートに直面することである。たとえ空虚な表意的志向と直観とが同じ志向的本質をもっていようとも、後者は対象の直観的充実を加えるのである。作用の性質と質料とは別に、充実もまた志向性の重要な部分である。充実は直観的作用においては現前しており、表意的作用においては不在である。」</p>
<p>宇宙に火星人がいると表現をしたところで、実際に火星人を見ない限りは充実されない、ということもできる。ただし１＋１＝２であるというような判断の充実はすこし複雑であり、カテゴリー直観が必要になる。ただし、カテゴリー直観も感覚的な直観に基づいている。</p>
<blockquote>
<p>「意義の中で対象への関係が構成される。したがって、意味を具えた表現を用いることと表現しつつ対象と関係すること(対象を表象すること)は、同じことである。」</p>
<p>フッサール『論理学研究』　※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,孫引き33P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc80">最も直接的な対象の与えられ方であっても、「意味(志向的内容)」を媒介としている</span></h4>
<p>まだまだわかりにくいかもしれない。</p>
<p>たとえば「アブラカダブラ」という文字列を見て、なんらかの「志向的対象」へ向かうのはむずかしい。なんら直観的に対象が与えられず、また間接的に何か対象を指示することもない。「意味」を構成することが難しく、「対象」をリンクさせることができない。</p>
<p>「机の上にあるコップ」という文字列をみれば、なんらかの「志向的対象」へと向かうことができる。即座に私は部屋にあるコップを思い出し、意味を通して対象へと向かう。直観的に対象は与えられないかもしれないが、しかし間接的に「目の前にあるコップ」を指示している。</p>
<p>今目の前にあるキーボードを見れば、すぐに直観的に、直接的に対象が与えられる。ただしその<b>最も直接的な対象の与えられ方であっても、「意味(志向的内容)」を媒介としている</b>。</p>
<p>まだまだ具体例が必要である。</p>
<p>ザハヴィは知覚を表意的作用よりも根本的であるとフッサールが捉えていたという。つまり、言語的志向は知覚的志向に基づけられているのである。</p>
<p>ザハヴィは「たとえある人が『深紅色』、『緋色』、『朱色』のような語句を知っていようとも、その人が盲目であり、それゆえこれらの色を見ることができないならば、それらの入り組んだ概念についての適切な認識を欠いているだろう」という。</p>
<p>たしかにそうかもしれない。私は緋色と朱色の違いがわからない。しかしネットで調べれば、こういう色なのか、と「知覚」することで「充実」させ、適切な認識へと到ることができるのかもしれない。しかし調べる前は、緋色と朱色という志向的対象へと適切な意味を通して向かうことは難しそうだ。</p>
<h3><span id="toc81">充実と直観、真理について</span></h3>
<p>「表意的志向」が「<b>充実</b>」するためには「<b>直観</b>」が必要である。つまり、「充実」するためには「知覚」や「想像」などが重要になってくる。</p>
<p>１：判断「隣の部屋に白色のペンがある」(存在論的な条件を満たす)</p>
<p>２：知覚「(隣の部屋に行って)白色のペンがあるのを見る」(認識論的な条件を満たす)</p>
<p>３：判断は知覚によって「充実」される。このように、「単なる志向」と「志向＋充実」に分けることができる。ただしこうした条件を充たす「度合い」、つまり明証性の程度の問題となると、すこし複雑になる。</p>
<p>フッサールは真理を「<b>思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致</b>」と表現している。</p>
<p>たとえば「言語的判断の意味」と「知覚された事態」が一致すれば、真理であるということができる。ただし、明証は「<b>感性的直観</b>」だけではなく、「<b>悟性的直観</b>」による明証もある(カテゴリー的直観、たとえば本質や数学的真理を洞察するなど)。他にも、たとえば知覚は「<b>原的な明証</b>」であり、想起は「<b>派生的な明証</b>」であるというような区別がある。他にも、「<b>実然的明証</b>」と「<b>当必然的明証</b>」の区別もある。前者は「現実に起こっていること」であり、後者は「必ず起こらねばならないこと」である。たとえばこのバラは赤いというのは実然的であり、赤いものは延長をもつというのは当必然的である。「<b>明証</b>」とは、命題が充実されているということである。</p>
<p>「目の前にペンがある」という言語的判断(「判断」は知覚ではない)と、実際に目の前にペンがあるという事態を見た場合(「見る」は知覚である)、認識が成立し、真理となる。ただし暗いところでみれば明証性の低い体験であり、明るいところでみれば明証性の高い体験であり、意識が朦朧としていれば明証性の低い体験である。<b>明証性が高い体験ほど、真理と呼ばれる条件を満たす</b>。</p>
<p>ただし、フッサールにおける真理とは「唯一絶対」という意味ではなく、「<b>共通理解が可能な意味</b>(誰もが納得するような普遍的・本質的な意味)」だという。みんなでリンゴの本質とはなにか、正義の本質とはなにか、愛の本質とはなにか、というように共通理解を目指して議論することも重要になってくるのかもしれない。</p>
<p>谷徹さんはフッサールの哲学を、「複数の自分自身で考える人たちが『ともに哲学する』ときにこそ、事象そのものに真に接近することも可能になる」と説明している。孤独であるが、しかし他者も同時に必要としている。フッサールの「あなたと私が現象学だ」というハイデガーに対して言ったセリフがあるそうだ。</p>
<blockquote>
<p>「&#8230;&#8230;フッサール自身の定義を引けば、真理とは『思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致』である。この『思念されているもの』はたとえば『言語(的判断)の意味』と言い換えることができるし、『与えられているものそれ自体』は、『知覚された事態』などと言い換えることができる。もっと具体的に言えば、『千鳥ヶ淵に桜が咲いている』という『言語(的判断)の意味』と、それに対応する知覚的な『事態』(千鳥ヶ淵に桜が咲いているという事態)との関係である。この両者が一致しているならば、その一致が真理である。もちろん、一致しないこともありうる。現在の『事実』として、千鳥ヶ淵に桜が咲いていないということは、十分にありうる(その場合には『千鳥ヶ淵に桜が咲いていない』が真理であり、『千鳥がぶちに桜が咲いている』は誤謬である)。さて、この両者の一致は『明証性において体験される』とフッサールは言う。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,105-106P</p>
<p>「○「感性的」直観による明証と「悟性的」直観によ前者は、感覚与件を伴う知覚想起等により「見る」働きによる明証であり、後者は、本質・数学的真理を「洞察」する働きによる明証である。○「原的」明証と「派生的」明証前者は、根元的な「なま」の明証(例えば、知覚の際、定理の証明を遂行する際)であり、後者は、想起されたものの明証(例えば、記憶の際、定理を思い出して適用する際)である。○「実然的」明証と「必当然的」明証一前者は、個々の事物に関する明証(例えば、「このバラは赤「い」について)であり、後者は、本質に関する明証(例えば、「赤いものは延長を有つ」について)である。○「十全的」明証と「不十全的」明証一前者は、対象が有する諸規定の全体に関する明証(例えば、「三角形」の諸規定に関して)であり、後者は、対象が有する諸規定中の部分的な明証(例えば、「このバラ」の諸規定に関して)である。本質認識においては、十全的な明証が可能だが、事物認識においては、現実には常に不十全的な明証にとどまり、十全的な明証は、あくまでも理念であり続ける。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,19P</p>
<p>「個別的な経験における意味は、それに類する経験においても共通に成り立つかどうかを吟味することで、誰もが認め得るような普遍的な本質を取り出すことができるのだ。ポストモダンなどの現代思想は、『現象学は真理があることを前提にしている』という批判をおこなっているが、フッサールの言う本質とは『誰もが共通して認める意味』のことであり、唯一絶対の真理を意味するわけではない。たとえば『正義』の本質とは何かと問われても、絶対に正しい唯一の意味(＝真理)があるわけではない。『正義』という言葉は、数多くの人々がさまざまな状況で使ってきており、その意味にはある程度のばらつきがあるとしても、その中核には必ず他者と共通了解できるような意味がある。そうでなければ、そもそも『正義』という言葉は多くの人が共有し、了解しあうことなどできないはずだ。『自由』や『記憶』『不安』『正義』などのように、誰もがあたり前なものとして使っている言葉、それでいて他者と微妙なズレを含んだ概念には、誰にとっても成り立つような普遍的な本質、共通了解できる意味が存在する。それは適切な思考を用いれば、必ず取り出せるのである。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」112-113P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc82">ノエシス・ノエマ構造</span></h2>
<h3><span id="toc83">意味と意義の違いとは</span></h3>
<p>１：『論理学研究』において「意義」と「意味」は区別されていない</p>
<p>２：『イデーンⅠ』において、意義を狭義に「<b>言語的意味</b>」として扱い、意味を「言語的意味」に加えて「<b>先述定的意味</b>」と「<b>知覚的意味</b>」を合わせた包括的な概念として扱っている。</p>
<p>３：意味の理解のためには、『イデーンⅠ』以降の「ノエシス-ノエマ構造」を理解する必要がある。</p>
<p style="padding-left: 40px;">追記(2024/02/16):意味と意義についての詳細な説明は以下の記事の「【修正】追記:「知覚的意味」とはいったいなにか､私がよく理解していない問題」を参照｡<a href="https://souzouhou.com/2024/02/11/husserl-4/">【応用哲学第四回】フッサールの現象学における「知覚の代表象理論」とはなにか</a></p>
<blockquote>
<p>「『論理学研究』において、フッサールは、意義(meaning/Bedeutung)といい(sense/Sinn)をまだ区別していなかったが、後に、意義(Bedeutung)を狭く言語的意味(meaning)として理解し、意味(Sinn)を先述定的意味(meaning)と知覚的意味(meaning)とを含む一層包括的な概念として理解したのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」222P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc84">ノエシスとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ノエシス</strong></span>：</big>・「意識作用」とも呼ばれ、対象を志向する意識の作用を広く指す言葉。広義で「観ること」を意味する、意識の能動的な作用。「何であるか」を規定する意識の作用とも呼ばれる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>統握(Auffassung)</strong></span>：</big>・志向している対象に対して、それが「何であるか」ということを把握する意識の働き。この差異対象に与えられる規定が「意味の核(ノエマ的意味)」であるという。ノエシスの作用のひとつ。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>定立(Setzung/Thesis)</strong></span>：</big>・存在するものとして立てる、置くという作用。統握されたノエマ的意味に、存在に関する契機を付け加えること。ノエシスの作用のひとつ。ノエマ的意味に存在様相が加わったノエマを命題(Satz)という。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>直観(Anschauung)</strong></span>：</big>・「何であるか」と存在様相とが共に規定された「命題」を「真なるもの」として充実させるように働く意識の作用のこと。ノエシスの作用のひとつ。</p>
</div>
<p><b>作用は統握、定立、直観という３通りの要素に分かれる</b>。「何」であるかという意味の「核」にあたる要素に関連するのが統握であり、定立は存在の確実さの程度に関連し、直観は充実性の程度に関連する。統握された「何」に、存在する、存在するかもしれない、存在するだろうといった様相を与えていく(設定立、肯定・否定、中立化などさまざまな分類がある)。要するに、対象化され意味付与され、存在するものとして認められ、そしてそれが直観的に充実されていれば、真理であるといえるという話。そうして満たされているものは「<b>全きのノエマ</b>」などと呼ばれる。</p>
<blockquote>
<p>「先に知覚のくノエシスーノエマ&gt;構造を見た際に、ノエシスについて、「意味を形成・付与する」作用として説明し、その形成された「意味」がノエマであると説明した。しかし、そこでのくノエシスーノエマ&gt;は、志向性の或る一つの面を示したものに過ぎない。フッサールは、意識の志向性が、三通りの基本的な要素から成る、とする。これをノェシスの方からみれば、「統握」・「定立」・「直観」である。ノエシスの各要素に対して、ノエマの各要素が対応する。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,16P</p>
<p>「我らが室蘭工大の正門を入ったところには何本かの木が――――での問題なのだがだと分かること自体が実はここ「木」そのう植えられている。ちの或る一本を知覚している場合を例にとってみよう。視覚には、立派に枝を張った――「枝」という言葉も本当はまだ使わないほうがよいのだが-この物体の形&gt;が見えている。この感覚に与えられている内容が、「ヒュレー」hyle(素材・質料)とフッサールが呼ぶものである。しかしそれだけでは認識にならず、このヒュレーは、意識に積極的に取り上げられなければならない。この役割を果すのが、「ノエシス」Noesis(広義で「観ること」)と呼ばれる意識の能動的な作用である。意識は、このヒュレーを「生気づけ」beseelenて─言わば命を吹き込んでそれを対象、として構成すると同時に、それが「木である」という「意味」を、この対象に与える。このように感覚与件から対象を構成しそれが「何であるか」を規定する意識の作用、それがここで言う「ノエシス」である。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,14P</p>
<p>「「統握」Auffassungとは、志向している対象に対して、それが「何であるか」ということを把握する意識の働きであり、それによって対象に与えられる規定が、「意味の核」としての「ノエマ的意味」である。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,16P</p>
<p>「ノエシスというのは、対象を志向する意識の作用を広く指す語であって、いままで見てきたような「意味」を形成・付与する「統握」だけを指すものではない。これから見る「定立」という作用も、ノエシスの重要な作用である。「定立」Setzung/Thesisとは、存在するものとして「立てる」「置く」という作用である。統握されたノエマ的意味に、「存在」に関する契機を付け加えることである。意識は、様々の様相においてこれを行なう。ノエマの方も、単に「何であるか」だけではなく、それが「存在する」とか「存在するかも知れない」とかいった存在様相が付け加わった形で形成されてくる。ノエマ的意味にそれの存在様相が加わったノエマを「命題」Satzと言うのは、「定立されたgesetzt意味」ということを表現したものであろう。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,17P</p>
<p>「第三の成素である「直観」Anschauungというのは、&lt;何であるか&gt;と存在様相とが共に規定された「命題」を、「真」なるものとして充実させるように働く意識の作用である。これによって、ノエマの方には「明証性」が現われてきて、直観による充実の強さに応じて、明証性の程度も規定されることになる。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,17P</p>
<p>「「命題」が「直観」による充実を受けて明証の程度を具えるようになったノエマを、「全きノエマ」という。それは、意識作用が規定し得る限りの形式を規定し尽くした対象である。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,17P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc85">「志向されるがままの対象」と「志向される対象」の違いとは</span></h3>
<h4><span id="toc86">定義</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向される対象</strong></span>：</big>・自然的態度において、対象が何気なく見られる際に現出したもの。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向されるがままの対象</strong></span>：</big>・現象学的反省において、対象が最良の周囲状況の下で、洗練された学問的探究に照らして現出したもの。作用や内容、感覚などを含めて探究され、現れた対象である。</p>
</div>
<p>POINT：『論理学研究』における「志向的対象」は単なる「志向される対象」だったといえる。なぜなら、超越論的還元という手法が確立されていなかったからである。</p>
<h4><span id="toc87">2つの相違</span></h4>
<p>１：ノエマを理解するためには、まず「<b>志向されるがままの対象</b>」と「<b>志向される対象</b>」の相違を理解する必要がある。</p>
<p>２：「志向される対象」の単なる表面的な分析は心理学に近いが、「志向されるがままの対象」は超越論的現象学によってのみ、解明可能であるという。つまり、エポケーや超越論的還元をすることによってのみ、「志向されるがままの対象」は明らかになるのである。いったいどういうことなのか。</p>
<p>３：私達が自然的態度において、日常生活において主題的に意識するのは対象化された物であり、「<b>志向された対象</b>」である。</p>
<p>例えばサイコロを見る場合、まさにサイコロ(客体)が意識の主題であり、「サイコロを見ている」という「志向的作用」や、[サイコロ]という「志向的内容」は意識の主題ではない。例えば日常生活において、サイコロの1面しか見えてないのにサイコロの全ての面を突破して志向的対象としてなぜか捉えることができているぞ！というように作用の過程を把握することはない。</p>
<p>志向される対象は、部分的、パースペクティブ的(それぞれの時間、それぞれの位置から)、不十全的に与えられ、そして突破される必要がある。たとえばサイコロの１面しか与えられてないけれども、他の面を含めて我々は突破して、貫通して見ることができ、また貫通された(志向された)対象を我々は主題的に見ている。どうやったら作用や意味を主題的に捉えることが可能なのか。</p>
<p>４：超越論的還元によって、自然的態度を一旦停止し、主観的な領域を主題化することによってのみ、志向的作用や志向的内容を捉えることができる。</p>
<p>いわゆる自分の知覚作用を知覚することを「<b>内的知覚</b>」という。この内的知覚によって対象化されるものは「<b>内在的対象</b>」と呼ばれ、十全的に、自己呈示的に、それ自体として与えられるという。先ほどの不十全的な知覚は「外的知覚(超越的知覚)」と呼ばれる。要するに、内的知覚は特定の観点からみれば違ったものが現れるというようなサイコロを見るイメージではなく、常に全面がまるごと与えられているようなイメージ(物理的な側面だけではなく、主観的な側面も含めて)。そして内的知覚は超越的還元によって、現象学的反省によって可能になるという話。</p>
<p>ざっくりしたイメージで言えば、自我に対してさらに自我がまなざしを向けるという話。超越論的自我などとも呼ばれる。超越論的自我にさらなるまなざしを向ける自我が必要になり、無限に続くのではないか・・というややこしい話は今はおいておく。</p>
<h4><span id="toc88">整理</span></h4>
<p>１：『イデーンⅠ』以前は、実的内容と志向的内容(ないし超越的相関体)という二分の区別があった</p>
<p>２：『イデーンⅠ』以後は、(1)実的内容が感性的質料(ヒュレー)と呼ばれるようになった。(2)志向的に内在的な作用がノエシスと呼ばれるようになった。(３)志向的に超越的な作用がノエマと呼ばれるようになった。</p>
<p>３：ヒュレーは志向的作用、志向的内容、志向的対象のいずれでもない。志向的作用はノエシスといってもいい。</p>
<p>４：志向的内容がノエマなのか、志向的対象がノエマなのか、あるいは他の解釈があるのか、いろいろと闘いがある。フッサール自身も、曖昧に使っている面がある。</p>
<p>※Q作用に内在的とはいったいどういう意味なのか</p>
<p>二宮さんによれば、「意識が為す志向の内に存在する」ということらしい。イメージでは、自然的態度においては主題とならないような、ほとんど意識されないようなものである。たとえばサイコロを見ているときは、まさにサイコロ(志向的対象)を見ているのであって、「サイコロを見ている」という作用は意識の主題ではない。</p>
<p>※Q「成素」とはどいういう意味なのか</p>
<p>わからない。要素ではだめなのか。英語ではElementらしい。</p>
<blockquote>
<p>「『イデーンⅠ』においてフッサールはこの立場をとり続けているが、いまや新しい用語法を用いるのである。実際、彼は次のように述べている。意識の流れは二つの異なる成素を含んでいる。(１)視覚的感覚であれ、触覚的感覚であれ、痛み、吐き気等の感覚であれ、非志向的感性内容のレヴェル。フッサールは感性的質料(ヒュレー)あるいは端的にヒュレー的質料について語っている。(２)生化するあるいは意味を与える成素という志向的次元。フッサールは志向的形式(モルフェー)について語っているが、また、そしてもっと多くノエシスあるいはノエシス的成素についても語っている。これらの成素の両方が作用に内在的であるのに対して、超越的な、構成された相関体はいまやノエマと呼ばれる。このノエマはしばしば志向されるがままの対象と同一視される。決定的で論議される問題の一つは、志向されるがままの対象と志向される対象との関係を特定することだった。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,87P</p>
<p>「「ノエマは意識に実的に属さない」という『イデーン』におけるフッサールの言明は、「ノエマは、単に意識に実的に属するに留まるものではない」という意味に取るべきであろう。「意識に志向的に内在する」とは、&lt;意識が為す志向の内に存在する&gt;ということであり、別の言い方をすれば、ノエシスに相関する他方の契機として意識に対して存在するということである。ノエマのこの存在性は、そのつどの個々の意識の流れに付着する「実的」という性格を超えるものを有つ。ノエマは、その都度の意識からは独立して、同一の存在を保つことになるのである。私によって形成される「木」という&lt;意味&gt;は、それを形成した私の作用への依存を脱して存在する。私はいつでもそれを志向し得るし、それのみならず、誰でもがそれを志向し得るのである。」</p>
<p>二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」,14P</p>
<p>「知覚が十全的でありうるのは、「生身のありありした有様で」対象が把握されている場合、つまり内的（内在的）知覚の場合にほかならない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」」,180P</p>
<p>「十全的な知覚としての内在的知覚に対して、三次元物体や外的世界を知覚する「外的（超越的）知覚」は、内的（内在的）知覚の否定として定義づけられる。フッサールによれば、外的（超越的）知覚とは、知覚作用と知覚対象とのあいだに密接不可分な結合が生じていない「志向的体験」（III-1/78）のひとつにほかならない。そして、外的（超越的）知覚の具体例が、「物知覚」である。物知覚では、知覚そのものの対象が体験のうちに実的に含まれておらず、「その物が本質的な統一などを一切なさずに成り立つ」（ibid./79）。それゆえ、物とは知覚に対して、「外的」に「超越」として存在している。そのため、（三次元的な）物は私たちの知覚にとって一面的にしか現出（erscheinen）せず、つねに射影によって部分的にしか自らを呈示しない。」</p>
<p>森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」」,181P</p>
<p>「<strong>あらゆる</strong>知覚は、それ自身の対象を、生身のありありとした有様で（leibhaft）自己性の内に現在する（gegenwärtig）ものとして把握する志向によって特徴づけられている。知覚がこの志向に完璧な形で対応するのは、対象が知覚自身のうちに実際に、そしてもっとも厳密な意味で「生身のありありした有様で」現在し、しかもその対象がそのままのものとして、余なく把握されているときであり、したがって、知覚作用そのものの内に、実的（reel）に含まれているときである。そのとき、その知覚は十全的である」</p>
<p>フッサール『論理学研究』,354-355P ※森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」」孫引き179P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc89">超越論的主観性とは</span></h3>
<p>現出する対象だけではなく、どのように現出しているのか、その過程や条件を含めて理解することが重要になる。<b>物理学的対象(実在的存在、客観的存在)が本当に何であるかを理解するためには、対象を経験する「主観性」に向かわなければいけない</b>とフッサールは考える。そのための方法、手段として、超越論的還元やエポケーがある。<b>主観性の領域(超越論的主観性、直接経験の領野)でだけ、対象は自らをあるがままに示す</b>という。</p>
<p>主観性は現出の可能性の条件であり、主観性なしに現出はありえないという。たとえば極端に言えば産まれたばかりの赤ちゃんは「何か」を見ることはできない。主観性が発達しているからこそ、「何か」が在るというような実在的存在が現れてくる。</p>
<p>※外的知覚においては、自己呈示的に、全体性において与えられることはない。内的知覚においてはじめて、自己呈示的に、全体性において与えられる。ただし、外的知覚の際も、内容や作用、実的内容等も「体験」はされている。しかし「経験」はされていないといえる。あるいは主題的に意識されていない。しかし非主題的には意識されている。</p>
<h4><span id="toc90">補足</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越論的主観性</strong></span>：</big>・「純粋意識」とも呼ばれる。エポケーなどの超越的還元を通して、「意識に現れた現象」のみが現れてくるようになり、このときの光景を「超越的主観性」という。いわば、理論や知識などのフィルターをとりはずし、現象や事象、直接経験そのものに戻ったときの光景のことである。別言すれば、マッハ的光景のようなもの。実体的なものではない。</p>
</div>
<p>「<b>事象そのものへ</b>」というフレーズのように、自明性を疑い、一旦現象そのものを抽出することが超越論的還元。見えたままのマッハ的光景まで自覚的に戻り、そこから超越的光景へとどのように構成していくのかを考える試み。</p>
<p>難しい言い方をすれば、<b>純粋意識</b>(<b>超越論的主観性</b>)への超越論的還元という言い方をしている。超越的主観性とは、還元された「<b>光景</b>」のこと。物や実体、形而上学的な土台ではなく、光景であり、直接経験の領野であり、マッハ的光景である。ここでいう主観性とは、<b>客観性を構成していく働きを含んでいる</b>という。ここがすこしややこしい。マッハ的光景から超越的なものが、別の言い方をすれば存在から超越が構成されるわけであり、素朴な見方をすれば「超越論的客観性」とでも表現したほうがわかりやすそうだ。しかし、フッサールは、マッハ的光景のなかでこそ、主観のなかでこそ超越的なものが構成されるので、超越論的主観性と呼ぶ。</p>
<p>フッサール「(超越論的主観性において)主観がさまざまな仕方で経験しうるすべてのものの存在が、構成されてくる、すなわち、最広義での超越的なものが、構成されてくる。それゆえに、これは超越論的主観性と呼ばれる。」</p>
<blockquote>
<p>「『イデーンⅠ』で、フッサールは空間時間的対象が意識に与えられる仕方と、意識が意識自体に与えられる仕方に明らかな差異があるということを指摘している。対象がパースペクティヴ的に現出する──けっして全体性において与えられずつねにある一定の限界づけられた射影において与えられる──のに対して、このことは意識の自己現出には妥当しない。対象がパースペクティヴ的、部分的、不十全的に与えられるのに対して、そして、対象全体の近似的呈示をえるために、諸々の射影連続の全体を踏破することが必要であるのに対して、体験自体は無媒介的に全体性において現出する。フッサールにとって、主観性の現出と対象の現出とのこの根底的な差異は、現象学的に語れば、主観性とどの対象の間にも決定的差異があるということを立証している。それゆえフッサールはこう論じる。単に意識を世界の中のさらに別の対象と観る意識の自然主義的探究を、意識をそれ独自の仕方で、すなわち１人称のパースペクティヴから探究しようとする探究で補完することが必要である、と。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,72P</p>
<p>「すでに述べたように、超越論的主観は、現出、現象性、顕現の条件と考えられる主観である。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,73P</p>
<p>「例によってフッサールは対象を精確に与えられるがままに探究することに関心があった。しかしながら、現象学の仕事はここで止まるのではない。<strong>超越論的</strong>現象学に特有で独特の問いは次のものである。何が現出そのものの可能性の条件なのか。現象学が現出の可能性の条件そのものを開示しようとする限りで、現象学的反省を心理学的内省と同等とみなすことはできず、現象学全体が心理学に脅かされ、置き換えられ、批判されることがあると主張することもできないということは明らかなはずである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,82P</p>
<p>「まず、『超越論的主観性』(還元された光景)はなぜ『超越論的』なのか。右で述べたように、『超越論的』は、マッハ的光景の中で存在＝超越を学問的に問うときに登場する。そして、このとき、この光景のなかで対象の『存在＝超越』が『構成されてくる』ことが判明する。それゆえ(微妙な言語拡張によって)、『存在＝超越』がそこで構成される当のものも『超越論的』と呼ばれるだろう。フッサール自身はこう述べている。『これ[超越論的主観性]において、主観が様々な仕方で経験しうるすべてのものの存在が、構成されてくる。すなわち、最広義での超越的なものが、構成されてくる。それゆえに、これは超越論的主観性と呼ばれる。』しかし、それはなぜ『主観性』なのか。富士山であれ、眼前の本であれ、対象は、『客観的』なものであり、『客観性』である。これに対して、(さまざまな存在をもった)対象を構成するものが『主観性』と呼ばれる。この主観性という言葉には、客観性を構成していく『働き』が含意されている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,52-53P</p>
<p>「フッサールの超越論的主観性は、私たちが最も直接的に具体的に経験している光景そのもの、あるいはそうした経験そのものであり、これこそが客観科学の基礎である。土台だといっても良いが、しかしこれを観念的・形而上学的な『実体』のように(たとえばデカルトの『思惟する物』のように)理解してはならない。そこで、フッサールはこうも言う。『超越論的主観性は、形而上学的な土台などではなく、その諸体験と能力をもったものとして、直接経験の領野である……』」</p>
<p>「これが現象学だ！」,52-54P</p>
<p>「しかしまた見てきたように、現出するものとしての対象の哲学的分析はまた必然的に主観性を考慮しなければならない。物理学的対象が何であるかを本当に理解しようと望むならば、やがてはこうした対象を経験する主観性に向かわねばならない。というのは、まさにそこでだけ、対象は自らをあるがままに示すからである。実在を理解しようと望むならば、実在が与えられる意識作用に最終的には立ち戻らねばならない。要するに、主観性は現出あるいは顕現の可能性の条件である。主観性なしに現出はありえない。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,79P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc91">誤解されやすい点：フッサールは実在を否定しているわけではない</span></h3>
<p>超越論的還元は実在が意識の外にある、という判断を一旦停止するものではあるが、<b>実在を否定するわけではないし、実在の判断に関する放棄でもない</b>。</p>
<p>独断的態度を遮断するために行うものであり、志向されるがままの対象、現出するがままの対象へと接近するために行うものであるという。偏見をもっていると適切な判断が行えないかもしれないので、一旦偏見を取り除きますよ、という話。態度を停止したからと言って目の前の物が消えるわけではない。</p>
<p>最終的に、エポケーして中断していた、カッコに入れていたあらゆるものをやがては抱合していくとフッサールはいう。たとえば生活世界の存在論は超越論的現象学へ到る道として構想されていたそうだ。</p>
<blockquote>
<p>「決定的に重要なのはエポケーの目的を誤解しないことである。エポケーを行うのは、実在を否定し、疑い、無視し、放棄し、研究から解除するためではなく、単に実在に対するある一定の独断的<strong>態度</strong>を遮断あるいは中立化するため、すなわち現象学的に与えられたもの──現出するがままの対象──に一層詳しく直接的に焦点を当てることができるためなのである。要するに、エポケーは実在に対する態度の変化を要件とし、実在の排除を要件としない。ただそうした遮断を通してのみ、実在の真の意味を開示することを許すｋとになる仕方で実在に近づくことができる。フッサールはしきりに強調することになるように、この脈絡で実在の意味について語ることは、実在の<strong>存在</strong>がすなわち本当に存在する世界が現象学の研究領分から何らかの仕方で排除されるということを含意しない。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」69P</p>
<p>「実在的現実性は『解釈しなおされず』、まったく否定もされず、したがって、<strong>独自の</strong>洞察的に解明された意味に矛盾する実在的世界の反意味的解釈は取り除かれている。」</p>
<p>フツサール『イデーンⅠ』120P ※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」孫引き69P</p>
<p>「とりわけ何よりも次のことを示すことが重要である。エポケーによって哲学する者に新しい種類の経験すること、思考すること、理論化することが開かれ、そこで哲学する者は、自然的存在や自然的世界を<strong>超えたところ</strong>に据えられるが、その存在や客観的真理の何も失わない……」</p>
<p>フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』129P ※ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」孫引き69P</p>
<p>「こうして、間主観性の問題をめぐる2人の姿勢を対比させる時、生活世界と超越論的主観性が相反するものとして対立しているかのように見える。しかし、フッサール自身は、この両者をそのように考えていたわけではない。生活世界の存在論は、フッサールにとってあくまでも超越論的現象学に至る道として構想されていた。『存在論を越えて現象学へ』というのがフッサール現象学への道であり、『存在論的』なものは『超越論的』なものへと導かれねばならないし、『超越論的』なものは『存在論的』なものを通じて初めて獲得される。生活世界は超越論的現象学に至る一つの道だということを忘れてはならない。そうすると、上のような対比の構図で済ますことができなくなってくる。」</p>
<p>浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」,20-21P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc92">ノエマとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向されるがままの対象(ノエマ)</strong></span>：</big>・対象が超越論的還元を通してのみ発見される対象であり、最良の状況の下で現出する対象である。何気なく自然的態度において見られる際に現出する「志向される対象」とは対照的な対象である。例えば暗いところで物を見るよりも明るいところで見たほうが明証性が高いように、明証性を高めていく必要がある。どのような作用、どのような対象においてどのように明証性を高めていくか、というようなことを解明していく必要がある。その解明のひとつに「内的時間意識」がある。</p>
</div>
<p>『イデーンⅠ』以降においては、<b>志向的内容を含めた志向的対象</b>として、「ノエマ」という言葉が使われるようになった(ただし、解釈がわかれる)。要するに、志向的内容と一体的に捉えられた限りの志向的対象のことである。もちろん志向的内容は志向的作用と不可分であり、結局はそれら全てを一体的に捉えた限りの志向的対象、超越的相関体、構成された相関体ということになる。※相関とは一般に、密接に関わりあっていること</p>
<p>POINT：『論理学研究』では対象を正確に記述することに関心があったが、『イデーンⅠ』以降では「<b>何が現出そのものの可能性の条件なのか</b>」に関心が移っていく。端的に言えば「主観性」が条件であり、この主観性の掘り下げがはじまる。この掘り下げの過程において、原自我といったような自我が内的時間意識の分析で見つかる。</p>
<h3><span id="toc93">ノエマに関する解釈が２つに分かれている</span></h3>
<p>（１）西海岸解釈(フレーゲ的解釈)と呼ばれる解釈では、ノエマは作用と対象から区別され、<b>作用と対象の間の志向的関係を媒介する「意味」である</b>とされている。</p>
<p>（２）東海岸解釈と呼ばれる解釈では、ノエマは<b>「意味」ではなく、(現象学的反省において考察された)「対象」である</b>とされている。</p>
<p>ノエマは意味なのか、対象なのかで分かれているという話。</p>
<h4><span id="toc94">東海岸解釈</span></h4>
<p>東側の解釈では、<b>「志向されるがままの対象(ノエマ)」は抽象的に考察された「志向される対象」</b>であり、超越論的態度によってのみ与えられるものだという。</p>
<p>例えば知覚される通りの知覚される対象、想起される通りの想起されるエピソード、判断される通りの判断される事態などがノエマだという。</p>
<p>したがって、志向的対象とノエマは別々に考察される「<b>同じもの</b>」だという。同じものではあるが、区別はするという話。「志向される対象」はノエマの中の最も根本的な契機だという。また、対象は意味を通して対象を志向するという立場は同じだが、<b>単なる媒介や関係ではなく</b><b>、超えていく、突破していくという意味での「通して」</b>であるという。</p>
<blockquote>
<p>「対照的に、(しばしば東海岸解釈として知られている)ソコロウスキ、ドラモンド、ハート、カブ＝スティーブンスは、志向性が意識経験の基礎的特徴であるとお論じ、それゆえ西海岸解釈によって好まれる場回理論から帰結するように見えるものを、すなわち作用が志向的に向けられていることが意味の内包的な本性の昨日であるということを否定する。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,89P</p>
<p>「結論として、ノエマは理念的意味としても、概念としても、命題としても理解することができないということが論じられ、主観と客観の仲介者でもなく(まるでノエマの導入に先立つ意識が世界に関係がない閉じた容器であるかのように)意識に志向性を付与する何かでもなく、むしろ(心理学的あるいは言語的反省とは対照的に)現象学的反省において考察された対象自体である。ノエマは、知覚されるとおりの知覚される対象、想起されるとおりの想起されるエピソード、判断されるとおりの判断される自体なのである。志向されるがままの対象は、抽象的に考察された(すなわち自然的態度を性格づける措定するはたらきからの抽象において)志向される対象であり、だから、現象学的あるいは超越論的態度においてのみ与えられることのできるものである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,89P</p>
<p>「ノエマの探究が、その顕現そのものにおいて、その意識に対する有意味性そのものにおいて考えられた、どんな種類であれ対象、局面、次元、範域の探究である限りで、対象とノエマは別様に考察された同じものであることが判明する。しかしながら、このことは志向されるがままの対象と志向される対象との間に(反省の立場の内で)区別がないということを含意してはいないが、この区別はノエマ内の構造的差異であり、二つの存在論的に異なる存在者の区別ではない。ノエマは、ノエマとは存在論的に異なる対象にわれわれを向けるのではなく、むしろ、志向される対象はそれ自体ノエマ<strong>の中の</strong>最も根本的な契機であり、それ自体ノエマ的成素である。ドラモンドが述べるように、我々はまさに対象の意味を通して対象を志向するのであるが、しかし、それを超えていくという意味でそれを通してではなく、それを貫通していくという意味でそれを通してなのである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,90P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc95">ザハヴィの解釈</span></h4>
<p>『イデーンⅠ』においては「意味」であり、かつ「存在(対象)」であるというように、その<b>区別が超越された</b>という。したがって、ノエマは意味であるというように、<b>狭義に捉えるのは誤り</b>だということになる。</p>
<p>ノエマとは意味と存在の区別を超越した、拡張された用語として用いられているという。ザハヴィはフィンクの主張を引用し、「心理学的立場に留まる限り、ノエマと対象自体が区別されうるが、そうした区別は超越論的態度をとるときもはや受け入れられない」という。</p>
<p>つまり、心理学的ノエマは「意味」であり、存在(実在的対象)と区別され、超越論論的ノエマにおいては意味と存在が区別されないというわけである。ザハヴィは「<b>超越論的になる前の現象学の限界内でだけ、存在と意味の区別は維持することができる</b>」という。また、超越論的になる前の現象学、つまり『論理学研究』における現象学の課題は「もっぱら現象を現象として記述すること」であり、それゆえに、実在的存在かどうかは本質ではない、と言うことができた。いわば、志向的対象が実在するとはなにか、という問いを保留することができたのである(そして同時にここが問題でもあった)。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールの超越論的になる前の現象学の限界内でだけ、存在と意味の区別は維持することができる。第一章の最後で言及したように、『論理学研究』においてフッサールは、なお心から独立の世界の存在にかかわる問いは現象学に属さない形而上学的問いであると主張していた。同じようにフッサールは知覚が真であるか見せかけであるかどうかは現象学に関連がないと論じることができた。なぜなら、現象学の課題はもっぱら現象を現象として記述することだったからである。」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,95P</p>
<p>「フィンクの論点は、心理学的立場に留まる限り、ノエマと対象自体が区別されるであろうが、それに対して、そうした区別は超越論的態度をとるときもはや受け入れられないということである。このパースペクティブから見れば、対象の構成された妥当性や有意味性と、その実在や存在との間にはもはやどんな存在論的区別もない。同じ論文の中でフィンクはまた、現象学を志向的心理学として定義する試みが単に自然的態度内に留まっているということを露呈するにすぎないと論じている。彼は、ノエマという超越論的な、すなわち真に現象学的な概念を理解することは現象学的還元に照らしてのみ可能であると主張し、ノエマと対象の差異が、志向される対象が他ならぬノエマ的同一性であるので、実はの絵馬に内的な差異であると書いている。実際、フツサール自身も一九二二年に以下のように書いていた。</p>
<p style="padding-left: 40px;">『意識が意識の内在的ノエマ的意味(ないしは存在するものとしての意識のノエマ的規定と措定様態における意味極X)を通して超越的対象に『関係する』と言うことは、憂慮すべきで、厳密に捉えれば、誤った語り方である。このように理解されているのはけっして私の考えではない。私は万一この言い回しが『イデーン』に見出され、次いでその文脈で確かにこの本来の意味をもたなかったなら、驚いただろう。』</p>
<p>」</p>
<p>ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」,97P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc96">意識作用は意味を超えて、貫通して対象を志向する</span></h3>
<p>１：意識作用が意味を通して対象に「<b>関係</b>」するという理解は、『イデーンⅠ』以降では誤りになる。</p>
<p>２：意識作用は意味を超えて、<b>貫通して</b>対象を志向する。</p>
<p>どう違うのかがわかりにくい。図にしてみよう。</p>
<h4><span id="toc97">・東海岸解釈の図</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/70f295624785affc93b7fc476a0065aa.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2888" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/70f295624785affc93b7fc476a0065aa.png" alt="" width="675" height="355" /></a></p>
<p>※イメージ</p>
<h4><span id="toc98">・東海岸解釈の図(というよりもザハヴィ、フィンク的な解釈)</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/052a007ea40e35304272ae1ed09a6f38.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2866" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/01/052a007ea40e35304272ae1ed09a6f38.png" alt="" width="655" height="345" /></a></p>
<p>※イメージ</p>
<h3><span id="toc99">ノエシス-ノエマ構造とは</span></h3>
<p>谷徹さんはノエマを「<b>諸現出と一体的に捉えられた限りでの現出者のことである</b>」と説明している。「意味と存在の不可分性の表現」として理解してもいいのではないか。</p>
<p>谷徹さんは「現出(＝射映)」を「<b>ノエマ的意味(質料的成分)</b>」と表現している。ノエマ的意味はバラバラではなく、ひとつの「<b>基体(現出者x,形式)</b>」に収斂し、ひとつの現出者(対象)の多様な現出(意味)であると説明している。現出をまったくまとわない裸の現出者というものはなく、<b>ノエマ的意味をまったくまとわない裸の基体というものもない。これがノエマの構造である</b>という。こうした一体的構造が、ノエマなのである、と。結局のところ、実際は不可分であっても抽象的に分離しうる、という話ではないだろうか。この抽象的な分離は、「感覚的内容」と「統握」の関係にもあてはまってくる。どちらかが独立しているのではなく、一体的構造として捉えられるものである、と。</p>
<h3><span id="toc100">我々が日常で主に意識しているのは「志向された対象」であり、「志向されるがままの対象(ノエマ)」ではない</span></h3>
<p>ここで暫定的に抑えておきたいのは、（１）ノエシスやヒュレーが実的内在であり、我々はこの実的内在を自然的態度において主題的に意識していないという点、（２）我々が自然的態度において主題的に意識しているのはノエマではなく、志向的対象(志向されるがままの対象ではなく、志向された対象)であるという点である。なぜノエマが主題的に意識されていないかというと、我々は自然的態度において超越論的還元を、すなわち現象学的反省を行っていないからである。</p>
<p>別の言い方をすれば、意味は自然的態度では常に突破、貫通されている。反省によってはじめてそれらの構成過程が解明されるのである。それらが解明されない限り、見えるのは素朴な「志向された対象」である。</p>
<p>我々は普段、「サイコロ」を見ているのであり、サイコロの側面のみや、サイコロの感覚、「サイコロを見ていること」、「サイコロという対象の構成過程」を見ていないし、はっきりと捉えていないし、体験するだけ。何かトラブルがあったときに、見るとはいったいどういうことか・・と(現象学的な深さではないにせよ)考えるのであって、日常生活、素朴な自然的態度でははっきりと意識されないのである。</p>
<blockquote>
<p>「しかし、フッサールは、直接経験における現出をわざわざ(言語的な「記号」との微妙な差異を際立たせるために)括弧付きで「『記号』と表記していた(現出はいわば原記号である)。とすれば、言語がもつ「意味」に対して、直接経験における現出がもつ意味も、やはり括弧付きで「『意味』」とでも表記したほうがよさそうである。この「『意味』」に相当するものをフッサールは一九一三年の『純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想』第一巻(これは通常『イデーンⅠ』と略記されている)で『ノエマ的意味』というように述語化する。さて、ここで『ノエマ』という概念が登場するが、これは諸現出と現出者との関係が理解されていれば、それほど難解な概念ではない。これは、要するに、諸現出と一体的に捉えられたかぎりでの現出者のことである。したがって、これは、あの二義性をもった『現象』とほどんど重なる。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,132P</p>
<p>「基体そのものは、裸の現出者ではない。というより、現出をまったくまとわない裸の現出者といったものはないし、ノエマ的意味をまったくまとわない裸の基体といったものもない。これがノエマの構造である。つまり、ノエマは、もろもろのノエマ的意味がひとつの基体に収斂しているという一体的構造、あるいは逆に言えば、ひとつの基体がもろもろのノエマ的意味をまとっているという一体的構造をもつ。現出者と諸現出は、じつは、こうした不可分な構造体を表していた。」</p>
<p>谷徹「これが現象学だ」,133P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc101">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc102">参考論文関連</span></h3>
<p>※各メモは個人的なものなのであまり気にしないでください。</p>
<p>※今回は動画の内容を書き上げてから論文を見返して引用を探しているので、引用漏れがあるかもしれませんm(_ _)m　次回からは同時にできるだけ行いたいと思います。</p>
<h4><span id="toc103">小熊さんシリーズ（とくに次の動画で扱う。わかりやすい。）</span></h4>
<p>１：小熊正久 「フッサール現象学における表象媒体の研究-知覚・想像・画像表象に関して」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/235974463.pdf">URL</a>)</p>
<p>→フッサールに関する知識。特に「射映」の参考に。「中立変様(あたかも存在しているかのような、という意識のあり方)」についてもためになる。</p>
<p>２：小熊正久「フッサールにおける「射映」の概念 : 表象媒体の研究の一環として」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1223&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29#">URL</a>)</p>
<p>→フッサールに関する知識。わかりやすい説明。</p>
<p>３：小熊正久「フッサールにおける中立性と想像の概念」(<a href="https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/11/kiyou14_all.pdf#page=23">URL</a>)</p>
<p>→定立について参考に　中立性変様なども</p>
<p>４：小熊正久「<span dir="ltr" role="presentation">フッサールにおける像意識と想像</span><span dir="ltr" role="presentation">――</span><span dir="ltr" role="presentation">１</span><span dir="ltr" role="presentation">９</span><span dir="ltr" role="presentation">１</span><span dir="ltr" role="presentation">２</span><span dir="ltr" role="presentation">年から</span><span dir="ltr" role="presentation">１</span><span dir="ltr" role="presentation">９</span><span dir="ltr" role="presentation">１</span><span dir="ltr" role="presentation">８</span><span dir="ltr" role="presentation">年にかけての思想の進展</span>」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiYgZ3lq5n8AhXKpVYBHR_xBK8QFnoECA8QAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fyamagata.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D4128%26item_no%3D1%26attribute_id%3D17%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw2--uH8gxuirF_qSr9DBQ8e">URL</a>)</p>
<p>５：小熊正久「知覚における同一性と差異 : フッサール『物と空間 講義 1907』を手がかりとして 」(<a href="https://yamagata.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=1318&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=29">URL</a>)</p>
<p>→知覚における射映に関して参考になる・本来的現出・非本来的現出知覚、現出、現出物、感覚与件等の理解</p>
<h4><span id="toc104">無対象表象問題関連の論文</span></h4>
<p>１：高野孝「志向性探究の鍵としての述定フッサール『意味論についての講義1908年夏学期』における転換」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/25/2/25_2_111/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>→名辞と意味関連</p>
<p>２：富山豊「フッサール初期志向性理論における「志向的対象」の位置」(<a href="http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.7_2009/JHS07_07Tomiyama.pdf">URL</a>)</p>
<p>→「志向的対象」についての整理　無対象表象問題</p>
<p>３：葛谷潤「『論理学研究』における知覚論の二つの解釈」(<a href="http://www.l.u-tokyo.ac.jp/philosophy/pdf/ron31/12-KUZUYA.pdf">URL</a>)</p>
<p>→「志向的対象」についての整理　特に知覚の特異性について　無対象表象問題 意味と対象の区別</p>
<p>４：綿引 周「１９０８年『意味の理論についての講義』無対象表象の問題に対するフッサールの応答について」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/tpstja/37/0/37_1/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>→「全ての表象はそれが表象する対象をもっている」テーゼ、及び「関係の存在は関係項の存在を含む」というテーゼ。現象的概念、存在的概念、同一化。同一性判断。「基づける」という言葉。一人称視点。</p>
<h4><span id="toc105">志向的内容・志向的対象関連</span></h4>
<p>１：満原健「志向的意識と場所的意識」(<a href="http://www.nihontetsugaku-philosophie-japonaise.jp/wp-content/uploads/2018/06/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B611%E5%8F%B7web_09%E6%BA%80%E5%8E%9F.pdf">URL</a>)</p>
<p>→志向対象・志向内容などの区別について参考</p>
<p>２：家高洋「知の理論としての志向的分析:志向的対象を手引きとして」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/12158/mrp_029-017.pdf">URL</a>)</p>
<p>→志向的対象、ドワルフスキなどについて　 記述心理学として『論理学研究』は刊行されている</p>
<p>３：宇多浩「知覚と志向性―-フッサール現象学における知覚理論」(<a href="https://books.google.co.jp/books?hl=ja&amp;lr=lang_ja|lang_en&amp;id=NiFAEAAAQBAJ&amp;oi=fnd&amp;pg=PA13&amp;dq=%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA%E2%80%9D+%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%9D&amp;ots=nc7RxKWPOB&amp;sig=ak0n-M-Tu-1zpPKwDQUmvJ-3B2c#v=onepage&amp;q=%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%80%A7%E8%B3%AA%E2%80%9D%20%E2%80%9D%E4%BD%9C%E7%94%A8%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%9D&amp;f=false">URL</a>)</p>
<p>→志向意義などについての説明　他、志向的作用、志向的内容、志向的対象のわかりやすい説明 理解的な統握と客観化的な統握に関する理解</p>
<h4><span id="toc106">フッサール基礎知識関連</span></h4>
<p>１：二宮 公太郎「フッサール哲学　早わかり」　(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwia7Yeu-6L8AhVns1YBHYuKDs04ChAWegQIChAB&amp;url=https%3A%2F%2Fmuroran-it.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D8373%26item_no%3D1%26attribute_id%3D24%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw3GnkqKy-XeSOME9bnml_ux">URL</a>)</p>
<p>→フッサール全般の概要の知識整理。わかりやすい。特にノエシス・ノエマ、明証性関連について参考に</p>
<p>２：鈴木敏昭「クオリアへの現象学的接近」(<a href="https://shikoku-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=417&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>→フッサール全般の知識整理でわかりやすい。特にノエシス・ノエマ、知覚的意味、ノエマ的意味</p>
<p>３：ギルバート・ライル「現象学」　訳青柳雅文(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no101_08.pdf">URL</a>)</p>
<p>４：宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(1)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiW5rbt2Pj7AhWysVYBHXOyATcQFnoECA8QAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F13446554%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw2mOEgXDu8hhOlMpOe9eq5M">URL</a>)</p>
<p>→フッサールの時期によって異なる概念の整理の参考になる。特に内的時間意識を学ぶ際に(2)も合わせて必須になる</p>
<p>５：宮原勇「フッサール初期時間論の基本概念とアポリア(2)」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwjQrqHs5vf7AhViHKYKHeOvClUQFnoECCwQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fresearchmap.jp%2Fisamumiyahara%2Fpublished_papers%2F35680784%2Fattachment_file.pdf&amp;usg=AOvVaw3929e8q8u3ZBIhLHwJZuUm">URL</a>)</p>
<p>→「内在的対象」</p>
<h4><span id="toc107">志向性について特に</span></h4>
<p>１：門脇俊介「志向性について」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1981/31/1981_31_190/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>→この論文はかなりわかりやすく、包括的で助かる(動画制作時にあまり読めていなかった)。志向性の定義について、「充実」について、志向と充実の関係性について　知覚言表と知覚の相違について　名辞的作用について　明証について、範疇的形式、範疇的直観、対象的相関者と志向的対象の関係、「である」の直観について、意味志向、意味充実、表意的志向と直観的志向、同一化、「事象自身」と知覚の関連性、自己呈示、射映について、超越、受動的総合の分析</p>
<p><span id="page40R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">２：次</span><span dir="ltr" role="presentation">田</span><span dir="ltr" role="presentation">憲</span><span dir="ltr" role="presentation">和「志向性の論理」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24570/1/2204.pdf">URL</a>)</span></span></p>
<p>→志向性の定義、主観と客観の関係、心的なもの、デカルト、因果関係、ノエシスノエマ説明など。わかりやすい。</p>
<h4><span id="toc108">その他</span></h4>
<p><span dir="ltr" role="presentation"><span id="page40R_mcid2" class="markedContent">・次田憲和</span>「感覚と身体―現象学的分析とその</span><span dir="ltr" role="presentation">超越論的意義―」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24580/1/2305.pdf">URL</a>)</span></p>
<p>→赤ちゃんのたとえ</p>
<p>・石原孝二「「感情移入」と「自己移入」 : 現象学・解釈学における他者認識の理論 (2) シェーラーの他者論 (前)」(<a href="https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33752/1/48(2)_PL1-14.pdf">URL</a>)</p>
<p>・魚住洋一「自我と時間ーーー超越論的現象学の極限ーーー」(<a href="http://www.uozumi.net/ego.PDF">URL</a>)</p>
<p>→時間意識についてわかりやすい参考　</p>
<p>・鈴木崇志「対話のような想起―フッサールの記憶論の展開に関する一考察」(<a href="https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/665/665PDF/suzuki.pdf">URL</a>)</p>
<p>→感覚与件に対する新たな統握ではなく、感覚与件と統握を保存するはたらき</p>
<p>・宮原勇「時間と生をめぐって―ハイデガーとフッサール―」(<a href="https://heideggerforum.main.jp/ej9data/miyahara.pdf">URL</a>)</p>
<p>→内在的内容、感覚内容について</p>
<p>・紀平知樹「現象とロゴス:フッサール現象学における基礎づけの理念と意識の志向性」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/2441/17452_%E8%AB%96%E6%96%87.pdf">URL</a>)</p>
<p>→現象学に関する包括的な知識</p>
<p>・高野考「意味と時間フッサールにおける意味の最根源への遡行」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwj2zq_Onpf8AhVppVYBHd7kBjAQFnoECBMQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Ftoyo.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D10571%26item_no%3D1%26attribute_id%3D20%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D17&amp;usg=AOvVaw11Fti8yi4GkH7IeKjSO5V0">URL</a>)</p>
<p>→現象学に関する包括的な知識</p>
<p>・鈴木康文「フッサール身体論における立脚点の問題」</p>
<p>→現出と現出する対象、キネステーゼの説明(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1989/39/1989_39_151/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>・中村豊「超越論的世界像―フッサール現象学の世界像―」(<a href="https://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space12/12_12nakamura.pdf">URL</a>)</p>
<p>→志向性の集中度について</p>
<p>・佐藤駿「E.フッサールにおける超越論的現象学と世界経験の哲学&#8211;『論理学研究』から『イデーン』まで&#8211;」</p>
<p>→志向性に関する説明(<a href="https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=76163&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>・岩内章太郎「思弁的実在論と現象学についてのノート」(<a href="https://keiho.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=228&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=2">URL</a>)</p>
<p>→リンゴの射映について</p>
<p>・森村修「フッサールの「身体の現象学」(1)「身体性の現象学」試論」内的知覚について(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/223195751.pdf">URL</a>)</p>
<p>→「内的知覚」と「反省」において重要になる。とくに外的知覚と内的知覚の時間のズレについての参考に。</p>
<p>・鈴木康文「初期フッサールにおける注意の問題」(<a href="https://core.ac.uk/reader/87200630">URL</a>)</p>
<p>→「論理学研究」の分類の整理。シュッツ関連で注意を参照する時に必要になる。</p>
<p>・渡辺 安男 、他「フィールドワークと質的研究の諸理論—実態調査から課題解決型実践的研究へ— 」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=2013&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=21">URL</a>)</p>
<p>→十全的・不十全的知覚に関する平易な説明。および現出や純粋意識に関する説明。</p>
<p>・青木秀雄「質的研究のためのKJ法の科学性に関する研究III──「志」と現象学の本質直観を中心に──」(<a href="https://meisei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=1546&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>→超越に関する説明  わかりやすい</p>
<p>・越後正俊「『論理学研究』における充実化の構造」(<a href="https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=2529&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>→志向性の集中度の度合い、　全体的知覚など 直観など 分節作用　知覚の３段階、カテゴリー直観について、「基づけ」に関する説明、それ自体の知覚について、充実</p>
<p>・竹田青嗣「現代哲学の最前線II──存在論･言語論･欲望論」竹田青嗣(<a href="http://www.phenomenology-japan.com/20160227.pdf">URL</a>)</p>
<p>→おもしろい　主客一致問題</p>
<p>・村上直樹「意識システムの自己言及的作動と意味世界の産出」(<a href="https://www.crc.mie-u.ac.jp/seeds/pdf/20091217-114412_gai1.pdf">URL</a>)</p>
<p>→対象X、ノエシス、ノエマの説明、対象自体という意味でのXと、「いかにあるかというありさまにおける対象」の区別。</p>
<p>・橋詰史晶「フッサール現象学における普遍性の問題」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwifz_G1gqb8AhUClFYBHTvOAUsQFnoECAoQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F144468215.pdf&amp;usg=AOvVaw091hClckfDy6BEFnj9u-QG">URL</a>)</p>
<p>→原的に与えられないケース　想起的、写像的、記号表象を経由する、自由想像を経由する 模写の話 直観の話 わかりやすいリンゴの例</p>
<p>・大滝朝春「フッサールの現象学における認識と真理の問題」(<a href="http://elib.bliss.chubu.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=XC19101012&amp;elmid=Body&amp;fname=N04_018_041.pdf">URL</a>)</p>
<p>→明証関連　実然的</p>
<p>・<span dir="ltr" role="presentation">尾崎 正彦</span>「<span dir="ltr" role="presentation">世界への志向</span>」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/7361/mrp_05-001.pdf">URL</a>)</p>
<p>→超越論的還元に関する説明</p>
<p>・品川哲彦「個体について―フッサールを手がかりとして―」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24494/1/1303.pdf">URL</a>)</p>
<p>→個体について　個体的な措定とは　この色と実体の色との違いとは</p>
<p>・居細工豊「現象学的還元と認知意味論の客観主義批判」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;ved=2ahUKEwiJtK-Fp8H8AhXMmVYBHZ8NC7gQFnoECBAQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fkeiho.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D730%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&amp;usg=AOvVaw2qs02cEIzEau1n4X2qznGM">URL</a>)</p>
<p>→谷徹さんに準拠しているので、谷さん的解釈を深めるのに役立つ。個人的に「レトリックと人生」とのつながりが興味深い。また、山野さんの絵があったのもここ(ただし山野さんを調べてもあまりヒットしなかった)。馬とカエルの意味構成について参考に。</p>
<p>・國領佳樹「メルロ= ポンティの実在論的現象学 グールヴィッチとの隔たり」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/merleaujp/22/0/22_61/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>→現実的対象について参考に　メルロ・ポンティと幻覚・知覚の話は面白い</p>
<p>・田中剛「意識の構造 (4)」(<a href="https://amcor.asahikawa-med.ac.jp/modules/xoonips/download.php?id=K30-41">URL</a>)</p>
<p>→ノエシス・ノエマ構造、ノエマ的意味などの参考に。写像理論の言及、十全的知覚の定義、心的物的ともに超越的であることの説明</p>
<p>・京念屋隆史「なぜ時間と変化は不可分なのか——フッサール初期時間論における「絶対的意識流」の比喩——」(<a href="http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/46/46_09.pdf">URL</a>)</p>
<p>→時間関連</p>
<p>・二宮 公太郎「ノエマのイデア性」(<a href="https://muroran-it.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=5311&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=21">URL</a>)</p>
<p>→ノエマについて参考に</p>
<p>・富山豊「受容性と志向性：志向性の哲学史におけるフッサールの功績は何処にあるのか」(<a href="http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.11_2013/2_Tomiyama.pdf">URL</a>)</p>
<p>→「判断の妥当性の相関者」について孫引き、因果的説明の否定について、存在が物的なものだけではなく、意味や数学的対象など、理念的なものも含まれることについて、志向性の成立を担保するものとは何か、真理との関連について,<span id="page49R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">知覚にお</span></span><span id="page49R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いてこそ対象「それ自体」が与えられる</span></span></p>
<p>・染谷 昌義「知覚と知覚判断―カテゴリー的代表象説は本当にダメなのか？―」(<a href="http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.2_2004/someya.pdf">URL</a>)</p>
<p>→感性的知覚の分類について</p>
<h3><span id="toc109">参考書籍</span></h3>
<h3><span id="toc110">主要文献</span></h3>
<p>&nbsp;</p>
<h4><span id="toc111">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IZy3FD">ダン・ザハヴィ「フッサールの現象学」</a></p>
<h4><span id="toc112">谷徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3ZOIL7M">谷徹「これが現象学だ」</a></p>
<h3><span id="toc113">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc114">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc115">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc116">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc117">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
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		<title>【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 25 Nov 2022 13:44:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・シュッツ]]></category>
		<category><![CDATA[エトムント・フッサール]]></category>
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					<description><![CDATA[アルフレッド・シュッツにおける現象学の説明です]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-8" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-8">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">アルフレッド・シュッツとは</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">フッサールの現象学とはなにか</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">大前提：なぜシュッツは超越論的現象学を扱うことを断念したのか</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">前提：なぜ現象学が社会学に必要なのか</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">フッサールの超越論的現象学とはなにか</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">学問における危機と現実</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">「事象そのものへ」というフレーズ</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">マッハの光景、直接経験</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">トワルドフスキーによる「実存する対象をもつ表象と、実存する対象をもたない表象の区別」</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">ドワドフスキによる分析の検討：ペガサスも富士山も同じ</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">エポケー、自然的態度、超越論的還元</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">エポケーとはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">自然的態度とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">超越論的還元とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">超越論的主観性とは、意味</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">超越化思考作用とは、意味</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">具体例で超越論的還元を考える</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">現出と現出者、志向性</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">現出とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">現出者とはなにか、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">志向性とは、意味</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">ノエシス・ノエマとは、意味</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">直接経験を超えた抽象化</a></li></ol></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">アプリオリとアポステリオリ</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">カントのアプリオリとは、意味</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">フッサールのアプリオリとは、意味</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">直接経験(志向的体験)とアプリオリの関係</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">シュッツにおけるアプリオリ</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">間主観性問題</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">間主観性問題とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">主客一致の難問：そもそも他者を含めた物体すべて、自分以外すべて、つまり、「客観的世界」は存在していると証明はできない</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">間主観性問題は他者の構成の解明であり、「他者理解」の大前提である</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">・フッサールによる間主観性問題に対する解答の手順(ざっくりと)</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">シュッツがフッサールの間主観性問題への解答にどう思っていたか</a></li></ol></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">フッサールにおける自然的態度の構成的現象学とはなにか</a><ol><li><a href="#toc38" tabindex="0">フッサールにおける自然的態度の構成的現象学とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">フッサールは心理学批判を行っていた</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">「現象学的心理学」というときの「現象学」の要素が何かが理解しにくい</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">シュッツにおける自然的態度の構成的現象学のイメージ</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">現象学的心理学、つまり自然的態度の構成的現象学は、最終的には超越論哲学と軌道を一つにするものだとフッサールは考えるようになっていく</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">フッサールにおける生活世界の存在論とはなにか</a><ol><li><a href="#toc44" tabindex="0">生活世界の存在論とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">存在論と超越論の関係について</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">シュッツにおける生活世界</a></li></ol></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc48" tabindex="0">アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成―理解社会学入門」</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">谷 徹「これが現象学だ」</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">山竹 伸二「本当にわかる哲学 」</a></li></ol></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">新睦人「社会学のあゆみ」</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/U7izIy1lsvY" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">アルフレッド・シュッツとは</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/Schtz1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2761" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/Schtz1.jpg" alt="" width="416" height="295" /></a>・アルフレッド・シュッツ(1899-1959)は社会学者。オーストリアのウィーン生まれ。アメリカへと亡命している。金融機関で仕事をしながら、学究生活を送っていた。</p>
<p>・生前の出版は『社会的世界の意味構成』(1932)のみ。現象学を通して社会学を基礎づけようとしたためシュッツの学問は「社会学的現象学」と俗にいわれ、意味学派に分類されることがある。他にも、「レリヴァンス」や「多元的現実」という言葉で知られている。</p>
<p>・ピーター・バーガーや、トーマス・ルックマンが門弟としてシュッツの学問を引き継ぎ、門弟外としてはガーフィンケルのエスノメソドロジーなどに影響を与えたといわれている。</p>
<h2><span id="toc4">フッサールの現象学とはなにか</span></h2>
<h3><span id="toc5">大前提：なぜシュッツは超越論的現象学を扱うことを断念したのか</span></h3>
<p>１：この問いを考えるためには、そもそもフッサールの超越論的現象学とはなにかを理解する必要がある。</p>
<p>２：結論：シュッツは超越論的現象学の一部を取り入れ、一部を断念した。取り入れた部分は主に「自我理解の問題」であり、断念した部分は主に「間主観性の問題」である。</p>
<p>３：この章では、フッサールの現象学とはどのようなものなのか、超越論的現象学と自然的態度の構成的現象学の違いとはなにか、なぜシュッツが間主観性の問題を断念したのかについて扱う。</p>
<p>４：結論：シュッツはフッサールの間主観性問題が超越論的手法によって解決されていないと考え、前期において「間主観性問題」の解決を超越論的現象学の分野に委ねた。当時、フッサールはこれから間主観性問題に取り組む趣旨の内容を述べていた。しかし、後期になって発表されたフッサールの説明を見たシュッツは、フッサールの解決方法が「独我論」に陥っており、社会学の基礎付けとして採用することはできないと考えた。そこで、非超越論的領域、つまり自然的態度の、内在的、生活世界において間主観性問題を解明していこうと考えた。</p>
<h3><span id="toc6">前提：なぜ現象学が社会学に必要なのか</span></h3>
<p>１：社会学の対象は、「<b>社会的世界</b>」である。</p>
<p>２：社会的世界は、「そこに生活する人びとによって意味的に構成された世界」である。人びとが自明視して使っている、日常の理論など、常識的知識のイメージ。日常生活者がもつ理論であり、空腹だと集中できないと知っている、など。日常の理論で構成されたものが、<b>一次的構成物</b>。</p>
<p>３：社会学は、社会的世界を特定の概念や図式によって再構成しようとする科学である。社会的世界を科学の世界側から再構成する、というイメージ。科学的知識のイメージ。視床下部にある摂食中枢が「脳にエネルギーが足りていない、補給せよ」と命令を出すから空腹になる、など。科学の(非日常的)理論で構成されたものが、<b>二次的構成物</b>。</p>
<p>・社会的世界は<b>日常生活世界</b>のひとつであり、物理的世界を除いたものだと定義することができる。日常生活世界とは、「人びとがいつものとおり決まったように繰り返しながら関与する現実の領域」である。要するに、行為者本人の現象の見方と、科学者(観察者)が見た行為者の現象の見方は違いますよ、科学者によって構成された現象が二次的構成物ですよ、という話。</p>
<p>たとえばウェーバーの「理念型」やパーソンズの「AGIL図式」は特定の概念や図式であり、二次的構成物、つまり社会学理論である。</p>
<p>シュッツの主な目的はこうした二次的構成物を作ることではなく、<b>二次的構成物の前提である一次的構成物はどのように構成されているのかを解明する</b>というものである。一次的構成物と二次的構成物の関係、さらに、どうやって二次的構成物(社会学,事実学)を一次的構成物(現象学,本質学)で基礎づけるかが重要。従来の社会学(というより現象学以外の科学すべて)は両者の関係が曖昧で、1次的構成物を軽視し、自明視しすぎてしまっている。どういう二次的構成物が、<b>一次的構成物とかけ離れていない妥当な構成</b>といえるのかなどの基準が重要。</p>
<p>たとえば「<b>私</b>」の主観はどのように構成されているのか、行為はどのように構成されているのか、理解はどのように構成されているのか、そのような<b>「意味構成の過程の解明」ができてはじめて「二次的構成物」へと移行できる</b>と考えた。自らをシュッツは「現象学的心理学」と名乗ったように、現象学の成果を通して心理学的に探究しているとざっくり理解できる。ただし、「<b>他者</b>」の存在はどのように構成されているかという一次的構成物については、<b>所与</b>であるとした。ざっくりいえば、「私」の主観については自明視せずに、現象学的に問うけれども、「他者」の主観の存在、構造については自明視した上で心理(存在論)的に扱いますよ、という話。</p>
<p>・二次的構成物の正しさを保証するためには、まずは一次的構成物を現象学的な方法で解明する必要がある。</p>
<p><strong>では、現象学的方法とは具体的にどのような方法なのか</strong>、ということが問題となる。フッサールの方法のどれを採用し、どれを不採用としたのかが問題となり、<b>シュッツ自身はどのようなものを</b><b>社会学の基礎づけにとって</b><b>妥当な現象学だと考えたのか</b>が問題となる。</p>
<p>このような問題を理解するためには、大前提として現象学の祖であるフッサールの現象学を理解する必要がある。</p>
<h3><span id="toc7">フッサールの超越論的現象学とはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越論的現象学</strong></span>：</big>・日常生活において普段よく考えないようなこと、あたりまえ(自明)となっているようなことの根拠や仕組みの根底、構造をよく考えてみよう、という学問。クラウス・ヘルトによれば、フッサールの超越論的現象学は「ものごとが意識から独立にそれ自体あるいは客観的に存在するという意味での超越について、それがどうやって確信されるのかを説明しようとする学問」を意味する。</p>
</div>
<p>・難しく言えばエポケーなどを通した超越論的還元を通して、超越論的主観性の領域へといたり、本質観取(形相的還元)により、本質構造を記述することを目的としている。これらを把握することにより、自我、他者、間主観性、生活世界を構成できるとフッサールは考えた。また、これらを構成してはじめて、科学は基礎づけられるという。</p>
<h3><span id="toc8">学問における危機と現実</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>フッサールにおける危機</strong></span>：</big>・あらゆる科学の土台が軽視されていているという危機。その土台とは現実であり、事象であり、直接経験である。そうした土台を取り戻そうとする試みが、「現象学」であるとされる。</p>
</div>
<p>・本質構造の解明によって基礎づけられていない科学の現状をフッサールは「<b>危機</b>」だと考えた。学問全体が危機に陥っているとフッサールは考えていたという。</p>
<p>・フッサールは学問の基盤(始原、根源、基礎づけ)が「<strong>現実</strong>」にあると考えた。そして、科学はこの「現実」を覆い隠してしまうような危機に陥っているという。</p>
<p>・当時の科学は直接の経験・直観される現実性と離れ過ぎてしまっていたという。たとえばガリレオ・ガリレイによって「数学的に捉えられた世界」が真の世界、客観的な世界であり、<span style="color: #0000ff;"><strong>直接経験の世界は見かけの世界</strong></span>、主観的な世界だとみなされて軽視されるようになっていたという。</p>
<blockquote>
<p>「ところが、当時、まさにその数学が、さらには諸学問の全体が、『危機』に陥っていると感じられるようになった。&#8230;&#8230;諸学問がいわば宙に浮いてしまい、抽象的で空虚な『理論＝理屈』になってしまったのである。諸学問の基盤が、そして諸学問の意味が、見失われてしまった。いや、むしろ諸学問みずからがおのれの基盤を──そしておのれの意味を──覆い隠してしまった、と言うべきかもしれない。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,12P</p>
<p>「まずもってフッサールがここで言う『現実』とは、簡単に言えば、私たちが見たり触れたりしてきる当のもの──ステッキで示されるようなもの──であり、もう少し正確に言えば、(あらゆる学説に先立って)直接に経験している当のものである。そして、この『現実』が諸学問の始原である。なんだ、当たり前だ、と言われるかもしれない。ところが、なんと、この現実が覆い隠された、見失われてしまった、だから学問の危機が生じた、とフッサールは考えるのである。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,13P</p>
<p>「他方で、自然/世界は、『数学』や『幾何学』の言語で書かれており、これによってこそ理解されうるというガリレイの考え方は、画期的だった。これが現代のイメージでの『科学』につながる。しかしながら、このときから、数学的に捉えられた世界(理念化された世界)が『真の世界』『客観的世界』だと思い込まれ、それとともに、直接経験の世界(生活世界)は『見かけの世界』『主観的な世界』だとみなされて、無視され、覆い隠されてしまうという逆説も生じた。高次の世界が登場すると、その基礎にある低次の世界は覆い隠されてしまうのである(逆に、覆い隠されてはじめて、低次の世界は、始原として求められることにもなるのだが)。このことをもたらしたガリレイを、フッサールは、『発見する天才』であるとともに、『覆い隠す天才』であるともいっている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,30P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">「事象そのものへ」というフレーズ</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>事象そのものへ(独;zu den Sachen selbst)</strong></span>：</big>・直接経験において「事象そのもの」や「現実」が与えられるという。自然的態度における色眼鏡を外して、事象そのものを見てみましょう、そのレベルにまで引き戻しましょう、という話。</p>
</div>
<p>・数学的に世界を見るということは、一種の色眼鏡で世界をみるということであり、科学的に世界を見るということである。現象学とはそうした色眼鏡を一旦保留し(エポケー)、移ろいゆく現象そのものを捉えてみるという試みである。「<b>事象そのものへ！</b>」というフレーズがわかりやすい(ハイデガーが使ったことで有名になったが、フッサールも似たようなことを言っている)。</p>
<p>・学問の危機の原因は「<strong>現実</strong>」、「<strong>直接経験</strong>」、「<strong>事象そのもの</strong>」といった用語で示されるものを軽視するようになったことにある。</p>
<p>・歪んだ枠組、色眼鏡、たしかにそれらから構成される経験科学はいろいろと便利だし生活を豊かにしたかもしれないが、いったんはずしてみましょうよ、という話。１＋１＝２だという前提で数学を構成しても便利だからいいじゃないか、となるかもしれない。なぜ１＋１＝２だと我々は信じているのか、そこを考えてから数学を構成しようよ、というような比喩が私のざっくりとした理解。便利だからと使っていた枠組そのものが現実として、現象そのものとして捉えられてしまうようになる可能性がある。</p>
<blockquote>
<p>「現実は直接に経験される。だから、現実を求めるということは、直接経験に帰るということである。そして、この直接経験においてこそ与えられるのが『事象そのもの』である──現実、直接経験、事象そのもの、これらはほとんど同じものを指し示す類義語だと言ったほうがよいだろう。ここから、現象学の基本姿勢を表すのに、『事象そのものへ』という有名な標語が生まれた。こうした姿勢をもった現象学は、抽象的な思弁から最も遠いものであり、逆に、最も具体的な現実の経験(直接経験)に密着するものだった。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,14P</p>
<p>「『事象そのものへ』(zu den Sachen selbst)という言葉は、どうだろう。これは、ハイデガーが『存在と時間』で使って有名になった言葉である。フッサールの著作では、これとニた言葉はたくさん登場するものの、この言葉のままでは登場しない。ただ、会話でフッサール自身がこの言葉を使っていただろうと推測される(その傍証は書簡などから十分に読み取ることができる)。その意味で、これもやはりフッサールの『肉声』だと言ってよい。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,22P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc10">マッハの光景、直接経験</span></h3>
<div id="attachment_2763" style="width: 510px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/984848f2ac7d4b5bec5599700ef11132.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-2763" class="wp-image-2763 size-full" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/984848f2ac7d4b5bec5599700ef11132.png" alt="" width="500" height="351" /></a><p id="caption-attachment-2763" class="wp-caption-text">左の画像は谷徹さんの「これが現象学だ」45~46P引用。</p></div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>マッハの光景</strong></span>：</big>・直接経験における光景。E・マッハ(１８３８～１９１６)による概念。マッハは科学の唯一の基礎は経験や感覚であると考え、自分の学問を『現象学』とも呼んでいたらしい。我々は普段、直接経験が主題的ではなく、直接経験から出発した科学的な光景、客観的な経験が主題的である。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>直接経験</strong></span>：</big>・ものを見る、ものに触るといったような、具体的な経験。類語には「現実」、「事象そのもの」がある。</p>
</div>
<p>マッハの光景では自分の鼻が見えている。右利きの人は左目を閉じて画面を見れば、同じように鼻がよく見えるはず。以下、マッハの光景を「<b>表象</b>」と表現する。表象の内にある＝主観、表象の外に出る＝客観と考えるとわかりやすい。マッハの光景のような経験を「<b>直接経験</b>」という。マッハは物理学者で、フッサールに影響を与えた人物。</p>
<p>経験科学では、あたかも客観的に、主観の外に出て物事をとらえられるかのようなイメージが支配的。</p>
<p>しかし経験科学においても、もともとマッハの光景、つまり直接経験を元にして築かれてきたはずである。フッサールはこのマッハの光景まで、直接経験まで、事象そのものへと引き戻そうとした。引き戻すことを「<b>還元</b>」という。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは数学や論理学の始原(起源/根源)を取り戻そうとした。この始原は『直接経験』にある。直接経験とは、ものを見る、ものに触るといったような、具体的な経験である。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,38P</p>
<p>「図２は、図１とは大きく違っている。図１では、対象(花)も私も同じように図の中に描かれているが、図２では私(とりわけ顔)は描かれていない。図１は『客観的』だと思い込まれているが、しかし、じつは図２のような直接経験から出発して事後的に形成されるイメージである。言い換えれば、図２のような経験こそが根源的であり、図１のイメージは派生的である。あるいは、図２のような経験は、『主観的』だが、単に主観的だというのではなく、まだ『客観的』ではないという意味で『主観的』であり、これこそが『客観性』の前提なのである。フッサールも、この図２を掲載したマッハの『感覚の分析のために』(一八八六年)刊行直後に読んでいる。そして、『読書の残響』があったのだろうとも述べている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,47P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">トワルドフスキーによる「実存する対象をもつ表象と、実存する対象をもたない表象の区別」</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>トワルドフスキによる分析</strong></span>：</big>・トワルドフスキは哲学者・論理学者であり、彼の主張をフッサールが検討している。トワルドフスキによれば、「実存する対象をもつ表象」と、「実存しない対象をもつ表象」に区別できるという。たとえば秋田犬は実際に存在し、ドラゴンは実際に存在しないと仮定する。それぞれの表象、つまり心に描く像、イメージを想像して見るとする。たとえば秋田犬は実際に見たことがあれば、思い浮かべることができる。しかしドラゴンは実際に見たことはないので、実物を通して思い浮かべることができない。したがって、「実存する対象をもつ表象」と「実存する対象をもたない表象」は区別される。</p>
</div>
<h4><span id="toc12">ドワドフスキによる分析の検討：ペガサスも富士山も同じ</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/31466a1b3fc0dcc0422224a3f8fa5d46.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2765" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/31466a1b3fc0dcc0422224a3f8fa5d46.png" alt="" width="713" height="291" /></a></p>
<p>Q そもそも人間は主観の外へ出られるのか。</p>
<p>A <b>私たちは主観の外へ出られない</b>。つまり、<strong><span style="color: #0000ff;">マッハの光景(直接経験)から外へ出られない</span></strong>。先ほどの経験科学のような光景は、私の主観とは無関係に花が物理的に実在していることを前提として、イメージされた図であり、別の言い方をすれば「<b>超越</b>」された光景である。</p>
<p>普通、ペガサスは「実在する対象」をもたないと考え、富士山は「実在する対象」をもつと考えてしまう。ペガサスは空想であり、客観的に存在せず、富士山は実在し、私が意識しなくても客観的に存在すると無意識に考えているし、自明視している。こうした<b>自明視</b>(あたりまえ)のうえにあらゆる科学は成り立っている。</p>
<p>しかし、<span style="text-decoration: underline;"><b>ほんとうにそうなのか</b></span>、と自明性を問うのが現象学。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e024fb520ee25907f8c0a4a8ba4879ea.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2768" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e024fb520ee25907f8c0a4a8ba4879ea.jpg" alt="" width="1920" height="1006" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e024fb520ee25907f8c0a4a8ba4879ea.jpg 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e024fb520ee25907f8c0a4a8ba4879ea-800x419.jpg 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e024fb520ee25907f8c0a4a8ba4879ea-1536x805.jpg 1536w" sizes="(max-width: 1920px) 100vw, 1920px" /></a></p>
<p>Q我々は富士山が客観的に実在することをどうやって明らかにするのか</p>
<p>・「実物を見ればいいじゃないか、ほら存在するじゃないか、だから、<span style="color: #0000ff;"><strong>私の意識とは無関係に</strong></span>存在しているんだ」というのが素朴な私達の態度(自然的態度)。</p>
<p>・<span style="color: #0000ff;"><strong>しかし、実物を見ているときも人間は新しく「表象」を用いているのではないか</strong></span>。つまり、<strong><span style="color: #0000ff;">自分の枠組を通して、主観を通して</span></strong>富士山を結局は見ているのであり、<strong><span style="color: #0000ff;">主観と無関係に、客観的に存在していることを証明することはできない</span></strong>。人それぞれ、富士山を直接見たり、間接的に想像したり、触ったりして「表象(イメージ)」し、ふじさんの「表象(光景)」を見るにすぎない。Aさんの富士山の直接的な表象、Aさんの富士山の間接的な表象、Bさんの富士山の直接的な表象・・・というように、結局富士山それ自体、AさんやBさんやCさんの表象とも独立した富士山という客観的存在にたどり着くことはできない。論理的にはそうだけれども、日常生活において、富士山は主観や直接経験とは無関係に客観的に存在していると我々は確信している(自然的態度)。</p>
<p>富士山とペガサスは同じであり、我々は表象の外、つまり主観の外に出ることはできない。マッハの光景の外には出られない。<b><span style="color: #ff0000; font-size: 12pt;">しかし、どうやら出た気にはなる</span> (超越する)</b>。</p>
<p>・我々は日常生活において、主観の外にでることなく、富士山のような対象の実存を信じている。主観の外にでなければわからないことなのに、存在すると思いこんでいる。</p>
<p>・<strong><span style="color: #0000ff;">どのようにして対象の実存、つまり客観的な世界の実在を人びとは信じているのか、超越しているのか、その構造(構成)を問うことが現象学の仕事</span></strong>。経験科学(当然、社会科学も)はそのようなことを問うことなく、自明としたまま、土台の知識が危ういまま、知識を積み重ねている。客観科学が思いこんでいる客観性の下には主観性があり、それが土台になっている。</p>
<p>・表象の外部になにかが存在するということは、なにかが表象を「<b>超越</b>」しているということ。超越とは、一般に、限界を超えること。どうやっても主観の外に出ることは現実には不可能であるのにもかかわらず、主観の内(マッハ的光景、表象の内側)で、つまり表象の内部で「表象の外部の何か（超越的存在）」をどうやら我々は<b>構成</b>している。では、どのように構成しているのか、という問題になる。</p>
<p>・人びとは日常生活において、他者や物体を表象を超越して構成している。現象そのもの、<b>現出</b>そのものではなく、<b>現出者</b>として超越されたものを中心に、<b>主題的</b>(<b>レリヴァント</b>)に意識している。つまり、現出そのものは無意識であり、自明視されすぎていて意識にのぼってこない。自明視されている非主題的なものを内省することによって、とりわけエポケーを通して捉えることが現象学の内容。しかしこのエポケーを通した非主題的なものの構成、非主題的なものと主題的なものの関係(志向性)というのが抽象的でわかりにくい。</p>
<blockquote>
<p>「素朴に考えると、たとえば、富士山の表象が『実在する対象』をもつかどうかは──ちょうど写真と実物を見比べるように──じっさいに富士山を見ればわかると言われるかもしれない。そのときには私たちは、その富士山の表象の外に出て、そこに富士山そのものを見るということになるだろう。しかし、その富士山そのものを見ているときに、私たちはやはり新たな表象を用いているのではないか。とすると、この新たな富士山の表象がまたもや『実存的に存在する富士山』をもつかどうかが問われてしまう。そこでまたまた、その対象の外に出て富士山を見ようとすると、やはりまたまた同じ問題が生じてしまう。ということは、(ペガサスはもちろん)富士山でさえも、その表象の外に出て、その実在を確証することはできないということである。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">エポケー、自然的態度、超越論的還元</span></h3>
<h4><span id="toc14">エポケーとはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>エポケー</strong></span>：</big>・自明性(あたりまえ)を疑うための手法。判断保留、判断中止、括弧に入れる、と日本語では訳される。特に、自然的態度の元での判断をいったん中止することを指す。例：表象の外に出ることができると思いこんでいるような態度を一旦停止し、なぜそのように思いこんでしまうのか、そのような態度が構成されてしまうのか、理由を考えてみる。</p>
</div>
<h4><span id="toc15">自然的態度とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自然的態度</strong></span>：</big>・エポケー以前の素朴な態度であり、自明な態度。ほとんど習慣的に、ふつうはこういうものだ、現象はこういうものだ、というような態度で接すること。時間・空間的現実が眼前に与えられているとおりに存在していると素朴に確信し、さらに世界が存在していると暗黙のうちに確信している非反省的態度のこと。例：表象の外に出ることができると思いこんでいるような態度。例えば富士山は自分の主観とは関係なく、客観的に存在していると思い込む。我々は、「客観的世界が実在している」という確信をもっているし、ほとんど疑わっていない。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「とはいっても、非学問的な場面では、私たちは、富士山は私たちの表象の外に実存すると確信しており、それを表象の外で確認できるとおもいこむような傾向をもっている。こうした傾向はひとつの『態度』に対応している。この態度をフッサールは『自然的態度』と呼ぶ。この態度は、文字どおり『自然的』であるため、それが『態度』であることさえ気づかれないほどであるが、しかし、やはりひとつの態度である。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49P</p>
<p>「私たちは、ほんとうは、表象の外に出ることなく、富士山のような対象の実存を確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信しているのだろうか。この問いを解くためには、ひとまず、非学問的な思い込みを停止し、表象の外部に当該の対象が実存していると信じるような(自然的態度の)傾向にストップをかけなければならない。これをフッサールは存在の『エポケー(判断中止)』と呼ぶ。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,49-50P</p>
<p>「【自然的態度】シュッツが『社会学的世界の意味構成』(1932)や『シュッツ著作集』Ⅰ―Ⅲ(1962-1966)等によって社会学に導入した現象学出自の概念。時間・空間的現実が眼前に与えられているとおりに存在していると素朴に確信し、さらに世界が存在していると暗黙のうちに確信している非反省的態度のこと。自然的態度の特徴は、自然的態度のうちにあるかぎり見えてこない点にある。日常生活世界は、そうした自明性によって特徴づけられる自然的態度から成り立っており、したがってこの態度の解明はすぐれて社会学の課題である。」</p>
<p>「社会学小辞典」,230P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc16">超越論的還元とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越論的還元</strong></span>：</big>・自然的態度にあるふつうのひとにとってあたりまえのこと（自明性）をエポケーを通して事象そのものへと還元すること。こうした態度変更を自覚的に行うこと。表象の外部ではなく、表象の内部で、マッハ的な光景に引き戻すこと。エポケーを通して「意識に現れた対象」としてのみ捉えること(超越論的主観性への超越論的還元)。還元とは「引く」と「戻す」の合成語。超越論的とは、表象の外部に何かが存在していると我々が思い込む時の「何か」であり、そのなにかが「表象」を「超越」している。そして、こうした表象の外部の存在は、我々が表象の内部で構成しているものである。その意味で、「超越」を扱う学問であり、”超越論的”還元と呼ばれている。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「&#8230;&#8230;私たちの目を、表象の外部に向かわせるのではなく、その内部(マッハ的光景)に引戻さなければならない。学問的な解明は、このように引き戻された表象(光景)の内部で行わなければならない。この引き戻しをフッサールは『超越論的還元』と呼ぶ。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,50P</p>
<p>「では一体なぜ『リンゴがある』ことを信じて疑わないのか？その理由を考えるために、とりあえず『眼の前のリンゴは実在している』という判断を保留にしてみる(これをエポケーと呼ぶ)。すると、目の前に見えているリンゴは、とりあえず『意識に現れた対象』としてのみ捉えられる。フッサールはこれを、『純粋意識(超越論的還元)への超越論的還元』という難しい言い方で説明している」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">超越論的主観性とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越論的主観性</strong></span>：</big>・「純粋意識」とも呼ばれる。エポケーなどの超越的還元を通して、「意識に現れた現象」のみが現れてくるようになり、このときの光景を「超越的主観性」という。いわば、理論や知識などのフィルターをとりはずし、現象や事象、直接経験そのものに戻ったときの光景のことである。別言すれば、マッハ的光景のようなもの。実体的なものではない。</p>
</div>
<p>「<b>事象そのものへ</b>」というフレーズのように、自明性を疑い、一旦現象そのものを抽出することが超越論的還元。見えたままのマッハ的光景まで自覚的に戻り、そこから超越的光景へとどのように構成していくのかを考える試み。</p>
<p>難しい言い方をすれば、<b>純粋意識</b>(<b>超越論的主観性</b>)への超越論的還元という言い方をしている。超越的主観性とは、還元された「<b>光景</b>」のこと。物や実体、形而上学的な土台ではなく、光景であり、直接経験の領野であり、マッハ的光景である。ここでいう主観性とは、<b>客観性を構成していく働きを含んでいる</b>という。ここがすこしややこしい。マッハ的光景から超越的なものが、別の言い方をすれば存在から超越が構成されるわけであり、素朴な見方をすれば「超越論的客観性」とでも表現したほうがわかりやすそうだ。しかし、フッサールは、マッハ的光景のなかでこそ、主観のなかでこそ超越的なものが構成されるので、超越論的主観性と呼ぶ。</p>
<p>フッサール「(超越論的主観性において)主観がさまざまな仕方で経験しうるすべてのものの存在が、構成されてくる、すなわち、最広義での超越的なものが、構成されてくる。それゆえに、これは超越論的主観性と呼ばれる。」</p>
<p>・感想</p>
<p>シュッツにおいて「意味」とは、過去の体験や未来の体験に眼差しを向ける時の、その眼差しの方向であり、構えだった。つまり、意味は実体的なものではなく、態度や構えであり、ある光景を特定への光景へと構成するような、フィルターのような役割を持っているといえる。シュッツを理解してからフッサールに戻ってくると、ここでいう「超越的主観性」は「意味」と重なるものが多いと感じた。「超越的主観性」も同様に、形而上学的な実体や土台ではなく、直接経験の領野だという。領野とは、範囲や領域を意味する。意味も同様に、特定の範囲や領域として捉えるとわかりやすくなってくる。</p>
<blockquote>
<p>「まず、『超越論的主観性』(還元された光景)はなぜ『超越論的』なのか。右で述べたように、『超越論的』は、マッハ的光景の中で存在＝超越を学問的に問うときに登場する。そして、このとき、この光景のなかで対象の『存在＝超越』が『構成されてくる』ことが判明する。それゆえ(微妙な言語拡張によって)、『存在＝超越』がそこで構成される当のものも『超越論的』と呼ばれるだろう。フッサール自身はこう述べている。『これ[超越論的主観性]において、主観が様々な仕方で経験しうるすべてのものの存在が、構成されてくる。すなわち、最広義での超越的なものが、構成されてくる。それゆえに、これは超越論的主観性と呼ばれる。』しかし、それはなぜ『主観性』なのか。富士山であれ、眼前の本であれ、対象は、『客観的』なものであり、『客観性』である。これに対して、(さまざまな存在をもった)対象を構成するものが『主観性』と呼ばれる。この主観性という言葉には、客観性を構成していく『働き』が含意されている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,52-53P</p>
<p>「フッサールの超越論的主観性は、私たちが最も直接的に具体的に経験している光景そのもの、あるいはそうした経験そのものであり、これこそが客観科学の基礎である。土台だといっても良いが、しかしこれを観念的・形而上学的な『実体』のように(たとえばデカルトの『思惟する物』のように)理解してはならない。そこで、フッサールはこうも言う。『超越論的主観性は、形而上学的な土台などではなく、その諸体験と能力をもったものとして、直接経験の領野である……』」</p>
<p>「これが現象学だ！」,52-54P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">超越化思考作用とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超越化思考作用</strong></span>：</big>・私たちの構成や主観とは独立に、マッハ的光景の外に、それ自体ができあがっているかのように思い込むことをいう、超越的解釈とも呼ばれる。メロル＝ポンティによれば「上空飛行的思考」と呼んでいるらしい。</p>
</div>
<p>自然的態度において我々は「超越化思考作用」をどうやら行っているらしい。しかしどのような仕組みで、どのような構成でそれらが可能となっているのか、そこを解明する必要がある。</p>
<blockquote>
<p>「ところが、私たちは、この構成を忘れてしまうと、存在＝超越しているものが、(私たちによる構成とは独立に)いわば最初からそれ自体でできあがっているかのごとくに思い込んでしまう。そして、そのような存在＝超越しているものを、マッハ的光景(表象)の外に出て、確認できると思い込んでしまう。この思い込みをフッサールは『超越化的思考作用』とか『超越的解釈』と読んでいる。あるいは、後にメロル＝ポンティは『上空飛行的思考』と呼ぶが、この表現も『言い得て妙』である。いずれにせよ、自然的態度はこうした傾向をもっている。」</p>
<p>「これが現象学だ！」,50P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc19">具体例で超越論的還元を考える</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ringo_taberu.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2766" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ringo_taberu.png" alt="" width="180" height="180" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ringo_taberu.png 180w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ringo_taberu-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ringo_taberu-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 180px) 100vw, 180px" /></a></p>
<p>（１）目の前にあるリンゴは客観的に実在している、という自明性を保留する(エポケー)。</p>
<p>我々はこのリンゴは私の意識の産物でしかなく、主観を離れたら存在していないのではないか・・？というようなことをいちいち考えない。リンゴは客観的に実在すると習慣的、当たり前に思っている。ほら、食べられるでしょ、だから実在するでしょ、とすら考えない。それほど自明なこと、非主題的なことだと思っている。</p>
<p>そこで、そうした無根拠で習慣的な「自明性(あたりまえ)」を一度保留し、カッコに入れてみる。常識を捨ててみる。そうすると何が見えてくるのか考えてみる。</p>
<p>（２）リンゴは意識に現れた対象としてのみ捉えられるようになる(超越論的主観性への超越論的還元)→マッハ的光景が現れてくる</p>
<p>（３）リンゴを意識で動かしたり、消そうとしたり、壊したりすることができない。知覚されたイメージは意識で変化させることができない。このリンゴは想像の産物ではなく、どうやら実在しているぞ、リンゴの本質は「甘酸っぱい果物である」と<b>直観</b>できる(<b>本質直観</b>)。リンゴが客観的に実在しているから食べられるのではなく、食べられるから客観的に実在していると人間は直観している。そうした本質がエポケーを通して、反省的に抽出されてくる。リンゴのような物理的なものだけではなく、正義や自由のような概念的なものについてもこのような本質直観が可能だという。</p>
<p>・こうした直観が、客観的世界が存在している、つまり自分の想像や主観だけで世界が存在しているわけではない、と信じさせる<b>構造</b>のひとつだという知識が得られる。さらに個々人の直観から、論理的・抽象的に練り直していく作業が必要になる。</p>
<p>・客観的にリンゴが実在してるかどうか、「客観的実在そのもの」は超越論的現象学でもわからない。なぜなら、主観以外でリンゴを捉えることができないから。神様でもいない限り難しい。主観の外には出られない。それゆえに、フッサールはデカルト主義であり、独我論であると批判されることがある。「神が神々を創造しようとするようなもので、神であれば神の被造物ではなく、神の被造物であれば神ではない」というヴァルデンフェルスによるフッサールへの批判がわかりやすくていい。</p>
<p>もし意識で消そうとしたり、壊したりすることができないからリンゴは実在しているのだ、と主観で思っていたとしても、それは幻覚かもしれない。マトリックス(映画)で機械につながれた人間が脳内でリンゴを見ているだけかもしれない。これで話が終われば、単なる不可知論になってしまう(超経験的なものの存在や本質は認識不可能であるとする哲学上の立場)。</p>
<p>客観的にリンゴの実在、広く言えば他者や物体の客観的実在そのものを証明することはできない。ただし、<b>どうやって(how)人間が客観的実在を信じているのか</b>、その構造を明らかにすることはできるとフッサールは考えた。</p>
<blockquote>
<p>「では一体なぜ『りんごがある』ことを信じて疑わないのか？その理由を考えるために、とりあえず『目の前のりんごは実在している』という判断を保留にしてみる(これをエポケーと呼ぶ)。すると、目の前に見えているリンゴは、とりあえず『意識に現れた対象』として<strong>のみ</strong>捉えられる。フッサールはこれを、『純粋意識(超越論的主観性)への<strong>超越論的還元</strong>』という難しい言い方で説明している。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107P</p>
<p>「私はリンゴが『赤く、まるく、甘酸っぱいもの』だと考えることができ、言葉によって誰かに説明できる。また、それと同時に、『リンゴ＝甘酸っぱい果物』という全体の意味も<strong>直観</strong>されている。このように直感された意味は、誰もが<strong>共通して了解</strong>する意味なので、その対象の『本質』とも言える。そのため、こうした意味の直観をフッサールは『<strong>本質直観</strong>』と呼んでいる。それは知覚的な直観と同様、自分の意志によって変えることはできない。&#8230;&#8230;以上のように、<strong>意識に直観として与えられた本質や知覚像は、外界の客観的実在性を確信させる</strong>重要な条件となっている。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,108-109P</p>
<p>「たとえば、『記憶』という概念の意味は、記憶という言葉から直接思い浮かぶことの中にある。それが直観として与えられた記憶の意味なのだ。しかし、リンゴを見て『リンゴ』という意味が与えられる場合と違い、記憶についてすぐに思い浮かんだ言葉、記憶の意味は、自分の中でも十分に確かだと思えないような側面がある。多かれ少なかれ、他社の意見とも違うことだろう。だとすれば、それは私にとって自明視された記憶の意味ではあっても、誰もが納得するような記憶の本質とまでは言えない。本質とは、大勢の人間が共通して了解し得るような、普遍性のある意味のことであるからだ。現象学では、この最初に直観された不確かな意味を、誰もが納得するような本質へと練り直すことができる、と主張する。これが『本質観取』と呼ばれる思考法である。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,111P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">現出と現出者、志向性</span></h3>
<h4><span id="toc21">現出とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現出</strong></span>：</big>・物の現れている面。例：サイコロでいえばニや五の面。例えば視点によって、1だけの面が見えたり、角度が等しくない面が見えたりする。「記号」ともいわれる。「現出すること」とも訳されることがある。</p>
</div>
<h4><span id="toc22">現出者とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>現出物</strong></span>：</big>・対象の統一体。面を現している当のもの。「意味」といわれることもある。例：サイコロそのもの。たとえばサイコロの1面しか現出していないのに、他の見られていない(現出していない)サイコロの6面からなる「THE サイコロ」のイメージ。机の板だけを上から見て、裏側も含めた「THE　机」を表象するイメージ。</p>
</div>
<p>１：現出は「感覚」されるものであり、「体験」されるものである。</p>
<p>２：現出物は現出を媒介にして、「知覚」されるものであり、「経験」されるものである。</p>
<p>感覚とは「感覚神経の興奮に訴えるような直接的な感じ方」を意味する。それに対して知覚とは一般に「知覚は刺激に対して意味づけを行う過程」を意味する。</p>
<p>まずは感覚が先であり、感覚を通して知覚される。感覚なしに知覚はなく、それにゆえに、現出なしに現出物はない。</p>
<p>３：現出は現出物の「記号(しるし)」ではあるが、現出＝現出物ではない。現出者は、現出なしに成り立たないほどの一体的な、相関的なものだが、現出と現出者の関係は「同等性」ではない。</p>
<p>４：現出者の知覚は必ず現出を媒介するために、直接的ではありえない。直接経験における現出者の知覚が直接的ではありえない、というとややこしくなるが、そういうことらしい。眼の前のリンゴを直接知覚しているように見えるが、実際は目の前のリンゴという現出を媒介に、現出者を知覚しているのである。</p>
<p>我々は<b>現出を媒介として現出者を経験している</b>。コップの一面だけをみて、その裏側がどうなっているかを含めてコップをイメージすることが人間にはどうやら、できる。こうした経験は我々にとって自明であり、日常においてあたりまえすぎて問われることはない。</p>
<blockquote>
<p>「物(たとえばサイコロ)が見えるというのは、サイコロの『諸現出』(物の現れ出ている面。サイコロでいえば三や五の面)が遠近法的に『感覚』されるだけでなく、それらを媒介にして『現出者』(面を現している当のもの。サイコロそのもの)がキューピズム的に『知覚』されるということ。私たちは諸現出を突破して現出者を見る。この媒介・突破の働きが『志向性』である。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,258P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">志向性とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>志向性</strong></span>：</big>・現出を媒介にして、現出者を見るさいの、「媒介の働き」を志向性という。媒介は「突破」とも表現されることがある。現出を媒介にして現出者が経験される、過程全体を「志向的体験」という。また、志向的体験は「意識」とも呼ばれる。</p>
</div>
<p>意識(=志向的体験)は、一般用語の使い方とは違い、意識的なものだけではなく、無意識的なものも含む。ここでいう無意識的とは、フッサールの用語で言う「<b>非主題的</b>な成分」であり、自然的態度においてはあまり意識されない要素である。志向的体験でいえば、非主題的な成分が「現出」であり、主題的(レリヴァント)な成分が「現出物」である。</p>
<p>コップの見ている側だけを意識しているというより、見えていない側を含めた全体の「現出物」を人びとはより意識している。潜在的(非主題的)、顕在的(主題的)と表現されることもある。要するに、志向性や意識は、現出と現出物の切り離せない(相関)関係からなる体験を意味する。現出者のない現出、現出のない現出者というものはない。</p>
<p>現象学は「現象」を扱う学問だが、現象には「諸現出」と「現出者」という二義性があるということがポイント。<b>諸現出と現出者の関係、つまり志向性を問うことが現象学の主な内容</b>。</p>
<blockquote>
<p>「『現出者』は『諸現出』によって媒介されている。『諸現出』は『現出者』へと突破されている。この二つの言い方は、同じことを述べている。『諸出現』と『現出者』とのあいだにこうした関係が成り立つのは、なにも正方形の場合だけのことではない。どんな対象の場合にもそうである。さて、『現象学』は『現象』についての『学問』である。しかし、『現象』の語は、右の関係からして、『諸出現』と『現出者』とのニ義性を孕むことになる。フッサール自身の言葉で言えば、『現象という語は、現出することと現出者との間の本質的な相関関係のおかげで二義的である』ということになるが、これも当然のことであろう。」</p>
<p>「これが現象学だ」60P</p>
<p>「現象学は、たとえば、実体(本体)と現象(仮像)といった意味での現象──これは、外部に実存する対象とその表象という図式のバリエーションにすぎない──を扱う学問ではない。このような理解は、還元以前のものである。還元を遂行するフッサール現象学では、あくまでも、諸現出と現出者との関係から成り立つ現象を扱う学問である。」</p>
<p>「これが現象学だ」61P</p>
<p>「さて、直接経験(マッハ的光景)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きが『志向性』である。それゆえ、直接経験は、これらの言葉を用いて『志向的体験』と言い換えられる。」</p>
<p>「これが現象学だ」61P</p>
<p>「では、意識における非主題的な成分とは、具体的に何か。まず(先の例で言えば、平行四辺形などの)『現出』である。そして、さらに(この現出を突破する)意識の『働き』そのものである。もっと具体的に言えば、『見ている』といった働きである。私たちは、通常、見られた対象を主題的に意識しており、おのれが見ているということを非主題的に意識している。この働きは、さしあたり『作用』と呼ばれる。」</p>
<p>「これが現象学だ」63P</p>
<p>「近代の基本的な考え方は、『主体があって客体を認識する』というものです。これは物理学でも、経済学でも政治学でも同じです。それをもとに、自然科学も社会科学も、このように考えてきました。&#8230;&#8230;現象学は、それは成りたつのかを問いました。しかし、『この世のことはわからない』という不可知論かというと、そうではありません。実際にわれわれには、ものが見えています。それはどううことか、ものを認識するとはどういうことか。そういったことを考えます。そこでフッサールとその後継者が提唱した考え方は、主体と客体、『私』と『あなた』はあらかじめ存在するのではなく、『志向性』のなかで事後的に構成されるのだ、ということでした。」</p>
<p>小熊英二「社会を変えるには」346~347P</p>
<p>「むしろ、こう考えられないでしょうか。『あなた』の本質などというものは、人間には観測できない。ただ、そのときそのときに、この世に現れた(現象した)姿が見えるだけだ、と。&#8230;&#8230;それでは『あなた』の本質は観測できないとして、『私』はわかるのでしょうか。『私のことは私がいちばんよく知っている』とは言えません。相手から指摘されて初めてわかることもあります。&#8230;&#8230;それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から『私』や『あなた』があるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、『すばらしいあなた』と『すばらしい私』が、この世に現象します。仲が悪くなると、『悪逆非道なあなた』と『被害者の私』が、『私』から見たこのよに現象する。これを、『ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた』と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、『私』と『あなた』が減現象していたと考える。」</p>
<p>小熊英二「社会を変えるには」348-350P</p>
<p>「ここではあらかじめ『私』や『あなた』がある、それが相互作用する、という考え方を個体論とよびましょう。それにたいし、関係のなかで構成されてくる、相手も自分も作り作られてくる、という考え方を関係論とよびましょう。人間は、なかなか個体論的な発想から抜け出せません。やっぱりあなたが悪い、私が正しいと思い、あれこれの観測を数えあげてしまう。そこのところで、『ちょっと待て、いったん頭を空にしてみよう』という知恵が必要です。それを『エポケー』といい、日本語では『判断停止』などと訳します。」</p>
<p>小熊英二「社会を変えるには」351-352P</p>
<p>「物(たとえばサイコロ)が見えるというのは、サイコロの『諸出現』(物の現れている面。サイコロでいえば二や五の面)が遠近法的に『感覚』されるだけでなく、それらを媒介にして『現出者』(面を現している当のもの。サイコロそのもの)がキュービズム的に『知覚』されるということ。私たちは諸現出を突破して現出者を見る。この媒介・突破の働きが『志向性』である。突破される諸現出は非主題的に『体験』(感覚)されるだけだが、現出者は主題的に『経験』(知覚)される。このことが起きる場面が、『志向的体験』である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,258P</p>
<p>「『意識』とはこの志向的体験の別名。それゆえ『意識』は主題的な成分だけでなく、(通常の語義と違って)非主題的な成分を含む。物は、ふつう意識から離れて(『超越』して)意識の外に『存在する』と思われているが、しかし物は現出者であり、諸現出から(それゆえこれらを突破する志向性から)切り離されない。現出者は諸現出といつも『相関的』である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,259P</p>
<p>【志向性】「すなわち、意識がある事象に向かっていること（志向性）と、その事象が意識に現れていることは、論理的に相関しているという考え方である。たとえば、ひとつのボールペンが私たちの目に映る仕方は、見る角度や光の加減によって変わる。だがそれでも私たちはそれを『違うボールペン』ではなく『同じボールペン』を見るということのうちには、視界のなかのボールペンを『今見えている現れ/今見えていない現れ』という差異を理解しつつ見ることが論理的に含まれているはずだ。同様に、あらゆる事象は『現在の現れ（顕在性）/他の現れ(潜在性)』として認識されるとフッサールは考え、その構造を『意味』と呼んだ。」</p>
<p>「ブリッジブック社会学」,107P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">ノエシス・ノエマとは、意味</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ed3532e5ad4495be0e85ae8cfd8fa727.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2772" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/ed3532e5ad4495be0e85ae8cfd8fa727.jpg" alt="" width="515" height="263" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ノエシス</strong></span>：</big>・志向対象を構成する志向作用。現出者から離されず、一体的に捉えられた限りでの現出者を構成する作用。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ノエマ</strong></span>：</big>・構成される志向対象。諸現出から離されず、一体的に捉えられたかぎりでの現出者。「ノエマ的意味」、「基体」、「時間的位置および空間位置」、「存在」といった成分をもつ。</p>
</div>
<p>たとえばサイコロの1の面にはAというノエマ的意味があり、サイコロの２の面にはBというノエマ的意味があるとする。こうしたノエマ的意味がひとつの基体にあつまることによって、「ノエマ」が構成される。この構成の作用を「ノエシス」という。</p>
<p>さらにこの「ノエマ」から、能動的に成分を「抽象」することによって、「<b>カテゴリー的成分</b>」が抽出されてくるという。たとえば「無限の数」というようなカテゴリーは、ノエマのような直接経験を前提にして理念化されるものである。要するに、数学や物理学は、前科学的な体験を土台にして抽象化されたものであるという話</p>
<p>・感想</p>
<p>　現出がノエシスで、現出物がノエマなのでは・・？と思ってしまうが、厳密にはすこし違うらしい。哲学で現象学を扱う機会があれば扱ってみたい。</p>
<blockquote>
<p>「【ノエシスとノエマ】ギリシア語に由来するフッサール現象学の用語。意識の志向性において、ノエシスは志向対象を構成する志向作用を、ノエマはそれによって構成される志向対象をそれぞれさす。両者はつねに相関関係にある。」</p>
<p>「社会学小辞典」494P</p>
<p>「きわめて簡略に言えば、フッサールの現象学は、（１）何よりもまず、われわれの日常生活において習慣化されているばかりでなく、基本的には近大諸科学も前提している『自然的態度』に根本的な変更を加えるため、世界およびその内部の事物の存在に関するあらゆる判断を停止させ（『エポケー』）、（２）そのような現象学的還元によって『純粋意識』あるいは『超越論的主観性』の領域にかえって、ノエシス＝ノエマ的志向性においてその本質構造を記述し、（３）そこから、自我、他者、間主観性、さらには生活世界を更生しようとする企てであったといえよう。」</p>
<p>「社会学の歩みパート２」160P</p>
<p>「ノエマ──諸現出から離されず、一体的に捉えられたかぎりでの現出者。これは、『ノエマ的意味』と『基体』、『時間位置および空間位置』、『存在』といった諸成分をもち、これらが論理学の基礎となる。」</p>
<p>「これが現象学だ」,258P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">直接経験を超えた抽象化</span></h4>
<p>・フッサールは「虚数」のような概念は直観だけでは形成されないという。つまり、直接経験を超えた、抽象化が必要になる。</p>
<p>・ガリレオ・ガリレイは「幾何学や数」は自然の中にあらかじめできあがり、備わっていると考えた。イマニュエル・カントは「幾何学や数」は主観性の認識装置に予め備わっていると考えた。人間が虚数を形成できるのは、あらかじめそれらが人間に備わっているからだとカントは考えたわけである(例えば感性の形式として空間があり、そこから幾何学は導き出される)。</p>
<p>・フッサールは、直接経験(志向的体験)から抽出(抽象化)されてくるものだと考えた。要するに、予め備わっているのではなく、経験によって形成されるものだと考えた。</p>
<p>・感想</p>
<p>すこしここの項目はわかりにくい。人間の土台として、「直接経験、事象そのもの、直観、志向的体験」というものがまずあるのはわかる。こうした土台から、さらに意識の働きによって、能動的にある成分を抽象化することができるそうだ。志向的体験における意味とは「ノエマ」であり、このノエマから「カテゴリー的(述定的)成分」が抽出されてくるという。</p>
<p>このカテゴリー的成分というのが難しい。たとえば「数」はカテゴリー概念だという。特定の事象内容を無視するからこそ、成り立つような概念だという。たとえば「一個の石」というときに、どのような石かといった具体的な事象を無視することができる。たとえば一個の石、一人の人間、一匹の猫といったように、それぞれの具体的な事象から「一」が抽象されている。</p>
<p>そもそもカテゴリーというときに、日常用語では、これは「日用品」のカテゴリーに入りますね、などということがある。これは具体的な事象から「日用品」という要素が抽象されているわけである。ミネラルウォーターも、ペットフードも、お米も、パスタも、「日用品」へと抽象されている。</p>
<p>ガリレオは数を自然の中にあらかじめ出来上がって備わっていると考え、カントは自然の中にではなく、人間の頭の中、主観性の認識装置の中にあると考えた。客観的な対象に主観が従うのではなく、客観的な対象が主観に従うとカントは考えたわけだ(コペルニクス的転回などとも言われる。逆転の発想)。</p>
<p>そして重要なのは、フッサールはそのどちらでもなく、人間はまず先に直接経験があり、そこから抽象化という作業によって、「数」が成立すると考えた。カントとどう違うのか、正直よくわからない。たしかにカントはある種、先見的に、とりあえず数を認識できるような認識装置がどうやら人間にはありそうだ、という心理主義的な傾向があることはわかる。いわゆる「それはあなたの感想ですよね」と言われかねない要素だ。</p>
<p>認識装置がどうやらある、と決めつけるのではなく、実際にどのように数のような認識が可能なのか、その構成過程を立証することこそが大事だとフッサールは考えていく。そしてその基盤として、まずは直接経験や志向的体験があるというわけである。こうした経験や体験は、生きていく過程で備わっていくものであり、生まれる前から備わっているわけではないく、学習していくものである。要するに、直接経験や志向的体験からそれらの認識装置がいわば派生していくのであって、認識装置が先で直接経験や志向的体験が後ではない、という話だろうか。あらゆる根源、アルケーとして「直接経験」があるというのがどうやら重要らしい。</p>
<p>眼の前の現出そのものを人間は主題的に意識しているのではなく、現出を媒介ににして、現出物を主題的に意識している。たとえば目の前のキーボードを見て、ほこりだのキーの色だの、細かな現出そのものよりも、「THE　キーボード」、「文字を打つもの」というような、もっと別のなにか、ノエマ的なものを意識している。</p>
<p>そもそも我々の時代では「数」はすでに文化として、数学として成立してしまっているので、どのようにして成立が可能になったのか、その起源について想像することが私には難しい。そうした文化を一旦エポケーすると、「直接経験」から「抽象化」という作業によって「数」が構成され、また「数」を操作することによって「負の数」や「虚数」、あるいは「物理学」といったものに応用されていくらしい。さらに「理念化」という作業によって「無限の数」のような概念も構成されるらしい。</p>
<p>特に私が面白いと考えたのは。「事象内容をもった意味が無視されてこそ、数が可能になる」というフッサールの考えである。たしかに、「かけがえのない友人」と「極悪非道な犯罪者」と、「水槽のウーパールーパー」をそれぞれ足して「３」である、ということはできる。友人を抽象化すれば人間であるし、「一人」の人間である。同じように犯罪者も「j一人」の人間であり、ウーパールーパーも「一匹の魚(？)」である。あなたとわたしの時間は同じ時給1000円、とお金を通して抽象化するときも、「事象内容をもった意味」が無視されているし、それぞれ「1時間」と表現する時、同じ時間を過ごしていることになる。</p>
<p>このような「抽象化」が進んでいくのははやり近代以降であり、「時は金なり」というように、大きな価値転換の時代のうねりの中にあったといえる。この話は見田宗介さんの「時間の比較社会学」と関連してくる項目なので、ぜひとも理解しておきたい。どうやら人間には抽象化して物事を捉える能力があり、実際そうしてきたらしいが、どうやら行き過ぎてしまったんじゃないか、という話につながる。フッサールでいえば、ガリレオ・ガリレイのように「直接経験」を、さらには「生活世界」を軽視しすぎているんじゃないか、ベルクソンのいうところの「生き生きとした時間」が軽視されているんじゃないか、という点につながっていく。</p>
<blockquote>
<p>「では、どんな認識装置が私たちに備わっているのか。カントは、『感性(直観)の形式』、『悟性のカテゴリー』、『超越論的統覚の自我』を見出した。カント的に見れば、主観性には『感性(直観)』の形式がアプリオリに備わっている。この形式とは、(無限に均質的に広がる)『空間』と、(無限に一直線に流れる)『時間』である。こうした空間や時間は、ユークリッド幾何学やニュートン物理学のそれである。こうしたものが主観性にアプリオリに備わっている、とカントは見たわけである。しかし、フッサールはこの考え方に強く批判的だった。」</p>
<p>「これが現象学だ」,116P</p>
<p>「さて、最も基本的な直接経験＝志向的体験は、知覚的な直観である。これをもとにして、意識の働きは、そこから能動的に成分を抽出(抽象)することができる。これによってノエマから抽象されてくるのが、カテゴリー的(述定的)成分である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,135P</p>
<p>「『数』は、あくまでも基体だけを抽出することによって得られる。たとえば『一個の石』と『一匹の猫』と『一人の人間』の場合に、それぞれの基体だけを『一』として抽出して、その『一』と『一』と『一』を結合すれば『三』という集合としての数が得られるが、『石』と『猫』と『人間』という事象内容をもった意味を結合しても(意味の複合体にはなるだろうが)数にはならない。事象内容をもった意味が無視されてこそ、数が可能になる。かくして、基体から『一』を抽出したうえで、それを集めつつ結合するということが、(『二』以後の)数を構成する。ただし、直感的に構成される数は『一二』までだとフッサールは言う。それ以後は、たとえば『一〇』をひとつの記号として、これをさらに集めつつ結合するといった仕方で、もっと大きな数(『二〇……』)が構成される。では、このようにしてもなお構成されないような巨大な(無限に増大する)数は、どうだろう。これを構成するのが、『理念化』である。理念化とは、直観の射程を超えたものを構成する思考的な意識の働きである。」</p>
<p>「これが現象学だ」,136-137P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">アプリオリとアポステリオリ</span></h3>
<h4><span id="toc27">カントのアプリオリとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>カントにおけるアプリオリ</strong></span>：</big>・イマニュエル・カントの用語では、「経験に依存せず、それに先立っていること(先験的)」を意味する。たとえば論理学や数学の考え方(理性など)は、あらかじめアプリオリに与えられている、という言い方をする。</p>
</div>
<p>たとえば１＋１＝２というような法則性の概念、そのような思考を可能にするような理性、思考様式(認識装置)は、予め人間に備わっているとカントは考える。別の言い方をすれば、「主観性」にあらかじめ備えられている。</p>
<blockquote>
<p>「アプリオリ/アポステリオリとう言葉を使うと、カントを思い出す人も多いだろうが、しかし、たとえばカントは、『そもそもの始めからアプリオリにわれわれのうちに与えられている』といった意味で、『アプリオリ』の語を用いることが多い。つまり、カントでも論理学はアプリオリだが、しかし、それは論理学(的カテゴリー)が私たちの主観性に『あらかじめ』備え付けられているから、『アプリオリ』だというのである。しかし、フッサールは、主観性に『あらかじめ』備え付けられているという意味での『アプリオリ』を認めない。」</p>
<p>「これが現象学だ」77-78P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc28">フッサールのアプリオリとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>フッサールにおけるアプリオリ</strong></span>：</big>・時制変化しない「ある」で表現されるもの。</p>
</div>
<p>たとえば「汽車は最速の乗り物だ」というのは「事実の真理」であり、変わることがある(汽車は現代において最速の乗り物ではない)。それに対して、「１＋１＝２である」、「ウラニウムは磁石から抽出される」、「三平方の定理」というような法則性は「理性の真理」である。要するに、時制変化しない「ある」で表現されるものがアプリオリであり、時制変化する「ある」で表現されるものが<b>アポステリオリ</b>である。</p>
<p>数学は論理学は、アプリオリなものを扱う科学である。それに対して心理学は、アポステリオリなものを扱う学問である。田中さんに、今どんな心理だった、と聞いていき、「怖かった」と答えさせ、法則を考えていくのが当時の心理学(内観心理学)である。後になって、やっぱり「怖くなかったのかもしれない」と変わることがあるかもしれない。</p>
<p>しかし１＋１＝２というアプリオリなものは変化しない。ライプニッツは「事実の真理」に対して、「理性の真理」と呼んだ。フッサールのアプリオリは「理性の真理」に該当するもの(真理という呼び方には語弊があるかもしれないが)。</p>
<p>アプリオリという用語は、理念的(イデア的)、本質的、普遍的、必然的といったような概念と類似的なグループを作るそうだ。それに対して、アプリオリという用語は、実在的、事実的、個別的、偶然的、そのつど的(アドホック)といった概念と類似的なグループを作るそうだ。そしてこれらすべて(アプリオリもアポステリオリも)が、存在論的な概念であるという。</p>
<blockquote>
<p>「アプリオリ──時間位置をもたないものの存在論的特性。『理念的・本質的』などと重なる。時間位置をもつものは、アポステリオリ(『実在的・事実的』などと重なる)」</p>
<p>「これが現象学だ」,259P</p>
<p>「形相──ものが『何』であるかを決めている不可欠な(本質的)部分。アプリオリな成分であり、ノエマ的意味のなかに含まれている。これを得る作業(想像を用いることができる)が『形相的還元』である。」</p>
<p>「これが現象学だ」,260P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">直接経験(志向的体験)とアプリオリの関係</span></h4>
<p>・直接経験(志向的体験)とアプリオリの関係</p>
<p>・経験はアポステリオリだけではなく、アプリオリな成分をも含んでいるという。</p>
<p>・カントは経験に先立って、アプリオリな認識装置がすでに主観に備え付けられていると考えた。それに対し、フッサールは経験によって、アプリオリな成分(≒本質)が「<b>直観</b>」され、抽出(<b>抽象化</b>)されると考えた。このように事象の本質を「<b>形相</b>」といい、形相を明らかにすることを「<b>形相的還元</b>(本質観取)」という。アプリオリは生得的な装置として主観に先験的に与えられているのではなく、後天的に得るものである。</p>
<p>例：たくさんの犬を見て、それらの意味から必要不可欠な共通成分を抽出する。尻尾がある、牙がある等々。リンゴなら甘酸っぱい果物が共通成分かもしれない。物体だけではなく、正義や自由といった概念も、形相的還元によって共通成分を抽出できる。<b>誰もが認めるような普遍性のある意味へと、多くの視点や多くの人の意見を聞きながら、練り直していく作業</b>だという。現象学は「<b>真理</b>」を求めるというより、「より<b>普遍的な意味</b>」を求めるという作業に近い。</p>
<p>・感想</p>
<p>「経験や体験はアポステリオリな成分だけで成り立っているものではなく、アプリオリな成分を含んでいる」という箇所は正直わかりにくい。たとえば磁石は鉄を引き寄せる、というのはアプリオリなものであり、本質だといえる。なぜなら、明日には引き寄せない、というような時制変化によって変わるとは思えないからだ。そして、実際にこうした知識を学ぶ前に、ある物体がある物体に引き寄せられるという「経験(直接経験、志向的体験)」をするとする。この体験の中に、どうやらアプリオリな成分が含まれているらしい。いったいどう含まれているのかよくわからないが、ともかく経験の前にアプリオリ成分があるのではなく、経験の中にアプリオリな成分がある。そして経験を通して、さらに「直観」によって、直接経験からアプリオリな成分を抽出ないし抽象化し，論理的なものへと仕上げていくという。</p>
<p>たとえば田中さんのところの石は、私のもっている剣とくっつく、不思議だな、というようなアプリオリな感想が強めな段階を想像してみる。そこから、どうやらある特定の石(磁石)は鉄全般にくっつくようだ、と抽象化していく。そからさらに、電子が原子核の周囲を回転させて磁力が生み出され云々カンヌンと科学で説明されていくのでしょう。しかしそうした自然科学の土台には、「田中さんのところの石は、私のもっている剣とくっつく、不思議だな」というような直接経験があったはずであり、そうした直接経験を軽視してはいけないですよね、とフッサールはいうわけです。そもそもある石を見てすぐに「磁石」とイメージ(表象)できてしまうのは直接経験の光景ではなく、超越的な光景に近いですよね。ああ、磁石ね、知っているよというような科学的知識を通してthe・磁石を表象しているわけです。</p>
<blockquote>
<p>「だが、フッサールの見るところでは、経験(直接経験＝志向的体験)は、アポステリオリな成分だけで成り立っているのではなく、アプリオリな成分を含んでいる、あるいは少なくともその先行形態を含んでいる。そして、『直観』がこの直接経験＝志向的体験からアプリオリな成分を抽出してきて、それを論理的なものへと仕上げるのである(なお、『直観』もカントでは感性的なものに限定されるが、フッサールはそうではない)。このようにして抽出された成分は、それ独自の法則性をもつ。その法則性は、私達が恣意的に決められるようなものではない。たとえば、ウラニウムは磁石から抽出されるが、私たちがその物理的特性を恣意的に決められるわけではない。いや、数や幾何学的なものの特性はもっと堅固である。たとえば、幾何学的な『円』は、たとえ完全な形で直接経験＝志向的体験に見出されないとしても、これらのなかから『意味』として抽出される。だが、私たちの直観がそれを抽出するとしても、私たちがその本質特性(たとえば円周率)を恣意的に決められるわけではない。」</p>
<p>「これが現象学だ」,82P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc30">シュッツにおけるアプリオリ</span></h4>
<p>・シュッツが「<b>社会的世界の本質的でアプリオリな構造を解明する存在論</b>」と述べるとき、アプリオリはフッサール的な意味のアプリオリである。</p>
<p>・たとえば「社会的世界は直接世界、共時世界、前世界、後世界の４つの同心円状に並んでいる」とシュッツが説明するとき、こうした言明は社会の不変で唯一なアプリオリな構造の分析に関するものである。</p>
<p>たとえば明日になれば、社会的世界に「前世界」はない、「後世界」はないというような、時制変化によって変化するような可変的な構造ではないという話。こうした分析は現象学の知見を利用して行われるが、純粋な現象学そのものの分析(超越論的現象学)とは異なる、別物であるという話。数学や科学も同じようにアプリオリな構造を説明する。それら(自然科学)と社会学の違いは人間の主観や意味づけが関係してくるということ、さらに現象学的(ただし超越よりも存在に比重を置いた)な知見を利用するということである。</p>
<h3><span id="toc31">間主観性問題</span></h3>
<h4><span id="toc32">間主観性問題とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>間主観性問題</strong></span>：</big>・私と他者たちがそこに居合わせてともに生活しているという世界の自明性それ自体をいかに理解するのかという問題。ひとことでいえば、「いかにして他我認識は可能か」という問題。「私がいて、私と同じような身体と意識の構造をもった他者達がいるとなぜいえるのか」という問題。</p>
</div>
<p>シュッツ以前の社会学では自明とされ、疑われず、問われなかった問題。</p>
<p>クラウス・ヘルトによれば、間主観性の問いとは、「私とともに機能している他者がどのように構成されるかを問うこと」であるという。</p>
<blockquote>
<p>「そのひとつの大きな理由は,シュッツが現象学は“間主観性”の問題を解決していないと考えていた点にある.シュッツは“間主観性”の問題一一いかにして他我認識は可能か一に大きな関心をもっていた.社会科学は人格を扱う科学であるから,もし現象学が“間主観性”の問題に解決を与えることができるならその基礎づけの意味は決定的になる.私がいて,私と同じような身体と意識の構造をもった他者たちがいることを,社会科学者たちは疑わない・社会科学にとって他者存在は自明であり,それを前提としてすべてが始まるのである.しかしシュッツのようにあらゆる社会科学の始まりにおかれる“基礎づけ”の学を遂行しようとする者にとっては,この問題を避けて通ることはできない。“理解”という概念ひとつとってみても,もし他我認識の問題に哲学的解明が与えられていれば,シュッツの望むより明確な再定義の助けになるにちがいないからである.」</p>
<p>吉沢,夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」137-138P</p>
<p>「<span class="markedContent"><span class="" dir="ltr" role="presentation">ヘルトによれば、<span class="highlight selected appended">間主観性</span>の問いとは、私とともに</span><span dir="ltr" role="presentation">機能している他者がどのように構成されるのかを問うことを指し（</span><span dir="ltr" role="presentation">cf</span><span dir="ltr" role="presentation">. 29/172）</span><span dir="ltr" role="presentation">&#8230;&#8230;</span></span>」</p>
<p>佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討（１）―フッサールへの批判を中心に―」,221P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc33">主客一致の難問：そもそも他者を含めた物体すべて、自分以外すべて、つまり、「客観的世界」は存在していると証明はできない</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>主客一致の難問</strong></span>：</big>・「近代哲学が提起した問題は、意識に現れた世界(主観)は意識の外部にある実際の世界(客観)と一致するのか否か(事実を正確に写し取っているのかどうか)よいう問題。デカルトは神を持ち出して認識可能だと言い、カントは認識不可能だと主張したらしい。</p>
</div>
<p>１：フッサールはまず、客観的世界はどのような構造になっているのか、そもそも客観的世界は本当にあるのか、といった問題をいくら考えてみても、そんな問いに答えなど存在しないと考えた。</p>
<p>２：客観的世界はある、という信憑の構造、確信の条件を明らかにすることはできると考えた。</p>
<p>・感想</p>
<p>これはかなり重要な部分ですね。たしかに人間はマッハ的後継、直接経験から外に出られないわけです。目で見て、考えて、触ってというのは結局のところ「神経の何かの変動」であり、「主観」の内部で生じたものにすぎません。まさに人間ではない神のような存在のみが、主観以外で世界の存在を証明できるわけです。</p>
<p>しかし、どうやら直接経験から外に出たような考え方を人間はしているのです。これをフッサールは「超越」と表現しました。実際は外に出られないように、外に出たように考えているので、超越というわけです。たとえば自分の想像の世界でのみ他者や物体が存在する、と信じている人は世の中にほとんどいないでしょう。自分の主観とは無関係に、客観的に、独立して他者や物体が存在していると考えているはずです。つまり、こうした超越的態度は普通の、日常の自然的態度なわけです。</p>
<p>ではなぜこのような超越が可能なのか、とその過程、「構成」を考えてみよう、というのがフッサールの取り組みです。自明視されている自然的態度を一旦中止、エポケーして、明らかにしようというわけです。</p>
<p>明らかにしたところで、結局「客観的世界」の実在が証明されるわけでもないのに、意味があるのか、と言いたくなるかもしれません。科学では、客観的世界の存在を所与として、前提として、自明視して、その構成を問うことなく、科学的理論を作り上げていきます。その結果、たとえばガリレオでは直接経験が「見かけの世界」と軽視され、数学的に捉えられた世界のほうが「真の世界だ」というような考え方になっていくわけです。</p>
<p>こうした状況をフッサールは危機だと考えたわけです。たしかに、ガリレオ・ガリレイやニュートンをはじめとした自然科学は我々の生活を豊かにしましたが、それと同時に何か大切なものを見落としてるような気もしています。世界は操作される対象でしかないような、世界に参加している感覚というもの、自然との一体性、直接経験の豊かさといったものが失われつつある原因の一つになるのかもしれません。ここの話は個人的に、ベイトソンやモリスバーマンへとつながっていくので見落とせない重要な話となります。とりわけ、自然科学においても量子力学のように、観察者が観察対象に影響を与えるという視点は現象学ともつながってくる要素なのかもしれません。たとえば顕微鏡で観察しようとすれば、顕微鏡が量子やら原子やらに影響を与えて、純粋に観察することができなくなるという話です。</p>
<blockquote>
<p>「近代哲学が提起した問題は、意識に現れた世界(主観)は意識の外部にある実際の世界(客観)と一致するのか否か(事実を正確に写し取っているのかどうか)、という『主客一致の難問』であり、デカルトは神を持ち出して認識可能だと言い、カントは認識不可能だと主張した。しかし、よく考えてみれば、『意識の外部に客観的世界がある』という前提そのものが、実は意識における確信(思い込み、先入見)にすぎない。そう考えたフッサールは、なぜ『客観的世界が実在している』という確信をもっているのか、その理由を問うべきだと考えた。客観的世界はどのような構造になっているのか、そもそも客観的世界は本当にあるのか、といった問題をいくら考えてみても、そんな問いに答えなど存在しない。しかし、客観的世界はある、という信憑の構造、確信の条件を明らかにすることはできる。」</p>
<p>「本当にわかる哲学」,107p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc34">間主観性問題は他者の構成の解明であり、「他者理解」の大前提である</span></h4>
<p>・間主観性問題は他者の構成の解明であり、<b>「他者理解」の大前提</b>である。</p>
<p>・他者の存在や、他者の主観性の前提がなければ、他者を理解するというステップに行くことはできない。しっかりと超越論的に解明して前提とするのか、解明せずに所与(感覚、自然的態度においてすでに与えられた物)として進むかのどちらか。</p>
<p>比喩的に言えば、幽霊の存在や意識の存在自体があやふやなのに、幽霊の気持ちをどうやって理解するかというステップに行くようなもの。もちろん、幽霊の存在自体そのものを客観的に解明することは難しいが、人びとがなぜ幽霊が実在していると確信しているのか、その構造を解明することは可能であるとフッサールは考えるイメージ。哲学にとって間主観性問題は幽霊のように、なかなか解けない難問であるというイメージ。なぜなら、人間はマッハ的光景(主観)の外に出られないから。</p>
<h4><span id="toc35">・フッサールによる間主観性問題に対する解答の手順(ざっくりと)</span></h4>
<p>（１）他者の主観性があるという自然的態度においてはあたりまえの認識を、一旦保留(エポケー)する。そうすることで、「他我に関する意味」が捨象され、「自我に固有なもの(原初的領分)」のみが抽出されてくる。いわゆる第一次的還元。自我や他我の身体、物質的自然などが抽出される。こうして抽出された領域を「<b>原初的世界</b>」という。</p>
<p>（２）私の物体的な身体と類似した物体が目の前に現れてくる。</p>
<p>（３）類似した物体は、私と同様な物体と見なされ、その物体は私と同じような意識をもっているものとして、他者として経験される。つまり、他者が私によって構成される。それゆえに、私は自然的態度において、他者は私と同じような意識、超越論的主観をもっていると自明視している。</p>
<p>・ざっくりとした理解のイメージ</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/akusyu_uchuujin.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2776" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/akusyu_uchuujin.png" alt="" width="180" height="180" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/akusyu_uchuujin.png 180w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/akusyu_uchuujin-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/akusyu_uchuujin-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 180px) 100vw, 180px" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/space_kaseijin.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2777" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/space_kaseijin.png" alt="" width="180" height="180" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/space_kaseijin.png 180w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/space_kaseijin-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/space_kaseijin-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 180px) 100vw, 180px" /></a></p>
<p>・エポケーを通して、馬や石といった単なる「<b>物体</b>」としての他者や自己が抽出される。そうすると、あれ、自分とこの物体は似ているな、と思えるような物体が存在していることを感覚する。そこから、その私と類似した物体がどうして私と同じような意識をもつ「<b>他者</b>」といえるようになるまで構成されていくかがポイントになる。タコの宇宙人を見ても、私と同じような主観の構造があるな、とは推測されないイメージ。自分と似ているという「類比(同種のものとして比べあわせること)」が大事。</p>
<p>・フッサールの用語では「<b>付帯現前</b>」というものが重要になる。要するに、直接的には見えないけど、間接的には見えますよね、という話。たとえば私は今コップの表面だけを見ているが、裏側も間接的に現前している。それと同じように、今は物体としての他者しか現前していないけれども、間接的には他者に固有なものが<b>類比</b>(自分と他者は似ているということ)において、媒介することによって付帯的に捉えられますよね、という話。</p>
<p>・フッサールは「<b>現象学的には私の自己の変様として他者は捉えられる</b>」と述べている。自分と似ているぞ、という段階から、どうやらこいつ、物理的に似ているだけじゃなくて私と同じような固有の意識をもっている存在なんじゃないか、という要素が間接的に現れてくるぞ、という話。だから我々は他者を、自分と同じような意識を持つ存在として自明視しているんじゃないか、とフッサールは考えたというイメージ。</p>
<p>・まずエポケーを通して他者は単なる物体であり、どうやら自分には自我が存在する、意識をもつということを理解する。そうした段階の構成が、どうやら他者にも同じようにあるらしいぞ、なぜなら自分の体と物理的に似ているから、と根拠づける。これを自己の構成を眼の前の似た物体へと「移し入れられている」と表現する。それゆえに、<b>自己移入論</b>と呼ばれている。</p>
<p>・まとめて難しい用語で言えば、「自己移入論による類比化的統覚として他我の構成を論じた」ということになる。主に『デカルト的省察』(第五省察)というフッサールの著作の内容。</p>
<p>・感想</p>
<p>他者論は「他者がどのようにして明証的に構成されるのかを具体的な他者経験に関する反省的分析において理解すること」にあるらしい。</p>
<p>動画では触れることができなかったが、「明証性」や「構成」、「意味」という概念も理解する必要がありそうだ。</p>
<p>１：どんなものごとも「意識」との連関の中で「意味」として現出する。このように、ものごとが現出することを「構成」と呼ぶ。</p>
<p>２：「意味」とは、対象が「何」で「どのように」というようなもの。</p>
<p>３：意味と対象が合致しているかどうかは、明証性の基準がある。別の言い方をすれば、しるしとしるされるものの一致の度合いであり、思念されているものと、与えられている物それ自体との一致の度合いである。たとえば、言語の判断と、知覚的な事態との一致である。もし仮に完全に一致していれば、「真理」と定義できる。</p>
<p>４：明証性という言葉は、「外へ出て」(ex)「見る」(videre)という言葉からできたものらしい。要するに、曖昧さなく、明晰・判明に見える状態である。デカルトが由来の言葉らしい。</p>
<p>例えば薄暗い部屋では、ある物体がよく見えず、ある対象が犬であるという「意味」と一致しているかどうか、明証性が低い状態であり、体験だといえる。しかし明るい部屋では物体がよく見えて、ある対象が犬であるという明証性が高い状態であり、経験だといえる。</p>
<p>では、どのような条件を満たせば、「間主観性問題」の、つまりある物体を自分と同じような意識の構造をもっている「他者」であると明証性が高い状態で体験できるのか。ある物体＝他者であると一致させることができるのか。その契機が自分と似ている肉体をもっているという要素だという話である。</p>
<p>話は変わるが、明証性と聞いて思い出すのがウェーバーだ。明証性は「解明的理解」における基準であり、明白であって直感的に、普通は理解できる度合いのことである。ウェーバーはシュッツの前期の著作を読んでいたとあって、やはり関連してるのかもしれない。</p>
<p>また、シュッツが一次的構成物を土台として社会学理論を構築する際に、「合理性」を重視したこととも関連してくる。科学は日常的な曖昧さを伴ったり、矛盾したものをできるだけ排除しようという試みであり、そうした「合理性」が社会科学にも欠かせない。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは『デカルト的省察』第五省察（以下では簡潔に「第五省察」と記す）において、他者論を展開している。これは、フッサールの公刊著作において呈示された他者論としては、最もまとまったものである。そこでは、ごく簡潔に言えば、次のように論じられている（cf. Hua I, 124–128, 140–143）。私に固有な領分、すなわち原初的領分（Primordialsphäre）において、私の身体物体性（Leibkörperlichkeit）が経験される。そして、この私の身体物体と類似した物体が眼前に現れるならば、その物体も私と同様な身体物体と見做され、その眼前の物体は私と同じような意識をもっているものとして、すなわち他者として、経験される。こうした経験では、原初的領分において生じていることが、その物体へと移し入れられている。フッサールは、このように他者経験について説明しており、この説明を移入（Einfühlung）の理論と呼んでいる（cf. Hua I, 173）。」</p>
<p>佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討（１）―フッサールへの批判を中心に―」,213P</p>
<p>「&#8230;&#8230;フッサール自身の定義を引けば、真理とは『思念されているものと、与えられているものそれ自体との、完全な一致』である。この『思念されているもの』はたとえば『言語(的判断)の意味』と言い換えることができるし、『与えられているものそれ自体』は、『知覚された事態』などと言い換えることができる。もっと具体的に言えば、『千鳥ヶ淵に桜が咲いている』という『言語(的判断)の意味』と、それに対応する知覚的な『事態』(千鳥ヶ淵に桜が咲いているという事態)との関係である。この両者が一致しているならば、その一致が真理である。もちろん、一致しないこともありうる。現在の『事実』として、千鳥ヶ淵に桜が咲いていないということは、十分にありうる(その場合には『千鳥ヶ淵に桜が咲いていない』が真理であり、『千鳥がぶちに桜が咲いている』は誤謬である)。さて、この両者の一致は『明証性において体験される』とフッサールは言う。」</p>
<p>「これが現象学だ」,105-106P</p>
<p>「『デカルト的省察』における他者論の主眼は、他者がどのようにして明証的に構成されるのかを、具体的な他者経験に関する反省的分析において理解することにある（cf. Hua I, 122, 126, 136）。フッサールは、どんなものごとも意識との連関の中で「意味（Sinn）」として現れ出ると見定めたうえで、そのようにものごとが現れ出ることを「構成（Konstitution）」と呼ぶ（cf. Hua I, 79–80）。つまり、彼によれば、意識はいつも「或るものについて」働くという志向性を具えており、如何なる対象も、それが〈何〉で〈どのよう〉であるというように、何かしらの「意味」において志向されている（cf.Hua I, 71–72, 85–86）。こうした意味がその対象と合致しているという正当性は、明証から汲み取られると、フッサールは見定める。フッサールにおいて明証とは、「真理の『体験』」や「直接的に『見る』こと」と表現されるように、或るものごとに関する判断を下すための権利根拠が、そのものごとについての意識体験において得られていることを指す（cf. Hua I, 51–52, 92–93; Hua III/1, 43; Hua XVIII,193）。こうした意識体験を反省的分析によって明確にすること、これがフッサール現象学においてものごとの成り立ちを理解するための基本的な方法である。フッサールは、他者についてもそうした方法において、理解しようとするのである。」</p>
<p>佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討（１）―フッサールへの批判を中心に―」,214-215P</p>
<p>「フッサールは、他者経験を説明するにあたり、原初的領分として私に固有な領分を際立たせる。そのためにフッサールは、「異他的なもの（Fremdes）」を「抽象的に遮断する」（cf. Hua I, 126）。すなわち、「人間や動物にいわば私のように生きている存在者というような特別な意味を与えるものをまずは捨象し、さらには、それ自身の意味において自我主観としての『他者』を指示しそれゆえそれを前提する、現象的世界のあらゆる規定を捨象する」（Hua I, 126–127）。フッサールによれば、このように浮き彫りにされる私固有の領分において、世界は「万人にとって経験可能なもの」という意味での客観性を失った「単なる自然」として残り、この中には単なる物体だけではなく、「私の身体」も見出される（cf. Hua I, 127–128）。フッサールは、このような領分を構成の秩序からして「原初的」であると見定め、この領分において見出される世界を「原初的世界」として、他者構成における基礎的な層に位置づけている（cf. I, 136–137, 173）。上述を踏まえたうえでフッサールは、私の身体と類似した物体が眼前に現れた際に他者経験が成り立つと、説明する。フッサールは以下のように論じている。他者が経験されるとはいっても、その際に私の原初的領分において現れているものは、私の身体と類似した物体であり（cf. Hua I, 140）、他者の自我そのものや他者がもつ体験のような、他者に固有なものが、直接的に現れ出てはいない（cf.Hua I, 139）。そうした他者に固有なものは、私の身体と類似した物体が現れると、私との類比において間接的ないし付帯的に捉えられる（cf. Hua I, 140, 144, 148–149）。すなわち、私の身体と類似した物体の「現前化（Präsentation）」と共に、他者に固有なものの「付帯現前化（Appräsentation）」が生じる（cf. Hua I, 138–139, 143–144）。この際、眼前の対象を他者として捉える「類比的統覚（analogischeApperzeption）」が成り立つ（cf. Hua I, 138–141）。つまり、「統覚」とは、様々な把握を取り纏めて対象を〈何〉として統一的に捉えることを指し、上の類比的統覚では、現前化したものと付帯現前化したものとが共に把握され、それらが取り纏められて、眼前の対象が〈他の身体〉、〈他者〉として捉えられる。他者は、このように「自分固有のものの類似物としてのみ考えることができる」のであり、それゆえ、他者は、「現象学的には私の自己の変様として」現れる（cf. Hua I, 144）。以上のようにフッサールは、他者経験を類比的統覚として説明している。」</p>
<p>佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討（１）―フッサールへの批判を中心に―」,215P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc36">シュッツがフッサールの間主観性問題への解答にどう思っていたか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>独我論</strong></span>：</big>・一般に、「私」を出発点とし、「私」だけが真に実在し、他我(他者)や他のものすべては自己意識の内容にすぎないという立場。いわゆるルネ・デカルトの、「我思う故に我あり」という有名な言葉で代表される考え。</p>
</div>
<p>・フッサールによる間主観性問題に対する解答は、独我論にすぎないじゃないか、私と他者は対等ではないじゃないか、分析が徹底されていないじゃないか、等々の反論が生じている。</p>
<p>・社会学との関連で重要なのは、<b>シュッツが後期においてはフッサールの解答は独我論に過ぎないと考えていた</b>こと(前期ではそのように考えず、フッサールが今後間主観性問題に対してズバッと解答てくれるだろう、と委ねていたイメージ)。さらに、独我論に過ぎない状態では、社会学の意義を失ってしまうおそれがあるということ。なぜなら、<b>「私」の妄想にすぎない世界は社会的世界とはいえず、「私的世界」にすぎない</b>から。</p>
<p>・「超越論的間主観性の問題を超越論的自我の構成作用から説明するというフッサールの試みは成功しなかった」という判断を下しているらしい。ここのポイントは。「超越論的自我の構成作用から」という点である。</p>
<p>・そこで、シュッツは(しかたなく？)社会的世界が存在するということを前提に話をすすめていく。つまり、なぜ社会的世界が存在すると人びとが自明視しているのかという問題を解明することは断念したということ。</p>
<p><b>社会的世界の存在は所与としたうえで、できるだけ現象そのもによりそって、乖離過ぎないように社会学的理論、つまり枠組や図式を構築するにはどうしたらいいのかという独自の現象学による社会学の基礎付けをシュッツは目的とするようになった</b>。</p>
<p>ただし、間主観性以外の現象学の知見の多くは採用しており、フッサールへの批判はシュッツへの批判としてブーメランするようになるという問題も生じる(シュッツへの批判で、あなたも独我論じゃないか！というものがある。なぜなら超越論的現象学的の知見の一部を採用した社会学だから)。</p>
<p>・感想</p>
<p>間主観性問題の検討は今後また扱う予定です。とりあえず今回は、シュッツが「フッサールは間主観性問題を解決できなかった」と考えていた点を抑えます。</p>
<blockquote>
<p>「ゆえにシュッツはフッサールのみならずさまざまな哲学者たち一シェーラ一,メルロ=ポンティ,オルテガ,サルトルーがこの“間主観性”の問題をどのように扱っているかに言及し検討を加えている.しかしシュッツは結局“間主観性”の問題は哲学的に解決されていない,という結論を導かざるを得なかった.フッサールについても,「超越論的間主観性の問題を超越論的自我の構成作用から説明するというフッサールの試みは成功しなかった」という判断を下している.」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義 : &#8220;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」,135P</p>
<p>「現象学が独我論を克服していようがいまいが、私たちが他者たちとともこの世界に生きていることはさしあたって疑い得ないことである。ゆえにシュッツはさしあたって他者存在の自明性を所与のものとして,それを問うことはせず,「間主観性の哲学的側面」は超越論的現象学にまかせる形をとったのである.そしてシュッツは生活世界のアプリオリな構造を解明する存在論を展開していくことによって,社会科学の基礎である間主観性の問題をあくまで“自然的態度の構成的現象学”の中で考えていこうとしたのである」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義 : &#8220;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」,139P</p>
<p>「越論的自我の生活において、われわれ共同体が超越論的なものとして論証されることによってのみ、現象学という超越論的観念論がその独我論という外観から救われうるのである(……)とシュッツはいう。つまり複数の超越論的自我の共存が超越論的自我の内部で構成されるなら超越論的独我論の問題は解消されると考えたのである。しかしシュッツは当然のことながら複数の超越論的自我の共存ということ自体が無意味であるとして、超越論的間主観性の不可能性を説く。「複数の超越論的自我について語ることが可能なのか、それが意味あることなのか。超越論的自我の概念は単数形でのみ考えられうるものではないのか」(……)。「孤独な哲学者は&#8230;&#8230;(中略)&#8230;&#8230;実際の共同体において他者とともにいかにしてエポケーを遂行しうるのか。つまり&#8221;共に哲学する&#8221;ことがいかにして可能なのか」(……)。シュッツには&#8221;超越論的間主観性&#8221;という事態そのものが現象学とは相容れないものであった。」</p>
<p>吉沢夏子「社会学と間主観性問題主観主義&#8221;批判再考」,134P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">フッサールにおける自然的態度の構成的現象学とはなにか</span></h3>
<h4><span id="toc38">フッサールにおける自然的態度の構成的現象学とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>フッサールにおける自然的態度の構成的現象学(純粋な内部心理学、志向性の真正の心理学、自然的態度の構成的現象学)</strong></span>：</big>・心理学を真に基礎づけるような、現象学的心理学のこと。重要な点は、「自然的態度」においてどのように現象が構成されるかについて分析する学問であるという点であり、自然的態度を一旦中止して、超越論的にどのような現象が構成されるかについて分析する学問ではないという点である。その点で、フッサールは「超越論的現象学」と「現象学的心理学」は平行関係があるとして、区別している。ただし、「記述的心理学」と「現象学的心理学」にも同様に平行関係があるとフッサールが述べるように、単なる事実の記述が「自然的態度の構成的現象学」ではなく、現象がどのように構成されているかといったような「本質」にかかわるような意味合いがある。</p>
</div>
<p>・感想</p>
<p>自然的態度の構成的現象学の定義をしろ、といわれるとすごく難しい。今までフッサールの現象学の基礎知識を学んできて、現象学は自然的態度がどのように構成されているか、つまり人々が自明視が、信憑がどのように構成されているかを「超越論的還元」を用いて解明するということがわかっている。キーワードは超越論的還元であり、エポケーである。つまり、自然的態度を一旦停止すること、ここにポイントがある。</p>
<p>言い換えれば、<span style="background-color: #ffff00;"><strong>エポケーという手法をとらずに、自然的態度の構成を考えるような現象学は、超越論的現象学ではない</strong></span>。<strong><span style="background-color: #ffff00;">しかし、自然的態度がどのように構成されているか、つまり人々が自明視が、信憑がどのように構成されているかを問うという現象学における重要な要素を持っているという点で。「現象学的」であるといえる</span></strong>。したがって、自然的態度の構成的現象学という名前、もしくは現象学的心理学と呼ばれるのである。方法論の違いというわけだ。</p>
<p>シュッツにおける「自然的態度の構成的現象学」も「間主観性問題」に関してはエポケーという手法を用いない。したがって、シュッツが自らの学問を「自然的態度の構成的現象学」ですよ、間主観的心理学にすぎませんよ、と名乗るも理解できる。</p>
<p>また、エポケーという手法を用いずに、アプリオリな本質的な型を分析ないし記述していくという学問は、フッサールによれば「生活世界の存在論」と呼ばれている。この生活世界の存在論は、自然的態度の構成的現象学によって主題となるものであるという。フッサールによればこうした学問は超越論的現象学とは別の学問であるという言い方をしているが、同時に、超越論的現象学へとつながりうるもの、軌を一にするものであるとも述べるようになる。</p>
<p>シュッツは超越論的還元を用いて発見された超越論的現象学のさまざまな知見は応用していきますよ、という姿勢がある。つまり、超越論的現象学の知見は自然的態度の構成的現象学の分析においても「適用」ないし「応用」できますよ、というわけだ。たとえば「自我理解の問題」については「社会的世界の意味構造」において、超越論的現象学の内部で分析を行います、と明言している。しかし一方で、「間主観性問題」については、超越論的現象学にとどまる必要はありません、と明言している。</p>
<p>そうした意味で中途半端であり、フッサールにおける「自然的態度の構成的現象学」との違いがある。また、フッサールは「自然的態度の構成的現象学」、つまりエポケーという手法、超越論的還元という手法を一切用いないような学問であっても、超越論的現象学につながりうる、軌を一にすると考えるように後期ではなった、という点も重要になる。</p>
<blockquote>
<p>「シュッツは還元の下で行われたさまざまな分析の妥当性は自然的態度の下でも保持されるということを繰り返し強調している。これはシュッツのしごとに、&lt;超越論的レベル〉で行なわれたことが&lt;内世界的レベル〉にも当て嵌まるという、いわば&lt;上から下へ〉という思考の方向性が常に働いていたことを示している。シュッツにとってはこれが現象学と社会学の接点だった。」</p>
<p>吉沢夏子「社会学と間主観性問題主観主義&#8221;批判再考」135P</p>
<p>「現象学が独我論を克服していようがいまいが、私たちが他者たちとともこの世界に生きていることはさしあたって疑い得ないことである。ゆえにシュッツはさしあたって他者存在の自明性を所与のものとして,それを問うことはせず,「間主観性の哲学的側面」は超越論的現象学にまかせる形をとったのである.そしてシュッツは生活世界のアプリオリな構造を解明する存在論を展開していくことによって,社会科学の基礎である間主観性の問題をあくまで“自然的態度の構成的現象学”の中で考えていこうとしたのである」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義 : &#8220;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」,139P</p>
</blockquote>
<p><b>フッサールの「自然的態度の構成的現象学」とシュッツの「自然的態度の構成的現象学」は同じではない</b></p>
<p>・まずは、フッサールの「自然的態度の構成的現象学」の概要を理解する必要がある。</p>
<p>「純粋な内部心理学、志向性の真正の心理学は、自然的態度の構成的現象学であることが分かってくる」とフッサールは『イデーンⅠ』のあとがきで述べている。</p>
<p>また、「一方の超越論的現象学と、他方の“記述的”心理学または“現象学的”心理学の間にある差異&#8230;&#8230;現象学的心理学と超越論的現象学との間には、一つの注目すべき汎通的な並行関係がある。」とも述べている。</p>
<p>要するに、「超越論的現象学」と「自然的態度の構成的現象学」は違いますよ、一緒にしないでくださいよ、ということである。所詮は「自然的態度の構成的現象学」は心理学ですよ、という話。では、心理学だとなにが問題になるのか。</p>
<h4><span id="toc39">フッサールは心理学批判を行っていた</span></h4>
<p>なぜなら、心理学はアポステリオリな、つまり「事実」を扱う学問であり、現象学はアプリオリな、つまり「本質」を扱う学問だから。アポステリオリな学問で、アプリオリな数学や論理学を基礎づけることはできないと考えた。「悲しみ」の本質とはなにか、などという問題を心理学は現象学的手法でいちいち問わない。<b>事実で本質を基礎づけるのではなく、本質で事実を基礎づける必要がある</b>。</p>
<p>・心理学がアポステリオリを扱うということは、言い換えれば人びとの「<b>自然的態度</b>」をもとに学問を形成しているということである(正確に言えば、自然的態度から派生した<b>自然科学態度</b>)。</p>
<p>たとえば、人びとを観察すると、どうやら「自分の意見を多数の意見に合わせるような態度が見られる」という現象が見られるとする。クラスのほとんどが富士山は二番目に高いと手を挙げていれば、自分は間違ってると思っていたとしても同調したくなる(本人に聞いたりして理由を答えさせる)。この効果を「同調現象」と心理学で名付けよう、など。<b>人びとが自明におもっていることを事実としてそのまま分析し、記述し、理論へとまとめあげ、法則を見つけ出すのが心理学</b>である。ここで重要なのは、シュッツ以前、特にウェーバー以前の社会学は心理学と同じようなレベルで、自明なことを事実として、省みることなく、理論を積みかさねていたという点。</p>
<p>現象学では自然的態度を派生させるのではなく、停止させて考える。自然的態度を肯定するのではなく、徹底的に疑い、本質を抽出する。</p>
<p>・感想</p>
<p>「記述的心理学」が「現象学的心理学」と並行関係にあるのは、この点である。アポステリオリを扱うか、アプリオリを扱うかの違いであり、アプリオリな心理学こそがアポステリオリな心理学の土台となり、基礎付となると考えていたということである。というより、そういうアプリオリな心理学、純粋心理学、現象学的心理学というものがあってもいいんじゃないか、という話。</p>
<blockquote>
<p>「この「あとがき」は、1913年に出版された『イデーンI』の超越論的現象学に対する批判に答える形で書かれたものであるが、そうした批判をフッサールは、「世界内的……主観性（人間）から“超越論的主観性”への上昇を理解しないところから出てくる異論である」……と言う。フッサールによれば、「一方の超越論的現象学と、他方の“記述的”心理学または“現象学的”心理学の間にある差異&#8230;&#8230;現象学的心理学と超越論的現象学との間には、一つの注目すべき汎通的な並行関係がある。&#8230;&#8230;単なる態度変更から生じる“微妙な差異……こそ、或る重大な意義を持ち、真正な哲学にとって決定的な意義を持つ」……ということになる。そして、「純粋な内部心理学、志向性の真正の心理学は、自然的態度の構成的現象学であることが分かってくる」……と述べる。先に、シュッツが、フッサールの超越論的現象学に対して、自らの立場を「現象学的心理学」とし「自然的態度の構成的現象学」であるとしていたが、その際シュッツが念頭に置いていたのはこの箇所であった。」</p>
<p>浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」,16P</p>
<p>「心理学はアポステリオリな学問だから、その心理学によって、アプリオリな学問である数学や論理学を基礎づけることはできないと言えば、フッサールの心理学主義批判も十分に理解していただけるだろう。」</p>
<p>「これが現象学だ」,80P</p>
<p>「フッサールは当初から事実学を基礎づける本質学の構想をいだいていた。そして構成的現象学から発生的現象学への展開をみせる後期においては,実証的な心理学との批判的対決を通して現象学的心理学をうちたてようとしたが,これは超越論的哲学へと完成されるべきものであった.ここでフッサールのいう“自然的態度の構成的現象学”とは心理学を真に基礎づける現象学的心理学(純粋心理学)として提起されたものに他ならない.」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義 : &#8220;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」,135P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc40">「現象学的心理学」というときの「現象学」の要素が何かが理解しにくい</span></h4>
<p>フッサールは現象学のどの要素を、「現象学的」と形容したのかが問題となる。私の理解では、<b>現象学的心理学とはもっぱら、「心理学」を限定的に、真に基礎づけるための心理学</b>であり、あらゆる学問を基礎づけるための現象学とは、包括性という意味で異なるものだと考えている。</p>
<p>・物理学や社会学といった他の学問全般への基礎づけとしては物足りないけれども、心理学という狭い領域においては有効というイメージ。それゆえに、包括的な超越論的現象学とは一緒にしないでくださいよ、というイメージ。例えば間主観性問題を自明だとしてそのまま肯定して、超越論的還元なしに都合よく進めるというのは、中途半端であり、包括性にはなりえないですよね、というイメージ。そうはいっても、そうした中途半端な学問も別物としてはあってもいいのではないか、という話。</p>
<p>・感想</p>
<p>この問題は動画の時点でよく理解してなかったのかもしれない。先程述べたように、「現象学的心理学」というときの「現象学」とは、<strong>自然的態度がどのように構成されているか、つまり人々が自明視が、信憑がどのように構成されているかを問うという現象学における重要な要素</strong>である。そしてなぜ超越論的現象学と並行関係にあるのかと言えば、超越論的還元という手法をとっていないからである。</p>
<p>包括性という点で考えれば、すべての学問の基礎づけとなる「超越論的現象学」のほうが優先されるべきであり、<span style="background-color: #ffff00;"><strong>またフッサールは「別の独自な学問の主題となりうる可能性を示唆しているにすぎない」という。フッサールの関心は超越論的哲学、超越論的現象学の完成にあった</strong></span>というわけである。</p>
<blockquote>
<p>「フッサールは当初から事実学を基礎づける本質学の構想をいだいていた.そして構成的現象学から発生的現象学への展開をみせる後期においては,実証的な心理学との批判的対決を通して現象学的心理学をうちたてようとしたが,これは超越論的哲学へと完成されるべきものであった。ここでフッサールのいう“自然的態度の構成的現象学”とは心理学を真に基礎づける現象学的心理学(純粋心理学)として提起されたものに他ならない.フッサールはシュッツの“自然的態度の構成的現象学”の二つのレベルの後者に関しては,別の独自な学の主題となり得る可能性を示唆しているにすぎない.フッサールの関心はあくまで精神の学としての超越論的哲学の完成にあった.フッサールが「心理学から現象学的な超越論的哲学への道」を模索したのも,別の独自な学の主題,つまり「生活世界の存在論」を提起したのも、彼の最晩年の著作『危機書』の中でである.したがって『意味構造』の時点でシュッツはこのフッサールのいう“自然的態度の構成的現象学”が最終的に超越論的哲学と軌を一にするものであるという『危機書』での見通しを知ることはできなかった.シュッツは&#8221;自然的態度の構成的現象学が社会のアプリオリな構造を問うものである以上、彼の企図した理解社会学の基礎づけの学としての役わりを果たすものであると考えたのである.」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」135-136P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc41">シュッツにおける自然的態度の構成的現象学のイメージ</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2779" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941.png" alt="" width="898" height="555" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941.png 898w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941-800x494.png 800w" sizes="(max-width: 898px) 100vw, 898px" /></a></p>
<p>・必要な限りで、都合よく現象学的な基礎付けを行いますよ、という一種の妥協のようなイメージ。シュッツの現象学的社会学も同じようなイメージ。</p>
<p>・心理学を基礎づけるための現象学的心理学というものがあってもいいのではないか、とフッサールは提起したにすぎない。現象心理学＝超越論的現象学とは言っていない。要するに、<b>別の学問として主題(レリヴァント)になりえるのではないか</b>、と言っているにすぎない。</p>
<p>もっと極端に別の言い方をすれば、現象学の成果(本質)を活かしつつ、自然的態度(事実)を分析するという、別の学問があってもいいのではないか、という話。ただしそうした学問では他の学問全てを基礎づけるような、より包括的な超越論的現象学には劣るというイメージ。</p>
<p>・科学者の歪んだ枠組みで現象を解釈するのではなく、<b>もっと現象そのものによりそった心理学</b>があっていいのではないか、という話。この考えを受けて、シュッツはもっと現象そのものによりそった社会学があっていいのではないか、と俗に言う「<b>現象学的社会学</b>」を考えるようになる(シュッツが名付けたわけではない)。</p>
<p>・感想</p>
<p>動画ではフッサールとシュッツの「自然的態度の構成的現象学」がごちゃごちゃになっている感じがありますが、この図は基本的にシュッツの考える自然的態度の構成的現象学を念頭においたものです。</p>
<p>フッサールの場合は超越論的手法をとらずに、別の学問として「自然的態度の構成的現象学」というものがあってもんいんじゃないか、と考えたわけですが、シュッツの場合はある部分では超越論的手法をとり、ある部分ではとらないといったように、非包括的、限定的なイメージです。</p>
<p>シュッツ自身が”超越論的手法を含めて”自らの学問を自然的態度の構成的現象学と名乗ったのかどうか、ここが問題ですよね。これは解釈の問題なので、意見がわかれるのかもしれません。もっぱら、非超越論的手法内での学問に限定して自然的態度の構成的現象学を名乗った、という解釈も可能なのかもしれません。しかし、シュッツの自然的態度の構成的現象学は、自我理解の問題が超越論的手法によって解明されてはじめて間主観性問題や他我理解の問題へと移行できるという性質をもっています。それゆえに、やはり吉沢夏子さんのようにシュッツの自然的態度の構成的現象学を２つのレベル、つまり超越論的なレベルと非超越論的なレベルにわけて考えるほうがスッキリしていていいと思いました。</p>
<p>※シュッツの「自然的態度の構成的現象学」の詳細な説明、たとえばベルクソンやフッサールの知見を取り入れた自我理解の問題は別の記事で紹介する予定です</p>
<blockquote>
<p>「シユッツが自らの学的営為を&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;と称したことはよく知られている。これは社会科学の基礎づけを企図したいわば本質学ともいえるものである。その特徴は、第一にフッサール現象学の厳密な構成的分析の諸成果を直接的に応用していくという姿勢にある(4)。第二にシュッツーこの学を行なう研究者ーー自身が現象学的な分析を遂行するということが含まれている。第三に&#8221;基礎づけ&#8221;の作業として、社会的世界の本質的でアプリオリな構造を解明すむもる存在論ー1精細な記述ーーの展開がもっとも中心的で重要なものとみなされている(5)。第一と第二の二特徴は、シュッツの学におけるいわば&lt;超越論的レベル〉に対応している。つまり超越論的主体に焦点をあわせ、たとえばその内的時間意識の流れの本質造構の解明を自ら行なうということ、また間接的呈示の理論や前述定的経験の分析など社会科学の基礎づけに応用可能であるとみなされた現象学的分析自体が含まれる。それに対し第三の特徴は&lt;内世界的レベル〉に対応する。そこには他者存在を自明とし相互行為を行ないながら自然的態度のうちに生きる実践的主体を対象とする記述が含まれる」</p>
<p>吉沢夏子「社会学と間主観性問題主観主義&#8221;批判再考」132P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc42">現象学的心理学、つまり自然的態度の構成的現象学は、最終的には超越論哲学と軌道を一つにするものだとフッサールは考えるようになっていく</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/1ddd7d4732b9b71143d43068e8a42ee2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2781" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/1ddd7d4732b9b71143d43068e8a42ee2.png" alt="" width="224" height="273" /></a></p>
<p>・フッサールは心理学から現象学的な超越論的哲学への道を最晩年の著作『危機書』で提起、模索するようになった。</p>
<p>→<b>現象学的心理学、つまり自然的態度の構成的現象学は、最終的には超越論哲学と軌道を一つにするものだとフッサールは考えるようになっていく</b>。別物だと『イデーン』では言っていたのに、『危機書』では軌道を一つにするものだと考えていくのである。</p>
<p>別の言い方をすれば、超越論的世界と自然的世界(生活世界)が平行線で混じり合わないのではなく、円のように同じ軌道にある。また、<span style="color: #0000ff;"><strong>フッサールの『危機書』をシュッツが読む前に</strong></span>、唯一の生前の主著であるシュッツの『社会的世界の意味構成』は書かれていたというのもポイント。出版されていないだけで、シュッツは後に『危機書』を読んだ上で、別の論文などを書いている。ただし、軌道を一つにするという考え方にはあまり首肯できなかった、あるいは理解できなかったと解釈されている。要するに二元論的に「別物」と終始捉えられていた)。</p>
<p>・ではフッサールの「軌道を一つにする」とはどういうことか、超越と存在、本質と事実をどのように一緒に扱うのか、結合させるかという点について深掘りする余裕はないので扱えない。</p>
<p>フッサールの言葉でいえば「体系的に完全に展開された超越論的現象学は当然真実かつ真正な普遍的存在論である」という。吉沢夏子さんの説明によれば、晩期フッサールは、「超越論的と存在論的ということばが同義で用いられるような世界を志向していた」らしい。</p>
<p>ただし、フッサールは一貫して、そのような志向を「エポケー(超越論的還元)」という手法を通して達成できると考えており、<b>シュッツは厳密な意味でのエポケーという手法を放棄した</b>という点が重要。特に、<b>間主観性問題はエポケーせずに、自然的態度をそのまま肯定した、判断を保留しなかった</b>という点が(社会学にとって)重要になる。</p>
<blockquote>
<p>フッサールが「心理学から現象学的な超越論的哲学への道」を模索したのも,別の独自な学の主題,つまり「生活世界の存在論」を提起したのも、彼の最晩年の著作『危機書』の中でである.したがって『意味構造』の時点でシュッツはこのフッサールのいう“自然的態度の構成的現象学”が最終的に超越論的哲学と軌を一にするものであるという『危機書』での見通しを知ることはできなかった.シュッツは&#8221;自然的態度の構成的現象学が社会のアプリオリな構造を問うものである以上、彼の企図した理解社会学の基礎づけの学としての役わりを果たすものであると考えたのである.」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」135-136P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">フッサールにおける生活世界の存在論とはなにか</span></h3>
<h4><span id="toc44">生活世界の存在論とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>生活世界の存在論</strong></span>：</big>・<span style="text-decoration: underline;">あらゆる超越論的関心なしに</span>、自然的態度においてアプリオリとして包括される本質的な型を経験世界において主題とする学問のこと。フッサール晩期『危機書』の内容。</p>
</div>
<p>POINT：超越論的現象学とは<b>別に</b>、「生活世界の存在論」というものもありえただろう、と提起している。提起にとどまった、という点も重要。現象学的心理学はその点、(限定的だけれども)超越論的関心はあるという点で区別できる。</p>
<p>さらにシュッツはこうした「生活世界の存在論」をうけ、自分の学問営為の中心においたという。「本質的な型」は、シュッツの社会学理論でいうところの「<b>類型論</b>」にあたる。シュッツが「超越論的現象学を断念し・・・」と前期で発言した内容と、フッサール後期の「あらゆる超越論的関心なしに・・・」が重なってくる。シュッツにいわせれば、やはり自分の学問は超越論的現象学と別物であると再確認させるものであり、同時にそれはそれとして学問になりうると後押しされるようなイメージ。フッサール前期の「平行関係」の再確認というイメージ。とはいえ、シュッツは「生活世界の存在論」だけに傾倒しているわけではなく、超越論的関心も限定的にある。そのため、宙ぶらりん(どっちつかず)といわれることがある。</p>
<p>・感想</p>
<p>動画では「本質的な型」が「類型論」にあるといいましたが、このときはまだ「類型」と「理念型」の違いについてよく理解できていませんでした。自然的態度において人々が普通はこうだろう、というような「類型」と、社会学において論理的一貫性を高め、かつ特定の関心から構成された「理念型」とは相違があるわけです。そうした類型と理念型を含めて、「類型”論”」という言い方をするようですね。</p>
<blockquote>
<p>「「生活世界の存在論」についてフッサールは次のように述べている.「世界とは,空間時間性という世界形式において二重の意味でその&#8221;位置を”(空間的位置,時間的位置にしたがって)定められている諸事物,つまり空間時間的&#8221;存在者”の総体である.ゆえにここにこれらの存在者の具体的に普遍的な本質学という意味での、ひとつの生活世界的存在論の課(11)題があるといってよいだろう.」「しかしこれらすべて(筆者注・生活世界)の中にはひとつの確固とした型が支配している.それはすでに述べたように方法的には純粋なアプリオリとして包括され得る本質的な型である。(中略)これらの本質的な型はもともとあらゆる超越論的関心なしに,ゆえに“自然的態度”(超越論的哲学のことばでいえばエポケー以前の素朴な態度)において,ある独自な学―つまり純粋に経験世界としての生活世界の存在論の主題となり得たであろう.」フッサールはこのように、超越論的哲学とは別に「生活世界の存在論」という学が成立可能であること,そしてもしそのような学があったならその主題は生活世界に固有な本質的型であることを示唆している。シュッツはこれをうけてフッサールが提起したにとどまった「生活世界の存在論」(13)を自己の学的営為の中心におき,それを社会的世界における類型論として(14)展開するのである。」</p>
<p>吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」136-137P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc45">存在論と超越論の関係について</span></h4>
<p>１：自然的態度の構成的現象学も、生活世界の存在論も、超越論的現象学とは異なる学問として可能であるとフッサールは述べている。前者の２つをまとめて「存在論」と表現すれば、後者は「超越論」となる。ただし、自然的態度の構成的現象学は超越論の要素を含んでいることから、「中途半端な超越論」であり、生活世界の存在論は「純粋な存在論」とでも表現できるようなイメージで私は理解している。</p>
<p>例えばシュッツが「構成」を説明する過程で、「自然的世界を“括弧でくくり”、現象学的還元のなかで私の意識体験自体をひたすら凝視するときに、私ははじめてこの構成過程に気づくのである」と述べる時、<b>シュッツは超越論的な関心をもちつつ、自然的態度の”構成”現象学と名乗っていることがわかる</b>。括弧でくくるとは、まさしくフッサールでいうところのエポケーであり、”超越論的”還元である。ただし、<b>シュッツは間主観性の問題については、括弧でくくらなかった</b>ことから、自らの現象学を超越論的現象学と名乗れず、平行関係にある自然的態度の構成的現象学、現象学心理学にすぎませんよ、とためらったイメージ。超越論的自我(主観)において他我(間主観性)が”構成”される、というフッサールの主張には納得できなかったという話。</p>
<p>２：晩期において、自然的態度の構成的現象学は超越論的現象学と軌を一にするというようにフッサールは解釈するようになる。</p>
<p>３：ここでいう「自然的態度の構成的現象学」は、超越論的現象学と生活世界の存在論の両方を含んでいる。要するに、超越論的手法だけではなく、自然的態度を素朴に肯定するような要素も、超越論的現象学へとつながっていくのだと認識されていくようになる。であるとするならば、超越論的関心が全くない「生活世界の存在論」も、やがて超越論的現象学へとつながっていくような要素をもつので、軌を一にする可能性がある。ただし、<b>超越論的現象学的な手法を一切とらないような、生活世界の存在論</b><b>だけ</b><b>の学問では別の学問</b>であり、やはり<b>超越論的現象学へとつながるゆえに</b>、生活世界の存在論に価値があり、その意味において、アプリオリな本質学としての生活世界の存在論の意義が出てくると私は理解している。</p>
<p>・存在論だけでも、あるいは超越論だけでも本質学にならない。存在論＝超越論になるような道がありうる、というイメージ。存在論は超越論への「きっかけ」になるようなイメージ。フッサールの「自然的態度の構成的現象学」のキーワードは「軌を一にする」という発想で理解されるような何かであり、<b>最終的には超越論的現象学へと完成されるべきもの</b>である。それに対して、シュッツの「自然的態度の構成的現象学」においては、そのような存在論から超越論へいたり、哲学的問題を解決するという接続ではなく、<b>存在論こそ、存在論のみが哲学(間主観性問題)を解決するものである</b>というような違いが出てくる。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/b9022ffbfe9ed4dedfd77ab8efe0b166.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2784" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/b9022ffbfe9ed4dedfd77ab8efe0b166.png" alt="" width="351" height="221" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2785" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941-1.png" alt="" width="898" height="555" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941-1.png 898w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/9d9aa61bbdfc1a77b5526f0b30094941-1-800x494.png 800w" sizes="(max-width: 898px) 100vw, 898px" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/a943adde65edd9dcc4032308c9c161ce.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2786" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/a943adde65edd9dcc4032308c9c161ce.png" alt="" width="816" height="266" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/a943adde65edd9dcc4032308c9c161ce.png 816w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/a943adde65edd9dcc4032308c9c161ce-800x261.png 800w" sizes="(max-width: 816px) 100vw, 816px" /></a></p>
<p>・ただし、何度もいうように、シュッツの「自然的態度の構成的現象学」は「存在論」のみで形成されるわけではなく、<b>超越論的な見地も、必要な限り使っていく</b>という態度をとる。このような中途半端なシュッツの立ち位置が、シュッツ独自の現象学だといえる。次回はこの問題をメインにして扱う予定。ポイントは、間主観性問題に関しては徹底的に超越論的な見地を否定していくという点であり、自我理解については肯定していくという点。</p>
<p>シュッツ「しかしながら確実にいえることは、超越論的な構成的分析ではなく生活世界についてのそのような存在論のみが、あらゆる社会科学の基礎である間主観性の本質関係を、たとえそれが単なる所与性として吟味されないままに、つまり&#8221;自明なもの&#8221;として措定されているとしても、解明することができるのである」</p>
<blockquote>
<p>「こうして、間主観性の問題をめぐる2人の姿勢を対比させる時、生活世界と超越論的主観性が相反するものとして対立しているかのように見える。しかし、フッサール自身は、この両者をそのように考えていたわけではない。生活世界の存在論は、フッサールにとってあくまでも超越論的現象学に至る道として構想されていた。『存在論を越えて現象学へ』というのがフッサール現象学への道であり、『存在論的』なものは『超越論的』なものへと導かれねばならないし、『超越論的』なものは『存在論的』なものを通じて初めて獲得される。生活世界は超越論的現象学に至る一つの道だということを忘れてはならない。そうすると、上のような対比の構図で済ますことができなくなってくる。」</p>
<p>浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」,20-21P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc46">シュッツにおける生活世界</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e3c7745e16aa9ca787f158b1fb90bc5f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2787" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e3c7745e16aa9ca787f158b1fb90bc5f.png" alt="" width="975" height="465" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e3c7745e16aa9ca787f158b1fb90bc5f.png 975w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/11/e3c7745e16aa9ca787f158b1fb90bc5f-800x382.png 800w" sizes="(max-width: 975px) 100vw, 975px" /></a></p>
<p>・問題は、どのように生活世界を捉えるかという話。一次的構成物そのものを使うのは難しい。抽象化して、論理的一貫性をもたせるような、本質を練り直すような作業が必要(ようするに、本質の型を取り出す作業)。</p>
<p>・しかし、練り直して世界を捉えると、生活世界における構成そのものではなく、再構成となり、別物になる。そして重要なのは、<b>別物であると科学者が意識すること</b>である。色眼鏡で見た世界を現実そのものとは思わないように、<b>生活世界の見方に寄り添うように、乖離しないようにどうやって再構成するか</b>が問題となる。それがシュッツにおける二次的構成物、社会学理論の内容。</p>
<h3><span id="toc47">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc48">アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成―理解社会学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3gBgsbn">アルフレッド・シュッツ「社会的世界の意味構成―理解社会学入門」</a></p>
<h4><span id="toc49">谷 徹「これが現象学だ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3U90SBv">谷 徹「これが現象学だ」</a></p>
<h4><span id="toc50">山竹 伸二「本当にわかる哲学 」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://amzn.to/3FaP8ud" target="_blank">山竹 伸二「本当にわかる哲学</a></p>
<p>&nbsp;</p>
<h3><span id="toc51">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc52">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc53">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc54">新睦人「社会学のあゆみ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LG8hpn">新睦人「社会学のあゆみ」</a></p>
<h4><span id="toc55">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00IR44T26/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00IR44T26&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=f2712c443f380f792438b51627b4e2de" target="_blank">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる！</a></p>
<h4><span id="toc56">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
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<h4><span id="toc57">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc58">クロニクル社会学</span></h4>
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<h4><span id="toc59">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
<h3><span id="toc60">参考論文</span></h3>
<p>１：盛山和夫「反照性と社会理論─理解社会学の理論仮説と方法─」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/3/1/3_1_57/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>２：高艸賢「シュッツの社会科学基礎論における生の諸相――体験次元と意味次元の統一としての主観的意味――」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/sstj/11/0/11_55/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>３：盛山和夫「経験主義から規範科学へ－数理社会学はなんの役に立つか－」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/21/2/21_2_199/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>４：水谷史男「自明なことを凝視する先に何が見えるのかエスノメソドロジー管見―社会学方法論の研究―」(<a href="https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=471&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>５：渡部光，西原和久「A・シュッツにおける「間接呈示的指示関係」―&lt;日常生活世界&gt;論あるいは&lt;意味の社会学&gt;へ向けて―」(<a href="file:///C:/Users/ik1ya/Downloads/13_kiyo_15_129-148_WATABE.pdf">URL</a>)</p>
<p>6：江原由美子「『ジェンダーの社会学』と理論形成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/57/1/57_1_74/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>7：浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/7360/mp_39_013.pdf">URL</a>)</p>
<p>８：梅村麦生「A.シュッツの同時性論「共に年をとること」としての同時性について」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/7360/mp_39_013.pdf">URL</a>)</p>
<p>９：飯田卓「同時性と時間意識―社会的時間の解明に向けて―」(<a href="https://tuis.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=620&amp;file_id=21&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>１０：吉沢夏子「A・シュッツにおけるフッサール哲学の意義:&#8221;自然的態度の構成的現象学&#8221;とは何か」(<a href="https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845762336035840">URL</a>)</p>
<p>１１：吉沢夏子「社会学と間主観性問題主観主義&#8221;批判再考」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/35/2/35_2_130/_pdf/-char/en">URL</a>)</p>
<p>１２：浜渦辰二「フッサールとシュッツ:対話としての臨床哲学のために」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/7360/mp_39_013.pdf">URL</a>)</p>
<p>１３：周藤真也「アンチ・アンチ・ソリプシズム──A・シュッツと独我論をめぐる関係から──」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh1988/2003/16/2003_16_250/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>１４：佐藤大介「フッサール他者論に関する先行研究の整理と比較検討（１）―フッサールへの批判を中心に―」(<a href="https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/6/63120/20220126111232276620/hss_052_213.pdf">URL</a>)</p>
<p>１５：宇都宮京子「ウェーバーにおける現象学の意義とその影響についてシュッツ、パーソンズのウェーバー解釈と「客観的可能性の範疇」をめぐって」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/42/3/42_3_293/_pdf/-char/en">URL</a>)</p>
<p>１６：橋爪 大輝「なにが行為を行為たらしめるのか──シュッツの行為論──」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/ethics/71/0/71_159/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
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		<title>【基礎哲学第七回】エンペドクレス「万物の根源は四つの根(リゾーマタ)である」</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/10/13/empedokles/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 13 Oct 2022 09:32:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[エンペドクレス]]></category>
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					<description><![CDATA[エンペドクレスに関する記事です。]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-9" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-9">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li></ol></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">エンペドクレスはだれか、どんな人か</a><ol><li><a href="#toc4" tabindex="0">エンペドクレスはどんな人物なのか</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">エンペドクレスはどの時期の哲学者か</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">エンペドクレスはどんな人物か</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">エンペドクレスにまつわる話、エピソード</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">１：風を封じたエピソード</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">２：死者を蘇らせたエピソード</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">３：火山に飛び込んだエピソード</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">４：評議会の監督官を死刑にした話</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">エンペドクレスの師弟関係、あるいは影響</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">エンペドクレスはどんなことを言ったのか、主張は何か</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">【万物存在論】エンペドクレスは万物の原理、アルケーをなんだと考えたのか、リゾーマタとはなにか</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">四つの根とエレア学派との関連</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">四元素説はアリストテレスに引き継がれていった</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">【万物生成論】エンペドクレスは万物の生成をどのように説明したのか(愛と憎しみの生成原理)</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">コラム：四根が動力因でもあるという説</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">一元論と多元論</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">宇宙生成論</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">四つの時期の円環運動</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">世界はスパイロス(球体)だった</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">動植物はどのように生成されるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">他の主張</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">１：感覚とはそれぞれの「孔」に適合することによってなされると主張している。</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">２：磁石に関する説明</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">アリストテレスからの批判</a></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">社会学との関連</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">円環する時間</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">エンペドクレスにおける円環的な時間</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">当時の時代背景</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">エンペドクレスの輪廻転生思想</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">近代的な時間意識の形成</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">エンペドクレス断片ピックアップ</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">断片6</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">断片8</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">断片１２</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">断片13</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">断片14</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">断片16</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">断片17</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">断片20,2~5行</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">断片21</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">新断片21の一部(1995年に発見)</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">断片25（？）</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">断片26,5-7行</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">断片112</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">断片117の一部</a></li></ol></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">その他エンペドクレスに関する話のソース</a><ol><li><a href="#toc50" tabindex="0">アポロドロスによる『年代記』</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">サテュロスによる『伝記』</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">スーダ辞典</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">ニコマコス</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">プルタルコス</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">クレメンス</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">ピロストラトス</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">プリニウス</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">アリストテレス</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">プラトン</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">シンプリキオス</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">擬プルタルコス</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">ヒッポリュトス</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">アエティオス</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">ストバイオス</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">ガノレス</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">アキレウス・タティオス</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">アレクサンドロス</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc69" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc70" tabindex="0">「時間の比較社会学」</a></li></ol></li><li><a href="#toc71" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc72" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/xz5NZY_Eksw" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h2><span id="toc3">エンペドクレスはだれか、どんな人か</span></h2>
<h3><span id="toc4">エンペドクレスはどんな人物なのか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>エンペドクレス(Empedoklēs)</strong></span>：</big>・古代ギリシアの哲学者。自然学者、医者、詩人、預言者、奇跡家、政治家など多くの活躍が知られている。著作は『ペリ・ヒュセオース』(自然について)と『カタルモイ』(浄め)の二著作。ただし、断片のみしか残っていない。エムペドクレスと訳されることもある。</p>
</div>
<h3><span id="toc5">エンペドクレスはどの時期の哲学者か</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/2be6df469a9d0621444e70dca3b028b5.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2709" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/2be6df469a9d0621444e70dca3b028b5.png" alt="" width="645" height="425" /></a></p>
<p>パルメニデスの後頃に出てきた哲学者とされている。</p>
<h3><span id="toc6">エンペドクレスはどんな人物か</span></h3>
<p>・シチリア島の町アクラガスの名門に生まれた。アクラガスは古代ギリシアの植民地の名前。</p>
<p>・頭に金の冠を戴き、足には青銅製の履物、手には花の冠がついた杖を持って諸都市を巡り歩いたという。他にも、紫衣を身に着け、金色のベルトを巻き、髪の毛が濃く、子供たちを付き従え、気難しい表情をしていたという。肉食を控えていたという説がある(オルフェウス教徒であるため)。</p>
<p>・父親の名前はメトンだといわれている。名家だったらしい。</p>
<p>・祖父の名前は同じ名前であるエンペドクレスであり、著名な人でオリュンピア競技(前496年)、競馬で優勝したことがあるらしい。</p>
<p>・エンペドクレス(祖父ではない方)も競馬をしていたらしい。</p>
<p>・息子の名前はエクサイネトスというらしい。</p>
<p>・エンペドクレスの弟子にはゴルギアスという人物がいて、彼は弁論の技術に関する最初の書物『テクネー』を世に出したとされている。ソフィストの第一世代。アリストテレスによればエンペドクレスは「弁論術の祖」であるという。</p>
<blockquote>
<p>「シチリアで最初に弁論の技術に関する規則をまとめたのは，プラトンやアリストテレスが「弁論術の祖」とするピタゴラス派の哲学者，エンペドクレスとされている。エンペドクレスは紀元前5世紀にシチリアのアクラガスにおいて活躍した当時最大の自然学者であった。エンペドクレスが書いたとされる『自然学』に関する教本は現存しておらず，その内容もほとんど残されていないものの，エンペドクレスの自然学は，宇宙は「火，空気，水，土」という四つの要素によって構成されており，これらの要素が「愛」と「憎しみ」という原理によって離合集散しながら変化を続けるとしている。一方，弁論の技術に関する最初の書物『テクネー（technē）』を世に出したのは，エンペドクレスの弟子のコラクスとされている。」</p>
<p>玉田敦子「批判と礼賛：プラトンにおけるレトリックの地位」,84-85P</p>
<p>「そして、アリストテレスは『形而上学』第１巻第３章で、アナクサゴラスをエンペドクレスと比較し、前者の業績は後者のそれよりも劣っていると評している（Met.Α3,984a11-13.DK31A6,59A43）1。」</p>
<p>松浦和也「「知性」の「無理解」―アリストテレスのアナクサゴラス評―」,79P</p>
<p>「(53)サテュロスは『伝記』の中で、エンペドクレスはエクサイネトスの息子で、彼自身もエクサイネトスという名の息子を残したといっている。そして同じオリュンピア競技において彼は競馬で、彼の息子はレスリングで、あるいはヘラクレイデスが『摘要』においていうところによれば、競走で優勝したとのことである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,1P</p>
<p>「エンペドクレスは、ヒッポボトスのいうところによると、エンペドクレスの子のメトンの息子で、アクラガスの人であった。ティマイオスも『歴史』第１５巻においてこれと同じことを語っており、加えて詩人の祖父のエンペドクレスは著名な人物であったと述べている。ヘルミッポスもまたティマイオスと同じことをいっている。同様にヘラクレイデスも『病気について』の中で、彼は輝かしい家柄の出であって、その祖父は馬を飼育していたと語っており、エラトステネスも『オリュンピア競技勝利者記録』において、メトンの父が第７１オリュンピア競技［前496年］の優勝者であったと、アリストテレスを証人として語っている。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,1P</p>
<p>「それゆえに彼は、パボリノスが『覚書』においていうところによれば、紫衣を身に着け、金色のベルトを巻いていたのである。また青銅の履物を履き、デルポイの花冠を頭に戴いていた。彼の髪の毛は濃く、子供たちを付きしたがえていた。また彼は常にひとつの挙措を持し、気難しい表情をしていた。このような姿で事実彼は〔街中を〕歩いたのであり、出合う市民たちはそれをまた一種の王権の印とも考えたとのことである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,5~６P</p>
<p>「彼は頭に金の冠を戴き、足には青銅製の履物を履き、手にデルポイの花冠〔の付いた杖〕を持って諸都市を巡り歩いたが、それは神であるとの彼にまつわる風評を定着させようとしてであった。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,３P</p>
<p>「いずれにせよレオンティノイのゴルギアスは彼の弟子であった。この人は弁論において卓越した人物であって、その技術を後世に残した。彼〔ゴルギアス〕は１００と９年間生きたとアポロドロスは『年代記』において語っている。(59)自分はエンペドクレスが魔法を行なうところに居合わせたことがあるとゴルギアスが語ったと、サテュロスはいう。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,2P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc7">エンペドクレスにまつわる話、エピソード</span></h3>
<h4><span id="toc8">１：風を封じたエピソード</span></h4>
<p>季節風が激しく吹いて作物が傷んでいたとき、エンペドクレスはロバの皮を剥いで革袋を作り、山頂や屋根に張らせた。そうすることで風を防ぐことができるようになった。こうした話から、「風を封じる人」と呼ばれるようになったらしい。</p>
<p>こうした偉業は「ピタゴラスの奇跡」とも呼ばれている。エンペドクレスの他には、「浄める人」のエピメニデス、「空中を歩く人」のアバリスというものがある。エンペドクレスはピタゴラス学派に教わっていたという説がある。</p>
<h4><span id="toc9">２：死者を蘇らせたエピソード</span></h4>
<p>30日間呼吸せず、脈も打たない女性がいた。パウサニアスという医者にエンペドクレスはアドバイスを行い、その結果、女性は蘇生したという。犠牲の祭礼によって癒やしたという説もある。</p>
<p>エンペドクレスは自分のことを「死すべき者ではなく、不死なる神」と自称している。</p>
<h4><span id="toc10">３：火山に飛び込んだエピソード</span></h4>
<p>エンペドクレスは医者に見放されていた女性を癒やし、犠牲の祭礼を執り行ったという。その宴席で彼は立ち上がり、エトナ火山に赴き、飛び込んで姿を消したという。サンダルが火口から吹き出されていたことから推察されたらしい。</p>
<p>神になったという風評を立証するために飛び込んだという説がある。一方で、火山に飛び込んだのではなく、ペロポネソスに退いて戻ってくることはなかったという説もある。あるいは馬車から落ちて死んだという説もある。</p>
<h4><span id="toc11">４：評議会の監督官を死刑にした話</span></h4>
<p>エンペドクレスは執政官の一人から食事に招待されたが、飲み物が一向に運ばれてこなかった。エンペドクレスは腹立たしくなり、出してくれるように注文したが、招待主は評議会の監督官を待っているとして断った。</p>
<p>監督官は遅れてやってくると、専制支配のように横柄に振る舞ったという。酒を飲み干すか、頭に注ぎかけるか命じたらしい。エンペドクレスはその時は黙っていたが、翌日法定に告発し、招待主も監督官も有罪となり、死刑になってしまったという。これを機にエンペドクレスは民衆派となり、政治に関わるようになったといわれている。僭主政治が台頭しはじめたときに、政治的平等の教えを説いたという説もある。</p>
<blockquote>
<p>「すなわちある時、季節風が激しく吹いて作物が傷めつけられたことがあったが、彼は驢馬の皮を剥いで革袋を作るように指示し、風を捉えるためにそれらを山頂や尾根に張らせた。かくして風が鎮まったとき、彼は「風を封じる人」と呼ばれたとのことである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,3P</p>
<p>「<span id="page18R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">この</span></span><span id="page18R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">呼吸を停止した女性と</span></span><span id="page18R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page18R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page18R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のは、次のようなものであったとヘラクレイデスは</span></span><span id="page18R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page18R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page18R_mcid59" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。すなわち</span></span><span id="page18R_mcid60" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">３０日間彼女は呼吸もせず、脈も打たずにいたにもかかわらず、身体を元の状態のままに保ったので</span></span><span id="page18R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ある。ここからヘラクレイデスは彼のことを医者でもあれば予</span></span><span id="page18R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">言</span></span><span id="page18R_mcid63" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">者でもあると</span></span><span id="page18R_mcid64" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page18R_mcid65" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page18R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のであり、この結</span></span><span id="page18R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">論をまた同時にヘラクレイデスは以下の詩句からも引き出しているのである。</span></span><span id="page18R_mcid68" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid69" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid70" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">おお、友よ、褐色のアクラガス河畔の大いなる町に、</span></span><span id="page18R_mcid71" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid72" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid73" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">都の高みに住む人々よ。善き業に心がける人々よ。</span></span><span id="page18R_mcid74" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid75" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid76" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">幸いあれ。わたしは御身らにはもはや死すべき</span></span><span id="page18R_mcid77" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">者</span></span><span id="page18R_mcid78" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">としてではなく、</span></span><span id="page18R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">不死なる神として、</span></span><span id="page18R_mcid80" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid81" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid82" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ふさわしい尊敬を身に受けながら、すべての者の間を歩み行く。</span></span><span id="page18R_mcid83" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid84" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid85" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">リボンと華やかな冠を頭に戴いて。</span></span><span id="page18R_mcid86" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid87" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid88" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">華やかに咲き誇る町にわたしがいたり着く時はいつも、これらの人々に、</span></span><span id="page18R_mcid89" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid90" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid91" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">男にも女にも、わたしは崇め奉られる。これらの者たちは万をなして付きしたがい、</span></span><span id="page18R_mcid92" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid93" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid94" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そのある者は利得にいたる道はどこにあるかと尋ね、</span></span><span id="page18R_mcid95" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid96" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid97" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">またある者は予</span></span><span id="page18R_mcid98" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">言</span></span><span id="page18R_mcid99" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">を求め、またある者はあらゆる種類の病について、</span></span><span id="page18R_mcid100" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid101" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid102" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">その治療の託宣を聞こうと問い求める。</span></span>」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,3P</p>
<p>「パンテイアという名の医者に見放されていたアクラガスの一女性を彼は癒したのであり、そのために犠牲の祭礼を執り行なったのだと、ヘルミッポスは伝えている。それに招かれた人は８０名近くであったという。またヒッポボトスは、彼は宴席から立ち上がってアイトナ〔エトナ〕火山に赴き、火口に到着するや、それに跳び込んで姿を消したという。そしてそれは神になったという彼にまつわる風評を立証せんがためであったが、彼のサンダルのひとつが吹き出されて、事の次第が明らかになったという。というのは、彼は青銅製のサンダルを履くのを常としていたからである。だがこの説にパウサニアスは反論している。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,5P</p>
<p>「ティマイオスはいう、「ところで、どうして彼は〔エトナ火山の〕火口に跳び込んだのか。その近くに居たということは一度も語られていないのに。したがって彼はペロポネソスで死んだのであって、(72)彼の墓が見出されないからといって、不思議とするには当らない。なぜなら他の多くの人の場合にもそのようなことはあるからである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,5P</p>
<p>「然り、確かにエンペドクレスはある時馬車から落ち、右大腿骨を骨折して死んだという話があるのだ。もし彼が火口に跳び込んで生を飲み干したとするなら、どうして今なお彼の墓がメガラでそれと指し示されるのか。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,2P</p>
<p>「メトンが死んだあと、僭主政治が台頭し始めた。そこでエンペドクレスは内紛を止めるようアクラガスの人々を説得し、政治的平等を諭し教えたと」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,5P</p>
<p>「ティマイオスも同じことを語っているが、同時になぜこの人が民衆派になったかの理由も述べている。彼のいうところはこうである。〔ある時〕エンペドクレスは執政官のひとりから〔食事に〕招待されたことがあった。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,3~4P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">エンペドクレスの師弟関係、あるいは影響</span></h3>
<p>１：パルメニデスの崇拝者という説がある</p>
<p>・エンペドクレスはパルメニデスの講義を聴いていたらしい。パルメニデスの稚児になったという説もある。</p>
<p>２：クセノパネスの崇拝者という説がある</p>
<p>クセノパネスはエレア学派の創始者ともいわれることがある人物。パルメニデスに影響を与えたと言われている。</p>
<p>３：アナクサゴラスの弟子という説がある</p>
<p>４：ピタゴラスの弟子という説がある</p>
<p>あるいはピタゴラスの子供であるテラウゲスの弟子であるという説がある。</p>
<p>さまざまな哲学者の主張を吸収していったエンペドクレスは、他人の著作から思想を盗み、自分のものとしているとして講義への参加を拒まれたことがあるという。</p>
<blockquote>
<p>「テオプラストスは、彼はパルメニデスの崇拝者で、詩においてその模倣者であったといっている。というのは、かの人〔パルメニデス〕もまた自然についての論を叙事詩の形で公にしたからと。(56)しかしヘルミッポスは、パルメニデスではなく、クセノパネスの崇拝者となり、この人と親交を結び、その叙事詩を模倣したのだという。そして後になってピュタゴラス学徒たちと交わりを持ったのだと。アルキダマスは『自然学』において、ゼノンとエンペドクレスは同時期にパルメニデスの講義を聴いたが、後にはそこを去り、一方ゼノンは独自に哲学したが、エンペドクレスはアナクサゴラスやピュタゴラスの弟子となり、前者とは生き方や姿の荘重さを張り合い、後者とは自然学説を張り合ったといっている」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,2P</p>
<p>「彼は最初パルメニデスの講義を聴いた。ポルピュリオスが『哲学史』においていうところによれば、この人の稚児にもなったとのことである。だが別の人たちは、エンペドクレスはピュタゴラスの息子のテラウゲスの弟子であったといっている」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,7P</p>
<p>「彼はピュタゴラスから学んだとティマイオスは〔『歴史』〕第９巻において伝えているが、またその当時起こった学説の剽窃に係わって嫌疑をかけられ、（プラトンもまたそうされたように）講筵に列することを拒まれたとのことである。また彼自身も次のようにいってピュタゴラスに言及している。「かの者たちの中に並はずれた知識を有するひとりの男がいた。まことにその者は心の最も豊かな富をわがものとしていた。」だがある人々は、これはパルメニデスに向けていわれたものであるという。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,2P</p>
<p>「タレスは、アルケー即ち根本物質をもって水であるとし、アナクシメネスは空気であるとし、ヘラクレイトスは火であるとしたが、エンペドクレスはこれらにさらに地を加えて、所謂四元論がその成立をみた。この四元論はアリストテレスによって継受され、中世の自然学をも支配したものである。しかし彼はさらにこれら四元或いはむしろ彼の語をもってすれば四根の結合と分離とによって生成を説明せんとしたが、このさいの結合と分離とが愛(ピロテースまたはビリア)と憎或いは争い(ネイコス)とによって成立するとみた。これは彼が賞料因のほかに運動因或いは動力因をも設定したことを意味する。そうして結合に関しては、彼は結合の割合(ロゴス)を重んじ、この割合に諸物の本質があると見て形相 因をも承認したが、この「結合の割合」という点で、彼はピュタゴラス派から影響されていたものと思われる。実に 断片一二九に「知恵の最る豊かな富をわがものとした人」とあるのは、けだしピュタゴラスのことを指していたであろう」</p>
<p>「文学博士鈴木幹也君の『エンペドクレス研究』 に対する授賞審査要旨」21-22P　<a href="https://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/076/suzuki.pdf">出典</a></p>
<p>「古代ギリシアでは万物の根源(アルケー)として、タレスは水、アナクシメネスは空気、クセノパネスは土、ヘラクレスは火であるとした。その後エンペドクレスは、物質は「火・空気・水・土」の4つのアルケーから構成され、これらが拡散集合して自然界の変化が生じるとした。この論理はプラトンによって引き継がれ、アリストテレスによって「温・冷」「湿・乾」のそれぞれ対峙する2つの性質から4アルケーが成り立ち、あらゆる物性が相互転換可能であるとされ、錬金術の理論的基礎となった。」</p>
<p>木村隆良/新居毅人「安全な質量保存則の実験法」,5P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc13">エンペドクレスはどんなことを言ったのか、主張は何か</span></h2>
<h3><span id="toc14">【万物存在論】エンペドクレスは万物の原理、アルケーをなんだと考えたのか、リゾーマタとはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>リゾーマタ(rizōmata,リゾマタ)</strong></span>：</big>・日本語でいうと四つ根(こん)であり、万物を構成する4つの要素。<b>火</b>、<b>空気</b>、<b>水</b>、<b>土</b>の四つの根が考えられている。現代風にいえば「<b>四元素</b>」である。そのため、エンペドクレスの「四元素説」と呼ばれることがある。</p>
</div>
<p>・アリストテレスの言い方をすれば、この四つの根が「<b>質料因</b>」である。つまり、素材、原料である。</p>
<p>・四元素説は１8世紀末にラボアジエが近代的元素説を提出するまで主流だったという。柴田雄次さんによると、現代的に解釈すればそれぞれエネルギー、気体、液体、個体にあたるという。</p>
<p>・ヘラクレイトスの火、アナクシメネスの空気、タレスの水、クセノパネスの土を合わせたような考え。彼らに影響を受けている。</p>
<p>・四根はそれぞれ神に例えられている。ゼウスは火、ヘラは土、アイドネウスは空気、ネスティスは水であるという。ヘラが空気で、土がアイドネウスと解釈される場合もある。</p>
<blockquote>
<p>「すなわちまずは見よ，太陽（火）を──見るに明るく いたるところで熱い太陽を．</p>
<p>また見よ かの不死なるものを──熱く輝く光（気）にひたされたものどもを．</p>
<p>また見よ 雨（水）を──あらゆるものにおいて暗く冷たい雨を．</p>
<p>また大地（土）からは 根強く固いもろもろのものが生まれ出る．」(断片21)</p>
<p>「まずは聞け，万物の四つの根を．<br />
輝けるゼウス，生命はぐくむヘラ，またアイドネウス．<br />
そして死すべき人の子らのもとなる泉を その涙によってうるおすネスティス．」</p>
<p>断片６</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p>「すなわちまずは見よ，太陽（火）を──見るに明るく いたるところで熱い太陽を．<br />
また見よ かの不死なるものを──熱く輝く光（気）にひたされたものどもを．<br />
また見よ 雨（水）を──あらゆるものにおいて暗く冷たい雨を．<br />
また大地（土）からは 根強く固いもろもろのものが生まれ出る．」</p>
<p>断片２１の一部</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">四つの根とエレア学派との関連</span></h3>
<p>１：エンペドクレスも同様に、四つのリゾーマタは不生不滅であると考えている。永遠不変なもの。</p>
<p>２：エンペドクレスはエレア学派とは違い、真なるものが単一ではなく、多数(四つ)であると考えている。エレア学派は「有」を「分割(可分)」できるとは考えていない</p>
<p>・四根は永遠不動で、不生不滅、不分割だとされている。</p>
<p>→パルメニデスの「在るもの」とほとんど同じような性質をもっている。つまり、「在るもの」から「在らぬもの」へ変化することもなく、「在らぬもの」へと移動することもない。</p>
<p>→世界は四根で埋め尽くされていて、「<b>空虚</b>」も存在しないと主張してる。つまり、四根同士の隙間はないと考えられている。たとえば石と石の間になにもないように見えても、目に見えない空気がある。現代の科学でも、自然に真空状態(絶対真空)というものはないそうだ(人工的にも地球では作れない)。要するに、何ら物質がないような状態は考えられない。アリストテレスの「自然は真空を嫌う」でよく知られている。エンペドクレスの以下の断片からも、そのような考えがわかる。パルメニデスも同様に、空虚を認めなかった(世界は一つであり、分割できない)。</p>
<blockquote>
<p>「シケリア島西岸に位置するアクラガスのエンペドクレス(c.BC.493-c.433)は、ピュシスとして土,水,空気,火の四つを挙げ,「根」rhizomaと名づけた。今風に言えば元素である。これら四つの元素は不変であり永遠であるが,互いに結合したり分離したりすることにより,事物の生成消滅が起きるのだとした。そうすると,これら四つの元素を動かす原因を別に考えなければならない。そこでエンペドクレスはこれらを結合させる原因として「愛」を,分離させる原因として「憎しみ」を挙げた。彼によれば,世界は元々はパルメニデスが考えるような単一の球体だった。だが「憎しみ」が作用したことで,まず空気が分離され,次いで火,土,水が分かれて現在の世界ができたとする。「&#8230;&#8230;これらのものから,かつてあったし,現にあり,これからもあるであろうあらゆるもの,樹木も男と女も獣も水棲の魚もさてまた長命を生き,最も誉れ高い神々も生まれ出たゆえに」しかしそのうちに「愛」が働くようになると多様な事物が存在するこの世界は元の単一の球へと再結合していくと言うのである。」</p>
<p>古牧徳生「なぜソクラテスは逃げなかったのか:自然の探求から人間の探求へ」,3P</p>
<p>「ディオゲネス・ラエルティオスは「この詩句においてゼウスとは火のことであり、ヘラとは土のことである。またアイドネウスとは空気、そしてネスティスとは水のことである」と解説している。そして「これらのものは普段に交替しつづけて決して止むことがないのだと彼は言って、このような秩序は永遠であるかのように考えているのである」と言及している。つまり４つのリゾーマタは絶えまなくその位置を交替しながらも、基本的な構成要素は決して変化することがない。それが永遠の秩序をかたちづくっているのだという。」</p>
<p><a href="http://setubikougyo.co.jp/publication/column_tetugaku/2010-2-243.pdf">出典(ディオゲネス・ラエルティオス)</a></p>
<p>「エンペドクレスは沸騰〔ゼシス〕とアイテールを「ゼウス」、土を「生命育むヘラ」、空気を「アイドネウス」（というのは、それは自らの光を有さず、太陽や月や星によって照らされるのだからである）、種子と水を「ネスティス」、「死すべき人の子らのもとなる泉」という。かくして万有は四つの元素から出来ており、それらの本性は対立するもの、乾と湿、温と冷によって構成されているのである。そして万有は互に対する比例関係と混合によって造り出されるのであり、部分的な転化を受けることはあっても、全体の解体は許さないのである。というのも、彼は次のようにいっているからである。ある時には愛の力により、すべては結合してひとつとなり、ある時には争いの持つ憎しみのために逆にそれぞれ離ればなれとなる。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,17P</p>
<p>「すなわち彼が「ゼウス」というのは沸騰〔ゼシス〕とアイテールであり、「生命育むヘラ」は空気であり、土は「アイドネウス」、「ネスティス」と「死すべき人の子らのもとなる泉」はいわば種子と水のことなのである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,17P</p>
<p>「さらに万有の中には いささかの空虚も過剰もない．」(断片13)</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">四元素説はアリストテレスに引き継がれていった</span></h3>
<p>アリストテレスは四根は相互に変換できると考えた。物質は「湿・乾」、「熱・冷」の４つの性質の組み合わせによって、四元素を構成するという。</p>
<p>湿と熱が組み合わされると空気、湿と冷が組み合わされると水、乾と熱が組み合わされると火、乾と冷が組み合わされると土(地)になるという。</p>
<p>それぞれの元素には「固有の場所」があり、土や水は「下」へと引かれ、、火や空気は「上」へと昇るとされている。また、空虚の存在をエンペドクレスと同様に認めていない。これら四元素の生成を導くものは天上にあるアイテールであるとされた。</p>
<p><a href="https://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~morita/Subjects/studentworks/ishii_2010/invisible_substance.htm">参考サイト</a></p>
<h3><span id="toc17">【万物生成論】エンペドクレスは万物の生成をどのように説明したのか(愛と憎しみの生成原理)</span></h3>
<p>Q：万物、つまり四根が不変不動不生不滅であるならば、水が消えたり凍ったり、生じたりして見えるのはなぜか。不変不動なら、なにも変化して見えないはずではないか。</p>
<p>A：四根<b>以外</b>のものが四根を変化させるから、我々の目には万物が生成しているように見える。</p>
<p>Q：四根以外のものとはなにか</p>
<p>A：「<b>愛</b>(<b>ピリアー</b>)」と「<b>憎しみ</b>(<b>ネイコス</b>)」だという。憎しみは対立と訳されることもある。愛は四根を混合させ、憎しみは四根を分離させるという。<b>元素はお互いの場所を取り替え合っている</b>という。愛と憎しみは、現代風にいえば「引力」と「斥力」に言い換えられることがある。</p>
<p>アリストテレスの用語で言えば「動力因」である。要するに、運動、生成、変化を引き起こす力のこと。</p>
<p>愛や憎しみという動力因によって、四根はそれぞれ位置を変え、混合したり分離したりする。その分離や結合の割合によって、水に見えたり、氷に見えたりする。水の根の割合が少なく、空気の割合が多ければ消えたように見えるが、実際には水の結合の割合が変化しただけで、水の根は消えたわけではなく、離れただけ。</p>
<p>このような混合や分離の「<b>比例</b>」によって万物の生成を説明する方法は、ピタゴラスに影響を受けていると思われている。</p>
<p>なぜなら、ピタゴラスはアルケーを「<b>数の比</b>」だと考えたから。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/i006_051.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-2710" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/i006_051.jpg" alt="" width="241" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/i006_051.jpg 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/i006_051-800x765.jpg 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/i006_051-1536x1468.jpg 1536w" sizes="(max-width: 241px) 100vw, 241px" /></a></p>
<p>・混合と聞くとお互いが独立できずに混ざり合っているようなイメージになるが、実際は「併置され、触れ合っているに過ぎないイメージ」であるという。それぞれの四根は移動しているだけで、独立していて、消滅したり、完全に混ざり合ったりすることはないイメージ。</p>
<p>・例えるならディスプレイの色の配置のようなもの。たとえば赤と緑が隣り合わせになっていると、われわれには黄色に見える。我々には可視できないほど小さい画素の集まりだから、別々の画素として識別できない。赤と緑はそれぞれ変化していないのに、黄色に変化したように我々には見える。それぞれのリゾーマタの位置が変わることで、さまざまな変化が生じているようにみえる。</p>
<p>・余談になるが、エンペドクレスは色について、白、黒、赤、黄の四つの組わせによって生じるとしている。</p>
<blockquote>
<p>「ある人々は、端的な生成と呼ばれるものは性質変化&#8230;&#8230;..であると言い、別の人々は性質変化と生成は異なるものであると言う。つまり、万物はある一つのものであり、万物はその一つのものから生成すると語る人々であれば誰でも必然的に、生成は性質変化であり、主要な生成するものは性質変化すると語る。また、質料を一つより多くのものとみなす人々、たとえばエンペドクレス、アナクサゴラス、レウキッポスであるが、そのような人々であれば誰でも［必然的に］、それら［生成と性質変化は］異なるものと必然的に［語る］。さらにアナクサゴラスは自分が述べることに無理解であるのであるが、次のように語っている。……「知性」の「無理解」81生成することと消滅すること……は性質変化と同じだとしている一方で、他の人々同様に、元素を複数あると述べている。つまり、エンペドクレスは元素を４つとし、動かすものを含めて元素のすべてはその数を６つであるとしているが、アナクサゴラスおよびレウキッポスとデモクリトスはその数を無限としている。アナクサゴラスは「同質部分のもの」を元素に据えた。たとえば、骨や肉や髄、その他その部分が同名同義であるものがそれである。（GC.I1,314a11-20）」</p>
<p>アリストテレスの『生成消滅論』第１巻第１章の内容</p>
<p>松浦和也「「知性」の「無理解」―アリストテレスのアナクサゴラス評―」,80-81P</p>
<p>「エンペドクレスは万物の元として、火、空気、水、土の四元を措定し、これらはそれぞれ分割することはできるが独立で、他から導出することができないものとした。生成、消滅、変化という現象は四元の混合の割合の変化と看做された。すると、混合の割合の変化をもたらすものは何かというおなじみの疑問が顔を出す。一元論をとったミレトス派の自然哲学者たちは、変化をもたらす原因をもアルケー(元のもの)に封じ込めることができた。たとえばアナクシメネスにとっては、アルケーとしての空気は、万物の元であると同時に変化原因そのものでもあった。しかし万物の元として四元を措定したエンペドクレスにとって、変化原因を四元の中に措定することは大変困難であったと思われる。なぜならば、四元のどれか一つの中に変化原因を求めると四元の等価性と矛盾し、さりとて四元の中に等しく変化原因を求めるとこれら四元の中にある変化原因の間の角逐を司るメタレベルの原因を求めなければならぬという無限退行に陥るからである。そこでエンペドクレスは四元とは別に変化原因を想定しなければならなかった。エンペドクレスが想定した変化原因は、〈愛〉と〈争い〉である。それは今日の言葉では引力と斥力といいかえてもよいだろう。愛のみがあり争いがないとき、四元は完全に一体化し、争いのみのときは四元は完全に分離する。通常は愛と争いのせめぎ合いにより、四元はさまざまな結合の仕方をする。「そして、これら四元はたえず交替をやめることがない。ときには愛によって、すべてが結合して一つになり、ときにはまた争いの敵意によって、おのおのは四散する」かくしてここに、不変なるものとして、四元とは異なるものがあるという明確な言明がなされることになった。エンペドクレスによってギリシャ自然哲学の中にもたらされた多元論の真の意味は、万物の元として等価的な四元を想定したことよりもむしろ、質的に異なる不変なるものの存在を示唆した点にこそあったというべきだろう。エンペドクレスの思想は、表面的にはパルメニデスとヘラクレイトスの折衷案的な趣きから脱していないが、理念的に異なる「不変なるもの」の共存を認めた点で、アリストテレスの四原因説の先駆をなすとともに、初期条件と運動法則で変化を説明しようとするニュートン力学の萌芽ともいえるのである。」</p>
<p>池田清彦「構造主義と進化論」,25-26P</p>
<p>「ヒッポクラテスは、われわれの知る限り、元素は混和すると唱えた最初の人である。･･･そしてこの点で彼はエンペドクレスと異なるのである。この人もヒッポクラテスのいうのと同じ元素からわれわれも、そしてまた地上に存する他のすべての物体も出来ているというが、しかしそれらは〔彼の場合には〕互いに混和し合うのではなく、微細部分ごとに並置され、触れ合っているに過ぎないのである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,17P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">コラム：四根が動力因でもあるという説</span></h3>
<p>・従来は、四根が動力因ではなく、受動的な存在とみなされていた。つまり、動力因は愛と憎しみの２つであり、四根は運動の原理をもたないと考えられていた。</p>
<p>→鈴木幹也さんによれば、アリストテレスの影響によって、ギリシア語の単語を「過去分詞」に訳出する傾向が専門家にはあるが、本来は「自動詞」を使って訳出するべきだという。鈴木さんいわく、愛と憎しみは四根を動かす動力員ではなく、運動の方向を規定するものにすぎないと解釈している。つまり、四根自体が動力因をもっているという解釈である。</p>
<p>このアルケー自体が動力因をもっているという解釈は、後のデモクリトスなどにもみられる。</p>
<blockquote>
<p>「このようにして，四根の空間的な運動を描く表現8例のうち，7例に受動の意味あいはなく，例外的である断片22の&#8230;&#8230;にしても，これを自動の意味に解釈することが可能であり，しかも賢明であるから，Empは四根を独力で自発的に動くものとみ，その活動をもっぱら自動的な動詞によって表現していたものと解されるのである．ここに，問題の対句のrl。&#8230;&#8230;を直接再帰の自動の中動相とみる一つの根拠がある．」</p>
<p>鈴木幹也「エンペドクレス序説:断片17.8行のφορευμεναの相」,26P</p>
<p>「Emp．の四根は活動力のない原質ではなく，活動力のある原質である．愛と憎は（四根の運動に関しては）四根を動かす動力因ではなく，ただその運動の性質を，つまり結合するように動くか分離するように動くかその運動の方向を，規定するものにすぎないのである」</p>
<p>鈴木幹也「エンペドクレス序説:断片17.8行のφορευμεναの相」,29P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">一元論と多元論</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>一元論(英：monism)</strong></span>：</big>・一般に、事象の哲学的説明において、唯一の究極的な存在、原理、概念、方法などを考える立場や傾向をいう。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>多元論(英：pluralism)</strong></span>：</big>・一般に、哲学的な事象の説明で、二つ以上の究極的な存在、原理、概念、方法などを考える立場や傾向をいう。</p>
</div>
<p>・今まで見てきた古代ギリシアの哲学者のほとんどは一元論的な傾向があった。</p>
<p>例えばタレスは水、アナクシメネスは空気、アナクシマンドロスは無限(無限定なもの)、ピタゴラスは数など。パルメニデスも進むべき道としては、「在るもの」がただ一つあると考えている。ドクサ(臆見)の道としては、火と土という多元論を持っていた。</p>
<p>・一元論的に万物の存在(質料因)と生成(動力因)を両方説明しようとしたのがミレトス学派だといえる。例えば水は質料因でもあり、動力因でもあるとタレスは考えている。ただし、このような不動であると同時に動くものであるというような考えを「矛盾」と捉える人達が出てきた。それがヘラクレイトスとパルメニデスである。どちらか一方のみを重視していく。</p>
<p>・ヘラクレイトスは不動のものはなく、万物は流転していると考えた(ただし万物は流転するという法則、ロゴス自体は不動だと考えた)。→生成を重視</p>
<p>・パルメニデスは不動のもののみがあり、万物が流転しているようにみえるのは臆見(ドクサ)によるものだと考えた。→存在を重視。</p>
<p>このような存在の原理と生成の原理の調停を最初に試みた人々を「<b>多元論者</b>」と呼ぶ。矛盾しないようにどのように存在と生成を説明するのかが重要になる。</p>
<p>エンペドクレスは存在の原理としては不変不動、不生不滅というパルメニデスの立場を受け継ぎつつ、存在の原理とは独立して生成の原理として「愛と憎しみ」を持ち出してきた。</p>
<p>もともとは「一つのもの」であったアルケーが、「愛と憎しみ」によって四根(リゾーマタ)になり、さらにリゾーマタの混合の割合によって万物、つまり「多のもの」が生成していく。</p>
<p>小坂さんによれば、多元論者に共通しているのは不生不滅の多なる「有」を実在とし、相互の結合と分離によって世界における生成を機械的に説明していることだという。ただし、二項対立物の単なる折衷または並列に終わってしまっているという。</p>
<p>・アルケーが四つだからエンペドクレスは多元論であるといえる。それに加えて、四つの根のほかに動力因として「愛と憎しみ」という独立した別の要素を持ち出してきたという点が評価されている。</p>
<p>たとえば後で出てくるアナクサゴラスは、存在の原理としてのアルケーは無限の種子(スペルマタ)、生成の原理として別に精神(ヌース)があると考えていく。さらにデモクリトスは存在の原理として無数の原子(アトム)があり、この原子自体が運動の原理も備えていると説明していく。</p>
<p>存在の原理と生成の原理をいかに調停するかがギリシア哲学では重要になっていく。説得力のある説明の問題。エンペドクレスやアナクサゴラス、デモクリトスなどが挑戦していく。プラトンは「イデア」という考えで、調停しようとした(現象界では変化しているように見え、イデア界では不変。理性によってイデアは認識可能)。カント(1724-1804)はイデアのようなものは人間の理性によって認識することは不可能だと主張した(批判哲学)。ヘーゲル(1770-1831)は弁証法によって認識することが可能だと主張した。</p>
<h3><span id="toc20">宇宙生成論</span></h3>
<h4><span id="toc21">四つの時期の円環運動</span></h4>
<p>・エンペドクレスは４つの時期によって世界は永遠に生成されていると考えた</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">
<p>愛が完全に支配する時期：四根は愛によって集合し、四根が渾然一体となって球体(スパイロス)となっている状態。愛は球体の内部に、憎しみは球体の外殻部にある。→パルメニデスの「球(在るもの)」の影響か。</p>
</li>
<li class="sample">憎しみが侵入する時期：憎しみが球体内部に侵入し、愛は外殻部に脱出する。</li>
<li class="sample">憎しみが完全に支配する時期：四根は離散し、火は火、空気は空気、水は水、土は土同士で集結して、この順に四層の同心球的な状態となる。愛は外殻部のまま。</li>
<li class="sample">愛が侵入する時期：愛が球体内部に侵入し、憎しみは球体の外殻部に脱出する。</li>
</ol>
<p>エンペドクレスによると、今の地球は②の「憎しみが侵入する時期」だという。火は同じ火だけではなく、水や風、土とも結合する時期だと言える。③になると同じ根とのみ結合するようになっていく。</p>
<p>エンペドクレスの宇宙観は、愛と憎しみの絶え間ない覇権の争いにより、４つの時期を順次に巡り、<b>永遠の円環運動</b>を繰り返すとされている。</p>
<h4><span id="toc22">世界はスパイロス(球体)だった</span></h4>
<p>・四根は最初は一つの球体(<b>スパイロス</b>)だったというのがポイント。球体から四根に分割していくのであり、この可分という点はパルメニデスの考えと対立する点。</p>
<p>・球体が愛と憎しみによって、一のもの(球体)から多のもの(四根)になり、他の物から一のものへと戻るという生成を永遠に繰り返すということ。そしてこの永遠に繰り返すということ自体は永遠不変であり、不動であるという。</p>
<p>→ヘラクレイトスのパンタ・レイ、つまり万物流転という法則(ロゴス)自体は永遠に不動であるという考えと類似している。「事物は、みずから発生してきたところの元のものへ、もう一度帰っていくのが定めである」と言ったアナクシマンドロスと「循環」という展で類似している。</p>
<h4><span id="toc23">動植物はどのように生成されるのか</span></h4>
<p>「自然」や「偶然(偶運)」によって生成されていくという。それぞれ魂をもたない四つの根が、ぶつかりあったりすると、それぞれが固有の仕方で結びつくという。知性でも神でもなく技術(因果関係)でもなく、偶然によって機械的に結合と分離を繰り返し、万物が生成されていく。特に生成の「目的」は考えられていない。</p>
<p>・エンペドクレスによれば、まずは空気が最初の球から分離され、周辺に広がるという。次に、火が吹き出す。順に土、水が分かれてきて現在の世界(大地)ができたという。</p>
<p>次に植物ができ、植物から動物のパーツができ、さらにパーツがランダムに集まっていろいろなものができ、繁殖がうまくいったものだけが動物となって存続したと考えたそうだ。他にも筋肉は火と土が水の２倍の混合、骨は水と土が２、火が４の割合など説明している。</p>
<p>他にも、太陽は火ではなく、火の反射像といったり、月は空気が固まったものであり、光を太陽から得ているといった説明を行っている。我々のいる地上は悪に満ちているが、月より上は清浄だともいっている。これはおそらく愛が最外殻まで追いやられている過程だからだろう。</p>
<blockquote>
<p>「エンペドクレスは古代ギリシャの有名な自然哲学者ですが、やはり〈変わる〉という考え方をとっています。まず地球（大地）ができ、植物ができ、そこから動物のパーツができ、さらに、パーツがランダムに集まっていろいろのものができ、その中から、繁殖できてうまくいったものだけが動物となって存続したと考えました。これはかなりおもしろい考え方だと思います。ただし、これも実証的ではなく、単なる憶測にしかすぎません。」</p>
<p>長谷川眞理子「進化学の系譜博物学とダーウィン以後の生物学」,424P</p>
<p>「エンペドクレスによると，最初，これらの四元素は完全に結合して球体をなしていた．しかし，そこに憎が入り込み，しだいに憎が支配的になって，四元素は完全に分離してしまうが，やがて愛がふたたび力を得て，またもとの結合状態にもどる．世界はこのような四つの時期──①愛の支配する時期，②憎が侵入する時期，③憎が支配する時期，④愛が再来する時期──に分かれながら永遠に繰り返す．そしてエンペドクレスは，現在は②の時期，すなわち憎が侵入し，しだいに支配的になっていく時期にあたる，と考えていた」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,40P</p>
<p>「まず何よりも気にかかるのは、&lt;愛と憎&gt;という二元論的対応構造を示す用語である。この用語は、いささか唐突で恣意的かもしれないが,古代ギリシアの哲学者エンペドクレスEmpedoclesの宇宙生成説を連想させないであろうか。この哲学者によれば,宇宙のあらゆる現象は,地,水,火,風といった四根の,愛と憎による離合集散によって説明されるのだ。因みに,終末論を根幹にすえた彼の宇宙生成説の4つの時期を列挙してみれば、下記のようになる。1愛が完全に支配する時期には,四根は愛によって集合し,四根が運然と一体をなす球体,スパイロスの状態となり,このとき愛は球体の内部に、憎は球体の外殻部にある。2憎の支配の伸長時には、憎が球体内部に侵入するのに対し,愛は球体の外殻部に脱出する。2僧が完全に支配する時期には、四根は憎によって離散し,火は火,空気は空気,水は水,土は土どうし集結して外側からこの順に配列した4層の同心球的集塊をなす球体の状態となり,このとき僧は球体の内部に,愛は球体の外殻部にある。4愛の支配の伸長時には,愛が球体内部に侵入するのに対し,憎は球体の外殻部に脱出する。エンペドクレスの宇宙は、愛と憎の間断のない争覇によって,これら4つの時期を順次に辿り、永遠の円環運動を繰り返すのである。」</p>
<p>萩原真一「イェイツの超自然的風」148-149P</p>
<p>「そうすると,これら四つの元素を動かす原因を別に考えなければならない。そこでエンペドクレスはこれらを結合させる原因として「愛」を,分離させる原因として「憎しみ」を挙げた。彼によれば,世界は元々はパルメニデスが考えるような単一の球体だった。だが「憎しみ」が作用したことで,まず空気が分離され,次いで火,土,水が分かれて現在の世界ができたとする。」</p>
<p>古牧徳生「なぜソクラテスは逃げなかったのか:自然の探求から人間の探求へ」,3P</p>
<p><span id="page47R_mcid130" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「アクラガスのエンペドクレスは、元素は四つあるとする。すなわち火、水、アイテール、土がそれ</span></span><span id="page47R_mcid131" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">である。そしてそれら〔を結合させ、あるいは分離させる〕原因が「愛」と「争い</span></span><span id="page47R_mcid132" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">」である。</span><span dir="ltr" role="presentation">〔まず</span></span></p>
<p><span id="page49R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">最初に〕空気が元素の最初の混合から分離されて周辺に広がったと彼は</span></span><span id="page49R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid3" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。空気の次に火が噴き出</span></span><span id="page49R_mcid4" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">したが、他に行き場所を見出せず、空気の</span></span><span id="page49R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">周り</span></span><span id="page49R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の密集帯から上に噴出した。他方大地の</span></span><span id="page49R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">周り</span></span><span id="page49R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">を回転す</span></span><span id="page49R_mcid9" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る二つの半球があり、その一方は全体として火から出来ているが、他方は空気と少量の火からなる混</span></span><span id="page49R_mcid10" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">合物である。この後者を彼は夜と考えた。運動の発端は密集体が〈そのある部分〉で降り下って</span></span><span id="page49R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page49R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る</span></span><span id="page49R_mcid13" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">火と出遭ったことから引き起こされた。太陽は本性的には火ではなく、水面に映える反射に似た火の</span></span><span id="page49R_mcid14" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">反射像に他ならない。</span><span dir="ltr" role="presentation">しかし月は火によって切り離</span></span><span id="page49R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">された空気からそれ単独で</span></span><span id="page49R_mcid16" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page49R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">り立っていると彼は</span></span><span id="page49R_mcid18" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid19" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。すなわち空気が雹のように固まったものなのである。そして月は太陽から光を得ている。支配</span></span><span id="page49R_mcid21" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">的部分は頭でも胸でもなく、血液中にある。したがって身体中のどの部分にそれ（支配的部分のこと</span></span><span id="page49R_mcid22" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">を彼は考えている）がより多く撒かれているかで、人間は〔それぞれ〕その部分で優ると</span></span><span id="page49R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid24" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid25" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。」</span></span></p>
<p><span id="page47R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">擬プルタルコス</span></span><span id="page47R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『雑録集』</span></span><span id="page47R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">10</span></span><span id="page47R_mcid125" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page47R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.582</span></span><span id="page47R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page59R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">火、水、土、空気、これらはすべて自然と偶然によって存在し、それらのいずれも技術によって存</span></span><span id="page59R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">在するのでないと彼らは</span></span><span id="page59R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page59R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page59R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。そしてまたそれらにつづく諸</span></span><span id="page59R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">物、すなわち大地や太陽や月や諸星につ</span></span><span id="page59R_mcid57" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いても、全く魂を有さない〔生命のない〕それら〔火、水、土、空気〕によって造られているのだと。</span></span><span id="page59R_mcid58" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それぞれがそれぞれ有する能力の偶運によって運ばれ、ぶつかり合ったりすると、それぞれがそれ固</span></span><span id="page59R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">有の仕方で結びつくのであり、熱いものが冷たいものと、あるいは乾いたものが湿ったものと、軟ら</span></span><span id="page59R_mcid60" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">かいものが硬いものと、</span><span dir="ltr" role="presentation">また反対のものの偶然的な混合によって必然的に混和される限りのすべての</span></span><span id="page59R_mcid61" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ものが結びつくのであって、そのような仕方で、またそれらのものに基づいて、このように天界全体</span></span><span id="page59R_mcid62" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と天界の内にあるすべての</span></span><span id="page59R_mcid63" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ものが生み出されたのであり、またそれらから全季節が生まれると、動物</span></span><span id="page59R_mcid64" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">や植物の一切が生み出されたのであるが、これらは知性によるのでもなければ、何かある神的存在に</span></span><span id="page59R_mcid65" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">よるのでもなく、また技術によるのでもなくして</span></span><span id="page59R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、むしろ今われわれが語ったもの、すなわち自然と</span></span><span id="page59R_mcid67" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">偶然によるのだと</span></span><span id="page59R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼らは</span></span><span id="page59R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page59R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page59R_mcid71" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。</span></span>」</p>
<p>プラトン（『法律』X889B‐C）</p>
<p>「<span id="page67R_mcid76" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ちょうどエンペドクレスが、われわれのいる場所はすべて悪に充ちており、悪は大地の周辺領域か</span></span><span id="page67R_mcid77" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ら延びて月にまで達しているが、それより先には及んでいない。なぜなら月より上の領域はすべてよ</span></span><span id="page67R_mcid78" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">り清浄だからであると</span></span><span id="page67R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page67R_mcid80" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page67R_mcid81" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ようにである。ヘラクレイトスもまたそのような考えであった。</span></span>」</p>
<p><span id="page67R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポリュトス</span></span><span id="page67R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『全異端派論</span></span><span id="page67R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">駁』</span></span><span id="page67R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I 4,3</span></span><span id="page67R_mcid71" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page67R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.559</span></span><span id="page67R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">他の主張</span></h3>
<h4><span id="toc25">１：感覚とはそれぞれの「孔」に適合することによってなされると主張している。</span></h4>
<p>たとえば視覚については、眼の中に「火」があり、目の穴から火のようなもの(光線)を主体的に放射し、見られる対象に届くことによって可能だとされている。火は微細であるため、眼の他の水、空気、土のアルケーを通り過ぎることができるという。</p>
<p>一方で、「<b>流出物</b>」によっても視覚を説明している。たとえば色は物体から何かが流出することによって生じるとされている。色は元素の数と等しく、白、黒、赤、黄だとされている。孔に流出物が適合していることで、感知されるという。</p>
<h4><span id="toc26">２：磁石に関する説明</span></h4>
<p>磁石が鉄を引き付ける理由を「流出物」を使って説明している。</p>
<p>磁石にも鉄にも孔があるという。磁石の孔から流出物が出てきて、鉄の穴の上の空気を追い払うという。そして鉄の穴から流出物が流れ出てきて、鉄もまた流出物と一緒についていき、磁石と引き合うのだという。</p>
<p>多くのものが相互に流出物と対応しあった孔をもっているらしい。磁石は鉄に対応した孔をもっていた、ということになる。</p>
<blockquote>
<p>「一方、外送理論では、観察者の眼からある種の視覚光線が送り出され、見られる物体を照らすことで視覚が生じると考えられた。紀元前５世紀のギリシアのエンペドクレス（B.C.444頃）は、愛の女神アフロディーテが、土、水、空気、火の四元素を愛のリベットでつなぎ合わせて眼を作り、宇宙の最初の炉の火で眼の火を灯し、それを眼球に閉じ込めたと考えた。眼の中へ通じる通路が用意され、眼は美しい内部の火を眼の水を通して外の世界へ送り出せるようになり視覚が生まれた（Nordlund49‒50；ザイエンス33；小池126‒27）。エンペドクレスの叙事詩『自然について』（田中59‒60）では以下のように描かれている。シェイクスピアにおける視覚115ひとは嵐の夜をおかして外に出かけようと思うと提燈を用意し燃える火の焔をつけてともす――どんな風でもふせげるように角板をしっかりとはめこんで。それは吹きつける風の息吹を払い散らすけれども、光はいっそう微細であるだけに板をとおして外につきぬけ疲れをしらぬ光線によって敷居を越えてかがやく。ちょうどそれと同じようにかのとき原初の火は薄い布地のような被膜の中に閉じこめられつつまるい瞳にひそみかくれたが、その膜にはいくつもの精妙な孔があけられ通されてあった。それらは瞳のまわりにたゆとう深い水を蔽いさえぎったけれども、しかし火はいっそう微細であるだけにそこを通りぬけた。・・・これらのものから女神アプロディテは疲れ知らぬ眼をかたちづくった。アプロディテは［眼を］愛の絆でかためてつくった。」</p>
<p>松浦芙佐子「シェイクスピアにおける視覚」114-115P</p>
<p>「しかしまた時には見られるものから出てくる流出物によって見るとも主張している」と付け加えている。ある流出物が〔対象から〕流れ出てきて視覚にぶつかるが、それが視覚の孔にそれと対応していることによって適合するとき、流出物がその中に入り、このようにして視覚が生じるというわけである。プラトンもまた『メノン』の中でエンペドクレスのものとしてこの説に言及しており、その説に基づいて色を、物体からの流出物が視覚と適合関係にあることによって感知されるものと規定している。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,66~67P</p>
<p>「エンペドクレスは〔視覚を〕光線によるとも剥離像によるとも解釈しているが、より多く後者の解釈に傾いている。というのも、彼は流出物といったものを認めているからである。」</p>
<p><span id="page95R_mcid133" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">日下部吉信「資料集(10)」,39P,アエティオス</span></span><span id="page95R_mcid134" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page95R_mcid135" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">IV 13,4</span></span><span id="page95R_mcid136" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page95R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.403</span></span><span id="page95R_mcid138" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page77R_mcid128" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">肉は等しい割合で混合された四元素から生み出され、</span><span dir="ltr" role="presentation">筋は火と土が二倍の水と混合されることによ</span></span><span id="page77R_mcid129" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">って生じ、</span><span dir="ltr" role="presentation">動物の爪は筋が空気と出合った際に冷やされることによって生み出され、</span><span dir="ltr" role="presentation">骨は水と土が二、</span></span><span id="page77R_mcid130" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">火が四からなるとエンペドクレスは</span></span><span id="page77R_mcid131" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid132" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page77R_mcid133" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。土の中にこれら諸部分が混合されることによってである。</span></span><span id="page77R_mcid134" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また汗と涙は血液が溶解し、より微細になるために染み出すことによって生じると</span></span><span id="page77R_mcid135" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid136" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page77R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span>」</p>
<p><span id="page77R_mcid117" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page77R_mcid118" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page77R_mcid119" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">V</span></span><span id="page77R_mcid120" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid121" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">22,1</span></span><span id="page77R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page77R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.434</span></span><span id="page77R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span></span></p>
<p>「ヘラクレスの石〔磁石〕について。なぜそれは鉄を引きつけるのか。エンペドクレスは双方からの流出物によってであって、石の孔が鉄の流出物と対応し合っているために鉄は石に向けて運ばれるのだという。すなわち、石の流出物が鉄の孔の上の空気を追い払い、それらを蔽っているものを移動させるのである。そしてそれが取り除かれると流出物が一挙に流れ出、鉄もそれについて行くのである。鉄からの流出物が石の孔へと運ばれるとき、それはそれら〔の大きさ〕が孔と対応し合っており、孔に適合するからであるが、そのとき鉄もまた流出物と一緒について行き、一緒に運ばれるというわけである。だが人は、たとえ流出物に関することは承認するとしても、一体どうして石は自分の流出物について行かないのか、そしてどうして鉄に向かって動かないのかという点をさらに問題にしたいと思うであろう。」</p>
<p><span id="page95R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation"><span id="page95R_mcid133" class="markedContent">日下部吉信「資料集(10)」,39P,</span>アレクサンドロス</span></span><span id="page95R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『問題集』</span></span><span id="page95R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 23</span></span><span id="page95R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page95R_mcid41" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.72,9</span></span><span id="page95R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">アリストテレスからの批判</span></h3>
<p>愛が万物を結合させ、憎しみが分離させると言いながら、一方では愛が万物を分離させ、憎しみが結合している面があるという。</p>
<p>たとえば第３の時期において憎しみが支配する時、四根はそれぞれ同じ根同士で結合すると述べている。第四の時期において愛が侵入するとき、それぞれ結合していた四根を分離させ、一つへと結合する。</p>
<p>また、アリストテレスはエンペドクレスが詩を用いて自然哲学を表現したことを批判している。「曖昧な語では語らぬこと」として批判している。「海は『大地の汗である』といって、何かいっぱしのことをいったかのように思っている人がいるとするなら、同様に笑うべきことである」とエンペドクレスを批判している箇所もある。</p>
<p>小坂国継さんによれば、エンペドクレスは本来説明すべきものを何一つ説明していないという。</p>
<p>愛と憎しみが動力因だと仮定して、愛と憎しみはどこから生じるのか、なぜその２つの対立的な原理を考えなければいけないのか、というようなことを説明していない。</p>
<p>→原因から結果を考えるのではなく、結果から原因を考えているという。万物は生成しているように見える、その原因はおそらく愛と憎しみだろう、というように。エンペドクレスの手法は「<b>デウス・エクス・マキナ</b>(機械仕掛けの神)」であるという。解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在（神）が現れ、解決に導くという意味。ここでいう神が「愛と憎しみ」にあたる。自然科学としてはまだ十分ではない要素がみられる。アリストテレスもデウス・エクス・マキナは褒められた解決方法ではなく、必然性を持った因果関係に基づいて導き出されるべきだとこの手法を批判している。</p>
<blockquote>
<p>「またエンペドクレスのように、海は「大地の汗である」といって、何かいっぱしのことをいったかのように思っている人がいるとするなら、同様に笑うべきことである。なぜならこのようにいうのは、詩作にとってなら恐らく満足も行くであろうが（というのは比喩は詩作に属することだから）、自然の認識にとっては不十分だからである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,14P →<span id="page40R_mcid67" class="markedContent"><span class="" dir="ltr" role="presentation"><span class="highlight appended">アリストテレス</span></span></span><span id="page40R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『気</span></span><span id="page40R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">象論』</span></span><span id="page40R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">B</span></span><span id="page40R_mcid71" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid72" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">3.</span></span><span id="page40R_mcid73" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid74" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">357</span></span><span id="page40R_mcid75" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid76" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page40R_mcid77" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid78" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">24</span></span><span id="page40R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「第二は固有の語でもって語ることであり、･･･第三は曖昧な語で語らぬことである。だがこのことは反対のことが意図されていない場合のことである。その反対のことというのは、語ることが何もないのに、何ごとかを語っているかのように見せようとするときに、人々がやることである。例えばエンペドクレスのごとき人々は詩作においてそのような類のことを語っている。すなわちそれは長く回りくどいものであることによって人を欺く。そして聞き手は、ちょうど大衆が予言者のもとでなるような、そのような状態に陥るのである。というのも予言者が曖昧なことをいうとき、彼らはなるほどとうなずくからである。例えば「クロイソスはハリュス河を渡るなら、大いなる王国を滅ぼすであろう」といったのがそれである。」</p>
<p>日下部吉信「資料集(10)」,14P   →<span id="page40R_mcid20" class="markedContent"><span class="" dir="ltr" role="presentation"><span class="highlight appended">アリストテレス</span></span></span><span id="page40R_mcid21" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『弁論術』</span></span><span id="page40R_mcid22" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Γ</span></span><span id="page40R_mcid23" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid24" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">5.</span></span><span id="page40R_mcid25" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid26" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">1407</span></span><span id="page40R_mcid27" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid28" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page40R_mcid29" class="markedContent"></span><span id="page40R_mcid30" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">31</span></span><span id="page40R_mcid31" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「古代ギリシアの時点で既にこの手法は批判されている。アリストテレスの『詩学』において、デウス・エクス・マキナは褒められた解決方法ではない、とされている。アリストテレスは、演劇の物語の筋はあくまで必然性を伴った因果関係に基づいて導き出されていくべきであるとし、行き詰った物語を前触れもなく突然解決に導いてしまうこのような手法を批判している。」</p>
<p>(<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%8A">出典</a>)</p>
<p>「しかし，それは，本来，説明すべきものを何一つ説明してはいない．どうしてもともと独立している元素と元素が相互に結合したり分離したりするのか．もしそれが愛と憎しみに因るのだとすれば，その愛と憎しみはいったいどこから生ずるのか．どうして愛と憎しみという二つの対立的な原理を考えなければならないのか．おそらく，こうした素朴な疑問にエンペドクレスは満足な答えをあたえることはできないであろう．彼の考えは順序が逆転している．本来は，原因から結果が導出されなければならないのに，反対に，結果から原因が推論されている．元素自身はいかなる変化の原理も有しないとすれば，現実に見られる変化は何か元素の外に初期ギリシア哲学者の実在観（小坂）−41−あるものによって説明されなければならない．それは質料因の外に運動因をみとめることである．しかしそうした運動因はその存在の根拠をどこにも──それ自身の内にも，それ自身の外にも──見出すことはできない．というのも，もともとそれは窮余の一策にすぎなかったからである．つまりは一種のデウス・エクス・マキナであった．そしてこうした欠点は，大なり小なり，どの多元論者の思想にもみとめられる．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,40-41P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc28">社会学との関連</span></h2>
<h3><span id="toc29">円環する時間</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/330px-Ouroboros.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2711" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/330px-Ouroboros.png" alt="" width="330" height="350" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>円環的な時間</strong></span>：</big>・循環するものとして時間を考えること。始めと終わりが区別されないような時間。もし始めと終わりが区別されれば、線分的な時間となる。もし終わりがなく、無限に伸びていけば、直線的な時間になる。</p>
</div>
<p>円環とは一般に、まるい環(わ)のこと。よくウロボロスのイメージで円環が説明されている。</p>
<p>・「円環的な時間」のイメージは生得的に人間がもっていたものではない。</p>
<p>見田宗介(真木悠介)さんによれば、「円環的な時間意識はギリシャ民族に生得的なものではなく、<b>歴史的な発展の局面</b>において発生してきたもの」だという。</p>
<p>ここで重要になるのは、いつ頃、どんな状況で「円環的な時間意識」が発生してきたかということ。</p>
<p>見田さんによれば、最初の円環的な時間のイメージとして知られている表現はアナクシマンドロス(紀元前610~紀元前547年頃)によるものだという。</p>
<p>彼は「事物は、みずから発生してきたところの元のものへ、もう一度帰っていくのが定めである。なぜならもろもろの事物は、みずからの不正のために、時間(クロノス)の秩序づけに従って、相互につぐないをして満足させあうからである。」という断片を残している。</p>
<p>次に、ピタゴラス(紀元前570～紀元前496年頃)の「出来事がある周期の中で回帰する」という言葉がある。</p>
<p>ピタゴラス学派ではオルフェウス教の霊魂不滅説、輪廻転生説が影響力をもっていたという点もポイントになってくる。</p>
<blockquote>
<p>「そして円環する時間のイメージをいっそう明確に把持したのは、『出来事がある周期のなかで回帰する』ことをおしえたピュタゴラス学派の人びとであり、アナクシマンドロスらのミレトス学派とピュタゴラス学派双方の発想をうけたエンペドクレスのつぎのような表現において、円環する時間のイメージは完成される。一つのものと多のものが時の円環のまわるにしたがって優勢を占める。」</p>
<p>真木悠介「時間の比較社会学」166-167P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">エンペドクレスにおける円環的な時間</span></h3>
<p>エンペドクレス(紀元前493～紀元前433年頃)の時代では、「<b>一つのものと多のものが時の円環のまわるにしたがって優勢を占める</b>」という言葉がある。真木悠介さんによれば、エンペドクレスはミレトス学派とピタゴラス学派の両方に影響を受けており、この時期に「円環する時間」のイメージが完成するという。</p>
<p>エンペドクレスは熱心なオルフェウス教徒だったというのもポイント。ピタゴラスの弟子、あるいはピタゴラスの子供や他のピタゴラス学派の弟子だという説もある。</p>
<p>・エンペドクレスは一のものから多のものへ、多のものから一のものへという、円環する時間として世界を語っている。この円環は永遠に止まることがないと考えられている。</p>
<p>世界の生成には4つの時期があり、その時期をひたすら繰り返して循環するものだと考えられている。今は2つ目の時期(憎しみが球に侵入する時期)にあたるとされている。愛が中心にある球から憎しみが中心にある球へ、そしてまた愛が中心にある球へと繰り返していくイメージ。</p>
<blockquote>
<p>「時の巡りくるにつれて、これらのものは交互に優勢となり、互いの内へと滅んで行っては、また定めの順にしたがって成長してくる。なぜならただこれらだけがあるのであって、互いに駆け抜け合って、人間になったり、他の種族の動物になったりするのだから。ある時には愛によって集まって、ひとつの世界となり、ある時には争いの憎しみによってまた再び離ればなれとなる、すべてがひとつに合体して、すっかり平伏するその時まで。このように多なるものから一なるものが生じるのを習いとし、そしてまた逆に一なるものが分かれて、多なるものが出てくる限りでは、その限りでは、それらは生成しているのであって、永続する生涯はそれらにはない。だがそれらが絶え間なく交替しつづけて決して止むことがない限りでは、その限りでは、それらは円環をなして常に不動のものとしてあるのだ。」(断片18)</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">当時の時代背景</span></h3>
<p>１：アナクシマンドロスが生きた時代は、ソロン(前639~前559、都市国家アテネの政治家であり立法者)の改革の時代だった。ソロンの時代は部族社会(ゲマインシャフト)の解体期だったという。イオニア地方の都市国家であるミレトスやキオスでは内乱や階級闘争の時代であり、貴族たちとそうでないものたちとの殺し合いが起こり、氏族たちの(私的な)仇討ちによる対立が横行していたという。そうした状況を改善するために、客観的なシステム、基準が求められるようになっていた。そこで考えられたのが客観的、抽象的な「法」であり「時間」であるという。更に重要なのは、ミレトス学派を生んだイオニアという地は、「鋳貨」の流通の発祥の地だったということである(前７００年頃)。ソロンの改革では「金権制」が定められ、財産のある平民が国政に参加できるようになったり、市民全員が参加する民衆裁判などが定められたりした。こうした制度は「民主化」につながったという。イオニアはピタゴラスが生まれた地であるというのもポイント。</p>
<p>２：ソロンの改革の100年後のクレイステネスの改革(前508年)において、民主政は確立し、旧来の血族的な部族制が徹底的に解体されていった。クレイステネスはアテネの政治家。機械的に地域割りされた１０新しい部族を、全国土を１００ないし２００の区(デモス)に割り当てたという。ウォーカーいわく、「これ以上に人為的で不自然な組織を考え出すことは、全く人間の知恵を超えたこと」らしい。各部族５０人の評議員からなる五百人評議会が設けられる。直接民主制。ただし、市民は成年男子のみであり、外国人や女性、在留外国人などには参政権がまだ認められていない。</p>
<p>また、太陰太陽暦から「1年がそれぞれ36日ないし37日からなる10の『期』に変えたらしい(暦の抽象的な合理化)。</p>
<h3><span id="toc32">エンペドクレスの輪廻転生思想</span></h3>
<p>クレイステネスの改革ちょうど後あたりの時期に、エンペドクレスは生まれ、また活躍するようになったといえる。</p>
<p>・円環的な時間の意識はミレトス学派の影響や、ピタゴラス学派のオルフェウス教の輪廻転生の影響もある。</p>
<p>断片117の一部(『自然について』ではなく『浄め(カタルモイ)』の著作)</p>
<p>「私はこれまでかつて一度は少年であり 少女であった、 藪であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった&#8230;..」</p>
<p>『浄め』のストーリーは、輪廻転生の思想が中心となっている。ダイモーンがアイテールという高きところに住む不死なる神々として生まれ変わることができることを説くという内容。どのようにしてかというと、純愛のカタルシスに徹することで可能だという。</p>
<p>ダイモーンは地上の物を管理しつつ住み着いているらしい。一般には、人間と神の中間のような存在。エンペドクレスでいうとダイモーンは「不死の魂」であり、神によって罰せられた魂だという。魂はさまざまな身体(死すべきもの、魚、人間、植物など)へと転生しながら、さまよいながら永遠(１万周期の三倍)に生きていくという。エンペドクレスでいう神は一なるものであり、愛が支配している世界の統一性、球の状態の比喩表現という解釈がある。</p>
<p>要するに、罰せられたダイモーンが地上で償うことによって、また天へと戻り、本来の地位と場所を取り戻すという話。その過程が輪廻転生だという話。オルフェウス教団に送るために書いたとされている。</p>
<p>重要なのは、ギリシャの円環的な時間の意識は輪廻転生のような「因果応報の教え」とは少し違うということ。</p>
<p>・<b>オルフェウス教における輪廻転生</b>：人生が終わった後、霊魂から肉体が離れ、ハーデースの冥府に下って審判を受け、生前の善い行い、悪い行いに応じて別の人間や動物の肉体のうちに再び宿るという説。</p>
<p>→古代における「くりかえす逆転の反復、対極間を振動することの連続」、つまり「反復する時間」に近い。生死の反復する時間。</p>
<p>・<b>ピタゴラスにおける輪廻転生</b>：出来事がある周期をもっていわば<b>機械的</b>に回帰する。</p>
<p>→オルフェウス教の時間と同じように「繰り返す」ものではあるが、反復というより循環的で円形的。ギリシャでは円形は「無限」を表すイメージでもあった。貨幣も同様に、「富には限りがない」とソロンがいったように、無限の性質をもっている。</p>
<p>・オルフェウス教とピタゴラス教団の時間意識には違いがある。オルフェウス教の「具体的、非数量的な時間意識」と、ヘレニズム文明的な「数量的・抽象的・無限的な時間意識」が合わさり、ピタゴラス的な時間意識(円環としての時間意識)が生まれたのではないか。</p>
<p>→さらにこの「円環」という要素が「直線」としての時間に変わっていくと、数量的・不可逆的な時間意識、つまり近代的な時間意識に変わっていく。</p>
<blockquote>
<p>「なぜなら、わたしはすでに一度は少年であり、少女であり、藪であり、鳥であり、海に浮かび出る物いわぬ魚であったがゆえに。」</p>
<p>ヒッポリュトス（『全異端派論駁』I3）,日下部吉信「資料集(10)」,７９P</p>
<p><span id="page178R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation"><span class="highlight appended">「ダイモーン</span>もまた罪を犯し、間違いを犯せば、償わねばならないとエンペドク</span></span><span id="page178R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">レスは</span></span><span id="page178R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page178R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page178R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span><span id="page178R_mcid71" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid72" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid73" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すなわち</span></span><span id="page178R_mcid74" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page178R_mcid75" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アイテールの力は彼らを大海へと追いやり、</span></span><span id="page178R_mcid76" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid77" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid78" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">大海は大地の面へと吐き出し、大地は輝く太陽の</span></span><span id="page178R_mcid79" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid80" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid81" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">光の中へ投げ捨て、そして太陽はアイテールの渦の中に投げ捨てる。</span></span><span id="page178R_mcid82" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid83" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid84" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それぞれが他から彼らを受け取るが、すべてが彼らを忌み嫌う。</span></span><span id="page178R_mcid85" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid86" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid87" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そしてこのことは、このようにして罰せられ浄められて、</span></span><span id="page178R_mcid88" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page178R_mcid89" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">その本来のあり場所と地位を取り戻</span></span><span id="page178R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すまで、つづくのである。」</span></span></p>
<p><span id="page178R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">プルタルコス</span></span><span id="page178R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『イシスとオシリスについて』</span></span><span id="page178R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">28</span></span><span id="page178R_mcid59" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid60" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.361</span></span><span id="page178R_mcid61" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid62" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">C</span></span><span id="page178R_mcid63" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page178R_mcid64" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid65" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid66" class="markedContent"></span>,日下部吉信「資料集(10)」,７8P</p>
<p><span id="page178R_mcid25" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「だがエンペドクレスはその哲学の冒頭において、</span></span><span id="page178R_mcid26" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid27" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid28" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ここにアナンケー〔必然の女神〕の託宣がある。それは神々の太古の定め、</span></span><span id="page178R_mcid29" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid30" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid31" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">過ちによって自らの手足を殺生の血で穢した者あれば、</span></span><span id="page178R_mcid32" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid33" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid34" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">永生の命を得ている<span class="highlight appended">ダイモーン</span>といえども、</span></span><span id="page178R_mcid35" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid36" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid37" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">至福</span></span><span id="page178R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の者から離れて、一万周期の三倍さまよわねばならぬ。</span></span><span id="page178R_mcid39" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid41" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">われもまた今はかかる者らのひとり、神のもとより追われたる者にして放浪の身</span></span><span id="page178R_mcid42" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid43" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と宣</span></span><span id="page178R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page178R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">し、彼だけでなく、彼を</span></span><span id="page178R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">始め</span></span><span id="page178R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">として</span></span><span id="page178R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page178R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">われわれのすべてが、この世においてはさすらい人であ</span></span><span id="page178R_mcid50" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">り、異邦人であり、亡命者であることを教えているのである。･･･</span></span><span id="page178R_mcid51" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid52" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">魂は神の布告と法によって追放さ</span></span><span id="page178R_mcid53" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">れた亡命者であり、</span><span dir="ltr" role="presentation">〔この世を〕さまよっているのである。」</span></span></p>
<p><span id="page178R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">プルタルコス</span></span><span id="page178R_mcid16" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『亡命について』</span></span><span id="page178R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">17</span></span><span id="page178R_mcid18" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid19" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.607</span></span><span id="page178R_mcid20" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid21" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">C</span></span><span id="page178R_mcid22" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page178R_mcid23" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid24" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid25" class="markedContent"></span>,日下部吉信「資料集(10)」,７8P</p>
<p>「<span id="page174R_mcid119" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポリュトス</span></span><span id="page174R_mcid120" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『全異端派論駁』</span></span><span id="page174R_mcid121" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">VII</span></span><span id="page174R_mcid122" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid123" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">29</span></span><span id="page174R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page174R_mcid125" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid126" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid127" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そしてエンペドクレスが自分の出生について語るところはこうである。</span></span><span id="page174R_mcid128" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid129" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid130" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">われもまた今はかかる者らのひとり、神のもとより追われたる者にして放浪の身。</span></span><span id="page174R_mcid131" class="markedContent"></span></p>
<p><span id="page176R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">すなわち彼は、</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」によって引き離</span></span><span id="page176R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">される前に、そして「争い」の秩序づけによるこの多なる</span></span><span id="page176R_mcid3" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">世界に誕生する以前に彼がそれであった一なるものとその統一性を「神」と呼ぶのである。と</span></span><span id="page176R_mcid4" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の</span></span><span id="page176R_mcid7" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">は</span></span><span id="page176R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page176R_mcid9" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼は</span></span><span id="page176R_mcid10" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid11" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid12" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">狂える争いを信じたばかりに</span></span><span id="page176R_mcid13" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid14" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と</span></span><span id="page176R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid16" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、この世界のデミウルゴス〔造り手〕を狂気で混乱した不安定なものと呼ぶからである。すな</span></span><span id="page176R_mcid18" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">わちこれが魂の判決であり必然の定めであって、</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」が魂を一なるものから引き離し、細工し、</span></span><span id="page176R_mcid19" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">造り</span></span><span id="page176R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">出したのである。彼はほぼ次のように語っている。</span></span><span id="page176R_mcid21" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid22" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid23" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">過ちを犯して偽りの誓いを立てる者あれば、</span></span><span id="page176R_mcid24" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid25" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid26" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">永生の命を得ている<span class="highlight selected appended">ダイモーン</span>といえども、</span></span><span id="page176R_mcid27" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid28" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「永生の<span class="highlight appended">ダイモーン</span>」と彼が語っているのは魂のことであるが、それは</span></span><span id="page176R_mcid29" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page176R_mcid30" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">それらが不死であり、永い</span></span><span id="page176R_mcid31" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">境涯を生きるからである。</span></span><span id="page176R_mcid32" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid33" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid34" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">至福の者から離れて、一万周期の三倍さまよわねばならぬ。</span></span><span id="page176R_mcid35" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid36" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid37" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ここで「至福の者」と呼ばれているのは多なるものから英知界の統一へと「愛」によって糾合され</span></span><span id="page176R_mcid38" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">た者たちである。さて、それら〔魂〕は〔至福の者から離れて〕</span></span><span id="page176R_mcid39" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid41" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">その期間のあいだ死すべきものどものあらゆる姿に</span></span><span id="page176R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">生まれ変わり</span></span><span id="page176R_mcid43" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page176R_mcid44" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid45" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid46" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">生の苦難の道を次々と取り替えながら</span></span><span id="page176R_mcid47" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid48" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">さまよわねばならないと彼は</span></span><span id="page176R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid50" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。</span></span><span id="page176R_mcid52" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid53" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid54" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid55" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「苦難の道」</span><span dir="ltr" role="presentation">と</span></span><span id="page176R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のは、</span><span dir="ltr" role="presentation">魂</span></span><span id="page176R_mcid59" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のさまざまな身体への転生と変転であり、</span><span dir="ltr" role="presentation">これが</span><span dir="ltr" role="presentation">「生の苦難の道を次々</span></span><span id="page176R_mcid60" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と取り替えながら」と彼が語るところのものである。すなわち魂は身体から身体へと「次々と取り替</span></span><span id="page176R_mcid61" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">えながら」</span><span dir="ltr" role="presentation">、</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」によって転生させられ懲らしめられるのであって、一なるものの内にとどまるこ</span></span><span id="page176R_mcid62" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">とを許されないのである。しかも身体から身体へと転生する過程で魂は「争い」によってありとあら</span></span><span id="page176R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ゆる罰で懲らしめられる。彼は次のように</span></span><span id="page176R_mcid64" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid65" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span><span id="page176R_mcid67" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid68" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid69" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すなわちアイテールの力は彼らを大海へと追いやり、</span></span><span id="page176R_mcid70" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid71" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid72" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">大海は大地の面へと吐き出し、大地は輝く太陽の</span></span><span id="page176R_mcid73" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid74" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid75" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">光の中へ投げ捨て</span></span><span id="page176R_mcid76" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、そして太陽はアイテールの渦の中に投げ捨てる。</span></span><span id="page176R_mcid77" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid78" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid79" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それぞれが他から彼らを受け取るが、すべてが彼らを忌み嫌う。</span></span><span id="page176R_mcid80" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid81" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid82" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">これがデミウルゴスの加える罰であって、それはちょうど鍛冶屋が鉄を鍛える</span></span><span id="page176R_mcid83" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">とき</span></span><span id="page176R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、火から水の中</span></span><span id="page176R_mcid85" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に浸けるようなものである。なぜならアイテールとは火であって、そこからデミウルゴスは魂を海中</span></span><span id="page176R_mcid86" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に転ずるのだからである。また「大地」は土である。それゆえ彼は「水から土へ、土から空気へ」と</span></span><span id="page176R_mcid87" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid88" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page176R_mcid89" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。これが「大地は輝く太陽の光の中へ投げ捨て、そして太陽はアイテールの渦の</span></span><span id="page176R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">中に投げ捨てる。それぞれが他から彼らを</span></span><span id="page176R_mcid91" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">受け取るが、すべてが彼らを忌み嫌う」と彼が語るところ</span></span><span id="page176R_mcid92" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">の</span></span><span id="page176R_mcid93" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">こと</span></span><span id="page176R_mcid94" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">である。</span></span><span id="page176R_mcid95" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid96" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid97" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ところで魂は〔この世界においては〕忌み嫌われるのであるが、</span></span><span id="page176R_mcid98" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid99" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">･･･</span></span><span id="page176R_mcid100" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid101" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">「</span></span><span id="page176R_mcid102" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">愛」はそれらを〔</span></span><span id="page176R_mcid103" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page176R_mcid104" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">〕</span></span><span id="page176R_mcid105" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">結びつける。なぜなら「愛」は善なるものであり、それらの悲嘆と「狂える争い」による無秩序で苛</span></span><span id="page176R_mcid106" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">酷なあり様を憐れむからである。</span><span dir="ltr" role="presentation">･･･</span></span><span id="page176R_mcid107" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid108" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">さて、</span><span dir="ltr" role="presentation">このばらばらになった世界のこのような破壊的な</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」</span></span><span id="page176R_mcid109" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">による宇宙秩序のゆえに、</span><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは彼の弟子たちにあらゆる生き物を控えるよう呼びかけて</span></span><span id="page176R_mcid110" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いる。と</span></span><span id="page176R_mcid111" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid112" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid113" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のも</span></span><span id="page176R_mcid114" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page176R_mcid115" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">食される動物の身体は罰せられた魂の住み家だからと、彼は</span></span><span id="page176R_mcid116" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page176R_mcid117" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page176R_mcid118" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。そし</span></span><span id="page176R_mcid119" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">て彼は、この論を聴く者は「争い」</span><span dir="ltr" role="presentation">（それは「愛」の業を解体し、ばらばらにする）の行なう業に協</span></span><span id="page176R_mcid120" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">力したり加勢し</span></span><span id="page176R_mcid121" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">たりし</span></span><span id="page176R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ないためにも、女性との交わりを自制すべきであると諭している。これが万有</span></span><span id="page176R_mcid123" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">を統宰する最大の法であるとして、エンペドクレスは次のように語っている。</span></span><span id="page176R_mcid124" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid125" class="markedContent"></span><span id="page176R_mcid126" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ここにアナンケー〔必然の女神〕の託宣がある。それは神々の太古の定め、</span></span><span id="page176R_mcid127" class="markedContent"></span></p>
<p><span id="page178R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">とこしえ</span></span><span id="page178R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">なるもの、広汎な誓いによって封印されたもの。</span></span><span id="page178R_mcid3" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid4" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid5" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「争い」による一なるものから多なるものへの転化、また「愛」による多なるものから一なるもの</span></span><span id="page178R_mcid6" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">への転化を彼は「ア</span></span><span id="page178R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ナンケー〔必然〕</span><span dir="ltr" role="presentation">」と呼ぶのである。そして、先にも</span></span><span id="page178R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page178R_mcid9" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page178R_mcid10" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ように、一方には四</span></span><span id="page178R_mcid11" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">つの可死的な神々、すなわち火、水、土、空気があり、他方には二つの不死にして不生、互いに対し</span></span><span id="page178R_mcid12" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">て常に敵対的な神々、すなわち「争い」と「愛」がある。</span></span>」</p>
<p><span id="page174R_mcid119" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポリュトス</span></span><span id="page174R_mcid120" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『全異端派論駁』</span></span><span id="page174R_mcid121" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">VII</span></span><span id="page174R_mcid122" class="markedContent"></span><span id="page174R_mcid123" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">29</span></span><span id="page174R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page178R_mcid63" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid64" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid65" class="markedContent"></span><span id="page178R_mcid66" class="markedContent"></span>,日下部吉信「資料集(10)」,76~78P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">近代的な時間意識の形成</span></h3>
<div id="attachment_2199" style="width: 618px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/05/2641h295aaaaa.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-2199" class="wp-image-2199 size-full" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/05/2641h295aaaaa.png" alt="" width="608" height="550" /></a><p id="caption-attachment-2199" class="wp-caption-text">図は「時間の比較社会学」より。163P</p></div>
<p>図は真木悠介さんの「時間の比較社会学」を参考に作成。</p>
<p>・オルフェウス教的な時間意識がヘレニズム文明以前の時間意識(反復的な時間)であると仮定するとわかりやすい。過去は潜在する現在。</p>
<p>・オルフェウス教の時間が貨幣や人口増大による共同体の解体などによって生まれたヘレニズム文明の時間意識と出会うことによって、「円環的な時間」が形成されていく。</p>
<p>・一方、ヘブライズム文明の時間意識はヘレニズム文明のように円環的・無限的ではなく、線分的な時間である。なぜなら、終末において神によって救済されるからである。それゆえに、時間は具体的で質的なものになる。反復、循環することの否定。二度と同じ受難を繰り返してほしくない意識。</p>
<p>→近代の時間意識はヘレニズム＋ヘブライズムのようなもの。近代的な時間は抽象的・数量的かつ、不可逆的な時間。</p>
<p><strong>エンペドクレスによって円環する時間のイメージは完成された</strong>と真木さんはいう。</p>
<p>重要なのは、思想は単なる偶然によってだけではなく、社会的な背景が重要であるという点。部族どうしで殺し合い、貴族と商人が殺し合い、国同士で殺し合うような時代に、法律や民主制などの「客観的」な制度が重視されるようになったり、貨幣が流通しはじめて「量」が重視されるようになったりする時代である。そのような背景を元に、円環的な時間のイメージが構成されていく。</p>
<p>ちょうどパーソンズが、エネルギーの高いものが情報量の多いものを条件付けるといったことを思い出した。さらにまた、情報量の多いものがエネルギーの高いものを制御していく。人口の増加、技術の発展などの歴史的な発展は文化を条件づけ、さらに文化がまた社会や人々を制御し、社会が変動していく。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/Snag_75215bc5.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2712" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/Snag_75215bc5.png" alt="" width="943" height="699" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/Snag_75215bc5.png 943w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/Snag_75215bc5-800x593.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/10/Snag_75215bc5-150x112.png 150w" sizes="(max-width: 943px) 100vw, 943px" /></a></p>
<p>１：ヘレニズムにおいて円環的な時間意識が形成された</p>
<p>２：ヘブライズムにおいて線分的な時間意識が形成された</p>
<p>３：近代的な時間意識はヘブライズムとヘブライズムが合わさったところに生じていく。時間意識がヘレニズムによって抽象的になり、ヘブライズムによって不可逆的になっていく。</p>
<p>４：神の救いや時間の可逆性はニヒリズムを生じにくくさせていたが、そうしたものがなくなっていくと、ニヒリズムが生じやすくなる。死んでも繰り返さないし、神が救ってもくれない。生きる意味、死ぬ意味、あらゆる「意味」が喪失していく時代。ウェーバーで言うと「脱魔術化した時代」である。</p>
<blockquote>
<p>「こうして私たちは、憎しみの純粋な支配による四元の完全な分離の状態から、愛の力が加わるにつれて、しだいに四元の混合がおこり、愛の純粋な支配による四元の完全な混合の状態に至るという道が、再びそこから憎しみの力の混入とともに四元の分離が始まって、やがて憎しみの純粋な支配による四元の完全な分離に至るという道につながる宇宙の、かの壮大な円環物語を聞かされることになる。私たちの存在は、樹木や動物、鳥や魚と同じく、かの円環の途中にあるものとして、何とも中途半端なのである。私たちが死すべき者であるのは、その混合の不完全さにあるということになる。「これら四元は永遠に交替しつづけて、やむことがない。あるときは愛の力により、すべては結合して一つとなり、あるときは争いのもつ憎しみのために、それぞれが離ればなれになりながら。このように、多から一になるのを慣いとし、逆にまた一から多になるかぎりでは、そのかぎりでは、それらは生成しつつあるのであって、永続する生をもたない。」(DK、三一B一七)というのがエンペドクレスの直接の言葉である。」</p>
<p>山本吉信「死と死を超えるもの(その1):プラトン『パイドン』の理解のために」,29P</p>
<p>「<span id="page117R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">時の</span></span><span id="page117R_mcid85" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">巡り</span></span><span id="page117R_mcid86" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid87" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">るにつれて、これらのものは交互に優勢となり、</span></span><span id="page117R_mcid88" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid89" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">互いの内へと滅んで行っては、また定めの順にしたがって成長して</span></span><span id="page117R_mcid91" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid92" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る。</span></span><span id="page117R_mcid93" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid94" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid95" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">なぜならただこれらだけがあるのであって、互いに駆け抜け合って、</span></span><span id="page117R_mcid96" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid97" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid98" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">人間に</span></span><span id="page117R_mcid99" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid100" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ったり</span></span><span id="page117R_mcid101" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、他の種族の動物に</span></span><span id="page117R_mcid102" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid103" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ったり</span></span><span id="page117R_mcid104" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">するのだから。</span></span><span id="page117R_mcid105" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid106" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid107" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には愛に</span></span><span id="page117R_mcid108" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">よって集まって、ひとつの世界と</span></span><span id="page117R_mcid109" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid110" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">り</span></span><span id="page117R_mcid111" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page117R_mcid112" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid113" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid114" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には争いの憎しみによってまた</span></span><span id="page117R_mcid115" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page117R_mcid116" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">離ればなれとなる、</span></span><span id="page117R_mcid117" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid118" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid119" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すべてがひとつに合体して、すっかり平伏するその時まで。</span></span><span id="page117R_mcid120" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid121" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid122" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">このように多なるものから一なるものが生じるのを習いとし、</span></span><span id="page117R_mcid123" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid124" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid125" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そしてまた逆に一なるものが分かれて、多なるものが出て</span></span><span id="page117R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る限りでは、</span></span><span id="page117R_mcid128" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid129" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid130" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">その限りでは、それらは生成しているのであって、永続する生涯はそれらにはない。</span></span><span id="page117R_mcid131" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid132" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid133" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">だがそれらが絶え間なく交替しつづけて決して止むことがない限りでは、</span></span><span id="page117R_mcid134" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid135" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid136" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span class="" dir="ltr" role="presentation">その限りでは、それらは<span class="highlight selected appended">円環</span>をなして常に不動のも</span></span><span id="page117R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のとしてあるのだ。</span></span>」</p>
<p><span id="page117R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">シンプリキオス</span></span><span id="page117R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『アリストテレス「自然学」注解』</span></span><span id="page117R_mcid74" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">33,18)</span></span> 断片18</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">エンペドクレス断片ピックアップ</span></h3>
<p>断片１から１１１が「自然について」の断片で、１１２から１４７が「浄め」の断片だとされています。</p>
<p>孫引きをしてしまっていますが何卒ご容赦くださいm(_ _)m</p>
<p>それにしてもエンペドクレスの断片を探すのが難しい。断片のほとんどは<a href="http://eleutherion.my.coocan.jp/lecture/gp/node4.html">こちら</a>から引用しています。その他の断片は<a href="https://kusakabe-yoshinobu.up.seesaa.net/image/Empedokles.pdf">こちら</a>にもあるので参照してみてください。</p>
<h4><span id="toc35">断片6</span></h4>
<p>「まずは聞け，万物の四つの根を．<br />
輝けるゼウス，生命はぐくむヘラ，またアイドネウス．<br />
そして死すべき人の子らのもとなる泉を その涙によってうるおすネスティス．」</p>
<p>(アエティオス『学説誌』I 3, 20など。)</p>
<p>POINT:四つの根という言葉が出たシーン。</p>
<h4><span id="toc36">断片8</span></h4>
<p>「次に私は他のことを語ろう．およそ死すべきものどもの何ものにも<br />
本来の意味での生誕はなく，また呪うべき死の終末もない．<br />
あるのはただ混合と 混合されたものの分離のみ．<br />
「生誕」とは，ただ人間たちがこれらにつけた名目にすぎぬ．」</p>
<p>(プルタルコス『コロテス論駁』10 p.1111F.／アエティオス『学 説誌』I 30, 1. )</p>
<h4><span id="toc37">断片１２</span></h4>
<p>「げに全くあらぬものから生じて来るとは 不可能なこと，<br />
またあるものが全く滅んでなくなるとは 起りようもなく聞いたこと もない．<br />
ひとがどこにそれをたえず押しやろうとも，まさにそこのところにいつも あるだろうから．」</p>
<p>(擬アリストテレス『メリッソス，クセノパネス，ゴルギアスに ついて』2(6).975b1.／ピロン『世界の永遠性について』2 p.3, 5. )</p>
<h4><span id="toc38">断片13</span></h4>
<p>「さらに万有の中には いささかの空虚も過剰もない．」</p>
<p>(アエティオス『学説誌』I 18, 2など。 )</p>
<p>POINT：エンペドクレスが空虚が存在しないことを主張している断片。パルメニデスの「在らぬものは在らぬ」と類似。</p>
<h4><span id="toc39">断片14</span></h4>
<p>「万有に空虚は少しもない．しからば一体どこから 何ものかがそこへ行けようか?」</p>
<p>(擬アリストテレス『メリッソス，クセノパネス，ゴルギアスに ついて』2(28). 976b23.)</p>
<h4><span id="toc40">断片16</span></h4>
<p>「(これら両つの力、愛と憎は)かつて在ったように、これからもあるであろう。限りなきaionは、この両つのものに事欠くことは決してないと、私は思う。」</p>
<p>※アイオーンの意味についてはいろいろと解釈があるようです。一般的には「ある期間の時間」を意味します。プラトンはアイオーンを「永遠」の意味で使ったそうです。エンペドクレスも同様に、限りがないアイオーンという意味で、限りのない期間の時間＝永遠として解釈できるわけですね。</p>
<p>(岩野秀明「プラトンの宇宙論における＜時間の諸問題＞」238P)</p>
<h4><span id="toc41">断片17</span></h4>
<p>「これら四元は永遠に交替しつづけて、やむことがない。あるときは愛の力により、すべては結合して一つとなり、あるときは争いのもつ憎しみのために、それぞれが離ればなれになりながら。このように、多から一になるのを慣いとし、逆にまた一から多になるかぎりでは、そのかぎりでは、それらは生成しつつあるのであって、永続する生をもたない。」</p>
<p>(山本吉信「死と死を超えるもの(その1):プラトン『パイドン』の理解のために」,29P)</p>
<p>断片18（？）</p>
<p>「<span id="page117R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">時の</span></span><span id="page117R_mcid85" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">巡り</span></span><span id="page117R_mcid86" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid87" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">るにつれて、これらのものは交互に優勢となり、</span></span><span id="page117R_mcid88" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid89" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">互いの内へと滅んで行っては、また定めの順にしたがって成長して</span></span><span id="page117R_mcid91" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid92" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る。</span></span><span id="page117R_mcid93" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid94" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid95" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">なぜならただこれらだけがあるのであって、互いに駆け抜け合って、</span></span><span id="page117R_mcid96" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid97" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid98" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">人間に</span></span><span id="page117R_mcid99" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid100" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ったり</span></span><span id="page117R_mcid101" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、他の種族の動物に</span></span><span id="page117R_mcid102" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid103" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ったり</span></span><span id="page117R_mcid104" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">するのだから。</span></span><span id="page117R_mcid105" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid106" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid107" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には愛に</span></span><span id="page117R_mcid108" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">よって集まって、ひとつの世界と</span></span><span id="page117R_mcid109" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page117R_mcid110" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">り</span></span><span id="page117R_mcid111" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page117R_mcid112" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid113" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid114" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には争いの憎しみによってまた</span></span><span id="page117R_mcid115" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page117R_mcid116" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">離ればなれとなる、</span></span><span id="page117R_mcid117" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid118" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid119" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すべてがひとつに合体して、すっかり平伏するその時まで。</span></span><span id="page117R_mcid120" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid121" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid122" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">このように多なるものから一なるものが生じるのを習いとし、</span></span><span id="page117R_mcid123" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid124" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid125" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そしてまた逆に一なるものが分かれて、多なるものが出て</span></span><span id="page117R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page117R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る限りでは、</span></span><span id="page117R_mcid128" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid129" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid130" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">その限りでは、それらは生成しているのであって、永続する生涯はそれらにはない。</span></span><span id="page117R_mcid131" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid132" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid133" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">だがそれらが絶え間なく交替しつづけて決して止むことがない限りでは、</span></span><span id="page117R_mcid134" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid135" class="markedContent"></span><span id="page117R_mcid136" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span class="" dir="ltr" role="presentation">その限りでは、それらは<span class="highlight selected appended">円環</span>をなして常に不動のも</span></span><span id="page117R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のとしてあるのだ。</span></span>」</p>
<p><span id="page117R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">シンプリキオス</span></span><span id="page117R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『アリストテレス「自然学」注解』</span></span><span id="page117R_mcid74" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">33,18)</span></span><span id="page117R_mcid75" class="markedContent"></span></p>
<h4><span id="toc42">断片20,2~5行</span></h4>
<p>「ある時は,肉体を得ている四肢はみな愛によって一つに集まりながら,花開く生の盛りに.他の時は,これに反して悪い諍いに切り裂かれたうえ,ひとつひとつはなればなれにさまようのだ,生の渚を.」</p>
<p>(鈴木幹也「エンペドクレス序説:断片17.8行のφορευμεναの相」26P)</p>
<h4><span id="toc43">断片21</span></h4>
<p>「いざ先の話の証拠として次のことをよく見よ，<br />
もし前の話に 形の点で欠けるところがいささかでもあったとすれば──．<br />
すなわちまずは見よ，太陽（火）を──見るに明るく いたるところで熱い太陽を．<br />
また見よ かの不死なるものを──熱く輝く光（気）にひたされたものどもを．<br />
また見よ 雨（水）を──あらゆるものにおいて暗く冷たい雨を．<br />
また大地（土）からは 根強く固いもろもろのものが生まれ出る．<br />
「憎しみ」において これらすべての形は分かれて離ればなれとなり，<br />
「愛」において これらのものは相集まって互いに求め合う．<br />
まことにこれらのものからかつてあったもの，今ありこれからもあるだろうもののすべては<br />
生まれ出たのだから．すなわち 樹々も，男らも女らも<br />
獣らも 鳥たちも 水にはぐくまれる魚たちも<br />
さらにはいのち永く 誉れいやまされる神たちも──．<br />
なぜなら ただこれら（四元）のみがあるのであって，互いに互いを駈け抜けては<br />
別の姿のものとなるのだから．混合はそれだけの変化をもたらす． 」</p>
<p>(シンプリキオス『アリストテレス「自然学」註解』159, 13. )</p>
<p>POINT：エンペドクレスが「四つの根」を主張している断片</p>
<h4><span id="toc44">新断片21の一部(1995年に発見)</span></h4>
<p>されど，「愛」のもとでは，われわれは一なる宇宙秩序をなし，<br />
「憎しみ」のもとでは，再び一なるものから分かれて多となる。<br />
かつてあったもの，現にあるもの，後々あるだろうもののすべては，それら多 なるものからなる。<br />
すなわち樹々もそれらから生い出で，男らも，また女らも<br />
獣らも，鳥たちも，水にはぐくまれる魚たちも，<br />
さらには生命長く，誉れいやまされる神々もしかり。<br />
しかし「憎しみ」のもとでは，それらはたえず分散しつづけてやむことがない。</p>
<p>（ストラスブール・パピュロスより）</p>
<h4><span id="toc45">断片25（？）</span></h4>
<p><span id="page109R_mcid85" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスはその『自然学』の第１巻において･･･</span></span><span id="page109R_mcid86" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid87" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">次のように論じている。</span></span><span id="page109R_mcid88" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid89" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「わが語るは二重のこと、すなわちある時には多なるものから成長してただひとつの</span></span><span id="page109R_mcid91" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid92" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid93" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ものとなり、</span></span><span id="page109R_mcid94" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid95" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid96" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には逆に一なるものから分かれ出て、多なるものとなる。</span></span><span id="page109R_mcid97" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid98" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid99" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">死すべきものどもの生成は二重であり、また消滅も二重なのだ。</span></span><span id="page109R_mcid100" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid101" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid102" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">なぜなら一方</span></span><span id="page109R_mcid103" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">では万物の集合がある種族を生み出し、かつ滅ぼすからであり、</span></span><span id="page109R_mcid104" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid105" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid106" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid107" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid108" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また他方では</span></span><span id="page109R_mcid109" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page109R_mcid110" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">分かれることによって養い育てられ、そして飛散するからである。</span></span><span id="page109R_mcid111" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid112" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid113" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そしてそれらは永遠に交替しつづけて、決して止むことがない。</span></span><span id="page109R_mcid114" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid115" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid116" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時は愛によってすべてが集まってひとつとなり、</span></span><span id="page109R_mcid117" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid118" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid119" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時は争いの憎しみによって逆にそれぞれが別々にされる。</span></span><span id="page109R_mcid120" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid121" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid122" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">〈このように多なるものから一なるものが生まれるのを習いとし、</span><span dir="ltr" role="presentation">〉</span></span><span id="page109R_mcid123" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid124" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid125" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">あるいはまた</span></span><span id="page109R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page109R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">一なるものが分かれて多なるものが出て</span></span><span id="page109R_mcid128" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page109R_mcid129" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る限りでは、</span></span><span id="page109R_mcid130" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid131" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid132" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それらは生成しつつあるのであっ</span></span><span id="page109R_mcid133" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">て、それらに恒常的な生涯はないのだ。</span></span><span id="page109R_mcid134" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid135" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid136" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">だがそれらが永遠に交替しつづけて決して止むことがない限りでは、</span></span><span id="page109R_mcid137" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid138" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid139" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span class="" dir="ltr" role="presentation">その限りではそれらは<span class="highlight selected appended">円環</span>をなし、不動のものとして永遠にあるのだ。</span></span><span id="page109R_mcid140" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid141" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid142" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いざ、わが物語を聞け。学びは汝が心を成長させるがゆえに。</span></span><span id="page109R_mcid143" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid144" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid145" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid146" class="markedContent"></span><span id="page109R_mcid147" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">すなわちわが物語の果てを指し示しつつ先にも</span></span><span id="page109R_mcid148" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page109R_mcid149" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page109R_mcid150" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ごとく、</span></span></p>
<p><span id="page109R_mcid150" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation"><span id="page111R_mcid1" class="markedContent">わが物語るは二重のこと。すなわちある時には多なるものから成長してただひとつの</span><span id="page111R_mcid2" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid3" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid4" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
ものとなり、</span><span id="page111R_mcid5" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid6" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid7" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
ある時には逆に一なるものから分かれ出て、多なるものとなる。</span><span id="page111R_mcid8" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid9" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid10" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
すなわち火、水、土、それ</span><span id="page111R_mcid11" class="markedContent">に空気の限りなき高みとなる。</span><span id="page111R_mcid12" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid13" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid14" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
そしてそれらから離れて、いたるところで重さの等しい呪われた争いがあり、</span><span id="page111R_mcid15" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid16" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid17" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid18" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid19" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
それらの中に長さも幅も等しい愛がある。</span><span id="page111R_mcid20" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid21" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid22" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
この愛を知性をもって汝は見るべし。眼をもって呆然として座するにあらず。</span><span id="page111R_mcid23" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid24" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid25" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
それはまた死すべきものどもの肢体にも植えつけられていると考えられ、</span><span id="page111R_mcid26" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid27" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid28" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
それによって彼らは友愛の思いを抱き、友好的な業を</span><span id="page111R_mcid29" class="markedContent">な</span><span id="page111R_mcid30" class="markedContent">し遂げる。</span><span id="page111R_mcid31" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid32" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid33" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
彼らはそれを「悦び」あるいは「</span><span id="page111R_mcid34" class="markedContent">アプロディーテ</span><span id="page111R_mcid35" class="markedContent">」と</span><span id="page111R_mcid36" class="markedContent">い</span><span id="page111R_mcid37" class="markedContent">う</span><span id="page111R_mcid38" class="markedContent">呼び名で呼ぶ。</span><span id="page111R_mcid39" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid41" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
この愛がかのものどもの間を</span><span id="page111R_mcid42" class="markedContent">巡り</span><span id="page111R_mcid43" class="markedContent">行くを、死すべき人間は誰も</span><span id="page111R_mcid44" class="markedContent">知らぬ。</span><span id="page111R_mcid45" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid46" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid47" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
だが汝はわが</span><span id="page111R_mcid48" class="markedContent">言葉</span><span id="page111R_mcid49" class="markedContent">の欺くことなき道行きを聞け。</span><span id="page111R_mcid50" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid51" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
すなわちそれらはすべて等しく、生まれの点でも同年齢であるが、</span><span id="page111R_mcid53" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid54" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid55" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
その司る権限は互いに異なり、またそれぞれにそなわる性格も異なり、</span><span id="page111R_mcid56" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid57" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid58" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
時の</span><span id="page111R_mcid59" class="markedContent">巡</span><span id="page111R_mcid60" class="markedContent">るにつれて交互に優勢となる。</span><span id="page111R_mcid61" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid62" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
そしてそれらの外には何ひとつ生じもせず、また無くなりもしない。</span><span id="page111R_mcid64" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid65" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid66" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
なぜなら、もし絶え間なく滅んで行くとするなら、もはや存在しなかったであろうし、</span><span id="page111R_mcid67" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid68" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid69" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
また何がこの万有を増大させると</span><span id="page111R_mcid70" class="markedContent">い</span><span id="page111R_mcid71" class="markedContent">う</span><span id="page111R_mcid72" class="markedContent">のであるか。そしてそれはどこからやって</span><span id="page111R_mcid73" class="markedContent">きた</span><span id="page111R_mcid74" class="markedContent">と</span><span id="page111R_mcid75" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid76" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid77" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
い</span><span id="page111R_mcid78" class="markedContent">う</span><span id="page111R_mcid79" class="markedContent">のか。</span><span id="page111R_mcid80" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid81" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid82" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
またいかにして滅び去りえようか。それらを欠いては何ひとつないと</span><span id="page111R_mcid83" class="markedContent">い</span><span id="page111R_mcid84" class="markedContent">う</span><span id="page111R_mcid85" class="markedContent">のに。</span><span id="page111R_mcid86" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid87" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid88" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
否、ただそれらのみがあるのであって、互いを駆け抜け合いながら、</span><span id="page111R_mcid89" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid90" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid91" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
ある時にはこのものとなり、ある時にはかのものとなって、切れ目なく永遠に同じであり</span><span id="page111R_mcid92" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid93" class="markedContent"></span><span id="page111R_mcid94" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
つづけるのだ。</span>」</span></span></p>
<p><span id="page109R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">シンプリキオス</span></span><span id="page109R_mcid80" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『アリストテレス「自然学」注解』</span></span><span id="page109R_mcid81" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">157,25</span></span><span id="page109R_mcid82" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span> <a href="https://kusakabe-yoshinobu.up.seesaa.net/image/Empedokles.pdf">出典</a></p>
<h4><span id="toc46">断片26,5-7行</span></h4>
<p>「あるときは、愛によって一つのコスモスの中へ結合され、あるときは、ふたたび争いの憎しみによっておのおのが離ればなれになりながら、万物がともに成長しながら一になるまで。」</p>
<p>(岡嶋君幸，後藤淳「エンペドクレス哲学において思惟性と生命性を担うフレーン」,37P)</p>
<h4><span id="toc47">断片112</span></h4>
<p>「親しき友らよ，大いなる町に 黄金色なすアクラガスの流れをのぞむところ<br />
都の高みに住む人びとよ，ただ善き業をのみ心がけ，<br />
よそ人を迎えいれる威厳ある港となり，悪になじまぬ人びとよ，<br />
幸あれ！ 私は不死なる神として，もはや死すべきものとしてではなく，<br />
おんみらすべての間を行く──私にふさわしいと彼らに思われる尊崇を身に受け，<br />
頭には紐飾りをまとい 瑞々しい花冠をいただいて．<br />
これらの男たちと女たちに従われて 私が繁栄の町々に<br />
到り着くとき，私はうやまい崇められる．彼らは幾千となき数をなして，<br />
私の後につき従っては，利得へ至る道のありかをたずね，<br />
あるいは予言を求め，またある人びとはさまざまの病いを<br />
癒すにはどうしたらよいか 私の託宣を聞くことをねがう，<br />
──あまりにも長い間 むごたらしい〈苦しみに〉さいなまれはてて． 」</p>
<p>(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』VIII 54, 62など。)</p>
<p>断片115</p>
<p>「ここに必然（運命）の女神の宣告がある．それは神々の決議したまいし 太古の掟，<br />
とこしえの力をもち 大いなる誓いによって封されてあるもの．<br />
すなわちいわく，過ちを犯してみずからの手を殺生の血に汚した者，<br />
さらにまた〈争い〉に従って いつわりの誓いを誓った者が，<br />
永生のいのちを分け与えられたダイモーンたちの中にあれば，<br />
それらの者は至福の者たちのもとを追われて一万周期の三倍をさま よわねばならぬ，<br />
その間を通じ 死すべきものどものありとあらゆる姿に生まれかわり，<br />
苦しみ多き生の道を 次々ととりかえながら──．<br />
すなわち空気（アイテール）の力は彼らを大海へと追いやり，<br />
大海は彼らを大地の面へと吐き出し，大地は輝く太陽の<br />
光の中へ そして太陽は空気の渦巻きの中へ彼らを投げ込む．<br />
それぞれのものが彼らを他から受け取り，しかしすべてが彼らを忌み きらう．<br />
われもまたいまは かかる者らのひとり，神のみもとより追われてさまよえる者，<br />
ああ 狂わしき「争い」を 信じたばかりに──．」</p>
<p>(プルタルコス『亡命について』17 p.607Cなど)</p>
<h4><span id="toc48">断片117の一部</span></h4>
<p>「私はこれまでかつて一度は少年であり 少女であった、 藪であり 鳥であり 海に浮び出る物言わぬ魚であった&#8230;&#8230;」</p>
<p>(藤沢訳)</p>
<h3><span id="toc49">その他エンペドクレスに関する話のソース</span></h3>
<p>基本的にはこちらから引用しています。全て引用しきれないほどの膨大な量があるので、他に読みたい方がいれば<a href="https://kusakabe-yoshinobu.up.seesaa.net/image/Empedokles.pdf">こちら</a>から直接参照してください。こういうふうに全ての哲学者に関する話のデータベースがあれば便利なんですけどね・・・。日下部吉信さんという古代ギリシア哲学の研究者のPDFみたいです。</p>
<p>エンペドクレスは断片の数も古代ギリシア哲学者の中でも多く、その解説も多そうですね。読んでいて面白いです。たしかに経験科学的に得るものは少なく、詩的な表現が多いですが、創造を主とするこのサイトでは宝庫になるのかもしれません。</p>
<h4><span id="toc50">アポロドロスによる『年代記』</span></h4>
<p>「<span id="page3R_mcid76" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼はメトンの息子であったが、トゥリオイへ、</span></span><span id="page3R_mcid77" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid78" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid79" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それがすっかり建設され終わったばかりのところへ</span></span><span id="page3R_mcid80" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid81" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid82" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid83" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">やって</span></span><span id="page3R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">き</span></span><span id="page3R_mcid85" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">たとグラウコスは</span></span><span id="page3R_mcid86" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page3R_mcid87" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page3R_mcid88" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span>」</p>
<p>「<span id="page3R_mcid93" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼は故国か</span></span><span id="page3R_mcid94" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ら亡命者としてシュラクゥサイへやって</span></span><span id="page3R_mcid95" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">き</span></span><span id="page3R_mcid96" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">て、</span></span><span id="page3R_mcid97" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid98" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid99" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">彼の地の人々と共にアテナイ軍と戦ったと伝えている人たちは</span></span><span id="page3R_mcid100" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid101" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid102" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">完全に間違っているようにわたしには思われる。</span></span><span id="page3R_mcid103" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid104" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid105" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">なぜなら〔その時には〕彼はもはや生存していなかったか、すっかり年を取っていた</span></span><span id="page3R_mcid106" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid107" class="markedContent"></span><span id="page3R_mcid108" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">かであって、そのようなことは決してありえないと思われるからである。</span></span>」</p>
<h4><span id="toc51">サテュロスによる『伝記』</span></h4>
<p><span id="page16R_mcid132" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「病や老齢を防ぐものとなるすべての薬を汝は聞き知るこ</span></span><span id="page16R_mcid133" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">とになろう。</span></span><span id="page16R_mcid134" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid135" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid136" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">まことにわたしはただ汝ひとりのためにこれらのことすべてを</span></span><span id="page16R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page16R_mcid138" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">し遂げるのであるから。</span></span><span id="page16R_mcid139" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid140" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid141" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">大地の上に押し寄せ、その息吹によって田畑を荒廃させる</span></span><span id="page16R_mcid142" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid143" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid144" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">疲れを知らぬ風の力を汝は鎮めるであろう。</span></span><span id="page16R_mcid145" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid146" class="markedContent"></span><span id="page16R_mcid147" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また逆に、もしそれを汝が望むなら、汝はそれに対向する風の息吹をもたらすであろう。</span></span></p>
<p><span id="page16R_mcid147" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation"><span id="page18R_mcid1" class="markedContent">汝は人間どものために暗い長雨を変じて時期に適った日照りとなし、</span><span id="page18R_mcid2" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid3" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid4" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
また夏の日照りを変じて天空より流れ出て樹々を</span><span id="page18R_mcid5" class="markedContent">育む</span><span id="page18R_mcid6" class="markedContent">水の流れとなすであろう。</span><span id="page18R_mcid7" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid8" class="markedContent"></span><span id="page18R_mcid9" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
また汝はハデスから亡き人の力を連れ戻すであろう。</span>」</span></span></p>
<h4><span id="toc52">スーダ辞典</span></h4>
<p>「<span id="page26R_mcid4" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスはメトンの子。ある人によればアルキノモスの子であり、別の人によればエクサイ</span></span><span id="page26R_mcid5" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ネトスの子である。彼にはまたカリクラティデスと</span></span><span id="page26R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page26R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page26R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">名の兄弟があった。</span></span><span id="page26R_mcid9" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid10" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid11" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">彼は最初パルメニデスの講義を聴いた。</span><span dir="ltr" role="presentation">ポルピュリオスが</span><span dir="ltr" role="presentation">『哲学史』</span><span dir="ltr" role="presentation">において</span></span><span id="page26R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page26R_mcid13" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page26R_mcid14" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ところによれば、</span></span><span id="page26R_mcid15" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">この人の稚児にもなったとのことである。だが別の人たちは、エンペドクレスはピュタゴラスの息子</span></span><span id="page26R_mcid16" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">のテラウゲスの弟子であったと</span></span><span id="page26R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page26R_mcid18" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page26R_mcid19" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span><span id="page26R_mcid20" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid21" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid22" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">彼はア</span></span><span id="page26R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">クラガス出身の自然哲学者であり、叙事詩人であった。</span></span><span id="page26R_mcid24" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid25" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid26" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">第７９オリュンピア祭年期［前</span></span><span id="page26R_mcid27" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">464</span></span><span id="page26R_mcid28" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">－</span></span><span id="page26R_mcid29" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">461</span></span><span id="page26R_mcid30" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">年］に彼は生存していた。</span></span><span id="page26R_mcid31" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid32" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid33" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">彼は頭に金の冠を戴き、足には青銅製の履物を履き、手にデルポイの花冠〔の</span></span><span id="page26R_mcid34" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">付</span></span><span id="page26R_mcid35" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いた杖〕を持って</span></span><span id="page26R_mcid36" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">諸都市を</span></span><span id="page26R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">巡り</span></span><span id="page26R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">歩いたが、それは神であるとの彼にまつわる風評を定着させようとしてであった。老齢</span></span><span id="page26R_mcid39" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">にいたって、彼は夜中火口に身を投じた。それは遺骸が発見されないようにとの配慮からであった。</span></span><span id="page26R_mcid40" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">そのようにして彼は死んだが、そのサンダルの片方が火口の火によって投げ出された。また彼はアク</span></span><span id="page26R_mcid41" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ラガスを襲った暴風を驢馬の皮を</span></span><span id="page26R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">町の</span></span><span id="page26R_mcid43" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">周り</span></span><span id="page26R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">に張りめぐらすことによって撃退し、そのことによって</span></span><span id="page26R_mcid45" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「風を封じる人」と呼ばれた。</span></span><span id="page26R_mcid46" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid47" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid48" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">レオンティノイの弁論家ゴルギアスは彼の弟子であった。</span></span><span id="page26R_mcid49" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid50" class="markedContent"></span><span id="page26R_mcid51" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また彼は『事物の自然〔本性〕について』２巻を叙事詩の形で著した（それは２０００行ほどの詩</span></span><span id="page26R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">である）</span><span dir="ltr" role="presentation">。そしてまた医学書を散文で書き、その他多くのものを書いた。</span></span>」</p>
<h4><span id="toc53">ニコマコス</span></h4>
<p>「<span id="page30R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アクラガスのエンペドクレスや</span></span><span id="page30R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">クレタのエピメニデスや極北の人アバリスはそれら</span><span dir="ltr" role="presentation">〔ピュタゴラス</span></span><span id="page30R_mcid54" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">の奇跡〕を共にする人たちであって、さまざまなところで彼ら自身もまたそう</span></span><span id="page30R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page30R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page30R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">奇跡を行なって</span></span><span id="page30R_mcid58" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いる。彼らの詩がそれを明らかにしているが、またとりわけ彼らの異名、エンペドクレスの「風を封</span></span><span id="page30R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">じる人」</span><span dir="ltr" role="presentation">、エピメニデスの「浄める人」</span><span dir="ltr" role="presentation">、アバリスの「空中を歩く人」と</span></span><span id="page30R_mcid60" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page30R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page30R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">異名が明らかにしてい</span></span><span id="page30R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る</span></span>」</p>
<p><span id="page30R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（ポルピュリオス『ピュタゴラス伝』</span></span><span id="page30R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">29</span></span><span id="page30R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、およびイアンブリコス『ピュタゴラス伝』</span></span><span id="page30R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">135</span></span><span id="page30R_mcid48" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid49" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">からの復元）</span></span></p>
<h4><span id="toc54">プルタルコス</span></h4>
<p>「自然学者エンペドクレスは、重苦しく不健康な南風を平野に吹き込ませる通路となっていた山のあ<br />
る峡谷を塞いで、その地方から疫病を閉め出したといわれている。」</p>
<p>（『知りたがりについて』1 p.515 C）</p>
<p>「<span id="page30R_mcid97" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは、市民の中の首領株の連中を、傲慢な振舞いをし、公共の財産を収奪したとして</span></span><span id="page30R_mcid98" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">断罪し、</span><span dir="ltr" role="presentation">〈追放した〉</span><span dir="ltr" role="presentation">。</span><span dir="ltr" role="presentation">そしてまた南西の風が平野へと吹き込んで</span></span><span id="page30R_mcid99" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page30R_mcid100" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る通路となっていた山の渓谷を遮</span></span><span id="page30R_mcid101" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">断することによって、凶作と疫病からポリスを救った。</span></span>」</p>
<p><span id="page30R_mcid87" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『コロテス論駁』</span></span><span id="page30R_mcid88" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">32,</span></span><span id="page30R_mcid89" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">４</span></span><span id="page30R_mcid90" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid91" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.1126</span></span><span id="page30R_mcid92" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid93" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">B</span></span><span id="page30R_mcid94" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc55">クレメンス</span></h4>
<p>「<span id="page30R_mcid112" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アクラガスのエンペドクレスは「風を封じる人」と呼ばれた。いずれにせよ彼は、かつてアクラガ</span></span><span id="page30R_mcid113" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">スの山から風が吹き込んで</span></span><span id="page30R_mcid114" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">き</span></span><span id="page30R_mcid115" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">て、それが住民たち</span></span><span id="page30R_mcid116" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">に耐えがたい害をもたらし、また彼らの妻たちに不</span></span><span id="page30R_mcid117" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">妊の原因となったとき、その風を鎮めたと</span></span><span id="page30R_mcid118" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page30R_mcid119" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">われて</span></span><span id="page30R_mcid120" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いる。</span><span dir="ltr" role="presentation">〔それゆえ彼はその詩において次のように</span></span><span id="page30R_mcid121" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page30R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page30R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。</span><span dir="ltr" role="presentation">〕</span></span><span id="page30R_mcid124" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid125" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid126" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">大地の上に押し寄せ、その息吹によって田畑を荒廃させる</span></span><span id="page30R_mcid127" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid128" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid129" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">疲れを知らぬ風の力を汝は鎮めるであろう。</span></span><span id="page30R_mcid130" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid131" class="markedContent"></span><span id="page30R_mcid132" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また逆に、もしそれを汝が望むなら、汝はそれに対向する風の息吹をもたらすであろう。</span></span><span id="page30R_mcid133" class="markedContent"></span></p>
<p><span id="page32R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">また、</span></span><span id="page32R_mcid1" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid2" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid3" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある者は予</span></span><span id="page32R_mcid4" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">言</span></span><span id="page32R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">を求め、またある者は鉄のごとき病について</span></span><span id="page32R_mcid6" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid7" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">〔その治療の託宣を聞こうと〕彼に付きしたがってくる。</span></span><span id="page32R_mcid8" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid9" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid10" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">実際ひどい〈苦しみに〉苛まれ</span></span><span id="page32R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">てきたものだから、</span></span><span id="page32R_mcid12" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid13" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と語っている</span></span>」</p>
<p>クレメンス（『雑録集』VI 30）</p>
<h4><span id="toc56">ピロストラトス</span></h4>
<p>「<span id="page32R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">なぜならエンペドクレスもピュタゴラスその人もデモクリトスもマゴス僧と交わり、</span><span dir="ltr" role="presentation">神懸り的なこ</span></span><span id="page32R_mcid45" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">とを数々口にしていたが、決してその術〔魔術〕に誘い込まれることはなかったからである。</span></span>」</p>
<p>ピロストラトス（『アポロニオス伝』I2）</p>
<h4><span id="toc57">プリニウス</span></h4>
<p><span id="page32R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「疑いもなくピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンはそれ〔魔術〕を学ぶために</span></span><span id="page32R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">渡航した。それは旅行と</span></span><span id="page32R_mcid60" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page32R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page32R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">よりは真実には亡命としてなされたものであったが。そして帰国後彼ら</span></span><span id="page32R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">はそれを公に披瀝もしたが、また後には秘密にした。」</span></span></p>
<p><span id="page32R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">プリニウス</span></span><span id="page32R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『博物誌』</span></span><span id="page32R_mcid50" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">XXX</span></span><span id="page32R_mcid51" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">1</span></span><span id="page32R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">,</span></span><span id="page32R_mcid53" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid54" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">9</span></span><span id="page32R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page32R_mcid56" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid57" class="markedContent"></span><span id="page32R_mcid58" class="markedContent"></span></p>
<h4><span id="toc58">アリストテレス</span></h4>
<p><span id="page47R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「他方エンペドクレスは上述のもの〔水、空気、火〕に第四のもの、土を加え</span></span><span id="page47R_mcid24" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">て、これらの四つを原</span></span><span id="page47R_mcid25" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">理とする。すなわちこれらは常に存続しつづけ、生成することはないのであって、ただ多さや少なさ</span></span><span id="page47R_mcid26" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">の点でひとつに結合したり、ひとつから分離したりするだけなのである。</span></span>」</p>
<p><span id="page47R_mcid9" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アリストテレス</span></span><span id="page47R_mcid10" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『形而上学』</span></span><span id="page47R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">A</span></span><span id="page47R_mcid12" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid13" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">3.</span></span><span id="page47R_mcid14" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid15" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">984</span></span><span id="page47R_mcid16" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid17" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page47R_mcid18" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid19" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">8</span></span><span id="page47R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span><span id="page47R_mcid21" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid22" class="markedContent"></span><span id="page47R_mcid23" class="markedContent"></span></p>
<p>「<span id="page53R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">だがある人たちは元素を直截に四つとする。たとえばエンペドクレスがそうである。しかしこの人</span></span><span id="page53R_mcid50" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">もまたそれらを二つに</span></span><span id="page53R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">纏めて</span></span><span id="page53R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いる。なぜなら彼は火以外のすべてを火に対立</span></span><span id="page53R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">させているからである。</span></span>」</p>
<p><span id="page53R_mcid35" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アリストテレス</span></span><span id="page53R_mcid36" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『生成消滅論』</span></span><span id="page53R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">B</span></span><span id="page53R_mcid38" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid39" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">3.</span></span><span id="page53R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid41" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">330</span></span><span id="page53R_mcid42" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid43" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">b</span></span><span id="page53R_mcid44" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid45" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">19</span></span><span id="page53R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page57R_mcid14" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">すなわちエンペ</span></span><span id="page57R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ドクレスのように語るあの人たちにとって〔その生成の〕仕方はどのようなもので</span></span><span id="page57R_mcid16" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">あるだろうか。けだしそれは結合でなければならないこと必然であり、ちょうど煉瓦や石から壁が作</span></span><span id="page57R_mcid17" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">られるごときものであろう。そしてその混合体は元素からなるのであるが、それら元素はそのまま保</span></span><span id="page57R_mcid18" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">存され、小部分ごとに相互並置的に置かれていると</span></span><span id="page57R_mcid19" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page57R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page57R_mcid21" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">仕方によってであろう。実際肉や、その他の</span></span><span id="page57R_mcid22" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いずれも、このような仕方で出来ているのである</span></span>」</p>
<p><span id="page57R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アリストテレス</span></span><span id="page57R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『生成消滅論』</span></span><span id="page57R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">B</span></span><span id="page57R_mcid3" class="markedContent"></span><span id="page57R_mcid4" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">7.</span></span><span id="page57R_mcid5" class="markedContent"></span><span id="page57R_mcid6" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">334</span></span><span id="page57R_mcid7" class="markedContent"></span><span id="page57R_mcid8" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page57R_mcid9" class="markedContent"></span><span id="page57R_mcid10" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">26</span></span><span id="page57R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page77R_mcid154" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">なぜなら自然は質料がそうである以上に原理だからである。</span><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスでさえある箇所ではと</span></span><span id="page77R_mcid155" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">こ</span></span><span id="page77R_mcid156" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ろどころで真理そのものに導かれてこのことに思い当り、</span></span><span id="page77R_mcid157" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">例えば</span></span><span id="page77R_mcid158" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">骨とは何であるかを説明する際な</span></span><span id="page77R_mcid159" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ど、比〔ロゴス〕が実体であり自然であると</span></span><span id="page77R_mcid160" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid161" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">わざるを</span></span><span id="page77R_mcid162" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">えなくなっているのである。なぜなら骨とは</span></span><span id="page77R_mcid163" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">元素のひとつであるとも、</span><span dir="ltr" role="presentation">その内の二つないしは三つであるとも、</span><span dir="ltr" role="presentation">そのすべてであるとも彼は</span></span><span id="page77R_mcid164" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid165" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">わず</span></span><span id="page77R_mcid166" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page77R_mcid167" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それらの混合の比〔ロゴス〕であると</span></span><span id="page77R_mcid168" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid169" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page77R_mcid170" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">からである。</span></span>」</p>
<p><span id="page77R_mcid140" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アリストテレス</span></span><span id="page77R_mcid141" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『動物部分論』</span></span><span id="page77R_mcid142" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">A</span></span><span id="page77R_mcid143" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid144" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">1.</span></span><span id="page77R_mcid145" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid146" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">642</span></span><span id="page77R_mcid147" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid148" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page77R_mcid149" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid150" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">17</span></span><span id="page77R_mcid151" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page79R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">だが同様に魂は混合の比〔ロゴス〕であると</span></span><span id="page79R_mcid16" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page79R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page79R_mcid18" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のも不条理である。なぜなら肉と骨とでは元素の</span></span><span id="page79R_mcid19" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">混合は同じ比ではないからである。したが</span></span><span id="page79R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っていやしくももし〔身体の〕すべてが混合された諸元素</span></span><span id="page79R_mcid21" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">から</span></span><span id="page79R_mcid22" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page79R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る</span></span><span id="page79R_mcid24" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">とすれば、そして混合の比〔ロゴス〕が調和であり魂であるとすれば、人は多くの魂を持つ</span></span><span id="page79R_mcid25" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ことに、しかも身体の全体にわたって持つと</span></span><span id="page79R_mcid26" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page79R_mcid27" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page79R_mcid28" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ことになるであろう。だが人は少なくともエンペド</span></span><span id="page79R_mcid29" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">クレスに対して次の問いに答えるよう要求することができよう。</span><span dir="ltr" role="presentation">と</span></span><span id="page79R_mcid30" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page79R_mcid31" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page79R_mcid32" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のも彼は身体各部はそれぞれ</span></span><span id="page79R_mcid33" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">比〔ロゴス〕によってあると</span></span><span id="page79R_mcid34" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page79R_mcid35" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page79R_mcid36" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のだ</span></span><span id="page79R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">からである。すなわち魂は比であるのか、それともむしろそれ</span></span><span id="page79R_mcid38" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">とは異なるものとして四肢の内に生じて</span></span><span id="page79R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page79R_mcid40" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">るものなのか。さらに「愛」はどのような混合の原因でも</span></span><span id="page79R_mcid41" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">あるのか、</span></span><span id="page79R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">それとも比に則った混合の原因であるのか。</span><span dir="ltr" role="presentation">「愛」もまた比であるのか、それとも比とは</span></span><span id="page79R_mcid43" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">異なる何かであるのか。</span></span>」<span id="page79R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アリストテレス</span></span><span id="page79R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『デ・アニマ』</span></span><span id="page79R_mcid3" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">A</span></span><span id="page79R_mcid4" class="markedContent"></span><span id="page79R_mcid5" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">4.</span></span><span id="page79R_mcid6" class="markedContent"></span><span id="page79R_mcid7" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">408</span></span><span id="page79R_mcid8" class="markedContent"></span><span id="page79R_mcid9" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">a</span></span><span id="page79R_mcid10" class="markedContent"></span><span id="page79R_mcid11" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">13</span></span><span id="page79R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc59">プラトン</span></h4>
<p>「<span id="page59R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">火、水、土、空気、これらはすべて自然と偶然によって存在し、それらのいずれも技術によって存</span></span><span id="page59R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">在するのでないと彼らは</span></span><span id="page59R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page59R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page59R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。そしてまたそれらにつづく諸</span></span><span id="page59R_mcid56" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">物、すなわち大地や太陽や月や諸星につ</span></span><span id="page59R_mcid57" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いても、全く魂を有さない〔生命のない〕それら〔火、水、土、空気〕によって造られているのだと。</span></span><span id="page59R_mcid58" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それぞれがそれぞれ有する能力の偶運によって運ばれ、ぶつかり合ったりすると、それぞれがそれ固</span></span><span id="page59R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">有の仕方で結びつくのであり、熱いものが冷たいものと、あるいは乾いたものが湿ったものと、軟ら</span></span><span id="page59R_mcid60" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">かいものが硬いものと、</span><span dir="ltr" role="presentation">また反対のものの偶然的な混合によって必然的に混和される限りのすべての</span></span><span id="page59R_mcid61" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ものが結びつくのであって、そのような仕方で、またそれらのものに基づいて、このように天界全体</span></span><span id="page59R_mcid62" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と天界の内にあるすべての</span></span><span id="page59R_mcid63" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ものが生み出されたのであり、またそれらから全季節が生まれると、動物</span></span><span id="page59R_mcid64" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">や植物の一切が生み出されたのであるが、これらは知性によるのでもなければ、何かある神的存在に</span></span><span id="page59R_mcid65" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">よるのでもなく、また技術によるのでもなくして</span></span><span id="page59R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、むしろ今われわれが語ったもの、すなわち自然と</span></span><span id="page59R_mcid67" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">偶然によるのだと</span></span><span id="page59R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼らは</span></span><span id="page59R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page59R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page59R_mcid71" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のである。</span></span>」</p>
<p><span id="page59R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">プラトン</span></span><span id="page59R_mcid40" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『法律』</span></span><span id="page59R_mcid41" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">X</span></span><span id="page59R_mcid42" class="markedContent"></span><span id="page59R_mcid43" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">889</span></span><span id="page59R_mcid44" class="markedContent"></span><span id="page59R_mcid45" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">B</span></span><span id="page59R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">‐</span></span><span id="page59R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">C</span></span><span id="page59R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc60">シンプリキオス</span></h4>
<p>「<span id="page47R_mcid35" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼〔エンペドクレス〕は物体的元素を四つとする。すなわち火と空気と水と土である。これらは永</span></span><span id="page47R_mcid36" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">遠であって、ただ結合と分離によって多さや少なさの点で転化するだけなのである。他方、これらの</span></span><span id="page47R_mcid37" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ものを運動させる本来の意味における原理は「愛」と「争い」である。すなわち元素は、ある時には</span></span><span id="page47R_mcid38" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">「愛」によって結合され、ある時には「争い」によって分離されると</span></span><span id="page47R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page47R_mcid40" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page47R_mcid41" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ように、交互に運動しつづ</span></span><span id="page47R_mcid42" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">けねばならないのである。したがって彼によれば原理は〔実際には〕六つである。そしてある場合に</span></span><span id="page47R_mcid43" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">は彼は、</span><span dir="ltr" role="presentation">「ある時には愛によってすべてはひとつとなり、ある時には争いの憎しみによってそれぞれ</span></span><span id="page47R_mcid44" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">は</span></span><span id="page47R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">再び</span></span><span id="page47R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">離れば</span></span><span id="page47R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page47R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">れとなる」と語っている時のように、</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」と「愛」に能動的な能力を付与してい</span></span><span id="page47R_mcid49" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">るが、ある場合には「ある時には逆に一つのものから多くのものへと分裂した。火と水と土と空気の</span></span><span id="page47R_mcid50" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">限りなき高さとが。またこれらから別に離れてあらゆるところで重さ</span></span><span id="page47R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の等しい呪われの争いが、また</span></span><span id="page47R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">これらのもののただ中に長さも幅も相等しい愛が」と語っている時のように、それら〔</span><span dir="ltr" role="presentation">「愛」と「争</span></span><span id="page47R_mcid53" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">い」</span><span dir="ltr" role="presentation">〕も四つのもの〔四元素〕と同列に並べている。</span></span>」</p>
<p><span id="page47R_mcid29" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">シンプリキオス</span></span><span id="page47R_mcid30" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『アリストテレス「自然学」注解』</span></span><span id="page47R_mcid31" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">25,21</span></span><span id="page47R_mcid32" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc61">擬プルタルコス</span></h4>
<p><span id="page47R_mcid130" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「アクラガスのエンペドクレスは、元素は四つあるとする。すなわち火、水、アイテール、土がそれ</span></span><span id="page47R_mcid131" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">である。そしてそれら〔を結合させ、あるいは分離させる〕原因が「愛」と「争い</span></span><span id="page47R_mcid132" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">」である。</span><span dir="ltr" role="presentation">〔まず</span></span></p>
<p><span id="page49R_mcid0" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">最初に〕空気が元素の最初の混合から分離されて周辺に広がったと彼は</span></span><span id="page49R_mcid1" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid2" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid3" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。空気の次に火が噴き出</span></span><span id="page49R_mcid4" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">したが、他に行き場所を見出せず、空気の</span></span><span id="page49R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">周り</span></span><span id="page49R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">の密集帯から上に噴出した。他方大地の</span></span><span id="page49R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">周り</span></span><span id="page49R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">を回転す</span></span><span id="page49R_mcid9" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る二つの半球があり、その一方は全体として火から出来ているが、他方は空気と少量の火からなる混</span></span><span id="page49R_mcid10" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">合物である。この後者を彼は夜と考えた。運動の発端は密集体が〈そのある部分〉で降り下って</span></span><span id="page49R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">く</span></span><span id="page49R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る</span></span><span id="page49R_mcid13" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">火と出遭ったことから引き起こされた。太陽は本性的には火ではなく、水面に映える反射に似た火の</span></span><span id="page49R_mcid14" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">反射像に他ならない。</span><span dir="ltr" role="presentation">しかし月は火によって切り離</span></span><span id="page49R_mcid15" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">された空気からそれ単独で</span></span><span id="page49R_mcid16" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">な</span></span><span id="page49R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">り立っていると彼は</span></span><span id="page49R_mcid18" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid19" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。すなわち空気が雹のように固まったものなのである。そして月は太陽から光を得ている。支配</span></span><span id="page49R_mcid21" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">的部分は頭でも胸でもなく、血液中にある。したがって身体中のどの部分にそれ（支配的部分のこと</span></span><span id="page49R_mcid22" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">を彼は考えている）がより多く撒かれているかで、人間は〔それぞれ〕その部分で優ると</span></span><span id="page49R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid24" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid25" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。」</span></span></p>
<p><span id="page47R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">擬プルタルコス</span></span><span id="page47R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『雑録集』</span></span><span id="page47R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">10</span></span><span id="page47R_mcid125" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page47R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.582</span></span><span id="page47R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc62">ヒッポリュトス</span></h4>
<p>「<span id="page49R_mcid40" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">(1)</span></span><span id="page49R_mcid41" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼ら〔ピュタゴラスの徒〕の後にエンペドクレスが出て、ダイモーンの本性について多くのことを</span></span><span id="page49R_mcid42" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">語った。すなわち</span></span><span id="page49R_mcid43" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page49R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">それらは</span></span><span id="page49R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">極めて</span></span><span id="page49R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">多く</span></span><span id="page49R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">存在するが、どのようにして地上の諸物を管理しつつ住みつ</span></span><span id="page49R_mcid48" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">いているかと</span></span><span id="page49R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid50" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page49R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ことである。</span><span dir="ltr" role="presentation">万有の原理は</span><span dir="ltr" role="presentation">「争い」</span><span dir="ltr" role="presentation">と</span><span dir="ltr" role="presentation">「愛」</span><span dir="ltr" role="presentation">であり、</span><span dir="ltr" role="presentation">単一の知的な火が神であり、</span></span><span id="page49R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">万物は火から出来ており、また火へと解体されるであろうと彼は</span></span><span id="page49R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">った</span></span><span id="page49R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。世界大火を予想するストア</span></span><span id="page49R_mcid56" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">学徒も大体の点で彼の教説に同意している。</span></span><span id="page49R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">(2)</span></span><span id="page49R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">また彼は何よりも再受肉</span><span dir="ltr" role="presentation">〔魂の転生〕</span><span dir="ltr" role="presentation">に同意しており、</span></span><span id="page49R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">次のように</span></span><span id="page49R_mcid60" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page49R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span><span dir="ltr" role="presentation">「わたしはこれまでかつて一度は少年であり、</span><span dir="ltr" role="presentation">少女であった。</span><span dir="ltr" role="presentation">また藪であり、</span></span><span id="page49R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">鳥であり、海に浮かび出る物</span></span><span id="page49R_mcid64" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid65" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">わぬ</span></span><span id="page49R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">魚であった。</span><span dir="ltr" role="presentation">」</span></span><span id="page49R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">(3)</span></span><span id="page49R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼はすべての魂があらゆる動物に移り行</span></span><span id="page49R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">くと</span></span><span id="page49R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid71" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。なぜなら彼らの師であるピュタゴラス自身もまた〔かつては〕エウポルボスであり、イリオンの</span></span><span id="page49R_mcid73" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">野に出征したことがあると語ったからである。彼は〔エウポルボスの〕盾をそれと見分けられると主</span></span><span id="page49R_mcid74" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">張した。</span></span>」</p>
<p><span id="page49R_mcid31" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポリュトス</span></span><span id="page49R_mcid32" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『全異端派論駁』</span></span><span id="page49R_mcid33" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I</span></span><span id="page49R_mcid34" class="markedContent"></span><span id="page49R_mcid35" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">3</span></span><span id="page49R_mcid36" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page49R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.558</span></span><span id="page49R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span></span></p>
<p>「<span id="page67R_mcid76" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ちょうどエンペドクレスが、われわれのいる場所はすべて悪に充ちており、悪は大地の周辺領域か</span></span><span id="page67R_mcid77" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ら延びて月にまで達しているが、それより先には及んでいない。なぜなら月より上の領域はすべてよ</span></span><span id="page67R_mcid78" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">り清浄だからであると</span></span><span id="page67R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page67R_mcid80" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page67R_mcid81" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ようにである。ヘラクレイトスもまたそのような考えであった。</span></span>」</p>
<p><span id="page67R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポリュトス</span></span><span id="page67R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『全異端派論</span></span><span id="page67R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">駁』</span></span><span id="page67R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I 4,3</span></span><span id="page67R_mcid71" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page67R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.559</span></span><span id="page67R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc63">アエティオス</span></h4>
<p>「<span id="page49R_mcid86" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">〈エンペドクレスは、一者は球形にして永遠なるもの、不動なるものであり、</span><span dir="ltr" role="presentation">〉また一者は必然性で</span></span><span id="page49R_mcid87" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">あるが、その必然性の質料が四元素であり、形相が「争い」と「愛」であるとする。また元素は神々</span></span><span id="page49R_mcid88" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">であり、それらの混合が宇宙であり、</span><span dir="ltr" role="presentation">〈加えて</span></span><span id="page49R_mcid89" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid90" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid91" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">なら、スパイロス〔球体〕で</span></span><span id="page49R_mcid92" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">あるが、万物はこの</span></span><span id="page49R_mcid93" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">スパイロスへと〉還元されるであろうと彼は</span></span><span id="page49R_mcid94" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page49R_mcid95" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page49R_mcid96" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。そしてこのスパイロス〔球体〕は単一形相のもの</span></span><span id="page49R_mcid97" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">なのである。また魂は神的なものであり、魂を純粋に分け持つ清浄な人も神的であると彼は考えた。</span></span>」</p>
<p><span id="page49R_mcid78" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page49R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page49R_mcid80" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I</span></span><span id="page49R_mcid81" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">7,28</span></span><span id="page49R_mcid82" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page49R_mcid83" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.303</span></span><span id="page49R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p><span id="page53R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「エンペドクレスは、元素の場所はすべてに渡って固定しても、一定してもおらず、すべての元素が</span></span><span id="page53R_mcid13" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">互いの場所を取り替え合うと語って</span></span><span id="page53R_mcid14" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いた。</span></span>」</p>
<p><span id="page53R_mcid4" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page53R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page53R_mcid6" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 7,6</span></span><span id="page53R_mcid7" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page53R_mcid8" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.336</span></span><span id="page53R_mcid9" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p><span id="page61R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">「エンペドクレスは、天は固体であって、火によって氷のように固められた空気から出来ており、半</span></span><span id="page61R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">球のそれぞれに火の部分と空気の部分を包含するとする。」</span></span></p>
<p>「<span id="page63R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは〔諸星は〕火であって、火の要素から出来ているとする。それは空気が自らの内</span></span><span id="page63R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に含んでいたが、最初の分離の際に搾り出されたものである。</span></span></p>
<p><span id="page61R_mcid43" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page61R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page61R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 11,2</span></span><span id="page61R_mcid46" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page61R_mcid47" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.339</span></span><span id="page61R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page63R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは〔諸星は〕火であって、火の要素から出来ているとする。それは空気が自らの内</span></span><span id="page63R_mcid59" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に含んでいたが、最初の分離の際に搾り出されたものである。</span></span>」</p>
<p><span id="page63R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page63R_mcid50" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page63R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I</span></span><span id="page63R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I 13,2</span></span><span id="page63R_mcid53" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page63R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.341</span></span><span id="page63R_mcid55" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span></span></p>
<p>「<span id="page63R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは、恒星は氷に縛り付けられているが、惑星はその縛りを解かれていると</span></span><span id="page63R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page63R_mcid74" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page63R_mcid75" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span>」</p>
<p><span id="page63R_mcid64" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page63R_mcid65" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page63R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 13,11</span></span><span id="page63R_mcid67" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page63R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.342</span></span><span id="page63R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page63R_mcid121" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは、太陽は二つあるとする。一方は原型で、宇宙の一方の半球にあってその半球を</span></span><span id="page63R_mcid122" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">満たしている火であり、常にそれ自身の反射像の反対側に位置している。もうひとつは眼に見えるそ</span></span><span id="page63R_mcid123" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">れであり、熱と混じり合った空気に満たされたもう一方の半</span></span><span id="page63R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">球に投影された反射像であって、まるき</span></span><span id="page63R_mcid125" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">大地からの反射によって太陽になった氷状のものであり、火の半球の運動と一緒に引き廻される。手</span></span><span id="page63R_mcid126" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">短に</span></span><span id="page63R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page63R_mcid128" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">えば</span></span><span id="page63R_mcid129" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、大地を</span></span><span id="page63R_mcid130" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">巡る</span></span><span id="page63R_mcid131" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">火の反射像が太陽なのである。</span></span>」</p>
<p><span id="page63R_mcid113" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page63R_mcid114" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page63R_mcid115" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 20,13</span></span><span id="page63R_mcid116" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page63R_mcid117" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.350</span></span><span id="page63R_mcid118" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page65R_mcid131" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは、</span><span dir="ltr" role="presentation">〔月は〕</span><span dir="ltr" role="presentation">空気が密集して雲のようになり、</span><span dir="ltr" role="presentation">火によって固められたものであって、</span></span><span id="page65R_mcid132" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">したがって混合体であるとする。</span></span>」</p>
<p><span id="page65R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page65R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page65R_mcid125" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 25,15</span></span><span id="page65R_mcid126" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page65R_mcid127" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.357</span></span><span id="page65R_mcid128" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<p>「<span id="page77R_mcid128" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">肉は等しい割合で混合された四元素から生み出され、</span><span dir="ltr" role="presentation">筋は火と土が二倍の水と混合されることによ</span></span><span id="page77R_mcid129" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">って生じ、</span><span dir="ltr" role="presentation">動物の爪は筋が空気と出合った際に冷やされることによって生み出され、</span><span dir="ltr" role="presentation">骨は水と土が二、</span></span><span id="page77R_mcid130" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">火が四からなるとエンペドクレスは</span></span><span id="page77R_mcid131" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid132" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page77R_mcid133" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。土の中にこれら諸部分が混合されることによってである。</span></span><span id="page77R_mcid134" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">また汗と涙は血液が溶解し、より微細になるために染み出すことによって生じると</span></span><span id="page77R_mcid135" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page77R_mcid136" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page77R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。</span></span>」</p>
<p><span id="page77R_mcid117" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page77R_mcid118" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page77R_mcid119" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">V</span></span><span id="page77R_mcid120" class="markedContent"></span><span id="page77R_mcid121" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">22,1</span></span><span id="page77R_mcid122" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page77R_mcid123" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.434</span></span><span id="page77R_mcid124" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span></span><span id="page77R_mcid125" class="markedContent"></span></p>
<p>「<span id="page97R_mcid162" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは、</span><span dir="ltr" role="presentation">色とは視覚の孔に適合するところのものであると主張した。</span><span dir="ltr" role="presentation">元素の数と等しく、</span></span><span id="page97R_mcid163" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">それは四つあ</span></span><span id="page97R_mcid164" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">る。すなわち白、黒、赤、黄である。</span></span>」</p>
<p><span id="page97R_mcid154" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アエティオス</span></span><span id="page97R_mcid155" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『学説誌』</span></span><span id="page97R_mcid156" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I 15,3</span></span><span id="page97R_mcid157" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">［</span></span><span id="page97R_mcid158" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">Dox.313</span></span><span id="page97R_mcid159" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">］</span><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc64">ストバイオス</span></h4>
<p>「<span id="page51R_mcid20" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは沸騰〔ゼシス〕とアイテールを「ゼウス」</span><span dir="ltr" role="presentation">、土を「生命</span></span><span id="page51R_mcid21" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">育む</span></span><span id="page51R_mcid22" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヘラ」</span><span dir="ltr" role="presentation">、空気を「ア</span></span><span id="page51R_mcid23" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">イ</span></span><span id="page51R_mcid24" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ドネウス」</span><span dir="ltr" role="presentation">（と</span></span><span id="page51R_mcid25" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid26" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page51R_mcid27" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のは</span></span><span id="page51R_mcid28" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page51R_mcid29" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">それは自らの光を有さず、太陽や月や星によって照らされるのだからであ</span></span><span id="page51R_mcid30" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る）</span><span dir="ltr" role="presentation">、種子と水を「ネスティス」</span><span dir="ltr" role="presentation">、</span><span dir="ltr" role="presentation">「死すべき人の子らのもとなる泉」と</span></span><span id="page51R_mcid31" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid32" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page51R_mcid33" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。かくして万有は四つの</span></span><span id="page51R_mcid34" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">元素から出来ており、それらの本性は対立するもの、乾と湿、温と冷によって構成されているのであ</span></span><span id="page51R_mcid35" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る。そして万有は互に対する比例関係と混合によって造り出されるのであり、部分的な転化を受ける</span></span><span id="page51R_mcid36" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ことはあっても、全体の解体は許さないのである。と</span></span><span id="page51R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page51R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のも</span></span><span id="page51R_mcid40" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page51R_mcid41" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">彼は次のように</span></span><span id="page51R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid43" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">っている</span></span><span id="page51R_mcid44" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">からであ</span></span><span id="page51R_mcid45" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">る。</span></span><span id="page51R_mcid46" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid47" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid48" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には愛の力により、すべては結合してひとつ</span></span><span id="page51R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">となり、</span></span><span id="page51R_mcid50" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid51" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid52" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ある時には争いの持つ憎しみのために逆にそれぞれ離ればなれとなる。</span></span>」</p>
<p><span id="page51R_mcid11" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ストバイオス</span></span><span id="page51R_mcid12" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『自然学抜粋集』</span></span><span id="page51R_mcid13" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">I</span></span><span id="page51R_mcid14" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">10,11</span></span><span id="page51R_mcid15" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid16" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">b</span></span><span id="page51R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc65">ガノレス</span></h4>
<p>「<span id="page51R_mcid154" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヒッポクラテスは、われわれの知る限り、元素</span></span><span id="page51R_mcid155" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">は混和すると唱えた最初の人である。･･･</span></span><span id="page51R_mcid156" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid157" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">そしてこ</span></span><span id="page51R_mcid158" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">の点で彼はエンペドクレスと異なるのである。</span><span dir="ltr" role="presentation">この人もヒッポクラテスの</span></span><span id="page51R_mcid159" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid160" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page51R_mcid161" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のと同じ元素からわれ</span></span><span id="page51R_mcid162" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">われも、そしてまた地上に存する他のすべての物体も</span></span><span id="page51R_mcid163" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">出来ていると</span></span><span id="page51R_mcid164" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page51R_mcid165" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page51R_mcid166" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">が、しかしそれらは〔彼の場</span></span><span id="page51R_mcid167" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">合には〕互いに混和し合うのではなく、微細部分ごとに並置され、触れ合っているに</span></span><span id="page51R_mcid168" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">過ぎない</span></span><span id="page51R_mcid169" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のであ</span></span>る」</p>
<p><span id="page51R_mcid137" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ガレノス</span></span><span id="page51R_mcid138" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『ヒッポクラテス「人間の本性について」注解』</span></span><span id="page51R_mcid139" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">XV</span></span><span id="page51R_mcid140" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid141" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">49</span></span><span id="page51R_mcid142" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">K</span></span><span id="page51R_mcid143" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ü</span></span><span id="page51R_mcid144" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">hn. CMG</span></span><span id="page51R_mcid145" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid146" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">V</span></span><span id="page51R_mcid147" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid148" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">9,1</span></span><span id="page51R_mcid149" class="markedContent"></span><span id="page51R_mcid150" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.27,22</span></span><span id="page51R_mcid151" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc66">アキレウス・タティオス</span></h4>
<p>「<span id="page53R_mcid28" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">エンペドクレスは元素に特定の場所を与えない。</span><span dir="ltr" role="presentation">むしろそれらは互いに場所を譲り合うのであって、</span></span><span id="page53R_mcid29" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">したがって土が空中に運ばれることもあれば、火が低いところに行くこともあるのである</span></span>」</p>
<p><span id="page53R_mcid17" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アキレウス・タティオス</span></span><span id="page53R_mcid18" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『アラトスの「天象譜（パイノメナ）</span><span dir="ltr" role="presentation">」入門』</span></span><span id="page53R_mcid19" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">4</span></span><span id="page53R_mcid20" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid21" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.34,20</span></span><span id="page53R_mcid22" class="markedContent"></span><span id="page53R_mcid23" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">Maa</span></span><span id="page53R_mcid24" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ß</span></span><span id="page53R_mcid25" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h4><span id="toc67">アレクサンドロス</span></h4>
<p>「<span id="page95R_mcid45" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ヘラクレスの石〔磁石〕について。なぜそれは鉄を引きつけるのか。エンペドクレスは双方からの</span></span><span id="page95R_mcid46" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">流出物によってであって、</span><span dir="ltr" role="presentation">石の孔が鉄の流出物と対応し合っているために鉄は石に向けて運ばれるの</span></span><span id="page95R_mcid47" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">だと</span></span><span id="page95R_mcid48" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid49" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid50" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">。すなわち</span></span><span id="page95R_mcid51" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page95R_mcid52" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">石の流出物が鉄の孔の上の空気を追い払い、それらを蔽っているものを移動さ</span></span><span id="page95R_mcid53" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">せるのである。</span><span dir="ltr" role="presentation">そしてそれが取り除かれる</span></span><span id="page95R_mcid54" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">と流出物が一挙に流れ出、</span><span dir="ltr" role="presentation">鉄もそれについて行くのである。</span></span><span id="page95R_mcid55" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">鉄からの流出物が石の孔へと運ばれるとき、それはそれら〔の大きさ〕が孔と対応し合っており、孔</span></span><span id="page95R_mcid56" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に適合するからであるが、そのとき鉄もまた流出物と一緒について行き、一緒に運ばれると</span></span><span id="page95R_mcid57" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid58" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid59" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">わけ</span></span><span id="page95R_mcid60" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">である。だが人は、</span></span><span id="page95R_mcid61" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">たとえ</span></span><span id="page95R_mcid62" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">流出物に関することは承認するとしても、一体どうして石は自分の流出物</span></span><span id="page95R_mcid63" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">について行かないのか、</span><span dir="ltr" role="presentation">そしてどうして鉄に向かって動かないのかと</span></span><span id="page95R_mcid64" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid65" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid66" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">点をさらに問題にしたいと</span></span><span id="page95R_mcid67" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">思うであろう。と</span></span><span id="page95R_mcid68" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid69" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid70" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のも</span></span><span id="page95R_mcid71" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">、</span></span><span id="page95R_mcid72" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">上述のことからは、鉄が石に向かって動かされると</span></span><span id="page95R_mcid73" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid74" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid75" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">のに少しも劣ら</span></span><span id="page95R_mcid76" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">ず、石が</span></span><span id="page95R_mcid77" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">鉄に向かって動かされるとも</span></span><span id="page95R_mcid78" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid79" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">えよう</span></span><span id="page95R_mcid80" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">からである。さらに、石〔磁石〕がない場合であって</span></span><span id="page95R_mcid81" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">も、なぜ鉄は時には他の何らかのものに向かって動かされると</span></span><span id="page95R_mcid82" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid83" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid84" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ことがないのか。それからの流出</span></span><span id="page95R_mcid85" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">物が一挙に運ばれると</span></span><span id="page95R_mcid86" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid87" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">う</span></span><span id="page95R_mcid88" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">ことがあるならば。すなわち、なぜ石からの流出物だけが鉄の孔を蔽って</span></span><span id="page95R_mcid89" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">流出を押し止めている空気を動かすことができるのか。さらにまた、なぜ他ものも他の何らかのもの</span></span><span id="page95R_mcid90" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">に向かってこのような仕方で運ばれないのか。</span><span dir="ltr" role="presentation">多くのものが相互に流出物と対応し合った孔を有する</span></span><span id="page95R_mcid91" class="markedContent"><br role="presentation" /><br />
<span dir="ltr" role="presentation">と彼によって</span></span><span id="page95R_mcid92" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid93" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">われて</span></span><span id="page95R_mcid94" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いるのだからである。少なくとも彼は次のように</span></span><span id="page95R_mcid95" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">い</span></span><span id="page95R_mcid96" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">って</span></span><span id="page95R_mcid97" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">いる</span></span><span id="page95R_mcid98" class="markedContent"></span>」</p>
<p><span id="page95R_mcid37" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">アレクサンドロス</span></span><span id="page95R_mcid38" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">（</span><span dir="ltr" role="presentation">『問題集』</span></span><span id="page95R_mcid39" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">II 23</span></span><span id="page95R_mcid40" class="markedContent"></span><span id="page95R_mcid41" class="markedContent"> <span dir="ltr" role="presentation">p.72,9</span></span><span id="page95R_mcid42" class="markedContent"><span dir="ltr" role="presentation">）</span></span></p>
<h2><span id="toc68">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc69">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc70">「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3t4J3c6">「時間の比較社会学」</a></p>
<h3><span id="toc71">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc72">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc73">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc74">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc75">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc76">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：玉田敦子「批判と礼賛：プラトンにおけるレトリックの地位」<a href="https://researchmap.jp/atsuko_tamada/published_papers/29437944/attachment_file.pdf">(URL</a>)</p>
<p>２：松浦芙佐子「シェイクスピアにおける視覚」(<a href="https://oka-shodai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=302&amp;item_no=1&amp;attribute_id=21&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>３：松浦和也「「知性」の「無理解」―アリストテレスのアナクサゴラス評―」(<a href="https://shumei-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=105&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>４：古牧徳生「なぜソクラテスは逃げなかったのか:自然の探求から人間の探求へ」(<a href="https://nayoro.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=35&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=67">URL</a>)</p>
<p>５：長谷川眞理子「進化学の系譜博物学とダーウィン以後の生物学」(<a href="https://ir.soken.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&amp;page_id=29&amp;block_id=155&amp;item_id=2256&amp;item_no=1">URL</a>)</p>
<p>６：鈴木幹也「エンペドクレス序説:断片17.8行のφορευμεναの相」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jclst/25/0/25_KJ00005743510/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>７：小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」(<a href="https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/76/76-25-46.pdf">URL</a>)</p>
<p>８：山本吉信「死と死を超えるもの(その1):プラトン『パイドン』の理解のために」(<a href="https://keiai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=1070&amp;item_no=1&amp;attribute_id=19&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>９：木村隆良/新居毅人「安全な質量保存則の実験法」(<a href="https://kindai.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=20985&amp;file_id=40&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>10：日下部吉信「資料集(10)」(<a href="https://kusakabe-yoshinobu.up.seesaa.net/image/Empedokles.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>【基礎哲学第六回】パルメニデスの「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/08/29/parmenides-1/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 29 Aug 2022 14:46:15 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[パルメニデス]]></category>
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					<description><![CDATA[パルメニデスについての記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-10" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-10">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">概要</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">パルメニデスの断片</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">断片1(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">断片２(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">断片３(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">断片４(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">断片５(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">断片６(抜粋)(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">断片8(抜粋)(山田哲也訳)</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">断片10（岩野）</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">断片16(岩野)</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">断片A37(岩野)</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">パルメニデス</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">パルメニデスとは、誰</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">エレア派とは、意味</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">哲学史</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」とは、意味</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">メモ：【論理学における三大原理】同一律、矛盾律、排中律</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">「在る」とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">断片２における「在る」は「存在」か「述語」かで解釈が分かれている</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">存在で解釈するケース</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">ジョン・バーネットによる解釈</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">David Gallop解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">述語で解釈するケース</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">Mourelatosの解釈</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">標準的パルメニデス解釈</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">改丁パルメニデス解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">「在らぬ」とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">存在論と認識論</a><ol><li><a href="#toc33" tabindex="0">Owenによる認識論的解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">「在るもの」とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">「在るもの」の意味を表す「真理のしるし」とは</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">１：「在るもの」を物質的なものと解釈する説</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">２：「在るもの」を概念的なものと解釈する説</a></li></ol></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">「在らぬもの」とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">なぜ万物の生成や生滅が不可能なのか</a><ol><li><a href="#toc40" tabindex="0">帰謬法</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">時間とパルメニデスと変化</a></li></ol></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">なぜ万物を分割することが不可能なのか</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">なぜ万物が運動をすることが不可能なのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">３つの道、真理への道</a><ol><li><a href="#toc45" tabindex="0">死すべきものたちの思い込み(ドクサ)、真理と臆見、３つの道</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">ドクサ(思いなし、思い込み、思惑)とはなにか</a><ol><li><a href="#toc47" tabindex="0">ドクサに関する二種類の解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">火と土が万物の原理である</a></li></ol></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">コラム：プラトンの髭、ラッセルの「記述理論」、クワインの「存在は変項の値である」について</a><ol><li><a href="#toc50" tabindex="0">プラトンの髭とは、意味</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">プラトンの髭とパルメニデスの関連</a></li></ol></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">クワインの「存在は変項の値である」とは、意味</a><ol><li><a href="#toc53" tabindex="0">対象の領域</a></li></ol></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">ラッセルの記述理論とは、意味</a><ol><li><a href="#toc55" tabindex="0">「プラトンの髭」以外の方法</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc57" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc58" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<p>・すこし理解に頭を使うような内容なので、間違ってる部分があるかもしれません。引用や出典と見比べながらできるだけ読み進めることをおすすめします。</p>
<p>・ラッセルやクワインは今回は深く触れず、いつか扱います。ゼノンは飛ばす予定です(あまりにも私の理解に時間がかかりすぎてしまうと思うので、論理学の分野で扱おうと思っています)。次はエンペドクレスの予定です。</p>
<h3><span id="toc2">概要</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>パルメニデスはだれか、どんな人か</strong></span>：古代ギリシアの哲学者で、<strong>エレア派</strong>の代表。著書は『<strong>ペリ・フュセオース</strong>(自然について)』。弟子にゼノンやメリッソスがいると伝えられている。論理学の祖、合理主義の祖、存在論の祖ともいわれている。</li>
<li class="sample"><strong><span style="color: #0000ff;">パルメニデスはどんなことを言ったのか、主張は何か</span></strong>：(1)「<strong>在るものは在り、在らぬものは在らぬ</strong>」と主張した。在るものが在らぬものに変化することはないという意味であり、論理学で言うと同一律にあたり(A＝A)、そこからAかつ非Aはあらぬという矛盾律、Aか非Aかどちらかであり、その中間はないという排中律が帰結する。こうした命題から論理的、<strong>理性</strong>的に考えていくと、万物は多ではなく一であり、不生不滅で分割できず、変化もなく、時間もなく、始まりも終わりもく、有限で、有の連続であるという結論になる。そうした「在るもの」をパルメニデスは「<strong>丸い真なるもの</strong>」と表現したが、この表現が物理的なものか、概念的なものかについては解釈がわかれている。「在るもの」とは人間が認識するものであり、パルメニデスを存在論ではなく<strong>認識論</strong>的に解釈する人もいる。(2)「<strong>在るという道</strong>」と「<strong>在らぬという道</strong>」、「<strong>ドクサの道</strong>」という３つの道(あるいは後ろ２つをまとめる解釈もある)を主張し、「在るという道」が真理の道(<strong>アレーテイア</strong>)であると考えた。なぜなら、<strong>在らぬことは考えることも知ることも言及することもできず</strong>、真理の道でないからである。「在るという道」の「在る」が存在用法か叙述用法かで解釈が分かれている。</li>
<li class="sample"><strong><span style="color: #0000ff;">パルメニデスは万物の原理、アルケーをなんだと考えたか</span></strong>：パルメニデスは「ドクサの道」で一番説得力のある理屈を女神から教わるという文脈で、「<strong>火と土が万物の原理</strong>」という説を唱えている。臆見の道も学んでいることから、世界を二元論的に考えているとも解釈されることがある。ただし真理の道においては万物は一であるので、一元論の人物とも解釈される。</li>
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>プラトンの髭</strong></span>：「ないものも、なんらかの意味合いで、あらなければならない」というパラドックス。哲学者(論理学者)のクワイン(1908-2000)が「プラトンの髭」呼んだ。例えば架空の存在としてのペガサスは物理的には存在していないが、概念的には存在しているといえてしまう。存在者として言及、指示されたからには、概念的には存在者だということができてしまう。パルメニデスの文脈で言えば「在らぬ」の道の定義は知ることも考えることも言及することもできないものであるから、ペガサスは「在らぬ」には入らないことになる。ただし、「在る」の道の定義は「在らぬことは不可能」なので、物理的に「在らぬ」ペガサスは「在る」には入らないことになる。したがって、パルメニデスの文脈では、在るかつ在らぬという矛盾に満ちた思い込みの、「ドクサの道」に入ることになる。以上が、用いた架空の存在者を「在らぬ」に入れようとする主張へのプラトンの髭を用いた反論である。</li>
</ol>
<h3><span id="toc3">動画での説明</span></h3>
<p><iframe loading="lazy" title="YouTube video player" src="https://www.youtube.com/embed/OugO32EzzrA" width="560" height="315" frameborder="0" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc4">パルメニデスの断片</span></h3>
<h4><span id="toc5">断片1(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「私を運ぶ馬たちは、心が達する限りまで送った。ダイモーンが私を誉れ高い道へと運び上げた後で。その道というのはあらゆる町を通って知者を運ぶ道。その道によって私は運ばれた。というのも、その道においてはとても賢い馬たちが私を運ぶ馬車を引っ張り,娘たちが道を案内したのだから。車軸は車輪の中で砕けて燃え上がり,叫びを放った。(というのも、二つの回転する車によって両側からせきたてられたからである)夜の屋敷から離れた太陽の娘たちは、光のほうへと私を送ろうと急いだとき,頭から手でベールを払った。そこには夜と昼の道の門があって,それらの周りには横梁と閥があった。そして,高い門それ自体は大きな扉によって閉じられていた。罪を厳しく罰する女神ディケーが,それらの扉の昼と夜を変化させる鍵を持っている。その女神に娘たちは優しい言葉で語りかけた。そして慎重に以下のことを説得した。我々のためにボルトで締められた門を速やかに門からはずして欲しいと。すると娘たちは扉の翼を広げ大きな空間を作った。ボルトと留め金でとめられ,銅で装飾された車軸をパイプの中で何度も回転させながら。そして,その門を通って,娘たちは道に沿って馬車と馬をまっすぐに走らせ続けた。そして、親切な女神は私を受け入れて,その手で私の右手をとり,言葉をかけて以下のように言った。おお若者よ、不死なる御者に連れられてあなたを運ぶ馬たちによって我々の家までやってきたものよ,喜びなさい。というのも,悪しき運命がこの道を行くようにあなたを送ったのではないのだから。(というのも,この道は人間たちの道よりも外側にあるのだから。)むしろ,法と正義があなたを送ったのだ。そしてあなたはすべてを聞いて学ばねばならない。一方では、丸い真なるものの不動の心を,そして,他方では,死すべきものたちの思い込みを,これらの思い込みには何一つ真なる証がない。しかし,それにもかかわらず,汝は以下のことを学ぶだろう。思惑されている全てのことが,あらゆるものに行き渡って正しいとされねばならなかったかを。」</p>
<h4><span id="toc6">断片２(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「さあ,私は語ろう。そして,あなたはこの話を聞いて受け入れよ。ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「ある」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である(というのも,真理に従うから)他方で,その道は「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である。私はあなたに,この道は探究できない道であるということを示す。というのも,あなたはあらぬものを知ることができないし(なぜなら不可能だから),考えることもできないのだから。」</p>
<h4><span id="toc7">断片３(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「なぜなら,思惟することとあることは同じことであるから。」</p>
<h4><span id="toc8">断片４(山田哲也訳)</span></h4>
<p>Fr「現前していないにもかかわらず,知性には現前しているものをしっかりと見よ　というのも,あるものがあるものと関係しているのを切り離さないだろうから。秩序にしたがって,あらゆるところにあらゆる仕方で散らばっている場合にも切り離さないだろうし、集まっている場合にも切り離さないだろう。」</p>
<h4><span id="toc9">断片５(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「私にとっては同じことである,どこから始めたとしても。というのも、私は再びまたここに戻ってくるから。」</p>
<h4><span id="toc10">断片６(抜粋)(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「語ることが可能であり,考えることが可能なものがあるのでなければならない。なぜなら,あることは可能であるが,あらぬものはあらぬからである。私はあなたにこれらのことを考えるよう命ずる。」</p>
<h4><span id="toc11">断片8(抜粋)(山田哲也訳)</span></h4>
<p>「語られる道がたった一つだけ残っている。あるという道。そしてその道の上にはしるしがある。とてもたくさん。あるものは不生であり不滅である。というのも,手足が完全で不動,そして、終わりのないものだからである。それは,かつてあったではなく,いつかあるだろうでもない,なぜなら,今,一度に全て一なるもの連続したものとしてあるのだから。いったい、あなたは、このもののいかなる生成を求めるのだろうか。どのようにしてどこから成長したのだろうか。あらぬものからとあなたが主張することも考えることも私は認めない。というのも,それは語られ得るものでも、考えられ得るものでもない。というのも,あらぬから。それに,どのような必要が,それが以前より後に無から生じるという仕方で生じることを促したのか。このように,全くあるか全くあらぬかでなければならない。信頼の力はあらぬものの側では,何かあるものが無から生じるということを主張しないだろう。このことから,生成も消滅も,ディケーは物を緩めることはあってもそれを放任することはない。むしろ保持する。そして,これらのことに関する判断は,以下のことのうちにある。あるかあらぬか。それゆえ,必然的に以下のように判断された。一方の道は考えられず,名前がないものであると認め(なぜなら真理の道ではないから)他の道はあり,そして,真なるものであるというように。いかにして,あるものが後々破壊されるのだろうか。また,いかにして生じることができようか。というのも,もしも生じたのであれば,あらぬし、もしいつかあるであろうならば,あらぬ。このように,生成は消し去られ,消滅は聞こえなくなった。それは不可分である。というのも,全てが同じであるから。こちらで幾分より多くなるということもないし,そのようなことはそれがつながることを妨げるから。それに,幾分かより少ないということもない。というのも,全体があるもので満ちているのだから。このように,全体は連続したものである。というのも,あるものはあるものに接しているから。しかし,それは大きな戒めの中の限界の中で不動であり,始まりがなく終わりもない。というのも,生成と消滅が,はるかかなたへと叩き出され真理の信頼がそれを押し出したからである。それは同じものとして同じもののうちにそれ自体でとどまり横たわる。そして,このように,同じものはここにしっかりととどまる。というのも、力強い必然の女神が限界の納めの中にそれを保持し,その斜めが両側から押さえつけているからである。このことのゆえにあるものが不完全であるということは正しいことではない。というのも,それは不足していないから。そして,(仮に不足しているのであれば)あるものは全てを必要とするだろう。思惟することと思惟がそれのために存在するところのものは同じものである。というのも,それについて語られているところのあるものが存在しなければ思惟することを見出すことはできないだろう。というのも、存在しないし,存在しないだろうから。あるものを除いては。というのもモイラが知り付けたから。全体に不動であるように。このことにより全てのもの,即ち,死すべきものどもが真理であると信じて定めているところのものは名目に過ぎないであろう。生成も消滅もあることもあらぬことも。場所を変えることも,明るい色に変わることも。しかし,最終的な限界があるのだから,それはあらゆる方向に完結していて,塊に似た丸い玉であり,中心からあらゆる方向に向けて均等である。というのも,それがそちらこちらでより大きくあったりより小さくあったりすることはあってはならないことであるから。というのも,それが同じものになることを妨げるようなあらぬものは存在しないし,あるものは,あるものよりもこちらではより多くあり,そちらではより少なくあるというようなものではない。というのも,あるものは全体的に不朽のものだからである。というのも,あらゆる方向に向かってそれと同質であり,限界のうちで同じようにあるからである。ここで私は、真理に関する真なる言葉と真なる考えを両方ともあなたに語ることをやめよう。」</p>
<p>断片８ 51行目「これから先、あなたは死すべき者達の思惑を学べ」</p>
<p>断片８「「汝に私は全ての確からしい（eoikota）この宇宙秩序を語らん、死すべき人間のなにかの説が汝を追い抜くことがないように。」（fr.8.60-61）」(岩野)</p>
<p>断片８：「死すべき者たちが真実と信じて定めたすべてのことは名目にすぎぬであろう――／生じるということも滅びるということも、ありかつあらぬということも、場所を変えるということも、明るい色をとりかえるということも」（パルメニデス断片B8） (<a href="http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ki_greek_pp.html">URL</a>)</p>
<p>※山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」から断片の翻訳を引用しています。シンプリキオス写本に基づくテキストからの訳だそうです。ギリシャ語が分かる方は山田さんの論文の注にあるのでチェックしてみるといいかもしれません。</p>
<p>※各断片の行数がわかりにくくなっていますが、詳細は山田さんのほうの論文を見てください。</p>
<h4><span id="toc12">断片10（岩野）</span></h4>
<p>「しかし汝は、アイテールの本性とアイテールのうちなる全ての星座、それに又輝く太陽のすみきった松明が焼き尽す作用のことを、知るだろう。そしてまるい眼をした月の走り廻るはたらきとその本性のことを聞くだろう、又あたりを取り囲んでいるウーラノス（天）がどこから生まれ、そして又それをアナンケー［の女神］がどのように、星々の限界を持つように、導いて足枷をはめるのかを、知るだろう。」（fr.10）</p>
<h4><span id="toc13">断片16(岩野)</span></h4>
<p>「「なぜなら、それぞれの者人間は、様々に迷う肢体の混合を持つが、そのように、精神noosは人間のかたわらに立つ。なぜなら思考する者と肢体の本性は、あらゆる人間にとり、同じものであるから。即ち（光ないし夜の要素が）より多いということが思想noēmaである。」（fr.16）」</p>
<h4><span id="toc14">断片A37(岩野)</span></h4>
<p>「全ての環を壁のように包み込んでいる堅いものがある、その下には火によって出来ている環が位置する。&#8230;」</p>
<blockquote>
<p>「DKfr.A37の訳―「AëtiusII7,1（ParmenidesB12を参照。）パルメニデスは次のように述べている。互いに重なり合った環stephanasが存在し、あるものは希薄なものからなり、他は重厚なものからなっている。それらの間に光と闇から混成された別の環がある。そしてすべての環を取り囲む壁のような固い部分があり、その下には火でできた環がある。さらにそれら全ての環の中心には固い部分があり、その周囲にも火でできた環がある。混成してできた環の最も中央のものは、それら全てのものの運動変化と生成の〈始原〉と〈原因〉であり、それをパルメニデスはダイモーン 舵を取る者と［B12,３参照］、又鍵を持つ者と［B1,14参照］、あるいは又ディケー、アナンケーと［B8,30;10,6］呼んでいる。空気は、大地の強い圧のために気化し、大地から分離したものである。太陽と天の川［B11.2参照］は火の呼吸である。月は、空気と火の両方が混合したものである。アイテールはすべてのものの最上部に包囲するようにあり、その下に、我々がウーラノスと呼んでいる火でできた部分が位置する。その下は、大地の領域である。」―この後A37は、Cicerodenat.deor.I,11,28からの引用を含むが、ここでは省略したい。なお、ここに見られる「環」の理論は、宇宙論ではあるが、誕生まもない初期の宇宙を論じる宇宙創生論Kosmogonieである。K.ReinhardtParmenidesp.14を参照」</p>
<div>
<div>岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」,59P</div>
</div>
</blockquote>
<h2><span id="toc15">パルメニデス</span></h2>
<h3><span id="toc16">パルメニデスとは、誰</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パルメニデス(permenides,前515~前445年頃)</strong></span>：</big>・古代ギリシアの哲学者で、エレア派の代表であり、創始者(クセノファネスという説もある)。著書は『ペリ・フュセオース』(自然について)であり、現在は断片だけが残っている。著書は叙事詩の韻律である六脚韻が使用されている。エレアで法律を制定したと伝えられている。</p>
</div>
<p>・創始者はクセノファネスという説もあるが、考えを体系化した人物はパルメニデスだという。</p>
<p>・パルメニデスの弟子にはエレア出身のゼノン、サモア出身のメリッソスがいる。ただし直接的な師弟関係があったかは定かではない</p>
<p>・メリッソス以降、エレア派は途絶えたという。</p>
<p>・プラトンのイデア論に影響を与えたと言われている。プラトンは著作「パルメニデス」でパルメニデスについて叙述している。</p>
<p>・アリストテレスからは感覚を無視して自説を主張するのは「ほとんどきちがい沙汰であるように見える」と批判され、「静止される人たち(スタシオータイ)や非自然学者(アフュシコイ)」と呼ばれたらしい。</p>
<p>・「存在論」を明確化した最初の人物と言われている</p>
<p>・「合理主義」の祖といわれている：感覚よりも理性を重視する。</p>
<p>・一元論的な考えも、二元論的な考えももっている。</p>
<p>・ピタゴラス学派のアメイニアスやアナクサゴラスの弟子のクセノファネスに教わっていたという説がある(出典は<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%B9#cite_note-2">WIKI</a>なので詳細は不明)。</p>
<p>・プラトンによればソクラテスが青年の頃、老人のパルメニデスと出会っている。</p>
<p>・ヘラクレイトスを「両頭の怪物共」と表現し、矛盾した考え方を批判していたという解釈がある。</p>
<blockquote>
<p>「エレア学派の真の創設者はエレア出身のパルメニデスである．彼はクセノパネスの考えをさらに徹底させて，唯一不動の「有」のみが存在し，生成や変化はわれわれの感覚にあらわれる臆見にすぎないと説いた．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,32P</p>
<p>「「紀元前6世紀前半、南イタリアのギリシア植民地エレア（Elea）でイオニア出身のクセノパネスに始まったと言われる哲学の学派、クセノパネスの後エレア出身のパルメニデス、ゼノン（エレアの）、メリッソスが続いた。パルメニデスがクセノパネスの弟子であったとしたのはアリストテレスであるが、歴史的事実であったかどうかは疑わしい。むしろクセノパネスの唯一の不動の神の考えが、パルメニデスの唯一の不動の存在の哲学に結果の上で類似していることに由来している。しかしパルメニデスの哲学はその「探究」としての性格上、内容でも方法論でも言語でもクセノパネスとも（誰とも）異なっている。実質的にはエレア派はパルメニデスに始まったとしてよい。そしてパルメニデスで終わったのである。それほどパルメニデスは際立っていた。」</p>
<p>「「生成消滅をまぬがれた永遠不滅の真の実在（存在するもの）を感覚によってではなく思考によって捉えようとするエレア派、とくにパルメニデスの努力は、プラトンのイデア論の形成にも大きな影響を与えた。ところが、アリストテレスはそれとは対照的に、エレア派のように感覚を踏み越え、感覚を無視して自説を主張するのは「ほとんどきちがい沙汰であるように見える」（『生成消滅論』第1巻第8章）といっている。彼はまた、その失われた著作『哲学について』のなかで、エレア派のことを（自然の原理である運動を否定する人たちなので）「静止させる人たち〔スタシオータイ〕」とか「非自然学者〔アフュシコイ〕」と呼んでいたらしい。思考で捉えられる実在と感覚に現れる生成消滅との両立は、多元論者や原子論者にとっても、解決すべき一つの課題となった」（平田［2004：23］） 」</p>
<p>ギリシア哲学-ソクラテス以前哲学者断片 出典の<a href="http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ki_greek_pp.html">URL</a></p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">エレア派とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>エレア派(Elea;エレア学派)</strong></span>：</big>・紀元前６世紀後半に南イタリアのエレアで起こったとされる哲学の一派。エレアは古代ギリシアの植民市だったという。</p>
</div>
<p>・南イタリアのナポリ南東の古代ギリシア植民地エレアに紀元前5世紀に生じた哲学の一派</p>
<p>・パルメニデスが創始したとされている</p>
<p>・詩人クセノファネスが創始したという解釈もある</p>
<p>・パルメニデスの弟子にはエレア出身のゼノン、サモア出身のメリッソスがいる。メリッソス以降、エレア学派は途絶えたという。</p>
<blockquote>
<p>「「イオニア地方のミレトスで活躍した「ミレトス派」（ターレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス）にたいして、マグナ・グエキアのエレア地方（現在の南イタリアの西海岸）で活躍したパルメニデス（前515~450頃）にはじまり、ゼノン（前490~430頃）、メリッソス（前440頃活躍）へと受け継がれた系統の学派を「エレア派」と呼ぶ。直接の師弟関係があったとは思われないが、プラトンやアリストテレスの証言にしたがって、エレア派の始祖としてクセノファネス（前570~480頃）が数え入れられるばあいもある」（平田［2004：22］）」</p>
<p>ギリシア哲学-ソクラテス以前哲学者断片 出典の<a href="http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ki_greek_pp.html">URL</a></p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">哲学史</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/e36eddb481270c1c492022894e81a871.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2551" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/e36eddb481270c1c492022894e81a871.png" alt="" width="631" height="261" /></a></p>
<p>・時代的にはピタゴラスの後の人物で、ヘラクレイトスと同時代の人間。</p>
<p>１：神話から自然哲学へ、主観から客観へ、神話的思考の衰退と合理的な知識の登場(最初の哲学)</p>
<p>２：世界が何でできているか(<b>存在の原理</b>)</p>
<p>３：世界は何によって動いているか(<b>生成の原理</b>)</p>
<p>４：存在・生成の原理を説明できるような万物の根源、始原を「<b>アルケー</b>」という。アルケーを求める人達を「<b>自然哲学者</b>(ピュシコイ)」という。最初の自然哲学者がタレスであるといわれている。ソクラテス以前の人々は「自然」について主に探究したという。ソクラテス以後は、愛とはなにか、勇気とはなにか、人間はどう生きるべきかといった観念的な方向へと変わっていく。</p>
<p>５：ミレトス学派の哲学者たちは存在の原理と生成の原理を明確に区別していなかったという。</p>
<p>・タレスはアルケーを「<b>水</b>」、アナクシマンドロスは「<b>無限定なもの</b>」、アナクシメネスは「<b>空気</b>」であると考えた。彼らにとって、それらは万物の存在の原理であると同時に、生成の原理であるとされ、<b>その両者は明確に区別されていなかった</b>という。たとえば水は存在の原理としては不生不滅で恒常不変であるが、生成の原理としては生成し、消滅し、変化するものだと考えられている。</p>
<p>６：ヘラクレイトスは「<b>生成や変化のみ</b>」が存在し、恒常不変なものはなにひとつ存在しないと主張した。</p>
<p>７：パルメニデスはその逆で、「<b>在るもの</b>」のみが在り、生成や変化はしないと主張した。</p>
<p>ただし、ヘラクレイトスは変わるという法則(ロゴス)は永遠不変で恒常的であると主張し、パルメニデスもドクサ(臆見)としては生成や変化があるように人間には見えてしまうと主張した。</p>
<p>８：<b>存在の原理と生成の原理をいかに調停するか</b>がギリシア哲学では重要になっていく。説得力のある説明の問題。エンペドクレスやアナクサゴラス、デモクリトスなどが挑戦していく。</p>
<p>プラトンは「<b>イデア</b>」という考えで、調停しようとした(現象界では変化しているように見えるが、イデア界では不変。理性によってイデアは認識可能)。カント(1724-1804)はイデアのようなものは人間の理性によって認識することは不可能だと主張した(批判哲学)。ヘーゲル(1770-1831)は<b>弁証法</b>によって真理(絶対精神)を認識することが可能だと主張した。</p>
<h2><span id="toc19">「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」</span></h2>
<h3><span id="toc20">「在るものは在り、在らぬものは在らぬ」とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>在るものは在り、在らぬものは在らぬ(あるものはある。ないものはない。)</strong></span>：</big>・在るものが在らぬものに変化することはないという意味。論理学で言うと同一律を意味する。同一律からは矛盾律や排中律が帰結する。断片６から取り出された言葉。</p>
</div>
<p>断片６(抜粋)(山田哲也訳)</p>
<p>「語ることが可能であり,考えることが可能なものがあるのでなければならない。なぜなら,あることは可能であるが,あらぬものはあらぬからである。私はあなたにこれらのことを考えるよう命ずる。」</p>
<p>・一元論的な考え「万物は一に帰結する」</p>
<blockquote>
<p>「意味：無から有はうまれないということ。文献：パルメニデス　断片６。パルメニデスはヘラクレイトスとは反対に、世界は変化しないと言います。パルメニデスは、変化とは物質が有から無になることや、無から有になることだと定義したうえで、そんなことは論理的にはありえないと主張したのです。パルメニデスは存在の有無を見た目よりも理性で捉えたので、合理主義の祖とされています。」</p>
<p>「哲学用語図鑑」,30P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc21">メモ：【論理学における三大原理】同一律、矛盾律、排中律</span></h4>
<p>同一律：AはAである</p>
<p>矛盾律：Aは非Aではない</p>
<p>排中律：命題Aに対してAかAでないかのいずれかである</p>
<p>排中律→任意の命題に対して、それが成り立つか、成り立たないかいずれか一方であって、その中間はないことを述べた論理学の法則。記号を用いると、A＜～A（AあるいはAでない）がいかなる命題Aに対しても成り立つという主張であると考えてよい。いかなる命題も真か偽のいずれかというもの。</p>
<p>動画で排中律はA=Aと説明してしまっていましたが、同一律に近いですねその説明だと。</p>
<p>万物は「在る」か「無い」かいずれかしかなく、在る、かつ無いの中間はありえないという意味で「排中律」なのかもしれません。</p>
<p>ここからなぜ「万物は変化しない」という結論に至るのかがポイントになってきます。</p>
<p>★非存在の存在は考えることができない</p>
<p>１：理性で論理的(<strong>同一律</strong>を通して)に考えれば、万物は変化しない。AはAである。</p>
<p>→断片１「「語ることが可能であり,考えることが可能なものがあるのでなければならない。なぜなら,あることは可能であるが,<strong>あらぬものはあらぬ</strong>からである。私はあなたにこれらのことを考えるよう命ずる。」<br />
」</p>
<p>２：感性では万物が変化しているようにみえる。例：目では水が蒸発して消えたように見える</p>
<p>３：(１)理性は万物は変化していないと認識でき、(２)感性では万物が変化しているように見える。</p>
<p>→(１)AはAである。(２)Aは非Aである。</p>
<p>４：Aは非Aであるということは矛盾している。パンを食べたということと食べていないということが同時に起こるようなもの。→<strong>矛盾律</strong></p>
<p>断片８：「死すべき者たちが真実と信じて定めたすべてのことは名目にすぎぬであろう――／生じるということも滅びるということも、<strong>ありかつあらぬということも</strong>、場所を変えるということも、明るい色をとりかえるということも」（パルメニデス断片B8）</p>
<p>５：AはAであるか、Aは非Aであるか、どちらかしかない。どちらも成り立つということはない。パンを食べたか、食べていないかのどちらかでしかない。→<strong>排中律　</strong></p>
<p>断片８「このように,<strong>全くあるか全くあらぬかでなければならない</strong>。」</p>
<p>６：パルメニデスはAはAであることが正しいと考えた。パルメニデスによれば「より多いものが思想を決定する」という。「在らぬもの」は認識することができない闇である。「在るもの」は認識することができる光である。したがって、「AはAである」という「在る」の道が真理の道である。</p>
<p>断片16(岩野)</p>
<p>「「なぜなら、それぞれの者人間は、様々に迷う肢体の混合を持つが、そのように、精神noosは人間のかたわらに立つ。なぜなら思考する者と肢体の本性は、あらゆる人間にとり、同じものであるから。即ち（光ないし夜の要素が）<strong>より多いということが思想noēmaである</strong>。」（fr.16）」</p>
<p>論理学についてはあまり詳しくないので詳説を避けます。論理学を学んでから後でどの断片がどの原理に当てはまるのかを考えてみたいと思います。正直、同一律も矛盾律も排中律も同じようなことを言っているように私からは見えてしまいます。同一律から排中律や矛盾律が派生する感じですね。</p>
<p>いずれにせよパルメニデスは同一律、矛盾律、排中律のどれをも主張していたという理解でいいのだとおもいます。</p>
<p>闇は感覚的に考えることはできる、という話は面白いですね。確かに暗闇は光があるときより情報量が少ないです。明るければ森や水、石など、多くのものがあるように感覚では見え、それらについて考えることができます。しかし暗闇ではなにも見えません。しかし感覚的には暗闇があるということで、考えることはできます。感覚的には暗闇があることが知覚されたとしても、ないものはないという論理によって、存在を否定されるわけです。感覚では暗闇があるようにみえても、思惟ではないに分類されるわけです。思惟では「ない」ものに分類されるので、「あるものとは思惟されるもの」という言葉どおり、「あるもの」ではなくなり、したがって「ないもの」になるわけです。</p>
<p>ということで暗闇は感覚的にはあるようにみえても、思惟では「ない」ものになり、したがって存在的にも「ない」ものになります。これは知覚より思惟が優位であるということらしいです。頭がごちゃごちゃしてきました。糖分をとらないと・・。そもそも暗闇を知覚するとはなにか、知覚がなければ思惟がないとはどういうことか整理がよくついていない。</p>
<p>そういえばアレを思い出した。カントのくだりだ。これは世界が無限だとしたら、悟性(思惟能力)ではとらえきれないという話。悟性とはいわゆる論理的な思考力であり、知性のこと。もし宇宙が無限なら、宇宙(世界)をまるごと認識しようとすることは難しい。直感≒感覚、思惟≒認識</p>
<p>「『直感がなければ、われわれにはいかなる客観も与えられないし、だからまたいかなる客観も総合的には認識されえない。』『直感はすべて感性的である。それゆえ直感にもとづく思弁的認識は、可能的経験の到達範囲以上に出ることはできない。したがってまた純粋な思弁的理性のすべての原則は、与えられた経験か、さもなければ、たしかに無限に与えられるにせよ、決して完結した全体としては与えられていな、そういう対象の経験を可能にすることしかできないのである([実践理性批判]),51』</p>
<p>「＜世界とはなにか＞と問うてみても同じことである。われわれの経験しうるものは『世界』の部分部分、局面局面でしかなく、『世界そのもの』はわれわれの経験の埒外にある。『私は世界全体というものを常に概念においてのみもっているのであって、決して(全体として)直感においてもっているのではない』&#8230;&#8230;だが、そもそも直感(Auschauung)において与えられないものを、受容的存在者たるわれわれ人間は認識することができない。(笹部幸隆「知と意味の位相」,61P)」</p>
<p>「話はなかなか噛みあわなかったが、色々やりとりしているうちに、わたしに分かってきたその物理学者の回答は、大体以下のようなものだった。＜自分たちは、宇宙というものを、光であれ、物質であれ、とにかくわれわれの所への何らかのインフォメーションがとどいてくるその範囲内の空間と考えている。宇宙が膨張しつつあるというのは、早い話が、いままで何もなかったと考えられていた所からインフォメーションがやってきたということであり、インフォーメーションの発信源が拡がったということである。＞と。＜それなら、あなたがたはやっぱり宇宙を有限なものと考えているのだ。その先は一体何なのか＞と、わたしは子供みたいな質問をくり返した。＜そんなことは知らない＞と、相手はけんもほろろである。しばらく議論は空回りしたが、そのうち、かれはきっぱり言ったものである。＜その先は何だとあなたは言うけれども、大体なんのインフォメーションもやってこない所のことについて、一体なにが言えますか？＞私は黙って引きさがらざるをえなかったが、そのうち得心したものである。なるほど、それがサイエンスというものか、と。およそインフォメーションを欠き経験を欠く事柄について、学問的にはどんな立言も可能ではない。わたしはそのとき改めて、経験科学の精神とは何かについて、その物理学者から教わったのである。と同時に、物自体と現象との峻別、限界概念ないし発見的概念としての理念といったカントの考え方が──これはウェーバーの社会科学方法論の根底にある考え方でもあるのだが──、すこしは分かったようなきがするのである。(笹部幸隆「知と意味の位相」,66-67P)」</p>
<p>これは私が好きな本で、何度も読み直している文章だ。ここでは「インフォメーション」という言葉で表現されているものが、パルメニデスの文脈で言う「感覚」なのかもしれない。なにか感覚がないと思惟が生じない。思惟が生じないということは、存在していないということと等しい。物質がなければそれに対する感覚も生じず、思惟も生じず、したがって存在も生じない。この世に光がないとしたら、光に対する感覚が生じず、したがって光に対する思惟も生じない。したがって光は存在していないことになる。たとえば全人類の目が見えなかったとしたら、光は存在しないのかもしれない。他の目の見える動物が人間に対して「いやいや光はあるじゃん」とツッコんだとしても、人間は「いやいやないものを考えるとはできないんや、だからあるものだけを考えていくんや。」となる。</p>
<p>ところで人間はペガサスやら電子やらニュートリノやら、目に見えないが思惟はできるものも同時に考えることができる。光は目に見えないが、理論上「光のようなものがあったほうがつじつまがあう」と考えることがあるかもしれない。そのようなものは存在している、在るものである、と考えていくことができるか。感覚よりも思惟を優先して、ないように見えるだけで、論理的に考えれば実はあるんだ、と言い張ることもできる。変化しているように見えるが、論理的に考えれば変化していないんだ、と同じような話じゃないか。あるいは目に見えないというのは人間の思い込みで、じつは見えているんだ、なぜならば考えることができるからだ、という結論に強引にもっていくとか。</p>
<p>わかったような、わからないような気がした。とりあえず論理学の項目でもう一度復習することにしたい。こういう論理的な話になると理解が遅れることで自分は頭が悪いんだな、と文系を専攻したことを少し後悔する。１＋１＝２であり３であるということはないわけだ。数学は論理的な思考を鍛える。</p>
<blockquote>
<p>「形式論理の代表的古代哲学者としてパルメニデスを挙げることができる。パルメニデスは同一律を忠実に尊守して、生成、変化を否定し「有は有るが、無は有らぬ」という。従って無から有を生ずることも、有が無になることもなく、有は有から生ずるという連続性が同一性の意味となる。そこでは、有るか有らぬかが矛盾律、排中律に則した真理基準であり、非存在の存在は矛盾的存在として否定されてある。パルメニデスによれば非存在の存在は形式論理に違反しているから、考えることも証明することもできないものである。しかし眼、耳、舌などの知覚によって非存在の存在が仮定できるとしている。光と闇、温と冷が知覚的事実として現われてくればこれに従わざるをえない。「温きものは有るものの側に、他のものは有らぬものの側に配している」「全体は双方等しい光と目に見えぬ闇とに同時に充たされている」。パルメニデスは「より多いものが思想を決定する」と考えて、温が冷より、光が闇より多いものと規定している。知覚的事実が両者の混合であるから、思惟はどちらかに優越性を与えた知識でなければならない。パルメニデスの思惟は当然のこととして、「温きものによる思惟はより優れて、より純粋なもの」となる。知覚できないものは思惟することはできない。「知覚と思惟とは同一である」とのパルメニデスの主張によって、非存在の存在は知覚も思惟もできないものとなる。更に目に見えない闇は思惟においても有らぬもの、とパルメニデスは規定する。しかしパルメニデスにとっては現実的に目に見えない闇がそこに知覚的に光より少なく存在するはずなのだが、思惟によって論理的に否定されている。知覚と思惟は同一であると形式的に定義しておきながら、その内実は知覚に対する思惟の優越である。このことは、「思惟と存在は同一である」とパルメニデスが主張することにも、合致する。有らぬと論理的に考えられるものが存在的にも有らないのだから、存在するか否かは人間の思惟によって決定される。そこに前提となっているのは、存在に対する思惟の優越、世界における論理の優位である。」</p>
<p>永島輝雄「弁証法の起源」41P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">「在る」とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>在る(希;エスティン,estin)</strong></span>：</big>・断片２ではじめて出てきた言葉。英語でいうと「is」にあたる。</p>
</div>
<p>『ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「<b>ある</b>」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である』(断片２)</p>
<p>・断片における「在る」の意味とは</p>
<p>１：「在る」を「<b>述語</b>」で解釈するケース。例：２は整数である</p>
<p>２：「在る」を「<b>存在</b>」で解釈するケース。例：整数２がある</p>
<p>３：「在る」を「<b>等しさ</b>」で解釈するケース。例：明けの明星は宵の明星である</p>
<p>４：「在る」を「<b>成立</b>」で解釈するケース。例：２＋２＝４である</p>
<p>→ムーレラトスによる標準的な解釈では、これらすべてが断片中で混合して(fused)用いられているという。文脈によって変わる。重要なのは断片２においての「在る(という道)」の意味合い。</p>
<blockquote>
<p>「さてしかし,ここで女神の言う「ある」(エスティンSoru)のアイデンティティーは何か。その主語は(もしあるとすれば)何か。その「ある」は,述語的なそれであるのか。それとも「存在的」なそれであるのか。「2は整数である」の「ある」と,「整数2がある」の「ある」とでは,それぞれに「ある」の意味が違うと言わなければならない。それとも,その「ある」は,「明けの明星は宵の明星である」の「ある」の場合のように,等しさ(equality)のそれであるか。あるいはむしろ「2+2=4であるは真理である(=成り立つ)」といった場合のそれ,つまり“veridical&#8221;なそれであるか。それとも,それらの「ある」がすべて一体となって混融した(“fused&#8221;)かたちで用いられているのか。あるいはむしろ,ただ,それらすべてが,ただ「混乱した」(“confused&#8221;)意味で使われているにすぎないのか。&#8230;&#8230;「エスティ」「エイナイ(《ある》の不定詞)」は,種々の文脈にあって,事柄・事態を値tildomain&#8221;fused&#8221;TILL“veridical”な用いられ方をしている。」</p>
<p>山川偉也「パルメニデス断片２における『非有』の問題」,25P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">断片２における「在る」は「存在」か「述語」かで解釈が分かれている</span></h3>
<p>断片２(山田哲也訳)</p>
<p>「さあ,私は語ろう。そして,あなたはこの話を聞いて受け入れよ。ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「<span style="background-color: #ffff99;"><strong>ある</strong></span>」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である(というのも,真理に従うから)他方で,その道は「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である。私はあなたに,この道は探究できない道であるということを示す。というのも,あなたはあらぬものを知ることができないし(なぜなら不可能だから),考えることもできないのだから。」</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「在る」を「存在」で解釈するケース。例：整数２がある→<b>存在用法(バーネットなど)</b></li>
<li class="sample">「在る」を「述語」で解釈するケース。例：２は整数である→<b>叙述用法(ギャロップなど)</b></li>
</ol>
<h3><span id="toc24">存在で解釈するケース</span></h3>
<p>バーネット、ギャロップなどは断片２の「在る」を「<b>存在</b>」として解釈している。つまり、リンゴが在るというときの「在る」と同じ意味合い。</p>
<p>したがって、主語は意識的に隠されていて、後に「在るもの」という主語が出てくると解釈されている(断片３など)。</p>
<p>→「在るという道」は「<b>『在るもの』のみが存在する</b>」という道であると解釈するケース。</p>
<h4><span id="toc25">ジョン・バーネットによる解釈</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>ジョン・バーネット(John Burnet)</strong>：</big>(1863~1928)イギリスのギリシア哲学研究家。プラトンと初期ギリシャ哲学の研究に貢献した人物。1892年の「初期ギリシャ哲学」などでしられている。</p>
</div>
<p>・「ある」を「存在」の意味で解釈した</p>
<p>・「ある」の主語は「丸い真なるもの」であるものだと解釈している。「あるものがある」ということであり、あるものとは「丸い真なるもの」だということ</p>
<p>・「あるもの」の性質については、不生不滅、不可分、不動、完全性、あらゆる方向に完結していて、塊に似た丸い玉であり、あらゆる方向に向けて均等といった「物理的」解釈がされている</p>
<p>・バーネットのパルメニデス解釈は「あるものは,有限で球形の不動で物体的な充実体であり,それ以外のものは何も存在しない」というもの</p>
<blockquote>
<p>「さて,パルメニデスの「ある」に関するBunetの解釈であるが,簡潔に言うと,Fr.2の三行目「その道は,一方で,「ある」そして「あらぬことは不可能」という道であり(……)」で女神によってこの詩の主題として提示されている「ある」を「存在」の意味で解釈し,その「ある」の主語としてFr.1の29行目で「丸い真なるものの不動の心(……)」という仕方で言及される「丸い真なるもの(……)」を読み込むものである。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,101P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc26">David Gallop解釈</span></h4>
<p>David Gallopについては詳細がよくわかりません。プラトンの著作である「パイドン(Phaedo)」などを翻訳した人物のようです。山田哲也さんがバーネットと一緒に紹介していたのでとりあげてみます。</p>
<p>基本的にはバーネットの「在る」と同じ意味、つまり「存在」の意味で使っています。</p>
<blockquote>
<p>「しかし,Gallopは「ある」を「存在」の意味で解釈し,その「ある」の主語を「あるもの」もしくは「丸い真なるもの」とみなしているという点ではBurnetと共通している。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,102P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">述語で解釈するケース</span></h3>
<h4><span id="toc28">Mourelatosの解釈</span></h4>
<p>Alexander P. D. Mourelatosはテキサス大学の哲学の教授のようです。「<em>The Route of Parmenides</em> 」などの著作で知られているようです。ムーレラトスと読むようです。</p>
<p>ムーレラトスは「在る」を何か一つの事物に対して<b>究極的</b>な述語付をなす際に用いられる用法として解釈している。</p>
<p>→「在るもの」という主語ではなく、「在る」という用法それ自体をパルメニデスは重視したという解釈。<b>何が在るかではなく、どう在るかを重視</b>。</p>
<p>〇〇がなんであるかの探究は今まで散々されてきた。水が、空気が、とある物体がなにかを研究するのではなく、<b>そもそも述語としての「在る」がどのようなものかを探究する必要がある</b>というのがパルメニデスの立場だという解釈。</p>
<blockquote>
<p>「Alexander P. D. Mourelatos is Professor Emeritus in Philosophy and in Classics at The University of Texas at Austin, where in 1967 he founded and for twenty years directed, the Joint Classics-Philosophy Graduate Program in Ancient Philosophy. He is the author of The Route of Parmenides (1970; 2nd edn., 2008), and editor of The Pre-Socratics: 」</p>
<p><a href="https://www.aristoteliansociety.org.uk/the-proceedings/the-2021-22-programme/alexander-mourelatos/">出典</a></p>
<p>「つまり,Mourelatosはパルメニデスの「ある」を,何か一つの事物に対して究極的な述語付けをなす際に用いられる用法として解釈しているのである。また,Mourelatosは「ある」に対してこのような解釈を取るがゆえに,パルメニデスの「ある」に関する問題意識はその主語にあるのではなく,その用法それ自体に</p>
<p>あると考えている。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,103P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">標準的パルメニデス解釈</span></h4>
<p>ムーレラトスが「パルメニデス解釈における若干の代替物」において1960~1970年代のアングロ・サクソン系のパルメニデス研究者に関する合意事項の要約</p>
<p>A：断片２において「ある(エスティ)」の主語は意識的に隠されている。</p>
<p>B：「あらぬ」が禁じられているのは、現実的対象の意味論的言及に失敗するから</p>
<p>C：パルメニデスは存在と述語の「ある」を混同していない</p>
<p>D：「エスティ」「エイナイ(あるの不定詞)」は種々の文脈で事柄・自体を値域とするfusedないしverticalな用いられ方をしている</p>
<p>A～Dを前提にすると、以下の「標準的パルメニデス」解釈が成り立つという。</p>
<p>・α,b,c&#8230;＝個体定項</p>
<p>・x,y,z&#8230;＝個体変項</p>
<p>・F,G,H&#8230;=述語</p>
<p>・個体：一つのものを個体と呼ぶ。「田中さんは天才である」という命題は「田中さん」一人の人物に関する主張なので、田中さんは個体である。「犬は足が速い」という命題は一匹の犬に関する主張ではないので、犬は個体ではない。固有名詞と普通名詞の違い。</p>
<p>・不特定の個体を「個体変項」または「変項」と呼ぶ。小文字x,y,z&#8230;などで表す。たとえば「xは天才である」など。</p>
<p>・特定の個体を「個体定項」と呼ぶ。たとえば「田中さんは天才である」という文章における個体定項は「田中」さん。小文字a,b,c&#8230;などで表す。</p>
<p>・述語：個体の性質や関係を表す表現を「述語」と呼ぶ。述語は大文字のF,G,Hなどで表す。</p>
<p>・F(x)=命題関数　例：「田中さんは天才である」というときのxは田中さん、・・・は天才であるはF。命題関数とは命題において個体定項を個体変項に置き換えた文。</p>
<p>・要素命題F(a)「aはFである」</p>
<p>・α(アルファ)をaなる事態とする</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「”α”はあらぬ」という文は、”α”に言及しえないゆえに不成立である。</li>
<li class="sample">「xはあらぬ(存在的)」「xはFであらぬ(述語的)」はいずれも１に還元される。</li>
<li class="sample">「xはyと同じではあらぬ」も同様。</li>
<li class="sample">「xはyと異なる」は「xはyと同じであらぬ」を前提する。</li>
<li>ゆえに、「万物は一」を主旨とする一元論が帰結する</li>
</ol>
<p>例１：「田中さんが飛ぶということはあらぬ」という文章は田中さんに言及しないゆえに不成立。</p>
<p>→「αであらぬ」という事態は、確定した事項として成立していないから言及することも考えることもできない。</p>
<p>例２：「ペガサスはあらぬ」という文章や「ペガサスは人間ではあらぬ」も同様に考えることができない。あらぬものは考えることも言及することもできず、無意味になる。</p>
<p>例３：「人間はペガサスと同じではあらぬ」も同様に、ないものは言及することができない。</p>
<p>例４：「人間はペガサスと異なる」は「人間はペガサスと同じではあらぬ」を前提とするので、同様にないものは言及することができない。</p>
<p>例５：万物は一である。ないものは言及することができず、xとyを区別することもできないので、x,y,z&#8230;という全てもの物、万物は同じもの、つまり万物は一であるという結論になる。</p>
<h4><span id="toc30">改丁パルメニデス解釈</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">ひとつの言明は,それ自身が有意味であるかその否定が有意味であるか,いずれか一方のみである(断片2)</li>
<li class="sample">言明の意味は,その言明によって言及され・思惟されうる事態である(断片3)</li>
<li class="sample">事態は,それが事態としてあるとき,言及されうる(断片6)</li>
</ol>
<p>例：「ペガサスはある」か「ペガサスはあらぬ」のどちらかが有意味でなければいけない。</p>
<p>→排中律：命題Aに対してAかAでないかのいずれかである</p>
<p>→有意味とは言明によって言及され、思惟される事態である。事態はそれが事態としてあるときのみ言及される。「ないもの」は考えるこも言及することもできないので、無意味である。</p>
<p>→「あらぬ」事態について一切の言及・思惟が不可能になる。「ないもの」、「あらぬ」道は真理への道ではない。</p>
<blockquote>
<p>「ところで,最近の論文「パルメニデス解釈における若干の代替物」においてムーレラトスは、1960~70年代アングロ・サクソン系パルメニデス研究者の間では,パルメニデス研究に関する次の合意事項が成り立っていると指摘した。要約するとA断片2においてパルメニデスは、意識的に「エスティ」の主語を隠している。その主語は,議論の展開につれて徐々に特定化されていく。B「あらぬ」が禁じられるのは現実的対象への意味論的言及に失敗するゆえである。Cパルメニデスは存在と述語の「ある」を混同していない。D「エスティ」「エイナイ(《ある》の不定詞)」は,種々の文脈にあって,事柄・事態を値域domainとする“fused”ないし“veridical&#8221;な用いられ方をしている。というのがその合意事項だと言う。さて,これらの合意事項を前提すると,以下に示すごとき「標準的パルメニデス解釈」なるものが成り立つ,とムーレラトスは主張する。そのエッセンスを提示しよう。いま“α”によって「αなる事態」をいうとすれば,I「“α”はあらぬ」という文は,“α”に言及しえないゆえに不成立である。II「Xはあらぬ(存在的)」「XはFであらぬ(述語的)」は,いずれもIに還元される。III「XはYと同じであらぬ」も同様。V「XはYと異なる」は「XはYと同じであらぬ」を前提する。Vゆえに,「万物は一」を主旨とする一元論が帰結する。」</p>
<p>山川偉也「パルメニデス断片２における『非有』の問題」,25P</p>
<p>「Iひとつの言明は,それ自身が有意味であるかその否定が有意味であるか,いずれか一方のみである(断片2)。I言明の意味は,その言明によって言及され・思惟されうる事態である(断片3)。II事態は,それが事態としてあるとき,言及されうる(断片6)。」</p>
<p>山川偉也「パルメニデス断片２における『非有』の問題」,27P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">「在らぬ」とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>在らぬ(希;ouk estin)</strong>：パルメニデスにとって「在らぬ」は言及することも思考することもできないし、知性に現前しているものではないし、知ることもできない。</big></p>
</div>
<p>断片２「さあ,私は語ろう。そして,あなたはこの話を聞いて受け入れよ。ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「ある」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である(というのも,真理に従うから)他方で,その道は「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である。私はあなたに,この道は探究できない道であるということを示す。というのも,あなたはあらぬものを<span style="background-color: #ffff99;"><strong>知ることができない</strong></span>し(なぜなら不可能だから),<span style="background-color: #ffff99;"><strong>考えることもできない</strong></span>のだから。」</p>
<h3><span id="toc32">存在論と認識論</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>存在論</b>：存在するとはどういうことかを探究する学問の一分野。パルメニデスによって生み出されたと言われている。</li>
<li class="sample"><b>認識論</b>：認識の起源や本質、方法などを探究する哲学の一分野。→人は物事をどうやって知るのか</li>
</ol>
<p>・パルメニデス解釈はバーネットの解釈が標準的、一般的なものとされている。つまり、パルメニデスは「存在論」のカテゴリーの人物として扱われている。</p>
<p>ギャロップやムーレラトスも同様であり、「在るもの」や「在る」ことのどちらかを重視するかの違い。</p>
<p>コラム：ハイデガー(1880~1976)は存在者(ザインデス)と存在(ザイン)にわけ、哲学の目的は存在について考えることだと主張した。ムーレラトスの解釈に近い。例：リンゴ(ザインデス)がある(ザイン)。</p>
<blockquote>
<p>「個々の物の性質ではなく、物が存在するとはそもそもどういうことかを考える学問を存在論といいます。存在論はパルメニデスによって古代ギリシアで生まれましたが、認識論が主流になると下火になります。ハイデガーは存在論の復権を宣言しました。」</p>
<p>「哲学用語図鑑」,256P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc33">Owenによる認識論的解釈</span></h4>
<p>Owen(オーウェン)という学者は認識論的な問題としてパルメニデスを解釈した。現代のパルメニデス解釈では大きな影響力をもち、革新的な解釈を提示したと評価されている。オーウェンはラッセルの「記述理論」に影響を受け、発想したらしい(後述)。何が認識できるのかが重要だと解釈。</p>
<p>断片３：「<b>なぜなら,思惟することとあることは同じことであるから</b>。」にオーウェンは着目した。</p>
<p> ・思惟することは言い換えれば認識することであり、人間が考えることである。</p>
<p>・我々が何かを語るとき、<b>前提</b>として人間がなにかを考えている。</p>
<p>→パンを買いたいと言明するとき、パンや買うことについて人間は考え、認識している。</p>
<p>認識していることと在ることは同じであるから、パンや買うといった概念は「在る」といえる。「在らぬもの」のカテゴリーに入るものは、人間が認識できないもの、考えることも言及することもできないものだと言える。</p>
<p>→ペガサスといった日常会話では「存在しない」と言われるものも、<b>考えることができる以上、「在らぬもの」には入らなくなる</b>。パンという概念そのものも物理的には存在しないが、<b>概念的には考える対象</b>となっているので、「在らぬもの」には入らなくなる。</p>
<blockquote>
<p>「パルメニデスの「ある（&#8230;&#8230;)」という主張は，古くは同じエレア派に属するメリッソスによって，そして新しいところではBumetによって存在論的主張として解釈されてきた。しかし近年，Rus-sellの「指示の理論」をきっかけにして，Owenによってその主張を認識論的主張として，より具体的に言えば，「それが何であるか」という認識論的な問題としてではなく｢何が認識できるのか」というメタ認識論的な主張として解釈する試みがなされた。そしてそれ以来，今日では研究者間でその内実に相違はあるものの,パルメニデスの｢ある（&#8230;&#8230;)」にはメタ認識論的な意味合いもたぶんに含まれているという大枠の部分までは，一般的な解釈として合意されている。」</p>
<p>山田哲也「ソクラテス以前においてクセノバネスとは何であったか？認識論的観点から」,241P</p>
<p>「現代のパルメニデス研究において,「ある」の解釈という観点で大きな影響力を持つ立場としてOwenの立場がある。しかし,このOwenは「ある」に関しては革新的な解釈を提示したものの,「詩」や「女神」という点に関しては目立った発言をしていない。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,1１１P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">「在るもの」とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>在るもの(希;メー・オン)</strong></span>：</big>・在る(estin)の分詞形。在ること。断片３においてでてきた言葉。</p>
</div>
<p>断片３「なぜなら,思惟することとあることは同じことであるから。」</p>
<p>※断片２で先に「在らざるもの(ト・メー・エオン)」という分詞形が出てきている。「在らぬ」はouk estinという。</p>
<p>・「在るもの」をどのように解釈するかは諸説ある。</p>
<p>主に断片８をどのように解釈するかというのがポイントになる。</p>
<p>断片８で言及される「真理のしるし」が「在るもの」の性質だと考えられている。この性質が<b>物理的</b>なものか、<b>概念的</b>なものかで解釈が分かれる。</p>
<h4><span id="toc35">「在るもの」の意味を表す「真理のしるし」とは</span></h4>
<p>多くの真理の<b>しるし(semata)</b>：在るもの性質を表すもの</p>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>不生不滅</b>(断片8,3行目)</li>
<li class="sample"><strong>不可分</strong>(断片8,22行目)</li>
<li class="sample"><strong>不動</strong>(断片8,26行目)</li>
<li class="sample"><strong>完全性</strong>(断片8,32行目)</li>
<li><strong>思惟することと思惟されるものは同じ</strong>(断片8,34行目)</li>
<li><strong>あらゆる方向に完結していて、塊に似た丸い球であり、あらゆる方向に向けて均等</strong>(断片8,42行目)</li>
<li>他にも非時間性、充足性、一性などがある。</li>
</ol>
<p>※特にこの６つのしるしをバーネットは物理的なしるしとして解釈した</p>
<p>断片８の「生成も消滅もあることもあらぬことも。場所を変えることも,明るい色に変わることも。しかし,最終的な<strong>限界</strong>があるのだから,それはあらゆる方向に完結していて,塊に似た丸い玉であり,中心からあらゆる方向に向けて均等である。」にある「有限性」も重要。なぜなら弟子といわれているメリッソソスは在るものを「無限」と考えたからである。あるいはアナクシマンドロスの「無限定なるもの」との比較としても重要かもしれない。</p>
<p>なぜ有限だと考えたのかは池田晴彦さんの解釈によれば、「認識が向かうところのものか、認識の形式」かの違いだという。認識が向かうところのものもの、つまり外部世界の対象は無限かもしれないが、パルメニデスは認識自体の形式は有限と考えた。「あり、かつあらぬ」というものが認識の「対象」としてはあるかもしれないが、認識の「形式」としてはありえないということである。</p>
<p>「在るもの」を理性によって考えた時に、「多であり一」であるということはありえず、常に「一」だと限られている。そうした意味で無限ではなく、正解、正しい認識は限られていて、それは「在るものは在るもの、在らぬものは在らぬもの」という同一律の形式だという話だろう。</p>
<p>認識の形式か認識の対象かの話は、認識論と存在論、あるいは「在る」の述語と存在の話とも通じるところがある。「人間は物をどうやってそもそも認識するのか」という話と、「物とはそもそもなにか、どうやって存在しているのか」という話とも似ている。</p>
<blockquote>
<p>「いずれにしてもアルモノeonが「その肢体は全体をなしており」「全体であり」と形容されており、世界の全体、宇宙を指して言われていると考えてよいだろう。だがパルメニデスの「世界」は、とりわけアナクシマンドゥロス的世界とは正反対のものであり、「不生不滅」の語は、時間上に法則にしたがって生成消滅を無限に繰り返すあの壮大な宇宙像を頭から否定し去るものであろう。「それはかってあったものでなく、まさにあるだろうものでもない。なぜならそれは今現在、全体が同時にあり、一なるもの、連続したものとしてあるのだから。」（fr.8.5-6）11ここにいたってはやくも、パルメニデスの特異な宇宙像は、明瞭な内容を与えられたように思われる。それは現実に存在している世界ではなく、一つの宇宙でありながらパルメニデスの考える真理を充たす理念的な宇宙であろう。パルメニデスの宇宙像が特異であるのは、宇宙論の前提そのものを打ち消して、眼に視えない世界の可能性を追求した点にある。見る（観察）を否定して思考の相関者としてのみ宇宙を捉えようとした。」</p>
<p>岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」,57`</p>
<p>「Burnetにおいて,この「丸い真なるもの」はFr.2の7行目で言及される「あるもの(&#8230;&#8230;)」と同一視されているが、「ある」の主語としてこの「丸い真なるもの」を読み込むことによってBurnetの議論はきわめて強い物理的な色彩を帯びてくる。実際,BurnetはFr.8の3行目以下で言及される六つの「真理のしるし(3行目「不生不滅」,22行目「不可分」,26行目「不動」,32行目「完全性」,34行目「思惟することと思惟されるものは同じ」,42行目「あらゆる方向に完結していて,塊に似た丸い球であり、あらゆる方向に向けて均等」)」を全て物理的な意味で解釈する。そして、最終的に,Burnetは自らのパルメニデス解釈を要約して「あるものは,有限で球形の不動で物体的な充実体であり,それ以外のものは何も存在しない」という仕方で示し,パルメニデスに唯物論の父という称号を与えている。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,102P</p>
<p>「バーネットはパルメニデスについて，「パルメニデスは，有るものが有る，といっているにすぎない．これは，人が物体と呼んでいるものであって，これに疑念を挟む余地はありえない．たしかにそれは空間的に広がったものと見なされている．というのは，一つの球体であるとしてまったく率直に言及しているからである．&#8230;&#8230;有るものという表現は，結局，宇宙は充実したものであるというのと同じである．また，世界の内部にも，外部にも空虚のようなものはない，というのと同じである」（前掲書，268頁）と述べている．まことに的確な批評というべきであろう．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,33P</p>
<p>「パルメニデスはさらにあるものは有限でなければならないと考えた。パルメニデスがなぜあるものを有限でなければならぬと考えたかは興味ある問題である。パルメニデスの思想を受け継いだメリッンス(前四四〇年頃)はあるものを無限のものと考えた。パルメニデスとメリッソスの間の差異は、ハイデガーが存在論的差異と呼んだものと同型であるように思われる。すなわちメリッソスはあるものをミレトス派のアルケーを含むものとして構想したが、パルメニデスはあくまで唯一の同一性として構想した。換言すればメリッソスはあるものを基本的に外部世界(認識が向かうところのもの)に措定したが、パルメニデスは基本的に内部世界(認識が発するところのもの、あるいは認識の形式)に措定したわけだ。認識する対象としての何かは無限でもかまわないが、認知自体の形式は無限ではあり得ない。唯一の同一性という仮定を墨守する限り、あるものは有限なものだと考えたパルメニデスは正しかったのだと私は思う。」</p>
<p>池田晴彦「構造主義と進化論」22P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc36">１：「在るもの」を物質的なものと解釈する説</span></h4>
<p>ジョン・バーネット(1863~1928)は「在るもの」を「<b>有限で球形の不動で物体的な充実体であり、それ以外のものは何も存在しない</b>」と解釈した。</p>
<p>特に「塊に似た丸い球」というしるしを重視し、空間的に広がったもの、物体的なものが「在るもの」だと解釈した。</p>
<p>→断片２の「在る」の主語は「在るもの」であり、つまり<b>「物体的な球体」のみが「在る」</b>という解釈。その物体的な性質として不可分、不生不滅といったものが付加されている。</p>
<h4><span id="toc37">２：「在るもの」を概念的なものと解釈する説</span></h4>
<p>・David Gallopの解釈では、「丸い真なるもの」は<b>必ずしも物理的なものとはいえない</b>と解釈した。</p>
<p>たとえば英語ではcircular(丸い)という言葉は「形」を意味し、非物理的なものを特徴づけることがあるという。</p>
<p>ギャロップにとって「丸い真なるもの」とは「物理的な広がり(バーネットの解釈)」ではなく、<b>完全性を持つ概念的なも</b>のだという。</p>
<p>概念：イメージに近い。目の前の昨日買ったリンゴは物理的なものだが、リンゴ一般は概念的なもの。目の前のリンゴには触れるが、リンゴという概念は触ることも見ることもできない。</p>
<blockquote>
<p>「「ある」の主語を空間的な広がりを持つ物理的な存在者と解釈し、パルメニデスを「唯物論の父として捉える」。これが,Burnetのパルメニデス解釈において最も特徴的な点であった。だが,GallopはこのBurnetの見解の要点にあたる部分を真っ向から否定する。それゆえ,Gallopの内容的な意味でのパルメニデス解釈は厳密な意味ではBurnetとは異なる。しかし,Gallopは「ある」を「存在」の意味で解釈し,その「ある」の主語を「あるもの」もしくは「丸い真なるもの」とみなしているという点ではBurnetと共通している。GallopはBurnetが「ある」の主語を物理的なものとして解釈したその根拠とも言うべき,「丸い」という話に込められた空間的広がりを暗示するニュアンスを否定する。Gallopは,「形」を意味するcircular,triangular,squareといった類の語が,英語においてしばしば,それらの形と類似性を持った非物理的なものを特徴付けるために用いられるという観点から,パルメニデスのテキストの中に「丸い」という語があるからといって,その「丸い」を物理的および空間的な意味で解釈するべきではないと主張する。そして,この「丸い」という語を「物理的な広がり」という意味ではなく「完全性」を表す語として解釈し,「丸い真なるもの」という仕方で語られている「ある」の主語を完全性を持つ概念的存在者として解釈しているのである。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,102P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">「在らぬもの」とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>在らぬもの(希;ト・メー・エオン)</strong></span>：</big>・<big>パルメニデスにとって「在らぬもの」は言及することも思考することもできないし、知性に現前しているものではないし、知ることもできない。</big></p>
</div>
<p>断片２「さあ,私は語ろう。そして,あなたはこの話を聞いて受け入れよ。ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「ある」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である(というのも,真理に従うから)他方で,その道は「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である。私はあなたに,この道は探究できない道であるということを示す。というのも,あなたはあらぬものを<strong>知ることができない</strong>し(なぜなら不可能だから),<strong>考えることもできない</strong>のだから。」</p>
<blockquote>
<p>「さて分詞形eonアルモノという言い方は、ようやくこの後に現れる。断片２「なぜなら、アラザルモノは知り得ないし（それは実行し得ない）、語り得ないから。」そして、引き続いて断片３は次のように補う。「同じものが思考され得又アリ得る。」「同じもの」とは「アルモノ」であろう。「アラザルモノは知り得ないし語り得ない」に対応して、アルモノは思考され得、又アリ得る。このように分詞形togemēeon（fr.2.7）が現れたことによって、アル、アラズが、明瞭に言わば客観化され、何についての真理なのか、何についての確信なのか、という謎に一条の光が投ぜられたとしてよい。hopōsestinやhōsoukestin（fr.2）という形では、何がアルのかアラヌのかが不明のまま、文の一部分としての単語が書かれただけで、意味の輪郭が明瞭でない」</p>
<p>岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc39">なぜ万物の生成や生滅が不可能なのか</span></h3>
<p>結論：<b>無から有、有から無といった変化・生成・生滅は存在せず、ただ「有」のみがある。「有」には終わりも始まりもない</b>。</p>
<p>断片８：「いったい、あなたは、このもののいかなる生成を求めるのだろうか。どのようにしてどこから成長したのだろうか。あらぬものからとあなたが主張することも考えることも私は認めない。というのも,それは<b>語られ得るものでも、考えられ得るものでもない</b>。というのも,あらぬから。それに,どのような必要が,それが以前より後に無から生じるという仕方で生じることを促したのか。このように,全くあるか全くあらぬかでなければならない。信頼の力はあらぬものの側では,<b>何かあるものが無から生じるということを主張しない</b>だろう。このことから,生成も消滅も,ディケーは物を緩めることはあってもそれを放任することはない。むしろ保持する。」※ディケーは女神のこと</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/ab04f9292919eac00c5bc9f17d7200bc.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2552" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/ab04f9292919eac00c5bc9f17d7200bc.png" alt="" width="445" height="305" /></a></p>
<p>POINT：異なるのは見た目だけ</p>
<p>POINT：アルケーは永遠に変化しない。「在るもの」だけが「在る」。「在るもの」は一なるものであり、不生不滅。</p>
<p><b>生成</b>：無から有が生まれる</p>
<p><b>消滅</b>：有から無になる</p>
<p><b>変化</b>：無が有になったり、有が無になったりする</p>
<p>非有、つまり「在らざるもの」や「在らぬ」要素が入るものは排中律に反する。在るものは在り、在らざるものは在らぬ。在らざるものが在るものになることはなく、在るもの在らざるものになることもない。在るもの、丸い真なるものが在るだけであり、人間はそれを捉えることが難しい(女神にははっきり見えている)。感覚ではなく理性で、論理的に考えれば生成や消滅、変化がないことが分かる。</p>
<h4><span id="toc40">帰謬法</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/152402278da07e55c76bcc249a6ac89a-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2553" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/152402278da07e55c76bcc249a6ac89a-1.png" alt="" width="779" height="370" /></a></p>
<p>・帰謬法(背理法)：ある判断を否定することで矛盾がでてくることで原判断が正しいことを証明する方法</p>
<p>命題：「アルケーは不生・不滅では<b>ない</b>と仮定する(何かから生まれ、何かへと消滅していく)」</p>
<p>問題：アルケー自身が生まれ、滅んでゆくことになる。生まれてきたのなら「なにものか」からであり、滅んでゆくとすれば「なにものか」へとなる。しかしアルケーは万物の始原であり、「なにものか」から「なにものか」に生まれることはない。すでに「なにものか」が存在している時点で、生まれてきた「なにものか」は万物の始原ではない。<b>自分の前に何かあるとすれば、自分は始まりではなくなる</b>。・したがって、論点先取りの誤りを犯さないようにするためには、「無」から「有」へ、「有」から「無」へ移行すると考えるしかない。しかし、<b>「無」は言及することもできないし、考えることもできない</b>ので、無から有が生じ、有から無が生じると認めることはできない。<b>無からは何も生じない</b>。</p>
<p>POINT：「在るもの(有)」はアルケー(始原)ではない。なぜなら在るものは不生不滅であり、始まりも終わりもないから。</p>
<blockquote>
<p>「アルケーを不動の鎖で縛りあげるべく,パルメニデスは帰謬法を用いた。その論法は,アルケーが「不生」「不滅」「不老」「不死」等の形容句を冠して語られていた事実から出発する。いま仮りに問題のアルケーが不生・不ではないとしてみよう。その場合には,アルケー自身が生まれ滅んでゆくことになる。ところで生まれてきたのなら「なにものか」からであり,滅んでゆくとすればこれまた「なにものか」へである。しかしアルケーは万物の始原,諸存在者にその存在性を賦与するもの,それなくしては諸存在者がありえないところのものである。だから,その「なにものか」がすでに存在する「なにものか」であることは不可能である。そう考えることは論点先取の誤りを犯すことである。したがってその「なにものか」は無以外ではありえない。しかしアルケーを立てた人々は,それが無から生じ無へと滅びゆくことを否定している。したがってそれは「ト・アペイロン」とか「空気」とかで*はなく,《無》と矛盾対立する全き《有》であらざるをえない,と。」</p>
<p>山川偉也「パルメニデスとゼノン」,37-38P</p>
<p>「パルメニデスはヘラクレイトスとは反対に、世界は変化しないと言います。パルメニデスは、変化とは物質が有から無になることや、無から有になることだと定義したうえで、そんなことは論理的にありえないと主張したのです。パルメニデスは存在の有無を見た目よりも理性で捉えたので、合理主義の祖とされています。」</p>
<p>「哲学用語図鑑」30P</p>
<p>「『在るもの在り、無いものは無い』と考えると、無から有が生まれる『生成』や、有が無になる『消滅』は不可能なことになります。また、『多』というものは物と物の間に区切り、すなわち何もないところがなければ成り立たないが、無いものは無いのであるから区切りはない。ゆえに『多』は存在せず、存在するのは『１』だと説きます。同様に、『運動』『変化』も、何もないところへの移動を意味するので、不可能であると考えました。」</p>
<p>「哲学　ビジュアル図解シリーズ」36P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc41">時間とパルメニデスと変化</span></h4>
<p>０：変化とは、あるものがないものになることであり、ないものがあるものになること</p>
<p>１：ひまわりの種が花に変化した</p>
<p>２：種が花に変化するということは、種が「ないもの」になり、花が「あるもの」になるということである。あるものはあり、ないものはないという排中律に矛盾する。</p>
<p>３：種を見てもそこに花はなく、花を見てもそこに種はない。つまり、変化とはある時点での特定の形と別の時点での特定の形に人間が因果関係を見出すことによって生じる概念であり、実在ではない。昨日見た種が今日は花に変化している、というように<b>時系列をずらして認識するもの(人間の勝手な思い込み)</b>。<b>現在は種であるか、花であるかのどちらかしかない</b>。現在において万物は変化していないし、不動であり、一つである。</p>
<p>POINT：<b>どれだけ感覚では変化するように見えようとも、論理的には変化していない</b>。</p>
<h3><span id="toc42">なぜ万物を分割することが不可能なのか</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/5ede30edf8a2a304dfb43dfcf34d31ab.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2554" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/5ede30edf8a2a304dfb43dfcf34d31ab.png" alt="" width="375" height="213" /></a></p>
<p>例：「田中さんと鈴木さんは違う」という命題は無意味(無駄)な言明</p>
<p>→aはbと異なる、XやYと異なるという命題は無意味※aやbは固有(田中さんなど)、xやyは不特定(人間など)</p>
<p>→aはbと異なるという言明は、aはbではあらぬという言明を前提とする。<b>あらぬことは考えることも言及することもできないので、無意味</b>である。</p>
<p>→「在る」と言われるものすべてについて区別することに意味がなく、したがって万物は同一のもの、<b>一</b>であることになる。「在るもの」が「在る」だけ。バーネットの解釈で言えば、物理的な球形がひとつだけ在るのであり、多はなく一であり、区別できない。</p>
<p>「それは不可分である。というのも,全てが同じであるから。」(断片8,22行)「そうではなくそれは全てがアルモノで充たされている。それゆえそれは全てがまとまって［連続して］あるものである。なぜならアルモノはアルモノに密着しているから。」(断片8,25行)</p>
<blockquote>
<p>「第一の「しるし」sēmataに関してはさらに、上に引用した箇所に続いて、比較的長い議論がある。が、第二の「しるし」すなわち「分割不可能」（oudediairetonfr.8.22）の記述のうちにはマテリアリスト的要素をより多く読み取ることができる。「それは分割不可能である、なぜならそれは全く等質なものだから。（&#8230;epeipanestinhomoion―fr.8.22）ここにはより多くのものがあり、あすこにはより少ないものがあるということはない。そのようなことは、それがまとまってあることを妨げるだろう。（..minsunechesthai―fr.8.23）そうではなくそれは全てがアルモノで充たされている。それゆえそれは全てがまとまって［連続して］あるものである。なぜならアルモノはアルモノに密着しているから。（pand&#8217;empleonestineontos.tōixunechespanestin,eongareontipelazei.―fr.8.24-25）」」</p>
<p>岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」,58P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">なぜ万物が運動をすることが不可能なのか</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/400eaff1ebb09b80d4259e6a89534ebe.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2555" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/400eaff1ebb09b80d4259e6a89534ebe.png" alt="" width="335" height="265" /></a></p>
<p>運動とは何も無いところへの移動を意味するので、不可能。「在らざるもの」は考えることも言及することもできないので無意味である。ないものを考えても意味がない。無いところが在るところに変化することも排中律に反する。在る在る在る在るの連続であって、在るから無いへの変化ではない。物が移動しているように見えても、それぞれの瞬間ごとの時間では、常に在るだけで、在ったというのは時間の観念を通した人間の思い込みにすぎない。</p>
<p>現在においてはなにも変化せず、運動もない。現在があった、という過去や未来の時間の認識、人間側の思い込みゆえに、運動があった、変化した、という感覚が生じる。ものすごく早く動いて見えるボールに対してカメラで連射して撮れば、運動していない静止したボールが連続していることがわかるようなイメージ。パルメニデスいわく万物は非時間的で、時間というものは人間の思い込み。</p>
<p>「しかし,それは大きな戒めの中の限界の中で不動であり,始まりがなく終わりもない。」(断片8)「現前していないにもかかわらず,知性には現前しているものをしっかりと見よ　というのも,あるものがあるものと関係しているのを切り離さないだろうから。秩序にしたがって,あらゆるところにあらゆる仕方で散らばっている場合にも切り離さないだろうし、集まっている場合にも切り離さないだろう。」(断片4)</p>
<h2><span id="toc44">３つの道、真理への道</span></h2>
<h3><span id="toc45">死すべきものたちの思い込み(ドクサ)、真理と臆見、３つの道</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">「在る」という道(「在らぬことは不可能という道」)</li>
<li class="sample">「在らぬ」という道(「在らぬことは必然という道」)</li>
<li class="sample">臆見(ドクサ)の道(あり、かつあらぬものへの道)</li>
</ol>
<p>結論：あらぬことは知ることも考えることもできないから、「在る道」が真理への道(<b>アレーテイア</b>)である。真の知者は在るものの道を選び探究するべきだとパルメニデスは主張する。</p>
<p>※３のドクサの道は「在らぬ」という道に対応すると解釈されるケースもある。3つ目の道は比較的最近の解釈。</p>
<p>POINT:「真理への道(アレーテイア)」と「臆見の道(ドクサ)」</p>
<p>第一部がアレーテイア、第二部がドクサ。第二部では「あらぬもの」について説明しているという解釈と、第三の道であるという解釈がある。</p>
<p>真の実在と名目だけの思いなし。</p>
<p>POINT:臆見とは一般に、５感から入ってきた情報を元にした独断的な思い込み、思いなし(そうであろうと思いこむこと)のこと。パルメニデスの後にはプラトンがドクサとエピステーメーという言葉で区別した。</p>
<p>POINT：パルメニデスの詩は女神が人間であるパルメニデスに学ぶべきものを教えるという話。女神の視点にたてば、「在る」という道のみが真理への道であり、「在らぬ道」も「臆見の道」も拒まなければならない道である。<strong>しかし、人間としてのパルメニデスは断片９以降にあるように、臆見の道も同時に進んでいる</strong>(万物は火と土の原理からなる)。例えば、万物は火と土の原理からなると説明し、大地から空気が分離した、という「万物は分割することができない」というアレーテイアとは反する説明をしている。</p>
<p>真理への道はタレスやアナクシメネスといったミレトス学派のように「観察」するのではなく、「思考する」ことが重要になる。</p>
<p>死すべきもの＝人間、死すべきものが信じ定めているところのもの＝名目にすぎない、感覚的な認識に基づいた通常の探究方法(タレス、アナクシメネスなど)。自然学的な事柄の探究。</p>
<p>→思い込みにすぎない</p>
<p>断片１</p>
<p>「そしてあなたはすべてを聞いて学ばねばならない。一方では、<span style="color: #0000ff;"><strong>丸い真なるもの</strong></span>の不動の心を,そして,他方では,<span style="color: #0000ff;"><strong>死すべきものたちの思い込みを,これらの思い込みには何一つ真なる証がない</strong></span>。しかし,それにもかかわらず,汝は以下のことを学ぶだろう。<strong><span style="color: #0000ff;">思惑</span></strong>されている全てのことが,あらゆるものに行き渡って正しいとされねばならなかったかを。」</p>
<p>断片２</p>
<p>「さあ,私は語ろう。そして,あなたはこの話を聞いて受け入れよ。ただ,これらの探究の道だけが考えられる。その道は,一方で,「ある」そして「あらぬことは不可能」という道でありこの道は説得の道である(というのも,真理に従うから)他方で,その道は「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である。私はあなたに,この道は探究できない道であるということを示す。というのも,あなたはあらぬものを知ることができないし(なぜなら不可能だから),考えることもできないのだから。」</p>
<p>断片３：「このことにより全てのもの,即ち,死すべきものどもが真理であると信じて定めているところのものは名目に過ぎないであろう。」</p>
<blockquote>
<p>「パルメニデス（ParmenidesBC500/475-没年不詳）は「真の実在」に対して、名目だけの思いなしで実体がない「死すべき者どもが真実と信じて定めた全て」を置いた。」</p>
<p>長友敬一「相対主義の変遷」3P</p>
<p>「パルメニデスの「詩」の中で「あらぬ」という要素が始めて登場するのは,Fr.2の5行目に書かれている「その道は他方で「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道である(18&#8242;,overaitos,xperovboruputeival)」という箇所である。この箇所で「あらぬの道」として提示されている「あらぬ」の概念は,女神によって同じFr.2の3行目で提示されている「あるの道」と対になるものとして示されている。それゆえ,この「あらぬ」は,長い間,Fr.1の29行目と30行目で対になるものとして示されている「真なるもの」と「死すべきもの達の思い込み(……)」との対称関係にならって,「死すべきものの思い込み」に対応するものとして解釈されてきた。しかし,近年,パルメニデスの提示する「道」は「あるの道」と「あらぬの道」という対になる二つのものだけでなく,Fr.6の4行目から5行目にわたって提示される「死すべき人間達がさ迷い歩く道」という三つ目の道が主張されている。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,106P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">ドクサ(思いなし、思い込み、思惑)とはなにか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ドクサ(doxa)</strong></span>：</big>思い込み、臆見。低次の認識を意味する用語としてはじめてドクサを用いたのはクセノファネスであるといわれている。二元論的に、「真理への道(アレーテイア)」と「臆見の道(ドクサ)」を区別したのがパルメニデスである。その後、プラトンはパルメニデスに影響を受け、エピステーメー(真実在についての知識)とドクサ(感覚的事象)を区別した。※ブリタニカ国際大百科事典より</p>
</div>
<h4><span id="toc47">ドクサに関する二種類の解釈</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">ドクサを<b>感覚的な認識</b>とする解釈。ミレトス学派にみられたような自然学的な事柄に限定するという解釈。</li>
<li class="sample">「死すべきものたちの思い込み」、「<b>人間が思い考えることの全て</b>」をドクサとする解釈。非感覚的な認識も全て思い込みだという解釈。たとえばペガサスは感覚的に認識することは難しいが、非感覚的には認識することが可能。</li>
</ol>
<p>１：ある＝あらぬことは不可能→「在るの道」</p>
<p>２：あらぬ＝言及することも、知ることも、考えることも不可能→「在らぬの道」</p>
<p>３：思い込みは「考えることは可能」なので、<b>「在らぬの道」ではない</b></p>
<p>４：思い込みは「～は在らぬ」と考えることもあるので、「在らぬことは不可能」という道と反する。したがって、<b>「在るの道」ではない</b></p>
<p>５：<b>「臆見(ドクサ)の道」は在らぬ道でも、在る道でもない、第三の道である</b></p>
<p>POINT:山田哲也さんの解釈では、「ある」を「人間が思い考えることの全て」、「あらぬ」を「人間の脳裏に浮かぶことすらないもの」と解釈している。オーウェンの解釈に近い。</p>
<blockquote>
<p>「それに対して,「死すべきもの達の思い込み」と はどのようなものであろうか。 * Fr. 8の51行目に「これから先, あなたは死すべき もの達の思惑を学べ」と記述されていることから, この「死すべきもの達の思い込みはこの51行目以後に書かれている自然学的な事柄と考えることが可能であり,また,そのように考えることが妥当であるように思われる。しかし,本論では敢えてその解釈を取らず,この「死すべきもの達の思い込み」を最も広い概念として解釈し,「人間が思い考えることの全て」と解釈しておこう。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,106P</p>
<p>「「あらぬ」を解釈する手がかりが「知ることができないし,考えることもできない」ということであることを考えると,筆者としては,この「あらぬ」を定義の通りに「知ることも考えることもできないもの」,言い換えるならば,「人間の脳裏に浮かぶことすらないもの」と考えたい。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,106P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">火と土が万物の原理である</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>火と土が万物の原理である</strong></span>：</big>・ヒュッポリュトスによると、パルメニデスは火と土を万物の原理だと考えていたという。土は質量としての原理で、火は原因及び形成者としての原理だという。ただしこうした原理は「そう見える」だけであり、臆見の道だという。</p>
</div>
<p>パルメニデスにおける火と土の原理の説明は論文があまり見つからず、今回は深掘りしません。正直何を言っているかさっぱりわかりません。</p>
<p>・説明の例</p>
<p>１：空気は大地の強い圧のために気化し、大地から分離したもの</p>
<p>２：太陽や川は火の呼吸</p>
<p>３：月は空気と火の両方が混合したもの</p>
<p>４：パルメニデスにおけるすべてのものの運動変化と生成の始原と原因をダイモーン(精霊)、舵を取る者、鍵を持つもの、ディケー(正義の女神)、アナンケー(運命の女神)などさまざまな呼び方がある。</p>
<p>５：宇宙創生論も語っている。互いに重なり合った環が存在し、それらの間に光と闇から混成された別の環があるなど。</p>
<blockquote>
<p>「以上のようなパルメニデスの思想をヒッポリュトス（Hippolytos２世紀後半）はつぎのように伝えている．さらにまたパルメニデスも万有は一にして永遠であり，不生，かつ球形であると仮定する．ただ彼は多くの人々の臆見（ドクサ）も避けてはいないのであって，火と土を万物の原理としている．一方の土は質料としての原理であり，他方の火は原因および形成者としての原理である．世界は滅びると彼は言ったが，どのようにしてであるかは言っていない．その同じ人物が，万有は永遠であって，生じたものではなく，球形で一様であり，自らのうちに場所を有さず，不動で限定されていると言っているのである．（『断片集』第２部第28章A23」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,32P</p>
<p>「またテオプラストス（Theophrastos前372-288頃）は『自然学者たちについて』のなかで，パルメニデスの思想をつぎのように紹介している．クセノパネスの後にはピュレスの子でエレアの市民であったパルメニデスがつづいたが，彼は双方の道を歩んだ．というのは，彼は万有は永遠であると主張するとともに，しかも諸々の有るものの生成を説明しようと試みているからである．だが彼はその双方について同じようには考えないで，一方の真理の場合には，万有は一であり，不生であり，球形であると想定する．他方の多くのものどもの臆見（ドクサ）の場合には，現象するものの生成に配当するべく，二つの原理を設けている．すなわち火と土がそれであるが，一方は質料としての原理であり，他方は原因ないし形成者として初期ギリシア哲学者の実在観（小坂）−33−の原理である．（同A7）」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,32P</p>
<p>「DKfr.A37の訳―「AëtiusII7,1（ParmenidesB12を参照。）パルメニデスは次のように述べている。互いに重なり合った環stephanasが存在し、あるものは希薄なものからなり、他は重厚なものからなっている。それらの間に光と闇から混成された別の環がある。そしてすべての環を取り囲む壁のような固い部分があり、その下には火でできた環がある。さらにそれら全ての環の中心には固い部分があり、その周囲にも火でできた環がある。混成してできた環の最も中央のものは、それら全てのものの運動変化と生成の〈始原〉と〈原因〉であり、それをパルメニデスはダイモーン 舵を取る者と［B12,３参照］、又鍵を持つ者と［B1,14参照］、あるいは又ディケー、アナンケーと［B8,30;10,6］呼んでいる。空気は、大地の強い圧のために気化し、大地から分離したものである。太陽と天の川［B11.2参照］は火の呼吸である。月は、空気と火の両方が混合したものである。アイテールはすべてのものの最上部に包囲するようにあり、その下に、我々がウーラノスと呼んでいる火でできた部分が位置する。その下は、大地の領域である。」―この後A37は、Cicerodenat.deor.I,11,28からの引用を含むが、ここでは省略したい。なお、ここに見られる「環」の理論は、宇宙論ではあるが、誕生まもない初期の宇宙を論じる宇宙創生論Kosmogonieである。K.ReinhardtParmenidesp.14を参照」</p>
<p>岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」,59P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc49">コラム：プラトンの髭、ラッセルの「記述理論」、クワインの「存在は変項の値である」について</span></h2>
<h3><span id="toc50">プラトンの髭とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>プラトンの髭</strong></span>：</big>・「ないものも、なんらかの意味合いで、あらなければならない」というパラドックス。「ことばが『意味』をもつために、ある対象を『名指し』していなければならない」という想定。「xとyという議論者がいて、しかも、ある実体eをxが否定し、yが肯定するとき、xはyが立言する「eがある」という言明を認めなければならない」というもの。クワインはこうした形式の議論はどちらにも不利に働くので避けるべきだと考えた。このような議論を「傾斜のついた議論」という。</p>
</div>
<p>余談になるが、paradoxの語源はpara(反)doxa(意見、通念、ドクサ)というもの。</p>
<p>１：「ペガサスは存在しない」という言明がある</p>
<p>２：ペガサスが「主語」として立てられ、ペガサスについて「叙述」されている</p>
<p>３：ペガサスについて述べられている以上、そのペガサスは何らかの意味で存在していなければならない。<b>もし存在していないとすれば、ペガサスについてそもそも言及することはできない</b>。</p>
<p>４：それゆえに、ペガサスの存在を否定することは不可能である。つまり、「<b>ペガサスは存在する</b>」。</p>
<p>５：「ペガサスは存在しない」と「ペガサスは存在する」というパラドックスが生まれる(クワインは世間の常識に反する結果をパラドックスと呼んだ。世間の常識に反しない矛盾をアンチノミーと呼んだ)。例：光は質量があると同時にないというのはアンチノミーに近い。アキレスと亀の話はパラドックスに近い。</p>
<p>クワイン：「ペガサスは存在しない」</p>
<p>マックス(架空の論争相手)：「ペガサスがないと存在しないとすれば、ペガサスはなんらかの意味である」</p>
<p>クワイン：「どういうことだ」</p>
<p>マックス：「ペガサスがいないと主張したいなら、なんらかの意味合いでペガサスの存在を擁立しなければならないからだ。それゆえにペガサスは存在する。言葉を名指しするということは意味があるということであり、ペガサスという言葉によって名指しされている以上、なんらかの意味合いでペガサスは在るといえる。」</p>
<p>クワイン：「ぐぬぬ。ではペガサスが”物理的”に存在していることを立証してくれ。」</p>
<p>マックス：「ペガサスは物理的に、時空間に位置を占めるものではなく、ひとの心にある観念として存在している。つまり、そうした観念的な意味合いでペガサスは在るといえる」</p>
<p>クワイン：「それでは観念的な意味合いでペガサスが在ることを立証してくれ。」</p>
<p>マックス：「ぐぬぬ。」</p>
<p>クワイン：「心のなかの観念についての観念を明晰に理解できる方法はあるのか」</p>
<p>マックス：「ぐぬぬ。」</p>
<p>１：クワインにとっても不都合。なぜなら、「ペガサスは存在していない」と主張することによって、ペガサスが何らかの意味で存在していること、特に観念的な意味で存在していることを裏付けてしまうから。</p>
<p>２：マックスにとっても不都合。なぜなら、観念的な意味合いでペガサスが在ることを立証することは難しいから。</p>
<blockquote>
<p>「一つ目のやり方は,後にクワインが「プラトンのひげ」と呼んだ存在に関するパラドックス(?)を、時代考証的な観点から、敢えて受け入れることである。「プラトンのひげ」とは,以下のような仕方で限開される存在論に関する議論である。ペガサスなどの空想上のものが存在しないとするならば,ペガサスという言葉を使ったときに「ペガサス」という言葉や「ペガサス」が含まれる言明は,何に関しても語っていないことになる。それゆえ,ペガサスは存在しないという言明も無意味なものになる。よって,ペガサスは存在する。仮にこの議論が正しいとするならば、我々が意味を持つものとして言及することができるありとあらゆるものは,物質的もしくは観念的という区別はあるものの,何らかの存在者として存在することになる。クワインは,この議論をラッセルの「記述の理論」を受け継ぎ発展させる仕方で克服(?)したが,それはあくまでも現代の出来事であり,パルメニデスの時代を考えると,当時はこの「プラトンのひげ」と呼ばれる議論が強い効力を持っていたと考えることができるであろう。そして,仮にこの議論を受け入れるのであれば,空想上の存在者は,「観念的に」ではあるが,存在者としての立場を持つことになる。それゆえ,「あらぬ」を「空想上のもの」と解釈する考え方は退けられる。」</p>
<p>山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」,107P</p>
<p>「クワインが存在論的関与を導く理路はふたつの部分に分割できる。さいしょの部分でクワインが精査するのは、「ないものも、なんらかの意味合いで、あらねばならない」という教説である。クワインは、この格率を「プラトンの髭」（FLPV.1.2）と呼んで、それが孕む存在論的問題を抉り出す。「オッカムの剃刀を鈍にする」（FLPV.1.2）と言われるように、単純性という規範を無意味にする。すなわち、それは、ある対象の存在をなんとかして擁護させる議論で、参加者を望ましくない結論へ強制的に導く。クワインはこう喝破する。プラトンの髭は、ことばの意味と指示を混同して、実体を無際限に認めていこうとする。そこで、つぎの部分で、クワインは、ラッセルにもとづいて、名前が指示の担い手であるという考え方を棄却して、ことばの指示と意味の同一視をやめさせる。本論で取り上げるのは、プラトンの髭という難問の解析のために組み立てているクワインの立論であり、そのなかにあるかれのメタ哲学的意図である。」</p>
<p><span class="a">大内健史</span>「W. V. クワイン「なにがあるかについて」におけるメタ存在論的企図」,1P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc51">プラトンの髭とパルメニデスの関連</span></h4>
<p>・プラトンの髭とパルメニデスの関連</p>
<p>「あらぬ」を「<b>空想上の存在者、概念存在者</b>」として解釈する立場の人に対する反論としてプラトンの髭が使われる。</p>
<p>・パルメニデスの「在らぬ」を空想上の「存在者」として、つまり<b>主語</b>として解釈するケース。</p>
<p>「在らぬもの」は言及されず、思考することもできない。ペガサスは<b>物理的</b>な存在者では<b>ない</b>ので、ペガサスは思考の対象とならない。</p>
<p><b>人間の思い込み、空想、思考などによる存在者は「在らぬもの」、「在らぬ道」というカテゴリーに入るという解釈</b>。</p>
<p>・プラトンの髭を用いることによって、概念的には「在る」と主張することができ、したがって「死すべきもの達の思い込み(ドクサ)」は「在らぬもの」ではないと主張することができる。</p>
<p>ただし、「在る」の定義(在らぬことは不可能)からすると、「物理的にあらぬ」ことはありえず、矛盾することになり、「在るの道」ではない。「在らぬ」の定義(知ること、考えること、言及することが不可能)からすると、概念的な存在者を考えることはできるので、「在らぬの道」ではない。つまり、<b>「在る」ともいえず「在らぬ」ともいえない</b>。</p>
<p>したがって、「空想上の存在者」に対する認識は第三の道として「<b>ドクサの道</b>」というものがあるという解釈になる。</p>
<p>POINT：ペガサスといったものだけではなく、電子といった科学的なものや、我々が普段使っている人間という類概念、数字という概念、数式という概念等、便利で実用的なものも存在者ではなく、「在らぬもの」、「在らぬ」にカテゴライズされてしまう。それを防ぐのが「概念的には在るのだから、在らぬではない」というプラトンの髭を用いた反論。</p>
<p>・たとえば「電子」は実際に観察することができない。つまり、物理的に存在していることを証明することはできない。しかし、理論上存在すると考えたほうが辻褄が合うものとされている。ニュートン力学の理論が正しいと思われていた時代が、惑星バルカンという未確認の惑星のせいで彗星の軌道が狂っていると考えられていました。理論のつじつまを合わせるために「在る」と概念的に考えられているケースです。論理実証主義では一つの命題を単独で真偽が確認できるものと考えられていましたが、命題は体系を構成するためにそれぞれ関係しあっていて、個々の命題は体系全体の一部分として経験できるという考えを<b>ホーリズム</b>(全体論)といいます。クワインは実験のつじつまを合わせるために理論を構成する命題をどれでも改丁できてしまうこと、全体のなかの部分を改丁できてしまうことを主張し、それを「<b>全面的改丁理論</b>(クワインテーゼ)」と呼びました。</p>
<p>電子や惑星バルカンのような対象を「<b>理論的対象</b>」という。</p>
<p>プラトンの髭の要点は、物理的には在らぬが、概念的に在るとはいえるという話。</p>
<p>理論は絶対ではなく、観測結果と異なる場合もあるし、理論が間違っている可能性があるし、改丁もできてしまう。しかし、その理論が<b>有用</b>であればいいじゃないか、と考えていく立場がクワインらの<b>ネオプラグマティズム</b>。大砲を当てるための計算理論に誤りがあったとしても、実際に当たっていればいいじゃないか、というイメージ。</p>
<h3><span id="toc52">クワインの「存在は変項の値である」とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>存在は変項の値である</strong></span>：</big>・説「存在は変項の値である(あるとは変項の値になることである)」というクワインの公式。「なにがあるかについて」(1948)で言明された。</p>
</div>
<p>POINT：名前が指示の担い手であるという考え方を棄却して、ことばの指示と意味の同一視をやめさせる</p>
<p>０：今までは<b>主語</b>となりうる限りでの存在という考え方がされていた</p>
<p>１：ペガサスは存在しない、と言明する場合、ペガサスは概念的には主語として存在していることになってしまう。仮に概念的に存在しない場合、「ペガサスは存在しない」という言明は無意味なものになってしまう(無いものは無いと言うだけでは無意味、何も語っていないことになる)。<b>言明に意味をもたせるためには、ペガサスは概念的に存在している必要がある</b>。</p>
<p>２：ペガサスを「主語」として扱うのではなく、「<b>述語</b>」として扱うことで解決しようとした。主語は代わりにx,y,zなどの「<b>変項</b>」を使う。</p>
<p>３：「ペガサスは存在しない」ではなく、「<b>xはペガサスではない</b>」、「<b>ペガサスであるxは存在しない</b>」、といった言明をする。こうした言明は無意味ではないということができる。なぜなら主語としての存在者(ペガサス)が存在している必要がないから。こうすることによってペガサスであるかどうかの真偽判定が可能になる。「人間はペガサスではない」、「犬はペガサスではない」&#8230;.。</p>
<p>∃：存在記号。カタカナの「ヨ」ではない。～が存在するという意味。存在量化。</p>
<p>P、Q：命題。例：PならばQ。Pを前件、Qを後件という。</p>
<p>￢:否定記号。</p>
<p>Px：&#8230;&#8230;はPであるという意味。開論理式。これだけでは真偽が確定しない。</p>
<p>∀：全称記号。「すべの」という意味</p>
<p>∀xPx=¬(∃x)(Px)</p>
<p>¬(∃x)(Px)とは、Pでないようなxは存在しないという意味。あるいはPでないようなxは存在しないという意味。あるいは全てのxはPであるという意味。</p>
<p>例：ペガサスは存在しない</p>
<p>PxのPがペガサスである場合：&#8230;&#8230;はペガサスである</p>
<p>¬(∃x)(ペガサスx)</p>
<p>→ペガサスでないようなxは存在しないという意味</p>
<blockquote>
<p>「主語である限りにおける存在の問題というのは次のような問題である｡例えば,｢ペガサスは存在しない｣といった場合,ペガサスは主語として立てられており,しかもそのペガサスについて述べられている以上,そのペガサスは何らかの意味で存在していなければならない｡もしまったく存在していないとすれば,それに言及することすらできないであろう｡したがって,ペガサスの存在を否定することは不可能である,という伝統的な議論に対してどう答えるかという問題である｡それに対するクワインの回答は,ラッセルの記述理論を拡張し,一語の名称(one-word name)である｢ペガサス｣のような語も述語として扱うことによって,その語の主語としての身分を消去し,それに代って主語に相当するものとして,X,Y,Zといった変項によって置き換えることによって答えることができるというものである｡この分析によれば,｢ペガサスは存在しない｣という言明は,￢(∃x)(Px)と記号化することができるが,これは,｢ペガサスであるXは存在しない｣という主張であり,少なくとも無意味ではないということができるaカ｡こうして,主語となりうる限りでの存在という考えが払拭されるのである｡ここから生ずる積極的な帰結は,存在,非存在の問題は,主語の存在,非存在の問題とか,述語(性質,関係,集合など)の存在,非存在の問題q母を考慮することなく,存在記号によって縛られた束縛変項であるX,Y,Zを満たす値があるかどうかという問題に帰着するということであるOここから有名な｢存在は変項の値である｣という主張がなされ,そしてこの束縛変項をどう用いるかという場面において存在論が関わってくるという姻Oそして,クワインは,｢ある存在論を受容するということは,ある科学理論,例えば,物理学の体系を受容することと原理的には同じである.･･わたしたちの存在論は,もっとも広い意味での科学を入れることのできる全体的な概念図式をひとたび決めてしまえば,決定されるのである｣と主張する御Oこの論文ではそれ程明らかではないが位D,かれは1つの存在論を選択しているのであるの.」</p>
<p>立花希一「神の存在・非存在を巡って」,8P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc53">対象の領域</span></h4>
<p>・クワインは物理主義と現象主義の間で葛藤していたという</p>
<p>クワインが認めていたものは物理的対象と数学の対象だけ。数学のような概念は物理的対象ではないが、有用なので認めるというような主張。科学理論を数学的な概念なしに構成することは難しい。</p>
<p>ただし、「存在は変項の値である」という命題から、物理的対象と数学の対象だけが存在が認められるという結論が出されたわけではない。</p>
<p>→(束縛)<b>変数が値をとるためには、対象の領域(domain)が想定されていなければならず、それは理論との関わりで限定される</b>という主張。クワインにとっては科学理論が有用であるので採用し、神やペガサスといったものは対象の領域として想定されていないということ。もしフィクションの対象の領域も含有するような理論が採用されれば、フィクションの存在も認められることになる。重要なのは理論の真偽ではなく、有用かどうか。電子が存在するかの真偽は重要ではなく、有用かどうか(ネオプラグマティズム)。理論的対象は現象を説明するための便宜的な装置にすぎないと考える立場を<b>反実在論</b>といい、アインシュタインなどの<b>科学的実在論</b>と対立している。観察できないものを存在しているといえるかどうかがポイントになる(思惟されるものは在ることと同じというパルメニデスの言葉が重要になってくる)。</p>
<blockquote>
<p>「かれは,ホメロスの神々の存在を認めていないが朗,それだけではなくJb(心的状態)の存在も認めていない｡かれが存在として認めるものは,結局のところ,物理的対象(マクロ,ミクロの物理的対象,九エネルギーなど)と数学の対象だけである脚｡この存在論は,かれの｢存在は変項の値である｣というテーゼから導き出されるものなのであろうかOかれの主張は,こうであるO束縛変項が値をとりうるためには,対象の領域(domain)が想定されていなければならないが,それは理論との関わりで限定される｡その際の理論は現在の科学理論であり,そこにおいて認められるのが,先に挙げた対象であり,それらを用いて解明できないような例外がかれには思い浮かはないというのである鯛｡ヒュ-ムの存在論と同様,この存在論からも,神の存在は否定されることになるだろうO神は数でも物理的対象でもないからである｡しかし,この存在論は｢存在は変項の値である｣というテーゼから導き出されたものではない｡例えば,コナン･ドイルの作品である『シャーロック･ホームズ』に登場するシャーロック･ホームズは物理的には存在しないとしても,その物語の中では,警官であるシャーロック･ホームズが存在するとはいえないが,探偵であるシャーロック･ホームズは存在するといえるのではなかろうか｡もしそういえるとするならば,ホメロスの神々もまた,『イリアス』や『オデュッセイア』においてほ存在しているということができるであろう｡すなわち,フィクションの領域を対象領域として認めれば,シャーロック･ホームズもホメロスの神々の変項の値をもつのである即Oゎれわれの考察している神も,少なくとも,シャーロック･ホームズやホメロスの神々と同等に『聖書』の世界においてほ存在しているということが可能である」</p>
<p>立花希一「神の存在・非存在を巡って」,9P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc54">ラッセルの記述理論とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></div>
<div class="box26"><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">バートランド・ラッセル</span>(1872~1970)</strong>：</big>・イギリスの数学者、哲学者。</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>ラッセルの記述理論(読み)</strong>：</big>・「何も記述していない表現である語句を含む文」を複数の文に分解することで、真偽を判断する方法。「表示について」で言及された。</p>
</div>
<p>例：「現在のフランス王はハゲである」という命題は、真偽を論理的に判断することが難しい。なぜなら、現在、フランス王は存在しないからである。フランスの王政は1792年に廃止されており、現在(2022年8/21日19:35時点)においてフランス王は存在しない。つまり、「現在のフランス王」という語句は何も記述していない表現である。</p>
<p>主語＝現在のフランス王</p>
<p>述語＝ハゲ</p>
<p>ハゲの集合に現在のフランス王が含まれていれば、命題は真になる。しかし、現在のフランス王が存在しないので、含まれているかどうか判断できない。</p>
<p>「現在のフランス王はハゲである」という命題を3つの文に分ける。ここで重要なのは「現在のフランス王」という記述を使わないということ</p>
<p>１：現在、少なくとも一人のフランス王がいる</p>
<p>２：フランス王は現在、多くても一人しかいない</p>
<p>３：もしそのような国王がいたら、彼はハゲである</p>
<p>分解された命題のうち、どれかひとつでも偽があると、元の命題は偽となる。たとえば１の「現在、少なくとも一人のフランス王がいる」という命題は偽なので、「現在のフランス王はハゲである」という命題は偽であると、真偽が判断できるようになる。</p>
<p>「ペガサスは人間である」という命題も、たとえばペガサスとは翼を持つ馬であるといったような記述で分析していく。少なくとも一匹は翼を持つ馬がいる、という命題が偽であるならば、「ペガサスは人間である」という命題も偽となる。</p>
<blockquote>
<p>「以上のように、何もさしていない(記述していない)表現である『現代のフランス王』といった語句を含む文を複数の文に分解することで、真偽を判断する方法を記述理論といいます。文の隠れた論理的構造を見抜き、細かく分解し、その一つ一つが現実世界と対応しているかどうかを調べる彼の手法は、ウィトゲンシュタインの写像理論に大きな影響を及ぼすことになりました。」</p>
<p>「続・哲学用語図鑑」,239P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc55">「プラトンの髭」以外の方法</span></h4>
<p>「在らぬ」の定義である「知ることができないし、考えることもできない」という一節の「<b>考えることもできない</b>」に着目する</p>
<p>→架空のもの、想像のものは「知る」ことはできないが「考える」ことはできると解釈していく。</p>
<p>例：ゼウスのような架空のものについて推論を重ねて知識を積み重ねていっても、真であることの意味的な根拠がない(意味的に知ったと言い切ることはできない)。しかし正しい推論を重ねて「考える」ことはできる。それゆえに、想像上のもの、概念的なものは「あらぬ」に入らない。</p>
<h2><span id="toc56">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc57">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc58">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc59">「哲学用語図鑑」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Gv80CS">「哲学用語図鑑」</a></p>
<h4><span id="toc60">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc61">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
<h3><span id="toc62">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：山田哲也「なぜパルメニデスは『詩』の形式を用い、『女神』という要素を取り入れたのか」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/196704488.pdf">URL</a>)</p>
<p>２：小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」(<a href="https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/76/76-25-46.pdf">URL</a>)</p>
<p>３：山川偉也「パルメニデス断片２における『非有』の問題」(<a href="https://stars.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=8638&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=67">URL</a>)</p>
<p>４：「論理学　補足文書」(<a href="http://student.sguc.ac.jp/i/st/learning/logic/%E8%BF%B0%E8%AA%9E%E8%AB%96%E7%90%86.pdf">URL</a>)</p>
<p>５：立花希一「神の存在・非存在を巡って」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/144187391.pdf">URL</a>)</p>
<p>６：<span class="a">大内健史</span>「W. V. クワイン「なにがあるかについて」におけるメタ存在論的企図」(<a href="https://www.academia.edu/37031946/_W._V._%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3_%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6_%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%A1%E3%82%BF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96%E7%9A%84%E4%BC%81%E5%9B%B3_Ver8.docx">URL</a>)</p>
<p>７：山川偉也「パルメニデスとゼノン」(<a href="https://stars.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=7854&amp;item_no=1&amp;attribute_id=21&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>８：岩野秀明「パルメニデス存在論から宇宙論へ」(<a href="https://tuis.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_view_main_item_detail&amp;item_id=344&amp;item_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=17">URL</a>)</p>
<p>９：山田哲也「ソクラテス以前においてクセノバネスとは何であったか？認識論的観点から」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;rct=j&amp;q=&amp;esrc=s&amp;source=web&amp;cd=&amp;cad=rja&amp;uact=8&amp;ved=2ahUKEwjz8IKJ5Ov5AhUUDt4KHdJmCdYQFnoECAoQAQ&amp;url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F196704506.pdf&amp;usg=AOvVaw3jpLq17IWgi0kJ8bhg50HC">URL</a>)</p>
<p>１０：永島輝雄「弁証法の起源」(<a href="https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=6874&amp;item_no=1&amp;attribute_id=189&amp;file_no=1">URL</a>)。</p>
<p>参考サイト１：心の哲学まとめWiki(<a href="https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/96.html">URL</a>)</p>
<p>参考サイト２：ギリシア哲学-ソクラテス以前哲学者断片(<a href="http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ki_greek_pp.html">URL</a>)</p>
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		<title>【基礎哲学第五回】ヘラクレイトスの「万物は流転する」</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/07/29/herakleitos-1/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 29 Jul 2022 09:41:29 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ヘラクレイトス]]></category>
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					<description><![CDATA[ヘラクレイトスの万物流転について説明している記事です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-11" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-11">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">要約</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">ヘラクレイトス</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">主要断片</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">ヘラクレイトスとは、意味</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">時代背景</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">哲学史整理</a></li></ol></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">万物存在・生成論</a><ol><li><a href="#toc10" tabindex="0">「万物は流転する」とは、意味</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">「同じ川に二度と入ることはできない」</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">万物の根源とは火であるとは、意味</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">永遠の火</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">下り道と上り道</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である」</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">ロゴスとは、意味</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">万物に「共通するもの」としてのロゴス</a></li></ol></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">尺度とは、意味</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">「戦いは万物の父であり、万物の王である」とは、意味</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">対立が万物を生み出すとはどういうことか？</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">矛盾律とは</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">醒めている意識と眠っている意識とは、意味</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">「私は私自身を探究した」</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">永遠の今</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">ノオス(ヌゥス)とは、意味</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">一者とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">弁証法との関連</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">弁証法とは</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">ヘーゲルやエンゲルスの弁証法について整理</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">ヘラクレイトスにおける弁証法の要素の例</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc34" tabindex="0">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">「哲学用語図鑑」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">「本当にわかる哲学」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">「史上最強の哲学入門」</a></li></ol></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">要約</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">ヘラクレイトスとは？どんな人？：ヘラクレイトスは古代ギリシャのエフェソス市出身の自然哲学者。著書は「自然について」。万物流転やアルケーが火であるといったことで知られている。別名は「暗い人」。</li>
<li class="sample">万物流転とは？：「万物は流転する」とは世界のありとあらゆるものは常に生成と変化の過程のうちにあり、固定したものや静止したものはなにひとつないという思想のこと。ギリシャ語で「パンタ・レイ」という。「誰も同じ川に二度入ることはできない」というヘラクレイトスの体験を、後世でシンプリキオスやプラトンが表現し直したものと解釈されている。</li>
<li class="sample">万物の根源は火であるとは？：すべてのものは火から構成され、火が薄くなったり濃くなったりすることによって変化するという考え。存在の原理と生成の原理の両方を説明したもの。下り道と上り道で説明している。</li>
<li class="sample">戦いは万物の父であるとは？：対立が万物を生み出すのであり、対立は生成の普遍的な法則(ロゴス)であるという思想。</li>
</ol>
<h3><span id="toc3">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/1qS7ditn9gA" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
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<h2><span id="toc4">ヘラクレイトス</span></h2>
<h3><span id="toc5">主要断片</span></h3>
<p>断片１：「万物はロゴスによって生ずる」「ロゴスはこのようなものとしていつもあるのに、人間どもはそれを理解できないでいる、それを聞く以前にも聞いた後にも」</p>
<p>断片２：「共通なものには従わねばならぬのに、多くの人達は自分だけの(私的な)思慮を持っているように生きている」</p>
<p>断片８：「対峙するものが和合するものであり、もろもろの異なったものどもから最も美しい調和が生ずる」</p>
<p>断片１０：「結び付き&#8230;&#8230;それは全体と全体でないものか行くところの同じものと違うもの、調子が合っているものと合っていないもの、万物から一つが一つから万物が生ずる」</p>
<p>断片１２：「同じ川に入って行く者に別の、また別の水が流れて来る。しかし魂もまた湿ったものから蒸発しているのである」「かれらは同じ河にはいり、違った水が、また違った水が流れてくる」</p>
<p>断片１７：「そういうことには多くの人達はぶつかることはぶつかっても、それらしい思慮を働かすことはなく、教えられても分からず、自分だけの想いに耽っている」</p>
<p>断片１８：「期待するのでなければ期待され得ないものを見い出し得ないだろう。それは見い出し得ないもので到達し得ないものだから」</p>
<p>断片２１：「醒めているときに我々が見る限りのものは死であり、眠っているときに見る限りのものは眠りである」</p>
<p>断片３０：「この秩序ある宇宙世界(コスモス)はすべてのものにとって同じであり、神々の誰かが作ったものではなく、人間どもの誰かが作ったものでもなく、いつもあったし、いまもあり、これからもあるであろう、いつも生きている火として、きまっただけ燃え、きまっただけ消えながら」</p>
<p>断片３２：「智はただ一つ、ゼウスの名で呼ばれることを欲せず、また欲する」</p>
<p>断片４０：「博識はノオスを持つことを教えはしない。もしそうだとしたら、ヘーシオドスにもピュータゴラースにも、また更にクセノプァネースにもヘカタイオスにも教えたであろうから」</p>
<p>断片４１：「智は一つであり、それは万物を通して万物をどのように操ったのかをグノーメ(叡智)に精通している」</p>
<p>断片４５：「たとえすべての道をとって行くにしても、人はプシュケーの限界を発見できないであろう。そのように深いロゴスをそれは持っている。」</p>
<p>断片４８：「同じ川に我々は入って行くのであり、入って行かないのでもある。我々は存在するのでもあり、存在しないのでもある。」「われわれは同じ河に入りかつはいらないし、われわれは存在しかつ存在しない」</p>
<p>断片５０：「ロゴスに聞いて」「私にではなくロゴスに聞いて、万物が一つであると認めるのが智だ」</p>
<p>断片５１：「どうして行き違っているものが自己の内に一致和合しているかを彼らは理解しない。逆向きに働き合う結び付き(調和)というものがある、ちょうど弓や竪琴の例に見るように」</p>
<p>断片５３：「戦いは万物の父であり、万物の王である。それはある者たちを神々とし、ある者たちを人間として示現した。またある者たちを奴隷とし、ある者たちを自由人とした」</p>
<p>断片５４：「目に顕わでない調和は顕わなものより強力だ」</p>
<p><span id="page19R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ttb" role="presentation">断片６０：「道は同じ一つのものだが、上れば上り道、下れば下り道となる」</span></span></p>
<p>断片６４：「雷電が万物の舵を操っている」</p>
<p>断片６６：「すべてのものには火がやって来て裁き捕らえるであろう」</p>
<p>断片６７：「神は昼夜、冬夏、戦争平和、飽食飢餓である。その変化するさまはちょうど(火が)香をくぺられると、それぞれの香りに応じて呼び名が付けられるよう」</p>
<p>断片７３：「眠っている者のように言ったり行ったりしてはならない」</p>
<p>断片７８：「グノーメーを持つのは人間のではなく、神の性格だ」</p>
<p>断片８０：「知らねばならぬ、戦いは共通のものであり、正道は争いであって、万物は争いと必然に従って生成することを(断片」</p>
<p>断片８１：「(ピュータゴラースは)嘘つきの元祖だ」</p>
<p>断片８３：「人間のうちで最も賢い者でも神と較べると猿に見えるだろう、智においても美においてもその他のどの点においても」</p>
<p>断片８６：「（神的な事柄の多くは)信じる気持ちがないので知られることなく見過ごされている」」</p>
<p>断片８９：「醒めている者たちには一つの共通のコスモスがあるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけのものに帰ってゆく」</p>
<p>断片９０：「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である&#8230;&#8230;」</p>
<p>断片９１：「同じ川に二度入ることはできない……分散し、また寄り集まる、寄り来たり遠去かる」「ヘラクレイトスによれば、ひとは同じ河に二度はいることはできない。ひとは移り行く水を二度と安定した形でつかめないし、その変化の鋭さと速さのために、ものは拡散していきまた再び結びつき、そして再びとかあとでというのではなく、同時に集まりかつ分離する」</p>
<p>断片９２：「シビュラ(巫女)は狂った口で笑いもなく飾りもなく滑ちかさもない言葉を吐き、その声をもって千年の外に達している、それは神を通して語るからなのだ」</p>
<p>断片９６：「屍体は糞尿よりもなお放り捨てるべきもの」</p>
<p>断片１０２「神にとってはすべてが美であり、善であり、正であるが、人間たちがあるものを不正とし、あるものを正と考えた」</p>
<p>断片１０３「円周の場合、初めと終わりは共通である」</p>
<p>断片１０８：「私がその言うところを聞いた限りの人たちのうち誰一人、智がすべてのものから隔絶したものだと認識するに至ってはいない」</p>
<p>断片１１０：「人間にとって何でも欲するままになることは余り良いことではない」</p>
<p>断片１１１：「病気は健康を、飢餓は飽食を、疲労は休息を快適にし善いものにする」</p>
<p>断片１１２：「自然(プエシス)本来に耳を傾けて」「健全に思慮することが最大の徳性(アレテー)であり、ピュシスに耳を傾けながらプュシス(自然本来.本質)に従って真実を語りかつ行うことが知恵である」</p>
<p>断片１１３：「思慮することがすべてのものにとって共通のものとしてあり」</p>
<p>断片１１４：「ノオスの助けを受けて語らんとする者は万物に共通するものに確たる信頼を置かねばならない、ちょうど市民国家が法に対するように、いな、それよりもずっと強力に。なぜなら人間の諸法はすべて一なる神の法にょって養われているからだ。すなわち神のそれはどこまでも意のままに支配し、すべてのものを充してなお余りあるものなのだ」</p>
<p>断片１１５：「魂には自己を増大させるロゴスが備わっている」</p>
<p>断片１１６：「自己を知ることと健全に思慮することがすべての人間に与えられている」</p>
<p>断片１１８：「乾いた光輝は最も賢く最もすぐれた魂、乾燥した魂は最も賢く最もすぐれている」</p>
<p>断片１２３：「もしそれらのもの(不正?)がなかったら、ディケー(正義)の名を彼らは知らなかったであろう」</p>
<p>断片１２６：「冷たいものが熱くなり、熱いものが冷たくなる。湿ったものが乾き、乾いたものが湿る」</p>
<p>断片１３２：「もろもろの栄誉は神々をも人間をも奴隷に落とす」</p>
<p>※論文２と９が主な出典</p>
<h3><span id="toc6">ヘラクレイトスとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ヘラクレイトス(Herakleitos)</strong></span>：</big>・(紀元前540年~紀元前480年頃)イオニア地方のエフェソス市出身の自然哲学者。名門の出自らしい(王族の家系だったという説もある)。イオニア学派に分類されることがある。</p>
</div>
<p>・イオニア地方のエフェソス市出身の自然哲学者。名門の出自らしい(王族の家系だったという説もある)。エフェソスはギリシャの植民都市で、ミレトス都市の上あたりに位置していた。</p>
<p>・アルテミスの神殿に隠れて住み、「暗き人(闇の人)」、「泣ける哲学者」、「謎をかける人」と呼ばれていた。人付き合いが悪く、難解な言葉遣いからそのような呼び名がついたらしい。文章が難しいのは、理解力のある人だけにわかるようにわざと書いたという説がある。</p>
<p>・ヘラクレイトスの文章はほとんど残っていない。断片が130片ほどあるといわれている。</p>
<p>・著書は「自然について」だといわれている。「万有について」、「政治について」、「神学について」の三書をまとめたものだという説もあります。</p>
<p>・文章が難しいのは、理解力のある人だけにわかるようにわざと書いたという説がある。</p>
<p>・ソクラテスはヘラクレイトスの書物を「デロス島の潜水夫を必要とする」と言っていたらしい。おそらく、内容が深すぎるということだろうか。</p>
<blockquote>
<p>「アルテミスの神殿に隠棲して「暗き人」と緯名されたへラクレイトスも(3)、一種の非日常を作り出す中で、それぞれ独自の思想を完成させたとみなすことができる。」</p>
<p>後藤淳「人間の知は深化するか──クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして──」50P</p>
<p>「ギリシャの哲学者。名門の出自と地位を捨て、孤高の生活を送る。あだ名は『暗い人(スコテイノス)』『泣ける哲学者』。万物の根元は『永遠に生きている火』だと考え、一定のロゴス(理法)による支配の中で、自然は常に生成変化するという動的な万物流転説の立場をとった。神がかり的で難解な著作は、今日では断片130片あまりを残すのみ。」</p>
<p>「哲学3分間ビジュアル図解シリーズ」,34-35P</p>
<p>「紀元前6世紀中頃小アジアはエフェソス生まれの自然哲学者ヘラクレイトス、&#8230;&#8230;」</p>
<p>石塚正英「感性文化と美の文化―バウムガルテン・ヘーゲル・フレイザー―」,3P</p>
<p>「イオニア地方エフェソス出身の自然哲学者。王族の家系に生まれたといわれているが、詳細は不明。愛想や人付き合いが悪く、孤高の人生を送ったと伝えられている。毒舌や難解な言葉遣いから『暗い人』『謎をかける人』と呼ばれた。争いや変化こそ世界の実相と捉え、対立するものの均衡の上に、万物を支配するロゴスの働きを見いだした。」</p>
<p>「哲学用語図鑑」,19P</p>
<p>「アテーナイのソークラテース(前四六九〜三九九年)は彼の書物を読んで「私に理解できたところはすばらしいし、理解できなかったところもそうだろうと思う。ただし、この書物は誰かデーロス島の潜水夫を必要とするね」と言ったといわれる&#8230;&#8230;」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者」,25</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc7">時代背景</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e36eddb481270c1c492022894e81a871.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2408" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e36eddb481270c1c492022894e81a871.png" alt="" width="631" height="261" /></a></p>
<p>・時代的にはピタゴラスの後の人物で、パルメニデスと同時代の人間。</p>
<p>・ヘラクレイトスはピタゴラスを批判したり、パルメニデスによって批判されたりしていた。ピタゴラスに対しては「博識(物知り)」の段階に留まっている、「うそつきの元祖だ」と批判した。パルメニデスからは論理矛盾を犯しているという意味で「両頭の怪物共」と批判されたらしい。「彼らはあるとあらぬが同じであり、かつ同じでないと見なす。彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある」ともパルメニデスは批判していた。</p>
<p>・当時のギリシアの時代背景</p>
<p>・海外貿易を背景に新興帰属が台頭し、旧来の土地貴族による王政が崩壊していた。土地や財産を失って放浪するものや、貧困者が出現していた。戦乱の時代で都市国家の形成期だった。変化の激しい時代。</p>
<p>・メガラのテオグニス(前544年頃)「一番いいのは生まれないこと」といったように厭世的な空気があった。一方で、ヘシオドス(前700年頃)やソロン(前640～前559年頃)のように、富や権力は価値がなく、徳や正義は永遠の価値と見なすものがでてきた。現実をそのまま受けいれなさいといった詩人(サッフォー,紀元前612年頃)もいたという。ピタゴラスは魂の浄化を主張していた(ピタゴラス教団)。</p>
<blockquote>
<p>「紀元前七世紀から六世紀にかけては、オデュッセウスの漂流物語からも窺えるように、ギリシア民族は海を越えての活発な活動を展開していた。その海上貿易を背景に新興貴族が台頭し、旧来の土地貴族によって支えられた王制が崩壊し、土地や財産を失って放浪する者や、また貧困に喘ぐ者、そして都市国家の形成期にも当たり、独裁者あるいは調停者が出現し、変化の激しい緊張した時代であった。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,26P</p>
<p>「メガラのテオグニス(&#8230;&#8230;前五四四年頃)の名で伝わる詩句にも、人にはそれぞれの禍いがあり、ゆるぎない幸せを持つ者は誰もいない。一番いいのは生まれないこと、生まれた上は、できるだけ早くハーデース(冥府)の門をくぐること。そしてまた、この混沌としたはかない世では、この先何の良い目も望めない。死んだら何もかもお仕舞いだ。今この青春を楽しんで大いに遊ぼうといった、厭世的空気の中での一種の刹那的快楽主義を表明するものもある。しかしこのような厭世的風景の中にあって、その無常なるものを超えて永遠に価値あるものを、また刹那的な快楽をではなく永遠の歓喜を求めようとする動きも台頭し始めていた。例えば、富や権力、あるいは青春や老年といったものは、無常なるが故に価値のないものとして、徳と正義を永遠に価値あるものと見なす者に、はやくはボイオーティアの農民詩人ヘーシオドス(&#8230;&#8230;前七〇〇年頃)があり、またアテーナイの立法家ソローン(&#8230;&#8230;六四〇頃〜五五九年頃)があった。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,26P</p>
<p>「胸内に広がるとき無駄口をたたく舌を見張っていなさいと歌うレスボス島生まれのサップォー……前六一二年頃)のような、現実をそのままに受け入れて、それを醒めた眼で見つめる賢者的風格のある人物も現れた。また、現実の生における歓喜、魂の浄化、永遠の生を約束する多くの秘教、オルプェウス教団、ユレウシース教団、ピュータゴラース教団なども出現した。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,26P</p>
<p>「彼らはあるとあらぬが同じであり、かつ同じでないと見なす。彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある」(……)とエレアのパルメニデース(……前五一五頃〜四五〇年頃)はヘーラクレイトス一派を批判している。彼の思想は論理的・合理的には到底理解できない代物なのだ。無論でたらめというわけではない。背後に深い体験が横たわっている。アテーナイのソークラテース(……前四六九〜三九九年)は彼の書物を読んで「私に理解できたところはすばらしいし、理解できなかったところもそうだろうと思う。ただし、この書物は誰かデーロス島の潜水夫を必要とするね」と言ったといわれる」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,25P</p>
<p>「ーラクレイトスは、博識のピュータゴラースを、その博識のゆえに「うそつきの元祖だ」(断片八}、一二九)と呼んでいる。つまりへーラクレイトスは、当時の碩学の殆んどは未だ観念の中に生きていて、今ここに醒めた状態で自己自身を見つめて生きてはいないと見ていたのであろう。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,29P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc8">哲学史整理</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">神話から自然哲学へ、主観から客観へ、神話的思考の衰退と合理的な知識の登場</li>
<li class="sample">世界が何でできているか(<b>存在の原理</b>)、世界は何によって動いているか(<b>生成の原理</b>)</li>
<li class="sample">存在・生成の原理を説明できるような万物の根源を「<b>アルケー</b>」という。アルケーを求める人達を「<b>自然哲学者</b>(ピュシコイ)」という。最初の自然哲学者がタレスであるといわれている。ソクラテス以前の人々は「自然」について主に探究したという。ソクラテス以後は、愛とはなにか、勇気とはなにか、人間はどう生きるべきかといった方向へと変わっていく。</li>
<li class="sample">ミレトス学派の哲学者たちは存在の原理と生成の原理を明確に区別していなかったという。</li>
<li class="sample">タレスはアルケーを「<b>水</b>」、アナクシマンドロスは「<b>無限定なもの</b>」、アナクシメネスは「<b>空気</b>」であると考えた。彼らにとって、それらは万物の存在の原理であると同時に、生成の原理であるとされ、<b>その両者は明確に区別されていなかった</b>という。たとえば水は存在の原理としては不生不滅で恒常不変であるが、生成の原理としては生成し、消滅し、変化するものだと考えられている。</li>
<li class="sample">ヘラクレイトスは「生成や変化のみ」が存在し、恒常不変なものはなにひとつ存在しないと主張したと解釈されている。</li>
</ol>
<p>例：たとえば「川」は感覚では不変で恒常的なもののように見えるが、常に変化している(<b>万物は流転する</b>)。時間がすぎれば次々と違う川へと変化していく(「同じ川には二度と入れない」)。</p>
<p>ただし、<b>変わらないものもある</b>とヘラクレイトスは主張した。それが「<b>ロゴス</b>」であり、万物が従う生成の法則だという(例えば<b>万物は変化するという法則自体は変化しない</b>)。→万物は流転するといいながら、流転しないものもあるという主張。万物は変化し、かつ変化しないという一見矛盾する主張をどう説明するかがポイントになる。</p>
<p>・ヘラクレイトスを含め、初期の哲学者たちは万物の根源を定め、そこから合理的な生成を説明し、かつそうした万物の根源を「<b>神</b>」の観念と結びつけた。神話的説明から合理的な説明への過渡期。ゼウスが雨を振らせた、というような神話的な説明ではなく、水が世界の根源というのは神のように永遠で不滅な物質であるというイメージ。</p>
<p>７：ヘラクレイトスと同時代のパルメニデスは、唯一不動の「有」のみがあり、非有や生成は存在しないと考えたと解釈されている。→「存在」のみがある。</p>
<p>ただし、パルメニデスは「有」のみがあると主張しながら、臆見(ドクサ、感覚)としては生成や変化、運動というものがあると考えざるをえなかった。プラトンのイデア論の原型ともいわれることがある。</p>
<p>８：<b>存在の原理と生成の原理をいかに調停するか</b>がギリシア哲学では重要になっていく。説得力のある説明の問題。エンペドクレスやアナクサゴラス、デモクリトスなどが挑戦していく。プラトンは「イデア」という考えで、調停しようとした(現象界では変化しているように見えるが、イデア界では不変。理性によってイデアは認識可能)。カント(1724-1804)はイデアのようなものは人間の理性によって認識することは不可能だと主張した(批判哲学)。ヘーゲル(1770-1831)は弁証法によって真理(絶対精神)を認識することが可能だとカントを批判した。</p>
<h2><span id="toc9">万物存在・生成論</span></h2>
<h3><span id="toc10">「万物は流転する」とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>万物は流転する(パンタ・レイ、πάνταῥεῖ)</strong></span>：</big>・世界のありとあらゆるものは常に生成と変化の過程のうちにあり、固定したものや静止したものはなにひとつないという思想のこと。</p>
</div>
<p><b>流転</b>：一般に、状態・境遇などが、たえず移り変わること。同じ状態にとどまらず変化していくこと。変化が終わって存在が固定化するのがただの「変化」だとしたら、絶えず変化していくことが「流転」になる。</p>
<p><b>生成</b>：一般に、物がある状態からほかの状態に変化する過程。あるいは非存在が存在へと変わること。例えば水が氷になるのは生成。水が氷になったり、溶けたり、蒸発したり、また水になったりと&#8221;絶えず&#8221;生成していくイメージが流転。火が濃縮化すれば水になるとヘラクレイトスは考えたが、水が非存在の状態から存在へ変わった瞬間であり、火が存在の状態から非存在へと変わった瞬間であるとも解釈できる。</p>
<p>・ヘラクレイトスが「万物は流転する」と言ったかどうかは定かではない。少なくとも本人の著作の断片では見当たらない。</p>
<p>・<b>プラトン</b>(紀元前427~紀元前347)がヘラクレイトスを紹介する時に「万物は移ろい、かつとどまることなし(パンタ・コーレイ)」と言っていた(『クラチュロス』)。</p>
<p>・<b>シンプリキオス</b>(紀元後6世紀)がヘラクレイトスを紹介する際に、「万物は流転する(パンタ・レイ)」という言葉で初めて紹介した。</p>
<blockquote>
<p>「ヘラクレイトスによれば，世界には固定したものや静止したものは一つもなく，万物は生成と変化の過程のうちにある．「何ものも有りといえるものはなく，一切はただ成るのみである」．これがいわゆる「万物流転」（パンタ・レイπάνταῥεῖ）の思想であって，彼はこの考えを有名な「河の比喩」でもって語っている．いわく「われわれは同じ流れに二度入ることはできない．流れはたえず散らばってはふたたび集まり，近づいて来ては去って行く」（『断片集』第２部，第22章B91）．水の流れに象徴されるこのような生成流転の世界こそ真実の世界なのである．ヘラクレイトスは，パルメニデスと同じように，感覚に映る世界を臆見であると考えたが，その理由は，パルメニデスの場合とは反対に，感覚は事物を変化の相の下にとらえず，恒常的な存在としてとらえるという理由からであった．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」36-37P</p>
<p>「世界は絶え間ない「変化」によって生まれ，その変化は万物の「対立」によって生じているとした「万物は流転する」の箴言で名高いヘラクレイトス。」</p>
<p>澁谷壽郎「文章論－思考と意識の証明－」280P</p>
<p>「水をさすようだけれど、最近の研究では、「万物は流転する」はヘラクレイトス自身が直接に述べた言葉とはされていない。ディールス/クランツ『ソクラテス以前の哲学者の断片集』でめ、チャールズ・カーン『ヘラクレイトスの芸術と思想』で採用されていない。ヘラクレイトスのパンタ・レイはシンブリキオス(六世紀)の著作ではじめて登場する。ふつうプラトンの対話篇『クラチュロス』のなかで、ヘラクレイトスの言葉として「万物は移ろい(nturaxsper)、かつとどまることなし」といわれたことがあげられる。しかし、このバンタ・コーレイすらヘラクレイトス自身の言葉かどうかしい。」</p>
<p>嶋崎隆「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」,537-538P</p>
<p>「世界は絶えず変化するものだとした『万物は流転する』という言葉は有名です。そして彼は、万物を川になぞらえて、『同じ川に我々は入っていくのでもあり、入っていかないのでもあり、存在するのでもあり、存在しないのでもある』という謎めいた言葉で、この世界を語りました。川の水はつねに流れているので、同じ川の同じ場所に入ったつもりでも、足に触れる水は、1度目と2度目では違います。だから、『川が存在する』といっても『川は存在しない』といっても同じことで、変化するこというこそが、つねに変わらぬ世界の姿なのだと考えたのです。」</p>
<p>「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ　哲学」34P</p>
<p>「ヘラクレイトスは『同じ川に二度入ることはできない』と言います。この言葉は何を意味するでしょうか？流れる川だけでなく、人も物も世界はたえず変化しています。ヘラクレイトスはアルケーを考えるだけでなく、万物は流転する（パンタ・レイ）というメカニズムがあることを発見したのです。」</p>
<p>「哲学用語図鑑」、29P</p>
<p>「『万物は流れ去る』つまり、『この世界には、永遠不変の存在などありはしない。すべての形あるものは、いつか壊れ、その形を変えて流れ去っていく』という話だ。&#8230;&#8230;彼が偉大だったのは、存在の問題について、『石やりんごが、何からできているか？』という観点ではなく、『それらの存在に共通するものはなんだろう？』というそれまでの哲学者にはないアプローチで挑んだところにある。そして、ヘラクレイトスは『存在』をじっくりと観察し、『万物はすべて変化する』という共通点を見つけ出したのだ。」</p>
<p>「史上最強の哲学入門」、284-285P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">「同じ川に二度と入ることはできない」</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/b5aa8aa8ede723db6292cea8aac0b87f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2409" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/b5aa8aa8ede723db6292cea8aac0b87f.png" alt="" width="551" height="411" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/b5aa8aa8ede723db6292cea8aac0b87f.png 551w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/b5aa8aa8ede723db6292cea8aac0b87f-280x210.png 280w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/b5aa8aa8ede723db6292cea8aac0b87f-150x112.png 150w" sizes="(max-width: 551px) 100vw, 551px" /></a></p>
<p>ヘラクレイトスは「<b>われわれは同じ流れに二度入ることはできない．流れはたえず散らばってはふたたび集まり、近づいて来ては去って行く</b>」（断片91）という断片を残している。</p>
<p>川の水はつねに流れているので、同じ川の同じ場所に入ったつもりでも、足に触れる水は、1度目と2度目では違う。仮に池だとしても、風で動いたり、中の生き物の振動があったりする。</p>
<p>同じ川だと思っていても、流れが違ったり魚の数が違ったり、水量が違ったりする。ヘラクレイトスは川だけではなく、川に対する人間の意識、魂のあり方も常に変わっていくと考えた。「同じ川に入って行く者に別の、また別の水が流れて来る。しかし魂もまた湿ったものから蒸発しているのである」(断片１２)</p>
<p>・ヘラクレイトスの「川の比喩」の体験が「万物は流転する」と後代で表現されたという解釈がある。</p>
<p>・万物は水の流れのように常に流転していくというイメージ(止まっているものはなにもない)。不変不動ではない。不動に見える石も砕けたり削れて土の一部となり、さらに植物へと変化していく。変化しない物は存在しない。物に対する人間の感覚も常に変化していく。</p>
<p>・「同じ川に二度入ることはできない」というような考え方は日本にも近いものがあった</p>
<p>『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」→仏教用語で諸行無常とは「世の中のすべての現象は常に変化し生滅して、永久不変なものはないと。」を意味する。</p>
<p>『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし」も近い。</p>
<blockquote>
<p>「川は同じでも瞬間々々に流れて来る水は入れ代わって同じではない。川が同じでないとともに、それを感じている魂(意識・感覚)も変化して同じではない。へーラクレイトスの魂は永遠の今に醒めてあって、瞬間々々に移り行く諸事象を脳裏に一つ一つしっかりと焼き着けてゆく。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,29P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">万物の根源とは火であるとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>「万物の根源は火である」</strong></span>：</big>・すべてのものは火から構成され、火が薄くなったり濃くなったりすることによって変化するという考え。存在の原理と生成の原理の両方を説明したもの。万物の根源は「<span style="color: #0000ff;"><strong>永遠の火</strong></span>」であるとヘラクレイトスは考えた。火はギリシャ語でピュールという。</p>
</div>
<p>・「火は万物の元素であり、万物は火の交換物であって、それらは火の希薄化と濃縮化によって生ずる」と解釈できる。</p>
<p>「すべてにわたって同じであるこのコスモス(宇宙世界)は、神にしてもひとにしても、これを造ったのではない。それは、かつてあったし、あるし、あるであろう、尺度にしたがって燃え、尺度にしたがって消える、永遠に生きる火である」（断片３０）</p>
<h4><span id="toc13">永遠の火</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>永遠の火</strong></span>：</big>・火は万物の根源であるとともに、万物を司る神的な働きをもつものだと考えられている。ヘラクレイトスは神的な働きをもつものを火、永遠の火(雷電)、ロゴス、魂(万物の命)、智(最も賢い魂)などさまざまな言葉で言い表している。</p>
</div>
<h4><span id="toc14">下り道と上り道</span></h4>
<p>下り道と上り道が交替で一定の周期を持って永遠に行われるとヘラクレイトスは考えた。</p>
<p><b>下り道</b>：火は濃縮すれば凝固して水となり、さらに土となる。</p>
<p><b>上り道</b>：土は希薄化すれば溶解して水となり、さらに火になる。</p>
<p>火は水や空気のような物質というよりも、エネルギーのようなもの、あるいはエネルギーの原理のようなものだと解釈されている。実際に火から水や土が構成されることを説明しているというより、<b>火にみられるような変化の法則が万物を共通して支配している</b>というようなイメージ。</p>
<h4><span id="toc15">「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である」</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e9af3cf2965ac8fc33a56c68241a4dcc.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2410" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e9af3cf2965ac8fc33a56c68241a4dcc.png" alt="" width="671" height="511" /></a></p>
<p>・「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である(断片９０)」とも表現している。万物は火を受け取ったり引き渡したりすることによって形成されたり分解されたりしているという解釈。木がエネルギーを受け取れば育ち、引き渡せば枯れるようなイメージ。</p>
<blockquote>
<p>「ヘラクレイトスはこの宇宙(……)を支配している原理を「永遠に生きている火」(……)と考えた。その断片はとても重要だね。全体的にはこうなっている。「宇宙、つまりすべてのものからなるひとつのものは、神にせよひとにせよ、だれがつくったのものでもなく、それはきまっただけ(……)燃え、きまっただけ消えながら、永遠に生きている火であったし、現在もそうであるし、将来もそうであろう。」炎はたえず中味を変えながらも同一にとどまっている。火のイメージはヘラクレイトスの生成流転の思想に合ったのだろう。またかれは「万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である&#8230;&#8230;」(90)とらいう。かれはこの「火」の思想をさらに展開し、火が圧縮され、気となりさらに水となり、そして水が凝固すると土となると考えた。これが「下り道」(……)といわれ、その逆のプロセスが「上り道」(……)だ(A1.Diog.IX(8).(9))。世界はたえず上昇し下降する生成と流動のプロセスとみられ、火はその象徴だろう。「火」とは現代的にいえば、エネルギーのことではないか。エネルギーこそ万物の生成と変化の原動力といえる。」</p>
<p>嶋崎隆「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」,538-539P</p>
<p>「ヘラクレイトスは、万物は流転するとしながら、その背後には変化しない根源物があると考え、それは『火』であるとしました。彼の考えた『火』は、ある物質というよりは、運動そのものに近いイメージで、現在のエネルギーの原理のようなものでした。『万物は火の交換物であり、火は万物の交換物である』というこれまた難解な言葉を残していますが、これは火の燃焼はたえざる変化だが、つねに一定の量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定のすすがたまるという変化と調和の姿を示しているといえます。」</p>
<p>「雑学3分間ビジュアル図解シリーズ　哲学」34P</p>
<p>「しかしヘラクレイトスは，他方では，感覚的・経験的な「火」（ピュールπῦρ）をもって万物のアルケーと考えた．「火は万物の元素であり，万物は火の交換物であって，それらは火の希薄化と濃縮化によって生ずる」，とヘラクレイトスは語っている．この点で，彼はミレトス学派の系譜に属し，またその故に彼らとともにイオニアの自然哲学者（イオニア学徒）とも呼ばれる．けれどもヘラクレイトスが火をもって万物の原理としたのは，それを生成し変化する世界の根底にある恒常的物質と考えたからではけっしてなく，むしろ永遠に燃えさかる火を一切の生命と変化の象徴として考えていたから，といった方がより適切であろう．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,37P</p>
<p>「けれども，このように流動の原理を強調したヘラクレイトスもまた，その思想の根底に恒常不変なものをみとめた．それは「ロゴス」（λόγος），すなわち万物がしたがう生成の法則である．ヘラクレイトスによれば，万物は火から出て，火に帰る．火は濃縮すれば凝固して水となり，さらに土となる．これが「下り道」（ὁδὸςκάτω）である．反対に，土は希薄になれば溶解して水になり，さらに火になる．これが「上り道」（ὁδὸςἄνω）である．この過程は交替で，一定の周期をもって永遠に行われる．それだから不断の変化と流動の世界に秩序があるのは，この永遠なる法則（ロゴス）によるのである．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,37P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">ロゴスとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ロゴス(読み)</strong></span>：</big>・ヘラクレイトスによれば永遠であり不変であり不動の法則であり尺度。万物は流転するが、万物を司る法則は流転しないと考えた。そして、万物に共通するものこそロゴスだと考えた。</p>
</div>
<p>「万物はロゴスによって生ずる。ロゴスはこのようなものとしていつもあるのに、人間どもはそれを理解できないでいる、それを聞く以前にも聞いた後にも」(断片１)</p>
<p>・ピタゴラスは数の比例を重視し、こうした比例が万物の根源だと考えた。たとえば調和する音の比が常に一定。しかし音の比自体は目に見えない。明日になったら変わっていた、というようなことがないので永遠なる法則のイメージに近い。水は明日になれば流れは変わる。</p>
<p>→ロゴスという言葉はギリシャにおいては「合理的、理性的な説明」に近い。そして合理、理性という言葉は「ratio(比)」という言葉に由来する。人それぞれによって変わるようなものではなく、不変(普遍)な数の比、法則が重視されるようになっていったのはポイント。より抽象的、客観的、共通的なものが万物の根源、思考の対象になっていく。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/07/08/pytagoras-1/">【基礎哲学第四回】ピタゴラス「万物は数である」</a></p>
<h4><span id="toc17">万物に「共通するもの」としてのロゴス</span></h4>
<p>・万物に「<b>共通</b>」するものとしてのロゴス</p>
<p>今までは存在の原理について、「万物は何からできているか」という考え方が中心だった。水や空気など。</p>
<p>ヘラクレイトスは「万物に『共通』するものはなにか」という問いを通して考えた。</p>
<p>そして、「万物は流転する」という共通点を見つけ出した。万物は常に変化している、という法則が万物に共通している。→万物に共通するものはロゴスであり、永遠の火である。火や川が常に変化しているように、万物も変化する。人間に共通するものは「ロゴスをもつこと」、「思慮をもっていること」などとも言っている。</p>
<p>ロゴスは「<b>個人的な思慮</b>」の対立概念としても扱われている(共通なものの反対が個人的なもの)。</p>
<blockquote>
<p>「けれども，このように流動の原理を強調したヘラクレイトスもまた，その思想の根底に恒常不変なものをみとめた．それは「ロゴス」（λόγος），すなわち万物がしたがう生成の法則である．ヘラクレイトスによれば，万物は火から出て，火に帰る．火は濃縮すれば凝固して水となり，さらに土となる．これが「下り道」（ὁδὸςκάτω）である．反対に，土は希薄になれば溶解して水になり，さらに火になる．これが「上り道」（ὁδὸςἄνω）である．この過程は交替で，一定の周期をもって永遠に行われる．それだから不断の変化と流動の世界に秩序があるのは，この永遠なる法則（ロゴス）によるのである．」</p>
<p>小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」,37P</p>
<p>「ヘラクレイトスにとって成は対立するものの統一であり，その統一をなすものが万物に共通するものとしての「ロゴスlogos」1である。そのロゴスが同時に神的な規準あるいは尺度の意味を持っていたことは，ヘラクレイトスが世界を「永遠に生きる火」とし，これ自身「尺度metra」に従って輝き，尺度に従って消える，と述べていることから確認できる。そしてこのような世界把握の背後には正義の女神ディケーDikeがあらゆるものの尺度であり，尺度の維持者，尺度を逸脱したものの裁き手であるという古代ギリシア的世界観がある。」</p>
<p>竹村喜一郎「ヘーゲル度量論の構成と科学理論的意義」,71P</p>
<p>「『目覚めている者たちにとっては、ひとつの共通なる世界がある。&#8230;&#8230;個人的な&#8230;..』ヘラクレイトスにおける人間知の検証も、クセノファネスの場合と同様に、知の基本的枠組みについて論ずることから始める。クセノファネスの知のあり方が、相対的である種の不可知論的限界を持つものであるのに対して、ヘラクレイトスにおいては「共通なる(……)」という概念が導入されている。断片2において、それは「ロゴス」という難解な用語の述語としてばかりでなく、「個人的(……)」思慮の対立概念としての役割も担っている。ヘラクレイトス断片の中で、いわゆる宇宙論的断片と人間知に関する断片との結節点として働く「ロゴス」概念に(22)、「共通なる」という形容詞が付加されている。すなわち、彼が「人は共通なるものに従わねばならない」と述べる時、従うべき「共通なるもの」とは「ロゴス」であり、それは自分の中にある言葉、あるいは言葉を司る能力に他ならない。ヘラクレイトスは、そのような人間全体に遍在する能力を、前提として承認する立場をとっていることになる。」</p>
<p>後藤淳「人間の知は深化するか──クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして──」,56P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">尺度とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>尺度 (metra)</strong></span>：</big>・尺度とは一般に、「判断・評価などの基準」を意味する。</p>
</div>
<p>・ギリシャの古代の神話にはディケーという正義の女神がいる。正義という尺度の維持者であり、それに反したものを裁く神。そうした文脈、世界観でヘラクレイトスはメトラやロゴスに神的な要素を付与させたという解釈がある。タレス、アナクシメネス、アナクシマンドロスなども万物の根源を神と関連付けて説明する傾向があった。神話的説明から合理的説明へと完全に移行しているわけではなく、過渡期。</p>
<p>「尺度にしたがって燃え、尺度にしたがって消える(断片３０)」</p>
<blockquote>
<p>「すべてにわたって同じであるこのコスモスは、神にしてもひとにしても、これを造ったのではない。それは、かつてあったし、あるし、あるであろう、尺度にしたがって燃え、尺度にしたがって消える、永遠に生きる火である」（断片３０）</p>
<p>山川偉也「古代ギリシアのコスモロジー : 西洋思想史講義ノートより」,310P</p>
<p>「ヘラクレイトスにとって成は対立するものの統一であり，その統一をなすものが万物に共通するものとしての「ロゴスlogos」1である。そのロゴスが同時に神的な規準あるいは尺度の意味を持っていたことは，ヘラクレイトスが世界を「永遠に生きる火」とし，これ自身「尺度metra」2に従って輝き，尺度に従って消える，と述べていることから確認できる。そしてこのような世界把握の背後には正義の女神ディケーDikeがあらゆるものの尺度であり，尺度の維持者，尺度を逸脱したものの裁き手であるという古代ギリシア的世界観がある。ヘラクレイトス自身測定学という言葉を使っていないが，彼があらゆる事象のうちに潜むロゴス＝尺度の探究を課題としたことは，智の求めることを「万物をあらゆる仕方を通じて操るその（真の）叡知を知ること」3とする言葉から読み取れる。ヘラクレイトスにとって哲学とはロゴス＝尺度（metron）の探求であり，その意味で尺度を求め，それによりあらゆるものを測定するという意味での測定学metretikeという性格を持っていたと言える」</p>
<p>竹村喜一郎「ヘーゲル度量論の構成と科学理論的意義」,71P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">「戦いは万物の父であり、万物の王である」とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong>「戦いは万物の父であり、万物の王である」</strong>：</big>・対立が万物を生み出すのであり、対立は生成の普遍的な法則(ロゴス)であるという思想。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/figure_fight_war_6vs6.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2411" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/figure_fight_war_6vs6.png" alt="" width="600" height="254" /></a></p>
<p>「戦いは万物の父であり、万物の王である。それはある者たちを神々とし、ある者たちを人間として示現した。またある者たちを奴隷とし、ある者たちを自由人とした」(断片５３)</p>
<blockquote>
<p>「A:なるほどね。ところでヘラクレイトスのなかにある弁証法というのは、具体的にどのようなのかね。C：そうだね。かれのいくつかの断片を現代弁証法から位置づけてみようか。「冷いものが熱くなり、熱いものが冷くなる。湿ったものが乾き、乾いたものが湿る」(126)ここには「対立物の相互転化」の弁証法がある。「戦い(thauos)は万物の父であり、万物の王である」(53)これは「対立物の闘争」の重要性を語っているね。戦乱の時代に生きたヘラクレイトスの実感だろう。「円周の場合、初めと終わりは共通である」(103)【これは「対立物の合致」といってよい。「病気は健康を、飢餓は飽食を、疲労は休息を快く、よいものにする」(111)|「対立物の相関関係」がここに示されている。実際、病気になってはじめて健康のありがたさがわかるからね。」</p>
<p>嶋崎隆「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」,85P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">対立が万物を生み出すとはどういうことか？</span></h3>
<p>１：存在するすべてのもの(万物)は内に対立するもの、相反するものを含んでいる。</p>
<p>２：万物の部分は対立しながらも、相互に関連し、調和し、ひとつの全体を構成している。</p>
<p>例：坂道を全体だとする。坂道は上れば上り坂となり、下れば下り坂となる。坂道は内に「上り坂と下り坂」という対立するものを含んでいる。下から見れば上り坂、上から見れば下り坂。観点の違い(人によって変わる)。他の人(真上など)から見ればただの土の集まりに見えるかもしれない。しかし対立しつつも、ひとつの全体としての「坂道」を構成している。全ての観点から同時に見た時に全体が見えるようになるが、人間がそれを感覚だけで把握することは難しい。「<span id="page19R_mcid5" class="markedContent"><span dir="ttb" role="presentation">道は同じ一つのものだが、上れば上り道、下れば下り道となる」(断片六〇)。</span></span></p>
<p>３：坂道から対立を通して上り道や下り道が生まれてくるように、「<b>一つから万物が生じる</b>」とヘラクレイトスは考えた。</p>
<p><b>一つ(一者)</b>：万物は一なるものであるという考え。唯一絶対のものであり、宇宙世界（コスモス）そのもの。ヘラクレイトスにとって、一つとは「神」だった。あるいは「神のような働き」。あるいは永遠の火、智、魂、ロゴス。万物が有るというより、ただ一つの火が有り、その火が様々に変化しているので多(万物)に見えるというイメージ。</p>
<p>「神にとってはすべてが美であり、善であり、正であるが、人間たちがあるものを不正とし、あるものを正と考えた」という断片１０２がわかりやすい。クセノファネスの知の相対性(ひとそれぞれ、人の数だけ真理あり)や知の多性(ピタゴラスの博識)を批判し、「知の一性」を説いたとされる。真理は人それぞれではなく、共通なもの(ロゴス、真理、神、普遍的法則、永遠の火)がある。</p>
<p>神からしたらすべて(万物)が正であるが、人間はある者を正義、ある物を不正だと(好き勝手に)個別に判断していく。例：ある国とある国の戦争はどちらの国も自分たちに正義があり、相手には正義がないと思っている(対立)。しかし、生き残るために戦争をするのはどちらも正しい、というような全体的、客観的な観点もありえる。戦争があるから平和という概念も生まれる(戦争と平和をセットで、全体として考える)。</p>
<p>万物は一であるが、人間からしたら万物は一ではなく、バラバラに見えている。しかし本来は同じもの(共通するもの、調和しているもの)を人間が勝手に孤立、非調和的なものとして分解して解釈するので、万物は一ではなく多にみえる。しかしそれは見え方の問題であり、万物は多ではなく一である。一は多に見える(一は多を生み出す)が、もともと多は一のものである。</p>
<p>→万物が生まれるとは、人間の視点で見れば一つではなく多に見えるというニュアンスに近い。一つのものが視点を変えると多に見えるというイメージ。神からすれば一つのものは一つのものに見える。</p>
<blockquote>
<p><span dir="ltr" role="presentation">「</span><span dir="ltr" role="presentation">神は、昼夜・冬夏・戦争平和・飽食飢餓。香が炊かれ、めいめいのひとが好きなようにお題目を唱えるときみたいに、それは違ったものとなる。」この断片が言おうとしているのは、神（＝永遠に生きる火）が一切の対立を超えたものであるということであります。「昼」をα、「夏」をβ、「平和」をγ、「飽食」をδといたしましょう。そのとき神Ωは、Ω＝（α∪!α）∩（β∪!β）∩（γ∪!γ）∩（δ∪!δ）と表現することができるでしょう。この一なる神を、断片３０にいう一なるコスモスと区別すべきなんらの徴もヘラクレイトスの他の発言にみいだすことはできません。ヘラクレイトスにとってコスモスとは、互いに否定関係にある二極の力動的統一体としての神にほかならなかったのです。」</span></p>
<p>山川偉也「古代ギリシアのコスモロジー : 西洋思想史講義ノートより」,311P</p>
<p>「万物を一と見る沈黙においては、存在するすべて(人間をも含めた大自然ー神)は調和あり秩序ある宇宙世界で、美・善・正であるが、沈黙が乱れ人間の思考・思念が動くとき、内に対立相反しながら調和を保っていた存在が分解し、それぞれの姿を現す。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,33P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">矛盾律とは</span></h3>
<p>「<b>同じ川に我々は入っていくのでもあり、入っていかないのでもあり、存在するのでもあり、存在しないのでもある</b>」(断片４８)。</p>
<p>→川を万物の一側面として捉える限り、絶えず変化するので存在していない(一瞬で変化していくので感覚で捉えきることができない)。川に対する感覚、意識も絶えず変化していくので、われわれ(人間)という存在もとらえきることができない。川や人間の同一性(A=A)のあり方の問題。たとえばプラトンは自己同一を現実では保つことができず、イデアにおいて保つことができるとした。昨日の自分(A)は今日の自分(A)と同じか。</p>
<p>→川や人間を万物そのものとして、万物全体として、共通するものとして、ロゴスによって捉えていく限り、存在していると考えることができる(感覚を超えたもので捉えていくことが可能)。</p>
<p>アリストテレスは「同じものが存在し、かつ存在しない」という現象を「二律背反(アンチノミー)」として否定した。Aは非Aではないという「<b>矛盾律</b>」が学問の前提だとした。ただし、「ヘラクレイトスが本気でそういったとは信じられない」ともいっている(もっと深い考えが込められているのではないか)。</p>
<blockquote>
<p>「アリストテレスは「AはBに属する」という表現法をとったが、これは「BはAである」と同一であり、ここではP(x)と表現される。P(x)と~P(x)というまったく背反しあう命題が同時に立てられる現象こそ二律背反というものだが、このアンチノミーを矛盾律は禁止する。アンチノミーや論理矛盾は論理の破壊以外の何ものでもない!Aまあ、そう興奮しないで。さっきのアリストテレスによれば、矛盾律を定式化したあとで、「同じるのがありかつあらぬ」と信ずることは現実には不可能だから、ヘラクレイトス本人すら4本気でそういったとは信じられない、と述べている。とにかく、人間は矛盾律を犯しては絶対に考えられないわけだね。実はほぼ同様のことが『形而上学』で、もう一箇所述べられているんだ。そこでアリストテレスは、もし対立するふたつの判断が同じ事物についてまったく等しく真だということがありうるかと問われれば、ヘラクレイトスすらる「否」と答えざるをえないだろう、と指摘する。」</p>
<p>嶋崎隆「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」,542P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">醒めている意識と眠っている意識とは、意味</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/d0796f0d2fe5320ec9d9069fe1a1399c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2414" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/d0796f0d2fe5320ec9d9069fe1a1399c.png" alt="" width="604" height="360" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>醒めている意識</strong></span>：</big>・魂だけになっているような感覚であり、どこかひとつの機能の集中ではなく、全機能が同時に全開の状態にあって一瞬一瞬の些細な変化・動きを一つとして見逃さない意識。「目覚めている意識」と訳されることもある。沈黙している意識、瞑想している意識などと近い。ヘラクレイトスとは醒めていない者たちのことを「眠っている者たち」と表現し、思慮を働かすこともなく、教えられても分からず、自分だけの思いにふけっていると表現した。神的叡智(真実)に触れるような感覚。プラトンは身体により感覚(五感)を通した働きだけでは、うっかり忘れてしまう、あるいは意識できないので「感覚なし」の状態であり、「魂」の働きがなければいけないと考えた。魂と身体が共同に動くとき、「想起」や「記憶」を可能にするのであり「真実(エピステーメー)」に至ると考えた。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>眠っている意識</strong></span>：</big>・思慮を働かすこともなく、教えられても分からず、自分だけの思いにふけっているようなイメージ。プラトンいわく身体により感覚(五感)を通した働きだけでは、うっかり忘れてしまう。ドクサ(臆見)のイメージ。ある人間が主観で勝手に思っているだけ。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「このような真実に触れ得る感覚は一般には理解し難い。例えば大火に巻き込まれるとか、強盗に襲われるとか、深い渓谷に転落するといった危急の場合にときに体験する。そんな場合、身体の痛み・痙攣、心の不安・恐怖、成り行きへの予測・配慮という身体的・感情的・知的諸機能が同時に働き、まるで野獣が危急の場にあって身構えている時のような、全身全霊の、或いは魂だけになっているような感覚、それは、どこか一つの機能の集中・緊張ではなく、全機能が同時に全開の状態にあって一瞬々々の些細な変化・動きを一つとして見逃さない醒めた意識がそこにある。それはほんの二三秒の出来事であるのに十分も二十分もそれ以上も経た体験が残る。それを忘れることは決してない。このような状態をへーラクレイトスは〈醒めている〉と言う。醒めている者たちには一つの共通のコスモスがあるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけのものに帰ってゆく(断片八九)そういうことには多くの人達はぶつかることはぶつかっても、それらしい思慮を働かすことなく、教えられても分からず、自分だけの想いに耽っている(断片一七)」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,28P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">「私は私自身を探究した」</span></h3>
<p>断片101の文章。万物には共通しているものがある。それゆえに、自分を探究することは万物を探究することにもつながる。これはマクロコスモス(宇宙全体)とミクロコスモス(人間)の同質性について語っていると解釈されることがある。「ノース(あるいはヌース)」を持つことをヘラクレイトスは推奨した。ノースとは「対象を厳密に考察する姿勢」のこと。醒めた意識で深く、質的に、魂を通して自己探究をするイメージ。「ロゴスをもつこと」とも説明されている。</p>
<p>例：人間には自由と不自由という対立する感情があることを発見する。自然にも冷と温といった対立があることを発見する。→人間と宇宙の同質性(対立する、変化するなど共通するもの、不変のものが存在する)。</p>
<blockquote>
<p>「断片101&#8230;&#8230;私は私自身を探求した。この断片は、現在完了形で表現されたヘラクレイトスによる自己探求の宣言文である。万人に対して知の探求という行為を試行することを促したうえで、彼自身がその途を辿ったことを明言している。学説誌家たちによれば、彼は学問上の師を持たず「すべてを自分から学んだ」と語ったと伝えられる(25)。ヘラクレイトスはロゴスという概念を媒介にして、自分の外側についての探索の結果が、すでに自分の内側に存していることについて、すなわちマクロコスモスとミクロコスモスの同質性について覚知する人間の知は深化するか59に到ったわけであり、探求対象としての広漠さはもちろん、その構造において、人間存在がコスモスと等しいことを示すのである。人間は、量的知識という点においては無限の増大可能性を持つであろう。しかしすでに述べたように、「博識」を誇示するのみでは文字通り「物知り」に留まらざるを得ない。いわば、様相を異にして現象する万物の背後を貫いて眺める洞察眼を持ちうるかどうかが、単なる「物知り」から脱して次の段階に立ちうるかどうかを決定する。それは、「魂の深み」に気付いたうえで「十分な思慮」を巡らせることであろう。」</p>
<p>後藤淳「人間の知は深化するか──クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして──」,58~59P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">永遠の今</span></h3>
<p>ヘラクレイトスはピタゴラスを「博識なだけ、嘘つきの元祖」といって批判した。</p>
<p>→ヘラクレイトスにとって知識とは「醒めた意識」の状態で得られるものであり、自分自身の「<b>永遠の今</b>(現在)」の探究によって得られるもの。</p>
<p>→過去に他者が探究したものを蓄積して博識になったとしても宇宙全体に対する理解が深まるわけではない。知識は「<b>量</b>」ではなく「<b>質</b>」という考え。深さが大事。博識は「今」の「自分自身」による知識ではなく、「過去」の「他者」による知識にすぎない。醒めているものだけが、一瞬一瞬に移ろいゆく「今」のもろもろの物や動きを体験することができる。時間を止めれば川が変化せず、固定したものを捉えられるイメージ。固定したもの、不変のものに気づくことができる。</p>
<p>→プラトンで言えば、ピタゴラスは洞窟の壁に映る「影」をみているようなもの。真実の太陽そのものは醒めた意識と自己探究によってのみ、体験できるものだと考えられている。</p>
<blockquote>
<p>「すなわち博識は、過去の、今この自分自身によるものではない、つまり真実ではない、虚偽の知識の蓄積であるから、へーラクレイトスは、博識のピュータゴラースを、その博識のゆえに「うそつきの元祖(……)だ」(断片八}、一二九)と呼んでいる。つまりへーラクレイトスは、当時の碩学の殆んどは未だ観念の中に生きていて、今ここに醒めた状態で自己自身を見つめて生きてはいないと見ていたのであろう。彼は醒めている状態を更に次のように言う。醒めているときに我々が見る限りのものは死であり、眠っているときに見る限りのものは矚りである(断片】二)と。永遠の今に醒めて〈ある〉とき、一瞬々々に移り行くもろもろの動を感覚する。今あると見るその瞬間に新たなる今に転じて、今存在したものは次の今にはもはやない。見る限りのものは死なのである。同じ川に二度入ることはできない&#8230;&#8230;分散し、また寄り集まる、寄り来たり遠去かる(断片九一)同じ川に入って行く者に別の、また別の水が流れて来る。しかし魂もまた湿ったものから蒸発しているのである(断片=ラと。川は同じでも瞬間々々に流れて来る水は入れ代わって同じではない。川が同じでないとともに、それを感じている魂(意識・感覚)も変化して同じではない。へーラクレイトスの魂は永遠の今に醒めてあって、瞬間々々に移り行く諸事象を脳裏に一つ一つしっかりと焼き着けてゆく。しかし大多数者は眠りの中に生まれ眠りの中に生ぎ眠りの中に死んで行く」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,2９P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">ノオス(ヌゥス)とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ノオス(読み)</strong></span>：</big>・ヘラクレイトスはノオスを明確に定義しているわけではない。ノースには、詳細に見る、思惟するという原義があり、対象を厳密に考察する姿勢、あるいは知見に到るまで対象を見抜くことだと解釈されている。ヌゥスとも同義らしい。</p>
</div>
<p>ポイントはピュタゴラスやクセノファネスがノオスに至っておらず、博識にとどまっているということをヘラクレイトスが批判したということ。</p>
<p>断片１１４：「ノオスの助けを受けて語らんとする者は万物に共通するものに確たる信頼を置かねばならない、ちょうど市民国家が法に対するように、いな、それよりもずっと強力に。なぜなら人間の諸法はすべて一なる神の法にょって養われているからだ。すなわち神のそれはどこまでも意のままに支配し、すべてのものを充してなお余りあるものなのだ」</p>
<p>断片４０：「博識はノオスを持つことを教えはしない。もしそうだとしたら、ヘーシオドスにもピュータゴラースにも、また更にクセノプァネースにもヘカタイオスにも教えたであろうから」</p>
<blockquote>
<p>「博識はノオスを持つこと(……)を教えはしない。もしそうだとしたら、へーシオドスにもピュータゴラースにも、また更にクセノブァネースにもへヵタイオスにも教えたであろうから(断片四〇)と。ここに挙げられたピュータゴラースをはじめとする当時の碩学たちは、博識ではあるがノオスを持つに至っていないという。ノオス(……)はヌゥス(……)と同語であり、賢者の言葉に「神はコスモスのヌゥス(宇宙世界を秩序正しくあらしめているのは神のヌゥスだ)」(タレース……)とあり、ノオスを持つは自分自身が沈黙において醒めて〈ある〉とき神的叡智に触れ真実の理解に至ることであったが、他方博識は、(いまここの自分自身ではない)他者から学び取った(いまここ現在のものでない)過去の知識の蓄積であって、永遠の今に醒めてある状態において獲られる理解の蓄積ではない。」</p>
<p>永井康視「へーラクレイトスにおける一者へ」,2９P</p>
<p>「前節に述べた「ノースを持つこと」を示唆する文章は、上に引用した二つの断片中には直接には見られない。しかし、……が動詞……の派生名詞であることに加えて、「詳細に見る」「思惟する」という原義を勘案するならば、「ノースを持つこと」が対象を厳密に考察する姿勢、あるいは知見に到るまで対象を見抜くことであると仮定することができるであろう。それは決して量的な検討を必要とするものではなく、対象との距離を狭めていくことを意図していると考えられる。スネルが指摘したような「多」を意味する接頭語を使用する概念、つまり……は、ヘラクレイトスにおける人間知のあり方を担うものではなく、彼においてはすでに、知に関する質的吟味が開始されているとみなすことができるであろう(24)」</p>
<p>後藤淳「人間の知は深化するか──クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして──」,57P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">一者とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>一つ</strong></span>：</big>・万物は一なるものであるという考え。唯一絶対のものであり、宇宙世界（コスモス）そのもの。ヘラクレイトスにとって、一つとは「神」だった。あるいは「神のような働き」。あるいは永遠の火、智、魂、ロゴス。万物が有るというより、ただ一つの火が有り、その火が様々に変化しているので多(万物)に見えるというイメージ。一者。</p>
</div>
<p>断片１０：「結び付き&#8230;&#8230;それは全体と全体でないものか行くところの同じものと違うもの、調子が合っているものと合っていないもの、万物から一つが一つから万物が生ずる」などにおける表現。</p>
<p>一つが「神」であり、神的なものであるということは以下の断片などから解釈できる。一つは宇宙世界そのものであり、対立しているようにみえる万物の全体である。</p>
<p>断片６７：「神は昼夜、冬夏、戦争平和、飽食飢餓である。その変化するさまはちょうど(火が)香をくぺられると、それぞれの香りに応じて呼び名が付けられるよう」</p>
<h2><span id="toc27">弁証法との関連</span></h2>
<h3><span id="toc28">弁証法とは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>弁証法(読み)</strong></span>：</big>・一般に、矛盾や対立のもつ意義を認め，それを取り入れて事物の運動を説明しようとする論理のこと。ドイツの哲学者であるヘーゲル(1770-1831)は「弁証法の祖国を見出す。ヘラクレイトスの命題で私の論理学の中に取り入れなかったものはない」と言っている。</p>
</div>
<h3><span id="toc29">ヘーゲルやエンゲルスの弁証法について整理</span></h3>
<p>ここでヘーゲルを扱うと頭が混乱してしまうのでざっくり扱って終わります(まだ勉強不足なので簡単に説明することが困難です)。</p>
<p>ヘーゲルの基本的な弁証法について整理します。</p>
<p>１：肯定すべき概念というものがでてくる。これをテーゼ(定立)とする。</p>
<p>例：私は子供である</p>
<p>２：その概念を否定するような概念が出てくる。これをアンチテーゼ(反定立)とする。</p>
<p>例：私はもう子供ではない</p>
<p>３：２つの概念を統合するような概念が出てくる。これをジンテーゼ(総合した同一性)とする。ジンテーゼ生み出すことをアウフヘーベン(止揚)という。</p>
<p>例：人は子供から大人へと成長する</p>
<p>このように、テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという3段階の過程を経て認識する過程を「弁証法」とヘーゲルは呼んだわけです。たとえば絶対王政という出来事が成立しても、それに反定立するようなものがでてきて、さらに新しい民主主義という形でジンテーゼに至るということもあるわけです。そしてさらに民主主義というテーゼを否定するような概念が出てきて・・・というように歴史は弁証法そのものだとヘーゲルは考えていきます。弁証法が繰り返されていくことで、認識が深まっていくというわけです。ヘーゲルは弁証法によって普遍的で絶対的な真理、つまり「絶対知」に達することが可能であると主張しました。</p>
<p>→ヘーゲルに学んだカール・マルクスは「労働者と資本家の対立」によって資本主義社会から社会主義社会、さらに共産主義社会へ移行(発展)していくと考えた。</p>
<p>フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)というドイツの哲学者がいました。カール・マルクス(1818-1883)と共に史的唯物論を創始したことで知られています。</p>
<p>そしてエンゲルスやマルクスはヘーゲルを学んでいたことがポイントです。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「量から質への転化の法則」</li>
<li class="sample">「対立物の相互浸透の法則」</li>
<li class="sample">「否定の否定の法則」</li>
</ol>
<p>ヘーゲルは自然弁証法というものを主張し、3つの原則として『自然弁証法』という論文で整理したそうです。どうやらエンゲルスの解釈ではヘーゲルはこうした考え方をしているようだ、と整理しているイメージです。</p>
<p>今回は2番めの「対立物の相互浸透の法則」について扱います。この法則はヘーゲルの『論理学』でいうところの「反射規定」に相当するそうです。</p>
<blockquote>
<p>「自然と社会から抽出された弁証法は，「量から質への転化の法則」・「対立物の相互浸透の法則」・「否定の否定の法則」の三つに帰着すると，『自然弁証法』のなかで，エンゲルスは，明言している。&#8230;&#8230;これにたいして，まんなかの「対立物の相互浸透の法則」は，「彼の『論理学』のうちでももっとも重要な第二部，本質論の全体をしめ」（同ページ）るとあることから，いわゆる反射規定の別名である。ヘーゲルの反射規定は，明示的には第I巻第１章第３節「価値形態または交換価値」で，等価物が相対的価値形態にたつ商品の価値表現に規定された契機にすぎない事柄の説明に使用されている。」</p>
<p>頭川博「ヘーゲルの反射規定と『資本論』」,39-40P</p>
<p>「それでは，ヘーゲル弁証法の三本柱のひとつ，いわゆる反射規定の独創的な洞察とはいかなるものであろうか。さしづめ，反射規定そのもののもっともシンプルな説明を引用すれば，つぎのとおりである。「上とは下でないところのものである。上は下ではないと規定されているにすぎないが，しかも下があるかぎりにおいてのみあるのである。そしてまたその逆でもある。即ち，一方の規定の中には，その反対が含まれている。父は子の他者であり，子は父の他者であって，各々はこのように他者の他者としてのみある。しかも同時に，一方の規定は他方の規定との関係の中にのみある。両規定の有は，ただ一つの存立である。父は子に対する関係を離れても独立的な或るものである。しかしその場合には父は父ではなくて，男一般である。同様に上と下，右と左もまた自己に反省した〔自立的な〕もの，関係を離れた或るものである。けれども，その場合には，単に場所一般であるにすぎない。」（ヘー43ヘーゲルの反射規定と『資本論』ゲル『大論理学』［中巻］岩波書店，武市健人訳，80ページ，ヘーゲル，原著1812年刊）ここで，反射規定は，二つの契機のもつ内的な依存性という一面とおのおのの契機のもつ自立性というもう一つの別の面の二つの構成要素からとかれている。」</p>
<p>頭川博「ヘーゲルの反射規定と『資本論』」,42-43P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">ヘラクレイトスにおける弁証法の要素の例</span></h3>
<p>「<b>対立物の相互転化</b>」(反射規定)の要素：「冷たいものが熱くなり、熱いものが冷たくなる。湿ったものが乾き、乾いたものが湿る」(断片１２６)などに見られる。</p>
<p>→上があるから下がある。下がなければ上はない。<b>一方の規定の中にはその反対が含まれている</b>という考え。冷たいものがあるからこそ、熱いものがある。湿ったものがなければ、乾いたものという概念が生まれない。それぞれの要素がひとつひとつ独立してあるというより、二つで一つ。ヘラクレイトス的に言えば万物は一つであるが、関係や法則を捉えられないと、万物は多にみえる。</p>
<p>→あるものは反対のものとの関係の中のみ存在する。→万物は対立によって生じる(「戦いは万物の父」断片５３)。→「対立物の闘争」の弁証法。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/39dc74b6abd7f9e510b2591cd6f3d729.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2412" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/39dc74b6abd7f9e510b2591cd6f3d729.png" alt="" width="421" height="371" /></a></p>
<p>「<b>対立物の合致</b>」：「円周の場合、初めと終わりは共通である(断片103)」などにみられる。</p>
<p>「<b>対立物の相関関係</b>」：「病気は健康を、飢餓は飽食を、疲労は休息を快適にし善いものにする(断片１１１)」などにみられる。病気になってはじめて健康のありがたさがわかる。一方が変化すればもう一方も変化するというもの(相関関係)。不自由があるから自由を感じる。不自由なくして自由なし(ゲオルク・ジンメル)。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e0c51d7f6298546abbdf7d91963696d7.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2413" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/07/e0c51d7f6298546abbdf7d91963696d7.png" alt="" width="575" height="375" /></a></p>
<p>「<b>対立物の調和</b>」：「どうして行き違っているものが自己の内に一致和合しているかを彼らは理解しない。逆向きに働き合う結び付き(調和)というものがある、ちょうど弓や竪琴の例に見るように」(断片５１)から解釈できる。</p>
<h2><span id="toc31">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc32">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：小坂国継「初期ギリシア哲学者の実在感」(<a href="https://www.eco.nihon-u.ac.jp/about/magazine/kiyo/pdf/76/76-25-46.pdf">URL</a>)</p>
<p>２：後藤淳「人間の知は深化するか──クセノファネスとヘラクレイトスの断片を手掛かりにして──」(<a href="http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/ea/41/files/137796">URL</a>)</p>
<p>３：石塚正英「感性文化と美の文化―バウムガルテン・ヘーゲル・フレイザー―」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/6/16/6_1/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>４：澁谷壽郎「文章論－思考と意識の証明－」(<a href="https://cur-ren.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&amp;active_action=repository_action_common_download&amp;item_id=1081&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1&amp;page_id=13&amp;block_id=21">URL</a>)</p>
<p>５：嶋崎隆「ヘラクレイトスの《リヴァー・パラドクス》」(<a href="http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/11179/ronso0990400820.pdf">URL</a>)</p>
<p>６：竹村喜一郎「ヘーゲル度量論の構成と科学理論的意義」(<a href="https://tiu-tijc.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=305&amp;item_no=1&amp;attribute_id=21&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>７：頭川博「ヘーゲルの反射規定と『資本論』」(<a href="https://core.ac.uk/download/pdf/70356051.pdf">URL</a>)</p>
<p>８：山川偉也「古代ギリシアのコスモロジー : 西洋思想史講義ノートより」(<a href="https://stars.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=7561&amp;item_no=1&amp;attribute_id=21&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>９：永井康視「へーラクレイトスにおける一者」(<a href="http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/695/1/0030_058_004.pdf">URL</a>)</p>
<h3><span id="toc33">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc34">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3z31wJN">「哲学 雑学3分間ビジュアル図解シリーズ」</a></p>
<h4><span id="toc35">「哲学用語図鑑」</span></h4>
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<h4><span id="toc36">「本当にわかる哲学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3x0h93y">「本当にわかる哲学」</a></p>
<h4><span id="toc37">「史上最強の哲学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3wZBHrq">「史上最強の哲学入門」</a></p>
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