【基礎社会学第十二回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「職業政治家」を学ぶ。

Contents

はじめに

前提

まず前提として「支配の三類型(政治家はどう支配してきたか)」や「心情倫理と責任倫理(政治家はどうあるべきか)」は以下の記事に説明してあります。

マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。

マックス・ウェーバーから「心情倫理と責任倫理」を学ぶ。

今回は『職業としての政治』から上記の点を除いた、「政治家とはなにか」について焦点を当てて説明してきたいと思います。この記事で『職業としての政治』の説明は終わりです。次回は「社会的行為」について『社会学の根本概念』から学んでいく予定です。

・この記事は「動画のレジュメ」のために作成されています。

・他の前提は以下の記事を参照してください。

私が記事を執筆する理由について

今回参照した論文リスト

『職業のエートス──ベルーフとしての政治について──』、川瀬謙一郎(URL)

『ウェーバーと官僚制』、千葉芳夫(URL)

動画での説明

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マックス・ウェーバーのプロフィール

マックス・ウェーバー(1864~1920)はドイツの経済学者、社会学者、政治学者。28歳で大学教授を資格を得て、1905年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。社会学の元祖ともいわれる。ウェーバーの研究成果はT・パーソンズの構造ー機能理論、A・シュッツの現象学的社会学、J・ハーバーマスの批判理論やシンボリック相互理論等々に引き継がれた。

マックス・ウェーバー、私は大好きです。全学者のなかで一番好きです。文献もなけなしのお金を費やしてできるだけほとんど買うようにしています。

したがって、マックス・ウェーバーに費やす記事の量は他と比較にならないほど多くなるというわけです。文献が手元にあるということは、引用もたくさん増えます(レポートの素材として提供できるので嬉しいです)。

マックス・ウェーバーが終われば次はジンメル、次はパーソンズといきたいです。マックス・ウェーバーだけでも相当時間がかかると思うので、とりあえず隙間隙間にジンメルやパーソンズを進めていきたいと思います(彼らはあまり多くの時間を割く予定がありません)。したがって、記事の発表は断続的になってしまいますがご了承ください。

概要

  1. 職業政治家とは:物質的あるいは精神的に、政治を第一義として『政治で生きている』といえる人のこと。
  2. 時代による変化:近代になるにつれて、名望家や資産家といった臨時や副業の政治家の「素人」から職業政治家の「プロ」が必要とされていった。専門知識をもったものや、政治のみを業務とする者たちである。
  3. 職業政治家の例:政党職員、議員、政党指導者、ジャーナリストなど。特に政党指導者は「天職としての政治家」である。
  4. マシーンとは:合理的、組織的に票を大衆から集めるような機構、装置を「機械(マシーン)」という。たとえば政党組織はマシーンである。官僚制を伴うような機構。コーカスマシーンやアメリカのボスによるマシーンなど。
  5. 指導者民主制とは:カリスマ的資質をもつ指導者によってマシーンがコントロールできているような政治体制。例:アメリカの大統領制。ウェーバーは「指導者民主制」を評価した(指導者にはカリスマ性が必要)。

職業政治家とはなにか

職業政治家(専業政治家)とは、意味

POINT

職業政治家(しょくぎょうせいじか)物質的あるいは精神的に、政治を第一義として『政治生きている』といえる人のこと。副業政治家や臨時の政治家とは区別される。専業政治家。本職の政治家。継続的な政治活動をする人々のこと。例:政党指導者や政党職員

「次に『副業的』政治家とは、今日でいえば、政治団体の世話役や幹事などによく見られるタイプで、一般にやむをえない場合にだけ政治活動をするが、物質的にも精神的にも、政治を第一義として『政治で生きている』とはいえない人のことである。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、20P

副業政治家とは、意味

POINT

副業の政治家(ふくぎょうのせいじか)・政治が専業ではなく、特定の期間のみに非継続的に政治にたずさわるような人々のこと。例:政治団体の幹事や世話役、会期中にしか政治をしない代議士など

この例で言えば地方議員の多くは「別の仕事」があります。政治が副業なのか、別の仕事が副業なのかはわかりませんが、政治を専業としていない点では同じです。

日本ではほぼ半分(2018年では約45%)の市議会議員が副業をもっているらしいです(出典)。つまり、職業政治家ではないということです。

公務員は基本的に副業禁止ですが、地方議員や国会議員は特別職として副業が一定の範囲で許されているようです。

国会議員の中には医者や弁護士をしている人もいますし、youtubeで収入を得ている人もいますし、会社の経営をしている人もいます。2017年の国会議員の所得報告書では、議員外の仕事に就いて報酬を得ていた議員が153人であり、そのうち38人が民間の平均給与額を上回っていたそうです(出典)。

われわれのイメージする国会議員や地方議員がウェーバーのいう職業政治家であるとは限らないというのはポイントです。逆に「政党職員」のような政治家としてのイメージが(少なくとも私には)弱いような人間こそ、職業政治家にズバリ当てはまりやすい人間です。

臨時の政治家とは、意味

POINT

臨時の政治家(りんじのせいじか)・選挙で一票を投じたり、集会で拍手したり、一時的に政治的な行為を行う人々のこと。

たとえば芸能人が立候補者の応援演説をする場合なども臨時の政治家であるといえます。仕事として一時的に政治的な行為ををしている副業としての政治家とは区別されます。

一般に「業」とは「暮らしの手だて」とすることであり、仕事として行うものです。衆議院選挙などで立候補者に投票する際にそういった「業」としての意識は薄いか、あるいは一時的なもの(臨時)にすぎません。

後で扱いますが、職業政治家は必ずしも政治で生計を立てているものを意味せず、無報酬の政治家もいます。我々が選挙で一票を投じている時に、そこに報酬が発生しないからといって政治家ではない、というわけではないのです。ただ性質的に「臨時」の政治家であるということです。

「われわれが一票を投じたり、これと類似の意思表示をしたりする場合──たとえば『政治』集会での拍手や抗議や『政治』演説など──、われわれはみな『臨時』の政治家なのである。

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、19P

「政治のために生きる」と「政治によって生きる」の違い

POINT

政治のために生きるもの・政治を恒常的な収入源にしようとしない者。政治が「名誉職」として扱われるケース。

POINT

政治によって生きるもの・政治を恒常的な収入源にしようとする者。政治によって生活するケース。

「職業政治家」を「政治で生きるもの」と定義しましたが、この「政治生きるもの」は「政治のために生きるもの」と「政治によって生きるもの」に分類することが可能だといいます。

これらの分類は概念上のもので、実際は交錯しているそうです。政治によって生きるものを「精神的なもの」に限定すれば、政治から物理的な報酬をもらってないものも、政治によって精神的に生きているといえるからです。逆も同様で、政治から物理的な報酬をもらって生きているものも、精神的には政治で生きるものであるともいえますよね。

ウェーバーは両者を分けるものとして、「物理的な収入」が重要だといいます。

「(物理的に)政治によって生きる」ためには「収入」が必要であるということです。資産が乏しい人間は政治から収入がないと専業として政治活動を行うことができません。副業としてサラリーマン生活を送ったり、自営業で床屋を経営したり、企業を経営したりする必要があるのです。資産に富んだ人間は政治から収入がなくても専業として政治活動を行うことが可能になります(例えば不労所得で生きる資産家など)。

政治から定期的な収入がないと生きていけないような政治家が汚職に手を染めやすく、政治から定期的な収入がない「名誉職」としての政治家が汚職に手を染めやすい、ということが言いたいわけではないそうです。単純に、無資産の人間が職業としての政治家であるためには収入を必要とするという話です。

もしそうでないと、「金権制(きんけんせい)」的に政治が行われてしまうそうです。金権制とは金の力で政治に影響を与えるような状態です。政治の能力が優秀かどうかではなく、お金を持っているかどうかで政治家になれるかどうか決まってしまいます。

今の日本の国会議員は恒常的な収入があります。ボーナスもあります。ざっくりとですが月130万前後もらっているらしいです。

「したがってこの[『のために』と『によって』]の区別は事態のもっとも実質的な側面、すなわち経済的な側面に関係している。政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」ということになる。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、22P

「私の言っているのは、金持ちの職業政治家だと、自分の政治上の仕事に対する報酬を直接求めなくてすむが、財産がないと否でも応でも報酬を求めざるをえなくなるという、ただそれだけの意味である。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、24P

「要するに私の言いたいのは、政治関係者、つまり指導者とその部下が、金権制的でない方法で補充されるためには、政治の仕事に携わることによってその人に定期的かつ確実な収入が得られるという、自明の前提が必要だということである。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、25P

職業政治家:官吏

そもそも政治家とは・・・?
POINT

政治(せいじ)広義には「自主的に行われる指導行為」であり、狭義には「政治団体(国家)の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為」*1。「権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力」

このように「政治」が狭く定義されています。これに類する行為を行うものが政治家ということになります。もちろんそこから職業政治家の、副業の政治家、臨時の政治家に分類されます。

政治とは何か。これは非常に広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。

…今日ここで政治という場合、政治団体──現在でいえば国家──の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為、これだけを考えることにする。

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、8P

官吏は職業政治家か?

これはすこしややこしい話になります。官吏(かんり)とは一般に、日本では「公務員」を意味します。つまり官職についている者です。しかし『職業としての政治』では官吏という言葉も公務員という言葉も官僚という言葉も出てきます。※議員を官吏に含めるとややこしくなるので、国会議員や地方議員は除外しておきます。外務省や総務省で働いている公務員をここではイメージします。

私の感覚から言って、総務省や外務省で働いている公務員が政治家かどうかと言われたら、NOと答えるかもしれません。そもそも国家公務員法で政治を行うことが禁じられているので、原則として政治家ではないかと思います。しかし政治に関わることを一切していないかというと、そうではなく、むしろ政治に関わることを主にしています。政治家が政策や法律の助言をもとめればそれに答え、政治家が法律をつくれば、それを守らせるような役割が公務員にはあります。いわば補助的な役割ですね。

まず、官吏は職業政治家であるという趣旨の文章があります。

「政治によって生活する職業政治家は純然たる『俸禄保有者』のこともあり、有給の『官吏』のこともある。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、25P

これを見る限り、なるほど官吏は職業政治家なのだと理解できます。

生粋の官吏は……その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、『行政』を──しかも何より非党派的に──なすべきである。この非党派的な行政という原則は、『国家理性』、すなわち現存支配体制の死活的利益がとくに問題となっている場合は別として、少なくとも建前としては、いわゆる『政治的』行政官についても当てはまる。

…官吏として倫理的に極めて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では、道徳的に劣った政治家である。こうした人間が──残念ながらわがドイツのように──指導的地位にいつまでも跡を絶たないという状態、これが『官僚政治』と呼ばれているものである。

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、41-42P

しかしここでは、政治家ではない趣旨の文章が出てきます。ややこしいですよね。官吏は職業政治家だが、政治家には向いていない人間であり、政治をなすべきではない人間であるということになります。

もちろん「生粋の」という修飾がついているわけで、「現実の」官吏は政治をしている人間がいるというわけです。

例えばドイツは2009年から2013年において、ドイツ連邦議会における3分の1以上が官吏出身だったそうです(出典)。官吏は政治家に対して政策の助言や政策の準備を行っていることから、政治に関わる行為をしていると言えます。しかしあくまでもそれは非党派的に、与党も野党も別け隔てなく中立的に補助をするのが生粋の官吏の役割であるという話です。もし与党にだけ有利な情報を与えるような官吏がいれば、それは政治的な行為、つまり「闘争」に意欲をもって取り組んでいることになります。そうした有利な情報を与えて、議員として後で立候補させてもらおうという野心があるかもしれません。ちなみに1993年では日本の国会議員の約10%が国家公務員出身だったそうです(出典)。

つまり官吏は純粋な職業政治家ではないが、職業政治家に分類されるようなことをしている官吏もいるといったところでしょうか。

「では,官僚の倫理はどうであろうか。ヴェーバーはこれについては特に述べてはいないが,それが「責任倫理」でも「心情倫理」でもないことは明らかであろう。官僚は自らの決断によってではなく,規則や上司の命令に従って行動する。「責任のとりかた」ということで言えば,政治家は結果に対する責任をとる-あるいはとるべきだ-が,官僚は責任をとらない,とる必要がない,ということになろう。自らの決断によるのではない行為の結果に対しては,責任を取れるはずがないからである。ヴェーバーは官僚に倫理性がないと考えている訳ではない。むしろ,前に見たように,官僚には「最高の倫理的規律」が求められるのである。だがでは,官僚の倫理はどうであろうか。ヴェーバーはこれについては特に述べてはいないが,それが「責任倫理」でも「心情倫理」でもないことは明らかであろう。官僚は自らの決断によってではなく,規則や上司の命令に従って行動する。「責任のとりかた」ということで言えば,政治家は結果に対する責任をとる-あるいはとるべきだ-が,官僚は責任をとらない,とる必要がない,ということになろう。自らの決断によるのではない行為の結果に対しては,責任を取れるはずがないからである。ヴェーバーは官僚に倫理性がないと考えている訳ではない。むしろ,前に見たように,官僚には「最高の倫理的規律」が求められるのである。」

『ウェーバーと官僚制』、千葉芳夫

ここに私の疑問に近い項目を扱っている論文があったので紹介しておきます。今回は深堀りせず、次回以降の「官僚制」の項目で取り扱おうと思います。

政治的官吏と専門官吏
POINT

政治的官吏(せいじてきかんり)・異動・罷免・休職がいつでもおこなわれ、任意におこなわれるような官吏。とくに「内務行政」を統括する官吏を意味する。イギリスにおいては、内閣が更迭するたびに辞任する官吏が出てくる。日本でいうところの各行政府の「大臣」にあたる。

たとえば2022年2月1日における日本の総務大臣は金子恭之さん、法務大臣は古川禎久さんです。金子さんも古川さんも衆議院議員です。一般に「閣僚」ともいわれます。それぞれの議員が与党、つまり自民党に所属している国会議員です。国会議員以外に民間人が登用される場合もありますが、基本的には国会議員から行政府の長が選ばれているようです。

もし自民党がなんらかの理由で解散した場合、内閣に各大臣も失職することになります。野党が与党に変わった場合は、今度は民主党から大臣が選ばれるといったようなケースが出てくるわけですね。このように政治の動向によって左右されるような官吏を特に政治的官吏というわけです。

「本来の意味での『政治的』官吏は普通、彼らの異動・罷免・『休職』がいつでもおこなわれ、任意におこなわれるという点で、外から見分けがつく。

……従って内閣が更迭するたびに、厳格な慣例に従って辞任する官吏が出てくるが、これが「政治的」官吏である。とくに、一般『内務行政』を統括する権限を持った官吏がこれに数えられるが、彼らの権限はとりわけ国内『秩序』の維持、つまり現存支配関係の維持を任務としている点で、『政治的』要素を含んでいた。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、33P

POINT

専門官吏(せんもんかんり)・専門的な知識をもった官吏。大学教育、専門試験、一定の見習い勤務が就任の条件となっているような官吏。政治的官吏はかならずしもこうした教育を得ている必要がなく、また政治の動向でいつでも辞職するという点で区別できる。

国家公務員試験などに受かる、つまり行政に関する専門的知識をもっている必要は必ずしもありません。法務大臣だからといって法に詳しいとは限りません(とはいったものの、それぞれの知識があると思われる大臣が選ばれがちだとは思いますが)。たとえば現在の法務大臣の古川禎久さんは法学部出身ですが、司法試験等に受かっているわけではなく、また法務省で業務を行っているわけでもありません(建設省に入省しています)。

イメージとしては専門的知識がある公務員が「これにサインしてください」といってサインするような役割ですね。しかし法務省のトップなので、法務省のそれぞれの公務員とは異なる責任が出てきます。ある公務員の失敗はそれを命令した上司にあるのですが、その上司にも上司がいて・・といったように繰り返していくと「大臣」にたどり着くわけです。もっとも、さらにその「大臣」を示した「総理大臣」にも責任が追求されるわけではありますが。

「…近代的な官吏制度の発達である。長期間にわたる準備教育によってエキスパートとして専門的に鍛えられ、高度の精神労働者になった近代的な官吏は、他方で、みずからの廉直の証として培われた高い身分的な誇りをもっている。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、27-28P

「政治が『経営』にまで発展し、近代政党制の下でおこなわれたような権力闘争と闘争方法のトレーニングが必要になってくると、公務員が専門官吏と『政治的官吏』の二つの範疇に分かれて来た。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、32P

「ドイツの制度では──他の国々とは違って──『政治的』官吏の場合でもたいてい、大学教育、専門試験、一定の見習い勤務が就任の条件とされ、その点では他のすべての官吏と同じ性格を持っていた。ドイツでは、政治機構の長である大臣だけが、このような近代的専門管理制度に特有のメルクマールを必要としない。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、33P

官吏は政治家と比べて無責任か?

ウェーバー官吏を職業政治家として含めながらも、やはり生粋の政治家として官吏は分類されていないと私は思います。ウェーバーにおける生粋の政治家とはやはり「政治的指導者」が念頭に置かれています。

「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成もおぼつかないというのは、全く正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、──はなはだ素朴な意味での──英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意思でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。

自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が──自分の立場からみて──どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!(デンノッホ)』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」

(マックス・ウェーバー『職業としての政治』,105-106P)

これは「天職としての政治家」において「政治的指導者」が念頭に置かれているのと同じ構図です。もちろん上記の文章では「指導者や英雄でない場合でも」とありますが、基本的には指導者が念頭に置かれているのです。

ウェーバーは「責任」をとにかく重視しました。その点で考えると、官吏は政治的な意味で「無責任」なようです。官吏は自分が間違っていると思えるような命令でも、自分の信念であるかのように従わないといけないといいます。たとえば上司が「貧しい人に対して税金に取り立てを行え」と命じたとします。部下が「可哀想だからやりません」なとといっていたら業務がなりたちませんよね。部下は自分の信念を済みに置き、ひたすら装置(マシーン)のように従う必要があるのです。もしその行為によって何らかの失態があったとしても、それは命じた上司の責任になります。

政治指導者は上司が命令したから、といって責任を転嫁できない立場にあります。このような責任をとれるような政治家と比較すると、やはり官吏は責任を転嫁できる立場にあります。それが道徳的に善いか悪いかではなく、官僚制において官吏はそういうものだという話です。

「官吏である以上、『憤りも偏見もなく』職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的におこなわざるをえない。

しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情、つまり憤りと偏見──は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。

政治的指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、──自分の意見具申にもかかわらず──自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを命令者の責任において誠実かつ正確に──あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように──執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的自立と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。」

マックス・ウェーバー『職業としての政治』41P

職業政治家:過去における職業政治家

ウェーバーは「等族(シュテンデ)」に対抗する形で君主が頼みにした人々を過去の「職業政治家」として分類しています。

等族とはウェーバーの定義では「軍事的運営手段や行政的に重要な物的運営手段、または人的な支配権力を、自前で持っていた人(20P)」を意味します。日本のイメージで言えば「大名」ですね。上杉家や北条家など、独自に武器や兵士をもっているような層のイメージです。

具体的な昔の職業政治家は、聖職者、文人、宮廷貴族、貴紳(ジェントリー)、法律家だそうです。聖職者が職業政治家だというのは言葉的に違和感がものすごくあります。要するに聖職者だったものが政治のみを行うような立場として君主に召し使えられたというわけですね。

たとえば日本でも北条氏の軍師である板部岡江雪斎(いたべおかこうせつさい)という人はお坊さんだったそうです。あの有名な織田信長と北条氏の同盟を取り付けたこともあるそうです。とはいえ政治に関することのみをやっていたわけではなく、寺社の管理等もしていたので専業とは少し違うかもしれません。

「先程も言ったように、過去における『職業政治家』は、君主と等族との闘争の中で君主に奉仕しながら成長してきた。簡単にその主要なタイプをみておこう。

等族に対抗する上で君主が頼みとしたのは、政治的に利用できる階層──身分制秩序に縛られることの少ない特殊の階層である。その第一は聖職者で、インドの半島部、インドシナ、仏教の中国や日本、ラマ教の蒙古、中世のキリスト教地域のどこでも、まったく同じである。彼らに読み書きができるという点が技術上の理由である。

……階層の第二は、人文主義的な教養を身に着けた文人[読書人]である。

……第三の階層は宮廷貴族である。君主は貴族の身分的・政治的な権力の剥奪にいったん成功するや、貴族を宮廷に召しかかえ、政治・外交上の仕事に当たらせた。

……第四の範疇はイギリス特有のもので、少貴族と都市在住の利子生活者を含む都市貴族、専門用語で「貴紳(ジェントリー)」と呼ばれているものである。

……第五の範疇は大学に学んだ法律家である。これは西洋、ことにヨーロッパ大陸に固有のもので、大陸での政治構造全体にとって決定的な重要性をもっていた。」

マックス・ウェーバー『職業としての政治』35-37P

もちろん昔もこうした職業政治家以外に、商人や将軍、豪農などもいたのでしょうが、そうした層は「副業の政治家」だったというわけですね。本業の傍ら、君主にアドバイスをするといった感じなのでしょう。特に「等族」は自分たちの金儲けのために政治を利用することが多く、政治団体のために政治的に働くのは君主や同じ身分の仲間からの要請があったときに限られていたそうです。つまり「副業の政治家」に分類されるというわけです。

「しかし、君主もこうした臨時の、あるいは副業的な補助者だけではもちろんやってゆけない。そこでどうしても、自分にだけ専心奉仕する本職の補助者のスタッフをもとうとするようになった。」

マックス・ウェーバー『職業としての政治』21P

官吏と昔の職業政治家

以下の文章を見ると、職業政治家としての聖職者や法律家は「官吏」として扱われていたことがわかります。官僚制的な性格をもったタイプの人間です。

このように考えると、「政治によって生活する職業政治家は純然たる『俸禄保有者』のこともあり、有給の『官吏』のこともある。」という『職業としての政治』の文章における「官吏」が必ずしも「公務員」を意味しているわけではなさそうです。

「官吏層は、この支配者が身分制的な特権の所有者の権力を剥奪する闘争において、支配者を支えたのであるが、この官吏層は歴史的にみて、きわめて多様な性格をそなえていた。実例としては、アジアで典型的にみられ、西洋でも中世前期にみられた聖職者がいるし、西南アジアでみられた奴隷や庇護民がいるし、ローマの元首制の時期にある程度までみられた解放奴隷がいるし、中国で典型的にみられた古典的な教養をそなえた知識人としての文人がいるし、近代西洋の教会や政治的な団体に典型的にみられた法律家がいる。」

(マックス・ウェーバー『世界宗教の経済倫理』、中山元 訳,95P,日経BP)

政党指導者としての民衆政治家(デマゴーグ)

POINT

民衆政治家(デマゴーグ)・一般に、「感情的・情緒的アピールを駆使して大衆の激情や偏見に訴え、権力(公的ポスト)を獲得・維持しようとしたり、その主張を拡散しようとする政治家。」を意味する(日本大百科全書より引用)。政党指導者の典型。

日本で「デマ」というと「嘘」という意味につながりますが、この用法はデマゴーグが特定の政治目的のために虚偽の情報が使われる場合を意味するらしいです(ブリタニカ百科事典)。デマゴーグ略してデマというわけですね。

もともとは古代ギリシアの民主政治において、弁舌によって民会の決議に影響を与えて政治を左右するもの、つまり民衆の指導者を意味していたそうです。それが現代では大衆を刺激的な弁舌によって扇動する政治家や虚偽の情報を使う政治家といったように否定的に使われがちになっていったようです。

ウェーバーの文脈でいうと、政治家には演説という手段が用いられており、特にこの演説の能力が優れた政治家がデマゴーグというわけです。たとえば貧民層に向けていかにも自分は政治によって世の中を変えることができる、また変えなければいけないという旨を大衆の情緒に訴えかけて国会議員になろうとするような政治家もデマゴーグなのかもしれません。デマゴーグは政党指導者の典型だそうです。

「立憲国家、とくに民主制が成立して以来、『民衆政治家(デマゴーグ)』が西洋における政治指導者の典型となっている。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、42P

「……指導者はどのようにして選ばれるのか。まず第一に、どんな能力が選択の基準になるのか。それには──世界中どこでも逞しい意思が決定的な資質であるが、これに次いで──とくに重要なのは、もちろんデマゴーグ的な雄弁の力である。演説の仕方は時代とともに変わってきた。コブデンのように悟性に訴えた時代から、一見平凡な『事実をして語らしめる』式の技工をマスターしたグラッドストンを経て、現代では大衆を動かすために救世軍もどきの手段を用いて、もっぱら情緒的に働きかける演説が多くなっている。今のこの状態を、『大衆の情緒性を利用した独裁制』と呼ぶこともできよう。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、62P

ジャーナリスト

個人的にジャーナリストが政治家であるという感覚があまりありませんでした。現代ではラーメンのことのみに記事を書くようなフードジャーナリストもいますし、そもそもジャーナリストとはウェーバーの時代にどのようなものだったのでしょうか。

どうやらウェーバーは「政治評論家」を念頭に置いているようです。ラーメンのことではなく、政治を専門としているジャーナリストですね。グーグル検索したところ、日本で言う「政治評論家」として「三宅久之」が出てきました。元毎日新聞記者のようです。またウィキペディアには職業に「政治評論家」とあるので、政治を専業に扱っているという意味で、職業政治家なのかもしれません。

定義の問題になると胃がムカムカしてきます。そもそも日本の用語で言うジャーナリストは客観性や中立性が重視されているイメージがあり、権力闘争を行う「政治家」とは矛盾する要素があります。たとえば与党に都合の悪い記事ばかりを書くジャーナリストや、野党に都合の悪い記事ばかりを書くようなジャーナリストはジャーナリストとして望ましいのでしょうか。それとも中立性ではなく、個人の主観が尊重されるべきなのでしょうか(特にヨーロッパでは記事のの主観性が尊重されているらしいです 出典)。

たとえばヤフーニュース(マスメディア)などには毎日新聞の記者(ジャーナリスト)によって多くの場合は匿名で政治に関するニュースが投稿されています。

今は「菅直人氏「ヒトラー」ツイートの撤回拒否 維新・馬場氏の抗議に(URL)」ということが話題になっているようです。内容には触れませんが、記事ではほとんど事実のみが客観的に書かれています。しかしジャーナリストがどの事実をマスメディアに投稿するか、その選択において主観が反映されるとも言えます。この事実を投稿し、多くの大衆がそれを閲覧することによってある党の勢いに関わることもあります。そうした意味で、政治に関わるということであり、また政治家であるともいえます。政治のみの記事を書いているようなジャーナリストはやはり継続的に収入を政治によって得ているという意味で職業政治家なのかもしれません。

しかしウェーバーによればジャーナリストは「政党指導者」へのコースとしてはノーマルではなく、難しい道だとも述べています。

「なるほど現代の民衆指導でも演説という手段が用いられている。というより現代では、候補者としておこなわねばならぬ選挙演説まで考えに入れると、その量は大変なものになってくる。しかし効果の点でより永続的なのは印刷された言葉である。政治評論家、とくにジャーナリストは今日この種の人間の最も重要な代弁者である。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、42P

「このジャーナリストのキャリアーは、それが他の点でどれほど魅力に富み、そこから生まれる影響力や活動の可能性、とくに政治的責任がどれほど大きなものであっても、今のところ政治指導者に出世するためのノーマルなコースではない…」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、46P

「職業政治家のタイプとしてのジャーナリストには、ともかくこれまで相当長い歴史があったが、次の政党職員という形態が出てきたのは……」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、48P

「……普段の政治は、政治に常時関心をもつ少数者によって全く場当たり的に、同じく副業や名誉職として営まれていた。当時はジャーナリストだけが有給の職業政治家であり、新聞経営だけが──また、それと並んで会期中の議会だけが──継続的な政治経営であった。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、52P

「ここまできても本職の政治家の数は少なく、主力は選出議員、少数の本部職員とジャーナリストで、フランスではそのほかに猟官者…」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、53P

政党職員

POINT

政党職員(せいとうしょくいん)・一般に、日本では「一般事務や政策推進業務を担い政党活動や運営を行うスタッフ(マイナビより引用)」とされている。政党職員は公務員ではない。

たとえば自民党では2021年に政党職員を募集しており、業務内容には「政策会議運営、役員秘書業務、党組織管理、広報業務、情報調査、総務・経理等」とあり、給与は月額 225,100円、賞与は年2回だそうです(出典)。このPDFではより詳細に政党の活動が説明されていました。たとえば広報本部の仕事では、「インターネットや紙媒体の広報ツールを利用し、当活動や政策を発信します。また、選挙時には、ポスター、公約をはじめ、新聞広告、CMなどマス媒体を駆使し、戦略的な広報活動を展開します」とあります。

ようするに政党の勢力を増やすためのありとあらゆる手段を手伝うスタッフであり、固定給をもらう職業政治家というわけです。私としてはジャーナリストよりもよっぽどこちらの政党職員のほうが職業政治家としてしっくりきます。

いわゆる民主制、それも選挙権が貴族ではなく、成人に平等に与えられるような時代になって「政党職員」というものが多くなってきたそうです。たしかに近現代の政治では「数は力」になります。より多くの民衆から一票でももらうために選挙カーを走らせ、新聞やネットに広告を出し、おかかえの政治ジャーナリストにお金を払い、裏金を渡すのかもしれません。

そうした選挙に関するテクニックは素人、ウェーバーの言葉で言えばディレッタントでは難しく、また企業家や医者が副業として容易にできる仕事ではないのです。日々政治のことだけを考えることができるような専門のスタッフが必要になる時代ということです。その代表が「政党職員」というわけですね。ちなみに自民党の従業員(正社員)は209人らしいです(URL)。もちろんその下にはボランティア的に働く臨時あるいは副業のスタッフとして「党員」が何万人もいます。2021年度においては110万人もいるそうです(URL)。この党員は基本的に職業政治家ではありません。

「職業政治家のタイプとしてのジャーナリストには、ともかくこれまで相当長い歴史があったが、次の政党職員という形態が出てきたのは、やっと数十年、一部ではここ数年来のことである。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、48P

「地域と仕事の範囲の点で、地方的な小行政地区のレヴェルを超えたかなり大きな政治団体において、権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる。すなわち、政治生活(つまり政治権力への参加)にとくに関心をもつ比較的少数のひとたちが、自由参加という方法で部下を調達し、自分や子分を候補者に立て、資金を集め、票集めに乗り出すようになる。大きな団体でこういう運営がない場合、どうしたら選挙がてきぱきとできるというのか。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、48P

マシーン

マシーンとは、意味

POINT

機械(マシーン)・組織された政党組織のこと。党員、党職員、党企業家たちが構成員。権力を握っているのは政党経営の根っこを金銭や人事の面で抑えている人間。政党指導者がこのマシーンを操作できるかどうかが重要になる。マシーンはウェーバーの言葉でいうと「人間装置の全体」。マシーンの登場は「人民投票的民主制」の到来を意味する。

「最終的な綱領を作るのは、もはや院内の党フラクションではなく、候補者の選定も地方名望家の手から離れ、組織された党員の集会が候補者を選び、上級の党集会──全国『党大会』にいたるまでに、時としていくつもの段階があるが──に代表を送り出すようになる。もちろん実際に権力を握っているのは、経営の内部で継続的に仕事をしている者か、でなければ──たとえば強力な政治的利害関係のクラブ(タマニーホール)のパトロンや支配人として──政党経営の根っこのところを金銭や人事の面で抑えている人間たちである。

決定的なのは、こういう人間装置の全体──アングロサクソン諸国ではこれを「機械(マシーン)」などとうまい言葉で呼んでいる──というよりもむしろ、この装置を操縦する人間が、現職議員に挑戦して、自分の意志をかなり大幅に押し付けることができるという点である。

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、54-55P

マシーンと政党指導者の関係

ウェーバーはマシーンが指導者個人に報酬を期待し、また指導者のカリスマ的要素がマシーンの政治的行為の精神的な動機の一つであるという。

党員や党職員は選挙運動を行う。たとえば○○党の選挙カーを準備したり、企業や地元の名士など各方面に投票してもらえるように呼びかけたり、資金を集めたりする役割を持つ。そういうスタッフ全体をマシーンという。党員や党職員は必ずしも「貧民を助ける」といったような抽象的な政党の方針ではなく、指導者のカリスマ的要素によって付き従い、コントロールを受けている要素がある。たとえば○○総理ならなんとかやってくれる、といったような個人の資質に期待して自民党を応援する場合などがそうかもしれない。

ちなみに党職員の中には秘書も含まれることがある。国会議員の秘書から議員になることも多く、ウェーバーのいうように指導者の勝利から官職やその他の利益を期待するというのは当てはまるのかもしれない。たとえば自民党が勢力を伸ばせば、それだけ国会議員の数も増える。あるいは自民党を応援したいという企業や団体の幹部として雇われるかもしれない。アメリカでは猟官制度といって、昔は大統領が代わることごとに何十万人という公務員が取り替えられたそうだ。もちろん党員や党職員がそういった官職にありつく。現在ではその数は減り、上位の職以外はほとんど専門的な能力を持つ恒常的な公務員が占めているらしい。

「こういうマシーンの登場は、換言すれば、人民投票的民主制の到来を意味する。言うまでもないことだが、党員、とくに党職員や党企業家たちは、指導者の勝利から個人的な報酬──官職やその他の利益──を期待する。……凡庸な人間から成り立っている政党の抽象的な綱領のためだけでなく、ある一人の人間のために心から献身的に働いているのだという満足感──すべての指導者資質に見られるこの『カリスマ的』要素──が彼らの精神的な動機の一つである。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、55P

コーカスシステム

POINT

コーカスシステム・「普通、政党幹部が党の選挙候補者の指名ないし政策決定のために開く『秘密幹部会』の意味に用いられるが、ウェーバーの場合、この語が──名望家政党との対比において──政党の『官僚制化』とほぼ同義に用いられ、とくにそれと結びついた政党リーダーの人民投票的性格が強調されている(訳注,『職業としての政治』,112P)」

官僚制とは明確な規則による職務の配分、階級的構造、専門の資格、貨幣による給与などさまざまな「目的の実現に対し計算可能な機能」を有した制度である。

たとえば自民党の党則には党員は「党の理念、綱領、政策及び党則を守ること」や「各級選挙において等の決定した候補者を指示すること」などが義務として掲げられている(URL)。専門の資格についは正確には不明だが、自民党の応募資格には「日本国籍を有し、令和4年3月末に大学・大学院を卒業・修了見込みの方。」とある(実際には選挙に関する知識がないと採用は難しいのではないだろうか)。国民民主党の応募資格には特に資格は必要とされていなかった(URL)。

立憲民主党の役員一覧ではわかりやすい表があり、最高顧問、(地域ごとの)常任顧問、代表、代表代行、幹事長、常任幹事、選挙対策本部長、事務総長云々といったように「階級的構造」がある(URL)。

「このシステムの生みの親は、非国教会派のある牧師とジョセフ・チェンバレンで、そのきっかけは選挙権の民主化であった。大衆獲得のためには、一見民主的な体裁をとった諸団体を母体にした巨大な装置を発足させ、都市の各地区に選挙団体を某毛、組織を絶えず動かし、一切を厳格に官僚制化する事が必要になった。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、59P

「強力な指導者がいる時の全国各地のコーカス・マシーンはほとんど無原則で、完全に党首(リーダー)のいいなりになる。こうして議会の上には、マシーンの力を借りて大衆の支持を得た独裁者──事実上民主投票的な──が君臨し、議員はこれに追従する政治的な受禄者に過ぎなくなる。」

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、61P

ボスとトゥイードマシーン

POINT

ボス・「自分の計算と危険において票をかき集める政治上の資本主義企業家」

アメリカのマシーンは、19世紀には腐敗にまみれていたようです。特にトゥイードマシーンというマシーンが有名であり、票を買収したりと政府を腐敗させていたそうです。トゥイードが会長だったころのタマニーホールは「票の買収操作」の代名詞とまでいわれているほどです。

ウェーバーによればこのような腐敗は猟官制度とワンセットであり、またアメリカ文化が若く、純粋な素人行政でやっていけたからだといいます。アメリカでは選挙ごとにただ党のためにつくしたという事実の他になんの資格も証明できない30万から40万の党員が官吏に任命されていたそうです。また大統領が代わるごとに一斉に辞職し、新しい大統領側についていた党員がまた任命されるというわけです。このようにチャンスに溢れていたので、選挙で買収が行われやすかったのですね。現在では資格の証明を必要とする官吏のポストが増えているそうです。

たとえば2000年のアメリカではアメリカの大統領の任命による高級管理職(各省庁の長官など)が1004人、上級管理職(議長など)が6700人のうち648人、一般職122万人のうち1287人程度だそうです(URL)。ようするに大部分のスタッフは現在、専門資格を必要とされるということであり、政治的任用による政治的官吏ではないということです(つまり専門官吏)。要するに素人行政ではやっていけなくなったので、専門官吏の割合をどんどん増やしていったというわけです。

このアメリカの「ボス」には腐敗のようなマイナス面ではなく、選挙で人気が出るとボスが判断すれば党に関係のないインテリや有名人が立候補できるというプラスの面もあるといいます。日本でも芸能人がよく立候補していますよね。カリスマ性のある人間がもし立候補すれば、政治的なリーダーになるという道もありえます。ドイツでは名士などの名望家が何度も立候補していて、そうしたインテリや有名人が立候補できる土壌がなかったそうです。

「この人民投票的な政党マシーンとともに登場した人物が『ボス』である。ボスとは何者であるか。自分の計算と危険において票をかき集める政治上の資本主義企業家である。ボスは弁護士として、居酒屋の主人やそれと似た経営主、時には金貸しとして、まずわたりをつけ、自分の綱を広げていって、一定数の票を『コントロール』できるようになる。」

65P

「アメリカにはこのように、上から下まで厳格に組織された高度に資本主義的な政党経営があって、これがタマニー・ホールのような、おそろしく強固で修道会まがいの組織をもったクラブの支持も得ているわけである。この種のクラブはもっぱら政治支配、とくに自治体行政──アメリカでもこれが最も重要な搾取の対象となっている──を操ることによって利益をあげようとする団体である。」

68P

「…長所ももっている。ドイツのように党の古い名望家が何度も立候補するのでなく、選挙で人気が出るとボスの方で判断すれば、等に関係のないインテリや有名人でも、しばしば立候補できるという点である。だから、社会的に軽蔑された実力者に牛耳られた・この無定見な政党構造のほうが、かえって有能な──ドイツならとうてい出世の見込みのないような──人材を、大統領職に送り込むのに役立ったわけである。」

タマニーホールのボスとして著名だったトゥイーターについては以下の引用を参照。

「19世紀後半までには、移民からの支持がニューヨーク市政において強大な力を発揮したのみならず、実業界や法の執行にも影響を及ぼすに至った。経営者が従業員に供応を行い、これと引き換えに支援(大概は民主党所属)候補への投票を呼び掛けるなど、いわゆる「企業ぐるみ選挙」が大々的に展開されたのはこの時代である。1854年には擁立候補が市長に初当選したが、これとて「ボス」およびその支持者による違法行為の賜物であった。中でもニューヨーク州上院議員となった「ボス・トウィード」ことウィリアム・M・トウィードが最も悪名高きボスとして知られる。」

タマニー・ホール(WIKI)

名望家

POINT

名望家(めいぼうか)・教養と財産をもった人々。重要なのは名望家による政党が名誉職的・副業的に営まれていたということ。1832年の選挙法改正以来、つまり近代的政党になると、議会制民主主義が主流となり、民衆の支持を集めることが必要不可欠となった。つまり職業的に、継続的に、組織的に政治を経営する必要があり、そういった人々が必要とされていった。たとえば「政党職員」がその例である。政党職員は名誉職的ではなく、固定給をもらう。選挙さらに権の拡大によってさらに政党がマシーンのように合理的な組織となっていくことになります。要するに名望家のような副業や臨時で政治家を行う「素人」ではやっていけなくなり、「プロ」としての職業政治家が必要とされていったということですね。

「西洋に典型的なインテリ層の精神的な指導下にあった名望家たち──いわゆる『教養と財産』をもった人々──は、ある時は階級利益や家の伝統によって、ある時は純粋にいでおろぎお-上の理由によって、いろいろの党派に分かれてゆき、それぞれの党派を指導した。まず聖職者、教師、大学教授、弁護士、医者、薬剤師、富農や製造業者──イギリスで紳士に数えられうすべての階層の手で、一時的な団体、せいぜい地方的な政治クラブ程度のものがつくられたが、……

クラブの指導は臨時の仕事なので副業や名誉職としておこなわれ、クラブのない場合も(たいていの場合そうだが)、普段の政治は、政治に常時関心をもつ少数者によって全く場当たり的に、同じく副業や名誉職として営まれていた。」

51P

指導者民主制か指導者なき民主政か

指導者民主制とは、意味

POINT

指導者民主制(しどうしゃみんしゅせい)たとえば政党指導者を頂点とした民主制をいう。民主制とは国民全体が主体的に参加する政治体制を意味する。国民全体が投票によって指導者を決める選挙の在り方を「人民投票制」という。人民投票的民主制は指導者民主制の類型であり、カリスマ的支配である。なぜなら、指導者の資質に人民が帰依している側面が強いからである。それと同時に、指導者が人民を支配する根拠が法や規則によって定められていることから、合法的支配でもある。指導者民主制はカリスマ的支配と合法的支配の混合型であるともいえる。民主的に支配の根拠を作り出すことによって、被支配者である人民の自由な信頼という形式で支配の正当性の根拠を獲得することができる。

指導者なき民主制とは、意味

POINT

指導者なき民主制指導者がいない民主制。ここでいう指導者とはカリスマ的な資質を持つ人間のこと。指導者なき民主制では、カリスマ的な資質をもたない職業政治家」が支配している。「派閥支配」ともいわれる。指導者なき民主制の典型的な特徴は「比例選挙法」にあるという。たとえば日本の比例代表制では、政党が立候補者に順位をつけ、各政党が獲得した投票数に比例して候補者に議席を配分する。つまり、有権者が立候補者Aのみが政治家として望ましいと思って投票しても、政党が立候補者BやCを上位に名簿で記していた場合、立候補者Aは議員になれない場合がある。この順位付けというシステムはある種の「官職任命」であり、闇取引が横行する危険性がある。

ところでぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。そして後者は、党内反対派の立場からよく「派閥」支配と呼ばれるものである。

…もうひとつの問題は比例選挙法で、今の形でのそれは、指導者なき民主制の典型的な現象である。比例選挙法は官職任命をめぐる名望家たちの闇取引を助長するだけでなく、今後、各種の利益団体がその役員を候補者リストの中に割り込ませ、議会を本当の指導者の入る余地のない、政治不在の議会にしてしまうおそれがあるからである。そうなれば、大統領制──議会によってではなく人民投票によって選ばれた──だけが、指導者に対する期待を満たす唯一の安全弁となるであろう。

『職業としての政治』、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、74-75P

現在の日本の政治は議院内閣制であり、総理大臣は議会によって決定されます。つまり、国会議員の中から国会議員による投票で過半数の指名を受けたものが総理大臣になるということです。日本では基本的に与党の総裁が総理大臣になるので、自民党内部で行われる「総裁選」挙が実質的な総理大臣を決める争いの場になります。アメリカの大統領制では議員で投票して決めるのではなく、国民が投票して決めます。

ウェーバーは「コーカス・マシーン」の人民投票的性格を強調していました。つまり、カリスマ性のあるリーダー(党首)によって党員や党職員が機械のように言うことに従うような事態、ウェーバーの言葉を使えば「魂を奪う」ような事態になります。つまり「イエスマン」です。

リーダーにカリスマ性があるからかろうじてマシーンを制御できるのであり、そのすべてを制御できるわけではありません。スタッフはリーダーのカリスマ性を精神的な動機のひとつとしていますが、他にも名誉欲や金銭欲、権力欲等のさまざまな「卑俗な行為動機」があるからです。しかしカリスマ性がない場合は、そうした卑俗な行為動機がさらに増大し、腐敗しやすくなることがイメージできます。カリスマ性があるかどうかではなく、派閥が大きいかどうかが重要になります。また派閥を増やすために官職が汚職に使われてしまいます。

ちなみに今の自民党の派閥は安倍はの勢力が94、麻生派の勢力が54、茂木派の勢力が53、岸田派の勢力が44、二階派の勢力が44、森山派の勢力が7、他の無派閥が77だそうです(URL)。総裁選でだれが総裁になるかは、それぞれの派閥からどれだけ支持をもらえるかが重要になります。また自民党議員だけではなく、自民党の党員も総裁選では投票権をもっています。党員は基本的にお金を払えばなれます。党員や議員からカリスマ性に着目されて支持される場合は指導者民主主義に近づきますが、単純に派閥が大きいから総裁に選ばれた要素が大きければ、指導者なき民主制に近づきます。

2022年2月2日時点の日本の総理大臣である岸田文雄さんにカリスマ性がどの程度あるのか、また派閥の動きは総裁選においてどのようなものであったかの分析などしてみると面白いかもしれません。

「人民投票的指導者による政党指導は、追従者から『魂を奪い』、彼らの精神的プロレタリア化──とでもいえそうな事態──を現実にもたらす、ということである。指導者のための装置として役立つためには、追従者は盲目的に服従しなければならず、アメリカ的な意味でのマシーン──名望家の虚栄心や自説に固執して、故障を起こしたりしないマシーン──でなければならない。」

74P

派閥政治

派閥についての概略は以下を参照。

派閥政治は連立政権と同等であり、自由民主党に多様性をもたらす。これにより幾多の政治変動にも対応できる広大な支持基盤を持った政党が誕生した。価値観の多様化が進む現代社会では、政党制も支持基盤の多様化に合わせて多党化しないと問題が生じ、小党乱立に至らざるを得ない。派閥同士の関係は険悪だったものの、日本社会党が野党であり続けることを選択した状況の中で、政治の緊張感を維持し、公明党も含めて与党であり続けた側面がある。派閥解消が要求された時期には勉強会や新人議員における教育機関としての役割も無視できず、グループという建前で実質的に派閥の維持が図られた。

派閥政治は政党政治の観点から批判されることがある。派閥領袖は政治資金やポストの斡旋などで支援を期待され、資金の不足しがちな若手議員や入閣適齢期の中堅議員は派閥領袖の意向に大きく左右される。これにより総裁の判断を無視した派閥領袖の意向が影響力を持つことが多々あり、長老支配・密室政治・金権政治の原因となってきた。角福戦争に代表される派閥抗争が各派閥の行きがかり(「怨念」)を主題に争われ、政策課題が二の次となることもあった。

WIKI

派閥の後継者の条件として,1)派閥構成員の政治活動資金を提供することのできる経済的資質(集金能力),2)バトロネージを派閥構成員に配分することのできる政治的資質(リーダーシップ),3)派閥の正統後継者としての認知を得るための閨閥を指摘することができよう。これらの条件の間の優先順位は,固定しているわけではない。安部晋太郎氏や宮沢喜一氏のように,政治的資質を欠いていても,閨閥と経済的資質で派閥を継承することも可能である。

『自民党派閥と政治家族一出世民主主義の危機』、依田博、59P URL

派閥のリーダーが必ずしもカリスマ性をもっている必要はなく、経済的な資質があればなれることもあるそうだ。つまり派閥政治は金権政治になりやすく、派閥政治はカリスマ性をもっている政治家を育てにくいという側面があるのかもしれない。カリスマ性をもっている政治家も派閥に属すと、派閥の長のご機嫌を常に伺うイエスマンになる。派閥の長は自らの勢力を伸ばすことばかりを考える。

つまり指導者なき政党組織の場合、政党内で派閥同士が争い、その争いに勝った派閥の長が政治指導者として選ばれやすいということだろうか。しかし日本の菅総理は無派閥で総理大臣になり、現総理大臣の岸田総理は宏池会という最古の派閥であるが最大ではない派閥の出身である。要するに各派閥から支持を最も多く得た政治家が与党の総裁選で選ばれ、総理大臣となるわけだが、そのプロセスはいろいろと複雑なようだ。

仮に無派閥で総理大臣となったとしても、派閥をコントロール、つまりマシーンをコントロールできなければ意味がない。派閥に「それは断る」と言われるようならマシーンをコントロールしきれない。

ただ派閥同士の都合で選ばれただけの政治指導者は、ウェーバーのいうカリスマ性をもつ政党指導者とは言えない。つまり、マシーンをコントロールしきれない。だからこそウェーバーはアメリカの人民投票制、つまり大統領制を支持した。派閥同士の都合ではなく、国民の総意として選ばれたからカリスマ性をもつというわけだ(カリスマの没支配的な解釈がえ)。国民に選ばれたからカリスマ性もつということにしていいかは議論の余地があるかもしれない。

職業政治家とは結局・・・

岸田文雄さんは職業政治家です。政治を第一として生きていて、他に副業がありません。医者や弁護士、八百屋と同時に政治家をするべきではなく、政治家のみに専念するべきと言える代表的なちいが総理大臣であり、政党指導者なのです。

ウェーバーは職業政治家としてとりわけ、「政党指導者」を重視しています。政治的官吏も党職員も国会議員も地方議員もジャーナリストも職業政治家ではありますが、基本的に「マシーン」なのです。政党指導者が「こっちにいく」と決めたら「イエスマン」になる「その他スタッフ」というわけです。その性質的に官吏が最もマシーン的であり、その意味で無責任といえます。

ウェーバーは政治家に情熱と責任感と判断力を資質として求めましたが、官吏に「責任感」は当てはまりにくいのです。しかしそれでも、政治は暴力を手段としています。したがって、イエスマンの官吏や議員、党職員であったとしても、「責任倫理」は政党指導者と同じように求められるのだと思います。

たとえば外務省の職員が間違った情報を上司に渡してしまい、上司はその情報を政治家に渡し、政治家はその情報を元に外国と戦争を行うかもしれません。この場合に、外務省の職員の責任は上司の責任となりますが、本当に部下に責任がなくていいのでしょうか。部下は「上司が情報を集めろ」といったこの「集める」という行為に責任をとらなくてもいいのであり、「集めたものの正確性・客観性」等には責任をとる必要があると思います。警官は上司から「たとえ武力を使ってでも犯人をとらえろ」と言われれば「武力を使わずに犯人を捉えるという個人的な心情は棄て、武力を使って犯人をとらえる」必要があります。警官は武力を使いつつも、どのような武力なら望ましいのかを判断する必要が生じます。

「ウェーバーは、政治家のベルーフ成立根拠を、もっぱら最高指導者において考えている。しかし、職業政治家とよばれるものは、かならずしも指導者だけに限られない。政治組織に内属するものもまた政治を職業とするものである。ウェーバーはこの組織が機構であることを強調し、そこに内属するものは精神的にプロレタリア化しているという理由で、かれらの行動や生活の倫理性をほとんど問題とはしていない。しかしこれは一面的な見方というべきであろう。政治家であることの内面的問題性がもっとも明らかにあらわれるのは指導者の場合であることはたしかに当然といえよう。しかし、機構に属しているものも、それぞれ相応の権限をあたえられている。しかも、現代においていかに機構の支配力が強化されているといっても、ものごとは、とくに政治的な行動は、機構の自動的な働きだけで一義的に決定されつくすものではない。合理的な予測が裏切られる場合も数多い。

したがって指導者以外のものも、やはり自己の権限内のことについては責任をとらなければならない。かれらの場合にも、行動や生活が倫理性をそなえるためには、やはり価値合理性のエートスと目的合理性のエートスを結合することが必要なのであり、指導者との相違は程度の問題に過ぎない。」

『職業のエートス』,川瀬謙一郎,105-105P

川瀬さんの説明のとおりだと思います。政治指導者以外のそのスタッフも指導者と程度の差はあれ、責任を負わなければならないのだと思います。外務省のトップやそれらを束ねる総理大臣だけではなく、下っ端の外務省の職員も責任倫理を負わなければならないということです。責任倫理についてはこちらの記事を参照してください。

※注にウェーバーも同様のことを指摘していると記載あり。以下の引用部分。

「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成もおぼつかないというのは、全く正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。

しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、──はなはだ素朴な意味での──英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意思でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。

自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が──自分の立場からみて──どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!(デンノッホ)』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」

(マックス・ウェーバー『職業としての政治』,105-106P)

上記にあるように、「そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意思でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。」とある。指導者を念頭におきつつ、指導者以外にも情熱と判断力の駆使を、すなわち責任倫理を求めたということだろう。

「では,官僚の倫理はどうであろうか。ヴェーバーはこれについては特に述べてはいないが,それが「責任倫理」でも「心情倫理」でもないことは明らかであろう。官僚は自らの決断によってではなく,規則や上司の命令に従って行動する。「責任のとりかた」ということで言えば,政治家は結果に対する責任をとる-あるいはとるべきだ-が,官僚は責任をとらない,とる必要がない,ということになろう。自らの決断によるのではない行為の結果に対しては,責任を取れるはずがないからである。ヴェーバーは官僚に倫理性がないと考えている訳ではない。むしろ,前に見たように,官僚には「最高の倫理的規律」が求められるのである。だがでは,官僚の倫理はどうであろうか。ヴェーバーはこれについては特に述べてはいないが,それが「責任倫理」でも「心情倫理」でもないことは明らかであろう。官僚は自らの決断によってではなく,規則や上司の命令に従って行動する。「責任のとりかた」ということで言えば,政治家は結果に対する責任をとる-あるいはとるべきだ-が,官僚は責任をとらない,とる必要がない,ということになろう。自らの決断によるのではない行為の結果に対しては,責任を取れるはずがないからである。ヴェーバーは官僚に倫理性がないと考えている訳ではない。むしろ,前に見たように,官僚には「最高の倫理的規律」が求められるのである。」

『ウェーバーと官僚制』、千葉芳夫

一方で、千葉さんの言っていることも理解できる。純粋な官吏は責任倫理でも心情倫理でもなく、「規律」に従う。たとえば国家公務員法や等規則だ。上司の命令をきかなければいけないという規則があるなら、それに従うことが官吏にとっての「倫理」となる。千葉さんがいうには、こうした「規則人」としての官吏をウェーバーは良く思ってなかったらしい。カリスマ的な政治家は文化人、つまり「世界にたいして意識的に態度を決め,それに意味を与える能力と意思とをそなえた人間」である。一方で官吏はこうした文化人にはなれない。自分の信念を突き通すことよりも、規律に従うことを求められるからだ。戦争が嫌だと思う信念を否定し、上司が人を殺せと言ったら人を殺さないといけない。しかし殺した結果どうなるかという責任は官吏がとるわけではなく、それを命令した人間にある。それを命令したさらに上の・・・とさかのぼれば結局の所国の政治のトップである政治指導者につきあたる。

参考文献・おすすめ文献

マックス・ウェーバー『職業としての政治』

職業としての政治 (岩波文庫)

マックス・ウェーバー『権力と支配』

権力と支配 (講談社学術文庫)

雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』

知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論

山之内靖『マックス・ウェーバー入門』

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

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