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エマニュエル・レヴィナスまとめ
- 2015/11/23
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エマニュエル・レヴィナスとは
エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906年1月12日 – 1995年12月25日)は、フランスの哲学者。独自の倫理学、エトムント・フッサールやマルティン・ハイデッガーの現象学に関する研究の他、タルムードの研究などでも知られる。ロシア帝国、現リトアニア、カウナス出身のユダヤ人。リトアニア語名はEmanuelis Levinas(エマヌエリス・レヴィナス)。フランス語ではレヴィナ[leviˈna]ともレヴィナス[leviˈnas]とも発音する(wikiより)。
他者について
他者を了解することと、認識することの違い
他者を認識すること:他者の役割を知ること(他者がどのような恩恵や利害をもたらすかという観点から)
他者を了解すること:他者が自分ではない他なるものであることを知ること
他者の了解不可能性
他者の役割を認識することが可能であったとしても、他者が自分ではない他なるものであることを認識することは不可能です、なぜならば、認識するという行為自体に、「自分にとってどのようなものであるかを知る」という概念が含まれているからです。他者を認識しようとした瞬間に、その他者の像はあなたにとりこまれ「あなたにとっての何か」として位置づけられてしまいます。レヴィナスは他者の了解不可能性ゆえに、他者の了解不可能性を知ることが重要であると述べています。
”了解”することが”自分ではない”他を認識することでした。したがって、認識に”自分”を含めてはいけないのです。自分から見た他人というものは他人それ自体への認識ではありません。完全に客観的な視点で他人を認識することは可能なのでしょうか。レヴィナスは不可能であるといいます。
たとえば、自分の親を親として認識するとします。 この場合、私と親との関係によってある人間を親として認識していることになります。叱られたことがある、褒められたことがある、育ててくれた、育ててくれなかった等々。これは私との関係による他者(親)への認識であり、ある人間を了解していることにはなりません。私の親の対する認識はごく一部でしかないのです。その一部は役割演技によって発生している一つの関係かもしれません。親だから子をしつけるべきであるという役割を親と子の関係において親は演じているのであり、親自体を認識するというよりは、自分と親の関係で発生している親を認識しているということになります。その認識は自分を含めなければならないので、自分を含めない了解をすることはできません。したがって、他者を了解することは不可能だといえます。
対象化
対象化とは、”その人が自分にとって何であるか”ということを基軸として理解することです。対象化の一般的な意味は「あるものを認識するために,一定の意味を持った対象としてはっきり措定(そてい、≒仮定)すること」です。対象化は理解たりえますが、了解ではありえません。私たちの認識は常に自分との関係においての認識であるからです。仮にある人のすべての行動や思考や価値観を知ることができたとしても、了解にはなりません。これは了解ではなく理解です。理解しているということは、”私にとって、私と一緒にいるときには”といったような役割を演じていたということを認識するということにすぎません。
たとえば、ニュースなどで「あの人がそんなことをする人だとは思わなかった」などと述べる人がいます。犯罪を犯した人に関する発言です。この場合の発言者のあの人(他者)に対する認識は、発言者とあの人(他者)との関係において築かれていた認識です。発言者があの人(他者)に対して優しくしていた場合、あの人(他者)も発言者に対して優しくし返していたとします。この場合、あの人(他者)が優しいという発言者のあの人(他者)に対する認識は関係において築かれていたことがわかります。また、近所の人には礼儀正しくするべきというような役割演技があの人(他者)と発言者の間に発生していたかもしれません。つまり、あの人(他者)は発言者に対して仮面をかぶっていたのであり、真の価値観を示していないかもしれません。ある人が他者の価値観を完全に知ることができたとしても、それはある人と他者との関係においての価値観を完全に理解できたにすぎないのです。
他者をもてなすということ
もてなすとは、受け入れたり歓迎したりするということです。もてなすとは、他者が喜ぶことをするということではなく、受容する、受け止めるということです。我々は他者を理解することはできますが、了解することはできません。言い換えれば、了解できない他者の存在だけは認識することができます。我々は他者を了解できませんが、他者は確実に存在しています。このような場合に2つの選択肢があるそうです。
1:自分の世界において認識された他人と自己のみを構成要素として生きていくこと
この認識された他人は”対象化”された他人です。つまり、他人は自分にとって名の何かです。たとえば自分にとって利益をもたらすものとしての他者と、害をもたらすものとしての他者です。
2:了解できない他者の存在を感知し、共に生きていくこと
他者には重要な機能が存在しています。自己の存在は他者によって”引き受けられること”によって初めて確実なものになるということです。他者がいなければ自己の存在とは確実にならないのです。そしてそれは自己によってとりこまれた認識像としての他人によっては実現されないのです。自己が取り込んだ認識像は自己の一部であるからです。
呼びかけ
自己の存在を他者に引き受けてもらうときは、”呼びかけ”が契機として行われます。”了解不能な他者”が私に呼びかけることによって、私の”自己”が発生するのです。呼びかける声を了解不能な他者が存在する証であると考えた瞬間に、私の自己は確実なものとなります。
呼びかける声が命令や指示であった場合は呼びかけではありません。この声は了解不能な他者の声ではなく、自己と関係をもつ何らかの存在が発した記号だからです。
呼びかけること、呼びかけに応答することが共に生きることの最初の段階です。了解不能な他者の呼びかけに応答することは、他者の存在を引き受けることです。“私はここにいるぞ”という他者の叫びに応答することによって、その他者の存在を肯定することでもあります。自分自身は誰かにとっての他者です。我々はこのようにしてお互いに存在することそのものを支えあっているといえます。
受容
他者が了解不能であるということは、他者が望んでいるものや嫌っているものが理解できないということでもあります。もし理解できるとすれば、他者は対象かされてしまいます。そこで、引き受けるということ、受容するということが大切になってきます。受容とは、望むことをしてあげることでもなく、理解しようと努力することでもありません。理解は自己の内部に取り込むことであり、了解不能な他者を対象化された他人へと変化させる営みであるからです。受容することは喜ばせることではなく、自分が喜んでもてなす(歓迎)することなのです。喜ぶのは他者ではなく、自己なのです。もてなしによって了解不能な他者との間で相互に存在を引き受けあうことができるようになり、さらなる喜びを発生させることになるのです。
参考文献
「現代思想の使い方」高田朋典(秀和システム)
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