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	<title>論理学 | 創造法編集社</title>
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	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
	<lastBuildDate>Sun, 14 Jul 2024 12:28:37 +0000</lastBuildDate>
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	<title>論理学 | 創造法編集社</title>
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	<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:27:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-1" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-1">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">還元公理</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">還元公理</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">還元公理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">オーダーの区別を消去してくれる？</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">将軍の例で考えてみる</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">還元公理を導入する理由</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">ラムジー､ウィトゲンシュタイン､ゲーデル､クワインからラッセルへの批判</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">内包的/外延的</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">内包､外延とは一体・・・？</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる？</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">世界を記述し尽くせるか</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">「結果的に完全な記述となっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ」</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">還元公理は「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」である</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">次回の予定､ベイトソンとの関連</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">次回の予定</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">精神の基準リスト</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">還元公理</span></h2>
<h3><span id="toc7">還元公理</span></h3>
<h4><span id="toc8">還元公理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>還元公理</strong></span>：</big>いかなる属性についても､それと同値な(=全く同じ項たちにあてはまる)述語的属性があるという公理のこと｡</p>
</div>
<p>任意の命題関数がその変数に関してある特定の形で表現できることを主張している｡</p>
<p>還元公理は<b>タイプ・オーダーの二次元的な分岐を､一元的なタイプの階層へと整理する公理</b>だという｡</p>
<p>あるいは「クラスに関してオーダーの区別を消去してくれること」とも表現されることがある｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:還元公理､整理<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>「還元公理――いかなる属性についても､それと同値な(=全く同じ項たちにあてはまる)述語的属性がある｡」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,81p</p>
<p>「還元公理は､タイプ・オーダーの二次元的な分岐を､一元的なタイプの階層へと整理する公理だ｡これは､便宜的な装置のようにも見えるが､哲学的にかなり興味深い含みを持つ｡『偉大な将軍に必要な述語的属性をすべて持っていた』という属性Fは､第２オーダーの非述語的属性だが､この属性Fは､何らかの第一オーダーの､つまり述語的な属性と実は同じものだというのだ｡」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,81p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">オーダーの区別を消去してくれる？</span></h4>
<p>どうして還元公理がオーダーの区別を消去するのか｡消去してしまったらパラドクスがまた生じてしまうのではないか､と思ってしまう｡しかし厳密にはオーダーを消去するというより､実質的にオーダーはないのも同然だ､というイメージになるのかもしれない｡</p>
<p>なぜなら､異なるオーダーのそれぞれの属性が実質的に同じ属性だとみなすからである｡<b>分けるのをやめるのではなく､分けられたものを同じだと見なす</b>のである｡例えば「偉大な将軍に必要な述語的属性を全てもっている」という属性はn+1オーダーであり､具体的な「勇敢」などの属性はnオーダーである｡しかし､n+１オーダーはnオーダーに還元できる､一致できるという考え方を導入するのである｡たとえばaかつbかつc…というように無限に列言していく形で等価(同値)とみなすわけである｡</p>
<p>例としては適切かどうかはわからないが､すこし考えてみよう｡例えばオレンジジュースを凍らせるとする｡再び解凍すると､オレンジジュースが得られる｡この場合､凍ったオレンジジュースと解凍されたオレンジジュースは､同じ物体の異なる表現といえるのではないだろうか｡</p>
<p>厳密にはすこし違うだろうとかいう考え方は隅に置くとこの考え方はわかりやすいと考える｡高いオーダーの属性も､低いオーダーの属性に還元できる｡還元できるというのは言い換えれば同じであり､「<b>互いに同値な属性</b>」と表現される｡</p>
<h4><span id="toc10">将軍の例で考えてみる</span></h4>
<p>(１)「偉大な将軍に必要な述語的属性を全て持っているという属性」=Fはn+1オーダーである｡</p>
<p>(２)具体的に勇敢､好色､穏健…と属性を無限のように挙げていって得られる集合(F以外)はnオーダーである｡</p>
<p>(３)nオーダーにある具体的な属性をすべて「かつ」で結びつけていく｡</p>
<p>全ての属性をもっている必要があるので､勇敢であり､かつ好色であり､かつ穏健であり・・・と無限のようにある属性を列挙してつなげていく(F以外)｡このようなオーダーをG’と表現する｡</p>
<p>(４)さらに具体的な偉大な将軍が特有にもつ属性を列挙していくオーダーを考える｡そうしてA(例えばナポレオン)だけがもつ属性､またはBだけがもつ属性といったように列挙していき､それらを「または」で結びつけていくそうだ｡</p>
<p>こうしてまとまった長い述語を「<b>選言的述語</b>」というらしい｡述語が複数の選択肢のうちいずれかであることを示すということだ｡こうした長い述語をGと表現する｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3975" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png" alt="" width="805" height="764" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7.png 805w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/7c1cc1a33a80d61967e475a86f792df7-800x759.png 800w" sizes="(max-width: 805px) 100vw, 805px" /></a></p>
<p>三浦さんの図(『ラッセルのパラドックス』,82p)を参考に作成した｡</p>
<p>還元公理によって､F=G’=Gとなるという図である｡FはG’に還元することができ､G’はGに還元することができる｡</p>
<p>ここで重要なのは「<b>どんな非述語的属性も､他の述語的属性に還元することができる</b>」という点である｡</p>
<p>こうして考えると､何かを具体的に分かりやすく説明したり､比喩を使って説明したり､まるで違った表現で説明する行為とすこし似ていると感じた｡つまり､同値の属性に適切に還元できるということが､説明の能力に関連してそうであり､深い理解の証となりそうである｡ベイトソン的にいえば(トートロジーであるにも関わらず)「理解のボーナス」が多角的な説明によって生じるという点が重要になる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:選言的述語<br />
「これは､言われてみればその通りだろう｡偉大な将軍の一人一人について､彼だけが持っていて他の何物も持っていない述語的属性を選び出そう｡ある瞬間に特定の言葉を発した､という属性でもいいし､出生時の正確な場所と時刻でもいい｡各々の偉大な将軍についてそうした述語的属性を少なくとも一つ選んで列挙し､それを『または』で結んだ長い述語を作ろう(『選言的述語』と呼ばれる)｡この述語Gは､いささか人工的だとはいえ､第一オーダーの述語的属性であることに変わりはない｡『すべての属性』に言及した属性ではないからである｡こうして､非述語的属性F『偉大な将軍に必要な述語的属性をすべて持っていた』は､述語的属性Gに還元できる｡他のどんな非述語的属性についても､似たような還元の工夫ができるだろう｡反例を発見した人はいない｡還元公理は正しそうだ｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,83p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">還元公理を導入する理由</span></h3>
<h4><span id="toc12">ラムジー､ウィトゲンシュタイン､ゲーデル､クワインからラッセルへの批判</span></h4>
<p>還元公理がない場合の分岐タイプ理論でどういう問題が生じていたか､という点を理解するといいのかもしれない｡</p>
<p>たとえば「非可述的定義を含む実数論､したがって解析を十分に展開できない」という問題があったそうだ｡何を言っているか私には理解出来ない｡</p>
<p>しかし三浦さんの「数学の根本に矛盾があるというのは致命的な病気なので､それを治すことは何よりも優先されなければならないが､悪循環原理は､あまりに多くのものを禁じすぎて､矛盾追放後のクオリティ・オブ・ライフを保証できていないというべきだろう」という表現ですこし理解することができた｡</p>
<p>単純なタイプ理論ですら多くのものを禁じており､分岐タイプ理論でさらに多くのものを禁じてしまったというイメージだろうか｡</p>
<p>では還元公理の導入で「非可述的定義を含む実数論」が可能になったのか､という話は私には理解できない｡おそらく可能になったのだろう｡</p>
<p>しかし問題は還元公理が正しいかどうかである｡これに対してたくさんラッセルは批判されたらしい｡ざっくりいえば還元公理の導入を正当化する論証を欠いているそうだ｡もともとラッセルがタイプ理論を構築した理由は悪循環原理の徹底であり､その特殊論のうちに論理的パラドクスの解消や意味論的パラドクスの解消というものがあった｡しかし徹底させればさせるほど数学の大部分が困難になってしまうという問題があった｡</p>
<p>ラムジーによって意味論的パラドクスをそもそも論理学や数学で解消する必要があるのか､などという批判も出ている｡ラムジーは還元公理が帰納的なものである(演繹体系ではない)という批判も行っている｡さらにラムジーは「無限連言」という代わりの方法も提案したそうだ｡</p>
<p>他にもウィトゲンシュタインが「還元公理が考えられない世界も考えられる」と批判したらしい｡</p>
<p>たとえばゲーデルは悪循環原理の要求が高すぎる点､無限連言による方法は無限の直観が入りこまざるを得ない点などを批判している｡</p>
<p>また､ゲーデルはラッセルのオーダーの定義にはテクニカルな問題があると考えたそうだ｡ゲーデルは「外延の同一性を担保に非可述的命題関数を容認し､悪循環原理を事実上放棄した」という｡なかなか難しく何を言っているか分からないが､おそらく還元公理の良さは認めつつも､オーダーという考え方に問題があると考えたのだろう(？)｡</p>
<p>ラッセルの目的は数学を論理学によって展開することであり､悪循環原理の徹底によって要請されるタイプ理論によって数学の大部分が困難になるというのは問題だということはわかる｡</p>
<p>その困難さを解決するために都合よく､その場しのぎで(アドホックというらしい)還元公理を導入するのはよくない､と批判を受けたというわけだ｡</p>
<p>「そもそも非述語的属性が述語的属性に還元されるということがわかっているなら､始めからオーダーなどで分けなければいい」というクワインの批判もあったそうだ｡</p>
<p>三浦さんの説明では「<b>タイプはリアルな違いだが､オーダーは語り方､表現法の違いに過ぎない</b>」というわけである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:クワイン､語り方<br />
「どうせ述語的属性だけで話が済むというならば､始めからオーダーなど分けなければいのに､と思われるだろうか｡実際､そのような批判をクワインが述べている｡タイプの違いは論理的にリアルな違いだが､オーダーの違いはリアルな違いではなく､単に語り方､表現の方の違いにすぎないのだから､尊重する必要があろうか｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,83p</p>
<p>「ところが、分岐タイプ理論を含む『プリンキピア』の体系は、その複雑さや非生産的側面に関して他の陣営から厳しく批判された。分岐タイプ理論の目的は、悪循環を含みうる非可述的定義の全面禁止によって確実な基礎を築くことだった。だがそのままでは、非可述的定義を含む実数論したがって解析を十分に展開できない。そこで、ラッセルらは、分岐タイプ理論を十全に展開するために、非可述的定義を部分的に可能にする「還元公理」を要請する。それは、任意の命題関数に対し、それと外延を等しくする可述的関数が存在するという公理である。しかし還元公理は、直観を欠いたアドホックな前提にすぎず、その必要もないと散々に批判された。還元公理の意義は、クラスに関してオーダーの区別を消去してくれること、言い換えれば、クラスに関しては外延性が成り立つことが保証されることである。こうして、クラスに関してはタイプの区別だけが問題となり、オーダーの区別を無視した非可述的定義が可能になる。しかし、これでは何のためにオーダーを導入したのか判然としない。ラッセルらは、還元公理が純粋にプラグマティックな正当化を持つとしているが、その導入を正当化する論証を欠いていた（Whitehead&amp;Russell(1927),p.xiv;cf.Church(1956),§59.）。」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,54p</p>
<p>「ゲーデルによれば、オーダーの理論は悪循環原理（VCP）に基づく。したがって、その批判は、VCPの厳密な分析によってなされる。VCPは、「いかなる全体も、その全体によってのみ定義しうるメンバーを含むことはできない」というものであった。そもそもVCPは、「定義によって導入される数学的対象は人間による構成と独立に存在するものではない」という構成主義的態度によって要請された。しかしVCPは、非可述的定義を認めず数学の大部分を破壊するため、要求としては強すぎる。全称量化を用いずに自然数を定義するには、ラムジーが提案したような無限連言による方法があるが、そこには無限の直観が入り込まざるを得ないとゲーデルは考えた。また、致命的なことに、オーダーの定義にはテクニカルな問題があって、自然数の帰納的定義に失敗しており、自然数が分岐タイプ理論から導出されるかすら明らかでない（G¨odel(1944),p.146）。そこでは、ラッセルは外延の同一性を担保に非可述的命題関数を容認しており、VCPを事実上放棄している。彼の数学的対象の存在に関する単一性の信念を支持するゲーデルにとって、一貫性を欠きまともに数学を展開できない以上、非可述性を避けるため概念に構成的階層を導くラッセルの立場は不合理に映ったのである。」</p>
<p>池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,55p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">内包的/外延的</span></h3>
<h4><span id="toc14">内包､外延とは一体・・・？</span></h4>
<p>すこし難しい話として､「内包的/外延的」という区別がある｡</p>
<p>三浦さんの説明によれば､「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくるような場合､その論理を『内包的』」と呼ぶらしい｡</p>
<p>正直､何を言っているかわからない｡「全ての事項が分からない」から､「全ての事項のうち､いくつかはわかる」へ､さらに「AとBとCが特にわからない」へ進めたらいいのだと思う｡とりあえずはどこが､どのようにわからないかを明らかにすることが「わかる」ための第一歩である｡だからこそ「わからなかったログ」も重要だろう｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内包(ないほう)</strong></span>：</big>一般に､ある概念や言葉が意味する共通の性質や特徴のこと｡概念が適用される事物に共通な性質の集合のこと｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>外延(がいえん)</strong></span>：</big>一般に､その概念や言葉が指し示す具体的な対象のこと｡概念が適用される事物の集合のこと｡</p>
</div>
<p>例:「鳥」の内包は、羽、翼、卵を産むなどの共通の特徴｡学者という概念の内包は「学問の研究者」である｡</p>
<p>例:「鳥」の外延は、ペンギン、雀、ワシなど、実際に存在する鳥の個体｡学者という概念の外延は､Aという医者､Bという医者である｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる」場合､その論理を「内包的」という｡</li>
<li class="sample">「個体を優先して命題の真偽だけを問題にする」場合､その論理を「外延的」という｡</li>
<li class="sample">ラッセルは個体よりも普遍を重んじ､「真偽の定まり方を問う」内包的論理を重視している｡</li>
</ol>
<p>「現在医者として知られる全ての人物を列挙した集合のリストをつくる｡このリストにのっている人は医者である｡」というような外延的定義をラッセルはあまり重視していない､ということになるのだろうか｡</p>
<p>なぜなら､このような定義は集合や概念の本質的な「性質」に着目した定義ではないからである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:内包､外延<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84-85p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc15">属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる？</span></h4>
<p>「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくる」場合､その論理を「内包的」というという説明は私にはまだ意味不明である｡</p>
<p>たとえば非述語的属性を述語的属性に還元すると､表現法が異なってくる｡この場合､属性が従う論理が異なる｡この論理というものが何を指しているか､私には意味不明である｡思いつくのはオーダーが異なるという点である｡「勇敢かつ・・好色かつ・・」というような論理形式と､「Aだけがもつ属性または・・・Bだけがもつ属性または・・・」といったものは「表現法」であり､それぞれが属するオーダー(論理)が異なると言ったほうがいいのかもしれない｡</p>
<p>といっても､AかつBやAまたはBのオーダーは同じであり､すべての・・・というような表現の違いがでてくると､その属性が従うオーダーが明確に変わりそうである｡あるいは「かつ」と「または」では相対的なオーダー差が対応していくと考えていくこともできるのかもしれない｡</p>
<p>論理形式は異なるが､しかし「共通の属性」について言及されているという点は同じである｡つまり､表現が異なると論理は異なるが､いずれも内包的である｡いずれも「属性」を重視している｡</p>
<p>例えるなら「医者である人々」よりも､「医者である人々がもつ性質」が重視されるのが内包的論理であり､また「医者である人々が持つ性質」を<b>多様な表現</b>で説明していることになる｡同じ値の異なる表現という点がポイントとなる｡同じ属性の異なる論理階型(=オーダー)と読み替えれば､論理形式が異なってくる､という意味合いがすこし理解できる｡</p>
<p>では､仮に外延的論理であった場合は､「表現が異なると論理が異なるということがない」ということになるのだろうか｡共通の性質というものをあまり考慮しないので､医者のリストさえ全て挙げることができれば､異なる表現というものが必要ないのかもしれない｡</p>
<p>つまり､表現法を多様にする(例えば述語的属性だけではなく､非述語的属性も取り入れる)ということにあまり意義を感じないのかもしれない｡それゆえに､外延的論理を重視する人達からすれば､内包的論理を重視する人たちは「余計な付け足し」だと思うのかもしれない｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:内包､外延<br />
「属性の表現法が違うと､その属性が従う論理が異なってくるような場合､その論理を『内包的』という｡ラッセルの論理学は､個体を優先して命題の真偽だけを問題にする『外延的』論理ではなく､個体よりも普遍を重んじ､真偽の定まり方まで問う内包的論理であるため､正確に同じ項の集まりにあてはまる属性を別個のものとして区別することが必要になるのだ(同一の項たちにあてはまる属性を述語的と非述語的に区別するのはムダ､という批判をする論理学者は､クワインをはじめ､『内包的論理』の重要性を否定する人々である)｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">世界を記述し尽くせるか</span></h3>
<h4><span id="toc17">「結果的に完全な記述となっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ」</span></h4>
<p>三浦さんによれば､ラッセルの論理学が内包的とならざるをえないのは「<b>個別的事実で世界が記述し尽くせるとはラッセルは考えなかったから</b>」らしい｡</p>
<p>たとえばラッセルは「『私が列挙したのは､宇宙の全ての個別的事実である』と付け加えない限り､あなたは宇宙の完全な記述をまだ成し遂げていないだろう」と述べている｡</p>
<p>たとえば無限のようにある「偉大な将軍に必要な属性」をひとつひとつ､述語的属性を全て列挙しつくせたと仮定する｡しかし､これでも「完全な記述」は完成しないという｡</p>
<p>なぜなら､「偉大な将軍に必要な属性を全てもっている」というような非述語的属性を付け加える必要があるからである｡あるいは「偉大な将軍に必要な属性はこれらの他に残っていない」というような非述語的属性でもいいのかもしれない｡とにかく､「<b>非述語的属性が完璧な記述には必要だ</b>」というのである｡もちろん､意味論的パラドクスを解決するために非述語的属性(オーダーの区別)が必要だという理由もあるのかもしれない｡しかしそのためだけだとしたらアドホック(その場しのぎ)だと批判されてしまう｡もっと根本的な導入の正当化が必要になる｡</p>
<p>非述語的属性は述語的属性に還元できるという前提があるのにもかかわらず､それでも必要なのかとラッセルを批判する人の気持ちが私にはわからなくもない｡</p>
<p>しかしベイトソンで私は「トートロジー(同義反復)を増やすことは蛇足ではなく､プラスアルファの理解のボーナスがあるという視点」を学んだので､仮に還元できたとしても異なる表現の重要さを理解することができる｡</p>
<p>「非述語的属性が完璧な記述には必要」ならば､「述語的属性と非述語的属性を区別するオーダーという考え方も必要」になるのだろう｡</p>
<p>したがって､「述語的属性だけでいい」という考え方にラッセルは同意できないということになる｡非述語的属性が述語的属性に還元できるからといって､不要とはならない｡世界の完全な記述は「<b>結果的に完全な記述となっているだけでは足りず</b><b>､その記述が完全な記述であるということも明示しているべきだ</b>」というのがラッセルの考えらしい｡微妙なニュアンスの違いを理解することは難しい｡たとえばオセロをしていて､結果的､実質的に自分の駒のほうが多いとする｡しかし結果的に多いだけでは何となく足りない｡「自分の駒のほうが多い」と勝利宣言する必要がある｡この比喩が正しいかどうかはわからないが､私の理解はそういうイメージとなる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:「非述語的属性が完璧な記述には必要だ」<br />
「ラッセル論理学が内包的とならざるをえないのは､個別的事実で世界が記述し尽くせるとはラッセルが考えなかったからである｡『あなたが宇宙のすべての個別的事実を列挙し尽くすのに成功したとしても……『私が列挙したのは､宇宙のすべての個別的事実である』と付け加えないかぎり､あなたは宇宙の完全な記述をまだ成し遂げていないだろう』(論理学原子論の哲学)｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,85p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">還元公理は「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」である</span></h4>
<p>他にも三浦さんは､還元公理が「<b>すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定</b>」だと説明している｡これは興味深く､ひとつの重要なコード(鍵)となりそうである｡</p>
<p>述語/非述語の項目で､「美しい」という属性が述語的属性ではなく､非述語的属性を省略形で述べた可能性があることを学んだ｡このように､<b>一見､述語的属性に見えるものも非述語的属性の可能性がある</b>､ということを理解するために述語的属性/非述語的属性というオーダーの区別は重要である｡</p>
<p>そして､非述語属性を一端述語的属性に還元して議論しなおすということも重要であるという｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍が必ずもつ属性のうち､すくなくともひとつの属性をAさんもBさんも共有する」という文章があるとする｡しかしそれゆえに､AさんとBさんは似たような人物だ､とは必ずしも推論できない｡なぜなら､具体的にどの属性が共有されているか､上記の文章(非述語的属性)だけでは判断できないからだ｡</p>
<p>たとえばAさんは好色という属性をもち､Bさんは勇敢という属性をもつというようにオーダーをひとつ下げてから判断をすると､類似性を過大評価することがなくなりやすくなる｡</p>
<p>これはなかなかおもしろい｡「<b>述語的属性への還元に備える</b>」という姿勢が大事だということを学ぶことができた｡気づかないうちに､高オーダーだけで説明してしまっていて､何を意味してるかが曖昧で伝わりにくくなっていることがあるのは注意する必要がある｡意識的にはしごを登ったり降りたりする反復が大事であり､登っているのに降りたつもりになっているような混同をできるだけ避けるようにしたい｡結果的に同じことを意味しているとしても､コミュニケーションの受け手側の誤解しやすさには差があるだろう｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:「すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定」<br />
「『勇猛である』『好色である』……がすべてナポレオンにあてはまることを個別に述べ尽くしたとしても､『これらの他に､偉大な将軍に必要な属性は残っていない』と付け加えないと､ナポレオンの完全な記述は得られない｡つまり､『偉大な属性を&#8221;すべて&#8221;持っていた』といった非述語的属性は､述語的属性に還元できるからといぅて､不必要とはならない｡世界の完全な記述というのは､結果的に完全な記述になっているだけでは足りず､その記述が完全な記述であることをも明示しているべきなのだ！かくして､ラッセル的世界記述では､どうしても非述語的属性が持ち出されなければならないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,85p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">次回の予定､ベイトソンとの関連</span></h3>
<h4><span id="toc20">次回の予定</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4d6c3b1a0c0701c8ac2bd68aa436871f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3976" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4d6c3b1a0c0701c8ac2bd68aa436871f.png" alt="" width="729" height="306" /></a></p>
<p>まず､大前提として､右の図のように今回の動画は創造発見学の一つのカテゴリーだという位置づけである｡そして一番根本的なカテゴリーだと考えている｡</p>
<p>・次回はベイトソンが論理階型理論をどのように用いているかを紹介していきたい｡すこしだけ先取りしておく｡</p>
<p>・ベイトソンは「論理の世界」と「現象(現実)の世界」の違いについて語っている｡</p>
<p>たとえば論理の世界は「<b>無時間的</b>」であり､現象の世界は「<b>時間的</b>」であるという｡たとえば論理の世界ではラッセルが行ったように発生したパラドクスは「なかったもの(最初から存在していないもの)」とされてしまうか､そもそも「生じないもの」という演繹体系を構築する｡しかし<b>現象の世界では生じたパラドックスを「なかったものと」として葬り去ることはできない</b>｡また､自己言及的なシステムが山ほどあるという点がポイントになる｡</p>
<p>ベイトソンは論理の世界と現象の「重要な違い」について語りつつも「重要な類似」についても語っている｡</p>
<p>その「重要な類似」が､「学習の現象」に論理階型理論のようなものが当てはまる」というものである｡たとえばタイプ０とタイプ１が区別されるように､学習０と学習１が区別されていく｡</p>
<p>また､ベイトソンの「<b>ダブルバインド</b>」という概念が論理階型の混同によって生じるという点も重要になってくる｡</p>
<p>次回はいきなり学習理論やダブルバインド理論を扱うのではなく､ベイトソンが考えた論理階型の混同の例を見ていくことにする｡</p>
<p>例えば「地図」と「土地」は違う､「鎖のつなぎ目が切れること」と「どのつなぎ目が切れるか」は違うなど､さまざまな論理階型の違いを学んでいく｡一通り学んだ後で､学習理論へ接続していき､さらにそこからダブルバインド理論へ接続していきたいと考える｡</p>
<p>「世界を二元化しない《精神》の定義は､どんな基準をもってすることができるのか｡」(グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』125p)</p>
<h4><span id="toc21">精神の基準リスト</span></h4>
<p>最後に､ベイトソンが考える精神の判定基準のリストを引用していく｡要するに､こうした基準をもっていれば､なんらかのシステムは精神と認められるというわけである｡たとえば思考､進化､エコロジー､生､学習などはこうした基準を満たすシステムでのみ起こるとベイトソンは考える｡それゆえに､認識論を考える前提として精神の基準リストを理解する必要がある｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「精神とは相互作用する部分(構成要素)の集まりである｡」</li>
<li class="sample">「精神の各部分間の相互作用の引き金は､差異(ちがい)によって引かれる｡」差異とは時間上にも空間上にも位置づけられない非実体的な現象である｡差異はエネルギーにではなく､負のエントロピー/エントロピーに関係する｡</li>
<li class="sample">「精神過程はエネルギー系の随伴を必要とする｡」</li>
<li class="sample">「精神過程は､再帰的(あるいはそれ以上に複雑な)決定の連鎖を必要とする」</li>
<li class="sample">「精神過程では､差異のもたらす結果を､先行する出来事の変換系(コード化されたもの)と見ることができる｡」変換のルールは比較的(すなわち変換される内容より)安定したものでなくてはならないが､それ自体変換を被ることもありうる｡</li>
<li class="sample">「変換プロセスの記述と分類は､その現象に内在する論理階型のヒエラルキーをあらわす｡」</li>
</ol>
<p>正直言って､最初にこれらのリストを単に見たとき､私には理解不能であった｡</p>
<p>そしてこのリストを一部でも理解するために､まず論理階型理論を理解しよう､というのが今回の動画の主な試みであった｡ベイトソンの主張だけでも理解できる人がいるかもしれないが､私の視点で異なる表現をすることによって､理解のボーナスが生じることを期待する｡</p>
<h2><span id="toc22">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc23">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc24">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc25">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc26">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc27">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc28">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc29">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc30">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc31">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc32">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc33">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:25:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">単純タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">単純タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">集合におけるタイプ分け</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">性質におけるタイプ分け</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0"></a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">要素の範囲の広さとタイプ分けの関連性</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">ある存在者のタイプは固定的(絶対的)か､流動的(相対的)か</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">項と述語とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">文や命題の階型はややこしい</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">個物も属性も､存在者である</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">命題は属性である</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">単純タイプ理論を用いて命題の要素をタイプ分けしてみる</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">嘘つきのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">嘘つきのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">嘘つきのパラドクスをタイプ分けする</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">嘘つきのパラドクスのタイプ分けの結論</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">嘘つきのパラドクスを分岐タイプ理論で扱うとどうなるか</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">分岐タイプ理論</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">分岐タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">ベリーのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">ベリーのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">単純タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">分岐タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">オーダーを区別することで結局なにが変わったのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">命題関数</a><ol><li><a href="#toc33" tabindex="0">命題関数とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">述語的/非述語的</a><ol><li><a href="#toc36" tabindex="0">述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">非述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">全体への量化を含む非可述的定義</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">ナポレオンの例</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">機能等価としてワクワクする世界</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc43" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc45" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">タイプ理論</span></h2>
<h3><span id="toc7">単純タイプ理論</span></h3>
<h4><span id="toc8">タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>追記:2024/07/14</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>タイプ理論</strong></span>：</big>タイプ理論は､悪循環原理に従いながらも､明らかに有意味な命題をきちんと命題として認めさせてくれる理論｡</p>
</div>
<p>たとえば悪循環原理に従うと「排中律」など大切な原理が意味をなくなるが､タイプ理論によって有意味なものとして認めることが可能になるという｡</p>
<p>タイプ理論は単純タイプ理論と､分岐タイプ理論に分かれる｡両者は共に､タイプやオーダーといった階型を導入することによって不都合を解消しようとする理論である｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:タイプ理論の説明</p>
<p>「タイプ理論は､悪循環原理に従いながらも､M2のような明らかに有意味な命題をきちんと命題として認めさせてくれる理論である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』<br />
55p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc9">単純タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>単純タイプ理論</strong></span>：</big>この世にあるもの(存在者)をすべてタイプ(階層)に分けて考える理論のこと｡</p>
</div>
<p>ベイトソンを学んでいると､ややこしい用語が出てくる｡それが「<b>タイプ</b>」と「<b>オーダー</b>」である｡この違いが私には全く理解できなかった｡</p>
<p>どちらも「階層(階級)」と日本語で表現できるものである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/5e854a370b9377bf197025f731cd7556.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3947" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/5e854a370b9377bf197025f731cd7556.png" alt="" width="277" height="234" /></a></p>
<p>ざっくりいえば使われる文脈によって階層をタイプといったりオーダーといったりしているような印象を受ける｡</p>
<p>タイプ理論ではタイプが主に扱われ､分岐タイプ理論ではタイプと､同じタイプ(階層)の中でさらに異なるオーダー(階層)が扱われるというイメージである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:単純タイプ理論の説明</p>
<p>「タイプ理論では､この世にあるものをすべて階層に分ける｡タイプ０､タイプ１､タイプ２､……というふうに｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc10">集合におけるタイプ分け</span></h4>
<p>具体例を見ていこう｡</p>
<p>最下位のタイプ０は「個物」と呼ばれ､その「個物」の集合がより上位のタイプ１､「個物」の集合の集合がより上位のタイプ２､「個物」の集合の集合の集合がより上位のタイプ３・・というように階型が上がっていく｡</p>
<p>例えば「あの紙」より「紙」のほうが階型が高い｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/239c4c71b2adcd02b24b29687452005b.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3948" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/239c4c71b2adcd02b24b29687452005b.png" alt="" width="535" height="431" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>※仮に特定の人間などを最小の個物とし､タイプ０と仮定した場合｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:集合におけるタイプ分け</p>
<p>「たとえば､あなたや私やあの犬､この猫､この机､そのボールペンなど､個物が一番低階層の『タイプ０』に属する｡次に､人類(個々の人間の集合)､犬一般(個々の犬の集合)､机一般(個々の机の集合)はひとつ上の『タイプ１』に属する｡タイプ１集合の部分集合､たとえば日本人､セントバーナード､白い机などといった集合や､合併集合､たとえば人間か犬であるものの集合､机かボールペンであるものの集合､といったようなものも､含む要素の範囲の広さが違うだけなので､同じくタイプ１に属する｡さらに､人間の集合の集合(たとえば､各国ごとの国民の集合､サッカーチームの集合､男と女という二つの要素から成る集合など)､犬の集合の集合(セントバーナード､マルチーズ､柴犬､ドーベルマンなどを要素とする『犬種』という集合)などは､タイプ２に属する｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc11">性質におけるタイプ分け</span></h4>
<p>性質とは「個物がそれを持つかどうか問うことが意味をなすような属性」を意味する｡最下位のタイプ０である「個物」よりも､「個物がもつ属性である性質」のほうがタイプが上位である(タイプ１)｡</p>
<p>例:「赤い」という性質は､「赤い個物の集合」と同じレベルに位置している｡「あの紙」よりも「赤い」のほうが階型が高い｡では属性同士のタイプはどうなっているのか､という問題があるだろう｡この問題は後で扱う｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3949" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994-800x458.png" alt="" width="564" height="323" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994-800x458.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/dfc943e2bc43a823c3ad359164925994.png 821w" sizes="(max-width: 564px) 100vw, 564px" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<h4><span id="toc12"></span></h4>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:性質におけるタイプ分け</p>
<p>「集合についていま述べたタイプ分けは､性質についてもあてはまる｡まず､『赤い』『熱い』『大きい』『勇敢である』のような､個物にあてはまる性質(つまり､個物がそれを持つかどうか問うことが意味をなすような属性)はタイプ１である｡なぜなら､個物がタイプ０であり､赤い個物の集合はタイプ１であって､『赤い』という性質は赤い個物の集合と同じレベルに位置しているはずだからである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,58p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc13">要素の範囲の広さとタイプ分けの関連性</span></h4>
<p>【ポイント】<b>含む要素の範囲の広さが違うことが論理階型の違いをあらわすわけではない</b></p>
<p>たとえば人類という集合も､日本人という集合も､犬という集合も､セントバーナードという集合も同じタイプ１に属すると<span style="text-decoration: underline;">考えることができる</span>｡</p>
<p>比喩的にいえば横の広さではなく､縦の長さが重要になるということだろう｡要素の集合よりも､要素の集合からなる集合のほうが論理階型が高い｡</p>
<p>たとえば日本人のほうが､(たとえば東京都にある)サッカーチームという複数の集合からなる集合より人数は多く､(横の)範囲は広そうだ｡</p>
<p>いやいやそもそも人間も原子の集合であり・・いや細胞の・・・と言い出すこともできるかもしれない｡つまり､<b>同じような概念でも集合の定義次第で論理階型の高低が変化する</b>｡</p>
<p>どのようなタイプとみなすかは人それぞれ､というわけではない｡一定のルールがある｡しかしどこまでをクラスのサブクラス､あるいは個物と表現するかについては表現者の状況によるのだろう｡</p>
<p>原子や細胞レベルまで考える必要がない､という合理的な理由があればそれらをわざわざ一番低いタイプと明記して分析をする必要がないのではないだろうか｡</p>
<p>食べ物のサブクラスに果物､甘いもの､リンゴを置くのではなく､いきなりそのリンゴを置くというように表現(定義)することも可能だったことと似ている｡</p>
<p>しかしサッカーチームと日本人は同じ論理階型であり､日本人よりも複数のサッカーチームからなる集合のほうが論理階型が高い｡これを抽象化すれば､集合よりも､集合の集合のほうが論理階型が高い｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:含む要素の範囲の広さが違うこと</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,55p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">ある存在者のタイプは固定的(絶対的)か､流動的(相対的)か</span></h4>
<p>ある存在がどのタイプかというのは絶対的で固定的なものではなく､相対的で流動的なものということになる｡</p>
<p>純粋な数理論理学からすれば､そんなものは知ったことではないとなるのかもしれない｡</p>
<p>例えばリンゴと日本人のどちらが論理階型が高いのか､と問われれば難しいだろう｡リンゴをあのリンゴなどの個物からなる集合､日本人をあの田中さんなどの個物からなる集合と安直に定義すれば､論理階型は同じとなる｡</p>
<p>論理学においては絶対的なルールがある｡それは要素よりも集合が､集合よりも集合の集合のほうが論理階型が高いというルールである｡論理学は具体的な内容を扱うというよりも､形式を扱う学問である｡</p>
<p>三浦俊彦さんの説明では「<b>タイプ理論の骨子は､さまざまな存在者を相対的に異なったタイプに分離することなので､特定のタイプの絶対的な順位を突き詰めることは重要でない</b>」とある｡</p>
<p>日本人や人類という概念をどのように考えるか､というのは論理学の範囲ではないのだろう｡「要素(個物)の集合」と「要素の集合の集合」という抽象的なクラスを比べた場合､必然的に後者のほうがタイプが高い､「項」よりも「属性」のほうがタイプが高い､論理階型の特定の組み合わせはナンセンスだといったことがとりあえずは重要なようである｡</p>
<p>追記:2024/07/14</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>体系的あいまいさ</strong></span>：</big>・論理学､そして日常言語の多くの文が､実は別々のタイプに属する多数の命題を一挙に述べているだけで､どのタイプに属しているかが曖昧だという事態のこと｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:タイプは相対的､体系的曖昧さ</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,61p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">項と述語とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>ラッセルは項と述語を以下のように定義している｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>項</strong></span>：</big>タイプにかかわらず個物のようにふるまうもの</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語</strong></span>：</big>項の持つ属性のようにふるまうもの</p>
</div>
<p>【ポイント】<span style="color: #0000ff;"><strong>項や述語のタイプは文によって変わる </strong></span></p>
<p>三浦さんの例では「たとえば『地球は青い』と言えば項は地球､述語は青だが､『青は色である』と言えば青は項として登場してくることになる｡項のタイプは､文によって変わってよい｡」という｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:項と述語の違い､流動性<br />
「『個物』『属性』という言葉は､それぞれタイプ０､１に固定された存在者を指すように受け取られるが､相対的なタイプ差だけを示すためにラッセルは､タイプにかかわらず個物のようにふるまうものを『項』､項の持つ属性のようにふるまうものを『述語』と呼ぶ｡たとえば『地球は青い』と言えば項は地球､述語は青だが､『青は色である』と言えば青は項として登場してくることになる｡項のタイプは､文によって変わってよい｡ただし､項､述語というと言語表現そのものを指す文法用語のニュアンスがあるが､あくまでさまざまな存在者を指すので注意しなければならない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,59p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">文や命題の階型はややこしい</span></h3>
<h4><span id="toc17">個物も属性も､存在者である</span></h4>
<p>単純タイプ理論において､性質におけるタイプ分けというものを学んだ｡「個物よりも個物がもつ属性のほうがタイプが上位である」というルールである｡</p>
<p>たとえば「赤い」というのは「そのリンゴ」という個物がもつ属性であり､論理階型が１高い｡そして「赤い」は「赤い個物の集合」と論理階型が同じである｡</p>
<p>「個物」と「属性」はいずれも「<b>存在者</b>」である｡個物は具体的に存在し､属性は個物に付随する性質や特徴として抽象的に存在する｡</p>
<p>具体的にいえば「そのリンゴ」も存在者であり､「赤さ」も存在者である｡しかしこれらは「個物」と「属性」に区分して考えることができる｡それではペガサスという名前に対応する存在者は？という問題になると､フッサールの「無対象表象問題」とつながっていくので面白い(詳細はフッサール第一回の動画で説明)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<h4><span id="toc18">命題は属性である</span></h4>
<p>「存在者」を文章や命題によって表現する場合､話が複雑になってくる｡</p>
<p>まず大前提として､「<b>命題</b>」は個物ではなく､属性である｡つまり抽象的な存在である｡「S(主語)はP(述語)である」というのが基本的な命題である｡</p>
<p>具体的にいえば､「このリンゴは赤い」は命題であり､このリンゴは主語であり､赤いは述語である｡</p>
<p>三浦さんは「<b>命題とは､現実世界を項とする属性として解釈できる</b>」と説明している｡ここでいう現実世界とはナポレオン&#x1f9cd;であったり､りんご&#x1f34e;であったり､あるいは赤さ&#x1f534;や果物&#x1f9fa;などを意味する｡つまり､あらゆる「存在者」を意味する｡「指示対象」ともいえるかもしれない｡</p>
<p>ということは､命題全体が指示するような「<b>事態</b>」もなんらかの意味で存在するのだろう｡このあたりはフッサールと関連が深そうだ｡ただし､ラッセルが事態についてどう考えていたか私にはよくわからないので､省略する｡「<b>命題関数</b>」などと関係がありそうな話だが､まずは保留する(後で少しだけ扱う)｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">「このリンゴは赤い」は命題であり､属性である</li>
<li class="sample">「このりんご」は「主語(項)」であり､属性である｡</li>
<li class="sample">「赤い」は「述語」であり､属性である｡</li>
</ol>
<p>このように､命題も属性であり､それぞれのパーツも属性であると言える｡</p>
<p>要するに､命題も主語も述語も「指示(表現)」に過ぎず､「指示対象そのもの」ではない｡「このリンゴ」は指示であり､眼の前にある&#x1f34e;は「指示対象」である｡もちろん､&#x1f34e;一般のような直接には目に見えない抽象的存在であれ､存在するのであり､指示対象になりうる｡</p>
<p>そして指示において､何が主語であるか､述語であるかは流動的である｡たとえば「地球は青い」ともいえるし､「青は色である」ともいえる｡それゆえに､「青い」という指示が固定的に「述語」として振る舞うわけではなく､「項」として振る舞うこともある｡要するに､同じ存在者を主語として扱ったり述語として扱っている｡</p>
<p>「このリンゴは赤い」という文章において､「このリンゴ」は個体のようにふるまうので「項」である｡つまり主語である｡「赤い」は属性のようにふるまうので「述語」である｡</p>
<p>しかし､「このリンゴ」という表現(指示)は個体ではない｡あくまで個体として振る舞っているに過ぎない｡たとえばメニューと実際の料理が違うのと似ている｡もしこれらを同じ次元で同一視すれば論理階型の混同になる｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:命題のタイプについて<br />
「前章で､排中律に則して『命題の階層』を見たが､ここで改めて正確に言い直すと､命題の階層は､実はオーダーである｡命題とは､現実世界を項とする属性､として解釈できるからだ｡命題『人間は死ぬ』は､現実世界にあてはまる述語的属性である｡命題『人間は死ぬというのは真である(真なる命題すべての中に『人間は死ぬ』が含まれる)』は､第２オーダーの属性である｡……等々｡どの命題も､同じ現実世界を項とする属性なので､命題にタイプの区別はないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,80p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc19">単純タイプ理論を用いて命題の要素をタイプ分けしてみる</span></h4>
<p>単純タイプ理論のみを用いて区別してみよう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/8e1a844ff3fd47a24732fca1364021ec.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3951" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/8e1a844ff3fd47a24732fca1364021ec.png" alt="" width="411" height="350" /></a>この&#x1f34e;は個物であり､タイプ０である｡「このリンゴ」は「個物を指示する表現」であり､タイプ１である｡&#x1f534;(赤さ)は属性であり､タイプ１である｡「赤さ」は「属性を指示する表現」であり､タイプ２である｡</p>
<p>ここで困るのは､<span style="color: #ff0000;"><strong>命題をいかなるタイプにするべきか</strong></span>という点である｡私はタイプ３になるかと思っていたが､どうやら単純タイプ理論ではそうではないらしい｡</p>
<p>まず､「赤い」がタイプ２なのはタイプ１への言及だからである(タイプ１という項がタイプ２という述語をもち､述語の方が階型が高くなければならない)｡仮に「このリンゴは赤い」という命題がタイプ２よりも上位なら､タイプ２自体への言及がどこかに含まれている必要がある｡もし命題が項であるなら､いずれかの「存在者(指示対象)」への指示であり､このいずれかの存在の階型がポイントとなるだろう｡</p>
<p>純粋に､現実の存在である赤さがタイプ１であり､このリンゴがタイプ０なので､それらへの言及と考えてタイプ２と考えてもいいかもしれない｡あるいは命題内のパーツで一番高いタイプが２だから､という理由付けも考えたが､すこしスッキリしない｡</p>
<p>タイプ１とタイプ０の関係をあらわす関数として､タイプを１高くすると考えればタイプ２だというのは少しスッキリする｡あるいはタイプ０とタイプ１からなる「事態」なるものが実在すると考え､この実在をタイプ２に置けば事情は変わるのかもしれない(これだとタイプ３になってしまうが)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4e653081d2e769d6acbbdc5d8a92bc43.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3952" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4e653081d2e769d6acbbdc5d8a92bc43.png" alt="" width="437" height="269" /></a>「AはBである」に対してさらに何か言及があるとすれば､その言及はタイプ３となる｡つまり､「真である」はタイプ３となる｡</p>
<p>たとえば「この林檎は赤い」という命題がタイプ２であるとすれば､『「このリンゴは赤い」は真である』という命題と「真である」という属性はタイプ３となる｡</p>
<p>三浦さんはある場所で「正確には､命題の階層はタイプではなくオーダーに属するが､説明の都合上､真理を項-述語関係でシュミレートして､当面はタイプとして扱わせていただく」と説明している｡</p>
<p>ここが頭が混乱するポイントなのだが､いったいどういうことか｡そもそも意味論的パラドクスは単純タイプ理論では解決できないから､分岐タイプ理論が必要になったという理解を私はしていた｡ということは､三浦さんは実質的には分岐タイプ理論で説明しているが､単純タイプ理論風に記述しているということか､あるいはたまたま単純タイプ理論でも解決できるような単純な意味論的パラドクスなのか｡まずは三浦さんがシュミレートしたという「嘘つきのパラドクス」を見ていこう｡その後で､分岐タイプ理論でも説明してみよう｡</p>
<p>追記(2024/07/14):「私はタイプ３になるかと思っていたが､どうやら単純タイプ理論ではそうではないらしい」というのは､三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分けに(単純タイプ理論)おいて､タイプ１に「この文」が､タイプ２に「この文は真である」が置かれていたからである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分け<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,60p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">嘘つきのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc21">嘘つきのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>たとえば「この文は偽である」というような嘘つきのパラドクスを考えてみる｡もしこの文(「この文は偽である」)が偽であった場合､「この文は偽ではない」ということになる｡つまり､この文は正しい(真である)｡この文が正しい場合､「この文は偽である」ということになる｡</p>
<p>つまり､「この文は偽ではない」と同時に「この文は偽である」というパラドクスが生じてしまっている｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6ab1a7e1b3ade68f6d18cfa2c8a90615.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3953" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6ab1a7e1b3ade68f6d18cfa2c8a90615.png" alt="" width="500" height="366" /></a>たとえば近くに手紙があるというような状況で「この文は偽である」と言われた場合､我々は偏屈でもない限り､それが指示している特定の文章が偽のことを書いてあるんだな､と思うだろう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4586e99fa4d7dd76b91f829adc9a7e34.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3954" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4586e99fa4d7dd76b91f829adc9a7e34.png" alt="" width="501" height="147" /></a>イメージとしてはこれら２つの反応のうち､どちらかになる｡</p>
<h4><span id="toc22">嘘つきのパラドクスをタイプ分けする</span></h4>
<p>「この文」は個物のようにふるまうので項(主語)であり､「偽である」は属性のようにふるまうので述語である｡</p>
<p>従って､「この文」をタイプ１とすれば､「偽である」はタイプ２となる｡ここまではいい｡では､上記のように考えると「この文は偽である」という命題(項)はタイプいくつか｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e71526d0038178aa0dae14cb3409c51a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3955" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e71526d0038178aa0dae14cb3409c51a.png" alt="" width="554" height="336" /></a>結論から言うと､先ほど検討したように「この文は偽である」という命題(項)のタイプは２である｡</p>
<p>なぜなら､この命題は「この文(個物)」というタイプ０と「偽である(属性)」というタイプ１の関係からなる､より上位のタイプ１の項目であると仮定することができるからである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6290a1a4c26674bd843fad25e6ac99a8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3956" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/6290a1a4c26674bd843fad25e6ac99a8.png" alt="" width="480" height="452" /></a>図にするとこのようになる｡</p>
<p>タイプ３の「偽である」とタイプ２の「偽である」は一見､同じ属性に見える｡しかしその属性を持つ項のタイプが違う｡</p>
<p>タイプ２の場合はタイプ１の性質であるから+１されたものとなり､タイプ３の場合はタイプ２の性質であるから+１されたものとなるという違いがある｡</p>
<h4><span id="toc23">嘘つきのパラドクスのタイプ分けの結論</span></h4>
<p>「この文は偽である」という文章を解体とすると「この文」(タイプ１､項)と「偽である」(タイプ２､述語)となる｡従って､「偽である」という性質はタイプ１の項に対して向っている｡</p>
<p>タイプ２の「偽である」が､タイプ２である「この文は偽である」という項の性質となることはできない｡もしそれが可能ならパラドクスになりうるが､しかしタイプ理論により､同じタイプ同士では主語述語関係を結ぶことはできず､無意味な文章となる｡AはBであるといっているのに､勝手にA+BはCであると解釈してはならない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f8d1bc559b42b162143a21fcbbf1f8f2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3957" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f8d1bc559b42b162143a21fcbbf1f8f2.png" alt="" width="649" height="624" /></a></p>
<p>「この文は偽である」という文章は､「(タイプ１に属する)この文は､偽である」と読み替えることができる｡</p>
<p>つまり､階型を限定する､はっきりさせるというテクニックによってパラドクスが解消される｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:三浦さんの嘘つきのパラドクスにおけるタイプ分け<br />
「しかしタイプ理論では､『この文は偽である』の中の『この文』がLのことだとしたら､『この文は偽である』全体はLを指すことができない｡なぜならば､述語は項よりもタイプが上なので､さ「……は偽である」という述語を『この文』という項にあてはめた結果は､必ず『この文』という項にあてはめた結果は､必ず『この文』より高いタイプとならざるをえないからである｡こうして､『Lは偽である』は､名づけるとしたらLとは別の名､たとえばL２という名で呼ばなければならない｡L２が自分自身とは別の文Lについて『Lは偽である』と述べることには､なんの矛盾もないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,60p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">嘘つきのパラドクスを分岐タイプ理論で扱うとどうなるか</span></h4>
<p>さて､問題はこれらを分岐タイプ理論で表現するとどうなるのかという点である｡分岐タイプ理論は後で扱うのだが､先取りしておく｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">分岐タイプ理論では「属性に対してオーダーを設ける」という方法をとっている｡</li>
<li class="sample">命題自体にタイプの区別はない｡<a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e6c2b6a46d7e094633efb42333caac43.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3958" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/e6c2b6a46d7e094633efb42333caac43.png" alt="" width="609" height="233" /></a></li>
</ol>
<p>例えば分岐タイプ理論で「AはBである」という命題のタイプとオーダーを考えるとする｡</p>
<p>Aは項であり､タイプ１である｡Bは述語であり､タイプ２である｡「AはBである」もタイプ２である｡ここまでは単純タイプ理論と同じである｡※現実世界のタイプ分類は省略している(タイプ０に個物､タイプ１に属性などがくる｡)</p>
<p>しかし､分岐タイプ理論では「『AはBである』はCである」という命題はタイプ３に属さない｡「AはBである」はCであるという命題は､タイプ２の､<b>第二オーダーに属する</b>｡「AはBである」という命題は､タイプ２の､<b>第一オーダーに属する</b>ことになる｡</p>
<p>では､「Cである」という属性はどこに属するのか､という疑問も生じる｡順当に考えれば､タイプ２に属するのだが､タイプ２のどこに属するのか､正直判断に困る｡私はオーダー２に置かれると考えている｡</p>
<p>CはAやB､そしてAはBであるに対する言及なので､それより高い「階層(階型)」にある必要がある｡しかし､タイプ３にくるのはおかしい｡なぜなら､タイプ２のオーダー２にCがすでにあるからである｡従って､タイプ２のオーダー２にくるのが適切である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/cb8ed4d4a996e63e6ea57feb709d6968.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3959" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/cb8ed4d4a996e63e6ea57feb709d6968.png" alt="" width="638" height="726" /></a></p>
<p>図にするとこのような違いとなる｡</p>
<p>要するに､A以外のあらゆる属性は同じタイプに位置し､そのタイプ内でオーダーが分かれるというわけである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ff25f007030315edc1f00d159507b0e1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3960" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ff25f007030315edc1f00d159507b0e1.png" alt="" width="735" height="455" /></a></p>
<p>嘘つきのパラドクスをあてはめてみると､上の図のようになるだろう｡</p>
<p>オーダー１同士で組み合わせることはできない｡したがって､「この文は偽である」という文章における「この文」が､「この文は偽である」という文を指すという解釈はできない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/acbcc75b447c78cea46940fe4d547530.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3961" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/acbcc75b447c78cea46940fe4d547530.png" alt="" width="612" height="483" /></a></p>
<p>「この文」は先程の絵で言えば､手紙に入っている文章(L１､タイプ１)であり､「この文は偽である」という文章(L2,タイプ２のオーダー1)を指すのではない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3962" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d-800x534.png" alt="" width="800" height="534" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d-800x534.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/786c9e997bd7e9536168bf204b79879d.png 842w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<p>三浦さんが単純タイプ理論でシミュレートしたという図を参考に作成し､引用しておく｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3963" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d.png" alt="" width="732" height="524" /></a></p>
<p>三浦さんは分岐タイプ理論の図の例も出しているのでこちらも引用しておく｡「ナポレオンは､偉大な将軍に必要な(第一階層の)属性をすべて持っていた」というような文のケース｡こちらは単純タイプ理論ではシミュレートできないような､複雑なケースなのだろう｡</p>
<p>ナポレオンの場合はタイプXはタイプ１であり､実在したナポレオン(現実の項)をタイプ０とすることができるのだろう｡</p>
<p>もし「将軍は､偉大な将軍に必要な・・・」と文章を変えれば､タイプXはタイプ２であり､オーダーが分かれるタイプは３であるということができる｡</p>
<p>ところで､「『AはBである』はCである」という第二オーダーの命題は､「非述語的属性」か､と私は疑問が生じる｡後で非述語的属性とは何かを考えていく｡</p>
<h3><span id="toc25">分岐タイプ理論</span></h3>
<h4><span id="toc26">分岐タイプ理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>分岐タイプ理論</strong></span>：</big>単純なタイプ理論に加えて､さらにオーダーと呼ばれる階層を導入した理論のこと｡各タイプが無数のオーダーに分かれることから分岐と呼ばれるらしい｡</p>
</div>
<p>ラッセルはなぜ新たな理論を作る必要があったのか｡単純なタイプ理論だけでは「<b>悪循環原理</b>」を実現できないからだという｡単純タイプ理論で「論理的パラドクス」は解消できたが､「意味論的パラドクス」が解消できないという問題が生じたということである｡</p>
<p>分岐タイプ理論で「意味論的パラドクス」も解消できた｡しかしさまざまな問題が生じたという(数学に制約を課しすぎるなど)｡問題の解消のため､「<b>還元公理</b>」というものをラッセルは導入する｡しかしこの公理を導入することでもさまざまな問題が生じたという(批判も多い)｡結局､ラッセルは「還元公理」を縮小する形になったいう(どういう形か､私にはよくわからない)｡</p>
<p>まずは単純タイプ理論だけでは解決できないような意味論的パラドクスとはなにか､という問題を見ていく｡</p>
<p>この問題はポアンカレによって批判されたらしい｡</p>
<p>たとえばラッセルは「<b>ベリーのパラドクス</b>」といわれている問題をとりあげている｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:分岐タイプ理論<br />
「つまりタイプ理論は､タイプとオーダーという､２つの次元に沿った階層区分を備えた体系なのである｡これまでナポレオンについて例を出してきたが､項をナポレオンではなく『将軍であること』とすれば､１タイプ上の項-属性関係が論じられ､そのタイプの中でまた､最低位オーダーの属性､次のオーダーの属性…等々が論じられることになる｡これが『分岐タイプ理論』だ｡各タイプが無数のオーダーに分かれることから､分岐と呼ばれる(逆に､各オーダーがタイプに分かれるとみなすこともできる)｡各タイプの中で､基本的な属性､つまり最もオーダーの低い属性を､ラッセルは『述語的』と名づけた｡第一オーダーの属性はすべて述語的である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,79-80p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">ベリーのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc28">ベリーのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ベリーのパラドクス</strong></span>：</big>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という数は、何文字で名付けられるか？</p>
</div>
<p>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という文章自体が十九字であり､名付けることができてしまっているという奇妙な事態をどう考えていくかが重要になる｡こういうパラドックス的な文章を考える度に私は頭がモヤモヤしてしまう｡</p>
<p>最小の自然数をaとする(このaは名前ではない)｡aは19文字以下で名付けることができないが､19文字以下で名付けることができてしまっている｡これは矛盾(パラドクス)である｡</p>
<p>「名付ける」というのは認識と対象の関係を含んだ心理的な概念であり､数学や論理学の範囲外だとラムジーに批判されていたそうだ｡こうしたパラドクスを特に「<b>意味論的パラドクス</b>」という｡嘘つきのパラドクスにおける「嘘」も同様なのだろう｡更に重要なのは､このベリーのパラドクスが単純タイプ理論によって解消できないという点である｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:ベリーのパラドクス<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,74p</p>
<p>池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」,53p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">単純タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</span></h4>
<p>(1)一九字以下で名づけられない最小の自然数の集まりは､例えばどのようなものがあるか｡たとえば３０文字で名づけられる最小の自然数があると仮定してみる｡</p>
<p>ここでは３０文字で「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」と名づけられる自然数12345678だと仮定する(適当に仮定しただけ)｡「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」は名前である｡したがって､名づけられた当の数字(自然数a)よりも論理階型が高い｡</p>
<p>(２)「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」という名前をメンバーとして持つ､クラス(集合)がある｡これが「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスである(名前ではない)｡</p>
<p>クラスはメンバーの一員となることはできない｡したがって､「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスに「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」というメンバーは入ることができるが､「一九字以下で名づけられない最小の自然数」というクラスは入ることができない｡</p>
<p>悪循環理論に反しているから自己言及的なクラスを認めない(名前の全体などというものはない)と仮定しても問題が生じる｡</p>
<p>例えば自然数aをnタイプ､「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」という名前をn+1タイプとする｡</p>
<p>そしてn+1タイプである「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち(x)」に対する言及として「(xは)一九字以下で名づけられない最小の自然数である」という述語を考える(「その名前は１９文字以下である」と限定する言及のイメージ)｡この場合､タイプn+1に対する言及なので､その言及はタイプn+2に属することになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3964" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de-800x539.png" alt="" width="800" height="539" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de-800x539.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/d7fddede11832ace2d8b9b05c62685de.png 811w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a></p>
<p>単純タイプ理論で分けて考えると､このような図になるだろう｡</p>
<p>なぜ「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という述語と､「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という項目が同じタイプn+2に位置するのか｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/24aa4512762b51e0d7b6241a9d5c764e.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3965" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/24aa4512762b51e0d7b6241a9d5c764e.png" alt="" width="614" height="284" /></a></p>
<p>AとBとCのような記号で考えるとわかりやすい｡CであるはBであるに対する言及であるから､タイプが１高い｡そして「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前はcを内部に含むものであり､cより下のタイプに属しているのはおかしい｡したがって､n+2タイプに属する｡正直このあたりの理屈はいまいちわかっていない｡</p>
<p>しかし､ここで問題が生じる｡</p>
<p><b>タイプnの自然数aに対する名前は全てタイプn+１に属するべきである</b>｡このタイプn+1を仮にm+1とする｡</p>
<p>m+1=n+1=n+2となってしまい､おかしい｡要するに､タイプnに対する言及である名前は､タイプn+1に来ているはずであるのに､タイプn+2に一部が来てしまっている｡後で検討するように､仮にn+2に属している「十九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前を､単にn+1に移動しただけでは問題は解決しない｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:タイプnの自然数aに対する名前は全てタイプn+１に属するべきである<br />
「さてしかし､ベリーのパラドクスのこの解決で用いられた『階層』の区別は､『タイプ』の区別ではないことは明らかだろう｡十九字以下で名づけられない最小の自然数をaとし(念のため､『a』は名前ではありません)､あが十九字以下で名づけられないという場合の(たとえば三十字による)名づけがタイプnにおいてだとすると､『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前は､タイプn+1に属していなければならない｡しかし､その両方ともが､同じ自然数aに対する名づけなのである(タイプnの場合は三十字の名づけ､タイプn+1の場合は十九字での名づけ)｡しかしこれはおかしい｡自然数aがタイプmの存在者だとすると､自然数aの名前は､タイプm+1であるはずだ｡すると､右の二つの名前の階層について､m+1=n+1でなければならない｡これは不合理である｡となると､名前の階層は､同じ項aよりも１タイプ上のタイプの内部で分かれているような階層でなければならない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,76p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc30">分岐タイプ理論でベリーのパラドクスを考える実験</span></h4>
<p>単純タイプ理論における問題を解消するために､分岐理論ではタイプ１の内部で階型(オーダー)を考えていく｡Cであるという述語がBであるという述語よりも<b>高いオーダー</b>であり､また「『AはBである』はCである」は「AはBである」よりも<b>高オーダー</b>であると考えていく｡</p>
<p>そうすれば､タイプnの名づけは全てタイプn+1に属するという点でスッキリする｡つまり､タイプm+1=n+1となり､不都合は生じなくなる｡こうした不都合をなくしたうえで､特定の階型に限定した言及と見なすという作業を行っていくことになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f0887dfcaefb17a45842ff7aa8f57466.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3966" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/f0887dfcaefb17a45842ff7aa8f57466.png" alt="" width="648" height="352" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ada447e13fcff877ec2641e7363f1c39.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3967" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/ada447e13fcff877ec2641e7363f1c39.png" alt="" width="644" height="364" /></a></p>
<p>・図にするとこのようなイメージとなる</p>
<p>ラッセルは『「一九字以下で名づけられない最小の自然数」は何だろう』という文章の中に､ある但し書きが常に隠れていると見なさなければならないという｡</p>
<p>但し書き:「<b>第n階層(オーダー)の名前で名づける</b>」</p>
<p>オーダーという概念を体系に導入し､このような但し書きが隠れているとみなせば､パラドクスは解決する｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:第n階層(オーダー)の名前で名づける<br />
「『プリンキピア』でのラッセルの診断はこうである｡『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前は､『名づけられる』という限定によって､名前でありうるものの全体に暗に言及している｡しかし自分自身がその全体の一要素なので､悪循環原理に違反している｡よって､名前の全体などというものはないのであり､いろいろな名前は階層に分かれているとしなければならない｡つまり､『第n階の名前で名づけうる』というような但し書きが常に隠れていると見なさねばならない｡そうすれば､『十九字以下で名づけられない最小の自然数』という名前そのものは､『名づけられない』とされた範囲外の一階層上の名前なので､それ自体が十九字以下であっても､その名の指定する性格づけとは矛盾は生じないのである｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,74-75p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc31">オーダーを区別することで結局なにが変わったのか</span></h4>
<p>『「<b>(n+1オーダーの名前で名づける)一九字以下で名づけられない最小の自然数」は何だろうか</b>』と解釈できるようになったのである｡</p>
<p>n+1の名前は(例えば)「せんにひゃくさんじゅうよんまんごせんろっぴゃくななじゅうはち」が選ばれることになる｡「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という名前がより上の階層の名前となり､選ばれる範囲に含まれなくなる｡これでパラドクスが解消されるというわけである｡</p>
<p>両方の範囲が同時に選ばれうるような理論だと､問題が生じてしまう｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/9b86f8e54b15128e896dcf98eb365029.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3968" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/9b86f8e54b15128e896dcf98eb365029.png" alt="" width="569" height="402" /></a>例えばこのように単純タイプ理論で考えてしまうと､確かに名前はn+1の階層で全て収まっている｡しかし１９文字以下であり､かつ２０文字以上である(１９文字以下ではない)名前で名づけられる自然数aというものが存在することになってしまう｡そんな自然数aは､おそらくないだろう｡</p>
<h3><span id="toc32">命題関数</span></h3>
<h4><span id="toc33">命題関数とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>属性</strong></span>：</big>個物にあてはまる性質のこと｡</p>
</div>
<p>属性は「<b>１項関係</b>」とも呼ばれる｡</p>
<p>たとえば「あの空は青い」というときの「あの空」は個物を名指すもの(項,主語)であり､「青い」は属性を名指すもの(述語)である｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>命題関数</strong></span>：</big>「xは青い」というような変項(空欄)を含む枠組みのこと｡</p>
</div>
<p>「xは青い」というような変項(空欄)を含む枠組みをラッセルは「<b>命題関数</b>」と呼ぶ｡</p>
<p>「あの空は青い」というように､変項に具体的な個物を代入すれば「<b>命題</b>」(真偽が判定可能な文)となるからである｡</p>
<p>事態と命題関数､そして命題との関連性はよくわからない｡今回はあまり触れない｡</p>
<p>「xはyよりも青い」という文章では変項が２つある｡この場合は「２項関係」となる｡変項が１つの場合をラッセルは属性ではなく「１項関係」と呼んでいる理由は､<b>ラッセルが属性よりも関係を命題関数の本性だと考えた</b>からだそうだ｡</p>
<p>２項以上の関係は､それぞれの属性間の関連性を示すという点が重要となるのだろう｡「xとyは青い」は２項以上だが､しかし実際は「xは青い」､「yは青い」と言っているに過ぎないのだろう｡「xよりyのほうが青い」という場合は､さきほどのような分割はしにくい｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:命題関数</p>
<p>「『xは死ぬ』『xは人間である』『xはyの父親である』『xはyにzを与えた』のように､空欄(変項)を含む枠組みを､ラッセルは『命題関数』と名づけた｡変項に具体物(項)を代入すれば命題となるので､項から命題への関数､とうわけである｡変項が一つの場合を『属性』と呼び､n個以上の場合を『n項関係』と呼ぶのが普通だが､総括的に捉えるためにラッセルは属性を『１項関係』と見なし､属性よりも関係こそが命題関数の本性だと考えた｡」</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,66p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc34">我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</span></h4>
<p>たとえば「このリンゴは赤い」というのは命題である｡その命題を生み出したであろう「<b>なにか</b>」が眼の前にほんとうにあるのか｡「このリンゴ」という属性(項)だけにしぼったとしてもやはりそれを生み出した「なにか(個物)」､「<b>それ</b>」があるのか｡「このリンゴは赤い」から「このリンゴ」を抽出する作業は全体から引き算をしてなにかをとりだすようなイメージなのかもしれない｡<b>我々が名付ける前にはどのような世界が広がっているのか</b>｡ラッセルはこれに関して「<b>センスデータ</b>」を語るのだが､今回は省略する｡</p>
<p>これはフッサールの「感覚与件の謎」ともつながる､思ったより深い問題(存在論)なのだろう｡ハイデガーならそれは学問の対象にすることが難しい､贈与されたものだというかもしれない｡ベイトソン的にいえばなんら体系をもたない､関係しないような独立した個物のようなものを想定することは難しいというのだろう｡差異がなければ我々に情報として届かず､差異は２つ以上の個物の関係から生じるからである｡</p>
<h3><span id="toc35">述語的/非述語的</span></h3>
<h4><span id="toc36">述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>項</strong></span>：</big>個物のようにふるまうもの｡例:あの犬､犬､私､あなた､われわれなど｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語</strong></span>：</big>項の持つ属性のようにふるまうもの｡赤い､勇気があるなど｡</p>
</div>
<p>文章において何が項になるのか､述語になるのかは固定的ではなく､流動的であることを学んだ｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>述語的属性</strong></span>：</big>各タイプの中で最もオーダーの低い属性のこと｡</p>
</div>
<p>・基本的な属性であり､「可述的」と表現されることもある｡</p>
<p>例:赤い､人間である､美しいなど｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:述語的属性</p>
<p>「ナポレオンについていえば､述語的属性とは､『頑固である』『人間である』『癌で死んだ』等々､私たちが基本的と認める『普通の性質』のことだ｡先ほどの､『偉大な将軍に必要に必要な属性をすべて持っていた』のような､オーダーの高い属性は､いかにも普通ではない､基本的ではない属性のように思われるだろう｡そういう属性は『非述語的』である｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>「しかしたいていの非述語的属性は､述語的属性に還元されたとき､その表現法は､日常言語の表現とは似ても似つかぬものになっていなければならない｡一般には､多くの述語的属性の複雑な組み合わせ(先ほどのGのような)によって表現されなければならないことになるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc37">非述語的属性とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>非述語的属性</strong></span>：</big>「すべての属性」になんらかの形で言及した､述語的属性に還元しにくい属性のこと｡</p>
</div>
<p>基本的ではない属性であり､「非可述的」と表現される｡たいていの非述語的属性は､述語的属性に還元されたときに､日常言語の表現とは似ても似つかぬものになっている｡</p>
<p>例:「全ての人間のうち半分」､「すくなくとも果物の中のひとつ」､「典型的な赤さ」､「全ての属性をもつ」､「宇宙の全ての個別的事実」</p>
<p>例えば「全ての属性をもつ」は､「すべての属性をもつ」という属性をもつことになり､自己言及的なので非述語的属性に分類されている｡</p>
<p>「宇宙の全ての個別的事実」という個別的事実もその中に含まれていることになり､自己言及的なので非述語的属性である｡これらのケースは果物のクラスに果物というメンバーが含まれてはならない､というケースとはすこし違うという点に注意する必要がありそうだ｡</p>
<p>このように､「全ての属性」に言及していることが重要になっていきそうだ｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:非述語的属性<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,81p</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,84p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc38">全体への量化を含む非可述的定義</span></h4>
<p>非可述的属性は「<b>全体への量化を含む非可述的定義</b>」というように難しい言葉で表現されることがある｡「<b>量化</b>」とは一般に､論理式が適用される領域の個体の量を指定することらしい｡</p>
<p>量化だからといって全体へと言及しているとは限らないか､私にはよくわからない｡たとえば「１０個のうち､いくつかリンゴがある」という言い方は全体への量化を含んでいそうだが､「そのリンゴがひとつある」という命題は量化を含むが､全体への量化を含んでいなさそうである｡では､「そのひとつのxは典型的な赤いリンゴである」と表現しなおすとどうか､など様々な困惑はあるが､ひとまずそのように整理できそうだ｡</p>
<p>たとえば「<b>量化詞</b>」として「全ての」や「少なくとも１つの」､「ほとんどの」､「誰かが」､「誰もが」というような範囲を限定するような言葉がある｡これらの量化詞は､「全体への量化を含む」､つまり「<b>全体に言及する量化詞</b>」といえそうである｡</p>
<p>「典型的な」という言葉も「全体と多くの属性を共有している」と言い換えれば非可述的属性に近づいているとわかる｡言葉には隠れた､あるいは省略された要素があると考えると､複雑になっていくように感じる｡</p>
<p>「この世にある全ての人間のうち､すくなくとも一人は私だ」などという言葉ならわかりやすい｡</p>
<p>しかし､「すくなくともひとつは私の物だ」という場合はどうか｡通常は「そのひとつ以外の他のもの」があるという前提であり､それらの全体があるという前提で言及されていそうだ｡つまり､「そこにある全ての物のうち､すくなくともひとつは」というような全体への量化が含まれていそうだ｡</p>
<p>例えば「全てのリンゴ」を具体的に日常言語に置き換えるのは困難だろう｡「家にある全てのリンゴ」とより限定すればどうだろうか｡しかしリンゴが何を意味しているのか､あるいは家は何を意味しているのだろうか｡これでは曖昧である｡世界中の家かもしれないし､リンゴの絵も含まれるかもしれない｡「全てのリンゴ」はあのりんごと､そのリンゴと､近所のリンゴと､・・・と無限に足していった先の集合を表すような表現だろうか｡ものすごく限定すればたしかに可述的にはなりそうなイメージはあるが､いったいどのような限定をすれば適切なのだろうか｡</p>
<p>「少なくとも1つの属性」なども同様に難しそうだ｡オーダーを分けない場合は､「偉大な将軍に必要な属性」のうち､「少なくとも1つの属性」の中に「偉大な将軍に必要な属性」が入りかねない｡一つと言いながら､全ての属性をもっているという怪しい文章となる｡その場合は､第nオーダーの､と但し書きがあるとみればいいことを学んだ｡</p>
<p>たとえばベリーのパラドクスは「１９文字以内で名づけられない自然数の集合全体」への量化を含んでいるという｡このように考えていくと､「<b>オーダーとは命題関数に含まれる量化を反映して設けられる階層のことである</b>」という初見では意味不明な難しい表現もすこし理解することができる｡全体への量化を含んでそうな場合は高オーダー､含んでいなそうなら低オーダーと区別していくイメージである｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:全体への量化を含む非可述的定義</p>
<p>「ラッセルは、論理学の公理ではないこの原理を論理的に実装すべく、オーダーの理論を整備し、タイプ理論を意味論的パラドクスの生じないものとした。オーダーとは、命題関数に含まれる量化を反映して設けられる階層のことである。こうして作られた分岐タイプ理論では、オーダーnの命題関数への量化を含む命題関数のオーダーは、n+1になるとされる。よって、あるオーダーの命題関数全体に対する量化を含む命題関数は、それらよりも高いオーダーを持つ。先のベリーのパラドクスでは、自然数nのオーダーと名前(＊)のオーダーが区別され、意味論的パラドクスは解消される(Whitehead&amp;Russell(1927)訳者「解説」および戸田山(2007)を参照)」<br />
池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」53p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc39">ナポレオンの例</span></h4>
<p>「一九字以下で名づけられない最小の自然数」という例が私には数学的でイメージしにくい｡私の場合は三浦さんのナポレオンの例でより鮮明に理解することができた｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍に必要な全ての属性」は全体の量化を含んでいる｡なぜなら､「全て」という量化詞が使われているからである｡さらに､「偉大な将軍に必要な全ての属性」も属性であり､必要な属性であると考えると､自己言及的である｡</p>
<p>「偉大な将軍に必要なのは勇敢さだ」という文章では､「勇敢さ」に限定されているため､全体の量化を含んでいないのだろう｡とはいえ､例えば「勇敢さ」や「偉大な」､「必要な」､等々が「典型的な〇〇」の省略された形とみれば､非述語的属性をもってきそうだが､ここでは検討しないでおく｡しかしそうしたことを言い出すと「典型」ではない「完全な形」で言及することは難しいなと思ってしまう｡私はある単語に対して適当な､それこそ普通はこういう意味だろう､こういう要素を満たしていればOKだろうというような曖昧な使い方を普段しているからだ｡</p>
<p>「偉大な将軍に必要な全ての属性」というのがオーダーが高いというのは何となく理解できる｡</p>
<p>たとえば勇敢である､賢い､好色であるというような属性をあるタイプの中で最も低い属性=「可述的属性」だと仮定する｡</p>
<p>そうした列挙しうる属性を全て含んでいるような属性は､オーダーが高く､非可述的である｡たとえばみかんよりも果物のほうがタイプが高いと考える単純タイプ理論と類比的に考えると､すこしわかりやすい｡</p>
<p>たとえば三浦さんは「<b>…性質を共有する</b>」というような言い方は「非述語的属性」だという｡なぜなら､<b>属性の全てに言及している</b>からだという｡「首都に必要な属性を少なくとも一つ持つ街に住む」なども非述語的属性を含んでいることになる｡「首都に必要な属性全て」に言及した言い方だからである｡</p>
<p>たとえば「偉大な将軍が必ずもつ属性のうち､少なくとも一つ持つ」という言い方をするとする｡これは「偉大な将軍が必ずもつ属性」という「全て」の属性にたしかに言及している｡そして具体的にどの属性かは言及されていない｡この高いオーダーだけの文章では､最も低いオーダーの属性がどれであるかは読み取ることができない｡つまり､可述的属性が特定されていない｡これも非可述的と表現できるのかもしれない｡</p>
<p>発言した本人の頭ではわかっているのかもしれないが､文章の中では読み取ることができず､可述的属性に還元することは難しい｡</p>
<p>AもしくはBもしくはCもしくはDもしくは・・と無限に続くような形なら可述的属性に還元することはできそうだが､日常言語で表現できそうにない､という意味で非可述的である｡そもそもそのように還元するためには本人が考えている集合全体が分かっているというような前提があるのではないかという疑問が生じるが､しかしここではあまり考えないでおくことにする｡このあたりはアプリオリに概念の本質がある､というような話と関連してくるのかもしれない(フッサールの本質直観へと接続する話)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d-1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3969" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/85539256848f7e2c228a1b28f4bfc30d-1.png" alt="" width="732" height="524" /></a></p>
<p>以前､引用した図がこちら</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:ナポレオンの例<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,78-79p</p>
<p>キーワード:「…性質を共有する」</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,86-87p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc40">機能等価としてワクワクする世界</span></h4>
<p>われわれがいちいち具体的に還元して表現しないのは､困難であり､不便だからだろう｡曖昧に高オーダーを使ったほうが楽なのだ｡</p>
<p>実生活ではそれでもいいかもしれないが､しかし高オーダーばかり着目していて低オーダーの違いを軽視すると､学問上の問題が起きる｡社会学者のマートンが､マンハイムの概念が明確ではないと批判していたことと重なってくる｡仮説で最もらしいことを言っていたとしても､概念がルーズに使われている場合､仮説も結局はルーズになってしまうのであり､「分かった気になってしまう」のである｡</p>
<p>私が社会学や哲学を学んでいて思うことは､私が「分かった気になってしまう」という連続であるということだ｡「厳密に､それがどういう意味なのか具体的に､可述的属性に還元してください」と言われた場合､私はおそらく答えられないものが多いだろう｡曖昧に理解しているからである｡そもそも曖昧に説明されているからだ､という問題も一部あるかもしれないが､こういう視点が重要だという点は理解していくべきだろう｡</p>
<p>ベイトソン的な文脈で言えば両者を混同すると実生活において「病気」になるケースもある｡ユーモアにおいて意図的に混同するようなケースと違って､混同が当たり前となるような日常であり､本人は混同していると思っていないようなケースだろう｡たとえばアスペルガー症候群が相手の比喩を比喩だと受け取れないというケースを考えればわかりやすい(これは比喩だ､という言外のメッセージは論理階型(オーダー)がひとつ上のメタメッセージである)｡</p>
<p>ベイトソンの文脈で言えばこうした論理階型の混同は先天的な遺伝と後天的な環境の両方が関係しているという点がポイントなのだろう｡示唆的にポイントをとりあげるとすれば､「ある人物に論理階型を混同<span style="text-decoration: underline;">せざるをえなくさせた</span>家庭環境とは？」という視点だろう｡</p>
<p>ここからが個人的に面白い｡社会学においてマートンやルーマンの「<b>機能等価</b>」で感じたようなワクワクがここにはある｡学問は面白いと感じる瞬間である｡ドアを開いて異なる世界に行って覗き見るような､そういう驚きがある｡それこそトランスコンテクスチュアルな状況であり､文脈を変えてある要素を解釈していくような連続である｡ドアをたくさん開くための大事なコード(鍵)だなと思う瞬間である｡</p>
<p>たとえば「美しい」とか「偉大である」というような普通の属性(可述的属性)すら､実は非可述的属性を省略形で述べたものである可能性が高いという｡</p>
<p>たとえば「この絵は美しい」と表現する時､「美しいというような理想型と多くの性質を共有する」という意味合いなのかもしれない｡</p>
<p>この高いオーダーでは具体的にどの属性をもっているのかがわからない｡「美しい絵が必ずもつ全ての属性」のうち､いったいどれだけ多くの具体的な属性をもっていれば我々は美しいと表現するのだろうか｡これは美学の動画で扱ったC.アレグザンダーの美学にもつながる視点である｡ちょうどアレグザンダーが「<b>名付けえぬ質</b>」と呼んでいたものが､「非可述的属性」とリンクして面白い｡」</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3970" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg" alt="" width="512" height="510" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9.jpg 512w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9-60x60.jpg 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/1de7d8f3585a549cb5cae1ebaa8cf6b9-120x120.jpg 120w" sizes="(max-width: 512px) 100vw, 512px" /></a>私はモネのある絵がとても美しいと思うのだが､しかしあらゆる美しさの全てが当てはまるかというと､そうではないとも思ってしまう｡そもそもあらゆる美しさを私は言語化できない｡</p>
<p>「等価のものがあるという視点」は「<b>還元公理</b>」というものが関連してくるので､最後に取り上げることにする(後編の記事になります)｡</p>
<blockquote>
<p>・特に参考にしたページ<br />
キーワード:非述語的属性の省略形<br />
「実際､『美しい』とか『偉大である』とか『健康である』のような普通の属性ですら､実は『理想型と多くの性質を共有する』のような非述語的属性を省略形で述べたものである可能性が高い｡述語的な属性に還元してから論じないと､頓珍漢な議論になったり､愚かな結論が導かれたりしかねない｡還元公理は､すべての哲学的議論で自覚されているべき仮定なのだ｡つまり､高オーダーの属性の存在を不要として見過ごすのではなく､その流通の現状をまず認めた上で､述語的属性への還元に備えねばならないということである｡右に見た『……性質を共有する』といった非述語的属性にちなんで､後期ウィトゲンシュタインの『家族的類似』を思い浮かべた人もいるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,87p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc41">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc42">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc43">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc44">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc45">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc46">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc47">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc48">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc49">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc50">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc51">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc52">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 14 Jul 2024 12:21:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[バートランド・ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[創造認識学]]></category>
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					<description><![CDATA[「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)の記事です]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-3" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-3">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前提の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">記事の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">ラッセルのパラドックス</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">基本方針</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">論理階型理論</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">論理階型理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">悪循環原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">クラスとメンバー(基礎知識)</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">クラスとメンバーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">何がクラスで､なにがメンバーかは絶対的ではなく相対的？</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">ラッセルのパラドクス</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">パラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">ラッセルのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">純粋なラッセルのパラドクスの例(論理的パラドクス)</a></li></ol></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">床屋のパラドクス</a><ol><li><a href="#toc19" tabindex="0">床屋のパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">ルール１､「自分自身を含む要素全体の集合」を集合と認めない</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">R = { | ∈ }</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">論点先取り､循環論法に陥ることもパラドクス？</a></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">ルール２､「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を集合と認めない</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">R = { | ∉ }</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">R = { | ∉ }はそれ単体ではおかしくない？</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">ルール１だけを守ったとしても､矛盾が生じてしまうケース</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">【疑問】直接的に含む､間接的に含む？</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc30" tabindex="0">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/9y7zPGI0Fmo?si=sgJ-MsIlYmsWs9KB" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">バートランド・ラッセルとは、プロフィール</span></h3>
<p style="text-align: center;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3981" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg" alt="" width="163" height="230" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda-568x800.jpg 568w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/800px-Bertrand_Russell_croppeda.jpg 800w" sizes="(max-width: 163px) 100vw, 163px" /></a>(パブリックドメイン,<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bertrand_Russell_cropped.jpg">出典</a>)</p>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)はイギリスの哲学者であり､論理学者｡十九世紀末のイギリス経験論の断絶期に経験論を復興し､二十世紀初頭に集合論のパラドクスを発見して「数学の危機」をもたらし､その解決と「数学の論理学への還元」を目指した『プリンキピア・マテマティカ』を著したことで知られている｡</p>
<h3><span id="toc4">前提の記事</span></h3>
<p>※創造認識学と創造美学は創造発見学のサブカテゴリーです</p>
<p>根本的な内容:<a href="https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/">創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</a></p>
<p>前回の内容:<a href="https://souzoudiary.com/aesthetics-christopheralexander-1-1/">創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">記事の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-1-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(前編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-2-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(中編)</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/07/14/creative-epistemology-1-3-theory-of-logical-types/">創造認識学第一回:「ラッセルのパラドクスの論理階型理論」とはなにか(後編)</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので３つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡</p>
<h2><span id="toc6">ラッセルのパラドックス</span></h2>
<h3><span id="toc7">基本方針</span></h3>
<p>１:私はベイトソンの主張する認識論を厳密かつ体系的に理解したい｡ラッセルの論理階型理論(タイプ理論)を理解するのはそのための手段である｡</p>
<p>２:私は物理学も数学も､論理学も詳しくない｡論理階型理論について専門的に説明することはできない｡そのため､難解な数式や記号はほとんど扱わない｡あくまでもベイトソンの主張と関連する限りの､最低限の論理階型の理解を目指す｡</p>
<h3><span id="toc8">論理階型理論</span></h3>
<h4><span id="toc9">論理階型理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>論理階型理論(タイプ理論)</strong></span>：</big>自己言及によるパラドックスを回避するために､この世にあるもの(存在者)をすべて階型(タイプ､オーダー)に分けて考える理論のこと｡</p>
</div>
<p>バートランド・ラッセル(1872-1970)が提唱したといわれている｡論理階型理論は「<b>単純タイプ理論</b>」と「<b>分岐タイプ理論</b>」に大きく分かれている｡</p>
<h4><span id="toc10">悪循環原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>論理階型理論は主に以下の２つのルールを守るような論理学の体系を整備するものであり､またそのための前提を設定するものである｡まずはルールだけ見ていく(この時点で理解できなくてもOK)｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">正式な論理的・数学的言説において､「クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえない」｡</li>
<li class="sample">正式な論理的・数学的言説において､「クラスは、そのメンバーから(正しく)除外されるものの全体がつくるクラスのメンバーにはなりえない」｡</li>
</ol>
<p>このようなルール(方針､原理)をラッセルは「悪循環原理」と呼んでいる｡悪循環原理を守るためにはタイプ理論(論理階型理論)が必要であるという順番｡名前的にややこしいかもしれないが､悪循環を防ぐ原理という意味である｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:論理階型理論における２つの主張</p>
<p>「まず《論理階型理論》が､どんな事柄を問題にするのか､示しておこう｡この理論は次のことを主張する｡――正式な論理的・数学的言説において､クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえないこと｡ものの名前は名付けられたものとは違うこと｡『ジョン・ベイトソン』は､あの少年を一個のメンバーとして含むクラスであること｡等々｡みな､わかりきった､あえて主張するまでもないことだが､しかし､のちに見ていくように､行動科学の理論のなかに､ものの名前と名づけられたものとを混同するような――湯気たちのぼる料理をメニューの紙切れと混同するような――論理階型づけ(logical typing)のミスが見られるのは､けっして珍しくないのだ｡」<br />
『精神の生態学』,383p</p>
<p>「この理論が主張することのなかには、それほど当たりまえではないことも含まれる。『クラスは、そのメンバーから(正しく)除外されるものの全体がつくるクラスのメンバーにはなりえない』というのがそれだ。[クラスは当のクラスの一員ではないけれども、同時に当のクラスの一員ではないものすべてから成るクラスの一員でもない。]椅子というものを一まとめにして椅子のクラスをつくるとき、個々のテーブルなりスタンドなりの傘なりは、『非・椅子』という名の巨大なクラスに属するといえる。しかし、その『非・椅子』のクラスの一項目に『椅子のクラス』は数えられない。正式な言説で、それを含めたら、誤りなのである。」 <br />
『精神の生態学』384p</p>
<p>「では､『クラスに属さないものの全体がつくるクラス』は一個の『クラスに属さないもの』だろうか｡《論理階型理論》は､これにも『否』と答える｡次のように対称的に考えれば､お解りだろう｡<br />
a:非・椅子のクラスは椅子のクラスと抽象の等級(オーダー)が同じである｡すなわち両者は同じ論理階型に属する｡<br />
b:椅子のクラスが椅子でないとすれば､それに相応して､非・椅子のクラスも非・椅子ではない｡論理的な言説を支配するこの規則が破られるとき､パラドックスが生じ､その言説は行き倒れになる――これが論理階型理論の最後の主張点である｡」<br />
『精神の生態学』384p</p>
</blockquote>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>悪循環原理</strong></span>：</big>ある集まりが､その全体によってしか定義できない要素を含む場合､その集まりは全体を持たない｡</p>
</div>
<p>全体を持たないということは「存在しない」､というより「存在しないということすら言えない」ということであり､ラッセルは議論の対象にすらならないという｡ベイトソンの表現で言えば「<b>なかったものとして葬ってしまう</b>」ということである｡</p>
<p>悪循環原理は生じてしまったパラドックスをナンセンスであり､なかったものにするというニュアンスがある｡そしてタイプ理論はそもそもそうしたパラドックスを生じさせないような仕組みを整備するというニュアンスがある｡対処療法ではなく､根本療法へと進んでいくというイメージだろうか｡</p>
<p>単純タイプ理論や分岐タイプ理論という難しい話を後回しにして､先にざっくりと先程の２つのルールを具体的に理解していくことにする｡</p>
<p>そもそも私のようにクラス(集合)とはなにか､メンバー(要素)とはなにかすら曖昧な人もいるのではないだろうか｡そうした基礎的な部分を先に扱っていく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:悪循環原理の定義<br />
「ラッセルは､パラドクスのこうした普遍的な性格に鑑みて､自分が自分自身の規定に当てはまるかどかを問うことが間違いのもとだと考えた｡つまり『自己言及』を禁ずることが､パラドクスの回避の道であるとした｡そこで『悪循環原理』が定式化される｡悪循環原理――あつ集まりが､その全体によってしか定義できない要素を含む場合､その集まりは全体を持たない｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,44p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">クラスとメンバー(基礎知識)</span></h3>
<h4><span id="toc12">クラスとメンバーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>クラスとはいわゆる集合であり､要素の集まりである｡たとえば私が昨日食べたリンゴ､さっき店で売られていたリンゴ､今イタリアで誰かが食べているリンゴはそれぞれ違う｡「眼の前に今あるこのリンゴ」は燃えるが､「リンゴ」は燃えないという言い方をすれば区別がわかりやすいかもしれない｡</p>
<p>それぞれの具体的なリンゴは同じリンゴというクラス(集合)のメンバー(個体､要素)である｡学校のクラスは一緒だけれども､それぞれ違う生徒という言い方でも理解できるかもしれない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3918" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3-800x582.png" alt="" width="352" height="256" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3-800x582.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/2b5b3afc240eb6ab6537675ba02852d3.png 948w" sizes="(max-width: 352px) 100vw, 352px" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージになる｡</p>
<p>たとえば哺乳類というクラスには人間やゴリラがメンバーとして含まれていると考えることができる｡日本人というクラスには私や近所の田中さんというメンバーが含まれていると考えることができる｡</p>
<h4><span id="toc13">何がクラスで､なにがメンバーかは絶対的ではなく相対的？</span></h4>
<p>もちろん､人間が人種の集まりとして捉えられたりする場合は人種はメンバーとなり､人間がクラスとなると考えることもできる｡</p>
<p>また､人種を人間というクラスのサブクラスとし､さらに私というメンバーがそのサブクラスに含まれていると考えることができる｡「考えることもできる」というのは私が暫定的にそう考えることにした､一般的にそう分類されているというようなものにすぎない｡明日には新たな分類が合理的とされ､一般的ではなくなるかもしれない｡しかし､論理学のほとんどはこうした文脈に左右されるような曖昧なものではなく､「ある前提に基づけば､ある帰結が確実に導かれる」というようなカッチリとした演繹的体系である｡</p>
<p>論理学は「<b>形式</b>」を扱うものであり､人間とはなにか､人種とはなにか､それらの関係はどういうものかといった「<b>内容</b>」を扱うものではなく､絶対的なものではないことに注意する必要がある｡そうしたものを扱うためには論理学以外の学問などを考慮する必要があるだろう｡</p>
<p>たとえば､ラッセルは「いかなる白いものも白い」という文章すら論理的真理と認めず､「ある性質について､その性質をもついかなるものも､その性質をもつ」と言えばようやく論理的真理と認められるという｡また､「<b>いかなるクラスでもない最小の構成要素とはなにか</b>」というテーマもラッセルでは重要になるので面白い(ベイトソンでも)｡</p>
<h3><span id="toc14">ラッセルのパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc15">パラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パラドクス</strong></span>：</big>一般に､「正しい前提から正しい推論を経て間違った結論(たとえば矛盾)に至る」現象を指す｡</p>
</div>
<p>個人的にパラドクス(パラドックス)という言葉はややこしい｡なぜなら､パラドクスだからといって必ずしも矛盾していないというニュアンスがあるからだ｡たとえば循環論法や論点先取りは必ずしも矛盾とはいえないが､しかし間違った結論を引き起こすことがあり､パラドクスとも表現できる｡このことを念頭においておく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:パラドクスの定義</p>
<p>「総じてパラドクスとは､『正しい前提から正しい推論を経て間違った結論(たとえば矛盾)に至る』現象を指す｡論理上は､『正しい前提』に『正しい推論』を適用すれば必ず『正しい結論』が出てくるのに｡どこがおかしかったのか｡解決としては､前提が間違っていたか､推論が間違っていたか､結論が実は間違っていないのか､のどれかとなるだろう｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,9-10p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc16">ラッセルのパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ラッセルのパラドックス</strong></span>：</big>「自分自身を含まない集合の集合」を考えたとき、それが自分自身を含むかどうかでパラドクスが生じる問題のこと｡</p>
</div>
<p>より詳しくいうと､「自分自身の要素ではない集合の集合」(集合R)というものを考えた場合､この集合Rが「自分自身の要素ではない」と仮定しても､「自分自身の要素である」と仮定してもパラドクスが生じてしまうような事態のこと｡</p>
<p>この定義だけを単体で見ると､論理学に疎い人は何を言っているか､よくわからない｡具体的にゆっくり後で見ていくことになる｡</p>
<p>ラッセルのパラドクスは床屋のパラドクス､嘘つきのパラドクス､グレリングのパラドクス､ベリーのパラドクスなどの日常言語に置き換えられて説明されることがある｡</p>
<p>床屋のパラドクスは「論理的パラドクス」であり､それ以外のパラドクスは「意味論的パラドクス」と分類されることがある｡たとえば嘘とはどういう状態なのか､名付けるとはどういう状態なのかというのは論理学の範疇ではない､とラッセルは批判されることがある｡純粋に論理的で形式的なものが論理的パラドクスと考えるイメージなのだろう｡いずれも純粋なラッセルのパラドクスと類似しているが､論理的な言語を日常言語によって具体化したという点で曖昧さを含み､厳密には同じではないのかもしれない｡</p>
<p>今回は「床屋のパラドクス」と「ベリーのパラドクス」を主に扱う(ベリーのパラドクスは後半に)｡</p>
<p>まずは論理的パラドクスを日常言語をできるだけ使わず､かつ難しい論理学の記号や数式も使わずに形式的な形で見ていくことになる｡ここで完全に理解する必要はなく､後でさらに具体例を見ていく｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:ラッセルのパラドクスの説明</p>
<p>「ラッセルのパラドクスは周知だと思われるが，「自らを要素としない集合をすべて集めてできた集合は，自らを要素とするであろうか」というものである。たいていの集合が「自らを要素としない集合」である。たとえば，「犬」という集合の要素は，柴犬だったりブルドッグだったり，あるいは飼い犬のポチというように，何か具体的な個体である。決して「犬」のイデアなるものは含まれない。こうした集合全体を考えた場合，要素と「する」と仮定すると「しない」という定義に反し，「しない」と仮定すると「する」を要請されるわけである。これは，「すべての集合の集合」という，無限を囲い込む思考実験に必然的に伴う問題である。では他方，「自らを要素とする集合」とは何であろうか。たとえば，「言葉」という集合はどうであろう。「言葉」というのも言葉である。また，「私の思考」という集合は。「私の思考」も私の思考の一部である。こうした集合の場合，パラドクスは起こらない。」</p>
<p>鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」,48p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">純粋なラッセルのパラドクスの例(論理的パラドクス)</span></h4>
<p>まず､「<b>自分自身の要素ではない集合</b>」とはなにか｡</p>
<p>たとえば「自分が飼っている犬」や「近所の犬」をメンバーとしてもつような「犬という集合」を考える｡この場合､「犬という集合」の中にメンバー(要素)として「犬という集合」は入らないだろう｡それゆえに､「犬という集合」は自分自身の要素ではない､つまり自分自身を要素として含まない集合である｡他にも人間､食べ物､コンピューターなど､我々が挙げるような集合はほとんど「自分自身の要素ではない集合」である｡</p>
<p>従って､「自分自身の要素ではない集合」の「集合」ということは､我々が考えるようなほとんどの集合をメンバーとするような集合となる｡犬という集合や人間という集合など､さまざまな集合がメンバーとして入ることになる｡</p>
<p>このような大きな集合を<b>集合R</b>と表現しておく｡</p>
<p>(１)集合Rが「<b>自分自身の要素では</b><b>ない</b>」と仮定する</p>
<p>つまり､集合Rという集合の中に､集合Rというメンバーはないと仮定するわけである｡これは犬というクラスの中に犬というクラスがメンバーとして入ってこないという仮定と似ている｡</p>
<p>しかし､もし集合Rが「自分自身の要素ではない」ならば､集合Rは「自分自身の要素ではない集合の集合」であるので､集合Rの要素になっていなければならなくなる｡つまり､集合Rは「自分自身の要素ではない」と仮定したのにも関わらず､「自分自身の要素である」というパラドクスが生じる｡</p>
<p>(２)集合Rが「<b>自分自身の要素で</b><b>ある</b>」と仮定する</p>
<p>もし集合Rが「自分自身の要素である」ならば､集合Rは「自分自身の要素ではない集合の集合」であるので､「自分自身の要素ではない集合」でなければならない｡つまり､「自分自身の要素である」と仮定したのにもかかわらず､「自分自身の要素ではない」というパラドクスが生じる｡</p>
<p>結論:「自分自身の要素ではない集合の集合」(集合R)というものを考えた場合､この集合Rが「自分自身の要素ではない」と仮定しても､「自分自身の要素である」と仮定してもパラドクスが生じてしまう｡これがラッセルのパラドクスである｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:ラッセルのパラドクスの説明</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,39-41p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">床屋のパラドクス</span></h3>
<h4><span id="toc19">床屋のパラドクスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>床屋のパラドクス</strong></span>：</big>ある村に一軒しかない床屋は､自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る｡さて､村人の一人であるこの床屋自身は､自分の髭を剃るのか､剃らないのか｡</p>
</div>
<p>床屋のパラドクスはラッセルのパラドクスを日常言語によって具体化したものとして知られているらしい｡</p>
<p>(１)床屋が自分で自分の髭を剃ると仮定する</p>
<p>床屋は自分で自分の髭を剃ると仮定してしまうと､自分の髭を剃ってはならないことになる｡</p>
<p>なぜなら､「自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る」からである｡村人の中に自分が含まれているので､自分で髭を剃ることはできない｡</p>
<p>(２)床屋が自分で自分の髭を剃らないと仮定する</p>
<p>床屋が自分で自分の髭を剃らないと仮定してしまうと､自分の髭を剃らなければならないことになる｡</p>
<p>なぜなら､「自分で髭を剃らない村人全員の髭だけを剃る」からである｡村人の中に自分が含まれているので､自分で髭を剃らなければならない｡</p>
<p>このように､どちらに仮定しても反対の結果が生じてしまい､「剃る､かつ剃らない」のようなパラドクスが生じてしまっているケースである｡</p>
<p>ここで重要なのは「村人全員」という集合の中に､自分が要素として含まれているということである(自己言及的)｡</p>
<p>この矛盾は、ラッセルのパラドクスにおける「自分自身を要素とするかどうか」の矛盾と類似した構造を持っていると考えることができる｡</p>
<p>(１)ラッセルのパラドクスでは、自分自身を要素としない集合全体の集合が存在するかどうかを考えることで矛盾が生じる。</p>
<p>(２)床屋のパラドクスでは、自分で髭を剃らない村人全員の髭を剃る床屋が自分の髭を剃るかどうかを考えることで矛盾が生じる｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:床屋のパラドクスの説明</p>
<p>三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,42-43p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">ルール１､「自分自身を含む要素全体の集合」を集合と認めない</span></h3>
<h4><span id="toc21">R = { | ∈ }</span></h4>
<p>「自分自身を含む要素全体の集合」を記号化すると､以下のようになるらしい｡</p>
<p>R = { | ∈ }</p>
<p>(１)Rは「集合」を意味する｡(２){要素の表現 ∣ 条件} ※集合の要素を選ぶための条件｡(３)∈は「属する」と読む｡</p>
<p>自分自身(x)を含む集合(x)という条件を満たす､集合(x)ということになる｡こうした集合Rを集合と認めない､というルールが必要だとラッセルはいう｡</p>
<p>端的に言えば､「<b>クラスはそれ自体のメンバーには決してなりえない</b>」というルールが必要になる｡</p>
<p>ラッセルはそうしたルールを破るとパラドクスが生じると考えたからだ｡</p>
<p>たとえばリンゴというクラスには赤リンゴや青りんごといったメンバーがあることは理解できる｡しかしリンゴというクラスにリンゴというクラスというメンバーが含まれてくると､「<b>どこかおかしい</b>」となるのではないだろうか｡論理学に疎い私でも直観的にそう感じる｡教室の中にAさん､Bさん､Cさん・・というメンバーと同列的に「教室さん」が座っているような違和感である｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>キーワード:数式の参考に</p>
<p>離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc22">論点先取り､循環論法に陥ることもパラドクス？</span></h4>
<p>たとえば哺乳類というクラスは､主に帰納的に決められていく｡複数の動物に「母乳で子供を育てるという行動」が見られたとする｡つまり､メンバーの共通点を一般化して見出したわけである｡</p>
<p>ここで重要なのは､メンバー単体では哺乳類というクラスは導き出されないという点である｡人間やゴリラ､クジラなどはそれぞれ「違う」けれども､「同じ」要素をもっているというような比較によって生まれるのである｡</p>
<p>一方で､メンバーが一体しかいない「類」を考えることは理論的に可能では､と私は疑問が生じる｡しかし帰納によって分類するという例では､あまり現実的ではないケースではないだろうか｡帰納的一般化にはなんらかの「差異」が必要になり､「差異」は異なる個体があってはじめて成り立つからである｡「いままでの分類に属していない」､「一体しかメンバーに含まれない」というのは結局「比較」が必要であり､一体のメンバー単独で見出されるものではない｡</p>
<p>帰納におけるメンバーの比較において､そのメンバーに「哺乳類」が並んでいたらおかしい｡つまり､自分を使って自分を生み出そうとしている形になる｡メンバーの比較によってクラスが生じるのにも関わらず､すでにメンバーにクラスがいるのである｡</p>
<p>こうした状態を「<b>自己言及的</b>」と表現する｡論理学の世界では「<b>循環論法</b>」や「<b>論点先取り</b>」といわれ､論理的誤謬の一種と扱われる｡ラッセル的にいえばタイプミスであり､論理階型の混同である｡</p>
<p>正直な話､式単体で私には「矛盾」が生じているとは思えない｡Aかつ非Aのような状態が生じているとは思えない｡</p>
<p>なんとなく､循環論法的だなとか､赤いリンゴというメンバーとリンゴというクラスをごちゃごちゃにしちゃよくないよね程度の論理的ミスなら理解できる｡</p>
<p>しかしパラドクスの定義は必ずしも「矛盾」を意味せず､「誤り」が含まれていると考えていくことができる｡そしてラッセルの時代以前の集合論においては､正しい前提と正しい推論であると思われており､それにも関わらず誤りが生じてしまっていたという点が重要になる｡こうした事態を「パラドクス」と表現することは理解できる｡</p>
<p>そしてラッセルは正しい前提が実は正しくないのではないか､と思い修正を試みるようになる｡具体的には「無制限変項の原理」が修正されていくことになる｡無制限変項の原理をタイプ(階型)ごとに適用する､というタイプ理論によって修正していくわけである｡要するに､無制限変項の原理の範囲をより限定的にしたというわけである｡</p>
<h3><span id="toc23">ルール２､「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を集合と認めない</span></h3>
<h4><span id="toc24">R = { | ∉ }</span></h4>
<p>「自分自身を要素として含まない要素全体の集合」を記号化すると､以下のようになるらしい｡</p>
<p>R = { | ∉ }  ※∉は属さないという意味</p>
<p>ラッセルは集合を以下の２つに分け､またすべての集合は以下の２つのどちらかだと仮定した｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>第一のグループ</strong></span>：</big>自分自身を要素として含まない集合｡例:人間の集合､椅子の集合など｡R = { | ∉ }/p&gt;</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>第二のグループ</strong></span>：</big>自分自身を要素として含む集合｡例:集合の集合､抽象物の集合など｡R = { | ∈ }</p>
</div>
<p>先ほど､自分自身を要素として含む集合を集合として認めないということを学んだ｡つまり､第2グループの否定である｡</p>
<p>有名な第二グループに「集合の集合」がある｡あらゆる集合を「集合の集合」というクラスはメンバーとしてもっている｡しかし「集合の集合」というクラスも「集合」であり､メンバーである｡</p>
<p>したがって集合の集合というクラスは集合の集合というメンバーをもつ必要がある｡これは自己言及的である｡</p>
<p>抽象物の集合も､「抽象物の集合」が抽象物なので､同様のケースである｡</p>
<p>自己言及的な集合は自分の靴紐をひっぱって自分を宙にもちあげるような､ナンセンスなイメージと表現されることがある｡</p>
<blockquote>
<p>特に参考にしたページ</p>
<p>・キーワード:第一のグループ､第二のグループ</p>
<p>「集合を２つに分けよう｡第一のグループは､自分自身の要素ではない集合｡第二のグループは､自分自身の要素である集合｡定義上､この２つのグループですべての集合は尽くされている｡」<br />
三浦俊彦『ラッセルのパラドックス』,37p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">R = { | ∉ }はそれ単体ではおかしくない？</span></h4>
<p>その点､第一グループであるR = { | ∉ }集合として認めていいのではないか､と思ってしまう｡</p>
<p>たとえば「人間の集合」という場合に､私やあなたはメンバーとして含まれるが､「人間の集合」はメンバーとして含まないという話だ｡私たちが思いつくような集合はほとんどこの第一グループに属しているという｡たしかに集合の集合のようなものは例外だろう｡人間の集合､マウスの集合､机の集合､服の集合など､いくらでも挙げられる｡どうしてわざわざこの集合を否定する必要があるのか｡※実は自己言及的なものが現実世界ではたくさんある､という話は次回のベイトソンで扱う｡</p>
<p>ここからが面白い｡ラッセルによると､ルール１をまもったとしても､問題が生じるケースがあるというのである｡</p>
<p>この問題は私にも「矛盾」が生じていると理解できる例である｡</p>
<p>追記(2024/07/12):R = { | ∉ }単体では不都合がないが､全てのR = { | ∉ }からなる集合R２のような集合を考えると不都合が生じてしまう｡これは､Rのような集合を集合として認めてしまっているからだ｡それゆえに､Rを集合として認める事はできない｡そういう話だろう｡たとえばゲームでは組み合わせによっておそろしく強い効果を発揮するようなものがある｡単体ではあまり強くないのにも書か関わらず､２つの効果が合わさって､ゲーム自体をバグらせてしまうような(あるいは一瞬で勝利してしまうような強すぎる)ものを考えてみる｡それゆえに､どちらか､あるいは両方を「禁止」するのである｡たとえばカードゲームではそれが「禁止カード」と言われ､存在自体が否定される｡</p>
<h4><span id="toc26">ルール１だけを守ったとしても､矛盾が生じてしまうケース</span></h4>
<p>例えば､この緑のリンゴ､あの赤いリンゴといったあらゆるリンゴのメンバーの集合であるリンゴというクラスを考えてみる｡このクラスをRとする｡</p>
<p>次に､あらゆるリンゴのメンバーを含まないクラスを考えてみる｡このクラスをNとする｡このクラスNには肉や魚､猫やゴリラなど､リンゴというクラスのメンバー以外のあらゆるメンバーが含まれている｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-medium wp-image-3922" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8-800x357.png" alt="" width="800" height="357" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8-800x357.png 800w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/4550716ea473d457c6708dfde78706d8.png 827w" sizes="(max-width: 800px) 100vw, 800px" /></a>図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>さて､ここで集合R(クラスR)はクラスNの要素か､それとも要素ではないか｡</p>
<p>つまり「あらゆるリンゴの集合」は「あらゆるリンゴのメンバー以外のメンバーを全て含む集合」に属するのかどうかという話である｡</p>
<p>(R= {| ∈ }を集合として認めないというルール１より､リンゴというクラスはリンゴというクラスのメンバーではない｡したがって､リンゴというクラスはクラスNのメンバーとなる｡</p>
<p>つまり､リンゴというクラスRは､R = { | ∉ }ということになる｡ルール２ではR = { | ∉ }を集合として認めないというものであった｡認めるとどんなことが生じるかを見ていくことになる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/b89ef85dcb8c1c57bbd29488482378e8.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3923" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/07/b89ef85dcb8c1c57bbd29488482378e8.png" alt="" width="602" height="641" /></a>先程のリンゴの話を図にするとこのようなイメージとなる｡</p>
<p>ここで問題が生じる｡クラスNはあらゆるリンゴのメンバーを含まないクラスであったはずである｡しかしクラスRを含むということは､そのメンバーを間接的に含むということにもなってしまうのではないか｡</p>
<p>つまり､「クラスNはあらゆるリンゴのクラスのメンバーを含まない」といっているにもかかわらず､「間接的にリンゴのクラスのメンバーを含んでいる」ことになってしまう｡こうした自己準拠に起因するようなパラドクスを<b>ラッセルのパラドクス</b>という｡</p>
<p>(１) R = { | ∈ }を認めるとパラドクスが生じる｡だからこうした集合を認めない｡</p>
<p>(２) R = { | ∉ }を認めてもパラドクスが生じる｡だからこうした集合も認めない｡</p>
<p>(３)この２つに共通しているのは､自分を定義するのに自分を含めるとか､含めないとかいう自分への言及(自己言及)が必要になるからである｡２つの集合を集合として認めないような体系の整備が必要となる｡ラッセルはタイプ理論などで対応しようとした｡現代集合論ではツェルメロ＝フレンケル集合論などがその例らしい｡</p>
<h4><span id="toc27">【疑問】直接的に含む､間接的に含む？</span></h4>
<p>・一端､私の中で生じた疑問を整理する｡</p>
<p>論理学に疎い私には「リンゴというクラスがクラスNのメンバーになるという事態」がいまいち理解できない｡これ単体でみると､リンゴというクラスの中のメンバーを「<b>直接的</b>」にはメンバーとして持っていない｡たとえばある人Xが「人間が好き」と言っているからといって､「Xが田中さんを好き」だとは限らない､といえば何となく納得してしまう｡しかし「<b>間接的</b>」にはメンバーとしてもつことになるという考えもできる｡「人類」の中に「田中さん」も要素として含まれているからである｡</p>
<p>他の比喩も使ってみよう｡バラバラのクッキーが入った袋が入ったビニール袋というものがあるとする｡たしかにビニール袋に直接バラバラのクッキーが入っているわけではないが､ビニール袋の中に入っているだろう｡つまり､間接的には入っている｡</p>
<p>そもそも「人間が好き」などという言葉が曖昧なのだろう｡我々は人間というクラスに含まれる全てのメンバーが好きだという意味で「人間が好き」を使っているのだろうか｡「全てのメンバーのうち､ほとんどが好き」だとか､「一部が好き」だとかそういう意味で使っているかもしれない｡どういう意味で使っているかなど､よく考えずに使っている｡</p>
<p>こうした曖昧なもの(非可述的なもの)を明瞭なもの(可述的なもの)へと還元するとどうなるか｡私には正直わからない｡「優しい人が好きだ」という意味で実は使われているかもしれない｡しかし「優しい人」という言葉も曖昧である｡もしかしたら今まで会ってきた特定のAさん､Bさん､Cさんが好きだという意味で使われているかもしれない｡ここまで還元すると､AでもBでもCでもない田中さんが好きとは限らない､ということに納得できる｡</p>
<p>もっと抽象度を上げて考えてみる｡たとえばA,B,Cと言う要素をもつRというクラスがあるとする｡</p>
<p>そして､A,B,Cという要素以外の全ての要素を持つNというクラスがあるとする｡この場合､NというクラスはRというクラスをもつことになる｡なぜなら､ルール１より､R = { | ∈ }を集合と認めないからである｡それゆえにR = { | ∉ }となる｡従って､NはRというクラスをもつ｡</p>
<p>この場合､Nというクラスは直接的にA,B,Cという要素を持つことになるわけではない｡</p>
<p>しかし､Nというクラスは間接的にA,B,Cという要素を持つことになる｡なぜなら､NというクラスはRというクラスをもち､RというクラスはA,B,Cという要素を持つからである｡</p>
<p>それゆえに､A,B,C以外の全ての要素を持つNというクラスが間接的とはいえA,B,Cという要素を持つことになる｡それゆえに､矛盾が生じる｡</p>
<p>もし仮に､「直接的にA,B,C以外の全ての要素を持つ」とNクラスが定義されていれば話は別だが､しかしそうではない｡結局は直接的にせよ間接的にせよ､矛盾が生じることになる｡</p>
<p>これ以上話をややこしくすることは避けたいが､しかし疑問がある｡「食べ物」というクラスはクラスRのメンバーではないので､当然クラスNのメンバーとなるだろう｡しかし「食べ物」というクラスはリンゴというクラスをメンバーとしてもっている｡これで先程の問題と同じような矛盾が生じる｡</p>
<p>あるいは､食べ物というクラスはいちいちサブクラスを通す必要がない､と考えることもできる｡例えばリンゴというクラスや果物というクラスを通して間接的に「あのリンゴ」をもつのではなく､食べ物が「あのリンゴ」や「そのカレー」といった個物を持つと表現すればいい｡とはいえ､Nクラスは食べ物というクラスをもつかぎり､やはり間接的にクラスRのメンバーをもつことになってしまうので矛盾が生じる｡そのため､ルール１やルール2が必要である､という結論になるのだろう｡</p>
<h2><span id="toc28">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc29">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc30">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LtUJxH">三浦俊彦「ラッセルのパラドクス: 世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 975)」</a></p>
<h3><span id="toc31">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc32">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc33">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc34">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc35">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc36">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc37">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc38">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc39">参考論文</span></h3>
<p>・離散数学 | 植野真臣研究室 &#8211; 電気通信大学(<a href="http://www.ai.lab.uec.ac.jp/wp-content/uploads/2019/11/963e09d17970eaeb8819c2b01d7d2571.pdf">URL</a>)</p>
<p>・土屋盛茂「パラドックスとラッセルのタイプ理論」(<a href="https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/record/1582/files/AN00038157_17_13.pdf">URL</a>)</p>
<p>・鈴木啓司「新たなる認識論理の構築14 : 集合論を超えて　境界についての認識論的考察」(<a href="https://ngu.repo.nii.ac.jp/records/882">URL</a>)</p>
<p>・久木田水生「ラッセルの記述の理論とタイプ理論の関係について」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24335/1/%E4%B9%85%E6%9C%A8%E7%94%B0%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%A8%BF.pdf">URL</a>)</p>
<p>・池田真治、伊藤遼、久木田水生「タイプ理論の起源と発展」(<a href="https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/151121/1/ronso38_S49_type.pdf">URL</a>)</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>【創造発見学第一回】アブダクションとはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2023/05/31/souzouhou-1-abduction/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 31 May 2023 14:01:46 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[チャールズ・サンダース・パース]]></category>
		<category><![CDATA[創造発見学]]></category>
		<category><![CDATA[思考法]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://souzouhou.com/?p=3048</guid>

					<description><![CDATA[アブダクションについて説明]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li></ol></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">論理学基礎知識</a><ol><li><a href="#toc4" tabindex="0">推論とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">推論の有名な例：三段論法とはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">パースによる新たな推論の三分類</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">演繹とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">演繹の例</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">演繹としては正しいが、前提が間違っている演繹の例</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">帰納とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">帰納の例</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">アブダクション</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">アブダクションとはなにか、意味</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">アブダクションによる推論の形式の定式化</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">パースによる３つの例</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">（１）知事のケース</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">（２）化石の発見のケース</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">（３）ナポレオンのケース</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">探求の論理学と論証の論理学</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">拡張的推論と分析的推論</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">論理学は規範科学である</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">論理的行為と倫理的行為の関係とは</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">探究の論理学は「真理」を目的とする</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">アブダクション２段階：【第一段階】仮説が推量として思いつく過程、アブダクティブな示唆とは</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">アブダクティブな示唆は非合理的な神秘的能力か</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">アブダクションな示唆と、幸運な推測の違いとは</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">どうしてパースはアブダクティブな示唆にも論理的ルールが暗黙の内に働いていると思ったのか</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">アブダクションは後件肯定の誤謬を犯している</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">わかりやすい誤りの例</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">アブダクションの形式に、後件肯定の誤謬のケースをあてはめてみる</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">不当周延の虚偽とはなにか、意味</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">（１）演繹のケース</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">（２）帰納のケース</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">（３）アブダクションのケース</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">アブダクションは当て推量ではない</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">経験的事実の世界に関する知識を拡張するために用いられるアブダクション</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">アブダクションと創造的想像力(科学的想像力)</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">アブダクション２段階：【第二段階】選択された仮説が受け入れられるかどうかを吟味する過程</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">どのようにしてもっとも正しいと思われる仮説を選択するのか、４つの条件について</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">四種類の仮説(アブダクション)</a><ol><li><a href="#toc41" tabindex="0">１：事実の発見に関する仮説</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">２：事実の発見に関する仮説</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">３：法則の発見に関する仮説</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">４：その仮説がはじめて提案された時点では実際的にも原理的にも直接には観察不可能な純粋に理論的な対象と考えられていたものに関する仮説</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0"> </a></li></ol></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">仮説が事実を作る</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">科学的探究の３つの段階</a><ol><li><a href="#toc48" tabindex="0">例：化石のケース</a></li></ol></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">選択可能性と知識を増やすことについて</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">帰納とアブダクションを区別する４つの理由</a></li></ol></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">その他</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">【コラム】マックス・ウェーバーの価値自由</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">【コラム】トーマス・クーンのパラダイムシフト</a><ol><li><a href="#toc54" tabindex="0">アブダクションとパラダイムシフトの関連性</a></li></ol></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">【コラム】見田宗介とアブダクション</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">【コラム】ベイトソンとアブダクション</a><ol><li><a href="#toc57" tabindex="0">記述、説明、トートロジー</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">アブダクションはわれわれが日常的に用いている</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc60" tabindex="0">主要文献</a><ol><li><a href="#toc61" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/L7XahWe8uf0" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h2><span id="toc3">論理学基礎知識</span></h2>
<h3><span id="toc4">推論とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>推論(inference)</strong></span>：</big>・一般的には「ある事実をもとにして、未知の事柄をおしはかり論じること」を意味する。論理学では、一つ以上の主張(前提)を根拠として、それをもとに他の主張を結論することをいう。</p>
</div>
<p>たとえば動物の餌を家の前に置いていて、１時間後に確認しに行ったら餌が無くなっていたとする。</p>
<p>このような事実をもとに、「餌を食べたのは猫だろう」と私は推論する。なぜなら先程、猫を家の前で見たからである。このような推論は、私たちの日常の世界でよく使われている。重要なのは、推論には強弱があるという点である。たとえば先程の推論は弱い。なぜなら、食べたのは犬かもしれないし、鳥かもしれないからである。</p>
<blockquote>
<p>「演繹、帰納、アブダクション(リトロダクション)というのは、つまり、科学的論理的思考を形成している主要な三種類の推論であるということです。推論は前提と結論から成りますが、前提とは推論の論拠となるあらかじめ与えられてある知識や情報やデータのことであり、結論とはそれらの与えられた知識や情報やデータを論拠にして下される判断のことです。推論はつまり、いくつかの前提(既知のもの)から、それあの前提を根拠にしてある結論(未知のもの)を導き出す、論理的に統制された思考過程のことをいいます。そして推論は、前提から結論を導き出す際の、その導出の形式や規則とか、推論の前提がその結論を根拠づける論証力(必然的か蓋然的か)の違いなどによって、いくつかの種類に分類されます。一般には、推論は演繹と帰納の二種類にわけられ、そして科学的思考法の方法はこの二種類の推論の方法から成り立っている、と考えられています。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,2-3P</p>
<p>「一つ以上の主張を根拠として、それをもとに他の主張を結論するとき、それは『推論』と呼ばれます。」</p>
<p>野矢茂樹「まったくゼロからの論理学」5P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc5">推論の有名な例：三段論法とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>三段論法</strong></span>：</big>・二つの前提から一つの結論を導く論理的推論のこと。２つの主張PとQからRという主張を導くもの。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">前提１：すべての人間は動物である</li>
<li class="sample">前提２：田中さんは人間である</li>
<li class="sample">結論：それゆえ、田中さんは動物である</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「例えば『三段論法』と呼ばれる推論は、２つの主張PとQからRという主張を導くものです。(P、Q、Rと三つの主張が出てくるので『三段』論法と呼ばれるわけです。)</p>
<p>P</p>
<p>Q</p>
<p>それゆえ、R</p>
<p>このときPとQは推論の『前提』とか『根拠』と呼ばれます。PとQから導かれるRは『帰結』とか『結論』とか呼ばれます。『根拠』や『帰結』という言葉を使ってもかまわないのですが、この本では『前提』と『結論』という言い方をすることにしましょう。」</p>
<p>野矢茂樹「まったくゼロからの論理学」5P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc6">パースによる新たな推論の三分類</span></h3>
<p>論理学において推論にはどのような種類があり、またどのような推論が妥当だと思われているのか。</p>
<p>言い換えれば、どのような推論が「<b>論理的</b>」だと思われているのか。先取りしておくと、アブダクションや帰納のような推論は論理的ではないとパース以前では考えられていたそうだ。つまり、演繹が妥当な推論であり、いわば王道であると考えられていた。</p>
<p>パースの文脈では推論は「科学的思考法」という「方法論」として分類されていることが重要になる。物事を考えるための道具のようなものである。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/1e957d836693b72ccba96ac6993f6401.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3058" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/1e957d836693b72ccba96ac6993f6401.png" alt="" width="325" height="165" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/567895d79e95b211ddd3aa43464f9971.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3059" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/567895d79e95b211ddd3aa43464f9971.png" alt="" width="325" height="205" /></a>パース以前の論理学では、推論は「<b>演繹</b>と<b>帰納</b>」の二種類に分けられている。</p>
<p>そして、パース以前の論理学では特に<b>演繹</b>が重要視され、また妥当だと思われている。そしてパースはアブダクションを演繹と帰納に加え、特に<b>アブダクション</b>を重視している。これらの問題に触れる前に、まずは演繹とはなにか、帰納とはなにかについて説明を行っていく。</p>
<h3><span id="toc7">演繹とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>演繹(ディダクション)</strong></span>：</big>・一般に、前提が真であると認めたならば結論も真だと必ず認めねばならない推論を意味する。</p>
</div>
<p>演繹で注意しなければいけない点は、<b>演繹の正しさは前提が正しいかどうかには関わらない</b>ということ。</p>
<h4><span id="toc8">演繹の例</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">前提１(規則)：この袋の豆はすべて白い</li>
<li class="sample">前提２(事例)：これらの豆は、この袋の豆である</li>
<li class="sample">結論(結果)：ゆえに、これらの豆は白い</li>
</ol>
<h4><span id="toc9">演繹としては正しいが、前提が間違っている演繹の例</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/animal_happa_tanuki.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3060" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/animal_happa_tanuki.png" alt="" width="180" height="180" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/animal_happa_tanuki.png 180w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/animal_happa_tanuki-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/animal_happa_tanuki-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 180px) 100vw, 180px" /></a></p>
<ol class="sample">
<li class="sample">前提１：有袋類の雌のお腹には袋がある</li>
<li class="sample">前提２：たぬきは有袋類である。</li>
<li class="sample">結論：雌のたぬきのお腹には袋がある</li>
</ol>
<p>しかし、たぬきは有袋類ではない。したがって、結論も間違っている。たぬきが有袋類という前提で進めていくならば、演繹としては結論は正しく、また論理的な推論である。つまり、演繹は前提を所与として、与えられた者として推論していくものであり、前提が正しいかどうかには関わらない。前提から必然的に導かれる結果に関わるのである。</p>
<blockquote>
<p>「前提が真であると認めたならば結論も真だと必ず認めねばならない推論を『演繹』と言います。それに対して、一応言葉を与えておくならば、『前提が真ならば結論が真である可能性が高くなるが、必ず真になるというわけではない推論』は『推測』と呼ぶことができるでしょう。しかし、この本が扱うのは『演繹』ですから、『推測』という言葉はもう忘れてしまってもかまいません。」</p>
<p>野矢茂樹「まったくゼロからの論理学」,7P</p>
<p>「ここで一点注意をしておきます。だいじな注意です。演繹かどうかは前提から結論する過程にのみ関わります。どういうことかというと、演繹の正しさは前提が正しいかどうかには関わらないのです。次の例を見てください。たぬきは有袋類だ。有袋類の雌のお腹には袋がある。それゆえ、雌のたぬきのお腹には袋がある。たぬきは有袋類ではありませんから、例３の前提はまちがっています。それでもこの二つの前提を認めたならば、『雌のたぬきのお腹には袋がある』という結論は認めねばなりません。つまり、例３は演繹なのです。あえて冗長な言い方をすれば、例３は演繹として正しいのです。」</p>
<p>野矢茂樹「まったくゼロからの論理学」,8P</p>
<p>「このように演繹的推論は前提の内容に暗々裏に含まれている情報を解明し、それを結論として導き出す分析的推論です。演繹的内容は前提の内容を分析し解明するために用いられる推論ですから、したがって演繹的推論においては結論は前提の内容以上のことを言明しない、つまり前提の内容を超えた知識の拡張はありません。しかしそのかわり、分析的な演繹的推論には真なる前提から必然的に真なる結論が導かれる、という重要な論理的特性があります。演繹の特性は『前提に提示されれている所持実は、想像しうるあらゆる状況において、その結論の真理を含まずには真となることができないということ、したがってそれは必然的様相によって受け入れられるということ』にあります。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,３2P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc10">帰納とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>帰納(インダクション)</strong></span>：</big>・個々の事例をもとにそれを一般化する推論のこと。</p>
</div>
<p>演繹が「<b>必然的推論</b>」であるとすれば、帰納は「<b>蓋然的推論</b>」であるとされている。</p>
<p>蓋然とは、「はっきりとは言い切れないが、確からしいさま」を意味する。演繹は前提が正しければ必ず結論が正しいのに対し、帰納における一般化は必ずしも正しいとは限らない。</p>
<h4><span id="toc11">帰納の例</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/german-shepherd-g41343dff8_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3061" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/german-shepherd-g41343dff8_640.jpg" alt="" width="640" height="377" /></a></p>
<p>個々の事例：私の家の犬は吠える。近所の犬の家も吠える。テレビに出ていた犬も吠えていた。</p>
<p>一般化：すべての犬は吠える。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/BIBAI2170_TP_V.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-3062" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/BIBAI2170_TP_V.jpg" alt="" width="459" height="306" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/BIBAI2170_TP_V.jpg 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/BIBAI2170_TP_V-800x533.jpg 800w" sizes="(max-width: 459px) 100vw, 459px" /></a></p>
<p>他にも有名な例としては、「すべてのカラスは黒い」という帰納がある。</p>
<p>しかし、この帰納は白いカラスが見つかっているので、誤った結論となる。</p>
<p>このように、帰納は必然的に正しいものに帰結するのではなく、「多分正しいだろう」というような蓋然的な推論であり、演繹よりも「弱い推論」であるとされている。したがって、論理学では演繹が重視される傾向にある。要するに、内容よりも形式が重視される。それゆえに、「論理的」という言葉が「<b>形式論理的</b>」という意味として捉えられがちとなる。</p>
<blockquote>
<p>「帰納というのは、個々の事例をもとにそれを一般化する推論のことです。例えば、『いままで飼った猫はお手を覚えなかった。それゆえ猫はお手を覚えないものなのだ』といった推論が帰納と呼ばれるものです。そこで、帰納と演繹を対にして、帰納が個別事例からの一般化ですから、演繹のことを『一般的に成り立つことから個別的なことを結論する推論』のように説明してるものを見かけたりします。例えば『ウサギは冬眠しない。それゆえいま飼っているウサギのミミちゃんも冬眠しない』といった推論です。たしかにこれも演繹ですが、演繹にはこうしたもの以外にもいろいろなタイプがあります。例えば、現在１９歳の人が明日誕生日をむかえることから、明日２０歳になると結論することなども、別に一般的なことから個別的なことを結論しているわけではありません。ですから、はっきり述べておきますが、演繹を帰納と対になるものに限定するような説明はまちがいです。」</p>
<p>野矢茂樹「まったくゼロからの論理学」,8P</p>
<p>「たとえば帰納的推論の拡張的機能について考えてみましょう。帰納的推論は、たとえばわれわれがこれまでみてきた限られた数の犬について、それらの犬は吠えるという性質をもっていることを尻、それをもとにして、だから、『すべての犬は吠える』というふうに一般化し、一般命題を確立する推論です。その場合、われわれがこれまでみてきた限られた数の犬について、それらの犬は吠えるという性質をもっているという情報が前提であり、その前提にもとづいて、結論は『すべての犬は吠える』というふうに普遍的な言明を行っています。つまり帰納の結論は前提が与えている情報(われわれがこれまでみてきた限られた数の犬に関する情報)を越えて、われわれがみたことのない、あるいはみることのできないすべての犬(過去に存在し、現在存在している、そして未来に存在するであろうすべての犬)について『すべての犬は吠える』ということを主張しています。いいかえると、帰納的推論はある部分に関する既知の情報からその部分が属するクラス全体について新たな情報を引き出しているのであり、過去の経験にもとづいて未知の一般的事象に関する知識を与えているのです。つまり帰納的推論は部分から全体へ、特殊から不変へと知識を拡張している、ということができます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,３4P</p>
</blockquote>
<p>メモ</p>
<p>はじめに</p>
<p>この記事は要約ではなく、私が気になった部分を抜粋して紹介していき、自分の興味と結びつけて知識を吸収することを目的としています。</p>
<p>特にこの本は「精神の生態学」を紐解くためのひとつの解釈コードの一つだと思って真剣に読んでいます。</p>
<h2><span id="toc12">アブダクション</span></h2>
<h3><span id="toc13">アブダクションとはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>アブダクション(abduction)</strong></span>：</big>・ある驚くべき現象の観察から出発し、その現象がなぜ起こったかについて何らかの可能な説明を与えてくれる仮説を考え出す方法。発想法、仮説的形成法、仮説的推論、リトロダクションとも呼ばれる。19世紀のアメリカの哲学者、チャールズ・サンダース・パース(C.S.<b>パース</b>)によって最初に紹介された。</p>
</div>
<blockquote>
<p>「アブダクションとは仮説を形成する思考の方法を意味し、パースはしばしばアブダクションをたんに『仮説』(hypothesis)とも呼んでいます。アブダクションの訳語として『仮説的形成法』、『仮説的推論』、あるいは『発想法』などの言葉が使われることもありますが、しかし最近わが国でも『アブダクション』という呼び方がそのまま一般にも使われていて、この言葉が定着しつつあるようです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,1P</p>
<p>「……アブダクションはすぐれた発見的機能を有するが、しかし可謬性の高い推論であり、帰納よりも論証力の弱い種類の蓋然的推論です……」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,4P</p>
<p>「本稿では、パースによって提唱されたアブダクション（abduction）という推論について考察をおこなう。彼によると、アブダクションとは、演繹法（deduction）、帰納法（induction）と並ぶ推論の基本的な形式のひとつであり、また、科学の方法（scientificmethod）において、仮説構築プロセスを担当する論理として位置づけられている。」</p>
<p>赤川元昭「アブダクションの論理」,115P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">アブダクションによる推論の形式の定式化</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">驚くべき事実Cが観察される</li>
<li class="sample">しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう</li>
<li class="sample">よって、Hが真であると考えるべき理由がある</li>
</ol>
<p>おそらく、Cはcase(事実)の略で、Hはhypothesis(仮説)を表す記号。パースの文脈ではCは「驚くべき事実」であり、Hは「説明仮説」。</p>
<blockquote>
<p>「驚くべき事実Cが観察される、しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、よって、Hが真であると考えるべき理由がある。ここで『驚くべき事実C』というのはわれわれの疑念と探究を引き起こすある意外な事実または変則性のことであり、『H』はその『驚くべき事実C』を説明するために考えられた『説明仮説』です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」55P</p>
<p>「パースは，推論の研究を進める中で，探究の三段階を位置付けた。まず，我々は驚くべき事実に出会うと，その驚きが解消されるようにその説明を考える。そして，説明を与えるような一つの仮説を考える。この事実から理論へ向かう段階が第一段階である。仮説が安全性を得るためには，検証されなければならない。そのためには，その仮説を論理的に分析し，事実によって検証できる帰結を導き出す必要がある。この段階が第二段階である。最後に，それらの帰結が経験とどれほど一致するのか，すなわち，仮説がかなり正確か，少々の修正を必要とするのか．あるいは，全く却下されるのかを判断する必要がある。この理論から事実へ向かう段階が第二段階である。以上の三段階は，アブダクション（abduction）．ディダクション（deduction），インダクション（induction，の三種類の推論に．それぞれ対応しているとされている。」</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,103P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">パースによる３つの例</span></h3>
<h4><span id="toc16">（１）知事のケース</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/stagecoach-g38394284d_640.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3063" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/stagecoach-g38394284d_640.png" alt="" width="640" height="320" /></a></p>
<p>（驚くべき事実C）トルコのある地方で、一人が馬に乗って、周りには四人の騎手がその人の頭上を天蓋で蔽っていて、通っていく人に出会う。</p>
<p>（仮説H）もしこの人物がこの地方の知事ならば、このように重んじられている理由に納得がいく。</p>
<h4><span id="toc17">（２）化石の発見のケース</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/fossils-geb3ccf325_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3064" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/fossils-geb3ccf325_640.jpg" alt="" width="640" height="427" /></a></p>
<p>（驚くべき事実C）魚の化石が陸地で発見される</p>
<p>（仮説H）もしこの陸地一帯がかつて海だったのならば、この陸地に魚の化石がある理由に納得がいく。</p>
<h4><span id="toc18">（３）ナポレオンのケース</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/napoleon-bonaparte-gb85c25589_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3065" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/napoleon-bonaparte-gb85c25589_640.jpg" alt="" width="546" height="640" /></a></p>
<p>（驚くべき事実C）無数の文書や遺跡が、ナポレオン・ボナパルトという名前の支配者に関連している</p>
<p>（仮説H）もし実在の人であったのならば、このように無数の文書や遺跡が存在することに納得がいく。</p>
<p>ある事実に驚くことができるかどうか、またはある現象をそもそも事実としてみなせるかどうかもポイントとなっていく。たとえばリンゴが木から落ちるということに全員が驚くことができるとは限らない。むしろ、驚くためにはなにか条件が必要となっていくのではないか。</p>
<blockquote>
<p>「例をあげて示しましょう。パースはたとえばつぎのような例をあげています(アブダクションは事実の発見、法則の発見、理論の発見のあらゆるレベルの発見にかかわりますが、しかし例としては事実の発見にかかわる仮説の例がわかりやすいし、パースがあげているのも事実の発見に関するものです)。(1)『わたしくはかつてトルコのある地方のある港町で船から降りて、わたしくが訪ねたいある家の方へ歩いていると、一人の人が馬に乗ってその人のまわりには四人の騎手がその人の頭上を天蓋で蔽って、通っていくのに出会ったことがある。そこでわたしくは、これほど重んじられた人となると、この地方の知事のほかには考えられないので、その人はきっとこの地方の知事に違いないと推論した。これは一つの仮説である。』（２）『化石が発見される。それはたとえば魚の化石のようなもので、しかも陸地のずっと内側で見つかったとしよう。この現象を説明するために、われわれはこの一帯の陸地はかつては海であったに違いないと考える。これも一つの仮説である。』（３）『無数の文書や遺跡がナポレオン・ボナパルトという名前の支配者に関連している。われわれはその人をみたことはないが、しかしかれは実在の人であったと考えなければ、われわれはわれわれがみたもの、つまりすべてのそれらの文書や遺跡を説明することはできない。これも仮説である。』」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">探求の論理学と論証の論理学</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>探求の論理学(the logic of inquiry)</strong></span>：</big>・アブダクションを主題にした新しい論理学のこと。アブダクションは発見的(拡張的)機能に重きがおかれている。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>論証の論理学</strong></span>：</big>・演繹を主題にした、論理学のこと。アブダクションが推論と見なされず、軽視されている。拡張的機能よりも分析的機能が重視されている。</p>
</div>
<p>パースの分類は２つの推論に、アブダクションという新たな推論を単に加えただけではない。アブダクションを主題とし、またアブダクションを最も重視した新たな論理学を提唱している。この新しい論理学をパースは「<b>探究の論理学(アブダクションの論理学)</b>」と名付けている。パース以前の論理学は「論証の論理学」と名付けられている。</p>
<p>パース以前の論理学ではアブダクションは推論とは考えられておらず、軽視されていたという点が重要。</p>
<blockquote>
<p>「しかしこのパースの三分法の推論の概念は、たんに推論の概念を拡張して、演繹と帰納の二種類の推論に、アブダクションというもう一つの種類の推論をくわえている、というだけのものではありません。パースはアブダクションというもう一つの種類の推論をくわえている、というだけのものではありません。パースはアブダクションという新たな第三の種類の推論の概念を確立することによって、演繹の論理学や帰納の論理学とは違う、アブダクションを主題にした新しい論理学というものを考えているのです。かれはその新しい論理学を『探究の論理学』(the logic of inquiry)、あるいは『アブダクションの論理学(the logic of abduction)』と呼んでいます。パースの『探究の倫理学』(アブダクションの論理学)は歴史的に演繹の論理学、帰納の論理学に続いて登場した新しいもう一つの論理学ということができるでしょう。古代ギリシアの哲学者アリストテレスが演繹の論理学(三段論法学)を創設し、イギリスの哲学者F・ベーコンとJ・S・見るらによって帰納の論理学が確立され、そしてパースが新たにアブダクションという第三の種類の推論をくわえて、それを主題にした『探究の論理学』を創設している、ということができます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,6P</p>
<p>「しかし、これに対し、論証の論理学は推論の形式を実際の探究の過程または文脈から切り離して、もっぱら推論の形式的構造をもとにして、推論の妥当性について研究します。つまり論証の論理学は前提から結論を導き出す際の、その導出の形式または規則が論理的に妥当か妥当でないか、正しいか正しくないか、ということを考慮します。そして推論が論理的に妥当か妥当でないか、正しいか正しくないか、ということは、推論の形式(前提と結論の間の論理的関係)のみに依拠しており、推論の内容(前提や結論の真偽)とは無関係です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,8P</p>
<p>「パースによれば、探求（inquiry）とは、信念（belief）に到達しようとする努力を指し、この探求という努力は、疑念（doubt）という刺激によって生み出され、信念が得られたときに停止する。そして、この信念の形成へと至る探求こそが、思考の唯一の機能だという」</p>
<p>赤川元昭「アブダクションの論理」,121P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">拡張的推論と分析的推論</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>拡張的推論</strong></span>：</big>新しい諸観念を生み出し知識の拡張をもたらす推論。発見的推論とも呼ばれる。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>分析的推論</strong></span>：</big>・前提の内容を分析解明し、その内容に密かに含まれている情報を結論において明確に述べるという仕方で、前提から結論を導き出す推論</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/7bcd2d4efa07ba01f9efe31e5578ddfd.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3068" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/7bcd2d4efa07ba01f9efe31e5578ddfd.png" alt="" width="485" height="245" /></a></p>
<p>アブダクションと帰納は「拡張的推論」であり、演繹は「分析的推論」であると分類されている。</p>
<blockquote>
<p>「探究という科学的行為は、諸問題を解決したり、いろいろな疑問に答えたり、そして発見を行い、新しい知識を獲得する、そういう重要な成果を上げるために、つまり知識を拡張するために行われます。ですから探究の論理学では、そのように科学的探究において重要な成果をあげ、知識を拡張するのに役立つ推論がもっとも重視されます。いいかえると、探究の論理学では推論の形式的妥当性とか論理的必然性という特性よりも、新しい諸観念を生み出し知識の拡張をもたらす推論の『拡張的』(発見的)機能が重視されます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,7P</p>
<p>「『拡張的』機能を有する推論──パースはそれを『拡張的推論』(ampliative inference,ampliative reasoning)と呼びます──にはアブダクションのほかに、帰納が含まれます。しかし帰納とアブダクションの『拡張的』機能には違いがあり、そしてこの二種類の拡張的推論をはっきりと区別し、科学的探究においてそれらが果たす異なった『拡張的』機能を明確に示しているところに、パースの探究の論理学のもっとも重要な特色があります。詳しくはあとで述べますが、手短にいうと、アブダクションは科学的探究のいわゆる『発見の文脈』(the context of discovery)において仮説や理論を発案する推論であり、帰納はいわゆる『正当化の文脈』(the context of justification)において、アブダクションによって導入される仮説や理論を経験的事実に照らして実験的にテストする操作です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,10P</p>
<p>「分析的推論というのは前提の内容を分析解明し(explicate)、その内容に暗々裏に含まれている情報を結論において明確に述べるという仕方で、前提から結論を導き出す推論のことを言います。つまり分析的推論は前提のなかにすでに含まれている以上のことを結論として導き出すことはできないのです。拡張的推論は前提の内容を拡張するために用いられるのに対し、分析的推論には拡張的機能はなく、それは前提の内容を分析し解明するために用いられる推論です。そして科学的探究における分析的な演繹的推論の役割は、アブダクションによって提案される仮説や理論を前提にして、その仮説や理論の内容を分析解明し、その仮説や理論から実験可能などんな経験的初諸帰結・予測が必然的にあるいは高い確率で導かれるかを示すことによって、その仮説や理論を実証的事実に関連付けることです。こうして分析的な演繹的推論は科学的探究において、仮説や理論を提案するアブダクションとその仮説や理論を実験的にテストし検証する帰納との間の、いわば仲介の役割を果たすのです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,12P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">論理学は規範科学である</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>規範科学</strong></span>：</big>・一般には規範学と呼ばれ、一定の価値目的を実現するための当為・規範を取り扱う学問だとされている。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/24678cf0e3129c5c2f1bbf9592217713.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3069" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/24678cf0e3129c5c2f1bbf9592217713.png" alt="" width="515" height="225" /></a></p>
<p>パースはこの規範科学として美学、倫理学、論理学の３つの学問を挙げている。そして、論理学は倫理学に依拠し、倫理学は美学に依拠するという。</p>
<p>パースによると、論理学は「<b>われわれはいかに思考すべきか</b>」という「<b>規範</b>」の問題にかかわるものであるという。</p>
<p>それゆえに、心理学のような「<b>どのように思考するのか</b>」というような「<b>事実</b>」の問題にかかわるものに依拠する訳にはいかないという。</p>
<p>したがって、論理学は心理学ではなく、倫理学に依拠するべきであり、また倫理学はさらに美学に依拠するべきであるという。</p>
<blockquote>
<p>「かれによると、規範科学には論理学のほかに、倫理学と美学が含まれますが、それらの規範科学はただいに本質的にかかわり合っています。かれはいいます、『美学は理念の科学である。すなわち、それ以外のいかなる理由も考えずに、客観的に賛美に値するものを研究する科学である。(中略)倫理学──すなわち正邪に関する科学──は最高善(summum bonum)を決定するのに美学に訴えてその助力をえなくてはならない。それは自己統制的、あるいは熟慮思惟に関する理論であり、よって論理学はその第一原理を倫理学に求めなければならない』。つまり論理的規範は倫理的規範に依拠し、倫理的規範はさらに美的規範に依拠するというふうに、それらの規範は本質的につながっていて、論理学はその基礎を倫理学に求め、そして倫理学は美学に訴えてその助力をえなくてはならない、というのです」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,21P</p>
<p>「心理学はわれわれは実際にどのように思考するのか(how we do think)という事実の問題をとり扱いますが、しかし論理学はわれわれはいかに思考すべきか(how we ought to think)という規範の問題にかかわります心理学は心理的経験的事実としての思考作用(正常な思考であれ異常な思考であれ、あるいは心理学者たちはむしろ異常な思考に関心があるかもしれません)について実証的に研究する経験科学(empirical science)です。心理学は人間の思考作用を因果諸法則によって支配された生理学作用として取り扱います。しかし論理学が取り扱う思考はある目的(諸問題を解決したり、発見を行ったり、新しい知識を獲得するという目的)のために意識的に熟慮して行われる自己統制的な思考であり、つまり論理学は『自己統制的、熟慮的思惟に関する理論』なのです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,21P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">論理的行為と倫理的行為の関係とは</span></h3>
<p>１：パースは<b>思考を行為の一種と考えている</b>(プラグマティズム)</p>
<p>２：倫理学では、行為は規範や理念の意識のもとに、自らの意思によって熟慮的に自己統制的に行われる行動のことをいう。</p>
<p>３：論理学においても、思考は「規範や理念によって熟慮的に意識的に統制された思考」である。</p>
<p>したがって、<b>論理的行為は倫理的行為の一種</b>であるとみなされている</p>
<p>論理的行為は手当たり次第によく考えないで観察したり、実験したりするものではない。ある「目的」をもって、よく考えた上で「意識的」に行為するものである。</p>
<p>ある思考が良いか悪いか、正しいか正しくないか、妥当か妥当でないかというふうに自らを評定し、批判し、統制していく倫理的行為である。</p>
<blockquote>
<p>「すなわち、『論理的思惟はもちろん思考の一種である。つまりそれは規範や理念によって熟慮的に意識的に統制された、そういう種類の思考なのである。こうしてパースは論理的思惟を分析し、それが熟慮的で自己統制された思考から成り立っていることを知ったのである。それゆえ、かれは論理学を熟慮的思考の理論と定義するのである』このようにパースは論理的思惟を分析した結果、論理的思惟は規範的特質を有するものであることがわかって、かれの規範科学としての論理学の概念にいたっているのです。論理的思惟が規範的であるというのは、つまりそれは自覚的な規範意識のもとに行われる好意であり、『良い』『悪い』とか、『正しい』『正しくない』とか、『妥当である』『妥当でない』というふうに評定し批判し統制しうる行為である、ということです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,23P</p>
<p>「科学的観察に限らず、ある明確な目的をもって熟慮的に意識的に遂行されるあらゆる科学的探究の方法は本質的に規範的特性を有するものである、とパースは考えています。したがってパークスがいうように、『こうしてパースの規範科学としての論理学の概念は、一つの観点からみると、すなわち論理学はもっとも広い意味における科学的方法に関する研究であるという考えになるのである。』いいかえると、パースは論理学を規範科学として考えることによって、論理学は規範的特性を有するあらゆる科学的探究の方法に関する研究であり、すなわちもっとも広い意味における探究の論理学でなくてはならない、と考えるにいたっているのです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,24P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">探究の論理学は「真理」を目的とする</span></h3>
<p>１：パースは、人間の精神には自然について正しい推測へとわれわれを導く自然的性向があるという。つまり、真理を獲得できる本能(天性)があるという</p>
<p>２：こうした本能はカントのいうようなアプリオリなものではないという。真理を獲得できる本能、つまり「理性」は環境に「適応」してきた結果、形成されていったものだという。たとえば魚が水中を泳ぐためにヒレを形成していったのと同じだという。</p>
<p>３：自然から真理を引き出すためには、「<b>なぜか</b>」と問いかける必要がある。</p>
<p>「なぜか」という問いかけは「<b>仮説</b>」と関係している。「なぜこんなところに魚の化石があるのか」、「なぜリンゴは落ちるのか」、こういった謎や疑問に納得できるような「<b>説明仮説</b>」を立てることが真理探究にとって重要になる。</p>
<p>そして、この仮説形成こそ、アブダクションの一番の役割である。真理を引き出すためには優れた「洞察力と想像力、推論の技術」が必要になってくるという。アブダクションだけができても真理は引き出せず、演繹や帰納の技術も必要になる。</p>
<blockquote>
<p>「科学者たちはかれらの仕事においてどんな方法を用い、どんな種類の推論をどのように用いているのか、という実際の科学的研究活動の事実を記述するものだけではありません。いま述べましたように、探究の論理学は規範的観点に立って科学的探究の諸法則を研究するものでなくてはなりません。つまり科学的探究は真理の探究を目的とし理念としてりうのであり、したがって探究の論理学はその目的または理念を達成するためにわれわれはいかに探究を行うべきか、いかに思考し推論を行わなくてはならないか、ということについて──つまり探究の行為の規範的諸原理について──考える規範科学でなくてはならない、ということができます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,24-25P</p>
<p>「自然の事象に対して『なぜか』と問いかけて、その疑問に答えるために推論を行い、納得のいく『説明仮説』を立てるということは、たとえば犯人の自白を促す誘導尋問のように、自然に対してわれわれ探求者の側から積極的に問いかけることによって、つまり自然に対していわば誘導尋問を行うことによって、自然から真理を引き出そうとする企てです。自然からどんな真理を引き出すことができるかは、自然に対するわれわれの問いかけ方いかんによる、つまりわれわれの仮説の建て方いかんによるのです。正しく仮説を立てて自然に対してうまく問いかけ誘導尋問を行えば、自然はきっとその本性をわれわれに示すでしょう。しかし自然にうまく問いかけ誘導尋問を行えば、自然はきっとその本性をわれわれに示すでしょう。しかし自然にうまく問いかけて自然から真理を引き出すためには、すぐれた洞察力と想像力が必要であり、そしてもちろん熟練した推論の技術が不可欠です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,59P</p>
<p>「人間の精神には本来、自然について正しい推測へとわれわれを導く自然的性向があり、つまり考えられるあらゆる理論をいちいち吟味しなくても、有限回の回数によって唯一の真なる理論を考え当てることのできる本能的能力が備わっている、と考えなくてはなりません。パースは、この事実を確信することが真理を探究するあらゆる科学的企ての根底にあるもっとも基本的な前提であり、それを認めることができなければ、真理を学ぼうとするすべての企ては放棄しなくてはならない、といいます」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,74-75P</p>
<p>「カントにとって、アプリオリな直観の形式やカテゴリー、およびその妥当性は『それ自体として存在している実在的自然の諸法則からは、原則的に独立しており、そこから生じてきたものではないと考えられている』が、しかし『進化現象という疑いえぬ事実に直面しているわれわれには、もはやそうした考えは許されない』。『人間の理性は、それが備えているあらゆる直観の形式やカテゴリーを含めて、人間の頭脳と全く同じように、自分をとりまく自然の諸法則との絶え間ない相互作用の中で有機的に形成されてきたもの』であり、『自然的外界の諸法則に系統発生的に適応していく過程の中で成立したもの』である。『＜適応＞という言葉は……われわれの足が地面を歩くのに適しており、魚のひれが水中を泳ぐのに適しているというのと同じ意味で、われわれの直観形式やカテゴリーが実在的に存在するものに＜適している＞という意味で使われているにすぎない』。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」,77P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">アブダクション２段階：【第一段階】仮説が推量として思いつく過程、アブダクティブな示唆とは</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>仮説が推量として思いつく過程</b></li>
<li class="sample"><b>選択された仮説が受け入れられるかどうかを吟味する過程</b></li>
</ol>
<p>探求中の問題の現象について考えられる説明をあれこれ推測し、心に思い浮かぶ仮説を思いつくままに列挙する段階。</p>
<p>ブレインストーミングという方法があるが、そうしたアイデアをとりあえず列挙する段階と似ているかもしれない。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>アブダクティブな示唆</strong></span>：</big>・自然について正しく推測する本能的能力。あたりをつけるようなイメージ。閃光のように思いがけなく、突然現れるもので、論理的に制御することは難しい。</p>
</div>
<p>第１段階は「洞察」や「閃き」が働く段階である。こうした閃きは「アブダクティブな示唆」と呼ばれている。</p>
<p>例：アルキメデスが入浴中に浴槽の水位の変化を見て、黄金の割合を求めるという問題を解決した。ケクレが尻尾を加えた蛇の夢を見て、ベンゼンの分子構造式を発見した。ニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て閃いたなど。そうした閃光のような洞察は、論理的に制御することが難しいという。方程式を解くように、演繹的にアブダクティブな示唆は得られない。</p>
<h3><span id="toc25">アブダクティブな示唆は非合理的な神秘的能力か</span></h3>
<p>たとえばキリストが水をぶどう酒に変えたといったような、神秘的能力なのか、という話。神様が発見を導いた啓示なのか。パースいわく、そうではないという。たとえば魚が水中で泳ぐためにヒレを発達させたのは非合理的、神秘的なものではなく、合理的なもの。</p>
<p>つまり、「アブダクティブな示唆」は自然に適応するために進化によって、自然と相互作用によって得られていった合理的な本能的能力であるということ。こうしたアブダクティブな示唆を認めることが、探究の根底にあるもっとも基本的な前提だという。<b>進化論的思想</b>とも呼ばれている。</p>
<p>パースは、「人間の精神には本来、自然について正しい推測へとわれわれを導く自然的性向があり、考えられうるあらゆる理論をいちいち吟味しなくても、有限回の推測によって唯一の真なる理論を考え当てることのできる本能的能力が備わっている」と主張している。この主張の是非はさておき、そうしたことを前提としたほうが、探究は楽しいのかもしれない。</p>
<p>アブダクティブな示唆が単に本能に導かれたものであったり、空想的なものであったり、偶然的なものであったとしても、事実と無関係ではない。また、この第一段階は単なる心理学の問題でもない。</p>
<p>たとえば「リンゴが落ちる」という驚くべき事実を見て、「物体の中には引力が働いている」という示唆、閃きを得たとする。たとえこの示唆が単なる推量的なもの、空想的なものであったとしても、「<b>何らかの論理的ルールが暗黙のうちに働いている</b>」ともパースはいう。ここがすこしややこしい。</p>
<h3><span id="toc26">アブダクションな示唆と、幸運な推測の違いとは</span></h3>
<p>「幸運な推測、非合理的要素(ポパー)、創造的直観(ベルクソン)、無意識の働き(ケストラー)、超論理的な直観、啓示」と「アブダクティブな示唆」との違いは一体どこにあるのか。なかなかむずかしい。</p>
<p>１：演繹のように必然的に、論理的な通路によって仮説を発見することはできないことをパースは認めている。つまり、論理的に制御できない要素がある。一方で、アブダクティブな示唆には何らかの論理的ルールが暗黙の内に働いているともパースは述べているので、そうした論理的なルールを取り出すことができれば、アブダクションの論理形式になりうるともいう。ただしこの「論理的」という意味合いが形式的かどうかが問題になる。</p>
<p>２：第一段階(閃光のように現れる示唆)を仮に非論理的な段階、第二段階(熟慮的な推論)を論理的な段階だとしても、この２つの段階は相反するものではなく、両方が補完的な関係にあり、それによって仮説の形成が可能になるという。２つセットで、はじめてアブダクションになる。</p>
<p>たしかになんらかのアイデアを思いついたり閃いたとしたら、次にそのアイデアはほんとうに的を得ているのかどうか、じっくり、頭を使って考えるフェーズに入る。たとえば夢で見ていたことをメモして、実はそんなにたいしたことなかったな、と冷静に考えることもある。いずれにせよアブダクションは非論理的ではなく、論理的な行為である。</p>
<h3><span id="toc27">どうしてパースはアブダクティブな示唆にも論理的ルールが暗黙の内に働いていると思ったのか</span></h3>
<p>パースは「人間の精神は自然の諸法則の影響のもとで発展しているので、そのために人間はある程度自然のパターンにしたがって自然に思考するということは疑いえない」と述べている。</p>
<p>たしかに自然には一定の法則がある。たとえば力の大きさは質量に比例する。そのような自然の中に生きているのだから、人間の思考も同様になにかしらのパターンに沿って形成されているのであり、デタラメで偶然的、神秘的なものではないというわけだ。つまり、合理的で合法則的なものであり、ある種の論理性があるのではないか、と考えるのもわからなくはない。しかし一方で、アブダクティブな示唆は閃光のように突然くるもので、意図的に、方程式を解くように起こすことはできない。かといってそのような示唆が非合理的に生じるものではない、というのも理解できる。この問題は次に扱う、論理的ではあるが形式論理的(演繹的)ではないという問題につながってくる。</p>
<blockquote>
<p>「パースはアブダクションによる仮説は二つの段階を踏まえて行われると考えているのです。つまりアブダクションは最初にいろいろな仮説を思いつく示唆的(洞察敵)段階とそれらの仮説について検討し、そのなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ(あるいは、それらの仮説のほかにもっと適切な仮説がないかどうかを考える)熟慮的な推論の過程から成り立っています。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」50P</p>
<p>「その第1段階は、探求中の問題の現象について考えられうる説明をあれこれ推測し、心に思い浮かぶ仮説を思いつくままに列挙することであり、つまりこの段階ではアブダクションは考えられうる諸仮説をただ示唆するだけです。そして洞察(閃き)が働くのは主にその第一段階においてです。アブダクションの第二段階は、それらの思い浮かぶ諸仮説のリストのなかから、十分熟慮して、もっとも正しいと思われる仮説を選び選択する過程です。いいかえると、科学的探求者はたとえ偶然の閃きによって仮説を思いついたとしても、かれはただちにその仮説を採択するのではなく、かれはさらに、その仮説が考えられうる仮説のなかでもっとも理にかなった仮説といえるかどうかを熟慮し、もっとも正しいと考えられる仮説を選ばなくてはなりません。このようにアブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままに提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている、というのです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」68P</p>
<p>「アブダクションの過程について，パースは様々な記述をしている。アプダクションの本質的な部分は次の2つの過程に分けることができる。</p>
<p>①仮説が推量〔guess）として思いつく過程。</p>
<p>②選択された仮説が受け入れられるかどうかを吟味する過程</p>
<p>多くの論者が「発見」を心理学の問題と見なすのは，①のためである。パースはこの過程については「自然の光（il lume neturaie natural light）」，「本能的洞察〔instinctive insight）」，あるいは，「天性（genius）」〔1．6305，604）を持ち出す。そして，「アブダクションは結局推量にすぎない。」（7，219）という。しかし，そうした推量が全く空想的なものであり，「自然の光」や「本能」に導かれたものであると考えられるとしても，それらは驚くべき事実と無関係なはずはない。驚くべき事実からその仮説が思いつかれたこと自体，そこには何らかの論理的ルールが暗黙のうちに働いているのであり，それを形式化すれば，アブダクションの論理形式になるというのがパースの主張である。②の過程については，適格試験上の仮説の採用（adoption of a hypothesis on probation）と呼ばれ，「アブダクション的なインダクション」とも呼ばれた過程である、しかし，「まず，我々は既知の事実を十分に見て，それらがその仮説にどれほど一致するか，そして，どれほどその修正が必要かを見るために，それらを注意深く吟昧する。それは，非常に適切で必要な探究である．しかし，それはアブダクションであって，インダクションではない。そしてそれは仮説がその事例の事実に適合していく創始性（ingenuity）を示すにすぎない。研究者の大部分がするように．これをインダクションとするのは，推論についてのなされうる最大の過ちである。もし，そのように考えられたなら，それは，post hocergo propter hocの誤謬である。しかし，もしそれが，インダクションの適用に先甑つ過程と考え，仮説のテストを意図するものでなく仮説を完全に，そして，それをより明確にするための助けと意図すると，その手順はうまく行われた探究の本質的な部分である。」（7，114）このように，パースは，の部分は互いに結び付いた一つの過程，つまり，アブダクションを仮説を定立する過程としてとらえる。「アブダクションは理論を求め，インダクションは事実を求める。」（7218）のである。」</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,107P「ところで、『アブダクティブな示唆は閃光のようにわれわれに現れる』ということについてですが、パースはこの洞察の働きについて、それは何か説明不可能な『非合理的要素』とか不可解な神秘的能力というようなものではなく、それは自然に適応するために人間に本来備わっている本能的能力である、といいます。それはつまり、人類進化の過程のなかで自然の諸法則との絶えざる相互作用を通して、それらの自然の諸法則の影響のもとで育まれ発展してきた人間の精神に備わる『自然について正しく推測する本能的能力』である、というのです。そしてパースによると、人間の精神には本来この『自然について正しく推測する本能的能力』が備わっているという進化論的事実を認めることが、あらゆるアブダクティブな探究の根底にある(ひいてはあらゆる科学的探究の根底にある)もっとも基本的な前提です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」69P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">アブダクションは後件肯定の誤謬を犯している</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>後件肯定の誤謬</strong></span>：</big>・後件を肯定することによって前件をも肯定するところに生じる虚偽のこと。</p>
</div>
<ol class="sample">
<li class="sample">前提１：もし英雄であるならば、色を好む</li>
<li class="sample">前提２：田中さんは色を好む</li>
<li class="sample">結論：したがって、田中さんは英雄である</li>
</ol>
<p>色を好むからといって、必ずしも英雄であるわけではないので、虚偽となる。</p>
<p>さらに形式化すると、以下のようになる</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">前提１：もしPならば、Qである</li>
<li class="sample">前提２：Qである</li>
<li class="sample">したがって、Pである</li>
</ol>
<p>「もしPならば、Qになる」のPを<b>前件</b>、Qを<b>後件</b>という。Pが真であるかどうかを検証する際に、「Qである、したがってPである」という推論は演繹として間違っているという話。</p>
<p>AならばB、BであるならばAという誤った演繹は日常では使われがちなのかもしれない。「雨が降っているならば、地面は濡れる。地面が濡れている、したがって雨が降っている。」しかし誰かがシャワーで水をまいただけかもしれない。</p>
<blockquote>
<p>「しかしこの式は後件Cを肯定することによって先件Hを肯定しているものであり、それはつまり論理学でいう『後件肯定の誤謬』(the fallacy of affirming the consequent)をおかしており、形式論理の規則に反しています。……したがってアブダクションは論理的な推論であるというのは演繹を正しい推論のモデルと考える論理学の通念では当然認め難い推論の概念でしょう。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」63P</p>
<p>「こうしてパースがアブダクションを論理的な推論とみなすのは、もとより形式論理の推論の概念とは基本的に違う意味においてであることはいうまでもありません。『アブダクションはその結論を問題的に、または推測的に言明にするにすぎない』。仮説というものは論理的規則にしたがって形成しうるものではなく、われわれは推測によって、いわば試行錯誤的に仮説を考え出さなくてはなりません。しかしアブダクションはなんら合理的な思惟なしに行われる放縦な当てずっぽうの推測である、ということではもちろんありません。われわれはむしろつぎのようにいわなくてはならないでしょう。つまりアブダクションは論理的規則にしたがって機械的に行われる推論ではなく、試行錯誤的な推測であるからこそ、それゆえにかえって、アブダクティブな推測においては、とくに意識的に熟慮的で自己修正的でなくてはならないのであり、十分納得のいくもっとも理にかなった推測に到達するまで熟考に熟考を重ねなくてはならない、といわなくてはなりません。そしてそういう意味でアブダクションは論理的に統制された推論とみなしうる、ということはすでに繰り返し論じたとおりです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」65P</p>
<p>「実は、パースのいう論理においても、論理学の教科書でいう論理においても、妥当な推論とは、「前提が正しい場合には、結論も正しくなる」ような推論を意味している。ただし、論理学の教科書でいうところの妥当な推論とは、その形式によって、必然的に正しい結論が導き出せるような推論である。それは、「AならばB」かつ「A」という前提から、「B」という結論が必然的に導き出されるような推論形式だといえる。これに対して、パースのいう論理の妥当性とは、推論形式の問題ではなく、推論内容の問題である。つまり、妥当な推論とは、推論の前提と結論とが実際に事実と合致するかどうかという基準によって判断される。したがって、AやBといった内容を伴わない単なる記号だけでは、推論の妥当性を判断することはできない。たとえば、「人間であれば死ぬ（AならばB）」かつ「人間である（A）」という前提から、「死ぬ（B）」という結論が導き出される場合、これらの前提と結論が事実と合致するときにはじめて、この推論は正しい（もしくは妥当な）推論と呼べるものになる。」</p>
<p>赤川元昭「アブダクションの論理」,125P</p>
<p>「このように、パースの論理学では、推論の正しさとは、推論形式ではなく、前提と結論の内容が事実に合致するかどうかという判断基準によって、明確に区分されている。そして、推論の内容が正しい（表現を変えるならば、推論内容が正しくなくなってしまうような事実が存在しない）という点では、必然的な推論だけではなく、いわゆる蓋然的な推論、つまり、アブダクションや帰納法も正しい論理の範疇に属することがわかる。」</p>
<p>赤川元昭「アブダクションの論理」,127P</p>
<p>「このアブダクションの論理形式に関して，第一にその形式が充たされていないならば．それは仮説としてさえ認められない，，なぜなら，仮説は事実を説明しなければならないからである、、第二に，この形式は．明らかに後件肯定の誤謬（fallacyofaffirmingllleconsequent）を犯しており，妥当ではない、もちろん，妥当でないということは，前提が真でも結論が真であるとは限らないということであり，無意味であるということではない。ただ，誤りの可能性も多分にあるので安全性を得るためには，必ず検証されなければならない。第三に，「Aの全内容がその前提「もしAが真ならば，Cは当然のことである』にすでに表されていなければ，Aはアブダクション的に推理（beinfered）されえない，あるいは，次のように表現してもよい、，アブダクション的に推測（beconjectured）さ才しえないと。」（5，］89）つまり，Aの内容が存在し，それがCと結び付けられなければ，アブダクションになり得ないのであり，その結び付きこそがアブダクションの本質である。「アブダクション的な暗示（suggestion）は閃きのようにやってくる。それは，洞察（insight）の行為であるが，非常に誤りやすい洞察である。仮説の様々な要素が以前に我々の精神にあったというのは真である。しかし，我々の考察以前に新しい暗示を閃かすのは，我々が以前には決して一緒にしようとは夢にさえ見なかったものを一緒にしようとする考えである。」（5，181）パースは，演繹と帰納という二分法では明確にならなかった探究の過程の推論をアブダクションを導入することにより，明確にしようと試みたのである」</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,105P</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc29">わかりやすい誤りの例</span></h4>
<p>前提１：もし人間であるならば(前件)、哺乳類である(後件)</p>
<p>前提２：クジラは哺乳類である(後件の肯定)</p>
<p>結論：クジラは人間である(前件の肯定)</p>
<p>クジラは人間ではないから誤りである。後件が肯定されたからといって、前件が肯定されるわけではない。</p>
<h3><span id="toc30">アブダクションの形式に、後件肯定の誤謬のケースをあてはめてみる</span></h3>
<p>驚くべき事実C：地面が濡れている</p>
<p>仮説H：雨が降ったと考えるならば、地面が濡れいていることに納得がいく。</p>
<p>しかし、地面が濡れている理由は雨以外にも考えられる。それゆえに、アブダクションは蓋然的な推論であるといえる。つまり、多分そうであろう、というような弱い推論である。演繹は必ずそうだという強い推論であるので、パース以前の論理学では、アブダクションは推論として認められていなかった。つまり、論理的であると認められていなかった。また、パースはアブダクションを「<b>後件から前件への推論</b>」とも呼んでいる。</p>
<h3><span id="toc31">不当周延の虚偽とはなにか、意味</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>不当周延の虚偽(fallacy of illicit minor)</strong></span>：</big>・前提では不周延である概念を結論で周延させるために生ずる虚偽。</p>
</div>
<p>例：（大前提）すべての鳥は翼がある。（小前提）ある動物は鳥である。ゆえに、すべての動物には翼がある。</p>
<p>小前提の小概念は「ある動物」であるのに、結論では「すべての動物」となり、より広く周延してしまっている。</p>
<h4><span id="toc32">（１）演繹のケース</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">この袋の豆はすべて白い(大前提-規則)</li>
<li class="sample">これらの豆はこの袋の豆である(小前提-事例)</li>
<li class="sample">ゆえに、これらの豆は白い(結論-結果)</li>
</ol>
<p>アブダクションのように、多分豆は白いだろう、というような弱い推論ではない。前提が真ならば、必ず結論も真になる。演繹のケースは不当周延の虚偽を犯していない。結論が前提より大きくない。前提から言える以上のことを、結論で述べていない。それゆえに、拡張的ではないともいえる(新しいことを発見しない)。</p>
<h4><span id="toc33">（２）帰納のケース</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">これらの豆はこの袋の豆である(小前提-事例)</li>
<li class="sample">これらの豆は白い(結論-結果)</li>
<li class="sample">ゆえに、この袋の豆はすべて白い(大前提-規則)</li>
</ol>
<p>小前提と結論をもとに大前提を推論する形式。多数の主語を一つの主語によって置き換える。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/099940764771393533ab79a4701d9ab2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3071" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/099940764771393533ab79a4701d9ab2.png" alt="" width="215" height="435" /></a></p>
<p>いわばサンプルとして、袋の豆を取り出してみて、白かったので残りの豆も白いだろう、というように一般化している。「これらの豆」という小概念であるのにも関わらず、結論では「すべての豆」というふうに、より広く周延してしまっている。それゆえに虚偽となる。つまり、正しい三段論法になっていない。</p>
<p>部分に関する情報に基づいて、その部分が属する全体について言及している。</p>
<h4><span id="toc34">（３）アブダクションのケース</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">この袋の豆はすべて白い(大前提-規則)</li>
<li class="sample">これらの豆は白い(結論-結果)</li>
<li class="sample">ゆえに、これらの豆はこの袋の豆である(小前提-事例)</li>
</ol>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/fb161123870fe45b7287a4a0a8ae2469.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3072" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/fb161123870fe45b7287a4a0a8ae2469.png" alt="" width="280" height="472" /></a></p>
<p>大前提と結論をもとに小前提を推論する形式。多数の述語を一つの述語によって置き換える。</p>
<p>大前提と結果が真であったとしても、導き出された事例は必ずしも真であるとは限らない。いわゆる中名辞不周延の誤謬のケース。中名辞とは大前提と小前提の両方にあって大概念と小概念を媒介する中概念を言語で表わしたもの。ややこしいのでいずれ論理学基礎で学んでいく予定。</p>
<p>たとえば眼の前の袋の豆をすべて調べて、すべての豆が白かったとする。そして、袋の近くにあった豆も白かったとする。それらが真であったとしても、もしかしたら違う袋が部屋のどこかにあるかもしれない。たとえば友達の田中さんが食べ残した別の袋の白い豆かもしれない。要するに、前提以上、前提を越えて、なにかを結論付けてしまっている、という「<b>飛躍</b>」がある。</p>
<p>演繹のように必然的な推量ではない。アブダクションとは「<b>仮説をつくること</b>」であり、多分この袋の豆だろうと推量することである。アブダクティブは帰納よりも推論が弱いケース。</p>
<blockquote>
<p>「〘名〙 (fallacy of illicit minor の訳語) 定言的三段論法で、結論中の小概念が、小前提中のそれより広く周延することから起こる虚偽。たとえば「（大前提）すべての鳥は翼がある。（小前提）ある動物は鳥である。ゆえに、すべての動物は翼がある」では、小前提の小概念は「ある動物」であるのに、結論では「すべての動物」となり、より広く周延するため、虚偽となる。小名辞不当周延の虚偽。」</p>
<p>精選版 日本国語大辞典</p>
<p>「三段論法の形式で書き表してみると、帰納は三段論法の小前提と結論から大前提を推論するという形式になっており、仮説(アブダクション)は大前提と結論から小前提を推論するという形式になっています。こうした帰納と仮説の推論の帰納について、パースはつぎのように述べています。『帰納の機能は一連の多数の主語を、それらの主語および他の無数の主語を包含するただ一つの主語によって置き換えることである。こうしてそれは＜多様性の統一体への還元＞の一種である』。そして『仮説の機能は、それら自体では統一体を成していない多数の述語を、それらの述語をすべて含み、（多分）他の無数の述語も一緒に含む、ただひとつの述語によって置き換えることである。したがってそれも多様性の統一体への還元である。』」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」101P</p>
<p>「近世の論理学は、こうした代表理論自体は捨て去ったが、「周延的かどうか」という区別は受け継いだ。すなわち近世の論理学においては、主語等の項(項辞)を専ら「概念」と看做す考えが有力となり、概念に対応する個体群を「外延」と呼ぶようになったが、これに伴ない、ある命題(ないし判断)の主張が、命題を構成するある概念の外延の全てに及ぶ場合を、その命題においてその概念は「周延されている(周延している)」とし、また外延の全てに及ぶとは限らない場合を、その概念は「周延されていない(周延していない)」ないし「不周延である」として区別するようになった。……こうした周延・不周延の区別は、三段論法の規則において重要な役割を果たす。まず、三段論法において、媒概念は前提において少なくとも一度は周延されていなければならない、という規則が認められ、この規則に反する推論は「媒概念不周延の誤謬」を犯しているとされる。また、前提において周延されていない大概念ないし小概念を結論において周延してはならない、という規則が認められ、これに反する推論は「大概念(ないし小概念)不当周延の誤謬」を犯しているとされる」</p>
<p><a href="http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/medieval/j/logic/distrib.html">URL</a></p>
<p>「A「頭の良い人間は皆、読書家だ。そして私もまた、よく本を読む。だから私は頭が良い」 Aの発言は「XはYである。ZもYである。故にZはXである」という形式の三段論法で、これは論理学で媒概念不周延の虚偽と呼ばれる。このタイプの推論は、Z⊆X⊆Y（⊆:部分集合）でない限り成立しないので、恒真命題ではない。Aの発言は「カラスは生物である。スズメバチも生物である。故にスズメバチはカラスである（あるいはカラスはスズメバチである）」という発言と論理構造が等しい。また、Aの発言について、「頭の良い人間は皆、読書家だ」が真であったとしても、「読書家は頭がいい」はそれの逆となるため、必ずしも真であるとは限らない。」</p>
<p><a href="https://www.weblio.jp/content/%E5%AA%92%E6%A6%82%E5%BF%B5%E4%B8%8D%E5%91%A8%E5%BB%B6%E3%81%AE%E8%99%9A%E5%81%BD">WIKI</a></p>
<p>「しかしうえに三段論法の形式で書き表して示したように、帰納とアブダクションの推論の形式は形式論理の規則に反しており、論理的に(形式論理的に)妥当な推論の形式ではありません。ということは、つまり帰納もアブダクションもともに、推論の形式的妥当性や論理的必然性を犠牲にして、そのかわり、経験的事実の世界に関する知識を拡張するために用いられる拡張的推論である、ということを意味しています。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」85P</p>
<p>「ケースーこれらの豆はこの袋から取り出したものである。リザルトーこれらの豆は白である。∴ルールーこの袋から取り出した豆はすべて白である。この場合．ケースとリザルトが真であっても，導き出されたルールは必ずしも真であるとは限らず，小名辞不周延の誤謬を犯している。例えば，この袋の中には白と赤の豆が人っており，たまたま取り出した豆が白かったということも考えられる。しかし，この種の推論が意味をなさないということにはならない。この推論は，ケースを増やすことによって確実性は増加する。つまり，物事の真偽を確かめるのに有効な推論である。この推論をインダクションと名付けておく。さらに，次のように順を入れかえる。ハイポセシス（アブダクション）ルールーこの袋から取り出した豆はすべて白である。リザルトーこれらの豆は白である。．ケースーこれらの豆はこの袋から取り出したものである。この場合，ルールとリザルトが真であっても，導き出されたケースは，必ずしも真であるとは限らず，中名辞不周延の誤謬を犯している。これらの豆は全く別の袋から取り出したものかもしれない。このように，全く見当外れの可能性もある。この推論は当て推量に近いものである。しかし，全く根拠がないわけでもなく，むしろそう考えることによって新しい知識を獲得することが可能となる。この推論は，ハイポセシス（アブダクション）と呼ばれている。」</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,104P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc35">アブダクションは当て推量ではない</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>当て推量</strong></span>：</big>・一般に、確かな根拠もなしに自分勝手におしはかること。あてずっぽう。</p>
</div>
<p>アブダクションは自分勝手にあてずっぽうで推量することではない。</p>
<p>１：アブダクションは仮説を推測的に言明しているにすぎない</p>
<p>２：アブダクションは間違う可能性のある、論証力の弱いタイプの推論である</p>
<p>３：だからといって当て推量ではない。なぜなら、「そのように考えるのが理にかなっている」というふうに納得できる「合理的な根拠」に基づいているからである。また、そうした仮説形成が熟慮的に行われるのであり、したがって「論理的に統制された推論」であるとパースは言う。ただし、この「論理的」という言葉は演繹のように形式論理的に妥当という意味ではない。アブダクションは形式論理的ではないからである(様々な誤謬を犯している)。</p>
<blockquote>
<p>「たしかに、アブダクションはその結論（仮説）を推測的に言明しているにすぎず、それは大いに間違う可能性のある論証力の弱いタイプの推論です。しかしさきにあげた諸例が示しているように、アブダクションはたんなる当てずっぽうな推測ではなく、それはある明確な理由または根拠──つまり『そのように考えるべき理由がある』、『そのように考えるのがもっとも理にかなっている』、『そのように考えざるをえない』というふうに納得できる合理的な理由または根拠──にもとづいて、仮説を提案しています。このようにアブダクションは意識的に熟慮して行われる思惟(reasoning)であり、そういう意味で論理的に統制された推論(inference)である、ということができます。パースはいいます、『仮説(アブダクション)はあらゆる意味において推論である。なぜなら仮説は、正当なものであれ不当なものであれ、ある理由があって採用されているのであり、そしてその理由は、そのようなものとして考えられる場合には、仮説に対してもっともらしさを与えているからである』」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」62P</p>
<p>「この場合，ルールとリザルトが真であっても，導き出されたケースは，必ずしも真であるとは限らず，中名辞不周延の誤謬を犯している。これらの豆は全く別の袋から取り出したものかもしれない。このように，全く見当外れの可能性もある。この推論は当て推量に近いものである。しかし，全く根拠がないわけでもなく，むしろそう考えることによって新しい知識を獲得することが可能となる。この推論は，ハイポセシス（アブダクション）と呼ばれている」</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,104P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">経験的事実の世界に関する知識を拡張するために用いられるアブダクション</span></h3>
<p>・アブダクションや帰納は推論の形式的妥当性や論理的必然性を犠牲にして、<b>経験的事実の世界に関する知識を拡張するため</b>に用いられる。</p>
<p>それゆえに、科学の発展のためにはアブダクションは不可欠であると言える。自然科学だけではなく、他の学問や芸術にとっても、アブダクションは不可欠ではないだろうか。創造にはアブダクションという方法が必要になる。</p>
<p>また、<b>帰納や演繹はアブダクションを前提とする</b>。たとえるならば、アブダクションなしの演繹は鶏肉なしで鶏の唐揚げを作るようなもの。まずアブダクションで仮説を発見し、その仮説を前提にして、テストしていく過程が演繹や帰納。</p>
<blockquote>
<p>「しかしうえに三段論法の形式で書き表して示したように、帰納とアブダクションの推論の形式は形式論理の規則に反しており、論理的に(形式論理的に)妥当な推論の形式ではありません。ということは、つまり帰納もアブダクションもともに、推論の形式的妥当性や論理的必然性を犠牲にして、そのかわり、経験的事実の世界に関する知識を拡張するために用いられる拡張的推論である、ということを意味しています。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」85P</p>
<p>「したがって仮説演繹法では、仮説は最初から決まったものとして与えられているのです。N・R・ハンソンは仮説演繹法(H-D説)についてこう評しています。『H-D説は、ちょうど、ビートン夫人が献立を考えるのに、ウサギを材料とすべきことは最初から決まっている場合と同じで、仮説は、最初から決まったものとして与えられている。しかし、多くの料理の本では、その前に準備のための指示章があって、そこでは＜まずウサギを捕らえよ＞という点が語られる。H-D説は、物理学者が仮説を捉えてしまったあとに起こる事柄を説明してはくれる。しかし、物理学を特徴づけてきた巧妙なやり口、執拗な努力、想像力と思考の大胆さなども論じることができるはずである』。……ハンソンによると、物理学を特徴づけているのはそれらの創造的思惟の働きであり、これこそ、パースが『リトロダクション』と呼んだものの特性です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」114-115P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">アブダクションと創造的想像力(科学的想像力)</span></h3>
<p>・演繹は仮説の形成には関わらず、形成された仮説を前提とする。そのような方法は<b>仮説演繹法</b>と呼ばれている。一見アブダクションと似ているが、最初から仮説が用意されているという点から始まっており、仮説を発見する<strong>創造的想像力</strong>が軽視されている。</p>
<p>N・R・ハンソンは仮説演繹法を料理に例えて批判している。演繹はまずウサギ、つまり仮説が材料として与えられ、料理をするようなものである。しかし、ウサギはまず捉えなければ用意できないのであり、そうした仮説が形成されてこそ、演繹が後になって必要とされるのである。アブダクションを軽視した仮説演繹法をハンソンは批判している。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>創造的創造力</strong></span>：</big>・熟慮的思惟または推論を含んだ、科学的合理的根拠のある閃き、洞察のこと。もし合理的根拠の全くない、気ままな夢想であったとしたら、科学的発見を妨げる先入観や偏見を生むことになってしまうため、合理性は必要不可欠となる。</p>
</div>
<p>ただし、非合理的なものがまったく無意味であるというわけではない。たとえば非科学的な神秘的な思想はある分野への意欲などを支える心理的要因にはなりうるという。</p>
<blockquote>
<p>「『アブダクションは論理的諸規則によって拘束されることはほとんどない』ということは、さらにつぎのようにいいかえることもできるでしょう。つまり論理的諸規則によって縛られることがないから、それだけアブダクティブな推論には創造的な想像力が働く余地がある、ということです。科学的探求者たちは自由に想像力を働かせて仮説を発案することができます。パースによると、科学的な想像力というのはそれ自体が合理的な思惟の働きです。すなわち、『科学的想像力は説明と法則を夢見る』のです。あるいは、まえにも引用しましたが、『人は諸現象を愚かにじろじろみつめることもできる。しかし、想像力の働かないところでは、それらの現象はけっして合理的な仕方でたがいに関連付けられることはない』。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」65P</p>
<p>「ヘンペルは『データから理論にいたるには創造的想像力が必要である』といいます。しかしかれはその科学的想像力について、それは組織的な思索や推論を何ら必要とせず、科学者たちはかれらの想像力を自由に広げてよいし、かれらの創造的思考は科学的に疑問のある考えによって影響されることすらあってよい、といいます。……科学的創造力というものが熟慮的思惟または推論をいっさい含まず、何ら科学的合理的根拠のないたんなる放縦な夢想だとしたら、それは科学的発見を妨げる先入観や偏見を生むことはあっても、科学的発見のための真の創造力にはなりえないでしょう。ケプラーはブラーエの科学的な観察データにもとづいて思索したのであり、その観察データを説明するために周到な計算と推論を重ねるなかで、惑星という概念に絶対的であった一様な円運動という鉄則に対し疑問を抱くようになり、ついにその鉄則を打破して、かれの発見にいたったのでした。ケプラーの発見は、パースがいうように、『最初から最後まで推論のあらゆる能力のもっとも強力な行使』によって成し遂げられたのであり、それは『いまだかつて行われたことのない遡及的推論のもっとも偉大な成果』なのです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理47-48P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">アブダクション２段階：【第二段階】選択された仮説が受け入れられるかどうかを吟味する過程</span></h3>
<p>第一段階が「示唆的な段階」だとすると、第二段階は「熟慮的な推論の段階」だという。</p>
<p>これらの段階は補完的な関係にあり、相反するものではないという。</p>
<p>第二段階は「<b>適格試験上の仮説の採用</b>」、もしくは「<b>アブダクション的なインダクション</b>」とも呼ばれている。</p>
<p>ここで重要になるのは、「<b>どのようにしてもっとも正しいと思われる仮説を選択するのか</b>」という条件である。</p>
<h3><span id="toc39">どのようにしてもっとも正しいと思われる仮説を選択するのか、４つの条件について</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">
<p><b>もっともらしさ：</b>仮説は検討中の問題の現象についてもっともらしい、もっとも理にかなった説明を与えるものでなくてはならない</p>
</li>
<li class="sample">
<p><b>検証可能性：</b>仮説は実験的に検証可能でなくてはならない</p>
</li>
<li class="sample">
<p><b>単純性：</b>同じ程度の説明能力を有するいくつかの仮説があるとすると、より単純な仮説を選ばくてはならない</p>
</li>
<li class="sample">
<p><b>経済性：</b>より実験的にテストするのに費用や時間や思考やエネルギーが節約できる仮説を選ばなくてはならない</p>
</li>
</ol>
<p>たとえば、もし「もっともらしさ」が得られなければ、仮説H１を破棄して、H２を発案する必要がある。</p>
<p>つまり、熟慮し推論を重ね、修正していく必要がある。つまり、アブダクションは「<b>試行錯誤的な推測</b>」である。</p>
<p>「もっともらしさ」はより高い確率、より妥当性をもって事実Cが帰結するかどうかに関連してくる。たとえば単に地面が濡れているだけで雨が降ったと帰結させるよりも、地面以外も広範囲で濡れている方が「雨が降っていた」という仮説はもっともらしさがある。たとえば地面は濡れているが草木や車は濡れていない場合は、雨ではなく、誰かがホースで水をまいた可能性が高いかもしれない。どこまでいってもほとんど蓋然的なものにとどまるが、しかし不断に修正し、蓋然性を高めていくことはできる。</p>
<blockquote>
<p>「パースは以下に述べる４つの条件または基準をあげています。（１）もっともらしさ(plausibility)。それはつまり、仮説は検討中の問題の現象についてもっともらしい、もっとも理にかなった説明を与えるものでなくてはならない、ということです。……（２）検証可能性(verifiability)。すなわち、仮説は実験的に検証可能でなくてはならないということです。つまり提案された仮説は経験的事実に照らして確証ないし反証しうるものでなくてはなりません。仮説の検証は、まず演繹によってその仮説からどんな経験的諸帰結・予測が必然的に導かれるかを示し、そして帰納によってそれらの推測がどれだけ経験的事実と一致するかを確かめることによって行われます。……（３）単純性(simplicity)。それはつまり、同じ程度の説明能力を有するいくつかの仮説があるとすると、より単純な仮説を選ばくてはならない、ということです。パースによると、仮説の単純性というのは論理的単純性ではなく、いわば心理的単純性、つまり本能的に自然に感ずる単純性です。……（４）経済性(economy)。いま述べた単純性の規則から、さらにつぎのようにいうことができます。つまり、単純な仮説ほど、それは実験的にテストするのに費用や時間や思考やエネルギーが節約できる、ということです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」71P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">四種類の仮説(アブダクション)</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">事実の発見に関する仮説：（１）物理的に直接に観察可能な事実に関する仮説。めることができる。</li>
<li>事実の発見に関する仮説：（２）物理的に直接に観察不可能な事実に関する仮説。</li>
<li class="sample">法則の発見に関する仮説</li>
<li class="sample">その仮説がはじめて提案された時点では実際的にも原理的にも直接には観察不可能な純粋に理論的な対象と考えられていたものに関する仮説</li>
</ol>
<h4><span id="toc41">１：事実の発見に関する仮説</span></h4>
<p>（１）物理的に直接に観察可能な事実に関する仮説。</p>
<p>例：知事のケースでは、「知事だろう」と仮説を立て、実際にその人物が知事であるかどうか確かめることができる。</p>
<h4><span id="toc42">２：事実の発見に関する仮説</span></h4>
<p>（２）物理的に直接に観察不可能な事実に関する仮説</p>
<p>例：ナポレオンのケースでは、「ナポレオンは実在していた」という仮説を立てることはできるが、ナポレオンが実在していることを観察することは出来ない。魚の化石のケースも同様に、その陸地がかつて海であったかどうかは物理的に観察することはできない。タイムマシンがあったら可能かもしれない。</p>
<h4><span id="toc43">３：法則の発見に関する仮説</span></h4>
<p>例：ボイルの法則における仮説の重要性</p>
<p>一定の温度の下での気体の体積が圧力に反比例することを主張する法則のこと。1662年にロバート・ボイルによって発見されたという。</p>
<p>ボイルの法則は帰納によって発見された例として一般には挙げられている。ある気体の事例の中に見出された法則が、あらゆる気体においても成り立つ、という推論である。つまり、部分から全体への飛躍がある。ただし、そのような帰納的な発見であっても仮説が必要である。たとえば「<b>ある物理量はもうひとつの物理量の関数ではないか</b>」という仮説を前提とし、帰納的な発見が行われていく。そうした仮説がなければ、どのような事実を観察すればいいかすらわからない。</p>
<p>仮説や仮定なしに、偏見なく事実を集め、分析し、比較し、一般化することは果たして可能なのか。</p>
<p>なんの仮説もなしに、気体の体積と圧力の関係について観察して、法則を得ることは可能だろうか。適当な事実を集積しただけでは一般化まで至ることは難しい。なんらかの「<b>仮説</b>(着目事象)」が必要になってくる。</p>
<h4><span id="toc44">４：その仮説がはじめて提案された時点では実際的にも原理的にも直接には観察不可能な純粋に理論的な対象と考えられていたものに関する仮説</span></h4>
<p>この第四の種類の仮説が、パースによるともっとも優れた科学的仮説であり、科学的価値の大きなものだという。例えば万有引力の法則や、気体分子運動論など。</p>
<p>たとえば<b>引力を直接観察することはできない</b>。また、万有引力の法則を帰納的に導き出すことはできない。ニュートン自身は「私は仮説を立てない」と述べていたが、ニュートンは単なる帰納によって法則を発見したのではなく、強力な創造的創造力によって、つまりアブダクション(仮説)によって仮説を発見したのである。</p>
<p>なぜ第四の種類の仮説がもっともすぐれているかに関する２つの理由</p>
<p>１：他の多くの重要な仮説を含意し、科学的に実りの多い帰結を生むから</p>
<p>２：もっとも一般的普遍的な性格を有し、多くの事象およびそれらの事象間の「<b>関係</b>」を「<b>説明</b>」できるようになるから</p>
<p>たとえばボイルの法則は「観察の結果を一般法則の形式で記述する方法としては役立つが、科学的発見のなかでは高い位置を占めない」とパースはいう。気体の体積が圧力に反比例する、という事実関係だけではそこまで価値が高くない。しかし、そのような法則を「説明」するために、<b>直接観察不可能</b>な気体分子の運動があるという「仮定」を提案した「気体分子の運動」は価値が最も高いという。たとえばあるものとあるものが比例関係にある、ということを主張するだけではなく、それは「引力」によるものだ、という「万有引力の法則」説明も価値が高い。</p>
<h4><span id="toc45"> </span></h4>
<h3><span id="toc46">仮説が事実を作る</span></h3>
<p>N・R・ハンソンは「<b>仮説が事実をつくる</b>」と言っている。</p>
<p>１：実証主義では、科学者個人の主観的な推測や判断から偏見が生じて科学的探究の客観性と実証性を危うくすることがないように、「事実をして自らを語らしめよ」という原則がある。</p>
<p>２：しかし、なんの仮説、考え、目的もなく、無方針に事実が集められることはない。</p>
<p>３：事実はたんなる出来事ではなく「<b>意味</b>」をもつものであり、「<b>価値</b>」をもつ事象である。</p>
<p>４：探求者の考えや仮説によって、事実は意味や価値を付与され、またそのように解釈される。</p>
<p>５：ある帰納主義では、事実の取捨選択はしないこと、また仮説や仮定を用いずに、事実を分析することが主張されているが、そうした過程を経て意義ある一般化を行うのは難しい。</p>
<p>６：まず仮説ありき、閃きや発見ありきであり、そこから演繹や帰納によってテストされていくのである。アブダクションなしでは演繹や帰納によって科学を進歩させていくことは難しい。</p>
<blockquote>
<p>「科学者個人の主観的な推測や判断から偏見が生じて科学的探究の客観性と実証性を危うくすることがないように、『事実をして自らを語らしめよ』というのです。しかしどのようにして事実は自らを語るのでしょうか。事実をして自ら語らしめるにしても、まず事実が集められなくてはなりません。誰かが事実を集めてそれらの事実に語らしめなくてはなりません。しかし事実を集める場合、われわれは何の考えも目的もなく、求められる事実の意味も考えずに、ただ無方針に事実をあれこれ集めることはしないでしょう。事実とはまさに事実としての意味をもつもののことであり、事実を集めるということはわれわれの関心や目的や考えにとって意味をもつ事実が選ばれ集められるということです。事実とはたんなる出来事ではなく、意味をもつ出来事であり、事実としての価値をもつ事象なのです。ある事象が事実としての意味または意味をもつものとなるのは、われわれがその事象に着目しその事象のうちに事実としての意味または価値を読み取るからであり、われわれがそれを必要かつ重要な事実として解釈し選択するからです。つまり探求者がかれの考えや仮説にもとづいて事実に意味を付与するのであり、事実が自ら語るのではなく、いわば研究者が事実語らしめるのです。そういう意味で、N・R・ハンソンは『仮説が事実をつくる』とさえいってます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」160P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">科学的探究の３つの段階</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">第一段階：アブダクション</li>
<li class="sample">第二段階：演繹</li>
<li class="sample">第二段階：演繹</li>
</ol>
<p><b>アブダクション</b>：ある驚くべき現象の観察から出発し、その現象がなぜ起こったかについて何らかの可能な説明を与えてくれる仮説を考え出す。</p>
<p><b>演繹</b>：(１)仮説をできるだけ解明し、明確にする。(２)演繹的立証が行われる。もし仮説が真であるとしたら、どのような結論が必然的に導かれるかを立証する。</p>
<p><b>帰納</b>：経験的事象に照らして実験的にテストする。</p>
<h4><span id="toc48">例：化石のケース</span></h4>
<p><b>アブダクション</b>：陸地で魚の化石が見つかるという驚くべき事実Cに対して、この陸地はかつては海であったという仮説を形成する。ほかにもたまたま誰かがここに埋めたというような可能性なども検討し、それでもやはり海であったという仮説が一番可能性が高いと考えていく</p>
<p><b>演繹</b>：もしアブダクションによって提案された仮説が真であるとすれば、この陸地一帯には他の魚や貝の化石も見つかるはずである、と予測を導き出す。</p>
<p><b>帰納</b>：実際に予測どおりに陸地を採掘して、貝の化石が他にも発見されるかどうかの確証もしくは発見されないかの反証を行う。</p>
<p>アブダクションだけではなく、演繹や帰納も探究の論理学では重要になる。ただし、パースは特にアブダクションを重視している。</p>
<blockquote>
<p>「その第1段階はアブダクションであり、第二段階は演繹であり、第三段階は帰納です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」104P</p>
<p>「このようにある驚くべき現象の観察から出発し、その現象がなぜ起こったかについて何らかの可能な説明を与えてくれる仮説を考え出すのがアブダクションであり、それが探究の第一段階です。……つまり探究の過程における演繹の分析的機能は二つの部分から成ります。第一に、『仮説を解明すること、すなわち仮説をできるだけ完全に明確にすること』、そして第二に、仮説の内容が解明されると、『解明に続いて証明、あるいは演繹的立証が行われる』(つまり、もしその仮説が真であるとしたら、その仮説からどんな結論が必然的に導かれるか、という演繹的立証が行われる)。探究は仮説の検証をもって一応完結するが、その仮説が最初に観察された変則的な現象を正しく説明しているかどうかを経験的事象に照らして実験的にテストするのが帰納の役割です。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」105－106P</p>
<p>「たとえば魚の化石が見つかったこの一帯の陸地はかつては海であったという仮説であるとします。ここまでが探究の第一段階、つまりアブダクションの段階です。つぎに、その仮説から経験的に検証可能などんな予測が導かれるかを考えてみます。つまり、もしその仮説が真であるとしたら、この一帯の陸地をもっと広く踏査してみれば、すでにみつかった魚の化石のほかにも、そこがかつては海であったということを証拠立てる他の魚介類の化石とか、その他の地質学的諸事実がもっと多く見つかるはずである、と予測できます。このような予測を導き出す思惟が演繹であり、それが探究の第二段階を成します。そしてこの場所一帯をできるだけ広く踏査して、他の地質学的諸事実を調べ、アブダクションによって提案された仮説が予測したとおりになるかどうかを確かめるのです。それが探究の第三段階における帰納の役割です。つまり、帰納の役割は最後に仮説の確証または反証を行うことです。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」109P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc49">選択可能性と知識を増やすことについて</span></h3>
<p>驚くべき事実Cに遭遇した場合、２つの場合が考えられるという</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">A：真なる仮説が選択可能性の中にない場合</li>
<li class="sample">B：真なる仮説が選択可能性の中にある場合</li>
</ol>
<p>もしAの場合は、真なる仮説を選択することは出来ない。</p>
<p>たとえば「潮の満ち引きが1日に二度起こる」という驚くべき事実に遭遇したケースを考えてみる。月の位置や引力について知識をもっていない場合に、真なる仮説を選ぶことは難しい。</p>
<p>柚木朋也さんによれば、アブダクションといえども、知識や経験をはるかに超えることは出来ないという。つまり、Aの場合には<b>選択可能性を豊富にすることが必要であり、知識や経験を豊富にすることが必要</b>であるという。</p>
<p>たしかに知識や経験を増やすことは、選択可能性を増やすことになる。したがって、真なる仮説に届きやすくするのかもしれない。</p>
<p>一方で、各時代のそれぞれのパラダイムに制約された知識の中で、どのようにしてパラダイムはシフトしていくのだろうか。誰が、どのような経緯でいままでの常識をはるかに超えた発見、およびその説明原理を見つけるのかは面白い。しかしそのようなパラダイムシフトであったとしても、やはりある程度の選択可能性がなければ起こり得ないのかもしれない。知識があえて欠けていることで、偏見のない発見ができる可能性もあるし、知識が幅広くあることで、それを総合して、創発が起こる可能性もある。あるいはその他、社会的な条件が必要になるかもしれない。</p>
<p>ニュートンはパラダイムシフトを起こしたとされているが、今までのパラダイムをよく理解していたからこそ、それをある種の危機と考え、乗り越えようとしたのだとも考えられる。パラダイムシフトについては最後の項目ですこしだけ触れる。</p>
<p>Bの場合はさらに２つに分類されるという</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">Bー１：真なる仮説が、仮説と意識されるいくつかの候補の中にない場合</li>
<li class="sample">B－２：真なる仮説が、仮説と意識されるいくつかの候補の中にある場合</li>
</ol>
<p>１の場合には、仮説として意識される候補にのぼらせることが必要であるという。つまり、驚くべき事実と仮説との「<b>接点</b>」を見つけるという作業である。</p>
<p>アーサー・ケストラーという人は、「<b>創造的思考は二者連結を基盤にして生まれる</b>」と主張してるそうだ。</p>
<p>いままで結び付けなかったものを結びつけるというこの「<b>合成</b>」という作業は最も重要で、もっとも難解であるといわれている。</p>
<p>この作業は科学だけではなく、芸術や経済、あらゆるものに応用できるものである。異なったものの中に同一性を見たり、アナロジー思考も重要になってくるそうだ。</p>
<blockquote>
<p>「以上のように考えるとすれば驚くべき事実に遭遇した場合，次の二つの場合が考えられる。a真なる仮説が選択可能性の中にない場合b真なる仮説が選択可能性の中にある場合aの場合，真なる仮説を選択できないのは明らかである。例えば，「潮の満ち引きが1日に二度起こる」という事実を観察したときに．月の位置や引力について全く知識をもっていない場合には，真なる仮説を選択することは不可能であり．仮に真なる仮説を知らされたとしても理解することすら難しいであろう。新しい概念を導入する論理的操作であるアブダクションといえども，知識や経験をはるかに越えることはできないのであり，我々の知識や経験の近接地帯に足を踏み入れることで展開されるのである。したがって，aの場合には，選択可能性を豊富にする，つまり，知識や経験を豊富にすることが必要である。次に，bの場合について考察する。bには，様々な程度があり，その程度や状態については，明確に区別できないものである。しかし，大きくは次の二つの場合に分けることができる、，イ真なる仮説が．仮説として意識されるいくつかの候補の巾にない場合ロ真なる仮説が，仮説として意識されるいくつかの候補の中にある場合さて，イの場合には．仮説をいかにして意識するかが重要である。そのためには，真でない仮説の除去13〕を行う中で，真なる仮説を仮説として意識される候補に上らせることが必要である。つまり，いかにして驚くべき事実と仮説との接点を見つけるか，ということが重要である。「我々がこれまで一緒に考えなかった，あるいは，結び付けなかったものを結び付けるこうした合成（colligation）が最も重要でかつ難解な部分」〔2，469n．）なのである。このことは，アーサー・ケストラーが，創造的思考は「二者連結」を基盤にして生まれると主張したこととも一致する。二者連結とは，以前には無関係で矛盾するとさえ見なされていた二つの知識領域を連結することである。そのための方法については，多くの研究がある。例えば，市川は「等価変換理論」において，異なったものの中に同一性を見る理論を展開している，。また，ポリアもアナロジー（類推）の重要性を指摘している．一方，ロの場合には，どの仮説からテストするかという問題が生じ，そのためには，経済性を考慮する必要がある。経済性の考察については，パース自身が詳細に述べているので，そちらを参照されたい]</p>
<p>柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」,107P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">帰納とアブダクションを区別する４つの理由</span></h3>
<p>１：帰納はアブダクションよりも<b>いっそう強力な種類の推論</b>である(アブダクションのほうが間違いやすい)</p>
<p>２：帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論するというところにあるが、これに対し、アブダクションはある一つの種類の事実から<b>別の種類の事実</b>を推論する(アブダクションのほうがより価値の高い発見をする)</p>
<p>３：帰納は思想の習慣的要素を生み出すが、アブダクションは<b>思想の感覚的要素</b>を生み出す</p>
<p>４：帰納と仮説を区別することで、諸科学の分類に役立つ。たとえばアブダクションは理論的諸科学(天文学、純粋物理学)や仮説の科学(地質学や生物学)などに、帰納は分類的諸科学(植物学、動物学、鉱物学、化学)などに分類できるという。</p>
<p>この４つのなかで個人的に重要な違いは、「観察可能か不可能か」という違いである。</p>
<p>たとえば自分の家の犬が吠えていて、近所の犬も吠えていることから、「すべての犬は吠える」という一般化を行うとする。この場合、現実的には難しいとしても、他の犬が吠えているかどうか実際に確認していくことは可能である。</p>
<p>しかし、アブダクションの場合は直接には観察不可能な何か、あるいは観察したものとは種類の違うなにかを特に仮定する(観察可能なものも扱うことがある)。</p>
<p>眼の前にいる犬と眼の前にいない犬は、たしかに既知から未知への「飛躍」があるが、しかしそれは同種の事象への飛躍である。</p>
<p>眼の前にある貝の化石から、かつてこの陸地は海であったという仮説への「飛躍」は同種の事象への飛躍ではない。異なる飛躍である。</p>
<p>パースは前者の飛躍を「<b>帰納的飛躍</b>」と呼び、後者の飛躍を「<b>仮説的飛躍</b>」と呼ぶ。仮説的飛躍は「<b>創造的想像力による推測の飛躍</b>」であるという点が重要である。</p>
<blockquote>
<p>「パースはいいます、『帰納と仮説の大きな違い(the great difference between induction and hypothesis)は、前者の場合はわれわれが事例のなかに観察したものと類似の現象の存在を推論するのに対し、仮説はわれわれが直接観察したものとは違う種類の何ものか、そしてわれわれにとってしばしば直接には観察不可能な何かを仮定する、という点にある……』」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」85P</p>
<p>「パースは帰納とアブダクションを区別する理由として、以上で述べた理由も含めて、四つあげています。第一の理由は、帰納はアブダクションよりも『いっそう強力な種類の推論』であるということです。……第二の理由は、たびたび述べていますように、『帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論するというところにあるが、これに対し、仮説はある一つの種類の事実から別の種類の事実を推論する』、そして『仮説的推論は非常にしばしば直接観察の出来ない事実を推論する』ということです。……第三の理由は、帰納と仮説(アブダクション)の間に存在する『ある重要な心理学的あるいはむしろ生理学的な相違』です。パースはこう述べています。『仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す』。『帰納は規則を推論する。さて、規則の信念は習慣である。習慣がわれわれのうちに作用している規則であることは明らかである』。『したがって帰納は習慣形成の生理学的過程を表す論理式である』。……そして最後に、帰納と仮説(アブダクション)を区別する第四の理由はこの区別が諸科学の分類に役に立つということです。パースによると、たとえば分類的諸科学(植物学、動物学、鉱物学、化学など)は帰納的であり、理論的諸科学(天文学、純粋物理学など)、あるいは仮説の科学(地質学や生物学など)は仮説的である、というふうに分類できます。」</p>
<p>米盛裕二「アブダクション　仮説と発見の論理」95-97P</p>
<p>「つまるところ、単純枚挙的な帰納法には、「陸地のずっと内側で魚の化石が発見される」といった一見不思議に思えるような事実がなぜ生じるのかを積極的に問いかけるような思考の働きに欠けている。このような点で、アブダクションという推論から導き出される結論は、単純枚挙的な帰納法とは違って、受動的に取りまとめられた観察事実の集積などではけっしてない。表現を変えるならば、アブダクションとは、たとえ観察事実がたったひとつしか存在しなかったとしても、その観察事実が疑念を生じさせるに十分なものであるならば、その生み出された疑念をなんとか解決しようとする積極的な思考の働きが確かに存在するような推論である。これに対して、単純枚挙的な帰納法とは、さながら、いかなる事前的な知識ももたないような無垢な知性によって、複数の観察事実をただ単純に取りまとめることによって、素直に結論を導き出すようなタイプの推論だといえる。」</p>
<p>赤川元昭「アブダクションの論理」,117P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc51">その他</span></h2>
<h3><span id="toc52">【コラム】マックス・ウェーバーの価値自由</span></h3>
<p>ウェーバーについての基礎知識は前回の記事を参照</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2021/11/16/max-weber-1/">【基礎社会学第四回】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか？</a></p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>価値判断</b></strong></span>：</big>・対象が何であるべきかという観点から対象を評価すること</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong><b>事実認識</b></strong></span>：</big>・対象が何であるかを認識すること</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><b>価値自由</b></span>：</big>・ひとりひとりの個人が、実践的価値と科学的事実認識とを、別種の精神活動として峻別した上、両者を緊張関係において区別して堅持すること、自己制御。</p>
</div>
<p>たとえば、「貧しい人が豊かになれるように富を分配する」という価値判断を主観を超えて、<b>客観的に妥当</b>だと考える人がいるとする。こうした価値判断に基づいて主張すること自体を否定していない(それゆえに、主観を一切排除しろという話ではないことがわかる)。しかし、こうした価値判断や当為の「妥当」を事実認識の経験的妥当と混同してはいけないということである。</p>
<p>たとえば「自殺は減らすべきである」という価値判断が、自分だけでなく他の多くの人もそう考えていて、客観的に妥当だと考えるとする。しかし多くの人が価値判断をしているからと言って、「自殺は減らすべきである」という価値判断を「火に水をかけると消える」という事実認識と同等だと混同してはいけないということである。</p>
<p>「こうあるべきだ」というような当為や価値判断は事実認識から生まれないという。「こうなっている」ということしか経験科学は教えてくれない。重力は「こういうふうになっている、こういうふうに作用する」ということはわかっても、「重力はこうあるべきだ」というのはわからない。HOWとWHYの問題でも重要になる。近代になるにつれて、HOWにシフトしていく。</p>
<p>こうした問題は、「人間が生きる意味はあるのか」について経験科学が答えられないのと同じ。もっと言えば哲学を含む他の学問でも答えることができる問題ではない。では宗教か？という話になるが、それこそ宗教同士で対立しているように、神々の闘争であり、価値判断の闘争になる。宗教の力が小さくなってきた今、さらに神々の闘争は規模が大きくなり、神の数が増えている。ちょっとしたことでも価値観は対立していく。右翼と左翼の争いも価値観の対立である。「こうあるべきだ」という価値判断がどこからくるのかはなかなか難しい問題である。個人的な体験からくる場合もあれば、学校での教育、宗教、普通はこうだというような大衆の平均的な声の場合もある。</p>
<p>個人的にウェーバーの発言の中で、特に心に残った文章を紹介する。</p>
<p>「君はこれまで昔からわれわれの教会で受け継がれ信じられてきたキリスト教の教義を教えられてきました。そしてそのなかで、君はキリスト教の意味と内面的な意義との理解が人によって実にさまざまであること、そして人々がこの宗教のわれわれにもたらす大きな謎を各人各様に解こうと努めていることをかんがえないわけにはいかなかったでしょう。そこでいま君にも、他のキリスト教徒と同様に、キリスト教会の一員として、そうした問題にたいする君自身の見解を作り上げるように要求されているわけです。これは各人が、各人なりに解決しなくてはならない課題です。もちろんそれは一気に解けるようなものではなく、各人が一生かけて色々と経験を積みながら解決してゆくべき問題です。君がいま初めて自分に提起されたこの課題をどう解くか、それはもっぱら君自身の問題であり、君の良心(Dein Gwwissen)と君の知性(Dein Verstand)、君の心(Dein Herz)が責任を負うべき事柄です。」(アルフレートへの手紙)</p>
<p>「……そんなことで色々思い悩む人もいることは、わたしにもよく分かります。しかし、そうした極論に溺れたりせずに、われわれの認識手段が──絶対の観点からすれば──いかに取るに足らない価値しかもたず、いかに弱点だらけのものであるかを弁えるすべを心得、またそのことを日頃つねに自分に言い聞かせている者は、物事というものは必ずわれわれの経験をはみ出すものであり、それを捉えようとする理論はつねに誤謬を犯す可能性があるということを思い知らされたとしても、だからといって認識への努力そのものを放棄しようとは夢にも思わないでしょう。」(アルフレートへの手紙)</p>
<p>「世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の意味そのものを創造することができなければならない。つまり、『世界観』とは、けっして経験的知識の進歩の産物ではないのであり、したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想は、どの時代にも、もっぱら他の理想との闘争をとおして実現されるほかはなく、そのさい、他の理想が他人にとって神聖なのは、われわれの理想がわれわれにとって神聖なのとまったく同等である」</p>
<p>「客観性」、41P</p>
<p>「……いかなる文化事象の認識も、つねに個性的な性質を備えた生活の現実が、特定の個別的関係においてわれわれにたいしてもつ意義を基礎とする以外には、考えられないからである。ところが、いかなる意味で、また、いかなる関係において、そうである(生活の現実がわれわれにたいして意義をもつ)かは、どんな法則に酔っても、われわれには明らかにされない。というのも、それは、価値理念によって決定されるからであり、われわれは、個々の場合に、そのつど、この価値理念のもとに『文化』を考察するのである。『文化』とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義を与えられた有限の一片である。人間がある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、『自然への回帰』を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、『軽佻浮薄にすぎる』と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に『価値理念』に根ざしている、というばあい、こうした純論理的-形式的事態が考えられているのである。</p>
<p>いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいは、およそなんらかの『文化』を価値があると見ることにではなく、われわれが、世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とをそなえた文化人である、ということにある。」</p>
<p>「客観性」、92-93P</p>
<p>どのような事実を、どのように価値づけするか、意味づけするかというのは良心と知性と心が責任を負うべき事柄というのは確かにそうかもしれない。</p>
<p>核兵器を開発したオッペンハイマーは自分のしたことに後悔したらしい。もし責任という観点で、良心や知性や心によって「核兵器開発を主導するべきか」という課題にたいして真摯に対応していたら、もしかしたら開発を主導しなかったかもしれない。あるいはそれでも主導するべきだ、となっていたかもしれない。</p>
<p>「<b>物事というものは必ずわれわれの経験をはみ出す</b>」という点は不可知論やニヒリズムにつながってしまうが、しかし同時に「<b>認識の努力そのものを放棄しない</b>」という点も重要になる。</p>
<p>責任をとれると、少なくとも自分の中で思えるまで、しっかりと知性をつけ、経験を積み、その中で醸成された良心と心によって価値判断していくことが重要になるのだと思う。</p>
<p>アブダクションの項目で「仮説が事実を作る」ということを学んだ。</p>
<p>同様に、ウェーバーも「<b>文化とは世界に起こる意味のない無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である</b>」と述べている。</p>
<p>事実は人間が意味付与をしないかぎり、事実とはいえないとも解釈できる。我々が何を事実だと判断するかは、それぞれの時代の、それぞれの個人による価値理念、関心、意味付与に基づいているのである。宗教の力が弱まった現代社会では、絶対的な価値というものが弱まり、個人がそうした価値を選択し、またどちらが正しいかと争い合っている。</p>
<p>ウェーバーいわく、文化人は世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思をそなえているという。事実にはじめから価値が埋め込まれていて、それを我々が発掘するのではなく、我々が価値を付与していくのである。</p>
<p>そしてそういう価値理念に基づいて我々は日々生活し、学問し、働いているということを自覚し、責任をもてるようになるべきだということである。そして<b>責任をもつためには、知識を増やして、選択可能性を増やし、また選択肢を吟味できる能力も必要になるのではないか</b>。</p>
<h3><span id="toc53">【コラム】トーマス・クーンのパラダイムシフト</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>パラダイムシフト</strong></span>：</big>・一般に、ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること(累積的、連続的な変化ではない)。社会の規範や価値観が変わることを意味する。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>科学革命(読み)</strong></span>：</big>以前のパラダイムを打破し、自然についての異なった見方を導入すること</p>
</div>
<p>※トーマス・クーンはまたいつか違う記事で、単独で扱う予定。</p>
<p>たとえばラボアジエはフロギストン説を避け、燃焼を酸素との結合として命名した最初の人物とされている。</p>
<p>ようするに、フロギストン説というパラダイムを打破し、パラダイムシフトが生じたという話。燃素(フロギストン)が飛び出すことで燃焼するのではなく、酸素と結合することで燃焼するのだという話。</p>
<p>もっと著名な例では、地球の周りを太陽が回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ、というパラダイムシフト、いわゆるコペルニクス的転回が挙げられる。</p>
<p>パラダイムシフト(科学革命)は<b>どのような条件で起こるのか</b>、という視点も面白い。</p>
<p>たとえばクーンはパラダイムシフトは「<b>危機</b>」が前提となっているという。たとえばコペルニクスが地動説を唱える前は、天動説がパラダイムにあり、支持されていた。この場合、どういう危機があったのか。</p>
<p>プトレマイオスの天動説では、うまく問題が解けないケースが有ったという。たとえば惑星の位置や春分点の歳差に関しての予測と観測値がうまく合わなかったという。そうした危機状態が先にあり、新しいパラダイムが発見されるというわけである。</p>
<p>クーンは「テクニカルな謎解きがうまくいかなくなった」ことだけが危機を構成する唯一の要素ではなく、改暦に対する<b>社会的要請</b>も挙げられている。この社会的要請という観点は非常に重要になる。</p>
<h4><span id="toc54">アブダクションとパラダイムシフトの関連性</span></h4>
<p>クーンによると、新しいパラダイムは「<b>ときには真夜中に、その危機に没入しているときに人間の心に現れることがある</b>」という。</p>
<p>これはアブダクションでいうアブダクティブな示唆、閃き、洞察の段階と近い。ただし、それは「<b>危機</b>」が前提となっているというのが重要になる。たしかに解決しなければならない、という状態のときに、閃きが起こりやすいというのは理解できる。</p>
<p>また、クーンによれば、どのようにして人間の心の中に新しいパラダイムの形が現れるかは、あまりよくわからないそうだ。</p>
<p>ただし、クーンは２つの条件を提案している。</p>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>非常に若い研究者の場合</b></li>
<li class="sample"><b>新しい分野に入ってきた新人の場合</b></li>
</ol>
<p>こうしたケースにおいては、伝統的なパラダイムに縛られることが少なく、新しいパラダイムを発見しやすいという。</p>
<p>非常に若い研究者のケースは、カール・マンハイムが「<b>学生</b>」を世代を新しく変える力として表現したことを思い出す。</p>
<blockquote>
<p>「異常研究に伴って、その他にまだいろいろな様相が現れるのだが、この位相についてはわれわれはまだ問われるべき問題点の発見にさえも手をつけていない状態である。しかしここではそれ以上のことは必要ないであろう。これまで述べた点からして、危機がいかに硬直化した型を緩め、同時に根本的パラダイム変換に必要なデータを増加せしめるかを示すに十分であろう。時には異常研究によって変則的に与えられた構造の中に、新しいパラダイムの形がすでに仄見えていることがある。アインシュタインは、古典力学に代わるものを出す前に、すでに黒体輻射、光電効果、比熱に現れた既知の変則性の間の相互関係を見通すことができたと書いている。しかし、そのような構造が意識的に見通せる場合はあまりない。むしろ、新しいパラダイム、あるいは後に整備される考えのヒントは、突然、時には真夜中に、その危機に没入している人間の心に現れることがある。その最後の段階の本質は何か──つまり、ある個人が、いかにして集積されたすべてのデータに秩序を与える新しい方法を発明するか──は、ここでは測り知れないものであり、永遠に不可知に止まるであろう。ここではただ、それについて一つのことに注目してみよう。このような新しいパラダイムの基本的発明を遂げた人は、ほとんど、非常に若いか、パラダイムの変更を促す分野に新しく入ってきた新人のどちらかである。おそらくこの点は特にはっきりさせる必要もなかったこともでもあろうが、明らかに彼らは、通常科学の伝統的ルールに縛られることがなく、これらのルールはもはや役に立たない外のものを考えよう、ということになり易い。」</p>
<p>トーマス・クーン『科学革命の構造』101-102P</p>
<p>「類似点の一つは、すでに明らかにしたところである。政治革命が始まる時は、ある政治集団の中で既存の制度が環境によって提起される問題にうまく適合しない、という感覚が拡がる。同じように科学革命が始まる時も、やはり科学者集団の狭い一部に限られるが、既存のパラダイムが自然の研究においてうまく機能しなくなった、という感覚が拡がる。政治革命の場合も科学革命の場合も、機能が悪くなって危機に至る感覚が、革命の前提となっている。」</p>
<p>トーマス・クーン『科学革命の構造』105P</p>
<p>「一六世紀にはコペルニクスの共同研究者ドメニコ・ダ・ナヴァラは、プトレマイオスの体系のように混み合っていて不正確なものは、きっと自然を真に表すものではありえない、と考えた。そしてコペルニクス自身『天体の回転について』の序文で、彼が受け継いだ天文学の伝統は、今やついに化物を作り上げた、と書いた。一六世紀初期までには、ヨーロッパ最良の天文学者の多くは、天文学のパラダイムが昔からある問題にさえもうまく当てはまらなくなってきた、ということを認識するに至った。その認識が、コペルニクスをしてプトレマイオスのパラダイムを捨てさせ、新しいものを求めさせる前提となったのである。彼の有名な序文は、機器状態を表現する古典の一つとなっている。通常のテクニカルな謎解きがうまくいかなかったということが、コペルニクスの直面する天文学上の危機を構成する唯一の要素ではもちろんない。改暦に対する社会的要請、特に歳差の問題が、差し迫って解かれねばならぬことであった、というように議論を拡張させることができるであろう。」</p>
<p>トーマス・クーン『科学革命の構造』77-78P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc55">【コラム】見田宗介とアブダクション</span></h3>
<p>見田宗介さんは社会学を「<b>越境する知</b>」と呼び、経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、生物学等々のありとあらゆる学問の領域を横断的に踏破し統合する学問としてみている。</p>
<p>この「越境」という観点は、クーンのパラダイムシフトのひとつの兆候であった、「<b>新しい分野に入ってきた新人</b>」と関係してくるのだと思う。社会学者が、生物学に社会学的見地をあてはめて、生物学の新しいパラダイムを切り拓いたり、逆のこともありうる。学問を横断し、知識を集め、選択可能性を開いて考えられる仮説をより多く手に入れていく作業は大切だ。</p>
<p>とはいえ、見田さんは「越境する知」ということは結果であって、<b>目的とすることではない</b>という。</p>
<p>ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって切実な問題をどこまでも追求しようとする人間は、<b>やむにやまれず境界を突破する</b>という。</p>
<p>たしかにそうかもしれない。ほんとうに解きたいという問題に出会った時に、所構わず学問を貪り、仮説をたくさんたてて、より適切だと思う仮説を選び、演繹や帰納によってテストしていく。そして「ほんとうに解きたい」という問題に出会うということは、ある種の「<b>危機</b>」に直面しているときなのかもしれない。</p>
<p>見田さんは『時間の比較社会学』で、「<b>時間のニヒリズム</b>」とは自分が死んだ後、あるいは人類が滅亡した後にはすべてが消え去っている以上、現在のあらゆる物事が無意味だという感覚の取り方だと主張している。</p>
<p>見田さんにとってこれが解かなければならない問題と深く関わっているという。</p>
<p>そして重要な点は、時間のニヒリズムは<b>特定の文化の様式と社会の構造を基盤としている</b>という点である。</p>
<p>これはクーンがパラダイムシフトには「社会的要請」が関係すると述べたこととも関係してくる。</p>
<p>あるいはモリス・バーマンが「我々が抱える諸問題の根が社会的・経済的因子にある」と述べたこととも関係してくる。</p>
<p>たとえば人口の増加や民族の交流の増加は争いを生み出し、貨幣を生み出し、直線的・抽象的な時間意識を生み出していく。さらにユダヤ・キリスト教の受難は、もう二度とこの時間を繰り返してほしくないというような不可逆的な時間意識を生み出していく。</p>
<p>人口が増えていけば、効率よく食料を生産したり、労働する必要が出てくる。そうして新しい技術、政治が必要とされ、古い技術を否定するような危機が生じていく。バーマンは重要な境目が１６～１７世紀ごろの科学革命にあると述べている。そうしたルーツをさぐっていけば中世よりさらに前、特に古代ヘレニズム、ヘブライズムに遡る、と見田さんの主張を解釈していくことができる。</p>
<blockquote>
<p>「社会学は＜越境する知＞Einbruchslehreとよばれてきたように、その学の初診において、社会が現象のこういうさまざまな側面を、横断的に踏破し統合する学問として成立しました。マックス・ウェーバー、デュルケーム、マルクスのような『古典的』な社会学者をはじめ、フロム、リースマン、パーソンズ、アドルノ、バタイユ、サルトル、レヴィ・ストロース、フーコーといった、現在の社会学の若い研究者や学生たちが魅力を感じている主要な著者たちは、すべて複数の──経済学、法学、政治学、哲学、文学、心理学、人類学、歴史学、等々の──領域を横断する知性たちです。けれども重要なことは、『領域横断的』であるということではないのです。『越境する知』ということは結果であって、目的とすることではありません。何の結果であるかというと、自分にとってほんとうに大切な問題に、どこまでも誠実である、という態度の結果なのです。あるいは現在の人類にとって、切実にアクチュアルであると思われる問題について、手放すことなく追求し続ける、という覚悟の結果なのです。近代の知のシステムは、専門分化主義ですから、あちこちに『立入禁止』の札が立っています。『それは〇〇学のテーマではないよ。そういうことをやりたいのなら、他に行きなさい。』『✕✕学の専門家でもない人間が余計な口出しをするな』等々。学問の足り入り禁止の立て札が至る所に立てられている。しかし、この立ち入り禁止の立て札の前で止まってしまうと、現代社会の大切な問題たちは、解けないのです。そのために、ほんとうに大切な問題、自分にとって、あるいは現在の人類にとって切実にアクチュアルな問題をどこまでも追求しようとする人間は、やむにやまれず境界を突破するのです。」</p>
<p>見田宗介「社会学入門」7-8P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc56">【コラム】ベイトソンとアブダクション</span></h3>
<h4><span id="toc57">記述、説明、トートロジー</span></h4>
<p>グレゴリー・ベイトソンはアブダクションを以下のように定義している</p>
<p>他に関連した現象を求め、これも同一の規則の下に収まり、同一のトートロジー上にマップすることが可能だと論じていく作業。ある記述における抽象的要素を横へ横へと広げていくこと。</p>
<p>ベイトソンにおけるアブダクションを理解するためには、記述、説明、トートロジーの３つの用語を理解する必要がある。</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>記述</strong></span>：</big>・記述される諸現象に内在するすべての事実を含みつつも、これらの現象をより理解しやすくするような現象間の結びつきについては一切触れないもの。情報を含むが、論理も説明も含まない。例：単に撮影しただけの動画など</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>説明</strong></span>：</big>・記述の中に含まれる以上のことを、われわれに理解させてくれるもの。</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>トートロジー</strong></span>：</big>・記述と説明という、二つのタイプのデータを結びつけあわせているもののこと。「もしPが正しければ、Pは正しい」、「ある公理、ある公準がこれこれなら、定理はこれこれというものになる」など。同義反復。<b>トートロジーの出来不出来は、これらの結びつきが妥当であるかどうか</b>にかかっているという。</p>
</div>
<p>ベイトソンは「<b>説明によって得られる理解のボーナス</b>」と説明してる。</p>
<p>例：リンゴが木から落ちたのを見て、「重力によって落下した」と説明する(ニュートン的な説明)。あるいは、「地球の中心が本来の居場所だから」と説明する(アリストテレス的な説明)。「神の意志だから」と説明する(宗教的な説明)。</p>
<p>パースのアブダクションで言うと、<b>一切の仮説なしに事実を積み重ねても説明は生まれてこない</b>。</p>
<p>つまり、単なる記述の寄せ集めのなかの素材Aと素材Bをリンクさせる、関係づけるような「<b>説明原理</b>(説明仮説)」が必要になる。</p>
<p>また、パラダイムシフトでいえば、記述が変化していくのではなく、説明が変化していく仮定だと言える。たとえばアリストテレス的なパラダイムからニュートン的なパラダイムへシフトしていくことは、説明仮説が変わっていったということである。</p>
<p>現代人にはものが落ちる理由を「本来の居場所だから」と説明してもキョトンとした顔になるだろうが、そうした説明が当たり前で、重力の方がむしろ不自然にみえたような時代もある。<b>どれが真実かどうかというより、どれが納得できるのか、社会に適合しているのか</b>というような要素が重要になってくる。たとえば「重力」で説明したほうが経済にうまく合致し、技術が発展するならば、重力の説明原理のほうが人々に共有され、認められ、パラダイムとなっていく。</p>
<p>たとえば眼の前で木からリンゴが落ちたとする。そうした事実を我々はどのように説明するのか。もし重力というものがあるならば、つまり、「万有引力の法則」という仮説が正しければ、リンゴは重力によって落ちたと説明することができる。１＋１＝２と認めたならば、１＋１＋１＝３になる、というもの同義反復かもしれない。もし「神様がいる」という仮説が正しければ、「神様のご意思によって落ちた」という説明もできる。近代人の多くは、「神様のご意思」というデータの結びつけ方、説明原理を妥当であると思わなくなってきている。昔はそれが妥当だと思っていた。</p>
<p>Pならば・・と決めたのは我々である。ここに、ウェーバーの価値判断の話や、事実は仮説が作るというハンソンの話がつながってくる。</p>
<p>このように考えていけば、トートロジーは<b>演繹</b>的なものであるとも解釈することができる。仮説が正しければ当然に帰結するものをテストしていく。１＋１＝２と認めるならば、１＋１＋１＝３は当然に帰結する。しかしなぜ１＋１＝２となるかについては関与しない。</p>
<p>ただし、演繹は仮説がなければならない。つまりPならば・・という仮説ありきで、われわれの決断、価値判断ありきで、Pを帰結させていく。演繹は発見的機能をもたず、はじめから含意しているものを我々に教えてくれるだけである。命は尊いということを決めたならば、自殺防止対策として戦争という手段をとるのは誤りになる(戦争時に自殺は減るが、命はより失われる)。しかし、なぜ命は尊いのか、ということに関知しない。あるいは別のPならば、を見つけて、より上位の仮説を探していくのかもしれない。ベイトソンは「・・・<b>ならばの世界から抜け出ることはできない</b>。なぜならば、・・・ならばと決めたのはデータではなく、われわれだから」という。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/ef8c544e89584ec7fbe6d404d242b1ac.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3073" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/ef8c544e89584ec7fbe6d404d242b1ac.png" alt="" width="495" height="345" /></a></p>
<p>ベイトソンは説明を、記述の断片をトートロジーへマップすることであると説明している。マップするとは、いわば関連付けることであり、リンクを結ぶことである。</p>
<p>リンゴを重力で説明してもいいし、宗教で説明してもいいし、本来の居場所(形相と質量)で説明してもいい。神を信じると決めたならば、科学の説得力がなくなることもあり、信じないと決めたならば、科学の説得力が増す。トートロジーのリンクをわれわれが受け入れるかどうか、疑いえないものとみなすかどうかで、トートロジーに基づけられた説明は満足のいくものとなる。</p>
<p>結局はトートロジーに基づいた説明への「信仰」の問題である。あるいは「習慣」の問題なのかもしれない。神や預言者があたりまえとは思わないわれわれの時代においては、科学の説明の正しさが、無意識的に正しいと信じている。</p>
<p>「つまり、それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ、むしろすべての事柄は原則上予測によって意のままになるということ、このことを知っている、あるいは信じているというのが、主知化しまた合理化しているということの意味なのである。ところで、このことは魔法からの世界解放(エントッアウベルソク・デア・ウェルト)ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない。」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』33P)</p>
<p>説明を受け入れることは、トートロジーのリンクを受け入れることである。</p>
<p>このように考えていけば、リンクが自明であるかどうかは、パラダイムを受け入れているかどうかにも関わってくる。カール・マンハイムでいえばイデオロギーとも関わってくる。</p>
<p>それでは現代社会のパラダイムはどうなっているか、説明原理はどうなっているか。変えたほうがいいのか、変えないほうがいいのか。そうした問題が重要になる。モリスバーマンは近現代社会のパラダイムを「<b>デカルト的パラダイム</b>」と表現し、「<b>ベイトソン的パラダイム</b>」へ移行したほうがいいのではないかと提案している。この詳細は今回説明できないが、非常に面白いテーマであり、そのためにアブダクションを今回学んだ。</p>
<h4><span id="toc58">アブダクションはわれわれが日常的に用いている</span></h4>
<p>科学哲学者M・ヘッセは、人間が問題を解決する場合、かれは通常、演繹的に思考しているのでは<b>ない</b>という。人間は類比やモデル、メタファーなどをつかったたえず修正、拡張して思考しており、通常は非論証的であるという。すなわち、帰納的、アブダクション的であるという点は重要になる。</p>
<p>ベイトソンはネコと人間のコミュニケーションにおいても、人は仮説を立てているという。</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/mammal-g72ccb05d0_640.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3074" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2023/05/mammal-g72ccb05d0_640.jpg" alt="" width="640" height="427" /></a></p>
<p>たしかに、牙を剥き出しにしたら怒っている、背を伸ばしたら眠そうだな、などと解釈している。もしかしたら間違っているかもしれないし、合っているかも知れない。</p>
<p>人間は怒ると口を開いて歯を剥き出しにすることがある。それゆえに、「怒るときに動物は歯を剥き出しにする」という説明原理、つまり仮説をたて、人間だけではなく猫にも当てはめているともいえる。</p>
<p>こうした日常的な仮説形成をもっと意識的に、学問や芸術の場面で使うようにすることができれば面白いのではないかと思う。</p>
<p>ベイトソンは「<b>アブダクションを行うことのできぬ世界では、思考はまったく停止してしまう以外にない</b>」とまで言い切っている。仮説がなければ物理学もなく、芸術もなく、宗教もない。</p>
<h2><span id="toc59">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc60">主要文献</span></h3>
<h4><span id="toc61">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc62">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc63">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc64">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc65">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc66">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc67">参考論文</span></h3>
<p>１：赤川元昭「アブダクションの論理」(<a href="https://ryuka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=198&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)</p>
<p>２：柚木朋也「アブダクションに関する一考察: 探究のための推論の分類」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjst/48/2/48_KJ00005018415/_pdf/-char/ja">URL</a>)</p>
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			</item>
		<item>
		<title>ニューカムのパラドックスとはなにか？</title>
		<link>https://souzouhou.com/2021/07/11/what-is-newcombs-paradox/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2021/07/11/what-is-newcombs-paradox/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 11 Jul 2021 05:15:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[大澤真幸]]></category>
		<category><![CDATA[論理学]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://souzouhou.com/?p=1206</guid>

					<description><![CDATA[ニューカムのパラドックスとはなにか？]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-5" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-5">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">ニューカムのパラドックスとは</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">概要</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">透明な箱と不透明な箱</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">予見者とは</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">予見者の予想はどのくらい信用できるのか？</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">行為者(箱を選ぶ人)に伝えられる情報</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">行為者にとって合理的な選択とは？：ゲーム理論(支配戦略)</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">「透明な箱と不透明な箱Bをとる」選択が合理的な戦略の理由</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">選択肢２が合理的な選択なはずなのに、選択肢１を選んでしまうことがパラドックス</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">逆因果律とは</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">行為者の心理：私は過去を変えられる力をもっているのでは？</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">期待効用理論(選択肢１を選ぶことこそ合理的だという立場)</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">もう一度支配戦略を考えてみる</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">最後に</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">参考文献</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">ニューカムのパラドックスとは</span></h2>
<p>「ニューカムのパラドックス」は1960年代後半に量子力学者のウィリアム・ニューカム(1927-1999)という人が考案したものです。パラドクスとは一般に「矛盾」を意味します。</p>
<p>ちなみに大澤真幸によればニューカムという人は哲学者であるロバート・ノージックの仮名であるという説があるそうです。</p>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/kgFJJmVkJts" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<p>動画を作成してみましたのでぜひ見てください。このサイトで最初に作った動画です。登録していただけるとモチベがものすごく上がります。</p>
<h3><span id="toc3">概要</span></h3>
<p>選択肢１と選択肢２があるとします。利益を最大にするという条件で、行為者がどちらかを選択するとします。</p>
<p>期待効用を考えれば選択肢１が利益を最大にする選択で、支配戦略を考えれば選択肢２が利益を最大にする選択だとします。最強の盾と最強の矛が同時に存在することを矛盾といいますが、<strong>選択肢１が最強だという理論と、選択肢２が最強だという理論が同時に存在してしまっている</strong>状況があります。そのような状況をニューカムのパラドックスといいます。</p>
<p>あるいは、<strong>選択肢１が実は非合理的な選択で、選択肢２のほうが合理的な選択なはずなのに、選択肢１のほうが多く選択されてしまっている</strong>ようなことをニューカムのパラドックスというかもしれません。</p>
<p>具体的な例はこれから話す透明な箱と不透明な箱の例で考えます。正直頭が痛くなる話です。</p>
<h3><span id="toc4">透明な箱と不透明な箱</span></h3>
<div id="attachment_1210" style="width: 821px" class="wp-caption alignnone"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/2021-07-09_12-37-55.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-1210" class="size-full wp-image-1210" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/2021-07-09_12-37-55.jpg" alt="ニューカムのパラドックス" width="811" height="454" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/2021-07-09_12-37-55.jpg 811w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/2021-07-09_12-37-55-300x168.jpg 300w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2021/07/2021-07-09_12-37-55-768x430.jpg 768w" sizes="(max-width: 811px) 100vw, 811px" /></a><p id="caption-attachment-1210" class="wp-caption-text">ニューカムのパラドックス</p></div>
<p>いま目の前に2つの箱があります。<strong>透明な箱Aには1000万円が入っていて、不透明な箱Bには0円または10億円</strong>が入っています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 50%;">透明な箱A</td>
<td style="width: 50%;">1000万円</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 50%;">不透明な箱B</td>
<td style="width: 50%;">0円または10億円</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>私達(行為者)には今２つの選択肢が与えられています。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%; height: 36px;">
<tbody>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 100%; height: 18px;">選択肢１：不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 100%; height: 18px;">選択肢２：透明な箱Aと不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>さらにニューカムは「予見者」という概念を導入します。</p>
<h3><span id="toc5">予見者とは</span></h3>
<p><strong>不透明な箱に何を入れるか決める権限をもっている</strong>のが予見者です。予見者は予想によって何を入れるか決めます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%;">
<tbody>
<tr>
<td style="width: 50%;">行為者が選択肢１を選ぶと予想</td>
<td style="width: 50%;">不透明な箱Bには１０億円いれておく</td>
</tr>
<tr>
<td style="width: 50%;">行為者が選択肢２を選ぶと予想</td>
<td style="width: 50%;">不透明な箱Bにはなにもいれない</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>&nbsp;</p>
<p>英語版WIKIでは英語で「<strong>predictor</strong>」とあります。日本語では予言者、予知者、予測者などと約されるようです。大澤真幸さんは「予見者」と表記しているので、今回はそれに従います。</p>
<h3><span id="toc6">予見者の予想はどのくらい信用できるのか？</span></h3>
<blockquote>
<p>There is a reliable predictor, another player, and two boxes designated A and B. The player is given a choice between taking only box B, or taking both boxes A and B. The player knows the following:<sup id="cite_ref-Wolpert_4-0" class="reference"><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Newcomb%27s_paradox#cite_note-Wolpert-4">[4]</a></sup></p>
<ul>
<li>Box A is clear, and always contains a visible $1,000.</li>
<li>Box B is opaque, and its content has already been set by the predictor:
<ul>
<li>If the predictor has predicted the player will take both boxes A and B, then box B contains nothing.</li>
<li>If the predictor has predicted that the player will take only box B, then box B contains $1,000,000.</li>
</ul>
</li>
</ul>
<p>The player does not know what the predictor predicted or what box B contains while making the choice.</p>
<p><a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Newcomb%27s_paradox">出典</a></p>
</blockquote>
<p>ただの予見者ではなく、「<span style="color: #ff0000;"><strong>信頼できる予見者(reliable predictor)</strong></span>」です。正直訳がよくわかりません。絶対当たる予見者というわけではないんでしょうね。信頼できる占い師といわれて、絶対占いが当たると思うでしょうか。今回は”信頼できる予見者”としておきます。大澤真幸の本の場合は、ただの予見者でした。</p>
<p>英語の他のサイトを見ても、「The prediction is reliable(<a href="https://plato.stanford.edu/entries/decision-causal/#NewcProb">出典</a>)」とあります。別のサイトでは「You’ve observed that, in the past, the Predictor is right every time.(出典)」とありました。「One wonders, when thinking about the problem, how the Predictor can be so good at telling what people will do.(<a href="https://www3.nd.edu/~jspeaks/courses/2007-8/20229/_HANDOUTS/newcomb.pdf">出典</a>)」とこのサイトにはあり、たしかに疑問に思いますよね。予見者はどのくらいの精度で予言できるのか？と。１００％なのか、５０％なのか、わからないのです。「in the past, the Predictor is right every time」とあるように、過去に毎回予言を的中させていたとしても、今回当たる保証はないわけです。どれくらいの確率かがわかららない状況で、ただ曖昧に&#8221;reliable&#8221;、信頼できるとあります。</p>
<blockquote>
<p><em>But here’s the thing. The test was set by a Super-Intelligent Being, who has already made a prediction about what you will do. If Her prediction was that you would take both boxes, She left B empty. If Her prediction was that you would take B only, She put a ₤1 million cheque in it.</em></p>
<p><a href="https://www.theguardian.com/science/alexs-adventures-in-numberland/2016/nov/30/newcombs-problem-which-side-won-the-guardians-philosophy-poll">出典</a></p>
</blockquote>
<p>ちなみにこのサイトでは&#8221;super-intelligent-being&#8221;とありました。訳は超知能的存在でしょうか。大澤真幸さんの「考えること(河出文庫)」という本では予見者と訳されています。予見(よけん)とは一般的に「まだ起こらないうちに、先を見通して知ること」です。未来を過去の時点で知ることですよね。英語ではforesightといいます。予測者ではなく、予見者なのです。</p>
<blockquote>
<p>超心理学の用語。現在もっている知識をもとにした推論では予測不可能と思われる未来のできごとをあらかじめ知ること。ESP（超感覚的知覚）を構成する一要素である。古来、多くの予言の事例が伝えられ、予知の技術として各種の占いが行われ、また日常生活のなかで偶発的に予知的体験をもったという報告も多い。</p>
<p><a href="https://kotobank.jp/word/%E4%BA%88%E7%9F%A5-146283">出典</a></p>
</blockquote>
<p>どちらかというと「予知」に近い気もします。予見者＝超知能的存在と言い換えてもいいかもしれません。重要なのは予見者の予知がほんとうに当たるかどうかを行為者が信じるかどうかです。超知能的存在が予想しますといわれたら、その予想は当たるかもしれない、しかし当たらないかもしれない。あなたはどのように考えるでしょうか。また、自分の選択が、その予想に影響を与えると考えるでしょうか。</p>
<h3><span id="toc7">行為者(箱を選ぶ人)に伝えられる情報</span></h3>
<p>透明な箱Aには1000万円が入っていて、不透明な箱Bには0円または10億円とう情報の他に、行為者には「<span style="background-color: #ffff99;"><strong>予見者が選択肢１を予想したときにのみ、不透明な箱Bには１０億円が入っている</strong></span>」ということが伝えられます。またその予見者は<strong>reliable</strong>(信頼できる)という情報も伝えられるそうです。大澤真幸さんの例にはこの<strong>reliable</strong>は入っていませんでした。</p>
<h3><span id="toc8">行為者にとって合理的な選択とは？：ゲーム理論(支配戦略)</span></h3>
<p>経済学者ならゲーム理論的な考えをとり、選択肢２を選ぶほうが合理的だと考えるそうです。つまり、「透明な箱と不透明な箱Bをとる」ということです。</p>
<p>ゲーム理論とは「複数の主体が相互依存関係のもとで，いかなる行動をとるべきかを考察する理論」です。</p>
<p>「囚人のジレンマ」という言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。２人の共同で犯罪を行った囚人が司法取引をもちかけられる話です。囚人Aと囚人Bは別々の部屋で司法取引をもちかけられ、お互いの情報を知ることができません。AとBが両方罪を黙秘すれば、お互いに２年の懲役を受けます。お互い罪を自白すると、お互いに５年の懲役を受けます。Aだけが黙秘、Bだけが自白という形になるとAが０年、Bが１０年の懲役を受けます。Bだけが黙秘、Aだけが自白という形になると、Aが１０年、Bが０年の懲役を受けます。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%; height: 54px;">
<tbody>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"> </td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">囚人B黙秘</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">囚人B自白</td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">囚人A黙秘</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">(２年、２年)</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">(１０年、０年)</td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">囚人A自白</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">(０年、１０年)</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">(５年、５年)</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>図にするとこうなります。さて囚人はどのような選択するでしょうかという話です。囚人Aや囚人Bの、”個人”の利益を最大にする選択はどれかという話です。</p>
<p>相手が黙秘を選んだと仮定して、自分が黙秘した懲役2年、自分が自白したら0年なので自白を選びます。</p>
<p>相手が自白を選んだと仮定して、自分が黙秘したら10年、自分が自白したら5年なので自白しを選びます。</p>
<p>相手の行動に関わらず、自分が最も得をしようとしたら自白を選ぶのです。</p>
<p>もし自分が黙秘していた場合、懲役２年（相手も黙秘）か懲役１０年(相手が自白)です。もし自分が自白した場合、懲役０年か５年です。選択肢１「２か１０」、選択肢２「０か５」というわけです。<strong>囚人が自分の利益を合理的に追求しようとしたら、自白が最適な戦略(支配戦略)</strong>となります。しかし各個人が合理的な戦略をとった結果、全体としては望ましい結果にならないので<strong>囚人のジレンマ</strong>というのです。たしかに全体として望ましい結果(パレート最適)は両方黙秘の(2,2）で合計4年ですよね。しかし合理的な戦略をとった結果、(5,5)の合計10年になってしまうからジレンマというわけです。</p>
<h3><span id="toc9">「透明な箱と不透明な箱Bをとる」選択が合理的な戦略の理由</span></h3>
<table>
<tbody>
<tr>
<td>透明な箱A</td>
<td>1000万円</td>
</tr>
<tr>
<td>不透明な箱B</td>
<td>0円または10億円</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<table>
<tbody>
<tr>
<td>選択肢１：不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
<tr>
<td>選択肢２：透明な箱と不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>話は戻りますが、<strong>なぜ透明な箱Bを選ぶことが合理的な選択なのか</strong>？いいかえれば囚人のジレンマでいうところの支配戦略なんでしょうか。</p>
<p>(1)予見者の予想が、「行為者は選択肢１を選ぶ」だった場合</p>
<p>予見者は不透明な箱に１０億円を入れています。</p>
<p>(１-a)行為者が選択肢１を選んだケース：不透明な箱Bを手に入れる。１０億円を行為者は手にする。<strong>予見者の<span style="color: #ff0000;">予想通り</span>である</strong>。</p>
<p>(２-a)行為者が選択肢２を選んだケース：透明な箱と不透明な箱を手に入れる。１０００万円と１０億円が入っている箱を手にする。<strong>予見者の<span style="color: #0000ff;">予想は外れている</span></strong>。</p>
<p>(2)予見者の予想が、「行為者は選択肢2を選ぶ」だった場合</p>
<p>(2-a)行為者が選択肢１を選んだケース：不透明な箱を手に入れる。行為者は1円も手に入らない。<strong>予見者の<span style="color: #ff0000;">予想通り</span>である</strong>。</p>
<p>(2-b)行為者が選択肢２を選んだケース：透明な箱と不透明な箱を手に入れる。行為者は１０００万円を手にする。予見者の<span style="color: #0000ff;">予想は外れている</span>。</p>
<table style="border-collapse: collapse; width: 100%; height: 54px;">
<tbody>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"> </td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">予見者は選択肢１を選ぶと予想</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">予見者は選択肢２を選ぶと予想</td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">行為者が選択肢１を選ぶ</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"><span style="background-color: #ffff00;">１０億円手にする</span></td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"><span style="background-color: #ffff00;">０円</span></td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;">行為者が選択肢２を選ぶ</td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"><span style="background-color: #00ff00;">１０億１０００万円手にする</span></td>
<td style="width: 33.3333%; height: 18px;"><span style="background-color: #00ff00;">１０００万円手にする</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>「１０億円か０円」か「１０億１０００万円か１０００万円」どちらを選びますか？ということです。確かに合理的な戦略をとれば、「１０億１０００万円か１０００万円」、つまり<strong>選択肢２である「透明な箱と不透明な箱両方を取る」という選択が合理的な戦略</strong>です。ちなみに予見者がいない場合も、選択２が合理的な戦略であり、支配戦略です。</p>
<h3><span id="toc10">選択肢２が合理的な選択なはずなのに、選択肢１を選んでしまうことがパラドックス</span></h3>
<p class="teigimidashi">・<b>パラドックス</b>(paradox):、正しそうに見える前提と、妥当に見える推論から、受け入れがたい結論が得られる事を指す言葉である。逆説、背理、逆理とも言われる</p>
<p>有名なパラドックスとして、「全能の逆説」という話があります。「全能者は自分が持ち上げることができないほど重い石を作る事ができるか？」という話です。もし全能者が重い石を作ることができたとすれば、全能者はできないことがあることになります。もし重い石を作ることができなければ、全能者はできないことがあることになります。できないことがあるということは、全能者＝すべてのことができるものではなくなります。頭が混乱してきました。こういうものを「神の論理的自己矛盾」というらしいです。全能の神がいるというのは正しそうな前提に思えますが、矛盾する結果が生じる、つまり受け入れがたい結論が得られてしまうのでパラドックスなんですね。</p>
<blockquote>
<ul class="dcr-s23rjr">
<li>I choose box B: <strong>53.5 per cent</strong></li>
<li>I choose both boxes: <strong>46.5 per cent</strong></li>
</ul>
<p class="dcr-s23rjr">This is very close &#8211; an almost Brexit-like split down the middle of the voting public. And like Brexit, some families were deeply divided. Mine was anyway: I chose box B, while my wife chose both boxes. Arguing about it just entrenched our positions.</p>
<p class="dcr-s23rjr">In the <a href="http://www.philosophyexperiments.com/" data-link-name="in body link">only other mass survey on Newcomb’s Problem</a>, the results were similar: 55 per cent chose box B, and 45 per cent both boxes.</p>
<p><a href="https://www.theguardian.com/science/alexs-adventures-in-numberland/2016/nov/30/newcombs-problem-which-side-won-the-guardians-philosophy-poll">出典</a></p>
</blockquote>
<p><span style="color: #000000; background-color: #ffff99;"><strong>ニューカムによる実験では選択肢１を選んだ人が55%、選択肢２を選んだ人が45％だったそうです。</strong></span></p>
<p>出典元によるガーディアン紙が取った31854人を対象にしたアンケートでは選択肢１を選んだ人が53.5%で、選択肢2を選んだ人が46.5%だったそうです。同じような数字が出ていますよね。</p>
<p>どちらも選択肢1、つまり<strong>不透明な箱Bだけ</strong>を選んでいるのです。個人の利益を最大にする合理的な戦略をとれば透明な箱Aと不透明な箱Bの両方を選ぶはずなのに、そのような結果になっていないのです。</p>
<p>支配戦略(合理的な戦略)である選択肢２ではなく、選択肢１を選んでしまうことがパラドックスだということです。</p>
<p>妥当に見える推論とは、「行為者は支配戦略をとるだろう」ということであり、「受け入れがたい結論」とは「行為者が支配戦略をとっていない」ということです。最も合理的な戦略を取るだろうと予想したのに、合理的な戦略をとっていないのです。</p>
<p>ニューカムのパラドクスのポイントは、予見者がいない場合には選択肢２を選ぶ人のほうが多いということです。予見者がいる場合に限って、選択肢1を選ぶ人が多くなってしまうのです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3><span id="toc11">逆因果律とは</span></h3>
<p class="teigimidashi">・<b>逆因果律</b>(ぎゃくいんがりつ,Retrocausality):未来の事象が過去の事象に影響を及ぼすという因果関係の概念である。つまり通常の因果関係とは逆で結果が先行し、原因が後に起こることになる。量子力学などの科学で使用されることがある用語。</p>
<p>バック・トゥ・ザ・フューチャーみたいなものですね。この映画では主人公が過去に行って自分の両親と接触した結果、両親が結婚に至らないような状況に変えてしまった場合、未来では自分が生まれなくなってしまう、つまり自分が消えてしまうような想定の描写があります。単純に考えれば過去が変わって未来が変わる内容ですねよね(逆因果律ではなく因果律)。しかし、これは<strong>「過去を変える」ことが可能という前提</strong>があります。過去を変えられるということは、<strong>未来の事象が過去の事象に影響を及ぼすということであり、逆因果律</strong>ということになりま</p>
<p>す。パラレルワールドがあって、変わった過去の時系列と、変わらなかった過去の時系列の２つに分岐するなんて話もありますがややこしいのでやめておきます。</p>
<p>まず予見者の予想は「<strong>過去</strong>」の出来事です。そして行為者の選択は「<strong>未来</strong>」の出来事です。<span style="background-color: #ffff99;"><strong>予見者の予想は過去の出来事なのだから、行為者の選択によってもし変わったとしたら、それは未来の事象が過去の事象に影響を与えたということになり、逆因果律を形成しています</strong></span>。</p>
<p><span style="background-color: #ccffff;"><strong>もし未来の事象に過去の事象が影響を与えないのだとすれば、不透明な箱(選択肢１)を選ぼうと、透明な箱と不透明な箱(選択肢２)両方を選ぼうと、箱の中身は変わらない</strong></span>はずです。したがって、<strong>予見者がいなかった場合と同じような状況</strong>のはずなのです。だからこそ、ゲーム理論的に選択肢２を選ぶことが最適な戦略なのです。</p>
<p>しかし逆因果律の場合はどうでしょうか。<strong>不透明な箱(選択肢１)を選ぶという事象(未来)が、予見者が行為者の選択肢１を選ぶという予想という事象(過去)に影響を与える</strong>ということです。</p>
<p>ガーディアン紙がとったアンケートでは予見者が「super-intelligent-being」、つまり超知能的存在だといわれます。超知能的存在なのだから、逆因果律も可能では？と行為者は予測するかもしれません。</p>
<h3><span id="toc12">行為者の心理：私は過去を変えられる力をもっているのでは？</span></h3>
<p>もし予見者の予想が逆因果律的だと行為者が推測した場合どうなるか。</p>
<p>つまり、未来の事象が過去の事象に影響を与えると考えたり、予見者が完璧に未来を予見する力を持っているという想定です。</p>
<table style="width: 100%; height: 36px;">
<tbody>
<tr style="height: 18px;">
<td style="height: 18px;">選択肢１：不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
<tr style="height: 18px;">
<td style="height: 18px;">選択肢２：透明な箱と不透明な箱Bをとる</td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>もし予見者のがそのような力を持っていたとしたらどうでしょうか。行為者が選択肢１を選んだら(未来)、予見者は行為者が選択肢１を選ぶと予想していたことになります(過去)。行為者が選択肢２を選んだら(未来)、予見者は行為者が選択肢２を選ぶと予想していたことにになります(過去)。</p>
<p>もしこうした推測をした場合、<span style="background-color: #ffff99;"><strong>自分の行為(未来)が予見者の予想(過去)に影響を及せる</strong></span>ということにはなりませんか？過去を変化させる自由を持っていると行為者は考えるのです。タイムマシン的ですよね。</p>
<p>もし過去を変化させる自由をもっているのなら、<span style="background-color: #ccffff;"><strong>予見者が選択肢１を選ぶと予想するという過去に変えればいい</strong></span>のです。どう変えるのか。選択肢１を選べばいいだけです。<strong>つまり、不透明な箱Bをとれば、予見者の予想も行為者は選択肢１を選ぶということになり、不透明な箱には１0億円入っているのです</strong>。</p>
<p>もし透明な箱と不透明な箱B、つまり選択肢２を選んでしまうと、予見者は行為者が選択肢２を選ぶという過去に変わってしまうので、不透明な箱には１０億円が入っていない過去になってしまいます。</p>
<p>このような推測を経て、不透明な箱B、つまり選択肢１を選ぶ人のほうが多くなってしまうというわけです。</p>
<p><strong>合理的な戦略をとるということは、ある意味では逆因果律を信じていないということであり、予見者の予想は完璧ではないと考える立場</strong>です。</p>
<p>日本人は宗教にあまり慣れ親しんでないので、予見者がいると言われても信じないかもしません。予見者がいないときと同じように、合理的な戦略をとり、得をする可能性が一番高い選択肢２をとるかもしれません。合理的な戦略を考えれば選択肢２を選ぶはずなのに、実際には選択肢１を選ぶ人が多かったというのが受け入れがたい結果であり、パラドックスということなんでしょうね。</p>
<p>すこし複雑でしたが、ニューカムのパラドクスという話は面白いですね。<strong>もし予見者が確実に未来を見通せるならば、選択肢１を選ぶほうが合理的</strong>だともいえますよね。ゲーム理論的には選択肢２のほうが合理的だという話でしたが、ゲーム理論はそもそも単純な前提に依存しています。もし100％未来が見通せる、あるいは行為者の行動が予見者の予想に100%反映されるという前提なら、ゲーム理論においても選択肢１が支配戦略になるのではないでしょうか。しかしreliable predictorという前提は曖昧模糊としていて捉え難いですね。</p>
<p>「If the predictor has predicted 」という言い方は、予見者が予測するとも予言するともとれますし、あるいは大澤真幸さんのように予想するとも翻訳できます。行為者はいったいどう解釈するんでしょうね。ガーディアン紙の場合は「by a Super-Intelligent Being, who has already made a prediction about what you will do.」という言い方でした。超知能的存在が、すでに行為者の選択を予想していると。超知能的存在だから100％未来が予測できるという前提ではないのです。超知能的という言葉をどのように解釈するかによるんですよね。</p>
<h3><span id="toc13">期待効用理論(選択肢１を選ぶことこそ合理的だという立場)</span></h3>
<blockquote>
<p>Expected utility of one-boxing:<br />
Outcome 1: $1,000,000. Probability: 100%<br />
Outcome 2: $0. Probability: 0%<br />
Expected utility: $1,000,000.<br />
Expected utility of two-boxing:<br />
Outcome 1: $1,001,000. Probability: 0%<br />
Outcome 2: $1000. Probability: 100%<br />
Expected utility: $1000</p>
<p><a href="http://You’ve observed that, in the past, the Predictor is right every time.">出典</a></p>
</blockquote>
<p>このサイトの期待効用理論では、選択肢１の期待効用が10億円、選択肢２の期待効用が1000万円ということになります。</p>
<p>この計算は、予見者の予想の精度が100%という仮定に基づいています。選択肢１を選んだ時点で箱Aは100%10億円、選択肢２を選んだ時点で、箱Bは100%０円ということです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>One-boxing is the rational choice according to the principle of expected-utility maximization.</p>
<p><a href="https://plato.stanford.edu/entries/decision-causal/#NewcProb">出典</a></p>
</blockquote>
<p>そもそも期待効用理論の計算がどうして可能になるのかいまいちわからない。</p>
<p>信頼できる予見者ということで、８割の精度と仮定してみる。</p>
<p>つまり、選択肢１を選んだ場合、不透明な箱Aに10億円入っている確率が８割ということだ。</p>
<p>計算がややこしいので10億を100、1000万を1とする。</p>
<p>0.8√100+0.2√0=8　つまり期待効用は8億円である。</p>
<p>選択肢２の場合、２割の確率で不透明な箱Bに10億円入っていることになる。</p>
<p>つまり、0.2√100=２　つまり期待効用は２億円である。</p>
<p>選択肢２の場合、さらに透明な箱1000万円も手に入る。つまり、期待効用は2.1億円である。</p>
<p>期待効用理論で考えれば８億円と2.1億円を比較することになり、したがって利益を最大にする選択肢は選択肢1となる。</p>
<p>なるほどもっともらしいともいえる。精度が6割だったとしても6億円と4.1億円の比較になるので、やはり選択肢１をとるべきだとなる。</p>
<h3><span id="toc14">もう一度支配戦略を考えてみる</span></h3>
<blockquote>
<p>But then it seems clear that we should be two-boxers, since two-boxing seems to<br />
dominate one-boxing, as the following way of thinking about the outcomes of the<br />
case shows:<br />
The Predictor has placed<br />
$1,000,000 in Box B<br />
The Predictor has placed<br />
nothing in Box B<br />
Two-box $1,001,000 $1000<br />
One-box $1,000,000 $0<br />
There are two possible situations, one in which the Predictor has put the cash in Box<br />
B, and one in which he has not. In either situation, you are better off two-boxing. In<br />
other words, no matter what the Predictor has done, you are better off two-boxing.<br />
So it seems fairly clear that it is rational to be a two-boxer.</p>
<p><a href="http://You’ve observed that, in the past, the Predictor is right every time.">出典</a></p>
</blockquote>
<p>たしかに、不透明な箱ひとつより、透明な箱と不透明な箱をとったほうがいいはずだ。</p>
<p>そもそも<strong>自分が選ぶという行為によって、その箱の中身が変わるわけではないだろう</strong>、とも考えられる。たしかにそうだ。<span style="color: #ff0000;"><strong>悩んでも箱の中身が変わるわけではない</strong></span>。</p>
<p><strong><span style="background-color: #ffff99;">つまりこれは予見者がいなかった場合と同じ状況にも思える</span></strong>。</p>
<p><strong>もう箱の中身は自分が選ぶ前に決まっているのだから、支配戦略的に考えても、箱２つをとるほうがいい</strong>。</p>
<p>たしかにもっともらしい。合理的にも思えてしまう。頭がぐるぐるしてきた。</p>
<p>逆因果律がありえるかどうかによって変わってくる話のようにも思える。自分が選ぶという未来(現在)の行為が、予見者が入れたという過去の行為に影響を及ぼすなら、不透明な箱のみ、つまり選択肢１を選ぶほうが合理的だ。</p>
<p>しかし逆因果律なんてありえるのだろうか。頭がぐるぐるしてきた。</p>
<p>仮に予見者の予想が１００％的中するものだとしたら、その予想に的中するような行動をしてしまうという心理はたしかにわかる。実際に選択肢１を選べば、予見者の予想(選択肢１を選ぶという予想)と一致するからだ。<strong><span style="background-color: #ffff99;">予見者の予想が信頼できるなんて聞いたら、不安になる。それに反する行動をとりたくない</span></strong>。わかる。たしかにわかる。ニューカムのパラドックスのアンケートで選択肢１を選ぶ人が多かったのはわかる。しかし支配戦略が合理的だというのもわかる。どちらがただしいか？<span style="font-family: impact, sans-serif;"><strong><span style="font-size: 14pt;">わからない</span></strong></span>。</p>
<p>頭がぐるぐるしてきた。何を言っているんだろう。自分の頭の悪さに悲しくなってきた。</p>
<p>支配戦略には確率という概念が入っていないというのがキモなのかもしれません。オカルトを信じない姿勢というか、そういうニュアンスの印象を受けます。<span style="color: #0000ff;"><strong>予</strong><strong>見者の予想はもうすでにされていることなのだから、どうせ箱の中身は変わらないし両方を選べばいいじゃん！</strong></span>っていう極めて冷静で明快で単純な判断にも思えるのです。</p>
<p>で、でもでも予見者の予想は高確率で当たるんだし、予見者の予想が選択肢1に合うように、行為者の選択もそれに合わせておこうよ、という心理もわかる。</p>
<p>しかしそれによって逆因果律が発生するのか？おい？過去が変わるのか？それは冷静な判断なのか？というのもわかる。しかし悩んでることすら予想されているかもしれない怖い！</p>
<p>冷静な判断をすれば選択肢２を選ぶはずなのに、選択肢1を選んでしまう。これもまたパラドックスなのかもしれない。大澤真幸さんは選択肢２を選ぶことが合理的なはずなのに、選択肢1を選んでしまうことがパラドックスだと表現していました。</p>
<h3><span id="toc15">最後に</span></h3>
<p><strong>わたしは心理的に落ち着くために選択肢1を選ぶことにしました。私は確実に選択肢1を選びます</strong>。</p>
<p>ニューカムのパラドックスについていろいろ議論されているようなので、<a href="https://plato.stanford.edu/entries/decision-causal/#NewcProb">こちらのサイト</a>を覗いてみるといいかもしれません。英語です。しかも数式がたくさんあります。私は目が回ったので途中で読むのをやめましたが、好きな人もいると思います。</p>
<p>ちなみにこのニューカムのパラドックスはマックス・ウェーバーのプロ倫と大きく影響してきます。つまり、もし予見者が神だったら？という問題です。それが大澤真幸さんがニューカムのパラドックスの例を出した理由です。これは自由意志があるのかどうか、それとも決定論なのかどうかといった問題に直結します。決定論だと考えれば、人間の自由意志はありません。未来は自分で切り開くものなのか、それとも予め定まっているのものなのか。</p>
<p>も<span style="font-family: book antiqua, palatino, serif;"><strong>し、生まれる前に神様がだれが救われてだれが救われないか決めていたらどうしますか？あなたは神様の予見に合うように行動するでしょうか？</strong></span></p>
<h2><span id="toc16">参考文献</span></h2>
<p>・<a href="https://www3.nd.edu/~jspeaks/courses/2007-8/20229/_HANDOUTS/newcomb.pdf">ニューカムのパラドックス</a></p>
<p>・<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Newcomb%27s_paradox">ニューカムのパラドクス(英語WIKI)</a></p>
<p>・<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/William_Newcomb">ウィリアムニューカム (英語WIKI)</a></p>
<p>・<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E8%83%BD%E3%81%AE%E9%80%86%E8%AA%AC">全能の逆説</a></p>
<p>[amazonjs asin=&#8221;4309415067&#8243; locale=&#8221;JP&#8221; title=&#8221;考えるということ: 知的創造の方法 (河出文庫)&#8221;]</p>
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		<title>論理学まとめ１「論理とはなにか？」</title>
		<link>https://souzouhou.com/2015/10/06/13/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 06 Oct 2015 11:08:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[論理学]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 論理とは何か論理と論理学はどう違うのか論理の対概念 論理とは何か 辞書によれば論理とは「考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式」であり、「事物の間にある法則的な連関 [&#8230;]]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-7" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-7">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">論理とは何か</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">論理と論理学はどう違うのか</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">論理の対概念</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">論理とは何か</span></h2>
<p>辞書によれば論理とは「考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式」であり、「事物の間にある法則的な連関」であり、「論理学の略」を意味する。</p>
<p>より短く言えば、「主題や対象が変わっても成り立つ『構造』『方法』」のことらしい。</p>
<h2><span id="toc2">論理と論理学はどう違うのか</span></h2>
<blockquote><p>「<strong>論理学</strong>を学ぶ」ことと「<strong>論理</strong>を学ぶこと」は、厳密には別のことです(ほんとうにわかる論理学 三浦俊彦　日本実業出版社)</p></blockquote>
<p>どういうことなのか？</p>
<p>論理学は「<strong>論理</strong>を体系的に再編成し効率化する専門技術を身につけること」であり、論理そのものが身についていることが必須条件だという。比喩で言うならばまずボール(論理)を持っていないとシュートの打ち方(論理学)を身につけることが難しいということだろうか。</p>
<p>具体例で考えてみる。</p>
<p>「A」と「AならばB」から「B」を導き出す規則を論理学では「<strong>前件肯定</strong>」というらしい。<br />
「A」が正しく、「AならばB」が正しい時、「B」が正しいというようなことが論理によって考えることができる。</p>
<p>具体例で考えてみる。</p>
<p>「人間はいつか死ぬ(A)」、「Aならば田中さんもいつか死ぬ」というような論理を考えることができる。私は今AとAならばBによってBの正しさを導き出した。確かに人間はいつか死ぬなら、田中さんもいつか死ぬだろう。</p>
<p>こういった論理は「前件肯定」と言われれば分からないが、こういう論理が正しいこと、理にかなっていることは少し考えれば分かる。つまりこういったことは「常識」であることが多い。</p>
<blockquote><p>たしかに、「前件肯定」のような推論規則は当たり前の規則で、わざわざ言われるまでもない常識です。しかし、世に流通するいわゆる非論理的な議論の多くー偏見による議論、権威に頼る論法、感情にまかせた主張、自己中な議論、結論が先にありきの推論、錯覚の無反省な追認などーが、「前件肯定」をはじめとするごく常識的な規則を破っています。(ほんとうにわかる論理学 三浦俊彦　日本実業出版社11P</p></blockquote>
<p>当たり前の規則が守られていないことが多く、わかっていたとしても守られていないことが多いらしい。</p>
<p>簡単に言うならば、「<strong>論理はわかっているが、きちんと使えていない</strong>」ということにおそらくなるだろう。</p>
<h2><span id="toc3">論理の対概念</span></h2>
<p>非論理。</p>
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