【基礎社会学第二十四回】G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」とはなにか

    概要

    要約、要旨

    1. 客我とは「他者の期待をそのまま受け入れたものであり、自我の社会性を示す部分」であり、主我とは「客我に対する反応であり、自我の主体性を示す部分」である。自我は主我と客我の相互作用によって形成される動的な過程であり、渦のようなものである。ミードは自我の発生には他者が不可欠であると考え、自我よりも社会が先に存在すると考えた。つまり、自我は社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものだという説(自我の社会説)。
    2. 他者の役割取得とは、「他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること」である。他者の役割取得を通して人間は客我を生み出し、またそれに対して反応することで主我を生み出し、さらにその主我が客我を再構成していく。他者の役割取得を通して人間は自我を構成していく。他者の役割取得は主に「意味のあるシンボルの交換(コミュニケーション)」を通して実現されていく。
    3. 創発的内省性とは、他者の目(視点)を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくることである。内的コミュニケーションと外的コミュニケーションを通して、これまでに存在しない新しいものが創発されていく。こうした自我の創発性、人間の主体性をミードは強調した。
    4. 創発性とは、「ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまうこと」である。自我は主我と客我の2つの側面からなる。そして時間的に先に客我があり、後に主我がある。過去や未来がそのままの形で現在に組み込まれるわけではなく、現在によって受け止められ、解釈され、修正、変更などを通して再構成される。この再構成というのは、客我を新しく創るということであり、創発性を伴っている。再構成の過程では主我の「主体性」、「選択」を含んでいる。こうした再構成が可能なのは、自我が時間的な過程だから。

    動画での解説・説明

    ・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    その他注意事項、次回の予定

    私が記事を執筆する理由について

    G.H.ミードのプロフィール

    ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。

    プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。

    主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。

    主我と客我(Iとme)

    自我とは、意味

    POINT

    自我(じが,self)・主我(I)と客我(Me)という2つの側面から構成されるもの。主我と客我の相互作用によって形成されるものであり、その過程。自己とも訳されることがある。

    自我とは、外部的環境や他者から区別されている行為の主体、及び主体についての意識を意味する。主体についての意識は自我意識、自画像とも呼ばれる。

    ミードにおいて自我意識とは客我であり、行為の主体は主我である。したがって、客我は客体としての自我であり、主我は主体としての自我である。このように、自我は客我と主我の2つの側面から構成されている。ただし、2つの要素で船のように単純に構成されているのではなく、時間的な過程として構成される「渦」のようなものである。

    自我は自己と訳されることもある。自我は生まれつき備わっているものではなく、自然発生的に生み出されるものでもなく、社会的な相互作用を通じてのみ発生し、形成されるものだとミードは主張する。社会が先で、その後に自我が形成される(自我の社会説)。

    自我について説明を聞いて、ナンノコッチャワカラン、となるかもしれません。こういうときは具体例で考えるといいんですよね。

    まずは客我から考えていきましょう。この客我というのは、自分自身を他者の観点から眺めている側面です。たとえば子供が親に喧嘩をして怒られるといるとします。そのうち、子供は喧嘩をしないようになるとします。この場合、子供が親(他者)の観点から自分を眺めているというケースが考えられます。親の視点、観点を通して自分(自我)はどうあるべきかを考えるようになるわけです。親という視点を通して、喧嘩はするべきではない、という自我を形成するわけです

    客我とは、意味

    POINT

    客我(きゃくが,Me)・他者の期待をそのまま受け入れたもの。対象化された自我、あるいは客観的な自分の側面のこと。自我の社会性を示す部分。

    ・客我とは、「他者の期待をそのまま受け入れたもの」と定義されている。対象化された自我、客体としての自我、あるいは客観的な自分の側面という点が重要。さらに重要なのは、他者が存在しないと客我というものが発生しないということ。つまり、人間一人だけで自我は完結するのではなく、他者との相互行為のなかで生じるような社会的現象であるということ。

    例:教師は学生に、教室では静かにして欲しいと期待する。学生はそうした教師の期待をいったん受け入れるとする。つまり、教師という観点から見た自分というものを意識する。このとき、自分というものが対象化されている。

    主我とは、意味

    POINT

    主我(しゅが,I)・客我に対する反応。客我に対して反応する主体。自我の主体性を示す部分。

    ・主我とは、客我に対する反応。客我に対して反応する何か、あるいは主体。対象化されえない自己の側面。

    ・主我がなにかについて、ミードは詳細に説明していない。したがって、解釈において専門家でも議論が分かれている。

    自己の対象化とは、意味

    POINT

    自己の対象化・事物や他者を対象とするように、自分自身を対象とすること。

    例:バナナを食べるというときのバナナは自分と切り離されているし、自分とは離れて客観的に存在している(自分はバナナではない)。それと同じように、自分を教師という観点で眺めるとき、自分は客観的に存在していて、対象化されている。

    →自分が自分を眺めているような感じ(再帰的)。これをミードの言葉で表現すれば、自分(主我)が自分(客我)を眺めている。あるいは、自我の側面である主我が、自我の側面である客我を眺めている。こうして考えていくと、自我とは自我の意識とそれにたいする反応である、という再帰的な意味合いが分かってくる。

    主体と客体

    POINT

    主体・一般に、意識と身体を持った行為者。

    POINT

    客体・一般に、主体の意志や行為の対象となる物。

    POINT

    対象化・一般に、自分から切り離してとらえなおし、見つめなおすこと。

    POINT

    相互作用・一般に、互いに働きかけ、影響を及ぼすこと。

    この場合、自分というものが客体として、つまり主体の「対象」として捉えられることになります。難しいですね。たとえば「私はチーズ食べる」、という文章における客体は「チーズ」で、主体は「私」です。

    「私は親の観点から自分というものを意識する」、という文章における客体は「自分(=客我)」です。お察しの通り、この客体を意識している主体は「私(=主我)」です。自我にはこのように、主我と客我の2つの側面があるわけです。ミードの用語では主我と客我が「相互作用」しているということになります。

    「ところで、自我という言葉は論者により様々な意味で使用されているので、まず、その意味を明白にしておく必要があろう。自我とは、外部的環境や他者から区別される行為の主体、及ぴ、主体についての意識を意味する。主体についての意識とは、自我意識であり、自我像とも呼ばれる。G・H-ミードの用語法に従えば、自我意識とはMeであり、行為の主体はIである。即ち、Iは主体としての自我であり、Meは客体としての自我である。従って、IとMeの二つの側面から自我が構成されているというととができる。」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」,66P

    「ミードによると、人間の自我には二つの側面があり、ひとつは『主我』(I)、もうひとつは『客我』(me)である。『客我』とは他者の期待をそのまま受け入れたものであり、『主我』とはその『客我』に対する反応である。『客我』が自我の社会性を表し、『主我』が人間の主体性を示すことになる。自我はこの『客我』と『主我』のかかわりから成り立っている。そして、『主我』は自我の積極的側面を示し、それは人間の個性や独自性、また創造性や主体性を示し、新しさを創発するものである。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,66P

    「自己は他者の態度取得によって生じる。その意味で自己は、たしかに社会的相互作用の産物である。だが自己は、他者の態度をとり入れ反復するだけでの装置ではない。このことを説明するために、ミードはここでひとつの操作を実行する。自己にはIとmeという2つの側面があると想定するのである。meとは、まさしく対象化された自己のことである。それは、他者の態度を引き受ける因習的・習慣的な自己である。他方Iは、われわれの直接経験に現れることはない、対象化されえない自己の側面である。それは、共同体の態度に対して反応する『何ものか(サムシング)』であり、meのなすことに反応する『超越的』な何ものかである。ミードはそこに、自由、新しさ、計算できなさといった不確定要素を含みもたせたのである。」

    「クロニクル社会学」,205P

    「ミードは、自己のうちに取り入れられた『一般化された他者』の態度が自己のうちで組織化されたものをミー(”me”)と呼ぶ。」

    「社会学」,有斐閣,56P

    「『me』とは他者の態度の組織化されたセットである。」

    ジョージ・H・ミード、「精神・自我・社会」、187P

    「弱い者いじめをしてはいけないだけではなく、他人のものを盗んではいけないし、挨拶をしなければいけないし、約束は守らなければいけない。これらが組織化されて『ミー』を形作る。それは、自己のうちの他者であり、自己のうちにある『共同体の表象』(「精神・自我・社会」、190P)」である。それは自己のうちにあって、自己に対してある反応を要求する。アイ(“I”)とはこの要求にたいする自己の反応である。」

    「社会学」,有斐閣,56P

    「『I』とは、かれ自身の経験のなかにあらわれる共同体にたいするその個人の反応である」

    ジョージ・H・ミード、「精神・自我・社会」、209P

    「自己とは、自己のうちで進行するミーとアイの間の内的な相互作用であり、この相互作用が自己という渦を形作っているのである。」

    「社会学」,有斐閣,56P

    「しかしながら、ミードによれば、自我は客我だけで成り立つものではない。自我とは、『主我(I)』と客我(me)という二つの側面をともなって進む、社会的なプロセスの一部であるという。主我は、自己の内発的な反応であり、客我に対して独自の反応を示し、個性的な修正を加えることで、その人らしさを作り出す。客我は、その主我の反応を検閲することによって、自我に社会的な適応を促す。そして主我と客我との緊張関係を孕むこの相互作用こそが、自我に新しい変化を生み出し、少しずつではあっても、社会に変化を生み出していくのである(創発特性)。」

    「本当にわかる社会学」,現代位相研究所,45P

    「Iとmeのそれぞれについて説明します。まずmeは、客体としての自我、私の客観的な側面です。自分自身を外から、他者の観点から眺めているわけです。したがって、meとは、他者の期待──規範的な期待──の中で自我がどうあるべきものとして現れているのか、ということです。それに対して、Iのほうが曖昧です。ミードもうまく説明できていないように見えます。とりあえず、Iは、自我の主体的な側面ということになります。しかし、Iを積極的に定義しようとすると難しい。結局、meには還元できない自我のあまりの部分がIである、としか言いようがなくなるのです。」

    大澤真幸「社会学史」、437P

    「人間は他の人間とのコミュニケーションを通じて,自己の対象化を行う.自己の対象化とは物や他者を対象とするように,自分自身を対象とすることである.」

    船津衛「社会的自我論の展開」,114-115P

    主我=本能・衝動説とは、意味

    POINT

    主我=本能・衝動説・主我は本能や衝動、客我は社会的束縛の機能と考える説。

    フロイトの「イド(エス)」に近い。フロイトでいえば超自我が客我にあたる。

    問題点:このように考えてしまうと、主我の主体性が薄れてしまう。例:人間より動物、大人より子供のほうが本能的、衝動的であり、したがって主体的であるということになってしまう。

    主体性:一般に、自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。動物のような衝動や反射的な行動とは対照的な性質。ミードは主我の主体性を強調していた

    WIKIより引用 S・フロイト(精神科医)における自我のイメージ

    「『主我』=本能・衝動説は『客我』が社会的束縛の機能を果たすものであるから、『主我』は本能や衝動であると考える。たしかに、ミードも「フロイトの表現を用いれば、『客我』はある意味では検閲官である」(Mead,1934.210.稲葉ほか訳二二三頁、河村訳二五九頁)と述べており、したがって、『主我』はそれから解放された衝動やS・フロイトの『イド』として考えられる。しかし、『主我』イコール本能・衝動、そしてイコール主体性とすると、大人より赤ん坊、人間より動物の方が主体的であるということになってしまう。けれども、人間の主体性はこのような本能や衝動の支配から解放されたところに存在している。何よりも、『主我』=本能・衝動説は自我の社会性という前提から外れてしまっている。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,68P

    主我=残余説とは、意味

    POINT

    主我=残余説・客我以外のもの、すなわち人間の個性、個人差、特殊性、プライバシー、主観、逸脱、異常、主体性を現す。客我には還元できないものすべて。

    問題点:いろいろなものが入り込むと、主我の独自性が失われてしまう。ミードは人間の主体性を強調した。

    「『主我』=残余説では『主我』は『客我』以外のもの、すなわち人間の個性、個人差、特殊性、プライバシー、主観、逸脱、異常、主体性を現すとされる。W・コルブによると、『主我』には三つのものが含まれており、①生物的なもの、②社会的なものと生物的なものとの相互作用、③社会的なものがある。しかし、これらを一つにまとめるのは不可能である。そして、このように、いろいろなものが入り込むと、『主我』の独自の倫理が失われ、とりわけ、ミードの強調する人間の主体性が消去されてしまうことにもなる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,68P-69P

    主我=創発的内省性説とは、意味

    POINT

    主我=創発的内省性説・主我は人間の創発的内省を意味すると考える説。

    POINT

    創発的内省性(emergent reflexivity)・他者の目を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくること。

    →客我に対する主我の反応が創発的内省性をもつということ。具体的には、刺激を受け止め、解釈し、修正、選択、再構成するということ。客我をそのまま受け止めて行為するのではなく、主我によって客我が新しく再構成され、そこから行為につながるという主体性につながっている。内省とは一般に自分自身と向き合うことであり、ミードの文脈では客我と向き合うことを意味する(客我と主我の相互作用によって新しいものがうまれ、自我が形成されていく)。

    例:貧しい人間は政治に参加するべきではない、という客我に対して、貧しくても政治に参加するべきだ、というように主我が反応することもある。自分がどうあるべきかについて、新たなものが創発されていく余地がある。主我は自動的・受動的・非主体的に客我に反応するわけではない。

    「そこで、『主我』を人間の『創発的内省性』(emergent reflexivity)を表すものとして解釈するならば、『主我』によって自己の修正・再構成が行われ、そこに新しいものが生み出されることを理解できるようになる。『創発的内省性』とは他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくることを表す。このような『創発的内省性』によって、自己が新しく生まれ変わると同時に、その行為を通じて他者も変わるようになる。したがって、ここから、社会のイメージは動かないもの、固定した構造ではなく、変化するもの、変動する過程となる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,70P

    他者の役割取得

    役割取得とは、意味

    POINT

    他者の役割取得(ole-taking of theo ther)・他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。

    コミュニケーションによって相手の役割を取得することにより、自分というものが客体化され、対象化され、客我が形成される。さらに客我は主我によって調整され、自我が形成されていき、行為(役割演技)となる。

    人間にのみ他者の役割取得というものがある。人間はコミュニケーション(有意味シンボルの交換)を通じて他者の役割取得を行い、自己の対象化を行う。自分自身との相互作用によって、他者の期待や態度、役割が表示され、選択され、変更され、再構成される。その過程で新たなものが創発されていく(創発的内省性)。

    ・役割取得と役割演技の違い

    役割取得は役割を現実の場面において遂行することではない。遂行することは役割演技と呼ばれる。

    役割取得とは、別のいいかたをすれば「態度の取得」である。役割を認知し、内面化する段階から、行為に備えて態勢を準備する段階、潜在的なイメージ。

    態度の取得:役割にしたがって行為をする準備が完了したということ。

    「人が自我として、或いは個人として、自己自身を経験するのは、直接的でもなければ、無媒介的なものでもなく、また、自己自身に対して、主体となることによってでもない。それは唯、彼が最初に、丁度、他の個人が彼にとって、或いは、彼の経験内に於いて客体であるように、彼自身に対して客体となる限りに於いて、自我として自己自身を経験するのである。換言すれば、例人は他の個人の態度をとることによってのみ、自己自身に対して客体となることができるのである。こうして、ミ1ドは、「他者の役割取得」(ole-taking of theo ther)という概念を提起する」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、67P

    「そして、ミードによると、『人間が自分自身に対して対象となるのは、まさに、自分の行為にかかわる他者の態度を取得する自分自身に気づくからである。人間が自分自身に立ち戻ることができるのは他者の役割を取得することによってだけである』(Mead,[1924-1925]1964:283-284).訳五七頁」。すなわち、自我は他者の『役割取得』を通じて形づくられる。ここから、ミードは具体的な他者とのかかわりにおける『役割取得』による自我形成論を展開する。……『意味のある他者』が自分に対していかなる期待や要求・要請、また、気持、感情、意図をもっているのか、どのような意見や態度をもち、いかなる評価や判断、あるいは規定づけを行なっているのかが自我のあり方を形づくるのに重要な事柄となる。人間は『他者の役割と取得でき、他者が行為するように自分自身に向かって行為するかぎりにおいて自我となる』(Mead,1934.171.稲葉ほか訳一八三頁、河村訳二一一頁)。このように他者の態度、役割、期待とのかかわりにおいて自我が形成される。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,55P

    「役割の取得は、その役割を実現しうる熊勢にあるということ、即ち、役割に従って行為する準備が完了したということであり、態度を取得したということである。従って、役割の取得乃手認知は、同時に、その役割の背後にある態度を取得し或いは認知したことを意味している。とれに対して、ある役割に従って現実に行為すること即ち‘実際に個々の役割を遂行することはミlドによれば、役割演技(role-playing)と呼ばれる。」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、69P

    役割とは、意味

    POINT

    役割(role)・ばらばらではなく、一定のまとまりのある行為の型(パターン)。

    例:母親と子供の相互作用において、母親は子供に授乳したり、叱ったりする。これらはバラバラなものではなく、一貫した行為のパターン。もし矛盾するような期待を子供にしてしまうと、分裂してしまうのではないか(ベイトソンのダブルバインド。分裂病)。例えば、勉強しろといいながら勉強するなという。言葉では愛しているといいながら、態度では愛していない。

    R・リントンによれば、役割とは「ある特定の地位に結びついた文化型の総和」を意味する。役割はある地位を占めるあらゆる人々に対して社会が課する態度、価値、行動のすべてを含むもの。

    「役割とは、個々のばらばらな行為でなく、一定のまとまりある行為の型を意味している。そこで、役割とは相互作用場面に於いて行為者の行為が分裂したものではなく、組識化されたものであるとき、この一連の首尾一貫しにまとまりある行為の型であるといえよう。」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、68P

    役割取得の例

    例:子が親に勉強をするように期待されているケース

    子は親から見た自分というものを意識する。親の期待は「子供は勉強してほしい、するべきだ」というもの。子にとって親は他者である。親からの期待(態度、役割)を取得するということは、他者の役割取得を意味する。

    他者の役割取得を通して、自分自身を対象化することができる。まるで自分を他者であるかのように、客観的に眺めているような状況。相手の立場に立ち、他者であるかのように自分自身に対するとき、自我が発生する。→客我に対して主我が反応するとき、自我が発生する。他者の役割取得は客我を発生させる。

    例:親が子供のいたずらを叱るケース

    1:親が子供のいたずらを目の前で叱れば、子供のいたずらは止まる。しかしこれだけでは他者の役割取得をしたとは言い切れない。犬が叱られて反射的にいたずらをやめるのと似ているかもしれない

    2:親が見ていないところでも「このようないたずらをすれば父にしかられる」と考えて、自分の行動を子供がコントロールしている場合、他者の役割取得をしているといえる。子供は父親の態度で自己自身の行為を反省し、批判するようになる。

    →犬も何度も叱れば主人がいなくてもいたずらをやめるかもしれないが、それは他者の役割取得をしているというより、習慣的、自動的な反応をしているといえる。そこに選択という主体性、創発性は乏しい。自我は人間特有の現象だとミードは考えている。

    人間と他の動物の違い

    ・人間だけが自我をもつ。

    例:犬は自我をもっていない。なぜなら、犬は自分がしていることを自分で知らず、ほとんど直接的・感情的に反応を交換しているにすぎないから。

    人間の例で考えてみましょう。動物と違って人間は間接的に自分のことを知ります。なぜなら、他者からみた自分、というように他者を媒介するからです。

    自我の孤立説

    POINT

    自我の孤立説・自我は社会に先行し、それ自体として既に存在しているとみなされる説。

    初めに自我があってその自我と他者との相互作用から社会が形成される。例:R・デカルトの「ワレ思う、ゆえにワレあり」

    自我の社会説

    POINT

    自我の社会説・我よりも社会が先にあると考える説。自我は社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものだという説。

    自我は孤立した要素やそれ独自で存在しうる存在物ではなく、他の人間とのかかわりから生み出され、展開されてくるもの。

    ミードは自我の社会説を明らかにしようとしていたというのがポイント。主我と客我によって自我を説明することは、他者が存在しなければ自我は発生しないと結論づけることにつながる。

    ・自我は「他者の役割取得」を通してのみ形成されていく。

    ・客我は「他者の役割取得」を通してのみ形成されていく。客我が形成されていないと、主我も形成されない。

    →他者がいないと自我が形成されないということは、社会が存在しないと自我が形成されないということになる。

    「ミードは自我の孤立説を否定して、自我の社会説を主張する。自我の孤立説とは、R・デカルトの『ワレ思う、ゆえにワレあり』の言葉に代表される自我論であり、そこでは自我は社会に先行し、それ自体として既に存在しているとみなされる。しかし、ミードによると、それでは自我がどこから生まれてくるのかを説明できない。社会は、本来、自我に先行しており、自我は社会から生まれるものである。そして、自我は孤立した要素やそれ独自で存在しうる存在物ではなく、他の人間とのかかわりから生み出され、展開されてくるものである。ミードの強調するところによれば、『自我は生理学的有機体それ自体とは異なる性質をもっている。自我は発達するものである。それは生まれたときから、もともと、そこにあるのではなく、社会的経験と社会的活動の過程において生じてくるものである。つまり、一定の個人において社会過程全体の、そしてその過程内の他の個人との関係の結果として発達してくるものである』(Mead,1934.135.稲葉ほか訳一四六頁、河村訳一七〇頁)。人間の自我は、したがって、社会的な産物である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,52P

    「けれども、「精神」でのミードの最大の目的は「自我の個人説」individualistic thery of the self(初めに自我があってその自我と他者との相互作用から社会が形成されるとする説)に抗して「自我の社会説」social theory of the self(初めに社会があって自我はそこでの他者との相互作用から生れるとする説)の妥当性を主張することだったから、「精神」にあっては「自我の発生的局面」が重視されることになった。」

    平川茂「G・H・ミードの『自我論』再考」,21P

    創発性、時間と自我、意味のあるシンボル

    創発性とは、意味

    POINT

    創発性・ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまうこと。

    「ミードによると、『社会性は創発性の原理であり、その形式である』(Mead,1932:85)。そして、『創発性』とは、『ものごとが二つ以上の異なる時間系に自己を位置づけることから、後の時間系に位置することによって、前の時間系での自己の特質が変質されてしまう』(Mead,1932:69)」ことを表している。このような『創発性』にもとづいて自我が再構成され、そこにおいて行為の継続が可能となる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,61P

    自我と時間の関係

    「自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない」

    ・自我は主我と客我の2つの側面からなる。そして時間的に先に客我があり、後に主我がある。

    主我は意識のうちにあらわれることはできないが、客我の一部として現れ、間接的に知ることができる。主我の現在の反応は、未来における客我において間接的に知ることができる。また、主我の現在の反応は、過去の客我に対して反応するものである。

    1. 客我(過去):過去の経験が沈殿して形成される経験の蓄積。
    2. 主我(現在):過去の経験の蓄積に基づいて生起する現在の反応。

    「この瞬間の『I』は、つぎの瞬間の『me』のなかに現存している」(Mead 1934=1973:186)、「だから、自分自身の経験のどの点で直接に『I』が登場するのかという問への解答は、『歴史的人物の形でだ』ということになる」、『わたしは、自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない』(Mead 1934=1973:187)といったミードの説明はわかりやすい。

    瞬間の意識である主我をとらえることはできるのか

    ・人間の主観的、心的なもの(the psychical)をどうやって経験的、科学的に把握するのか

    1. アメリカの心理学者であるウィリアムズ・ジェームズ(1842-1910)によれば、主我はある瞬間に意識するものであり、経験的、科学的に把握できないという。
    2. ミードはジェームズによる主我のアイデアを受け継ぎながら、主我は経験的、科学的に把握できると主張する。ミードにおいても主我はある瞬間の意識であり、意識のうちに現れることを経験的に把握するのは難しく、また不確かであり、偶然的、突発的であり、予測することも難しいという。しかし、主我は客我の一部として現れ、主我は客我を通して間接的に知ることができるというのがミードの主張。

    「ミードにおいて、アイとミーは自己を構成する2つの部分ではなく、時間的な過程としてとらえられている。ミーは過去の経験が沈殿して形成される経験の蓄積である。アイはこの経験の蓄積に基づいて生起する現在の反応である。そして、このアイの反応もまた沈殿してミーの一部となっていく。「この瞬間の『I』は、つぎの瞬間の『me』のなかに現存している」(Mead 1934=1973:186)。ある時点(t0)でアイ(t0)がミー(to)の要求と相対するとき、アイ(t0)はミー(t0)のなかに、以前の時点(t-1)におけるミー(t-1)の要求と、この要求に対するアイ(t-1)の反応を発見する。しかし、アイ(t0)はアイ(t0)の反応を目にすることはけっしてできない。『わたしは、自分自身をつかまえるほどすばやくは走り回れない』(Mead 1934=1973:186)のである。アイ(t0)の反応は沈殿してミー(t1)の一部になったときはじめて、アイ(t1)によってとらえられる。「だから、自分自身の経験のどの点で直接に『I』が登場するのかという問への解答は、『歴史的人物の形でだ』ということになる」(Mead 1934=1973:187)。」

    「社会学」,有斐閣,57P

    「しかし、ジェームズによると、この『主我』は研究困難なものである。なぜなら、『主我』はある瞬間に意識するものであり、一瞬前のものとは異なるものだからである。したがって、『主我』は直接的にとらえることができず、とりわけ経験的、科学的に把握されないものとされる。これに対してミードは『主我』を経験的、科学的にとらえようとする。ミードにおいて『主我』は魂のような形而上学的なものではなく、また時間を超越した先験的なものでもない。それは選択し、記憶し、判断し、総合するものである。ミードによると、『主我』は他者の期待の取り入れを通じて生まれる『客我』に対する反応として生じる。つまり、『主我』は他者とのかかわりにおいて社会的に形成される。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,66-67P

    見かけ上の現在とは、意味

    POINT

    見かけ上の現在(specious present)・過去や未来を含んだ現在のこと。見かけ上の現在に対し、物理学的な現在の時間を「瞬間的現在」と呼ぶ。見かけ上の現在は心理学的、シンボル的な現在。

    1. 現在のみがリアリティを有していて、過去や未来はリアリティを有していない
    2. 過去や未来がリアリティを有するためには、何らかの形で現在のなかに入り込んでいなければならない
    3. 過去は記憶イメージとなって現在に入り込み、未来は予測や想像のイメージとなって現在に入り込む。
    4. ミードにおける現在は物理的な時間ではなく、心理学的・シンボル的な時間である。物理的な時間が「瞬間的現在」であるのに対して、ミードにおける自我の時間は「見かけ上の現在」と呼ばれる。見かけ上の現在は過去も未来も同時に含んでいる。

    ・過去や未来は現在において再構成される

    →過去や未来がそのままの形で現在に組み込まれるわけではなく、現在によって受け止められ、解釈され、修正、変更などを通して再構成される。

    ・客我は主我において再構成される。この再構成というのは、客我を新しく創るということであり、創発性を伴っている。再構成の過程では主我の「主体性」、「選択」を含んでいる。

    →こうした再構成が可能なのは、自我が時間的な過程だから。もし仮に客我と自我が同時に発生するとしたら、受動的な反応になってしまうのではないか。

    「『見かけ上の現在』とは、『瞬間的現在』(knife-edge present)が物理学的な現在であるのに対して、心理学的、シンボル的な現在を表している。『見かけ上の現在』は時間的な幅をもったものであり、現在のみならず、過去も未来も同時に含んでいる。しかし、そこでは過去や未来は過去それ自体、未来それ自体、つまり物理学的な過去や未来ではない。過去は記憶イメージとなって、未来は予測ないし想像イメージとなって現在のうちに存在する。したがって、それは現在という枠組みを通じて選択され、再構成された過去や未来である。過去のシンボリックな再構成とは、現在において意味をもつ、また現在に対して有効性をもつように、過去の出来事の意味を再規定することである。未来に関しても同様である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,62P

    意味のあるシンボルとは、意味

    POINT

    意味のあるシンボル(significant symbol)・他者にも自己にも同一の反応を引き起こすような言葉やジェスチャー(身振り)のこと。とくに人間の言語による音声が重要となる。

    POINT

    ジェスチャー(gesture)・行為しようとして、いまだ行為していない人々の態度。単独者の所有物ではなく、他の個体との社会的構成物。他の個体にたいして何らかの影響を及ぼし、他の個体の反応に対する刺激。

    →ジェスチュアは客観的に存在している。主我が客観的に把握できるのと同じように、ジェスチュアもまた、他者の反応を通して把握できるという。

    POINT

    意味・対象が引き起こす表示された反応。ジェスチャー、他者の反応、社会的行為の三項関係から構成されている。単なる心的な構成物ではなく、他者の反応として客観的に存在するもの。→つまり、他者が存在しなければ意味も存在しない。他者の反応があってはじめてジェスチャーは意味を持つ。また、「意味のあるシンボル」とミードが表現するとき、そこには「社会的に共通なる意味」という要素を含んでいる(社会的行為)。一般化された他者ならどう反応するか、というようなイメージ。例:みんな暴力は悪いと言っていて、そうしたみんなから見て自分のジェスチャーは悪い意味だ、というように形成されていく。

    ・特に音声を発することによって、他者に反応を引き起こすとともに、音声を発した本人にも同一の反応を引き起こさせるという。

    「ミードにおいて人間のコミュニケーションは他の動物のコミュニケーションとは区別される。人間のコミュニケーションは『意味のあるシンボル』(significant symbol)によって媒介されるコミュニケーションである。『意味のあるシンボル』とは他者にも自己にも同一の反応を引き起こすような言葉やジェスチュアを指している。その典型が音声であり、音声はそれを発することによって他者に反応を引き起こすとともに、音声を発した本人にも同一の反応を引き起こさせる。このようんじゃ同一の反応を引き起こすシンボルが『意味のあるシンボル』であり、ミードの強調するところによれば、それは人間に固有なものである。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,72P

    「『ジェスチュアは外的行為の最初の部分に属している。なぜなら、他者が社会課程に適応することは行為の初めのうちに最もよくなされるからである。したがって、ジェスチュアとは同じ行為にかかわつている他者が反応するような外的行為の初めの段階のことである。』(Mead,[1924-1925]1964:287.訳六三頁)。つまり、『ジェスチュア』とは個体が行為しようとする構え、『行為しようとして、いまだ行為していない人々の態度』(Mead,1982:41)を表している。そして、ジェスチュアは単独者の所有物ではなく、他の個体との社会的構成物である。それは他の個体に対して何らかの影響を及ぼし、他の個体の反応に対する刺激となっている。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,75-76P

    「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こすときに、ジェスチュアは意味をもつ、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは『対象が引き起こす表示された反応』(Mead,[1922]1964:244.訳三二頁)である。意味は、ミードによると、ジェスチュア、他者の反応、社会的行為の三項関係からなっている。したがって、ジェスチュアの意味は意識の状態を指したり、心的な構成物を表すのではなく、他者の反応として客観的に存在するものである。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード」,東信堂,76P

    言語と精神

    ・言語の3つの機能

    1. 共通の意味の媒体としてコミュニケーションを可能にする。
    2. 他者の役割取得を取得し、他者の立場に立つことによって自我に内部で内的コミュニケーションが成立する。こうした内的コミュニケーションの機能をもったものをミードは「精神(Mind)」と表現している。精神は反省的な知性であり、社会的経験の個人への輸入であるという。
    3. 内的コミュニケーションを通してオリジナルなものが創出される。

    ・自我は「他者の役割取得」を通して形成され、主に言語を媒介されて形成されていく。言語は「内的コミュニケーション」や「創造の機能」をもっている。

    →言語(意味のあるシンボル交換)と創発的内省性の関係

    「言語は、共通の意味の運載者として、或いは媒体として、コミュニケーションを可能にするものである。相互作用に於いて話者にも聞き手にも同様の反応を要求するのがコミュニケーションとしての言語の働きである。……相互作用の過程に於いて、個人は他者の役割を取得し、他者の立場に立つことによって、自我の内部に於ける内的会話が成立する。即ち、他者の立場に立つ自我と、自我自身との内的会話である。かかる内的会話が思考にほかならない。そうして、この内的会話の機能をもったものが、ミードに於いては精神(Mind)と呼ばれる。……更に、思考としての内的会話を基礎として、創造作用が常まれ、オリツナルなものが創出される。これが言語の第三の機能である。」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、73P

    人間と他の動物の違い

    ・動物もジェスチャーを交換しあっているが、人間のように他者にも自己にも同一の反応を起こすようなジェスチャーの交換(意味のあるシンボル交換)をしていない。人間から見ると意味のあるシンボルを交換しているように見えるが、動物たちは自分のジェスチャーについての意味を意識しているわけではない。動物たちによるジェスチャーの交換は意味というよりサイン(指示、合図)に近い。たとえば親鳥がミミズをつつき、雛鳥に食べるように指示している際に、雛鳥の立場になって自分を客観的にとらえ、自分のしている行為の意味を意識にのぼらせていることはないという。雛鳥も同様にサインに対して自動的、反射的に反応している。

    ・動物はジェスチャーの意味を行為の前に意識したりすることはない。人間以外の動物は「情動の発散」であり、自己の情動を意識したり表現することはないとミードは考えている。

    ・動物によるジェスチャーの交換は、パブロフの条件反応の理論によって説明できるような機械的模倣。

    ・人間だけが意味のあるシンボルを交換しあっている。そしてこの交換を「コミュニケーション」という。意味のあるシンボルを交換するときの他者を「意味のある他者」という。

    父親、母親、兄弟、友人、先輩、先生、近所の人、警察といったようにさまざまな「意味のある他者」とコミュニケーションをする過程で自我が形成されていく。

    そして個々の他者の期待が複数の他者の期待としてまとめ上げられ、一般化されたものを「一般化された他者」という。例:みんなが暴力は悪いと思っている、というときの「みんな」は一般化された他者であり、一般化された他者からの自己への期待。※一般化された他者については次回以降詳説する。

    「また、ミード、が自我の形成に於いて、模倣の概念を排斥して、役割取得の概念を導入したことの意味も、この点に存する。相互作用の過程に於ける他者の行為様式の習得は、動物の聞に見九れる機械的刺激──反復、即ち、単なる禎写ではない。動物の聞に於げる行為様式の習得は、文字通りの機械的模倣であって、それ以上の意味をもたない。それは、パブロフ流の条件反応の理論によって説明しうるものである」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、72P

    「ミードによると、動物においては情動が外的に表現されることはなく、また、動物が他の動物に向かって自己の情動を表現することはありえない。動物のジェスチュアは単なる情動の発散を表すにすぎないのであって、それは『取り除かれるべき情動の解放弁』(Mead,1934:16-17.稲葉ほか訳二十-二十一頁、河村訳二十八頁)である。そして、情動は行為の禁止によるフラストレーションから生じるものである。」

    越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」、74-75P

    内的コミュニケーションと外的コミュニケーション

    POINT

    内的コミュニケーション・役割取得をする過程。自分自身を対象化し、自分自身と相互作用する過程。内的会話。

    POINT

    外的コミュニケーション・他者と相互作用する過程。外的コミュニケーションを通して、内的コミュニケーションが社会的に生み出されていく。内的コミュニケーションの結果、さらにまた外的コミュニケーションも変化していく。外的会話。

    ・内的コミュニケーションと外的コミュニケーションを通して、これまでに存在しない新しいものが創発されていく。こうした自我の創発性、人間の主体性をミードは強調した。

    「人間は他の人間とのコミュニケーションを通じて,自己の対象化を行う.自己の対象化とは,物や他者を対象とするように,自分自身を対象とすることである.それによって「自分自身との相互作用」(self interaction),つまり,内的コミュニケーションが行なわれることになる.そこにおいて,他者の期待が表示され,解釈される.解釈は自分が置かれた状況や行為の方向に照らして,他者の期待を選択し,変更し,再構成することである.そこに新たなものが創発されてくるようになる.内的コミュニケーションは他者との外的コミュニケーションを通じて社会的生み出されてくるものであり,それはまた,これまでに存在しない新たなものを創発するものである.自我の社会性と創発性は,人間のコミュニケーションにおいて,相互に結びついて現れてくるものといえる」

    船津衛「社会的自我論の展開」114~115P

    参考文献

    主要文献

    G・H・ミード「精神・自我・社会」

    船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    参照論文(論文以外を含む)

    1:越井郁朗「自我の社会的形成と役割取得 G・H・ミードの理論を中心として」(URL)

    ・他者の役割取得の説明

    2:平川茂「G・H・ミードの『自我論』再考」(URL)

    ・自我の発生的局面、作用的局面

    3:船津衛「社会的自我論の展開」(URL)

    ・自己対象化の説明、内的コミュニケーション、外的コミュニケーション

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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