私が記事を執筆する理由について

芸術的な利用について:「創造」への助力と、「おもしろさ」の共有

私が記事を執筆する理由は、その内容が「創造」について重要だと思うからです。

たとえば社会学を学ぶ理由は、なんらかの創作のアイデアにつながると考えるからです。感情的に言えば、「おもしろいから」です。私が面白いと思った学問を共有することが目的なのです。事実や理論それ自体大事なのではなく、事実や理論に対してどう感じるかという方が私にとっては重要です。

小説や漫画、絵画などの芸術分野は正確さや客観性が特に要求されず、創造の翼で羽ばたける分野だと思っています。つまり、学問的なアイデアや歴史的な事実を、触媒や材料として、なにか新しい考えや物を創作することにつながればいいと思っています。

たとえばカルヴァンの予定説に刺激を受け、その内容を小説に取り入れてみよう!といったような感じです。そこで、予定説が小説家によってその内容が大幅に付け加えられたり、削られたり、あるいは意味内容が真逆に変えられることもあるかもしれません。しかし、それでもいいのです。それこそが創造だからです。

学問的な利用について:「正確性」と「客観性」

「正確性」や「客観性」が重要になるような分野の資料として提供することは私の目的ではありません。

もちろん、大学生や教員、教授等々の論文作成が創造的ではないといっているわけではありません。しかし論文では「正確性」や「客観性」が「重要視」されます。私の記述は主にその知識を書籍やネットを参照して主観的に書かれたものが多いです。面白くないと思った内容は説明せず、飛ばしてしまうことが多々あります。

したがって、私の記事の内容を引用や参照によって論文を作成するというのは好ましくないことだと考えています。

もし学問的なレポートに使用する場合は、私が引用した文献の内容を使用するといいかもしれません。たとえばマックス・ウェーバーの文献を引用しながら説明した、マルティン・ルターの天職思想の記事があります。これは引用箇所以外は「正確性」や「客観性」に乏しい文章があるかもしれませんが、引用箇所は「正確性」や「客観性」があるはずです。もっとも、マックス・ウェーバーの文献に正確性や客観性があるかどうかについて私に判断する力があるわけではないですが、教授ならマックス・ウェーバーの書籍を引用あるいは出典として挙げれば一応はその「正確性」や「客観性」に満足すると思います。私の説明文を引用するよりは遥かにマシです。

「触媒」として情報を利用する

触媒(しょくばい)とは「他の物質が化学変化をするのを助けながらも、自身は変化をしない物質のこと」です。比喩的に言えば、他の創造者(これは読者のみなさんです)が何か創造をすることを私の記事が助けるということです。

偉そうに大言壮語してしまいましたが、私は触媒にすぎないということです。私の記事で紹介する情報に影響を受け、読者のみなさんがイラストや小説、あるいは論文を書く力につながればいいなと思っています。たとえばマルティン・ルターの天職思想の記事で、学生がその情報そのものを論文に使わないとしても、マックス・ウェーバーについて面白い!と思い、マックス・ウェーバーの別の文献を読もうとする力につながるかもしれません。

私の個人的な心がけについて:分野を越境する

私が記事の執筆で心がけることは、全体的な知識は1%でもいいから、目的となる重要な個別の知識を60%以上記述することです。たとえばどうしてプロテスタントが誕生したのか?カトリックとはなにか?どうしてルター派とカルヴァン派が分かれたのか?どうしてカルヴァン派と改革派がつながったのか?大陸改革派教会との違いはなにか?分類はどうするか?カルヴィニズムの歴史は?カルヴァンの詳細な歴史は?現代におけるカルヴィニズムの立ち位置は?と突き詰めようとすれば際限がないです。そしてそれを説明するのは私の役割ではないと思います。すこし言い訳じみてしまいましたが、細かい史実やその分類についてはWIKIや専門家の書籍に任せます。記事の全体が長いと、読者もきっとだるいですよね。

たとえば、私が面白いと思ったのはプロテスタントの歴史そのものではなく、”予定説”についてでした。他の情報も予定説への理解を含めるためには重要ですが、それは枝葉にすぎないのです。重要なのは果実だと私は思います。100%をひとつの分野で目指すよりも60点でいいから本質的な内容を抑え、多くの分野でたくさんの60点をとることをめざしたいです。多くの分野で60点を抑えることは一つの分野で100点をとるよりも、ときには優れた成果を出すと私は思っています。私の好きな言葉でいうと、分野を「越境」したいのです。医学の分野からアイデアを得て、社会学に応用するといったことも往々にしてあるのです。逆もまたしかりです。

自分への訓戒として、60%の本質を心がけたいと思います。できれば5000文字以内に(2021/07/27)。

引用について

1:「おまえがそう捉えただけだろう」となりかねないために「引用」を徹底していきます

引用過多の部分もあり、大変申し訳ありません。自分に100%の自信があればこのような引用はせず、自分の言葉だけで、あとは脚注にページ数のみ、あるいは参考文献のみを羅列して終えることもできたかもしれません。しかし私は社会学の専門家ではなく、初学者であるので自信がありませんでした。また、誤って説明してる場合に引用として出典を文章として提示しておくことで、読者の方々が、このような理解の方が正しいのでは?といったようにチェックできる保険を残しておきたかったというのが正直な意図です。というより知識の紹介が目的であり、自分の主張をすることは第一の目的ではないので、引用自体は自然の流れだと思います。

そもそも素人の説明など不安しかありません。頑張って書かれていても、それ正しい?ソースは?大学のレポートには使えないよね、もし間違ってたらどうしよう、となってしまいます。私がインターネットで探す際に論文や辞典を参照するのも同じ理由です。プロが執筆するならば、その道に精通しているのだから誤った解釈をする可能性は低いですが、素人の場合は高いのです。だから、読者がソースに遡れるように道標を作る必要があると思います(専門書や一般書をたくさんプロは書いていますが、ほとんど引用は出典は逐一されていないケースがほとんどです(最後の方に本の名前のみ羅列されてることが多い。これはプロだから信頼されているのでしょう。)。

もちろんその道標が過剰だった場合は法的な問題がいろいろあるかもしれません。正直不安です。もし著作権者の方で、その引用方法は問題があるのではないか、と思った方は連絡をください。引用を「ページ数のみ」に変更する、あるいは完全に削除など、別途対処させていただきます。これは個人的な考えですが、ページ数だけを出典としていてもほとんどの読者(特に学者ではなく一般ユーザー)は辿らないんですよね。だから簡単にたどれるように文章を引用することは大切だと考えています。ページ数のみを引用するほうが時間も省けて楽で、法的にもより安全なのですが、これだけはこだわりたいです。

副次的ですが、読者の方々がレポートの際に使う際にも引用は重要になってくると思っています。また、引用を読んで、文献に興味が湧いたり、著者に興味が湧いたりすることもあると思います。私の引用は当然ですがすべての文章ではなく、恣意的に選び取られたものです。引用されなかった部分こそ大事なものがある場合もあるので、是非無料の場合は論文を読んでいただき、有料の場合はぜひ著書を購入して実際に読んでみてくださいm(_ _)m

2:基本的には動画制作の補助として、記事を作成していきます

動画の内容と記事の内容はほとんど重複しています。大きな違いは、出典を明示してあるかどうか、引用してあるかどうかです。記事ではできるだけ引用や出典を徹底させ、動画ではそれらを省略して要点だけ提示していけるようにしたいです。

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