【基礎社会学第二十七回】G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」とはなにか

    Contents

    はじめに

    動画での解説・説明

    ・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    その他注意事項

    基本的に前回の記事を前提として話していきますのでこちらも参照してください。前回説明した用語の説明は出典を省略していることがあります。

    【基礎社会学第二十四回】G・H・ミードの「主我と客我(IとMe)」とはなにか

    【基礎社会学第二十六回】G・H・ミードの「社会的行動主義」とはなにか

    G.H.ミードのプロフィール

    ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。

    プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。

    主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。

    意味の意識

    意味とは、意味

    POINT

    意味(meaning)・対象と、生物体がその対象に対してとる行為の関係。対象のもたらす刺激と、その生物体の反応との関係。

    例:ある草の意味はある草食獣にとっては「食べる」ことにある。ある小さい肉食獣にとっては「隠れる」ことにある。ある人間にとっては「狩る」ことにある。

    ・意味は大別すると、「観察者が見た場合の意味」と「行為者自身が意識している意味に分かれる

    例:①行為者にとって「店のパン」の意味は「買うもの、食べるもの」であるとする。②観察者にとって「店のパン」の意味は「買うもの、食べるもの」であるとする。

    この場合、行為者と観察者(他者)との意味は一致している。つまり、相手の意味を他者は間接的に観察することができる。

    コミュニケーションと意味

    ・コミュニケーションが成立するということは、意味が一致していることであると推測できる。お互いの意味が全く一致しない場合、相手の反応が自分にとって予測不能な場合はコミュニケーションが難しい。

    「意味がわからない」と日常会話で使う場合がわかりやすい。ゴミは「決まった曜日に捨てるもの」という意味を持っていた他者にとって、「規則を守らずに道端に捨てるもの、家に飾るもの」という行為者の意味は「わからない」に等しい。「一体何を考えているんだ、これはどういう意味なんだ」となる。毎回「意味がわからない」となっていては社会は成り立たず、ある程度意味が共有されることによって社会は成り立っている。「普通はゴミは決まった曜日に捨てるもの」という共通の了解がある。ああ、この人にとってはこういう意味なのね、と特定の他者との関係のみにおいて了解される意味もある(友人Aにとってレバーとは食べるものではないなど)。

    相手の立場にたって考えるようになれば、「普通はゴミは決まった曜日に捨てるもの」という客我を自己の中に取り入れていくようになる。客我は自分だけに存在する主観的なものではなく、他者との関係において存在する客観的なものであり、したがって意味は間接的に観察することが可能になる。もちろん客我の期待通りに主我が反応して行為に至るとは限らず、行為者の意味の全てを直接観察することは難しい。例えば客我からの期待を拒んで会社で内部告発をして、それが社員全体へ伝わり、「ちょっとくらいグレーな会計でもいいじゃん」という社内の客我が、「ホワイトでいこう」という客我に変わっていく可能性もある。意味がわからないから意味がわかるへ。

    「ミードはまず、客観的に「意味(meaning)」を定義する。彼によれば、意味は生物体と環境との関係にある。例えば、食べ物の意味は、その生物体がそれを「食べる」ところにある。草は草食獣にとって食物だが、肉食獣にとっては食べ物ではない。従って、意味とは、環境と生物体との関係にある。より正確に言えば、意味は、その対象と、生物体がその対象に対してとる行為との関係にあるのである(1910c:p.401)。これを生物体個体の側からいうと、対象のもたらす刺激とその生物体の反応との関係が意味だ、ということになる。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,53P

    「ミードが考えるに、意味には二つのものがある。一つは観察者が見た場合の意味であり、もう一つは行為者自身が意識している意味である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P

    「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こす問に、ジェスチュアは意味をもち、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは、『対象が引き起こす表示された反応』……」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P

    意味の意識とは、意味

    POINT

    意味の意識・刺激の感覚に、内的な反応が混入すること。

    ・「意味の意識」とは「刺激の感覚に内的な反応が混入していること」を意識しているということである。例:パンの意味とは「食べる」ということであり、食べたいという刺激に、食べるとどうなるか、という反応、イメージが混入し、それを意識することである。パンと人間という単純な関係では意味の意識は成立しない。例えば「他者のパン」というような場合は相手の立場になる必要が生じ、それが自分に有利にはたらくため、意味の意識が生じやすくなる。

    (1)他者の立場になって自分を意識(内的な反応)できるようになり、自分のしている行為(ジェスチャー)の意味を意識できることではじめて「意味の意識」が発生する。人間特有の過程。

    (2)他者との交流がない状態では「意味の意識」が発生しない。なぜなら、意味の意識をする利点が小さいから。しかし、他者との交流(外的相互行為)の記憶があれば、たとえ部屋で一人であったとしても、「このパンを食べたら他の人はどう思うだろうか」、というように内的相互行為(内的コミュニケーション)によって「意味の意識」が生じる。このパンを食べたら太る、太ったら異性はどう思うだろうか、というように食べるという意味の意識をしていく。

    「意味はこうして、生物体の内面にさかのぼることなく客観的に存在する。この「意味」を意識すること、すなわち「意味の意識」が成立するためには、感覚刺激とその刺激に対する反応とが、ともにある生物体個体の内部(特に中枢神経系内)で起こり、しかも両者が生物体の体内で関係づけられていなければならない。つまり、「意味の意識」とは、刺激の感覚に、それが導く内的な反応が混入することであり、それゆえ意識の中には、対象の感覚的な刺激のみならず反応もまた含まれていなければならない、というのである(1910c:p.400)。上の例でいえば、椅子の感覚刺激と「座る」(内的)反応とが中枢神経系内で結合したとき、かれは椅子の意味を意識したことになる。こうして、中期ミードの言葉を引用すれば、意識にのぼる対象は次のように定義される。「知覚対象物理的対象とは、直接の刺激の経験と、この対象が導くであろう反応の心象(imagiry)との結合物である。」(1912:p.401)「反応の心象」は、過去の記憶が導くものであり、それは前節でみた外的行為に対する内的行為(あるいは態度)であり、また先の動物的状況においては情動にあたるものである。以上の議論をより簡単に図式化すれば、およそ〈図1〉のような形になるであろう。①対象の感覚刺激と②反応の心象との関係が意味であり、両者の結合③によってはじめて、意味の意識が可能となる。」

    意味の意識の例:パンを買う人と売る人

    行為とは(前回の復習)

    意味の意識:刺激の感覚に、内的な反応が混入すること。

    行為:①行為は「内的行為」と「外的行為(行動)」の2つの行為の相互作用によって形成される過程。②行為には「1:衝動」、「2:知覚」、「3:操作」、「4:完了」という四局面がある。

    内的行為(内的反応):意識、思考、知性、精神などの領域。主に精神的過程(ただし身体と無関係な主観的なものではなく、生理的な過程であり、社会的な過程)。言い換えれば「態度身振り(ジェスチャー)」であり、「外的行動の準備段階」。衝撃、知覚、操作の局面。パンを盗んだら店員の人はどう思うだろう、というイメージ(過去の記憶が導く反応の心象)が刺激(パンを見て盗みたくなる、食べたくなる、刺激を受ける)に混入する過程。

    外的行為(外的反応):口の動き、手の動き、唾液の量、涙など体外で目に見えて生じる、主に生理的な過程。パンを買う、盗む、食べるなどは目に見える外的行為。内的反応の結果、盗むことを思いとどまって「買う」こともあれば、「盗む」こともありうる。選択の結果が外面に出ること。

    「そして、他者のうちに一定の反応を引き起こすときに、ジェスチュアは意味を持ち、他者の反応を引き起こさない場合には意味をもたない。意味とは、『対象が引き起こす表示された反応』(Mead,[1922]1964:244.訳22頁)である。意味は、異m-渡によると、ジェスチュア、他者の反応、社会的行為の三角関係からなっている。したがって、ジェスチュアの意味は意識の状態を指したり、心的な構成物を表すのではなく、他者の反応として客観的に存在するものである。けれどもまた、意味は意識されねばならない、とミードはいう。かれによれば、人間はジェスチュアの意味を意識して用いている。このことは、一般の動物においてはなされない人間固有の事柄である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,76P

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味
    POINT

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション・:行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、特に具体的な他者である場合、「重要な他者」という。さらに抽象化されていくと「一般化された他者」になる。

    ・行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」、「意味のあるシンボル」という。とくに「音声シンボル(言語など)」が重要になる。

    例:母親や友人は「重要な他者」であると同時に、「一般化された他者」でもある。母親に対して「ふつうはこういう言い方をすると傷つかないよな・・」と「一般化された他者(抽象的な他者)」を通してイメージすることもあれば、「うちの母親だからこういっても傷つかないよな・・・」と「重要な他者(具体的な他者)」を通してイメージすることもある。いずれにせよ、最終的に自分の中での他者の反応と、他者の実際の反応が一致していることが重要。自分の仮定していた「一般化された他者」や「重要な他者」がズレていれば、「もっと優しい言葉に次からしよう・・・」と修正、再構成されていくこともある。そんなのは関係ないと、他者からの期待に反して行為することもある。行為になって意識がわかる(再構成された客我を通して主我がどう客我に反応したのか、つまり意味の意識を知ることができる)。

    「ミードが強調するところによれば、「意味のあるシンボル」は人間に固有なものである。一般の動物は、他の動物に反応を引き起こさせる自己のジェスチュアの意味を意識しているわけではない。これに対して、人間はジェスチュアの意味を意識している。つまり、ジェスチュアが引き起こす他者の反応をあらかじめ予測して、自己のジェスチュアを用いている。そして、しかも、人間は他者の反応のみならず、自己の反応についても意識している。「他者の反応」と「自己の反応」、および「その間の関係」を意識していることが、人間の「意味の意識」である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」45P

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションの例:親と子供

    人間以外の動物には意味の意識がない

    例:雌鳥(めんどり)がひよこに対して、ミミズをついばむことによってひよこにミミズを食べるように指示しているとする。一見、これはコミュニケーションを行なっているように見えるが、ミードの言う「有意味シンボルの交換」ではない。なぜなら、雌鳥はひよこの立場になって、ひよこからこの自分の行為をどう考えるだろうか、というように自分を対象化しているわけではない。

    1:雌鳥は意味の意識をしていない。

    2:雌鳥に「意味」があっても、それを意識しているわけではない。雌鳥にとってミミズとは「ついばむもの」であるという意味はあるが、雌鳥がその意味を意識してるわけではない。本能によって自動的に行なっている。人間が本能によって呼吸をしたり、反射的に熱いものから手を離すのと同じ。人間のそうした本能は生得的に備わっているものであり、その点は動物と同じ。しかし、人間は他者との関わり、特に役割取得を通した有意味シンボルの交換、つまりコミュニケーションによって後天的に自我を獲得し、行為を意識するようになっていく(自我の社会説)。

    3:意味の意識ができる有機体は人間のみ。人間のみが「行為の意味」を意識している。

    ミミズは鳥にとって「食べるもの、食べさせるもの」という意味はあるかもしれないが、それが意識されることがない。ほとんど自動的、本能的、反射的に行動しているだけ。つまり、反省的行為や役割取得をするのは人間特有の過程であり、この過程があるからこそ「自我」が発生する。人間も習慣的行為になるにつれて、反”射”的に行動することがある。たとえばスーパーで物を買う時に、いちいち相手の立場になってから外的行為をするか。友達の友達とポケモンカードを交換するときなどは、相手の立場になって(反”省”的意識)、このカードを渡すことで相手は喜ぶのだろうか、など強く意味の意識が生じやすいのではないか。

    「めんどりはミミズをついばむことによって、ひよこにミミズを指示している。しかし、めんどりはひよこの『役割取得』を行っているわけではなく、両者の間の同一意味は存在していない。また、犬は他の犬のジェスチュアに対して直接的、自動的に反応している。犬は自分自身の行為に対する反応をもたず、自分の行為を意識していないし、その意味を意識していない。動物のジェスチュアは『理解力のある観察者の目から見れば、意味のあるシンボルである。しかし、ジェスチュアを行なっている動物にとってはそのどれもが意味のあるシンボルとはなっていない』(Mead,[1922]19634:244.訳二一頁)のである。動物においては『意味』はあっても、『意味の意識』は存在していない。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」76-77P

    内的コミュニケーションと外的コミュニケーション

    ・物理的に一人でも(イメージの)他者との相互行為は可能。シミュレーション。

    内的コミュニケーション:主に他者の役割取得(他者の立場になって自己を意識する)の過程。内的行為の過程。イメージの他者と会話、相互行為するようなもの。内的行為。自分の中の他者との会話。

    外的コミュニケーショ:実際に他者とコミュニケーションする過程。他の人と実際に音声シンボルなどを通して会話をする。外的行為。他者との会話。

    ・もし他者との直接的なコミュニケーションがなくても、経験(過去における他者とのやり取りの記憶など)があれば「意味の意識」は生じる。三次元の経験他者が予めあり、それに補完して二次元の他者の物語を知ることは一般化された他者の形成には力になる場合もあるだろう。ミードによれば物語のキャラクターの演技も「プレイ段階」のひとつ。ヒーロー番組のヒーローの役割を演技するなど。

    ・内的コミュニケーションはミードが解明することを目指した重要なテーマ。個人の内的経験、社会過程など、直接には見えないものを外的行為や外的コミュニケーションからアプローチするというのがポイント。外的行為は外から観察することができる。

    POINT

    シンボリック相互作用論・ブルーマーが創始。人間が物事を意味づけ、それに基づいた行為をすること、人間同士の行為によって社会が成立すると考える理論のこと。人間の主体性を強調し、人間が主体的に社会を成立させると考えた。相互行為の中で流動的に意味は変化し、社会も変化していく。パーソンズの構造機能主義理論は人間の相互行為は社会の維持のための機能として考えられており、人間の主体性を軽視しているという意味で、対照的に比較されることがある。

    ・内的コミュニケーションは社会学においてブルーマーが参考にしているように、「新しい意味を創発する」機能をもっている。H・ブルーマーによれば内的コミュニケーションの過程で内在化した他者の態度の解釈、意味の選択や評価がされ、修正や再構成の過程で「新しい意味」が生まれてくる。

    ・ブルーマはどちらかというと「個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿」を強調したという(岩城千早)。ブルーマーの言葉でいうと「世界や他者に対して立つ(stand over against)である。ミードは「われわれは、自分自身になろうとするならば、他者でなければならない」、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」、というように、二項対立的に語るのではなく、二項対立を乗り越えようと統合する側面を重視していると解釈することができる。もともと弁証法的な要素がミードにはある(矛盾、対立を乗り越えていく要素)。主体と客体、概念と実在、自己と他者、さまざまな対立を乗り越えてこそ真理とみなされる。それらはコンフリクト(対立)による問題的状況が解決することに限って知識や仮説を「真理」としたミードにみられる。

    「この内的コミュニケーションは外的コミュニケーションとのかかわりにおいて生まれる。他の人間との会話という外的コミュニケーション過程が個人のなかに内在化することによって、『内的会話』としての内的コミュニケーション過程が発生する。内的コミュニケーション過程は、しかし、外的コミュニケーションの単なるミニチュア版ではなく、それとは相対的に独立な独自の内容をもっている。すなわち、人間の内的コミュニケーション過程においては内在化した他者の態度の解釈、つまり意味の選択や評価がなされ、その修正や再構成が行われる。人間は『自分自身との相互作用』(self interaction)(H・ブルーマー)において、他者の期待を表示し、解釈する。そのことによって、他者の期待は『選択され、チェックされ、留保され、再分類され、変容される』(Blumer,1969.5.訳六頁)。そこに新たなものが生み出されてくることになる。内的コミュニケーションは新しい意味を創発する。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」、84-85P

    「ブルーマー等によっては、個人が自己であることが強調され、ミードの仕事もその自己論において強調された。だがミードはここに、相互行為のプロセスにおいて自己よりもむしろ他者であることによって重要な存在たりうる個人の姿をも、われわれにかいま見せる。個人は他者である。「われわれは、自分自身になろうとするならば、他者でなければならない」(Mead:1924-1925)のだ。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」317P

    「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“stand over against”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」316P

    どのようにして自我や意識、意味の意識は生じるのか。内的条件と外的条件。

    内的条件とは、意味

    POINT

    内的条件・内的条件とは先天的に「個人が人間として備えている能力」であり、具体的に言えば他者の役割を取得できる「能力」であり、生理学的に言えば「脳のメカニズム」である。主に生理学的な条件であるといえる。生活のプロセスの存在(環境に不断に適応する生物体として存在)、中枢神経系などを通して「遅延反応」を生じさせ、反作用できるということなど。

    他にも、手を操作できるということ、音声シンボル(言葉等)などを発することができる生理的機能があること、またその発話を耳で聞くことができる生理的機能があることなど、さまざまな重要な条件がある。

    1. 【生活のプロセスの存在】生命維持へ向かう生物体としての環境への適応のプロセス。例:キリンは木の上の植物を食べるために首が長くなった。人間は適応のプロセスとして自我を獲得していった。
    2. 【自らの体内に起こっていることに反応すること】相手の立場になって自分の行為に対して反応する等。しかしこうした反応の「意識」は内的条件”のみ”では難しい。反作用のメカニズム。
    3. 【神経メカニズム】2のプロセスを可能にするのが「中枢神経系」だという。
    4. 【遅延反応】他の動物のように刺激に対して直接反応するのではなく、一旦停止して反応するためには中枢神経系が重要になる。こうした「遅延反応」があってはじめて「意味の意識」をするための生理学的な条件が整う。

    「ミードはここから、意識発生のための条件を提示する。彼はざっと書き流しているが、これらの条件は次の四点にまとめることができる。(PP:pp.69-71)(1)生活(life)プロセスの存在。「ライフとは、その中で個人が自らの活動によって、自分自身においても、かつまたより後の世代においてもこのプロセスを維持せんとする傾向を持っているようなものであり、また有機体のうちに進行しているものを越えて周囲世界へと拡張し、個人の環境世界としてのその活動範囲内に見いだされる限りの、多くの世界を定義しているものである」(PP:p.69)とされているが、要するに、単なる物理的物体とは異なるものしての、生命維持へと向かう生物体のプロセス環境への適応と、その適応による環境の変化に対する再適応の無限のプロセスの存在である。51(2)第二に、「[ライフの]目的論的プロセスにある生物体が、全として、自分自身の有機構造の状態に対して、目的的に反作用しうるということ」(PP:p.69)が必要となる。言い換えれば、意識が発生するためには、有機体は、自らの体内に起こっていることに対して反応できなければならない。しかも、一つの統一体として、反応できなければならない。(3)(2)が行われるのは、生物体内の神経メカニズムである。それ故、それを司る中枢神経系が第三の条件となる。(4)そして第四の条件は、この中枢神経系が可能にする、①経験の内容と、②直接的反応との分離である。生物体は、発達した脳によって、対象に対する直接的本能的反応を遅らせることができる。対象に対し直接反応しているようでは、体内に起こったことが意識に上るようなことはありえない。刺激に対する反応を直接外面化することがなくなったときはじめて、刺激に対する自分の体内の状態に対して反応することが可能となるのである。それゆえ、意識発生のためには、この①刺激に対して起こる体内の状態が②直接的な外的な反応と区別されていなければならない。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,51-52P

    外的条件とは、意味

    POINT

    外的条件・「社会や他者」の「存在」であり、具体的に言えば「他者とのコミュニケーション(役割取得、有意味シンボルの交換)」である。そのため、ミードはいかなる自我も『社会的自我』であるという。自分の音声シンボルを自分の耳でも聴くということは、相手への発言に対して自分が相手の立場になって考えるきっかけを生むので、重要になる。また、相手への行為は相手がいなければならず、能力ではなく存在として他者が後天的に必要になる。

    コラム:R・Dの「分裂病」とベイトソンの「ダブルバインド」

    POINT

    ダブルバインド(double bind)・ルール1「~してはならない」、ルール2「ルール1は存在しない」、ルール3「ルール1、2が存在するか否かを論じてはならない」というような論理階型の衝突をもたらすような経験の連鎖をいう。とくに子供時代に生じやすい。例:親は口では子供愛しているといいながら、子供が愛を求めると暴力を受ける。また、矛盾を口に出しても無視され、暴力を受ける。他に相談する祖父母や友人もいない。このようなケースではこどもは分裂病に陥り、狂気が生じる。ミードで言うと矛盾した役割取得を行い、かつそれが一般化へも至ることができない状況ではないだろうか。グレゴリー・ベイトソンが『精神の生態学』(1972)で使った用語。二重拘束とも訳される。

    ・理論的には他者の存在を一切排除した極端な仮想環境で人間をロボット等で食糧を与え、成長させるといった場合、自我の形成がされないことになるのではないだろうか。

    自我の形成には社会の存在、コミュニケーションが不可欠であり、自我とは「社会的自我」であるというのがミードの考え。

    たとえば、幼少期に親から徹底的に無視され、かつ学校にも行かせてもらえないなどのネグレクト(育児放棄)が生じた場合、自我の形成が歪んでしまう可能性があるのではないだろうか(相手の気持がわからず、相手の立場になれず、情緒不安定になる)。

    ・R.D.レインのような「分裂病」になるケースも考えられる。ベイトソンの「ダブルバインド」状態。

    例:親が子供に対して愛していると言葉で言いながら、愛を求めたら行為では殴る、無視などを繰り返す。矛盾した役割を期待されることによって、どうしていいかわからず、自分の精神の殻に閉じこもってしまう。上司が部下にもっとがんばれといいながらがんばったら冷たくされるなど、会社でもありうるケース。

    →有意味のシンボル交換がずっと行えないと、精神がおかしくなる。どう相手を予想しても一致しない。「これをやったらだめ、やらなくてもだめ」。こういう状況でいわゆる「狂気」が生じる(レインの「狂気と家族」など)。「意味の意識」をしないように、相手の立場になることをしないように、意味不明な比喩的なコミュニケーションをするようになる(あるいは相手の立場にしかならないロボットになる)。なぜなら、「意味の意識」をいちいちしていたら矛盾により頭がおかしくなってしまうから。

    POINT:ベイトソンは「これをやったらだめ、やらなくてもだめ」という矛盾した状況にくわえて、さらに「その場から出ていくこともできず、矛盾を指摘することもできない」という状況を指摘した。

    1. ルールA:~してはならない
    2. ルールA1:ルールAは存在しない
    3. ルールA2:ルールA、A1、A2が存在するか否かを論じてはならない。

    「ダブルバインド:ベートソンが『精神の生態学』(1972)で使った用語。二重拘束とも訳される。たとえば、『私の命令に従うな』という命令に従おうとするときに生じる、心理的な拘束状況を指す。分裂病の原因として提唱されたが、コミュニケーション一般の問題として論じられることが多い。」

    「社会学小辞典」,418P

    「(5)しかし、ダブルバインドとは単に『これをやったらダメ、やらなかったらダメ』というだけの状況ではない。どちらの選択肢もダメという状況だけでは、人を狂気に陥らせることは不可能である。決定的に重要な条件は、犠牲者がその場から出ていくこともできず、矛盾を指摘することもできないということである。そして、子供というものは、しばしばまさにこのような状況に置かれるのだ。レインはダブル・バインドの苦境を次のように要約している──『ルールA──してはならない』。『ルールA1──ルールAは存在しない』。『ルールA2──ルールA、A1、A2が存在するか否かを論じてはならない。』。」

    「デカルトからベイトソンへ」,263P

    コンフリクト状況・問題的状況と問題解決

    コンフリクト状況とは、意味
    POINT

    コンフリクト状況・対立している状況。他者からの複数の期待が対立している状況など。

    「しかし。複数の他者の期待は常に一致し、また調和し合っているわけではなく、その間にずれや対立が存在がすることもまれではない。そのような場合、相矛盾する期待に直面する役割コンフリクト状況に陥り、混乱し、悩み、苦しみ、葛藤を経験するようになる。そこで、そのコンフリクト状況を避け、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、組織化し、一般化する必要がある。そこに生まれるのが『一般化された他者』の期待である」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P

    「ミードによれば、刺激と反応との関係が適合的な場合、つまり、ある対象に対して行為が直接的になされうる場合、意識は発生しえない。なぜならこの場合、刺激と反応は一連のものとしてあり、区別されることがないからである。つまり、先にみた条件(4)「①経験の内容と②直接的反応との分離」が満たされず、行為が終わったときにはその行為に関する意識は過ぎ去ってしまっていることになるからである。刺激と反応とがコンフリクトにある状態にのみ意識は発生しうる(1910c:p.403)。例えば、お腹を空かせたある生物体が、食べ物を目の前にする。その食べ物がすぐに手に届き、食べることが可能である場合、生物体は食べるという反応を遅らせる必要はない。食べ物に直接食らいつけばよい。ここには意識が発生する状況はない。このような対象と反応との関係のコンフリクトにおいてのみ、刺激とそれに対する直接的反応とが分離され、意識発生の状況が成立しうるのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」、54P

    問題的状況とは、意味
    POINT

    問題的状況(problematic situation)・人間が障害や妨害、禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる状況。個体と環境との間に適合を欠く状況。パンを食べたいのに食べることができない、自由に遊びたいのに遊ぶことができない等。

    コンフリクト状況と問題的状況は重なり合う概念。

    「とりわけ、それは人間が障害や妨害また禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる『問題的状況』において出現する。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,86P

    「「衝動」とは個体と環境との間に適合を欠く状況である「問題的状況」(problematic situation)から生じる刺激が対して個体が最初にとる「反作用の構え attitude」である。」

    内省的思考とは、意味
    POINT

    内省的指向・問題的状況を解決する人間の能力。反省的意識はとくに「精神」と呼ばれる。内省は他者との関わり(意味のあるシンボル交換、コミュニケーション)を通し、他者の立場になって自己を意識すること、ふり返ること。内省≒反省。反作用。

    「『内省的思考』とは問題を解決する人間の能力を表す。それは『意味のあるシンボル』を通じての内省化から生じる。『内省的思考』は他者とのかかわりによって生み出される社会的な過程である。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,85-86P

    「意識は以上のような条件のもとで発生してきた。列挙するならこうである。(1)ライフプロセスの存在。(2)本能的直接的反応の抑制と、内的行為と外的行為との区別。(3)それを可能にする中枢神経系。(4)社会の先在。(5)他者として反応することと、それを可能にする有声身振りのメカニズム。こうして、すべてが揃ったところで、(6)感覚刺激と他者としての内的反応との結合が可能となり、有意味シンボルが現われることとなる。この有意味シンボルが、反省的意識を形成する。そしてこれが精神(mind)と呼ばれているものである。人間の意識精神とはこうして、他者の態度をとることによって、動物的環境が生物体自身の身体の状態にまで拡張されたものなのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」47P

    POINT

    創発的内省性(emergent reflexivity)・他者の目を通じて自分の内側を振り返ることによって、新たなものが創発されてくること。主我の概念に相当する。他者の態度を通じて自己の内面を省みて、過去および未来と関連づけながら、新しい世界を創出すること。

    →客我に対する主我の反応が創発的内省性をもつということ。具体的には、刺激を受け止め、解釈し、修正、選択、再構成するということ。客我をそのまま受け止めて行為するのではなく、主我によって客我が新しく再構成され、そこから行為につながるという主体性につながっている。内省とは一般に自分自身と向き合うことであり、ミードの文脈では客我と向き合うことを意味する(客我と主我の相互作用によって新しいものがうまれ、自我が形成されていく)。

    例:貧しい人間は政治に参加するべきではない、という客我に対して、貧しくても政治に参加するべきだ、というように主我が反応することもある。自分がどうあるべきかについて、新たなものが創発されていく余地がある。主我は自動的・受動的・非主体的に客我に反応するわけではない。

    「そこで、『主我』を人間の『創発的内省性』(emergent reflexivity)を表すものとして解釈するならば、『主我』によって自己の修正・再構成が行われ、そこに新しいものが生み出されることを理解できるようになる。『創発的内省性』とは他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくることを表す。このような『創発的内省性』によって、自己が新しく生まれ変わると同時に、その行為を通じて他者も変わるようになる。したがって、ここから、社会のイメージは動かないもの、固定した構造ではなく、変化するもの、変動する過程となる。」

    船津衛船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,東信堂,70P

    ジェスチャー状況とは、意味
    POINT

    ジェスチャー状況・、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなもの。例:犬の喧嘩やフェンシング

    「社会的状況においてのみ、自分の行為に注意が向けられるのだ、とミードは主張する。ここでミードが言う社会的状況とは、同じ種の他の生物体との身振り会話の状況であり、このアイディアは、周知のとおり、彼がドイツで学んだW.ヴントから来ているものである。身振り状況とは、ミードによれば、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなものである。ミードが好んであげる例は犬のケンカや、フェンシングである。一方の出方が相手の次の出方を変える。状況はめまぐるしく変わっていく。反応は様々であり刺激も様々である。ここではコンフリクトの絶え間ない持続が見られる。そして、自らの反応が相手の次の反応、つまり自分に向けられる次の刺激を決定するが故に、自分自身の反応が次の状況を決める大きな要因となっている。当然、生物体は、状況にうまく適応するために、自分自身の反応にも注意を向けるようになる。こうして社会的状況においてのみ、自分の反応(身振り)に対して注意が向けられるような状況が生じてくるのである(1910c:p.404)。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」55P

    「行為者が何をしたか、ということは、他者が何を見たか、という問を通して捉えられうるものとなる。このことを概念化しているのが、ミードの「身振り」概念である。「身振り」は、「社会的行為の第一義的に外的に開かれた位相」(Mead:1910)、「社会的行為の部分であり、そのプロセスを完成する刺激を成す」(Mead:1927CL)ものとして、社会的行為に関わる個人間の相互適応を媒介する。身振りとは、他者が行為者から受け取った刺激なのであり、それによって他者は最初の行為者に対して、適応的な反応を返すことができる。行為者の身振りは、他者がそれをある刺激として受け取った限りで、ある身振りとして捉えられるのである。そして相互行為のプロセスは、ミードによれば、このような「身振り」による「身振り会話」(MSS47etc.)なのである。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,312P

    物の役割取得とは

    物の役割取得とは、意味
    POINT

    物の役割取得(taking the role of physical objects)・物の態度を人間が取得すること。主に、操作過程で「大きさ、形、重さ、運動、抵抗」などが個人の態度に移入し、内面化すること。この過程で社会的対象が物的対象となり、リアリティを持つ。物に触る(作用)ということは、物に触られる(反作用、抵抗)ということであり、これも一種の相互行為。

    他者の役割取得:他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。他者の態度はたとえば「電車で静かにして欲しい」など。

    ・「他者の役割取得」と同時に、「物の役割取得」というものもある。人間は他者とだけではなく、物(自然や事物)とも相互作用を行なっている。他者の役割取得では「音」を通した内省が重要だったが、物の役割取得では「手」を通した内省が重要になる。手を通すことによって、頭脳において理解できるようになる(把握という言葉が「手でつかんでにぎる」というイメージはわかりやすい。実験して手で触ることで、理解できるのであり、科学理論などが形成されていく)。

    「ひとつは「他者の役割を取得すること(他者の役割取得)」(taking the role of others)であり,もう一つは,モリス(Charles W.Morris,1901~1978)が指摘しているように,「物的対象の役割を取得すること(物的対象の役割取得)」(taking the role of physical objects)である.端的に,前者の行為概念から,社会のなかの人間の精神や自我の形成が説き起こされており,後者の行為概念から,自然のなかの人間の科学技術的態度(精神)の形成が説き起こされている.」

    「操作過程における接触経験,つまり大きさ,形,重さ,運動,抵抗などを,個人の態度に移入し内面化すること,つまり「物の態度を取得すること」(taking the attitude of things)によって,対象は,よりリアルなものとして確信される…….さて,このような科学の対象となる「物的対象は,社会的対象(socialo bject)からの抽象」である.別言すれば,「物的対象とは,自然への社会的反応から,われわれがつくりあげた抽象である」.自然や事物は,人間の知性の歴史的発展過程においても,個人の知性の発達過程においても,はじめに社会的対象であった.社会的対象である自然や事物とは,呪術的対象としてのそれであり,人間が前科学的態度,つまりアニミステイックな態度や擬人的態度で関わるそれである.原始人は,自然や事物に生命力(アニマ)を想定した.子供の遊びにもアニミステイックな態度を窺い知ることができる.「子供は物的対象を形象する以前に社会的対象を形象する」のである.このように,原始人や子供の態度は,自然や事物に,人間と同様に反応することを期待した擬人的態度である,といえよう.また,詩人は自然の情景や事物の相貌を美的象徴によって描写する.「詩人は,自分の周囲の事物と社会的関係にある」の83である.すなわち,われわれは,,「生命のない物的対象にたいして,……社会的存在の態度を採用してしまう(24)」のである.自然や事物は,言葉とともに多様に知覚され,意味づけられ,価値づけられて現われる社会的対象である.そのような自然や事物への社会的反応の反復過程のなかから,・操作過程において抽象されたものが物的対象なのである。

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」83-84P

    「しかし、問題は容易には片付かない。この状況からそのまま意識が発生しうるとは言えないからである。なぜなら、川の向こうに食べ物があるという場合、注意は川や川底、川の向こうの様子や食べ物に向けられているだけで、食べ物を食べようとする自分の内的行為には向けられないからである。つまり、物理的対象との関係では、注意は専ら対象に向けられるのみであって、自分自身の反応に向けられることはないのである。ミードの用いた例を使うなら、例えば、天気が良くなるかどうかといった場合、注意が向けられるのは空の色や空気の具合であって、自分自身の行為ではない(1910c:p.404)。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」55P

    科学技術的態度(精神)

    「物の役割取得」は「他者の役割取得」と違って「自我の形成」を促すというより、特に「精神の形成」を促すという。ミードはこの精神を「科学技術的態度」とも表現している。人間は人だけではなく、物や自然とも相互行為している。もちろん「精神」は「反省的意識」とも呼ばれ、他者とのコミュニケーションが不可欠である。他者との交流、物との交流の両方によって精神が形成されていく。

    例:石に「手」で触れることによって、石に手が触れている(作用)と同時に、石が手に触れている(反作用、抵抗)。手で操作することによって「物の態度(物的対象の内部)」を取得する。目で見ただけでは内部は取得しにくい。この操作によって、社会的対象から物的対象へと抽象化される。人間と同様に反応を期待するような社会的対象から、作用、反作用というような物的対象へと変わる。先祖の魂の石、庭の石、戦うための石というような具体的な社会的対象(前科学技術的態度)から、石一般という物的対象へと抽象化される段階へと移行する。こうした抽象化によって、「精神」が生じる。

    コラム:デカルト、レイン、「にせの自己」

    デカルトの物心二元論:世界は「精神(思惟体)」と「身体(外延体)」の2つによって成立していて、この2つはお互いに共通性のない実体であるという考え。精神と身体はまったく違ったカテゴリーに属していて、その両者の間には「機械的相互作用」があるだけ。体とは無関係な、純粋な「精神」が存在すると考えられている。精神が松果体(脳に存在する小さな内分泌器であり、デカルトは「魂の在処」と呼んだ)を介して脳をコントロールしていると考えられている。実体二元論。デカルトにとって精神とは、認識、意志、感覚、感情、欲望など。

    ワトソンの「行動主義」にどこか似ている。ミードはこうした考えではなく、精神は単独で存在しているのではなく、身体を通して、また社会的な過程を通して発生するものだと考えられている。

    精神と身体は松果体(脳の視床下部にある)を通して機械的な相互作用を行うと考えられている。

    炎の刺激で手が引っ込むようなイメージ。精神は身体を超然と傍観し、ロボットのように振る舞っている自分を自分が見ているようなイメージ。あくまでも身体はロボットのように動く。精神が認識や意志、思考、感情などをもつとされている。脳(身体)に働きかけるのが精神であり、脳(身体)が思考しているのではない。

    精神と身体、主体と客体、主我と客我、概念と物体等々、二元論的に考えていくことにミードは否定的だった。また、精神や主我、主体と言われるものは生理的(身体的)過程であると同時に、社会的な過程であると考えられている。

    機械的相互作用ではなく、主体的、内省的、相互作用の関係にある。両方の矛盾のせめぎあいの中にある(弁証法的)。問題的状況における解決をミードは「内省的弁証法」とも形容している。

    対立、矛盾する役割を常に求められ、他人に操作され続けると、主我と客我は引き裂かれ、主我は奥にひっこんでしまう。そうして分裂病患者は自分の体を「私ではないもの」と考えるようになる。ミードはこうしたコンフリクト状況を解決する能力(創発的内省性、主我)が人間にはあるというが、実際には発揮できずに精神病になってしまう人もいる。

    「一般化された他者」は経済が発達した世界において不可欠だが、一般化された他者が常にどんな場合でも過度に求められすぎる場合、主我が出る余地、求められる自己では自己が出る機会がなくなってしまうのではないか。もちろん「一般化された他者」はコミュニケーションのきっかけをつくり、「意味ある行為」にもつながる契機ともなる。

    「ところが現実はどうだろう。こうした直接的人間関係というものが、いま現実にどこまで可能だろうか。いったい何人の人が、あなたをひとつの『全体』として見てくれているだろう。我々のうちの何人が、自分自身をまるごとの全体として捉えているだろう。社会から振り当てられた役割を演じ、込み入った相互作用の儀式とゲームのなかをさまよいながら、偽りの自己をせっせと紡ぎ出しているのが我々の現実ではないだろうか。」

    (モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,17P)

    これは自分の人生ですごく印象に残った文章です。社会学を学ぼうと思ったきっかけを作りました。

    「ところで、人間存在を純粋な論理思考と同一視し、知りうるべきことのすべてが理性を通して知られるとする考えの根底には、精神と身体、主体と客体とが、根本的に分離したものだという前提がある。思惟するとき、『私』というものが、どうしても外界と向き合って存在するように感じられるのは事実である。私の身体とその働きを『私』が認知するとき、『私』とはいま自分がそれについて考えている身体ではないという感覚が支配する。デカルト的方法を適用することで身体の機械的な働きは知ることができるが、そうやって知られる身体は、つねに私の認識対象としての位置に甘んじ、主体である私に重なることはない。デカルト自身の描いた客体としての人間像を『人間論』(一六六二)に探ってみよう。そこで人間の身体の働きは、ほとんどが機械的な反射によって作動する噴水装置にたとえられている。精神、すなわち『思惟体」(res cogitanus)と身体、すあんわち『外苑体』(res extensa)とは、まったく違ったカテゴリーに属するとされながらも、その両者の間に、機械的相互作用が存在する。炎の刺激で手が引っ込むという反応を例にとって、デカルトの描く『人間機械』を図3に示してみよう。手が炎に触れると、炎の粒子が指を遅い、管状神経のなかの一本の糸を引っ張り、これが脳のなかの『動物霊気』(これは機械的な微粒子と考えられている)を発射する。この霊気が神経を下り、手の筋肉を引っ張るというものである。

    この図を見ながら、私は序章で紹介したレインの『にせの自己システム』に何とよく似ているのかという、不気味な感覚を生じえない。分裂病者はしばしば、自分の身体を『他者』『私ではないもの』とみなす。デカルトの図式でも、同じように、脳(内的自己)はからだの各部分を超然と傍観している。相互作用といってもいかに機械的であり、まるでロボットのようにふるまっている自分を自分が見ているかのようだ。そして、世界のすべてがこれと同じ捉え方で捉えられるのである。知覚と行動のすべてが、<内=ここ>なる私が<外=ここ>なる世界と分離してそれに向き合うという図式で理解されることになるのだ。これがデカルトの『二元論的パラダイム』なのだが、どうだろう、この二分法は、自己と世界ばかりか自己そのものを引き裂く『分裂症的パラダイム』としても見えてこないだろうか』

    モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ」、34P

    「『哲学という学問への示唆』(一九〇〇)と題する論文において、ミードは人間の思考は『問題的状況』においてコンフリクトの表現と問題解決を行うものであると述べている。思考は人間の内省過程において『問題的状況』をイメージに描き、その解決策を生み出し、行動の継続可能性を探るものである。かれはそのことを『内省的意識の弁証法』と呼んでいる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,34P

    プレイとゲーム、重要な他者とと一般化された他者

    プレイ段階とは、意味

    POINT

    プレイ(play)・おままごとやごっこ遊びなどを通して、両親や先生など、重要な他者の役割を取得する段階。主に模倣の段階。空想的な演技。遊びとしての役割演技段階。

    たとえば少女がよく行う「おままごと」や、少年がよく行う「ヒーローごっこ」など、(重要な)他者の役割を取得する過程である。他者との連帯感や他者理解を深める過程であり、自分(他者)の行為が他者(自分)の行為と似ている、という「同一視」が機能する過程である。

    子供の頃は特定の他者の役割を取得していれば問題的状況や対立はおおよそ解決できる。困ったら親が助けてくれるし、関わる他者も大人ほど多くなく、期待されている役割も多くない。泣けば許してもらえることも多いのではないか。

    プレイ段階における他者はいずれも、特定の母親、特定のヒーロー、特定の友人など、「重要な他者」と言われる他者の役割を取得していく。母親一般、ヒーロー一般、友人一般というように抽象化されていない、具体的な他者からの期待、態度を自分の中に取り入れていく過程である。

    「ミードは子供の自我形成を2つの段階に分けて考察している。第一の段階はままごとなどのごっこ遊びの『プレイ』段階である。そこにおいて子供は母親や父親、また先生やおまわりさんなどの役割を演じている。このような役割を演じることによって、親や大人の態度や期待を自己に結びつけて知り、それを通じて自分のあり方を理解するようになる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P

    「プレイにおいて,子供は,両親や教師や物語の登場人物等のふりをして,それらの役割を半ば空想的に演戯する.」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P

    「ミードが『精神』でいう「遊びとしての役割演技」から「規則に乗っ取った役割遂行」への移行にしても、子供が他者及び集団の役割を持続的に取ることで、自己のパlスペクティヴを批判し再構成し、その限りで相対化していく過程といえる。このように個人が他者の役割を取ることを一通して、自己のパlスペクティヴを再構成していく過程をミiドは「パlスペクティヴの組織化」といい、「社会が表しているもの」とはまさにこうした事態に他ならないという。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,30P

    ゲーム段階とは、意味

    POINT

    ゲーム(game,勝負)・野球などのゲームを通して、よく知らないチームメイトや敵の選手など、複数の他者の期待を組織化して、重要な他者だけではなく、一般化された他者の役割を取得する段階。規則(ルール)にのっとった役割遂行段階。

    規則(ルール)」が介在してくるというのがポイント。たとえばサッカーでは、ゴールキーパー以外はボールを手でつかんではいけない、というルールがある。自分のことだけや仲間のことだけを考えてルールを破っていたらゲームが成立しない。プレイ段階よりも多くの人間と接し、矛盾する役割とも接し、解決する必要がある時期。例:友人Aにはいじめを期待され、母親や先生、他の友人にはいじめをしないことを期待されるなど。そうしたコンフリクト状況を解決するために、「ふつうはいじめを期待されていない」といった「一般化された他者」をイメージし、組織化していく。社会性を獲得する段階でもある。「一般化された他者」は社会的自我の形成に不可欠。

    チームのメンバー「みんな」に期待されている役割・態度であり、特定のチームのメンバーとの関係のみ、重要な他者との関係のみに期待されている役割ではない。そういうルールを学ぶことによって、「一般化された他者」が組織化されていく。いわゆる「客観的自我(客我)」である。

    「そこで、このコンフリクト状況を避け、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、それを克服するためには、複数の他者の期待をまとめあげ、組織化し、一般化する必要がある。そこに生まれるのが『一般化された他者』の期待である。このような『一般化された他者』の期待が野球やサッカーなどのゲーム遊びにおいて形づくられることから、この段階は『ゲーム』段階と呼ばれる。『ゲーム段階』において『一般化された他者』の期待が形づくられ、それとの関連において自分の自我が形成され、子供は十全な形において自我の発達を成し遂げようとする。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,56P

    「いかにして個人は自己になるのか。ミードはさらに、この説明を「プレイ」と「ゲーム」の議論の中で展開する。彼は「プレイ」と「ゲーム」を「自己が社会的に生じる条件」(MSS153)であるとしつつ、「子供は、プレイにおいて、ある他者の役割を取得するだけであるが、ゲームにおいては、参加者すべての様々な役割を措定して、それに従って行為をつかさどっていかなければならない」(Mead:1924-1925)と述べる。彼は「自己」そのものによりも、むしろ直接的には、行為について、より正確には行為における他者の態度または役割の取得の仕方について言及する。このことを通じて、自己の発生のあり方が間接的に述べられる。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,38P

    「.ゲームになると,プレイとは異なって,一定のルールが介在していよう.たとえば,野球では,ルールに基づく他者の役割を予め自分自身の態度にとり入れていなければならない.全体として,9人のメンバーそれぞれが,他者の役割を自分の態度にとり入れながら,自分のポジションに期待される役割を演じる,という有機的連関においてゲームは進行するのである」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P

    重要な他者とは、意味

    POINT

    重要な他者(significant other)・両親や兄妹、友達、先生など、具体的・特殊的な他者。社会化の過程で、大きな影響をもつ人物。プレイは重要な他者の役割・態度・期待を模倣、同一化していく過程。個人と文化を媒介する他者。

    「ここから、ミードは具体的な他者とのかかわりにおける『役割取得』による自我形成論を展開する。ミードによれば、子供自我は母親のような『意味のある他者』の期待の関連において形づくられる。『意味のある他者』は母親だけではなく、父親や兄弟姉妹、祖父母、また、遊び仲間、クラスメート、先輩、先生、そしてマス・メディアなど多く存在し、しかも、それは人間の成長・発達や社会の変化・変動によって変容する。そして『意味のある他者』が自分に対していかなる期待や要求・要請、、あた、気持、感情、意図をもっているのか、どのような意見や態度をもち、いかあんる評価や判断、あるいは規定づけを行っているのかが自我のあり方を形づくるのに重要な事柄となる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,55P

    「社会化の過程で、大きな影響をもつ人物。たとえば両親や遊び仲間や教師など。諸個人は重要な他者の体現する役割・態度と同一化するなかで制度的規範を学習する。『一般化された他者』と異なり、より具体化・特殊化された文脈のもとで個人と文化を媒介する。」

    「社会学小辞典」,291P

    一般化された他者とは、意味

    POINT

    一般化された他者(generalized other)・複数の他者の多様な期待が組織化された他者。抽象的・一般的な他者。いわゆる「みんな」が言っている、というときの「みんな」。さらに個人と文化を媒介する他者。

    他者が”一人”では自我が形成されず、”複数の他者”が存在することで「一般化された他者」が形成され、社会的自我が形成されていく。プレイ段階でも複数の重要な他者と接しているが、そこから十分に「一般化」ができていない。友達のりんご、母親のりんご、といったように具体的・特殊的な他者として現れていて、リンゴ一般が十分に想定されていない。母親にも暴力をしないことを期待され、先生にも期待され、友人にも期待され、と取得していくうちに「みんな」は暴力を嫌がっている」という一般化、組織化された期待へとつながっていく。そうした契機がゲームなどにある。

    「そして、自我形成にかかわる他者は一人ではなく、多くの人間が存在している。そこから、複数の他者の多様な期待が組織化された『一般化された他者』(generalized other)の期待が形成される。野球などの『ゲーム』遊びにおいて子供はゲームに参加するすべての人間の期待を考慮に入れなければならず、そこから参加者全員に共通した『一般化された他者』の期待を作り上げる必要がある。『一般化された他者』の期待をもつことによってゲームをうまく楽しむことができ、その過程において子供は十全な自我を発達しうるようになる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,6P

    「G.H.ミードの用語。認知または内面化される社会的期待ないし規範の総体。一般的他者とも訳される。幼児からの相互作用の積み重ねを通じて、人はさまざまな他者の自分に対する役割期待を取り入れて、自我を形づくっていく。このことは、親や友達など個々の他者の役割期待の内面化にとどまらず、総合・一般化の過程を経て、社会一般の自分に対する期待、もしくは社会的規範の内面化へと進む。このようにして一般化された他者の役割期待の内面化が行われてはじめて、社会的自我をもった人間が形成される。」

    「社会学小辞典」,21P

    「プレイやゲーム,さらにその他の共同作業への参加をとおして,諸個人は,著79しく他者との連帯感や他者理解を深めることができる.それは,自分(他者)の行為が他者(自分)の行為に似ている,という「同一視」(identi丘cation)が,役割取得行動のうちに機能しておるからである.このような社会過程を経験することによって,個人は社会のなかの他者の様々な役割を有機的に組織化されたものとして,つまり「一般化された他者」(thegeneralizedother)の態度,あるいは「一般化された社会的態度」(the generalized social attitude)として,自己の態度を形成するようになる。」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,79P

    制度

    制度とは、意味
    POINT

    制度(institution)・ある特定の状況(問題的状況など)にたいする共同社会の全成員の側の共通の反応。共通の他者の役割。社会的対象のひとつ。たとえば売買の「経済制度」なども制度の一つ。リンゴは買うものだ、売るものだ、とうような社会の成員に共通の反応をもたらすような社会的対象。自我の形成においてはこうした共通の他者の反応、つまり「一般化された他者」をMe(客我)の中に取り込んでいくことで、自我が形成されていく。

    例:泥棒という行為は「するべきではない、悪である」というある社会の共通の反応。こうした反応によって作られるものが実際の法制度などであると考えられる。

    POINT:他の動物にも「社会」はある。では人間と動物の社会の違いはなにか。動物にも人間と同じく、コンフリクト状況や問題的状況はある。

    →人間と他の動物の社会を区別する要素は「制度」にあるというのがミードの主張。人間社会は成員間のコンフリクトを「制度」を通じて知的に調整する社会であるという。どのように調整するか、というのが今まで学習してきた「意味の意識」を通じてである。つまり、他者の立場になってものを考えていくことで、一般化された他者を形成する。ふつうは暴力は良くないよな、という共通の反応が形成されていく。経済、法律、政治等々さまざまな「制度」として形成されていく。ふつうはしてはいけないようなことは法律でおおよそ禁じられているし、禁じられていなくても「道徳的によくないことだ」と共通の反応がある。

    たとえば優先席を電車で譲らなくても法律では罰せられないが、道徳的によくないことだ、と高齢者や障がい者、妊婦等の立場になって反応することはある。じろじろ人を見るのはよくないな、タメ口はよくないな、といったようにさあまざまな共通の他者の反応が形成されていく。

    重要なのは反射的に社会が調整されるわけではなく、知的に調整されるという点である。人間特有の遅延反応を通じたプロセスや、さらには人間の主体性、創造性をもったプロセスが重要になってくる。個人の行いが社会の共通の反応、制度を作っていくこともある。たとえば未成年が残酷な事件を起こした場合、制度として青少年保護条例の年齢を下げよう、という話になってくることもありうる。

    ミードによると経済コミュニティは普遍的でもっとも抽象的な社会であり、人は売りてか買い手でありさえすればどのような人であれコミュニティの一員となれるという。こうした経済制度の特性を「より大きなコミュニティを作り上げる原動力」だとミードはいう。これは後で解説する、ユニバースオブディスコースの拡大の議論へとつながっていく。

    制度の条件
    1. 人々の間になんらかの関係がある
    2. 関係がある人々の行動に対する社会的コントロールができるような社会的対象である
    3. 社会的コントロールを可能にするのに十分なだけの人々の社会化がされている

    社会化とは要するに社会性が拡大することであり、一般化された他者が拡大していくことです。

    POINT

    創発的自己・自己を再建することは他者を再建することでもあるということ。そのような相互作用のなかに自己を位置づけられているということ。

    自己を再建することと社会を再建することは相互的であり、制度や一般化された他者を自己の内に取り入れていく過程でその個人の中での制度が再構成されていき、いずれ多くの共同体の共通の反応になっていく可能性がある。例:ある個人がサッカーでボールを手でつかんで遊ぶとき、「普通は手でつかむものではない」という制度が、「手でつかんで遊ぶ別のゲームもある」というように変わっていき、フットボールになっていく。

    「しかしながらミードは,人間社会を,他の生物の社会とは根本的に違うものとして捉えている。その違いを彼は,人間社会における「制度(institution)」の存在に見い出している。どのような社会においても,成員はそれぞれ様々な個人的衝動をもっていて,お互いにコンフリクトを引き起こすものである。人間社会は,この成員間のコンフリクトを制度を通じてより知的に調整する社会である(Mead,1911:pp.44-5)。」

    山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,222

    「社会的対象としての制度もまた行為のイメージを含み,それを知覚している人々の行為をコントロールしている。このことは例えば経済制度を考えてみるとよい。売買は「売る」「買う」両方の行為を含んでいる。売る人も買う人も,どちらも自分の行為だけでなく,相手の行為をも行う準備ができていなければならない。売る人は,買う人の態度をあらかじめ内的にとっていることで,初めて売ることができる。社会的対象としての売買の制度は,「売る」と「買う」の両方の行為を含み,この行為の部分がこれを使う人の実際の行動をコントロールしているのである。ミードは,このような制度が成立するための条件として,次の三つをあげている。まず第一に,制度が成立しているためには,人々の間に何らかの関係がなければならない。関係のない人々の間に制度が成立するはずはないからである。第二に,制度が制度たるためには,それが関係している人々の行動をコントロールしうるような社会的対象でなければならない。このコントロールが,関係している人々の中で,ある程度強制的な社会的力をもっていなければならない。第三に,制度がそのような社会的力を保持し,コントロールを可能にしているためには,それをそのようなものとして認めうるほどに,人々が社会の他のメンバーの態度をあらかじめ内的にとっていなければならない。つまり十分に社会化されていなければならない。こうして,(1)人々の間に成立しているなんらかの関係,(2)これらの人々の行動に対する社会的コントロール,(3)このコントロールを可能にするのに十分なだけの人々の社会化,が制度成立のための条件である(Mead,1915a:p.154)。」

    山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,223-224P

    「ミードによれば,経済コミュニティはもっとも普遍的でもっとも抽象的な社会である。その中では,各人は売り手か買い手のどちらかであり,あらゆる人々があらゆる人々に対して,普遍的で抽象的な態度をとる。人は,売り手か買い手でありさえすればそれがどのような人であれ,このコミュニティの一員となれる。経済制度のこの特性は「より大きなコミュニティ」を作り上げる原動力である(cf.Mead,1934:chap.33,37)。」

    山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」,224P

    「ミードは、『ある特定の情況にたいする共同社会の全成員の側の共通の反応』を『制度』と呼ぶ(Mead1934=1973:275)。この共通の反応(役割)を自のうちに取り入れたものがミーである。ミーはつねに制度の要求を代弁しており,この意味で「因習的」(Mead1934-1973:223)である。アイはこの内面化された共通の反応を計算に入れて、それに対する自分の反応を決める。アイは自覚的に制度の要求に応え,それに献身しようとするかもしれないし、惰性的にそれに従うかもしれない。だが、アイは制度の要求をんで、自分の主張を押し通そうとする場合もある。あるいは、制度の要求に作性的にまたは自覚的に従っているときでさえ,アイは自分が思ってもみなかったことをしてしまう場合がある。いずれにせよ,アイは制度の要求に対する自分の反応をとおして、制度に逆に影響を与え、不断に制度を変化させていく。1人の少年がフットボールのゲームで思わずボールを拾い上げて走りだしたことが新しい規則を生み、ラグビーという新しいゲームが作り出されたことは1つの例である。このようにアイの反応をとおして制度が更新されると、次には、それが新たなミーとして取り入れられ、それにともなって自己もまた更新されていく。ミードは、社会を前提としてはじめて存在しうるにもかかわらず、大会に対する反応をとおして、社会を変えていく、このようなこのあり方を「創発的自己」(Mead1934=1973:227)と呼んでいる。」 ※ミードによる「精神・自我・社会」

    「社会学」,有斐閣,58P

    「社会の再建と自己や人格の再建との関係は相互的だし、内在的、有機的である。ある組織化された人間社会の個人メンバーたちによる社会的再建は、それら個人たちによる自己なり人格なりの再建を、程度の差はともなく必然的にともなっている。その逆も真である。なぜなら、かれらの自己なり人格なりはかれらの相互の組織化された社会関係で構成されているから、もちろんこれまた同様にかれら相互のの組織化された社会関係で構成されている所与の社会秩序を多少とも再建することなしには、かれらの自己なり人格なりを再建できないからである。」(Mead1934=1973:329)」

    「社会学」,有斐閣,58P

    大人の自我形成

    大人の自我とは、意味

    POINT

    大人の自我形成・子供のプレイの段階から、さらに「一般化された他者」が広く拡大されていく過程。特に、地域社会、国民社会、国際社会といった「コミュニティ(共同体)」全体の態度を取得していく過程とされている。

    「大人の自我形成においては、この『一般化された他者』の期待は広く拡大されて、『コミュニティ』全体の態度を表すものとされる。『コミュニティ』は地域社会のみならず、国民社会、そして国際社会まで含められ、さらにはまた、現在時点のみならず、過去や未来にも広げられる。このように空間的・時間的に拡大された『一般化された他者』の期待とのかかわりにおいて自我の社会性が拡大され、自我は大きく展開することになる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,6P

    パースペクティブとは

    POINT

    パースペクティブ(perspective)・世界に対する「眺め」であり、有機体と環境との関係、自己と他者との関係のあり方を意味する。

    個人的パースペクティブとは

    POINT

    個人的パースペクティブ(perspective of the individual)・世界に対する個人の独自の眺め。

    人間は役割取得を通して他者に特定のパースペクティブをもつようになる。例:「勉強をしなさい」と他者から期待されつつ、自分は「勉強をするかどうか選択する」過程がある。客我に対して反応する主我の観点がパースペクティブであるといえる。他者からの期待をそのまま自動的に行うのではなく、自分の視点を通して関係づける。

    ・それぞれの個人のおかれている環境、それぞれの人間関係が全く同じという人間はいない。それゆえに、パースペクティブは個人独自の眺めであり、流動的なものである。

    ・なぜ「個人の独自性、個性」を強調するのか。

    機械論」に反対するためである。機械論では人間の主体性、能動性、選択性は軽視され、すべて必然的な因果関係として行為が考えられている(例:大学進学を自由に、主体的に選択しているように見えても、因果関係の連鎖によって選ばされているに過ぎない)。

    1:ミードにおいて特に「主我」は人間の主体性、能動性、選択性、創発性などの機能を担っている。つまり、個人独自の経験を重視し、そうした経験が問題的状況を解決できることを重視した。

    2:パースペクティブは客体と有機体の関係の「」として考えられている。たとえば「火」は「体を暖めるものである」といったように、有機体が火を意味づけた場合、行為を通した関係として捉えた場合、これは特定の人間のパースペクティブにおける「意味」づけとなる。つまり、この場所、この視点ではこういう意味だ、というように関係づけられていく。

    パースペクティブと真理、客観的相関論と実在的相関論

    ミードにおいてそうした客体の意味(知識)は問題的状況を解決する状態に導く限り、「真理」となる。たとえば体が冷えているという問題を解決できるならば、そうした意味は真理とみなされる。それゆえに、真理は人の数だけあるということになり、流動的なものになる(ロウソクで暗闇を照らしていた時代もその時代では真理であり、電気で照らす時代もその時代では真理であり、同じ時代でもロウソクのほうが心も暖まるから良いと考える人もいれば、それも、その人の問題解決につながるかぎり、真理となる。)。

    ただし、パースペクティブや真理は主観的なものでしかない、という意味ではなく、「世界の真正な側面」であるという。つまり、私のパースペクティブで捉えた真理も、あなたのパースペクティブで捉えた真理も、同じく真正であるということである。つまり、真理は人と行為と対象の関係性として真に客観的に実在することになる(「客観的相関論」、「実在的相関論」と呼ばれる)。

    ミードが「パースベクティヴ」という考え方を提出したのは「自然の機械論」がもたらした絶対的な時間──空聞から成る静態的で一元的な世界像を打破して「個人としての個人の経験」がもっ重要性を保持するためだった。また、彼のいう行為とは有機体が環境によるその「因果的決定」を行為の条件としつつ、その環境との特定の適合的関係の破綻である問題的状況を克服すべく環境を「選択的」に決定していく過程を意味した。その限りで、ミードのいう行為とは有機体と環境との「協同」(co-operation)の様相を明らかにするものといえるかもしれない。きて、ミードの「パースペーティヴ」概念は、こうした「個人としての個人の経験」及ぴ有機体と環境との「協同」の重要性とを共に含むものとして定義される。すなわち「パースペクティヴとは個人と関係する世界でもあれば、世界と関係する個人でもある。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」28P

    「すなわち、パースペクティヴとは個人が世界と取り結ぶ特定の「関係」であり、個人はこの「関係」に基づいて世界に対して独自の「眺め円をもてるよう@になる||そうした「関係」である。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」28P

    「ミードによると、大文字の『真理』や『真理』一般というものはなく、『真理』は常に個別的状況、特殊的状況に結びついている。そして、『真理』とは行為が停止するコンフリクト状況において問題解決が成功した状態を指しており、したがって、現実においては多くの『真理』が存在することになる。この点において、ミードは絶対的観念論に強く反応する。しかし、ジェームズとは異なり、『真理』はそれを達成した人の満足にではなく、問題の解決と同義語であると主張する。ミードにおいて、『真理』とは思考とリアリティの関係を表し、その関係は行為を持続させる最高生徒行為が進行するリアリティとの間に存在するものとなる。そして、思考による最高性は組織化されたリアリティと合致することになる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」35P

    「こうしたパースベクティヴ概念の重要性は、それが次のことを認める点にある。すなわち「客体(object)は、それが関係づけられている世界の諸側面(aspects)と当の客体との関係のなかで存在す拘」。また、客体のもつ性質の一つである「色彩」(color)も「特定の個体の意識に呈示されるのではなく、世界と:::有機体との関係のなかに現れる」。こうして、パースベクティヴは客体及ぴその性質が現れてくる「場」とみなされる。しかもこの「場」は主観的なものと考えられてはならない。個人は世界と独自の「関係」を取り結び、それに基づいて世界に対して独自の「眺め」をもつようになる──その限りで「世界は各々の個人にとって異なった世界」となるのだが、このことは個人に独自のパ-スペクティヴに主観性を帯ぴさせるものではない。確かに、私の「眺める」世界とあなたのそれとは異なっているにしても、これらの私の「眺めた」世界とあなたのそれの双方とも世界の「真正な側面」聞SE52宮内Zであることに変りはないのである。すなわち、私のパースペクティヴはあなたのそれが「真正」であるのと同じく「真正」なのである。その意味で、パースペクティヴは主観的なものではない。特定の個人に国有のパースベクティヴ──ミードはそれを「個人的パースベークティヴ」と呼ぶ──は「社会的行為(social act)のなかで、個人が他者の役割を取ることを通して」組織化される。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」29P

    「行為に対するこうした発想は、彼らの「真理」観にも表れている。例えばジェームズは、真理とは「解釈の遂行」であり「それを遂行した人の満足」であると考えた。またミードやデューイは、真理とは問題解決と同義語であると考える。個人と環境との間に不適応という問題状況が生じた際に、人間は知性を含む行為によって新たな仮説を形成し、問題を解決する。問題が解決され状況が再構成されたとき、仮説は真理となる。真理の基準は、思考の内部でなくリアリティの中に、行為との関係において存在するのである(船津1989,148-149頁)。」

    小林さや香「ミードとプラグマティズム」31P

    「人間(有機体)の行為と対象との「関係性」(relativity)こそが,真に客観的に実在する,という意味において,ミードの認識論的立場は,「客観的相関論」(objectiverelativism)ないしは「実在的相関論」(reali-sticrelativism)と特徴づけられるのである」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,82P

    共通のパースペクティブとは、意味

    POINT

    共通のパースペクティブ(common perspective)・人が自分が属する「全体としての社会」の「眺め」をもつようになった段階。バラバラなパースペクティブ(個人的パースペクティブ)に対するまとまりのあるパースペクティブ。「一般化された他者」の言い換えでもある。

    共同体成員全ての人間の内にあるものであり、共通のパースペクティブは「包括可能性」をもつという。

    ・共通のパースペクティブが生じる原因:人間社会において個人が「多様な役割」を担うようになったから。→複数の他者から多様な役割を期待されることによって、そうした多様な期待をまとめあげる、一般化する必要が生じてくる。例:社員としての自分、家族としての自分、地域共同体としての自分、日本人としての自分、国際人としての自分、恋人としての自分、運転手としての自分、友人Aからみた自分、ネット友達Bからみた自分・・・というように多様な役割を担うようになる。たとえば社員としての自分と地域共同体としての自分は対立することもあるが、それらをまとめあげて、自分にもとめられている一般化された期待、一般化された他者からの期待をまとめあげる必要がある。上司からは犯罪行為を期待されているが、”普通”は期待されない行為だよな、という感覚。

    「多様な役割」を担うようになった主な理由は、「組織化された集団的活動」が社会的行為として営まれるようになったからであり、それぞれの社会的行為に「共通の性格」が与えられるようになったからである。原始人などは多くの違う考え方、違う役割をもつ人間とあまり出会わないような社会であり、多様な役割を一般化する必要が現代ほど小さい。分業化が発展、経済が発展化していくにつれて人々は個性をもち、個人的パースペクティブをよりもっていくようになり、そのままでは衝突し合ってコミュニケーションができなくなってしまう。だからこそ、そうしたバラバラなパースペクティブをまとめ上げる必要が出てくる。

    ※社会的行為とは、他者と有意味シンボルを交換し合うことであり、特に問題的状況における問題解決をしようとする行為を指す。ミードの説明で言えば「目的──手段連関が無限に複雑になった行為」であり、「一つの個体以上の協同を含むもの」である。

    「『パースペクティブ』とは有機体と環境との関係、自己と他者との関係のあり方を表している。『パースペクティブ』はそれぞれの有機体または個人によって異なっており、また、一個の有機体、一人の個人においても、複数の環境条件、複数の他者の期待との関連において多様なものとなっている。ここから、人間は行為を継続させるためにも、バラバラな『パースペクティブ』ではなく、まとまりのある『パースペクティブ』をもつことが必要不可欠となる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」60P

    「ミードは次のようにして「一般化された他者」を「共通のパースペクティヴ」(the common perspective)に言い換える。人聞社会における「組織化された集団的活動」の発展によって、個人は「多様な役割」を担うようになった。そして、これが可能になったのは、これらの「組織化された集団的活動」が、第一に、諸個人の社会的行為として営まれたからであり、第二に、それが、諸個人に何を為すべきかを示すに際して、諸個人の社会的行為に「共通の性格」(a common character)を与えたからだった。以上のことによって「個人は、自分自身を集団ないし共同体の態度において表明するに際して、一般化された他者(a generalized other)になることができる。この状況において、個人は彼が属する全体としての社会5082己主SFに対して明確な自我になったのである。これが共通のパースペクティヴである。それは共同体の成員全ての有機体の内にある」。ところで、ミードは「共通のパースペクティヴとは包括可能性(comprehensibility)であって、包括可能性とは共通の社会的条件(common social conditions)。自の観点から成きれる言明である」ともいう」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」31P

    他者のパースペクティブに入ってくためにはどうすればいいのか、知性、科学との関連

    知性

    ・他者のパースペクティブに「はいっていく」ためにはどうすればいいのか

    →「知性」を使う必要がある。とくに科学は知性のもっとも優れたものだとみなされている(後述)。

    社会とはなにか、意味
    POINT

    社会(society)・共通のパースペクティブが個人の行為によって組織化されていく過程が社会化であり、過程そのものが「社会」である。

    社会が科学的対象となるのは、個人的パースペクティブにおいてだけではなく、特に集団に共通のパースペクティブにおいて行為する限りにおいてだという。例:ある部族では男尊女卑だったが、ある個人の行為がきっかけで部族全体に男女平等であるべきという態度が広がっていく場合もある。この行為によって絶えず組織化されていく過程そのものが社会。

    ミードの主張はゲオルク・ジンメルと重なる部分が多いと個人的に感じる。

    科学による共通のパースペクティブ

    ・知性として最高のものが「科学」であるとミードはいう。ざっくりしたイメージでいえば、「それはあなたの主観ですよね?」というものは共有されにくい面があるが、科学ではより客観的な手続きを経るので、共有されやすい(他者のパースペクティブに入っていきやすい)。お湯は100°で沸騰するというパースペクティブは多くの人に共有できるかもしれないが、ピカソは美しい(あるいは美しくない)、というものは(科学に比べて)共有しにくい。

    ミードは科学者という集団、共同体におけるコミュニケーションを重視している。科学者は不意の経験として例外に遭遇し、仮説を立てて、問題を解決していく。さらに、そうした例外や仮説の正しさが、集団においてすべての人によって経験可能なものであると立証する必要があり、共有される必要がある。→知る手続き、理解する手続きが明確化されていて、共有しやすいのが「科学」。それに対して宗教的な体験は共有されにくい面があるのではないだろうか。

    特に科学において手続きが明瞭化されているという。実験をしたり計算したりすることで客観的に他者のパースペクティブが共通のパースペクティブとなっていく。また、個人的パースペクティブが共通のパースペクティブへと変わり、個人の例外的経験が共同体に変化をもたらしていく良いモデルとなるという。

    ・科学のコミュニティと同じように、他のコミュニティでも個人の独自の経験が社会を変化させていく可能性をつねにもっているのであり、他の人へ経験が共有されていく可能性をもっている

    ・知るのを妨げる要因が除去されていくにつれて、個人が無限に多くの他者、集団へ参加していく可能性を含んでいくという。不合理な話は共有されにくい。

    ・個性的な人間、個人的パースペクティブが複雑になればなるほど、コンフリクト状況も増えていく。そうした状況を解決できる方法の一つとして、ミードは「科学的なコミュニケーション」を重視している。相手の立場に立ちつつ、知覚や操作によって創発的に問題を解決し、コミュニケーションしていく過程で、お互いに共通の視点というものが作られていく可能性がある。今までの古い習慣がコンフリクト状況を通して解決されることで、創発的に新しい習慣が生まれる可能性がある。変化に対して社会は常に開かれているのであり、社会とは個人と個人の関係の中にある。

    他者の態度取得が可能な範囲こそが、ひとつの社会の圏域。他者のパースペクティブに身をおくことが不可能になるところに、社会組織の限界線となる。

    「いまや、ミ-ドと共に「社会」(society)を次のように定義することができる。すなわち「社会が生起し、そこでの出来事が科学的研究の対象となるのは、個人が自分自身のパースベクニティヴにおいてばかりではなく他者のパーステクティヴ、特に集団に共通のパースペクティヴ(common perspective of a group)。においてもまた行為する限りにおいてのみである。ここで個人は、社会的行為のなかで持続的に他者の役割を取ることを通して自己のパースペクティヴを構成l再構成、つまり乗り超えつつ、より包括的な(ミード流にいえば「普通的な」)パースペクティヴに到達しようとするものとして現れる。個人が行うこうしたパースペクティヴの組織化の過程そのものが、ミードにとっての「社会」なのである」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」30P

    「ミードは1917年の論文『科学的方法と個人の思考』のなかで、T.S.クーンの『科学革命の構造』(1962)を先取りするかのように、科学共同体におけるコミュニケーションについて以下のように論じている。科学者は、不意の経験として例外に装具sる。科学者は、その例外を説明しうる新たな仮説を立てることによって、既存の理論を乗り越えなければならない。そのためにはまず、その例外が彼だけの経験ではなく、同じ条件のもとにいるすべての人にとっても経験可能なものであることを確認しなければならない。すなわちその例外は、科学共同体の他者たちによって共有されなければならない。科学者たちは、たとえば手続きの明瞭化された実験方法や科学的論理的な言語といった、そのための方法を共有している。」

    「クロニクル社会学」208P

    「科学者共同体のコミュニケーション・モデルは、一般の社会に投影される。他者が自分や他の対象に対してとる態度を自分自身で取得できる、そうした人々のあいだのコミュニケーションを通じて、ある人の経験、思考、振る舞いやさまざまな対象の意味は、他の人々にも共有されるようになる。そして、他者の態度取得が可能な範囲こそが、ひとつの社会の圏域なのである。『社会組織の限界線は、他者たちのパースペクティブに自分を置くことが不可能となるところに見出される』(『パースペクティブの客観的リアリティ』1927)」

    「クロニクル社会学」208P

    時間系の交差とは、意味

    POINT

    時間系の交差(intersection of timesystems)・それぞれの時間的パースペクティブを互いに交換すること。他者の役割を共時的に取得していくこと。この過程を通して、「共通のパースペクティブ」がつくられていく。

    「時間的『パースペクティブ』のまとまりに関して、ミードは『時間系の交差』(intersection of timesystems)として考察する。『時間系の交差』とは、それぞれの時間的『パースペクティブ』を互いに交換することである。それは他者の『パースペクティブ』に自己を置くこと、つまり『役割取得』過程を通じてなされる。この場合の『役割取得』とは、異なる時間的パースペクティブを同時に取得することである。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,60P

    パースペクティブの社会性とは、意味

    POINT

    パースペクティブの社会性・同時にいくつものことでありうる能力。複数の時間系に同時に自己を置けること。例:特定の友達の立場だけになって他の友達をいじめるのではなく、複数の友達の立場に自己をおき、共通の立場、視点、態度、期待をつくりあげていく。

    「ミードにおいて時間レベルの『役割取得』は時間的に異なる他者の役割を『共時的』(simultaneously)取得していくことを意味する。時間レベルにおける『役割取得』によって、パースペクティブのまとまりが形作られる。ミードはこのことを『パースペクティブの社会性』と呼び、この場合の『社会性』を『同時にいくつものことでありうる能力』(Mead,1932:49)と規定している。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」,60P

    ユニバースオブディスコースとは、意味

    POINT

    ユニバース・オブ・ディスコース(universe of discours)・コミュニケーションを行う人々が共有する意味の世界。ディスコースとは一般に、「言語で表現された内容の総体」を意味する概念、いわゆる言説。

    POINT「社会性」は意味の共有を前提にして作り出される

    ・共通のパースペクティブの数だけユニバースオブディスコースや一般化された他者の数があることになる。視点の数だけ共有意味世界がある。

    ユニバースオブディスコースはさまざまな規模で複数存在する。ある村だけに共有する意味世界もあれば、国に共有する意味世界もある。意味世界が拡大化されていくと、やがて国際社会の期待といったように、世界全体の意味世界の期待を個人が内面化していくことになる。

    「『意味のあるシンボル』によって行為者の間に意味の共有がなされて、そこにユニバース・オブ・ディスコースが生まれるようになる。ユニバース・オブディス・コースとはコミュニケーションを行う人々が共有する意味の世界を指している。『意味のあるシンボル』を媒介として他者の態度を取得することを通じてユニバース・オブ・ディスコースが形成されると、そこに『社会性』がもたらされる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」80-81P

    国際心とは、意味

    POINT

    国際心・すべての他の国の存在を認めるような態度。ミードは社会性の拡大、国際心の必要性を説いた。

    「かれは自我の社会性の問題を世界的規模まで拡大し、国際的レベルにおいて人びとが自国の利害を主張するその過程において、すべての他の国の存在を認めるような態度をとる『国際心』の必要性を訴えていた。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」37P

    参考文献

    主要文献

    G・H・ミード「精神・自我・社会」

    船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    参照論文(論文以外を含む)

    1:山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」(URL)

    2:笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」(URL)

    3:船津衛「社会的自我論の展開」(URL)

    4:平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」(URL)

    5:山下祐介「G.H.ミードの社会改革論」(URL)

    6:岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」(URL)

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    蒼村蒼村

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