「自我の起原」要約

「自我の起原」という本の概要を書いていきたいと思います。

まず本書の目的は6Pの以下の文章にあります。

 「『利己/利他』という古来からの問題設定の地平自体を解体し,われわれの<自己>感覚の準拠をなしている『個体』という現象の起源と存立の機制とを明るみに出してしまうということである(6P)」

これだけ見ても何を言っているかさっぱり分かりません。

タイトルは「自我の起原」です。ここでいう「自我」とは「自己感覚」と言い換えられます。そして自我は「個体」という現象から成り立つものであり、その個体の起源を知ることは自我の起原を知ることにつながるというわけです。

さて「自己感覚」とはなにか、「個体」とはなにかという理解が必要となります。また「利己/利他」という問題設定がいかにして解体されたかという理解も重要です。

(1)利己/利他

まずは「利己/利他」という問題設定について整理したいと思います。「利己」とは一般に「自分の利益だけを考えること」で、「利他」とは「自分の利益より他人の利益を優先すること」です。動物学における「利他性」とは「行為者のコストによって他個体に利益を授ける行動(Trivers,1985)」であり、その「コストは繁殖成功の減少として測定される(ibid)」そうです。

自分の利益より他人の利益を優先させるような行為は子孫を残しにくくなるということです。そしてそのような利他行動を発現させる遺伝子は再生産される確率が低いです。それに対して利己行動を発現させる遺伝子は子孫を残しやすいので再生産される確率が高いです。

利他行動を発現させる遺伝子は次第に滅びてしまうはずでした。しかし利他的な行動をする動物は多く見られます。滅びてしまうはずの利他性がなぜ滅びないのかというものがいわゆるアポリア(解き難い難問)であり、古来からの問題設定だったのです。

このアポリアを解決したのは遺伝子という観点です。自分の遺伝子をより多く再生産,複製するように個体は行動します。つまり遺伝子を再生産させるような行動を利益とし、優先させているのです。

たとえばアリやミツバチは自分の子供よりも姉妹に献身すると言われています。これは一般に「利他性」と思われてきました。自然選択的には利己的な行動、つまりは自分の子供に献身したほうが自分の子孫を残せるじゃないか、そのほうが繁殖に有利じゃないかということになります。そして利他的な遺伝子は淘汰されるはずなのに淘汰されていないことが謎のままでした。

アリやミツバチは同じ膜翅目(まくしもく)であり単・二倍数性という特異な遺伝性質を持っていて、自分の子供より姉妹のほうが”血縁度が高い”です。数値で言うと自分の子供は1/2,姉妹は3/4です。つまり遺伝子の自己複製という水準からみるとアリやミツバチの献身は「利己性」とも捉えられます。自分の姉妹の世話をしたほうが自分の遺伝子を再生産できるからです。

「個体」からすればアリの姉妹に対する献身は「利他」ですが、「遺伝子」からすれば「利己」なのです。遺伝子の水準からすれば利己的であれば個体の水準からして利他的な行動をすることは論理的に納得がいきます。そして動物は一般的に利己的な動物だという言説は、動物は利己的であり利他的でもあるという「利己/利他」という区別を解体した言説へ変わっていきます。こうして古来からの問題設定は解体されました。

(2)生成子

  生成子とはいわゆる「遺伝子」のことです。geneの翻訳ですが、その翻訳は「個体中心主義」的な考え方から訳されたそうです。つまりgeneは個体の何かの形質を次世代の個体に伝えるためのメディアだという考え方です。

われわれの体を構成する遺伝子の90%は無意味、あるいは無益な遺伝子です。つまり遺伝子の10%ほどしか個体の形態や行動性向を繰り返し再生産させる機能がないということです。こうしたことから個体のために遺伝子があるのではなく、”遺伝子のために個体がある”ということがわかります。乗客は遺伝子であり、多細胞個体は”乗り物”に過ぎないのです。

こうした背景から考えると、個体の性質の再生産という意味が強い「遺伝子」という言葉よりも、”個体に先立つ自立性”というgeneの原意を直訳して生成するものという意味の「生成子」のほうがgeneの訳に望ましいのではないかということです。

(3)個体

個体とは一般に「独立した一個の生物体」を意味します。

約34億年前に微生物が生まれ、約10億年前に「原核細胞」から「真核細胞」が生まれ、約7億5千万年前に「多細胞個体システム」が誕生したと言われています。      マーグリスの理論によれば今日動物や植物を構成している真核細胞は幾種かの原核細胞の「共生体」であったという。酸素の割合が多く有害であった環境において酸素をエネルギーとして二酸化炭素を生み出す「呼吸生物」であるミトコンドリアや運動性の役割をもつスペロヘータなど「全く異質の生命たちの共生のシステム」として真核細胞は誕生したのです。異種共生体としての真核細胞は多くの遺伝子を組み込み、やがてより複雑な多細胞生物「個体」を形成することになります。

多細胞個体の特徴として「ボトルネック化」というものがあります。ペットボトルを逆さにした場合、上のほうが広く、キャップ付近はとても狭いです。このような小さく狭い部分,隘路(あいろ)をボトルネックといいます。多細胞個体におけるボトルネック化とは、多細胞個体は必ず「単細胞の生殖子という細い糸」を通して次世代へとつながっていくということです。

アメーバのような単細胞生物はわざわざ小さな生殖子(卵子と精子、配偶子)を通して次世代へとつながっていく必要がなく、分裂する不死身の存在です。多細胞個体は必ず「死」があり、また「性」があります。性とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」を意味します。性のあるものはアメーバのようにクローン(同じ遺伝子型の個体)を残せず、子供を残せるだけです。生成子は性を通して転生、再身体化(reincarnation)し、永遠の旅を続けます。死は性的な個であること、多細胞個体であることの宿命であり、生物の宿命ではないのです。

(4)テレオノミー的な主体性

 テレオノミー(teleonomy)とは「何のために」という問いに対する答えです。淘汰(選択)の目的因は遺伝子(生成子)にあるとドーキンスは考えました。つまりドーキンスは個体というものが遺伝子の生存機械、つまりエージェントにすぎないと考えたのです。テレオノミー的な主体性と区別される用語にエージェント的な主体性という言葉があります。エージェントとは一般に「人から委任あるいは授権された代理権限の範囲内で、本人に代わって取引、契約など法律行為をなす者(wiki)」を意味します。つまり限られた範囲でのみ主体的に行動できるという意味で、テレオノミー的な主体性より弱いといえます。

たとえば誰かを訴えるために弁護士を雇ったとします。弁護士はある人物を訴えるという目的のために様々な手段を主体的に選択することができます。つまりエージェント的な主体性を弁護士は持っているといえます。しかし弁護士が訴えるという目的自体を批判したりすることは通常できません。この目的自体を批判するような主体性をテレオノミー的な主体性というのです。

生成子にあてはめると、子孫を残すという目的の中では様々な選択をすることができるということ(エージェント的な主体性)と、子孫を残すという生成子の目的自体に批判したりするということ(テレオノミー的な主体性)は区別されるということです。

テレオノミー的な主体性を持つのは哺乳類である人類特有であるといえます。テレオノミー的な主体化の条件として第一に哺乳、第二に保育期間の延長、第三に群居と社会性があげられています。

脳神経系などが高度化し、個体が”生殖以外の”生の歓びを強度に感じ、それらを”自己目的化”する能力を獲得することによってテレオノミー的な主体性が得られるのです。また主体はテレオノミーを”自ら選択することができる”のです。個体は生成子を目的とするのではなく、自己を目的とすることもでき、また自己以外のもをも目的とすることもできるのです。自己の場合を「自己目的化」、自己以外の場合を「脱自己目的化」といいます。

冒頭で自我は「自己感覚」であるといいましたが、個体がテレオノミー的な主体性を獲得し、自己を目的化できるようになって「自己感覚」が発達し、自我が生まれたといえます。そしてこうした自我は「脱自己目的化」、すなわち「脱自我」と対応しています。「<自己>感覚の準拠をなしている『個体』という現象」という意味が理解できます。

(5)自我

自我とは一般に他者から区別して意識される自分、あるいは自己ともいいます。本書では「自己感覚」、「自己意識」、「かけがえのない個」などと言いかえられています。

自我の起原は脳生理学的に言えば「大脳の所産」としか言えないとカール・ポパーは言う。そしてそれを言っただけでは「ほどんど何も言われていないのと同じ」だとポパー自身が言っています。これに対してジョン・エクルスは自我の起源には超自然的な、つまり神の創造であると反論しています。あるいはラムズデン/ウィルソンらによる「遺伝子=文化共進化理論*」が自我の起原として科学的に探求されています。

自我(自己意識)が他者関係から反照的に構成されるという自我の起原の説明としてはクーリーの<鏡に映った自己>やG.H.IミードのI/me理論、サルトルやボーヴォワールの対他存在論、レインや木村敏の対他関係論、エリクソンのアイデンティティ論、フーコーの「主体」形成論等たくさんあります。

ローレンツによれば「かけがえのない個」という感覚の起源は「攻撃性の抑制的選択」にあるといいます。オオカミのような攻撃性の高い動物が子供を育てるために他の個体と”協力”する必要性が生じ、協力し合う他の個体を他の個体と識別する能力の発達が促されたという説です。あるいは高等猿類の複雑な社会性のもとで、個体たちが他個体を評価する基準が多元化するので個体の個体性やユニークさの感覚が生み出されたという説もあります。

重要なのは自我(自己自身のアイデンティの固有性という感覚=かけがえのない自己)という感覚の前提は「個体の固有性への相互関心と識別能力」であるということです。つまり”個体識別的”な”社会”においてこそ自我が形成されるといえます。

*遺伝子=文化共進化理論:文化が集団の中のある型の形質をもたらす遺伝子の生存率/繁殖率の低さや高さを規定し、その結果集団内の遺伝子頻度が変化し、幾く世代か後には人間集団の遺伝的な特質を変化させるという理論。大きな脳や社会組織、手の自由化、直立二足歩行等の条件を満たす個体が遺伝子=文化共進化のループを通して自我(精神)を獲得したというもの。

(6)延長された表現型

「延長された表現型」とは生成子(遺伝子)は個体それ自体を超えて、他の物体や個体へと延長されて表現されるということです。たとえばビーバーの巣もビーバーの遺伝子の表現型といえます。あるいはハリガネムシに寄生され、水の中へダイビングするミツバチもハリガネムシの遺伝子の表現型といえます。

延長された表現型の中心的な定理は「ある動物の行動は、それらの遺伝子がその行動を演じている当の動物の体の中にたまたまあってもなくても、その行動の『ための』遺伝子の生存を最大化する傾向をもつ」というものです。

延長された表現型という発想の理論的な核心は「生成子が自分のサライである個体だけではなく、他の個体を含めた世界の全体に働きかけあっている、という認識」にあるといいます。サライとはキャラバンの一期の宿を意味します。個体は遺伝子の一時的な乗り物です。そして生成子は自分のサライだけではなく他のサライへ働きかけあっているといいます。

たとえば昆虫と植物の「共進化」というものが例として挙げられます。クローバーは蜜をもっています。そして蜂はクローバーの香りに誘われて、蜜をとりにきます。そしてとりにきた蜂の足などにはクローバーの花粉がつき、他のクローバーのところへと運ばれていきます。つまり蜂の行動はクローバーの遺伝子の表現型であるといえます。クローバーの生成子は蜂へ働きかけているのです。

「延長された表現型」というコンセプトの帰結はわたしたちの身体が他者のためにもまたつくられている、デザインされているということです。そして生成子の他個体への作用は他者自身が”歓び”をもって、あるいは生存と繁殖の機会を増大させるような仕方であることが優れた戦略であるといえます。つまり愛される個体を作り上げる生成子が勝ち残るのです。

「理論上は、遺伝的遠隔作用は同種及び多種の個体間のあらゆる相互作用を含むことができるはずである。生きている世界というのは、自己複製しパワーが相互に結びついている多くの場の1つのネットワークとして理解されうる(ドーキンス)。」

「数学理論が進歩して、対立する淘汰間の量的な相互作用を扱えるようになれば、たぶん、われわれの眺めている行動は、少なくとも部分的には、何か他の動物あるいは植物の遺伝子を保存するための適応であるというのが、そのもっとも単純な定性的結論になるだろう(ドーキンス)。」

「ドーキンスはこの結論に、どのような『甘い』調和の哲学やア・プリオリな相互共同の仮説も設定することなしに、むしろその明確に対極のもの、自己増殖する方法の優劣によって仮借なく淘汰されてゆく『自己複製子』(生成子)たちの競合という、乾いた前提のみの帰結として到達しているということである(136P)。」

(7)テレオノミーの開放系

個体はテレオノミー的な主体性、自立性、自律性を獲得してきましたが、それでもなお外部の生成へと開かれた構造を持っているということです。テレオノミー的な自立化とは、何のために生きるのかといった問いを自分自身で選択、思考するようになっている状態とも言えます。

自分のためだけに生きるということを「個体の自己中心化」だとすれば、他人のために生きるというテレオノミーの選択は「脱自己中心化」だといえます。遺伝子は利己的、つまり遺伝子の再生産のための行動をするようにプログラムされていて、個体は遺伝子の再生産のために生きるものだと思われてきました。しかし人間は遺伝子の再生産というテレオノミー(目的)以外を主体的に選択できるようになったのです。これは人間特有のものだといえます。

そうして人間はテレオノミー的な主体性を持ちましたが、それでもなおテレオノミー的に開かれているのです。たとえば子供を産まずに芸術のために生きるというテレオノミーをある人間が選択するとします。そうしたテレオノミーを「内部のテレオノミー」とします。そしてあらゆる他者や動物たちは植物がわれわれの身体に遺伝子の表現型,フェロモン等で作用を及ぼし、身体がそれらとともにあることに、あるいはそれらのために行動することにさえ歓びを感ずるように構成されています。こうしたテレオノミーを「外部のテレオノミー」とします。

個体は個体自身ではない何かのためにも作られているのです。つまり外部のテレオノミーのために作られているといえます。人間はたしかにテレオノミー的な主体性を持ち、自分のためだけに生きるというエゴイズム的なテレオノミーを選択することもできますが、自分以外のために生きるという外部のテレオノミーを選択することもできます。

そして人間がエゴイズム的なテレオノミーだけに固執しないのは、そもそも「個体は個体自身ではない何かのために作られている」からです。また人間は「性」的な存在です。性とは「二つ以上の源からの遺伝子が組み変わること」を意味します。人間は性を持つゆえに、自分だけのために生きるという自我を裂開させる構造を持ちます。たとえば自分だけのために生きるということを選択できるが、人間は性をもつ故に、愛する異性に誘惑され、愛する異性のために生きることがあるのです。つまり自己中心的なエゴイズムは性を持つゆえにもともと外部へ開かれているのです。

生成子の目的が生成子の再生産であり、個体の目的が「歓喜を経験すること」にあったとするならば、人間は生成子の再生産のために生きずに個体として歓喜を経験するために生きることをテレオノミー的な主体性を盛って選択することができます。そしてその歓喜の経験方法として、自己中心的な方法も、脱中心的な方法もとることができます。しかし生物はそもそも個体は個体自身ではない何かのために作られているので、個体のために生きるような行動を歓喜と感じやすいということです。

「個体という主体であることじたいが、すでに(さまよい出た)存在である。ecstasyの状態である。つまり自分が本来あるはずのところの外部に解き放たれてある仕方である。一度さまよい出た者はどこへでもさまよい出ることができる。創造主に反逆したものはどんな目的ももつことができる。またどんな目的ももたないことができる(154P)。」

(8)宮沢賢治

宮沢賢治は自我を解放したいと願う人物でした。キーワードは「性」と「宗教」です。自分だけのために生きるという態度を「エゴイズム」とします。そして人間は性的な生物なので、誰かを愛する存在でもあります。つまり愛する他者のために生きる存在でもあります。自分だけのためではなく、愛する他者のために生きるという態度も「拡大されたエゴイズム」ととることができます。なぜなら愛する他者以外に対する敵視や無関心、嫉妬等が発生してしまうからです。

「宗教」はこうした「性のエゴイズム」を克服する試みであるといえます。しかし宗教もまた自分とは異なる宗教に属する人たちに対する無関心や敵視を発生させてしまうことになります。宗教もまた「拡大されたエゴイズム」といえるのです

宮沢賢治は特定の人を愛することを避け、また宗教を避け、ひたすら自我を開放しようとした人物だといえます。そしてこうした傾向は宮沢賢治特有のものではなく、「テレオノミーの開放系」で見てきたように、自我を開放するようなシステムは人間にもともと備わっているものだったのです。

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