【基礎社会学第五回】ゲオルク・ジンメルの「形式社会学」とはなにか

ゲオルク・ジンメルとは

こんにちは。社会学を学ぼうシリーズの第5回目です。前回はウェーバーでしたが、ウェーバーは長くなりそうなので間に他の社会学者をはさんでいきます。次回もジンメルを扱う予定です。間にウェーバーが入るかもしれません。

プロフィール

ゲオルク・ジンメル(1858~1918)はドイツの社会学者。ベルリンの中心街に裕福なユダヤ商人の7人姉妹の末っ子として生まれる。

ベルリン大学の哲学部に進学し、23歳で哲学博士の学位を取得する。その4年後にベルリン大学の哲学部の私講師になり、その5年後に院外教授となる。哲学正教授となったのは56歳のときであり、ベルリン大学ではなくシュトラスブルク大学であった。学問的には評価されながらも、ベルリン大学の正教授になれなかった理由はジンメルがユダヤ人だったこと、宗教的見解が相対主義的だったことが原因という説がある*6

1909年にM・ウェーバーやF・テンニースらと共にドイツ社会学会を創設した。ジンメルの社会学に関する主な代表作は『社会文化論』(1890)、『社会学』(1908)、『社会学の根本問題』(1917)。

ジンメルには「個人と社会の葛藤(かっとう)」という問題関心があった*7。当時のドイツにおいてユダヤ人は「異邦人(よそもの)」であり、いかにして社会にとって異質なものが社会との関係を築くのかという視点が重要になる。

今回の抑えておきたいキーワード及び要点

  1. 「形式社会学」:社会を個人間の心的相互作用としてとらえ、その諸形式を対象とする学問。
  2. 「心的相互作用」:信頼関係、闘争関係、支配関係など、個人間に生じる人間関係の形式
  3. 「心的相互作用の形式と内容」:例:経済や宗教は内容。支配関係や利益関係は形式。
  4. 「社会化と個人化」:近代以降、社会はより分化し、社会化と個人化が衝突しあい、緊張関係にある。
  5. 「方法論的関係主義」:社会とは心的相互作用(個人と個人の人間関係)の集まりであるという立場。

動画での説明

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形式社会学とはなにか?

形式社会学(純粋社会学)とは、意味

POINT

形式社会学(けいしきしゃかいがく,formale Soziologie[独])人間同士の心的な相互作用の形式を社会学の対象とする立場*1。社会化の形式を研究対象とすべきであるとする社会学上の立場であり、ゲオルク・ジンメルが創始者*2。社会的なものを、政治・経済・宗教などの内容と、支配と服従、闘争と競争、模倣と分業などの結合形式とに分け、後者に見られる人々の心的な相互作用を研究の対象とする社会学*2

ここに、社会を個人間の心的相互作用として捉え、その諸形式を対象とするひとつの独立の学が宣言されることになった。それは、心的相互作用こそが社会を社会たらしめているという意味で、社会の諸形式を対象とする学であもある。ジンメルはこれを、形式社会学、あるいは純粋社会学と名付けた。

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、171-172P

 

方法論的関係主義:他の社会学者の考えとの違いについて

【社会学を学ぶ】エミール・デュルケームの「自殺論」、「聖と俗」、「機能主義」とはなにか?意味

※上記の記事の内容を前提に話します。

方法論的関係主義とは、意味
POINT

方法論的関係主義(ほうほうろんてきかんけいしゅぎ)社会とは心的相互作用(個人と個人の人間関係)の集まりであるという立場のこと*9

 

社会唯名論実在するのは個人であり、社会とは便宜上の名前に過ぎないという立場
社会実在論個人を超えた社会が実在していることを前提に社会を考えていこうとする考え。デュルケームなどがこの立場。
綜合社会学

A.コントやH.スペンサーらの初期の社会学の考えで、経済、政治、法などといった社会諸領域の綜合としての学問。

※綜合(そうごう):さまざまのものを一つに合わせて、まとめ上げること。社会に関する学問全てをまとめあげることを社会学の目的とした。

ジンメルの考え

「実在しているのは個人のみ」という考えでも、「個人を超えた社会が実在している」という考えでもない。

さまざまな社会諸領域の綜合としての学問という捉え方でもない(ジンメルは「諸科学の全体をひとつの壺の中に投げ入れて、これに社会学という新しいレッテルをはるだけではなんにもならない」と『社会学の根本問題』(1917)で主張した)。

・ジンメルによれば、社会実在論も「綜合社会学」と変わりないという。デュルケームの「社会的事実」のように、あらゆる個人の存在と行為が社会によって規定されていると考えると、人間に関する科学はすべて社会に関する科学ということになる。これでは社会学の専門性を見失う。

・社会唯名論(社会は実在しないという意味の)への批判

「個人のみが実在しており社会は非実在であるとする立場は、我々はいかなる場合にも与えられたものを形象にまとめあげて認識するという事情を見落としている」*4

「形象(けいしょう,image)」とは感覚でとらえたものや心に浮かぶ観念などを具象化することです。いわゆるイメージです。たとえば「水」のイメージを我々はすることができますが、今日飲んだ水と昨日飲んだ水は同じ水ではありません。個々のそれぞれの水から、水というイメージでまとめあげる能力が我々にはあります。鼻が高いという具体的な感覚を「かっこいい」というイメージで認識する人もいるかも知れません。我々はイメージとして認識することがよくあります。

こうしたそれぞれの水を個人として、まとめあげられたイメージを社会とすれば、我々はどちらの見方もとることができます。接近すれば個人が見えてくるし、離れれば社会が見えてくるのです。ジンメルによれば、社会唯名論と社会実在論の違いは「距離のとり方の相違」に過ぎず、「見地」にすぎないらしいです*5

社会から出発して社会を認識するのか、個人から出発して社会を認識するのかという違いだということです。

ジンメルは新しい社会への距離のとり方として、個々の要素の間の「心的相互作用(人間関係の形式)」から出発するという認識法を考え出しました。これが「形式社会学」だということです。

※ジンメルの方法論的関係主義はウェーバーの方法論的個人主義とともに、社会唯名論に分類されることがあります。というより社会唯名論の中で方法論的個人主義と方法論的関係主義に分かれるといった感じでしょうか。

 

「ジンメルの用いた建築様式の例で言えば、明らかな存在としてのゴシック様式なるものはどこにもあなく、あるのはただ個々の建築物だけであっても、われわれは個々の物からひとつの統一体としてのゴシック様式を論じることができる。同じように、個人も、そこで還元が終了する最終的な要素ではなく、それ自体ひとつの構成体なのである]

「クロニクル社会学」,170P

 

心的相互作用とは、意味

POINT

心的相互作用(しんてきそうごさよう)信頼関係、闘争関係など、個人間に生じる人間関係の形式*1。この人間関係の形式の集まりが社会を形成しているとジンメルは考え、この形式を研究対象とするものが「形式社会学」といわれる。

 

社会学をひとつの独立の学とするのは、社会学固有の研究対象である。ではそれはいったい何か。ジンメルによれば、それは人と人との「心的相互作用の形式」である。

人間は、社交、営利、援助、愛、攻撃、防御などといったさまざまな目的や衝動を原動力として互いに作用しあっており、またそのことに規定されて生きている。社会という統一体は、まさにこのような個人要素間の心的相互作用として捉えられるのである。

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、169P

心的(しんてき)とは一般に、「心に関するさま」であり、相互作用とは一般的に、「二つのものが相互に働きかけ影響を与え合う、その作用」のことです。たとえば受験勉強をしていて、テストの点数を友達と競い合っているとします。A君の頑張りがB君に影響を与え、B君の頑張りもまたAくんに影響を与えているとします。このような場合に、相互作用が起きていると一般的に表現できます。

 

 

相互作用は人間と人間の間に起こる

さて心的な相互作用とは具体的にどういうことでしょうか。よく精神と物質が対立するものとして区別されるように、心と物も同じように区別されることがあります。たとえば磁力関係や電力関係、重力関係などは心的相互作用の例ではありません。比喩的にいえばもしかしたらそうかもしれませんが、物と物に起こる相互作用ではなく、基本的には人と人の間に起こる相互作用を意味しています。

心的相互作用の例をあげていきましょう。心的相互作用のなかでもとりわけ「形式」について扱うということが重要です。その具体的な例が「関係の形式」というわけです。社会とは人間関係の形式(心的相互作用)の集まりだからです。理系的に言えば、水は水素と酸素の関係によってできているというところでしょうか。水自体は内容で、水素と酸素の結合のあり方が形式です。今までは水ばかり分析されていましたが、重要なのは水を構成してる水素と酸素の相互作用だということです。たとえば都市では電車等でお互いに無関心な状態がよく起こります。これ自体は「内容」です。この無関心はどういう人間関係の形式によって起こっているか?という視点で分析することが形式社会学なわけです。

  1. 上下関係
  2. 競争関係
  3. 秘密共有関係
  4. 信頼関係
  5. 分業関係
  6. 模倣関係(いわゆる流行)
  7. 競争関係

ジンメルは社会において「目的や内容」は違っても「形式」はすべての社会に同じように表れるといいました*1。たしかに「信頼関係」のような関係はどの社会にもあるかもしれません。抽象化していけばいくほど当てはまりやすくなります。教師が子供をしかるのも、親が子供をしかるのも「支配と服従」という関係という意味では同じです。しかしそれぞれ個別具体的に目的や内容は違いますよね。教師は面倒だから単に問題を起こしてほしくないと思って服従させるかもしれませんし、親は品行方正になってほしいと思って服従させるかもしれません。

コラム:素粒子の相互作用について学ぶ

出典

相互作用は物理学で、たとえば電磁力や重力の作用の説明として使われることがあります。素粒子物理学という分野では、すべての現象は原理的には「物質の最小の構成単位」の間の「最小限の相互作用」の組みあわせで説明できる、といわれることもあるそうです*3。素粒子は現在確認されている最小の物質構成要素のことです。原子の中には原子核と電子があり、原子核は陽子や中性子からできています。さらに原子核にはハドロンというたくさんの物質があるそうです。さらにこのハドロンはクォークという物質からできているそうです。

そしてこのクォークがいわゆる素粒子というわけです。素粒子同士の相互作用でハドロンの性質が決まります。デモクリトスかだれかが原子論をとなえましたが、もし現代に生きていれば素粒子論といったかもしません。

  1. 電磁相互作用 ⇒ 電気、磁気、光、化学反応、生命?
  2. 強い相互作用 ⇒ 核力、原子力
  3. 弱い相互作用 ⇒ 原子核の放射性崩壊〜素粒子の化学反応
  4. 重力相互作用 ⇒ 重力

素粒子同士の相互作用はこの4つの組み合わせからなっているようです。上から4つは量子論によって説明されているそうです。化学反応なども相互作用によって説明できるそうです。

心的相互作用の内容と形式の区別

彼はまず、心的相互作用の内容と形式とを区別し、個々の内容のとる形式こそが社会学固有の対象であるとした。個々具体的な内容に関しては、すでにそれぞれの社会諸科学が対応している。社会学に独自の課題があるとすれば、それは相互作用から分離され抽象化された諸形式を研究することにほかならないというのである。

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、171P

こういうものは具体的に考えていかないと理解しにくいですよね。

ジンメルは「社会的なもの」を「内容」と「形式」にわけました。内容の具体例は政治・経済・宗教などです。その意味で、政治学、経済学、宗教学などの社会諸科学が対応しているということです。社会学が政治学の内容、経済学の内容、宗教学の内容を学ぶものではない、ということです。あるいはコントやスペンサーのように、政治学、経済学、宗教学、法学等々を綜合(そうごう)するという意味の社会学でもないわけです。

あくまで社会学の対象は「形式」だということです。では形式とは何かというと、それは心的相互作用の形式であり、具体的にいえば「支配と服従」などです。闘争徒競走、模倣と分業などの「結合形式」を社会学は対象とするべきだということです。

心的相互作用は、「的」という言葉があるように、物ではなく人間を対象としています。人間はさまざまな目的をもって、他人と相互作用をしあっています。たとえば私がブログを書くことで、だれかに作用するかもしれません。私の方もまた、誰かに見られているというこで作用を受けるかもしれません。お互いに作用を受け合うという意味で「相互」なのです。

心的相互作用の具体例:宗教の内容と形式
宗教学者の研究例

教団や信者の生活を観察し、独特の生活態度を宗教上の信仰の「内容」によって説明する。

例:キリスト教信者は自殺が禁じられているから、命を尊ぶような生活を送っている

※ジンメルの例ではなく、私が簡易的に考えたものです

他の例:経済学者は経済構造や予算に注目する。神学者は教義の内容に注目する。法学者は法律の内容に注目する。

形式社会学者の研究例

命を尊ぶという行為はどのような心的相互作用によって、どのような関係の形式によって生じているかを考える。

例:命を尊ぶというような精神は、支配と服従の関係の形式によって生じている

支配者は被支配者に革命を起こされるわけにはいけないので、命を尊ばせることは自分の命を保持するための手段であるとも考えられる。被支配者は、服従することによって集団に属することができ、命を保持することができるかもしれない。支配と服従の関係は宗教(内容)以外にも見られる。たとえば家庭内、政治内、商売などにおいてもみられる。自殺を規律によって防ぐことで、国としての力を保持する目的があるかもしれない。命を尊ばせるということは、服従させるということの性質もあるかもしれない

※ジンメルの例ではなく、私が簡易的に考えたものです

 

内容が「具体的なもの」だとすれば、形式は「抽象的なもの」です。その意味で、社会学の課題は相互作用から分離され抽象化された諸形式を研究することになりますね。キリスト教とはなにか?というよりキリスト教はどのような人間関係を形成しているか?どのような関係の形式があるのか?という分析になりますね。

ちょうどM・ウェーバーを学んでいましたが、M・ウェーバーでいうところの「理念型」と似ているかもしれません。形式「そのもの」は実在せず、ある種のユートピアだということです。他に一切の感情がなく、ひたすら支配と服従のみというような人間関係は実在しません。他にもいろいろな相互作用が存在しているはずです。支配と服従の中に信頼関係があったり、利害関係があったり、愛の関係があるかもしれません。関係を思考実験によって”孤立させ”取り出す、という意味では理念型に近いですよね。そういう意味では科学に近いのです。科学も理想的な状況を実験室で作り、ある種孤立させて変化を観察して法則を導き出すからです。自然に真空状態はありませんが、真空状態をあえてつくり、真空状態ではどうなるのか?と観察したりしますよね。不純物を取り除いて特定の要素だけを関連付ける作業です。

「形式の豊かさとは、形式が無限の内容を受け入れることができるということであり、内容の豊かさとは、内容が無限の形式をひきとることができるということだ。2つの無限が出会うところに、有限なる形象が生まれる──だからして、形式を与えられた内容とみなされるあらゆる存在の周囲には、2つの無限がただよい、それぞれの存在を無限なものの象徴にするのである(ゲオルク・ジンメル『断想』1923)。」

どのようなときに心的相互作用は見えてくるのか?:相互作用は「糸」であり、「違い」から見えてくる

人間と人間が挨拶を交わしたり、道ですれ違うときにまなざしを交わしたり、またまなざしを逸らしたりするとき、そこに社会が存在するのである。

ジンメルはそのような相互作用を糸にたとえている。ジンメルにとって、社会とは、現れては消えていくそのような無数の糸によって織られた、たえず形も模様も変えている織物のようなものであった。このようなジンメルの考え方は、もし私たちが社会を見ようとするなら、目を向けるべき場所は人間と人間の「間」であることを教えている。

だが、人間と人間の間の糸はふつうは目に見えない。人間と人間の間に目をこらしても、なにもない空間があるだけである。しかし、この不可視の意図が突然目に見えるようになるときがある。それは何か普段と違うことが起ったとき、たとえばこちらが「おはよう」と言ったのに、相手が返事をしなかったとき、または道ですれ違うとき、相手がこちらをじっと凝視したままであるときなどである。

「社会学」、有斐閣、19P

たとえば思考実験として自分以外の家庭の情報を一切知ることができないとします。もし両親に肉体的な体罰などによる教育を受けてきた場合、他の教育を知らないので「これが普通である」と思ってしまいます。普通であるということは、これが「普通ではない教育」である、「良くない教育」であるということが意識にのぼりにくいわけです。

もし友達との複数人にわたる会話で、「そんなこと私の家ではされないよ」という情報が入ると、意識にのぼるわけです。もちろん社会的に暴力はいけないと学校で教わった、それゆえにこれは普通ではないと気づくかもしれません。しかしそうした場合も、自分の状況との「違い」を知ることで意識にのぼるわけです。こうした「違い」を探るためにM・ウェーバーなどは徹底的に”他の”国の文化や”違う”時代の文化と比較することで「理念型」を見つけ出し、「実在」と「理念型」を見比べて社会を分析しようとしたわけです。同じようにジンメルも形式を見つけ、社会を分析しようとしたわけです。

社会化と個人化

社会化とは、意味
POINT

社会化(しゃかいか)ジンメルにとって、社会とは確固とした実体ではなく、たえず形成されるプロセスのうちにあるものであり、そのようなプロセスとしての性格を強調するためにジンメルは社会化(社会形成)という仮定を表す言葉を用いた*8

心的相互作用は「糸」であり、社会はその糸で織られる「織物」ということになります。糸で織物ができていくプロセスを「社会化」と呼ぶということですね。

重要なのは社会は確固とした実体ではなく、たえず形成されるプロセスのうちにあるということです。デュルケームは社会を実在するものとみなしましたが、同時に社会そのものは目で見えないことを認めていました。

社会は水や石、人間のように目で直接見ることができるような実体ではなく、絶えず形成されていくプロセスのうちにある「なにか」だということです。ジンメルの言葉を使えば、社会とは心的相互作用の形式の集まりです。しかし、糸は紡がれたと思えば離れるといったように流動的なものなので、プロセスとしての社会を強調したということですね。

個人とは、意味
POINT

個人(こじん)「個人は相互行為という糸が交差するところにできる『結び目』である。ジンメルによれば、個人もまた、確固とした実体というより、たえず個人になる個人化(個人形成)のプロセスのうちにある」*8

個人とは社会的な糸がたがいに結びあう場所にすぎず、人格とはこの結合の生じる特別な様式にほかならない。

(ゲオルク・ジンメル、『社会学』(上)、居安正訳、白水社、12P、1908年 訳は1994年)

心的相互作用は糸、社会は織物、そして個人は結び目らしいです。ジンメルにとって個人もまた実体というより、たえず個人になろうとする個人化のプロセスのうちにあるそうです。社会化と対応していますね。社会唯名論では個人を確固たる実体とし、社会実在論では社会を確固たる実体として強調していますが、ジンメルにいわせれば両方ともプロセスのうちにあるもので、確固たる実体はないということです。

それら人格を構成する諸要素の多くがいわばある焦点においてたがいに出会い相互に結びつくことによって、はじめてそれらがある人格を形成し、この人格がこんどは逆にそれぞれの特徴に反作用して、それらをある人格的・主観的なものとして特徴づける。かれかあれかあれかであるということではなく、かれがこれでもありあれでもあるということが、人間を代替不可能な人格にする。

ゲオルク・ジンメル、『貨幣の哲学』、居安正訳、白水社、316P、1900年 訳は1999年

人格も同様に実体ではなく、人格を構成する要素の集まりです。あらゆる要素が相互に結びつき、人格が形成され、さらにそこからそれぞれの要素に反作用して、人格が構成されるそうです。ただの諸要素の集まりではなく、相互作用によって複雑に結びつき、人格を形成するゆえに代替不可能な人格になるということです。

コラム:個人とは・・・?

一般的な個人の意味は「国家や社会、また、ある集団に対して、それを構成する個々の人」もしくは「 所属する団体や地位などとは無関係な立場に立った人間としての一人(両方とも「小学館」より引用)」です。ジンメルの用語で個人は「結び目」であり、社会は「織物」であり、心的相互行為は「糸」です。つなぎ目は糸がなければ存在できないため、個人は心的相互行為より先にあります。

ある社会の一員になることも、ある会社の一員から離れることも、両方とも社会を前提にしています。人間が産まれてきた瞬間から、両親と赤ん坊は糸でつながっています。つまり心的相互行為を形成しているのであり、社会を構成します。そして家族と家族同士がさらに糸を生み出し、村社会を形成し、さらにその村社会同士が糸を生み出し、国になるのかもしれません。いずれにせよ、個人であるためには社会を前提にするのだと思います。小さい単位で言えば赤ん坊と両親の心的相互作用から、赤ん坊という個人が紡ぎ出されるということになります。心的相互作用、つまり「結ばれ方」は頻繁に変わるため、確固たる実体というより「変動する家庭」として個人を捉えたほうがいい、ということです。

「個人的な問題だから放っておいてくれ」という言い方は、個人的ではない問題があることを前提にしてますよね。2人以上にかかわる問題は個人的な問題とはいえなくなります。つまり社会的な問題になるわけです。ちなみにジンメルは二者関係と三者関係では質が異なることを主張しましたが、この項目は次回以降予定です。

個人化と社会化の衝突とその緊張関係

近代社会は「社会が分化した社会」とジンメルはいっています。昔のような個人が小さな集団に全面的に包み込まれているような社会では、個人と社会に大きな対立はなかったそうです。たとえば商人や職人が「個人であること」と、「町内のメンバーであること」はほとんど一致していたそうです。

しかし近代化が進み、社会が文化していきます。たとえば自宅は埼玉にあり、東京の会社に出勤するサラリーマンを想定してみてください。自分たちの地域の社会と、東京の社会の2つの社会を1人の個人が所属していることになります。自分の特定の部分だけが特定の社会に一致するような状況です。どの社会にも全面的には包み込まれていないような状態です。

ジンメルはこうした「文化した社会」によってますます個人が個性的になっていくと考えました。人格はさまざまな相互作用から生じるものなので、さまざまな社会に所属することでその相互作用もさらに複雑に絡み合っていくということです。

分化した近代的な社会では、相互行為は、社会化(社会形成)と個人化(個人形成)という2つの過程が互いに衝突しながら同時に進行する緊張に満ちた場となる。これが、社会学において相互行為が概念化の焦点となってきた理由であり、また概念化が行われる際の共通の構図である。

「社会学」、有斐閣、51P

たとえば人に優しくなれるような人間になりたいと考える自分がいるとします。しかし会社は優しくしていては利益を出せないから合法的騙しなさいというかもしれません。いらないものを買わせようとするかもしれません。会社というひとつの社会の利益と、自分はこうありたいという個人の利益が衝突するようになっていくのです。昔の農村ならもしかしたら、おまえのいうことは正しい、客も喜ぶような農作物を作っていこうとなるかもしれません。しかし近代社会では個人の利益よりも会社の利益を徹底的に優先し、一社員の気持ちをあまり優先しません。

ジンメルの言葉を使えば、会社は社員に「部分的機能」を要求するわけです。たとえば「利益を出せればいい」というのは部分的機能です。

社会は一つの全体、1つの有機的統一体であろうとし、各個人を単なる手足たらしめようとする。できれば、個人は、手足として果すべき特殊な役割に全力を傾注し、この役割を立派に果す人間になるように事故を改造せねばならない。

ところが、この役割に向かって、個人自身の持つ統一体への衝動及び全体性への衝動が反抗する。個人は社会全体の完成を助けるだけでなく、自己自身の完成を欲し、自己の全能力を発揮することを欲し、社会の利益が諸能力間の関係に如何なる変更を要求しようと意に介さない。

メンバーに向かって部分機能という一面性を要求する全体と、自ら一個の全体たらんと欲する部分との間の抗争は、原理的に解決し難いものである。

ゲオルク・ジンメル、『社会学の根本問題』、清水幾太郎訳、岩波文庫、94P、1917年 訳は1994年

出典リスト

  1. 「社会学用語図鑑」田中正人(編者)、香月耿孝史、プレジデント社、64-65P
  2. 形式社会学(コトバンク)
  3. 素粒子ってなんだっけ(URL)
  4. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、169P
  5. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、170P
  6. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、168P
  7. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、14P
  8. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、48P
  9. 「社会学用語図鑑」田中正人(編者)、香月耿孝史、プレジデント社、62-63P

参考文献・おすすめ文献

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

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クロニクル社会学

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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