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【1ワード社会学第十二回(8)】オースティンの言語行為論:教訓
- 2026/3/11
- ジョン・ラングショー・オースティン
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動画での説明
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はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
記事の分割
【1ワード社会学第十二回(1)】オースティンの言語行為論:行為と発話の違いとは
【1ワード社会学第十二回(2)】オースティンの言語行為論:事実確認的発話と行為遂行的発話
【1ワード社会学第十二回(3)】オースティンの言語行為論:「顕在的遂行発話」と「原初的遂行発話」の違い
【1ワード社会学第十二回(4)】オースティンの言語行為論:適切性の条件とは
【1ワード社会学第十二回(5)】オースティンの言語行為論:「発語行為」とはなにか
【1ワード社会学第十二回(6)】オースティンの言語行為論:ウィトゲンシュタイン、デイヴィットソンにおける「理由と原因の違い」とは
【1ワード社会学第十二回(7)】オースティンの言語行為論:オースティンによる暫定的な発語内行為の分類リスト
【1ワード社会学第十二回(8)】オースティンの言語行為論:教訓(今回の記事)
教訓
複雑性、偶発性、多様性、柔軟性
言葉は世界を単に写し出したり、コピーするものではなく、世界を作り出すものであるという見方は面白い。言葉は発話だけではなく行為でもあり、また思考にも関係している。あらゆる活動の基盤となるものであり、我々は日々、世界を創り出しているのだといえる。
食べたり、壊したり、触ったりしなければ世界は変わらないと心のどこかで私は思っていたのかもしれない。しかし、発話行為も同様に世界を変化させるという意味で機能等価的でありうる。
また、「単に発話そのものだけを見ても発話の意味や機能が見えてこない」という視点も重要である。それは全体の中の部分にすぎず、全体を把握しなければ部分のあり方が見えてこないのである。こうしたホーリスティック(全体論)的な考え方は社会学者のデュルケムや人類学者のベイトソンがもっていた考え方である。あるいは構造において要素のあり方が規定されると考えれば、構造主義的である。
我々の発話の意味や機能、そしてそれらが導く結果は「社会的コンテクスト」が強く影響する(言葉を使わない行為も、行動も、なんらかの意味をもつためにはコンテクストが関係するといえる)。
デュルケムでいえば人間は社会的に拘束されているということになる。ただし、そうした社会的コンテクストは不動のものではなく、我々の日々の行為、そして日々の発話によって変化しうるものであると考えれば社会学の構築主義に近づく。さらに社会的慣習だけではなく「身体」にも影響を受ける存在と考えればメルロ・ポンティの思想に近づく。「主体性(意識)」を重視すればサルトルなどの思想に近づくだろう。我々は様々な要素に、複雑に影響を受け、選択し、行為して生きている。
コンテクストによって意味が変化するという点はベイトソンにおいても重要だった。たとえば「玩具の作り物のステーキ」に対して、「食べてみたい」と発話したとする。
この場合、多くの場合は<冗談だよ>というコンテクストにおける発話だと解釈される。しかし、そうしたコンテクストを解釈できない人間がいる。「ふつうこれは冗談だ」という慣習を知らないのではなく、言葉通りの意味以外を受け付けないように学習した人間である。現代日本社会では基本的にそうした人物は「発達障害」と診断される傾向がある(たとえばアスペルガー症候群など)。
こうした症状はDNAなどの生得的なものだけではなく、社会的に、たとえば家族内での歪んだコミュニケーションで後天的に生じうるという点がポイントである。
では、こうした家族内の歪んだコミュニケーションを生み出しやすいような社会的な仕組みが存在するのか、認識枠組みが存在するのかと考えていくと、より大きな構造的な話につながっていく。
デリダ=サール論争、寄生的な発話と脱構築について
真面目な発話と寄生的な発話の違い
デリダ=サール論争とは、オースティンの言語行為論をめぐって、「意味は通常の発話者の意図と文脈によって基礎づけられる(サールのオースティン解釈)」のか、「それとも反復可能性によって意図や文脈そのものが成り立っている(デリダ)」のかを争った哲学論争のことである。
ジャック・デリダ(1930-2004)はフランスの哲学者である。1971年の国際会議(モントリオール)においてデリダによってオースティンへの言及が口頭発表され、「署名 出来事 コンテクスト」が1976年に英訳された。
1977年に「差異ふたたび:デリダへの反論」という題名で批判をサールが発表する。デリダはサールの反論に対して、1977年に「有限責任会社abc」を発表し、再反論している。さらにハーバーマスが「近代の哲学的言説」(1985)のなかでサール寄りの立場をとっている。
オースティンは「真面目な発話」を基準に発話行為論を構築しようとした。「真面目ではない発話」とは、舞台、詩、冗談、独り言などの発話のことであり、「寄生的な発話」と呼ばれ、分析から除外したわけである。「真面目ではない発話」ではない発話が「真面目な発話」ということになる。
たとえば冗談で「1兆円渡すと約束する」といった場合、遂行的な発話は奇妙で、空虚であるということになる(約束という機能をもたない)。この例だと極端だが、「明日は遅刻しないと約束する」場合でも冗談でありうるし、独り言でありうる。そんな(普通はありえなそうな)可能性まで考えていたら理論の構築が難しいというわけなのだろう。しかしデリダからすれば、その「可能性」こそが大事なのである。
寄生とは一般に、「他に頼って生きる」ことを意味し、それ自体では意味をなさないものである。
「ある社会において、普通はAという意味であり、Bという機能を果たす」という基本的な前提があるからこそ、その前提を参照し、かつ無効化できるのである。駄菓子屋で「お会計は100億円になります」という冗談が通じるのは、文字どおりの普通の意味を理解したうえで、かつそれが本気ではないと理解できるからである。「あなたの家を燃やします」と舞台で聞いて本気で驚かないのも同様である。文脈に依存しているのは全ての発話がそうだが、冗談の場合は普通の発話とはどういう意味か、普通はどう受け取られるかという状態に依存しているのである。
通常の約束事をあえて踏み外し、「ズレ(差異)」を作ることで生まれる(通常ではない)機能をもつ発話が「冗談」だということになる。
オースティンはそうした「寄生的な発話」を再び一般的な考察の対象として扱うこともあるかもしれないが、今回の分析から意識的に排除すると述べている。オースティンは基本的に「通常の状況で発せられた」という条件で考えているのである。要するに、オースティンは「通常の意図と文脈から構成される『真面目な発話』によって安定的に理論を基礎づけよう」としているわけである。
・特に参考にしたページ
森達也「言語行為論と政治的自由―「談話のコントロールとしての自由」 をめぐって―」(2009),92p
岩本一「オースティン・サール VS. デリダ―サール= デリダ論争の脱構築的・哲学的考察―」(2005),28-30p
デリダにおける記号の反復可能性
それに対してデリダは、そもそも通常の意図や文脈は理論の前提とはならないと批判している。
たとえば三角形が成立する条件は「三つの辺をもつこと」であるが、時系列的に「最初に3つの辺が時間的に最初に現れた」というわけではない。三つの辺は三角形の「成立条件(論理的前提)」なのである。同じように、「この言い方は、普通はこういう意味だ」が成立する条件として「反復可能性(他の場面でも違ったように使うことが可能)」が必要になるのである。ズレる可能性を抑える状態が普通だというのなら、そもそもズレる可能性が存在していなければならない。そして、ズレが絶対にないという状態は言語の使用でありえないということになる。可能性は常に残るのであり、低めることができるにすぎない。柔軟性、偶発性を0まで食い尽くして固定することはできないのである(常に開かれている)。
たとえば「100億円になります」という言葉は、駄菓子屋で店主が言えば冗談であり、企業を買収しようとしているビジネスマンが言えば冗談ではない場合がある。
このように、我々は状況によって本気か冗談かを区別することが可能である(と日常的には感じている)。この区別が可能であるのは、そもそも記号(言語)の意味が固定的ではなく、ズラす事が可能な、不安定な、揺れるものだからであり、それを前提に社会的な営みが上乗せされているからである。(どんな発話でも、どんな状況でも)冗談として解釈されうる、意図しうるという事態はそうした「揺れ」を表す重要な要素なのである。
記号に対する解釈がズレる余地を常に含んでいるような構造的な性質を「記号の反復可能性」という。「普通の意味」とは、記号が本来的にもつ反復可能性によるズレが、暫定的に社会的慣習によって抑え込まれている状態にすぎない。
ただし、反復可能性は「普通の発話」が成立するための論理的前提条件であって、それ自体が発話の成功を保証するものではない。反復可能性が存在し、かつ、「反復可能性に伴う解釈のズレをできるだけ抑える作業」が社会的に繰り返し行われることで、また、それらが文化として蓄積されることで、ある記号をある解釈へと固定的に考えることが可能となり、狙った意図を成功させる可能性を高めているにすぎない。もちろん、そうした「反復可能性に伴う解釈のズレの抑制」は完全ではなく、常に変動する可能性をもっている。
オースティンは「真面目な文脈」を、冗談という文脈ではない、舞台という文脈ではないといったように定義している。つまり「非標準的」がわかるからこそ、「標準的」がわかるのである。
もし理論から「非標準的なもの」を排除してしまうと、標準という概念が成り立たなくなってしまう。前提として排除したものを、前提としてすでに使っているのである。
要するに、デリダは「非通常的な文脈」も分析の対象としていないのはおかしいといっているのである。重要なのは「発話への解釈が揺らがざるをえないこと」への視線である。理想的で安定的で、静態的な「構造」への重視への批判だろう(いわゆる脱構造主義的な立場である)。
とはいえ、そもそも通常/非通常の分類をどのように行うのかという問題がまだある。オースティンのように、所与のものとして安直に前提することは問題になる(こうした批判は、パーソンズに対する保守性への批判と重なるものを感じる)。言語行為が成功するためには「慣習的な手続き」や「意図」が必要だとオースティンはいい、それらは「通常性」に依存している。デイヴィッドソンの場合も「主体は合理的である」と仮定することから始まるが、その社会において合理的であるとされる状態は何か、合理的ではないとされる状態は何かという分析から始める必要があるといえる。
たとえば「Aという発話がXという文脈で用いられれば、αという意味や機能をもつ」というケースがある社会で頻繁に、くり返し用いられていれば通常性が高いといえるのか。
どの程度、どの範囲ならそういえるのか。過去を基準とするのか、現在を基準にするのか。どんな人物が使っていればいいのか。なにをもって人物といえるのか。普通の人物とはどういう性質をもっているのか。そもそも最初の1回目はどうやって成立したのか。「反復可能性に伴う解釈のズレの抑制」はいかにして実行されているのか、また、それが十分だとどうして見なされるのか。「ズレの抑制がされたものだと理論的に仮定して進める」だけでは、十分ではないのだろう。
前提の前提、その前提といったように、理論を基礎づけることには困難が生じてくる可能性がある。オースティンの言語行為論は安定した基礎を持てない、揺らぎざるをえないという結論になってしまう。理論的なものは置いておいて、現実の「反復可能性に伴う解釈のズレの抑制」がいかに現場で生じているか(たとえばズレたときの事後的な秩序の修復作業など)を徹底的に素直に記述しようとしたエスノメソドロジーはその点、(理論化を諦めて、あるいは戦略的に中断して)揺らぎに着目しているといえるかもしれない。
サールは「排除は暫定的なものにすぎないとオースティンは述べている」といってデリダの解釈は誤読であると反論している。詳細なサールの反論はここでは省く。
・特に参考にしたページ
森達也「言語行為論と政治的自由―「談話のコントロールとしての自由」 をめぐって―」(2009),92p
岩本一「オースティン・サール VS. デリダ―サール= デリダ論争の脱構築的・哲学的考察―」(2005),28-30p
不真面目な発話における変革的力について
このような難しい話はあまり身に入ってこないが、面白いと思った点があった。それは、「不真面目な発話が、時に慣習そのものを変更する潜在力をそなえている」というデリダの主張である。
冗談を言ったり、パロディとして扱ったりすることで、習慣が変わるということはありうる。たとえば冗談で「今日からこの会社ではスーツではなくアロハシャツにします」と社長が述べ、社員はそれを冗談と受け止めつつも、「そうでありうる可能性」を考えるようになり(普通であることがより揺らぎ)、私服出社が慣習(普通)となる可能性がある。
「不真面目な発話」がもし一切許されず、「習慣に迎合的な発話(普通の発話、解釈のズレが少ない会話)」しか世の中に存在しないとすれば、習慣は変化しにくいだろう。もしこの世に適切で健全な習慣しかないと仮定するならばそれでもいいだろうが、そうとは限らない。
木前利秋さんや野平慎二さんによると、討議という発話において生じているのは単なる意見交換ではなく、「他者との違いに気づき、いったん自分の立場や自己同一性を保留し、そこから自己と他者をつなぎ直す過程」だという。「自分が思う通常の文脈」とは異なる「他者の通常の文脈」などがありうること、その「差異」を認識することが重要だということになる。
・特に参考にしたページ
丸橋静香「J・ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論に基づく話し合い活動の充実方策: ハーバーマスにおけるオースティン言語行為論受容の批判的検討を通して」(2015),67p
ベイトソンにおける「学習の学習」
このように自分の当たり前を意識化することは、ベイトソンでいえば学習2に関係してくるのではないだろうか。自分がある常識を学習していることを学習するのである。
たとえばハルの反復学習の研究では、ランダムな音節を記憶するという実験があったという。毎回出される音節が違うので、特定の1:1の記憶(学習1)はあてにならない。しかし、被験者全員が試行回数を増やすにつれて成績が伸びていったという。より高次の、言葉にしにくい「コツ」のようなものが体得されていったのである。いわゆる「類の学習」である。「この場は冗談が許される場である(特定の発話に限定されるのではなく)」といったような学習の学習も、学習2(より抽象的なパターンの学習)に近い。
我々はトイレに行ったら手を洗うことを学習1のレベルで学習している。しかし、泥で汚れた場合も手を洗い、おにぎりを握る前にも手を洗う。では、人に触る場合はどうだろうか。おにぎり-洗う、泥-洗うといった個別の学習(学習1)だけを我々はしているわけではない。
このように「通常、我々は手は清潔にしておくべきだ」といったより高次の、抽象的な(論理階型の高い)パターンを、コンテクストを学習するのである。
我々の社会では、そうした抽象的なパターンを基盤としているのではないだろうか。また、それらを意識することは「あたりまえ」すぎて意外と難しい、盲点なのである。
医者がレントゲン写真で病気を判断できるのも学習2のレベルであり、医者はなぜそのような診断をできるか言語化しにくい(このシミが、こうであるといった学習1レベルの説明は可能だが)。絵描きにどうして絵を上手く描けるか説明させるのも難しいだろう。「繰り返し練習してきたから」という回答が素直な回答だろう。人間の足だけを上手く描けるようなスキルが会得されるわけではなく、馬の脚やテーブルの脚も描けるような、より抽象的な学習が行われている。
ベイトソンのダブルバインド理論では、あえて患者の前提とセラピストの前提との衝突をはかり、患者を治療するという手法がある。
もしこの社会に、「理論的に不健全な前提」がはびこっていて、それが社会では「通常の前提」とみなされ、学習2のレベルで学習されていたとしたらどうだろうか。社会のセラピーを行う必要があるのではないだろうか。もちろん、「なぜ理論的に不健全だといえるのか」という難問がそこにはある。フーコーにおける狂気の問題とも類似しているかもしれない。仮に不健全さがわからないとしても、「柔軟性」や「変動可能性」を自覚する、確保するという態度は来たるべき危険への備えとして有用ではないだろうか。
また、 ベイトソンは「『遊び』とは、それを作る行為が、何らかの『非遊び』の行為と関係する(ないしはそれを表示する)現象であることは、これまで述べたところからいえそうである。そうだとすれば、遊びにおいて、遊びではない何かが信号によって置き代わっている、ということになる。その点から、遊びという現象の発生は、コミュニケーションの進化における重要な一歩だったという言い方ができそうである」と述べている。原初的な揺らぎへの生成論的な視線といえるかもしれない(たとえば噛むことと攻撃が1対1で固着している状態から、攻撃かもしれないし、遊びかもしれないという変化)。
ベイトソンの「遊びと空想の理論」の論をデリダと組合せて考えても面白いかもしれない。冗談やパロディがいかに人間のコミュニケーションの基礎として重要だったかがわかるからである。つまり、冗談やパロディは発話行為論の基礎を考える際にも重要なのである。周縁的な例外では済まされない。
参考文献リスト
今回の主な文献
J. L・オースティン (著), 飯野 勝己 (翻訳) 「言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫 2505)」
J. L・オースティン (著), 飯野 勝己 (翻訳) 「言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫 2505)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
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