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【1ワード社会学第十三回(18)】ハーバーマスの「発語内的成果」と「発語媒介効果」
- 2026/3/28
- ユルゲン・ハーバーマス
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動画での説明
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はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
記事の分割
(準備中)
(5) [C]言語行為関連
[5-3]ハーバーマスの「発語内的成果」と「発語媒介効果」
オースティンによる発語媒介行為の定義が広すぎる問題
ハーバーマスはまず、オースティンによる発語媒介行為の定義が広すぎることを問題にしている。
なんらかの結果が聞き手に生じていれば発語媒介行為だといえるなら、発語内行為と発語媒介行為の境目が曖昧になってしまうのである。
図にするとこのようになる。
もちろんオースティンはふたつの結果の違いを慣習への依存性などの有無などで認めているが、定義には採り入れていないという点が問題である。
・特に参考にしたページ
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020),2-3p
ハーバーマスにおける「発語内的成果」と「発語媒介効果」の区別
ハーバーマスは発語内行為が直接的にもたらす効果を「発語内的成果(発語内的拘束効果)」と呼び、発語媒介行為として想定される効果を「発語媒介効果」と呼んで区別している。
※【修正】前回の動画では「発語内的成果」と「発語内的拘束効果」として区別してしまっていた。しかし、正しくは「発語内的成果もしくは発語内的拘束効果」と「発語媒介効果」を区別したということである。つまり用語上、発語内的成果≒発語内的拘束効果だというわけだ。申し訳ない。
修正して図にするとこのようなイメージとなる。
オースティンは適切性の条件において、「発話によって行為を遂行するための社会的慣習が存在すること」という条件を定めている。
たとえば司法制度の慣習がない社会では、そもそも「被告人を懲役3年に処する」という発話が判決の力をもつと聞き手に了解されない。したがって発語内行為がそもそも不成立となる。手続きの不備などがあったとしても不成立である(たとえば裁判官の資格がない警備員が発話するなど)。このようなタイプは「制度的規則」に基づいて(ほとんど自動的に)生じるタイプの効果である。
制度的規則のタイプの他には、「構成的規則」のタイプが存在するとサール(オースティンの実質的後継者)は整理している。
構成的規則とは「状況CにおいてXをYとみなせ」というタイプのものである。たとえば「山で落石があるという状況において、『気をつけて!』という発話は警告とみなせ」と解釈することが可能であり、普通はそう解釈するという意味での社会的な慣習があるといえる。状況Cとはウィトゲンシュタイン的にいえば、「Cという言語ゲームのルールにおいて」、ということになるだろう。慣習に基づく行為にはこのように制度的規則と構成的規則の2つのタイプがあるといえる。
たとえば常連客が店で、「いつもの」と発話したとする。その店ではいつもその客は「ビールと枝豆」を頼んでおり、店員はそれを理解できているとする。つまり、常連客と店員の間には「慣習(構成的規則)」がすでに存在するのである。店員と客の間に存在する「普通」の前提である。
それゆえに、「いつもの」という発話が「注文」という力(それが注文であると了解させる発話内の力)をもち、店員は注文であるということを認知、了解することができるのである。つまり、意思疎通が成功したといえる(コミュニケーション的行為の成立)。
もし常連客ではないのに「いつもの」と言われても、店員はなんのことかわからず、認知、了解することは難しいだろう。
「すいません、つい忘れちゃいましたよ。なんでしたっけ?」と秩序を救おうとする(行為調整しようとする)かもしれないと考えればエスノメソドロジー的で面白い(エスノメソドロジーについては1ワード社会学第九回の動画を参照)。エスノメソドロジーとは、人びとが日常生活の中で社会的秩序をどのような方法によって生み出し、維持しているのかを観察し、解明する学問のことである。
・特に参考にしたページ
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020),3-5p
「クロニクル社会学」,有斐閣アルマ,第一六刷,249p
【1ワード社会学第九回】ガーフィンケルの「エスノメソドロジー」とはなにか
発語内慣習と発語外慣習の区別
発語内行為における発語内的成果は、規制的規則や構成的規則、いわば「発語内慣習」によってリンクすることで生じる力だといえる。
発語内慣習とは、発語に内在的、つまり普通はその慣習を前提としたものであるというニュアンスでここでは考える。
発語内慣習は「危険だ!」という発話が「警告」だという意味を了解させるような慣習というレベルのニュアンスであり、了解を超えた具体的な行為あるいは状態(感情など)結びつける意味での慣習ではない(意図的にせよ、意図的ではないにせよである)。
そうした慣習は「発語外慣習」と表現しておく。
たとえば「山で落石があるという状況において、『気をつけて!』という発話をAが行い、Bがそれを聞くというケースを考えてみる(両者は対等で誠実であり、権力的な強制などはないといった理想的なケースを仮定する)。
この場合、聞き手は構成的規則に基づいて、この発話は「警告」という力を普通はもつと解釈可能である。そしてBがこの発話を聞いて、「これは警告である」と認知し、了解したとする。この時点で「発語内的成果」は生じたといえ、また「発語内行為」は適切に「成立」したといえる。
ハーバーマスはオースティンと異なり、「発語内行為」と「発語媒介行為」を独立的に扱っている(たんなる分析的な区分ではないということ)。いったいどのような根拠でそういえるのか。
発語内行為の自己確認性
発語内行為は「自己確認的」であるが、発語媒介行為はそうではないという。自己確認的とは、成立条件を発話の構造の中に含んでいるという意味である。たとえば警告なら警告として「了解」されることや規範的拘束が成立することが成功条件である。この規範的拘束は一定の社会的慣習(規制的規則や構成的規則)に由来している。先程の区分でいえば、発語内慣習に由来するものということになる。
たとえば「危ない!気をつけて!」と叫ばれて、その言葉の意味を認知し、それが警告であることに妥当性があると信じ、了解した場合は「発語内的成果」が生じているのである。
もし妥当性が一切なければそもそも了解は生じないだろう。たとえば本心で言っていると信じられなければ了解はできない。妥当性の構造は普遍的に存在しているのであり、言語に内在しているのである(具体的になにが妥当かは慣習に特殊的に依存するが)。
もしその結果一歩も動けないとしたとしても、了解した以上、発語内的成果が生じたことには変わりがない。
発語内的行為は成立しているが、しかし発話行為全体としては「失敗」したということがありうる。警告は成功したが、緊張で硬直して動けなかったというケースはありうるからである。
・特に参考にしたページ
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),136p
成立と成功の違い
この「成立(不成立)」と「成功(失敗)」という区分は極めて重要である。発語内慣習によって成立の条件はわかるが、成功の条件はわからないからである。成立の条件は相手が了承すればいいが、了承の後にいかなる行為や状態が望ましいと言えるかという「成果」については「話し手の意図」が重要となるのである。そしてその意図が実現するかどうかは、相手の独自的な慣習や内面の状態にも依存する。
つまり、発語内慣習からわかるのは発語内行為の成立条件であり、発語外慣習(あるいはたんなる行為者の気まぐれなど)からわかるのが発語媒介行為の成功条件であるといえる。
発語媒介行為がどのような結果なら成功といえるかという条件は、話し手の「意図」に依存している。そしてこの意図は必ずしも発語内慣習に依存しない。
発語内慣習に依存するのは「発語内行為の成功条件」だからである。話し手の意図は誠実に、「避けてほしい」と思っているかもしれないし、悪意をもって「硬直してほしい」と思っているかもしれない。
たとえば話し手の意図が「硬直してほしい」というものであったとするならば、聞き手が「動いて避ける」という結果は意図通りのものではない。
「動いて避ける」という結果は発話から因果関係的に生じているとするならば、発話媒介効果は「成立」している。しかし、話し手の意図通りではない、つまり話し手にとって望ましい状態である成果(目的)が了承という手段によって実現していないという点で、発語媒介行為は「失敗」しているというわけだ。聞き手の側からみれば、発語内的成果の成立はわかるが、発語媒介効果の成立はわからないということになる。
「発語媒介効果」は文字通り、発語によって媒介された効果でなくてはならない。つまり、因果関係として発語が原因である必要がある。
・特に参考にしたページ
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),137p
発語媒介効果の因果性について
大事なのは発語それ自体が提示する成功条件、狙う効果、つまり「発話内の力に対する了解以外の効果」が因果関係的に生じているという場合である。もし発話がなかったら「避ける」、「危険にあえて向かう」、「硬直する」といった行為が生じていなかったとするならば、それは発語媒介効果なのである。発話が原因ではないような結果が継起した場合は、「発語媒介効果」ではないといえる。
たとえば「寒いので窓を締めて欲しいです」とAに言われ、Bは困った顔をしたとする。この場合、Bはたまたま昨日皿を割ったことを思い出しただけかもしれない。この場合は「発語媒介効果」とはいえない。しかし、発話によって面倒だなという感情が生じた場合は「発語媒介効果」だといえる。
発語内的意図と発語外的意図
これで、発語内行為は慣習的であることが成立条件であるが、発語媒介行為は慣習的であることが成立条件ではないということが理解できた。
「警告であることを了解してほしい」という、発語なら当然生じるであろう力は、発話者の意図に依存しないということを理解することはなかなか難しい。発話者の意図にかかわらず、言語形式によって自動的に生じる目的とでもいうべきものかもしれない。たとえるなら自動販売機の購入ボタンを押して「買うつもりがなかった」とはいえないだろう。
「警告であることを了解させる」という目的は言語から形式的に生じるが、「硬直させてやろう」という目的は言語から形式的には生じず、発話者が抱いている内心に強く依存するのである。
それゆえに、「発話者の複数の同じようなタイプの意図の間における優先度」という問題ではなく、そもそも構造の違いであり、「形式的な意図か非形式的な意図」、「発語内的意図か発語外的意図」といった違いなのである。
同じような意図のタイプの優先度の問題ではなく、性質がまるで違う意図のタイプのうち、どちらかを主題にするかという優先度の問題だというわけだ。
「AによってBが必然的に生じた」と、「Aを理由にBをした」を同列に扱うことはできない問題
ところで、発語媒介効果を因果関係として明確に理解することには問題があるのではないかという問題を前回の記事では扱った。
「AによってBが必然的に生じた」と、「Aを理由にBをした」を同列に扱うことはできない。Aの発話とBの行為の間に因果関係があるといえるかどうかは、実は哲学的には難しい問題だといえる。とくに、因果関係が脊髄反射的な状態ではなく行為の場合は問題になる。
今回は厳密な必然的関係としての因果関係というより、より緩いものを想定しておくことにする。
デイヴィッドソン的に考えれば、行為者がもし合理的な主体であり、あらゆる情報を考慮し、かつ最善の実行をするというような理想的な推定が必要であり、そのうえで「AによってBが生じた」という因果的説明を行うことができるということになる。もちろん現実にはグラデーションがある。ウェーバー的にいえば準客観性、客観可能性に近い概念だろう。
・特に参考にしたページ
吉田廉「行為と解明 アンスコムは 「反因果説」 ではない」(2021),200-201p
前回の記事(12回)を参照
主たる目的であるかどうかという違い
ハーバーマスの目的はコミュニケーション的行為が目的活動に還元されないことを示すという点にあった。
目的をもつということは、なんらかの「成果」や「効果」を志向するということであるともいえる。したがって、このままでは発語内行為は「発語内的効果」を指向し、さらに副次的、かつ性質が異なるタイプの意図を伴うとはいえ「発語内的効果」を通してなんらかの「発語媒介効果」を獲得しようとする行為であるといえてしまう。戦略的行為も「発語内的効果」が副次的なものとはいえ、その了解を利用するという意味で、両者が区別しにくくなる。
確かに「なんらかの目的」をもっているという点で、コミュニケーション的行為と戦略的行為は共通している。しかし、コミュニケーション的行為は「発語内的成果」を主題的に目的とし、戦略的行為は「発語媒介効果」を目的としているという違いがある。
今までのハーバーマスの整理で言い換えれば、意思疎通を指向するのか、成果を指向するのかという違いになる(ややこしいが、ここでいう成果は発語媒介効果に対応する)。
もちろん、発語外的意図をまったくもっておらず、発語内的意図と全く同じタイプの意図を発話者はもっているというような純粋型を想定することができるかもしれない。
たとえば「危ない!」という発話は単に警告を了解してほしいという意図であり、避けてほしいという成果を具体的に意図していないというケースなどである。
この場合は発語内的意図と発語外的意図の一致性が問題となるのだろう。完全に一致しているということはいかなる戦略性ももっていないという意味であり、「反事実的な想定」なのかもしれない。
分析的な分類と規範的な分類といった違いがオースティンとハーバーマスにはあるのかもしれない。
しかし我々は日常的には、副次的な成果を仮に意図しているとしても、発話内意図と関連した、類似した意図を発話者はもっているのだろうと「信頼」することで生きている。邪な、形式にまるで反する無関係な意図を疑い続けて生きていくことは難しい。
また、それゆえに、「信頼」が崩れている社会、戦略的な意図が過剰な社会は「危険」だともいえる。相手が何を考えているかわからないような状態ではさらに権力によって思い通りにさせようとする戦略性を準備せざるをえず、悪循環的に戦略性がエスカレートするのではないだろうか。
では、こうした「主たる目的であるかどうか」という違い、「発語内的意図や発語外的意図」という違いはどのような性質をもってコミュニケーションに表れてくるのか、行為調整、秩序とどのように関わってくるのかを次の項目で扱う。
参考文献リスト
今回の主な文献
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)
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