【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか

    Contents

    はじめに

    概要

    1. ホッブズ的秩序問題:社会秩序はなぜ可能なのか
    2. ホッブズの解答:権力による強制力によって可能になる(強制解)
    3. ロックの解答:同意による協力によって可能になる(協力解)
    4. パーソンズの解答:規範によって可能になる(規範解)

    動画での解説・説明

    ・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    タルコット・パーソンズとは

    タルコット・パーソンズ(1902-1979)はアメリカの社会学者で、行為の一般理論(行為の準拠枠)、構造機能主義、AGIL図式などを提唱したといわれている。秩序問題をとりあげた社会学者の代表格。デュルケーム、ジンメル、ウェーバーなどの知識を受け継いで独自の理論を作り上げたとされている。主な著書は『社会的行為の構造』(1937)や『社会体系論』(1949)。

    パーソンズ関連の記事

    【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか(今回の記事)

    ・次回の記事

    【基礎社会学第十九回】タルコット・パーソンズの「主意主義的行為理論」とはなにか

    【基礎社会学第二十一回】タルコット・パーソンズの「分析的リアリズム」とはなにか

    【基礎社会学第二十三回】タルコット・パーソンズの「パターン変数」とはなにか

    【基礎社会学第二十八回】タルコット・パーソンズのAGIL図式とはなにか

    ホッブズ的秩序問題とはなにか

    ホッブズ的秩序問題とは、意味

    POINT

    ホッブズ的秩序問題・人間は放っておくと各々自分の利益を最優先に考えて行動し、「万人の万人に対する戦い(無秩序状態)」に至る。それにもかかわらず社会に秩序はあるのはなぜか、という問題。ホッブズ問題ともいう。

    トマス・ホッブズとは

    POINT

    トマス・ホッブズ(1588-1679)・心境と革命から王政復古にかけてのイングランドの哲学者。1634年から1636年にかけてデカルトやガリレイと交流し、1640年に『法学要綱』を執筆する。1651年には主著『リヴァイアサン』を公刊する。

    自然状態の概略

    POINT

    自然権・人間が生まれながらにして持っているとされる権利。ホッブズによれば自然状態において人間は「かれ自身の自然、つまりかれ自身の生命を維持するために、かれの欲するままにその力を用いる自由(『リヴァイアサン』)」をもつ。自然状態において人間は「平等で自由な存在」であり、自己保存のために活動は自由の名のもとに肯定される。ホッブズは人間は心身の諸能力においてはほぼ平等であり、他者を永続的な支配関係におくほどの根拠をもたないという。また「希少性(きしょうせい)」が前提にされている(たとえば食べ物も土地も異性も貴金属も無限に存在しているわけではないから争いが生じる)。

    POINT

    自然状態・国家も法も社会もない、権力の真空状態。人間を規制するものは人間とその自然環境のみ。

    1:善悪の共通の基準がない(人間は自由であり、人間の行動を縛るような国家や社会、法や道徳はない)

    2:最大の善は「生命の保全」であり、最大の悪は「死」であるが、それは各人にとって各人の善悪である。

    3:人々の能力は大差ない。頭の良さも身体能力も同じようなものだと仮定する

    4:国家や社会がない。法律や道徳など、人間の行動を制限するものはない。人間を制限するのは自然環境や人間だけである。社会がないので人間はお互いに孤立している。

    5:人間には「理性」がある。理性とは予見能力や計算能力のことであり、人間固有のものである。将来への予見ができるということは、現状では満足しないということであり、将来の抗争を予見して自分の力をどこまでも増大させようとする。

    6:人間には「情念」がある。情念は死への恐怖や自己保存などが根本的なものとして挙げられる。この情念のために理性は道具として使われる。自己保存のために「他者による承認」や「他者の物の獲得」という目的などが設定されたりする。

    情念は他にも恐怖、復讐、好奇心、高慢、競争、不信、自尊心といったものがある。簡潔にいえば情念とは「意志の働き」のことである。恐怖を回避するために手段を選択、復讐心を満たすために手段を選択、好奇心を満たすために手段を選択といったように目的と手段がセットで考えられている。情念は大きく分ければ善(自己保存)と悪(死)である。人によって善がなにかは変わる(バラバラ)。

    たとえば「Aは餓死したくないからBの食べ物を奪って殺す」というときに、Aにとって殺人行為は善である。しかしBにとって殺人行為は悪である。Bからした自分の権利が侵害され、Aからすれば自分の権利を行使しただけである。どんな場合でも殺人はよくない、生命は保全されるべきだといったような共通の基準はない。現代人は餓死しそうな場合でも殺人はよくないということを意識できるが、それは国家という権力や、社会に共通した道徳がすでに存在しているからである。自然状態においてそうた国家や社会はなく、権力も道徳も存在しない。

    お互いに殺人は自分が生きるためには善であると思っている場合、殺し合うことになる。したがって万人の万人に対する戦いが帰結する。

    たとえば2人の人間の目の前にリンゴがひとつあるとする。お互いに、自然権としてりんごを食べるという権利を持つ。しかし資源は有限であり、また能力も平等であるので、先に食べられてしまうのではないか、というような不安が生じる。お互いが敵になり、お互いをりんごを食べるために滅ぼそうとし、戦いが生じる。

    要するに人は平等故に不安が生じる。この不安ゆえに戦争が生じる。人を殺してはいけないというような道徳も、殺したら罰せられるというような法律もないので万人の万人に対する戦いが帰結する。

    社会契約の概略

    POINT

    社会契約説・政治や法などの権力をいったん無いものと考え、人間の自然状態をまずは想定し、人間の本性を確定しつつ、そこから共通権力の必要を導き出し、個々人の相互契約による国家の設立を論証するというもの。ホッブズが『市民論』ではじめて定式化したといわれている。

    1:自然状態では論理的に「万人の万人に対する戦い」が生じる

    2:「万人の万人に対する戦い」は人々に「死の危険状態」を生み、この「死の危険状態」が「平和は善であるということを万人に共通して認めさせる」。死に対する恐怖が人々に平和を希求させ、理性が平和の条件を人間に認識させる。

    3:人々は共通して理性によって戦争が悪であり、平和が善であると認めるようになる。また平和のための手段もすべて善であるということになる。人々は共通して平和を目的とするようになる。

    4:平和のための単なる手段として、正義、信義、感謝、信頼、思いやり等々の「徳」が手段として考えられる。この徳は万人共通の善悪の尺度となる。

    5:人々は平和のための手段として、自然権(生命の保存のためにはなんでもしていいという権利)を放棄する(社会契約を結ぶ)。自然権は主権者(君主あるいは合議体)に譲渡され、主権者は統治者、その他は非統治者(国民)となる。こうして国家(共通の権力)が形成される。統治者は法をつくり、自然権を制限することによって他人の自然権を侵害するような行為が制限されるようになる。この法をまもらないものには物理的に強制される(死刑など)。こうして社会秩序が形成される。

    【強制解】秩序問題に対するホッブズの解答ー「権力」ー

    ホッブズは「社会秩序はいかにして可能か」の問いに対して、「個人の自由を国家権力に譲渡することによる秩序の実現」と解答した。これは「強制解」ともいわれるらしい。たしかに国家が怖いから殺人はやめておこう、というのは直観的に理解できる。別の言い方をすれば「権力」で秩序を解決したことになる。国家は「強制力」をもっている(ウェーバーでいうところの「暴力」である)。

    紛争理論(コンフリクト理論)では争いこそが秩序を形成するという考えらしい。もしこの世に資源が無限にあり、食べ物で争う必要もなく、また異性を取り合う必要もなく、好き嫌いもほとんど一致しており・・・というような究極の仮定をすれば争いが生じないかもしれない。そこでは殺人や盗みが起きないので、そもそも善悪の判断すら難しい。太っている人や痩せているがいない世界で太っているとか痩せているとかいうものを認識しにくいように、悪がない世界で善もまた認識しにくい。要するに秩序(社会集団における望ましい状態を保つためのきまり)すら生じないのではないだろうか。デュルケームは犯罪は正常だといったが、それは世の中に善悪の基準があるからである。先程の究極の仮定では犯罪が生じず、善悪の基準がなく、したがって秩序も存在しないことになる。

    しかしこの世は有限であり、争いも生じる。争いが生じた結果、社会契約によって権力が一箇所に集中し、この権力は強制力をもつようになり、社会に秩序をもたらすというわけだ。

    「マルクス主義やR.ダーレンドルフや批判理論が強調してきたのは、社会秩序成立の、このような権力的な契機である。彼らはコンフリクト理論と呼ばれる社会理論の系譜に属している(Dahrendorf 1968=1976)。上位者と下位者の間の保有する資源の格差、権力の格差を前提として、両者の間に利害対立や価値の対立がみられうのが社会の常態であり、上位者による下位者の支配を基本的な秩序像ととらえる見方である。コンフリクト理論の先駆けであり、権力の矯正による社会秩序の成立を最初に発生論的に説明したのが、T.ホッブズである。」

    『社会学』、有斐閣、80P

    「秩序問題への解は、強制解(ホッブズ自身の解答)、規範解(デュルケムやパーソンズ)、協力解(ロールズ、ノージック、近年のゲーム理論家など)等に分類される。個人の自由を国家権力に譲渡することによる秩序の実現という強制解に、近代社会の主体的個人の前提との両立を図る反論を対置してきた歴史ともいえるであろう。規範解は個人の主体的な行為の背景に学習された規範が存在することが秩序を担保するとする。協力解は、個人の合理的な選択というミクロ的要素が集積されてマクロ的秩序に至るとする」

    高橋聡「教育統治におけるホッブズ的秩序問題」、1-2P

    パーソンズによるホッブズへの批判

    1:なぜ人々が自然状態において自然権を相互に放棄するのかわからない。ホッブズの前提からすれば、最適な行動(合理的な行動)は自然権を放棄することではなく、暴力や詐欺行為といったような自然権を行使し続けることである。人々が暴力や詐欺行為といった直接的な利益を犠牲にして、万人共通の善(平和)のために国家を形成するという合理性は拡大解釈ではないか。自分の自然権を放棄するという合理性は、ホッブズの前提(国家も社会もなく、人間は孤立していて、規範や道徳も一切ない)から帰結させることは難しいのではないか。

    2:人々の善悪の共通の基準はバラバラであるという前提から、なぜ共通の基準として平和が導き出されるかがわからない。死の恐怖に直面したとしても、各々の生命の保存という善が目的となり、その手段は暴力であったり、詐欺になったりするはず。「自分だけではなく全体の生命の保存」、つまり平和を共通の目的としてもつという自体はどう説明するのか。

    「この間題にたいするホッブズ自身の解決はよく知られていよう。自らの安全を確保せんとするため人民が主権者と契約を結ぶごと、すなわち社会契約がそれである。だがパーソンズはこのような功利主義的解決には満足しない。というのもこの考えの背後には、行為者が自分のおかれた状況において目的を合理的に追及するだけでなく、状況全体を理解し安全を得るために自分の将来の利益を犠牲にしてまで行為を遂行するということが仮定されているが、これは合理性の概念を過度に拡大してしまっており、また安全にたいする利害の一致をすでに想定していることで功利主義的前提(目的のランダム性)を突き崩しているからである。また功利主義的解決のもうひとつの方法であるロックの「利害の自然的合致」は単なる形而上学であり(この形而上学は古典派経済学に受け継がれるごとになった)とても解決と呼べるようなものではなし。このように功利主義思想を保持する限り秩序問題はその存在が消去されるか、あるいは極めてミスティファイされたかたちで解決が与えられるかのどちらかであった。それではパーソンズはこの秩序問題をどのようにして解いたのであろう」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、96P

    [ホッブズは戦争状態から脱するために、合理性はその領分を越えて「将来、獲得されるだろう利益を犠牲にしてでも安全というものを確保しながら、暴力と欺瞞を排斥するのに必要な行為」、すなわち、社会契約まで拡大した。ホッブズ問題におけるの社会契約説の意義は、人々の安全を担保するのになによりも暴力排除を基本原則にしたことにある。しかし、パーソンズの「関心を寄せている解決法はこれ(社会契約)と同じものではない」

    金泰明「ホッブズ問題における「二重性」の原理的考察 パーソンズからルソー、ヒュームへ、66-67P

    そもそもホッブズは自然権の放棄は社会というものの存在を仮定しているのではないか、という批判(金泰明さん)

    興味深かったので紹介しておきます。

    要するにホッブズにおいては、自然状態においては自然権を放棄するというようなことはありえず、社会状態においてはじめて可能になるという話です。国家も社会もない自然状態においていかにして社会秩序がされるかという話だったのに、自然状態から社会状態への移行が突然設定され、そこから自然権の相互放棄とつながっているというわけです。

    簡単に言えば循環論法的だというわけです。社会に秩序があるのは、社会に秩序があるからであるという話になります。なぜなら社会というものがある時点で規範というものがあるからです。この規範がさらに安定ないし維持されるためには社会契約が必要であり、国家が必要であるということは理解できます。しかし、そもそも社会はどうしてできたのか、という説明はないわけです。国家の形成に社会という前提があることは理解できますが、そもそも社会はどのようにして自然状態から形成されるのでしょうか。要するに「いかにして秩序は可能か」ではなく「いかにして秩序は安定するのか」という問題にすり替わっているということです。後で扱いますが、パーソンズも同じようにすり替わっています。金泰明さんによればこのような循環論法はホッブズ的な自然状態の前提では避けられないといいます。

    「社会契約において、自然権の放棄を行う際、だれが「第一の履行者になる」のか。この点について、ホッブズ自身はつぎのように述べている。「はじめに履行するものは、相手があとで履行するであろうという保証をなにももたない、…(中略(…したがってはじめに履行するものは、かれの生命と生存手段をまもる権利(かれはそれをけっして放棄しえない(に反して、自己をうらぎってその敵にひきわたすのである。しかしながら、ひとつの権力が想定されて、さもなければ自分たちの誠実を破棄しようとする人びとを拘束する、社会状態civilstateにおいては、その恐怖はもはや、もっともなものではない。そしてそういう理由で、その信約によってはじめて履行することになっている人は、そうするように義務づけられるのである(5(。」(中略は筆者(ホッブズは、自然状態では各人がすすんで自分の自然権を放棄するのはありえないとみている。人びとが互いの権利を放棄しあうのは自然状態(規範の無の状態(では叶わず、「ひとつの権力が想定されて」いる状態、したがって社会状態においてである。つまり、ホッブズの社会契約説は、出発地としての「ひとつの権力が想定」された社会状態から「いかにして社会秩序は修正可能か」という問いである。そもそものホッブズにおいても「ホッブズ問題」は捻じれてしまっている」

    金泰明「ホッブズ問題における「二重性」の原理的考察 パーソンズからルソー、ヒュームへ、54P

    功利主義とホッブズの自然状態の近似性

    功利主義の意味

    POINT

    功利主義・パーソンズによれば功利主義には4つの特徴がある。1:原子論的個人主義、2:目的に対する手段の合理性、3:経験主義、4:目的のランダムネス。

    原子論的個人主義

    POINT

    原子論的個人主義・原子論とはそれ以上に分割できない単位を考える思想のことです。功利主義でいえばそれ以上に分割できない単位は「個人」だということになります。ウェーバーの方法論的個人主義も社会学の最小単位を「個人(個人の行為)」だとしています。社会現象は諸個人の個人的属性だけから説明できるとするものです。

    パーソンズは諸個人の個人的属性だけからではなく、個人が集まったときの創発的特性を重視しています。

    「バラバラの個々の行動主体が相互にぶつかったり、離れたり、すれ違ったりしているだけの状態はおよそ秩序を生み出さない」

    福井康太「『秩序』としての紛争:再考」、920P

    目的に対する手段の合理性

    POINT

    目的に対する手段の合理性・手段が目的に対して整合性をもつということ。つまり、ある目的に対して常に合理的な手段を選ぶという前提が功利主義にはある。

    パーソンズによれば、功利主義には行為者が「合理的な科学的知識をある程度もっているという想定」があるそうです。人間がみんな目的合理的に行為するという前提にたつわけですから、目的合理的に行為できる知識があるという前提があるのかもしれません。たとえば120円のオニギリと110円のオニギリが並べられ、同じ品質で同じ味だとします。目的を利益であると仮定すれば、行為者は全員110円のオニギリの方を買うことになります。あえて120円を買うといったような行為はないものと想定されるわけです。現実には今日は気分で高いオニギリを買ってみよう、というような非合理的な行動をする人間もいるかもしれません。しかしそうした非合理的な行動は科学的に説明しにくいので除外するというわけです(科学的に検証可能な合理性のみ扱う)。

    たとえば囚人のジレンマでは、皆合理的に選択していますよね。頭が悪い囚人というものは想定されていないわけです。皆合理的に考えることが出来る結果、ジレンマというものが発生するわけです。

    ウェーバーは理念型において、目的合理的に行為する人間というものを想定しています。また、そうした理念型は現実にはほとんど存在しないとしています(そうした意味で観念主義的)。ウェーバーはそうした合理的から出発して、現実の非合理的を分析するという方法論的な合理主義を選択しました。現実には目的合理的行為の他にも価値合理的行為、伝統的行為、感情的行為などさまざまな行為があります。功利主義は行為を目的合理的行為に限定しています。

    「パーソンズによれば「[功利主義的]思想においては,「能率の合理的規範」と呼ばれる一つの特殊なタイプが圧倒的に強調されていた」(Parsons,1937=1976:95)。すなわち,功利主義においては,この特殊なタイプの規範に注意が集中されているのである(Parsons,1937=1976:95)。これこそパーソンズが功利主義的行為理論の規範の地位に対して批判をなす点である。ここで功利主義が出発点としているのは,「行為者が自らの行為状況について合理的な科学的知識をある程度もっているという想定である」(Parsons,1937=1976:lOl)。こうした見地に立てば,行為者は科学的な探求者であるかのように行為することになり,目的一手段図式は科学的に検証可能な合理性によってのみ結び付けられることになる。パーソンズは,この意味での狭い合理的規範によっては,社会的行為を十分に捉えきれないと考える。」

    村井重樹「目的-手段図式から習慣へ : パーソンズとブルデューの功利主義批判を通して」 45P

    経験主義

    POINT

    経験主義科学的な命題を根拠にしているということ。個々の目的からみて最も合理的な行為は、科学的な知識に基づいて一義的に確定できるということ。

    目的のランダムネス

    POINT

    目的のランダムネス・どんな目的を掲げるかはランダムであるということ。個人の目的の持ち方は自由であるということ。

    ここはすごくややこしいというか、正直今でもわかっている自信がありません。

    まず「情念」と「目的」の違いがよくわからない。ホッブズによれば情念とは生命の保存、死への恐怖、不安、好奇心といったような「意志の働き」を意味します。別の言葉で言えば人間の「本性」であり、簡単に言えば「感情」です。とりあえず人間はそういう情念というものをもっているというわけです。

    そしてこの情念に従って、目的というものが追求されます。というように功利主義では考えます。別の言い方をすれば、各々の欲望にしたがって目的が追求されるわけです。たとえば「いっぱい食べたい」という欲望があるなら、「他人の財の獲得」という目的が選ばれ、その手段として「殺人」が選ばれるかもしれません。目的=情念とするとややこしくなるので、情念ー目的ー手段というふうにわけて考えます。

    さて功利主義では「目的のランダムネス」というものを前提とします。功利主義では人間は功利、つまり利益、あるいは自分にとって快をもたらすものを第一とするという前提があります。したがって、目的は各々が快と考えるものを基準にするわけです。たとえば私は痛みを苦しみと捉えますが、人によってはSMクラブでみられるように痛みを快と考える人もいるでしょう。支配されることに快を覚えるひとも、支配することに快を覚える人もいます。究極的にいえば人間は生命の保存という情念で動いているのですが、目的設定段階において人は様々なものを設定しうるというわけです。

    その意味で人間は主意的、つまり自由な意志があるということになります。ウェーバーは人間の頭の中、つまり主観は観察者には究極的にはわからないものとみなしました。当事者さえ、自分がどんな目的をもっているか、どういうものに突き動かされて行為しているか自覚できていない場合もあるのです。だからこそ「理念型」という分析モデルの多くは「目的合理的行為」が基準となります。こういうケースなら”普通は”こういう目的をもっていると想定できるよね、というような前提を持ち込みます。たとえばビジネスマンは”普通は”利益を第一にしているよね、というような前提で考えるわけです。

    囚人のジレンマのケースも同様です。普通は懲役が長いと嫌だよね、だから懲役を短くするという目的を所与のものとして設定するわけです。本来は懲役が長いほうがいいと思っている人もいるかもしれません、つまりランダムなはずですが、分析のためには全員懲役が長いと嫌だというものを前提とするわけです。

    ランダム性とはパーソンズによれば「理解不能あるいは知的な分析が不可能だということを指し示すための総称的用語」だそうです

    「ここでパーソンズは「事実的秩序」を、「確率の統計的法則に従う現象の厳密な意味におけるランダム性あるいは偶然性」の反対に位置づける。「偶然性あるいはランダム性とは、理解不能あるいは知的な分析が不可能だということを指し示すための総称的用語である」と考えるパーソンズにとって「事実的秩序」は、「本質的に論理的理論、特に科学というものによって理解可能」な秩序を指している。これに対して「規範的秩序は、それが目的であれ規則であれあるいは他の規範であれ、常に規範あるいは規範理論と秩序問題規範的要素の一定の体系と相関的なものである」(Parsons1937:91=1976:152)という。「事実的秩序」と「規範的秩序」をこのように定義したパーソンズは、「万人の万人に対する闘争」に陥らずホッブズの望むように「事実的秩序」が長期にわたって安定化するには、「規範的秩序」が一定程度遵守されていなければならないと下記のように主張する」

    田上大輔,佐々木啓「規範理論と秩序問題:社会学における規範的問いと経験的問いに関する一考察」,80-81P

    功利主義のジレンマ

    もし仮に、人間は遺伝子による説明や、環境による適応などによって、あるケースにおいてはある目的をもつと科学的に立証できたとします。そうしてしまうと「人間には自由な意志がある」という前提が薄れてしまうのです。パーソンズは人間の主観的なもの、つまり自由な意思を重視したので功利主義の「目的のランダム性」やその反対の「目的の合理性」を批判したというわけです。

    POINT

    功利主義のジレンマ・目的のランダム性を仮定しても、目的の合理性を仮定しても、好ましくない結果が生じること

    1:「目的のランダム性」を仮定する。人間が自由に目的を設定し、その手段は合理的に選択するので暴力や詐欺が横行し、万人の万人に対する戦いが生じる

    2:「目的のランダム性」を否定し、遺伝や環境によって目的は分析可能であり、合理的に説明できると仮定する。人間の自由な意思、主観的な観点が失われてしまう。

    「そして,功利主義的行為理論がこの前提に立った場合,深刻な帰結に導かれるという。いわゆる「功利主義のディレンマ」である。パーソンズは以下のようにいう。「このように,目的の地位について.実証主義思想は『功利主義的ディレンマ」に陥ることになる。つまり二つのうちのいずれかに落ち着かざるをえない。目的の選択における行為者の能動的作用因を行為の独立要因として目的要素をランダムなものにするか,あるいは目的のランダム性という客観的含意を否認し,目的の独立性を消去し,目的を状況の諸条件と融合して目的を非主観的範晴一主として生物学的理論の分析的意味における遺伝や環境といった範鴫一によって分析可能な要素とするかのいずれかである」(Parsons,1937=1976:105-6)一方で,目的選択のランダム性を仮定した場合,行為者が合理性を唯一の規範として手段を選択すれば,ホッブスのいうような「万人の万人による闘争」が帰結される。他方で目的そのものを合理的に選択すれば.科学的知識に基づく選択となり,主観的観点が失われる。つまり,行動主義や環境への適応と大差がなくなるのである。パーソンズは,こうして功利主義が内包する問題点を検討,批判していく中から,自らの主意主義的行為理論へと展開していくのである。」

    村井重樹「目的-手段図式から習慣へ : パーソンズとブルデューの功利主義批判を通して」45~46P

    功利主義とホッブズの近似性

    パーソンズはホッブズを功利主義の純粋系と見なしていたので、その関連を復習していく。

    1:原子論

    ホッブズは社会も国家もない、孤立した人間を想定したことから、原子論的個人主義を想定していたといえる。

    ホップズにとって閤家は「自然の所与」ではなく,1政治秩序は,人間の技術によって作り出されるべきものjである。この秩序の形成過程は「因果的な必然的メカニズム」として構成されるが,それが「科学としての新しい政治学」である。そこで絶対的主権者の権力に服従するのは個々人の「自己保存の自然的衝動」であり,「自律的な市民主体」としてではない[佐藤1996:56-7J。結局,ホッブズのf新しい政治哲学」では「原子論的に解体された抽象的個人」は「結対的な因果的必然性」のもとに「技術的に適用可能な」ものとされ,「自己決定の自由」が与えられた理性的存在であるが,その理性は「支配のための技術的,道具的理性に還元され」ている[佐藤1996:56-7」。

    菊池理夫「共通善の政治学」と社会契約論(3)一一共通善の政治学とホップズの社会契約論」 258P

    2:合理性

    ホッブズの前提によれば、人間は自分の生命の保存のために理性を使って最適の手段を考えることが出来るという。この「理性による最適の手段」というのは、功利主義における「科学的知識による合理的な手段」に近似する。

    「ホッブズは,自然状態においては,各人が,「自らの自然本性すなわち生命の保全の為に,自らの力を自らが意志するままに用い,従って,自らの判断と推理によって自らの生命の保存の為に最適の手段であると考える,あらゆることを為す自由」を有するとし,この自由を「自然権」と呼んでいる」

    3:経験主義

    ホッブズは「神」などの非経験的なものをもちださない。自然界の現象をすべて物理的、必然的な因果法則で把握しようとしていることから、経験主義的といえる。

    「機械論的な自然観は、神与の秩序としての自然観には、そのなかに鋳込まれた可能性や目的、すなわち目的因があって、それが全被造物の発展を支配しているというアリストテレス──トマス的な目的論的自然観を否定して、自然界の現象をすべて物理的、必然的な因果法則で把握することが可能である、という自然観である。そのばあい、ホッブズは哲学を定義して、つぎのように述べている。『哲学とは、われわれがまずもっているその原因ないし生成についての知識から、正しい推論によって得られる、結果または現象についての知識であり、さらにまた、まずその結果を知っていることから得られる原因ないまたは生成についての知識である。(『物体論』」)』」

    「政治思想史」、有斐閣、149-150P

    4:目的のランダム性

    ホッブズは人間を自由だと考えました。自由とは、「外的障害」のないことであり、したがって社会や国家などによって自分の行為を規制されないことです。

    もし社会や国家があれば、自分の行動は完全に自由ではなく、ある程度規制されます。たとえば現代では、A君のレアなポケモンカードがほしいと思っても、それを奪う自由は制限されます。しかし自然状態においては、A君の食料をほしいと思えば奪うことのできる権利が人間にはあるとホッブズは仮定しています。もちろんA君から反発され、行動は制限されるかもしれませんが、それは法や道徳からの制限ではありません。つまり一定の条件による制約にすぎないということです。

    したがって、ホッブズにおいて人間は自由であり、自らの情念のために自由に目的を設定することになります。「他人の財物を奪う」という目的を設定することもあれば、「鹿を狩る」という目的を設定するかもしれません。他人の物を盗んで生命を保存するか、自分で探すかは自由というわけです。しかし一端他人の物を盗むという目的が設定されれば、その手段としては最も適した行動が選ばれます。たとえば「暴力や詐欺」という手段がホッブズによれば選ばれるというわけです。

    「ホッブズは,自然状態においては,各人が,「自らの自然本性すなわち生命の保全の為に,自らの力を自らが意志するままに用い,従って,自らの判断と推理によって自らの生命の保存の為に最適の手段であると考える,あらゆることを為す自由」を有するとし,この自由を「自然権」と呼んでいる。自然権は「各人の万事に対する権利」である自由とは外的障害がないことである(6)が,自然状態では,人々が各人の善の追求を互いに妨害し合うことが実際に生じる筈である。従って,外的障害がないとは,他人からの妨害がないことではなく,何らの法的あるいは道徳的な制止も受けないということである。それゆえ,「自然の権利」とは,何を為しても,法的あるいは道徳的な制止や非難や処罰を受けないという事態に他ならない.」

    木曾好能「ホッブズの道徳哲学―読書ノート―」、75P

    功利主義的なホッブズ的秩序問題の解決:合意による協力解

    功利主義的の主な特徴は権力による「強制解」というよりも、合意による「協力解」にあります。この協力解の要素はホッブズというよりジョン・ロック的だといえますが、詳細は扱わず概略のみ扱っていきます。

    秩序問題は国家などの強制力を伴う「権力」によって安定しますが、それだけでは安定しないと考えます。たとえば教師と生徒の関係が、「問題を起こしたら退学にする」という強制力だけで秩序が成り立っているわけではなさそうですよね。生徒側にとっても教室に秩序があることがなんらかの「利益」になるわけです。たとえば勉強に集中できるといった利益があります。

    つまり、教師と生徒の間には「合意」があり、それは「利害の一致」によるものだというわけです。国家側からの一方的な権力による支配だけでなく、国民側からの自発的な秩序への貢献が秩序の安定へとつながるということです。

    ジョン・ロックによれば神が人間を「利害の関心の自然な一致」へ向かうように創っているそうです。こうしたジョン・ロックの秩序問題の解決方法を、形而上学的として批判したそうです。

    進藤さんによればホッブズも同様に、権力による秩序形成だけではなく、服従者の自発的な「同意」によって秩序が形成され、その根拠は「自己利益」だといいます。要するに利害が一致しているから国家に従うということになります。たとえば奴隷のように扱われた場合、革命が起きて無秩序になってしまいますが、きちんと人間として扱われ、国家の保護による利益が合った場合、自発的に人間は従うようになり、秩序も安定するという理解ができます。

    パーソンズは利己性や合理性だけでは、結局、利害の一致には至らないと考えているようです。つまりジョン・ロックのような神が利害の一致に向かわせてくれるといったような形而上学的な前提を持ち出さないと難しいという話です。ということは利害の一致以外にもなにか秩序を形成する要素があるのではないか、とパーソンズは考えていきます。

    「なぜなら専制政府も排他的に「外的ー(物理的)手段で規制を達成することはできず、何らかの形で「内的」な規則の遵守を必要とするからであり、服従者の側での規則の遵守という行為には、服従者という個人の自律性・独立性を想定する限り、遵守の「根拠」の問題が提起されるからである。ホッブズの提示案からすれば、この根拠は「自己利益」の計算に求められる。つまり「強制」の「根拠」には「合意(consensus)」が措定されていることになる。個人主義的アプローチから「自由と拘束」の二律排反を解決する道は、「拘束の合意による自発的服従」以外には考えられない。この視点からパーソンズの処方をみた場合、この処方は未だ処方の名に値していない。「共有」とは一つの論理的要請であって、「自由と拘束」の問題の核心は「いかにして(how)「なぜ(why)」この「共有」が可能なのかにあるからである。パーソンズは「いかにして」に対しては「社会化」という解答を与えているが、「なぜ」の問題には答えてはいない。」

    進藤雄三「主意主義的行為理論の生成過程 パーソンズの初期論文を中心に」 159-160P

    パーソンズによる功利主義への批判

    パーソンズの功利主義への批判は主に「合理性」と「目的のランダム性」に向けられている。いちばん重要なのは「目的のランダム性」への批判である。

    「合理性」への批判

    POINT

    合理性への批判・功利主義は目的に対する手段の合理性のみを想定しており、それ以外の非合理的なものを無視している。

    人間は目的合理的行為のみをするわけではない。その例としてパレートを紹介している。具体的には「価値」や「道徳」といったものが合理性という規範以外にも用いられるとパーソンズは考えている。

    ウェーバーでいうと功利主義は「目的合理的行為」のみが想定されていて、他の「価値合理的行為」や「伝統的行為」、「感情的行為」が分析の対象外として軽視されている。

    ヴィルフレド・パレートによる非論理的行為

    ヴィルフレド・パレート(1848-1923)はイタリアの経済学者。「誰かの満足を向上させるためには、すくなくとも一人の別の人の満足を低下させなければいけない」というパレート最適状態を考案した人物として知られている。

    パレートによれば人間の行為は論理的な行為と非論理的行為(残基)にわけられる。前者は合理的な行為であり、後者は非合理的行為として分類することが出来る。

    たとえば古代ギリシアの水夫は海の神ポセイドンに毎年犠牲を捧げているが、このような行為は非論理的行為とされている。なぜなら、この犠牲によって航海の安全が保たれているという科学的な根拠がなにもないからである。しかしそういう非論理的なものに人間はとらわれるということにパレートは着目し、パーソンズはこの姿勢を評価している。

    「非論理的行為とは具体的にどういうことかというと、パレートは、例として、古代ギリシアの水夫たちが、海の神ポセイドンに毎年、犠牲を捧げた行為を挙げている。それで航行の安全を守るわけですが、それは経験的な実証に基づくものではない。本人の自己満足にすぎないわけで、非論理的です。でも、そういうものに人間は支配される。人間には感情があり、その感情に従えば、科学的に見れば非論理的な行為もあることを、パレートは重視した。つまり、人間の行為の、功利主義とは関係のない部分についてのセンスがあるということが、パーソンズがパレートをマーシャルの後に置いた理由です。」

    大澤真幸「社会学史」390P

    「目的のランダム性」への批判

    POINT

    目的のランダム性への批判・人間の目的は完全にランダムではない。目的は完全に自由に選ばれるのではなく、規範や価値によってある程度制御されている。

    パーソンズによれば人間の目的は完全にランダムというわけではなく、「究極価値(道徳、規範)」によって方向づけられているという。

    パーソンズはランダム性への批判として、事実的秩序がみられることや、規範的秩序によって目的が制御されていることを挙げている。

    事実的秩序と規範的秩序
    POINT

    事実的秩序(factual order)・ランダム性やチャンスと対立するもの、科学的な分析を受け入れることが出来るもの。経験科学によって理解可能な程度の行為の規則性、安定性。

    POINT

    規範的秩序(normative order)・規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起すること。行為過程がなんらかの規範によって一定程度制御されていること。

    主に功利主義な前提である「目的のランダム性」への批判であり、目的はある程度科学的な分析の対象となるとされている。

    パーソンズによる「事実的秩序」とはそのようなランダムなものではなく、一定の規則がある秩序のことである。たとえばある人間が朝決まった時間に起き、決まった時間に寝るとする。この人間はまったくランダムに寝起きするわけではなく、一定の規則にしたがって寝起きしていることが観察できる。こうした規則は科学的に理解できる(たとえば数字などによって)事実であるといえる。

    しかしそうした事実が「安定」するのはなぜか、という問題も生じる。それは「規範」によるものだとパーソンズはいう。たとえば決まった時間に寝起きすると仕事の効率が上がるよね、といったような規範が人間の中に内面化されていると、より決まった時間に寝起きするようになるかもしれない。

    「パーソンズが『社会的行為の構造』の中で、社会秩序を事実的秩序(factual order)と規範的秩序(normative order)に区分したことはよく知られている。もっとも、その概念化はごくあっさりとしたもので、事実的秩序は、「ランダムネスやチャンスと対立するもの」であって、「科学的な分析を受け入れることができる(susceptible)もの」、規範的秩序は「規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起すること」とされている(Parsons1937:91)。しかし、この区分によって彼が強調したかったのは次のことだ。すなわち、社会学の探究対象である社会秩序は、まずもって科学的分析の対象となりうる事実的秩序でなければならない。そして、「社会秩序は科学的分析を受け入れられうるかぎりにおいて常に事実的秩序なのだが、…それは何らかの規範的要素の働きなしには安定的であることはできない」(Parsons1937:92)。つまり、社会秩序はそこに何らかの規範的要素の働きがあるからこそ、科学の対象となりうるのであって、規範的要素が働いていなければ安定的な事実的秩序であることができない。規範的要素こそは、社会秩序を「秩序」たらしめる不可欠の条件なのだ、ということである。」

    盛山和夫「経験主義から規範科学へ- 数理社会学はなんの役に立つか -」、200P

    「社会現象はまったくランダムに、でたらめに起こることはない。そこには何らかの程度パターン化されたまとまりが観察される。何でも起こりうるように思われるし、衝撃的な犯罪や事件も起こることもあるが、通常は、教室では淡々と授業がなされ職場でも整然と業務がこなされていく。ルーティン化された家族の日常や職場での日常がある。…このような大なり小なりパターン化されたあり方が安定的に存在するとき、構造が観察されるという。言い換えれば、一定の<秩序>が存在するということになる。しかもこの構造は何らかの変動を前提としたものであり、秩序も変動の可能性を内包したものである。ではなぜ秩序が存在するのだろうか。人々の行為を、一定の範囲内に抑制している社会的メカニズムは何だろうか。それが秩序問題である。」

    「社会学」、有斐閣、79P

    エミール・デュルケームによる道徳的連帯:聖なるもの

    エミール・デュルケーム(1858-1917年)はフランスの社会学者。社会学を「道徳科学」と位置づけ、諸個人の統合を促す要因としての道徳(役割)を解明することにあると考えた。

    デュルケームは合理的・功利的な行為だけではなく、「価値(道徳)」に着目しました。デュルケムによれば「祝祭」において人々は集まって祭儀を行い、「集合的沸騰」と呼ばれる人的・物理的な集中、心的な融合状態がなされるそうだ。これによって成員は連帯し、協同体が形成され、したがって秩序が形成される。野中さんによればデュルケームは集合的沸騰のメカニズムについて詳しく語っていないらしい。

    どうやら祝祭は聖なる力をもち、人々を連帯させる「機能」をもっている。つまり道徳(宗教的な価値)は秩序を生み出す機能をもっている。そして祝祭自体は各々からみれば「非合理的な行為」である。たとえばパレートが水夫のポセイドンへの生贄を経験的には立証されない非合理的行為としていたが、人々が集まり、生贄を聖なるものと見なし、「集合的沸騰」が生じたとき、その非合理的な行為は連帯へとつながり、「社会秩序」を形成することになる。

    道徳が大事だというのは功利主義とは違う観点である。功利主義ではそのような前提はない。単純にランダムな目的に合理的に行動する個人のみが前提とされている。道徳が共有され、そうした道徳に制限を受けながら合理的・あるいは非合理的に行為する個人というものは想定されていないのである。利己的で個人主義な功利主義の前提とは対称的に、利他的で集合主義的な側面がある。

    パーソンズはデュルケムから「道徳的な結合の重要さ」を学んだ。

    「タルコット・パーソンズによれば、デュルケームの宗教理論の基本的意義は、「経験的で観察可能な実体である『社会』が人聞の非経験的なものの観念およびそれに対する能動的態度の観点からのみ理解可能である」ことをあきらかにしている点にある。パーソンズがいうには、デュルケームにおいては宗教が社会現象であるのではなく、「社会が宗教現象である」のだ。」

    野中亮「『宗教生活の原初形態』における『俗』の位置」,21P

    「まず、宗教を明確に定義している。その部分を引用します。宗教とは、『神聖として分離され禁止された事物と関連する信念と行事との全体的なシステムであり、教会と呼ばれる同一の道徳的共同体に、これに帰依するすべての人を結合させる。』この定義によると、宗教を構成しているのは二つの要素です。第一に、聖なるもの。これに信念と行事が関係する。第二に、連帯。キリスト教に即して言えば、それは教会です。デュルケームは、これら二つを独立のものとは見なしておらず、むしろ表裏一体関係にあると考えています。」

    大澤真幸『社会学史』、244P

    「デュルケームの宗教理論の特色として、まず「聖なるもの」を中核とした宗教の定義があげられる。従来の「神」や「超自然」などによる定義を退け、「聖」と「俗」の分離とそれにともなう諸儀礼の総体をもって宗教の定義としたのである。つまり宗教とは、「聖なるもの、すなわち分離され禁止された事物に関連する信念と実践との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会に帰依するすべての者を結合させる信念と実践」なのである。」

    野中亮「『宗教生活の原初形態』における『俗』の位置」,20P

    「彼は宗教の本質を、世界を聖と俗の2つの領域に二分する思考に求める。この2つの領域は共通する点をもたない。絶対的に異質な二領域であり、禁止(タブー)によって厳しく隔てられている。宗教のもうひとつの特徴は、それが教会というかたちにおける集合現象であるということである。この集合的な宗教意識に表されるのは、非人格的な神聖な力である。それは特定の個人に帰属させることはできない力である。この力の源泉は何か。デュルケムはそれを集合生活の生み出す道徳的な力、すなわち社会の力に求める。社会は諸個人を超越する力であり、個人を拘束する道徳的な力として、崇拝の対象となるのである。聖なるものの本質は社会にあり、宗教とは社会現象にほかならない。」

    「クロニクル社会学」33-34P

    「功利主義は個人主義的でかつ利己的な人間感です。しかし、デュルケームは社会的な連帯のような、人間の行為の前提となる道徳的な結合の重要性に気づいていた。デュルケームの見方は、功利主義に対するアンチテーゼになっているわけです。」

    大澤真幸『社会学史』、390P

    「すでに、現世的な次元を超えた(超越的な)究極的価値(たとえば、宗教的信仰)を人間行為の基底に見据えていたパーソンズにとって、その源泉を<社会>そのものにみるデュルケームの社会理論はまさに<鬼に金棒>であった。さらに、デュルケームは、社会秩序が制度化された共通の価値から生まれること、市場の統制(秩序)は私的利益の合理的追求からではなく、共有された価値体系によって人間の相互作用を制御する道徳的秩序の産物であることを明らかにしていた。合理的に結ばれているはずの近代的契約の背後に、契約そのものを可能にする<非契約的要素>(たとえば、取引相手に対する信頼や信用)が存在することを発見したのはデュルケームであった。」

    「タルコット・パーソンズ」、中野秀一郎、45P

    パーソンズによる秩序問題の解決(概略)

    結論

    今回は「主意主義的行為理論」や「単位行為」、「構造ー機能主義」には触れずに概略のみを扱う。

    まず結論から言えば、パーソンズによる秩序問題の解決は3つの要素に要約される。

    1. 行為者が従う規範には、単に効率性のような合理的なものではなく、価値あるいは道徳とでも呼べるようなものが含まれる。
    2. 行為者は常に社会によって課される究極価値によって方向づけられている。
    3. 行為者は究極価値を内面化することで、積極的に価値に参与するようになる

    「秩序問題にたいしてパーソンズが与えた解決の要点を示せば次のようにまとめられよう。(一)行為者が従う規範には単に効率性のような合理的なものだけでなく、価値あるいは道徳とでも呼べるようなものも含まれる。(二)行為者は常に社会によって課される究極価値によって方向づけられている。(三)行為者はこの価値を内面化することで積極的に価値コミットメントを行うようになる。」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、99P

    批判

    1:第一に、パーソンズに対する批判は「循環論法」であるという点である。ホッブズが「国家や社会がない状態で社会秩序はいかにして可能か」という問いを立てたのに対して、パーソンズは「社会が人々に規範による方向づけを促すから」と解答している。つまり社会というものが前提され、この社会が人々に秩序を生み出すというわけだ。社会というものがすでに存在している時点で社会秩序というものがあるのではないか、という話になってしまう。

    2:第二に、価値によってつき動かされている個人の存在は「判断力の麻痺した人間(ガーフィンケルによる言葉)」だという批判であり、人間の創造的・能動的側面が失われているというものである。

    ・ホッブズも同様に、自然状態においては誰も自然権を放棄しようとせず、社会状態というものを想定した場合に社会契約は可能となり、国家が形成され、社会秩序が成り立つと結論づけている。つまりホッブズにおいても循環論法的である。

    ・無から有を想定するのはむずかしく、有からどうやって安定した有をもたらすのかという意味ではパーソンズの分析は意義があるという意見もある。つまり、「社会秩序はどうやって安定するか」という問いにすり替わっているが、それはそれで重要な問いだということだ。

    合理性以外の行為があることの説明:マックス・ウェーバーの「正当性」

    POINT

    正当性・「行為を統制し、行為がそれに対して方向づけられている規範体系の属性」。行為者が秩序に正当性を与えるときの動機は非利害的、無私的なものとされている。

    正直な話、「行為者が秩序に正当性を与えるときの動機は非利害的、無私的なものとされている」というのはどういう意味か理解していない。

    たとえば異常に戦闘力が高いといったようなカリスマ性をもつ部族長が盗みを行った部族の1人を殺すとき、それは正当なものとみなされるだろうか。カリスマ性がある彼が行うことなのだから、正しいのだろうというような推定が人々の間で行われるのだろうか。あるいは「族長」というものは正しいと伝統的に考えられており、それゆえに殺人も正当性があるという推定が行われるのだろうか。このような推定は必ずしも「利害関係、利己的」のみによって行われているものではなく、「非利害関係、非利己的」に行われているというのはなんとなく理解できる。

    ウェーバーによれば社会的行為は目的合理的、価値合理的行為、伝統的行為、感情的行為の4つにわけられる。伝統的行為は功利主義のような目的合理的とは違う行為である。そして伝統的支配は、必ずしも合理的なものとはいえない。昔から単にそうだからといった理由で族長の支配を正当化するように従属して行動するようなものが「合理的行為」とは必ずしも言えないというわけだ。

    つまり、合理性という観点だけでは考えることができない、非合理的、非利害的、無私的な要素が「伝統的」なものや「カリスマ的」なものがあるというわけである。たとえば私の前にイエス・キリストが現れるとする。私はキリスト教徒ではないが、もし目の前に実際に現れたとしたら信じざるをえないだろう。そしてイエス・キリストが「人に優しくしなさい」と言ったなら、それに従ってしまうかもしれない。優しくすることが自分に利益があるとか、合理的だとかは関係なく、イエス・キリストのカリスマ性に影響を受け、非利害的に行為してしまう。そしてその非利害的な行為はイエス・キリストの正当性を高める。

    もちろんカリスマ性は時間が経過すると伝統的になる。イエス・キリストは見たことがないが、どうやら昔からカリスマ性があると言われているから、そうなのだろう、というように日常化する。イエス・キリストの教えに従うことが合理的かどうかは置いておいて、どうやら昔からイエス・キリストのいうことは正しいとされているから従おうということになる。やがてキリスト的な教えの一部が法律へと変わり、法律に書いてあるからそれに従うことが正しいのだろうと正当性が変わっていく。

    純粋に利害関係だけで考えれば規範は安定しないが、カリスマや伝統、合法的なもの、つまり「正当性」は社会をより安定させるとパーソンズは考えたのである。確かに人々が利害関係だけで生きていたら生存競争になり、「万人の万人に対する戦い」が生じる。しかし人々の間には利害関係という規範だけではなく、非利害関係的な「カリスマ性」や「道徳」といったものがどうやらある。こうした規範をパーソンズは「究極的価値」と呼び、この「究極的価値」が人々に共有されることによって秩序が成立すると考えた。

    「それでは正当性とは何であろうか。パーソンズによれば、それは行為を統制し、行為がそれにたいして方向づけられている規範体系の属性のことである。行為者が秩序に正当性を与えるときの動機というのは「非利害的=無私的」なものであった。そうであるなら、人々がある秩序を正当なものであるとみなして行為するかぎり、そこに見られる行為者の態度というのは道徳的なものにほかならない。パーソンズはここにウェーバーとデュルケムのパラレリズムを見いだす。すなわち、ウェーバーもデュルケムもともに行為のふたつの規範的要素である「利害的なもの」と「非利害的=無私的なもの」を区別して考えており、前者の規範だけでは社会状態がきわめて不安定であり、後者の規範こそ(ウェーバーなら正当性、デュルケムなら道徳的権威)が社会をより安定させるものである、と考えていたのである。」

    「秩序問題にたいしてパーソンズが与えた解決の要点を示せば次のようにまとめられよう。(一)行為者が従う規範には単に効率性のような合理的なものだけでなく、価値あるいは道徳とでも呼べるようなものも含まれる。(二)行為者は常に社会によって課される究極価値によって方向づけられている。(三)行為者はこの価値を内面化することで積極的に価値コミットメントを行うようになる。」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、97P

    お墓を蹴ることはよくない?

    たとえばお墓を蹴ったところで科学的に言えばバチはあたらない。しかし私はお墓をけることができない(人目が全く無く、法的に罰せられないとしても)。お墓を蹴って10万円もらえるとしても蹴らないだろう。これは功利主義的な観点からすればきわめて非合理的行為である。しかしどういうわけか、私はお墓を蹴ることはよくないという動機を持っている。自分のことだけを考えれば蹴るのだが、どういうわけか蹴らない。こういった私の非合理的、非科学的、非論理的な動機というものがどういうわけか規範に正当性を与える。こうした非合理的な行為というものをどういうわけか、人間はする。功利主義はこの点を取り入れていないという。

    それは社会にどういうわけか道徳というものがあるからである。「お墓を蹴ることはいけない」という道徳が人々の間に共有されている。どうやって共有されているか、どうやって道徳が生まれたかはよくわからないが、どういうわけか共有されている。パーソンズによれば共有は「社会化」によって生じるとされている。たとえば学校の授業では「道徳」という授業があり、たとえば大麻はよくないとか、暴力はよくないとか、そういうことを教わる。親や友人、先生によって注意されることによって人々はどういうわけか社会化され、価値を共有する、すなわち内面化していく。そうして社会秩序というものが形成されていく。

    マックス・ウェーバーによる支配の三類型:支配の3つの正当性

    マックス・ウェーバー(1864-1920)はドイツの社会学者である。支配の類型は3つに分けることができ、それは伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配であるとした。

    マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。

    要するに、統治者が人々を支配するもっともな根拠、つまり正当性は昔からそうであるという伝統的なものか、統治者が神がかっているといったカリスマ的なものか、法律でそのように決まっているからといったような合法的なものかの3つにわけられるということである。

    目的のランダム性の克服:カリスマ

    カリスマとはなにか
    POINT

    カリスマ・人物にやどった非日常的な能力・資質。ウェーバーによれば、日常性や利害に関係した経済性といった世俗的なものの対極に位置づけられる概念。ウェーバーによればカリスマは一時的な現象であり、日常化によって伝統的な支配や合法的支配へと変化していく。たとえば合法的支配の典型的な例である官僚制は合理性をその性質としている。

    共通価値への志向、内面化、制度化

    整理

    究極的価値:共通価値や道徳的規範、共通の心情とも呼ばれる。詳細に言えば、共通価値の具体的な表れが究極的な目的や道徳的規範である。究極的価値の具体例は、平和、自由、平等など、宗教的信仰など。

    ややこしいので究極的価値=共通価値=道徳的規範と考えてもいいのではないかと思う。

    1:究極的価値、たとえば平和という紛争を生み出さないような相互に調和的な価値が人々に共有され、内面化されていく。この結果社会に秩序が形成される
    2:個々人は究極的な価値の具体的な表れである「社会的規範(道徳的規範)」によって規制・制御されている。たとえば暴力や詐欺を手段とすることはそうした規範から制御を受ける。暴力はよくないことだよね、という規範が人々の行動・自由を縛る。
    3:ただ規範があり、それが人々を精神的に縛るだけでは秩序は安定しない。それが制度化(社会統制)することによってさらに安定する。たとえば暴力や詐欺を行うものには罰を与え、それを防いだものを褒め称えるなど。
    4:共通価値(究極的な価値・社会的規範・道徳的規範など)が人々に内面化され、制度化された状態をパーソンズは「共通価値統合」と呼んだ。このような共通価値統合がおこなれている状態では万人の万人に対する戦いは生じない。

    共通価値とは、意味
    POINT

    共通価値(common value)・あらゆる社会の行為者に共通する価値。究極的価値。ウェーバーでいえば「カリスマ」であり、デュルケムでいえば「聖なるもの」。人間は共通価値へ志向する生き物であるとパーソンズは考えた。この共通価値によって秩序問題が解決されるという解答を、「規範解」というらしい(Desmond P. Ellis)。

    内面化とは、意味
    POINT

    内面化(読み)・社会化(学習による獲得)を通じて、一定の「共通価値」への同調が、行為者の欲求の一部となること。

    例:市民社会の諸個人には、商取引は公明正大でなければいけないという共通の価値が内面化されている。学校で教わったり、他人の行為を見たり、そういうことの積み重ねで学習され、内面化される。パーソンズによれば人間は価値へと志向するもの、つまり価値を内面化する生き物であるとされている。

    「少し用語を解説しておくと、まず内面化(internalization)」というのは、社会化(学習による獲得)を通じて、一定の文化的価値と規範への同調が、行為者の欲求の一部となることです。」

    「社会学史」、大澤真幸、395P

    「社会的相互作用の体系が安定化しうるのは共通の価値志向の内面化を通じてである。これをパーソナリティに関する用語に翻訳するなら、当該個人の役割による志向の型の一つびとつに対応して、超自我の組織という要素があることを意味する。あらゆる場合、超自我の要素の内面化は、適当な限界内で適当な機会に、私的利益に対する集合的利益の優先を承認しようとする動機づけを意味する」

    タルコット・パーソンズ「行為の総合理論をめざして」、p.238

    制度化とは、意味
    POINT

    制度化・一定の価値と規範が社会システムの制度として正当性を付与され、それらからの逸脱が報酬と制裁によってコントロールされること。社会統制とも呼ばれる。

    共通価値が内面化され、制度化されたものが「文化」である。文化は個人に内面化されつつ、社会システムの制度であもるので、個人と社会を媒介し、統合し、秩序付ける役割を持っている。例:「挨拶は善いものだ」という共通価値が学習によって内面化され、かつ日本文化といえば挨拶だというような「制度」になっているケース(挨拶をするものは常識人だと報酬を受け、挨拶をしないものは無礼だと制裁を受ける)。あるいは犯罪行為を法律で罰する等。

    「制度化(institutionalization)というのは、一定の文化的価値と規範が社会システムの制度として正当化を付与され、それからの逸脱がサンクション(報酬と制裁)によってコントロールされることを意味しています。」

    「社会学史」、大澤真幸、395P

    「社会システムにおける<望ましいもの>を定義している規範的概念、それが文化要素としての価値である。それが個々人の行為を制御するのは、社会化のメカニズムを通して人格システムの中に内面化し、行為の動機づけを形成するからであり、またこうした行為の集合状態としての社会構造を基礎づける。そのことを、価値・規範の制度化と呼ぶ。」

    「タルコット・パーソンズ」、中野秀一郎、94P

    共通価値統合とは、意味
    POINT
    共通価値統合・共通価値が規範と制度化によって規制されている状態。

    「「秩序問題」に対する(1937 年当時の)パーソンズ自身の解答は、次のようなものだった。21コンフリクトを生み出さないような相互に調和的な価値を社会のメンバーたちは共有しており、そのことによって社会のまとまりが形成され、その社会は支障なく作動してゆく。また、個々の行為は社会的規範によって規制されており、とくに暴力と欺瞞を手段とすることは禁じられている。規範に違反する行為に対しては、社会統制が作用して、人々が規範を遵守するように促す。こうして一つの社会システムがまとまりを維持しつつ作動し、その内部は規範と社会統制によって規制されている(この状態をパーソンズは「共通価値統合」と呼んだ)ので、そこに、「万人の万人に対する闘争」が発生する可能性はない。」

    溝部明男「社会システム論と社会学理論の展開 : T. パーソンズ社会学と残された3つの理論的課題」、20-21P

    「ここでパーソンズは,功利主義の科学的な合理性による行為ではなく,価値や理念によってなされる行為を想定する。つまり,科学的に検証可能な合理的知識という観点から見た場合,非合理的と見える行為である。宗教的行為などがそれにあたるのであるが,パーソンズにとってはそうした価値こそ,行為を成り立たせるための重要な要素となるものであった。この価値は,個々人の総和を超えたところに生成する創発特性であると同時に,社会的に望ましいものとされる。また,行為者にもそうした価値を帯びて内面化されることによって,行為を導く要素となるのである。パーソンズは、功利主義批判を通して,以上のような「共通価値による統合」をもって,「ホッブス問題」を解決しようとしたのである。」

    村井重樹「目的-手段図式から習慣へ : パーソンズとブルデューの功利主義批判を通して」、46P

    「社会学は「共通価値による統合という属性によって理解することのできる社会的行為体系に関する分析的理論の展開をめざしている科学である」と定義することができよう」(Parsons,1937=1989:)

    目的のランダム性の克服

    パーソンズはウェーバーの「カリスマ性」という概念を通して「目的のランダム性」を克服したという。パーソンズにとって「カリスマ性」とは「究極的価値」であり、「共通の価値」である。

    復習すると、目的のランダム性とは功利主義の特徴の一つであり、人々は人間以外からなんら規制されずに、自由に目的を設定するというものである。もちろん窃盗をしようとすれば窃盗をされる側から妨害を受けるといった不自由があるが、そうした意味での自由ではない。国家や法律、社会の道徳といったものからなんら規制されずに、各々の欲望、各々が考える善に従って自由に目的を設定するという意味での自由である。そうした意味で人々の欲望から設定される目的はランダムであり、科学的にはわからないということになる。だから功利主義では目的を所与のものとしたりする(たとえば囚人のジレンマでは囚人は懲役を短くするという目的が所与のものと設定されている)。

    もし目的がランダムではなく、遺伝や環境によって決定されるとすれば、それは「決定論」的な考えになってしまう。そうすると、社会学的な意義、つまり人々の主意性(自由な意思)を見失う。

    パーソンズは「共通価値へ志向する」という人間像、つまり「共通価値」によって人間の自由はある程度規制されると考えた。自由が規制されるということは、ランダム性が弱まるということである。これは「複雑性」が弱まると呼ばれることもある(ダブルコンティンジェンシー問題)。たとえば共通価値がなければ、青信号で渡る歩行者に車が突っ込んでくるかもしれない。赤信号なら車は止まる、というような共通価値(どちらかというと制度に近いが)があるからこそ、人々は秩序をもって生活することができ、交通事故を防ぐことが出来る。

    問題はどのようにして共通価値が内面化されるかである。共通価値というものがどうやらあり、人々がそうした共通価値へと志向するというのはなんとなくわかる。たしかにお墓を蹴ってはいけない、人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけないといった価値を私は心のどこかで目指しているのかもしれない。具体的には法律があるからという制度によってそうせざるをえないように規定されたりもしている。たとえば赤信号で進めば警察に逮捕されてしまうかもしれない。

    パーソンズはウェーバーの支配の三類型を通して、どうやら人々は「共通の価値へと志向するものだ」というものを確認している。カリスマ性(共通の価値)は伝統的な支配や合法的支配に変化していったとしても、ただカリスマ性の表現方法が変わっただけだとパーソンズは理解している。パーソンズはカリスマ概念こそ非利害的な究極的価値であり、人々がこの究極的価値にいつの時代でも志向しているということを立証したかったらしい。

    どうやら社会には究極的価値(共通価値、カリスマ、聖なるもの)というものがいつの時代にもあるらしく、また人々はこの価値へ向かって関心を向けているぞ、ということはわかる。しかしなぜそもそも究極的価値というものがあるのか、それについての答えがわからない。それは社会秩序のために機能しているからだ、というのでは答えにならない。

    「この共通価値あるいは究極価値と呼ばれる「規範解」の存在を認めることが秩序問題を解くことにたいして与える効果は絶大である。すなわち、功利主義思想の前提である目的のランダム性にたいして一定の制御を与えることになるのだ。行為者はまったくでたらめに目的を選択し行為しているのでつねに社会的な究極価値によって規制されているというわけである。それだけではない。この価値は、行為者にたいして事物のように外在しているのではなく、個人のパーソナリティを構成すべく内面化されることによって、行為者は自発的にこれにコミットするようにさえなるのである。ここに秩序問題を解くときの「蹟きの石」となっていた目的のランダム性は完全に克服されることになった(すくなくともパーソンズはそう考えた)。秩序問題に解決を与えたとするパーソンズの秩序観は次のような言明に端的に表れている。「社会に共通の価値態度が存在するかぎりにおいて、社会は非生物学的レヴェルにおいて利害関係の力の均衡以上のものになりうるのだ」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、99P

    「個々の行為が、バラバラにならず、ある形(秩序)を示すのは、そこに内在している規範的要素のせいであるとして、それでは一体どのようにして規範が共有され、人々の間に一定の共通な意識(集合意識)が生まれるのか。ここでは、もう一度デュルケームが援用される。個人意識が、類似のものになるのは、その内的状態を表現するシンボル(記号)を用いて人々がコミュニケーションできるときである。ここに、いわば個人主義を超える鍵があるのだ。共通のシンボル・システムによってコミュニケーションが可能になるとき、規範や価値、あるいは状況の定義さえもが共有されることになる。これを、文化の共有といい、これによって相互作用が可能になるのである。」

    「タルコット・パーソンズ」、中野秀一郎、51P

    「パーソンズはなにゆえにウェーバーのカリスマ概念に着目しこれほどまでにその外延を広げなければならなかったのか、という問いこそがここでは重要である。簡潔にいえばその答えは、あらゆる時代、あらゆる社会の行為者には共通する価値への態度が見いだせるということを立証したかったからということにほかならない。どのような伝統や制度であってもカリスマ的要素が存在しているということは、逆にいえばカリスマ的要素が社会秩序を成り立たせるための基礎であるということを意味する。パーソンズにとってカリスマとは規範に方向づけられた行為者が共通に指向するような価値であり、またそれは究極価値に対して付された明証なのであった。」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、99P

    パーソンズへの批判

    循環論法

    POINT

    循環論法(じゅんかんろんぽう)・論理学で、論点先取の虚偽の一。証明すべき結論を前提に用いる論法。

    問い1:なぜある価値が究極的価値であるといえるのか

    答え1:究極的価値だといえるのは、人々の間で共有されているからである

    問い2:なぜ人々の間で共有されているのか

    答え2:人々の間で共有されている理由は、それが究極的価値な価値だからである。

    問い3:なぜある価値が究極的価値であるといえるのか

    答え3:究極的価値だといえるのは、人々の間で共有されているからである

    問い4:なぜ人々の間で共有されているのか

    答え4:人々の間で共有されている理由は、それが究極的価値な価値だからである。

    以下ループ(循環する)

    問い1:なぜある人が信頼できるといえるのか

    答え1:それはいい人だからである

    問い2:なぜいい人だといえるのか

    答え2:それは信頼できる人だからである

    問い3:なぜある人が信頼できるといえるのか

    答え3:それはいい人だからである

    問い4:なぜいい人だといえるのか

    答え4:それは信頼できる人だからである

    以下ループ(循環する)

    パーソンズへのよくある批判としては、それが「循環論法」であるという批判があるらしい。結局の所、「究極的価値生成のメカニズムが説明されていない」ということにつきる。とりあえず共通の価値というものを所与のものとして、それがどうやって人々に内面化されるか、ということが説明されている。たとえばそれが「社会化」、つまり価値の学習によってされ、さらに制度によって保障されるわけである。我々は学校や家庭で「人の物は盗んではいけない」と教わり、さらに「法律」によって盗んだら逮捕されるということで秩序を内面化し、安定化させていく(秩序安定問題)。

    しかしそもそもなぜ人の物は盗んではいけないというものが共通の価値になったのだろうか(秩序生成問題)。そのメカニズムについては説明されていない。人間の歴史のどこかで、どういうわけか、それが共通の価値というものにどうやらなっているらしい。たとえば平和という共通の価値、究極的価値を考えてみると、人間の歴史のどこかでそれが究極的価値として生成されたことになる。おそらくキリストが生まれるよりももっとまえ、メソポタミア文明よりさらに前、途方も無い昔、社会というものがないような状態から、どういうわけか共通の価値が生成された。

    秩序安定問題とは、どうして社会というものができるのかという問いでもある。しかしパーソンズは「社会というものには共通の価値があり、この共通の価値が人々の間で内面化されることによって秩序が形成される」としている。つまり社会というものがある前提になってしまっている。これを論点先取りというらしい。ホッブズも同じように、社会というものを前提としたなら、人々は自然権を相互に放棄するだろうとしている。つまりこれも論点先取りである。複数の人間が1人の君主に権力を譲渡するという社会契約論も同じように、「複数の人間(つまり共同体)」が団結して君主に権力を譲渡していることになる。つまり、あらかじめ共同体という社会があり、この共同体が君主に権力を譲渡しているのである。共同体が存在している時点で社会秩序がすでにあるのではないか、なぜ共同体(つまり社会)が生成されたのか、つまり社会秩序=共同体がどうやって生成されたのかのかという話になる。

    ホッブズ的秩序問題というのはどうやらそうとう難しく、だからこそアポリア(解決できない問題)といわれている。

    「実際、パーソンズの理論では、この究極価値生成のメカニズムやそれがなにゆえに行為者によって内面化されるかがまったく明らかでないため、この究極価値をめぐって「万人の万人にたいする戦闘状態」を帰結させることが、原理的にはつねに可能なのである。というのも究極価値の究極性を何と考えるかは、行為者によって様々でありうるからである。だからパーソンズには次のように問えるはずである。なにゆえにある価値なり目的なりが究極的であるといえるのか、この《究極的なるもの》をめぐってのランダム性はいったいどのようにして克服されるのか、と。パーソンズならこう答えるかもしれない。ある価値や目的が究極的なものでありうるのは、それが行為者聞に共有されているからである、と。しかしこれでは単に間いがずらされただけであろう。われわれはさらに、それではなぜその価値が共有されているのか、と問うことが可能なのであるから。ここで、それはその価値が究極的なものであるから、と答えたなら議論は完全に循環論に陥ってしまう。ある価値が究極的であるのは、それが行為者に共有されているからであり、それが共有されているのは、その価値がまさに究極的であるからだ、というように。」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、102P

    「整理すると、パーソンズの回答はこうなります。共通の価値は行為者に内面化されているのです。それを保障するために、社会的にも制度化されている。そういう条件があれば、社会秩序が実現するという論理です。でも、これで人は納得するでしょうか。パーソンズ先生、いくらなんでもそれは?と思うところです。なぜかというと、『社会秩序が成り立つのは、価値が人々の間に共有されているからだ』というのは、論点先取だからです。つまり、循環論法です。なぜ、人々の間に共通の価値が内面化されているのかが説明されなくてはなりません。それを、制度化によって説明するわけですが、考えてみれば、そのような制度化が効果的になされている状態こそ、社会秩序が成り立っているということではありませんか。そうすると、パーソンズは、社会秩序が成り立っているために社会秩序は可能だ、と言っていることになる。だから、『行為の準拠枠』でホッブズ問題が解けたとは言えません。これは、パーソンズに対する一般的な批判ですし、私もこの批判は正しいと思います。」

    大澤真幸「社会学史」、396P

    パーソンズは循環論法に気づいていた?

    名部さんによればパーソンズは循環論法に気づいていたという。正直この話は理解することができなかった。興味がある人は論文を参照してみてはどうだろうか。

    アポリアに直面したからデュルケムの「非契約的要素」を導き出した、とはどういうことか。非契約的要素とは、信頼や信用である。人々はただ合理的な利得計算によって契約するわけではなく、相手への信頼や信用といった非合理的な要素を伴って契約を結んでいる。仮に究極的な価値=信頼や信用だったとしても、なぜその価値が共有されているのかという問題が生じてきそうだ。

    もし人々の究極的な価値が「人それぞれ」であったとしたら、たしかに人それぞれの「究極的な価値」をめぐって万人の万人に対する戦いが生じるかもしれない。ウェーバーでいうところの「神々の争い」が生じてしまう。実際に宗教戦争などは価値と価値とのぶつかり合いによって生じていたのかもしれない。話は少しずれるが、北斗の拳の「愛ゆえに人は争う」という言葉を思い出す。ある2人の人間が1人の女性を愛し、愛を究極的な価値においたとする。そうするとこの2人はお互いに争い合うかもしれない。

    「実際、パーソンズの理論では、この究極価値生成のメカニズムやそれがなにゆえに行為者によって内面化されるかがまったく明らかでないため、この究極価値をめぐって「万人の万人にたいする戦闘状態しを帰結させるごとが、原理的にはつねに可能なのである。というのも究極価値の究極性を何と考えるかは、行為者によって様々でありうるからである。」

    「実はここでパーソンズが直面しているアポリアは、「社会契約論」において生ずるアポリアとまったく同型である。社会契約とは諸個人と共同体の契約を意味するわけだが、実はその契約の一方の当事者である共同体じたいが社会契約の結果生ずるはずのものなのである。当然パーソンズ自身はこのような契約におけるパラドックスに気づいており、だからこそデュルケムから「契約における非契約的要素」を導き出してきたのであった。しかしパーソンズの認識は甘かったといわねばならない。「契約における非契約的要素」が究極価値であるとするなら、いま見たように、この要素をめぐって同様の問題が生じてしまうのである。もちろん問題のレヴェルは異なるのであるが、事態の本質はまったく変わらない。問題がただ先送りされるだけのことだ。」

    名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」、102P

    「なぜなら個人主義的アプローチからする限り、ホッブズの「自己利益」の追求が「万人の万人に対する戦闘」を帰結するように、「超越的目的」の追求はウェーバーの「神々の闘争」を帰結するからでる。両者の行為が各々異質の規範に導びかれていようと、その論理的帰結に変わりはない。パーソンズはいかなる根拠の上にこの問題を解決したのか。問題設定そのものを変えるとによってである。パーソンズはまず「秩序」の存在を経験的事実として前提する。その上でこの「秩序」の説明がいかにして可能かを問うたのである。このことは何を意味するか。ホップズの提起した「秩序問題」とは、自律的な独立した個人の能動性を分析の出発点に据えた場合、いかにして秩序が可能か、という問題提起である。パーソンズはこの間いの方向を逆転させる。経験的事実として秩序は存在する、このことはいかにして可能かーーこれがパーソン両目ズの採択した方法である-ホップズの問題提起が個人の自律性を基礎に置いている限り「個人主義的社会唯名論的」アプローチであるとすれば、パーソンズの問題のたで方は「秩序ーの存在を前提とする限り「集合主義的ー社会実在論的」アプローチであるということができる。個人主義的・主意主義的立場からすれば、個人の「窮極目的」の追求の社会における論理的帰結は「万人の万人に対する戦闘」か「神々の闘争」である。この論理的帰結にもかかわらず経験的に秩序は存在する。このことはいかにして可能か。程度の違いこそあれ事実的に「窮極目的」が「共有」され、この「共有された窮極目的」が「統合された体系」をなすと考えることによって。これがパーソンズの「秩序問題ーであり、その処方箋なのである。」

    進藤雄三「主意主義的行為理論の生成過程 パーソンズの初期論文を中心に」,160P

    ゲーム理論で考えるとかなりわかりやすい

    詳細は下記より参照してください。

    高橋一行「ホッブズの政治哲学とゲーム理論」(URL)

    囚人のジレンマ

    ・もし自分が黙秘していた場合、懲役2年(相手も黙秘)か懲役10年(相手が自白)です。

    ・もし自分が自白した場合、懲役0年か5年です。選択肢1「2か10」、選択肢2「0か5」というわけです。

    ・囚人が自分の利益を合理的に追求しようとしたら、自白が最適な戦略(支配戦略)となります。

    ・相手が黙秘を選んだと仮定して、自分が黙秘したら懲役2年、自分が自白したら0年なので自白を選びます。

    ・相手が告白を選んだと仮定して、自分が黙秘したら10年、自分が自白したら5年なので自白を選びます。

    ・相手の行動に関わらず、自分が最も得をしようとしたら自白を選ぶのです(支配戦略) 。

    要するに、功利主義的な前提、人間は利己的で自分の利益を最大化しようとし、その手段としては最も合理的なものを選択するという前提に立てば、人間は万人の万人に対する戦い(つまり全体の不利益)が帰結するというわけです。かなりわかりやすいモデルですね。

    しかし各個人が合理的な戦略をとった結果、全体としては望ましい結果にならないので囚人のジレンマというのです。

    たしかに全体として望ましい結果(パレート最適)は両方黙秘の(2,2)で合計4年ですよね。しかし合理的な戦略をとった結果、(5,5)の合計10年になってしまうからジレンマというわけです。

    保証ゲーム

    自然人AとBが森の中で会ったと仮定します。お互いに大量のドングリを同時に発見しており、さてどうするかという状況です。そして自然人AとBの間には、約束は互いに守るべきという規範が内面化されているような状況を想定します。つまり、パーソンズ的な想定です。価値の共有が内面化されている状態というわけです。

    もし自然人AとBがどちらも平和的な戦略を取れば、お互いにドングリを分け合い、お互いの利益は5ずつになります。

    片方が戦闘戦略をとれば、ドングリを独り占めできるので利益は+10、といきたいところですが、「約束は互いに守るべきという規範」がある状況なので、ドングリが得られても「社会的信用」がなくなってしまいます。したがって戦闘戦略をとった人間の利益は0であり、平和戦略をとった人間は死んでしまうので-20です。

    お互いに戦闘戦略をとるとすれば、半分の確率で殺され、勝ったとしても社会的信用が落ちるので、お互いに-10です。

    したがって、個人の利益を最大化しようと合理的な選択をとるとすれば、自然人ABは両方とも平和戦略を取ることになります。相手が平和戦略をとると仮定すれば、自分の利益は5か0になります。5を選ぶので平和戦略を取ることになります。相手が戦闘戦略をとると仮定すれば、自分の利益は-20か-10になります。-10を選ぶので戦闘戦略をとることになります。5か-10なら5を選ぶので、平和戦略を取ることになります(おそらく)。

    要するに、価値の共有がされているから平和になる、つまり社会秩序が生じるよね、という話です。

    価値の共有がされていないような状態で考えてみましょう。もし戦闘戦略を選んで相手が平和戦略を選んでいた場合、自分の利益は10になります。相手は死んで利益はマイナス10です。もしお互いに戦闘戦略をとった場合はお互いにマイナス5,お互いに平和戦略を取った場合はお互いにプラス5です。

    もし相手が平和戦略をとると仮定した場合、自分が平和戦略をとるとプラス5、戦闘戦略をとるとプラス10です。したがって、戦闘戦略をとります。もし相手が戦闘戦略をとると仮定した場合、平和戦略をとるとマイナス20、戦闘戦略をとればマイナス5なので戦闘戦略をとります。したがって戦闘戦略をとることが最適な戦略となり、万人の万人に対する戦いが帰結します。つまり、規範はやっぱり大事だよね、ということが確認できます。

    チキンゲーム

    チキンゲームとは別々の車に乗った2人のプレイヤーが互いの車に向かって一直線に走行するゲームのことです。プライドのせいで悲劇的な結末、たとえばぶつかって両方死んでしまうような状況です。先にハンドルを切った人間はチキン、つまり臆病者と言われてしまうのです。

    さて高橋さんが考えたホッブズ的なチキンゲームモデルでは、ドングリをめぐって一方が武器を捨て、他方が武器を維持していた場合、武器の保持者が相手を殺す必然性はないと考えているようです。囚人のジレンマケースで利己的で戦争好き、ホッブズでいえば暴力を最も合理的な手段として考えるので、相手が武器を捨てた場合は殺しにかかるかもしれません。しかし武器を捨てることには不安も生じるといいます。もしかしたら相手が非合理的な人間で、自分を殺してくるかもしれせん。そういう感情的な人間的のモデルを想定しているようです。

    こういう計算は苦手なので、詳細は高橋さんの論文を見てください。平和戦略をとった場合は利益が5か0、戦闘戦略をとった場合は10か-10です。(5+0=5)か(10-10=0)かなら0を選び、平和戦略を両方取るよね、という話なのではないかと思います。

    保証ゲームではたしかに社会秩序が形成されますが、そもそも規範は社会の中で形成されるという循環論法的な問題があります。そこでチキンゲーム的な想定を考えて、やっぱりお互いに死ぬのは不利益なので平和戦略を取り合うよね、となるのかもしれません。他にも繰り返しゲーム等、他のモデルも想定されているようなので興味がある人はみてください。もともとチキンゲームは核戦争的な想定で考えられており、核戦争で人類が滅亡がするのが怖いので各国平和戦略をとるよね、という話です(現在はロシアが暴れてますが)。

    「高橋によれば,P.D.では国家を形成しようとする議論は生じることがなく,ホップズが平和に至る可能性を論証しているとすれば,このモデルはホップズ理論にはふさわしくないものである。A.G.の問題点は「社会性を持たない個人」から社会が形成されるためには「個人のなかに社会的規範」が形成される必要があるが,その規範は「社会の中でしか形成され得ない」という矛震があることである。この点で,c.G.が最もホップズ理論を説明できるという〔高橋一行2001:32-3J0c.G.はP.D.と同様に,「人は利己的であり,戦争好きである」という前提があるが,P.D.のプレイヤーは「理性的な計算のできる個人」であるのに,c.G.は「名誉欲と死の恐怖という情念の聞で揺れ動く,感情的な人間であるこの点で,c.G.の方が「より現実的な人間観」であり,そのためにホップズは現実的に平和への可能性を証明したと高橋は主張する。」

    P.D.=囚人のジレンマ

    A.G=保証ゲーム

    C.G=チキンゲーム

    菊池理夫「共通善の政治学」と社会契約論(3)一一共通善の政治学とホップズの社会契約論」

    参考文献

    参照論文

    1:高橋章子「相互行為論のデュルケム――デュルケム, パーソンズ, ガーフィンケルの秩序形成の論理を比較して」(URL)

    2:春日淳一「ダブル・コンティンジェンシーについて」(URL)

    3:村井重樹「目的-手段図式から習慣へ : パーソンズとブルデューの功利主義批判を通して」(URL) 功利主義のジレンマについて主に参照

    4:大黒正伸「方法論的個人主義と「原子論」― 経済学方法論から社会学が学ぶこと―」(URL)

    5:進藤雄三「主意主義的行為理論の生成過程 パーソンズの初期論文を中心に」(URL)  主に循環論法についての参照

    6:倉田和四生「行為理論の展開―T・パーソンズとの関わりを中心として」(URL)

    7:山田吉二郎「広報メディア研究の『準拠枠』 : パーソンズ行為理論の適用可能性について」(URL) ※一番わかりやすかったですがこれはこの記事のメインではなく、次回以降の行為の準拠枠理解のための論文です

    8:高橋聡「教育統治におけるホッブズ的秩序問題」(URL)

    9:土場学「合理的選択と共感的想像力」(URL) 主に功利主義の4つの特徴の参照と、パーソンズの功利主義批判の説明の参照です

    10:名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」(URL) 主に功利主義が解けなかった秩序問題に対する説明の参照、パーソンズの秩序問題の解決の要約 この論文が一番詳細です

    11:木曾好能「ホッブズの道徳哲学―読書ノート―」(URL) ホッブズ基礎理解

    12:澤部明男「初期パーソンズの諸問題」(URL) 主にランダム性の説明の参照

    13:名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」(URL)主にパーソンズのホッブズ批判の説明の参照

    14:金泰明「ホッブズ問題における「二重性」の原理的考察 パーソンズからルソー、ヒュームへ(URL) 主にパーソンズへの批判(循環論法)における説明

    15:ホッブズ基礎理解(橋爪さん)URL

    16:菊池理夫「共通善の政治学」と社会契約論(3)一一共通善の政治学とホップズの社会契約論」(URL) 主に原子論の参照、及びゲーム理論の考察の参照

    17:野中亮「『宗教生活の原初形態』における『俗』の位置」(URL) 主にデュルケムとパーソンズの関連性についての参照

    18:高橋一行「ホッブズの政治哲学とゲーム理論」(URL)ゲーム理論についての参照

    19:田上大輔,佐々木啓「規範理論と秩序問題:社会学における規範的問いと経験的問いに関する一考察」(URL)

    20:福井康太「『秩序』としての紛争:再考」(URL) 主にバラバラな個人に対する理解の参照

    21:盛山和夫「経験主義から規範科学へ- 数理社会学はなんの役に立つか -」(URL)主に事実的秩序と規範的秩序の理解の参照

    22:溝部明男「社会システム論と社会学理論の展開 : T. パーソンズ社会学と残された3つの理論的課題」(URL) 主に共通価値統合の理解の参照

    今回の文献

    タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造 』

    ※全5冊あるみたいです

    タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造 』

    中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」

    中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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