【基礎社会学第十八回】マックス・ウェーバーの「官僚制」とはなにか

    Contents

    はじめに

    概要

    1. 官僚制とは:端的に言えば合法・合理的な支配の原理を第一とした制度であり、「合理的・能率的な組織の制度」を意味する。伝統性やカリスマ性によって支配するのではなく、法律などの「規則」によって支配の正当性が裏付けられている。官僚制は行政組織だけではなく、私的企業、教会、学校、軍隊などさまざまな組織に浸透している。ウェーバーにとって近代化とは合理化を意味し、合理化の過程の一つに「官僚制化」がある。この官僚制化は政治だけではなく、社会一般に広がっている。
    2. 官僚制の歴史:官僚制は古代エジプト時代からあったが、それは不自由な奴隷の支配を含む、家産制的な性質を持っていた。近代的官僚制は自由な選択による、契約によって支配関係が結ばれている。他にも物々交換か貨幣制度を伴っているか、人格的な支配関係かどうかなど様々な相違がある。基本的に官僚制という場合、家産制的官僚制ではなく近代的官僚制を意味する。
    3. 官僚制の主な原則:①権限の原則、②ヒエラルキーの原則(及び審級性の原則)、③文書主義の原則、④専門的知識の原則(及び専門試験による資格性)、⑤専業化の原則(兼業の原則禁止)、⑥規則の原則(規則に従って行動)、⑦没主観性(ザッハリッヒ)、⑧遂行者と行政手段、生産手段からの分離(所有と経営の分離)、⑨公私の分離、⑩分業制:それぞれの役割に応じて配置される)、
    4. 官僚制が技術的に他の制度より優れている点:正確性、迅速性、明確性、文書に対する精通・継続性・慎重性・厳格な服従関係、摩擦の防止、物的及び人的費用の節約など
    5. 官僚の地位:①社会的評価の享受、②任命制、③地位の終身性、④俸給と年金制、⑤昇進昇格性など
    6. 官僚制が発達した理由:①他の制度より技術的に優れていたから、②資本主義の発展とともに官僚制が必要とされたから③技術的に(治水や治安など)必要とされたから、④大衆民主主義の発展とともに官僚制が必要とされたから
    7. 官僚制が個人に求めたもの:ザッハリッヒ的な要素(没主観性、非人格化、客観的、即物的、計算可能性)。命令を聞き、個人的な信念や感情を抑え、功利や効率などの計算や規則を基準を元に行動するような「歯車」であることを官僚制は個人に求める。
    8. 官僚制は鉄の檻:官僚制は機械であり、鉄の檻であり、隷従の檻である。一度確立してしまえばそれを破壊することは難しい。しかし官僚制(機械)を最終的にコントロールするのは政治家のトップ(カリスマ的指導者)であり、このトップがカリスマ性をもつことによってある程度コントロールすることができる。だから政治家にはカリスマ性が政治家の資質として求められる。
    9. 官僚制の逆機能:社会学者のロバート・キング・マートンによれば官僚制が行き過ぎると逆に非効率になる場合があるという。たとえば規律の遵守が過度に行われると、規律に従うこと自体が目的となり、硬直化してしまうなど。

    動画での解説・説明

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    マックス・ウェーバーのプロフィール

    マックス・ウェーバー(1864~1920)はドイツの経済学者、社会学者、政治学者。28歳で大学教授を資格を得て、1905年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。社会学の元祖ともいわれる。ウェーバーの研究成果はT・パーソンズの構造ー機能理論、A・シュッツの現象学的社会学、J・ハーバーマスの批判理論やシンボリック相互理論等々に引き継がれた。

    マックス・ウェーバー関連の記事

    ・以前の記事

    【基礎社会学第四回】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか?

    【基礎社会学第六回】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

    【基礎社会学第八回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。

    【基礎社会学第十回】マックス・ウェーバーから「心情倫理と責任倫理」を学ぶ。

    【基礎社会学第十二回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「職業政治家」を学ぶ。

    【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか

    【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

    【基礎社会学第十八回】マックス・ウェーバーの「官僚制」とはなにか(今回の記事)

    ・以後の記事

    【基礎社会学第二十回】マックス・ウェーバーの「職業としての学問と神々の闘争」とはなにか

    【基礎社会学第二十二回】マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とはなにか

    官僚制とはなにか

    官僚と官吏の違い

    ウェーバーは特に明確にしていないが、おそらく官吏の中でも幹部クラスの人間が官僚という理解でいいのではないだろうか。官吏と官僚は翻訳的な違いであってあまり重要ではないように思われる。実際にマックス・ウェーバー「官僚制」の翻訳においても、官僚制的行政幹部が「官吏層もしくは官僚」といったようにほとんど同義語として扱われている。

    官吏の中でも上司と部下がいて、上司は部下を支配することができる。そしてその支配の正当性の根拠が「規則(合法性)」にある。官吏にはいくつもの階級がある。ある行政組織、財務省のトップは「大臣」である。さらにその大臣を束ねるのが内閣総理大臣である。ヒエラルキーでいえば内閣総理大臣がトップであり、権力が一点に集中している。

    WIKIによれば財務省の「幹部」は財務大臣、財務副大臣、財務大臣政務官、財務大臣補佐官、財務事務次官、財務官、財務大臣秘書官である。他にも一般職の幹部として事務次官や財務官、関税局長等が挙げられている。幹部リストなるものには何十人もずらりと実名付きで挙げられていた(URL)。

    幹部以下の役職、たとえば部長、課長、室長、係長といったものは幹部として基本的に数えられない。国家公務員には一般職と総合職の二種類があるが、一般職出身、いわゆるノンキャリア組では課長止まりであることが多いという。総務省では「課長級以上」が幹部職員として名簿に記載されている(URL)。

    「まず、合法的支配は、その正当性が法規化された秩序や命令権の合法性への信念に基づく支配のことをいい、合法的支配ともいう。合法的支配のもっとも純粋な型は官僚制的支配であって、これは官僚制的行政幹部(官吏層もしくは官僚)によって行われる支配である。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』83P 解説文

    官僚制の特徴概略

    POINT

    官僚制(かんりょうせい)合理性や能率性を重視し、規則(合法性)を第一とする組織の制度。最も効率のいい合理主義のモデル、組織の運営原理。

    「……官僚制の合理主義モデルは、単に行政、官僚制機構ばかりでなく、産業的企業にとっても有効なものである。それは、人間のあらゆる生活領域で進行している組織の巨大化過程できわめて普遍的にあてはまるモデルである。ウェーバーが、世界史的に進行する合理化過程の一局面として《官僚制化》をみる、第一の意味はそこにある。つまり、合法、合理的支配の原理が、単なる政治過程ばかりか、社会生活領域全般における最高度に合理的な組織原理として一般化するということである。」

    「社会学のあゆみ」、36P

    官僚制の歴史

    マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。

    支配の三類型に関する詳細は前回の記事で説明したので詳細は省略します。

    簡潔に言えば、支配はカリスマ的支配、伝統的支配、合法的な支配の3つの類型(理念型)に分けることが可能だということです。服従の動機、及び支配の正当性がどこにあるかという点がポイントです。もともとカリスマ的な、非日常的な要素を支配の正当性としていたものが、カリスマ的なものがなくなっても世襲制などを通して「昔からそうだから」というような理由で支配していくのが伝統的支配です。やがて伝統的支配は大衆によって特権を批判され、権利の平等を要求されるにしたがって「合法的な支配」へと変わっていきます。ウェーバーはこの合法的支配がカリスマ的支配にさらに変化する可能性も示唆しています。

    さらに家産性は家産制的官僚制と近代的官僚制に分けられます。基本的にウェーバーがいうところの純粋な官僚制は近代的官僚制になります。

    家産制的官僚制とは、意味

    POINT

    家産官僚制(かさんかんりょうせい)・「家産の維持や行政上の要件を目的にして、首長の臣民である「官僚(奴隷、家士として)」が階層的に編成され、客観的な権限を有しているような制度。支配の類型では「伝統的支配」に分類さる。古代エジプトや秦の始皇帝以来の中国などが例としてあげられている。家産とは「家の財産」であり、家産制においては君主によって人間が家産として扱われる。家産官僚制は近代官僚制とは違い、君主と官僚は感情的な関係であり、非人格的な規則による支配関係ではなく、伝統的で感情的な「恭順(忠誠)」による支配関係の側面が強い。

    家産官僚制と近代官僚制の類似点の例

    1:中国における科挙制度による官吏登用試験制度

    2:中国や古代エジプト、ローマにおける「上下関係の徹底による支配」(奴隷制度など)

    他:文書の利用(書記や帳簿)や秩序ある進級制度など。エジプトでは位階制や集権性が見られる。

    家産官僚制と近代官僚制の相違点の例

    1:ただし、近代における試験は科挙のような詩の素養など教養重視ではなく、技術的な専門性の要素が強い

    2:不自由で人格的な恭順・忠誠による奴隷的支配関係ではなく、自由意志に基づく契約的、非人格的な法による支配関係

    ・他の大きな違い

    家産官僚制は現物経済であり、近代官僚制は貨幣経済である点

    家産官僚制における支配の正当性は伝統性にあるが、近代官僚制における支配の正当性は合法性にある。

    公私の分離がはっきりしていない

    君主による権力が恣意的で人格的

    家産官僚制の話は明確に定義されていないのでややこしいんですよね。ポイントは「封建制」と「家産官僚制」の相違です。どちらも伝統的支配に属しています。しかし封建制は間接支配的であり、家産官僚制は直接支配的です。封建制は自前の領地や武器をもつ、ある程度独立した貴族ないし封臣によって支配が行われ、君主と封臣は「契約(盟約)」が前提とされています。

    封建制における身分制団体に対して、家産官僚制における官僚組織は君主が直接支配し、財産も固有の社会的名誉もなく、物質的に完全に君主に縛り付けられている「奴隷」の要素が特徴的です。ウェーバーは行政スタッフからの行政手段の分離を重視しています。たとえば昔の戦国大名は自前の武器や兵士を将軍から独立してもっていましたが、現代の軍隊や警察は自前でもっていませ(貸し出されているだけであり、所有は個人ではない)。同じようにエジプトや中国の官僚制においても、基本的に君主の所有物なのです。

    たとえば中国の「科挙」という制度は、試験に合格した人間が官職の就任資格を得るというものでした。こうした制度は官僚の専門人の要素に近いです(とはいえ中国の科挙はウェーバーによれば技術的な知識というよりも、教養という面が強かったそうです)。あるいは中国における上下関係の徹底も近代官僚制のヒエラルキーに近いです。

    「幾分明白に発達した官僚主義の、量的に最大の歴史的な例は、つぎのごとくである。a)新王国時代のエジプト、しかしいちじるしく家産制的な要素をもっている。──b)ローマ後期の帝政、とりわけディオクレティアヌス王朝、および、そこから発達したビザンティン国家、しかしこれらはいちじるしく封建制的で家産制的な要素をもっている。──c)ローマ・カトリック教会、十三世紀いらい漸次に。──d)秦の始皇帝の時代から現代にいたる中国、しかしいちじるしく家産制的および秩禄的要素をもっている。──e)ますます純粋な形をとりつつある近代ヨーロッパ国家、さらに、次第に絶対君主制の発達以後のあらゆる公共団体。──f)近代資本主義的大経営、それは、大きくなりまた複雑になるほど、ますますそうである。──a)からd)までのばあいは、きわめて強度に、一部分は圧倒的に、官吏の現物給与に依存している。が、にもかかわらず、それらは官僚制に特有な多くの特徴と結果を示している。その後のすべての官僚制の歴史的範型であるエジプトの新王国は、同時に、現物経済的組織のもっとも大規模な例の一つである。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』19-20P

    「官吏にたいする賦与として現物給付や現物用益権を割り当てる仕方は、すべて、官僚制機構を弛緩させ、とくに体統的従属関係を弱体化する傾向をもつものである。このような従属関係は近代的な官吏紀律のうちにもっとも厳格に発達している。主張に対する官吏の服従が純個人的にも絶対的なものであるばあい、したがって、奴隷や奴隷と同様に取り扱われた使用人による行政のばあいでも、現代西洋の契約により任用された、官吏のそれに匹敵する正確さに到達しようとすれば、すくなくともきわめて精力的な統率が上から加えられる必要がある。古代の現物経済的な国々のうちで、エジプトの官吏は、法律上ではともかく、事実上ファラオの奴隷である。ローマの大私有地制は、すくなくとも直接的な会計事務を好んで奴隷に委せたが、これは拷問することができたからである。中国では、懲役手段として竹をさかんに用いて、同じような目的を達しようとする。しかし、直接的な強制手段をたえず用いなければならないのは大変である。そこで、経験にしたがえば、まったくの偶然や恣意に依存しない出世コース、厳格ではあるが名誉感を重んずる紀律および統制、さらに身分的名誉感の発達の、チャンスに結びついた貨幣級の保証と、公けの批判の可能性とが、官僚制機構の厳格な機械化を成功させかつ存続させるための相対的な好条件を提供する。この点で官僚制機構は、法律上のあらゆる奴隷化よりもいっそう確実に作用する。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』25P

    「このうち、家産制的官僚制は、奴隷のように不自由な官吏によって行われるものであり、古エジプトや中国社会や絶対王政に見られた前近代的な官僚制である。なかでも、絶対王政下のそれは家産制的後期官僚制と名付けられる。近代的官僚制は、契約による任命、したがって自由選択によって行われるものであり、近代ヨーロッパ社会に見られるところである。そして、近代的官僚制が本来の官僚制であることはいうまでもない。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』85P 解説部分

    「ところで、この「家産制」において、家産の維持や、行政上の要件を充足することを目的として、首長の臣民たる「官僚」(奴隷)が、階層制的に編成され、没主観的な権限をもって、したがって形式的には官僚制的な仕方で機能する場合がある。これが「家産官僚制」なのである」

    指方秀雄「M・ウェーバーにおける中国官僚制論」、92P

    「ここに記述された近代的官僚は、まるで機械のように感情を交えずに合理的に業務をこなす。そこに人間的な期待や配慮が介入する余地はないはずなのである。しかし、洋の東西を問わず、古代や中世に見られた家産官僚制の支配はこれと全く違う。家産官僚制は上記の3類型のうち、伝統的支配の具体的形態である。家産制的官吏制度は、職務の分割と合理化とが進むにつれて、特に文書の利用が増大し、秩序ある審級制度が作られると、官僚制的特徴を備えるようになることもある。しかしその社会学的本質からすれば、純家産制的な官職と官僚制的な官職とは、両者のそれぞれの型が純粋に打出されれば打出されるほど、ますます相互に異なってくる」

    山崎好裕「恭順する官僚制:忖度の政治経済学」179-180P

    「家産官僚制には近代官僚制で見られるような非人格性や没主観性は見られず、官吏はそれぞれの利害関心に沿った行動を取るし、支配と服従の関係も人間と人間との感情を伴うものとなっている。とりわけ、家産制的な官職には、「私的な」領域と「官職的な」領域との、官僚制には特徴的な区別がない。けだし、政治的な管理はヘルの純個人的な事務として取扱われ、彼の政治的権力の保有と行使とは、貢租と役得との取得によって利敵をあげうるところの・彼の個人財産の一要素として取扱われるからである。したがって、彼がいかに権力を行使するかは、いたるところで干渉する伝統の神聖性が彼の恣意に対して多少とも固定的なあるいは弾力的な制限を加えない限り、完全の彼の自由な恣意に委ねられる。家産官僚制を支配する主人の側が、個人の恣意を交えているという意味で人格的な権力を行使するのに応じて、官吏の側も極めて人格的な反応を返してくる。」

    山崎好裕「恭順する官僚制:忖度の政治経済学」180P

    官僚制の6つの指標(メルクマール)とその効用

    1:権限の原則(規則による明確な権限)

    以下がウェーバーによる権限の原則の内容である。

    1. 組織の中で業務の活動範囲、権限、責任が明確に配分されていること:例えばある職員をクビにできる権限は職員の誰もがもっているわけではない。人事の部門、営業部の部門、経理の部門といったように「配分」されている。いわゆる「分業」である。
    2. 権限が配分され、その(物理的、宗教的ないしその他の)強制手段も規則によって制限されていること:例えば警察官職務執行法第七条では犯人の逮捕や党則の防止などの相当な理由のある場合ののみに武器の使用が制限されている。
    3. 分配された規則を継続的に遂行するために、資格を備えているものが官吏として任命されていること:例えば国家公務員試験や司法試験などに受かった人間などの資格が必要。
    POINT

    権限(けんげん)・それぞれの職位に与えられた行使できる力

    POINT

    規則(きそく)・権限を制限するルール。法律、行政規則、就業規則、校内規則、社内規則といったようにさまざまな規則がある。

    「権限(けんげん)」とは一般に、「個人がその立場でもつ権利・権力の範囲」を意味します。ある官吏の権力は無際限ではなく、制限されています。たとえば正当な理由なく、自らの野心のために特定の市民だけを融通して税金を免じるといった行為は権力の乱用であり、権限外の行為となりえます。上司の命令に反して業務をすることも権限外の行為となりえます。たとえばある警察官が上司の命令通り行動せずに、犯罪者を捕まえた場合も権限外の行為となりえます。

    この権力の範囲はどこからどこまでかと明確に書かれているものが「規則」というわけです。規則とは砕けた言い方をすれば「決まりごと」です。たとえば国家公務員の規則には「上司に従う」という規則があります。具体的には「国家公務員法第98条第1項」には「職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」とあります。上司に従いなさいというルール、決まりごとが書かれているものが「規則」というわけです。法律も規則に含まれます。もちろん一般企業や教会にも内部の者だけに通用する規則があります。社内恋愛を禁じるようなルールも「社内規則,職務規定,就業規則」です。髪を染めていはいけないというのもの「校内規則」です。政治活動を指定はいけないというのも「行政規則」です。

    「Ⅰ 規則、すなわち法規や行政規則によって、一般的な形で秩序づけられた明確な官庁的権限(Kompetenzen)の原則がある。すなわち、1.官僚制的に統治される団体の目的を遂行するに必要な規則的な活動が、いずれも職務上の義務として明確な形で分配されている。──2. この義務の遂行に必要な命令権力が、同じく、明確に分配され、かつそれらに割当てられた(物理的または宗教的或いはその他の)強制手段も、規則によって厳格に制限されている。──3. かように分配された義務を規則的かつ継続的に遂行し、それに対応する権利を講師するための計画的な配慮。それは、一般的に規則された資格を具えた者を[官吏に]任命することによって行われる。]

    マックス・ウェーバー『官僚制』7P

    権限の原則の効用(メリット)

    ・大量の業務を個人的な判断に左右されず、画一的、持続的に処理することができる

    ある行為をするためには上司の許可がいる、ある行為をした後には文書で残すといったように決まりがある、つまり規則があるわけです。いちいち自分で考えずに、決められているのでテキパキ動けるというわけですね(柔軟性に欠けるという批判もありますが)。

    「a 業務を規則で遂行→大量の業務を個人的な判断に左右されず、画一的・持続的に処理する。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、63P

    2:ヒエラルキーの原則(階級制構造)

    POINT

    ヒエラルキーの原則・ヒエラルキーとは階統制や階層制、位階制とも翻訳されるドイツ語。一般に、ピラミッド型に従属関係がはっきりと定まっている秩序や組織のことをいう。ヒエラルヒー、ハイアラーキーともいう。ウェーバーにおけるヒエラルキー構造は「官職階層制」と「審級制」の2つにわかれる。

    出典

    例えば東京都の職員は全部で8級あり、上から主事、主任、係長、課長補佐、課長、統括課長、部長、局長の順になります。国家公務員試験は大臣、副大臣、大臣政務官、その下から順に事務次官、外局長官、官房長、局長、部長、局次長、課長、課長補佐、室長、企画官だそうです。このようにピラミッド型のヒエラルキー構造が行政にはあります。

    企業においてもたとえば社長、副社長、専務、常務、支社長、支店長、本部長、部長….といったようにヒエラルキー構造があるケースがあります。官僚制はこのように、国家の組織だけではんく、民間企業にもみられるのです。学校においても校長、副校長、教頭、主幹教諭、指導教諭、教諭といったようにヒエラルキー構造があります。

    さてウェーバーによればヒエラルキー構造は「官職階層制」と「審級制」の2つにわけることができます。まず「官職階層制」のほうはわかりやすいです。部長の下には課長がいるというような役職の上下関係です。これは個人同士なので馴染みやすいです。

    ややこしいのが「審級制」です。たとえば国税局は人ではなく、機関です。機関同士のヒエラルキー構造が審級制というわけです。たとえば国税局は税務署を監督する機関です。つまり、国税局は上級官庁であり、税務署は下級官庁ということになります。

    さて審級制と調べればまず出てくるのが「裁判所」です。日本の裁判所は三審制といい、第一審の判決に不服な場合、第二審に裁判を求めることができます。これを控訴といい、さらに第三審に裁判を求める場合は上告といいます。下から順に、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所になります(ほとんどの場合は高等裁判所まで、要するに棄却されるらしいですが)。

    これがウェーバーのいうところの、国民が下級官庁からその上級審庁へ訴える可能性ですかね。とはいえ、日本においては最高裁判所が高等裁判所へ監督権をもっている、というわけではないらしいです。それがさきほどの国税局と税務署の関係の違いかもしれません。日本の行政組織に詳しくないのですが、税務署で門前払いされた場合、更に上の国税局に話を聞いてもらうという形もあるのかもしれません。

    省や庁、局や署となにかとややこしいですよね。省の外局が庁らしいです。外局とは切り離すということで、必ずしも上下関係にはありません。たとえば国税庁は財務省の外局ということになります。消防庁も総務省のが医局であり、金融庁は内閣府の外局です。そして「省と庁」の下に位置するのが局です。たとえば財務省には主税局、関税局などさまざまな局から成り立っている組織です。ややこしいですよね。たとえば国税庁の下には国税局があります。国税局は国税庁に指導監督されるわけです。国税庁>国税局>税務署というわけです。これが官庁同士の上下関係ということですね。

    さらにややこしいのが官庁という言葉です。これは一般に「国の意思の決定をなしこれを外部に表示する権限を有する国家機関」といわれ、他の補助機関や執行機関とは区別されているようです。たとえば行政官庁の代表例は各省の大臣、各庁の長など、トップの人間(あるいは合議制)を表すようです。つまり、上級官庁に対する下級官庁への指導とは、この意味に即して考えると、たとえば国税局長の鈴木さんが税務署の田中さんを指導するということになります。こうした行政官庁を補助する機関には補助機関というものがあり、たとえば副大臣や事務次官、局長や課長などを意味するようです。執行機関は警察官や徴収職員などですね。機関という言葉もややこしいのですが、団体の意思を代表するような人間、あるいは組織を表すようです。たとえば大臣は代表するような人間ですが、警察官は複数いて、組織です。

    ところで愚痴になりますが、マックス・ウェーバーの官僚制の翻訳は読んでいてとてもチンプンカンプンです。

    「Ⅱ職務体統(Amtshierarchie)と審庁順序(Instanzenzug)の原則。すなわち、上級官庁による下級官庁の監督という形で、官庁相互の関係が明確に秩序付けられた上位・下位の体系をなし、──その体系は、同時に被支配者にたいして、明確に規制された仕方で、下級官庁からその上級審庁(Oberinstanz)へ訴える可能性を与えるものである。この類型が完全に発展するばあいには、この職務体統は単一支配的に(monokratisch)秩序付けられている。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』8P

    ・職務体統は官職階層制に、審庁順序は審級制と訳す場合があるようです。どう考えてもそのほうがわかりやすい。

    「例えば,私的大経営体においても,といってみるのが「二,官職階層制(アムツヒエラルビー)と審級制(インスタンツエンツーク)との原則,監督を伴う官庁間の上下関係であり,職位間の階層制,ロワー,ミドル,トップ・マネジメントの階層制であって,前者については裁判上での地方,高等,最高裁判所の審級レベルに相応しているとみてよい」

    高橋俊夫「ウェーバーの官僚制と経営経済学」、2P

    「裁判所間に上下の階級を設け,下級審の裁判に不服な訴訟当事者が上級審に不服申立てをした場合に,上級審は理由があると認めるときは,下級審の裁判を取消しまたは変更する裁判ができるという制度。したがってここに上下の階級とはいっても,行政機関の場合と違って,下位の裁判所が上位の裁判所の一般的な指揮監督下に立つことを意味するものではない。日本では裁判所に4階級の区別があり,原則として三審制度が採用されている。 」

    ブリタニカ国家大百科事典(URL)

    「 同一系統内にある下級の官庁に対して指揮、監督する権限をもっている官庁。税務署に対する国税庁など。」

    日本国語大辞典(URL)

    ヒエラルキーの原則のメリット

    ・上下関係がはっきりしていることによって、組織が安定する

    「c 地位・役割が階級で整然と決まり、権限が上下に配分され、上級者が下級者を統制→一元支配的な秩序を形成し、組織の安定性を強化する。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、63P

    3:文書主義の原則(及び公私の分離:行政手段の分離の原則)

    POINT

    文書主義の原則・文書による職務の処理。一般に、「規則と手続きに従い,一定の書式で記録を残していくような役所仕事のやり方」を意味する。例:ある公務員がA社とオリンピック開催の件について話し合ったとして、その話し合った内容は「文書」にして残す必要がある。一般に,文書主義は伝達制、客観性、保存性、確実性といった点で優れているとされる。民間企業でも契約は契約書として文章で残していくケースなどが考えられる。

    例:文書の作成は規則で決まっている義務。文書を保存する義務もあり、簡単に廃棄できない(たとえば内閣府の許可が必要)。具体的には意思決定に関する文書や、事務及び事業の実績に関する文書が日本の行政において作成するべき文書とされている(日本の文書主義の例の参考URL)。

    「Ⅲ 近代的な職務執行は、原案または草案の形で保存される書類(文書)に基づいて行われ、その任に当るものは、あらゆる種類の下僚や書記から成る幹部である。官庁に勤務する官吏の総体は、それに対応する物財や文書の設備とともに『役所』(これは私経営ではしばしば『事務所』と名付けられる)を形づくる。近代官庁組織では、原則として、役所から私宅が切り離される。じじつ、そこでは、一般に、職務活動が別個の領域として私生活の領域から区別され、職務上の金銭や財産は官吏の私有財産から区別されている。これは、いずこを問わず、ながい間の発達の結果としてはじめて生じた状態である。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』8-9P

    「規則と手続きに従い,一定の書式で記録を残していくような役所仕事のやり方」

    ブリタニカ国家大百科事典(URL)

    財産に関する公私の分離

    文書主義の原則とは少しずれますが、文書主義の原則の段落で「公私の分離」について述べられています。たとえば昔ながらの八百屋は自分の家で商売をしていますが、行政組織は基本的に自分の家と仕事場は区別されて考えられます。コンピューターが自宅にあるとすれば、私用でも仕事用でも八百屋さんは使うかもしれませんが、行政組織の場合は会社のものは会社のもの、自分のものは自分のものといったように財産がきっちり分離されているわけです。だからこそ私用で使う者を公務員が経費で買った場合に問題になるわけです。たとえば会社で管理している切手を勝手に私用で使うことは「横領(他人の財を不法に自分のものとすること)」になるわけです。

    文書主義の原則のメリット

    ・文書主義によって人から人へ正確な指示が可能になる。後から見返せる。

    「d 文書による指示伝達→一定の形式で必要事項を洩れなく簡潔明瞭に盛り込み、正確な指示をする。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、63P

    4:専門的知識の原則(及び資格任用制)

    POINT

    専門的知識の原則・職務につくためには専門的知識が必要とされること。主に資格があるかどうかが任用の基準になる(資格については官吏の地位の項目の内容になるが、セットとして扱う)。例:国家公務員試験や司法試験に受かる必要がある。資格任用制はアメリカではメリットシステムと言われ、公務員の任用や昇進を専門的能力を基準にして行う制度を意味する。メリットとは成績、業績のこと。

    たとえばアメリカでは専門的知識がなくても、ある党に貢献したという理由だけで大勢の人が官吏になっていったそうです。こうした制度を「猟官制」といいます。しかし専門的知識がない素人の行政では問題が生じるようになり、やがて資格や業績などを基準にしたメリットシステムをアメリカは導入したそうです。

    「Ⅳ 職務活動、すくなくともいっさいの専門化した職務活動──そしてこれはすぐれて近代的なものであるが──は、通常、つっこんだ専門的訓練を前提とする。このこともまた、国家の官吏とまったく同様、私経済的経営の近代的な支配人や職員についても漸次当てはまるようになっている。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』9P

    「官職は『天職』である。このことは、まず、明確に規定された訓練過程──これにはたいていのばあい全労働力を長期にわたって要求されるが──という資格要件のうちに、また、任用の前提条件としての性格をもつということのうちにあらわれ…」

    マックス・ウェーバー『官僚制』17P

    ※天職は職業と翻訳されることもあるようです

    専門的知識の原則のメリット

    ・専門的知識は業務の遂行をより高度、効率的、正確にする

    「明確で合理的な分業と専門家による業務の遂行→高度、効率的、正確、継続的な行政を可能にする。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、63P

    5:専業化の原則

    POINT

    専業化の原則・兼業(副業)を原則禁止することによって官吏が自分の職務活動に集中できるようにすること。例:日本の公務員のほとんどは規則によって原則として兼業が禁止されている

    「Ⅴ 完全に発達した職務では、職務上の活動には官吏の全労働力が要求される。それは、役所における官吏の拘束労働時間の長さが明確に制限されるという事情にかかわりない。通常のばあい、このことは、公務においても私経済的職務においても、ひとしく、ながい間の発達の結果はじめて生じたものであって、以前には、あらゆるばあいに、通常の事態とはこれと逆で、業務は『兼職的』に片付けられていた。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』10P

    専業化の原則のメリット

    ・専業化によって片手間ではなく、集中的に業務を遂行することが可能になる

    6:一般的な規則による規律

    正直4と6の明確な違いがわかりません。4が「専門的訓練」を必要とする旨であり、6が「専門的知識」を必要とする旨です。専門的訓練をするということは専門的知識を身につけることと重なると思うですが、正直そのへんの明確な理解の必要性を感じません。4と6一緒にして公私の分離に番号をつけたほうがいいのではないかと思います。

    たとえば公務員試験では社会学、法律学、行政学といったようなそれぞれの分野のテストがあります。そうした規則にしたがった専門的知識を身に着けている必要があるというわけです。では逆に規則に従わない知識とはなにがあるんでしょうかね。哲学だとか恋愛学だとか雑学だとかそういう知識ですかね。

    「Ⅵ 官吏の職務遂行は、多かれ少なかれ明確で周到な、また習得しうる一般的な規則にしたがってなされる。これらの規則の知識は、それゆえに、官吏が身につけている特別の技術論(それぞれに応じて法律学、行政学、経済学)」をなしている。

    官吏の特徴

    1:社会的評価の享受

    官吏であることが社会的評価を受けるらしいです。たしかに日本でも公務員の社会的評価は高い?ですかね。

    「公的なそれであれ、私的なそれであれ、近代的な官吏もまた、統治者に比べて、とくに高い、『身分的な』社会的尊敬をつねに求め、たいていのばあい、それを享受する。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』12P

    2:上位の管理者による任命

    たとえば国家公務員試験に受かっただけですぐに省庁で働けるわけではありません。その後で官庁訪問を重ね、面接を受けることによって任命される必要があるのです。

    国家公務員法第56条には「採用候補者名簿による職員の採用は、任命権者が、当該採用候補者名簿に記載された者の中から、面接を行い、その結果を考慮して行うものとする。」とあります。

    ちなみに「任命権」は同55条に「任命権は、法律に別段の定めのある場合を除いては、内閣、各大臣(内閣総理大臣及び各省大臣をいう。以下同じ。)、会計検査院長及び人事院総裁並びに宮内庁長官及び各外局の長に属するものとする。」とあります。要するに上位の管理者である大臣や人事院の総裁といったお偉いさんが最終的に任命するということです。

    「官僚制的な官吏の純粋型は上級の審庁によって任命される。被支配者が選挙した官吏は、もはや純官僚制的な人物ではない」

    マックス・ウェーバー『官僚制』13-14P

    3:地位の終身性

    たとえば国家公務員第75条第1項によれば、「職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない。」とあります。人事院規則の「本人の意に反する降任または免職」によれば、業績が著しく悪かったり、身心に問題があったりなどの規定があります。

    もともと日本における「終身雇用」の意味は一般に、「企業などが、正規に採用した労働者を、特別な場合以外は解雇しないで定年まで雇用すること」を意味します。特別な場合というのは先程の公務員と同じような理由なのかもしれません。たとえばもっといい人材がいるから君はクビ、というようなことがないというわけです。よっぽど無能であるとか、病気であるとかである場合のみクビにできるわけです。

    「地位の終身性。これは、通常、すくなくとも公的組織やそれに近い官僚制的な組織のうちに見られ、その他の組織でも漸次その方向にむかいつつあり、解雇予告や定期的新規採用が行われるところでさえも、事実上の原則として前提されている。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』16P

    4:俸給と年金制

    俸給とは国家公務員に支払われる「給与」を意味します。

    出典

    この表はわかりやすいですね。「号俸」というのは勤務年数であり、級はヒエラルキーですね。勤務年数が増えるほど給料は増え、級が増えるほど給料は増えていきます。「貨幣」による報酬というのも重要みたいですね。

    年金(恩給)の制度ももちろん日本の公務員にはあります。基本的に厚生年金に加入することになっているみたいですね(共済年金制度と厚生年金制度は一元化されたようです)。

    「官吏は、通常固定した俸給という形の貨幣報酬と、恩給による老後の保障とを受けるのが通例である。俸給は、原則上能率給として計算されるのではなく、むしろ『身分相応に』、すんわち職種に(『等級』に)応じて、加うるにときとしては、勤務年限の長さに応じて算定されている。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』18P

    5:昇進昇格制

    日本の公務員の昇進はケースバイケースなようです。たとえば国家公務員試験は一般職と総合職にわかれ、前者がノンキャリア、後者がキャリアなどといわれます。課長以上に昇進できるのはキャリア組がほとんどのようです。とはいえ、ノンキャリアの場合でも年功、つまり勤務年数に従って課長までは基本的に昇進できるようです。

    昇進に試験等が必要な例は、たとえば警察官などが挙げられます。いわゆる「昇任試験」です。昇任試験の内容は法学や実務に関する退屈式問題や論文、面接等があるようです。

    「官吏は、官庁の体統的秩序にしたがって、より重要でなくまたわずかの給料しかもらえない下級の地位から上級の地位への『出世』を目指している。いうまでもなく、普通の官吏は、昇進──官職上の昇進でないまでも『年功』によるか、またときに、進歩した専門試験制度の場合には、専門試験の点数を考慮して行われる、号俸上の昇進──の諸条件の出来るだけ機械的な固定化を望む。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』18P

    官僚制が発達した理由

    1:技術的な理由:他の制度より優れていたから

    ウェーバーによれば官僚制は他のいかなる形態よりも純粋に技術的に優れていると言っています。技術的に有利な制度だから官僚制が用いられるようになってきたというわけです。

    具体的には「的確、迅速、一義性、文書にたいする精通、持続性、慎重、統一性、厳格な服従、摩擦の除去、物的及び人的な費用の節約」が挙げられています。たしかに兼業として片手間に行政がなされるとすると、不適格だったりテンポが悪かったりしそうですね。

    「官僚制的組織が進出するための決定的な根拠は、以前から、それが他のいかなる形態より純技術的に優越しているということであった。完全に発達した官僚制機構の、他の形態にたいする関係は、ちょうど機械の非機械的な財貨生産様式にたいする関係に似ている。的確、迅速、一義性、文書にたいする精通、持続性、慎重、統一性、厳格な服従、摩擦の除去、物的及び人的な費用の節約──これらは、厳密に官僚制的な、とくに訓練を受けた個々の官吏による単一支配的な行政においては、あらゆる合議的なまたは名誉職的、兼職的な形態に比べて、最適度にまで高められている。複雑化した任務に関するかぎり、有給の官僚制的な仕事は、形式上無報酬の名誉職的な仕事よりもいっそう的確であるばかりでなく、結果としてしばしば安価でさえもある。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』33P

    資本主義と官僚制

    そそももなぜ行政に的確性や迅速性、専門性が求められるのでしょうか。私は普段あまり行政サービスを直接に受けることがないので直観的に理解できません。たとえば確定申告をするために税務署に直接で向いたとき、「今日は本業で忙しいから受付は休みです」だとか、「私は税の専門家ではないのでよくわかりません」だとか、「税の計算が正しいかどうか判断するのに一ヶ月かかる」だとか言われたらたしかに困ります。他にも壊れた橋に対する対応、殺人事件にたいする対応等々もダラダラ気分でやられたら困ります。専門的な知識を持つ人が迅速に、ルールに則って正確に遂行してほしいですよね。

    ウェーバーによれば特に行政に技術的な向上を望むのは「資本主義の経済取引」だそうです。言い換えれば資本主義の発達は官僚制の発達を要請するということになりますね。

    「こんにち、行政にたいしてできるだけ迅速で、しかも的確、一義的、持続的な事務処理を要請するものがあるとすれば、それは、なによりもまず近代資本主義的経済取引の側である。……もろもろの公示、経済上の事実あるいは純政治的な事実の伝達における速度の異常なスピード・アップということそれ自体が、すでに、そのときどきの状況にたいする行政の反応テンポを最大限に促進する方向にたえず強い圧力を加え、その最適の条件は、通常、厳格な官僚制的組織によってのみもたらされる。

    マックス・ウェーバー『官僚制』34P

    たとえばある土地にマンションを建てたいとき、行政に許可をとることになります。この事務処理が気分でなされたり、非専門的になされたり、処理が遅かったりすると資本を増やすという目的とは反するものになっていきます。あるいは株取引において必要な情報が政府から出ない場合も困ります(たとえば金融政策をどうするかなどの決定)。コロナで休業させるかどうかの判断も遅いと困りますよね。仕入れするかどうか、別の仕事を入れるかどうか、密接に関係してきそうです。

    田舎で物々交換で暮らしているような非資本主義的な社会では行政の技術がそこまで必要ないというのは直観的にイメージできます。そもそもマンションや高度な道路や公共施設、ガス、水道、電気等が必要ないような暮らしでは行政の役割は限られてきます。犯罪も大規模な捜査が必要なさそうです。社会が複雑化し、資本主義化してきたからこそ本格的に官僚制というのが技術上の理由で必須になってくるというわけです。

    近代的大衆民主主義と官僚制:大衆民主主義の発展は官僚制の発展を促す

    大衆と大衆民主主義とは、意味

    POINT:官僚制は大衆民主主義の不可避的な随伴現象。大衆民主主義が生じれば、必ず官僚制も生じるということ。

    POINT:官僚制を支えるのは「大衆」である。大衆は官僚制(特に、政治的野心のない純粋に行政を遂行するような官吏)を望む。大衆は公平を望む。

    POINT:大衆民主主義も官僚制も近代的な現象である。

    なぜ大衆民主主義は官僚制をもたらすのか:大衆は「権利の平等を」を目指し、「特権の忌避」と「行きあたりばったりの処理」を原理に拒否するから。要するに大衆は諸個人同士の差異を避け、「公平」さを第一とするので、公平な支配のシステムが求められるようになるということ。つまり公平な支配のシステムが「官僚制」である。ウェーバーでいうところの伝統的支配でもなくカリスマ的支配でもなく、合法的な支配である。合法的な支配は抽象的な規則によって公平に支配が行われやすい。

    大衆民主主義の中心概念は「普通選挙」であり、したがって「平等(公平)」である。女性や奴隷、貧乏人には選挙権を与えないといった従来の市民的民主意主義とは違い、成人に等しく選挙権を与えることを特徴としている。つまり「特権」や「行きあたりばったりの処理」がありえる制度である。たとえば昔からそうだから、といった伝統的なものや、カリスマ的な人間が言っているからといったカリスマ的なものは「不平等」を生みやすい。ウェーバーでいうところの家産制は世襲制で受け継いだ君主が気分で国民を支配したり、あるいはカリスマ性をもつ君主が規則なんて知るかといったように不安定な処理をすることがある。

    大衆は名望家から権力を奪取したとウェーバーはいっています。世襲議員や金持ち議員だけが議員になるのではなく、誰にでも議員になれる権利を平等に与えろというわけです。昔は「身分制度」が基本の封建制でした。武士の子どもは武士であり、奴隷の子どもは奴隷だったわけです。要するに特権的で不平等的だったわけです。こうした特権を壊した有名な出来事は市民革命であり、17世紀におけるピューリタン革命、18世紀のフランス革命、19世紀のドイツの三月革命、アメリカの独立革命などがしられています。

    直観的なイメージとして、たとえば私と国会議員が平等であるとは考え難いです。しかし同じ一票の投票権を持っているという意味では平等なわけです。つまり権利の平等です。財産などの格差はありますが、権利としては平等なのです。役所での扱いが国会議員と一般市民では違う、ということは実情は違ったとしても権利では同じなわけです。

    「そして、大衆が公平を要求する近代社会では、その力が「伝統に対する第一級の革命力」として作用し、官僚制による合法的支配が確立するのである。ようは、大衆が、公平を掲げて伝統的支配をぶちこわし、官僚制による合法的支配を生むのである。一方、人によって異なり、日によって異なる心情要素で部下を動かそうとする目標管理をコアとするマネジメントは、不公平ひどくし、部下のやる気をなくし、反感を生むのである。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、64P

    POINT

    大衆(Masse)・漠然とした未組織の民衆。ウェーバーによれば自分で自分を管理する能力はなく、誰かに管理されているような人々。オルテガによれば「善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のこと」らしい。

    POINT

    大衆民主主義(moderne Massen demokratie)・一般に、普通選挙における大衆社会を基盤とした民主主義を意味する。制限選挙を基盤とした市民的民主主義と区別される概念。一般に、大衆とは特定の組織化された人々の集団ではなく無組織の集団であり、その大衆が政治、経済、社会や文化などの分野に進出し、その動向を左右するような社会を意味する。

    なかなか難しそうな話ですね。大衆は一般に同じような人々であり、政治に無関心であり、受動的であるなどといわれています。私も大衆の一人かもしれません。積極的に社会をよくしよう、政治を変えよう、そのために組織をつくったり活動したりといった具体的な行為をしていません(もちろん精神の面では社会を良くしたいという気持ちはありますが)。

    普通選挙とは特定の年齢以上の国民に一律で選挙権が与えられるというものです。日本では現在、満18歳以上の日本国民が有権者として選挙で投票が可能になります。しかし明治時代は制限選挙であり、一定の税金を納めている人間しか選挙権(及び被選挙権)がありませんでした。要するに制限選挙だったということです。

    知識があって政治に関心があり、お金もあるような選ばれたエリート(市民、ウェーバーでいうところの名望家)だけが選挙権をもち、こうした層を基盤にした民主主義を市民的民主主義というわけです。おそらく古代ギリシアでは奴隷に仕事をやらせ、市民は政治や戦争をするといったような形態が常だったようです。ちなみに古代ギリシアの民主主義では奴隷だけではなく、女性にも選挙権がなく、市民権を持つ成人男性のみに選挙権が与えられたそうです。

    この話はセンシティブですが、政治に詳しくない人間や興味がない人間に選挙権を与えるのはどうなんだ?という議論もあるのは確かです。たとえば合理的に考えれば明らかに戦争をしないことが明らかなのにもかかわらず、知識のない大衆による多数決によって戦争という手段が選ばれることもあるわけです。直接民主制ではこのようなことがありえます。日本は間接民主制です。政治に詳しい国会議員さんに代表して決めてもらおうというわけです。これによって、明らかに不合理的な選択がされることは少ないはずです。もちろん、危険思想をもった政党が今後登場し、その政党に知識のない大衆が扇動され、台頭するといったこともあるかもしれません。だから衆愚政治、専制政治になる可能性も大衆社会ではあり得るわけです。

    たとえばマスメディアによって○○政権は悪い、不祥事ばかり起こすというニュースが意図的に多く流されたとします。そして大衆はそれが真実かどうかをあまり考えず、受動的に、なるほどこの政権は悪いんだ、違う政権に投票しよう!となるかもしれません。そうすると政権は大衆に印象の良い政策ばかりをとりがちになります。たとえば消費税を上げるべきなのに、上げたら大衆に印象が悪いからといって消費税を下げると選挙では連呼するかもしれません。もし制限選挙で限られた知識のある人々のみが選挙権を持っていれば、なるほどこの経済状態では税金を上げざるをえない、と納得し、自分のことだけではなく全体を考えて消費税を上げると言っている政党に投票するかもしれませんよね。しかし制限選挙は不平等なので、国民同士の結束や連帯感を壊してしまいます。

    「フランスや北アメリカや、こんにちイギリスにも見られるように、国家行政自体の内部における官僚制化の進歩は、明らかに民主主義の平行現象である。そのさい、『民主化』という明証が誤解に導き易いということ、このことは、むろんつねに注意しておく必要がある。すなわち、漠とした未組織の大衆という意味における民衆は、ちょっとでも団体が大きくなると、けっして自分で自分を『管理する』[自治]能力はなく、[誰かに]管理されるものであり、せいぜい支配的な行政指導者の選択方法と、民衆──いっそう正しくは、民衆のなかから出た他の人間サークル──がいわゆる『世論』の助けを借りて、行政活動の内容と方向に及ぼしうる影響の度合いを変えるにすぎないという事実である。ここで考えられた意味における『民主化』は、かならずしも当該の社会集団の内部における支配にたいする被支配者の積極的参与の機会の増大をいみするものではない。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』49P

    「官僚制的組織は、何よりもまず、同質的な小単位の民主主義的自我と対照的な、近代的大衆民主主義(moderne Massen demokratie)」の不可避的な随伴現象である。その理由の第一として、抽象的な規則に基づく支配行為という、官僚制的組織に特有な原理が挙げられる。けだしこれら、したがって『特権』の忌避と、『行きあたりばったりの』処理を原理的に拒否するということから生ずるからである。第二の理由として、官僚制的組織の成立の社会的条件が挙げられる。およそ量的に大きな社会形象のいかなる非官僚制的な行政も、何らかの仕方で既存の社会的、物質的または名誉上の優位がもろもろの行政機能や行政義務に結びつくばあいに、はじめて可能である。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』46-47P

    「ウェーバーによれば、大衆社会化と官僚制化が並行して進行してきたことは、歴史的な事実であった。大衆は当初、名望家から権力を奪取し、官僚制により身分を平準化してきたが、名望家支配の破壊を完了すると、更なる身分の平準化を目指し、官僚制を次なる攻撃目標とするのである。この点を踏まえるなら、今日の我が国における官僚批判とは、官僚制化の徹底のために、官僚制自体を攻撃の対象としている状況を表すものと言える。」

    松本和也、羽鳥剛史、竹村和久「大衆による官僚制化の心理構造に関する実証的研究」、166P

    「中野(2012)はこのような真渕の分類に則り、オルテガの論ずる「大衆」が、政治に積極的に介入するような「政治的官僚」を嫌う一方、政治に関与しようとしない「吏員型官僚」を支持し、ウェーバーの論ずる官僚制を貫徹しようとする状況を「官僚の反逆」として分析している。この論考に基づくなら、今日の官僚批判は政治的官僚に向けられたものであり、大衆はそうした批判によって、吏員型官僚による官僚制化を推し進めているものと読み解くことができる。」

    松本和也、羽鳥剛史、竹村和久「大衆による官僚制化の心理構造に関する実証的研究」、166P

    官僚制の合理性(官僚制化が個人に求めたもの)

    ザッハリッヒ(没主観性、非人格化、客観的、即物的、計算可能) 

    ザッハリッヒはいろいろ訳され方があるみたいですが、ここでは便宜的に没主観性、非人格化、客観的、即物的、計算可能など多義語の総称として扱います。共通して言えることは「主観」を配して「客観性」を重視するということです。こうしたザッハリッヒ的な特徴を兼ね備えている制度が官僚制というわけです。

    合理化が進むということは、ザッハリッヒ的な要素が高まるということでもあります。とりわけ「計算可能性」という要素が重視されるようです。ウェーバーの社会的行為でいうと「目的合理的行為」であり、この行為は「理解可能で計測・計算可能」という特徴があります。 また、合理性の特徴として「計算可能性」が最たるものとして挙げられるので、ザッハリッヒ的なものは合理的なものであると解釈することもできます。つまり合理化が進むということはザッハリッヒ的なものが進むということであり、そうした特徴を備えている制度が官僚制というわけです。官僚制は文字通り、”合理的”支配の典型例です。

    たとえば生活保護の相談に来た人間に同情したり憤慨したり、人格的に接するようでは業務が迅速かつ的確に、能率よく遂行できなくなるわけです。人間を物やロボットのように扱い、単純に収入は現在いくらか、貯金はいくらか、世帯主の収入はいくらかといった計算可能なものを集め、そこから機械的に判断を下すわけです。いわばマニュアルがあるわけで、替えがきくわけです。A以上なら許可、そうでないなら不許可といったようにロボットのように判断を下していくわけです。生活保護者が泣きわめいたり怒り狂ったとしてもそれらは計算不可能なので考慮に入れません。かわいそうだから生活保護の条件を満たしていないけど受給させよう、といった規則外の行為は許されないわけです。この意味で公平であり、平等な制度だともいえます。もちろん現実にはコネを使って規則外の行為をする官吏や、感情的になって規則外の行為をする官吏もいるわけですが、理念型としてはあくまでみな規則に従う杓子定規のロボットなわけです。

    合理性
    POINT

    合理性・ウェーバーにおける計測性、可測性、加算性を特徴としている。対象を客観的に分析し計量して明確な予測ができるようになること。脱魔術化ともいう。

    官僚制における「合理性」は規則に基づく目的合理的な行為、及び即物的、非人格的な要素等が挙げられます。要するにザッハリッヒ的なものです。

    「彼にとって《合理性》とはそもそも何であるのか。池田昭氏は、最も抽象的に解される場合、ウェーバーの『合理性』とは、『最適度の意味適合性』であると考えているが、それをもう少し現実に即して理解するならば、ウェーバーの『合理性』を貫く基礎的な特徴は『計測性』、『可測性』、『加算性』と結びつけて考えるとわかりやすいように思われる。伝統主義の支配する『呪術の園』では、事物また事物的な諸関係を、伝統的・感情的な人格と結び付けられた諸関係が覆っており、人びとが事物そのものに即して計算することを阻んでいた。合理化されるというとは、そのような呪術の覆いが消え去って、対象へ『即事物的(ザッハリッヒ)』に接近できるようになり、したがって、対象を徹底的に分析し計量して明確な結論(予測)をも出すことが出来るということである。その場合、たとえば一般的規則や貨幣による計算原則のように、特定の具体的な内容に関わりなく、一般的な形式として表れてくる合理性と、具体的な場面における具体的な行為の内容が一定の評価基準に即して表れてくる合理性との、二種の合理性を含んでいる。前者が『形式合理性』、後者が『実質合理性』と呼ばれる。」

    「社会学のあゆみ」,40P

    「官僚制は『合理的』性格をもっている。すなわち、規則、目的、手段、鞨即物的日人格性が官僚制の態様を支配する。それゆえ官僚制の成立と伸張は、いたるところで、ちょうどあらゆる領域における合理主義一般の前進がなし遂げたと同じような特別な意味──この意味についてはもっと論じなければならぬが──で、『革命的な』影響を及ぼした。そのさい、官僚制は、この特有な意味で合理的な性格をもたなかったもろもろも支配構造形式を破壊した。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』76P

    没主観性
    POINT

    没主観性(ぼつしゅかんせい)・個人的・感情的要素を排すること。客観的であること。

    「f 没主観的で誠実な職務の遂行→個人的・感情的要素を排し、能率を向上させ、組織内外の人間関係の公正さを保持し摩擦を防止する。」

    福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」、63P

    非人格化とは
    POINT

    非人格化・特定の換えがきかない具体的な個人ではなく、換えがきくような抽象的な個人として扱われること。代替性。計算可能性を確保するためには、突発的な感情を計算に入れることは難しい。感情的なもの、人格的なものがなく、近似化されたものとして計算される(目的合理的に考える人間が想定される)。

    この項目は個人的に関心があります。

    非人格化とは、要するに「替えがきく」ということです。特定の換えが聞かない具体的な個人の集合による業務ではなく、替えがきく抽象的な個人の集合による業務が官僚制の特徴の一つです。たとえば裁判官や警察官が替えがきかないとしたら困りますよね。もちろん理念型的にいって替えがきくという意味であり、現実には替えのきかない相当優秀で人格者でカリスマ的な裁判官や警察官がいるかもしれません。純粋な官僚制ではそのような飛び抜けたカリスマや人格者は必要ではなく、専門的な業務を遂行することができれば事足りるわけです。むしろ人格的な要素は「逸脱」、つまり規則違反をしやすいともいえます。映画の「踊る大捜査線」のように型破りでカリスマ的な刑事が規則に反して英雄的な行動をするように美化されがちですが、皆が皆型破りだと組織として不安定になり、結果として国民の安全につながりにくくなりかねません。

    「それでは官僚制化は個人に何を求めたか。徹底した専門人の育成,訓練,実習によっての職務への習熟であり,それのうえに立って職務は個々人に割り当てられ,ここでも即対象的,客観的な(ザッハリッヒな)処理が,何がもっとも合理的な方式か,を求めて行われることになる。したがって,それぞれの職務の遂行にあっても誰がそれに当るか,特定の具体的な個人と結びつくのではなしに,誰れにでも代替可能な状況をつくりあげたうえでの「人物のいかんを問うことなく」(ohne Ansehen der Person)淡々と処理されることになる。」

    高橋俊夫「ウェーバーの官僚制と経営経済学」、5P

    即物的
    POINT

    即物的(そくぶつてき)・一般に、主観を排して実際の事物に即して考えること。ウェーバーによれば即物的な処理とは、人を顧慮せずに計算可能な規則にしたがって行われる処理のことである。つまり即物的であるというこは非人格的で計算可能であるということと等しい。私情を交えないこと。

    「近代的な職務誠実の特有な性格にとって決定的なことは、そのねらいが、純粋な型においては、たとえば封建制的または家産制的支配関係における封臣や従臣のように、ある個人にたいする誠実関係を結ぶことにではなく、非人格的な即物的目的(sachlicher Zweck)のためにあるということである。もちろん、この即物的目的の背後には、[かつての]世俗的もしくは超俗的な人格的首長に代って、共同社会のうちに実現されたと考えられる『文化価値観念』、すなわち『国家』、『教会』、『自治団体』、『政党』、『経営』といったものが存在するのをつねとし、さきの即物的目的もそれによってイデオロギー的に神聖化されるわけである。だからたとえば政治的な官吏は、すくなくとも完全に発達した近代国家においては、支配者の個人的な召使とはみなされない。さらにまた司教、司祭、伝道師も、こんにちでは事実上、もはや原始キリスト教におけるような純人格的なカリスマの担い手ではなくなっている。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』12P

    「しかしなかんずく、官僚制化は、純即物的な見地から行政における分業の原則を貫徹するに、もっとも好都合な条件を提供するもので、個々の仕事は、専門的に教育されまた不断の実地訓練を通していよいよ鍛え上げられる職員に割当てられて、行われる。このばあい、『即物的な』処理とは、何よりもまず、『人を顧慮せず』計算可能な規則にしたがって行われる処理を意味する。ところで、この『人を顧慮せず』ということは、『市場』およびいっさいのむき出しの経済的利益追求一般の合言葉でもある。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』34-35P

    計算可能性
    POINT

    計算可能性計算できない感情的なもの、主観的、非合理的ななものを排除し、計算できるものを重視すること。合理的なものほど結果の予測がしやすく、計算がしやすくなる。

    たとえば明確な規則は計算可能性を増大させます。たとえば規則に「上司の言うことはきかなければいけない」と書かれていれば、部下は上司の言うことをきくのだろう、と予測が可能になります。つまりこうした要素を計算に入れることが出来るようになります。他にも、いくらお金を費やせばどのくらいの効用が期待できるか、といった金銭的な計算もあるかもしれません。お役所仕事は基本的に計算可能性を原則に動いているといえます(だから融通がきかないということでもあるのですが)。

    たとえばマンションを建設するためにはどういう条件が必要かなどといった規則があり、それらを元に計算することが可能になります。役所の担当の人に人格的に嫌われたからと言ってマンションを建設してはだめ、ということには(理念型としては)ならないわけです。

    「しかしまた、近代的官僚制にたいしてもっとも重要な意味をもつのは、『計算可能性』という第二の要素である。近代文化の特質、とくにその技術的・経済的下部構造の特質は、まさしくこの、結果の『計算可能性』を必要とする。完全に発達した官僚制は、特有な意味で『憤慨も偏見もなく』という原則に従うものである。官僚制が『非人間化』されればされうほど、また、公務の処理にあたって愛憎や、あらゆる純個人的な、一般に計算できない、いっさいの非合理的な感情的要素を排除すること──これは官僚制固有の特性で、官僚制の徳性として称賛されているものであるが──が完全にできればできるほど、それだけ官僚制は資本主義に好都合な特有の性格をいっそう完全に発達させることになる。近代文化は、それが複雑化されまた専門化されればされるほど、それを指せる外的機構のために、個人的な同情や行為や恩恵や感謝によって動くかつての秩序の首長に代って、いっさいの私情を交えず、したがって厳密に『即物的な』専門化をますます必要とする。ところで、こうしたいっさいのものをもっとも望ましい組み合わせで提供するのが官僚制的構造である。」

    鉄の檻:官僚制は人間をロボット(精神のない専門人、心情のない享楽人、歯車、魂を失ったマシーン、隷従の檻、精密機械)にする 

    鉄の檻

    官僚制は資本主義の発展とともに発展してきた。どちらも近代化に共通するキーワードであり、どちらも「合理性」を基本としている。鉄の檻は合理的な利益追求を技術的に目指すものであり、マシーン(機械)である。

    要するに、「資本主義や官僚制は鉄の檻である」ということだ。非合理的な要素、つまり宗教的なものや伝統的なもの、カリスマ的なもの、感情(心情)的なもの、精神的なものが抜け落ち、ひたすらザッハリッヒ的、合理的な制度である。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの」とウェーバーが言っているのは官僚であると理解できる。もちろん官僚とは国家公務員や地方公務員、裁判官や検事だけではなく、およそ官僚制が浸透しているあらゆる組織の人間に対して言えるのである。つまり企業や教会、軍隊、学校、さまざまな組織にも言えることである。

    ウェーバーいわく、こうした合理的な鉄の檻から逃れられる領域は現代においては小さく、ピアニッシモ(最微音)である。官僚制や資本主義は技術上の理由で必要不可欠であり、そこから抜け出すことは難しい。官僚制にいたっては、ウェーバーは「破壊することの最も困難な社会形象」といっており、(「官僚制」53P)もし官僚制の活動が妨害されれば混沌が結果として現れるともいっている(同54P)。電気、水道、ガス、信号や法、警察等、現代の生活に必要なほとんどが官僚制が基準になっているとしたら、たしかにそれなしでは生きられないのかもしれない(田舎で牧歌的な自給自足の生活をするなら別かもしれないが)。

    「こんにち、究極かつもっとも崇高なさまざまの価値は、ことごとく公の舞台から引きしりぞき、あるいは神秘的生活の隠された世界のなかに、あるいは人々の直接の交わりにおける人間愛のなかに、その姿を没し去っている。これは、われわれの時代、この合理化と主知化、なかんずくかの魔法からの世界解放を特徴とする時代の宿命である。現代の最高の芸術が非交公共的であって記念碑的な存在ではないこと、また、かつて嵐のような情熱を持って幾多の大教団を沸きたたせ、またたがいに融合させた預言者の精神に相当するものは、こんにちではもっとも小規模な団体内での人間関係のなかにのみ、しかも最微音(ピアニッシモ)をもって脈打ってるにすぎないこと,これらはいずれもなきゆえではない。」

    マックス・ウェーバー「職業としての学問」,71-72P

    隷従の檻、規則人

    ウェーバーは鉄の檻という比喩表現の他にも、隷従の檻という言葉を使っているようです。官僚は規則にしがみつく規則人というのもポイントですね。

    「支配の社会学」や「支配の諸類型」とは異なり,『政治論集』などに収められている著作では,官僚や官僚制に対する否定的,あるいは攻撃的とさえ言える表現がしばしば見られる。そこでは「未来の隷従の檻(das Gehäuse jener Hörigkeit)」(「新秩序」S.332,363頁)という言葉や,官僚を「規則人(Ordnungsmesch)」-つまり「『規則(Ordnung)』というものを必要とする人間」,「『規則』しか必要としない人間」,「その『規則』が一瞬でもぐらつくともう血眼になる人間」,「その『規則』に適応するだけの生活から引き離されるともうお手あげだという人間」-として攻撃する発言が見られるのである(「市町村」S.141,102頁)。」

    「ヴェーバーと官僚」、34-35P

    官僚は歯車にすぎない

    「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のもの」の別の言い換えは「歯車」といえる。精神があったら、その精神の特定的、具体的なものゆえに取替が不可能なものとなってしまい、歯車としては問題である。すぐに発注できるような大量生産できる歯車である必要がある。

    官僚制が機械なら官僚は歯車というのは納得できる。ではこの機械を操作するのはだれかといえば、それは政治家のトップである。日本で言えば内閣総理大臣だ。ウェーバーいわくこの政党政治家のトップは責任倫理を持つ必要があり、またカリスマ性を備えている必要があるという。官僚は対照的に政治的には無責任で、またカリスマ性を備えている必要はない。

    官僚は上から〇〇をしてくださいと目的が与えられ、その目的が規則や合理的なマニュアルにしたがって淡々とロボットのように遂行していくようなイメージになる。

    ・資本主義の発展と官僚制の発展は密接に関連している

    ・官僚制は機械であり、鉄の檻であり、隷従の檻であり、魂を失った機械であり、精密機械である。一度機構が作られると、最も壊し難いものになる。

    ・官僚は精神のない専門人、歯車

    ・官僚は感情的になってはならず、規則によって非人格的に業務をロボットのように遂行する。自分の信念を突き通して上司に反対することは許されず、上からの命令をまるで自分の信念であるかのように感じることが要求される。

    ・命令系統のトップがカリスマ性を持っていれば全体としてはうまく機能する可能性がある。情熱(主観的なもの)と判断力(客観的なもの)を両方もっている責任感のある人間のみが政治家のトップになるべきだとウェーバーはいう。ただしこの両方の要素を同時に使いこなすのは極めて難しい。しかし不可能と思えるようなことにも挑戦することが大事だという。

    「官僚制はひとたび完全に実施されると、破壊することのもっとも困難な社会形象の一つとなる。……職業官吏は圧倒的な大多数から見て──、不断に進展する機構のなかで専門の仕事を託された個々の歯車であるにすぎない。彼の進路は機構によって本質的に枠付けられ、その機構を動かすのも停めるのも(通常)彼ではなく、最高首脳だけである。しかも彼は、その結果として、この機構がひきつづき作用し利益社会化的に営まれる支配が持続するようにという、この機構のうちに統合されたあらゆる職員がもつ共同の利害にかたく結び付けられている。さらに被支配者自身もまた、ひとたび官僚制的支配機構が存在する以上、これなしに済ますこともできないし、かといってそれをとりかえることもできない。官僚制的支配機構は、専門教育や分業的な専門化、さらには、習熟し巧みに制御された個々の機能を求める確固たる態度──これらの周到な総合に基づいて行われるからである。官僚制的支配機構がその活動を停止し、あるいはその活動が暴力的に妨害されれば、その結果として現れるのは混沌であり、かような混沌をなくすために、被支配者たちの中からそくざにそれに代わるものを求めることは困難である。このことは、公的行政の領域にも私経済的行政の領域にもひとしくあてはまる。」

    マックス・ウェーバー『官僚制』53-54P

    官僚は政治的に無責任な人間

    官僚は自分の信念や心情を突き通すことができないという。これは官僚である限り、自分の信念や心情を表に出すべきではないということになる。つまりザッハリッヒな態度を持つ必要が官僚には求められているのであり、それは非人格化、要するに「自己否定」が官僚の特徴になる。紀律にさえ従えばよいのである。また、上司の命令に誠実に、正確に従うことが自分の信念に合致しているかのように職務を遂行することが「名誉」であるともウェーバーは言っている。その意味で、官僚は命令した上司に責任を転嫁させることができ、単に命令されただけだという意味で責任を取りにくいといえる。ロボットに対してお前が悪いと主人が言うことは難しい。最終的には行政府の長である大臣の責任、そしてその大臣の責任は大臣を任命した内閣総理大臣というトップの責任へとつながっていく。要するに政党政治家(職業政治家)のトップこそ責任倫理をもつにふさわしい人間なのである。またこのトップこそ、官僚制というマシーンをカリスマ性を持って動かすべきであるとウェーバーはいう。

    「「生粋の官吏は-…-その本来の職分からいって政治をなすべきではなく,『行政』を-しかも何よりも非党派的に-なすべきである」(「政治」S.524,40−41頁)。「官吏にとっては,自分の上級官庁が,-自分の意見具申にもかかわらず-自分には間違っていると思われる命令に固執する場合,それを,命令者の責任において誠実かつ正確に-あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように-執行できることが名誉である」(同,S.524,41頁)とヴェーバーは述べている。つまり,「職務にたいする義務感が自分の信念よりも重要であることを示すのが,官僚の義務であるばかりか官僚の名誉でもある。…このことは官僚の精神が要求するところでもある」(「新秩序」S.335,366頁)のだ。「これに反して,政治的指導者,したがって国政指導者の名誉は,自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり,この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし,また許されない」(「政治」SS.524−525,41頁)。それゆえ,「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は,政治家に向かない人間,とくに政治的な意味で無責任な人間であり,この政治的無責任という意味では,道徳的に劣った政治家である」(同,S.525,41−42頁)。」

    「ヴェーバーと官僚」42P

    プロ倫と鉄の檻

    ここではプロ倫には深入りせず、軽く触れておく。

    1:宗教的な「救済」の確証を得るために職業活動に勤しんでいた結果、「お金が貯まる」。職業活動に救いが関連するとなれば、利益が出れば出るほどその確証の度合いが大きくなるので、ひたすら利益のために合理的に活動することになり、合理的なシステムが生まれる。

    2:お金は自分の快楽のために浪費せず、ひたすら投資を行い、職業活動に専念する。競争が激しくなり、やがて利益を生み出さないと自分の会社が潰れてしまうようになる(資本主義のシステム、つまり鉄の檻が利益の追求を「強制」するようになる)

    3:宗教的な救済の確証という要素がだんだんと薄れ、利益の追求が倫理的に善いこと(資本主義の精神)と考えられるようになる。金儲けが倫理的義務になる(最初は結果としてお金が溜まっていたが、この段階ではお金を貯めることが目的となる)。

    4:資本主義の精神さえもなくなる。純粋な競争の感情、スポーツ感覚のようになる。

    「禁欲が世俗を改造し、世俗の内部で成果をあげようと試みているうちに、世俗の外物はかつて歴史にその比を見ないほど強力になって、ついには逃れえない力を人間の上に振るうようになってしまったのだ。今日では、禁欲の精神は──最終的にか否か、誰が知ろう──この鉄の檻から抜け出してしまった。……将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも──そのどちらでもなくて──一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化すことになるのか、まだ誰にもわからない。それはそれとして、こうした文化発展の最後に現れる『未来人たち』にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』と。──」

    マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」365-366P

    「ウェーバーはこのような官僚制が社会全般を覆い尽くすに至った契機について、その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)において、官僚制を「鉄の檻」というメタファーで表現し、「将来この鉄の檻の中に住むものは誰なのか」と問いかけ、「こうした文化発展の最後に現れる『末人』にとっては、次の言葉が真実となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう』(p.366)」と論じている。ここで用いられている「末人」や「精神のない専門人」、「心情のない享楽人」といった表現はニーチェ(1885)の著書『ツァラトストラかく語りき』に由来するものであり、本稿で着目するオルテガの論考に基づくなら、彼が論ずる「大衆」に他ならない。ウェーバーは官僚制化の行き着く先に、精神の頽廃した大衆の出現を予見しているのである。」

    松本和也、羽鳥剛史、竹村和久「大衆による官僚制化の心理構造に関する実証的研究」、165-166P

    「見よ!わたしは諸君に『最後の人間種族』なるものをお目にかけよう。『なに、愛だって?創造だって?憧憬だって?えっ、星?そりゃあ、一体何のことですか?』……誰もが同じことを望み、誰もが同じである。違った感じ方をする人間はみずからすすんで精神病院入りをする。『いやなに、昔は世の中すべてが狂っとったのですよ』─このお上品な連中はそう言ってまばたきする。 」
    ニーチェ『ツァラトゥストラ』

    ウェーバーは官僚制について批判的だったのか:文化人と専門人(規則人)の相違について

    価値理念:「知るに値する事実を選択する究極の基準」「自分がそれによって実在を評価し、そこから価値判断を導き出すところの、究極最高の価値基準」

    文化人:「究極的な価値や生の意義」(価値理念)を自律的に選択し、自己責任をを負う能動的な価値主体

    専門人:ウェーバーによって明確に定義されているわけではないが、専門的知識をもっている職業人と定義しておく

    官僚:官僚は専門人であり職業人であるが、他の専門人や職業人とは違う特徴がある。それは規則人であり、心情倫理的でも責任倫理的でもないことである。

    規則人:規則に適応するだけの生活から引き離されるともうお手あげだという人間

    心情倫理:自分の絶対的倫理に対して心情の純粋さをもって行為し、その結果が悪くても責任は「社会や神」にゆだねられると考える倫理的な態度。無責任だが自分の心情を突き通す。

    責任倫理:行為の結果を予測し、結果について責任を自分でとるべきだと考える倫理的な態度。責任ある態度。政治家が目指すべき態度。

    官僚倫理:ウェーバーからは直接的な表現はないが、官僚は基本的に責任を取らない。なぜなら、上からの命令や規則に従って行動するのであり、従っている限り責任を負う必要はない、あるいは責任のとりようがない。官僚にとっての倫理、名誉とは上からの命令を自分がまるでそのような信念を持っているかのように遂行することである。

    千葉さんの論文はとても読みやすく、また個人的に興味がある内容でした。千葉さんによればウェーバーは官僚制という制度自体ではなく、官僚制という人間のタイプ自体に否定的だったらしい。具体的には規則人や政治的無責任、非人格的な要素であり、そうした人間は文化人たりえず、したがって近代的主体にはなれないという。文化人とは「究極的な価値や生の意義を自律的に選択し、自己責任をを負う能動的な価値主体」のことである。

    しかし文化人の役割を担えないとしても、官僚たちがいるからこそ世界は混沌ではなくなり、文化人が創造的たりえるともいえる。いわば花が咲くための土壌のような役割をも有しているのではないだろうか。車が事故を起こさないのも、安全な水が飲めるのも、強盗に襲われにくいのもの官僚制あってのことである。

    しかし官僚制は隅々にまで行き渡りすぎていることも事実である。行政機関だけではなく、教会にも、学校にも、企業にも、大きな組織にはほとんど浸透している。官僚制、すなわち合理化が進んでいない領域、カリスマ的、心情的な領域は小規模な人間関係にごくわずかに、ピアニッシモにあるだけである。

    千葉さんによればウェーバーが否定的だったのは専門人というよりも、規則人であるという。専門人や職業人全般に対して否定的だったのではなく、官僚の独特の専門人のあり方に対して否定的だったのである。

    POINT:ウェーバーは「専門人」や「職業人」、「官僚制」のすべてを否定的に捉えているわけではない
    例:『職業としての学問』では学問上の仕事をしたという誇りは自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるという発言や日々の欲求に人間関係のうえでもまた職業の上でも従おうと発言
    例:『プロ倫』では専門の仕事の専念は価値ある行為の前提と発言
    例:『職業としての政治』では、官僚(官吏)は自分の信念では間違っていると思われるような命令であっても、まるで自分の信念に合致しているかのように執行できることが「名誉」だと発言。自己否定と規律の遵守がないと官僚制は崩壊してしまう。官僚制があるからこそ、その組織の外部にあるものにとっては予測可能になり、自由な行為を可能にする土台となる意味でも意義がある。

    「もちろん,官僚も「専門人」であり,「職業人」であることには違いない。だが,彼らの「職業人」としてのあり方は独特である。ヴェーバーは「新秩序ドイツの議会と政府」においても「職業としての政治」においても,官僚支配への批判との関連で,政治家と官僚の違いについて考察している」

    「ヴェーバーと官僚」41P

    「では,官僚の倫理はどうであろうか。ヴェーバーはこれについては特に述べてはいないが,それが「責任倫理」でも「心情倫理」でもないことは明らかであろう。官僚は自らの決断によってではなく,規則や上司の命令に従って行動する。「責任のとりかた」ということで言えば,政治家は結果に対する責任をとる-あるいはとるべきだ-が,官僚は責任をとらない,とる必要がない,ということになろう。自らの決断によるのではない行為の結果に対しては,責任を取れるはずがないからである。ヴェーバーは官僚に倫理性がないと考えている訳ではない。むしろ,前に見たように,官僚には「最高の倫理的規律」が求められるのである。だが,「官吏として倫理的にきわめて優れた人間は,…政治的な意味で無責任な人間」であるほかないのである。つまり,官僚の倫理は政治的意味では無責任の倫理だということになる。責任をとらない,という点では「心情倫理家」も同じである。だが,心情倫理家とは違い,官僚は自らの心情・信念を貫き通すこともできない。「規律」に従う「自己否定」が官僚の特徴なのである。このように考えるなら,官僚はおよそ「文化人」=近代的価値主体とはいえない存在だということになる。」

    「ヴェーバーと官僚」42P

    「……いかなる文化事象の認識も、つねに個性的な性質をそなえた生活の現実が、特定の個別的関係においてわれわれにたいしてもつ意義を基礎とする以外には、考えられないからである。ところが、いかなる意味で、またいかなる関係において、そうである[生活の現実がわれわれにたいして意義をもつ]かは、どんな法則によっても、われわれに明らかにされない。というのも、それは、価値理念によって決定されるからであり、われわれは、個々のばあいに、そのつど、この価値理念のもとに『文化』を考察するのである。『文化』とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、『自然への回帰』を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、『軽佻浮薄にすぎる』と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に『価値理念』に根ざしている、というばあい、こうした純論理的ー形式的事態が考えられているのである。いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいはおよそなんらかの『文化』を価値があるとみることにではなく、われわれが世界にたいして意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意志とをそなえた文化人である、ということになる。」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、92-93P

    官僚制の問題はどこにあるのか:規則人と文化人の違い

    ・なぜ官僚制が「隷従の檻」といった表現で否定的に扱われるのか→規則人は文化人としての役割を担うことが難しいから

    POINT

    規則人・規則しか必要としない人間であり、規則に適応するだけの生活から引き離されるともうお手上げだという人間。ウェーバーでいうところの「精神のない専門人」。ニーチェでいう「最後の人間種族」。

    POINT

    文化人・究極的な価値や生の意義を自律的に選択し、自己責任を負う能動的な価値主体

    ・純粋な官僚は上司の命令を聞くだけの規則第一の規則人であり、政治的には無責任であり、規則に従うことだけに責任を持つ。自分の決断ではないので責任を取りにくい。これらの要素は先程挙げたプラスの面もあるが、文化人のような価値創造の役目を負い難い。かといって、官僚制以上に現在の社会に適合した制度もない。

    ・プロテスタントは欲望などの感情は捨てて禁欲したが、信念(信仰)は捨てなかったのです。神からの救済の確信へとつながると信じました(最終的には信仰が薄れていきましたが)。彼らは結果に責任を負う責任倫理家ではなかったが、心情を絶やさないことに責任を負う心情倫理化家ではあった。一方、官僚は独自の信念(魂)を捨てざるをえない。官僚制(マシーン)が機能するためには不可避。

    例:ある医者は安楽死を肯定する信念を持ち、違う医者は否定する信念をもつとする。安楽死は禁じるという規則に従わずに、自分の信念を貫いて自分勝手に安楽死を実行していくと社会が混乱しかねない。

    官僚制の逆機能について少し

    マートンによる官僚制の「逆機能」

    官僚制は行き過ぎると逆に機能しなくなる、つまり「逆に効率が悪くなる」事例もあるということです。

    たとえば規律の遵守が過度に行われると、規律に従うこと自体が目的となり、硬直化してしまうそうです。ウェーバーのいうところの「規則人」の負の側面ですね。

    「マートンは1940年「ビューロクラシーの構造とパーソナリティ」という論文の中で、ウェーバーの官僚制の理念型理論を正しく継承しながら、ウェーバーが取り上げなかった官僚制論の変遷とネットワーク組織官僚制の構造から生じる逆機能の問題を提起した。マートンによると、組織全体の統一を確保し、組織の目標を能率的・合理的に達成するために手段として規則や規律の遵守が強調されると、「予期せざる結果」として、組織のメンバーは自らの行為を防衛し、もともと目的を達成するための手段である規則や規律に従うことが自己目的化される。そうすると、官僚制の中のメンバーの行動はますます「儀礼主義」になり、硬直化される。官僚制は「繁文縟礼」のイメージによって特徴づけられ、予期も予想もされない事態として不効率が生じるようになる。」

    朴容寛「官僚制論の変遷とネットワーク組織」、158-159P

    参照論文リスト

    1:高橋俊夫「ウェーバーの官僚制と経営経済学」(URL)

    2:朴容寛「官僚制論の変遷とネットワーク組織」(URL)

    3:福田秀人「伝統的な管理論と官僚制の意義と効用」(URL)

    4:松本和也、羽鳥剛史、竹村和久「大衆による官僚制化の心理構造に関する実証的研究」(URL)

    5:細谷昂「『現代』とウェーバーの官僚制論」(URL)

    6: 「ヴェーバーと官僚」(URL)

    7:指方秀雄「M・ウェーバーにおける中国官僚制論」(URL)

    8:山崎好裕「恭順する官僚制:忖度の政治経済学」(URL)

    9:藤森 誠「プトレマイオス朝エジプトの官僚制の研究」(URL)

    他参考ページ:官僚制組織とはなにか(URL)

    参考文献・おすすめ文献

    今回の主要文献
    マックス・ウェーバー『官僚制』

    マックス・ウェーバー『官僚制』

    マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

    マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

    雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』

    知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

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    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学のあゆみ

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    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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