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ジル・ドゥルーズまとめ
- 2015/11/27
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目次
ジル・ドゥルーズとは
ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 – 1995年11月4日)は、フランスの哲学者。パリ第8大学で哲学の教授を務めた。20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人であり、ジャック・デリダなどとともにポスト構造主義の時代を代表する哲学者とされる。(wiki)
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闘いについて
闘いと新しい価値
闘いとは、価値と価値の衝突のことです。
この闘いは別の価値を排除するものではなく、別の価値を自分の中に取り込み、自らが変化するための闘いです。対抗する闘いではないのです。生きているとよく価値の対立が生じます。神はいるか、いないかという宗教的な問題から、女性は痩せている方がいいか、太っている方かというような身近な好みの価値の対立もあります。核は保有するべきなのか、肉を食べるべきなのか、等々。あらゆるところに価値の対立は生じています。しかし、闘いを回避したり、闘いによって別の価値を排除したりすればそこに新しい価値は発生しないとドゥルーズはいいます。
闘いとは、相手と自分の双方の間にある何らかの点の価値を創りだす営み
闘いは妥協でもなく、排除でもありません、新しい価値を発生させるための営みです。新たな価値は社会の側に存在していたり、発生するものではありません。新たな価値は人間の内部に生まれるものです。生きることにおいては、闘いによってのみ新しい価値が生み出されるのです。
裁き
裁きとは、既存の価値に従って判断することです。
裁きによる限り、新しい価値が生み出されたり評価されることはありません。ドゥルーズは「裁きによっては、人は成長しない」と述べています。裁きとは既存の枠組みに準拠して何らかの価値判断を行うことであり、既存の枠組みから一歩も踏み出せていないからです。
裁きによってではなく、あいだにおけるー闘いによって、人は成長するのであり、すべて善きものは闘いから生じてくる ジル・ドゥルーズ
裁くことがこんなにも嫌悪をもよおさせるのは、すべてが等価だからではない。 ジル・ドゥルーズ
そうではなく、反対に、裁きに挑戦することでしか、すべての価値あるものがみずからを生み出し、際だたせることができないからである。
器官なき身体
闘いとは、反対に、力を力で補完し、みずからの捕らえるものを豊かにするあの力強い非ー器官組織的な生命力のことである。赤ん坊が呈示しているのはこの生命力、すなわり、執拗で頑なで飼いならしがたく、あらゆる器官組織的な生とは異なる、そんな生きるー意志である。(守中高明ほか訳『批評と臨床』河出書房新社、二〇〇二、二六三−二六四頁)
器官なき身体とは
器官なき身体とは、器官によって発生する欲求を超えたところに存在する何かのありさまのことです。
身体器官に由来する欲望ではなく、私たちの「存在そのもの」に由来する力であり、「存在そのもの」が指し示し、進んでいこうとする方向性のことです。存在そのものは生そのものと置き換えることができるそうです。
私たちは「欲望」や「欲求」によって動いています。たとえば、水を飲みたいというときも、私たちの何らかの身体器官がその欲求を発生させているといえます。また、欲求として認識されるのは欲求が満たされていない状態のときです。欲求が存在することで私たちは充足させるために行動しています。すべての欲求が充足されているとき、人間は行動しないといえます。
私たちは欲求を充足させることを”目的”として生きているわけではありません。欲求を充足させるのは、単に”生存し続けるために必要であるから”行っているのです。
自動車がガソリンを補給するために存在していないのと同じです。欲求を充足させることは人間の中心的な機能ではないといいます。ドゥルーズは“器官によって発生する欲求を超えたところに存在する何らかのありさまを「器官なき身体」と表現しました。
人間の生きる目的とつらさ
人間の生きる目的
生きることは人間の目的ではないとドゥルーズはいいます。生きるために目的は必要ではないのです。
自動車の中心的な機能は走って曲がって止まることであるように、人間の中心的な機能は生きることです。自動車が走ることを通して何らかの目的を達成するように、人間も生きることを通して生きることをの目的を決めていきます。生きることの目的を決めるのは人間なのです。生きることで何かになっていくのです。
つらさ
つらさは自由が損なわれることで発生します。自由とは、次の時間に自分の決定に従った何かをすることであり、意思によって時間を支配することです。意志とは、欲望によって示される具体的な方向です。ここでいう欲望は身体的なものではありません。ここでいう欲望とは、身体的器官に依存して”いない“欲望です。”生の力“であり、”器官なき身体“を意味します。生の力(器官なき身体を元にして形成された意志による時間の決定という自由)が何らかの要素によって邪魔されたときに、自由が損なわれ、つらさが発生します。
つらさは私たちが“何か“である以上、避けがたく発生します。我々は生きることによって常に何かになっています。無気力にどれだけ生きようと、生きている限り人は何かになります。何かである状態は常に、私たちが望んだものとは異なっているといいます。
(解釈)人のつらさは根源的には器官なき身体から生まれるといえる。器官なき身体とは、存在そのものが示す方向性であった。この存在するものが示す方向性というものが曖昧でわかりにくい。言い換えれば生そのものの進んでいこうとする方向性とはなにを意味しているのか。人により違うのか、普遍的なものがあるのか。ドゥルーズは赤ん坊の例を出していた。
「・・・非器官組織的な生命力のことである。赤ん坊が提示しているのはこの生命力、すなわち、執拗で頑なで飼いならしがたく、あらゆる器官組織的な生とは異なる、そんな生きるー意志である」
BがAではないものとして表されているからわかりにくい。器官なき身体とは、器官に依存していない身体だ、と言われてもいまいち理解できない。水に対する欲望は器官に依存している。異性に対する欲望は器官に依存しちる。依存しない欲望は生そのもの、生きる意志。いまいちわからないので、こうした器官なき身体、存在そのものが示す方向性へ進むためにはどうすればいいのかということに対してドゥルーズは述べているので、そこを見ていきたい。
つらさを克服するためには、闘いが必要。
つらさが発生する理由は、器官なき身体に基づいた意志による自由が損なわれたからでした。これを解消するためには、自由が損なわれないようにすればいいわけです。つまり、器官なき身体の目指す方向性を見据え、その方向にむけて努力していくことが必要になります。存在そのもの、生そのものが進んでいくべき方向にむけて努力していくことが必要になるのです。
別の存在と衝突し、その価値を取り込むことでそうした方向性への努力は達成されるといいます。こうした営みをドゥルーズは「あいだにおけるー闘い」と呼んでいるそうです。
闘うことで人間は”存在そのもの”に近づいていことができる
たとえば自然と闘うとき、対抗する闘いではなく、あいだにおける闘いを行うことによって自然と融合し、新たな何かになることができる。
総括
人生の意味や目的は重要ではない
ドゥルーズによれば、最初に生きる目的を決めて何らかの価値を想定し、それを求めて行動するということは、生きることの実相ではない。たとえば、旅行には行き先が存在するが、行き先に到達することが目的ではない。もし行き先に到達することが目的なら、それは単なる移動になる。そのように考えると、生きることは移動ではなく、その意味で旅行であることが分かる。
(解釈)ちょっと言ってることがわけわかんないですよね。口ポカーンですわ。たとえば愛する人と結婚して愛する子供を生んで、その人達のために生きていくことが自分の価値だと最初に想定したとします。そしてそれを求めるように愛する人を探すとします。これは生きることの本当の姿ではないそうです。ドゥルーズによれば価値を求めることは生きることではない。自分の価値と他者の価値との衝突が大事なんですよね。いわゆるあいだにおける闘いですね。最初から絶対的な価値があって、そのために生きることはほんとうの意味で生きることではないということですかね。生きる意味=行き先を設定してそこに進んでいくことはほんとうの意味で生きていくことではないと。それは単なる移動にすぎず、旅行ではないと。最初に「愛する人と結婚する人生が生きる意味」(行き先)を設定してしまい、それに向かって生きていくことは生きていくということではないと。
この「”最初”に生きる意味を想定する」という段階で闘いなく決めてしまっているからいけないのかもしれません。つまり、想定すべき価値ははじめから何らかの価値があるという前提からはじめるのではなく価値と価値を対立させながら、価値をより優れたものにしていくことで価値を生み出していくということなのかもしれません。簡潔に言えば、価値を発見するのではなく、価値を生み出していくことが重要だということですね。価値を生み出していくためには、闘いが必要であるということです。闘いとは排除や妥協ではなく、価値の吸収です。別の価値を自分の中に取り込み、自ら変化するためのものです。たとえば、「家族のために生きることが重要である」という価値と、「自分のために生きることが重要である」という価値が対立するとき、自分も大事にしながら、家族も大事にするようなある価値を生み出していくことができるというです。はじめから家族のために生きることが唯一絶対の価値と盲信することはく、闘いを行い、価値を生み出していくべきであり、これが生きるということなのかもしれません。最初は理解できませんでしたが、なんとなく理解することができてきました。
ある旅行の「価値」を決めることは、その旅行をしている人間以外に誰にもできません。もちろん、初期に想定された行き先に到達しえたか否かは、どうでもいいことのはずです。その旅行の行程の途中において、どのように振る舞い、何を得たかが、旅行の価値を決める要因であり、それは本人にしかわからないことであるはずです。しかし私たちは、「他人の判断を以って、自らの行動の価値を判断する」という性癖を持っています
「現代思想の使い方」頁182
ここで問題なのは「意味や価値」を<見だす>ために、どのような思考や行動が必要であるのか」ということではなく、「意味や価値を自ら生み出すために、なにが必要であるのか」ということです。それはまた、「すべての人生には意味がある」「無意味な人生など存在しない」ということが信じられなくなっている人にとって、何が残されているかを考えるということでもあります。
「現代思想の使い方」頁183
アンチ・エディプス的生き方とは
エディプス・コンプレックスとは
エディプス・コンプレックスとは、3歳から5歳の子どもが異性の親に対して愛情を感じ、同性の親にライバル心を感じる状態のことをいうらしいです。ジークムント・フロイトが提唱した概念です。
たとえば息子が母親を結びついていたいという願望を抱き、父親を邪魔に思うとします。この場合、父殺しの願望を抱いたりすることもありますが、罪悪感から母親との結びつきを諦めて大人に成長するのが一般的であるといえます。
ここで肝心な部分は、母親との癒着を”父親によって引き裂かれる”ということだそうです。父親は社会を象徴する記号です。人間は幼稚な欲望を捨てて社会化することが求められます。母親といつまでも癒着していたいという願望は社会への適応を拒否した自己愛の象徴らしいです。
エディプスの過程とは、自己愛を社会の掟の存在によって暴力的に打ち砕かれ、社会の掟はお前が生まれる前からすでにあり、遅れきてきたお前はそれに黙って屈服するより他の選択の余地はないのだ、ということを教育されていく過程だそうです。
自己愛を諦めて社会適応することは自分の意志ではなく父親(社会の掟)の存在であることが重要です。
エディプス・コンプレックスの克服とは、自己愛を諦めて社会適応していくこと、自己欺瞞を受け入れることであるといえます。※自己欺瞞であるのは、自分の意志ではなく社会の掟によって従っているから
アンチ・エディプス
アンチ・エディプスとは、フロイトのエディプス・コンプレックスに対する否定です。フロイトやラカンの精神分析では、人間の欲望を家族のウチへと閉じ込め、多様な可能性を摘みとってしまうからです。
ドゥルーズ=ガタリ的な考えでは、統合ではなく分裂、画一性ではなく差異が重視されます。統合を目指すパラノイア(妄想症)ではなく差異化するスキゾフレニー(分裂症)、定住的ではなくうノマド(遊牧)的。
欲望する諸機械とは
欲望する諸機械
まず、「諸機械」という言葉は一方で諸項が連結しなくては作動しないが、他方で連結の必然性がないこと示しているそうです。欲望はさまざまなものと連結しますが、この連結はいつでも断ち切ることができて、新たな連結をつくりだすそうです。
諸という言葉はたくさんあるという意味ですから、字面的には機械がたくさんあるということですよね。Aという機械がBという機械とつながらなくては動かないけれども、このつながりは必然的なものではないということですね。連結の必然性を規則化(コード化)として捉えると理解しやすいかもしれません。
ドゥルーズとガタリの基本的な考えとして、欲望は多様な方向へと流れ出るものであり、これを規制(コード化)することはできないそうです。欲望は”脱コード的”であるということができます。欲望を規制するような秩序があれば、欲望はそれを破壊するそうです。
欲望は本質的に革命である
ドゥルーズ=ガタリ的な考えは、欲望を全面的に肯定する思想であることがわかります。
このように、欲望をコード化することを否定するということは、欲望としての諸機械が必然的なつながり(ー>コード化したつながり)をもたないということの理解につながります。硬直化したものではなく、柔軟な結合ということですね。こうした欲望する諸機械をさらに煮詰めた考えが、リゾームだそうです。
リゾーム
リゾームは一般的には、根茎(こんけい、地中または地表をはい、根のように見える茎)を意味します。ドゥルーズ=ガタリによれば、リゾームは多様性と非等質性を原理とする<非中心化システム>意味するそうです。
このリゾーム対立する概念として、ツリー(樹木)があります。序列(中心化)システムを意味します。ドゥルーズ=ガタリはツリーよりもリゾームを重視します。リゾームは多様な方向へ広がり、他のものと多様な形で連結するからです。リゾームはスキゾ(分裂症)的でのマド(遊牧)的であるといえます。
<リゾームと欲望のパラドックス>
ところが、根本的な問題は、こうしたリゾーム的に広がる欲望が、どうして自分自身を抑圧するようになるのか、である。ドゥルーズ=ガタリは生涯この問題と格闘したが、必ずしも明確な答えを出すことはできなかった。
「本当に分かる現代思想」 岡本裕一郎(日本実業出版社) 頁73
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