【基礎社会学第十一回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (前編)

Contents

はじめに

・『貨幣の哲学』の理解を目的としていますが、一気に扱うのは難しいのでいくつかわけます。今回は「貨幣とはなにか」にしぼります。次回は「貨幣がもたらしたもの」を扱っていこうと思います。

・この記事は『貨幣の哲学』の要約を目指すものではありません。個人的に面白いと思った物をピックアップしているものであり、内容も『貨幣の哲学』のみに限定されたものではありません。

・この記事は「動画作成のレジュメ」のようなものです。

・その他基本事項は以下のURLから確認をお願いします。

私が記事を執筆する理由について

主な参照論文リスト

私の解釈を離れて「正確に」貨幣の哲学を理解したい場合は、以下の論文や原典を参照する必要があると思います。ジンメルの書籍はかなり高いので、購入できない場合は論文を利用するといいと思います。

・古川顕 「ジンメルの貨幣論」(URL)

・坂口明義「ジンメル貨幣論についての一考察」(URL)

・奥村隆「距離のユートピア」(URL)

・奥村隆さんのインタビューもわかりやすいです(URL)

・『貨幣の哲学』第一章~第三章(分析編):「貨幣の本質を一般生活の諸条件と諸関係から理解させようとするもの」

・『貨幣の哲学』第四章~第六章(総合編):「一般生活の本質と形成を貨幣のはたらきから理解させようとするもの」

概要(『貨幣の哲学』全体の個人的なピックアップ)

  1. 価値とは「客体への距離」によって生じるものである。貨幣は「交換可能性の純粋な形式」であり、「道具のもっとも純粋な形式」である。そして「交換」とは心的相互作用である。貨幣は「客体への距離」を埋めるための橋渡しとして、つまりその手段や道具として使われる。牛や水、ダイアモンド等は「内容」であり「形式」そのものではない。金や銀は牛や水よりは「形式」に近いが、「内容」も有している(装飾に使えたりする)。しかし「貨幣(特に抽象紙幣)」はそれ自体としては価値がなく、純粋に交換のための「手段」として用いられれる。例:ダイヤモンドが欲しいと考えるとする。簡単には手に入らず、ダイヤモンドへの距離を感じるとする。このときにダイヤモンドには客体としての価値が生じる。しかし自分の牛と交換してもらえるだろうか、自分の布と交換してもらえるだろうか、交換できるとしてどのくらいの量が必要だろうか、といったように物々交換では欲望の二重の一致がなかなか難しい。そこで「貨幣」を通すことによって、欲望の二重の一致がより容易になる。ダイアモンドが欲しいなら100万円なり1000万円なりを払えば入手することができる。
  2. 貨幣にはポジティブな面とネガティブな面がある。
  3. 貨幣のポジティブな面:自由や個性を生みだした。例:家柄・教会・領主等々から個人が解放された(昔は税を物で支払うことによって、職業の選択の自由などがなかった(農家はずっと米などを領主に納めなければいけない)。貨幣を納めればいいとなれば、どの職業でもいいということになる。物を貨幣で購入することによってその生産者と人格的に関わらなくて済む(物々交換だと「どういう人間か、この人は何が欲しいのか」という人格が毎回セットでつきまとう)。分業を可能にし、分業は個性(個人主義)を生みだした。自由な結合を生みだした。
  4. 貨幣のネガティブな面:空虚や平均化の悲劇を生みだした。例:自分がかけがえのないと思える質的・個性的な仕事も、最もそうでないと思えるような仕事と同様に時給1000円(空虚さや不安が生じる)。金を集めること自体に価値を感じるケチや金を使うこと自体に価値を感じる浪費家など。貨幣が絶対的な手段ゆえに、絶対的な目的にまで上昇することがある。
  5. ジンメルは貨幣の両義性、つまりポジティブな面とネガティブな面の両方の性質があることを示し、それでもなお「差異を保ったまま生きる」ことを可能にした「貨幣」を評価した。

今回の記事の概略

  1. 価値:価値は「主体と客体との距離」によって生じるものであり、欲求の対象の獲得のために必要とされる犠牲のことである。
  2. 交換:交換は「価値」の獲得のための「手段・道具・橋」である。つまり主体と客体の距離を埋めるために「交換」という手段を用いる。例:米を手に入れるために牛と交換する
  3. 貨幣:貨幣は「道具のもっとも純粋な形式」である。
  4. 客観性:「人間は交換する動物」であり、それゆえに人間の固有性は「客観的な動物」であることである。人間は交換を通して、主観的な衝動だけではなく、相手とつり合いがとれるかを気づかうようになる。つまり交換価値が等価になるように努めるようになるのであり、そこで「客観性」が育っていく。
  5. 貨幣の歴史概略:物々交換から金や銀といった装飾貨幣、紙幣といった抽象紙幣へと交換手段が移り変わってきた。この変遷は交換手段それ自体がそれ自体としては無内容・無個性になってきていることがわかる。また、物自体に価値がないゆえに、「信頼」が必要になってくる。金や銀の貨幣はその含有量への信頼とそれが本当に使えるのかどうかという信頼という二重の信頼が必要である。紙幣も同様に、政府への信頼が必要になってくる。ジンメルによれば「信頼」は他者たちに対する心の原初的態度である(スーパーで売っている水が安全かどうか、専門的知識によってではなく「信頼」によって成り立っている。「信頼」がないと社会は崩壊する。)。

動画での説明

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ゲオルク・ジンメルとは

ゲオルク・ジンメル(1858~1918)はドイツの社会学者。ベルリンの中心街に裕福なユダヤ商人の7人姉妹の末っ子として生まれる。

ベルリン大学の哲学部に進学し、23歳で哲学博士の学位を取得する。その4年後にベルリン大学の哲学部の私講師になり、その5年後に院外教授となる。哲学正教授となったのは56歳のときであり、ベルリン大学ではなくシュトラスブルク大学であった。学問的には評価されながらも、ベルリン大学の正教授になれなかった理由はジンメルがユダヤ人だったこと、宗教的見解が相対主義的だったことが原因という説がある。

1909年にM・ウェーバーやF・テンニースらと共にドイツ社会学会を創設した。ジンメルの社会学に関する主な代表作は『社会文化論』(1890)、『社会学』(1908)、『社会学の根本問題』(1917)。

ジンメルには「個人と社会の葛藤(かっとう)」という問題関心があった。当時のドイツにおいてユダヤ人は「異邦人(よそもの)」であり、いかにして社会にとって異質なものが社会との関係を築くのかという視点が重要になる。

価値とはなにか

価値とは

POINT

価値(かち)・欲求の対象の獲得のために必要とされる犠牲のこと。価値とは「客体」であり、まだ所有もせず享楽もしていないものである。主体からの距離によって価値が生じる。この距離によって客体に価値が帯びる。

われわれを取り囲む事物は、認識によって成立する「存在の世界」と、欲求によって成立する「価値の世界」とを構成し、存在の世界では自然法則に平等にしたがう事物が、価値の世界においては意欲の対象として評価され、価値の秩序のなかへ差異あるものとして配列される。ところで意欲の対象とは、われわれの非所有物、われわれから距離あるものを意味し、この対象を獲得するにはこの距離を克服しなければならない。そのためにはそれを自ら作るとか、所有者に奉仕するとか、現代では貨幣で代価を支払うとか、なんらかの犠牲が必要であり、この距離の克服、つまりは欲求の対象の獲得のために必要とされる犠牲、これが価値である

「ゲオルク・ジンメル」、居安正、83P

価値は「主体と客体との距離」によって生じるものであり、欲求の対象の獲得のために必要とされる犠牲のことである。

例:ダイヤモンドが欲しいと思ったとき、その獲得のためにはお金やその代わりの物(労働やサファイア等)といった犠牲が必要になる。まだ所有していないという意味で主体(人間)と客体(ダイヤモンド)には距離があり、この距離があるゆえにダイヤモンドに「価値」が生じる。客体を失った時にはじめて価値に気づくこともある(無くしたスマホ、別れた彼氏や彼女、死別した両親)。近づきすぎると客観視できない。手に入れてないと客観視しやすい。

※享楽(きょうらく):一般に、快楽にふけって、十分に楽しむこと。

価値の例を検討

レアなフィギュア、レアなカード、レアな時計等々に価値を感じるのはなぜか。なぜ道端の石ころに価値を感じないのか。

たとえばレアな時計は簡単には手に入らない。つまり自分(主体)と時計(客体)の間には距離がある。この距離があるゆえに、客体に価値を感じるというわけである。

道端の石ころはありふれており、距離がほとんどない。したがって価値を感じにくいというわけである。「犠牲」を差し出さなくても基本的に手に入る。

肉や魚、野菜も「犠牲」を差し出さないと基本的には手に入らない。それゆえに肉や魚、野菜も「価値」をもつ。肉や魚は道端の石ころのようにころがっていない。

距離とは

POINT

距離・価値における距離とは、「主体の欲求が設定するとともに克服しようとする距離」のことである

たとえばある「ダイヤモンド」を欲しいと感じたとする。そのダイヤモンドをまだ所有もせず、所有して楽しんだこともないような状況だ。しかしダイヤモンドの入手のためには大金を払ったり、鉱山で発掘したりと犠牲や困難を伴うものであるとする。このとき、人間はダイヤモンドに対して「距離」を感じる。そして距離を感じるということでそこに「価値」が生じる。

「われわれを取り囲む事物は、認識によって成立する「存在の世界」と、欲求によって成立する「価値の世界」とを構成し、存在の世界では自然法則に平等にしたがう事物が、価値の世界においては意欲の対象として評価され、価値の秩序のなかへ差異あるものとして配列される。ところで意欲の対象とは、われわれの非所有物、われわれから距離あるものを意味し、この対象を獲得するにはこの距離を克服しなければならない。そのためにはそれを自ら作るとか、所有者に奉仕するとか、現代では貨幣で代価を支払うとか、なんらかの犠牲が必要であり、この距離の克服、つまりは欲求の対象の獲得のために必要とされる犠牲、これが価値である」

「ゲオルク・ジンメル」、居安正、83P

客観性

POINT

客観性(きゃっかんせい)・一般に、主観を離れて独立していること。ジンメル的に言えば、相互作用そのものを見る視点。人間と人間の間にある相互作用や、人間と自然の間にある相互作用を見る視点。

我々は河原に落ちているありふれた「石ころ」に基本的に価値を感じることはすくない。今石ころを踏んだ、という意識すらあまりないだろう。この場合、主体と客体の距離はほとんどなく、つまりほとんど一致しているといえる。

しかし店に並ぶきれいな「ダイヤモンド」に対しては価値を感じることがあるはずだ。その希少性ゆえに、我々は距離を感じる。容易には手に入らないからだ。石ころを踏んだときとは違い、自分とは違うものである、つまり客体であるということを強く意識する。それゆえに価値が生じるというわけである。

人間は交換する動物」であり、それゆえに人間の固有性は「客観的な動物」であるといえる。人間は交換を通して、主観的な衝動だけではなく、相手とつり合いがとれるかを気づかうようになる。つまり交換価値が等価になるように努めるようになるのであり、そこで「客観性」が育っていく。

価値は主観的なものか、客観的なものか

原初状態では主体と客体が完全に一致していて、距離がない。つまりジンメル的に言えば価値が生じていないといえる。2才児がある玩具で遊んでいる時に、その玩具に価値があると認識できるだろうか。つまりその玩具が自分とは異なる客体であると明確に認識し、そこに距離を感じることはできるだろうか。幼児にとってその対象、つまり「おもちゃ」が何であるかはどうでもよく、「衝動」を鎮めてくれるものであればなんでもいいのである。つまり客体が何であるかは重要ではない。口に入れられるものなら何でも入れてしまう。

2才児にも意思や内容はあるだろうが、それは単なる「衝動満足」でしかないということだ。しかし大人になるにつれて、主体と客体が区別されるようになる。スーパーでおもちゃを見つけた8歳児が、このおもちゃを欲しいと認識したとする。しかしこの玩具と自分は違うものであり、そこには距離を感じる。2才児のように、すぐに手にとって遊んでいいものではない。この距離ゆえに、この玩具に価値があると感じるわけだ。

ピカソそのものに、つまり客体のみによって価値が生じるのか、あるいは客体から完全に離れて主体のみによって──たとえば好き嫌いなど──価値が生じるのか。ジンメルによれば、そのどちらでもなく、そのあいだの「距離」によって生じるという。もしピカソの絵がありふれていたらどうだろうか。1000億枚同じ絵が描かれていたらどうだろうか。入手は容易であり、距離は短い。したがって、価値が低いと思う人もいるかもしれない。しかしそれでもなお、その距離が短くても価値が高いと思うかもしれない(あるいは入手の難易度が低くても、自分ではそんな絵は描けないというような距離を感じるのかもしれない)。

しかし距離によって価値が生じるというのは同じである。ピカソを全く客観視せずに、つまり距離を認識することを経ずに価値というものを感じることは難しいといえる。距離を認識することを経ずに得る満足、つまり主体と客体が融合しているような状況で得る満足は価値というより、客体が何であるかを問わない「衝動満足」である。いい映画を見ている時に、いま自分は映画というものを見ているんだという客観視が薄れていくような状況と似ている。後になって、あの映画は価値があったと客観視することによって価値を事後的に感じるのかもしれない。あるいは映画に行く前に、自分の日常では簡単に得られないものが映画にはあると感じることによって、つまりその距離によって映画に価値を感じるのかもしれない。

このように、ジンメルによれば価値は主体と客体が分離することによってはじめて生じるものであると言える。したがって価値は主体のみによって成り立つのでも、客体のみによって成り立つのでもなく、主体が客体に対して感じる距離によって生じるのであり、つまり主体による客観視によって生じるといえる。これはちょうど、社会実在主義と個人集合主義のどちらでもなく、社会とは個人と個人の間にあるもの、つまり心的相互作用にあると考えたジンメル的な思想と一致する。

「価値」を論じるにあたり、ジンメルは主観と客観の区別以前の状態を想定する。「心的な生活はむしろ自我とその客体とが未分化に休らう無差別状態」に始まり、そこでは意識を満たす印象・表象は客体から分離していない(ibid.:21)。たとえば音楽に包まれて一体になっているとき、美しい絵のまえでわれを忘れてとりこになっているとき、作品を「われわれに対立するものとは感じない」で「心は完全にそれと融合」するだろう(ibid.:23)。こうした「純粋な内容享楽」、主観と客観が距離ゼロで一体になっている状態に対して、そこに客体があるという客体の成立、および私がそれを欲するという欲求の成立は「享楽過程の直接の統一を分裂させる分化過程の二つの側面」(ibid.:24)である。われわれは「まだ所有もせず享楽もしないものを欲求する」。客体は「まだ享楽されないという距離」において私の対象となるのであり、「この距離の主観的な側面が欲求である」。この客体は「主体の欲求が設定するとともに克服しようとする距離」によって特徴づけられ、「この客体をわれわれは価値と呼ぶ」。

『距離のユートピア』、奥村隆、128-129P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

主観と却下の区別以前の状態

原初状態では主体と客体が完全に一致していて、距離がない。つまりジンメル的に言えば「価値が生じていない」といえる。2才児がある玩具で遊んでいる時に、その玩具に価値があると認識できるだろうか。つまりその玩具が自分とは異なる客体であると明確に認識し、そこに距離を感じることはできるだろうか。幼児にとってその対象、つまり「おもちゃ」が何であるかはどうでもよく、「衝動」を鎮めてくれるものであればなんでもいいのである。つまり客体が何であるかは重要ではない。口に入れられるものなら何でも入れてしまう。

衝動満足と融合

2才児にも意思や内容はあるだろうが、それは単なる「衝動満足」でしかないということになる。しかし大人になるにつれて、主体と客体が区別されるようになる。スーパーでおもちゃを見つけた8歳児が、このおもちゃを欲しいと認識したとする。しかしこの玩具と自分は違うものであり、そこには距離を感じる。2才児のように、すぐに手にとって遊んでいいものではないことを意識できる。この距離ゆえに、この玩具に価値があると感じるわけだ。

・幼少期だけではなく、音楽に包まれて一体となっているとき、芸術の前で我を忘れているときなども「主体と客体」が分離せずに「融合」しているという。映画を見ているときに「映画を見ている自分」と「見られている映画」ということを意識するだろうか。映画館に行く途中ではまだ映画を見ていないのであり、そこには距離を感じるという意味で映画に価値があるといえる。また映画を見終わった後に、映画が客体視され、あの映画は「見る価値があったよね」といったような言葉も出てくる。

・ジンメルによれば価値は主体と客体が分離することによってはじめて生じるものであると言える。したがって価値は主体のみによって成り立つのでも、客体のみによって成り立つのでもなく、主体が客体に対して感じる距離によって生じるのである。

・価値は主体による客観視によって生じるといえる。これはちょうど、社会実在主義と個人集合主義のどちらでもなく、社会とは個人と個人の間にあるもの、つまり心的相互作用にあると考えたジンメル的な思想と一致する。

「『価値』を論じるにあたり、ジンメルは主観と客観の区別以前の状態を想定する。『心的な生活はむしろ自我とその客体とが未分化に休らう無差別状態』に始まり、そこでは意識を満たす印象・表象は客体から分離していない(ibid.:21)。たとえば音楽に包まれて一体になっているとき、美しい絵のまえでわれを忘れてとりこになっているとき、作品を『われわれに対立するものとは感じない』で『心は完全にそれと融合』するだろう(ibid.:23)。こうした『純粋な内容享楽』、主観と客観が距離ゼロで一体になっている状態に対して、そこに客体があるという客体の成立、および私がそれを欲するという欲求の成立は『享楽過程の直接の統一を分裂させる分化過程の二つの側面』(ibid.:24)である。われわれは『まだ所有もせず享楽もしないものを欲求する』。客体は『まだ享楽されないという距離』において私の対象となるのであり、『この距離の主観的な側面が欲求である』。この客体は『主体の欲求が設定するとともに克服しようとする距離』によって特徴づけられ、『この客体をわれわれは価値と呼ぶ』。」

『距離のユートピア』、奥村隆、128-129P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

交換とはなにか

交換の本質は等価性である

POINT

交換の本質は等価性である・交換は相手がこれでつり合いが取れだろうと思うこと「気づかい」を前提とする。たとえば相手は質の良い肉を出すと言っているのに、自分は質の悪い魚を出してしまうとつり合いがとれない場合がある。その場合、量を増やしたり、他のものとセットにしたりと「気づかい」をする必要がある。この「気づかい」のためには「客観性」が重要になる。つまり、相互作用そのものを見る視点である。自分の主観・衝動では「自分のものを犠牲にせず相手のものを全て欲しい」と思っているかもしれないがそれを抑えて客観的に価値が等しいか、つまり「等価性」を気遣う。自己の衝動からも他者の衝動からもその意味で自由になり、客観的な観察力が「交換」によって洗練されていくというわけだ。

ジンメルは限界効用価値学説を暗示しつつ次のように言っている。「多くの価値理論に見られる誤りの一つは,効用と稀少性が与えられる場合にこれらの理論が経済価値すなわち交換運動を,なにか自明のものとして,さきの前提の概念的必然的帰結として措定するということである」(『貨幣の哲学』,54)。「経済価値」を相関物として成立せしめるところの交換が,効用や稀少性のみではなく,それプラス等価性」という客観的契機をも成立要件とするということを明らかにしたところにジンメル説の特色があるのである

「ジンメル貨幣論についての一考察」坂口明義

・「交換」においてある物の「経済価値」は片方が一方的に決められない。つまりお互いの主観を離れて、外的なもの(客観的なもの)として現れる。例:Aは卵10個に対しては牛乳1キロが妥当だと思っているが、Bは牛乳1キロに対して卵20個が妥当だと思っている。すりあわせていき、卵15個に対して牛乳1キロという結論が出るかもしれない。しかしこの結論はどちらかが一方的に決めたものではなく、客観的に現れたものである。こうして卵の価値と牛乳の価値が等価性をもつように見えてくる。卵15個が牛乳1キロの価値をもつという「経済価値」は「等価性」をきっかけとするゆえに「客観的」だとみなされるわけである。

交換は相手がこれでつり合いが取れるだろうと思うこと、つまり「気づかい」を前提とする。たとえば相手は質の良い肉を出すと言っているのに、自分は質の悪い魚を出してしまうとつり合いがとれない場合がある。その場合、量を増やしたり、他のものとセットにしたりと「気づかい」をする必要がある。この「気づかい」のためには「客観性」が重要になる。つまり、相互作用そのものを見る視点である。自分の主観・衝動では「自分のものを犠牲にせず相手のものを全て欲しい」と思っているかもしれないがそれを抑えて客観的に価値が等しいか、つまり「等価性」を気遣う。自己の衝動からも他者の衝動からもその意味で自由になり、客観的な観察力が「交換」によって洗練されていくというわけだ。

「ジンメルは限界効用価値学説を暗示しつつ次のように言っている。『多くの価値理論に見られる誤りの一つは,効用と稀少性が与えられる場合にこれらの理論が経済価値すなわち交換運動を,なにか自明のものとして,さきの前提の概念的必然的帰結として措定するということである』(『貨幣の哲学』,54P)。『経済価値』を相関物として成立せしめるところの交換が,効用や稀少性のみではなく,それプラス等価性』という客観的契機をも成立要件とするということを明らかにしたところにジンメル説の特色があるのである」

『ジンメル貨幣論についての一考察』坂口明義」

欲望の二重の一致

POINT

欲望の二重の一致・交換は欲望が二重に一致している必要がある。たとえば自分は肉が欲しい、相手は魚が欲しいといったように、欲望が二重に一致していることで肉と魚が交換可能になる。つまり「等価性」を伴う必要がある。

人間は交換する動物である

それでは「価値」と「交換」はどのように関係してくるのか。

ジンメルによれば、「客観性」は「交換」によってもたらされるという。

人間は交換する動物である、とはどいうことか。たしかに人間は古来より「交換」を人間同士でしてきた。米と肉を交換したり、塩と木の実を交換したりしてきただろう。このような物々交換から、金や銀の装飾貨幣に代わり、さらには紙幣といったそれ自体には価値のない抽象的貨幣へと代わってきた。

もちろんそうした意味の「交換」だけではなく、物質を伴わない「交換」というものもある。たとえば支配を受けることによって自由を犠牲にするが、命を得るといったこともある。この場合、自由を他者に引き渡すことによって生命を得ているという「交換」であるといえる。このように拡大させていけば、「人間は交換する動物である」という意味がわかってくる。

また、ジンメル的に言えば他者との価値の交換は「心的相互作用」である。心的相互作用は社会化であり、また社会である。つまり交換によって人間は社会を形成していっているというわけだ。

POINT:物々交換では欲望の二重の一致が難しい。だからこそ貨幣というものが生まれた。肉と魚と野菜を手に入れるためには、豆や布、鉄を今日は要求され、明日は牛乳とミカンと食器を要求されるかもしれない。ある部族では仲間同士じゃないと信頼されず、交換してもらえないかもしれない(もしくは自分の部族では価値がある豚肉も、その部族では無用の長物かもしれないし)。しかし「貨幣」があれば交換が容易になる。個人の欲しい物といったような人格や内容から解放される。

ジンメルは、人間を「交換する動物である」と定義し、そうであるがゆえの人間の固有性は「客観的な動物である」ことだという(ibid.:309)。掠奪や闘争によってなにかを奪い取ることと「交換」は決定的に異なる。前者(「贈与」もそうだとジンメルはいうが)は、「主観的な衝動」に発し(ibid.:310)、どちらかが得たものを他方が失う。しかし「交換」は、相手がこれでつり合いがとれると思い交換するだろうという顧慮を必要とし、相互作用そのものを見る視点が成長することになる。この視点、すなわち「客観性」によって主観的な衝動を制御できるようになるとき、人間は自己の衝動からも他者の衝動からもより「自由」になるだろう。

『距離のユートピア』、奥村隆、133P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

人間は客観的な動物である

「人間は交換する動物である」、それゆえに「人間は客観的な動物である」とジンメルはいう。どういうことか。

まず、交換は略奪とは違うという。一方的に相手の価値を奪い去り、自分は何も与えないというようなものは交換ではないという。つまり「等価性」が重要になってくる。

自分だけの欲望の満足ではなく、相手の欲望の満足を考える必要が出てくる。つまり、自分と相手の関係、自分との相手の間にある距離や形式を考える必要が出てくる。つまり自分を離れた思考が必要になるのであり、それが「客観的な思考」というわけである。このように、人間は交換する動物であり、また交換することによって「客観性」が生じ、またそれゆえに人間は客観的な動物であるといえる。

人間は古来より「交換」を人間同士でしてきた。米と肉を交換したり、塩と木の実を交換したりしてきた。このような物々交換から、金や銀の装飾貨幣に代わり、さらには紙幣といったそれ自体には価値のない抽象的貨幣へと代わってきた。

もちろんそうした意味の「交換」だけではなく、物質を伴わない「交換」というものもある。たとえば支配を受けることによって自由を犠牲にするが、命を得るといったこともある。この場合、自由を他者に引き渡すことによって生命を得ているという「交換」であるといえる。このように拡大させていけば、「人間は交換する動物である」という意味がわかってくる。社交衝動があらゆる心的相互作用に存在するように、交換もまた存在する。

「ジンメルは、人間を『交換する動物である』と定義し、そうであるがゆえの人間の固有性は『客観的な動物である』ことだという(ibid.:309)。掠奪や闘争によってなにかを奪い取ることと『交換』は決定的に異なる。前者(『贈与』もそうだとジンメルはいうが)は、『主観的な衝動』に発し(ibid.:310)、どちらかが得たものを他方が失う。しかし『交換』は、相手がこれでつり合いがとれると思い交換するだろうという顧慮を必要とし、相互作用そのものを見る視点が成長することになる。この視点、すなわち『客観性』によって主観的な衝動を制御できるようになるとき、人間は自己の衝動からも他者の衝動からもより『自由』になるだろう。」

『距離のユートピア』、奥村隆、133P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

貨幣と交換との関係

貨幣の歴史概略

POINT

貨幣と交換「価値」の所有には「交換」が必要になり、その「交換」には「貨幣」が必要になる。歴史的にいえば、まずは「物々交換」からはじまった。たとえば牛と塩、豚と魚、木の実と布といったような物々交換である。そこから装飾貨幣として、金や銀といった貴金属による貨幣が用いられるようになった。ジンメルによればこの貴金属による貨幣は過渡期として重要な位置を占める。貴金属は牛や塩とは違い、「それが果すものと無視して純粋に実体とては、世界のうちのもっともどうでもよいものである(『貨幣の哲学』157-158P)」という。たしかに金や銀は装飾や技術的な利用などを除けば、それ自体としてはあまり価値がない(鉄なら戦争で防具になるかもしれない)。牛や塩、水はそれ自体として利用でき、価値がある。つまり貴金属は自立した価値が薄いといえる。そしてこうした「物自体の価値のなさ、個性の無さ」が貨幣の本質にとって重要になってくる。貨幣それ自体は中立的で、価値がなく、また個性がないことが重要になるからだ。やがて「紙幣(抽象紙幣)」のようにそれ自体では金や銀よりも価値のないものに代わっていくというわけだ。重要なのは物々交換から装飾貨幣、抽象紙幣に代わっていくにつれて、「信頼」がより重要になってくるという点である。たとえば金や銀は大抵の場合は「合金」だが、その含有率は一般人にはわからない。それを測定する人への信頼、そこに記載されている含有率への信頼が必要になる。またその装飾貨幣が経済において使用できるという二重の信頼が必要になる(貨幣自体への信頼と貨幣が使えることによる信頼)。これは紙幣になるとより一層、政府への信頼等が必要になってくることがわかる。

スーパーで売っている水が安全かどうか、専門的知識によってではなく「信頼」によって成り立っている。「信頼」がないと社会は崩壊する

例:レアな時計を所有しようとした場合は、同じ価値をもつ、つまり等価性のある物と「交換」する必要がある。この「交換」のための「手段(道具)」として「貨幣」はもっとも純粋な「手段(道具)」である(内容から最も離れてるという意味で純粋)。たとえばロレックスの時計を400万円で購入するようなケース。物々交換時代だと仮定したら、ロレックスの時計のために一体何を差し出せばいいか、それは所有者の人格に依存する(牛一頭の場合もあれば鉄10キロの場合もあるだろう。

貨幣の歴史と「信頼」

歴史的にいえば、まずは「物々交換」からはじまった。たとえば牛と塩、豚と魚、木の実と布といったような物々交換である。そこから装飾貨幣として、金や銀といった貴金属による貨幣が用いられるようになった。ジンメルによればこの貴金属による貨幣は過渡期として重要な位置を占める。貴金属は牛や塩とは違い、「それが果すものと無視して純粋に実体としては、世界のうちのもっともどうでもよいものである(『貨幣の哲学』157-158P)」という。

・金や銀は装飾や技術的な利用などを除けば、それ自体としてはあまり価値がない。牛や塩、水はそれ自体として利用でき、価値がある。貴金属は自立した価値が薄いといえる。

・「物自体の価値のなさ、個性の無さ」が貨幣の本質にとって重要になってくる。貨幣それ自体は中立的で、価値がなく、また個性がないことが重要になる。やがて「紙幣(抽象紙幣)」のようにそれ自体では金や銀よりも価値のないものに代わっていく。重要なのは物々交換から装飾貨幣、抽象紙幣に代わっていくにつれて、「信頼」がより重要になってくるという点である。

例:金や銀は大抵の場合は「合金」だが、その含有率の真偽は一般人にはわからない。それを測定する人への信頼、そこに記載されている含有率への信頼が必要になる。またその装飾貨幣が経済において使用できるという二重の信頼が必要になる(貨幣自体への信頼と貨幣が使えることによる信頼)。

・紙幣になるとより一層、政府への「信頼」等が必要になってくることがわかる。紙幣そのものは信頼がないとただの紙切れである。現在は金本位制度のように貨幣の量と金の量が一致していない。銀行も預金額と準備されている貨幣の量は一致していない。

・人間がいくら原初的に信頼する動物だからといって、なんでもかんでも最初から信頼できるわけではない。

・ある村でいきなり、今日からこの紙を通して交換できますといって「はい、わかりました」というわけにはいかない。しかし、今日もこの紙と米が交換できた、その次の日はこの紙と牛肉が交換できた、というように知識が帰納的に人々に蓄積され、やがて「この紙は物と交換できる」と信頼されるようになるわけである。

「保証された紙幣でさえ,たんなる買い手と売り手の間の[支払い]約束にすぎない小切手とは異なり,買い手と売り手の間の支払い約束としてではなく,最終的な支払いとして機能するという理由から,この区別は買い手と売り手との間の取引にとって無意味であると議論されてきた。このような問題提起は,社会学的な背景に深く迫ってはいない。社会学的な観点から見ると,疑いのないことであるが,金属貨幣もまた支払い約束であり,その受け取りを保証する集団の規模によってのみ小切手と異なる。貨幣の保有者と売り手との間の共通の関係この社会的集団にとって,提供されるサービスに対する貨幣所有者の要求と,この要求が満たされて支払われるであろうという売り手の信頼こそは,貨幣取引が・・物々交換とは異なって実現される社会学的な状況を提供する」(ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』170P)

「完全に知っている者は信頼する必要はないであろうし、完全に知らない者は合理的にはけっして信頼することができない」

ゲオルク・ジンメル、『社会学』上、居安正 訳、359

(信頼とは)「実際の行動の基礎となるほどに十分に確実な将来の行動の仮説として、まさに仮説として人間についての知識と無知とのあいだの中間状態」

ゲオルク・ジンメル、『社会学』上、居安正 訳、359

「たしかに信頼にはなおいまひとつ別の類型がある。それは知識と無知の彼方にある……それは、他者への信用と呼ばれ、宗教的な信仰のカテゴリーに入る。……人々は、ある人間を『信じる』が、この信頼はその人物の価値の証明によって正当化されないばかりか、さらには価値のその反対の証明にもかかわらず、しばしば信用しさえする。この信頼、ある人間に対するこの内的な無条件性は、経験によっても仮説によっても媒介されず、むしろ他者たちにかんする心の原初的な態度なのである。」

ゲオルク・ジンメル、『社会学』上、居安正 訳、360-361

貨幣と相対性

POINT

相対主義(そうたいしゅぎ)・一般に、あらゆる事象(万物)に対する判断基準は自分自身という人間なのであり,万物の尺度を客観的な原理や観測に求めることは不可能であるという立場のこと。欲求と価値は「距離」から生まれ、貨幣はその価値を「相対化」して「交換」を可能にする

・欲求と価値は「距離」から生まれ、貨幣はその価値を「相対化」して「交換」を可能にする。

・牛それ自体に主観や人間関係を離れて価値が存在するか。

・しかし牛を完全に離れて人間によってのみ価値が測られるわけでもない。牛を客体化することによってはじめて価値というものが生じる。つまり牛との距離を人間(主体)が感じることによって、牛(客体)に価値が生じる。

たとえばブータンという国では松茸の価値が低く、日本では松茸の価値が高いということがある。ある学校で1位の成績をとったとしても全体からしてみれば低い学力であるということもありうる。この場合、ある学校で1位という意味で相対的に学力が高いということにすぎない。

さてある商品とある商品の間にある交換関係は相対的なものであるとジンメルはいう。たとえばある人間XがレアカードAとレアカードBを人間Yと交換するとする。自分にとってレアカードBは重要な価値をもつ。なぜなら他のカードとの関係の上で、それが価値をもつからであるとする。つまりレアカードBがあるからこそ、レアカードCが強いコンボになるといったようなケースだ。しかし人間Yにとって、レアカードBは重要な価値をもたないということもある。他のカードCを持っていないことで、レアカードBの価値は低くなるというわけだ。逆に人間XがもっているレアカードAは人間Yの中では他のカードとの関係の上で高い価値をもつということもある。あるいは単にかっこいいと思うから、という個人的な理由かもしれない。

このように、あるカードの価値が高いかどうかはそのカード自体に「絶対的」にあるものではなく、「相対的」にあるものだということがわかる。これと同じように、牛を食べない部族にとって牛は価値がなかったりするわけである。牛が絶対的な価値をもっていれば、どんな人間にも等しい価値をもつはずでありどんな人間とも交換できるはずだが、実際にはそうではなく、相対的な価値を持つに過ぎず、また価値は人間の主観や環境に大きく依存するのである。たとえば学校でカードゲームが流行っていない場合は、カードに価値を感じない、といったことはありえる。友人関係によって相対的に価値が変動したりする。ジンメルの言葉で言えば「永遠の動揺と均衡の中」にある。

揺れ動くのはカードに「内容」があるからである。つまり「かっこいい」だとか、他のカードとの関係だとか、友人関係だとかそういうものに大きく左右される。

牛と米を交換できたらその意味で牛と米には等価性があったといえる。しかし次のには牛と米が交換できなくなるかもしれない。もう牛はいらないよ、と言われるかもしれない。しかし貨幣はそうではない。そういった個人的な気分と言った内容を分離させることができる。牛と米を交換してしまったら、米と水が交換できるか保障はないし、また米と牛を再び交換できる保障はない。しかし牛と貨幣を交換すれば、貨幣は米や水と交換可能であり、また貨幣によって牛と交換することも可能になる。ジンメルの言葉で言えば、「客体の経済的な相対性を自らの中に表現する」ということになる。

牛1キロの価値は豚1キロ、牛1キロの価値は米10キロ、といったように牛と豚との関係、牛と米との関係といったようにそれぞれの関係に相対的に帯びてくるものである。しかし貨幣を通せば、牛1キロの価値は1万円、米1キロの価値は1000円となる。つまり牛と米の相対関係が、貨幣によって表現されているというわけだ。米が不作だから1キロは1000円ではなく1万円になるといったような場合もあるだろうが、貨幣はそれ自体に不作といったような内容がないので、純粋な道具として存在することができる。

貨幣だけが動かず、他の物は動くとはこういう意味である。米は不作により1万円になったり2万円になったりと変動するかもしれないが、貨幣の方は貨幣それ自体によって米の価値を1万円に変動させたり2万円に変動させることは基本的にない。

※もちろん「貨幣は関係である」と同時に「関係をもつ」とジンメルがいうように、貨幣には為替レートによって貨幣自体が売買の対象となるケースもある。つまり純粋な消費相互間の価値の媒介という役割だけではなく、貨幣は商品に影響を与える要素もある(単純な価値ヴェール説に留まらない)。円が大量に外国に買われたら「円高」になり、輸入品が安く買えるようになり(物の価値を下げる)、輸入品を通して作られる国内の物を安くするなど。貨幣は完全に中立ではない。

しかし、では他者のどの所有物を自己のどの所有物とどのような割合で交換すればよいのか。すべての商品はすべての商品と交換可能であって、ある商品の「他の商品の総体とのあいだの交換関係」は「永遠の動揺と均衡」のなかにある相対的なものだろう(ibid.:95ー6)。ジンメルは、貨幣とはこの相対的な動揺と均衡に「商品の総体」を代表する「静止した極」として対立する、と考える。貨幣だけが動かないことで、貨幣は揺れ動く財相互の関係を表示できる、というわけだ。だから貨幣はどのようなものとも交換可能であり、「無性質性あるいは無個性性」という独特の性質をもつことになる(ibid.:98-100)。無性質で無個性な貨幣は、さまざまな商品の価値を連続的に並べることができ、「客体の経済的な相対性を自らのなかに表現する」という意義をもつ(ibid.:105)。

『距離のユートピア』、奥村隆、129P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

「社会はこれらの相互作用の総和にとっての名称に過ぎず,それは単にその相互作用の確定の程度に応じて適用されるに過ぎない。それゆえそれは統一的に確定された概念ではなく程度上の概念であり,所与の諸個人の間に存在する相互作用の数と緊密性の大きさにしたがって,その適用の度も大きくもなり小さくもなる。この仕方において社会の概念は,個人主義的な実在論が社会の概念に認めようとする神秘的なものをまったく失う。」

(ゲオルク・ジンメル『社会分化論』18P)

「……貨幣は事物の相互関係から形成される経済的価値の純粋な表現であり,その経済的価値を象徴する存在であるという相対主義原理に立脚するジンメル独自の貨幣観が提示されている……それは相対主義それ自体の重要性を強調するというより……貨幣の役割を明らかにするためには,貨幣とその他の商品との間の「関係性」についてよく理解することが不可欠であると考えられるからである。」

古川顕「ジンメルの貨幣論」55-56P

例:牛と米を交換できたらその意味で牛と米には等価性があったといえる。しかし次の日には牛と米が交換できなくなるかもしれない。もう牛はいらないよ、と言われるかもしれない。しかし貨幣はそうではない。そういった個人的な気分といった内容を分離させることができる。貨幣は最大限の価値を有しているので、牛を必要としているときは貨幣によって牛と交換でき、また豚を必要としているときは豚と交換できる。

牛と米を交換してしまったら、米と水が交換できるか保障はないし、また米と牛を再び交換できる保障はない。しかし牛と貨幣を交換すれば、貨幣は米や水と交換可能であり、また貨幣によって牛と交換することも可能になる。ジンメルの言葉で言えば、「客体の経済的な相対性を自らの中に表現する」ということになる。

米との関係において牛はこの程度の価値だ、といったような相対的な価値が、牛は貨幣にするとこの程度の価値だ、というような表現に代わる。つまり、米だけではなく他の水や牛やサービスなどの事物全般とどの程度の交換価値があるか、という表現に代わる。貨幣を通すことによって、米と牛の関係といった相対性が貨幣に表現される。牛が1キロ1000円で市場で取引され、米は1キロ500円で市場で取引されると仮定する。物々交換の場合において牛1キロが米2キロで取引されていた場合、この1:2という関係が、貨幣において牛1キロ:1000円に変わる。

ソシャゲと価値と「橋」

たとえばソーシャルゲームで課金を行い、レアなキャラクターが欲しいと思うようなケースを考えてみる。このケースでは、無課金ではレアなキャラクターをゲットすることは困難でると仮定する。つまり無課金でプレイしていてもレアなキャラクターは一向にゲットできず、つねに拒絶を感じるケースだ。

このケースにおいて、主体(ゲームをプレイする人間)と客体(レアなキャラクター)には「距離」がある。まだレアなキャラクターは「所有」されていないし、さらにレアなキャラクターを「享楽」、つまり十分に楽しんでもいないと仮定する。友達に一時的にスマホを借りてレアなキャラクターを借りて遊び尽くした後では所有の快感が薄れるケースもありうる。

このような場合、「客体(レアなキャラクター)」は主体にとって「価値」のあるものとなる。意欲の対象、つまり欲しいと思えるような対象となる。

さてこの客体を手に入れるためにはどんな手段があるか。つまり距離を埋めるためにはどんな手段があるだろうか。ジンメルはこの距離を埋める手段を「」として比喩的に表現している。川を渡れないなら人間は橋をかけるわけだ。レアなキャラクターを手に入れるためにはゲーム会社をハッキングする、他人とキャラクターを交換する、他人から奪う等々が考えられるが、この現代社会で一般的な手段はやはり「貨幣」である。ソシャゲの場合でいうところの「課金」である。

つまり価値を手に入れるために犠牲とされるものは「貨幣」である。お金を払うこと、つまりお金を失うことによって「レアなキャラクター」を手に入れることができるわけだ。

物々交換時代における価値

貨幣が生まれる前は「物々交換」が主流だった。たとえば肉と魚を交換したり、米と農具を交換したりした。

肉を所有していないものにとって肉は「価値」をもち、魚を所有していないものにとって魚は「価値」をもつ。この価値が同程度だという認識が人間同士の間で一致すれば、それらは「交換」可能になる。

肉は嫌いだから米と交換したくない人もいるだろうし、米が嫌いだから肉と交換したくない人も考えられる。つまり、物々交換における「価値の交換」は人によって交換できる場合もできない場合もあり、またその価値がどれほどかも不安定である。それで考えられたのが「貨幣」である。貨幣が「紙幣」として作られる以前は金や銀、銅といった比較的「希少」なものが使われていた。希少であるからこそ人は欲しがり、価値をもった。昔は「塩」も希少だったので価値をもったらしい。金や銀が石ころと同じくらいそこら中に転がっていれば、肉や魚よりも価値が低いものになっていただろう。

希少なものは多くの人に欲求される。つまり交換に便利になる。肉が欲しい人が魚を用意して交換しようとしても、魚は嫌いだからと断られる可能性がある。しかし「金貨」なら肉と交換してくれる可能性が高い。金貨それ自体の希少性や有用性だけではなく、金貨によってさらに他のものと交換できるという要素もあるからだ。肉を金貨と交換した後に、さらにその金貨で米を買ったり土地を買ったり、場合によっては同じ肉を買い戻したりすることができる。

貨幣経済時代における価値

さて貨幣が「紙」で流通するようになった時代を考えてみる。金や銀ではなく、銅やアルミニウムなど希少性が低い素材で作られるようになった時代だ。現代ではこれが主流である。

一般的な人にとって、貨幣そのものには価値がない。つまり何かと「交換」できるからこそ貨幣に価値が生じる。貨幣をメモ用紙や焚き火につかったり、レアな硬貨(ゾロ目など)を集めたり、1円玉を溶かしてアルミケースを使うといった例外も考えられなくはないが、基本的に貨幣はそれ自体に価値はない。素材はゴムだったりプラスチックだったりでもいいわけだ。複製しにくく、より安価に、丈夫に、流通しやすい素材ならなんでもいいというわけである。

現代では貨幣を使わずに単なる「情報」になっている。クレジットカードさえあれば大概のものは買えてしまうので、そこに物理的貨幣が存在する意義が薄くなってきているといえる。さらにいえば銀行は貯金額と同じだけの貨幣を所有しているわけでもない(銀行は預金者の貨幣を使って投資を行うことが事業のメインであり、預金されたうち一定の割合のみが準備預金となり、残りは貸付等に使われる)。だから預金者全員に一斉に引き出されたら銀行は基本的に物理的な貨幣を全員には提供できない(いわゆる取り付け騒ぎでパニック)。

貨幣は交換可能性の純粋な形式

ジンメルの言葉をつかえば貨幣の性質は「貨幣の無性質性あるいは無個性性」である。牛肉は貨幣に比べれば性質があり、個性的である。牛肉が嫌いな人もいれば少な人もいるし、良い肉もあれば悪い肉もある。多産の年もあればそうではない年もある。また、肉は「食欲を満たす」という性質がある。つまり必ずしも「交換」のために使われない。釣り人が魚を手に入れてもそれを交換しようとせずに自分で食べるケースが多いだろう。

牛肉に対して、貨幣は純粋に「交換」を目的としているといえる。ジンメルの言葉でいえば「貨幣は交換可能性の純粋な形式」である。

道具と貨幣、及び行為の分類
POINT

道具としての貨幣・ジンメルによれば、貨幣とは「最大限の価値を獲得した道具」であり、「内容から切り離された空虚な形式」であるという。ジンメルは「道具」を「橋」に例えている。ある目的に対して「距離」を感じたとき、この「距離」を埋めるためには「道具」が必要である。たとえばパンを食べたいが、目の前にパンがなく、パンを食べるためには「お金」が必要である。お金がない場合、パンを食べるという目的に対して人間は距離を感じる。また距離を感じるからこそ、パンが客体化され、パンに価値が生じる。この距離を埋めるために、お金を稼ぐ、つまり「貨幣」を手に入れるというわけである。目的に対して道具(手段)を用いて行為するというわけだ。ウェーバーでいうところの「目的合理的行為」にあたる。「貨幣」は「あらゆるものと交換できる道具」である。しかしあくまでもパンを食べるという「内容」が目的であり、貨幣はそのための手段、つまり「形式(道具)」にすぎないというわけだ。その意味で「空虚な形式」であり、無内容であり、客観的であり、無差別であり、無色である。

貨幣は「道具のもっとも純粋な形式」である。

例:パンを食べたいが、目の前にパンがなく、パンを食べるためには「貨幣」が必要である。お金がない場合、パンを食べるという目的に対して人間は距離を感じる。また距離を感じるからこそ、パンが客体化され、パンに価値が生じる。この距離を埋めるために、お金を稼ぐ、つまり「貨幣」を手に入れるというわけである。目的に対して道具(手段)を用いて行為するというわけだ。ウェーバーでいうところの「目的合理的行為」にあたる。「貨幣」は「あらゆるものと交換できる道具」である。しかしあくまでもパンを食べるという「内容」が目的であり、貨幣はそのための手段、つまり「形式(道具)」にすぎないというわけだ。その意味で「空虚な形式」であり、無内容であり、客観的であり、無差別であり、無色である。

「最大限の価値」とは、パンの価値、水の価値、牛の価値といったそれぞれの(相対的な)内容の価値が貨幣によって表現されているという意味。パンは水の価値を獲得していないが、貨幣はパンの価値も水の価値も獲得している。事物の相対性の昇華したもの=貨幣。

行為類型

  1. 衝動的な行為:原因と行為からなるもの。例:空腹だから食べた、怒ったから殴った。
  2. 神的行為:意思=行為となるもの。例:神が「世界よ、あれ!」と意思すると同時に世界が作られている
  3. 目的に導かれた行為:目的と手段と行為からなるもの。例:パンを買うためにお金を使う。お金を手に入れるために労働する。

・目的に導かれた行為は「自我と自然の相互作用」である。目的が設定されると距離(結合と分離)が生まれ、行為はそれをつなぐ「橋」になる。「人間は目的を設定する動物」である。

「目的過程は、個人的に意欲する自我とその外部の自然とのあいだの相互作用を意味する……。意志とその満足のあいだにある機構は、一方では自我と自然との結合であるが、しかし他方ではまた両者の分離でもある」(ibid.:206)。「われわれの行動は橋であり、これをへて目的内容は心的な形式から現実形式へ移行する」(ibid.:205)。ヴェーバーなら「目的合理的行為」と呼ぶものを、ジンメルは自我と自然の「相互作用」ととらえる。目的が設定されると結合と分離(つまり距離)が生まれ、行為はそれをつなぐ「橋」とされるのだ。この「橋」にあるもののひとつが「道具」である(ibid.:208)。人間は、動物のように衝動の機構に拘束されていないが、神のように意志がつねにすでに実現されているわけでもなく、「両者の中間に立つ」存在であり、目的を意欲し、実現のための手段を考え、行為する「間接的な存在」である。だから、「手段とその高められた形式である道具とは、人間という類型の象徴である」(ibid.:211)。そして貨幣は「道具のもっとも純粋な形式」(ibid.:210)であり、「最大限の価値を獲得した道具」(ibid.:213)である、とジンメルは考える。」

「距離のユートピア」、奥村隆、129-130P

『貨幣が一方では交換される商品相互の価値関係を測定しながら,しかも他方では自らそれらとの交換に入り込み,こうして自ら測定されるべき大きさを表現する。さらに,貨幣は自己を測定するにもまた一方ではその対価を形成する財によってであり,他方では貨幣そのものによってである』

(ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』99P)

『貨幣価値の不変性がはじめて客観的な事実として生じるのは,商品もしくは商品領域の価格騰貴が他の商品もしくは商品領域の価格低下に対応するときである。すべての商品価格の一般的な騰貴は貨幣価値の下落を意味するであろう。それゆえこれが生じるや否や,貨幣価値の不変性は打ち破られる。そもそもこのことが可能であるのは,貨幣が具体的な諸事物の価値関係の表現としてのその純粋な機能を超えて一定の性質を含み,この性質が貨幣を特殊化して売買の対象とし,一定の景気や量的変動や自己運動に貨幣を従わせ,それゆえ貨幣を,それが関係の表現としてもつその絶対的な地位から相対的な地位へと押し込め,こうして簡単に言えば,貨幣はもはや関係であるのではなく,関係をもつということになる』

(ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』103P)

貨幣の哲学的意義とは

貨幣の哲学的意義

  1. 人間にとって「交換」は「等価性」をきっかけとして「客観性」を培うものであり、「社会を形作るもの」であり、「人と人とを結びつけるもの」である
  2. 貨幣は「もっとも純粋な交換手段であり、道具であり、経済(交換)価値、交換における関係」である。
  3. 「貨幣」は社会にとって重要な交換や相互作用を最も目に見える形で示してくれるという意味で意義がある。他の領域(経済学など)では見過ごされがちな貨幣の概念を哲学的(認識論的、形而上学的な領域において)捉え直すことに意義がある。貨幣とはなにか?というそもそもの認識を別の側面で捉え直す。

例:牛や鉄も物々交換時代には人と人とを結びつける手段であり道具であり橋であったが、最も純粋で目に見えるものではなかった。牛や鉄はそれ自体として内容があり、価値があり、効用があるからだ。最も純粋な「交換価値」を示してくれるものが「貨幣」なのである。物の抽象的な価値を手にとって貨幣として見せてくれる。

「以下が貨幣の哲学的意義である。すなわち,実践世界の内部で貨幣が,存在するもの全般についての次のような定式を,最も決定的に目に見える形で示し,最も明瞭に現実化しているということである。その定式とは,諸事物はその意味を相互に与え合うということ,および,諸関係その中を諸事物が漂っているところの相互関連が諸事物の存在と在り方を形づくっているということである。」

ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』98P

「客体の経済価値は客体が交換可能なものとしてとり結ぶ相互関係のうちに存するとすれば,貨幣はすなわちこの関係の表現の自立化したものである」87P

「事物の相対性の昇華したもの」88P

「事物の代替可能性そのもの」92P

「最も抽象的なものが,手にとってみることのできる形象をとったもの」99P

「貨幣も実体化された社会的機能というこのカテゴリーに属する。個人の間の直接的相互作用という交換の機能は,貨幣とともに一つの独立して存在する形象にまで結晶化されている」159-160P

参考文献・おすすめ文献

ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

貨幣の哲学(新訳版)

ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』

社会学の根本問題―個人と社会 (岩波文庫 青 644-2)

ジンメルコレクション

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

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