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目次
- ミシェル・フーコーとは
- 誤解について
- 制度について
- 儀式化について
- 狂気について
- 考古学について
- エピスメーデーについて
- 権力について
- 分析方法について
- 監獄-規律(dicipline)について
- セクシュアリティについて
- 真理について
- 参考文献について
Contents
ミシェル・フーコーとは
ミシェル・フーコー(フコ)(Michel Foucault 発音例、1926年10月15日 – 1984年6月25日)は、フランスの哲学者。『言葉と物』(1966)は当初「構造主義の考古学」の副題がついていたことから、当時流行していた構造主義の書として読まれ、構造主義の旗手とされた。フーコー自身は自分が構造主義者であると思っていたことはなく、むしろ構造主義を厳しく批判したため、のちにポスト構造主義者に分類されるようになる。代表作はその他、『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など。(wiki)
私が知りたかったことは、規定された形式のなかで、真理や権力に関わる諸々の実践を通して、いかにして主体は狂気の主体と正常な主体のいずれかとして自己を構成するのか、ということでした。 インタヴュー 1984 フーコー
フーコーの問題意識
「正常」と「狂気」の差異を作り出すことで、「患者」をつねに生み出していくような制度ではないのか、この制度は権力によって維持されいているのではないか、というのがフーコーの問題意識です。
誤解について
なんとなく感じていることが実は誤解に基づいていることがあるらしいです。
たとえば、わたしたちは歴史的な発展過程が「定まった方向を有している」と漠然と考えがちだそうです。社会は連続的に進歩・発展し、よりよい方向へ段階的に漸進(ぜんしん、急がないで段階を追って少しずつ進んで行くこと)していると”なんとなく”感じています。しかし少し検討してみれば、その多くが誤解に基づいていることに気づくそうです。
(解釈)たしかに科学がこのまま発展していって、よりよい方向に進んでいくとなんとなく感じている。そのことについて検討してみれば誤解にもとづいているかもしれない。
フーコーは『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』「監獄の誕生」などの著作で誤解を指摘したらしいです。
たとえば、監獄は論理的な帰結として発生したものでも、歴史の定向的な進化の結果として発生したものでもなく、ある時代の要請に基づいて事件として発生したものでしかないとフーコーは指摘しています。何らかの目的の達成を目論んだものではない「単なる一連の事件」が新しい価値観を発生させてしまう可能性があるとフーコーは検討しています。
新しい価値観とはたとえば、「正常と狂気」「理性と非理性」「集団と個人」「服従と反抗」などという概念です。これらは精神病院や監獄という制度的な施設が作られ、運用されていくにしたがって生み出されてきたものです。こうした価値観は時間が経つにつれて個人において内在化された価値観となっていきます。個人レベルの内在化が進んでいくと、制度や制度的施設はさらに強化され、力を強めていきます。さらにはそういった価値観を判断する機関、「理性と非理性」、「正常と狂気」、「服従と反抗」などを判断しうる職業が権力を有することになり、制度的施設そのものが権威的なものとなっていきます。精神病院や監獄だけではなく、工場や学校や軍隊においてもおなじようなことが発生したといいます。
精神病院、監獄、学校、軍隊、そして工場などの制度的施設に共通しているものはなんでしょうか。たとえば、個人は集団として扱われ、規律の徹底がはかられ、処罰が行われ、特典などによる成績評価が行われるなどの類似点が見られます。制度が固定化したり、個人の内部に内在化することによって、価値観が形成され、道徳と呼ばれるようになります。
制度について
言説とは何か
制度を説明する前に、言説を説明しておきます。言説とは、社会に是認・認可された観念とその表現によって構成されているものです。フーコーに言わせれば、「特定の社会的・文化的な集団・諸関係に強く結びつき、それによって規定される、言語表現、ものの言い方」となるでしょう。伝達され、認められてきた観念や、そうした観念の表現が言説なのです。時間にルーズではいけないというような観念が世間的に認められてくれば、それは言説であるということができます。
こうした言説が、制度によってろ過され、知識となります。言説=知識ではありません。言説が制度によって強化されたものが知識であるということができます。
ブルデューによれば言説とは言語市場(社会の場面)で日常的に交換されている言葉です。日常的に交換されているというところがおそらくポイントでしょう。
フーコーによる言説は社会における知識体系に伴う現象です。つまり、知識制度を強化するような言葉の交換のみが言説としてみなされるということでしょう。言説たらしめるものが知識体系(社会規範)であり、知識体系を形にするものが言説という関係にありますね。
言説は話を管理(制御)します。
制度とは何か
言説について理解できれば、制度について理解することができます。制度とは、言説を強化するものだということができます。いわゆる社会制度が中心ですね。教育、法、政策、マスコミ、出版、宗教、病院、政治制度、科学などです。強化をもっと詳しく説明するとすれば、統御であり、選択であり、組織化であり、再分配です。言説と制度と知識のこの濾過のシステム全体を知識体制と称することができます。ある時代で入手できる知識は、社会によって認可された知識であるということができます。認可されていないようでは言説止まりか、あるいはただの観念にすぎません。
例として、コペルニクスが挙げらます。近代以前は入手できる知識、認可された知識は地球中心説であった。太陽中心説は認可されていなかった、つまり制度によって、宗教によって認められていなかったので、知識とみなされていなかったのである。制度が認可してはじめて太陽中心説は知識へと認められていったといえます。
元々は哲学者のイマヌエル・カントが自らの哲学を評した言葉であった。
ニコラウス・コペルニクスは、それまでの常識であった地球中心説に対して、太陽中心説を唱えた天文学者である。
認識論において、人間の認識は、外部にある対象を受け入れるものだというのが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた。こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。
これから派生して、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも、この言葉が使われるようになる(パラダイム転換と同じような意味)。(wiki)
「そして、これらの手続き(=過程、制度、施設)は、言説の力と危険とを払いのけ、その僥倖(ぎょうこう)に左右される出来事を支配し、その重苦しく、おそるべき物質性を避ける働きをする、と。」 頁9「言葉と物」
知識について
知識とは言説が制度によってろ過されたものです。フーコーいわく、知識は社会の中にしか存在しません。知識の内容とその意味が社会(個々人ではなく世の中)だけによって構成され、伝達され、受け入れられているからです。また、知識は構築されたものであるといえます。知識であると信用されているものは、制度によって維持(->構築)されたものであるからです。それゆえに、制度に属している人間は、権力を持つといえます。政治家、教授、医者等々。
ブルデューの言語という無形のものの交換は社会の場の最も大事なやり取りの媒体であるという意味がわかってきます。言語は社会の中にしか存在せず、社会の中でしか意味を持たず、社会の中でしか読み取られていません。
禁止について
禁止は複雑な網の目を形作るものです。網の目とは、信用すべき知識をろ過する社会制度の機能を意味します。認可されない知識や言説に対して禁止という機能がはたらくのですが、禁止にはさまざまなタイプがあります。排除、拒絶、分離などですね。たとえば狂気と判断されるような言説は拒絶され、知識になりません。制度に適合しないものは禁止され、知識体制から排除されます。
拒絶の例を一つ見ていることにしましょう。狂人をとりあげます。中世やルネッサンス時代においては、狂人の言葉は聖なる言葉・心理を表す言葉として捉えられていたそうです。しかし、近世以降狂人の言葉は悪魔よりの言葉として捉えられるようになり、精神病院に監禁されるようになりました。現代では、狂人の言葉は”病気の症状”として捉えられるようになっています。精神科医によって、言葉(言説)を通して治療を受けさせられます。おそらく、科学が発展し、合理的なものだけに盲信するようになった世界観においては、狂人は聖人ではなく、ただの病人でしかありません。狂人が聖人であるということは非合理的であり、科学という言説からは拒絶されるでしょう。
「そこには、お互いに相互交わり、強め合い、あるいは補い合って、たえず変容する複雑な網の目を形づくる三つの型の禁止の働きがあります。頁10」
真理への意志
我々の社会では、人が語り、書き、記録する手続きの中に、語らせまいとする「禁止」の原理、「分離」と「拒絶」という排除の原理、そして、真実な言葉と虚偽の言葉とを分けるシステム(真理への意志)とが形成されてきた。特に最後の「真理への意志」は、出版社や図書館のシステム、かつて学者の団体(現在の研究所)などのよって支えられている。そのシステムの中で、学問上の知識が、それぞれの場所や人に割り当てられ、秩序を維持する基盤となっている。
したがって、こうした「真理への意志」というシステムこそが、社会の中で、人々が織りなす言論に最も圧力をかけ、拘束の権力として機能するものだとする。
- 価値逆転の原理:既存の伝統の枠内でしか物事を捉えられない状況を転倒させることであり、いわば「批判」の原理
- 非連続生の原理 :あたかも現在の自体が、連綿と切断されることなく続いているかのごとく見なす思考法を破壊すること
- 特異性の原理:ある出来事を、既存の価値判断の中で処理しないこと。物事が常に言説の中でその時々に特異に設定されていくことを認めること
- 外在性の原理:話された言葉や記述された文章そのものだけで、その言葉や文章を生み出した思想や内面を推測しないこと。あくまで、文章や言葉を生み出した周囲の諸関係を探る。つまり外(歴史的現実)からその言葉が生み出される条件を探ること。(http://www.asahi-net.or.jp/~uv3k-kmgi/foucault.html)
儀式化について
儀式化は「社会または社会の中にある様々な組織や集団が日常的で無意識的に繰り返される行動や癖」を意味するらしいです。
ある社会や集団内の皆が行う行動であるため、「常識」であるとも考えられてしまいます。儀式は社会、組織、集団の結束性や統一性を維持するので自然だと思われ、集団内でもほとんど問われることがないらしいです。また、こうした儀式(行動)とは異なる行動は排除されがちであるといいます。
(解釈)これは言説が制度(ここでいえば会社や集団)によって強化され、知識(常識)といえるほど強まった状態を儀式化といってもいいのじゃないでしょうか。たとえば日本の社会では、年功序列が重視され、それが自然であると考えられていました。年功序列と異なるような行動が排除されるのもわかります。常識レベルにまで固定化されている、内部において批判することは難しいか、自然ではないという発想すら出てこないかもしれませんね。あるいは学校のいじめも、外部から指摘されるまでは自然であり、常識であると内部では思われていたかもしれません。
以前から伝達されてきた話が儀式的に繰り返されるから、それと異なる言説がろ過され、排除される可能性が高い。
狂気について
フーコーが考察しているのは、狂気が西洋の歴史のなかでいかにして形成されてきたかです。狂気の意味付けと排除の歴史的仮定をフーコーは『狂気の歴史』で分析しています。
狂気は太古の昔から存在しています。しかし、狂気が人間の精神の病として意味づけられるようになったのは、近代の初頭、古典主義時代においてです。
なぜこの時期にこのような意味付けがなされたかというと、近代社会の根幹の理念である理性の概念が形成され、西洋の思想と社会のシステムに根を下ろした時期であったからです。狂気は理性ではないもの、つまり非理性として差異化されてしまいました。そして理性的ではない、狂人は人間ではないものとして排除されるようになりました。治療の対象となっていくのです。ちなみに前近代において狂人は聖なる言葉を聞くものとしての意味付けでした。
考古学について
フーコーの考古学はニーチェの系譜学に連なるものだそうです。継承しているといえますね。
ニーチェの系譜学とは、真理や道徳のように絶対化されているものがいかに社会的に形成されたかを歴史的にたどることでその存立(そんりつ、存在し、成り立っていくこと)の構造を示し、それが歴史の産物にほかならないことをあらわにするものです。ニーチェの場合、そのあらわにする対象はキリスト教の道徳でした。
フーコーは何を対象にしたかというと、近代西欧社会の根幹をなすと考えられた主体の思想であり、権力です。
エピスメーデーについて
制度のところでも述べましたが、いわゆる知識体制ことです。諸言説の秩序が成り立つ空間をフーコーはエピスメーデーと述べました。「言葉と物」で詳しく書かれています。
知識、いわゆる「知」がどのように決定されるか、ということが問題意識でしょうね。知は最初に多様な言説として現れます。そして言説は相互作用し、諸言説の空間を作り出します。この空間において、諸言説は編成・再編成され、その時代の知の秩序を決定するそうです。
類似と差異について
フーコーによれば、17世紀、古典主義の時代に入るとエピスメーデーにおける構造変動が生じたそうです。類似に変わって同一性と差異性がエピスメーデーを決定するようになったそうです。
いわゆる近代合理主義ですね。博物学、一般文法、経済学などに顕著だそうです。理性的な分析方法ですね。
権力について
伝統的な権力観
1:国家権力を権力の中心として重視する
->社会システムの制度として権力を考える
2:権力を所有・移転しうるものと考える
->たとえばマルクス主義の観点では支配する階級が権力を独占している
フーコーによる権力観
権力とは、日常的な相互作用のネットワークにおいて作用するもの。
権力はとりたてて誰かの権力者が行使するものではない。権力は社会の秩序が成立する仕方であるといえる。人間関係のあるところに権力関係があるといえる。上から下へ暴力的に働くような、特定の人物や組織がもつ強制的な力ではなく、権力は下から自発的にやってくるとフーコーは指摘している。
学校という権力空間:学校の中では成績に従って生徒の分類が行われ、それがモチベーションとなって生徒たちはステップアップを目指して努力する。
(解釈)成績を上げろという先生から生徒への強制的な力というよりも、生徒が自発的に成績を上げている。
これを理解するためには権力についてもうすこし説明したほうがいいかもしれません(下へ続く)。
フーコーによれば権力とは法や抑圧という”比較的可視的な関係”ではなく、“身体の深部にまで達する不可視的な関係”らしいです。たしかに教師が強制的に生徒に勉強をするように命令することは目に見えますね(可視的)。しかし身体の深部にまで達する不可視的な関係、すなわちコミュニケーションの場を形成する無数の力の関係は目に見えません。
なぜ目に見えないかというと、単一の中心から発する王権や国家の権力とは異なり、無数の点を出発点とし、コミュニケーションというゲームにおいて行使されるからです。
(解釈続き)教師という単一の、単独の主体から生徒に対する権力は目に見えます。しかし、学内の生徒同士の、あるいは生徒と先生の、あるいは生徒と親の、生徒と学外の生徒の、無数の人間同士の関係において、無数の点を出発点としてコミュニケーションが行われるから目に見えないといえます。誰が誰に対して命令しているのかがわからないのです。ネット上の何気ない会話から勉強しようと言う自発的な試みを受けたのかもしれないし、マスメディアを通して影響を受けたのかもしれないし、親かもしれないし、わかりません。無数の点であるといえます。相互作用的な力の関係であるといえます。
権力の古典的理解は「抑圧・禁止」を核心としていましたが、フーコーの権力は「下からくる権力」です。こうしたミクロの権力は社会関係を生み出すといいます。こうした権力は生産的な役割を持ちます。権力は社会的な外部にあるものではなく、内在するものです。支配/被支配関係の二項対立などで単純化することはできないのです。また、権力は権力行使の意図を伴うとは限らないといいます。フーコーの言う権力とは社会システムの相互作用を可能にする力の相互関係であるからです。権力は人々の日常の場面で運動しているといえますね。
分析方法について
フーコーは言説を分析します。つまり人々が語ったことを分析の対象としています。通常の社会学的分析は社会構造や社会的行為を対象としています。
通常の観点では、まず主体があって、その自我の思考を言語的表現として語ると考えるそうです。フーコーの場合、多様な言語的ネットワークの中から主体の自己が浮かび上がってくるというものです。
社会をコミュニケーションのシステムとして考える社会システム論や社会を意味による構成と考える現象学的社会学やエスノメソドロジーと共通した考え方。
監獄-規律(dicipline)について
いわゆるパノプティコンのことです。パノプティコンはベンサムの考案した一望監視方式の管理システムです。中央に監視所があり、監視される者たちはその周囲に、お互いに孤立した状態で配置されます。監視される者はつねに監視から逃れることはできません、このシステムにおいて、中央に存在する監視人が実際につねに監視している必要はないみたいですね。監視されていないあいだも、まなざしを感じます。
功利主義者であったベンサムは、「社会の幸福の極大化を見込むには、犯罪者や貧困者層の幸福を底上げすることが肝要である」と考えていた。ベンサムの功利主義的な姿勢はパノプティコンにも反映され、ベンサムの考える限りにおいて、運営の経済性と収容者の福祉が最大限に両立されている。ベンサムは「犯罪者を恒常的な監視下におけば、彼らに生産的労働習慣を身につけさせられる」と主張していた。(wiki)
このパノプティコンという監獄の機能は主に「規律=訓練(dicipline)」です。フーコーによれば規律とは、身体細部への権力の行使です。フーコーのいうところの権力とは、身体の深部にまで達する不可視の権力でした。どのように身体に権力が達していくのかをみていきましょう。
フーコーによれば17世紀の兵士の身体の理想像は遠くから見分けがつくといういう意味の身体であったといいます。つまり、兵士の身体は力と勇敢さの紋章だったのです。身体は生身の体であるよりは記号的秩序に属する身体だったといいます。
(解釈)身体は規律の対象ではなかったということがいいたいのだと思います。実際に強いかどうかという機能よりも、肉体の強さが勇敢さの象徴であり、記号であることが重要だったのだと思います。身体を機械として扱うよりも、記号として扱っていたといえますね。スーパーマンのマントはないほうが強いらしいですが、マントがあったほうがかっこよさの象徴として認識できますよね。もしスーパーマンの身体を機械として、規律される対象として扱ったのならば、マントを剥がしていたと思います。
18世紀の後半になって、身体は権力の対象として発見されました。兵士の身体は機械として見られるようになったのです。身体は細部にわたって管理され、訓練されるものとなりました。このような身体の細部への権力の行使を規律といいます。そしてこうした規律は、産業社会の身体を形成する権力の装置でした。さきほどの兵士の勇敢さの象徴のように、伝統的な権力は自らを誇示する演劇的装置を欠かさなかったのですが、近代的な権力は規律=訓練の権力は匿名性をもつ権力です。
(解釈)産業社会の身体を形成する権力のイメージとしては、個人的に織機が強いです。
それとマルクスの資本論ですね。
こうして彼らは、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるために鞭打たれ、焼き印を押され、拷問されたのである。一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力の他には売るものがないという人間が現れることだけでは、まだ充分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにするだけでも、まだ充分ではない。資本主義的生産が進むに連れて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働階級が発展してくる。 『資本論』第一巻第二十四章第三節 大月版第二三巻b,九六三頁
人間が資本主義が発展するにつれて、規律(訓練)される対象になっていくことを如実に表しているような気がします。まさに人間が機械として扱われています。もはや記号的秩序に属するとは言い難くなっています。
このように、規律は人間の体のレベルで働きかけるものであり、身体の解剖学-政治学というべき権力であることがわかります。監獄以外にも、工場や学校や政治、病院などにもこうした身体のレベルで働きかける権力があります。フーコーは規律の権力の代表的か監視装置として、パノプティコンを提示したのです。
こうした監視装置の特徴である”社会システムをコントロールするための技術”は国家の権力と結びつくようになり、近代都市のような監視の網の目による監禁都市が形成されるようになったそうです。
セクシュアリティについて
いわゆる『性の歴史』に書かれていることですね。セクシュアリティと権力の歴史に関する研究です。セクシュアリティとは性のことです。
先ほど、規律の権力について話しました。規律の権力とは、身体を管理し監禁する権力のことです。フーコーはもう一つの権力が形成されてきたと述べます。それが、性の歴史においての権力です。この権力をフーコーは「人口の生ー政治学」と呼んでいます。規律の権力と合わせて「生-権力」というそうです。
「人口の生ー政治学」とはなにか
人口の生ー政治学の権力と規律の権力を合わせて”生”の権力ですね。人口の生ー政治学の権力は、18世紀中頃に形成されたといいます。繁殖、誕生、健康、死亡率など種・生物としての身体に関心の焦点を合わせ、それを調整し管理する権力だそうです。
生-権力とセクシュアリティ(性)について
生-権力とは、規律の権力と人口の生ー政治学の権力を組み合わせた権力を意味します。
生-権力は資本主義の発達にとって不可欠の要因だったそうです。そしてこの生-権力にとってもっとも重要な対象となったのが性であるといいます。
性は生に基づく政治的テクノロジーの2つの秩序にとって重要な意味をもつ。
1:身体の規律に密接に関係する
2:人口に関係する
重要な意味をもつゆえに、性は規律と調整の権力関係に組み込まれることになる。
16世紀以来人々はより性について語るようになった。
常識的な見解としては、近代のキリスト教社会において性は抑圧されており、性について語ることはタブーであったそうです。しかし実際にはより性について語るようになっていったといいます。なぜかというと、性の言説化を普段に煽動するメカニズムが存在していたからだといいます。煽動とは、人をその気にさせて行動を起こすように刺激を与えることですね。性のことについて発言させるような仕組みがあったということです。その仕組みとは何かというと、キリスト教の告白だそうです。自己の性について隠さずにすべてを告白することが求められ、性の言説が氾濫したそうです。性に関する言説の空間において生-権力が行使され、18世紀には性は公共のものとなり、行政の管理の対象となったそうです。
性を管理する科学や、教育学、医学。こうした権力装置によって、人間の服従が進行しました。
真理について
真理とは、ある社会や時代に認可された知識を意味します。
フーコーによれば、真理は知識のように構築されるものです。人間は権力を持つものが話すものを真理として捉えます。純粋な真理へのあこがれは真理への意志と呼ばれます。言説の機能は真理を探す機能でもあります。言説は、認可された真理を特定し、正当化すると同時に、真理として特定されていないことを虚偽として扱い、禁止(分離・拒絶・排除)します。
真理と認定・特定されるための方法論としては、既存の言説制度によって定められることが挙げられます。たとえば学問、教育制度、メディアなどによって定められたことでなければ真理としてみなされません。真理を発信するメディアも既存の言説や知識に定められます。eg教科書問題
参考文献について
参考文献
『狂気の歴史』田村淑訳 新潮社 1977
(「狂気と非理性ー古典主義時代における狂気の歴史」)
『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳 みすず書房 1969
『言葉と物ー人間諸科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳 新潮社 1974
『知の考古学』 中村雄二郎訳、河出書房新社
『性の歴史』
『監獄の誕生』
等々
「クロニクル社会学」有斐閣アルマ
「本当に分かる現代思想」岡本裕一郎(日本実業出版社)
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