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	<title>ミシェル・フーコー | 創造法編集社</title>
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	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
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	<title>ミシェル・フーコー | 創造法編集社</title>
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	<item>
		<title>【１ワード社会学第五回】フーコーの｢パノプティコン｣とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2025/08/25/one-word-sociology-panopticon/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 25 Aug 2025 06:49:34 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミシェル・フーコー]]></category>
		<category><![CDATA[１ワード社会学]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 動画での説明はじめに社会学とはなにかフーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説パノプティコンベンサムにおけるパノプテ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc3" tabindex="0">社会学とはなにか</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">フーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">パノプティコン</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">ベンサムにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">フーコーにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">パノプティコン=権力の特殊なあり方</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">近代以前の権力概念</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">近代以降の権力概念</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">要素よりも関係や体系が先にあるとはどういう意味か</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">権力と秩序の関係とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">刑罰の歴史とは</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">【1】古典的主義時代(17世紀から1789年のフランス革命にかけて)｢身体刑｣</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">【2】18世紀の刑罰制度の改革における｢処罰｣</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">【3】19世紀における｢監獄｣という処罰</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">パノプティコン=規律･訓練(ディシプリン)の技術</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">規律･訓練(ディシプリン)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">主体的であると同時に服従的であるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">規律･訓練の技術とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">フーコーにおける｢空間の配分｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">フーコーにおける｢活動の統制(活動のコード化)｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">フーコーにおける｢発達･発展｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">パノプティコンから得られる教訓</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">ものごとは単線的ではなく複線的</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">制度の偶発性と抵抗の可能性</a></li></ol></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc30" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">大澤真幸「社会学史」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">新睦人「社会学のあゆみ」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">アンソニー・ギデンズ「社会学」</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">社会学</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">クロニクル社会学</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">動画での説明</span></h2>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="///www.youtube.com/embed/CwfUuxH_P4I?si=9ylGUXeU2u0OJ9YL" data-alt="動画の説明" data-mce-fragment="1"><span data-mce-type="bookmark" class="mce_SELRES_start">﻿</span></iframe></div>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<p>ショート動画で1分で説明しているバージョンも投稿していますm(_ _)m</p>
<h2><span id="toc2">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc3">社会学とはなにか</span></h3>
<p>社会学とは､｢<b>社会を対象とする学問</b>｣のことである｡そして社会とは基本的に｢<b>人々の社会的行為の相互作用の集まり</b>｣を意味する｡</p>
<p>なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが､根本的には｢<b>社会を分析し､よりよい社会へ導くため</b>｣だといえる｡社会とはなにか､どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/11/27/durkheim-4-1/">【基礎社会学第三六回(1)】エミール･デュルケムの社会学とはなにか､学ぶ意味や価値はあるのか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/692dc39654b332d6dc4442b3d36bb6e1.png"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-4898" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/692dc39654b332d6dc4442b3d36bb6e1.png" alt="" width="599" height="474" /></a></p>
<p>この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている｡要するに､<b>アイデアをひらめくための情報を学ぼう</b>というわけである｡ビジネス､友人関係､学業､さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい｡</p>
<p>できるだけ<b>１ワード</b>に説明する対象を絞っていく｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/75819fcbf127ad1ddf9febb5998aeacc.png"><img decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-4899" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/07/75819fcbf127ad1ddf9febb5998aeacc.png" alt="" width="418" height="520" /></a></p>
<p>基本的な説明プロセスは､上の図の通りである｡</p>
<h2><span id="toc4">フーコーの分析の目的とはなにか､わかりやすく解説</span></h2>
<h3><span id="toc5">一般理論の形成ではなく｢批判｣が目的</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_12-57-31.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5038" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_12-57-31.jpg" alt="" width="187" height="293" /></a></p>
<p>フーコーはフランスの哲学者であるが､管理の社会学や刑罰の社会学､あるいは教育の社会学でもよく参照されることが多い｡実際､多くの社会学の基礎テキストでフーコーの内容が(ときには社会学者として)扱われている｡『監獄の誕生』をいきなり説明する前に､フーコーがそもそも何のために学問をしているのかという前提を軽く扱っていきたい｡</p>
<p>たとえば社会学者であるパーソンズやルーマンのように社会システム理論のようなマクロ(大きい)な分析のための一般的な知の道具をつくることをフーコーは目的としていない｡ある範囲に適応できるようなメゾ(中間)な分析のため｢理論｣や｢法則｣を発見することも目的としていない｡</p>
<p>かといって現象学のような哲学の体系を１から作ることも目的としていない｡人間や社会のあるべき姿､ある種の正解･規範を提示することも目的ではない｡単に統計分析や実地調査のような実証的な分析をミクロ(小さい)な範囲でただ積み重ねることも目的ではない｡</p>
<p>フーコーの目的は｢<b>批判</b>｣にあるという｡</p>
<p>しかしこの批判は社会学におけるマルクスや批判理論家のように､現実にある不平等や抑圧構造を分析し､それらを改善･変革していくために批判していくことを意味しない｡</p>
<p>フーコーはそもそも｢あるべき社会のかたちや制度のありかた｣を提示することに関心をもっていないようにみえる｡このあたりは社会学者のルーマンと似ている(そんなことは人間ごときにはわからないという冷めた立場にある)｡</p>
<h3><span id="toc6">フーコの｢批判｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>フーコーのいう｢批判｣とは､ある現象を<b>検討･分析</b>することだという｡</p>
<p>そうした分析の意図は｢<b>現に存在するものを､あるいは存在しなかったかもしれないもの､今あるようには存在しなかったかもしれないものとして記述すること</b>｣にあるという｡ここがなかなか面白い｡これもルーマンの<b>コンティンジェンシー</b>(偶有性,別様でもありうること)とつながってくる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/09/05/niklas-luhmann-1-1/">応用社会学第一回:「社会システム理論は楽しい」(前編)</a></p>
<p>たとえば我々は真理､理性､主体や権力などは必然的であり､動かし難く遠い昔からあるものだと信じがちである｡たとえば｢日本国民｣という概念が遠い昔からあるとほとんどの人たちは思っている｡</p>
<p>しかしフーコーはそれらの概念は歴史的･社会的に構成されたものであることを言説(人々が語ったもの)を経験的に分析することによって明らかにしようとするわけである｡絶対的なものが実は偶発的なもの､つまり他でもありえたものかもしれないと歴史を紐解いて分析していくわけである｡このような方法を<b>考古学</b>とフーコーはいう｡ニーチェの系譜学に影響を受けている｡</p>
<p>現にある固定的な制度､構造､概念や関係を｢<b>あたりまえ</b>｣と思わずに､柔軟に｢他でもありうる｣､｢逆でもありうる｣､あるいはありえた､なぜそうなったのか､どう機能し､どう機能していないか(あるいは逆機能)などを分析していくのがフーコーのスタイルであるといえる(このように考えると､社会学者のマートンに近づく)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/03/12/robert-king-merton-2/">【基礎社会学第三十五回】ロバート・K・マートンの実証的機能分析とはなにか</a></p>
<p>そして『監獄の誕生』の目的は､<b>｢自発的な主体性｣が歴史的にいつごろ､どのようにして形成されたのかを明らかにすること</b>にある｡たとえばなぜ我々は他人が見ていなくとも赤信号を渡れないのか｡自発的に法律を守るような態度をとっているのだろうか｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>近藤哲郎｢フーコーにおける権力分析のパラダイム 『監獄の誕生』 の方法と論理｣(1990),39-41p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,132p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc7">パノプティコン</span></h2>
<h3><span id="toc8">ベンサムにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/21ae2e40054104af2aa0dbbb377ef38d-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5046" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/21ae2e40054104af2aa0dbbb377ef38d-1.jpg" alt="" width="227" height="284" /></a></p>
<p>ベンサムはイギリスの哲学者であり､功利主義の創始者として知られている｡</p>
<p>※功利主義とはできるだけ多くの人が幸福になるように行動すべきだと考える考え方のこと(最大多数の最大幸福)｡ある制度の良し悪しが快楽や苦痛の量によって判断される｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ベンサムにおけるパノプティコン(英:Panopticon)</strong></span>：</big>中央の監視塔から全ての独房を見渡せる監獄を意味する｡</p>
</div>
<p>日本語では一望監視施設という｡ギリシャ語のpan(すべて)と､opticon(見るもの)に由来する｡ベンサムが当時の非人道的な刑務所の環境を改善するために考案したものだという｡常に監視しておくことで､適切な態度を身につけさせ､社会に復帰させるという､いわゆる｢<b>矯正</b>(きょうせい)｣を目的としている｡さらに､監視者が少なくて済むという､経済的効率性も考慮されている｡</p>
<div id="attachment_5047" style="width: 679px" class="wp-caption aligncenter"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_13-03-52-1.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" aria-describedby="caption-attachment-5047" class="wp-image-5047 size-full" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/2025-08-22_13-03-52-1.jpg" alt="" width="669" height="396" /></a><p id="caption-attachment-5047" class="wp-caption-text">N・アルー＝ロマン『懲治監獄の計画』より(右)</p></div>
<p>重要な構造の特徴は以下の2点である｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">中央に監視塔を置き､周囲に独房を円形に配置する｡</li>
<li class="sample">監視塔からは全ての独房が見渡せるが､囚人からは監視者が見えない｡</li>
</ol>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,135p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),61p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),62-63p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">フーコーにおけるパノプティコンとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>フーコーにおけるパノプティコン</strong></span>(英:Panopticon)：</big>｢常に監視されているという意識から､自発的に権力に服従する｣という近代社会特有の管理･統制のあり方､仕組みのこと｡</p>
</div>
<p>ここでいうパノプティコンは仕組みや制度の象徴､比喩表現にすぎず､学校や病院､家庭などでもパノプティコンと類似した仕組みが浸透しているという点が重要である｡具体的には｢<b>権力のあり方</b>｣､｢<b>規律･訓練(ディシプリン)のあり方</b>｣の2点が重要になってくる｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢社会学小辞典｣､有斐閣､新板増補版第四刷,504-505p</p>
<p>香月孝志,｢社会学用語図鑑｣,プレジデント社,第一刷,206p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,108p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc10">パノプティコン=権力の特殊なあり方</span></h2>
<h3><span id="toc11">近代以前の権力概念</span></h3>
<p>近代以前の権力は､抑圧･強制･搾取といったようにネガティブで一方的に押し付けられ､かつ所有できる｢<b>もの</b>｣のように捉えられていたという｡たとえば｢国家が国民を支配する権力をもっている｣とか､｢上流階級が権力を独占し､労働者階級を支配している｣といった言い方がされていた｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,156p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">近代以降の権力概念</span></h3>
<p>近代以降では､権力は所有されるものではなく､<b>人と人との相互作用､相互関係の中で生成し､機能するもの</b>であると考えられている｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,157p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc13">要素よりも関係や体系が先にあるとはどういう意味か</span></h4>
<p><b>要素よりも関係や体系が</b><b>先にある</b>という点が重要である(フッサールの現象学やルーマンの社会システム理論とも類似する)｡</p>
<p>しかしこのあたりは哲学的でなかなか理解することが難しい｡フーコーは主体という概念も関係と無関係にあるわけではなく､関係が先にあって､要素が主体として構築されると考えられている｡</p>
<p>たとえば｢私｣が｢私とは無関係な目の前のペン｣を手に取るという考え方自体､近代的な捉え方だというわけである｡そのような区切り方は一定の関係､フーコー的に言えば｢<b>近代的知</b>｣を前提とする｡</p>
<p>たとえば教師と生徒が学校という場所で出会って会話することによって権力がその場所で作用するのである｡教師が生徒や学校とは無関係に､独立的に権力を道具のように所有しているわけではない｡人に権力が帯びるというより､人間関係に権力が帯びる､人間関係の場に権力が帯びるというイメージ｡</p>
<p>学校では教師はどうあるべきで､生徒はどうあるべきといったような｢<b>安定したルールや慣習</b>が先にある｡こうした細かく具体的なルールをさらに体系付ける知の体系がいわゆる<b>エピステーメー</b>(episteme)である｡こうした安定した枠組み､関係(いわゆる<b>構造</b>)の中に人間Aと人間Bという要素が位置づけられることで､人間Aは教師になり､人間Bは生徒になるのであり､そしてそれらの関係として一種の｢<b>社会関係</b>｣が生じ､この関係に権力が働くのである(権力関係)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/01/19/husserl-1/">【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/09/05/niklas-luhmann-1-1/">応用社会学第一回:「社会システム理論は楽しい」(前編)</a></p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,131-132p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc14">権力と秩序の関係とは</span></h4>
<p>社会学者の桜井洋さんは｢<b>権力とは､社会の秩序が成立する仕方である</b>｣と説明している｡</p>
<p>秩序のあり方は一方的な｢命令･服従｣だけではない｡｢<b>人の行動や考え方を方向づける力</b>(強制的な力だけではない､より広い範囲の<b>生産的な力</b>)｣のことなのである｡</p>
<p>フーコーは｢<b>支配関係</b>｣を固定的で逆転が難しい上下関係だとみなし､上下関係が逆転可能な｢<b>権力関係</b>｣と区別している｡</p>
<p>たとえば会社の上司と部下の関係は支配関係ではなく権力関係の場合が多く､部下が上司よりも出世することはありうる｡フーコーいわく､｢<b>権力のあるところには抵抗の可能性がある</b>｣という｡</p>
<p>たとえば母親が子供に｢<i>勉強しないとろくな大人になれないかもね</i>｣と言うとき､そこにはミクロで対面的な相互作用が生じている｡我々は通常､この関係を一方的な強制や支配とはみなさないだろう｡</p>
<p>しかし一定の行動､2人の間の秩序を促すような｢<b>力=権力</b>｣をそこに観て取るはずである｡いわば｢調教｣ともいっていい力である｡この相互作用は｢家庭｣という場所において生じるからこそ､力が強くなる｡たとえば友人や知らない人に同じことを言われても､無視するかもしれない｡</p>
<p>我々のほとんどあらゆる相互作用によって権力は生じ､染み込んでいるのであり､しかもその力(働き､機能)は<b>なかなか目に見えない</b>｡よく目に見えるのはその結果(勉強する/勉強しない､赤信号を渡る/渡らない)だけである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢クロニクル社会学｣,有斐閣アルマ,第一六刷,157p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,107p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">刑罰の歴史とは</span></h3>
<h4><span id="toc16">【1】古典的主義時代(17世紀から1789年のフランス革命にかけて)｢身体刑｣</span></h4>
<p>｢<b>身体から精神へと権力の向かう関心が移行した</b>｣という点がパノプティコン的な権力特有のあり方において重要であるということを理解していく｡</p>
<p>前近代的な権力の関心は王権による｢<b>身体刑</b>｣が主流であったこととも関係してくる｡この時代はいわゆる古典主義時代である(17世紀から18世紀後半ごろ)｡法は君主の権力を体現するもの､犯罪は君主に危害を加える行為であり､むち打ちや処刑などを民衆の前で公開することで､君主の権力を再認識させるという秩序維持の機能があったという｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,106p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc17">【2】18世紀の刑罰制度の改革における｢処罰｣</span></h4>
<p>18世紀には身体に対する罰が批判され､刑罰制度を改革しようとする人たちが現れてくる(法律学者のベッカリーアなど)｡</p>
<p>｢<b>かわいそうだから少なく処罰する</b>｣という動機ではなく､｢<b>より良く､合理的に処罰する</b>｣という点がポイントである｡18世紀には生活水準が上がり､人口が増え､ブルジョワジー(資本家)が現れ､財産を狙う民衆の犯罪が増加していたという背景がポイントになる｡ムチ打ちや処刑などの｢<b>身体に対する権力による恐怖</b>｣では非効率的だというわけである｡｢危険の消去｣ではなく､人々をより教育して有効に､効率的に国家のために使うための｢教育(矯正･調教)｣という方向性の転換ともいえる｡</p>
<p><b>ではもっと効率のよい(人を操作するための)合理的な権力のあり方とはなにか</b>という点が問題になる｡それが18世紀においては｢<b>合理的な基準で処罰することによって､犯罪は割に合わないことを人々に認識させること</b>｣であったという｡</p>
<p>たとえばベッカリーアは『犯罪と刑罰』で､｢刑罰は見せしめよりも法則的で比例的であるべき｣と述べ､｢<b>教育</b>｣を重視している｡権力者が気分や賄賂で処罰を決めるのではなく､｢この行為をするとこういう罰が科される｣と明確に､痛みのような質ではなく､労働の量などで｢<b>記号</b>｣として可視化することによって､<b>自発的･自律的に法を守らせる効果を刑罰に期待した</b>のである｡これが身体から精神への権力の方向の変化である｡身体に刻むのではなく､精神に訴えかけ､予防するのである｡脅迫ではなく教育である｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,107p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),49-50p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc18">【3】19世紀における｢監獄｣という処罰</span></h4>
<p>この提案の時期には監禁刑はまだ主流ではなく､またこの改革者たちは(とにかく全員ぶち込め的な)監禁刑を批判している｡</p>
<p>したがって､監禁ではなく｢<b>社会に与えた害に相当する公共的な土木事業などに従事する</b>｣といった刑罰が改革案では考えられていたそうだ｡しかし､1810年の刑法典ではそのような改革案とは対照的に､大規模な｢<b>監獄</b>｣の設立が計画され､実施されていくことになる｡監獄の計画も犯罪者たちの矯正(教育)という点では共通しているが､その手段(技術)が異なるというわけである｡この具体的な手段については次の項目で｢<b>規律･訓練(ディシプリン)</b>｣を扱う｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,107p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc19">パノプティコン=規律･訓練(ディシプリン)の技術</span></h2>
<h3><span id="toc20">規律･訓練(ディシプリン)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff00;"><strong>規律･訓練</strong></span>(英:discipline)：</big>身体の細部に働きかけ､その内部から規格に合致した主体を形成していく力､技術のこと｡</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/1c710b39ddbf95a568c235dcead97b69.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter  wp-image-5041" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/1c710b39ddbf95a568c235dcead97b69.png" alt="" width="214" height="150" /></a></p>
<p>｢<b>規格</b>｣は同じようなクッキーが量産されるイメージをすればわかりやすい｡すこし歪んだクッキーの頭は､歪んだ部分を切り落とされて調整されていくのである｡金髪に染めてきた生徒は規格外であり､規格化して黒くしないといけない｡遅刻が多い社員は減給したり叱責してまともにしなくてはならない｡</p>
<p>もちろん､強制ではなく､できればそもそも染めないという形で自発的に､あたかも自分が自由に選んだというような形で権力を行使する方が効率的で合理的であるとみなされる｡明確に規格が文章化されている場合もあれば､その場の暗黙の了解とされている場合もある｡｢風紀を乱さないように｣､｢マナーを守って｣など抽象的に記述され､主体側が自発的に考えて行動するわけだ｡</p>
<p>規律とは一般に｢人の行為の基準として定められたもの｣や｢秩序｣を意味する｡いわば｢ルール｣である｡</p>
<p>たとえば教室では｢廊下を走ってはいけない｣､｢手を挙げて発言しなければならない｣､｢髪を染めてはいけない｣といったルールがある｡監獄においても､起床や就寝時間､トイレ､シャワー､運動､あらゆる動作に規律がある｡</p>
<p>そしてそれらは常に｢<b>監視</b>｣されているという点が重要である｡さらに教師や看守がいないところでも､自分で自分を律し始めるという点がポイントである｡教師がいないからといって廊下は走らないし､看守がいないからといって大きな音を立てたりしなくなる｡</p>
<p>規律だけでは有効に働かない｡規律に基づいた行動パターンなどを｢<b>訓練</b>｣によって反復的に身につけさせなければならない｡</p>
<p>たとえば学校の運動会では行進練習を行い､矯正施設では作業訓練などを行わせる｡ルールを頭で理解させるだけではなく､身体知として､無意識に身体が覚えて実行するようになるまで繰り返しルールを叩き込んでいくのである｡ブルデューで言えばハビトゥスのような次元にまで叩き込むイメージとなる｡</p>
<p>刑務所帰りの人はトイレに行く際に無意識に許可を求めてしまうエピソードを聞いたことがある｡そのくらいに身体に規律が訓練によって叩き込まれているのだといえる｡｢ショーシャンクの空に｣という映画では刑務所の秩序に慣れ､外に出るのが怖いという囚人がいた(結局出所して自殺してしまう)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2025/08/06/one-word-sociology-habitus/">【１ワード社会学第三回】ブルデューの｢ハビトゥス｣とはなにか</a></p>
<p>制裁への恐怖によって覚えるというより､それが秩序立った関係を構成するからという方が直感的には近い｡体罰などなくとも､｢<b>あいつは正常ではない</b>｣と見なされかねない視線がつねに存在するのである｡教師からだけではなくクラスメイトから､看守からだけではなく囚人仲間からの監視もある｡たとえば学校の不良にとっては教師より不良仲間からの視線のほうが重要になりうるともいえる｡</p>
<p>学校で勉強に励むのは教師への恐怖というより､そうしないと社会に適合できず､排除されてしまうからだろう(意識しているかはわからない)｡学校だけではなく､家庭でも勉強に励まないと人間関係から排除されてしまう可能性がある(ネグレクトなど)｡</p>
<p>秩序のためには適合が必要であり､その適合のあり方が規律と訓練を身体に叩き込み､無意識のレベルで実践できるようになることだといえる｡トイレで手を洗うことをいちいち我々は意識しない(これは本能ではなく､教育の効果である)｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,109p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,135p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),53p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">主体的であると同時に服従的であるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>刑罰はできてしまった異常者(犯罪者､落ちこぼれ､無職)を事後的に排除しようとするのではなく､事前にそもそもそのようにならないように徹底的に調教(矯正)する｡</p>
<p>ゆりかごから墓場まで､あらゆる場所で規律と訓練の技術が適応されるのである｡家庭､学校､職場だけではなく､電車の中､雑踏､トイレなどあらゆるところでその場に適した規律があり､我々はそれを知として把握し､さらに実践を通して身体に埋め込んでいる｡</p>
<p>たとえば電車で目線を合わせないのも我々は無意識的に行っているのであり､だからこそ､そこでは秩序(権力)が生じているのである｡文章化されずとも､周りとの相互作用によってそのような秩序のあり方､｢その場における正常｣を繰り返し経験して察し､覚えるのである｡</p>
<p>しかも強制ではなく､｢<b>主体である私</b>｣が｢<b>自由の行使として</b>｣そうしているのだと思っている点が重要になる｡</p>
<p>フーコーによると主体(subject)という言葉にはもともと｢<b>臣下</b>｣という意味があったそうだ｡臣下とは一般に｢権力者に服従する人｣を意味する｡</p>
<p>人々は自分を主体であり､自由を行使できると感じているのと同時に､そのような自発的な行動をするように権力によって規律を内面化させられているのである(服従している)｡</p>
<p>もっと直接的に言えば､権力に自発的に服従することによって｢主体｣が発見され､構築されるのだという｡主体化とは服従化なのである｡権力の関係の中で自分の行動や判断､個性が形成されるのであり､関係の外ではもはや野生動物のようなものだろう｡我々は猿のような人間を｢主体的｣とは通常見なさない｡価値を内面化するパーソンズや､定言命法における自由概念のカントと類似する｡</p>
<p>要するに､｢<b>権力に服従することを通して､自分が主体だという意識が生じる</b>｣ということである｡もちろんこうした｢自発的に服従する主体｣は近代における典型的な現象であり､そうではない主体のタイプもありうるだろう(反抗的な主体など)｡しかしいずれにせよ権力を通して主体が意識されることには変わりがないといえる｡</p>
<p>学校で勉強することを選んだり､就職活動することを選んだり､電車では大きな声を出さないことを選んだり我々はする｡厳格な細かい規律と訓練が｢<b>選んでいるという感覚</b>｣を生み出していくのである｡あるべき選択肢があり､それをきちんと自分で選ぶという感覚､あるいは選ばないという感覚が生じる｡自分で１から選択肢を作り出すことは難しい(ランダムにサイコロをころがすように選択をするわけでももちろんない)｡</p>
<p>もちろん学校へ行かないという選択､働かないという｢<b>反抗</b>｣の選択をすることもある｡しかし､｢学校へ行くべきだと思っているけど､行かない｣ということは､行くべきだという規律は｢<b>内面化</b>(調教)｣されているわけである(だからこそ不登校や引きこもりは良心の呵責､自分の異常性で苦しむのである)｡</p>
<p>産まれたときから常に､すでに権力の内側にあるのであり､その中でしか主体(他ではないかけがえのない私､個人､個性､パーソナリティ)は感じられないのである｡それゆえに､権力に抵抗する方法はないじゃないか､とフーコーは批判されることがある(たとえば社会学者のハーバーマス､サイードなど)｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,132p</p>
<p>･｢社会学｣､有斐閣､第十一刷,68p</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,109p</p>
<p>･｢新しい社会学の歩み｣,有斐閣アルマ,第一刷,134p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">規律･訓練の技術とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>規律･訓練の技術は､少なくとも次の4点に整理できる｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">空間の配分: 身体を位置づけ可視化する｡</li>
<li class="sample">活動の統制: 時間割と手順で行為を規範化する｡</li>
<li class="sample">時間の累積: 線形の発達段階を組み､評価と到達点を設定する｡</li>
<li class="sample">力の総体化: 個々の身体を連結して効率的に働かせる｡</li>
</ol>
<p>このようなある場(装置)における規律･訓練の効果を最大にしようとする技術をフーコーは｢<b>戦術</b>(tactique)｣と呼んでいる｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),54p</p>
<p>･｢政治･権力･公共性｣(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,108p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc23">フーコーにおける｢空間の配分｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/a99ee76032315c79726896e643999446.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-5048" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2025/08/a99ee76032315c79726896e643999446.png" alt="" width="224" height="215" /></a></p>
<p>｢<b>空間の配分</b>｣とは､ある集団を閉じ込められた場所に置き､それぞれの位置を決定する処理のことである｡</p>
<p>たとえば監獄なら監房がわかりやすい｡囚人は所定の位置が定められ､管理されるのである｡学校なら｢教室｣という場所であり､それぞれの個人の席が空間的に割り当てられている｡職場や工場も自分の働く場所が割り当てられ､管理される｡ここで大事なのは身体の位置が把握され､細かく管理･監視されているということである｡</p>
<p>このように細かく割り当てられることで｢個人｣や｢主体｣がくっきり浮かび上がって来るという点もポイントだろう｡まるでだれもかれも類似して一体だった箱にマス目がつき､個人が浮かびあがるのである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),54p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),55-56p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc24">フーコーにおける｢活動の統制(活動のコード化)｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>｢<b>活動のコード化</b>｣とは､時間の配分のようなものである｡たとえば監獄では何時に起床し､何時に働き､何時に寝るか､あらゆる｢身体の動き｣に関するスケジュールが管理されている｡</p>
<p>すべての時間が有効に活用されるように､細かく身体が管理される(<b>解剖学的</b>という比喩をフーコーは使う)｡これは学校や工場､会社でも同じである｡場合によっては家庭でも細かく管理する親はいるだろう｡</p>
<p>このようにして｢<b>権力によって操作される身体</b>｣が発見されていくのである｡幼い頃から無意識に細かく執拗に管理されているうちに､自発的に従うようになっていくのである｡教師や親､上司がいなくても､自発的に彼らの意に沿うような人間が誕生していく｡</p>
<p>ミード的に言えば｢一般化された他者｣の意に沿うような人間が典型だろう｡｢誰かが見ているかもしれない｣というときの｢誰か｣が監視者であり､それは誰でも､なんでもありうるのである(ダミーの監視カメラも想像力で他者となる)｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/08/18/geoge-herbert-mead-3/">【基礎社会学第二十七回】G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」とはなにか</a></p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),56p</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),57p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc25">フーコーにおける｢発達･発展｣とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h4>
<p>｢<b>時間の累積</b>｣とは､時間が空間の管理の枠組みに組み込まれ､加算されていくことである｡</p>
<p>とくに｢<b>発達･発展</b>｣という概念が重要である｡空間や時間の管理によって計画は一定の方向性や目的を帯び､社会は進歩するもの､個人は発達するものという観念が形成される｡こうして､個人の能力の発達のために空間や時間が管理され､それが社会の進歩へと関連付けられ､結果として管理の技術そのものがますます発展していくのである｡</p>
<p>どのくらい能力が発達したかなどが｢学歴､資格､給料｣などで可視化され把握されていくのであり､個人もまたそれを内面化し､自分はどれくらい発達しているのかを自発的に把握し､自己管理していくのである｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),57-58p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc26">パノプティコンから得られる教訓</span></h2>
<h3><span id="toc27">ものごとは単線的ではなく複線的</span></h3>
<p>パノプティコンという革命的装置や技術が天才によって突然できて､その技術が学校や工場､家庭などあらゆる場所に浸透していって､個人は自発的に権力に服従する効率的･合理的な管理社会･監視社会になっていったね､という単純な話ではない｡｢パノプティコン､すごい仕組みの監獄だったね｣で終わる話でもない｡</p>
<p>パノプティコン以前の｢<b>全体的な時代の流れ</b>｣､デュルケム的に言えば集合意識や社会の潮流､マンハイム的に言えばイデオロギーが重要である｡いわゆる知の体系(エピステーメー)がそうした仕組みの一般化と浸透を促したといえる｡ジンメル的にいえば､様々な糸が交差していった結果として､特定の方向に糸が伸びざるをえなくなり､複雑な糸の在り方が生じていくともいえる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/11/27/durkheim-4-3/">【基礎社会学第三六回(3)】エミール･デュルケムの｢集合意識と集合表象の違い｣を解説</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/02/19/karl-mannheim-1/">【基礎社会学第三十一回】カール・マンハイムの「イデオロギー」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2021/12/04/georg-simmel-1/">【基礎社会学第五回】ゲオルク・ジンメルの「形式社会学」とはなにか</a></p>
<p>問題はそういう土壌の考古学的把握であり､発見であるとえる｡あくまでもパノプティコンは目に見えやすい権力関係､権力体系の｢<b>シンボル</b>(メタファー､モニュメント)｣にすぎないという点が重要になる｡</p>
<p>もし仮に物理的な建築や建築計画であるパノプティコンが存在せずとも､パノプティコン的な仕組みは浸透していった可能性がある｡重要なのは規律･分類･監視という権力技術そのものが､当時の知の体系や社会的秩序の中で生まれ､拡散していったことである｡</p>
<p>ベンサムによるパノプティコンの構想以前に､たとえば学校では時間によるスケジュール管理は存在し､ペストなどの罹患者の管理のための空間の区切り方､監視のあり方なども既に存在していた｡</p>
<p>フーコーの言葉でいうと｢<b><i>起源のさまざまな､出所もばらばらの､しばしば些細な過程の多種多様な集まりとして､さまざまに裁ち直されたり、くり返し現れたり､互いに模倣したり､相互に支えあい､適用領域のちがいで区別され､近似的なものになり､徐々に､総括的な方策の完成図を描き出す､そうした諸過程の集まりとして理解する必要がある</i></b>｣のである｡</p>
<p>ある技術や制度の完成はある個人の意図的な作成というような必然ではなく､かといって完全なランダムではなく､偶発的で全体的な流れによって､意図せざる結果として生じてきたものだといえる｡人口の増加や交流の増加､犯罪の増加に対応できる別の知のありようももしかしたらあったかもしれない｡</p>
<p>偶発的に生じてはいるが､制度は維持され､再生産されていくうちに頑強になり､関係が固定化し､変えがたく必然的に生じているように思われていくのである｡</p>
<p>意識すらできない､言語化すらできないほど｢あたりまえ｣のことは変えがたいのである(魚にとって水が意識されないように)｡しかしフーコーはそうした｢あたりまえ｣のことは実は社会的に形成されたものであり､｢ほかでもありえた｣という視線で捉え直すことの重要性を主張するのである｡</p>
<p>｢〇〇は✗✗の観点からするとよくない､変えるべきだ｣という提案､ではなく､｢<b>まずは冷静に柔軟に別の角度から捉え直してみよう</b>｣という提案であるといえる｡</p>
<p>パノプティコン以降では､教室や病院のような限定的な場所だけではなく､ありとあらゆる場所で一般的にそうした規律･訓練の技術が浸透していったというだけである｡そのひとつに警察などの国家権力ももちろんある｡</p>
<p>さらに規律の形が柔軟になっていった点も重要だ｡現代社会では監視カメラの発展､インターネットの発展などによってさまざまな規律･訓練の技術が柔軟に浸透してきているといえる｡デジタル技術によってより細かく個人は管理され､より広範囲に監視されるようになるのである｡</p>
<p>さらには少数が多数を監視するのではなく､多数が少数を監視するという<b>シノプティコン</b>という考え方も出てきている(芸能人の不倫を国民が総叩きにするようなイメージ)｡強制だけでなく｢<b>欲望や承認</b>｣を媒介に自発的な自己規律を促す仕組みもでてきている｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018),47-48p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">制度の偶発性と抵抗の可能性</span></h3>
<p>フーコーは主人と奴隷の関係のように､服従関係が固定してしまっている｢支配関係｣をあまり評価していないようにみえる｡</p>
<p>例えばフーコーは｢<b>あらゆる社会関係を『自由と自由の間の戦略的ゲーム』に変換することは､</b><b>意味のある目標だ</b>｣と述べている｡固定的な支配関係を逆転できるような｢権力関係｣の中に自分を位置づけることが重要というわけだ｡規律･訓練の技術が高度であればあるほど､われわれの身体を内側から支配し､ある制度をあたりまえだと思わせ､服従を促すのである(しかも<b>服従をあたかも自由な選択だと思わせる</b>)｡</p>
<p>親のいいなり､教師のいいなり､上司のいいなりになることもときには(ほとんどの場合といってもいいが)必要である(ある社会で偶発的に正常だとみなされていることをこなすということでもある)｡支配関係が全て悪であり､抵抗するべきであるといっているわけではない｡</p>
<p>しかしそれを｢あたりまえ｣と素朴に呑み込むのではなく(われわれはそれを服従とすら意識していないことが多いが)､それらは偶発的な関係であり､逆転も可能な関係である｢<b>戦略ゲーム</b>｣として捉え直すことが重要だという話だ｡世の中にはさまざまな固定化した制度や関係があり､かならずしもよい結果を生んでいるとは限らない｡単なる奴隷ではなく､変革の可能性をもった主体であるという点が重要だと感じた｡</p>
<p>たとえば選挙制度がある限り､与党と野党の立場は入れ替わりうるのである(抵抗可能性があるからこそ､自分勝手ではなく柔軟な政策を促せるのである)｡いじめっこに｢こいつは強く抵抗するかもしれない｣と自覚させることで､事態は好転することもあるかもしれない｡｢<b>開かれることの重要性</b>｣ともいえる｡</p>
<p>とはいえ､｢なにが､どういう根拠で悪であり､変革するべきなのか｣という正当性を誰がどのように判断するのかが問題となる｡｢<b>それがいいとはかぎらない､悪いともかぎらない､ただし固定的なあり方はよくない､柔軟性や流動性はいい</b>｣と言っているだけではフワフワして説得力がない｡</p>
<p>とはいえ､我々を<b>不安</b>にさせ､｢<b>ものごとを考えるきっかけ</b>｣にはなる｡フーコーは晩期に『性の歴史』などで生存の美学などを通して抵抗可能性を提示しようとしたらしいが､今回は扱いきれないのでこのあたりで終わることにする｡</p>
<blockquote>
<p>･特に参考にしたページ</p>
<p>･｢本当にわかる社会学｣,現代位相研究所編,第四刷,107p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc29">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc30">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc31">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/466jk6T">ミシェル・フーコー (著), 田村 俶 (翻訳) ｢監獄の誕生&lt;新装版&gt; : 監視と処罰｣</a></p>
<h4><span id="toc32">「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4fVtwmj"> 「政治・権力・公共性 (社会学ベーシックス9)」</a></p>
<h4><span id="toc33">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/45Q1qnA">「新しい社会学のあゆみ (有斐閣アルマ)」</a></p>
<h3><span id="toc34">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc35">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3IppNe8">佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」</a></p>
<h4><span id="toc36">大澤真幸「社会学史」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3CUbL3f">大澤真幸「社会学史」</a></p>
<h4><span id="toc37">新睦人「社会学のあゆみ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LG8hpn">新睦人「社会学のあゆみ」</a></p>
<h4><span id="toc38">本当にわかる社会学　フシギなくらい見えてくる</span></h4>
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<h4><span id="toc39">アンソニー・ギデンズ「社会学」</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4880593508/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4880593508&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=009f3e2b26ad145fcf5b5b9af985ac34" target="_blank">社会学 第五版</a></p>
<h4><span id="toc40">社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641053898/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641053898&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=72d8061762b43ee3cf228bc6f94281a1" target="_blank">社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)</a></p>
<h4><span id="toc41">クロニクル社会学</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641120412/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4641120412&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=70dbea010ff34843c3a086a108837a11" target="_blank">クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)</a></p>
<h4><span id="toc42">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</span></h4>
<p><a rel="noopener" href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4833423111/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4833423111&amp;linkCode=as2&amp;tag=souzoulog-22&amp;linkId=12c6523e52a8ad8c7f6186f2a7e8638b" target="_blank">社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像</a></p>
<h3><span id="toc43">参考論文</span></h3>
<p>･藤田雄飛， 舩原将太， 塚野慧星 ｢フーコー 『監獄の誕生』 再考｣(2018)[<a href="https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/6768601/15_p047.pdf">URL</a>]<br />
&gt;フーコーの著作の要約的な文章で助かった｡説明も平易である｡論文というより､ノートのように感じた｡</p>
<p>･近藤哲郎｢フーコーにおける権力分析のパラダイム 『監獄の誕生』 の方法と論理｣(1990)[<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/34/3/34_39/_article/-char/ja/">URL</a>]<br />
&gt;説明は平易ではないが､フーコーの｢目的｣や｢方法｣に関して述べられていて面白かった｡今度じっくりと精読してみたい｡</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>ミシェル・フーコーまとめ</title>
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					<comments>https://souzouhou.com/2015/12/05/%e3%83%9f%e3%82%b7%e3%82%a7%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%83%95%e3%83%bc%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%81%be%e3%81%a8%e3%82%81/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 05 Dec 2015 10:34:02 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[ミシェル・フーコー]]></category>
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					<description><![CDATA[目次 ミシェル・フーコーとはフーコーの問題意識誤解について制度について言説とは何か制度とは何か知識について禁止について儀式化について狂気について考古学についてエピスメーデーについて類似と差異について権力について伝統的な権 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">ミシェル・フーコーとは</a></li><li><a href="#toc2" tabindex="0">フーコーの問題意識</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">誤解について</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">制度について</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">言説とは何か</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">制度とは何か</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">知識について</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">禁止について</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">儀式化について</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">狂気について</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">考古学について</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">エピスメーデーについて</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">類似と差異について</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">権力について</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">伝統的な権力観</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">フーコーによる権力観</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">分析方法について</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">監獄-規律(dicipline)について</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">セクシュアリティについて</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">「人口の生ー政治学」とはなにか</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">生-権力とセクシュアリティ(性)について</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">真理について</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">参考文献について</a></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">ミシェル・フーコーとは</span></h2>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-medium wp-image-333" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん-300x198.jpg" alt="フーコーさん" width="300" height="198" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん-300x198.jpg 300w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん-120x80.jpg 120w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん-160x107.jpg 160w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/フーコーさん.jpg 585w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p>ミシェル・フーコー（フコ）（Michel Foucault 発音例、1926年10月15日 &#8211; 1984年6月25日）は、フランスの哲学者。『言葉と物』（1966）は当初「構造主義の考古学」の副題がついていたことから、当時流行していた構造主義の書として読まれ、構造主義の旗手とされた。フーコー自身は自分が構造主義者であると思っていたことはなく、むしろ構造主義を厳しく批判したため、のちにポスト構造主義者に分類されるようになる。代表作はその他、『狂気の歴史』『監獄の誕生』『性の歴史』など。(wiki)</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>私が知りたかったことは、規定された形式のなかで、真理や権力に関わる諸々の実践を通して、いかにして主体は狂気の主体と正常な主体のいずれかとして自己を構成するのか、ということでした。　インタヴュー 1984 フーコー</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc2">フーコーの問題意識</span></h2>
<p><strong><span style="color: #ff00ff;">「正常」と「狂気」の差異を作り出すことで、「患者」をつねに生み出していくような制度ではないのか、この制度は権力によって維持されいているのではないか</span></strong>、というのがフーコーの問題意識です。</p>
<h2><span id="toc3">誤解について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #ff0000;"><strong>なんとなく感じていること</strong>が実は<strong>誤解</strong>に基づいている</span>ことがあるらしいです。</p>
<p style="padding-left: 60px;">たとえば、わたしたちは歴史的な発展過程が「定まった方向を有している」と漠然と考えがちだそうです。社会は連続的に進歩・発展し、よりよい方向へ段階的に漸進（ぜんしん、急がないで段階を追って少しずつ進んで行くこと）していると”なんとなく”感じています。しかし少し検討してみれば、その多くが誤解に基づいていることに気づくそうです。</p>
<p style="padding-left: 90px;">（解釈）たしかに科学がこのまま発展していって、よりよい方向に進んでいくとなんとなく感じている。そのことについて検討してみれば誤解にもとづいているかもしれない。</p>
<p style="padding-left: 30px;">フーコーは『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』「監獄の誕生」などの著作で誤解を指摘したらしいです。</p>
<p style="padding-left: 60px;">たとえば、<strong>監獄は</strong>論理的な帰結として発生したものでも、歴史の定向的な進化の結果として発生したものでもなく、<span style="color: #000000;"><strong>ある時代の要請に基づいて<span style="text-decoration: underline;">事件として</span>発生</strong></span>したものでしかないとフーコーは指摘しています。<span style="color: #ff0000;"><strong>何らかの目的の達成を目論んだものではない「単なる一連の事件」が新しい価値観を発生させてしまう可能性がある</strong></span>とフーコーは検討しています。</p>
<p style="padding-left: 90px;">新しい価値観とはたとえば、「正常と狂気」「理性と非理性」「集団と個人」「服従と反抗」などという概念です。これらは精神病院や監獄という<span style="color: #008000;"><strong>制度的な施設</strong></span>が作られ、運用されていくにしたがって生み出されてきたものです。こうし<strong>た価値観は時間が経つにつれて個人において内在化された価値観</strong>となっていきます。個人レベルの内在化が進んでいくと、制度や制度的施設はさらに強化され、力を強めていきます。さらにはそういった<span style="color: #ff0000;"><strong>価値観を判断する</strong></span>機関、「理性と非理性」、「正常と狂気」、「服従と反抗」などを判断しうる職業が権力を有することになり、<span style="color: #ff0000;"><strong>制度的施設そのものが権威的</strong></span>なものとなっていきます。精神病院や監獄だけではなく、<span style="text-decoration: underline;"><strong>工場や学校や軍隊においても</strong></span>おなじようなことが発生したといいます。</p>
<p style="padding-left: 120px;">精神病院、監獄、学校、軍隊、そして工場などの制度的施設に共通しているものはなんでしょうか。たとえば、個人は集団として扱われ、規律の徹底がはかられ、処罰が行われ、特典などによる成績評価が行われるなどの類似点が見られます。<span style="color: #ff00ff;"><strong>制度が固定化したり、個人の内部に内在化することによって、価値観が形成され、道徳と呼ばれるようになります</strong></span>。</p>
<h2><span id="toc4">制度について</span></h2>
<h2><span id="toc5">言説とは何か</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">制度を説明する前に、言説を説明しておきます。<span style="color: #008000;"><strong>言説とは、社会に是認・認可された観念とその表現によって構成されているもの</strong></span>です。フーコーに言わせれば、「特定の社会的・文化的な集団・諸関係に強く結びつき、それによって規定される、言語表現、ものの言い方」となるでしょう。伝達され、認められてきた観念や、そうした観念の表現が言説なのです。時間にルーズではいけないというような観念が世間的に認められてくれば、それは言説であるということができます。</p>
<p style="padding-left: 60px;">こうした<span style="color: #ff00ff;"><strong>言説が、制度によってろ過され、知識となります</strong></span>。言説＝知識ではありません。言説が制度によって強化されたものが知識であるということができます。</p>
<p style="padding-left: 30px;">ブルデューによれば言説とは言語市場（社会の場面）で日常的に交換されている言葉です。日常的に交換されているというところがおそらくポイントでしょう。</p>
<p style="padding-left: 30px;">フーコーによる言説は社会における知識体系に伴う現象です。つまり、知識制度を強化するような言葉の交換のみが言説としてみなされるということでしょう。言説たらしめるものが知識体系（社会規範）であり、知識体系を形にするものが言説という関係にありますね。</p>
<p style="padding-left: 30px;"><strong><span style="color: #ff0000;">言説は話を管理（制御）</span></strong>します。</p>
<h2><span id="toc6">制度とは何か</span></h2>
<p>言説について理解できれば、制度について理解することができます。<span style="color: #008000;"><strong>制度とは、言説を強化するもの</strong></span>だということができます。いわゆる社会制度が中心ですね。教育、法、政策、マスコミ、出版、宗教、病院、政治制度、科学などです。強化をもっと詳しく説明するとすれば、統御であり、選択であり、組織化であり、再分配です。<span style="color: #008000;"><strong>言説と制度と知識のこの濾過のシステム全体を知識体制</strong></span>と称することができます。ある時代で入手できる知識は、社会によって認可された知識であるということができます。認可されていないようでは言説止まりか、あるいはただの観念にすぎません。</p>
<p style="padding-left: 30px;">例として、コペルニクスが挙げらます。近代以前は入手できる知識、認可された知識は地球中心説であった。太陽中心説は認可されていなかった、つまり制度によって、宗教によって認められていなかったので、知識とみなされていなかったのである。制度が認可してはじめて太陽中心説は知識へと認められていったといえます。</p>
<blockquote>
<p style="padding-left: 30px;">元々は哲学者のイマヌエル・カントが自らの哲学を評した言葉であった。<br />
ニコラウス・コペルニクスは、それまでの常識であった地球中心説に対して、太陽中心説を唱えた天文学者である。<br />
認識論において、人間の認識は、外部にある対象を受け入れるものだというのが、従来の哲学の常識であった。それに対して、カントは、人間は物自体を認識することはできず、人間の認識形式が現象を構成するのだと説いた。こうして、人間の認識形式自体を問う近代的な認識論が成立した。<br />
これから派生して、物事の見方が180度変わってしまうような場合にも、この言葉が使われるようになる（パラダイム転換と同じような意味）。</p>
<p style="padding-left: 30px;">(wiki)</p>
</blockquote>
<blockquote>
<p class="p1"><span class="s1">「そして、これらの手続き（＝過程、制度、施設）は、言説の力と危険とを払いのけ、その僥倖（ぎょうこう）に左右される出来事を支配し、その重苦しく、おそるべき物質性を避ける働きをする、と。」　頁９「言葉と物」</span></p>
</blockquote>
<h2><span id="toc7">知識について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><strong><span style="color: #008000;">知識とは言説が制度によってろ過されたもの</span></strong>です。フーコーいわく、<span style="color: #ff0000;"><strong>知識は社会の中にしか存在しません</strong></span>。知識の内容とその意味が社会（個々人ではなく世の中）だけによって構成され、伝達され、受け入れられているからです。また、知識は構築されたものであるといえます。知識であると信用されているものは、制度によって維持（-&gt;構築）されたものであるからです。それゆえに、<span style="color: #ff0000;"><strong>制度に属している人間は、権力を持つ</strong></span>といえます。政治家、教授、医者等々。</p>
<p style="padding-left: 60px;">ブルデューの言語という無形のものの交換は社会の場の最も大事なやり取りの媒体であるという意味がわかってきます。言語は社会の中にしか存在せず、社会の中でしか意味を持たず、社会の中でしか読み取られていません。</p>
<h2><span id="toc8">禁止について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #008000;"><strong>禁止は複雑な網の目を形作るもの</strong></span>です。<span style="color: #008000;"><strong>網の目とは、信用すべき知識をろ過する社会制度の機能</strong></span>を意味します。<span style="color: #ff0000;"><strong>認可されない知識や言説に対して禁止という機能がはたらく</strong></span>のですが、禁止にはさまざまなタイプがあります。排除、拒絶、分離などですね。たとえば狂気と判断されるような言説は拒絶され、知識になりません。<span style="text-decoration: underline;"><strong>制度に適合しないものは禁止され、知識体制から排除</strong></span>されます。</p>
<p style="padding-left: 60px;">拒絶の例を一つ見ていることにしましょう。狂人をとりあげます。中世やルネッサンス時代においては、狂人の言葉は聖なる言葉・心理を表す言葉として捉えられていたそうです。しかし、近世以降狂人の言葉は悪魔よりの言葉として捉えられるようになり、精神病院に監禁されるようになりました。現代では、狂人の言葉は”病気の症状”として捉えられるようになっています。精神科医によって、言葉（言説）を通して治療を受けさせられます。おそらく、科学が発展し、合理的なものだけに盲信するようになった世界観においては、狂人は聖人ではなく、ただの病人でしかありません。狂人が聖人であるということは非合理的であり、科学という言説からは拒絶されるでしょう。</p>
<p style="padding-left: 30px;">「そこには、お互いに相互交わり、強め合い、あるいは補い合って、たえず変容する複雑な網の目を形づくる三つの型の禁止の働きがあります。頁10」</p>
<p><b>真理への意志<br />
</b>我々の社会では、人が語り、書き、記録する手続きの中に、語らせまいとする「禁止」の原理、「分離」と「拒絶」という排除の原理、そして、真実な言葉と虚偽の言葉とを分けるシステム（真理への意志）とが形成されてきた。特に最後の「真理への意志」は、出版社や図書館のシステム、かつて学者の団体（現在の研究所）などのよって支えられている。そのシステムの中で、学問上の知識が、それぞれの場所や人に割り当てられ、秩序を維持する基盤となっている。<br />
したがって、こうした「真理への意志」というシステムこそが、社会の中で、人々が織りなす言論に最も圧力をかけ、拘束の権力として機能するものだとする。</p>
<ul>
<li>価値逆転の原理：既存の伝統の枠内でしか物事を捉えられない状況を転倒させることであり、いわば「批判」の原理</li>
<li>非連続生の原理 ：あたかも現在の自体が、連綿と切断されることなく続いているかのごとく見なす思考法を破壊すること</li>
<li>特異性の原理：ある出来事を、既存の価値判断の中で処理しないこと。物事が常に言説の中でその時々に特異に設定されていくことを認めること</li>
<li>外在性の原理：話された言葉や記述された文章そのものだけで、その言葉や文章を生み出した思想や内面を推測しないこと。あくまで、文章や言葉を生み出した周囲の諸関係を探る。つまり外（歴史的現実）からその言葉が生み出される条件を探ること。（http://www.asahi-net.or.jp/~uv3k-kmgi/foucault.html）</li>
</ul>
<h2><span id="toc9">儀式化について</span></h2>
<p><span style="color: #008000;"><strong>　儀式化は「社会または社会の中にある様々な組織や集団が日常的で無意識的に繰り返される行動や癖」</strong></span>を意味するらしいです。</p>
<p style="padding-left: 30px;">ある社会や集団内の皆が行う行動であるため、「常識」であるとも考えられてしまいます。儀式は社会、組織、集団の結束性や統一性を維持するので自然だと思われ、集団内でもほとんど問われることがないらしいです。また、こうした<span style="color: #ff0000;"><strong>儀式（行動）とは異なる行動は排除</strong></span>されがちであるといいます。</p>
<p style="padding-left: 60px;">（解釈）これは言説が制度（ここでいえば会社や集団）によって強化され、知識（常識）といえるほど強まった状態を儀式化といってもいいのじゃないでしょうか。たとえば日本の社会では、年功序列が重視され、それが自然であると考えられていました。年功序列と異なるような行動が排除されるのもわかります。常識レベルにまで固定化されている、内部において批判することは難しいか、自然ではないという発想すら出てこないかもしれませんね。あるいは学校のいじめも、外部から指摘されるまでは自然であり、常識であると内部では思われていたかもしれません。</p>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #ff0000;"><strong>以前から伝達されてきた話が儀式的に繰り返されるから、それと異なる言説がろ過され、排除される可能性が高い</strong></span>。</p>
<h2><span id="toc10">狂気について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">フーコーが考察しているのは、狂気が西洋の歴史のなかでいかにして形成されてきたかです。狂気の意味付けと排除の歴史的仮定をフーコーは『狂気の歴史』で分析しています。</p>
<p style="padding-left: 60px;">狂気は太古の昔から存在しています。しかし、<span style="color: #ff0000;"><strong>狂気が人間の精神の病として意味づけられるようになったのは、近代の初頭、古典主義時代</strong></span>においてです。</p>
<p style="padding-left: 90px;">なぜこの時期にこのような意味付けがなされたかというと、<strong>近代社会の根幹の理念である理性の概念が形成され、西洋の思想と社会のシステムに根を下ろした時期であったから</strong>です。<strong>狂気は</strong>理性ではないもの、つまり<strong>非理性として差異化</strong>されてしまいました。そして理性的ではない、狂人は人間ではないものとして排除されるようになりました。治療の対象となっていくのです。ちなみに前近代において狂人は聖なる言葉を聞くものとしての意味付けでした。</p>
<h2><span id="toc11">考古学について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">フーコーの<span style="color: #008000;"><strong>考古学はニーチェの系譜学に連なるもの</strong></span>だそうです。継承しているといえますね。</p>
<p style="padding-left: 60px;">ニーチェの系譜学とは、真理や道徳のように絶対化されているものがいかに社会的に形成されたかを歴史的にたどることでその存立（そんりつ、存在し、成り立っていくこと）の構造を示し、それが歴史の産物にほかならないことをあらわにするものです。ニーチェの場合、そのあらわにする対象はキリスト教の道徳でした。</p>
<p style="padding-left: 30px;">フーコーは何を対象にしたかというと、<strong>近代西欧社会の根幹をなすと考えられた主体の思想であり、権力</strong>です。</p>
<h2><span id="toc12">エピスメーデーについて</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">制度のところでも述べましたが、いわゆる知識体制ことです。<span style="color: #008000;"><strong>諸言説の秩序が成り立つ空間</strong></span>をフーコーはエピスメーデーと述べました。「言葉と物」で詳しく書かれています。</p>
<p style="padding-left: 60px;">知識、いわゆる「知」がどのように決定されるか、ということが問題意識でしょうね。知は最初に多様な言説として現れます。そして<span style="color: #ff0000;"><strong>言説は相互作用し、諸言説の空間を作り出します。この空間において、諸言説は編成・再編成され、その時代の知の秩序を決定する</strong></span>そうです。</p>
<h2 class="heading1" style="padding-left: 30px;"><span id="toc13">類似と差異について</span></h2>
<p style="padding-left: 60px;">フーコーによれば、<strong>17世紀、古典主義の時代に入るとエピスメーデーにおける構造変動</strong>が生じたそうです。<span style="color: #ff0000;"><strong>類似に変わって同一性と差異性がエピスメーデーを決定す</strong></span>るようになったそうです。</p>
<p style="padding-left: 60px;">　いわゆる近代合理主義ですね。博物学、一般文法、経済学などに顕著だそうです。理性的な分析方法ですね。</p>
<h2><span id="toc14">権力について</span></h2>
<h2><span id="toc15">伝統的な権力観</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">１：国家権力を権力の中心として重視する</p>
<p style="padding-left: 60px;">-&gt;社会システムの制度として権力を考える</p>
<p style="padding-left: 30px;">２：権力を所有・移転しうるものと考える</p>
<p style="padding-left: 60px;">-&gt;たとえばマルクス主義の観点では支配する階級が権力を独占している</p>
<h2><span id="toc16">フーコーによる権力観</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #008000;"><strong>権力とは、日常的な相互作用のネットワークにおいて作用するもの</strong></span>。</p>
<p style="padding-left: 60px;">権力はとりたてて誰かの権力者が行使するものではない。権力は社会の秩序が成立する仕方であるといえる。<strong><span style="color: #ff0000;">人間関係のあるところに権力関係がある</span></strong>といえる。上から下へ暴力的に働くような、特定の人物や組織がもつ強制的な力ではなく、<span style="text-decoration: underline;"><strong>権力は下から自発的にやってくる</strong></span>とフーコーは指摘している。</p>
<p style="padding-left: 90px;">学校という権力空間：学校の中では成績に従って生徒の分類が行われ、それがモチベーションとなって生徒たちはステップアップを目指して努力する。</p>
<p style="padding-left: 120px;">（解釈）成績を上げろという先生から生徒への強制的な力というよりも、生徒が自発的に成績を上げている。</p>
<p style="padding-left: 150px;">これを理解するためには権力についてもうすこし説明したほうがいいかもしれません（下へ続く）。</p>
<p style="padding-left: 60px;">フーコーによれば権力とは法や抑圧という&#8221;比較的可視的な関係&#8221;ではなく、<strong>&#8220;身体の深部にまで達する<span style="color: #ff0000;">不可視的</span>な関係&#8221;</strong>らしいです。たしかに教師が強制的に生徒に勉強をするように命令することは<u>目に見えま</u><span style="text-decoration: underline;">す</span>ね（可視的）。しかし身体の深部にまで達する不可視的な関係、すなわち<span style="color: #ff0000;"><strong>コミュニケーションの場を形成する無数の力の関係</strong></span>は目に見えません。</p>
<p style="padding-left: 60px;">なぜ目に見えないかというと、<span style="text-decoration: underline;"><span style="color: #ff00ff;"><strong>単一の中心から発する王権や国家の権力とは異なり、無数の点を出発点とし、コミュニケーションというゲームにおいて行使されるから</strong></span></span>です。</p>
<p style="padding-left: 90px;">（解釈続き）教師という単一の、単独の主体から生徒に対する権力は目に見えます。しかし、学内の生徒同士の、あるいは生徒と先生の、あるいは生徒と親の、生徒と学外の生徒の、無数の人間同士の関係において、無数の点を出発点としてコミュニケーションが行われるから目に見えないといえます。誰が誰に対して命令しているのかがわからないのです。ネット上の何気ない会話から勉強しようと言う自発的な試みを受けたのかもしれないし、マスメディアを通して影響を受けたのかもしれないし、親かもしれないし、わかりません。無数の点であるといえます。相互作用的な力の関係であるといえます。</p>
<p style="padding-left: 60px;">権力の古典的理解は「抑圧・禁止」を核心としていましたが、フーコーの権力は「下からくる権力」です。こうしたミクロの<strong>権力は社会関係を生み出す</strong>といいます。こうした権力は生産的な役割を持ちます。<strong>権力は社会的な外部にあるものではなく、内在</strong>するものです。支配/被支配関係の二項対立などで単純化することはできないのです。また、権力は権力行使の意図を伴うとは限らないといいます。フーコーの言う<strong>権力とは社会システムの相互作用を可能にする力の相互関係である</strong>からです。<strong>権力は人々の日常の場面で運動している</strong>といえますね。</p>
<h2><span id="toc17">分析方法について</span></h2>
<p>フーコーは<strong>言説を分析</strong>します。つまり<strong>人々が語ったことを分析の対象</strong>としています。通常の社会学的分析は社会構造や社会的行為を対象としています。</p>
<p>通常の観点では、まず主体があって、その自我の思考を言語的表現として語ると考えるそうです。フーコーの場合、多様な言語的ネットワークの中から主体の自己が浮かび上がってくるというものです。</p>
<p style="padding-left: 30px;">社会をコミュニケーションのシステムとして考える社会システム論や社会を意味による構成と考える現象学的社会学やエスノメソドロジーと共通した考え方。</p>
<h2><span id="toc18">監獄-規律(dicipline)について</span></h2>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん2.jpeg"><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-328" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん2.jpeg" alt="パノプティコンさん2" width="274" height="184" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-medium wp-image-327" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん-241x300.jpg" alt="パノプティコンさん" width="241" height="300" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん-241x300.jpg 241w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん-822x1024.jpg 822w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/パノプティコンさん.jpg 1000w" sizes="(max-width: 241px) 100vw, 241px" /></a></p>
<p style="padding-left: 30px;">いわゆるパノプティコンのことです。パノプティコンはベンサムの考案した一望監視方式の管理システムです。中央に監視所があり、監視される者たちはその周囲に、お互いに孤立した状態で配置されます。監視される者はつねに監視から逃れることはできません、このシステムにおいて、中央に存在する監視人が実際につねに監視している必要はないみたいですね。監視されていないあいだも、まなざしを感じます。</p>
<p>功利主義者であったベンサムは、「社会の幸福の極大化を見込むには、犯罪者や貧困者層の幸福を底上げすることが肝要である」と考えていた。ベンサムの功利主義的な姿勢はパノプティコンにも反映され、ベンサムの考える限りにおいて、運営の経済性と収容者の福祉が最大限に両立されている。ベンサムは「犯罪者を恒常的な監視下におけば、彼らに生産的労働習慣を身につけさせられる」と主張していた。(wiki)</p>
<p style="padding-left: 30px;">このパノプティコンという監獄の機能は主に「<strong><span style="color: #008000;">規律＝訓練（dicipline）</span></strong>」です。フーコーによれば<span style="color: #339966;"><strong>規律とは、身体細部への権力の行使</strong></span>です。フーコーのいうところの権力とは、身体の深部にまで達する不可視の権力でした。どのように身体に権力が達していくのかをみていきましょう。</p>
<p style="padding-left: 60px;">フーコーによれば17世紀の兵士の身体の理想像は遠くから見分けがつくといういう意味の身体であったといいます。つまり、兵士の身体は力と勇敢さの紋章だったのです。<strong>身体は生身の体であるよりは記号的秩序に属する身体</strong>だったといいます。</p>
<p style="padding-left: 90px;">（解釈）身体は規律の対象ではなかったということがいいたいのだと思います。実際に強いかどうかという機能よりも、肉体の強さが勇敢さの象徴であり、記号であることが重要だったのだと思います。身体を機械として扱うよりも、記号として扱っていたといえますね。スーパーマンのマントはないほうが強いらしいですが、マントがあったほうがかっこよさの象徴として認識できますよね。もしスーパーマンの身体を機械として、規律される対象として扱ったのならば、マントを剥がしていたと思います。</p>
<p style="padding-left: 60px;">18世紀の後半になって、<strong><span style="color: #ff0000;">身体は権力の対象として発見</span></strong>されました。兵士の身体は機械として見られるようになったのです。<span style="color: #ff0000;"><strong>身体は細部にわたって管理され、訓練されるものとなりました。このような身体の細部への権力の行使を規律といいます</strong></span>。そしてこうした規律は、<span style="color: #ff6600;"><strong><span style="text-decoration: underline;">産業社会</span>の身体を形成する権力の装置で</strong></span>した。さきほどの兵士の勇敢さの象徴のように、<strong><span style="color: #ff00ff;">伝統的な権力は自らを誇示する演劇的装置を欠かさなかったのですが、近代的な権力は規律＝訓練の権力は匿名性をもつ権力</span></strong>です。</p>
<p style="padding-left: 90px;">（解釈）産業社会の身体を形成する権力のイメージとしては、個人的に織機が強いです。</p>
<p style="padding-left: 90px;"><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/織機.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="alignnone size-medium wp-image-329" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/織機-300x190.jpg" alt="織機" width="300" height="190" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/織機-300x190.jpg 300w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2015/12/織機.jpg 650w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p style="padding-left: 90px;">それとマルクスの資本論ですね。</p>
<blockquote>
<p style="padding-left: 90px;">こうして彼らは、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるために鞭打たれ、焼き印を押され、拷問されたのである。一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力の他には売るものがないという人間が現れることだけでは、まだ充分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにするだけでも、まだ充分ではない。資本主義的生産が進むに連れて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働階級が発展してくる。　『資本論』第一巻第二十四章第三節　大月版第二三巻b,九六三頁</p>
</blockquote>
<p style="padding-left: 90px;">人間が資本主義が発展するにつれて、規律（訓練）される対象になっていくことを如実に表しているような気がします。まさに人間が機械として扱われています。もはや記号的秩序に属するとは言い難くなっています。</p>
<p style="padding-left: 60px;">このように、規律は人間の体のレベルで働きかけるものであり、身体の解剖学-政治学というべき権力であることがわかります。監獄以外にも、工場や学校や政治、病院などにもこうした身体のレベルで働きかける権力があります。フーコーは規律の権力の代表的か監視装置として、パノプティコンを提示したのです。</p>
<p style="padding-left: 60px;">こうした監視装置の特徴である&#8221;社会システムをコントロールするための技術&#8221;は国家の権力と結びつくようになり、近代都市のような監視の網の目による監禁都市が形成されるようになったそうです。</p>
<h2><span id="toc19">セクシュアリティについて</span></h2>
<p>いわゆる『性の歴史』に書かれていることですね。<strong>セクシュアリティと権力の歴史に関する研究</strong>です。<span style="color: #008000;"><strong>セクシュアリティとは性</strong></span>のことです。</p>
<p style="padding-left: 30px;">先ほど、規律の権力について話しました。規律の権力とは、身体を管理し監禁する権力のことです。フーコーはもう一つの権力が形成されてきたと述べます。それが、性の歴史においての権力です。この権力をフーコーは「<strong>人口の生ー政治学</strong>」と呼んでいます。規律の権力と合わせて「<strong>生-権力</strong>」というそうです。</p>
<h2><span id="toc20">「人口の生ー政治学」とはなにか</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;">人口の生ー政治学の権力と規律の権力を合わせて&#8221;生&#8221;の権力ですね。人口の生ー政治学の権力は、18世紀中頃に形成されたといいます。<span style="color: #008000;"><strong>繁殖、誕生、健康、死亡率など種・生物としての身体に関心の焦点を合わせ、それを調整し管理する権力</strong></span>だそうです。</p>
<h2><span id="toc21">生-権力とセクシュアリティ(性)について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #008000;"><strong>生-権力とは、規律の権力と人口の生ー政治学の権力を組み合わせた権力を意味</strong></span>します。</p>
<p style="padding-left: 60px;">生-権力は<span style="text-decoration: underline;"><strong>資本主義の発達にとって不可欠の要因</strong></span>だったそうです。そしてこの<span style="color: #ff0000;"><strong>生-権力にとってもっとも重要な対象となったのが性</strong></span>であるといいます。</p>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #ff0000;"><strong>性は生に基づく政治的テクノロジーの２つの秩序にとって重要な意味をもつ</strong></span>。</p>
<p style="padding-left: 60px;">１：身体の規律に密接に関係する</p>
<p style="padding-left: 60px;">２：人口に関係する</p>
<p style="padding-left: 90px;">重要な意味をもつゆえに、<span style="color: #ff0000;"><strong>性は規律と調整の権力関係に組み込まれる</strong></span>ことになる。</p>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #ff0000;"><strong>16世紀以来人々はより性について語るようになった</strong></span>。</p>
<p style="padding-left: 60px;"><strong>常識的な見解</strong>としては、近代のキリスト教社会において性は抑圧されており、<strong>性について語ることはタブーであった</strong>そうです。<strong>しかし実際にはより性について語るようになっていった</strong>といいます。なぜかというと、<span style="color: #ff0000;"><strong>性の言説化を普段に煽動するメカニズムが存在していた</strong></span>からだといいます。煽動とは、人をその気にさせて行動を起こすように刺激を与えることですね。性のことについて発言させるような仕組みがあったということです。その仕組みとは何かというと、<strong>キリスト教の告白</strong>だそうです。<span style="text-decoration: underline;"><strong>自己の性について隠さずにすべてを告白することが求められ、性の言説が氾濫</strong></span>したそうです。<span style="color: #ff00ff;"><strong>性に関する言説の空間において生-権力が行使され、18世紀には性は公共のものとなり、行政の管理の対象となった</strong></span>そうです。</p>
<p style="padding-left: 60px;"><span style="color: #ff00ff;"><strong>性を管理する科学や、教育学、医学。こうした権力装置によって、人間の服従が進行</strong></span>しました。</p>
<h2><span id="toc22">真理について</span></h2>
<p style="padding-left: 30px;"><span style="color: #008000;"><strong>真理とは、ある社会や時代に認可された知識</strong></span>を意味します。</p>
<p style="padding-left: 60px;">フーコーによれば、真理は知識のように<strong>構築されるもの</strong>です。人間は権力を持つものが話すものを真理として捉えます<strong>。純粋な真理へのあこがれは真理への意志</strong>と呼ばれます。<span style="color: #ff0000;"><strong>言説の機能は真理を探す機能</strong></span>でもあります。<span style="color: #ff00ff;"><strong>言説は、認可された真理を特定し、正当化すると同時に、真理として特定されていないことを虚偽として扱い、禁止（分離・拒絶・排除）します</strong></span>。</p>
<p style="padding-left: 90px;">真理と認定・特定されるための方法論としては、既存の言説制度によって定められることが挙げられます。たとえば学問、教育制度、メディアなどによって定められたことでなければ真理としてみなされません。真理を発信するメディアも既存の言説や知識に定められます。eg教科書問題</p>
<h2><span id="toc23">参考文献について</span></h2>
<p>参考文献<br />
『狂気の歴史』田村淑訳　新潮社　1977<br />
（「狂気と非理性ー古典主義時代における狂気の歴史」）<br />
『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳 みすず書房　1969<br />
『言葉と物ー人間諸科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳　新潮社　1974<br />
『知の考古学』　中村雄二郎訳、河出書房新社</p>
<p>『性の歴史』</p>
<p>『監獄の誕生』<br />
等々</p>
<p>「クロニクル社会学」有斐閣アルマ</p>
<p>「本当に分かる現代思想」岡本裕一郎(日本実業出版社)</p>
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