目次
ジャック・デリダとは
ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930年7月15日 – 2004年10月8日)は、フランスの哲学者である。フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられている。エクリチュール(書かれたもの、書法、書く行為)の特質、差異に着目し、脱構築(ディコンストラクション)、散種、差延等の概念などで知られる。
エトムント・フッサールの現象学に関する研究から出発し、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの哲学を批判的に継承し発展させた。哲学のみではなく、文学、建築、演劇など多方面に影響を与えた。またヨーロッパだけでなくアメリカ、日本など広範囲に影響を与えた。代表的な著作に『グラマトロジーについて』、『声と現象』、『エクリチュールと差異』などがある。(wiki)
▲ 目次にもどる
言語による専制について
言葉とは何か
言葉とは伝達の道具であり、認識の道具です。
確かに、誰かに自分の思っていることを伝えるために言葉を用います。犬や狼という言葉である動物をはっきり見分けるために言葉を用いています。
言葉による認識の制限
人間の不思議なところは、伝達の道具である言葉を認識や思考の道具として流用している点にあるといいます。言葉を認識の道具として使用するとき、言葉の機能によって認識が制限されるという状態が発生するらしいです。
ここで説明するべきのはおそらく「言葉の機能」とはなにかということですね。言葉は”ものさしとしての能力があり、このものさしを使って世界を切り取り、認識することができます。これが機能ですね。しかし、ものさしの目盛りによって我々は制限されていると考えることができます。
デジタルカメラの比喩を使っても理解することができます。言葉というデジタルカメラを使って私たちはこの世界を写し取ることができるが、デジタルカメラの画素数や解像度によって写しとる能力、認識機能は制限されてしまいます。
言葉は人間が自由、あるいは幸福になるために便利な道具ではありますが、逆にそれによって縛られているといいます。すなわち、私たちは言葉で認識しうる世界しか、認識できないのです。このような状況を「言葉の専制」というらしいです。言葉の世界の主人が人間ではなく、主人が言葉である状況です。
もうひとつ興味深いことが書かれているのですが、「個人個人が勝手に言葉を使うようになったら、言葉は通じなくなる」そうです。たしかに信号の色を言葉で表すときに、青色を赤色という言葉や黄色という言葉で勝手に言葉を使っていたら、言葉が通じなくなるかもしれません。伝達の道具としてだけではなく、認識の道具としても使っているということがよく理解できます。
脱構築とは
ハイデガーの「解体」について
脱構築は一言で説明するのは難しい概念ですね。脱構築という言葉を言い換えるとすれば、おそらく「解体」という言葉になると思います。
デリダの「脱構築」という言葉は、もともとハイデガーの「解体(デストルクチオン)」から取られたそうです。解体は破壊とは区別される概念です。たとえば否定的な「振り捨てる」や「無へと葬り去る」といったものが破壊です。破壊ではなく、一つひとつの構成要素を歴史的な由来にさかのぼって解体することを提唱したのがハイデガーでした。ニーチェに言わせれば系譜学ですね。
脱構築の対象について
重要なのは、どのようなものを脱構築(解体)するかということです、デリダが脱構築しようとしたものは、今日支配的となっている階層秩序です。
たとえば真理と虚偽、本質と見せかけ、自然と人工、正常と異常、オリジナルとコピーなどです。こうした階層秩序は、いずれも前者が積極的に評価され、後者は副次的な位置に置かれています。たしかにコピーよりもオリジナルが評価されていますよね。デリダはこうした、一方が支配し、他方が従属するような、階層秩序を転倒させることが脱構築であると述べています。
(解釈)男性と女性、リアルとネット、未来と過去、孤独と連帯、利益と非利益
真面目と演技
(wikiの演技:演技(えんぎ)とは、それを見る者がいる前提において、身体による技術を見せ、何かを表現する行為。 具体的には、演劇・映画・テレビドラマなどにおいて、俳優が役を演じて見せることを演技と呼ぶ。 舞踊・歌唱・体操などにおいても、その表現を演技と呼ぶことがある。)
支配的な階層秩序:真面目な行為が演技に先立っている(演技<真面目な行為)
たとえば、役者が愛を演じているときは、実生活での真剣な愛を模倣している。確かに実生活での真剣な愛を模倣しているといえる。真面目な愛が演技の愛に先立っている。オリジナルからコピーが生まれる。
脱構築された階層秩序:演技が真面目な行為に先立っている。(演技>真面目な行為)
デリダによれば、演技としての愛こそが、真面目な愛に先立っている。真面目な愛のとき、人間はデートに誘ったり、毎日話したり、プレゼントをしたりする。こういった行為は、愛においてはこんなことをするといった台本が想定されているという。台本は伝統的に受け継がれてきたもので、小説や映画などで表現されていることが多い。我々は見えない台本に従って、具体的な行為を遂行しているし、台本を知っているからこそ愛の表現だと理解できる。真剣で真面目な愛であっても、実際には台本に従った演技だということができる。
デリダ「演技することが可能でないならば、真剣で真面目な行為も可能ではない」
->コピーからオリジナルが生まれる
真面目な愛->演技の愛 —– 演技の愛->真面目な愛
言語と脱構築について
命令=名付けという言語の機能
言語の機能には「命令=名付け」というものがあるらしいです。言語の命名の機能はあるものが「なんでないか」が重要だそうです。
私たちは事物や事象を認識するのに言語を用いて行いますが、そのときにその事物や事象につけられた”名前”を参照するという営みが中心となるらしい。
(解釈)たしかにそうかもしれません。なにやら動物らしきものが遠くに見え、近くに来てそれは「犬」だということがわかる。犬という名前から犬であることを認識するということか。犬を認識するのに言語を用いているのか?。どこかで犬と狼の区別というものを聞いたことがある。昔は両者を区別する認識はなかったが、言葉で狼と犬に分けることで、犬と狼をわけるという認識が生まれたとか。言葉によって両者を区別することができる認識が生まれたということになる。犬とは狼ではないもの、狼とは犬ではないものということもできる。
私たちは「黒が何であるか」を言うことはできず、「黒は、白ではない」という意味で「黒」を定義することしかできないらしい。
一応辞書で調べてみます。
黒(くろ)とは色の一つで、無彩色。煤や墨のような色である。光が人間の可視領域における全帯域にわたりむらなく感得されないこと、またはそれに近い状態、ないしそのように人間に感じられる状態である。黒は下のような色である。黒色(コクショク、くろいろ)は同義語。(wiki)
1.墨のような色。光を一様に吸収し、見る人に暗い感じを与える色。 2.黒色と関係のある次のようなもの。
なんだ、黒は定義できるじゃないか、と思いました。しかしどうやら違うようです。黒は墨のような色であるというのは、黒を黒に近いもので表現しているに過ぎず、黒そのものを定義できていないとか。じゃあ物理学の分野では定義できているのは?と思いますよね。しかしそれもどうやら怪しいようです。「黒とは、すべての光を吸収する色」と定義されているようですが、こうした色はおそらくブラックホールにしか存在していない色だそうです。白も「白とは、すべての光を反射する色」と表現されていますが、それが実際にどこにあるのかは不明であるそうです。
つまり、黒と白という対概念が存在し、黒白以外の他の色を考えないとう前提においては黒は白ではない色であり、白は黒ではない色であるという意味で使用されることになる。
二項対立による定義
二項対立とは、ある事物や事象が、2つの対となる概念の関係によって定義されることをいいます。すべての概念は二項対立によって定義されているそうです。
先ほど説明したような命名は2つの要素を持つ対概念を基礎として行われるということになる。対概念とは、Aと非Aという対立概念を基礎としている。
例:黒と非黒という対立関係、白と非白という対立関係。非黒=白であるとき、黒と白には二項対立が発生する
※非黒が白であるとされない場合もある。たとえば灰色という概念がある。この場合であっても結局はAと非Aという対立によって定義されるに過ぎない。灰色ー非灰色。白ー灰色。灰色ー黒。
二項対立と脱構築
脱構築とは、二項対立概念の分類点・区分点を疑うことです。
たとえば二項対立概念の分類として、正義ー悪、や、愛ー憎しみがあります。問題は、どこまでが正義なのか、どこまでが悪なのかという線引が個人個人によって
さまざまなものとなるということです。どれが正しいのか、どこまでが正義なのかという線引をすることは難しいです。ある人が正義だと思っていることが、他の人にとって悪であるという状態は多くのトラブルを発生させる土壌となります。
(解釈)キリスト教の、右頬を打たれたら、左頬も差し出せみたいな道徳がありましたよね。それが善であると。しかしある人にとっては、右頬を打たれたら打った人の右頬を打ち返すことが善であると考えるかもしれません。目には目を歯には歯をです。価値は対立しています。ウェーバーはこのような状態を神々の闘い、とか価値相対主義のような言葉で表していたような気がします。
大事なことは、言葉の専制から解き放たれ、言葉の世界の主人となること。
そもそも、二項対立の概念はそれほど正確に使用されているわけではないという。
(画像検索ーカーキ色)
カーキとは本来「土埃」を意味する言葉で、通常の用法としては主に陸軍の軍装色を指す。JIS慣用色名において「カーキー色」として定義されている色は「茶色がかった黄色」と表現されるものであるが、軍服の色は国や時代によって差異があるため、現実には橙色に近いものから緑色に近いものまでかなりの幅を持って使われており、単一の色調を示す用語ではない。このため「砂色」、「枯草色」などと呼ばれる場合もあり、「黄土色」や「オリーブ色」、「ベージュ」なども広い意味でのカーキ色に含まれる。いわゆるアースカラー全般を指す言葉である。(wiki)
カーキ色についてのイメージは人によって違う。緑色に近いもの、薄茶や黄土色。本来の意味であれば土色らしい。イギリス軍が軍服の色として使用したものが最初で、「泥や土の汚れが目立たないように」したものであったらしい。それがアメリカ軍の軍服の色として採用され、森のなかで発見されにくい色、グリーンカーキに変化したらしい。いままでイギリス軍的な色だけがカーキ色だと思っていた人が、アメリカ軍的な色を目にしたときに、カーキ色の範囲が変わる。次の機会には、少し変化した範囲を指し示すものとして使用するようになる。
->カーキ色の範囲は個人の内部でも変化する
私たちはある単語や概念をつかうとき、毎回同じ意味で使用しているわけではなく、そのときどきによって別の意味で使用している。ある単語を全く同じ意味で使うことは、個人の内部においてさえ不可能である。
私たちが使っている概念は、それを率先して「疑う」までもなく、「ゆらいで」います。重要なのは、ゆらいでいることを知り、「日々新しい意味で使っている」ことを自覚することです。そしてそのとき「言葉の専制」から解き放たれ、言葉の世界の主人となることができます。頁106」
構成について
参考文献
「現代思想の使い方」高田明典(秀和システム)
「本当に分かる現代思想」岡本裕一郎(日本実業出版社)
/単語
- 同類のものに対していだく意味内容。
- 同類のもののそれぞれについての表象から共通部分をぬき出して得た表象。
- 対象を表す用語について、内容がはっきり決められ、適用範囲も明確な、意味。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。