<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>ジョージ・ハーバート・ミード | 創造法編集社</title>
	<atom:link href="https://souzouhou.com/category/sociology/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%89/feed/" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://souzouhou.com</link>
	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
	<lastBuildDate>Wed, 19 Jun 2024 05:18:05 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=6.9.4</generator>

<image>
	<url>https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/icon_115940_25611-60x60.png</url>
	<title>ジョージ・ハーバート・ミード | 創造法編集社</title>
	<link>https://souzouhou.com</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.appspot.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://pubsubhubbub.superfeedr.com"/>
<atom:link rel="hub" href="https://websubhub.com/hub"/>
<atom:link rel="self" href="https://souzouhou.com/category/sociology/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%89/feed/"/>
	<item>
		<title>【基礎社会学第二十七回】G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/08/18/geoge-herbert-mead-3/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2022/08/18/geoge-herbert-mead-3/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 18 Aug 2022 09:18:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ジョージ・ハーバート・ミード]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://souzouhou.com/?p=2437</guid>

					<description><![CDATA[G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」についての説明記事です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-1" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-1">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">その他注意事項</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">G.H.ミードのプロフィール</a></li></ol></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">意味の意識</a><ol><li><a href="#toc6" tabindex="0">意味とは、意味</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">コミュニケーションと意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">意味の意識とは、意味</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">意味の意識の例：パンを買う人と売る人</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">行為とは(前回の復習)</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションの例：親と子供</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">人間以外の動物には意味の意識がない</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">内的コミュニケーションと外的コミュニケーション</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">どのようにして自我や意識、意味の意識は生じるのか。内的条件と外的条件。</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">内的条件とは、意味</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">外的条件とは、意味</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">コラム：R・Dの「分裂病」とベイトソンの「ダブルバインド」</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">コンフリクト状況・問題的状況と問題解決</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">コンフリクト状況とは、意味</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">問題的状況とは、意味</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">内省的思考とは、意味</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">ジェスチャー状況とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">物の役割取得とは</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">物の役割取得とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">科学技術的態度(精神)</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">コラム：デカルト、レイン、「にせの自己」</a></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">プレイとゲーム、重要な他者とと一般化された他者</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">プレイ段階とは、意味</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">ゲーム段階とは、意味</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">重要な他者とは、意味</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">一般化された他者とは、意味</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">制度</a><ol><li><a href="#toc34" tabindex="0">制度とは、意味</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">制度の条件</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">大人の自我形成</a><ol><li><a href="#toc37" tabindex="0">大人の自我とは、意味</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">パースペクティブとは</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">個人的パースペクティブとは</a><ol><li><a href="#toc40" tabindex="0">パースペクティブと真理、客観的相関論と実在的相関論</a></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">共通のパースペクティブとは、意味</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">他者のパースペクティブに入ってくためにはどうすればいいのか、知性、科学との関連</a><ol><li><a href="#toc43" tabindex="0">知性</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">社会とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">科学による共通のパースペクティブ</a></li></ol></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">時間系の交差とは、意味</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">パースペクティブの社会性とは、意味</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">ユニバースオブディスコースとは、意味</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">国際心とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">主要文献</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc53" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/SAEkP5R69D0" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">その他注意事項</span></h3>
<p>基本的に前回の記事を前提として話していきますのでこちらも参照してください。前回説明した用語の説明は出典を省略していることがあります。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/">【基礎社会学第二十四回】G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/08/16/geoge-herbert-mead-2/">【基礎社会学第二十六回】G・H・ミードの「社会的行動主義」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc4">G.H.ミードのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2283" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg" alt="" width="202" height="249" /></a></p>
<p>ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。</p>
<p>プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。</p>
<p>主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。</p>
<h2><span id="toc5">意味の意識</span></h2>
<h3><span id="toc6">意味とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味(meaning)</strong></span>：</big>・対象と、生物体がその対象に対してとる行為の関係。対象のもたらす刺激と、その生物体の反応との関係。</p>
</div>
<p>例：ある草の意味はある草食獣にとっては「食べる」ことにある。ある小さい肉食獣にとっては「隠れる」ことにある。ある人間にとっては「狩る」ことにある。</p>
<p>・意味は大別すると、「<b>観察者が見た場合の意味</b>」と「<b>行為者自身が意識している意味</b>」<b>に分かれる</b>。</p>
<p>例：①行為者にとって「店のパン」の意味は「買うもの、食べるもの」であるとする。②観察者にとって「店のパン」の意味は「買うもの、食べるもの」であるとする。</p>
<p>この場合、行為者と観察者(他者)との意味は一致している。つまり、相手の意味を他者は間接的に観察することができる。</p>
<h4><span id="toc7">コミュニケーションと意味</span></h4>
<p>・コミュニケーションが成立するということは、意味が一致していることであると推測できる。お互いの意味が全く一致しない場合、相手の反応が自分にとって予測不能な場合はコミュニケーションが難しい。</p>
<p>「意味がわからない」と日常会話で使う場合がわかりやすい。ゴミは「決まった曜日に捨てるもの」という意味を持っていた他者にとって、「規則を守らずに道端に捨てるもの、家に飾るもの」という行為者の意味は「わからない」に等しい。「一体何を考えているんだ、これはどういう意味なんだ」となる。毎回「意味がわからない」となっていては社会は成り立たず、ある程度意味が共有されることによって社会は成り立っている。「普通はゴミは決まった曜日に捨てるもの」という共通の了解がある。ああ、この人にとってはこういう意味なのね、と特定の他者との関係のみにおいて了解される意味もある(友人Aにとってレバーとは食べるものではないなど)。</p>
<p>相手の立場にたって考えるようになれば、「<strong>普通は</strong>ゴミは決まった曜日に捨てるもの」という客我を自己の中に取り入れていくようになる。客我は自分だけに存在する主観的なものではなく、他者との関係において存在する客観的なものであり、したがって意味は間接的に観察することが可能になる。もちろん客我の期待通りに主我が反応して行為に至るとは限らず、行為者の意味の全てを直接観察することは難しい。例えば客我からの期待を拒んで会社で内部告発をして、それが社員全体へ伝わり、「ちょっとくらいグレーな会計でもいいじゃん」という社内の客我が、「ホワイトでいこう」という客我に変わっていく可能性もある。意味がわからないから意味がわかるへ。</p>
<blockquote>
<p>「ミードはまず、客観的に「意味（meaning）」を定義する。彼によれば、意味は生物体と環境との関係にある。例えば、食べ物の意味は、その生物体がそれを「食べる」ところにある。草は草食獣にとって食物だが、肉食獣にとっては食べ物ではない。従って、意味とは、環境と生物体との関係にある。より正確に言えば、意味は、その対象と、生物体がその対象に対してとる行為との関係にあるのである（1910c:p.401）。これを生物体個体の側からいうと、対象のもたらす刺激とその生物体の反応との関係が意味だ、ということになる。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,53P</p>
<p>「ミードが考えるに、意味には二つのものがある。一つは観察者が見た場合の意味であり、もう一つは行為者自身が意識している意味である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P</p>
<p>「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こす問に、ジェスチュアは意味をもち、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは、『対象が引き起こす表示された反応』&#8230;&#8230;」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc8">意味の意識とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味の意識</strong></span>：</big>・刺激の感覚に、内的な反応が混入すること。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b96a46a6991739269c88cd7b4984d524-1.png"><img decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2462" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b96a46a6991739269c88cd7b4984d524-1.png" alt="" width="1539" height="528" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b96a46a6991739269c88cd7b4984d524-1.png 1539w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b96a46a6991739269c88cd7b4984d524-1-800x274.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b96a46a6991739269c88cd7b4984d524-1-1536x527.png 1536w" sizes="(max-width: 1539px) 100vw, 1539px" /></a></p>
<p>・「<b>意味の意識</b>」とは「<b>刺激の感覚に内的な反応が混入していること</b>」を意識しているということである。例：パンの意味とは「食べる」ということであり、食べたいという刺激に、食べるとどうなるか、という反応、イメージが混入し、それを意識することである。パンと人間という単純な関係では意味の意識は成立しない。例えば「他者のパン」というような場合は相手の立場になる必要が生じ、それが自分に有利にはたらくため、意味の意識が生じやすくなる。</p>
<p>（１）他者の立場になって自分を意識(内的な反応)できるようになり、自分のしている行為(ジェスチャー)の意味を意識できることではじめて「意味の意識」が発生する。人間特有の過程。</p>
<p>（２）他者との交流がない状態では「意味の意識」が発生しない。なぜなら、意味の意識をする利点が小さいから。しかし、他者との交流(外的相互行為)の記憶があれば、たとえ部屋で一人であったとしても、「このパンを食べたら他の人はどう思うだろうか」、というように内的相互行為(内的コミュニケーション)によって「意味の意識」が生じる。このパンを食べたら太る、太ったら異性はどう思うだろうか、というように食べるという意味の意識をしていく。</p>
<blockquote>
<p>「意味はこうして、生物体の内面にさかのぼることなく客観的に存在する。この「意味」を意識すること、すなわち「意味の意識」が成立するためには、感覚刺激とその刺激に対する反応とが、ともにある生物体個体の内部（特に中枢神経系内）で起こり、しかも両者が生物体の体内で関係づけられていなければならない。つまり、「意味の意識」とは、刺激の感覚に、それが導く内的な反応が混入することであり、それゆえ意識の中には、対象の感覚的な刺激のみならず反応もまた含まれていなければならない、というのである（1910c:p.400）。上の例でいえば、椅子の感覚刺激と「座る」（内的）反応とが中枢神経系内で結合したとき、かれは椅子の意味を意識したことになる。こうして、中期ミードの言葉を引用すれば、意識にのぼる対象は次のように定義される。「知覚対象物理的対象とは、直接の刺激の経験と、この対象が導くであろう反応の心象（imagiry）との結合物である。」（1912:p.401）「反応の心象」は、過去の記憶が導くものであり、それは前節でみた外的行為に対する内的行為（あるいは態度）であり、また先の動物的状況においては情動にあたるものである。以上の議論をより簡単に図式化すれば、およそ〈図１〉のような形になるであろう。①対象の感覚刺激と②反応の心象との関係が意味であり、両者の結合③によってはじめて、意味の意識が可能となる。」</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">意味の意識の例：パンを買う人と売る人</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/6638413f26aa4d8f1db793371d12b49a-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2468" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/6638413f26aa4d8f1db793371d12b49a-1.png" alt="" width="755" height="205" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/d55397ababfb79d10a9d97d10ce485cc.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2463" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/d55397ababfb79d10a9d97d10ce485cc.jpg" alt="" width="975" height="549" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/d55397ababfb79d10a9d97d10ce485cc.jpg 975w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/d55397ababfb79d10a9d97d10ce485cc-800x450.jpg 800w" sizes="(max-width: 975px) 100vw, 975px" /></a></p>
<h4><span id="toc10">行為とは(前回の復習)</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2466" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96-1.png" alt="" width="825" height="440" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96-1.png 825w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96-1-800x427.png 800w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></a></p>
<p><b>意味の意識</b>：刺激の感覚に、内的な反応が混入すること。</p>
<p><b>行為</b>：①行為は「内的行為」と「外的行為(行動)」の２つの行為の相互作用によって形成される過程。②行為には「１：衝動」、「２：知覚」、「３：操作」、「４：完了」という四局面がある。</p>
<p><b>内的行為</b>(内的反応)：意識、思考、知性、精神などの領域。主に精神的過程(ただし身体と無関係な主観的なものではなく、生理的な過程であり、社会的な過程)。言い換えれば「<b>態度</b>・<b>身振り</b>(<b>ジェスチャー</b>)」であり、「外的行動の準備段階」。衝撃、知覚、操作の局面。パンを盗んだら店員の人はどう思うだろう、という<b>イメージ</b>(過去の記憶が導く反応の心象)が<b>刺激</b>(パンを見て盗みたくなる、食べたくなる、刺激を受ける)に混入する過程。</p>
<p><b>外的行為</b>(外的反応)：口の動き、手の動き、唾液の量、涙など体外で目に見えて生じる、主に生理的な過程。パンを買う、盗む、食べるなどは目に見える外的行為。内的反応の結果、盗むことを思いとどまって「買う」こともあれば、「盗む」こともありうる。選択の結果が外面に出ること。</p>
<blockquote>
<p>「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こすときに、ジェスチュアは意味を持ち、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは、『対象が引き起こす表示された反応』(Mead,[1922]1964:244.訳22頁)である。意味は、異m－渡によると、ジェスチュア、他者の反応、社会的行為の三角関係からなっている。したがって、ジェスチュアの意味は意識の状態を指したり、心的な構成物を表すのではなく、他者の反応として客観的に存在するものである。けれどもまた、意味は意識されねばならない、とミードはいう。かれによれば、人間はジェスチュアの意味を意識して用いている。このことは、一般の動物においてはなされない人間固有の事柄である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション</strong></span>：</big>・：行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、特に具体的な他者である場合、「重要な他者」という。さらに抽象化されていくと「一般化された他者」になる。</p>
</div>
<p>・行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「<b>有意味</b>」、「<b>意味のあるシンボル</b>」という。とくに「<b>音声シンボル</b>(言語など)」が重要になる。</p>
<p>例：母親や友人は「重要な他者」であると同時に、「一般化された他者」でもある。母親に対して「ふつうはこういう言い方をすると傷つかないよな・・」と「一般化された他者(抽象的な他者)」を通してイメージすることもあれば、「うちの母親だからこういっても傷つかないよな・・・」と「重要な他者（具体的な他者）」を通してイメージすることもある。いずれにせよ、最終的に自分の中での他者の反応と、他者の実際の反応が一致していることが重要。自分の仮定していた「一般化された他者」や「重要な他者」がズレていれば、「もっと優しい言葉に次からしよう・・・」と修正、再構成されていくこともある。そんなのは関係ないと、他者からの期待に反して行為することもある。行為になって意識がわかる(再構成された客我を通して主我がどう客我に反応したのか、つまり意味の意識を知ることができる)。</p>
<blockquote>
<p>「ミードが強調するところによれば、「意味のあるシンボル」は人間に固有なものである。一般の動物は、他の動物に反応を引き起こさせる自己のジェスチュアの意味を意識しているわけではない。これに対して、人間はジェスチュアの意味を意識している。つまり、ジェスチュアが引き起こす他者の反応をあらかじめ予測して、自己のジェスチュアを用いている。そして、しかも、人間は他者の反応のみならず、自己の反応についても意識している。「他者の反応」と「自己の反応」、および「その間の関係」を意識していることが、人間の「意味の意識」である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」45P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc12">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションの例：親と子供</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/10fc6a883c96340533e9f543ed5e03a3.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2464" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/10fc6a883c96340533e9f543ed5e03a3.jpg" alt="" width="779" height="539" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/843341f4c443a1926d412036f00e9bf5.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2465" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/843341f4c443a1926d412036f00e9bf5.jpg" alt="" width="779" height="505" /></a></p>
<h3><span id="toc13">人間以外の動物には意味の意識がない</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/6638413f26aa4d8f1db793371d12b49a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2467" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/6638413f26aa4d8f1db793371d12b49a.png" alt="" width="755" height="205" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/cochin-g3455267b5_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2469" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/cochin-g3455267b5_640.jpg" alt="" width="640" height="426" /></a></p>
<p>例：雌鳥(めんどり)がひよこに対して、ミミズをついばむことによってひよこにミミズを食べるように指示しているとする。一見、これはコミュニケーションを行なっているように見えるが、ミードの言う「有意味シンボルの交換」ではない。なぜなら、雌鳥はひよこの立場になって、ひよこからこの自分の行為をどう考えるだろうか、というように自分を対象化しているわけではない。</p>
<p>１：雌鳥は意味の意識をしていない。</p>
<p>２：雌鳥に「意味」があっても、それを意識しているわけではない。雌鳥にとってミミズとは「ついばむもの」であるという意味はあるが、雌鳥がその意味を意識してるわけではない。本能によって自動的に行なっている。人間が本能によって呼吸をしたり、反射的に熱いものから手を離すのと同じ。人間のそうした本能は<strong>生得的</strong>に備わっているものであり、その点は動物と同じ。しかし、人間は他者との関わり、特に役割取得を通した有意味シンボルの交換、つまりコミュニケーションによって<strong>後天的</strong>に自我を獲得し、行為を意識するようになっていく(自我の社会説)。</p>
<p>３：意味の意識ができる有機体は人間のみ。人間のみが「行為の意味」を意識している。</p>
<p>ミミズは鳥にとって「食べるもの、食べさせるもの」という意味はあるかもしれないが、それが意識されることがない。ほとんど自動的、本能的、反射的に行動しているだけ。つまり、反省的行為や役割取得をするのは人間特有の過程であり、この過程があるからこそ「自我」が発生する。人間も習慣的行為になるにつれて、反”射”的に行動することがある。たとえばスーパーで物を買う時に、いちいち相手の立場になってから外的行為をするか。友達の友達とポケモンカードを交換するときなどは、相手の立場になって(反”省”的意識)、このカードを渡すことで相手は喜ぶのだろうか、など強く意味の意識が生じやすいのではないか。</p>
<blockquote>
<p>「めんどりはミミズをついばむことによって、ひよこにミミズを指示している。しかし、めんどりはひよこの『役割取得』を行っているわけではなく、両者の間の同一意味は存在していない。また、犬は他の犬のジェスチュアに対して直接的、自動的に反応している。犬は自分自身の行為に対する反応をもたず、自分の行為を意識していないし、その意味を意識していない。動物のジェスチュアは『理解力のある観察者の目から見れば、意味のあるシンボルである。しかし、ジェスチュアを行なっている動物にとってはそのどれもが意味のあるシンボルとはなっていない』(Mead,[1922]19634:244.訳二一頁)のである。動物においては『意味』はあっても、『意味の意識』は存在していない。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」76-77P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">内的コミュニケーションと外的コミュニケーション</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/baa91ef0d6c0a340049b0fc584b4b764.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2470" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/baa91ef0d6c0a340049b0fc584b4b764.jpg" alt="" width="985" height="578" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/baa91ef0d6c0a340049b0fc584b4b764.jpg 985w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/baa91ef0d6c0a340049b0fc584b4b764-800x469.jpg 800w" sizes="(max-width: 985px) 100vw, 985px" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a24667e209449ecd667f1cf2a58b2212.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2471" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a24667e209449ecd667f1cf2a58b2212.png" alt="" width="805" height="675" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a24667e209449ecd667f1cf2a58b2212.png 805w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a24667e209449ecd667f1cf2a58b2212-800x671.png 800w" sizes="(max-width: 805px) 100vw, 805px" /></a></p>
<p>・物理的に一人でも(イメージの)他者との相互行為は可能。シミュレーション。</p>
<p><b>内的コミュニケーション</b>：主に他者の役割取得(他者の立場になって自己を意識する)の過程。内的行為の過程。イメージの他者と会話、相互行為するようなもの。内的行為。自分の中の他者との会話。</p>
<p><b>外的コミュニケーショ</b><strong>ン</strong>：実際に他者とコミュニケーションする過程。他の人と実際に音声シンボルなどを通して会話をする。外的行為。他者との会話。</p>
<p>・もし他者との直接的なコミュニケーションがなくても、経験(過去における他者とのやり取りの記憶など)があれば「意味の意識」は生じる。三次元の経験他者が予めあり、それに補完して二次元の他者の物語を知ることは一般化された他者の形成には力になる場合もあるだろう。ミードによれば物語のキャラクターの演技も「プレイ段階」のひとつ。ヒーロー番組のヒーローの役割を演技するなど。</p>
<p>・内的コミュニケーションはミードが解明することを目指した重要なテーマ。個人の内的経験、社会過程など、直接には見えないものを外的行為や外的コミュニケーションからアプローチするというのがポイント。外的行為は外から観察することができる。</p>
<p><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>シンボリック相互作用論</b></span>：</big>・ブルーマーが創始。人間が物事を意味づけ、それに基づいた行為をすること、人間同士の行為によって社会が成立すると考える理論のこと。人間の主体性を強調し、人間が主体的に社会を成立させると考えた。相互行為の中で流動的に意味は変化し、社会も変化していく。パーソンズの構造機能主義理論は人間の相互行為は社会の維持のための機能として考えられており、人間の主体性を軽視しているという意味で、対照的に比較されることがある。</p>
<p>・内的コミュニケーションは社会学においてブルーマーが参考にしているように、「新しい意味を創発する」機能をもっている。H・ブルーマーによれば内的コミュニケーションの過程で内在化した他者の態度の解釈、意味の選択や評価がされ、修正や再構成の過程で「新しい意味」が生まれてくる。</p>
<p>・ブルーマはどちらかというと「個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿」を強調したという(岩城千早)。ブルーマーの言葉でいうと「世界や他者に対して立つ(stand over against)である。ミードは「われわれは、自分自身になろうとするならば、他者でなければならない」、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」、というように、二項対立的に語るのではなく、二項対立を乗り越えようと統合する側面を重視していると解釈することができる。もともと弁証法的な要素がミードにはある(矛盾、対立を乗り越えていく要素)。主体と客体、概念と実在、自己と他者、さまざまな対立を乗り越えてこそ真理とみなされる。それらはコンフリクト(対立)による問題的状況が解決することに限って知識や仮説を「真理」としたミードにみられる。</p>
<blockquote>
<p>「この内的コミュニケーションは外的コミュニケーションとのかかわりにおいて生まれる。他の人間との会話という外的コミュニケーション過程が個人のなかに内在化することによって、『内的会話』としての内的コミュニケーション過程が発生する。内的コミュニケーション過程は、しかし、外的コミュニケーションの単なるミニチュア版ではなく、それとは相対的に独立な独自の内容をもっている。すなわち、人間の内的コミュニケーション過程においては内在化した他者の態度の解釈、つまり意味の選択や評価がなされ、その修正や再構成が行われる。人間は『自分自身との相互作用』(self interaction)(H・ブルーマー)において、他者の期待を表示し、解釈する。そのことによって、他者の期待は『選択され、チェックされ、留保され、再分類され、変容される』(Blumer,1969.5.訳六頁)。そこに新たなものが生み出されてくることになる。内的コミュニケーションは新しい意味を創発する。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」、84－85P</p>
<p>「ブルーマー等によっては、個人が自己であることが強調され、ミードの仕事もその自己論において強調された。だがミードはここに、相互行為のプロセスにおいて自己よりもむしろ他者であることによって重要な存在たりうる個人の姿をも、われわれにかいま見せる。個人は他者である。「われわれは、自分自身になろうとするならば、他者でなければならない」(Mead:1924-1925)のだ。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」317P</p>
<p>「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“stand over against”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」316P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">どのようにして自我や意識、意味の意識は生じるのか。内的条件と外的条件。</span></h3>
<h3><span id="toc16">内的条件とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内的条件</strong></span>：</big>・内的条件とは先天的に「個人が人間として備えている能力」であり、具体的に言えば他者の役割を取得できる「能力」であり、生理学的に言えば「脳のメカニズム」である。主に生理学的な条件であるといえる。生活のプロセスの存在(環境に不断に適応する生物体として存在)、中枢神経系などを通して「遅延反応」を生じさせ、反作用できるということなど。</p>
</div>
<p>他にも、手を操作できるということ、音声シンボル(言葉等)などを発することができる生理的機能があること、またその発話を耳で聞くことができる生理的機能があることなど、さまざまな重要な条件がある。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">【生活のプロセスの存在】生命維持へ向かう生物体としての環境への適応のプロセス。例：キリンは木の上の植物を食べるために首が長くなった。人間は適応のプロセスとして自我を獲得していった。</li>
<li class="sample">【自らの体内に起こっていることに反応すること】相手の立場になって自分の行為に対して反応する等。しかしこうした反応の「意識」は内的条件”のみ”では難しい。反作用のメカニズム。</li>
<li class="sample">【神経メカニズム】２のプロセスを可能にするのが「中枢神経系」だという。</li>
<li class="sample">【遅延反応】他の動物のように刺激に対して直接反応するのではなく、一旦停止して反応するためには中枢神経系が重要になる。こうした「遅延反応」があってはじめて「意味の意識」をするための生理学的な条件が整う。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「ミードはここから、意識発生のための条件を提示する。彼はざっと書き流しているが、これらの条件は次の四点にまとめることができる。（PP:pp.69-71）（１）生活（life）プロセスの存在。「ライフとは、その中で個人が自らの活動によって、自分自身においても、かつまたより後の世代においてもこのプロセスを維持せんとする傾向を持っているようなものであり、また有機体のうちに進行しているものを越えて周囲世界へと拡張し、個人の環境世界としてのその活動範囲内に見いだされる限りの、多くの世界を定義しているものである」（PP:p.69）とされているが、要するに、単なる物理的物体とは異なるものしての、生命維持へと向かう生物体のプロセス環境への適応と、その適応による環境の変化に対する再適応の無限のプロセスの存在である。51（２）第二に、「［ライフの］目的論的プロセスにある生物体が、全として、自分自身の有機構造の状態に対して、目的的に反作用しうるということ」（PP:p.69）が必要となる。言い換えれば、意識が発生するためには、有機体は、自らの体内に起こっていることに対して反応できなければならない。しかも、一つの統一体として、反応できなければならない。（３）（２）が行われるのは、生物体内の神経メカニズムである。それ故、それを司る中枢神経系が第三の条件となる。（４）そして第四の条件は、この中枢神経系が可能にする、①経験の内容と、②直接的反応との分離である。生物体は、発達した脳によって、対象に対する直接的本能的反応を遅らせることができる。対象に対し直接反応しているようでは、体内に起こったことが意識に上るようなことはありえない。刺激に対する反応を直接外面化することがなくなったときはじめて、刺激に対する自分の体内の状態に対して反応することが可能となるのである。それゆえ、意識発生のためには、この①刺激に対して起こる体内の状態が②直接的な外的な反応と区別されていなければならない。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,51-52P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">外的条件とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外的条件</strong></span>：</big>・「社会や他者」の「存在」であり、具体的に言えば「他者とのコミュニケーション(役割取得、有意味シンボルの交換)」である。そのため、ミードはいかなる自我も『社会的自我』であるという。自分の音声シンボルを自分の耳でも聴くということは、相手への発言に対して自分が相手の立場になって考えるきっかけを生むので、重要になる。また、相手への行為は相手がいなければならず、能力ではなく存在として他者が後天的に必要になる。</p>
</div>
<h3><span id="toc18">コラム：R・Dの「分裂病」とベイトソンの「ダブルバインド」</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ダブルバインド（double bind）</strong></span>：</big>・ルール１「～してはならない」、ルール２「ルール１は存在しない」、ルール３「ルール１、２が存在するか否かを論じてはならない」というような論理階型の衝突をもたらすような経験の連鎖をいう。とくに子供時代に生じやすい。例：親は口では子供愛しているといいながら、子供が愛を求めると暴力を受ける。また、矛盾を口に出しても無視され、暴力を受ける。他に相談する祖父母や友人もいない。このようなケースではこどもは分裂病に陥り、狂気が生じる。ミードで言うと矛盾した役割取得を行い、かつそれが一般化へも至ることができない状況ではないだろうか。グレゴリー・ベイトソンが『精神の生態学』(1972)で使った用語。二重拘束とも訳される。</p>
</div>
<p>・理論的には他者の存在を一切排除した極端な仮想環境で人間をロボット等で食糧を与え、成長させるといった場合、自我の形成がされないことになるのではないだろうか。</p>
<p>自我の形成には社会の存在、コミュニケーションが不可欠であり、自我とは「社会的自我」であるというのがミードの考え。</p>
<p>たとえば、幼少期に親から徹底的に無視され、かつ学校にも行かせてもらえないなどのネグレクト(育児放棄)が生じた場合、自我の形成が歪んでしまう可能性があるのではないだろうか(相手の気持がわからず、相手の立場になれず、情緒不安定になる)。</p>
<p>・R.D.レインのような「<b>分裂病</b>」になるケースも考えられる。ベイトソンの「<b>ダブルバインド</b>」状態。</p>
<p>例：親が子供に対して愛していると言葉で言いながら、愛を求めたら行為では殴る、無視などを繰り返す。矛盾した役割を期待されることによって、どうしていいかわからず、自分の精神の殻に閉じこもってしまう。上司が部下にもっとがんばれといいながらがんばったら冷たくされるなど、会社でもありうるケース。</p>
<p>→有意味のシンボル交換がずっと行えないと、精神がおかしくなる。どう相手を予想しても一致しない。「<b>これをやったらだめ、やらなくてもだめ</b>」。こういう状況でいわゆる「<b>狂気</b>」が生じる(レインの「狂気と家族」など)。「意味の意識」をしないように、相手の立場になることをしないように、意味不明な比喩的なコミュニケーションをするようになる(あるいは相手の立場にしかならないロボットになる)。なぜなら、「意味の意識」をいちいちしていたら矛盾により頭がおかしくなってしまうから。</p>
<p>POINT：ベイトソンは「これをやったらだめ、やらなくてもだめ」という矛盾した状況にくわえて、さらに「その場から出ていくこともできず、矛盾を指摘することもできない」という状況を指摘した。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">ルールA：～してはならない</li>
<li class="sample">ルールA１：ルールAは存在しない</li>
<li class="sample">ルールA２：ルールA、A１、A２が存在するか否かを論じてはならない。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「ダブルバインド：ベートソンが『精神の生態学』(1972)で使った用語。二重拘束とも訳される。たとえば、『私の命令に従うな』という命令に従おうとするときに生じる、心理的な拘束状況を指す。分裂病の原因として提唱されたが、コミュニケーション一般の問題として論じられることが多い。」</p>
<p>「社会学小辞典」,418P</p>
<p>「（５）しかし、ダブルバインドとは単に『これをやったらダメ、やらなかったらダメ』というだけの状況ではない。どちらの選択肢もダメという状況だけでは、人を狂気に陥らせることは不可能である。決定的に重要な条件は、犠牲者がその場から出ていくこともできず、矛盾を指摘することもできないということである。そして、子供というものは、しばしばまさにこのような状況に置かれるのだ。レインはダブル・バインドの苦境を次のように要約している──『ルールA──してはならない』。『ルールA１──ルールAは存在しない』。『ルールA２──ルールA、A１、A２が存在するか否かを論じてはならない。』。」</p>
<p>「デカルトからベイトソンへ」,２６３P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">コンフリクト状況・問題的状況と問題解決</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/17bb1457cfe536e46d5784f6cd0ba4c3.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2517" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/17bb1457cfe536e46d5784f6cd0ba4c3.png" alt="" width="735" height="415" /></a></p>
<h4><span id="toc20">コンフリクト状況とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>コンフリクト状況</strong></span>：</big>・対立している状況。他者からの複数の期待が対立している状況など。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「しかし。複数の他者の期待は常に一致し、また調和し合っているわけではなく、その間にずれや対立が存在がすることもまれではない。そのような場合、相矛盾する期待に直面する役割コンフリクト状況に陥り、混乱し、悩み、苦しみ、葛藤を経験するようになる。そこで、そのコンフリクト状況を避け、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、組織化し、一般化する必要がある。そこに生まれるのが『一般化された他者』の期待である」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P</p>
<p>「ミードによれば、刺激と反応との関係が適合的な場合、つまり、ある対象に対して行為が直接的になされうる場合、意識は発生しえない。なぜならこの場合、刺激と反応は一連のものとしてあり、区別されることがないからである。つまり、先にみた条件（４）「①経験の内容と②直接的反応との分離」が満たされず、行為が終わったときにはその行為に関する意識は過ぎ去ってしまっていることになるからである。刺激と反応とがコンフリクトにある状態にのみ意識は発生しうる（1910c:p.403）。例えば、お腹を空かせたある生物体が、食べ物を目の前にする。その食べ物がすぐに手に届き、食べることが可能である場合、生物体は食べるという反応を遅らせる必要はない。食べ物に直接食らいつけばよい。ここには意識が発生する状況はない。このような対象と反応との関係のコンフリクトにおいてのみ、刺激とそれに対する直接的反応とが分離され、意識発生の状況が成立しうるのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」、54P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc21">問題的状況とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>問題的状況(problematic situation)</strong></span>：</big>・人間が障害や妨害、禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる状況。個体と環境との間に適合を欠く状況。パンを食べたいのに食べることができない、自由に遊びたいのに遊ぶことができない等。</p>
</div>
<p>コンフリクト状況と問題的状況は重なり合う概念。</p>
<blockquote>
<p>「とりわけ、それは人間が障害や妨害また禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる『問題的状況』において出現する。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,86P</p>
<p>「「衝動」とは個体と環境との間に適合を欠く状況である「問題的状況」(problematic situation)から生じる刺激が対して個体が最初にとる「反作用の構え attitude」である。」</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc22">内省的思考とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内省的指向</strong></span>：</big>・問題的状況を解決する人間の能力。反省的意識はとくに「精神」と呼ばれる。内省は他者との関わり(意味のあるシンボル交換、コミュニケーション)を通し、他者の立場になって自己を意識すること、ふり返ること。内省≒反省。反作用。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「『内省的思考』とは問題を解決する人間の能力を表す。それは『意味のあるシンボル』を通じての内省化から生じる。『内省的思考』は他者とのかかわりによって生み出される社会的な過程である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,85-86P</p>
<p>「意識は以上のような条件のもとで発生してきた。列挙するならこうである。（１）ライフプロセスの存在。（２）本能的直接的反応の抑制と、内的行為と外的行為との区別。（３）それを可能にする中枢神経系。（４）社会の先在。（５）他者として反応することと、それを可能にする有声身振りのメカニズム。こうして、すべてが揃ったところで、（６）感覚刺激と他者としての内的反応との結合が可能となり、有意味シンボルが現われることとなる。この有意味シンボルが、反省的意識を形成する。そしてこれが精神（mind）と呼ばれているものである。人間の意識精神とはこうして、他者の態度をとることによって、動物的環境が生物体自身の身体の状態にまで拡張されたものなのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」47P</p>
</blockquote>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>創発的内省性(emergent reflexivity)</b></span>：</big>・他者の目を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくること。主我の概念に相当する。他者の態度を通じて自己の内面を省みて、過去および未来と関連づけながら、新しい世界を創出すること。</p>
</div>
<p>→客我に対する主我の反応が創発的内省性をもつということ。具体的には、<b>刺激を受け止め、解釈し、修正、選択、再構成する</b>ということ。客我をそのまま受け止めて行為するのではなく、主我によって客我が新しく再構成され、そこから行為につながるという主体性につながっている。内省とは一般に自分自身と向き合うことであり、ミードの文脈では客我と向き合うことを意味する(客我と主我の相互作用によって新しいものがうまれ、自我が形成されていく)。</p>
<p>例：貧しい人間は政治に参加するべきではない、という客我に対して、貧しくても政治に参加するべきだ、というように主我が反応することもある。自分がどうあるべきかについて、新たなものが創発されていく余地がある。主我は自動的・受動的・非主体的に客我に反応するわけではない。</p>
<blockquote>
<p>「そこで、『主我』を人間の『創発的内省性』(emergent reflexivity)を表すものとして解釈するならば、『主我』によって自己の修正・再構成が行われ、そこに新しいものが生み出されることを理解できるようになる。『創発的内省性』とは他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくることを表す。このような『創発的内省性』によって、自己が新しく生まれ変わると同時に、その行為を通じて他者も変わるようになる。したがって、ここから、社会のイメージは動かないもの、固定した構造ではなく、変化するもの、変動する過程となる。」</p>
<p>船津衛船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,東信堂,70P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc23">ジェスチャー状況とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff00;"><strong>ジェスチャー状況</strong></span>：</big>・、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなもの。例：犬の喧嘩やフェンシング</p>
</div>
<blockquote>
<p>「社会的状況においてのみ、自分の行為に注意が向けられるのだ、とミードは主張する。ここでミードが言う社会的状況とは、同じ種の他の生物体との身振り会話の状況であり、このアイディアは、周知のとおり、彼がドイツで学んだW．ヴントから来ているものである。身振り状況とは、ミードによれば、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなものである。ミードが好んであげる例は犬のケンカや、フェンシングである。一方の出方が相手の次の出方を変える。状況はめまぐるしく変わっていく。反応は様々であり刺激も様々である。ここではコンフリクトの絶え間ない持続が見られる。そして、自らの反応が相手の次の反応、つまり自分に向けられる次の刺激を決定するが故に、自分自身の反応が次の状況を決める大きな要因となっている。当然、生物体は、状況にうまく適応するために、自分自身の反応にも注意を向けるようになる。こうして社会的状況においてのみ、自分の反応（身振り）に対して注意が向けられるような状況が生じてくるのである（1910c:p.404）。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」55P</p>
<p>「行為者が何をしたか、ということは、他者が何を見たか、という問を通して捉えられうるものとなる。このことを概念化しているのが、ミードの「身振り」概念である。「身振り」は、「社会的行為の第一義的に外的に開かれた位相」(Mead:1910)、「社会的行為の部分であり、そのプロセスを完成する刺激を成す」(Mead:1927CL)ものとして、社会的行為に関わる個人間の相互適応を媒介する。身振りとは、他者が行為者から受け取った刺激なのであり、それによって他者は最初の行為者に対して、適応的な反応を返すことができる。行為者の身振りは、他者がそれをある刺激として受け取った限りで、ある身振りとして捉えられるのである。そして相互行為のプロセスは、ミードによれば、このような「身振り」による「身振り会話」(MSS47etc.)なのである。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,312P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">物の役割取得とは</span></h3>
<h4><span id="toc25">物の役割取得とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>物の役割取得(taking the role of physical objects)</strong></span>：</big>・物の態度を人間が取得すること。主に、操作過程で「大きさ、形、重さ、運動、抵抗」などが個人の態度に移入し、内面化すること。この過程で社会的対象が物的対象となり、リアリティを持つ。物に触る(作用)ということは、物に触られる(反作用、抵抗)ということであり、これも一種の相互行為。</p>
</div>
<p><b>他者の役割取得</b>：他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。他者の態度はたとえば「電車で静かにして欲しい」など。</p>
<p>・「<b>他者の役割取得</b>」と同時に、「<b>物の役割取得</b>」というものもある。人間は他者とだけではなく、物(自然や事物)とも相互作用を行なっている。他者の役割取得では「音」を通した内省が重要だったが、物の役割取得では「手」を通した内省が重要になる。手を通すことによって、頭脳において理解できるようになる(把握という言葉が「手でつかんでにぎる」というイメージはわかりやすい。実験して手で触ることで、理解できるのであり、科学理論などが形成されていく)。</p>
<blockquote>
<p>「ひとつは「他者の役割を取得すること(他者の役割取得)」(taking the role of others)であり,もう一つは,モリス(Charles W.Morris,1901～1978)が指摘しているように,「物的対象の役割を取得すること(物的対象の役割取得)」(taking the role of physical objects)である.端的に,前者の行為概念から,社会のなかの人間の精神や自我の形成が説き起こされており,後者の行為概念から,自然のなかの人間の科学技術的態度(精神)の形成が説き起こされている.」</p>
<p>「操作過程における接触経験,つまり大きさ,形,重さ,運動,抵抗などを,個人の態度に移入し内面化すること,つまり「物の態度を取得すること」(taking the attitude of things)によって,対象は,よりリアルなものとして確信される…….さて,このような科学の対象となる「物的対象は,社会的対象(socialo bject)からの抽象」である.別言すれば,「物的対象とは,自然への社会的反応から,われわれがつくりあげた抽象である」.自然や事物は,人間の知性の歴史的発展過程においても,個人の知性の発達過程においても,はじめに社会的対象であった.社会的対象である自然や事物とは,呪術的対象としてのそれであり,人間が前科学的態度,つまりアニミステイックな態度や擬人的態度で関わるそれである.原始人は,自然や事物に生命力(アニマ)を想定した.子供の遊びにもアニミステイックな態度を窺い知ることができる.「子供は物的対象を形象する以前に社会的対象を形象する」のである.このように,原始人や子供の態度は,自然や事物に,人間と同様に反応することを期待した擬人的態度である,といえよう.また,詩人は自然の情景や事物の相貌を美的象徴によって描写する.「詩人は,自分の周囲の事物と社会的関係にある」の83である.すなわち,われわれは,,「生命のない物的対象にたいして,&#8230;&#8230;社会的存在の態度を採用してしまう(24)」のである.自然や事物は,言葉とともに多様に知覚され,意味づけられ,価値づけられて現われる社会的対象である.そのような自然や事物への社会的反応の反復過程のなかから,・操作過程において抽象されたものが物的対象なのである。<span id="page19R_mcid1" class="markedContent"></span>」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」83-84P</p>
<p>「しかし、問題は容易には片付かない。この状況からそのまま意識が発生しうるとは言えないからである。なぜなら、川の向こうに食べ物があるという場合、注意は川や川底、川の向こうの様子や食べ物に向けられているだけで、食べ物を食べようとする自分の内的行為には向けられないからである。つまり、物理的対象との関係では、注意は専ら対象に向けられるのみであって、自分自身の反応に向けられることはないのである。ミードの用いた例を使うなら、例えば、天気が良くなるかどうかといった場合、注意が向けられるのは空の色や空気の具合であって、自分自身の行為ではない（1910c:p.404）。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」55P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">科学技術的態度(精神)</span></h3>
<p>「物の役割取得」は「他者の役割取得」と違って「自我の形成」を促すというより、特に「精神の形成」を促すという。ミードはこの精神を「<b>科学技術的態度</b>」とも表現している。人間は人だけではなく、物や自然とも相互行為している。もちろん「精神」は「反省的意識」とも呼ばれ、他者とのコミュニケーションが不可欠である。他者との交流、物との交流の両方によって精神が形成されていく。</p>
<p>例：石に「手」で触れることによって、石に手が触れている(作用)と同時に、石が手に触れている(反作用、抵抗)。手で操作することによって「物の態度(物的対象の内部)」を取得する。目で見ただけでは内部は取得しにくい。この操作によって、社会的対象から物的対象へと抽象化される。人間と同様に反応を期待するような社会的対象から、作用、反作用というような物的対象へと変わる。先祖の魂の石、庭の石、戦うための石というような具体的な社会的対象(前科学技術的態度)から、石一般という物的対象へと抽象化される段階へと移行する。こうした抽象化によって、「精神」が生じる。</p>
<h3><span id="toc27">コラム：デカルト、レイン、「にせの自己」</span></h3>
<p><b>デカルトの物心二元論</b>：世界は「精神(思惟体)」と「身体(外延体)」の２つによって成立していて、この２つはお互いに共通性のない実体であるという考え。精神と身体はまったく違ったカテゴリーに属していて、その両者の間には「機械的相互作用」があるだけ。体とは無関係な、純粋な「精神」が存在すると考えられている。精神が松果体(脳に存在する小さな内分泌器であり、デカルトは「魂の在処」と呼んだ)を介して脳をコントロールしていると考えられている。実体二元論。デカルトにとって精神とは、認識、意志、感覚、感情、欲望など。</p>
<p>ワトソンの「行動主義」にどこか似ている。ミードはこうした考えではなく、精神は単独で存在しているのではなく、身体を通して、また社会的な過程を通して発生するものだと考えられている。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/64afa802c20acebcde3c5bb6ce7aad4a.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2518" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/64afa802c20acebcde3c5bb6ce7aad4a.jpg" alt="" width="535" height="426" /></a></p>
<p>精神と身体は松果体(脳の視床下部にある)を通して機械的な相互作用を行うと考えられている。</p>
<p>炎の刺激で手が引っ込むようなイメージ。精神は身体を超然と傍観し、ロボットのように振る舞っている自分を自分が見ているようなイメージ。あくまでも身体はロボットのように動く。精神が認識や意志、思考、感情などをもつとされている。脳(身体)に働きかけるのが精神であり、脳(身体)が思考しているのではない。</p>
<p>精神と身体、主体と客体、主我と客我、概念と物体等々、二元論的に考えていくことにミードは否定的だった。また、精神や主我、主体と言われるものは生理的(身体的)過程であると同時に、社会的な過程であると考えられている。</p>
<p>機械的相互作用ではなく、主体的、内省的、相互作用の関係にある。両方の矛盾のせめぎあいの中にある(弁証法的)。問題的状況における解決をミードは「内省的弁証法」とも形容している。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b783f97fc386e303559a0cb186263b49.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2519" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/b783f97fc386e303559a0cb186263b49.png" alt="" width="745" height="345" /></a></p>
<p>対立、矛盾する役割を常に求められ、他人に操作され続けると、主我と客我は引き裂かれ、主我は奥にひっこんでしまう。そうして分裂病患者は自分の体を「<b>私ではないもの</b>」と考えるようになる。ミードはこうしたコンフリクト状況を解決する能力(創発的内省性、主我)が人間にはあるというが、実際には発揮できずに精神病になってしまう人もいる。</p>
<p>「一般化された他者」は経済が発達した世界において不可欠だが、一般化された他者が常にどんな場合でも過度に求められすぎる場合、主我が出る余地、求められる自己では自己が出る機会がなくなってしまうのではないか。もちろん「一般化された他者」はコミュニケーションのきっかけをつくり、「意味ある行為」にもつながる契機ともなる。</p>
<p>「ところが現実はどうだろう。こうした直接的人間関係というものが、いま現実にどこまで可能だろうか。いったい何人の人が、あなたをひとつの『全体』として見てくれているだろう。我々のうちの何人が、自分自身をまるごとの全体として捉えているだろう。社会から振り当てられた役割を演じ、込み入った相互作用の儀式とゲームのなかをさまよいながら、偽りの自己をせっせと紡ぎ出しているのが我々の現実ではないだろうか。」</p>
<p>(モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,17P)</p>
<p>これは自分の人生ですごく印象に残った文章です。社会学を学ぼうと思ったきっかけを作りました。</p>
<blockquote>
<p>「ところで、人間存在を純粋な論理思考と同一視し、知りうるべきことのすべてが理性を通して知られるとする考えの根底には、精神と身体、主体と客体とが、根本的に分離したものだという前提がある。思惟するとき、『私』というものが、どうしても外界と向き合って存在するように感じられるのは事実である。私の身体とその働きを『私』が認知するとき、『私』とはいま自分がそれについて考えている身体ではないという感覚が支配する。デカルト的方法を適用することで身体の機械的な働きは知ることができるが、そうやって知られる身体は、つねに私の認識対象としての位置に甘んじ、主体である私に重なることはない。デカルト自身の描いた客体としての人間像を『人間論』(一六六二)に探ってみよう。そこで人間の身体の働きは、ほとんどが機械的な反射によって作動する噴水装置にたとえられている。精神、すなわち『思惟体」(res cogitanus)と身体、すあんわち『外苑体』(res extensa)とは、まったく違ったカテゴリーに属するとされながらも、その両者の間に、機械的相互作用が存在する。炎の刺激で手が引っ込むという反応を例にとって、デカルトの描く『人間機械』を図３に示してみよう。手が炎に触れると、炎の粒子が指を遅い、管状神経のなかの一本の糸を引っ張り、これが脳のなかの『動物霊気』(これは機械的な微粒子と考えられている)を発射する。この霊気が神経を下り、手の筋肉を引っ張るというものである。</p>
<p>この図を見ながら、私は序章で紹介したレインの『にせの自己システム』に何とよく似ているのかという、不気味な感覚を生じえない。分裂病者はしばしば、自分の身体を『他者』『私ではないもの』とみなす。デカルトの図式でも、同じように、脳（内的自己）はからだの各部分を超然と傍観している。相互作用といってもいかに機械的であり、まるでロボットのようにふるまっている自分を自分が見ているかのようだ。そして、世界のすべてがこれと同じ捉え方で捉えられるのである。知覚と行動のすべてが、＜内＝ここ＞なる私が＜外＝ここ＞なる世界と分離してそれに向き合うという図式で理解されることになるのだ。これがデカルトの『二元論的パラダイム』なのだが、どうだろう、この二分法は、自己と世界ばかりか自己そのものを引き裂く『分裂症的パラダイム』としても見えてこないだろうか』</p>
<p>モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ」、34P</p>
<p>「『哲学という学問への示唆』(一九〇〇)と題する論文において、ミードは人間の思考は『問題的状況』においてコンフリクトの表現と問題解決を行うものであると述べている。思考は人間の内省過程において『問題的状況』をイメージに描き、その解決策を生み出し、行動の継続可能性を探るものである。かれはそのことを『内省的意識の弁証法』と呼んでいる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,34P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc28">プレイとゲーム、重要な他者とと一般化された他者</span></h2>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a4001cd6b69ba68a75982c8223ff2fe4.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2520" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a4001cd6b69ba68a75982c8223ff2fe4.jpg" alt="" width="820" height="566" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a4001cd6b69ba68a75982c8223ff2fe4.jpg 820w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/a4001cd6b69ba68a75982c8223ff2fe4-800x552.jpg 800w" sizes="(max-width: 820px) 100vw, 820px" /></a></p>
<h3><span id="toc29">プレイ段階とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>プレイ(play)</strong></span>：</big>・おままごとやごっこ遊びなどを通して、両親や先生など、重要な他者の役割を取得する段階。主に模倣の段階。空想的な演技。遊びとしての役割演技段階。</p>
</div>
<p>たとえば少女がよく行う「おままごと」や、少年がよく行う「ヒーローごっこ」など、(重要な)他者の役割を取得する過程である。他者との連帯感や他者理解を深める過程であり、自分(他者)の行為が他者(自分)の行為と似ている、という「<b>同一視</b>」が機能する過程である。</p>
<p>子供の頃は特定の他者の役割を取得していれば問題的状況や対立はおおよそ解決できる。困ったら親が助けてくれるし、関わる他者も大人ほど多くなく、期待されている役割も多くない。泣けば許してもらえることも多いのではないか。</p>
<p>プレイ段階における他者はいずれも、特定の母親、特定のヒーロー、特定の友人など、「重要な他者」と言われる他者の役割を取得していく。母親一般、ヒーロー一般、友人一般というように抽象化されていない、具体的な他者からの期待、態度を自分の中に取り入れていく過程である。</p>
<blockquote>
<p>「ミードは子供の自我形成を２つの段階に分けて考察している。第一の段階はままごとなどのごっこ遊びの『プレイ』段階である。そこにおいて子供は母親や父親、また先生やおまわりさんなどの役割を演じている。このような役割を演じることによって、親や大人の態度や期待を自己に結びつけて知り、それを通じて自分のあり方を理解するようになる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P</p>
<p>「プレイにおいて,子供は,両親や教師や物語の登場人物等のふりをして,それらの役割を半ば空想的に演戯する.」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P</p>
<p>「ミードが『精神』でいう「遊びとしての役割演技」から「規則に乗っ取った役割遂行」への移行にしても、子供が他者及び集団の役割を持続的に取ることで、自己のパlスペクティヴを批判し再構成し、その限りで相対化していく過程といえる。このように個人が他者の役割を取ることを一通して、自己のパlスペクティヴを再構成していく過程をミiドは「パlスペクティヴの組織化」といい、「社会が表しているもの」とはまさにこうした事態に他ならないという。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,30P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">ゲーム段階とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ゲーム(game,勝負)</strong></span>：</big>・野球などのゲームを通して、よく知らないチームメイトや敵の選手など、複数の他者の期待を組織化して、重要な他者だけではなく、一般化された他者の役割を取得する段階。規則(ルール)にのっとった役割遂行段階。</p>
</div>
<p>「<b>規則</b>(ルール)」が介在してくるというのがポイント。たとえばサッカーでは、ゴールキーパー以外はボールを手でつかんではいけない、というルールがある。自分のことだけや仲間のことだけを考えてルールを破っていたらゲームが成立しない。プレイ段階よりも多くの人間と接し、矛盾する役割とも接し、解決する必要がある時期。例：友人Aにはいじめを期待され、母親や先生、他の友人にはいじめをしないことを期待されるなど。そうしたコンフリクト状況を解決するために、「ふつうはいじめを期待されていない」といった「一般化された他者」をイメージし、組織化していく。社会性を獲得する段階でもある。「一般化された他者」は社会的自我の形成に不可欠。</p>
<p>チームのメンバー「みんな」に期待されている役割・態度であり、特定のチームのメンバーとの関係のみ、重要な他者との関係のみに期待されている役割ではない。そういうルールを学ぶことによって、「一般化された他者」が組織化されていく。いわゆる「客観的自我(客我)」である。</p>
<blockquote>
<p>「そこで、このコンフリクト状況を避け、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、組織化し、一般化する必要がある。そこに生まれるのが『一般化された他者』の期待である。このような『一般化された他者』の期待が野球やサッカーなどのゲーム遊びにおいて形づくられることから、この段階は『ゲーム』段階と呼ばれる。『ゲーム段階』において『一般化された他者』の期待が形づくられ、それとの関連において自分の自我が形成され、子供は十全な形において自我の発達を成し遂げようとする。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P</p>
<p>「いかにして個人は自己になるのか。ミードはさらに、この説明を「プレイ」と「ゲーム」の議論の中で展開する。彼は「プレイ」と「ゲーム」を「自己が社会的に生じる条件」(MSS153)であるとしつつ、「子供は、プレイにおいて、ある他者の役割を取得するだけであるが、ゲームにおいては、参加者すべての様々な役割を措定して、それに従って行為をつかさどっていかなければならない」(Mead:1924-1925)と述べる。彼は「自己」そのものによりも、むしろ直接的には、行為について、より正確には行為における他者の態度または役割の取得の仕方について言及する。このことを通じて、自己の発生のあり方が間接的に述べられる。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,38P</p>
<p>「.ゲームになると,プレイとは異なって,一定のルールが介在していよう.たとえば,野球では,ルールに基づく他者の役割を予め自分自身の態度にとり入れていなければならない.全体として,9人のメンバーそれぞれが,他者の役割を自分の態度にとり入れながら,自分のポジションに期待される役割を演じる,という有機的連関においてゲームは進行するのである」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">重要な他者とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>重要な他者(significant other)</strong></span>：</big>・両親や兄妹、友達、先生など、具体的・特殊的な他者。社会化の過程で、大きな影響をもつ人物。プレイは重要な他者の役割・態度・期待を模倣、同一化していく過程。個人と文化を媒介する他者。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「ここから、ミードは具体的な他者とのかかわりにおける『役割取得』による自我形成論を展開する。ミードによれば、子供自我は母親のような『意味のある他者』の期待の関連において形づくられる。『意味のある他者』は母親だけではなく、父親や兄弟姉妹、祖父母、また、遊び仲間、クラスメート、先輩、先生、そしてマス・メディアなど多く存在し、しかも、それは人間の成長・発達や社会の変化・変動によって変容する。そして『意味のある他者』が自分に対していかなる期待や要求・要請、、あた、気持、感情、意図をもっているのか、どのような意見や態度をもち、いかあんる評価や判断、あるいは規定づけを行っているのかが自我のあり方を形づくるのに重要な事柄となる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,55P</p>
<p>「社会化の過程で、大きな影響をもつ人物。たとえば両親や遊び仲間や教師など。諸個人は重要な他者の体現する役割・態度と同一化するなかで制度的規範を学習する。『一般化された他者』と異なり、より具体化・特殊化された文脈のもとで個人と文化を媒介する。」</p>
<p>「社会学小辞典」,291P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">一般化された他者とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>一般化された他者(generalized other)</strong></span>：</big>・複数の他者の多様な期待が組織化された他者。抽象的・一般的な他者。いわゆる「みんな」が言っている、というときの「みんな」。さらに個人と文化を媒介する他者。</p>
</div>
<p>他者が”一人”では自我が形成されず、”複数の他者”が存在することで「一般化された他者」が形成され、社会的自我が形成されていく。プレイ段階でも複数の重要な他者と接しているが、そこから十分に「一般化」ができていない。友達のりんご、母親のりんご、といったように具体的・特殊的な他者として現れていて、リンゴ一般が十分に想定されていない。母親にも暴力をしないことを期待され、先生にも期待され、友人にも期待され、と取得していくうちに「みんな」は暴力を嫌がっている」という一般化、組織化された期待へとつながっていく。そうした契機がゲームなどにある。</p>
<blockquote>
<p>「そして、自我形成にかかわる他者は一人ではなく、多くの人間が存在している。そこから、複数の他者の多様な期待が組織化された『一般化された他者』(generalized other)の期待が形成される。野球などの『ゲーム』遊びにおいて子供はゲームに参加するすべての人間の期待を考慮に入れなければならず、そこから参加者全員に共通した『一般化された他者』の期待を作り上げる必要がある。『一般化された他者』の期待をもつことによってゲームをうまく楽しむことができ、その過程において子供は十全な自我を発達しうるようになる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,6P</p>
<p>「G.H.ミードの用語。認知または内面化される社会的期待ないし規範の総体。一般的他者とも訳される。幼児からの相互作用の積み重ねを通じて、人はさまざまな他者の自分に対する役割期待を取り入れて、自我を形づくっていく。このことは、親や友達など個々の他者の役割期待の内面化にとどまらず、総合・一般化の過程を経て、社会一般の自分に対する期待、もしくは社会的規範の内面化へと進む。このようにして一般化された他者の役割期待の内面化が行われてはじめて、社会的自我をもった人間が形成される。」</p>
<p>「社会学小辞典」,21P</p>
<p>「プレイやゲーム,さらにその他の共同作業への参加をとおして,諸個人は,著79しく他者との連帯感や他者理解を深めることができる.それは,自分(他者)の行為が他者(自分)の行為に似ている,という「同一視」(identi丘cation)が,役割取得行動のうちに機能しておるからである.このような社会過程を経験することによって,個人は社会のなかの他者の様々な役割を有機的に組織化されたものとして,つまり「一般化された他者」(thegeneralizedother)の態度,あるいは「一般化された社会的態度」(the　generalized　social　attitude)として,自己の態度を形成するようになる。」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">制度</span></h3>
<h4><span id="toc34">制度とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>制度(institution)</strong></span>：</big>・ある特定の状況(問題的状況など)にたいする共同社会の全成員の側の共通の反応。共通の他者の役割。社会的対象のひとつ。たとえば売買の「経済制度」なども制度の一つ。リンゴは買うものだ、売るものだ、とうような社会の成員に共通の反応をもたらすような社会的対象。自我の形成においてはこうした共通の他者の反応、つまり「一般化された他者」をMe(客我)の中に取り込んでいくことで、自我が形成されていく。</p>
</div>
<p>例：泥棒という行為は「するべきではない、悪である」というある社会の共通の反応。こうした反応によって作られるものが実際の法制度などであると考えられる。</p>
<p>POINT：他の動物にも「社会」はある。では人間と動物の社会の違いはなにか。動物にも人間と同じく、コンフリクト状況や問題的状況はある。</p>
<p>→人間と他の動物の社会を区別する要素は「制度」にあるというのがミードの主張。人間社会は成員間のコンフリクトを「制度」を通じて知的に調整する社会であるという。どのように調整するか、というのが今まで学習してきた「意味の意識」を通じてである。つまり、他者の立場になってものを考えていくことで、一般化された他者を形成する。ふつうは暴力は良くないよな、という共通の反応が形成されていく。経済、法律、政治等々さまざまな「制度」として形成されていく。ふつうはしてはいけないようなことは法律でおおよそ禁じられているし、禁じられていなくても「道徳的によくないことだ」と共通の反応がある。</p>
<p>たとえば優先席を電車で譲らなくても法律では罰せられないが、道徳的によくないことだ、と高齢者や障がい者、妊婦等の立場になって反応することはある。じろじろ人を見るのはよくないな、タメ口はよくないな、といったようにさあまざまな共通の他者の反応が形成されていく。</p>
<p>重要なのは反射的に社会が調整されるわけではなく、知的に調整されるという点である。人間特有の遅延反応を通じたプロセスや、さらには人間の主体性、創造性をもったプロセスが重要になってくる。個人の行いが社会の共通の反応、制度を作っていくこともある。たとえば未成年が残酷な事件を起こした場合、制度として青少年保護条例の年齢を下げよう、という話になってくることもありうる。</p>
<p>ミードによると経済コミュニティは普遍的でもっとも抽象的な社会であり、人は売りてか買い手でありさえすればどのような人であれコミュニティの一員となれるという。こうした経済制度の特性を「より大きなコミュニティを作り上げる原動力」だとミードはいう。これは後で解説する、ユニバースオブディスコースの拡大の議論へとつながっていく。</p>
<h4><span id="toc35">制度の条件</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">人々の間になんらかの関係がある</li>
<li class="sample">関係がある人々の行動に対する社会的コントロールができるような社会的対象である</li>
<li class="sample">社会的コントロールを可能にするのに十分なだけの人々の社会化がされている</li>
</ol>
<p>社会化とは要するに社会性が拡大することであり、一般化された他者が拡大していくことです。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>創発的自己</strong></span>：</big>・自己を再建することは他者を再建することでもあるということ。そのような相互作用のなかに自己を位置づけられているということ。</p>
</div>
<p>自己を再建することと社会を再建することは相互的であり、制度や一般化された他者を自己の内に取り入れていく過程でその個人の中での制度が再構成されていき、いずれ多くの共同体の共通の反応になっていく可能性がある。例：ある個人がサッカーでボールを手でつかんで遊ぶとき、「普通は手でつかむものではない」という制度が、「手でつかんで遊ぶ別のゲームもある」というように変わっていき、フットボールになっていく。</p>
<blockquote>
<p>「しかしながらミードは,人間社会を,他の生物の社会とは根本的に違うものとして捉えている。その違いを彼は,人間社会における「制度(institution)」の存在に見い出している。どのような社会においても,成員はそれぞれ様々な個人的衝動をもっていて,お互いにコンフリクトを引き起こすものである。人間社会は,この成員間のコンフリクトを制度を通じてより知的に調整する社会である(Mead,1911:pp.44-5)。」</p>
<p>山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,222</p>
<p>「社会的対象としての制度もまた行為のイメージを含み,それを知覚している人々の行為をコントロールしている。このことは例えば経済制度を考えてみるとよい。売買は「売る」「買う」両方の行為を含んでいる。売る人も買う人も,どちらも自分の行為だけでなく,相手の行為をも行う準備ができていなければならない。売る人は,買う人の態度をあらかじめ内的にとっていることで,初めて売ることができる。社会的対象としての売買の制度は,「売る」と「買う」の両方の行為を含み,この行為の部分がこれを使う人の実際の行動をコントロールしているのである。ミードは,このような制度が成立するための条件として,次の三つをあげている。まず第一に,制度が成立しているためには,人々の間に何らかの関係がなければならない。関係のない人々の間に制度が成立するはずはないからである。第二に,制度が制度たるためには,それが関係している人々の行動をコントロールしうるような社会的対象でなければならない。このコントロールが,関係している人々の中で,ある程度強制的な社会的力をもっていなければならない。第三に,制度がそのような社会的力を保持し,コントロールを可能にしているためには,それをそのようなものとして認めうるほどに,人々が社会の他のメンバーの態度をあらかじめ内的にとっていなければならない。つまり十分に社会化されていなければならない。こうして,(1)人々の間に成立しているなんらかの関係,(2)これらの人々の行動に対する社会的コントロール,(3)このコントロールを可能にするのに十分なだけの人々の社会化,が制度成立のための条件である(Mead,1915a:p.154)。」</p>
<p>山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,223-224P</p>
<p>「ミードによれば,経済コミュニティはもっとも普遍的でもっとも抽象的な社会である。その中では,各人は売り手か買い手のどちらかであり,あらゆる人々があらゆる人々に対して,普遍的で抽象的な態度をとる。人は,売り手か買い手でありさえすればそれがどのような人であれ,このコミュニティの一員となれる。経済制度のこの特性は「より大きなコミュニティ」を作り上げる原動力である(cf.Mead,1934:chap.33,37)。」</p>
<p>山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,224P</p>
<p>「ミードは、『ある特定の情況にたいする共同社会の全成員の側の共通の反応』を『制度』と呼ぶ(Mead1934=1973:275)。この共通の反応(役割)を自のうちに取り入れたものがミーである。ミーはつねに制度の要求を代弁しており,この意味で「因習的」(Mead1934-1973:223)である。アイはこの内面化された共通の反応を計算に入れて、それに対する自分の反応を決める。アイは自覚的に制度の要求に応え,それに献身しようとするかもしれないし、惰性的にそれに従うかもしれない。だが、アイは制度の要求をんで、自分の主張を押し通そうとする場合もある。あるいは、制度の要求に作性的にまたは自覚的に従っているときでさえ,アイは自分が思ってもみなかったことをしてしまう場合がある。いずれにせよ,アイは制度の要求に対する自分の反応をとおして、制度に逆に影響を与え、不断に制度を変化させていく。1人の少年がフットボールのゲームで思わずボールを拾い上げて走りだしたことが新しい規則を生み、ラグビーという新しいゲームが作り出されたことは1つの例である。このようにアイの反応をとおして制度が更新されると、次には、それが新たなミーとして取り入れられ、それにともなって自己もまた更新されていく。ミードは、社会を前提としてはじめて存在しうるにもかかわらず、大会に対する反応をとおして、社会を変えていく、このようなこのあり方を「創発的自己」(Mead1934＝1973:227)と呼んでいる。」　※ミードによる「精神・自我・社会」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,58P</p>
<p>「社会の再建と自己や人格の再建との関係は相互的だし、内在的、有機的である。ある組織化された人間社会の個人メンバーたちによる社会的再建は、それら個人たちによる自己なり人格なりの再建を、程度の差はともなく必然的にともなっている。その逆も真である。なぜなら、かれらの自己なり人格なりはかれらの相互の組織化された社会関係で構成されているから、もちろんこれまた同様にかれら相互のの組織化された社会関係で構成されている所与の社会秩序を多少とも再建することなしには、かれらの自己なり人格なりを再建できないからである。」(Mead1934＝1973:329)」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,58P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc36">大人の自我形成</span></h2>
<h3><span id="toc37">大人の自我とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>大人の自我形成</strong></span>：</big>・子供のプレイの段階から、さらに「一般化された他者」が広く拡大されていく過程。特に、地域社会、国民社会、国際社会といった「コミュニティ(共同体)」全体の態度を取得していく過程とされている。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「大人の自我形成においては、この『一般化された他者』の期待は広く拡大されて、『コミュニティ』全体の態度を表すものとされる。『コミュニティ』は地域社会のみならず、国民社会、そして国際社会まで含められ、さらにはまた、現在時点のみならず、過去や未来にも広げられる。このように空間的・時間的に拡大された『一般化された他者』の期待とのかかわりにおいて自我の社会性が拡大され、自我は大きく展開することになる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,6P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">パースペクティブとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パースペクティブ(perspective)</strong></span>：</big>・世界に対する「眺め」であり、有機体と環境との関係、自己と他者との関係のあり方を意味する。</p>
</div>
<h3><span id="toc39">個人的パースペクティブとは</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>個人的パースペクティブ(perspective of the individual)</strong></span>：</big>・世界に対する個人の独自の眺め。</p>
</div>
<p>人間は役割取得を通して他者に特定のパースペクティブをもつようになる。例：「勉強をしなさい」と他者から期待されつつ、自分は「勉強をするかどうか選択する」過程がある。客我に対して反応する主我の観点がパースペクティブであるといえる。他者からの期待をそのまま自動的に行うのではなく、自分の視点を通して関係づける。</p>
<p>・それぞれの個人のおかれている環境、それぞれの人間関係が全く同じという人間はいない。それゆえに、パースペクティブは個人独自の眺めであり、流動的なものである。</p>
<p>・なぜ「<b>個人の独自性、個性</b>」を強調するのか。</p>
<p>「<b>機械論</b>」に反対するためである。機械論では人間の主体性、能動性、選択性は軽視され、すべて必然的な因果関係として行為が考えられている(例：大学進学を自由に、主体的に選択しているように見えても、因果関係の連鎖によって選ばされているに過ぎない)。</p>
<p>１：ミードにおいて特に「主我」は人間の主体性、能動性、選択性、創発性などの機能を担っている。つまり、個人独自の経験を重視し、そうした経験が問題的状況を解決できることを重視した。</p>
<p>２：パースペクティブは客体と有機体の関係の「<b>場</b>」として考えられている。たとえば「火」は「体を暖めるものである」といったように、有機体が火を意味づけた場合、行為を通した関係として捉えた場合、これは特定の人間のパースペクティブにおける「意味」づけとなる。つまり、この場所、この視点ではこういう意味だ、というように関係づけられていく。</p>
<h4><span id="toc40">パースペクティブと真理、客観的相関論と実在的相関論</span></h4>
<p>ミードにおいてそうした客体の意味(知識)は問題的状況を解決する状態に導く限り、「<b>真理</b>」となる。たとえば体が冷えているという問題を解決できるならば、そうした意味は真理とみなされる。それゆえに、真理は人の数だけあるということになり、流動的なものになる(ロウソクで暗闇を照らしていた時代もその時代では真理であり、電気で照らす時代もその時代では真理であり、同じ時代でもロウソクのほうが心も暖まるから良いと考える人もいれば、それも、その人の問題解決につながるかぎり、真理となる。)。</p>
<p>ただし、パースペクティブや真理は主観的なものでしかない、という意味ではなく、「<b>世界の真正な側面</b>」であるという。つまり、私のパースペクティブで捉えた真理も、あなたのパースペクティブで捉えた真理も、同じく真正であるということである。つまり、真理は人と行為と対象の関係性として真に客観的に実在することになる(「<b>客観的相関論</b>」、「<b>実在的相関論</b>」と呼ばれる)。</p>
<blockquote>
<p>ミードが「パースベクティヴ」という考え方を提出したのは「自然の機械論」がもたらした絶対的な時間──空聞から成る静態的で一元的な世界像を打破して「個人としての個人の経験」がもっ重要性を保持するためだった。また、彼のいう行為とは有機体が環境によるその「因果的決定」を行為の条件としつつ、その環境との特定の適合的関係の破綻である問題的状況を克服すべく環境を「選択的」に決定していく過程を意味した。その限りで、ミードのいう行為とは有機体と環境との「協同」(co-operation)の様相を明らかにするものといえるかもしれない。きて、ミードの「パースペーティヴ」概念は、こうした「個人としての個人の経験」及ぴ有機体と環境との「協同」の重要性とを共に含むものとして定義される。すなわち「パースペクティヴとは個人と関係する世界でもあれば、世界と関係する個人でもある。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」28P</p>
<p>「すなわち、パースペクティヴとは個人が世界と取り結ぶ特定の「関係」であり、個人はこの「関係」に基づいて世界に対して独自の「眺め円をもてるよう@になる||そうした「関係」である。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」28P</p>
<p>「ミードによると、大文字の『真理』や『真理』一般というものはなく、『真理』は常に個別的状況、特殊的状況に結びついている。そして、『真理』とは行為が停止するコンフリクト状況において問題解決が成功した状態を指しており、したがって、現実においては多くの『真理』が存在することになる。この点において、ミードは絶対的観念論に強く反応する。しかし、ジェームズとは異なり、『真理』はそれを達成した人の満足にではなく、問題の解決と同義語であると主張する。ミードにおいて、『真理』とは思考とリアリティの関係を表し、その関係は行為を持続させる最高生徒行為が進行するリアリティとの間に存在するものとなる。そして、思考による最高性は組織化されたリアリティと合致することになる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」35P</p>
<p>「こうしたパースベクティヴ概念の重要性は、それが次のことを認める点にある。すなわち「客体(object)は、それが関係づけられている世界の諸側面(aspects)と当の客体との関係のなかで存在す拘」。また、客体のもつ性質の一つである「色彩」(color)も「特定の個体の意識に呈示されるのではなく、世界と:::有機体との関係のなかに現れる」。こうして、パースベクティヴは客体及ぴその性質が現れてくる「場」とみなされる。しかもこの「場」は主観的なものと考えられてはならない。個人は世界と独自の「関係」を取り結び、それに基づいて世界に対して独自の「眺め」をもつようになる──その限りで「世界は各々の個人にとって異なった世界」となるのだが、このことは個人に独自のパ-スペクティヴに主観性を帯ぴさせるものではない。確かに、私の「眺める」世界とあなたのそれとは異なっているにしても、これらの私の「眺めた」世界とあなたのそれの双方とも世界の「真正な側面」聞SE52宮内Zであることに変りはないのである。すなわち、私のパースペクティヴはあなたのそれが「真正」であるのと同じく「真正」なのである。その意味で、パースペクティヴは主観的なものではない。特定の個人に国有のパースベクティヴ──ミードはそれを「個人的パースベークティヴ」と呼ぶ──は「社会的行為(social act)のなかで、個人が他者の役割を取ることを通して」組織化される。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」29P</p>
<p>「行為に対するこうした発想は、彼らの「真理」観にも表れている。例えばジェームズは、真理とは「解釈の遂行」であり「それを遂行した人の満足」であると考えた。またミードやデューイは、真理とは問題解決と同義語であると考える。個人と環境との間に不適応という問題状況が生じた際に、人間は知性を含む行為によって新たな仮説を形成し、問題を解決する。問題が解決され状況が再構成されたとき、仮説は真理となる。真理の基準は、思考の内部でなくリアリティの中に、行為との関係において存在するのである(船津1989,148-149頁)。」</p>
<p>小林さや香「ミードとプラグマティズム」31P</p>
<p>「人間(有機体)の行為と対象との「関係性」(relativity)こそが,真に客観的に実在する,という意味において,ミードの認識論的立場は,「客観的相関論」(objectiverelativism)ないしは「実在的相関論」(reali-sticrelativism)と特徴づけられるのである」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,82P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc41">共通のパースペクティブとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共通のパースペクティブ(common perspective)</strong></span>：</big>・人が自分が属する「全体としての社会」の「眺め」をもつようになった段階。バラバラなパースペクティブ(個人的パースペクティブ)に対するまとまりのあるパースペクティブ。「一般化された他者」の言い換えでもある。</p>
</div>
<p>共同体成員全ての人間の内にあるものであり、共通のパースペクティブは「<b>包括可能性</b>」をもつという。</p>
<p>・共通のパースペクティブが生じる原因：人間社会において個人が「<b>多様な役割</b>」を担うようになったから。→複数の他者から多様な役割を期待されることによって、そうした多様な期待をまとめあげる、一般化する必要が生じてくる。例：社員としての自分、家族としての自分、地域共同体としての自分、日本人としての自分、国際人としての自分、恋人としての自分、運転手としての自分、友人Aからみた自分、ネット友達Bからみた自分・・・というように多様な役割を担うようになる。たとえば社員としての自分と地域共同体としての自分は対立することもあるが、それらをまとめあげて、自分にもとめられている一般化された期待、一般化された他者からの期待をまとめあげる必要がある。上司からは犯罪行為を期待されているが、”普通”は期待されない行為だよな、という感覚。</p>
<p>「多様な役割」を担うようになった主な理由は、「組織化された集団的活動」が社会的行為として営まれるようになったからであり、それぞれの社会的行為に「共通の性格」が与えられるようになったからである。原始人などは多くの違う考え方、違う役割をもつ人間とあまり出会わないような社会であり、多様な役割を一般化する必要が現代ほど小さい。分業化が発展、経済が発展化していくにつれて人々は個性をもち、個人的パースペクティブをよりもっていくようになり、そのままでは衝突し合ってコミュニケーションができなくなってしまう。だからこそ、そうしたバラバラなパースペクティブをまとめ上げる必要が出てくる。</p>
<p>※社会的行為とは、他者と有意味シンボルを交換し合うことであり、特に問題的状況における問題解決をしようとする行為を指す。ミードの説明で言えば「目的──手段連関が無限に複雑になった行為」であり、「一つの個体以上の協同を含むもの」である。</p>
<blockquote>
<p>「『パースペクティブ』とは有機体と環境との関係、自己と他者との関係のあり方を表している。『パースペクティブ』はそれぞれの有機体または個人によって異なっており、また、一個の有機体、一人の個人においても、複数の環境条件、複数の他者の期待との関連において多様なものとなっている。ここから、人間は行為を継続させるためにも、バラバラな『パースペクティブ』ではなく、まとまりのある『パースペクティブ』をもつことが必要不可欠となる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」60P</p>
<p>「ミードは次のようにして「一般化された他者」を「共通のパースペクティヴ」(the common perspective)に言い換える。人聞社会における「組織化された集団的活動」の発展によって、個人は「多様な役割」を担うようになった。そして、これが可能になったのは、これらの「組織化された集団的活動」が、第一に、諸個人の社会的行為として営まれたからであり、第二に、それが、諸個人に何を為すべきかを示すに際して、諸個人の社会的行為に「共通の性格」(a common character)を与えたからだった。以上のことによって「個人は、自分自身を集団ないし共同体の態度において表明するに際して、一般化された他者(a generalized other)になることができる。この状況において、個人は彼が属する全体としての社会5082己主SFに対して明確な自我になったのである。これが共通のパースペクティヴである。それは共同体の成員全ての有機体の内にある」。ところで、ミードは「共通のパースペクティヴとは包括可能性(comprehensibility)であって、包括可能性とは共通の社会的条件(common social conditions)。自の観点から成きれる言明である」ともいう」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」31P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc42">他者のパースペクティブに入ってくためにはどうすればいいのか、知性、科学との関連</span></h3>
<h4><span id="toc43">知性</span></h4>
<p>・他者のパースペクティブに「はいっていく」ためにはどうすればいいのか</p>
<p>→「知性」を使う必要がある。とくに科学は知性のもっとも優れたものだとみなされている(後述)。</p>
<h4><span id="toc44">社会とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>社会(society)</strong></span>：</big>・共通のパースペクティブが個人の行為によって組織化されていく過程が社会化であり、過程そのものが「社会」である。</p>
</div>
<p>社会が科学的対象となるのは、個人的パースペクティブにおいてだけではなく、特に集団に共通のパースペクティブにおいて行為する限りにおいてだという。例：ある部族では男尊女卑だったが、ある個人の行為がきっかけで部族全体に男女平等であるべきという態度が広がっていく場合もある。この行為によって絶えず組織化されていく過程そのものが社会。</p>
<p>ミードの主張はゲオルク・ジンメルと重なる部分が多いと個人的に感じる。</p>
<h4><span id="toc45">科学による共通のパースペクティブ</span></h4>
<p>・知性として最高のものが「科学」であるとミードはいう。ざっくりしたイメージでいえば、「それはあなたの主観ですよね？」というものは共有されにくい面があるが、科学ではより客観的な手続きを経るので、共有されやすい(他者のパースペクティブに入っていきやすい)。お湯は１００°で沸騰するというパースペクティブは多くの人に共有できるかもしれないが、ピカソは美しい(あるいは美しくない)、というものは(科学に比べて)共有しにくい。</p>
<p>ミードは科学者という集団、共同体におけるコミュニケーションを重視している。科学者は不意の経験として例外に遭遇し、仮説を立てて、問題を解決していく。さらに、そうした例外や仮説の正しさが、集団においてすべての人によって経験可能なものであると立証する必要があり、共有される必要がある。→<b>知る手続き、理解する手続きが明確化されていて、共有しやすいのが「科学」</b>。それに対して宗教的な体験は共有されにくい面があるのではないだろうか。</p>
<p>特に科学において手続きが明瞭化されているという。実験をしたり計算したりすることで客観的に他者のパースペクティブが共通のパースペクティブとなっていく。また、個人的パースペクティブが共通のパースペクティブへと変わり、個人の例外的経験が共同体に変化をもたらしていく良いモデルとなるという。</p>
<p>・科学のコミュニティと同じように、<b>他のコミュニティでも個人の独自の経験が社会を変化させていく可能性をつねにもっているのであり、他の人へ経験が共有されていく可能性をもっている</b>。</p>
<p>・知るのを妨げる要因が除去されていくにつれて、個人が無限に多くの他者、集団へ参加していく可能性を含んでいくという。不合理な話は共有されにくい。</p>
<p>・個性的な人間、個人的パースペクティブが複雑になればなるほど、コンフリクト状況も増えていく。そうした状況を解決できる方法の一つとして、ミードは「科学的なコミュニケーション」を重視している。相手の立場に立ちつつ、知覚や操作によって創発的に問題を解決し、コミュニケーションしていく過程で、お互いに共通の視点というものが作られていく可能性がある。今までの古い習慣がコンフリクト状況を通して解決されることで、創発的に新しい習慣が生まれる可能性がある。変化に対して社会は常に開かれているのであり、社会とは個人と個人の関係の中にある。</p>
<p>・<strong>他者の態度取得が可能な範囲こそが、ひとつの社会の圏域</strong>。他者のパースペクティブに身をおくことが不可能になるところに、社会組織の限界線となる。</p>
<blockquote>
<p>「いまや、ミ-ドと共に「社会」(society)を次のように定義することができる。すなわち「社会が生起し、そこでの出来事が科学的研究の対象となるのは、個人が自分自身のパースベクニティヴにおいてばかりではなく他者のパーステクティヴ、特に集団に共通のパースペクティヴ(common perspective of a group)。においてもまた行為する限りにおいてのみである。ここで個人は、社会的行為のなかで持続的に他者の役割を取ることを通して自己のパースペクティヴを構成l再構成、つまり乗り超えつつ、より包括的な(ミード流にいえば「普通的な」)パースペクティヴに到達しようとするものとして現れる。個人が行うこうしたパースペクティヴの組織化の過程そのものが、ミードにとっての「社会」なのである」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」30P</p>
<p>「ミードは1917年の論文『科学的方法と個人の思考』のなかで、T.S.クーンの『科学革命の構造』(1962)を先取りするかのように、科学共同体におけるコミュニケーションについて以下のように論じている。科学者は、不意の経験として例外に装具sる。科学者は、その例外を説明しうる新たな仮説を立てることによって、既存の理論を乗り越えなければならない。そのためにはまず、その例外が彼だけの経験ではなく、同じ条件のもとにいるすべての人にとっても経験可能なものであることを確認しなければならない。すなわちその例外は、科学共同体の他者たちによって共有されなければならない。科学者たちは、たとえば手続きの明瞭化された実験方法や科学的論理的な言語といった、そのための方法を共有している。」</p>
<p>「クロニクル社会学」208P</p>
<p>「科学者共同体のコミュニケーション・モデルは、一般の社会に投影される。他者が自分や他の対象に対してとる態度を自分自身で取得できる、そうした人々のあいだのコミュニケーションを通じて、ある人の経験、思考、振る舞いやさまざまな対象の意味は、他の人々にも共有されるようになる。そして、他者の態度取得が可能な範囲こそが、ひとつの社会の圏域なのである。『社会組織の限界線は、他者たちのパースペクティブに自分を置くことが不可能となるところに見出される』(『パースペクティブの客観的リアリティ』1927)」</p>
<p>「クロニクル社会学」208P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">時間系の交差とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>時間系の交差(intersection of timesystems)</strong></span>：</big>・それぞれの時間的パースペクティブを互いに交換すること。他者の役割を共時的に取得していくこと。この過程を通して、「共通のパースペクティブ」がつくられていく。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「時間的『パースペクティブ』のまとまりに関して、ミードは『時間系の交差』(intersection of timesystems)として考察する。『時間系の交差』とは、それぞれの時間的『パースペクティブ』を互いに交換することである。それは他者の『パースペクティブ』に自己を置くこと、つまり『役割取得』過程を通じてなされる。この場合の『役割取得』とは、異なる時間的パースペクティブを同時に取得することである。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,60P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">パースペクティブの社会性とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パースペクティブの社会性</strong></span>：</big>・同時にいくつものことでありうる能力。複数の時間系に同時に自己を置けること。例：特定の友達の立場だけになって他の友達をいじめるのではなく、複数の友達の立場に自己をおき、共通の立場、視点、態度、期待をつくりあげていく。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「ミードにおいて時間レベルの『役割取得』は時間的に異なる他者の役割を『共時的』(simultaneously)取得していくことを意味する。時間レベルにおける『役割取得』によって、パースペクティブのまとまりが形作られる。ミードはこのことを『パースペクティブの社会性』と呼び、この場合の『社会性』を『同時にいくつものことでありうる能力』(Mead,1932:49)と規定している。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,60P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">ユニバースオブディスコースとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ユニバース・オブ・ディスコース(universe of discours)</strong></span>：</big>・コミュニケーションを行う人々が共有する意味の世界。ディスコースとは一般に、「言語で表現された内容の総体」を意味する概念、いわゆる言説。</p>
</div>
<p>POINT「社会性」は意味の共有を前提にして作り出される</p>
<p>・共通のパースペクティブの数だけユニバースオブディスコースや一般化された他者の数があることになる。視点の数だけ共有意味世界がある。</p>
<p>ユニバースオブディスコースはさまざまな規模で複数存在する。ある村だけに共有する意味世界もあれば、国に共有する意味世界もある。意味世界が拡大化されていくと、やがて国際社会の期待といったように、世界全体の意味世界の期待を個人が内面化していくことになる。</p>
<blockquote>
<p>「『意味のあるシンボル』によって行為者の間に意味の共有がなされて、そこにユニバース・オブ・ディスコースが生まれるようになる。ユニバース・オブディス・コースとはコミュニケーションを行う人々が共有する意味の世界を指している。『意味のあるシンボル』を媒介として他者の態度を取得することを通じてユニバース・オブ・ディスコースが形成されると、そこに『社会性』がもたらされる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」80-81P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc49">国際心とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>国際心</strong></span>：</big>・すべての他の国の存在を認めるような態度。ミードは社会性の拡大、国際心の必要性を説いた。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「かれは自我の社会性の問題を世界的規模まで拡大し、国際的レベルにおいて人びとが自国の利害を主張するその過程において、すべての他の国の存在を認めるような態度をとる『国際心』の必要性を訴えていた。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」37P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc50">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc51">主要文献</span></h3>
<p><a href="https://amzn.to/3byANva">G・H・ミード「精神・自我・社会」</a></p>
<p><a href="https://amzn.to/3xWRCrd">船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)</a></p>
<h3><span id="toc52">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc53">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc54">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc55">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00IR44T26/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00IR44T26&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=f2712c443f380f792438b51627b4e2de" target="_blank">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる！</a></p>
<h4><span id="toc56">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4880593508/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4880593508&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=009f3e2b26ad145fcf5b5b9af985ac34" target="_blank">社会学 第五版</a></p>
<h4><span id="toc57">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc58">クロニクル社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641120412/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641120412&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=70dbea010ff34843c3a086a108837a11" target="_blank">クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)</a></p>
<h4><span id="toc59">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
<h3><span id="toc60">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」(<a href="https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=154&amp;item_no=1&amp;attribute_id=20&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>２：笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/13/0/13_0_77/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>３：船津衛「社会的自我論の展開」(<a href="https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=2259&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>４：平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/25/1/25_21/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>５：山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/45/2/45_2_221/_pdf/-char/en">URL</a>)</p>
<p>６：岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/38/3/38_3_306/_pdf/-char/en">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2022/08/18/geoge-herbert-mead-3/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【基礎社会学第二十六回】G・H・ミードの「社会的行動主義」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/08/16/geoge-herbert-mead-2/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2022/08/16/geoge-herbert-mead-2/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 16 Aug 2022 10:29:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ジョージ・ハーバート・ミード]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://souzouhou.com/?p=2420</guid>

					<description><![CDATA[G・H・ミードの「プラグマティズム、社会的行動主義)」についての説明記事です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">G.H.ミードのプロフィール</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">プラグマティズムとは</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">プラグマティズムとはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">プラグマティズムに共通する要素</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">①「行為」を重視している</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">②「実利」を重視している</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">③「間違い」を重視している</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">④「創造」を重視している</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">プラグマティズムにおける真理とはなにか</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">C.S.パースが考えた真理</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">Ｗ.ジェームズが考えた真理</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">ミードが考えた真理</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">ミードにおけるプラグマティズムの要素</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">①「行為」を重視している</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">②「実利」を重視している</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">③「間違いを」を重視している</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">④「創造」を重視している</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">ミード特有のプラグマティズムの要素</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">①コミュニケーション</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">②主体と客体(精神と身体)の統合としての行為</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">③時間論</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">④パースペクティブ論</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">行為は意識であり、自己は他者であり、肉体は精神である</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">補論：プラグマティズムの代表者</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">１：C.Sパースのプラグマティズム</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">２：W.ジェームズのプラグマティズム</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">３：J.デューイのプラグマティズム</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">社会的行動主義</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">社会行動主義とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">ワトソンの行動主義</a><ol><li><a href="#toc33" tabindex="0">ミードはワトソンを批判している</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">【１】社会学的な文脈における「社会的行動主義」解釈</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">①ワトソンとの「違い」を強調する立場</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">②ワトソンとの「共通性」を強調する立場</a></li></ol></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">【２】心理学、生理学的な立場による「社会的行動主義」解釈</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">社会的行動主義の図による説明：外から内へのアプローチ</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">【１】生理学的、行動主義心理学的説明</a><ol><li><a href="#toc40" tabindex="0">行為とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">内的行為とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">外的行為とはなにか、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">人間と対象の関係</a><ol><li><a href="#toc44" tabindex="0">遠隔経験</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">接触経験</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">達成経験</a></li></ol></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">目的追求行動、コンフリクト、行動は意識である</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">【２】社会心理学的説明</a><ol><li><a href="#toc49" tabindex="0">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">シンボルとは、意味</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">ジェスチャーとは、意味</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">「有意味だと行為者が思っているだけ、『つもり』では有意味シンボルの交換にはならない」</a></li></ol></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">他者の役割交換とは、意味</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">人間以外の動物に意識は発生するのか</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">内的なもの、精神、意識、思考、自我等々をどうやって説明するのか</a><ol><li><a href="#toc56" tabindex="0">①生理学的な説明</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">②機能主義心理学的、行動主義心理学的な説明</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">③社会心理学的な説明(社会的な条件から心理を説明する)</a></li></ol></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">整理用</a><ol><li><a href="#toc60" tabindex="0">生理学とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">機能主義心理学となにか、意味</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">社会心理学とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">行動主義心理学とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">構成心理学とは、意味</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">身振り状況とは、意味</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">精神とはなにか、意味</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc68" tabindex="0">主要文献</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc70" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc71" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/5FEdJSpNdhc" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">G.H.ミードのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2283" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg" alt="" width="202" height="249" /></a></p>
<p>ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。</p>
<p>プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。</p>
<p>主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。</p>
<h2><span id="toc4">プラグマティズムとは</span></h2>
<h3><span id="toc5">プラグマティズムとはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>プラグマティズム(英：pragmatism)</strong></span>：</big>・プラグマティズムとは知識や価値の問題を「行為」に関係づけて理解する哲学の立場のこと。プラグマティズムに共通する主な４要素は行為、実利、可謬、創造である。パースが創始し、ジェームズやデューイが広めたといわれている。「行為」や「実行」を意味するギリシャ語の「プラグマ」が語源。</p>
</div>
<p>この3人に加えて、ミードを代表的プラグマティストとして加えるべきだと主張する人々が出てきた。例：社会学者のC・W・ミルズ、I・シェフラー、鶴見俊輔さんなど。</p>
<blockquote>
<p>「しかし、こんにち、ミードを代表的プラグマティストの一人として明確に指名するようになってきている。社会学者のC・W・ミルズ&#8230;&#8230;『社会学者とプラグマティズム』(一九六三)の『あとがき』においては、ミードを取り上げなかったことを『知的には許せない、代表性のないやり方である』と自己批判している。また、鶴見俊輔は&#8230;&#8230;ミードを『大衆思想史として世界の思想史を訂正する一つの新しい理論的枠組を作った人』として高く評価し&#8230;&#8230;D・リュッカーの『シカゴ・プラグマティストたち』(一九六九)においては&#8230;&#8230;一九七四年に出版されたI・シェフラーの『四人のプラグマティスト』(一九七四)においては&#8230;&#8230;」</p>
<p>「ジョージ・H・ミード」,30-31P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc6">プラグマティズムに共通する要素</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><strong>「行為」を重視している</strong><span style="color: #0000ff;"><strong>：知識は実際の行為過程で経験的に確認できるものとして理解される</strong></span>。「知識は行為の一部である」という言葉で表される。行為による結果を考えることができない知識は無用のものとされる。例：「氷」を知るとは、「氷そのもの」を知っているということではなく、氷を触ったら冷たい、氷に熱をあてると溶けるといった「行為の結果により判断できるもの」だと考えた。イデアといった客観的で超越的なもの(例えば「氷そのもの」)を行為によって知ることは難しい。科学の場合、行為とは主に「実験」。行為主義、行動主義。</li>
<li class="sample"><strong>「実利」を重視している</strong>：<span style="color: #0000ff;"><strong>知識は「問題解決」のための行為に向かうものではない場合は抽象的で無用なものとみなされる</strong></span>。例：「トウモロコシの育て方に関する知識」は食べるためなど、役に立つから有用なものとされ、かつ生産性の高い手法など、行為の結果を考えることのできるものである。「ある地域のあるトウモロコシの生産性が低い(困難)」→「水を減らしてみる(行為)」→「生産性が高まる(問題解決)」。トウモロコシそのものとはなにか・・と抽象的に考えても役に立ちにくい。実用主義、道具主義。</li>
<li class="sample"><strong>「間違い」を重視している</strong>：<span style="color: #0000ff;"><strong>人間の知識は将来的に誤りが発見され、修正される可能性があると考えられている</strong></span>。絶対的で客観的であり、人間や人間の行為とは無関係のあるような真理、もうこれ以上はなんら探究することがない知識というものは基本的には到達できないと考えられている。可謬主義。</li>
<li class="sample"><strong>「創造」を重視している</strong>：<span style="color: #0000ff;"><strong>絶対的で客観的な真理というものは難しいが、問題に対して試行錯誤を繰り返し、新しく修正していくという立場</strong></span>。</li>
</ol>
<h4><span id="toc7">①「行為」を重視している</span></h4>
<p>知識は実際の行為過程で経験的に確認できるものとして理解される。「知識は行為の一部である」という言葉で表される。行為による結果を考えることができない知識は無用のものとされる。経験、行為の結果が重視する。</p>
<p>例：「氷」を知るとは、「氷そのもの」を知っているということではなく、氷を触ったら冷たい、氷に熱をあてると溶けるといった「行為の結果により判断できるもの」だと考えていく。イデアといった客観的で超越的なもの(例えば「氷そのもの」)を行為によって知ることは難しい。科学の場合、行為とは主に「実験」。</p>
<h4><span id="toc8">②「実利」を重視している</span></h4>
<p>知識は「問題解決」のための行為に向かうものではない場合は抽象的で無用なものとみなされる。</p>
<p>例：「トウモロコシの育て方に関する知識」は食べるためなど、役に立つから有用なものとされ、かつ生産性の高い手法など、行為の結果を考えることのできるものである。「ある地域のあるトウモロコシの生産性が低い(困難)」→「水を減らしてみる(行為)」→「生産性が高まる(問題解決)」。トウモロコシそのものとはなにか・・と抽象的に考えても役に立ちにくい。実用主義、道具主義。</p>
<h4><span id="toc9">③「間違い」を重視している</span></h4>
<p>人間の知識は将来的に誤りが発見され、修正される可能性があると考えられている。絶対的で客観的であり、人間や人間の行為とは無関係のあるような真理、もうこれ以上はなんら探究することがない知識というものは基本的には到達できないと考えられている。可謬主義。</p>
<h4><span id="toc10">④「創造」を重視している</span></h4>
<p>絶対的で客観的な真理というものは難しいが、問題に対して試行錯誤を繰り返し、新しく修正していくという立場。創造的知性。</p>
<h3><span id="toc11">プラグマティズムにおける真理とはなにか</span></h3>
<h4><span id="toc12">C.S.パースが考えた真理</span></h4>
<p>真理とはみんなに共通する知識であり、真理はいつか収束する。真理はつねに更新されていく(可謬主義)。科学的施策の結果として現れる「真理」は科学者の社会によって審査された上で公認されるという立場(便宜主義)。</p>
<blockquote>
<p>「真理は科学者たちが作り出す共通の知識だ。探究を続けていれば知識の収束点に到達する。&#8230;&#8230;真理とは、みんなに共通する知識(概念)。真理はつねに更新されつつ、一つの収束点に向かう。」</p>
<p>「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc13">Ｗ.ジェームズが考えた真理</span></h4>
<p>真理は人それぞれ(主観的)であり、事実(客観的世界)と対応していない。事実がどうなってるかは問題ではない。真理は客観的かどうか、事実かどうかではなく、「私(個人)にとって有用であるかどうか」を基準に考えた。有用であれば真理とみなされる(実用主義)。宗教における神の信仰なども、有用であれば真理であるとみなされる。</p>
<blockquote>
<p>「真理はひとそれぞれ違う。だから人間の数だけ真理はある。真理は人それぞれ異なる。客観的な世界である『事実』がどうなっているかは問題ではない。」</p>
<p>「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P</p>
</blockquote>
<p><b>J.デューイ</b>(1859~1952)<b>が考えた真理</b></p>
<p>真理とは、納得できる証明がなされた客観的なものであるが、間違っている可能性をはらんでいる(保証付きの言明可能性)。事実(客観的世界)とは対応している必要はない。ただし、パースとは異なり、いつか客観的な知識の収束点に到達できるとは考えていなかった。学問や知識は、人間の行動に役立つ道具であるという考え方。知識はそのものに価値があるのではなく、知識を使った結果として有用性があるから価値がある(道具主義)。</p>
<blockquote>
<p>「保証付きの言明可能性。真理とは、納得できる証明がなされた客観的なもの。けれども人間と無関係に存在する『事実』と一致している必要はない。」</p>
<p>「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P</p>
<p>「パースによる可謬主義は評価するものの,パースの真理観は｢最終的に収束されるもの｣であり,｢会話｣のように終わりのない探求という真理観を持つローティからすると,その点がローティの言う｢プラトンーカント的な伝統｣から逃れられていないと見なされており,パースへの低評価の一因となっている｡」</p>
<p>大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」,48P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">ミードが考えた真理</span></h4>
<p>真理とは、問題解決と等しい。したがって、現実には特定の状況ごとに特定の、多くの真理が存在する(唯一絶対の真理は想定されていない)。ジェームズは個人が「満足」した点を規準にし、必ずしも問題解決と同義として扱わなかった点で違いがある。</p>
<blockquote>
<p>「ミードにおいては「真理」も「本質」と同様に、個別的状況に結びついたものである。したがって、現実においては多くの真理が存在することになる。先に述べたとおり、ミードにおいて真理は問題解決と同義である。問題状況において状況が再構成され、新しい仮説が採用されたとき、その仮説が真理となる。真理はリアリティの中にあり、常に変革を迫られているのである(船津1989,148-149頁)。もともとプラグマティズムは絶対的に真なるもの、絶対的に根元的なものの存在を措定しない。すべての命題は後人の追実験によって否定される可能性をもっている。そうした考え方が、.ミードのパースペクティヴ論によって確立されたといえる。」</p>
<p>小林さや香「ミードとプラグマティズム」33-34P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">ミードにおけるプラグマティズムの要素</span></h3>
<h4><span id="toc16">①「行為」を重視している</span></h4>
<p>「心的なもの(精神、意識、知性、主観)」は外的な「行為」を通して経験的・科学的な把握ができると考えた。ミードにおいて行為は「内的行為と外的行為」の２つの行為から構成される。今まではワトソンの行動主義のように、心的なものは科学的に捉えることができず、外的な行為の結果のみを観察の対象とするべきだとされていた。</p>
<h4><span id="toc17">②「実利」を重視している</span></h4>
<p>デューイに影響をうけ、「問題的状況」を克服するという意味での「行為」を重視した。</p>
<h4><span id="toc18">③「間違いを」を重視している</span></h4>
<p>反省的思考(意識、精神、内的行為、態度)による問題状況の解決こそが人間の知性であると考えている。</p>
<h4><span id="toc19">④「創造」を重視している</span></h4>
<p>「創発的内省性」を重視した。「創発的内省性」とは、他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくるという考え。「一般化された他者」など、「共有の意味世界(共通のパースペクティブ、ユニバースオブディスコース)」が広がっていくことは「同質化」を必ずしも意味せず、コミュニケーションに繋がり、新たなものが創発されていくと考えた。</p>
<h3><span id="toc20">ミード特有のプラグマティズムの要素</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>コミュニケーション</strong></span>：他者とのコミュニケーション(社会的「行為」)を通じて有意味な会話を内面化することによってはじめて反省的思考が可能になると考えられている</li>
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>主体と客体(精神と身体)の統合としての行為</strong></span>：行為は衝動、知覚、操作、完了の４局面から構成され、すべての局面に精神的過程と生理的過程の両方が含まれていると考えられている。どちらかだけに絞って分析する、どちらかを把握不能として切り捨てることはできないとされている(相即的な関係)。また、内(精神、意識)的なものは、孤立して存在するのではなく、他者との関わり合いにおいて社会的に形成されると考えられている。</li>
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>時間論</strong></span>：人間は現在の行為を決める際に、過去を再構成すると同時に、未来をイメージしているという。ミードにとって過去は実際の過去そのものではなく、常に現在という枠を通じて作り直されていくものである。未来は予測不可能であり、現在という枠を通じて常に作り直されていく。唯一の正しい過去も唯一の正しい未来というものもなく、常に構成されていくのであり、「批判されてまたテストされる」といういわゆる「リサーチサイエンス」の発想につながっていく。プラグマティズムとの関連では「可謬主義」に近い。</li>
<li class="sample"><span style="color: #0000ff;"><strong>パースペクティブ論</strong></span>：パースペクティブとは「世界に対する個人独自の眺め」であり、それぞれの眺めの数、関係の数だけ「真理」がある。</li>
</ol>
<p>※小林さや香「ミードとプラグマティズム」を参照</p>
<h4><span id="toc21">①コミュニケーション</span></h4>
<p>他者とのコミュニケーション(社会的「行為」)を通じて有意味な会話を内面化することによってはじめて反省的思考が可能になると考えられている。</p>
<p>→人間の「自我」は他者との関わり合いにおいてはじめて形成される。人間特有の意味のあるシンボルを通したコミュニケーション、特に「音声」が重視されている。</p>
<p><b>意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション</b>：行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、「意味のある他者(重要な他者)」という。※「一般化された他者」であっても「有意味」という。動画では記載し忘れていましたm(_ _)m。多くの他者とコミュニケーションを行うためには、重要な他者だけではなく「一般化された他者」を自分の中に形成してく必要があります。重要な他者・一般化された他者については次回の記事で詳細を扱っています。</p>
<h4><span id="toc22">②主体と客体(精神と身体)の統合としての行為</span></h4>
<p>「行為」は衝動、知覚、操作、完了の４局面から構成され、すべての局面に精神的過程と生理的過程の両方が含まれていると考えられている。特に知覚、操作は「内的行為」として位置づけられ、人間特有の精神や意識に大きく関わる要素である。※社会的行動主義の項目で詳細を説明</p>
<p>→主体(精神、意識、内的なもの)を社会における行為という観点から説明しようとしたことがポイント。外から内へのアプローチ。社会的行動、社会的行為から出発して内的なものを捉えていく(<b>社会的行動主義)</b>。</p>
<p>どちらかだけに絞って分析したり、どちらかを把握不能として切り捨てることはできないとされている(相即的な関係)。また、内(精神、意識)的なものは、個人に孤立して存在するのではなく、他者との関わり合いにおいて社会的に形成されると考えられている(内的なものの全体性であり、要素還元主義の否定)。自我は社会的現象。</p>
<h4><span id="toc23">③時間論</span></h4>
<p>人間は現在の「行為」を決める際に、過去を再構成すると同時に、未来をイメージしているという。ミードにとって過去は実際の過去そのものではなく、常に現在という枠を通じて作り直されていくものである。</p>
<p>未来は予測不可能であり、現在という枠を通じて常に作り直されていく。唯一の正しい過去も唯一の正しい未来というものもなく、常に構成されていくのであり、「批判されてまたテストされる」といういわゆる「<b>リサーチサイエンス</b>」の発想につながっていく。プラグマティズムとの関連では「可謬主義」に近い。</p>
<p>自我も客我と主我との相互作用によって常に構成されていく、流動的なもので、テストされていき、新たな仮説に基づく行為、問題解決、真理を創造していく。</p>
<h4><span id="toc24">④パースペクティブ論</span></h4>
<p>パースペクティブとは「世界に対する個人独自の眺め」であり、それぞれの眺めの数、関係の数だけ「真理」がある。</p>
<p>ミードによれば真理とは「<b>問題が解決した成功の状態</b>」である。個人と環境との間に不適応という問題状況が生じた際に、人間は知性を含む行為によって新たな仮説を形成し、問題を解決する。問題が解決され状況が再構成されたとき、実際に行為の結果として解決されたとき、仮説は真理となる。</p>
<p>→何が問題状況かはそれぞれのパースペクティブ、それぞれの状況、それぞれの社会によって変わり、その問題解決の手段、仮説、行為もそれらに応じて変わる。絶対的な不動の真理というものはなく、常に問題的状況の変化に応じて変化していく、流動的なもの。ただし、真理は主観的なものにすぎない、という話ではなく、人それぞれ、行為によって、具体的な状況における真正な側面、リアリティ、本質との関係を結んでいるというイメージ。</p>
<p>※パースペクティブについては次回の記事で説明してます。</p>
<h3><span id="toc25">行為は意識であり、自己は他者であり、肉体は精神である</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/35cb837b46005a736eb402928490a059.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2447" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/35cb837b46005a736eb402928490a059.png" alt="" width="705" height="455" /></a></p>
<p>POINT１：行為は意識である。</p>
<p>POINT２：自己は他者である。</p>
<p>POINT３：肉体は精神である。</p>
<p>一見対立するものを切り離せないものとして、相互作用の関係、過程として説明しようとするのがミードの基本的なスタンス。どちらかを孤立した要素として扱うことは難しい。極端な観念論も極端な実在論も否定。どうやって観念と実在(リアリティ)を関係づけるかというのがポイント。ミードの結論は、「行為」、特に「他者との社会的行為」によって関係づけるということ。</p>
<h3><span id="toc26">補論：プラグマティズムの代表者</span></h3>
<p>※この項目は掘り下げない。いずれ哲学のカテゴリーで扱う予定。</p>
<h4><span id="toc27">１：C.Sパースのプラグマティズム</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>C.Sパース(Peirce,Charles Sanders)</strong></span>：</big>１８３９～１９１４。アメリカの哲学者であり、プラグマティズムの祖とされている。パース本人は「プラグマティシズム」と呼び、W.ジェームズがパースの主張を「プラグマティズム」と命名したらしい。</p>
</div>
<p>・パースの主な主張</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">批判的常識主義(critical common-sensism)：<span style="color: #0000ff;"><strong>永遠に批判されない、疑われない常識というものはないという立場</strong></span>。人々にとって「疑いようのない信念」というものが存在するが、それは「今日この場で思索するわれわれにとって疑い得ないというという程度」のものにすぎないという立場。</li>
<li class="sample">マチガイ主義もしくは可謬主義(falliblism)：<span style="color: #0000ff;"><strong>間違った推測に基づいた議論を行っているかもしれないという可能性を常にはらんでいるという立場</strong></span>。マチガイを重ねながら、そのマチガイの度合いが少なくなるように進むことはよいことであり、良い機会だとした。絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性などは経験的知識の積み重ねでは達することはできないという(ただし、パースの真理観としては最終的には収束していくという、つまりマチガイの程度は少なくなっていく)。論理学的可謬主義。</li>
<li class="sample">プラグマティズムもしくはプラグマティシズム(pracmatism)：<span style="color: #0000ff;"><strong>抽象的な概念は実験され得るような形に直されるとき初めて意味がはっきりするという立場</strong></span>。例：ある物質が「硬い」という概念は、他の物質で引っ掻いても傷がつきにくいといったような他の関わり、実験(テスト)を通してのみ判明するという立場。「重力」という概念も、上向きの力を加えなければ落下するというテストによって、その効果によって意味がはっきりする。プラグマティズムの格率(プラグマティック・マクシム)。</li>
<li class="sample">便宜主義：<span style="color: #0000ff;"><strong>科学的施策の結果として現れる「真理」は科学者の社会によって審査された上で公認されるという立場</strong></span>。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「・批判的常識主義(criticalcommon,sensism)人々にとって「疑い得ない信念」というものが存在するが、それは「今日この場で思索するわれわれにとって疑い得ないという程度のもの」にすぎないのであり、永遠に批判を排するものではない。・マチガイ主義/(早川操によれば可謬主義)⑫niblism)絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性などは経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識はマチガイを重ねながら、マチガイの度合いの少ない方向に向かって進む。マチガイこそは知識の向上のための最:もよい機会である。&#8230;&#8230;・プラグマティズムまたはプラグマティシズム(pragma重ism,pragmaticism)抽象的な概念は実験され得るような形に直されるとき初めて意味がはっきりする。仮説を選ぶときにも実験され得る形に直らないものは採用してはいけない。&#8230;&#8230;・便宜主義科学的思索の結果として現れる真理なるものは、科学者の社会によって審査された上で公認される。この場合科学的知識は、その時その場所の科学者集団にとっての社会的便宜によって決定される。」</p>
<p>小林さや香「ミードとプラグマティズム」,34P<br />
「パースは実験科学的見地から次のような結論に至る｡我々の概念の対象が及ぼすと我々に考えられる諸々の効果を.しかも実際と関わりがあると考えられるかぎりでのそうした効果をとくと考えてみよ｡その結果得られる,それらの効果についての我々の概念がすなわちその対象についての我々の概念のすべてである[Peirce1878:45】パースはこのような哲学的立場を｢プラグマティック･マクシム(プラグマティズムの格翠)｣と名付けた｡パースは続けてこの格率の適用例を挙げている｡ある物質が｢硬い｣とはどのようなことか?それは,その物質が他の物質で引っ掻いても傷がつきにくく,テーブルの上から落としても壊れにくいというようなことであって,その｢硬さ｣とはテストに付されてはじめて判明するものである｡あるいは,ある物質の｢重さ｣とはそのようなことか?それは,その物質に上向きの力を加えなければ,物体は落下するということである｡パースによると,｢重力という言葉で我々が意味するものそれ自体は,その力が生み出す効果のうちに完全に含まれている[Peirce1878:48】｣ということになる｡」</p>
<p>大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」47P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc28">２：W.ジェームズのプラグマティズム</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ジェームズ(James,William)</strong></span>：</big>・1842~1910。アメリカの哲学者であり、心理学者。プラグマティズムの指導者。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">真理の有用性(実用主義)：真理は客観的かどうか、事実かどうかではなく、「私(個人)にとって有用であるかどうか」を基準に考えた。有用であれば真理とみなされる。科学だけではなく、宗教、人生、道徳など多くの分野でも実用主義の立場をとった。たとえば宗教的な信念を誰かがそれを正しいと信じることに役立つならば、その人にっててその信念は真理であるとみなされる。自分とは無関係に真理があるという立場ではない。</li>
</ol>
<h4><span id="toc29">３：J.デューイのプラグマティズム</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>デューイ(Dewey,John)</strong></span>：</big>・1859~1952。アメリカの哲学者であり、心理学者。パースに学んだ。機能心理学の開拓者。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">保証付き言明可能性：「探究」は①「探究の先行条件」、②「問題の設定」、③「仮説形成」、④「推論」、⑤「仮説のテスト」を通して真理へ至るとデューイは考えた。しかし、この真理は信念や「知識」といったような固定した、閉じたものではなく、探究が言明を保証したという意味で真理なのであり、この真理は間違っている可能性を含んでいて、新しい探究への可能性が開かれているとした。真理は「実践(行為)」によって裏付けされて獲得していくべきであり、失敗をはらんでいる(創造的知性)。試行錯誤なしに真理は獲得できない。可謬主義。</li>
<li class="sample">ダーウィン化されたヘーゲル(ローティーによる理解)：ヘーゲルの弁証法は、矛盾し合う2つの概念がよりひとつの高次な概念へと統合され、よりよいものへと進化、最終的には真理へ達するというような主張である。ダーウィンは『種の起源』などで、進化は偶然性をはらみ、特定の環境で有用な性質をもった種の生物がその環境に適応したものだと考えた。デューイはこの2人から影響を受け、真理とは究極的なもうこれでいいといった到達点ではなく、現在の環境に「適応」したものであり、時代が変わればその最良とされていた真理も代わりうると考えた。真理への探究は常に探究へと無限に開かれ、常に失敗の可能性をもっていると考えた。</li>
<li class="sample">道具主義：学問や知識は、人間の行動に役立つ道具であるという考え方。知識はそのものに価値があるのではなく、知識を使った結果として有用性があるから価値がある。知識は道具であり、道具は実際に使わないと意味がない。行動は状況に対する適応反応であり、動物は困難を避け、よりより状況を作り出すように行動する生き物。知識は困難を回避するための道具ではならないという立場。例：トウモロコシを育てる知識は人間の役に立つ。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「デューイは,論理学とは｢探求の理論｣であると考えていた｡それによると,探求とは①疑念の発生という不確かな状況からの｢探求の先行条件｣,②問題を立て探求が始まる｢問題の設定,③与えられた問題状況から観察によって解決策を仮説として立てる｢仮説形成｣,④その仮説をより明確な観念へと変化させる｢推論｣,(彰仮説が実験され,その結果が秩序ある全体を形成し,統一され完結したとき証明される｢仮説のテスト｣という五つの過程を経て真理-と至るが,その真理は｢信念｣や｢知識｣といった閉じたものではなく,｢探求｣が言明を保証し,その言明は可謬的であるため,新たな｢探求｣への可能性が開かれた｢保証付き言明可能性｣と呼ばれるのである｡」</p>
<p>
大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」,55P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc30">社会的行動主義</span></h2>
<h3><span id="toc31">社会行動主義とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>社会的行動主義(Social Behaviorism)</strong></span>：</big>・行動主義心理学と社会心理学の２つの取り組みを統合した立場のこと。「社会的行動主義(社会行動主義)」という用語自体はミードは一度も用いたことがなく、ミードの文章を編集したモリスが『マインド・自我・社会』(1934)の副題に創作して挿入したものだと言われている。ミードが「行動主義」の立場を名乗った時期は、後期(1922年の「有意味シンボルに対する行動主義的説明」から)だという。ミードこの言葉でいえば「ワトソンの行動主義よりも適切な行動主義」である。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「ミードの「主著」とされる『精神・自我・社会』はその典型である。例えぼ、その副題となった「社会行動主義」は、ほとんどの社会学・社会心理学の辞書に載っているほど著名な術語として定着してきたものだが、しかしこれはミードが一度も用いたことのない語を編者が創作して挿入したものなのである。」</p>
<p>徳川直人「G.H.ミードの社会理論一再帰的な市民実践にむけて」246-247P</p>
<p>「中でも有名な『精神・自我・社会』（1934）は、後期心理学の全体像を知るには格好の手がかりである。この本には奇しくも「社会的行動主義の立場から」という副題が付されているが、この副題がたとえ編集者の手によるものだとしても、この本の中にある次のような記述は興味深い。「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」（MSS:pp.40-1=訳p.45）つまり、社会的行動主義は、行動主義心理学と社会心理学とのふたつのアプローチを統合した立場なのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」46P</p>
<p>「ミードは『マインド・自我・社会』(一九三四)のなかで自己の立場を『社会行動主義』と標榜したとされている。しかし、『社会行動主義』というタームは実は編者モリスの造語であって、ミード自身はそれを使っていたわけではない。ミードはワトソンが一九一三年の行動主義宣言でもって表舞台に登場するずっと以前に、その基盤が形づくられていた機能主義心理学に対して、ただ新しい名称を与えること以外は何もしなかったのである。……ミード自身も、心理学は連合主義心理学、運動心理学、機能主義心理学、行動主義心理学へと発展してきていると述べている。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」42P</p>
<p>「ミードはこのように、人間の精神的過程を社会における行為という観点から説明しようとした。精神的過程も含めた人間の行為は、動的な全体としての進行中の社会過程の一部であり、複雑な有機的過程として捉えられる。ここからミード独自の行動主義が形成されることになる。それは、「動的で進行中の社会過程、およびその構成要素である杜会的行動から出発する」(ibid,p.7)という意味で、「社会的行動主義」(ibid,p.6)と名付けられた9&gt;。このように精神の全体性をとらえることによって、還元主義的心理学に異議を唱えただけではなく、単に刺激に反応するだけの受動的な人間像を否定して、自ら刺激を選択して反応するという能動的存在として人間を描きだそうとしたのである。」</p>
<p>小林さや香「ミードとプラグマティズム」,32P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">ワトソンの行動主義</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/87457f77eb1004d5c61dbe533dbe20e8-2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2448" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/87457f77eb1004d5c61dbe533dbe20e8-2.png" alt="" width="865" height="275" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/87457f77eb1004d5c61dbe533dbe20e8-2.png 865w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/87457f77eb1004d5c61dbe533dbe20e8-2-800x254.png 800w" sizes="(max-width: 865px) 100vw, 865px" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ワトソンの行動主義</strong></span>：</big>・心的なものは科学的、客観的に捉えることができず、外的な行為の結果のみを観察の対象とするべきという立場。</p>
</div>
<p>John Broadus Watson(1878~1958)はアメリカの心理学者。内観法を否定し、客観的に観察できる刺激と反応の関係、(パブロフの犬のような)条件反射などを研究すべきことを主張した。行動主義、行動主義心理学の創始者。</p>
<p>例：梅干しを見せて人間に刺激を与え、唾液が出た場合、唾液が出たという行為(行動)の事実を客観的に共有できる。梅干しを見て何を感じたかという、心的なものをわざわざ報告させる必要はない。</p>
<h4><span id="toc33">ミードはワトソンを批判している</span></h4>
<p>１：ワトソンが精神や意識を分析の対象から除外したことや、精神的な現象を目に見える条件反射などの行動のみに還元して説明しようとするアプローチを批判した。</p>
<p>２：精神や意識を行動主義の用語で「<b>還元</b>」することは確かに不可能だが、「<b>説明</b>」することは可能だと批判した。→直接的に観察することは不可能でも、「外的行為(行動)」から出発して間接的に説明すること、精神や意識の「機能」という点でアプローチすること(機能主義心理学)、生理学的、社会的に自我(内的行為)を説明することは可能だとした。</p>
<p>３：他者が観察できることのみを観察するという「<b>行動主義</b>」の視点を受け継ぎつつも、ワトソンよりもさらに進んで、他者が観察できる範囲を広げようとした。どちらも内観法を否定する点は同じ。他者が観察できる範囲はもう少し広いのではないか、内的な部分も少しはわかるのではないか、という拡張。</p>
<p>ワトソンによる内観心理学の否定：悲しいと被験者が意識、精神を口頭で説明したところで、そのデータが客観的に正しいかどうかわからない。涙を流した、逃げた、神経が動いた、といったような誰の目からみてもわかる客観的な「行動」で説明するのがワトソンの行動主義。</p>
<blockquote>
<p>「ミードのワトソン批判は、次のような引用に代表されよう。「ワトソンは、客観的に観察できる行動が、科学的な個人心理学及び社会心理学の領域を、完全にそして排他的に構成すると主張している。彼は、『精神』とか『意識』といった考えを誤りとして退け、すべての『メンタルな』現象を条件反射やそれに類似した生理学的メカニズムつまり、純粋に行動主義的な用語に還元するのである。」（MSS:p.10=訳p.13）このようなワトソンの行動主義に対し、ミードは次のように主張する。精神や意識を、純粋に行動主義的用語に「還元する」ことは不可能だとしても、行動主義の用語で「説明する」ことは不可能ではない。少なくとも意識や精神の説明を放棄したり、その存在を完全に否定する必要はない、というのである（MSS,p.10=訳p.13）。要するに、ミードとワトソンの違いは、問題関心の違いなのである。ミードの関心は意識の発生論にあった。これは初期からのミード心理学の課題である。ワトソンはこれを不可能として切り捨てたが、ミードの関心はまさにここにあった。そしてミードはワトソンが不可能としたこの領域こそ、行動主義によって説明可能となるのだとしたのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」48P</p>
<p>「行動を刺激に対する反応として捉え、それを客観的に観察するという方法を主張したワトソンの行動主義である。周知のように、ミードはこれを批判していた。マクフェイルは言う。「ミードがワトソンの行動主義を拒否したのは、ミードではなくワトソンがそのようなアプローチに設けた限界ゆえである。このことを多くのシンボリック・インタラクショニストが認識し損じている」(McPhail&amp;Rexroat:1979)と。ワトソンは周知のとおり、意識、精神、心的なものといった「客観的に観察不可能なもの」を方法論上その研究対象から除外していた、つまりそのア。フローチに限界を設けていた、それに対してミードは、ワトソンが取り組もうとしなかったそれらにもアプローチの手を伸ばしている、というわけである。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,308P</p>
<p>「ワトソンは、心理学の主題は行動である、と明言し、「人々はなぜ、今現に行っているように行動するのか」、またその行動を効果的に支配する方法は何かと問う。そして、これらの問題とその解決をすべて、「刺激と反応ということばに翻訳することができる」(Watson:1930:邦41)と考える。個体の行うことを、客観的に観察可能な刺激と反応とによって捉えるというのである、この要求は、心理学の自然科学化に準じており、その背景には、彼の強い問題解決志向が伺われる。ある個体の行動を、刺激Aに対する反応Bであると観察し、しかもそのいずれもが誰の眼にも同様に観察できるものであれば、研究者は、共有可能な観察結果をもとに、個体の行動について語り合うことができる。そして、求められる行動を喚起する適切な刺激は何か、排除すべき行動を排除するために排除すべき、または与えるべき刺激は何か、といった観点から、社会問題に取り組むことができるというのである。こうした行動主義的心理学を確立しようとするワトソンの努力は、当時の内観心理学に対する批判と一体を成している」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,310P</p>
<p>「ミードの言う、他者による観察可能性が、ワトソンの言う、研究者という特権的な他者による観察可能性とは全く異なるものであることも、今や明らかである。ミードは、自分のアプローチが行動主義的であるとすれば、それは観察可能な活動-進行中のダイナミックな社会的プロセスと、それを構成する社会的行為-から出発するという意味においてであると述べる(MSS7)が&#8230;&#8230;」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,313P</p>
<p>「彼は述べる。「内部から外部へ、ではなく、外部から内部へと進むのである」(MSS8)と。他者によって観察可能なプロセス(外部)を通じて、個人の内的経験のプロセス(内部)にアプローチする、というのである。彼はこのことを端的に主張する。われわれは、互いにそうすることが可能な、あるいはそうすることが個人の内的経験にアプローチする方法として最も妥当するような、相互行為のプロセスに巻き込まれているのだ。次のようなD・R・レインの表現は、このような状況についてのイメージを朋快に語るものであろう。「自己(われわれの文脈では行為の観察者)は、他者(同じく行為者)の経験を直接的に経験することはない。他者について自己が手にしうる事実は、自己によって経験される他者の行動である」(()内筆者)(Laing:1961:邦15)。こうした状況を仮定することによって初めて、ミードの、観察可能な行為のプロセスからの出発という要請は、一つの方法論上の主張として了解しやすいものとなる。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,314P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">【１】社会学的な文脈における「社会的行動主義」解釈</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>シンボリック相互作用論</b></span>：</big>・ブルーマーが創始。人間が物事を意味づけ、それに基づいた行為をすること、人間同士の行為によって社会が成立すると考える理論のこと。人間の主体性を強調し、人間が主体的に社会を成立させると考えた。相互行為の中で流動的に意味は変化し、社会も変化していく。パーソンズの構造機能主義理論は人間の相互行為は社会の維持のための機能として考えられており、人間の主体性を軽視しているという意味で、対照的に比較されることがある。</p>
</div>
<h4><span id="toc35">①ワトソンとの「違い」を強調する立場</span></h4>
<p>人間を消極的で受け身的な存在として考えるワトソンを否定し、積極的、主体的、創造的な存在として評価するミードの手法を強調する。船津衛さんやブルーマーなど、シンボリック相互作用論などではこうした解釈がされている。</p>
<blockquote>
<p>「まずシンボリック相互作用論の方では、例えば船津衛（1976）は、社会的行動主義を次のように解釈している。彼は、ワトソン流の行動主義心理学とミードの社会的行動主義を対置させて次のようにいう。「人間行動の外的・空間的分析によって、人間を消極的で受け身的な存在としてしか考えない自然科学的立場［ワトソンなど］に対し、ミードは、人間行為を、その内的・時間的な深まりと広がりにおいて究明し、積極的で主体的な人間像を明らかにする方法の必要性を説いたのである。それが、かれ固有の社会行動主義を提唱させるベースとなり、かれが終始一貫して追求した人間把握の科学的方法の中核をなすものとなっているのである。」（船津衛，1976:p.103）しかし船津の議論では、ワトソンとの違いを強調するばかりで、ミードがわざわざ「行動主義」という語を選んだ意図が明らかとはなっていない。科学的に「人間の主体性」を追求する方法論的立場とはいかなるものかについては、十分な説明がなされているとは思われないのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,42P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc36">②ワトソンとの「共通性」を強調する立場</span></h4>
<p>ミードの特徴は「<b>相互浸透的相互行為</b>」であり、「あらゆる所与の社会的相互行為の中で、参加者がお互いの一部」になっているという点を強調する。</p>
<p>→<b>一人の行動ではなく、二人以上の社会行動を扱うところにミードの社会的行動主義の独自性</b>を見いだした。L.S.コットレルなどがこのように解釈している。ワトソンの理論の発展型として捉えている立場。「<b>社会行動主義</b>(社会”的”行動主義ではなく)」といわれる。</p>
<blockquote>
<p>「他方、「社会行動主義」の立場は、ワトソンとの方法論的同一性を認めるところから始める。ここでは、この立場の代表としてL．S．コットレル（Cottrell,1980）をとりあげよう。彼はミード理論の42第１節社会的行動主義の立場主眼点は「相互浸透的相互行為（interpenetrativeinteraction）」にあり、これがミードの社会的行動主義の中心概念であるとする。相互浸透的相互行為とは、「あらゆる所与の社会的相互行為の中で、参加者がお互いの一部となっている」（Cottrell,1980:p.52）ようなものである。要するに、一個人の行動ではなく、二人以上の社会行動を扱うところに、ワトソンとは異なるミードの社会的行動主義の理論的特徴があるというわけである（cf.Lewis,1976:p.349）。そしてさらに、シンボリック相互作用論を含めこれまでのミード研究は、ミード理論の経験的研究を怠ってきたと批判し、ミードの理論の経験的検証を求めている（Cottrell,1980:p.60）」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,42-43P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">【２】心理学、生理学的な立場による「社会的行動主義」解釈</span></h3>
<p>意識の発生を論じるためには「社会」を扱う必要があり、そのため「社会心理学」が必要であるとミードは考えたが、あくまでも「生理学的心理学」の相補物であり、弱点を補うものとして「社会心理学」が位置づけられているという理解。</p>
<p>なぜ「行動主義」をミードが主張したのか、という点がポイント。「行動(行為)」を理解するためには社会的なもの(意識の社会的条件)だけではなく、物理的、生理学的、心理学的な理解が重要になる。行為は社会によって条件付けられると同時に、生理学的なものである。</p>
<p>※生理学とは一般に、人体を構成する各要素(細胞や器官など)がどのような活動を行っているか、その「機能」を解き明かす学問。中枢神経系は意識の発生にどのような機能を持つか、なども解明していくことが重要になる。生理学と心理学を「行為」によって関係づけることが重要。</p>
<p>人間の主体性や社会的な条件のみを強調して社会的行動主義を解釈するのではなく、生理学的、心理学的な条件との関係の中で、全体的に、過程として解釈するべきだという立場。山下祐介さんなどが主張しています(ミードによる意識の「心理学的説明」にもっと目を向けるべきだという立場)。</p>
<blockquote>
<p>「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」(ジョージ・I・ミード『精神・自我・社会』40-41P)</p>
<p>「いずれにしてもこれらの社会学的立場においては、社会的行動主義は、社会学の方法論として捉えられているようである。しかしながら、前稿に述べたとおり、ミードの研究歴は第一に心理学者のそれである。そして社会的行動主義は、心理学的研究のための心理学的な方法論的立場である。しかもそれは社会学者がいう意味での社会心理学の立場でもなく、第一に哲学的探求のための基礎をそしてその先には社会改革のための理想や方法の科学的基礎づけの作業が見据えられている与えるべく、意識の心理学的説明を供給するためにとられた方法論的立場である。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,43P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">社会的行動主義の図による説明：外から内へのアプローチ</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/35cb837b46005a736eb402928490a059-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2449" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/35cb837b46005a736eb402928490a059-1.png" alt="" width="705" height="455" /></a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8ab08740acfae442c45912a201cff2d7.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2429" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8ab08740acfae442c45912a201cff2d7.jpg" alt="" width="691" height="482" /></a></p>
<p>・「ごめんなさい」と言う「行為」は、客我において仮定した他者を前提としている。客我とは自我の要素のひとつ、内的行為の過程のひとつであり、「外的行為」によって「内的行為」を間接的に観察することが可能となる。</p>
<p>・ごめんなさいと実際に口を動かす(外的行為であり、目に見えて観察できる行為)前に、イメージとして自分で発してみて、自分のなかの他者の反応をたしかめ、その後で実際に口を動かす。そして口を動かした結果、自分はこういうふうに客我に対して主我が反応していたんだな、という内的行為がわかる。</p>
<p>・外から内へのアプローチ。あなたはどういう感情で言ったのか、と質問して直接的に内へアプローチするわけではない。行為の結果、あくまで外からアプローチし、観察する。</p>
<h3><span id="toc39">【１】生理学的、行動主義心理学的説明</span></h3>
<h4><span id="toc40">行為とはなにか、意味</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2450" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96.png" alt="" width="825" height="440" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96.png 825w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/8c9e71157610e260c680563b7f6dcb96-800x427.png 800w" sizes="(max-width: 825px) 100vw, 825px" /></a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行為(act)</strong></span>：</big>・有機体と環境を結び付けるもの。①行為は「内的行為」と「外的行為」の２つの行為の相互作用によって形成される過程。②行為には「１：衝動」、「２：知覚」、「３：操作」、「４：完了(達成)」という四局面がある。Handlung(ドイツ語)。また、行為には「時間」があり、行為は「一つの進行する出来事」、過程であるという点が重要。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>衝動(impulse)</strong></span>：</big>・有機体の自然的な欲求を感じている状態。個体と環境の間に適応を欠く状況であり、対象への対応が適切ではない状態。問題的状況。例：お腹が空いている</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>知覚(inception)</strong></span>：</big>・欲求を充足させるために、有機体が感覚器官によって刺激としての対象の特性を選択識別する過程(因果的ではなく選択的に環境を決定していく)。例：テーブルにある友達のパンを食べたらどうなるか、その結果をイメージする。操作の先取り。動物の場合は食べたらどうなるか、友達(他者)は食べたらどう思うか、ということを知覚する前に達成する(衝動から達成へ、刺激から反応へ一気に行く)。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>操作(manipulation)</strong></span>：</big>・欲求を充足させるために、手によって対象を直接的に操作したり、知覚過程を経過した記号を間接的に操作する過程(数式、観念、単位などを操作するケース)。例：手でパンをつかむ。手につかむことによってリアリティ(実体)が生まれる。物の「態度」を取得する過程ともいえる(物の抵抗を感じることによってリアリティが生まれる。手が物に触れることは[作用]、物が手に触れること[反作用]であり、その相互作用からリアリティが知覚される)。知覚の時点では未来の約束、仮定、記号(社会的対象など)であったリアリティが、現在に引き戻され、物質的なリアリティ(物的対象、大きさ、形、重さ、運動、抵抗など)をもつ。SNSでは美しいと思っていた異性と実際に会ったら想像と違っていた(あるいはイメージと同じだった)ようなイメージ。観念が行為によって実在になっていく。</p>
</div>
<p>「<b>精神</b>(科学技術的態度)」の形成と深く関わっている。手によってシッカリと対象を把握することと、頭脳において了解・理解することは密接であり、切り離せない。人間に手がなかったら、精神が発達していなかったかもしれない。原始人や子供は前科学的な態度であり、「物体に人間と同様に反応することを期待した擬人的態度」だという。プレイやゲームを通じて自我を形成し、手による接触を通して精神を形成していく。科学は最も発達した知性の形態でもあり、問題の設定、仮説の形成、データの収集、仮説の検証(実験などの行為)を通して問題解決を行う。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>完了(consummation,達成)</strong></span>：</big>・欲求の充足が実現される過程。例：食事が完了し、食欲は満たされ、空腹という問題的状況が解決する。</p>
</div>
<p>「価値」が生まれる段階でもある。「意味」は生物体と環境との関係にある。例えば、食べ物の意味は、その生物体がそれを「食べる」ことにある。実際に食事が達成、完了されることによって、価値や意味というものが生まれる。人間とパンの関係は「行為」によって生じる。</p>
<p>・自然や事物は知覚され、意味づけられ、価値付けられて「社会的対象」として存在し、また操作されることによって「物的対象」として存在し、行為によってどのように意味づけされ、価値づけされたかを認識する事ができる。内的行為の時点ではどう意味づけしていたかはわからないが、外的行為の時点で達成することによって、どう意味づけしてたか、価値づけしていたかが間接的にわかる。その人にとって、その状況においてパンの意味、価値は「食べる」ことにあったということが認識できるのであり、真理はパンを食べることによって問題が解決できたということである。空を飛ぶためには飛行機には羽がいる、と仮説し、実際飛ばせることができ、問題が解決できた場合、飛行機には羽がいるという仮説は真理となる。羽根がなくても飛べる、と仮説し、問題が解決できた場合でもそれは真理となる。状況は常に変わり、真理もそれに合わせて流動している。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>遅延反応(delayed response)</strong></span>：</big>・思考などの内的なものを活性化させるために、外的行為が一旦停止すること。中枢神経系などがその機能を持っているという。</p>
</div>
<p>actを行為と訳すか、動作と訳すか、あるいは行動と訳すかなどについて議論があるようだ。実際、行為だったり行動だったりと、論文によって違うことがある。</p>
<p>今回は人間の主体性、選択性などを重視するという平川茂さんの立場に準じて、内的「行為」と訳します。一方、外的行為は内的行為と違って生物的な要素が多いので外的「行動」と訳されることもあるようですが、個人的にごちゃごちゃしてしまうので外的「行為」で統一します。</p>
<blockquote>
<p>「ミードにおいて、行為とは有機体と環境を結び付けるものであり、それは外的行為のみならず、内的行為もまた含まれている。内的行為とは思考・知性・マインドなどを指している。人間は『問題的状況』においてこれまでの行為を停止し、『遅延反応』(delayed response)を示し、そこにおいて思考などの内的なものを活性化させるようになる。ミードによると、行為には『インパルス』、『知覚』、『操作』、『完了』などの四局面がある。『インパルス』は有機体の行為を開始させ、『知覚』は物的、社会的対象の知覚を行い、『操作』は接触対象を取り扱い、『完了』は行為が達成されることを表す。そしてどの生物有機体の場合も『インパルス』から行為が初められるが、人間においては『知覚』が大きな役割を果している。人間は行為を刺激→反応として生み出すのではなく、対象の『知覚』にもとづいて行為を形成する。『知覚』は対象の選択という積極的機能を有し、とりわけ、遠隔対象への構えを形成し、未来とのかかわりにおいて行為を導くものとなる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」36-37P</p>
<p>「ミードは、環境との不適応を解消するという問題解決の試みとしての行為、というプラグマティズムの行為論をさらに細かく分析する。ミードにおいて人間の行為は衝動(インパルス)によって発動し、数多くの刺激の中から反応すべき刺激を選んで反応することによって成り立つものである。ミードによると、行為には「衝動」「知覚」「操作」「完了」の四局面がある。その衝動は、基本的には生存を保持することへの欲求に基づいている。そして人間において最も大きな役割を果たすのは「知覚」である。「知覚」は対象の選択という積極的機能を有し、行為を導くものである。この四局面はひとつの流れを成しており、すべての局面に精神的過程と生理的過程の双方が含まれている。行為は、精神的過程と生理的過程を含む目的的な過程として捉えられるのである。ミードにとっては「身体の内部で起こるすべてのことは行為」なのであり、感情などの心理的過程も「行為の準備という観点、そして進行するものとしての行為そのものという観点から」扱うことができる(MSSp.21)。そして生理的過程と心理的過程の双方に対して行為という見地からアプローチすることで、二者間の相関関係を検討できるようにしようとした。そうすることによって、分断された心身を統合しようとしたのである」<span id="page128R_mcid3" class="markedContent"></span><span id="page128R_mcid5" class="markedContent"></span></p>
<p>小林さや香「ミードとプラグマティズム」,32P</p>
<p>「ミードは「行為」を次のように定義する。「環境への我々の第一次的な適合邑FEggs仲は個体宣伝iE包と環境の関係を決定する行為の内で行われる。行為とは刺激と反応と反応の結果とから成る一つの進行する出来事である。そして、それら(刺激と反応と反応の結果)の背後に特定の刺激への個体の感受性及ぴ反応の適切さと深く関わる個体の態度と衝動がある」。ミードの行為概念を理解するにあたっては次の二点が重要である。まず、行為が「個体と環境の関係を決定する」ということ。次に、行為がごつの進行する出来事」であり、その意味で行為の重要な要素として「時間」があること。今、第二の点についていえば、行為はとおくにある刺激を追い求める衝動によって始まり、@その衝動の充足によって終る。ミードはこうした「一つの進行する出来事」としての行為の内に「衝動」(impulse)「知覚」(preception)「操作」(manipulation)「達成」(consummation)という四つの「位相」(phase)を区別する。これらの位相はそれぞれ独自の仕方で「個体と環境の関係を決定する」のに与る。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,25P</p>
<p>「人間が直立歩行する動物であることは,自由になった前肢,つまり手によって対象を操作する動物であることと表裏一体の意義がある.&#8221;manipulation&#8221;「操作」の&#8221;mani&#8221;は手を意味しており,「操」は手(〓)でつかむ(桑)の意味である.手によって操作は可能になり,手は道具の道具であり,目的実現のための手段である.また,われわれは,ものごとをシッカリと了解したり,理解したりする場合,「把握した」と言う.このことは,手によってシッカリと対象を把握することから,頭脳において了解・理解する(精神的機能)ことへの転化を表わしている.その意味で,手の機能とは操作することであるとともに,了解・理解することである.」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,82P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc41">内的行為とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内的行為</strong></span>：</big>・思考、知性、精神などの領域。精神的過程。別の言葉では「態度」であり、「外的行動の準備段階」。または「内的反応」。</p>
</div>
<p>ただし、肉体とは無関係の主観的な世界という意味ではなく、あくまでも体内で生じる過程であり、生理学的、生物学的状態を指している。独我論のような極端な観念論(自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけ)をミードは批判している。</p>
<blockquote>
<p>「ミードのいう『社会的行動主義』にとって『行為』は『基本的な素材であり、それは内的及び外的な局面』をもつものとして位置づけられた。けれども、この場合の『内的局面』とは『別の世界すなわち主観的な世界にあるという意味ではなく、個人の有機的の内部にあるという意味』である。従って『我々は完成された行為ないしは社会的な行為ばかりでなく、個人の行為の始まりとして、また行為の組織化として中枢神経系の内で進行していることをも考慮しなければならない』。すなわち、ミードのいう『行為の内的局面』とは個人の特定の生理学的ないし生物学的状態をさすのである(稲葉・滝沢・中野訳『精神・自我・社会』青木書庖、一九七三、八、一O、一四頁)。尚、M・ナタンソンはミlードの『行為』概念を『刺激──反応パタンからっくりあげられる生物学的機能としての行為』と『主観性がもっ選択的・構成的機能としての行為』に区別し、『精神』は主に前者を扱うものだという……。ところで、actを『行為』と訳すことには異論があるかもしれない。実際、先の訳者たちはミードが『精神』でいうactは主として生物学的な意味をもっという理由で『動作』という訳語をあてている。ほほ同じ理由からK・ライザーも、それを&#8221;Handlung&#8221;と訳すことに反対する……。けれども、本稿ではJ23の内部構造を問題にする限り、それは先のナタンソンがいうように『主観性がもつ選択的・構成的機能』としても考えられるという立場から、『行為』と訳した。」</p>
<p>平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,35P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc42">外的行為とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外的行為</strong></span>：</big>・口の動き、手の動き、唾液の量、涙など体外で目に見えて生じる過程。主に完了(達成)段階。</p>
</div>
<p>ワトソンはこの領域のみを観察の対象にするべきだと主張し、ミードはそれを批判した。ワトソンの場合は外から内へ、ではなく外は外、内は内という考え方で、内はブラックボックスとして、不明であり、排除した。</p>
<h3><span id="toc43">人間と対象の関係</span></h3>
<h4><span id="toc44">遠隔経験</span></h4>
<p>人間と対象が「距離的関係」にある。色、音、香りなど。衝動、知覚の段階。</p>
<h4><span id="toc45">接触経験</span></h4>
<p>手による「接触的関係」にある。大きさ、形、重さ、運動・抵抗など。操作の段階。</p>
<h4><span id="toc46">達成経験</span></h4>
<p>目的(問題的状況に対する解決)を「実現する関係」にある。「価値性質」の段階。完了の段階。</p>
<p>POINT：色や大きさ、価値は物(客体、客観的世界)だけ、主体だけに起因するものではなく、人間の行為と対象の「相関関係」において出現するもの。行為と対象の「関係性」こそが真に客観的に存在する。関係は人によって、状況によって変わるので、真理もその数だけ存在する。ミードの認識論的立場は「客観的相関論」、「実在的相関論」などと言われる。主観的な相対主義ではない。</p>
<blockquote>
<p>「これらの行為過程との相関性から,自然や事物は主として次のような三つの特性を現わす.これらは,有機体(人間)と対象が距離的関係にある場合としての「遠隔性」(distant properties)(色・音・香り等)であり,手による接触的関係にある場合としての「接触性」(contact properties)(大きさ・形・重さ・運動・抵抗など)であり,目的を実現・達成する関係にある場合としての「実現性(価値性質)」(consummatory properties,&#8221;adjective of　value&#8221;)である.以上の対象の三特性を経験することは,ミードのタームに従うと,それぞれ「遠隔経験」(distant experience),「接触経験」(contact experience),「達成経験」(consummatory experience)である.色・音・香り・味・触れた感じ(冷暖・平滑性等)・大きさ・形・重さ・運動・抵抗・価値性質等は,客体および主体のいずれにも起因するのではなく,人間(有機体)の行為と対象との相関関係において出現するのである.上述した多様な三つの経験の世界が,ミードのしばしば使用するタームである「あるがままの世界」(the world that is there)である。人間(有機体)の行為と対象との「関係性」(relativity)こそが,真に客観的に実在する,という意味において,ミードの認識論的立場は,「客観的相関論」(objective relativism)ないしは「実在的相関論」(realistic relativism)と特徴づけられるのである.」</p>
<p>笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,81-82P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">目的追求行動、コンフリクト、行動は意識である</span></h3>
<p>・ミードにとって重要なのは誰の目にも見えるというようなワトソン的な「客観性」というよりも、<b>意識は行動(行為)であり、内的行為として扱うことができる</b>というアイデア。</p>
<p>そうした意味で、ミードは「行動主義」を自ら名乗った。純粋に考えれば、客観的、直接的に観察できない「意識」を行動によって観察するというのは「行動主義」と矛盾しているように見える。しかし、外的行動の中に内的なものが含まれていて、それを間接的に観察は可能であるとミードは考え、行動から観察できる範囲をワトソンよりも拡張しようとした。</p>
<p>そうした意味で、ワトソンの行動主義よりも適切な行動主義として、「社会的行動主義」が位置づけられる</p>
<p>１：有機体(人間)は<b>目的追求行動</b>をする。例：食欲を満たすという目的のために、パンを食べるという行為をする。熱いものに触れて反射的に手を離すといったものは行為でも、目的追求行動でもない。動物でもする行動。反射と内省は違う。内省は遅延反応によって生じる人間特有の過程。</p>
<p>２：ただし、意識は「<b>コンフリクト</b>(対立)」の状態でのみ意識が発生する。ほとんど習慣的、自動的な行動は自分を対象化しにくい。たとえば仕事で上司とトラブルが起きたときなど、そうした場合に相手の立場から自分(客我)というものを考える自分(主我)が生じ、問題解決のために創発的な意識を働かせる。目の前にパンがあれば動物と同じように自動的に食べてしまうかもしれないが、友達のパンであれば一旦立ち止まり、食べたら相手は自分のことをどう思うだろう、というように遅延反応(内的行為)を通してから外的行為(食べる)へ至る。実際に食べ終わった後(完了後)に、こういうことを考えていたんだ、というように内的行為、主我によって再構成された客我を間接的に認識し、価値付けられる。行為に関連付けて意識や意味、価値を考える。行為として現れないと捉えにくい。</p>
<blockquote>
<p>「ミードは意識を内的行為（行動）と捉えた。意識＝行為である以上、ミードの心理学は行動主義たらざるをえない。中期に到達していたこの見解からいって、後期ミードが行動主義を名乗るのは当然の成りゆきだったのである。こうしてミードにとって行動主義導入のもっとも重要な意義は、ワトソン流の行動主義が標榜する「客観性」にあったのではない。意識を行為（行動）として扱うこと、ここにあったのである（1925:p.251」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」,54P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">【２】社会心理学的説明</span></h3>
<h4><span id="toc49">意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション</strong></span>：</big>・：行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、「意味のある他者(重要な他者)」という。※「一般化された他者」であっても「有意味」という。動画では記載し忘れていましたm(_ _)m。多くの他者とコミュニケーションを行うためには、重要な他者だけではなく「一般化された他者」を自分の中に形成してく必要があります。重要な他者・一般化された他者については次回の記事で詳細を扱っています。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「そしてミードは、行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない、と言う。行為の有意味性は、他者たちが最初の行為をどのような刺激として受け取り、それにどのように反応したかということをいわば基準とし、それと同じように行為者自身が自分の行為を他者が受け取ったような刺激として受け取り、他者がするように反応できるかどうかということにかかっている、というわけである(4)。「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“standoveragainst”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc50">シンボルとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>シンボル(symbol)</strong></span>：</big>・ジェスチャー、サイン、言葉など。日本語でいうと記号。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「つまり、『意味のあるシンボル』となるのは自分が自分自身であると同時に他者でもありうる能力を通じてである。つまり、『意味のあるシンボル』とは『他者に向けられた時に自分に産められ、また自分に向けられる時に他者にも、それも形式上はすべての他者に向けられるようなジェスチュア、サイン、言葉』(Mead,[1922]1964-246.訳二五頁)」</p>
<p>「ジョージ・H・ミード」、78P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc51">ジェスチャーとは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ジェスチャー(gesture)</strong></span>：</big>・身振り、個体が行為しようとする構え、態度のこと。行為の内側にある領域。外側には現れないが、行為に属するものとミードは考える。ワトソンが軽視している要素。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/f9b5c76a29213d21af0cc92a1a2f6fff.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2452" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/f9b5c76a29213d21af0cc92a1a2f6fff.jpg" alt="" width="225" height="225" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/f9b5c76a29213d21af0cc92a1a2f6fff.jpg 225w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/f9b5c76a29213d21af0cc92a1a2f6fff-60x60.jpg 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/08/f9b5c76a29213d21af0cc92a1a2f6fff-120x120.jpg 120w" sizes="(max-width: 225px) 100vw, 225px" /></a></p>
<p>・ジェスチャーは行為者だけの意識の状態や、心的な構成物ではなく、他者の反応として客観的に存在するものだとミードはいう。たとえばコミュニケーションにおいて「好きです」と言うことによって他者が「私も好きです」と反応した場合などが挙げられる。自分の中の仮定による相手(客我)の反応と、相手の実際の反応が一致しているとき、ある人間の意識だけといった主観の把握ではなく、他の相手を通して客観的に把握できる可能性が開ける。告白のケースでは実際に発音する前に、内的行為において相手の立場になって、自分が告白したら「私も好きです」と言ってくれるだろうなと予測している態度、身振りのイメージ。</p>
<p>・特に音声ジェスチャーは他者と自己の両方の耳に入っていくため、コミュニケーションにおいてお互いの反応の一致を把握しやすい。自分の仮定(ジェスチャー)が外的行為(音声器官)によって、その一致が検証されるイメージ。自分の顔や表情などのシンボルはわかりにくい。</p>
<blockquote>
<p>「ではどのようにして行動主義の用語で意識が説明されるのであろうか。ミードは次のように論じている。「&#8230;行為の一部は生物体の内側にあり、それはただ後になって表出されるにすぎない。ワトソンはまさにこの部分を見落としているのである。行為の内側にある領域があり、それは外側には現われないが、行為に属するものである。そのような内的な生物体の行動の特質は、我々自身の態度（attitude）の中に、とくに会話と結び付いた態度の中に現われる。」（MSS:p.6=訳pp.8-9）こうしてミードは、意識を行動主義の用語で「説明」するための必要概念として、「行為の内的側面」、あるいは「態度（attitude）」の概念を導入するのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」49P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc52">「有意味だと行為者が思っているだけ、『つもり』では有意味シンボルの交換にはならない」</span></h4>
<p>・「おはよう」という音声ジェスチャーが相手に適切な反応、自分と同じ反応、を生じさせない場合、意味のあるシンボル交換とはならない。自分が「<b>通じるだろう</b>」と内的行為では仮定して、有意味だと思っていても、実際に音声器官によって外的行為を行い、相手が適切な反応をしなかった場合、それは有意味なシンボル<b>交換</b>を行ったとはいえない(<b>有意味シンボルを交換したつもりにすぎない</b>)。たとえば挨拶に反応してくれると予測したのに、無視されたなど。お辞儀をしてもある部族では敵対の意味として捉えられてしまうかもしれない。同じ日本人だから有意味シンボルになるコミュニケーションもある。</p>
<p>・シンボルが他者にも共通の意味として、有意味になるためには、共通の意味世界、「<b>一般化された他者</b>」も想定されている必要がある。ふつうはこういう状況ならこういう意味だよね、というような前提。日本における一般化された他者は、「おはよう」といえば「おはよう」と返してくれる前提がある。もちろん、特定の日本人は「返してくれない」という反応をされる場合もあり、その他者に対するイメージも再構成されていく(客我の変化)。</p>
<p>・必ずしも辞書的な言葉の意味ではなく、相手によって「ふざけるな」は「もっとやれ」という意味で一致する可能性もある。特定の他者の反応と、一般化された他者の反応の予測の２種類がある。特定の他者とはコミュニケーションできても、違う他者になった瞬間に、一般化された他者の反応を予測しないとコミュニケーションできない場合もある。コミュニケーションのたびに相手への印象、自分の中の他者は変わっていく(自我は流動的)。</p>
<p>POINT：社会的行動主義のフレームの中では、<strong>自己・行為者の行為は、彼が行為した(つもりの)ことではなく、<span style="background-color: #ffff99;">他者が観察したこ</span>ととして捉えられる</strong>。それゆえ、ある行為は、それを行ったと見なされるある特定の個人に帰属させて捉えられるものというよりも、<strong>それを何らかの行為であると同定する他者の観察、そしてさらに、その行為を捉えたことに対する他者の反応と、関連づけられ、その文脈の中で意味を持っていく</strong>ことになる。ここにミード独自の、行為・意味論の端緒が展開される。</p>
<p>POINT：ハンプティ・ダンプティの行為は、彼が行った(つもりの)ことではなく、<strong>アリスが受け取ったその行為であり、彼女がそれをどう受け取ったのか、彼女のそれに対する反応が、彼の行為に意味を与える</strong>のである。そしてミードは、<strong>行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない</strong>、と言う。「<strong>他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる</strong>」</p>
<blockquote>
<p>「第二に、この社会的行動主義のフレームの中では、自己・行為者の行為は、彼が行為した(つもりの)ことではなく、他者が観察したこととして捉えられる。それゆえ、ある行為は、それを行ったと見なされるある特定の個人に帰属させて捉えられるものというよりも、それを何らかの行為であると同定する他者の観察、そしてさらに、その行為を捉えたことに対する他者の反応と、関連づけられ、その文脈の中で意味を持っていくことになる。ここにミード独自の、行為・意味論の端緒が展開される。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P</p>
<p>「ハンプティ・ダンプティの行為は、彼が行った(つもりの)ことではなく、アリスが受け取ったその行為であり、彼女がそれをどう受け取ったのか、彼女のそれに対する反応が、彼の行為に意味を与えるのである。そしてミードは、行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない、と言う。行為の有意味性は、他者たちが最初の行為をどのような刺激として受け取り、それにどのように反応したかということをいわば基準とし、それと同じように行為者自身が自分の行為を他者が受け取ったような刺激として受け取り、他者がするように反応できるかどうかということにかかっている、というわけである。「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“stand　over　against”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc53">他者の役割交換とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>他者の役割取得(ole-taking of theo ther)</strong></span>：</big>・他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2281" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png" alt="" width="841" height="418" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png 841w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1-800x398.png 800w" sizes="(max-width: 841px) 100vw, 841px" /></a></p>
<p>コミュニケーションによって相手の役割を取得することにより、自分というものが客体化され、対象化され、客我が形成される。さらに客我は主我によって調整され、自我が形成されていき、行為(役割演技)となる。</p>
<p>例：AはBに反省してほしいという意味で「ふざけるな」と言うとする。</p>
<p>①Aが実際に外的行為として口を動かす前に、内的行為の中で、相手の立場になって相手の反応を仮定する(<b>他者の役割取得</b>という)。ふざけるなと言ったら相手は反省するだろう、と仮定するとする。この仮定における相手が「客我」であり、客我に対して主我の反応が「反省するだろう」という予測である。</p>
<p>②BはAから「ふざけるな」といわれて、「相手は怒っているから反省しないといけない」と感じた場合、Aにおきた効果とBにおきた効果は一致している。効果が一致しているからこそ、コミュニケーションが成立する。</p>
<p>③大事なのは、効果が一致しているということは、Aの客我がBの反応によって間接的にわかるということであり、Aの主我がAの客我に対してどう反応したかも間接的にわかるということである。そして、そうした自我の把握はAとBの２人の相互行為によって、社会的条件によって把握できるということである。</p>
<p>→社会的条件によって、さらに行動によって「内的なもの」を間接的に説明する立場を「<b>社会的行動主義</b>」という。</p>
<h3><span id="toc54">人間以外の動物に意識は発生するのか</span></h3>
<p>・ジェスチャーは個人単独の所有物ではなく、他者とのやりとりによって生じる社会的な構成物。</p>
<p>・オウムは音声シンボルを使うことはできるが、その好意の意味を意識しているわけではない。</p>
<p>→他者とのやり取りとは、「役割取得」であり、役割取得は意味のあるシンボルの交換、つまり「コミュニケーション」によって生じる。</p>
<p>・<b>ジェスチャーの意味を意識しているのは人間だけ</b>。</p>
<p>※意味の意識については次回の記事で解説します。</p>
<blockquote>
<p>「人間以外の動物においては『音声ジェスチュア』によって他の動物に引き起こすものと同一の反応を自己のうちに引き起こすことはない。オウムや九官鳥は自分のしゃべっていることが他の鳥に一定の反応を引き起こすことを意識しないし、他の鳥に対すると同じ仕方で自分自身を刺激することがない。これに対して、人間の場合は他者のうちに引き起こすのと同一の反応を自己のうちに引き起こすことができる。人間において『意味のあるシンボル』は他者にも自分にも同一の反応を引き起こす。」</p>
<p>「ジョージ・H・ミード」,79P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc55">内的なもの、精神、意識、思考、自我等々をどうやって説明するのか</span></h3>
<p>・「内的行為」の仮定がどのようにして「精神、意識」の科学的、経験的な観察へとつながるのか。</p>
<p>Q・内的行為があると定義、仮定しただけでは、人間には主観的な領域がある、精神があるといっているのと変わらない。具体的にどうやって観察対象とするのか、どうやって意識や精神を科学的に説明するのか。</p>
<p>→社会的行動主義は、生理学的、社会心理学的、行動主義心理学的、機能主義心理学的といったようにさまざまな学問による説明を統合し、包括的に説明する立場。内的なものは社会だけが生み出すわけでもなく、独立した個人の行動だけでもなく、中枢神経系だけが生み出すわけでもない。</p>
<h4><span id="toc56">①生理学的な説明</span></h4>
<p>・行為の内的側面、具体的に言えば「<b>遅延反応</b>」は、中枢神経系内で進行している。他の動物は遅延反応がないため、自動的に、反射的に、刺激からすぐ反応へ移行する。人間は環境に対して生命維持のために無限に適応しようとする存在である(進化論的説明、遺伝学的、生物学的説明)。</p>
<p>POINT：行為は内的な側面と外的な側面、内的行為と外的行為に分類されるが、内的側面や内的行為は<b>「主観的な世界がある」という意味ではなく、「特定の生理学的、生物学的状態」</b>をさしている。したがって、内的側面(精神、意識など)は科学的、経験的に観察することが可能である。※経験は一般に、五感などの知覚で刺激を受け取ることができるということ。たとえば氷に触れば冷たいとわかる。氷などの物に触らずに、非経験的に冷たさを理解することができるか。重力を実験(行為)せずに存在を確認できるか。触ったり行為したりして、経験的に観察することが経験科学。</p>
<p>例：発達した人間の脳は対象に対する直接的、本能的反応を遅らせることができる。この「遅延反応」があるからこそ、人間特有の「知覚」や「操作」という段階が生じ、この段階で「自我、意識、精神」が生じる。たとえば中枢神経系に障害がある人間が自分を意識できない、というようなことが観察できれば、中枢神経系にはそうした機能がある、と仮定することができる。</p>
<h4><span id="toc57">②機能主義心理学的、行動主義心理学的な説明</span></h4>
<p>POINT：心的なものはどのような機能をもつかを科学的、経験的に観察することが可能である</p>
<p>→「内的行為」にはある「機能」があると仮定する。機能があると説明することは科学的な観察である。<b>機能主義心理学</b>とは、デューイが提唱したものであり、「人間の主観、意識、思考をそれが果たす機能の観点からとらえようとする学問」です。たとえば鳥の翼は空を飛ぶ機能がある、という説明は客観的なものであり、誰か一人だけの主観に偏った説明ではありません。それと同じように、心的なものを機能という観点から説明することによって、経験的・科学的な把握を試みようとしたわけです。機能そのものは科学における重力と同じように見えませんが、物に作用していることは確認できるわけです。三角形そのものといったようにイデア的なものではありません。</p>
<p>→ミードは人間の行動(行為)を刺激と反応だけではなく、衝動、知覚、操作、完了の４つに分解した。この中で知覚や操作は人間に固有の領域であり、特定の機能をもっていることをミードは証明した。問題的状況に対して選択的、主体的、積極的な機能をもつとミードはいう。</p>
<h4><span id="toc58">③社会心理学的な説明(社会的な条件から心理を説明する)</span></h4>
<p>POINT：「役割取得」を通して、プレイやゲームを通して、自我が社会的に形成されることを説明することで、科学的、経験的に観察することが可能である。</p>
<p>→「内的行為」は個人単体で成立するものではなく、他者との関わりにおいて、コミュニケーションにおいて、社会において成立するもの。</p>
<p>・内的行為は個人の私的な領域のみで構成されているわけではなく、社会的な性格をもっている。したがって、経験的、科学的に観察することができる。人間はプレイやゲームを通じて「一般化された他者」や「特定の他者」の態度として自己の態度を形成するようになる。自我は主我と客我からなり、客我は主に一般化された他者からなり、主我は客我に対する反応であり、客我はその反応を通して再構成されていく。客我とは言い換えれば「客観的自我」であり、他者や社会的立場に身を置いてコントロールする機能である。</p>
<h3><span id="toc59">整理用</span></h3>
<h4><span id="toc60">生理学とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>生理学(physiology)</strong></span>：</big>・一般に、生体の機能、すなわち生物の体の働きを研究する自然科学の一分野(「日本大百科全書」)。</p>
</div>
<h4><span id="toc61">機能主義心理学となにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>機能主義心理学(機能心理学,functional psychology)</strong></span>：</big>・意識内容の分析を主とし、意識現象を要素の結合で説明する構成心理学に対して、有機体と環境との生物学的関係を重視し、環境への適応の機能として意識をとらえ研究する心理学。一九世紀末から二〇世紀にかけて提唱され、デューイによって基礎づけられ、エンジェル、ミードなどによって体系化された（「日本国語大辞典」）。</p>
</div>
<p>１：ミードは最初、心的なものをそれが果たす「機能」の観点から捉えようとした。それが経験的、科学的な手法だと考えていた。</p>
<p>２：しかし、機能主義心理学の「個人的性格」に不満を抱くようになった。他者との関係において考えるという「社会」の要素が軽視されていた。</p>
<p>３：「社会」という条件、および心的なもの機能、生理学的な機能等、統合して分析する立場が「社会的行動主義」であるといえる。</p>
<blockquote>
<p>「デューイらによって提唱された機能主義心理学は人間の主観、意識、思考をそれが果たす機能の観点からとらえようとする。人間が障害や妨害また禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる『問題的状況』においては行為が一時停止し、『遅延反応』が生じる。そこにおいて反省的思考が活性化し、状況を乗り越えさせるようになる。このような人間の内的なものの問題解決機能を明らかにするのが機能主義心理学である。異m－度は、デューイとともに、機能主義心理学の確立を目指した。この機能主義心理学がミードの『社会行動主義』を生み出す源泉となっている。」</p>
<p>「ジョージ・H・ミード」42P</p>
<p>「このように、ミードは内的なものをいかにして経験的、科学的にとらえうるかを追求し、行為においてそれがはたす機能の観点からアプローチすることを試み、機能主義心理学の発展に力を注いだ。しかし、やがて、機能主義心理学の個人的性格に不満を抱き、それが『行動の社会的性格、また、マイドンや内省的思考の行動的性格を十分に強調していない』(Miller,1973:xxix)と感じるようになった。そして、内的なものがそれだけで存在するのではなく、他の人間とのかかわりにおいて社会的に形成され、展開することを見い出していった。」</p>
<p>「ジョージ・H・ミード」44P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc62">社会心理学とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>社会心理学(social psychology)</strong></span>：</big>・一般的に、社会心理学は「心理学的な社会心理学」と「社会学的な心理学」に大別することができるという。「心理学的な社会心理学」では「社会的文脈の中で個人の行動や心理」を研究対象とし、「社会学的な心理学」では「社会性成員に共有されている行動や心理」を対象とする。</p>
</div>
<p>POINT：ミードの社会心理学とは「心理学的な社会心理学」に近いイメージ。さらにそこから「行為」を規準に「社会的文脈の中で個人の行動や心理」を研究対象とするという意味で、行動主義的、あるいはプラグマティズム的だということができる。つまり、「社会的行動主義」という用語がマッチする。</p>
<blockquote>
<p>「社会学と心理学との境界領域に立つ科学。研究者の学問的背景や関心の方向によって、対象や方法に差が見られるが、大別すれば『社会的文脈の中で個人の行動や心理』を研究対象とする心理学的な社会心理学と、『社会性成員に共有されている行動や心理』を対象とする社会学的な心理学にわけられる。前者では、分析のレヴェルも個人に置かれ、社会的認知、社会的態度、パーソナリティ形成などが具体的な研究対象となる。後者では、社会的レヴェルでの集合行動、社会意識、社会的性格などが対象として扱われる。」</p>
<p>「社会学小辞典」257P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc63">行動主義心理学とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動主義心理学(行動主義,behaviorism)</strong></span>：</big>・心理学を心の科学、意識の分析とすることに反対し、それを行動の科学とすることを主張する立場。20世紀はじめワトソンによって最も徹底的に主張され、そえまでの意識心理学(consciousness psychology)の内省的方法を批判して、パづロフの条件反射理論にもとづいて人間行動を刺激と反応の単純な結びつきかあ理解し、客観的に観察可能な行動だけを心理学の対象とすることが強調された。</p>
</div>
<p>POINT：意識界と物理界との相関関係を見いだすために、行動主義が重要。しかし従来のワトソンによる行動主義ではそれができず、また構成心理学や意識心理学でもそれができなかった。それにゆえに社会的行動主義的なアプローチが必要とされる。</p>
<blockquote>
<p>「「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」（MSS:pp.40-1=訳p.45）つまり、社会的行動主義は、行動主義心理学と社会心理学とのふたつのアプローチを統合した立場なのである。ここで、先ほど見た中期の立場と、この後期の立場とを比較すれば、中期において生理学的心理学であったものが、後期においては行動主義心理学に代わっているのが分かるであろう。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」46P</p>
<p>「行動主義：心理学を心の科学、意識の分析とすることに反対し、それを行動の科学とすることを主張する立場。20世紀はじめワトソンによって最も徹底的に主張され、そえまでの意識心理学(consciousness psychology)の内省的方法を批判して、パづロフの条件反射理論にもとづいて人間行動を刺激と反応の単純な結びつきかあ理解し、客観的に観察可能な行動だけを心理学の対象とすることが強調された。この立場は、しだいに修正を余儀なくされ、個体の主体的な条件についても考慮する立場(新行動主義)への&#8230;&#8230;」</p>
<p>「社会学小辞典」178P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc64">構成心理学とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>構成心理学(structural psychology)</strong></span>：</big>・一般に、複雑な精神現象を要素に分解し，それらを結合して心的過程を説明しようとする要素主義心理学をいう。この立場は，純粋な基本的感覚と単純感情という要素によって精神過程を説明しようとした W.ブントの心理学に始り，その考えを徹底させ，純化させたのが E.B.ティチェナー(「ブリタニカ国際百科事典」)。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「しかしミードによれば、構成主義心理学は次のような過ちを犯してしまったという。すなわち、意識界と物質界とをパラレルなものと認めながらも実質的には分離したままにした、意識界と物質界との相関関係を問題にすることができなかったというのである。構成主義心理学は、意識界と物質界を関係づけるのではなく、むしろ意識界によって物質界を一方的に説明しようとした、といっ47てよいであろう。例えば、赤色という観念に相当する中枢神経系内の要素があると仮定されたように、である。このままでは意識を説明することはできない。なぜなら、中枢神経系のどこにも赤色に相当する要素は存在しないからである。ミードは、この問題を解決するために、つまり意識界と物理界との相関関係を見いだすために、行動主義が重要だというのである（cf.MSS,p.40=訳pp.44-5）」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」47-48P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc65">身振り状況とは、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>身振り状況</strong></span>：</big>・自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなもの。例：犬の喧嘩やフェンシング</p>
</div>
<p>※次回扱います</p>
<blockquote>
<p>「社会的状況においてのみ、自分の行為に注意が向けられるのだ、とミードは主張する。ここでミードが言う社会的状況とは、同じ種の他の生物体との身振り会話の状況であり、このアイディアは、周知のとおり、彼がドイツで学んだW．ヴントから来ているものである。身振り状況とは、ミードによれば、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなものである。ミードが好んであげる例は犬のケンカや、フェンシングである。一方の出方が相手の次の出方を変える。状況はめまぐるしく変わっていく。反応は様々であり刺激も様々である。ここではコンフリクトの絶え間ない持続が見られる。そして、自らの反応が相手の次の反応、つまり自分に向けられる次の刺激を決定するが故に、自分自身の反応が次の状況を決める大きな要因となっている。当然、生物体は、状況にうまく適応するために、自分自身の反応にも注意を向けるようになる。こうして社会的状況においてのみ、自分の反応（身振り）に対して注意が向けられるような状況が生じてくるのである（1910c:p.404）。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」55P</p>
<p>「行為者が何をしたか、ということは、他者が何を見たか、という問を通して捉えられうるものとなる。このことを概念化しているのが、ミードの「身振り」概念である。「身振り」は、「社会的行為の第一義的に外的に開かれた位相」(Mead:1910)、「社会的行為の部分であり、そのプロセスを完成する刺激を成す」(Mead:1927CL)ものとして、社会的行為に関わる個人間の相互適応を媒介する。身振りとは、他者が行為者から受け取った刺激なのであり、それによって他者は最初の行為者に対して、適応的な反応を返すことができる。行為者の身振りは、他者がそれをある刺激として受け取った限りで、ある身振りとして捉えられるのである。そして相互行為のプロセスは、ミードによれば、このような「身振り」による「身振り会話」(MSS47etc.)なのである。」</p>
<p>岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,312P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc66">精神とはなにか、意味</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>精神(mind)</strong></span>：</big>・反省的意識。※次回扱います。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「意識は以上のような条件のもとで発生してきた。列挙するならこうである。（１）ライフプロセスの存在。（２）本能的直接的反応の抑制と、内的行為と外的行為との区別。（３）それを可能にする中枢神経系。（４）社会の先在。（５）他者として反応することと、それを可能にする有声身振りのメカニズム。こうして、すべてが揃ったところで、（６）感覚刺激と他者としての内的反応との結合が可能となり、有意味シンボルが現われることとなる。この有意味シンボルが、反省的意識を形成する。そしてこれが精神（mind）と呼ばれているものである。人間の意識精神とはこうして、他者の態度をとることによって、動物的環境が生物体自身の身体の状態にまで拡張されたものなのである。」</p>
<p>山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」47P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc67">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc68">主要文献</span></h3>
<p><a href="https://amzn.to/3byANva">G・H・ミード「精神・自我・社会」</a></p>
<p><a href="https://amzn.to/3xWRCrd">船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)</a></p>
<h3><span id="toc69">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc70">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc71">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc72">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00IR44T26/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00IR44T26&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=f2712c443f380f792438b51627b4e2de" target="_blank">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる！</a></p>
<h4><span id="toc73">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4880593508/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4880593508&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=009f3e2b26ad145fcf5b5b9af985ac34" target="_blank">社会学 第五版</a></p>
<h4><span id="toc74">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc75">クロニクル社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641120412/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641120412&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=70dbea010ff34843c3a086a108837a11" target="_blank">クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)</a></p>
<h4><span id="toc76">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
<h3><span id="toc77">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：小林さや香「ミードとプラグマティズム」(<a href="https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/7757/aes07-029.pdf">URL</a>)</p>
<p>２：徳川直人「G.H.ミードの社会理論一再帰的な市民実践にむけて」(<a href="https://tohoku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=75765&amp;item_no=1&amp;attribute_id=18&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>３：山下祐介「G．H．ミードの心理学（上）」(<a href="https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=154&amp;item_no=1&amp;attribute_id=20&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>４：西城卓也「行動主義から構成主義」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/mededjapan/43/4/43_290/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>５：岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/38/3/38_3_306/_pdf/-char/en">URL</a>)</p>
<p>６：大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」(<a href="https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=16254&amp;item_no=1&amp;attribute_id=162&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>７：平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/25/1/25_21/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>８：笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/13/0/13_0_77/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2022/08/16/geoge-herbert-mead-2/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>【基礎社会学第二十四回】G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 27 Jun 2022 11:27:44 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ジョージ・ハーバート・ミード]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://souzouhou.com/?p=2272</guid>

					<description><![CDATA[G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」についての説明記事です。]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-3" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-3">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">概要</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">要約、要旨</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">その他注意事項、次回の予定</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">G.H.ミードのプロフィール</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">主我と客我(Iとme)</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">自我とは、意味</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">客我とは、意味</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">主我とは、意味</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">自己の対象化とは、意味</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">主体と客体</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">主我＝本能・衝動説とは、意味</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">主我＝残余説とは、意味</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">主我＝創発的内省性説とは、意味</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">他者の役割取得</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">役割取得とは、意味</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">役割とは、意味</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">役割取得の例</a><ol><li><a href="#toc19" tabindex="0">例：子が親に勉強をするように期待されているケース</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">例：親が子供のいたずらを叱るケース</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">人間と他の動物の違い</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">自我の孤立説</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">自我の社会説</a></li></ol></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">創発性、時間と自我、意味のあるシンボル</a><ol><li><a href="#toc25" tabindex="0">創発性とは、意味</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">自我と時間の関係</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">「自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない」</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">瞬間の意識である主我をとらえることはできるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">見かけ上の現在とは、意味</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">意味のあるシンボルとは、意味</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">言語と精神</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">人間と他の動物の違い</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">内的コミュニケーションと外的コミュニケーション</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">参考文献</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">主要文献</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">参照論文(論文以外を含む)</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc38" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">概要</span></h2>
<h3><span id="toc2">要約、要旨</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">客我とは「他者の期待をそのまま受け入れたものであり、自我の社会性を示す部分」であり、主我とは「客我に対する反応であり、自我の主体性を示す部分」である。自我は主我と客我の相互作用によって形成される動的な過程であり、渦のようなものである。ミードは自我の発生には他者が不可欠であると考え、自我よりも社会が先に存在すると考えた。つまり、自我は社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものだという説(自我の社会説)。</li>
<li class="sample">他者の役割取得とは、「他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること」である。他者の役割取得を通して人間は客我を生み出し、またそれに対して反応することで主我を生み出し、さらにその主我が客我を再構成していく。他者の役割取得を通して人間は自我を構成していく。他者の役割取得は主に「意味のあるシンボルの交換(コミュニケーション)」を通して実現されていく。</li>
<li class="sample">創発的内省性とは、他者の目(視点)を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくることである。内的コミュニケーションと外的コミュニケーションを通して、これまでに存在しない新しいものが創発されていく。こうした自我の創発性、人間の主体性をミードは強調した。</li>
<li class="sample">創発性とは、「ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまうこと」である。自我は主我と客我の２つの側面からなる。そして時間的に先に客我があり、後に主我がある。過去や未来がそのままの形で現在に組み込まれるわけではなく、現在によって受け止められ、解釈され、修正、変更などを通して再構成される。この再構成というのは、客我を新しく創るということであり、創発性を伴っている。再構成の過程では主我の「主体性」、「選択」を含んでいる。こうした再構成が可能なのは、自我が時間的な過程だから。
</li>
</ol>
<h3><span id="toc3">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/hWqhP__E_ww" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc4">その他注意事項、次回の予定</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<h3><span id="toc5">G.H.ミードのプロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2283" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/George_Herbert_Mead.jpg" alt="" width="202" height="249" /></a></p>
<p>ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。</p>
<p>プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。</p>
<p>主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。</p>
<h2><span id="toc6">主我と客我(Iとme)</span></h2>
<h3><span id="toc7">自我とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自我(じが,self)</strong></span>：</big>・主我(I)と客我(Me)という２つの側面から構成されるもの。主我と客我の相互作用によって形成されるものであり、その過程。自己とも訳されることがある。</p>
</div>
<p><strong>自我とは、外部的環境や他者から区別されている行為の主体、及び主体についての意識</strong>を意味する。主体についての意識は自我意識、自画像とも呼ばれる。</p>
<p><strong>ミードにおいて自我意識とは客我であり、行為の主体は主我である。したがって、客我は客体としての自我であり、主我は主体としての自我である。このように、自我は客我と主我の２つの側面から構成されている</strong>。ただし、<strong>2つの要素で船のように単純に構成されているのではなく、時間的な過程として構成される「渦」のようなもの</strong>である。</p>
<p>自我は自己と訳されることもある。自我は生まれつき備わっているものではなく、自然発生的に生み出されるものでもなく、社会的な相互作用を通じてのみ発生し、形成されるものだとミードは主張する。社会が先で、その後に自我が形成される(自我の社会説)。</p>
<p>自我について説明を聞いて、ナンノコッチャワカラン、となるかもしれません。こういうときは具体例で考えるといいんですよね。</p>
<p>まずは客我から考えていきましょう。この客我というのは、自分自身を他者の観点から眺めている側面です。たとえば子供が親に喧嘩をして怒られるといるとします。そのうち、子供は喧嘩をしないようになるとします。この場合、子供が親(他者)の観点から自分を眺めているというケースが考えられます。親の視点、観点を通して自分(自我)はどうあるべきかを考えるようになるわけです。親という視点を通して、喧嘩はするべきではない、という自我を形成するわけです</p>
<h3><span id="toc8">客我とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>客我(きゃくが,Me)</strong></span>：</big>・他者の期待をそのまま受け入れたもの。対象化された自我、あるいは客観的な自分の側面のこと。自我の社会性を示す部分。</p>
</div>
<p>・客我とは、「<b>他者の期待をそのまま受け入れたもの</b>」と定義されている。対象化された自我、客体としての自我、あるいは客観的な自分の側面という点が重要。さらに重要なのは、<b>他者が存在しないと客我というものが発生しない</b>ということ。つまり、人間一人だけで自我は完結するのではなく、<b>他者との相互行為のなかで生じるような社会的現象</b>であるということ。</p>
<p>例：教師は学生に、教室では静かにして欲しいと期待する。学生はそうした教師の期待をいったん受け入れるとする。つまり、教師という観点から見た自分というものを意識する。このとき、自分というものが対象化されている。</p>
<h3><span id="toc9">主我とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>主我(しゅが,I)</strong></span>：</big>・客我に対する反応。客我に対して反応する主体。自我の主体性を示す部分。</p>
</div>
<p>・主我とは、客我に対する反応。客我に対して反応する何か、あるいは主体。対象化されえない自己の側面。</p>
<p>・主我がなにかについて、ミードは詳細に説明していない。したがって、解釈において専門家でも議論が分かれている。</p>
<h3><span id="toc10">自己の対象化とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自己の対象化</strong></span>：</big>・事物や他者を対象とするように、自分自身を対象とすること。</p>
</div>
<p>例：バナナを食べるというときのバナナは自分と切り離されているし、自分とは離れて客観的に存在している(自分はバナナではない)。それと同じように、自分を教師という観点で眺めるとき、自分は客観的に存在していて、対象化されている。</p>
<p>→自分が自分を眺めているような感じ(再帰的)。これをミードの言葉で表現すれば、自分(主我)が自分(客我)を眺めている。あるいは、自我の側面である主我が、自我の側面である客我を眺めている。こうして考えていくと、自我とは自我の意識とそれにたいする反応である、という再帰的な意味合いが分かってくる。</p>
<h3><span id="toc11">主体と客体</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>主体</strong></span>：</big>・一般に、意識と身体を持った行為者。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>客体</strong></span>：</big>・一般に、主体の意志や行為の対象となる物。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><strong><span style="background-color: #ffff99;">対象化</span></strong>：</big>・一般に、自分から切り離してとらえなおし、見つめなおすこと。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>相互作用</strong></span>：</big>・一般に、互いに働きかけ、影響を及ぼすこと。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/781fe2233b2ef6229e9d966c63c7d48c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2264" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/781fe2233b2ef6229e9d966c63c7d48c.png" alt="" width="601" height="433" /></a></p>
<p>この場合、自分というものが客体として、つまり主体の「対象」として捉えられることになります。難しいですね。たとえば「私はチーズ食べる」、という文章における客体は「チーズ」で、主体は「私」です。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/451387cb378fa1db5481483131a0f934.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2265" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/451387cb378fa1db5481483131a0f934.png" alt="" width="623" height="481" /></a></p>
<p>「私は親の観点から自分というものを意識する」、という文章における客体は「自分(=客我)」です。お察しの通り、この客体を意識している主体は「私(＝主我)」です。自我にはこのように、主我と客我の2つの側面があるわけです。ミードの用語では主我と客我が「相互作用」しているということになります。</p>
<blockquote>
<p>「ところで、自我という言葉は論者により様々な意味で使用されているので、まず、その意味を明白にしておく必要があろう。自我とは、外部的環境や他者から区別される行為の主体、及ぴ、主体についての意識を意味する。主体についての意識とは、自我意識であり、自我像とも呼ばれる。G・H-ミードの用語法に従えば、自我意識とはMeであり、行為の主体はIである。即ち、Iは主体としての自我であり、Meは客体としての自我である。従って、IとMeの二つの側面から自我が構成されているというととができる。」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」,66P</p>
<p>「ミードによると、人間の自我には二つの側面があり、ひとつは『主我』(I)、もうひとつは『客我』(me)である。『客我』とは他者の期待をそのまま受け入れたものであり、『主我』とはその『客我』に対する反応である。『客我』が自我の社会性を表し、『主我』が人間の主体性を示すことになる。自我はこの『客我』と『主我』のかかわりから成り立っている。そして、『主我』は自我の積極的側面を示し、それは人間の個性や独自性、また創造性や主体性を示し、新しさを創発するものである。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,66P</p>
<p>「自己は他者の態度取得によって生じる。その意味で自己は、たしかに社会的相互作用の産物である。だが自己は、他者の態度をとり入れ反復するだけでの装置ではない。このことを説明するために、ミードはここでひとつの操作を実行する。自己にはIとmeという２つの側面があると想定するのである。meとは、まさしく対象化された自己のことである。それは、他者の態度を引き受ける因習的・習慣的な自己である。他方Iは、われわれの直接経験に現れることはない、対象化されえない自己の側面である。それは、共同体の態度に対して反応する『何ものか(サムシング)』であり、meのなすことに反応する『超越的』な何ものかである。ミードはそこに、自由、新しさ、計算できなさといった不確定要素を含みもたせたのである。」</p>
<p>「クロニクル社会学」,205P</p>
<p>「ミードは、自己のうちに取り入れられた『一般化された他者』の態度が自己のうちで組織化されたものをミー(”me”)と呼ぶ。」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,56P</p>
<p>「『me』とは他者の態度の組織化されたセットである。」</p>
<p>ジョージ・H・ミード、「精神・自我・社会」、187P</p>
<p>「弱い者いじめをしてはいけないだけではなく、他人のものを盗んではいけないし、挨拶をしなければいけないし、約束は守らなければいけない。これらが組織化されて『ミー』を形作る。それは、自己のうちの他者であり、自己のうちにある『共同体の表象』(「精神・自我・社会」、190P)」である。それは自己のうちにあって、自己に対してある反応を要求する。アイ(&#8220;I&#8221;)とはこの要求にたいする自己の反応である。」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,56P</p>
<p>「『I』とは、かれ自身の経験のなかにあらわれる共同体にたいするその個人の反応である」</p>
<p>ジョージ・H・ミード、「精神・自我・社会」、209P</p>
<p>「自己とは、自己のうちで進行するミーとアイの間の内的な相互作用であり、この相互作用が自己という渦を形作っているのである。」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,56P</p>
<p>「しかしながら、ミードによれば、自我は客我だけで成り立つものではない。自我とは、『主我(I)』と客我(me)という二つの側面をともなって進む、社会的なプロセスの一部であるという。主我は、自己の内発的な反応であり、客我に対して独自の反応を示し、個性的な修正を加えることで、その人らしさを作り出す。客我は、その主我の反応を検閲することによって、自我に社会的な適応を促す。そして主我と客我との緊張関係を孕むこの相互作用こそが、自我に新しい変化を生み出し、少しずつではあっても、社会に変化を生み出していくのである(創発特性)。」</p>
<p>「本当にわかる社会学」,現代位相研究所,45P</p>
<p>「Iとmeのそれぞれについて説明します。まずmeは、客体としての自我、私の客観的な側面です。自分自身を外から、他者の観点から眺めているわけです。したがって、meとは、他者の期待──規範的な期待──の中で自我がどうあるべきものとして現れているのか、ということです。それに対して、Iのほうが曖昧です。ミードもうまく説明できていないように見えます。とりあえず、Iは、自我の主体的な側面ということになります。しかし、Iを積極的に定義しようとすると難しい。結局、meには還元できない自我のあまりの部分がIである、としか言いようがなくなるのです。」</p>
<p>大澤真幸「社会学史」、437P</p>
<p>「人間は他の人間とのコミュニケーションを通じて，自己の対象化を行う．自己の対象化とは物や他者を対象とするように，自分自身を対象とすることである．」</p>
<p>船津衛「社会的自我論の展開」,114-115P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">主我＝本能・衝動説とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>主我＝本能・衝動説</b></span>：</big>・主我は本能や衝動、客我は社会的束縛の機能と考える説。</p>
</div>
<p>フロイトの「イド(エス)」に近い。フロイトでいえば超自我が客我にあたる。</p>
<p>問題点：このように考えてしまうと、<b>主我の主体性が薄れてしまう</b>。例：人間より動物、大人より子供のほうが本能的、衝動的であり、したがって主体的であるということになってしまう。</p>
<p><b>主体性</b>：一般に、自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。動物のような衝動や反射的な行動とは対照的な性質。<b>ミードは主我の主体性を強調していた</b>。</p>
<div id="attachment_2276" style="width: 260px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/250px-Structural-Iceberg-ja.svg_.png"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-2276" class="size-full wp-image-2276" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/250px-Structural-Iceberg-ja.svg_.png" alt="" width="250" height="301" /></a><p id="caption-attachment-2276" class="wp-caption-text">WIKIより引用 S・フロイト(精神科医)における自我のイメージ</p></div>
<blockquote>
<p>「『主我』＝本能・衝動説は『客我』が社会的束縛の機能を果たすものであるから、『主我』は本能や衝動であると考える。たしかに、ミードも「フロイトの表現を用いれば、『客我』はある意味では検閲官である」(Mead,1934.210.稲葉ほか訳二二三頁、河村訳二五九頁)と述べており、したがって、『主我』はそれから解放された衝動やS・フロイトの『イド』として考えられる。しかし、『主我』イコール本能・衝動、そしてイコール主体性とすると、大人より赤ん坊、人間より動物の方が主体的であるということになってしまう。けれども、人間の主体性はこのような本能や衝動の支配から解放されたところに存在している。何よりも、『主我』＝本能・衝動説は自我の社会性という前提から外れてしまっている。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,68P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">主我＝残余説とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>主我＝残余説</b></strong></span>：</big>・客我以外のもの、すなわち人間の個性、個人差、特殊性、プライバシー、主観、逸脱、異常、主体性を現す。客我には還元できないものすべて。</p>
</div>
<p>問題点：<b>いろいろなものが入り込むと、主我の独自性が失われてしまう</b>。ミードは人間の主体性を強調した。</p>
<blockquote>
<p>「『主我』＝残余説では『主我』は『客我』以外のもの、すなわち人間の個性、個人差、特殊性、プライバシー、主観、逸脱、異常、主体性を現すとされる。W・コルブによると、『主我』には三つのものが含まれており、①生物的なもの、②社会的なものと生物的なものとの相互作用、③社会的なものがある。しかし、これらを一つにまとめるのは不可能である。そして、このように、いろいろなものが入り込むと、『主我』の独自の倫理が失われ、とりわけ、ミードの強調する人間の主体性が消去されてしまうことにもなる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,68P-69P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">主我＝創発的内省性説とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>主我＝創発的内省性説</b></span>：</big>・主我は人間の創発的内省を意味すると考える説。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>創発的内省性(emergent reflexivity)</b></span>：</big>・他者の目を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくること。</p>
</div>
<p>→客我に対する主我の反応が創発的内省性をもつということ。具体的には、<b>刺激を受け止め、解釈し、修正、選択、再構成する</b>ということ。客我をそのまま受け止めて行為するのではなく、主我によって客我が新しく再構成され、そこから行為につながるという主体性につながっている。内省とは一般に自分自身と向き合うことであり、ミードの文脈では客我と向き合うことを意味する(客我と主我の相互作用によって新しいものがうまれ、自我が形成されていく)。</p>
<p>例：貧しい人間は政治に参加するべきではない、という客我に対して、貧しくても政治に参加するべきだ、というように主我が反応することもある。自分がどうあるべきかについて、新たなものが創発されていく余地がある。主我は自動的・受動的・非主体的に客我に反応するわけではない。</p>
<blockquote>
<p>「そこで、『主我』を人間の『創発的内省性』(emergent reflexivity)を表すものとして解釈するならば、『主我』によって自己の修正・再構成が行われ、そこに新しいものが生み出されることを理解できるようになる。『創発的内省性』とは他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくることを表す。このような『創発的内省性』によって、自己が新しく生まれ変わると同時に、その行為を通じて他者も変わるようになる。したがって、ここから、社会のイメージは動かないもの、固定した構造ではなく、変化するもの、変動する過程となる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,70P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc15">他者の役割取得</span></h2>
<h3><span id="toc16">役割取得とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>他者の役割取得(ole-taking of theo ther)</strong></span>：</big>・他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2281" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png" alt="" width="841" height="418" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1.png 841w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/2b3128092aacdb9667eb54bd0aabd4ed-1-800x398.png 800w" sizes="(max-width: 841px) 100vw, 841px" /></a></p>
<p>コミュニケーションによって相手の役割を取得することにより、自分というものが客体化され、対象化され、客我が形成される。さらに客我は主我によって調整され、自我が形成されていき、行為(役割演技)となる。</p>
<p>人間にのみ他者の役割取得というものがある。人間はコミュニケーション(有意味シンボルの交換)を通じて他者の役割取得を行い、自己の対象化を行う。自分自身との相互作用によって、他者の期待や態度、役割が表示され、選択され、変更され、再構成される。その過程で新たなものが創発されていく(創発的内省性)。</p>
<p>・役割取得と役割演技の違い</p>
<p>役割取得は役割を現実の場面において遂行することではない。遂行することは役割演技と呼ばれる。</p>
<p>役割取得とは、別のいいかたをすれば「<b>態度の取得</b>」である。役割を認知し、内面化する段階から、行為に備えて態勢を準備する段階、潜在的なイメージ。</p>
<p><b>態度の取得</b>：役割にしたがって行為をする準備が完了したということ。</p>
<blockquote>
<p>「人が自我として、或いは個人として、自己自身を経験するのは、直接的でもなければ、無媒介的なものでもなく、また、自己自身に対して、主体となることによってでもない。それは唯、彼が最初に、丁度、他の個人が彼にとって、或いは、彼の経験内に於いて客体であるように、彼自身に対して客体となる限りに於いて、自我として自己自身を経験するのである。換言すれば、例人は他の個人の態度をとることによってのみ、自己自身に対して客体となることができるのである。こうして、ミ1ドは、「他者の役割取得」(ole-taking of theo ther)という概念を提起する」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、67P</p>
<p>「そして、ミードによると、『人間が自分自身に対して対象となるのは、まさに、自分の行為にかかわる他者の態度を取得する自分自身に気づくからである。人間が自分自身に立ち戻ることができるのは他者の役割を取得することによってだけである』(Mead,[1924-1925]1964:283-284).訳五七頁」。すなわち、自我は他者の『役割取得』を通じて形づくられる。ここから、ミードは具体的な他者とのかかわりにおける『役割取得』による自我形成論を展開する。&#8230;&#8230;『意味のある他者』が自分に対していかなる期待や要求・要請、また、気持、感情、意図をもっているのか、どのような意見や態度をもち、いかなる評価や判断、あるいは規定づけを行なっているのかが自我のあり方を形づくるのに重要な事柄となる。人間は『他者の役割と取得でき、他者が行為するように自分自身に向かって行為するかぎりにおいて自我となる』(Mead,1934.171.稲葉ほか訳一八三頁、河村訳二一一頁)。このように他者の態度、役割、期待とのかかわりにおいて自我が形成される。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,55P</p>
<p>「役割の取得は、その役割を実現しうる熊勢にあるということ、即ち、役割に従って行為する準備が完了したということであり、態度を取得したということである。従って、役割の取得乃手認知は、同時に、その役割の背後にある態度を取得し或いは認知したことを意味している。とれに対して、ある役割に従って現実に行為すること即ち‘実際に個々の役割を遂行することはミlドによれば、役割演技(role-playing)と呼ばれる。」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、69P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">役割とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>役割(role)</strong></span>：</big>・ばらばらではなく、一定のまとまりのある行為の型(パターン)。</p>
</div>
<p>例：母親と子供の相互作用において、母親は子供に授乳したり、叱ったりする。これらはバラバラなものではなく、一貫した行為のパターン。もし矛盾するような期待を子供にしてしまうと、分裂してしまうのではないか(ベイトソンのダブルバインド。分裂病)。例えば、勉強しろといいながら勉強するなという。言葉では愛しているといいながら、態度では愛していない。</p>
<p>R・リントンによれば、役割とは「ある特定の地位に結びついた文化型の総和」を意味する。役割はある地位を占めるあらゆる人々に対して社会が課する態度、価値、行動のすべてを含むもの。</p>
<blockquote>
<p>「役割とは、個々のばらばらな行為でなく、一定のまとまりある行為の型を意味している。そこで、役割とは相互作用場面に於いて行為者の行為が分裂したものではなく、組識化されたものであるとき、この一連の首尾一貫しにまとまりある行為の型であるといえよう。」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、68P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">役割取得の例</span></h3>
<h4><span id="toc19">例：子が親に勉強をするように期待されているケース</span></h4>
<p>子は親から見た自分というものを意識する。親の期待は「子供は勉強してほしい、するべきだ」というもの。子にとって親は他者である。親からの期待(態度、役割)を取得するということは、他者の役割取得を意味する。</p>
<p>他者の役割取得を通して、自分自身を対象化することができる。まるで自分を他者であるかのように、客観的に眺めているような状況。相手の立場に立ち、他者であるかのように自分自身に対するとき、自我が発生する。→客我に対して主我が反応するとき、自我が発生する。他者の役割取得は客我を発生させる。</p>
<h4><span id="toc20">例：親が子供のいたずらを叱るケース</span></h4>
<p>１：親が子供のいたずらを目の前で叱れば、子供のいたずらは止まる。しかしこれだけでは他者の役割取得をしたとは言い切れない。犬が叱られて反射的にいたずらをやめるのと似ているかもしれない</p>
<p>２：親が見ていないところでも「このようないたずらをすれば父にしかられる」と考えて、自分の行動を子供がコントロールしている場合、他者の役割取得をしているといえる。子供は父親の態度で自己自身の行為を反省し、批判するようになる。</p>
<p>→犬も何度も叱れば主人がいなくてもいたずらをやめるかもしれないが、それは他者の役割取得をしているというより、習慣的、自動的な反応をしているといえる。そこに選択という主体性、創発性は乏しい。<b>自我は人間特有の現象</b>だとミードは考えている。</p>
<h4><span id="toc21">人間と他の動物の違い</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/8a12e30083ca37c3d5bac771a54b1c68-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2278" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/8a12e30083ca37c3d5bac771a54b1c68-1.jpg" alt="" width="711" height="476" /></a></p>
<p>・人間だけが自我をもつ。</p>
<p>例：犬は自我をもっていない。なぜなら、犬は自分がしていることを自分で知らず、ほとんど直接的・感情的に反応を交換しているにすぎないから。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/97d3a4a36a0fc1ba1142ae4760593f6d-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2279" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/97d3a4a36a0fc1ba1142ae4760593f6d-1.png" alt="" width="1031" height="501" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/97d3a4a36a0fc1ba1142ae4760593f6d-1.png 1031w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/97d3a4a36a0fc1ba1142ae4760593f6d-1-800x389.png 800w" sizes="(max-width: 1031px) 100vw, 1031px" /></a></p>
<p>人間の例で考えてみましょう。動物と違って人間は間接的に自分のことを知ります。なぜなら、他者からみた自分、というように他者を媒介するからです。</p>
<h3><span id="toc22">自我の孤立説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自我の孤立説</strong></span>：</big>・自我は社会に先行し、それ自体として既に存在しているとみなされる説。</p>
</div>
<p>初めに自我があってその自我と他者との相互作用から社会が形成される。例：R・デカルトの「ワレ思う、ゆえにワレあり」</p>
<h3><span id="toc23">自我の社会説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自我の社会説</strong></span>：</big>・我よりも社会が先にあると考える説。自我は社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものだという説。</p>
</div>
<p>自我は孤立した要素やそれ独自で存在しうる存在物ではなく、他の人間とのかかわりから生み出され、展開されてくるもの。</p>
<p>ミードは自我の社会説を明らかにしようとしていたというのがポイント。主我と客我によって自我を説明することは、他者が存在しなければ自我は発生しないと結論づけることにつながる。</p>
<p>・自我は「他者の役割取得」を通してのみ形成されていく。</p>
<p>・客我は「他者の役割取得」を通してのみ形成されていく。客我が形成されていないと、主我も形成されない。</p>
<p>→他者がいないと自我が形成されないということは、社会が存在しないと自我が形成されないということになる。</p>
<blockquote>
<p>「ミードは自我の孤立説を否定して、自我の社会説を主張する。自我の孤立説とは、R・デカルトの『ワレ思う、ゆえにワレあり』の言葉に代表される自我論であり、そこでは自我は社会に先行し、それ自体として既に存在しているとみなされる。しかし、ミードによると、それでは自我がどこから生まれてくるのかを説明できない。社会は、本来、自我に先行しており、自我は社会から生まれるものである。そして、自我は孤立した要素やそれ独自で存在しうる存在物ではなく、他の人間とのかかわりから生み出され、展開されてくるものである。ミードの強調するところによれば、『自我は生理学的有機体それ自体とは異なる性質をもっている。自我は発達するものである。それは生まれたときから、もともと、そこにあるのではなく、社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものである。つまり、一定の個人において社会過程全体の、そしてその過程内の他の個人との関係の結果として発達してくるものである』(Mead,1934.135.稲葉ほか訳一四六頁、河村訳一七〇頁)。人間の自我は、したがって、社会的な産物である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,52P</p>
<p>「けれども、「精神」でのミードの最大の目的は「自我の個人説」individualistic thery of the self(初めに自我があってその自我と他者との相互作用から社会が形成されるとする説)に抗して「自我の社会説」social theory　of the self(初めに社会があって自我はそこでの他者との相互作用から生れるとする説)の妥当性を主張することだったから、「精神」にあっては「自我の発生的局面」が重視されることになった。」</p>
<p>平川茂「G・H・ミードの『自我論』再考」,21P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc24">創発性、時間と自我、意味のあるシンボル</span></h2>
<h3><span id="toc25">創発性とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>創発性</strong></span>：</big>・ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまうこと。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「ミードによると、『社会性は創発性の原理であり、その形式である』(Mead,1932:85)。そして、『創発性』とは、『ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまう』(Mead,1932:69)」ことを表している。このような『創発性』にもとづいて自我が再構成され、そこにおいて行為の継続が可能となる。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,61P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">自我と時間の関係</span></h3>
<h4><span id="toc27">「自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない」</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/267e6216fcd16300dd2a35da96493b80.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-2280" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2022/06/267e6216fcd16300dd2a35da96493b80.png" alt="" width="671" height="311" /></a></p>
<p>・自我は主我と客我の２つの側面からなる。そして時間的に先に客我があり、後に主我がある。</p>
<p>・<span style="color: #0000ff;"><strong>主我は意識のうちにあらわれることはできないが、客我の一部として現れ、間接的に知ることができる。主我の現在の反応は、未来における客我において間接的に知ることができる。また、主我の現在の反応は、過去の客我に対して反応するものである。</strong></span></p>
<ol class="sample">
<li class="sample">客我(過去)：<b>過去</b>の経験が沈殿して形成される経験の蓄積。</li>
<li class="sample">主我(現在)：過去の経験の蓄積に基づいて生起する<b>現在</b>の反応。</li>
</ol>
<p>「この瞬間の『I』は、つぎの瞬間の『me』のなかに現存している」(Mead 1934=1973：186)、「だから、自分自身の経験のどの点で直接に『I』が登場するのかという問への解答は、『歴史的人物の形でだ』ということになる」、『わたしは、自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない』(Mead 1934=1973:187)といったミードの説明はわかりやすい。</p>
<h4><span id="toc28">瞬間の意識である主我をとらえることはできるのか</span></h4>
<p>・人間の主観的、心的なもの(the psychical)をどうやって経験的、科学的に把握するのか</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">アメリカの心理学者であるウィリアムズ・ジェームズ(1842-1910)によれば、主我はある瞬間に意識するものであり、経験的、科学的に把握できないという。</li>
<li class="sample">ミードはジェームズによる主我のアイデアを受け継ぎながら、主我は経験的、科学的に把握できると主張する。ミードにおいても主我はある瞬間の意識であり、意識のうちに現れることを経験的に把握するのは難しく、また不確かであり、偶然的、突発的であり、予測することも難しいという。しかし、主我は客我の一部として現れ、主我は客我を通して間接的に知ることができるというのがミードの主張。</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「ミードにおいて、アイとミーは自己を構成する２つの部分ではなく、時間的な過程としてとらえられている。ミーは過去の経験が沈殿して形成される経験の蓄積である。アイはこの経験の蓄積に基づいて生起する現在の反応である。そして、このアイの反応もまた沈殿してミーの一部となっていく。「この瞬間の『I』は、つぎの瞬間の『me』のなかに現存している」(Mead 1934=1973：186)。ある時点(t0)でアイ(t0)がミー(to)の要求と相対するとき、アイ(t0)はミー(t0)のなかに、以前の時点(t-1)におけるミー(t-1)の要求と、この要求に対するアイ(t-1)の反応を発見する。しかし、アイ(t0)はアイ(t0)の反応を目にすることはけっしてできない。『わたしは、自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない』(Mead 1934=1973:186)のである。アイ(t0)の反応は沈殿してミー(t1)の一部になったときはじめて、アイ(t1)によってとらえられる。「だから、自分自身の経験のどの点で直接に『I』が登場するのかという問への解答は、『歴史的人物の形でだ』ということになる」(Mead 1934=1973:187)。」</p>
<p>「社会学」,有斐閣,57P</p>
<p>「しかし、ジェームズによると、この『主我』は研究困難なものである。なぜなら、『主我』はある瞬間に意識するものであり、一瞬前のものとは異なるものだからである。したがって、『主我』は直接的にとらえることができず、とりわけ経験的、科学的に把握されないものとされる。これに対してミードは『主我』を経験的、科学的にとらえようとする。ミードにおいて『主我』は魂のような形而上学的なものではなく、また時間を超越した先験的なものでもない。それは選択し、記憶し、判断し、総合するものである。ミードによると、『主我』は他者の期待の取り入れを通じて生まれる『客我』に対する反応として生じる。つまり、『主我』は他者とのかかわりにおいて社会的に形成される。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,66-67P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">見かけ上の現在とは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>見かけ上の現在(specious present)</strong></span>：</big>・過去や未来を含んだ現在のこと。見かけ上の現在に対し、物理学的な現在の時間を「瞬間的現在」と呼ぶ。見かけ上の現在は心理学的、シンボル的な現在。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">現在のみがリアリティを有していて、過去や未来はリアリティを有していない</li>
<li class="sample">過去や未来がリアリティを有するためには、<b>何らかの形で現在のなかに入り込んでいなければならない</b>。</li>
<li class="sample">過去は記憶イメージとなって現在に入り込み、未来は予測や想像のイメージとなって現在に入り込む。</li>
<li class="sample">ミードにおける現在は物理的な時間ではなく、<b>心理学的・シンボル的な時間</b>である。物理的な時間が「<b>瞬間的現在</b>」であるのに対して、ミードにおける自我の時間は「<b>見かけ上の現在</b>」と呼ばれる。見かけ上の現在は過去も未来も同時に含んでいる。</li>
</ol>
<p>・過去や未来は現在において再構成される</p>
<p>→過去や未来がそのままの形で現在に組み込まれるわけではなく、現在によって受け止められ、解釈され、修正、変更などを通して再構成される。</p>
<p>・客我は主我において再構成される。この再構成というのは、客我を新しく創るということであり、<b>創発性</b>を伴っている。再構成の過程では主我の「<b>主体性</b>」、「選択」を含んでいる。</p>
<p>→こうした再構成が可能なのは、自我が<b>時間的な過程</b>だから。もし仮に客我と自我が同時に発生するとしたら、受動的な反応になってしまうのではないか。</p>
<blockquote>
<p>「『見かけ上の現在』とは、『瞬間的現在』(knife-edge present)が物理学的な現在であるのに対して、心理学的、シンボル的な現在を表している。『見かけ上の現在』は時間的な幅をもったものであり、現在のみならず、過去も未来も同時に含んでいる。しかし、そこでは過去や未来は過去それ自体、未来それ自体、つまり物理学的な過去や未来ではない。過去は記憶イメージとなって、未来は予測ないし想像イメージとなって現在のうちに存在する。したがって、それは現在という枠組みを通じて選択され、再構成された過去や未来である。過去のシンボリックな再構成とは、現在において意味をもつ、また現在に対して有効性をもつように、過去の出来事の意味を再規定することである。未来に関しても同様である。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,62P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">意味のあるシンボルとは、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味のあるシンボル(significant symbol)</strong></span>：</big>・他者にも自己にも同一の反応を引き起こすような言葉やジェスチャー(身振り)のこと。とくに人間の言語による音声が重要となる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ジェスチャー(gesture)</strong></span>：</big>・行為しようとして、いまだ行為していない人々の態度。単独者の所有物ではなく、他の個体との社会的構成物。他の個体にたいして何らかの影響を及ぼし、他の個体の反応に対する刺激。</p>
</div>
<p>→ジェスチュアは客観的に存在している。主我が客観的に把握できるのと同じように、ジェスチュアもまた、他者の反応を通して把握できるという。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意味</strong></span>：</big>・対象が引き起こす表示された反応。ジェスチャー、他者の反応、社会的行為の三項関係から構成されている。単なる心的な構成物ではなく、他者の反応として客観的に存在するもの。→つまり、他者が存在しなければ意味も存在しない。他者の反応があってはじめてジェスチャーは意味を持つ。また、「意味のあるシンボル」とミードが表現するとき、そこには「社会的に共通なる意味」という要素を含んでいる(社会的行為)。一般化された他者ならどう反応するか、というようなイメージ。例：みんな暴力は悪いと言っていて、そうしたみんなから見て自分のジェスチャーは悪い意味だ、というように形成されていく。</p>
</div>
<p>・特に音声を発することによって、他者に反応を引き起こすとともに、音声を発した本人にも同一の反応を引き起こさせるという。</p>
<blockquote>
<p>「ミードにおいて人間のコミュニケーションは他の動物のコミュニケーションとは区別される。人間のコミュニケーションは『意味のあるシンボル』(significant symbol)によって媒介されるコミュニケーションである。『意味のあるシンボル』とは他者にも自己にも同一の反応を引き起こすような言葉やジェスチュアを指している。その典型が音声であり、音声はそれを発することによって他者に反応を引き起こすとともに、音声を発した本人にも同一の反応を引き起こさせる。このようんじゃ同一の反応を引き起こすシンボルが『意味のあるシンボル』であり、ミードの強調するところによれば、それは人間に固有なものである。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,72P</p>
<p>「『ジェスチュアは外的行為の最初の部分に属している。なぜなら、他者が社会課程に適応することは行為の初めのうちに最もよくなされるからである。したがって、ジェスチュアとは同じ行為にかかわつている他者が反応するような外的行為の初めの段階のことである。』(Mead，[1924-1925]1964:287.訳六三頁)。つまり、『ジェスチュア』とは個体が行為しようとする構え、『行為しようとして、いまだ行為していない人々の態度』(Mead,1982:41)を表している。そして、ジェスチュアは単独者の所有物ではなく、他の個体との社会的構成物である。それは他の個体に対して何らかの影響を及ぼし、他の個体の反応に対する刺激となっている。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,75-76P</p>
<p>「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こすときに、ジェスチュアは意味をもつ、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは『対象が引き起こす表示された反応』(Mead,[1922]1964:244.訳三二頁)である。意味は、ミードによると、ジェスチュア、他者の反応、社会的行為の三項関係からなっている。したがって、ジェスチュアの意味は意識の状態を指したり、心的な構成物を表すのではなく、他者の反応として客観的に存在するものである。」</p>
<p>船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,76P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">言語と精神</span></h3>
<p>・言語の３つの機能</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">共通の意味の媒体としてコミュニケーションを可能にする。</li>
<li class="sample">他者の役割取得を取得し、他者の立場に立つことによって自我に内部で内的コミュニケーションが成立する。こうした内的コミュニケーションの機能をもったものをミードは「精神(Mind)」と表現している。精神は反省的な知性であり、社会的経験の個人への輸入であるという。</li>
<li class="sample">内的コミュニケーションを通してオリジナルなものが創出される。</li>
</ol>
<p>・自我は「他者の役割取得」を通して形成され、主に言語を媒介されて形成されていく。言語は「内的コミュニケーション」や「創造の機能」をもっている。</p>
<p>→言語(意味のあるシンボル交換)と創発的内省性の関係</p>
<blockquote>
<p>「言語は、共通の意味の運載者として、或いは媒体として、コミュニケーションを可能にするものである。相互作用に於いて話者にも聞き手にも同様の反応を要求するのがコミュニケーションとしての言語の働きである。&#8230;&#8230;相互作用の過程に於いて、個人は他者の役割を取得し、他者の立場に立つことによって、自我の内部に於ける内的会話が成立する。即ち、他者の立場に立つ自我と、自我自身との内的会話である。かかる内的会話が思考にほかならない。そうして、この内的会話の機能をもったものが、ミードに於いては精神(Mind)と呼ばれる。&#8230;&#8230;更に、思考としての内的会話を基礎として、創造作用が常まれ、オリツナルなものが創出される。これが言語の第三の機能である。」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、73P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">人間と他の動物の違い</span></h3>
<p>・動物もジェスチャーを交換しあっているが、人間のように他者にも自己にも同一の反応を起こすようなジェスチャーの交換(意味のあるシンボル交換)をしていない。人間から見ると意味のあるシンボルを交換しているように見えるが、動物たちは自分のジェスチャーについての意味を意識しているわけではない。動物たちによるジェスチャーの交換は意味というよりサイン(指示、合図)に近い。たとえば親鳥がミミズをつつき、雛鳥に食べるように指示している際に、雛鳥の立場になって自分を客観的にとらえ、自分のしている行為の意味を意識にのぼらせていることはないという。雛鳥も同様にサインに対して自動的、反射的に反応している。</p>
<p>・動物はジェスチャーの意味を行為の前に意識したりすることはない。人間以外の動物は「情動の発散」であり、自己の情動を意識したり表現することはないとミードは考えている。</p>
<p>・動物によるジェスチャーの交換は、パブロフの条件反応の理論によって説明できるような機械的模倣。</p>
<p>・人間だけが意味のあるシンボルを交換しあっている。そしてこの交換を「<b>コミュニケーション</b>」という。意味のあるシンボルを交換するときの他者を「<b>意味のある他者</b>」という。</p>
<p>父親、母親、兄弟、友人、先輩、先生、近所の人、警察といったようにさまざまな「意味のある他者」とコミュニケーションをする過程で自我が形成されていく。</p>
<p>そして個々の他者の期待が複数の他者の期待としてまとめ上げられ、一般化されたものを「<b>一般化された他者</b>」という。例：みんなが暴力は悪いと思っている、というときの「みんな」は一般化された他者であり、一般化された他者からの自己への期待。※一般化された他者については次回以降詳説する。</p>
<blockquote>
<p>「また、ミード、が自我の形成に於いて、模倣の概念を排斥して、役割取得の概念を導入したことの意味も、この点に存する。相互作用の過程に於ける他者の行為様式の習得は、動物の聞に見九れる機械的刺激──反復、即ち、単なる禎写ではない。動物の聞に於げる行為様式の習得は、文字通りの機械的模倣であって、それ以上の意味をもたない。それは、パブロフ流の条件反応の理論によって説明しうるものである」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、72P</p>
<p>「ミードによると、動物においては情動が外的に表現されることはなく、また、動物が他の動物に向かって自己の情動を表現することはありえない。動物のジェスチュアは単なる情動の発散を表すにすぎないのであって、それは『取り除かれるべき情動の解放弁』(Mead,1934:16-17.稲葉ほか訳二十－二十一頁、河村訳二十八頁)である。そして、情動は行為の禁止によるフラストレーションから生じるものである。」</p>
<p>越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」、74-75P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">内的コミュニケーションと外的コミュニケーション</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内的コミュニケーション</strong></span>：</big>・役割取得をする過程。自分自身を対象化し、自分自身と相互作用する過程。内的会話。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外的コミュニケーション</strong></span>：</big>・他者と相互作用する過程。外的コミュニケーションを通して、内的コミュニケーションが社会的に生み出されていく。内的コミュニケーションの結果、さらにまた外的コミュニケーションも変化していく。外的会話。</p>
</div>
<p>・内的コミュニケーションと外的コミュニケーションを通して、これまでに存在しない新しいものが創発されていく。こうした自我の創発性、人間の主体性をミードは強調した。</p>
<blockquote>
<p>「人間は他の人間とのコミュニケーションを通じて，自己の対象化を行う．自己の対象化とは，物や他者を対象とするように，自分自身を対象とすることである．それによって「自分自身との相互作用」（self interaction)，つまり，内的コミュニケーションが行なわれることになる．そこにおいて，他者の期待が表示され，解釈される．解釈は自分が置かれた状況や行為の方向に照らして，他者の期待を選択し，変更し，再構成することである．そこに新たなものが創発されてくるようになる．内的コミュニケーションは他者との外的コミュニケーションを通じて社会的生み出されてくるものであり，それはまた，これまでに存在しない新たなものを創発するものである．自我の社会性と創発性は，人間のコミュニケーションにおいて，相互に結びついて現れてくるものといえる」</p>
<p>船津衛「社会的自我論の展開」114~115P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc34">参考文献</span></h2>
<h3><span id="toc35">主要文献</span></h3>
<p><a href="https://amzn.to/3byANva">G・H・ミード「精神・自我・社会」</a></p>
<p><a href="https://amzn.to/3xWRCrd">船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)</a></p>
<h3><span id="toc36">参照論文(論文以外を含む)</span></h3>
<p>１：越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得　G・H・ミードの理論を中心として」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/9/3/9_66/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>・他者の役割取得の説明</p>
<p>２：平川茂「G・H・ミードの『自我論』再考」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/25/1/25_21/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>・自我の発生的局面、作用的局面</p>
<p>3：船津衛「社会的自我論の展開」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/personality/13/1/13_1_113/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
<p>・自己対象化の説明、内的コミュニケーション、外的コミュニケーション</p>
<h3><span id="toc37">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc38">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc39">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc40">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00IR44T26/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00IR44T26&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=f2712c443f380f792438b51627b4e2de" target="_blank">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる！</a></p>
<h4><span id="toc41">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4880593508/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4880593508&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=009f3e2b26ad145fcf5b5b9af985ac34" target="_blank">社会学 第五版</a></p>
<h4><span id="toc42">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc43">クロニクル社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641120412/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641120412&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=70dbea010ff34843c3a086a108837a11" target="_blank">クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)</a></p>
<h4><span id="toc44">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2022/06/27/geoge-herbert-mead-1/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
