<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>真木悠介 | 創造法編集社</title>
	<atom:link href="https://souzouhou.com/category/sociology/maki/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://souzouhou.com</link>
	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
	<lastBuildDate>Thu, 09 Jan 2025 03:04:26 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.9.4</generator>

<image>
	<url>https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/icon_115940_25611-60x60.png</url>
	<title>真木悠介 | 創造法編集社</title>
	<link>https://souzouhou.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>
<atom:link rel="self" href="https://souzouhou.com/category/sociology/maki/feed/"/>
	<item>
		<title>「自我の起原」要約</title>
		<link>https://souzouhou.com/2017/11/23/%e3%80%8c%e8%87%aa%e6%88%91%e3%81%ae%e8%b5%b7%e5%8e%9f%e3%80%8d%e8%a6%81%e7%b4%84/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2017/11/23/%e3%80%8c%e8%87%aa%e6%88%91%e3%81%ae%e8%b5%b7%e5%8e%9f%e3%80%8d%e8%a6%81%e7%b4%84/#comments</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 23 Nov 2017 06:22:45 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[真木悠介]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://souzouhou.com/?p=1169</guid>

					<description><![CDATA[目次 「自我の起原」要約（１）利己/利他（２）生成子（３）個体（４）テレオノミー的な主体性（５）自我（６）延長された表現型（７）テレオノミーの開放系（８）宮沢賢治 「自我の起原」要約 「自我の起原」という本の概要を書いて [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">「自我の起原」要約</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">（１）利己/利他</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">（２）生成子</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">（３）個体</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">（４）テレオノミー的な主体性</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">（５）自我</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">（６）延長された表現型</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">（７）テレオノミーの開放系</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">（８）宮沢賢治</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">「自我の起原」要約</span></h2>
<p>「自我の起原」という本の概要を書いていきたいと思います。</p>
<p>まず本書の目的は6Pの以下の文章にあります。</p>
<p>　「『利己/利他』という古来からの問題設定の地平自体を解体し,われわれの＜自己＞感覚の準拠をなしている『個体』という現象の起源と存立の機制とを明るみに出してしまうということである(6P)」</p>
<p>これだけ見ても何を言っているかさっぱり分かりません。</p>
<p>タイトルは「自我の起原」です。ここでいう「自我」とは「自己感覚」と言い換えられます。そして自我は「個体」という現象から成り立つものであり、その個体の起源を知ることは自我の起原を知ることにつながるというわけです。</p>
<p>さて「自己感覚」とはなにか、「個体」とはなにかという理解が必要となります。また「利己/利他」という問題設定がいかにして解体されたかという理解も重要です。</p>
<h3><span id="toc2">（１）利己/利他</span></h3>
<p>まずは「利己/利他」という問題設定について整理したいと思います。「利己」とは一般に「自分の利益だけを考えること」で、「利他」とは「自分の利益より他人の利益を優先すること」です。動物学における「利他性」とは「行為者のコストによって他個体に利益を授ける行動(Trivers,1985)」であり、その「コストは繁殖成功の減少として測定される(ibid)」そうです。</p>
<p>自分の利益より他人の利益を優先させるような行為は子孫を残しにくくなるということです。そしてそのような利他行動を発現させる遺伝子は再生産される確率が低いです。それに対して利己行動を発現させる遺伝子は子孫を残しやすいので再生産される確率が高いです。</p>
<p>利他行動を発現させる遺伝子は次第に滅びてしまうはずでした。しかし利他的な行動をする動物は多く見られます。滅びてしまうはずの利他性がなぜ滅びないのかというものがいわゆるアポリア（解き難い難問）であり、古来からの問題設定だったのです。</p>
<p>このアポリアを解決したのは遺伝子という観点です。自分の遺伝子をより多く再生産,複製するように個体は行動します。つまり遺伝子を再生産させるような行動を利益とし、優先させているのです。</p>
<p>たとえばアリやミツバチは自分の子供よりも姉妹に献身すると言われています。これは一般に「利他性」と思われてきました。自然選択的には利己的な行動、つまりは自分の子供に献身したほうが自分の子孫を残せるじゃないか、そのほうが繁殖に有利じゃないかということになります。そして利他的な遺伝子は淘汰されるはずなのに淘汰されていないことが謎のままでした。</p>
<p>アリやミツバチは同じ膜翅目（まくしもく）であり単・二倍数性という特異な遺伝性質を持っていて、自分の子供より姉妹のほうが”血縁度が高い”です。数値で言うと自分の子供は1/2,姉妹は3/4です。つまり遺伝子の自己複製という水準からみるとアリやミツバチの献身は「利己性」とも捉えられます。自分の姉妹の世話をしたほうが自分の遺伝子を再生産できるからです。</p>
<p>「個体」からすればアリの姉妹に対する献身は「利他」ですが、「遺伝子」からすれば「利己」なのです。遺伝子の水準からすれば利己的であれば個体の水準からして利他的な行動をすることは論理的に納得がいきます。そして動物は一般的に利己的な動物だという言説は、動物は利己的であり利他的でもあるという「利己/利他」という区別を解体した言説へ変わっていきます。こうして古来からの問題設定は解体されました。</p>
<h3><span id="toc3">（２）生成子</span></h3>
<p>　生成子とはいわゆる「遺伝子」のことです。geneの翻訳ですが、その翻訳は「個体中心主義」的な考え方から訳されたそうです。つまりgeneは個体の何かの形質を次世代の個体に伝えるためのメディアだという考え方です。</p>
<p>われわれの体を構成する遺伝子の90%は無意味、あるいは無益な遺伝子です。つまり遺伝子の10%ほどしか個体の形態や行動性向を繰り返し再生産させる機能がないということです。こうしたことから個体のために遺伝子があるのではなく、”遺伝子のために個体がある”ということがわかります。乗客は遺伝子であり、多細胞個体は”乗り物”に過ぎないのです。</p>
<p>こうした背景から考えると、個体の性質の再生産という意味が強い「遺伝子」という言葉よりも、”個体に先立つ自立性”というgeneの原意を直訳して生成するものという意味の「生成子」のほうがgeneの訳に望ましいのではないかということです。</p>
<h3><span id="toc4">（３）個体</span></h3>
<p>個体とは一般に「独立した一個の生物体」を意味します。</p>
<p>約34億年前に微生物が生まれ、約10億年前に「原核細胞」から「真核細胞」が生まれ、約7億5千万年前に「多細胞個体システム」が誕生したと言われています。　　　　　　マーグリスの理論によれば今日動物や植物を構成している真核細胞は幾種かの原核細胞の「共生体」であったという。酸素の割合が多く有害であった環境において酸素をエネルギーとして二酸化炭素を生み出す「呼吸生物」であるミトコンドリアや運動性の役割をもつスペロヘータなど「全く異質の生命たちの共生のシステム」として真核細胞は誕生したのです。異種共生体としての真核細胞は多くの遺伝子を組み込み、やがてより複雑な多細胞生物「個体」を形成することになります。</p>
<p>多細胞個体の特徴として「ボトルネック化」というものがあります。ペットボトルを逆さにした場合、上のほうが広く、キャップ付近はとても狭いです。このような小さく狭い部分,隘路(あいろ)をボトルネックといいます。多細胞個体におけるボトルネック化とは、多細胞個体は必ず「単細胞の生殖子という細い糸」を通して次世代へとつながっていくということです。</p>
<p>アメーバのような単細胞生物はわざわざ小さな生殖子（卵子と精子、配偶子）を通して次世代へとつながっていく必要がなく、分裂する不死身の存在です。多細胞個体は必ず「死」があり、また「性」があります。性とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」を意味します。性のあるものはアメーバのようにクローン（同じ遺伝子型の個体）を残せず、子供を残せるだけです。生成子は性を通して転生、再身体化(reincarnation)し、永遠の旅を続けます。死は性的な個であること、多細胞個体であることの宿命であり、生物の宿命ではないのです。</p>
<h3><span id="toc5">（４）テレオノミー的な主体性</span></h3>
<p>　テレオノミー(teleonomy)とは「何のために」という問いに対する答えです。淘汰（選択）の目的因は遺伝子(生成子)にあるとドーキンスは考えました。つまりドーキンスは個体というものが遺伝子の生存機械、つまりエージェントにすぎないと考えたのです。テレオノミー的な主体性と区別される用語にエージェント的な主体性という言葉があります。エージェントとは一般に「人から委任あるいは授権された代理権限の範囲内で、本人に代わって取引、契約など法律行為をなす者(wiki)」を意味します。つまり限られた範囲でのみ主体的に行動できるという意味で、テレオノミー的な主体性より弱いといえます。</p>
<p>たとえば誰かを訴えるために弁護士を雇ったとします。弁護士はある人物を訴えるという目的のために様々な手段を主体的に選択することができます。つまりエージェント的な主体性を弁護士は持っているといえます。しかし弁護士が訴えるという目的自体を批判したりすることは通常できません。この目的自体を批判するような主体性をテレオノミー的な主体性というのです。</p>
<p>生成子にあてはめると、子孫を残すという目的の中では様々な選択をすることができるということ（エージェント的な主体性）と、子孫を残すという生成子の目的自体に批判したりするということ（テレオノミー的な主体性）は区別されるということです。</p>
<p>テレオノミー的な主体性を持つのは哺乳類である人類特有であるといえます。テレオノミー的な主体化の条件として第一に哺乳、第二に保育期間の延長、第三に群居と社会性があげられています。</p>
<p>脳神経系などが高度化し、個体が”生殖以外の”生の歓びを強度に感じ、それらを”自己目的化”する能力を獲得することによってテレオノミー的な主体性が得られるのです。また主体はテレオノミーを”自ら選択することができる”のです。個体は生成子を目的とするのではなく、自己を目的とすることもでき、また自己以外のもをも目的とすることもできるのです。自己の場合を「自己目的化」、自己以外の場合を「脱自己目的化」といいます。</p>
<p>冒頭で自我は「自己感覚」であるといいましたが、個体がテレオノミー的な主体性を獲得し、自己を目的化できるようになって「自己感覚」が発達し、自我が生まれたといえます。そしてこうした自我は「脱自己目的化」、すなわち「脱自我」と対応しています。「＜自己＞感覚の準拠をなしている『個体』という現象」という意味が理解できます。</p>
<h3><span id="toc6">（５）自我</span></h3>
<p>自我とは一般に他者から区別して意識される自分、あるいは自己ともいいます。本書では「自己感覚」、「自己意識」、「かけがえのない個」などと言いかえられています。</p>
<p>自我の起原は脳生理学的に言えば「大脳の所産」としか言えないとカール・ポパーは言う。そしてそれを言っただけでは「ほどんど何も言われていないのと同じ」だとポパー自身が言っています。これに対してジョン・エクルスは自我の起源には超自然的な、つまり神の創造であると反論しています。あるいはラムズデン/ウィルソンらによる「遺伝子＝文化共進化理論*」が自我の起原として科学的に探求されています。</p>
<p>自我（自己意識）が他者関係から反照的に構成されるという自我の起原の説明としてはクーリーの＜鏡に映った自己＞やG.H.IミードのI/me理論、サルトルやボーヴォワールの対他存在論、レインや木村敏の対他関係論、エリクソンのアイデンティティ論、フーコーの「主体」形成論等たくさんあります。</p>
<p>ローレンツによれば「かけがえのない個」という感覚の起源は「攻撃性の抑制的選択」にあるといいます。オオカミのような攻撃性の高い動物が子供を育てるために他の個体と”協力”する必要性が生じ、協力し合う他の個体を他の個体と識別する能力の発達が促されたという説です。あるいは高等猿類の複雑な社会性のもとで、個体たちが他個体を評価する基準が多元化するので個体の個体性やユニークさの感覚が生み出されたという説もあります。</p>
<p>重要なのは自我（自己自身のアイデンティの固有性という感覚＝かけがえのない自己）という感覚の前提は「個体の固有性への相互関心と識別能力」であるということです。つまり”個体識別的”な”社会”においてこそ自我が形成されるといえます。</p>
<p>*遺伝子＝文化共進化理論：文化が集団の中のある型の形質をもたらす遺伝子の生存率/繁殖率の低さや高さを規定し、その結果集団内の遺伝子頻度が変化し、幾く世代か後には人間集団の遺伝的な特質を変化させるという理論。大きな脳や社会組織、手の自由化、直立二足歩行等の条件を満たす個体が遺伝子＝文化共進化のループを通して自我(精神)を獲得したというもの。</p>
<h3><span id="toc7">（６）延長された表現型</span></h3>
<p>「延長された表現型」とは生成子（遺伝子）は個体それ自体を超えて、他の物体や個体へと延長されて表現されるということです。たとえばビーバーの巣もビーバーの遺伝子の表現型といえます。あるいはハリガネムシに寄生され、水の中へダイビングするミツバチもハリガネムシの遺伝子の表現型といえます。</p>
<p>延長された表現型の中心的な定理は「ある動物の行動は、それらの遺伝子がその行動を演じている当の動物の体の中にたまたまあってもなくても、その行動の『ための』遺伝子の生存を最大化する傾向をもつ」というものです。</p>
<p>延長された表現型という発想の理論的な核心は「生成子が自分のサライである個体だけではなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている、という認識」にあるといいます。サライとはキャラバンの一期の宿を意味します。個体は遺伝子の一時的な乗り物です。そして生成子は自分のサライだけではなく他のサライへ働きかけあっているといいます。</p>
<p>たとえば昆虫と植物の「共進化」というものが例として挙げられます。クローバーは蜜をもっています。そして蜂はクローバーの香りに誘われて、蜜をとりにきます。そしてとりにきた蜂の足などにはクローバーの花粉がつき、他のクローバーのところへと運ばれていきます。つまり蜂の行動はクローバーの遺伝子の表現型であるといえます。クローバーの生成子は蜂へ働きかけているのです。</p>
<p>「延長された表現型」というコンセプトの帰結はわたしたちの身体が他者のためにもまたつくられている、デザインされているということです。そして生成子の他個体への作用は他者自身が”歓び”をもって、あるいは生存と繁殖の機会を増大させるような仕方であることが優れた戦略であるといえます。つまり愛される個体を作り上げる生成子が勝ち残るのです。</p>
<p>「理論上は、遺伝的遠隔作用は同種及び多種の個体間のあらゆる相互作用を含むことができるはずである。生きている世界というのは、自己複製しパワーが相互に結びついている多くの場の１つのネットワークとして理解されうる(ドーキンス)。」</p>
<p>「数学理論が進歩して、対立する淘汰間の量的な相互作用を扱えるようになれば、たぶん、われわれの眺めている行動は、少なくとも部分的には、何か他の動物あるいは植物の遺伝子を保存するための適応であるというのが、そのもっとも単純な定性的結論になるだろう(ドーキンス)。」</p>
<p>「ドーキンスはこの結論に、どのような『甘い』調和の哲学やア・プリオリな相互共同の仮説も設定することなしに、むしろその明確に対極のもの、自己増殖する方法の優劣によって仮借なく淘汰されてゆく『自己複製子』（生成子）たちの競合という、乾いた前提のみの帰結として到達しているということである(136P)。」</p>
<h3><span id="toc8">（７）テレオノミーの開放系</span></h3>
<p>個体はテレオノミー的な主体性、自立性、自律性を獲得してきましたが、それでもなお外部の生成へと開かれた構造を持っているということです。テレオノミー的な自立化とは、何のために生きるのかといった問いを自分自身で選択、思考するようになっている状態とも言えます。</p>
<p>自分のためだけに生きるということを「個体の自己中心化」だとすれば、他人のために生きるというテレオノミーの選択は「脱自己中心化」だといえます。遺伝子は利己的、つまり遺伝子の再生産のための行動をするようにプログラムされていて、個体は遺伝子の再生産のために生きるものだと思われてきました。しかし人間は遺伝子の再生産というテレオノミー（目的）以外を主体的に選択できるようになったのです。これは人間特有のものだといえます。</p>
<p>そうして人間はテレオノミー的な主体性を持ちましたが、それでもなおテレオノミー的に開かれているのです。たとえば子供を産まずに芸術のために生きるというテレオノミーをある人間が選択するとします。そうしたテレオノミーを「内部のテレオノミー」とします。そしてあらゆる他者や動物たちは植物がわれわれの身体に遺伝子の表現型,フェロモン等で作用を及ぼし、身体がそれらとともにあることに、あるいはそれらのために行動することにさえ歓びを感ずるように構成されています。こうしたテレオノミーを「外部のテレオノミー」とします。</p>
<p>個体は個体自身ではない何かのためにも作られているのです。つまり外部のテレオノミーのために作られているといえます。人間はたしかにテレオノミー的な主体性を持ち、自分のためだけに生きるというエゴイズム的なテレオノミーを選択することもできますが、自分以外のために生きるという外部のテレオノミーを選択することもできます。</p>
<p>そして人間がエゴイズム的なテレオノミーだけに固執しないのは、そもそも「個体は個体自身ではない何かのために作られている」からです。また人間は「性」的な存在です。性とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」を意味します。人間は性を持つゆえに、自分だけのために生きるという自我を裂開させる構造を持ちます。たとえば自分だけのために生きるということを選択できるが、人間は性をもつ故に、愛する異性に誘惑され、愛する異性のために生きることがあるのです。つまり自己中心的なエゴイズムは性を持つゆえにもともと外部へ開かれているのです。</p>
<p>生成子の目的が生成子の再生産であり、個体の目的が「歓喜を経験すること」にあったとするならば、人間は生成子の再生産のために生きずに個体として歓喜を経験するために生きることをテレオノミー的な主体性をもって選択することができます。そしてその歓喜の経験方法として、自己中心的な方法も、脱中心的な方法もとることができます。しかし生物はそもそも個体は個体自身ではない何かのために作られているので、個体のために生きるような行動を歓喜と感じやすいということです。</p>
<p>「個体という主体であることじたいが、すでに（さまよい出た）存在である。ecstasyの状態である。つまり自分が本来あるはずのところの外部に解き放たれてある仕方である。一度さまよい出た者はどこへでもさまよい出ることができる。創造主に反逆したものはどんな目的ももつことができる。またどんな目的ももたないことができる(154P)。」</p>
<h3><span id="toc9">（８）宮沢賢治</span></h3>
<p>宮沢賢治は自我を解放したいと願う人物でした。キーワードは「性」と「宗教」です。自分だけのために生きるという態度を「エゴイズム」とします。そして人間は性的な生物なので、誰かを愛する存在でもあります。つまり愛する他者のために生きる存在でもあります。自分だけのためではなく、愛する他者のために生きるという態度も「拡大されたエゴイズム」ととることができます。なぜなら愛する他者以外に対する敵視や無関心、嫉妬等が発生してしまうからです。</p>
<p>「宗教」はこうした「性のエゴイズム」を克服する試みであるといえます。しかし宗教もまた自分とは異なる宗教に属する人たちに対する無関心や敵視を発生させてしまうことになります。宗教もまた「拡大されたエゴイズム」といえるのです</p>
<p>宮沢賢治は特定の人を愛することを避け、また宗教を避け、ひたすら自我を開放しようとした人物だといえます。そしてこうした傾向は宮沢賢治特有のものではなく、「テレオノミーの開放系」で見てきたように、自我を開放するようなシステムは人間にもともと備わっているものだったのです。</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2017/11/23/%e3%80%8c%e8%87%aa%e6%88%91%e3%81%ae%e8%b5%b7%e5%8e%9f%e3%80%8d%e8%a6%81%e7%b4%84/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>2</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>カール・マルクスの「物象化」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2016/04/05/%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%89%a9%e8%b1%a1%e5%8c%96%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%81%8b/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2016/04/05/%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%89%a9%e8%b1%a1%e5%8c%96%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%81%8b/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 05 Apr 2016 13:24:32 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[イマヌエル・カント]]></category>
		<category><![CDATA[カール・マルクス]]></category>
		<category><![CDATA[真木悠介]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://souzouhou.com/?p=1094</guid>

					<description><![CDATA[目次 前置きカール・マルクスとはプロフィール物象化とは物象化の定義物象化の解釈物象化の説明：盛山和夫『叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究』（論文）貨幣の持つ物神崇拝（フェティシズム）物神崇拝の定義、及び [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">前置き</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">カール・マルクスとは</a><ol><li><a href="#toc3" tabindex="0">プロフィール</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">物象化とは</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">物象化の定義</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">物象化の解釈</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">物象化の説明：盛山和夫『叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究』（論文）</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">貨幣の持つ物神崇拝（フェティシズム）</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">物神崇拝の定義、及び解釈</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">物件化とは</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">物象化か物化か物件化か（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文））</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">カントによるpersönlichとsachlichの区別（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文）41頁~）</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">カントを批判的に継承したマルクス（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文）41頁~）</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">その他</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">抽象的に無限化する貨幣について（真木悠介の『時間の比較社会学』より抜粋）</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">１：貨幣以前のプリミティブな商品交換（WーW&#8217;）</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">２：貨幣が単なる「交換手段」として機能している場合（WーGーW&#8217;）</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">３：貨幣がそれ自体として追求され、商品の購入ー販売が逆にそのための手段となる場合（GーWーG&#8217;)</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">参考・引用文献</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2 class="sample2"><span id="toc1">前置き</span></h2>
<p>　アンソニー・ギデンズについて調べているときに、「物象化」という概念がわからないと前へ進むことができませんでした。前に学習したはずなのに忘れてしまっていたので、再度復習することにします。</p>
<p>目標：物象化を理解すること、難しい言葉を簡単な言葉に置き換えること、抽象的な概念を具体的に考えること。</p>
<h2 class="sample2"><span id="toc2">カール・マルクスとは</span></h2>
<h3 class="heading1"><span id="toc3">プロフィール</span></h2>
<p><a rel="attachment wp-att-1096" href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0.jpg"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone size-medium wp-image-1096" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0-300x300.jpg" alt="カール・マルクス" width="300" height="300" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0-300x300.jpg 300w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0-150x150.jpg 150w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0-60x60.jpg 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/ab199c0d54d66ddba76da2d1fffa3ac0.jpg 400w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<blockquote><p>カール・ハインリヒ・マルクス（ドイツ語: Karl Heinrich Marx、1818年5月5日 &#8211; 1883年3月14日）は、プロイセン王国（現ドイツ）出身のイギリスを中心に活動した哲学者、思想家、経済学者、革命家。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。彼の思想はマルクス主義（科学的社会主義）と呼ばれ、20世紀以降の国際政治や思想に多大な影響を与えた</p></blockquote>
<h2 class="sample2"><span id="toc4">物象化とは</span></h2>
<h3 class="heading1"><span id="toc5">物象化の定義</span></h2>
<table>
<tbody>
<tr>
<td>
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">物象化（ぶっしょうか）</span></strong>(Versachlichung)</p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt; color: #003300;">本質的な関係（人と人との関係）が市場の合理性（資本主義）に支配され、物と物との関係のように疎遠な対抗的な威力（疎外）として現象すること</span></strong></p>
<p><span style="font-size: 10pt;"><strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif;">・実際は<span style="font-size: 12pt;">社会関係</span>でありながら、<span style="font-size: 12pt;">物的な関係</span>のようにみえてしまうこと*1</span></strong></span></p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt;">人間の関係</span></strong>という見えないものが、物の関係になってこの世に現れてくる、ということ*2</p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt;">人間的な諸現象</span></strong>をあたかもモノででもあるかのように 理解すること，つまり<strong><span style="font-size: 12pt;">非人間的</span></strong>な，あるいはおそらくは<strong><span style="font-size: 12pt;">超人間的</span></strong>なものとして，理解することである。いいかえれば，物象化とは人間の活動の産物をあたかも人間の産物以外の何物かであるように理解すること―たとえば<strong><span style="font-size: 12pt;">自然的事実，宇宙の法則の結果，あるいは神慮の顕現</span></strong>等々として理解すること（バーガー＆ルックマンの定義*3)</p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt;">社会的現実</span></strong>は客観的なものとして人びとを拘束するが，その<strong><span style="font-size: 12pt;">起源が人びと自身にあることが忘れられる</span></strong>ことがあり，それを「物象化」と呼んでいる。そして，「物象化」も社会的世界のひとつのプロセスであり，この世界を特徴づけている*3</p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt;">Person（人格）がSache（物）に転化してしまう事態</span></strong>*4</p>
<p>・<strong><span style="font-size: 12pt;">Person（人格）がSache（<span style="color: #ff0000;">物件</span>）のようになってしまうこと</span></strong>（田中孝一氏は物象化は誤訳で、物件化が正しいと主張している。）</p>
<p>（物件の説明：人格は手段として売り買いされてはいけないが，Sache は手段として売り買いできる。そのような事物は通常「物件」と呼ばれる。物件の一般的な意味は「物」。)</p>
<p>，<strong><span style="font-size: 12pt;">物件化とは労働の<span style="color: #ff0000;">疎外</span>過程</span></strong>である。疎外とはよそよそしくなることであり，労働の疎外とは労働者が労働過程そのものから疎遠になることである(*4、44頁）</p>
<p>&nbsp;</p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<h3 class="heading1"><span id="toc6">物象化の解釈</span></h2>
<p>「社会関係」の具体例：貨幣を使って商品と商品を交換するとします。この「交換関係」は「社会関係」です。なぜなら、人間と人間との関係だからです。社会関係の定義を調べると、「社会において社会集団を形成している諸個人が、相互作用に基づいて持続的にかつ安定的に営むことから一定の行動様式を築いて行い合っている関係(wiki)」と出てきます。要は、諸個人（＝人間）の行為によって形成されている関係なのです。</p>
<p>　ところが社会関係であるはずの「交換関係」が、「物と物との交換」のように見えてしまうことがあります。これを「物象化」といいます。あたかも「貨幣にものを購買する能力が具わっているように錯覚し、貨幣を崇拝」してしまう場合があり、マルクスはこれを「貨幣の持つ物神性」として指摘しました。</p>
<p>もっとわかりやすい例：「お歳暮やプレゼントを「お気持ち」として交換するのも、人間関係という目に見えない物が、物の交換関係になって現れている（小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書、359頁）」</p>
<p>　これはわかりやすい例ですね。お歳暮を贈るというのは、「お世話になっています」という気持ちの現われであり、「気持ちそれ自体」は目に見えません。贈られた物を、贈られた人が「これからもよろしくお願いします」という気持ちを物から読み取るものだと思います。気持ちが物として現れている、つまりこれは物象化だといえます。人間関係は目に見えませんが、それが物と物との関係になると、目に見えるのです。</p>
<p>　素朴な疑問ですが、気持ちをプレゼントやお歳暮で表現するということが物象化であるとすれば、問題ないのではないかと思ってしまいます。おそらく物象化の中でも、悪い物象化があるようですね。それが「<strong><span style="font-size: 12pt;">物神崇拝</span></strong>（フェティシズム）」だと思います（次の項で扱います）。マルクスの文脈でいうところの、<strong><span style="font-size: 12pt;">貨幣の物神性</span></strong>ですね。<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif;">奴隷制度は、人間が人間に命令し、労働させるものです。いわば、人間の主体性を否定するものであり、人間を物として扱う制度</span></strong>です。本来、人間と人間はお互いに主体性をもって行動するはずでしたが、人間が人間を物として扱うようになっているのです。これは「物象化」であるといえます。近代化したあとの世界では、奴隷制度がなくなっていきました。しかし、資本主義が発展していきました。<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 10pt;">資本主義の本質は、資本家に対して人間が自分の労働力を売り渡すというもの</span></strong>です。つまり、人間を「<strong>手段としての物</strong>」として扱うのであり、「物象化」が起こっているといえます。</p>
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">生産関係は、人間関係</span></strong>：たとえばトマトを生産するとします。種を植えて、水を上げて、トマトを作るとします。農家はそのトマトを消費者に売ります。トマトを作るという労働は、お金という貨幣に変わります。人間関係は目にみえないものでした。したがって、人間関係である生産関係も目に見えないことになります。生産関係は目に見えませんが、トマトと貨幣という物と物の関係は目に見えます。あるいは、人間関係としての労働の関係が物と物の関係になったということもできます。</p>
<p>　資本(事業をするのに必要な基金)も同じように、労働という関係の蓄積が、資本という目に見える形でこの世に現れていると理解できます。マルクスは過去の労働の蓄積を、「<strong><span style="font-size: 12pt;">死せる労働のかたまり</span></strong>」と呼んでいます。近代においては生産者と消費者というよりも、資本家と労働者という生産関係の方が多いです。</p>
<h3 class="heading1"><span id="toc7">物象化の説明：盛山和夫『叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究』（論文）</span></h2>
<blockquote>
<p>「社会的世界の客観性は，それが人間に対して彼の外部に存在する何物かとしてあらわれる，ということを意味している」（バーガー＆ルックマン1966＝1977：152）の引用から始まる部分は，「物象化」を説明するところの一部である。「物象化」について，バーガー・ルックマンは「物象化とは人間的な諸現象をあたかもモノででもあるかのように理解すること，つまり非人間的な，あるいはおそらくは超人間的なものとして，理解することである」（同：151）と述べている。この部分だけからは，「社会的事実をモノのように分析する」デュルケームが想像されるのだが，かれらの意図はそこにはない。それは， 続けて「いいかえれば，物象化とは人間の活動の産物をあたかも人間の産物以外の何物 かであるように理解すること―たとえば自然的事実，宇宙の法則の結果，あるいは神慮 の顕現等々として理解すること―である」（同：151）とあることからわかる。かれらの 主張は，“社会的現実がモノのように人びとを拘束するのではない”というところにはな い。社会的現実は客観的なものとして人びとを拘束するが，その起源が人びと自身にあ ることが忘れられることがあり，それを「物象化」と呼んでいる。そして，「物象化」も 社会的世界のひとつのプロセスであり，この世界を特徴づけていると主張しているので ある。 </p>
</blockquote>
<h2 class="sample2"><span id="toc8">貨幣の持つ物神崇拝（フェティシズム）</span></h2>
<h3 class="heading1"><span id="toc9">物神崇拝の定義、及び解釈</span></h2>
<table>
<tbody>
<tr>
<td>
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">物神崇拝</span></strong>（ぶっしんすうはい）</p>
<p>・「貨幣や資本をあがめているのは、この世に現れている「ものの姿」、物象化した現象にとらわれていて、本質が見えていないことになります。これをマルクスは、物神崇拝（フェティシズム）とよび、それまでの経済学を、『神学』と形容しました。資本主義社会は、人間が作ったはずの貨幣や資本が神になって、人間を支配している世界だというのです（*2、361頁）。</p>
<p>・「資本は労働者が生産諸手段を使うのではなく，生産諸手段が労働者を使うことによって生み出される。つまり資本主義とは労働者が本来使うべき生産手段によって労働者が使われている転倒した関係である。そしてこの転倒した関係が人格の物件化であり，物件の人格化なのである(*4、44頁)。」</p>
<p>　人が物を使うべきなのに、物が人を使っているような状態が、資本関係です。人は主体性をもつゆえに人なのですが、物（資本）に人が使われているということで、主体性を失ってしまっています。マルクスの言葉でいえば、人が「<span style="font-size: 12pt;"><strong>疎外</strong></span>」されています。労働者が労働過程そのものから疎遠になってしまっているのです。</p>
<p>　物が人を使うということは、物が人を「<strong>支配</strong>」するということでもあります。資本が神のようになり、人間を支配している。このことを物神崇拝というのです。物が人のように人格化、あるいは神のように神格化されてしまっている状態です。</p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<blockquote>
<p>貨幣という一面的な物を得るためだけに生きる人間は，彼自身の本来の豊かさを失い物のようになってしまっている。彼は物のようになってしまった人間，物件化された人間なのである(*4、43頁)。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>資本家は資本家としてはただ資本の人格化でしかなく，労働に対立してそれ自身の意思や人格を授けられている労働の被造物でしかない。ホジスキンはこれを，その背後に搾取する諸階級の欺瞞や利害が隠されている純粋に主観的な錯覚として摑んでいる。彼は，表象様式が現実的諸関係そのものから生ずること，後者が前者の表現なのではなくてその逆であるということを見ない。これと同じ意味でイギリスの社会主義者たちは言う，“我々は資本家ではなくて資本を必要とする”と。だが，彼等が資本家を取り除くならば，彼等は労働条件から資本であるという性格を取り去るのである（Marx［1972］: 290─291）。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>利子はただ利潤の一部，すなわち機能資本家が労働者から搾り取る剰余価値でしかないのに，今や反対に，利子が資本固有の果実として，本源的なものとして現れ，利潤は今や企業者利得という形式に転化して，再生産過程で付け加わる単なるアクセサリーやおまけとして現れる。ここでは資本のフェティッシュな姿も資本呪物の表象も完成している。我々がG─G′で持つのは，資本の概念を失った形式，生産諸関係の最高度の転倒と物件化，すなわち，利子を生む姿，資本自身の再生産過程に前提されている資本の単一な姿である。それは，貨幣または商品が再生産とは独立にそれ自身の価値を増殖する能力─最もまばゆい形での資本の神秘化である（Marx［1964］: 405）</p>
</blockquote>
<h2 class="sample2"><span id="toc10">物件化とは</span></h2>
<h3 class="heading1"><span id="toc11">物象化か物化か物件化か（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文））</span></h2>
<p>　「Versachlichung＝物象化」という訳語が正しいかどうかというのが論点です。「Sache＝物象」なのかどうかということです。カントはPerson（人格）とSache（物）を対立させて考えました（詳しい説明は次の頁にあります）。それをマルクスは継承しました。<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 12pt;">Sacheを物象として捉えるか、物として捉えるか</span></strong>という問題です。もし物として捉えれば、物象化ではなく「物化」となります。</p>
<p>　田中氏は物象という日本語が、人格の対概念とは思われないといいます。<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 12pt;">「物象」とは、物として現れている存在か，存在が物として現れることであり、「<span style="color: #ff0000;">現象</span>」していること</span></strong>を意味しています。つまり、「認識」の問題なのです。本当は物ではないなにかが、物として「現れている」ことが、物象化なのです。しかしこれはVersachlichung の真意を歪めるものであると、田中氏はいいます。<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 12pt;">マルクスのいうVersachlichungは<span style="color: #ff0000;">認識</span>ではなくて<span style="color: #ff0000;">存在そのもの</span>にかかわるカテゴリー</span></strong>だからです。Versachlichungは<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 12pt;">Person(人格）がSache（物）のように「現れる」かどうかではなく、Personが実際にSacheになるという、存在論的な次元を可視化する概念</span></strong>です。であるからこそ、物象化ではなく、物化といったほうが正しいといえます。</p>
<p>　（<span style="font-size: 8pt;">認識論とは、 「いかにして真正な認識が成り立つかを，認識の起源・本質・方法・限界などについて研究する哲学の一部門」です。認識とは、「人間（主観）が事物（客観・対象）を認め，それとして知るはたらき」です。存在論とは、「あらゆる存在者が存在しているということは何を意味するかを問い究め、存在そのものの根拠またはその様態について根源的・普遍的に考察し、規定する学問」です。現れるとは、「今までなかったものが姿を&#8221;見せる&#8221;」という意味なので、認識だと思います。）</span></p>
<p>　田中氏はVersachlichungの訳として、「<strong><span style="font-family: georgia, palatino, serif; font-size: 12pt;">物件化</span></strong>」を主張しています。物件とは、「人格は手段として売り買いされてはいけないが，Sache は手段として売り買いできる。そのような事物」です。物という大きなカテゴリーの中で、売り買いできるものと売り買いできないものを区別し、手段として売り買いできるものを「物件」と私は解釈しました。物象化＜物化＜物件化の順に正しい訳だといえます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>マルクスの言う物象化に当たる言葉としては，Versachlichungや Verdinglichung が あ る。両者の内，Verdinglichung は素直に訳せば「物象化」というよりもむしろ「物化」になる。使用頻度や使用されている文脈からしても，Versachlichung こそが「物象化」の原語に当たると考えられる。そしてこれはマルクス研究者の間では定説的な解釈でもあると思う。では Versachlichung が物象化だとして，この言葉は本当に物象化なのか，つまり「物象化」というのはVersachlichung の訳語として適切なのだろうかということである。Versachlichung という言葉を物象化と訳すことは，この言葉を物象化の「原語」と見なすこと同様に定説になっているが，こちらの定説の方は，それを疑うべき大いなる理由がある。「物象化」は誤訳の可能性があるということである(40頁）。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>資本主義とはそこにおいて物件の人格化と人格の物件化が生じているような社会のあり方であり，この矛盾は資本主義社会の細胞単位である商品に内在する矛盾だということである。人格が物件化された結果，物件化された存在において物件が人格化されることになる。一度成立すると，これらは同じ事態の両面として，対立物の統一の関係になる。なお，ここでは「現れる」や「認められる」という表現から，物件化もまた現れという認識論上の問題としてのみ扱われているような印象を受けるが，そう<br /> ではなく，現実的な対立を問題にしているということを注意する必要がある（山本［1985］：117）(42頁)。</p>
</blockquote>
<h3 class="heading1"><span id="toc12">カントによるpersönlichとsachlichの区別（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文）41頁~）</span></h2>
<table>
<tbody>
<tr>
<td>
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">Person</span></strong> とは：<span style="font-size: 10pt;">責任能力がある行為の主体</span></p>
<p><strong><span style="font-size: 12pt;">Sache</span></strong>とは：全く責任能力が無い物（Ding）</p>
</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>　マルクスはVersachlichung（物象化）という言葉を、Person（人）とSache（物）が対立する意味内容（概念）として用いたそうです。物象化とは、人と人との関係が、物と物の関係として現れることです。Person（人）の正反対の方向の内容としてのSache（物）の関係になってしまっていると理解できます。ドイツ語ではPersonとSacheを対立させて使うことは、ごく普通のことだそうです。日本では人間の反対の言葉は、なんでしょうね。動物、ですかね。</p>
<p>　マルクスは、こうしたPersonとSacheの対立を、常識として前提するのではなく、自覚的に用いているそうです。PersonとSacheの対立を哲学原理までに高めた人物が、イマヌエル・カントであり、マルクスはそれを受け継いでいるのです。</p>
<p><a rel="attachment wp-att-1099" href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/5f77568bbc6ffce01f477cc48397afdf.jpg"><img decoding="async" class="alignnone size-medium wp-image-1099" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/5f77568bbc6ffce01f477cc48397afdf-215x300.jpg" alt="イマヌエル・カント" width="215" height="300" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/5f77568bbc6ffce01f477cc48397afdf-215x300.jpg 215w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2016/04/5f77568bbc6ffce01f477cc48397afdf.jpg 249w" sizes="(max-width: 215px) 100vw, 215px" /></a></p>
<blockquote>
<p>イマヌエル・カント（Immanuel Kant、1724年4月22日 &#8211; 1804年2月12日）は、ドイツの哲学者、思想家。プロイセン王国出身の大学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらす。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学（ドイツ観念論哲学）の祖とされる。後の西洋哲学全体に強い影響を及ぼし、その影響は西田幾多郎など日本の哲学者にも強く見られる(<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88">wiki</a>)。</p>
</blockquote>
<p> カントはPerson(責任能力がある行為の主体)とSacheと(全く責任能力が無い物)に二分しました。<strong><span style="font-size: 12pt; font-family: georgia, palatino, serif;">人間が人間たる理由は、人間が単なる物ではなくて「人格」</span></strong>であるところにあるといいます。ここでいう人格とはおそらく、人間が<span style="font-size: 12pt;">主体的</span>であることだと私は解釈しています。主体的というのは、「自分の意志・判断に基づいて行動するさま」を意味します。他人に道具のように扱われるようなものは受動的であり、他人の意志によって動いているので、主体的ではありません。カントは人間を「専ら手段として扱ってはならない」という道徳律を立てましたが、これは人間が単なる「物」ではなく、「人格」であるからです。Sacheの例として、「<span style="font-size: 12pt;">商品</span>」などが挙げられます。商品にはPersonのように主体性がなく、人格ではないからです。商品は「<span style="font-size: 12pt;">手段</span>」として用いられるものであり、道具なのです。もちろん「<span style="font-size: 12pt;">貨幣</span>」も手段であり、Sacheです。</p>
<p>　カントがなぜこのような道徳論を主張したのかというと、「<span style="font-size: 12pt;">奴隷制</span>」を完全に否定するためです。奴隷制とは。「一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間つまり奴隷が、身分ないし階級として存在する社会制度」です。Personである人格、つまり主体性が否定され、Sacheである物のように扱われる制度です。人間を手段として、物のように扱うべきではないという道徳論はこのような文脈で主張されています。物として扱われることは、「商品」として扱われることと同じです。　<strong><span style="font-size: 12pt; font-family: georgia, palatino, serif;">人間を商品として扱い、物のように売り買いする制度</span></strong>なのです。カントは人間が本質的に平等で，他者に手段として扱われることのない自律した自由な存在であることをPersonと Sacheの対立図式において基礎付けようとしたのです。</p>
<h3 class="heading1"><span id="toc13">カントを批判的に継承したマルクス（田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文）41頁~）</span></h2>
<p>　カントは資本主義の本質をつかめていなかったそうです。それに対して、マルクスはつかめていました。高校や大学を卒業する学生（<span style="font-family: georgia, palatino, serif;"><strong><span style="font-size: 12pt;">労働者</span></strong><span style="font-size: 10pt;">)</span><strong><span style="font-size: 12pt;">は</span></strong></span>、自分の意志で、つまり<span style="font-family: georgia, palatino, serif;"><strong><span style="font-size: 12pt;">「主体的」に自分の労働力を資本家に提供</span></strong></span>します。雇ってくださいと言って、雇われるのです。カントの文脈でいえば、Personとしての人間は主体的であることが条件なので、自分の意志で労働力を提供することは、人格的な行為だといえます。</p>
<p>　マルクスはこうした面だけしか見ることができなかったカントを批判しているのです。人間は基本的に、働かなければ生き延びることができません。働かなくても生きていけるという文脈の上で、あえて主体的に働くことを選んでいるわけではないのです。働くということは、自分を労働力として資本家に売るということも意味します。もちろんサラリーマンや工場の労働者以外にも、農業者などもいます。しかし、近・現代社会においては農業者よりも、賃金をもらって働く人間のほうが多いのです。<strong><span style="font-size: 12pt; font-family: georgia, palatino, serif;">自分を道具として資本家に売り渡すということは、自分を物として扱っている</span></strong>ことにもなります。主体的に、自分を物として売り渡すという二面性があるのです。この場合の<strong><span style="font-size: 12pt; font-family: georgia, palatino, serif;">主体性も、自分で望んでいるというより、資本主義という制度が、それを強制している</span></strong>（売り渡さなければ生きていけないから）といえます。</p>
<blockquote>
<p>まさに労働者という人格的存在が Sache に転化する Versachlichung という事態が， 資本主義という社会制度によってもたらされているのである(41頁）。</p>
</blockquote>
<p>　　Versachlichungとは「物象化」です。Person（人格）がSache（物）に転化してしまう事態が、物象化なのです。カントは人間の人格性を否定する「奴隷制度」を批判しました。近代化に伴って、「奴隷制度」は廃止されました。しかし、近代化は資本主義の発展をも意味しています。資本主義は、人間の労働力を商品として資本家に売り渡すという構造、つまり物象化をともなっています。したがって、<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="font-size: 12pt; font-family: georgia, palatino, serif;">資本主義は人間の人格性を否定する制度であり、「賃金奴隷制」としても捉えることができる</span></strong></span>のです。これがカントに対するマルクスの批判です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h2 class="sample2"><span id="toc14">その他</span></h2>
<h3 class="heading1"><span id="toc15">抽象的に無限化する貨幣について（真木悠介の『時間の比較社会学』より抜粋）</span></h2>
<p>前提：商品をW、貨幣をGで表す。</p>
<h3 class="heading1"><span id="toc16">１：貨幣以前のプリミティブな商品交換（WーW&#8217;）</span></h2>
<p>具体例：魚（W）と肉（W&#8217;）の商品交換</p>
<p>　この場合、「<span style="font-family: georgia, palatino, serif;"><strong><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: 12pt;">具体的</span>で<span style="font-size: 12pt;">有限</span>な生活欲求の充足</span><span style="color: #ff0000;">が</span></strong></span>目的となる」。貨幣のように、<span style="color: #ff0000;"><strong><span style="font-size: 12pt;">抽象的</span>に<span style="font-size: 12pt;">無限</span>化</strong></span>することはない。</p>
<h3 class="heading1"><span id="toc17">２：貨幣が単なる「交換手段」として機能している場合（WーGーW&#8217;）</span></h2>
<p>具体例：１００円（G）を使って肉（W）を得る。</p>
<p>　この場合、本質は１と変わらない。</p>
<h3 class="heading1"><span id="toc18">３：貨幣がそれ自体として追求され、商品の購入ー販売が逆にそのための手段となる場合（GーWーG&#8217;)</span></h2>
<p>具体例：２においては、肉を食べるためにGを使ったので、お金を増やすためにGを使ったわけではない。３においては、お金を増やすために、木材を買い、家を作って売る場合などが考えられる。この場合、１００万円（G）で木材（W)を購入し、販売することによって１０００万円を得るとする。<strong>２の場合は商品の獲得を目的としていたので、その関心は「質」にあるが、３の場合は貨幣の増大を目的としているので、その関心は「量」にある</strong>。</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>そして関心が質的な具体性を捨象された量へと向けられるかぎり、欲望はもはや完結して充足しうる構造を失う。〘GーWーG&#8217;〙とは&#8221;資本&#8221;の定式に他ならないが、資本の本質はまさしくこのような、際限を失った無窮動にある。資本はこの価値増殖の運動〘GーWーG&#8217;〙において、媒介となる商品（W)の質については本質的に無関心である。</p>
<p>(真木悠介『時間の比較社会学』、岩波文庫、301~302頁)</p>
<p>&nbsp;</p>
</blockquote>
<h2 class="sample2"><span id="toc19">参考・引用文献</span></h2>
<p>*1那須壽『クロニクル社会学』、有斐閣アルマ</p>
<p>*2小熊英二『社会を変えるには』、講談社現代新書</p>
<p>*3盛山和夫「叢書・現代社会学③ 社会学とは何か◎意味世界への探究」（論文）</p>
<p>(<a href="http://ci.nii.ac.jp/els/110010007808.pdf?id=ART0010568102&amp;type=pdf&amp;lang=jp&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1459846340&amp;cp=">CiNii論文　PDF</a>)</p>
<p>*4田中孝一「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」（論文）</p>
<p>(<a href="http://ci.nii.ac.jp/els/110009820402.pdf?id=ART0010326820&amp;type=pdf&amp;lang=jp&amp;host=cinii&amp;order_no=&amp;ppv_type=0&amp;lang_sw=&amp;no=1459838345&amp;cp=">CiNii論文　PDF</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2016/04/05/%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%9e%e3%83%ab%e3%82%af%e3%82%b9%e3%81%ae%e3%80%8c%e7%89%a9%e8%b1%a1%e5%8c%96%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%ab%e3%81%8b/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
