【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

Contents

はじめに

・今回はウェーバーの理論を要約することが目的ではありません(論文を通してウェーバーの理論を理解することが目的です)

・ウェーバーの記事を基礎知識として前提としています。以下が前回の記事です。今回もざっくり扱いますが、あまり詳細は扱いません。

【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか

参照論文リスト

1:佐藤俊樹「理解社会学の理論モデルについて」(URL)

2:大垣俊一「ミル型論証と生態学」(URL)

3:橋本さんのレジュメもわかりやすいです(URL)

4:赤川元昭『仮説構築の論理― 消去による帰納法 ―』(URL)

概要

全体の流れについて

1:基礎用語の理解を通して理解社会学の概念を理解する

2:具体例を通して理解社会学の使い方を理解する。具体的にはマイヤー論文とプロ倫の検証を主に使う。

1:前提(行為理論)

人間の主観を模写的に知ることは不可能。頭の中はのぞけないし、複雑にさまざまな要因が絡み合い、本人すら明確に説明しきれない。心理学的な機構による説明、遺伝子や神経からの自然科学的説明は社会学的説明ではないし土台でもない。

社会学は「個人の行為」を事象の最小単位とする(行為理論)。社会現象は個人の行為の集まりにすぎない(方法論的個人主義)。

理解社会学:社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学
社会的行為:他者とのかかわりにおいてなされる行為。他の人々の過去や現在の行動。行為とは主観的な意味を含ませていることを前提とする(脊髄反射などは行為ではない)。
方法論的個人主義:社会学における最小の単位は「個人の行為」であり、それより小さいものは前提ないし所与のものとされる。したがって社会も個人の行為の集まり。たとえば心理学による人間の内部の心や自然科学による遺伝子や神経の説明等は社会学の土台ではない。

2:理解とはなにか(限られた知)

ウェーバーのいう理解は「ある具体的な人間が実際に考えた意味を観察者側が推定して理解する」ということである。

例:車を運転していて事故を起こしてしまった。運転者に過失があるかどうか。運転者が「私は過失がなかった」といくら主張したところで本当かどうかわからない。ウソかもしれないし、ウソじゃないかもしれない。観察者(裁判官)がこうした状況なら経験的、規則(判例)的にいって「過失があったと推定する」といったように運転者の行為が「理解」される。実際に運転者が事故を予見できたかどうかという主観的意味ではなく、観察者側からみた運転者が事故を予見できたかどうかという主観的意味の推定が社会学ではメインとなる。

前提の通り、人間の主観的意味は複雑すぎてそのまま理解することはできないので、観察者の側から非観察者が考えた意味を推定して理解することになる。

限られた知、知の不確実性:こうした理解はどこまでいっても「推定」にすぎず、どこまでいっても可能性や蓋然性(確かさの度合い)が高い仮説にすぎない。経験的にいってこう考えるのが普通だろう、あるいは他の社会と比較して因果的にこう説明がつくだろうといったような推定にとどまる。限界内でどこまで理解度を高めるかという点にポイントがある。1(完全に法則から行為を説明できる)か0(行為はいかなる方法でも予測できないから意味がない)かではなく、できるだけ1に近づける作業。必然性ではなく解釈の可能性に着目。

3:どうやって推定するのか

解明的理解:普通はこういう意味だろう、というような「明証的な解明」によってわれわれはまずは理解することができる。これは観察者側の社会(あるいは非観察者側の社会)ではある行為はこう考えるのが普通だ、といったような経験的な規則等によって裏付けられる。明証性という基準がある。

具体的には普通はこうする(合理的行為など)だろう、というような一意的、一面的なモデル(理念型)を作り、現実と照らし合わせて理解していく。現実と照らし合わせていく過程で、非合理的な要素もありえるかもしれない。目的合理的が理念型では一番作りやすい。他の社会的行為でも可能である。

因果的説明:次に、他の社会などと「比較」し、因果関係を裏付ける作業によって「因果的に説明」することができる。具体的には比較対照試験などを用いる。経験的妥当性という基準がある。

理解社会学は「理解」と「説明」がセットになっている。要するに理解社会学とは、理解しつつ説明するということを目指す。しかし理解(明証的な解明)できただけで説明(経験的妥当性をもつ因果的解明)になっているとは限らない。明証的に解明できることと、因果的に説明できることがセットになってはじめて理解社会学となる。

別の言い方をすれば「意味適合的」かつ「因果適合的」をめざす科学。

理念型は解明的理解の段階で仮説的に用いられる(理念型を組み合わせて因果仮説を構築する)。この理念型による因果仮説が因果適合的かどうかは「実験(差異法、比較対照試験、因果帰属、思考実験)」によって裏付けられる。

比較対照試験(差異法)

差異法:「ある現象が起こっている事例と起こっていない事例において、前者だけに含まれる 条件がただ一つあって、それ以外のすべてが両者に共通しているならば、その1つの 条件が両事例の差の原因である。」

自然科学のような直接的、人為的な差異法は社会学では使えないが、間接的に使うことは出来る→間接実験

例:ウェーバーによれば西洋と初期条件が似ているのは中国だった。西洋と中国の大きな違いは「プロテスタンティズムの倫理があるかどうか」であり、中国はそうした要素がなかったから資本主義の精神が育たなかったという推測ができる。つまり資本主義が起こっているという事例(西洋)と起こっていない事例(中国)において、西洋だけに含まれる条件がただひとつ(プロテスタンティズムの倫理)あって、それ以外のすべてが両者に共通してるならば、そのひとつの条件が両事例の差の原因であると推定することが出来る。

→ただし、ウェーバーはプロテスタンティズムだけが資本主義を生んだという原因特定には成功しなかった。なぜなら西洋と中国の違いはプロテスタンティズムの倫理だけではないからである。→限定された知

→限界があることは自覚しつつ、その限界内でできるだけ「実験(差異法)」を通して因果的説明によって客観可能性を高める(説得力をもたせる)

動画での説明

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基礎用語理解

理解社会学

POINT

理解社会学・「社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学」。

「『社会学』という言葉は、非常に多くの意味で用いられているが、本書においては、社会的行為を解釈によって理解するという方法で社会的行為の過程および結果を因果的に説明しようとする科学を指す。」

「社会学の根本概念」、マックス・ウェーバー、清水幾多郎訳、岩波文庫、8P

背景的説明

当時のドイツ社会科学では精神科学と法則科学が対立していたそうです。

精神科学:「人間の行為は自由であり、それゆえに非合理的・個性的である」

法則科学:「人間の行為は自然的歴史的条件によって法則的に決定される」

理解社会学:「人間は選択的に行為しており、自由である。人間は可能な行為選択肢の中から一定の規則に基づいて考え、選択している。この選択プロセスが一定の規則に従っていれば、具体的な行為にも一定の規則が生じる。」

問題点:どうやって人間の頭の中(主観的意味)、選択肢、規則を知ることが出来るのか→観察者が主観的意味を推定するしかないのではないか。

例:飛び降り自殺と事故死が外形的には全く同じだと仮定して、両者は区別できるのか→頭の中を覗かなければ分からない。経験的にいってこれは自殺だろう、これは事故死だろうという仮説はたてられるが、結局は仮説の確かさの程度の問題に過ぎない。人間の頭の中の意図や動機を実際に覗き込むことはできない(本人すら分かっていない場合もある)。自然科学的にはビルから落ちて死んだということが物理学的に証明できたとしても、それは社会学でいう「理解」にはならない。かといって経験的にいってこれは死にたくて飛び降りたのだろうという観察者側からの「理解」で「説明」しただけでも不十分である。

→他者によって見えない(理解できない)主観的な意味や内面はとりあえず置いておく。ウェーバーは他者によって見える部分のみを基本的に扱うことにした。

例:交通事故において過失かどうか、どう判定されるのか→本人の実際の意志や意図はのぞきこめないので、普通はこうだろうというような推測が基準となる。本人がいくら「通行人に気づかなかった」と言ったところで、経験的、規則的(判例的)にいって「気づいたはずだろう」という話になる。

「当時のドイツ社会科学では,人間の行為は「自由でありそれゆえ非合理的・個性的である」とする精神科学と,人間の行為は自然的歴史的条件によって法則的に決定されるとする法則科学とが,対立していた。これに対し,Weberは公理2を立てることによって,行為における自由意志とその行為における一定の規則性の存在とが両立することを示したのである。いわば,人間は自由に行為できるからこそ、ある具体的行為に関してそれを決定した選択プロセスというものが想定され、その選択プロセスにおいて一定の規則に従っていれば、具体的な行為にも一定の規則性が生じるという論法である。」

佐藤俊樹「理解社会学の理論モデルについて」,153-154P

理解

POINT

理解(1)・ウェーバーによれば理解は「直接的理解」と「説明的理解」に分れる。直接的理解とは「斧で木を切っている」といったような理解である。直接的理解は合理的なものも非合理的なものもありえる。たとえば「顔に怒りの表情が出ている」ということは直接的に理解できる(感情の非合理的直接理解)。1+1=2だということは直接的に理解できる(観念の合理的直接的理解)。説明的理解とは、意味を動機的に理解することである。たとえば「斧で木を切っている動機はお金のため」といったような例が挙げられる。動機は合理的なものもあれば非合理的なものもある。

POINT

理解(2)・ウェーバーによれば理解は(一)ある具体的ケースにおいて実際に考えられている意味や意味連関(歴史的研究)、(二)平均的近似的に考えられている意味連関(社会学的大量観察)、(三)ある頻度の高い現象の純粋型(理想型/理念型)として科学的に構成される理念型的な意味や意味連関の3つにわかれる。

たとえばナポレオンのある行為を理解する場合は(一)になるかもしれない。ナポレオンが実際に〇〇の理由で〇〇をしたという伝承があれば、それを歴史的研究としてそのまま記述して理解したことにするかもしれない。

(二)は多くの人間はこういう動機で行為しているだろう、という観察者の推測に重心が移っている。つまり普通(平均的近似的)はこう考えるだろう、という意味の理解になる。つまり多くの人間はこのように理解するだろう、という意味になる(本人がどう考えていたかは重要ではない)。

(三)に至っては完全に観察者の推測に重心が移っている。理念型は特定の関心や特定の側面だけを誇張して作るモデルによって理解するケースである。これは単なる平均ではない。たとえばウェーバーにおけるプロテスタントは禁欲的な集団だが、実際のプロテスタントにおいて禁欲的だったのは少数だったらしい。多数派でも平均的でもないが、分析には便利だという理由だけで理念型は使われる。ウェーバーの関心は「資本主義(近代化)」にあり、その関連におけるプロテスタント像が構築される。この理念型モデルは実在せず、架空のものである。しかしこの架空の非現実的な合理的モデルを通して非合理的な現実を理解することが可能になる。

プロテスタントは禁欲的な行為をしている→直接的理解

プロテスタントはなぜ禁欲的な行為をしているのか→神からの救済を確証したいから(価値合理的理解)、不安だから(非合理的理解)

動機とは-意味適合的と因果適合的-

POINT

動機・行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関

・動機の意味連関には2通りある。

【1】意味適合的:思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような意味連関。意味連関=直感的に合理性(論理・数学など)や非合理(感情など)を通して理解できるということ。(例:寒いからエアコンをつけるのは普通は正しいから意味適合的。解明的。1+1=2は正しいというのも意味適合的。)

【2】因果適合的:経験的規則から見て、いつも実際に同じような経過をたどる可能性の度合い、蓋然性(がいぜんせい)。ある特定の条件のもとでは特定の結果が生ずる公算が高い規則性があるということ。経験的妥当性。客観的可能性。酸素と水素をまぜたら必ず水になるといったようなほとんど例外のない狭義の意味の「法則」とは異なる法則的知識(規則)。因果連関=仮説。仮説の確かさの度合い(数字で表現できるなら「確率」)。例:もし鎖国がなかったら日本は発展していなかったといえる客観的可能性はどの程度あるか。

→意味適合的であるからといって因果適合的であるとは限らない。

たとえば寒いからエアコンをつけるのは意味適合的で理解できるが、寒いからといってそれがエアコンをつけるという行為につながるかどうかはわからない。寒いからエアコンをつけるという論理が因果適合的かどうかは「実験」などによって裏付けされ、経験的妥当性を付与させる必要がある。

因果帰属

POINT

因果帰属(Kausalzurechnung)ある事象の生起とそれに先行する一定要因との関係を、経験的な規則に照らして因果化関係にあると判断すること

余談だが、蕎麦を食べるたびにくしゃみが出ていた。同じめんつゆでうどんを食べてもくしゃみが出ない。蕎麦を食べるたびにくしゃみが出ている。これはくしゃみの要因は蕎麦に因果帰属させることが出来るのではないだろうか。蕎麦には一部の人にくしゃみを生じさせることがあるというのは一般的、経験的規則になるのではないか(いわゆる蕎麦アレルギー)。

「『因果帰属(Kausalzurechnung)』とは、ある事象の生起とそれに先行する一定要因との関係を、経験的な規則に照らして因果化関係にあると判断すること」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』、未来社、事項注の2P(解説部分)

理念型

POINT

理念型(りねんけい,Idealtypus)・認識関心に従いつつ現実の事象から特定の要素を抽出し、その一面をことさらに強調して、ひとつの整合的な像へと思考の上で構成したもの

例:経済学では「経済人」という理念型を作り上げる。たとえば人間はすべて利益の追求を目的としていると仮定して考え、市場の動きを分析する。現実には利益の追求を目的としていない人間もいる(自分に損な取引もするし強奪も起こるし無償の譲渡もありえる)が、捨象して考える。理念型は現実そのものでも、平均的なものでもない。ウェーバーの「カリスマ的支配」や「プロテスタンティズムの倫理」なども理念型。禁欲的なプロテスタントはプロテスタントの平均ではなく、むしろ少数だったという説がある。近代化という要素に関心があるために、一面的に強調して構成されている。

「『理念型(Idealtypus)』とは、認識関心に従いつつ現実の事象から特定の要素を抽出し、その一面をことさらに強調して、ひとつの整合的な像へと思考の上で構成したものをいう。」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』、未来社、事項注の2P(解説部分)

目的合理的行為と理念型の関連

POINT

目的合理的行為・目的を設定し、結果を予測などによって考慮した上での行為。行為の意味は結果にある

ウェーバーによれば理念型の構成には目的合理的行為が最適である場合が多いという。

経済人(ホモ・エコノミクス)という考えがわかりやすい。経済人という考えでは、すべての人間が利己心だけ、つまり自分の経済的利益を拡大することを唯一の行動基準として想定する。もちろん実際の人間は利己心だけで行動しているわけではないし、むしろその逆の場合もある。売れば利益になるのに無償であげたり、感情的な理由によsって損をすることもある。しかしこうした純論理的な理念型を通して経済を考えることで理解できることも多い。

目的合理的行為が一番明証的、つまり普通はこうするだろうという理解がしやすいために理念型の構成に最適だという。たしかに他の社会的行為、たとえば感情的行為をはっきりと理解することは相対的に難しいといえる。たとえばある人間が怒りの表情をしていて、なぜ怒っているのか明確な動機を理解できるだろうか。そんなことで怒るのかという場合もあるし、個人的な思い入れがあるかもしれない。しかしお金を稼ぐために行為をするというような目的合理的行為の場合は単純で理解しやすい。

もしボクサーの理念型を考えるとしたら、相手を打ち負かすために戦うという目的合理的行為を基準とするのかもしれない。徒競走なら1位を目指すという目的が想定されるかもしれない。4位を目指しているという例外もあるかもしれないが、そういうものは捨象する。そうして小さな理念型を作っていき、理念型同士を組み合わせていく。プロテスタンティズムの倫理(理念型1)が資本主義の精神(理念型2)につながったというのも理念型を組み合わせた因果仮説である。

理念型では当事者の状況や意図が完全に知られているという仮定をする。経済人の場合では意図は「利益を増やすという目的」に固定されている。それ以外の目的は捨象される。

「(一)目的合理的行為。これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。」

『社会学の根本概念』39P

「第四項 目的合理的に行為する人間というのは、目的、手段、付随的結果に従って自分の行為の方向を定め、目的と手段、付随的結果と目的、更に諸目的相互まで合理的に比較秤量し、どんな場合にも、感情的(特に、エモーショナル)或いは伝統的に行為することのない人間のことである。」

『社会学の根本概念』41P

「しかし、理解可能な諸関連を社会学的に分析するにあたっては、合理的に解明しうる行動が最適の『理念型(IDealtypus)』となることは非常に多い。すなわち、社会学も、歴史学と同様にさしあたりは『プラグマ-ティッシュ』に、すなわち行為の合理的に理解できる連関から、解明を行うのである。たとえば社会経済学は、かの『経済人』という合理的構成を用いつつまさにそのように研究を行う。そしておよそ理解社会学もまた、全く同様なのである。というのも、理解社会学に特有の対象とわれわれが考えるのは、任意の『内的状況』や外的行動なのではなくて、行為なのだからである。」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』、未来社、13P

「それゆえ、類型構成的な科学的考察においては、行動の非合理的感情的な意味連関が行為に影響を及ぼす場合、すべてこういう意味連関は、先ず、行為の純粋目的合理的仮定を観念的に構成した上で、それからの偏向として研究し叙述すると非常に明瞭になる。例えば、株式恐慌を説明するのには、先ず、非合理的感情の影響がなかった場合に想像される行為の仮定を明らかにし、次に、非合理的要素を撹乱要素として導入するのが便利である。同じように、政治的行動や軍事的行動についても、先ず、当事者の事情や意図が完全に知られているという仮定、また、正しいと思われる経験に従って手段の選択が純粋目的合理的に行われているという仮定を行い、これらの仮定の下で行為がいかなる仮定を辿るかを明らかにするのが便利である。

こうして初めて、それらの偏向の原因を、そこに働いている非合理性に求めることが出来る。右のような場合、純粋目的合理的行為には明確な理解可能性と合理性に基づく明白性とがあるため、純粋目的合理的行為を観念的に構成することは、類型(『理想形』)として社会学に役立ち、感情や錯誤など、あらゆる非合理性の影響を蒙る現実の行為を、純粋合理的行動に期待される仮定からの偏向として理解させるものである。」

『社会学の根本概念』12P

解明とは

POINT

解明(かいめい,Deutung)・考察の対象たる人間の行為の持つ意味関係に着目しながら、行為の理解やそれを通じた行為連関の説明をめざす方法的な作業

「『解明(Deutung)』とは、語義としては『解釈すること』、『明らかにすること』を意味するが、理解社会学においては、考察の対象たる人間の行為のもつ意味関係に着目しながら、行為の理解やそれを通じた行為連関の説明をめざす方法的な作業を目指す方法的な作業をいう。理解社会学における解明は『意味』を把握する構造化された方法として、理解と説明とを密接に媒介しているのである。」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』、未来社、事項注の2P(解説部分)

解明的理解

POINT

解明的理解(かいめいてきりかい)・理にかなっているので明瞭にわかるか、あるいは感情が追体験的に出来るように理解できるかの二種類。合理的な理解と非合理的な理解にわかれる。解明的理解には明証性という基準がある。

明証性

POINT

明証性(めいしょうせい)・明白であって直感的に把握しうることを意味する。解明的理解の度合い。

「『明証性(Evidenz)』とは、明白であって直観的に把握しうることを意味し、『妥当性(Gultigkeit)』とは、現実に通用すること、あてはまることを意味する。ある解明がいくら直観的に明白であっても、可ならzすも現実とは合致しているとは限らない、というのが、ここでのウェーバーの論旨である。」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』、未来社、事項注の2P(解説部分)

因果的説明

POINT

因果的説明(いんがてきせつめい)・行為の経過と過程が「なぜかくなって、かくならなかったか」という因果的で妥当な説明。

妥当性

POINT

妥当性(だとうせい,Gultiglkeit)・現実に適用すること、あてはまること

経験妥当性

POINT

経験妥当性(けいけんだとうせい)・経験科学一般の因果帰属の論理に従って検証する。→「実験」であり、「比較対照試験」である。社会学においてはほとんどのケースで自然科学のような比較対照試験は難しい(歴史は一回きり)。したがって「思考実験」として、もし〇〇という歴史現象が起こらなかったら、という形での比較や、〇〇という要素が見られない他の文化では実際にどうなっているかという文化の比較や、過去において同じようなケースではこうなっていたというような比較が用いられる。そうした意味では、客観的可能性(経験妥当性)の度合いできるだけ高めていく作業であるといえる。

・行為者の動機が論理的に考えると普通はこうだろう、あるいは感情的にはこうだろうという直感的な「理解」だけではだめ。
・訓練された方法、つまり「実験」によって「理解」が妥当な説明によって因果的に裏付けされる必要がある。

「人間の(『外的』あるいは『内的』)行動は、あらゆる出来事と同じように、その経過のうちに連関や規則性を示す。しかし少なくとも完全な意味で人間の行動のみに固有なのは、そこに、その経緯が理解できる形で解明しうるような連関や規則性があることである。解明によって得られた人間の行動の『理解』は、さしあたり、極めてさまざまな大きさと質をもった特有の『明証性』を備えている。しかしある解明がこの明証性を特に高度に備えているからといって、その事自体は、まだその解明の経験的な妥当性を少しも証明するものではない。

というのも、外的な経緯や結末において同一の行動が、極めて異なった動機の布置連関から生み出されることもありうるのであって、それらのうちで理解の明証性が最も高いものが、常に現実にも作用していたとは限らないからである。むしろ、いかに明証的な解明といえども、それが妥当性を伴う『理解による説明』と言えるためには、当の連関の『理解』はさらに、他の場合でも常に用いられる因果帰属という方法によって常にできるだけ」コントロールされねばならない」

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』10P

差異法

POINT

差異法(さいほう)・ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)が提唱したといわれる5つの帰納法(ミルの方法)のひとつ。「ある現象が起こっている事例と起こっていない事例において、前者だけに含まれる 条件がただ一つあって、それ以外のすべてが両者に共通しているならば、その1つの 条件が両事例の差の原因である。」という考え方。

例:たとえば一方のネズミにはある薬を餌に混ぜ、もう一方のネズミにはただの餌を投与する。その他の条件は一律にする。薬を飲ませたほうがネズミのグループのほうが長生きした場合、薬が原因だったと推定することができる。

自然科学は「実験」によって基本的に原因等を追求する。人為的な操作によって実験する場合もしない場合もある。

社会科学は自然科学のような人為的な実験が難しい。たとえば「「プロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神を発生させた」ということを「実験」によって因果的説明をすることは難しい。プロテスタンティズムの倫理以外はすべて共通しているような社会集団を人為的に作り、比較して社会実験を行うことは難しい。

「第2の規範(差異法) 「ある現象が起こっている事例と起こっていない事例において、前者だけに含まれる 条件がただ一つあって、それ以外のすべてが両者に共通しているならば、その1つの 条件が両事例の差の原因である。」

たとえばある開放海岸に、1ヶ所地形的に遮閉されたところがあり、そこにだけある種の海岸生物が存在していたとすると、温度や水質などは周囲で一様と考えられる から、波の強さがこの種の分布決定因であるという推測が成り立つ。こうした条件の 差は、この例のように自然の中に見出されることもあるが、そうでない場合は人為的 に作り出すこともできる。それが実験である。その場合一方が操作事例、もう一方が コントロールということになる。」

大垣俊一「ミル型論証と生態学」、4P

 

 

実験とは、意味

POINT

実験(じっけん)「実験とは、ある事象Yを制約していると見られる条件群X1、X2、X3、X4……のうち、問題のX1以外の諸条件X2以下を、人為的に一定に制御(C)した上で、X1を人為的に変化させ、それにつれてYも随伴的ー規則的に変化するかどうか、観察する操作である。そうした変化が認められれば、Yに生じた変化は他の諸条件は一定に制御されているから、X1に加えた変化に帰する以外にはない(『社会科学と社会政策における認識の「客観性」、折原さんの説明箇所、237P~ 』)。」

例:未熟な医学生の診療の頻度のみを下げた結果、患者の死亡率が下がった

→死亡率の高さの原因は未熟な医学生の診療にあると推定できる(共変法)。

火の強さだけを変化させた結果、ある物体が変化した。変化の原因は火の強さにあると推定できる。他の要素を一定にするのがポイント。

比較対照試験とは、意味

POINT

比較対照試験(ひかくたいしょうしけん):「諸個体を『層別法』などにより、同質的な二群にわけ、一方を『実験群』、他方を『対照群』とする。そして、双方の諸条件X2以下は一定に制御した上で、『実験群』のX1のみに変化を加え、そこに生じてくる変化を観察して、『対照群』と比較する。このばあい、『実験群』のほうに、『対照群』には認められない変化[Y=1]が生じたとすれば、他の諸条件X2以下は一定に制御されているので、『実験群』にのみ加えられた変化[X=1]に帰する以外にはない、ということになる。要するに、実験にせよ、比較対照試験にせよ、現実にはX2,X3,X4などとこみになって作用しているX1を、人為的に孤立させ、その作用を純粋に観察できる状況をじっさいに作り出すわけである(『社会科学と社会政策における認識の「客観性」、折原さんの説明箇所、237P~ 』)。」

 

客観的可能性判断とは、意味

POINT

客観的可能性判断(きゃっかんてきかのうせいはんだん)「文化科学的認識の『客観性』を保証する<思考の規範>、<経験的実在を思考により秩序付ける妥当な仕方>、よそでは普通に用いられている因果帰属の方法、つまり『実験』または『比較対照試験』である。具体的には、比較対照試験の論理を歴史的ー非実験室的に適用する<思考実験>および「文化圏比較」による検証(『社会科学と社会政策における認識の「客観性」、折原さんの説明箇所、237P~ 』)。」

マイヤー論文におけるマラトンの戦い

ウォルター・クレイン「マラトンの戦い」

マイヤー論文というのは、古代史家のエドゥアルト・マイヤーの研究に関するM・ウェーバーの論文のことです。内容はマイヤーに対する反論ですが、そこは今回は扱いません。

マラトンの戦いの整理

前490年に起きたといわれるペルシア戦争第一回遠征中の戦闘である。ペルシア王ダリウス一世が派遣した遠征軍はアテネの北東海岸マラトンの野に上離陸し、アテネはこれと戦い、勝利した。マラソンの名前の由来でもある(勝利の報告のために230キロメートル以上の距離を2日で疾走したことから)。

これがマラトンの戦いの概略である。要するにペルシアをギリシャが撃退したという話だ。

因果仮説

ウェーバーによれば、マイヤーはある因果仮説を具体的かつ明晰に説明できているという。

  1. 原因:マラトンの戦いにおけるギリシャの勝利
  2. 結果:西洋文化における世俗的で自由な精神の転回

社会学的説明とは、ある状況Xの下である社会事象Aが存在または生起したときに、他の事象B、C、D..も存在または生起する可能性があったのみも関わらずなぜAが存在または生起したのかという疑問、問いからはじまる。

マラトンの戦いでいえば、ある状況Xは「マラトンの戦いにおける勝利」であり、ある社会事象Aは「自由な精神」である。しかしマラトンの戦いにおける勝利がなかったと仮定しても、自由な精神があったかもしれない。その場合は、Aの原因は必ずしもXとはいえなくなる。佐藤俊樹さんによれば現実に生じた事象Aを「現実事象」と呼び、Aと存在または生起可能と思われる他の事象を「可能事象」というらしい。

ポイントはなぜマラトンの戦いの勝利がギリシャの自由な精神と因果関係にあるのか、そういえる「妥当な説明」である。もしギリシャが負けていたら事象Aは生じなかったという妥当な説明はいかにして可能になるのか。

可能事象

マイヤーが挙げているのは2つの可能性(可能事象)である。

  1. ギリシャの密儀と神託に萌芽を表していた神政政治的ー宗教的文化がペルシャの保護のもとに発展する可能性
  2. 世俗的な基調に立つ自由なギリシャ文化が花開く可能性

可能性判断に妥当性を付与させるための思考実験-因果帰属の具体例-

もしX(状況)がなかったらA(現実事象)は生じたか、といったように頭の中で実験して考える。自然科学では人為的に実験することが出来るが、歴史においては実際に起こってしまったことなので繰り返して再現することはほとんど不可能である。だからこそ頭の中で考えるという思考実験が重要になる。

さてもしギリシャがペルシャに負けていればどうなっていただろうか、と考えていく。マイヤーによれば「自由なギリシャ文化へと発展しなかった」と頭の中で考え、また「ギリシャの宗教的文化が発展した」と頭の中で考えている。さてこの考えが無根拠だった場合、マラトンの戦いにおけるギリシャの勝利が自由なギリシャ文化へとつながったと因果的な説明ができたことにはならない。

重要なのはそう思考実験した根拠にある。具体的には2つあり、ひとつは「史実的知識」であり、もうひとつは「法則的知識」だという。この2つによって「客観的可能性判断」がなされている。根拠がなければただの「可能性判断」にすぎないが、根拠があれば「客観的可能性判断」になる。あくまでも客観的可能性判断、蓋然性を高めるという作業であり、確実に100%そうなったというところまで高めることは難しい。

  1. 史実的知識:歴史的状況に属する特定の事実にかんする知識(実際に起きたもの)
  2. 法則的知識:人間がある所与の状況に通例どう反応するか、にかんする知識(繰り返し確認されているようなもの)
  3. 史実的知識(マラトンの戦いの場合):ペルシャ帝国はバビロン捕囚においてエルサレム帰還民に対して実際に一貫して被征服者の宗教を利用した。ギリシャ側にも密儀や神託と言った宗教的発展の素地が整っていた。
  4. 法則的知識(マラトンの戦いの場合):被服者は非征服者の反乱をおそれ、被征服者の主教を大衆馴致の手段として利用する

「…端的にいえば『じつはわからない』というに等しい『判断』とは、明らかに異なっている。それは、<マラトンの戦いをなかったものと考えたり、あるいは、じっさいとは違った経過をたどったと考えた[思考実験をしてみた]ばあい、……一般経験則に照らして神政政治的ー宗教的発展をもたらすのに積極的に『適合した』条件が、歴史的所与のなかに、その構成要素として客観的に存立していた、だから、この客観性判断は、客観的に妥当な判断として確証できる>と主張しているのである。」

「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、243P 折原さんの説明箇所

「このようにして、『かりにペルシャ戦争とりわけマラトンの戦いにおけるギリシャ勢の勝利がなかったとしたら、その後の歴史的経過はどうなったであろうか』との思考実験上の問いに、『そのばあいには、ペルシャ帝国の<大衆馴致>政策にもとづく神政政治的ー宗教的発展が、世俗的で自由なギリシャ精神の開花を阻止し、圧殺してしまったであろう』という<客観t的可能かつ妥当な>回答が与えられる。そして、この『対照群』と、じっさいの歴史的経過[『実験群』]とが比較され、じっさいにはそうならなかったかぎりにおいて、世俗的で自由なギリシャ精神の開花という結果Yが、ペルシャ戦争とりわけマラトンの戦いにおけるギリシャ勢の勝利という歴史的一要因Xに<因果帰属>されるわけである。」

※筆記体等のドイツ語や強調を省略しました

比較対照試験

理解社会学では比較対照試験を間接的に用いるが、実際にそうした対照が見つかることは稀である。たとえばギリシャとほとんど同じような状況の国が他の国にもあった場合は比較することができるかもしれない。たとえばウェーバーは中国と西洋を比較対照試験として間接的に用いた。

実際にそういう対照がない場合は、頭の中で対照を作り出す必要、つまり思考実験をする必要がある。マラトンの戦いの場合は、もしギリシャがペルシャに負けていたらという可能事象を考える。この可能事象と実際に起きた現実事象を比較して考え、やはりギリシャの勝利がギリシャの自由な精神の発展を生じさせたと因果帰属させるわけである。

「E・マイヤーは、マラトン、サラミス、プラタイアイの戦闘がヘレニズム文化(従って、西洋文化)の発展の特質に対して原因としての意義を有するという仮説を立てたことがある。この仮説は、意味の解明が可能であり、また、象徴的な事件(ペルシア人に対するギリシアの神託や預言者の行動)を根拠とする巧妙な仮説ではあるけれども、やはり、勝利(エルサレム、エジプト、小アジア)の際におけるペルシア人の行動を例としてテストしてみるほかはないし、そのテストも多くの点で不完全たるを免れないのである。こういう場合は、余儀なく、仮説の著しい合理的明確性という根拠に頼りざるを得ないものである。しかし、非常に明確に見える歴史的因果関係でも、右の例で可能であった程度のテストさえ全く不可能なことが多い。そうなると、因果関係は飽くまでも仮説にとどまる」

マックス・ウェーバー『社会学の基本概念』19P

「また、歴史上および日常生活上の諸過程には、すべての点が同じで、動機や刺戟の現実的意義という決定的な一点だけが異なるものがあるが、こういう諸過程をできるだけ多く集めて、それらを比較することは、確かに可能でもあるし、それが比較社会学の重要な問題でもる。しかし、遺憾ながら、原因の所在を明らかにしようとしても、絡み合った諸動機の或るものを観念的に延長し、そこから予想される仮定を観念的に構成する『思考実験』という不確実な手段しか存在しない場合が多いのである。」

マックス・ウェーバー『社会学の基本概念』16P

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」における因果帰属の手法

プロ倫における因果仮説

  1. 原因:西洋の禁欲的プロテスタンティズム
  2. 結果:近代資本主義

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」によれば、禁欲的プロテスタンティズムが規律正しさと計算可能性、利潤の再投資に寄る無限拡大志向といった特性を持つ近代資本主義を作ったという。

従来は資本主義は個人の欲望の産物であると考えられていたが、ウェーバーはその逆、つまり欲望を積極的に抑える(禁欲)こそ資本主義を産み出したと主張した。

さてこの因果仮説における根拠はどうだろうか。マラトンの戦いのような思考実験はどのように可能になるだろうか。

つまり、「プロテスタンティズムの倫理がなかったとしたら、近代資本主義は発展したのか」という問いに答える必要がある。そしてこの思考上の対照と現実の事象とを比較する必要がある。

ウェーバーが比較対照試験に採用したのは「中国」

中国近世社会は西洋と同じ条件がかなりそろっていたそうです。具体的には①強烈な営利欲、②個人個人の勤勉さと労働能力、③商業組織の強力さと自律性、④貴金属所有のいちじるしい増加と貨幣経済の進展、⑤人口の爆発的な増加…といったように多くの点が挙げられています。

一方で、中国にはなくて西洋にあったものとしては(1)形式合理的な法とそれにもとづく計算可能な行政と司法の運用、(2)官吏における租税収入における公/私の非分離、そして(3)倫理が挙げられているそうです。つまり、プロテスタンティズムだけが資本主義を生んだという仮説の検証には失敗したということになります。原因は複数考えられ、どれが結果に結びついたのか検証することが難しかったのでしょう。もし中国に形式合理的な法とそれに基づく計算可能な行政と司法の運用があったとしたら、西洋のような資本主義が発展していたかもしれません。もちろん発展しなかったかもしれません。

ウェーバーは中国において資本主義が発展しなかった理由を多く挙げています。たとえば儒教倫理によって商品市場が成立しにくかったとか、科挙の試験が有能な人が企業家になるのを妨げていたとか、そういったものです

「したがって、西洋のプロテスタンティズムが近代資本主義をうんだかどうかは、西洋だけでは検証できない。プロテスタンティズム以外は西洋と同じ変数群をもち、結果として近代資本主義が生じなかった社会をもうひとつ見つけてこなければならない。『宗教社会学論集Ⅰ』はそういう比較実証の研究である。プロテスタンティズム以外は西洋と同じで、結果として近代資本主義が生じなかった事例として、彼は伝統中国社会、特に清王朝期の中国近世社会に注目した。具体的にいえば、論文『儒教と道教』(1920c=1971)で、近代的でない資本主義や人口ー環境的要因をふくめて、中国近世社会には西洋と同じ条件がかなりそろっていたことを示そうとした。それによると、中国近世にも①強烈な営利欲、②個人個人の勤勉さと労働能力、③商業組織の強力さと自律性、④貴金属所有のいちじるしい増加と貨幣経済の進展、⑤人口の爆発的な増加、⑥移住や物資輸送の自由、⑦職業選択の自由度と営利規制の不在、⑧生産方式の自由といった要素はあった(同:1~4章)。西洋古代やインド、イスラム圏と比べても、中国近世は西洋近代の初期状態に近かった。にもかかわらず、結果Xにあたる近代資本主義は生成しなかった。そこに欠けていたのは、(1)形式合理的な法とそれにもとづく計算可能な行政と司法の運用、(2)官吏における租税収入における公/私の非分離、そして(3)倫理である(同:8章)。差異法によれば、この(1)ー(3)こそが近代資本主義を産み出した原因にあたる。つまり、ウェーバーは(3)プロテスタンティズムの倫理だけでなく、(1)形式合理的な法やそれにもとづく行政は司法なども、近代資本主義の原因、もしくは原因に関連する変数としている。」

佐藤俊樹、「社会学の方法」、ミネルヴァ書房、162P

「すでに予想されるように、かれは、西洋以外の諸文化圏を「対照群」に見立て、マクロな『文化圏比較』をおこない、この<思考実験>上の問に、できるかぎり<客観的に可能かつ妥当な>判断をもって答えようとした。かれの宗教社会学的労作のうち、<倫理論文>では、プロテスタンティズムと近代的営利追求熱との<因果連関>が、冒頭の節で簡単に例示されたのち、従来残されていた微妙で困難な問題、すなわち、宗教と経済との2領域に跨る両者の<意味ー動機連関>が<明証的>に<解明><理解>されている。ところが、<倫理論文>は、発表後ラファールの批判を浴び、ウェーバー死後にもアロンによって批判されたとおり、<禁欲的プロテスタンティズムの倫理>と<近代資本主義>と<因果連関>の証明としては、必ずしも十分ではなかった。というよりも、著者自身、じつは右記の通り、それを主要課題としてはいなかったのである。」

「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、247P 折原さんの説明箇所

・法則論的知識

・客観可能性判断

・個人の行為が単位である(行為論)-行為連関(行為の継起)

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例:トランプゲーム

目的合理的に考えればブラックジャックで自分の手が20の場合、ヒット(もう一枚カードを引く)のは悪手である。22以上になると負けてしまい(バースト)、エース以外を引く可能性のほうが極めて高い。目的合理的には普通はヒットしないだろうという推定で理解できるとする。実際に多くの場合、プレイヤーはヒットしない。またヒットしないという行為は目的合理的に理解することが出来る。しかし現実にはヒットするプレイヤーもいる。イライラしていたからヒットしたというように非合理的、つまり感情的な要素も考えられる。

こうした非合理的要素は、合理的に考えればこうするだろうという理念型があると特定(検索)しやすくなる。普通はこうするだろう、でもそうしなかったという理解は「普通はこうするだろう」という前提があって理解が容易になる。

例:「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

・論理的(理念型的)に考えればもし生まれる前から神に救われるかどうか決まっていれば、宿命論的になる。つまり人間の努力ではどうにもならずないと考える。このように考えれば禁欲的な行為には論理的にはつながらない。

・現実ではそうした予定説が禁欲的な行為につながっている。たとえば「自分が救われているかどうかの不安」によって、それを確証するために禁欲的な行為をするといったように、感情的(非合理的)な要素を特定することが可能になる。理念型が現実の分析に役立つ。理念型そのものは現実そのものではないし、統計のような平均そのものでもない。観察者の側から普通はこうするだろう、合理的、論理的、敬虔的に考えたらこのような選択をするだろうというようなモデルにすぎない。

参考文献・おすすめ文献

マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』

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マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

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雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』

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蒼村蒼村

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