【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか

    はじめに

    概要

    1. 社会的行為とはなにか→他者とのかかわりにおいてなされる行為
    2. 社会的行為の四類型とは→目的合理的行為、価値合理的行為、感情的行為、伝統的行為の4つ。近代化につれて合理的行為が増えていった。
    3. なぜ社会的行為の分類が大事なのか→目的合理的行為を他からわける点(分析の便利だから)
    4. 目的合理的行為をどのように使うのか→理念型として構成する場合はほとんどのケースで目的合理的行為を前提にする
    5. 合理的行為以外の行為はどのように分析するのか→目的合理的行為によって構成された理念型(要するにモデル)からの偏差として索出し、分析する。つまり合理的なある種の非現実的・ユートピアとしてのモデルを使って現実の非合理的なものをも分析していく。理念型は理想型ともいわれるが、理想とは「こうあるべき」という意味ではなく「分析のためには便利なのでこう考えておく」といったようなニュアンス。

    動画での解説・説明

    ・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    マックス・ウェーバーのプロフィール

    マックス・ウェーバー(1864~1920)はドイツの経済学者、社会学者、政治学者。28歳で大学教授を資格を得て、1905年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。社会学の元祖ともいわれる。ウェーバーの研究成果はT・パーソンズの構造ー機能理論、A・シュッツの現象学的社会学、J・ハーバーマスの批判理論やシンボリック相互理論等々に引き継がれた。

    マックス・ウェーバー、私は大好きです。全学者のなかで一番好きです。文献もなけなしのお金を費やしてできるだけほとんど買うようにしています。

    したがって、マックス・ウェーバーに費やす記事の量は他と比較にならないほど多くなるというわけです。文献が手元にあるということは、引用もたくさん増えます(レポートの素材として提供できるので嬉しいです)。

    マックス・ウェーバー関連の記事

    ・以前の記事

    【基礎社会学第四回】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか?

    【基礎社会学第六回】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

    【基礎社会学第八回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。

    【基礎社会学第十回】マックス・ウェーバーから「心情倫理と責任倫理」を学ぶ。

    【基礎社会学第十二回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「職業政治家」を学ぶ。

    【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか(今回の記事)

    ・以後の記事

    【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

    【基礎社会学第十八回】マックス・ウェーバーの「官僚制」とはなにか

    【基礎社会学第二十回】マックス・ウェーバーの「職業としての学問と神々の闘争」とはなにか

    【基礎社会学第二十二回】マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とはなにか

    基礎用語の理解

    行為と行動

    POINT

    行為(こうい)・単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動。主観的な意味や目的をもたない単なる反射的なものは行為ではなく「行動」である(例えば熱いものを触って反射的に手を離すなど)。ただし行為と社会的行為と行動との境界はあいまい。社会的行為ではない単なる行為の例は、たとえば「黙想や孤独の祈りのような宗教的行動」である。自転車にのった2人が衝突してしまうケースも単なる「行為」であるが、その後、言い争ったりした場合は「社会的行為」である。雨が降ったから傘をさすというような場合は単なる「行為」である。顔を他者から自分を隠すために傘をさすという行為は「社会的行為」となる。我々が一般的に「非行為」だとみなすようなものも「行為」に含まれる。たとえば無視や放置、我慢などだ。無視をすることによって他人が自分に関わらないでくれるというような予想をする場合、無視は「社会的行為」になる。しかし単にトイレを我慢するような場合、鳥のさえずりを無視するような場合は「行為」ではあるが、「社会的行為」には入らない。駅で漏れそうな人間を先に譲ってあげるようなケースは「社会的行為」かもしれない。

    例:エアコンをつけることは「行為」である

    ・この行為は理解可能か?

    エアコンをつけた人になぜつけたか聞き、「寒いから」という答えを聞けば理解できる(あるひとりが実際に考えた意味)。普通(平均的に考えれば)は、エアコンをつけることによって部屋を暖かく出来るという目的や動機を理解できる。経済的な要素に関連付けて、節約するという目的からするとエアコンをつけるという手段はとらない、という理念型を構成できるかもしれない。

    動機は明確な場合も、不明確な場合もある。本人すら知らないような隠れた動機もある。

    POINT

    行動(こうどう)・反射的、すなわち主観的意識がないような行動。無意識的な行動。行為と区別されるが、実際にその境界は曖昧。

    例:熱いヤカンに手を触れてしまい、反射的に手をヤカンから離す

    ヤカンから手を離すときに何か目的や動機、主観的な要素がない。たとえば意識不明の重体の病人であっても、熱いものに手を触れさせれば反射的に手を離すかもしれない。これは「動機」から「理解」することができない「行動」である。医学等の対象にはなるが、社会学にとって特別な対象とはならない。社会学の対象の最小単位は「個人」であり、細胞や神経ではない。自然科学は社会科学と違い主観的な意味ではなく「機能」の把握を主に扱う。

    「そして、『行為』とは、単数或いは複数の行為者が主観的な意味を含ませている限りの人間行動を指し、活動が外的であろうと、内的であろうと、放置であろうと、我慢であろうと、それは問うところではない。」

    『社会学の根本概念』8P

    「例えば、黙想や孤独の祈りのような宗教的行動は社会的行為ではない。」

    『社会学の根本概念』36P

    「雨が降り始めて、該当で沢山の人たちが同時に雨傘を開いても、普通、或る人間の行為が他の人間の行為に向けられているわけではなく、すべての人間の行為は、濡れるものを防ぐという必要に等しく向けられているのである。」

    36P

    社会的行為とは

    POINT

    社会的行為(しゃかいてきこうい)・他者とのかかわりにおいてなされる行為。他の人々の過去や現在の行動、未来に予想される行動へ向けられるもの。例:店で物を買う。近所の人に挨拶をする。友達と喧嘩をする。人助けをする。

    行為とは「意思(主観的な意味)の伴う行為」であり、行動と区別される。行動とは反射的なものである。たとえば熱いものに触れて手を引っ込めたりするのは行為ではなく「行動」である。服を着るのは「行為」ではあるが、「社会的行為」かどうかは場合による。たとえば無人島で自分一人しか存在しない場合、服を着ることはただの「行為」になるかもしれない。しかし会社で服を着て仕事をするのは、他者からの目を気にしているという点で「社会的行為」であるといえる。

    例:古本屋で本を売るのは社会的行為である。本を売って得た貨幣が未来において人々との交換、たとえばコンビニでパンを人間から買うときに使用できるという予想や期待がある。

    瞑想や孤独の祈りは反射的ではない限り「行動」ではなく「行為」ではあるが、他者とのかかわりにおいてなされていない場合は「社会的行為」ではない。たとえば川に流れる葉っぱを眺めるという行為は「行為」ではあるが「社会的行為」ではないかもしれない。ウェーバーの言葉でいうと「ただ物体の行動の予想に向けられている場合」である。葉っぱが川の流れでどのように動いているかを予想しているという行為は「社会的行為」ではなく「行為」である。川で溺れるのは「行為」ではなく「行動」であり、川で泳ぐという行為は「行動」ではなく「行為」であり、友人と一緒に川で泳ぐという行為は「社会的行為」である。それぞれの相違は曖昧な場合もある(川の流れにおける葉っぱの動きの分析が他者との関わるものなら、それは社会的行為になるかもしれない)。

    大抵の「行為」は意味を明確に自覚せず、漠然と感じているものであり、衝動的或いは習慣的に行為しているという。たとえば服を着るという行為は他者とのかかわりにおいてなされる行為ではあるが、それが伝統的行為となり、より無意識的になされるようになると意味をあまり自覚しないようになるかもしれない。

    模倣が反射的に行われた場合も社会的行為ではないという。ここで重要なのは、「他人の行為によって因果的に規定」されているからといって社会的行為にはならないということだ。たとえば「模倣」は一見、他者との関わりをもっているようにみえる。つまり「他人の行動に行為が向けられている」ようにみえる。たとえば「火の起こし方」を他者の行動から模倣し、自分も火を起こしたケースを考えてみる。たしかに他者の行動がなければ自分の行動もないという意味で、「他人の行為によって因果的に規定」されている。しかし自分が「火をおこす」という行動が「他者」にむけられているかどうかは微妙だ。どちらかというと火を起こす行動は「自分」に向けられているし、火をおこした人間と真似をした自分との意味的関係性はほとんどない。

    たとえば「流行」というケースを考えてみる。おしゃれな服を着ている人を模倣するケースである。これはウェーバーによると「社会的行為」に入る。たとえばおしゃれな服を着るというのは、他者の評価、たとえば「おしゃな服を着ていてかっこいい」などという評価を「期待ないし予想」してるかもしれない。その意味で他者へ向けられた行動であり、他者との意味的関係性が見られるといえる。他にも「貨幣による交換」は貨幣が未来において他者が物との交換との際に受け取ってくれるという「期待ないし予想」が行われているかもしれない。その意味で同じく社会的行為である。しかし赤ん坊が両親の笑顔を単に反射的に真似するという場合、他者の行動の期待ないし予想が行われているかどうか不明確であり、これは社会的行為というより単なる行為ないし行動であるといえる。

    実際に明確に他者への行動の期待ないし予想が意識的に行われるケースは少なく、社会的行為とその他行為の区別は曖昧であるという。たとえば「挨拶」は毎回、他者への行動の期待ないし要素を意識的に行っているだろうか。たとえば挨拶をしていれば「いざとなったら助けてくれる」という「期待ないし予想」を毎回我々は意識しているだろうか。単に習慣的、慣習的、無意識的、伝統的に行われいるケースがほとんどだという。

    ・単なる行為と社会的行為の違い→「他者」とのかかわりあい

    例:エアコンを寒いからつけるという行為は「他者」とのかかわりあいがほとんどない。

    例:エアコンを友人が寒がっていたからつけるという行為は「他者」とのかかわりあいがある。

    例:無人島で一人で暮らしていて、服を着るという行為は単なる日焼け対策であり、単なる行為といえる。雨が降っていて濡れるのが嫌だから傘をさすという行為も単なる行為に近い。

    例:都会で街中へ出かける時に服を着るという行為は他者とのかかわりあいがあるので「社会的行為」である。単に日焼け対策などだけではなく、他者から正常だと思われたいという動機、異性から好かれたいという動機、金持ちだと思われたいという動機、オシャレだと思われたい動機などさまざまな「主観的意味」があり、また理解できる。現実は複合的(他者とのかかわりあいがある部分とない部分が混ざっている)。

    「『社会的』行為という場合は、単数あるいは複数の行為者の考えている意味が他の人々の行動と関係を持ち、その過程がこれに左右されるような行為を指す。」

    『社会学の根本概念』8P

    「第一項 社会的行為──放置や我慢を含む──は、他の人々の過去や現在の行動、或いは、未来に予想される行動へ向けられるものである。以前に受けた攻撃への復讐、現在の攻撃の撃退、未来の攻撃に対する防御方法。『他の人々』とは或る個人や知人のこともあり、不特定多数者や全く未知の人々のこともある。例えば、交換における行為者が貨幣を交換財として受取るのは、将来の交換の際に非常に多くの人間──といっても、未知の不特定多数者──がそれを受け取ってくれるという期待に自分の好意を向けているからである。」

    35P

    「現実の行為の多くは、その主観的意味を全く意識せずに、或いは漠然と感じているもので、大抵は、衝動的或いは習慣的にお行為するものである。」

    34P

    「外的行為がただ物体の行動の予想に向けられている場合は、社会的行為ではない」

    36P

    「他人の行為の単純な模倣も、自分の行為が他人の行為に意味的に向けられているのではなく、模倣がただ反射的に起る限り、概念的には特に社会的行為というものではない。この境界は曖昧なので、区別の難しいことが多いように思う。しかし、或る人が便利な方法を他人から学び、それを自分も試みるというような事実だけでは、私のいう社会的行為にはならない。この行為は、他人の行動に向けられているのではなく、行為者が他人の行為の観察によって或る客観的な利益を知り、この利益を目標としているのである。彼の行為は、他人の行為によって因果的に規定されてはいるが、意味的に規定されてはない。これに反して、他人の行動を模倣するにしても、例えば、流行だから、伝統だから、模範だから、上品だからなどという理由があれば、模倣される人たちの行動との間、第三者の行動との間に意味関係性が生ずる。」

    37-38P

    主観的な意味とは

    POINT

    主観的な意味・主観的な意味:意味には2種類ある。こう考えるべきというようなある種の正解、真理のような「客観的」意味ではない。

    1:(a)実際に歴史上のあるひとりの人間が主観的に考えた意味

     :(b)多くの人間が平均的に考えた意味

    2:理念型における主観的な意味(平均でも実際に考えられた意味でもない)

    動機とは

    POINT

    動機(どうき)・行為者自身や観察者がある行動の当然の理由と考えるような意味連関

    ・動機の意味連関には2通りある。

    【1】意味適合的:思考や習慣の平均的なものからみて、普通は正しいというような意味連関。意味連関=直感的に合理性(論理・数学など)や非合理(感情など)を通して理解できるということ。(例:寒いからエアコンをつけるのは普通は正しいから意味適合的。解明的。1+1=2は正しいというのも意味適合的。)

    【2】因果適合的:経験的規則から見て、いつも実際に同じような経過をたどる可能性の度合い、蓋然性(がいぜんせい)。ある特定の条件のもとでは特定の結果が生ずる公算が高い規則性があるということ。経験的妥当性。客観的可能性。酸素と水素をまぜたら必ず水になるといったようなほとんど例外のない狭義の意味の「法則」とは異なる法則的知識(規則)。因果連関=仮説。仮説の確かさの度合い(数字で表現できるなら「確率」)。例:もし鎖国がなかったら日本は発展していなかったといえる客観的可能性はどの程度あるか。

    理解とは:直接的理解と説明的理解

    POINT

    直接的理解(現実的理解ともいう)行為の主観的意味の直接的理解と、行為の主観的意味の説明的理解という2つのタイプの理解があるという。直接的理解は、たとえば2×2=4であるという理解を指す。この場合は観念の合理的直接的理解という。怒りが顔に表れている場合は、感情の非合理的直接的理解であり、木を切り倒す人間の行動の場合は行為の合理的直接的理解である。

    POINT

    説明的理解(せつめいてきりかい)・説明的理解は「動機決定的な理解」である。たとえば木を切り倒す行為を直接的に理解するだけではなく、なぜ木を切っているかという動機を説明的に理解する必要がある。たとえば「給料のために切っている(合理的)」かもしれないし、「怒りによるもの(非合理的)」からかもしれない。

    理解:行為の主観的意味の直接的理解と、行為の主観的意味の説明的理解という2つのタイプがある。ウェーバーの社会学は両方の理解を目指している。理解しつつ、因果的に説明する理解社会学。たとえば怒りが顔に表れているといったように直接的な理解ができるだけではだめで、その動機(なぜ怒っているのか、なにが怒りに導いたのか)を因果的に訓練された方法で説明できる必要がある。特定の場合に特定の結果になる公算、つまり蓋然性(がいぜんせい)が高いという度合いを客観的に高めることはできるが、あくまでも仮説にとどまる。

    社会的行為の四類型

    全体像

    1. 目的合理的行為:目的を設定し、結果を予測などによって考慮した上での行為。行為の意味は結果にある。
    2. 価値合理的行為:価値を信じ、結果を考慮せずに、究極的な目標が明確に意識され、それに向かって計画的になされる行為。行為の意味は行為にある。
    3. 感情的行為:感情や気分による行為。行為の意味は行為にある。非合理的。
    4. 伝統的行為:習慣による行為。目的や目標が明確に意識されず、無意識的に行われることが多い。非合理的。

    目的合理的行為とは、意味

    POINT

    目的合理的行為(もくてきごうりてきこうい)目的が明確に把握されていて、そのための手段が合理的に予測可能なものとして成り立つような条件のもとで、つねに結果として生じることがらをも考えながら、合理的に選択されるような行為。例:夏は人々がアイスクリームをよく食べるだろうと予想し、この予想を自分の利益獲得という目的のために用いて、夏はアイスをより多く生産するケース(需要と供給を計算し、結果を予測する)。大学や資格試験に合格するために勉強するケース(合格のためにはどれだけの勉強量が必要かなどを予測)。政治家が国の福祉のために税金を上げるケース(税金を上げるとどのくらいの福祉が充実するかなどを予測)。それぞれ利益が上がるという結果、合格するという結果、福祉が充実するという「結果」が重要視され、その過程の行動の「合理性」が重要視される。たとえば明らかに需要が低いのに供給を多くするような行動は「非合理的」であると考えられる場合、これは目的合理的行為とは言えない(目的非合理的行為である)。

    たとえば「挨拶をする」というのはなにか「目的」があり、「合理的」に選ばれている行為だろうか。これは意外と難しい。そもそも前提として社会的行為の四類型はそれぞれ「理念型」であり、不純物をとりのぞいたものである。実際にはそれぞれの分類が複合的に存在している。

    「第五項 或る一つの方向だけを持つ行為、特に、そういう社会的行為というのは非常に稀である。また、右に方向の種類を挙げたけれども、もちろん、行為の方向の種類を網羅した分離ではなく、社会学の目的に合わせて作った概念上の純粋類型に過ぎない。現実の行為は、これら純粋類型との間に大小の距離があり、またさらに多くの場合、そられらの混合物である。」

    41-42P

    たとえば上司に挨拶することが単なる伝統ではなく、昇進のための合理的に選ばれた行為として意識的に行為されている場合、挨拶は「目的合理的行為」になるかもしれない。一方で、実家に帰ったとき、とくに目的や計算もなく、習慣で近所のおばさんに挨拶をする場合は「目的合理的行為」とはいえず、「伝統的行為」に近いといえる。上司への挨拶が半分習慣で、半分昇進の期待もあるというような曖昧な行為もあるかもしれない。あるいは反射的に行動に近いほどに無意識的に行われているような挨拶は単なる「行為」か「社会的行為」どちらの分類か区別することが難しい(こういうケースを「限界事例」という)。

    「(一)目的合理的行為。これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。」

    『社会学の根本概念』39P

    「第四項 目的合理的に行為する人間というのは、目的、手段、付随的結果に従って自分の行為の方向を定め、目的と手段、付随的結果と目的、更に諸目的相互まで合理的に比較秤量し、どんな場合にも、感情的(特に、エモーショナル)或いは伝統的に行為することのない人間のことである。」

    『社会学の根本概念』41P

    合理的とはどういうことか-明確性との関連-
    合理的なもの・二種類の「理解における明確性」のうちのひとつ。もうひとつは「感情移入による追体験的なもの」。「合理的なもの」はさらに論理的なものか数学的なものにわかれる。「行為の主観的意味連関の知的理解が完全かつ明らかではっきりと行われる部分」。たとえば2×2=4だというのは「理解における明確性」があり、とりわけ「合理的な明確性(数学的)」である。お酒を飲むと思考力が低下するという論理によって、Aさんはお酒を飲んだので思考力が低下していると推論することは「合理的なもの(論理)」であり、自明と考えられる経験的事実から来ているので理解における明確性があるといえる。社会科学は自然科学とは違い、「理解」に重きをおいている。自然科学では水素と酸素を合わせれば水ができるという「因果的説明」が重視されるが、「社会学では「因果的説明(客観性)」にくわえてさらに「理解(主観性)」が重視される(だから「理解社会学」という)。たとえば〇〇時間勉強すれば〇〇大学への合格率が○○%上がるというのは社会学的な対象ではない。そもそもなぜ大学へ入るために勉強するのか、その動機(目的)はなにか、その動機はどのように「理解」できるか、他の文化との違いはなにかといったようなことが重要になる。

    たとえば良い大学に合格するために試験勉強をするというのは「合理的」だといえる。経験的事実からして、勉強を全くせずに偏差値の高い大学に入学できる可能性は低い。ダイエットをするためにピザを毎日10キロ食べるという行為は「非合理的」であるように見え、ほとんどの人は理解することが難しい。しかしピザを毎日100キロ食べていた人が10キロに減らしたとすれば、それは「合理的」かもしれない。ダイエットは「他者との関わりにおける行為」であるというのはイメージできる。他者が存在しない場合はダイエットをしなかった、ということもありえる。競争相手が居ない場合はそもそも受験勉強というものがないかもしれない。つまりそれらは「社会的行為」であるということがイメージできる。

    ある宗教に入っている人間が、宗教的な理由で「輸血拒否」をする場合は「合理的」であるといえるか。たとえばキリスト教(特にエホバの証人)では聖書の「血を避けるように」という文章から「輸血拒否」を解釈する場合がある。これは論理的には理解出来き、合理的であるともいえる。しかしキリスト教ではないものからすれば「感情移入による追体験」が難しい場合がある。論理的には理解できるが、感情的には理解が明確ではないケースがある。

    たとえば古代における「生贄の儀式」を、知的理解において「社会集団の連帯を高める機能があった」と論理的に「理解」し、それらが「合理的であった」といえるケースもあるだろう。しかし自分の究極的な価値観とは対立し、生贄なんて野蛮だと考えるケースもある(感情移入ができないケース)。神から救済してもらうために善行を重ねるというのは論理的には理解できるが、そもそも神がいるかどうか信じられないというケースもあるだろう。

    「第三項 広く一切の科学と同様、すべての理解は、『明確性』を求める。理解における明確性は、二つの種類があって、合理的なもの(これも、論理的か数学的かに分れる)か、それとも、感情移入による追体験的なもの、すなわち、エモーショナルな、芸術鑑賞的なものかである。行為の領域で合理的に明確なのは、何と言っても、行為の主観的意味連関の知的理解が完全且つ明晰に行われる部分である。行為のうち感情移入的に明確なのは、行為の体験的感情連関が完全に追体験される部分である。合理的に理解できるもの、すなわち、その知的意味が直接明白に把握できるものの筆頭は、やはり、数学的或いは論理的な諸命題の関係に含まれる意味連関である。」

    『社会学の根本概念』10P

    「ところが、経験の示すように、人間の行為は、いろいろの究極的な目的や価値へ向けられることがあるが、こういう目的や価値は、私たちが完全に明晰に理解し得ない場合が非常に多く、時として、知的に把握し得ることがあっても、それらの価値が私たち自身の究極的な価値と根本的に違えば違うほど、感情移入的想像力によって追体験的に理解する」

    価値合理的行為

    POINT

    価値合理的行為(かちごうりてきこうい)・予想される結果を無視し、絶対的価値のために合理的に行為すること。目的の価値そのものが問われる行為。たとえばあるプロテスタントは絶対的価値(神からの救済)の確証のために禁欲的な行動を合理的に行為します。徹底的に計算して利益を出します(利益という結果が目的ではないし、禁欲的な行動をしたことで神から救済されるという結果がもたらされるわけでもない)。たとえば「時は金なり」という言葉のように、時間を合理的に使って利益を追求します(職業を天職として感じ、仕事をすることが神からの救済の確証へとつながる)。結果(神から救済されるかどうか)にかかわらず、神という絶対的な価値を信じ、行動する。エホバの証人輸血拒否をした結果、死んでしまうかもしれないが、そういった結果を無視し、聖書の教えに合理的に徹底的に従う人間。

    「明確性」は「知的(論理的・数学的)」に理解できるもの(つまり合理的であるということ)と「感情的」に理解できるものに分かれます。

    「(二)価値合理的行為。これは、或る行動の独自の絶対的価値──倫理的、美的、宗教的、その他の──そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為である。」

    37P

    「純粋価値合理的に行為する人間というのは、予想される結果を無視し、義務、体面、美、教義、信頼、何によらず、自分に命ぜられているものの意義を信じるがために行為する人間である。いつでも価値合理的行為というのは、行為者が課せられていると思う命令や要求に従うところの行為である。」

    40P

    たとえばプロテスタントが禁欲的に行動することは知的には理解可能であり、その行動は合理的であるといえます。

    もし神というものがいると仮定して、その神が全知全能であり、人間が産まれる前から救済されるかどうかはすべて決定されると仮定します。しかもその救済の基準は神のみが知っており、人間は一切知ることができない。

    産まれる前から救済されるかどうかが決まっていて、さらにその基準もわからないなら、人間はどうするか。善行をしたから救われるかどうかもわからず、悪行をしたから救われるかどうかもわからない。神を信じたから救われるかどうかもわからない。ルターという人は天職を召命だと考えたという。つまり世俗における職業活動は神から与えられた使命だというわけだ。たとえば八百屋が野菜を売ることは、ただ生活のためではなく、神から与えられた使命であり、宗教的な倫理性をもつことになるという。

    純粋な予定説では現世での行いが救済に影響を与えるかどうかわからないという前提にある。人間はとにかく自分が救われるかどうかを知りたがり、不安になっていった。つまり救済の確証を得たがった。そうして「世俗における職業活動の成功」が救済の確証へとつながっていったというわけだ。

    神の全知全能を絶対的価値に信じ、また自分が救われるということを信じる人はどういう行動をするか。神から与えられた使命を全うしようとするらしい。つまり職業活動に禁欲的に専念するようになる。修行僧のように消極的な禁欲的行動をするのではなく、積極的に職業活動を行っていく。その結果としてどんどん利益が生じるが、利益が目的ではない。余った利益は娯楽などに使わず、徹底的に職業活動に用いる。つまり投資を行い、事業の規模が大きくなっていくわけだ。やがて競争が起こり、利益を出さなければ会社が潰れるので、利益を出すことが倫理的とみなされるようになる(価値の転倒であり、これが資本主義の精神)。オマケだった結果が目的となるケースである。

    このように、神の全知全能を信じ、自分の究極的な価値観として神からの救済を信じる人間にとって、禁欲的に行動するのは「合理的」といえる。しかしそもそも神を信じ、また神から救われると信じるということは「非合理」にも見える(感情的には理解できるが、論理的・数学的には理解できないケース)。

    たとえば電子レンジは人間の脳みそをおかしくすると信じている人がおり、この前提には論理的・数学的な理解を得られないと仮定する。その場合、この前提は非合理的(価値判断的、価値理念的)なものである。しかしこの非合理的なものを前提にして、家に電子レンジを置かないという行為は合理的である。同じように、神というものを前提にして、禁欲的に行動するのは「合理的」といえるのである。

    価値合理的行為とはいっても、その全てが合理的というわけではありません。目的合理性の立場から見ると非合理的に見えることがあるそうです。なぜなら「結果」を重視せず、「価値」に基づいた「行為」を重視するからです。たとえば人助けをして、その結果として逆に人がたくさん死んだとしても人助けをしたという価値さえよければいいというわけです。

    「結果」を重視することと、「目的」を重視することは違います。たとえば目的合理的行為に基づいた「人助け」というのは、計測や計算に基づいて合理的に結果が予測され、それに基づいて行為されます。たとえば今自分が川に飛び込んだら助けられるという確証がさまざまな知識や法則、経験によって裏付けられ、そうした予測に基づいて「人助けという目的のために行為する」ケースです。

    一方で、価値合理的行為に基づいた「人助け」というのは、特に結果を考慮せず、「人助けをすることは正しい」という目的が重視され、この目的を目指してとにかく行為され、結果が重視されません。人助けをするという行為に価値があり、人助けができたという結果が重視されているわけではないからです。価値合理的行為のどこが合理的なのかと言えば、この目的(価値)に向って計画的に行為するという点です。たとえば神に救済されるという目的に向かって計画的に禁欲的に行為するというのは「価値合理的行為」というわけです。結果として神に救われるかどうかは不明であるという意味で、行為の結果を無視しており、またその意味で非合理であると言えます。しかし目的に向かって行為しているというという点で、たとえばイライラしたから物を壊したというような感情的行為とは区別されるわけです。

    感情的行為に基づいた「人助け」というのは、人助けをするという計画的な目的があるわけではありません。単に衝動によって、可哀相だから助けるといったようなものがあるかもしれません。あるいは人助けは伝統的にするものだから、という理由で行為されれば伝統的行為に基づいた「人助け」になるかもしれません。

    「しかし、目的合理性の立場から見ると、価値合理性は、つねに非合理的なものであり、とりわけ、行為の目指す価値が絶対的価値へ高められるにつれて、ますます非合理的になる。なぜなら、その行為の独自の価値(純粋な信念、美、絶対的な善意、絶対的な義務感)だけが心を奪うようになると、価値合理性は、ますます行為の結果を無視するようになるから。」

    41P

    「第三項 行為の感情的方向と価値合理的方向とは、後者では行為の究極的目標が意識的に明確化され、終始、それを計画的に目指していることで区別される。それを別にすると、両者いずれにとっても、行為の意味が、行為の彼方にある結果でなく、特定の行為そのものにあるという点は共通である。」

    40P

    感情的行為

    POINT

    感情的行為(かんじょうてきこうい)・感情や気分による行為。例:怒りによって復讐をする、人を殴るといった感情の発散。感情の意識的発散行為。

    感情的行為はなにか明確な「目的」のために計画的になされるわけではありません。たとえば暴力を絶対的に価値がある正しい行為だと信じている人間が、計画的に人を殴る行為をした場合、これは「価値合理的行為」といえるかもしれません。目的もなくただムカついたから殴ったようなケースは「感情的行為」です。殴ることによって金銭が得られるという条件で殴った場合は「目的合理的行為」になるかもしれません。ある民族の間では伝統的に殴ることで親密になれるというようなものがあった場合で殴ったケースは「伝統的行為」になるかもしれません。

    「(三)感情的、特にエモーショナルな行為。これは直接の感情や気分による行為である。」

    39P

    「第三項 純粋感情的行動も、意味的方向を意識的に持つものの限界にあり、限界の彼方にあることも多い。それは、異常な刺戟に対する無思慮な反応であることもある。」

    40P

    伝統的行為

    POINT

    伝統的行為(でんとうてきこうい)・身についた習慣による行為。行為の目的も手段も習慣化している。 例:日常的行動のほとんど。挨拶をする、小学校に通う、墓参りをする、お辞儀をする等

    たとえば代々会社を継いでいる人間にとって、会社の社長になるというのはなにか「目的」があるとは限りません。たとえば代々会社を継いでいない部外者が社長になろうとして目的合理的に行為した場合、業績を上げる、上司の機嫌を取るといった行為が意識的に選択されるかもしれません。しかし産まれたときから継ぐことが決まっているような人間の場合、意識的に目的にむかって行為するというより、習慣としての行為に近いです。代々農家だった人間も、生きるために米を作るという明確な計画や予測があるというより、そうするのが伝統だからといった理由で米を作ってきたかもしれません。

    伝統的行為は社会的行為の限界事例。要するに社会的行為かどうかの判断が微妙なライン。習慣になると無意識になり、他者へ向けられた意識としての社会的行為としては微妙。一方で、意識的に習慣が維持される場合もある。挨拶が意識的にされる場合も無意識的にされる場合もある。エスカレーターで左側あるいは右側に寄る習慣があるが、急いでいる人がその逆側を利用できるようにするためという意識が毎回あるか。そういうものだからという理由で寄っていないか。

    感情的行為も社会的行為の限界事例。他者への怒りや悲しみはほとんど無意識的、反射的になりがち。

    「他の人々の過去や現在の行動、未来に予想される行動へ行為が向けられるもの」という定義からは両者とも微妙なラインが多い。怒ったらどうなるか、挨拶をしたらどうなるかなどの意識

    「(四)伝統的行為。身に着いた習慣による行為である。」

    39P

    「第一項 純粋伝統的行動は、前節に述べた純粋反射的模倣と同様に、意味方向を有する行為と呼び得るものの正に限界にあり、限界の彼方にあることも多い。なぜなら、これは、見慣れた刺戟に出会った途端に、以前から身に着いている態度のままに生ずる無意識の反応に過ぎないことが非常に多いからである。」

    39P

    理念型と合理的行為の関連性

    理念型とは、意味

    POINT

    理念型(りねんけい)・認識関心に従いつつ現実の事象から特定の要素を抽出し、その一面をことさらに強調して、一つの整合的な像へ思考の上で構成したもの。単なる多数派や平均的なモデルではない。理想型とも訳されることがある。

    例:ウェーバーの「プロテスタント」の理念型は平均でも多数派でもなく、むしろ少数派。資本主義化との関連で、禁欲的なプロテスタントという理念型が現実の分析において便利だった。

    理念型と目的合理的行為の関連性について

    理念型(理想型)は基本的に「目的合理的行為」をする人間を前提としている。
    例:株式恐慌(株価大暴落)
    もし全員が目的合理的行為をしていたらどのような結果になるかを仮説する。つまり思考の上でユートピアとしての理念型を作る。その上で、現実では理念型の通りの結果になっていない場合、一体何がその結果を導いたのかを探し出す。これが「非合理的なもの」のケースもある。もし全員が目的合理的行為をしていたら恐慌が起こっていないということが論理的に帰結する場合、非合理的なもの、たとえば錯誤などが考えられる。
    →合理的なものから非合理的なものという順番(この意味で基本的に心理学は社会学の基礎とはならない)

    たとえばカードゲームなどのゲームを想定するとわかりやすい。全ての手札をお互いが見える状況でプレイできるとして、もし合理的に行為をするならこのカードを使うだろうと予測する。その予測を元にどういうカードをこちらが使うかを決定していく。現実では相手が不合理なプレイをしたりすることあるが、合理的に行為するという前提でどういったプレイが帰結するかをイメージすることは、プレイにおいて重要になる。他にもチェスや将棋などがわかりやすく合理的にこの手が相手にとってベストだと先を読んでその手を潰したりする。この場合の予測はある意味では理念型に基づいていると言える。実際には錯誤、つまりミスをしたり、怒りによって予想不可能な打ち筋をするかもしれない。そういうものを例外として捨象し、ユートピアとして順論理的に合理的行為のみで構成していくのである。たとえば我々が「水」をイメージする時に、具体的な水ではなく抽象的な水をイメージする。現実には冷たい水だったり凍っていたり、色が変わっていたり、分子の量が違うものかもしれないが、水とはこういうもの(例えば純粋に酸素と水素が一定の量で結合したもの)だと仮定してユートピアとしての水を作り上げる。「理想気体」という言葉でよく自然科学では使われる。

    「それゆえ、類型構成的な科学的考察においては、行動の非合理的感情的な意味連関が行為に影響を及ぼす場合、すべてこういう意味連関は、先ず、行為の純粋目的合理的仮定を観念的に構成した上で、それからの偏向として研究し叙述すると非常に明瞭になる。例えば、株式恐慌を説明するのには、先ず、非合理的感情の影響がなかった場合に想像される行為の仮定を明らかにし、次に、非合理的要素を撹乱要素として導入するのが便利である。同じように、政治的行動や軍事的行動についても、先ず、当事者の事情や意図が完全に知られているという仮定、また、正しいと思われる経験に従って手段の選択が純粋目的合理的に行われているという仮定を行い、これらの仮定の下で行為がいかなる仮定を辿るかを明らかにするのが便利である。

    こうして初めて、それらの偏向の原因を、そこに働いている非合理性に求めることが出来る。右のような場合、純粋目的合理的行為には明確な理解可能性と合理性に基づく明白性とがあるため、純粋目的合理的行為を観念的に構成することは、類型(『理想形』)として社会学に役立ち、感情や錯誤など、あらゆる非合理性の影響を蒙る現実の行為を、純粋合理的行動に期待される仮定からの偏向として理解させるものである。」

    『社会学の根本概念』12P

    心理学と理念型

    ・心理学と理念型

    経済活動において、基本的に人間は「営利目的」という主観的な意味が他者へ向けられている。個人の特殊な性格や心理学的機制(仕組み)といったものからではない。→心理学は社会学の基礎ではない。

    →社会学は基本的に「合理的行為(特に目的合理的行為)」を前提に「理念型(法則)」という道具作り、この道具を使って現実を分析することである。

    例:「予定説」から合理的行為を基準に理念型を作ると、その結果として論理的には禁欲的行動はでてこない。なぜなら産まれる前から地獄か天国が決定されていれば神が喜ぶことをしようが意味がないからである。しかし実際には禁欲的行動がより徹底された(非合理的)。この非合理的なものが理念型によって索出され、さらに分析されていく。そうして「救われているかどうかの不安」という心理的なもの(非合理的なもの)が導き出されていく。つまり合理的なものからの偏向として索出されていく。現世においてある人間が善行をする→神は全知全能だということを前提にすると、その人間が善行をすると予測していたことになる→予定説は人間に善行を勧めるという面白い非合理的なものへの解釈の説がある(詳しくはニューカムのパラドックスを検索 ※ウェーバーの見解ではない)。

    ニューカムのパラドックスとはなにか?

    「或る利害関係から見て、或る行為が、期待される結果にとってプラスであるか否かを誰かが合理的に考慮する場合、それに心理学的考察を加えたところで、少しも理解が深まりはしない。むしろ、社会学──経済学を含む──は、こうした合理的前提の上に、その法則の大部分を立てているのである。これに対して、行為の非合理性を社会学的に説明する場合は、事実、理解心理学が非常に大きな役割を果たすことは明らかである。しかし、それで、方法論上の根本的な事情は何一つ変わるわけではない。」
    『社会学の根本概念』31P

    「まず、『理にかなっているので明瞭に分かる』(合理的行為)を、<理念型>として構成し、これをじっさいの経験的行為と比較してみる、という手法が採られる。それも、じっさいの行為が、<合理的>行為の<理念型>から偏倚しているばあい、そこにはそうした偏倚を招く<非合理的>動機が介在しているに違いないと見て、それを探索するためでもある。たとえば……カルヴィニズムの二重予定説からは、論理的という意味で<合理的>には「宿命論」か「無律法主義」が帰結するはずであるが、じっさいには<能動的ー禁欲的>行為が生じている事実を観察し、そこから、『この自分は、神に選ばれているか、それとも捨てられているか』という平信徒個々人の深刻な不安を索出し、これを、つねに選ばれた<神の道具>に相応しく行為し、<選びの証し>に到達しようとする<非合理的>動機として確認する、というようなばあいである。」

    (「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩 補訳、岩波文庫、254-255P 折原さんの説明部分)

    社会行為の四類型の意義と理念型との関連について

    【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

    理念型についてはこちらを参照してください。

    ウェーバーは「目的合理的行為」を重視しています。なぜなら目的合理的な行動が「明証性」を最高度に備えているからです。要するに、もっとも理解できる行動が「目的合理的行為」というわけです。他の非合理的な社会的行為、たとえば感情的行為や伝統的行為も理解できるものではあります。しかし目的合理的行為よりも明証度が低いというわけです。イライラしたから木を着るという感情的行為は理解できますが、お金を稼ぐために木を切るという目的合理的行為よりは明証性が低く、また予測も難しいです。「価値合理的行為」も同様に明確な自覚と意識に基づく行為であり、理解可能であり、計算・予測が可能です。しかし目的合理的行為よりも明証度が低いといえます。

    また「理念型」を構成としても「目的合理的」が最適な場合が非常に多いそうです。また「理念型」は人間が目的合理的に行為をするという仮定を行い、構成されることが多いです。

    たとえば「グレシャムの法則」という具体例が挙げられています。グレシャムの法則というのは悪貨が良貨を駆逐するという法則です。ゴールドの含有率が高い金貨(良貨)と低い金貨(悪貨)が同時に出回ると、人々は悪貨を市場において使い、良貨は使わずにとっておくという行動をとるそうです。この行動は利益を増大させるという目的に対する手段としては合理的な行為であると言えます。つまり、目的合理的な行為であり、明証性があり、また明証性が高いといえます。このケースで言えば「理にかなっているのでわかる」ということであり、論理的に考えれば、悪貨のほうを使うだろいうことが「理解」できますし、そのように人々は主観的に考えるだろうと推測することができます。

    仮にそのような目的合理的な行為のみ行うような極限的なケース、いわゆるユートピアであり架空の想定をするものが「理念型」です。もし人々が目的合理的に考えれば、悪貨が良貨を駆逐するだろうという帰結、つまり「法則(理念型)」が得られるわけです。しかし”現実”には悪貨のほうを使わずに良貨のほうを逆に使う「非合理的なケース」もありえるでしょう。こうした非合理的なものは合理的な理念型からの差異を通して考えられるというわけです。なぜそのような非合理的なケースが起こるのか?というような「検索機能」を理念型は有しているというわけです。

    たとえば有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」も同じようなものです。すべての人が合理的行為をすると仮定すれば、「予定説」によって人々は悪い行為のほうが増える場合もあります。たとえば「学校のテストの内容に関わらず、成績はすでに決まっている」と学生が言われた場合、学生はテスト勉強を必死にしないだろうということが「理にかなっている」ようにみえますよね。無駄な努力のように思えるからです。

    同じように、「神に救済されるかどうかは人間が産まれる前から決まっている」ならば、人間が現世において善行をするにせよ悪行をするにせよ関係ないということになります。つまり論理的には、宿命論的に、つまり人間の努力は無意味であるという帰結になるはずです。すくなくとも「理念型」においてはそうなりそうです。

    しかし実際の現実ではその逆に、むしろ人間は善行、すなわち禁欲的行動を積極的に行うようになったといいます。その結果として「資本主義の精神」が生まれるというものがプロ倫の主な概要です。合理的(論理的)に考えれば人間は現世において努力しないはずなのに、なぜ努力するのでしょうか(非合理的行為)。目的(神の救済)のための手段としてはなんら論理的には意味がない「禁欲的行動」をなぜ人々はしたのでしょうか。ここがポイントなわけです。

    「明証性」には二種類あります。合理的なものか、非合理的なもの(感情移入的に理解できる)かです。禁欲的行動は合理的には理解できませんが、感情移入的には理解できます。というのも、人々は自分が救済されるかどうかについて不安になり、神に選ばれているということを確証したがります。純粋な予定説においては神の救済基準は分からず、確かめる方法はないのですが、自分の職業活動がうまくいくことによって、神に選ばれている、神に召命されているということを感じようとするわけです。

    つまり合理的行為を前提とした理念型の仮説モデルから出発し、それらを道具として使い、現実の非合理的な動機や行為を見つけ出すという順番なわけです。

    理念型を理解するためには「目的合理的行為」がなにかを理解する必要があり、「目的合理的行為」がなにかは「目的合理的行為以外」を説明することで理解が可能になるわけです。つまり、社会的行為の四類型を説明することによって「目的合理的行為」が際立ち、理解しやすくなるというわけです。

    「こうした方法論は,特に動機という内面的で主観的だと思われるものを,行為者の内面に「感情移入」したり,心を読んだりするという手段で「理解」することを奨励するものでは,もちろんない。むしろ,動機や内面的なものが,行為者自身,他者,観察者といった参与者に共有されているという前提に立つものだった。この点で,ウェーバーは動機に心理学的手法を密輸することなく,〈主観的解釈の客観性〉とでも言うべきものを自らの社会学の柱としたのだった。」

    『ウェーバー行為論の物語論的転回に向けて: ミルズとシュッツからの発展』加藤隆雄 89P

    加藤さんの説明には「動機について心を読んだりするという手段で理解することを推奨するものではない」とあります。すなわち心理学などによって理解を深めることが推奨されているわけではないのです。

    ウェーバーは基本的に「理念型」による分析を基礎としています。理念型とは、「当事者の事情や意図が完全に知られているという仮定や、手段の選択が純粋目的合理的に行われているという仮定」をおくものです。たとえばあるスーパーである人間がオニギリを買うとします。エネルギーをとるためにオニギリを買うことは社会的行為の中でも、目的合理的行為に入りそうです。現実には、食欲を満たすという合理的な理由以外にも、怒りによってオニギリを買うといったような、とくに目的がない「非合理的」なケースもあるかもしれません(あるいは別の合理的な理由があるかもしれません)。そういったいわば例外的なケースを省き、経験に従って、つまり「普通はこうだろう」という推測によって目的合理的行為を仮定するわけです。

    上のケースで言えば、スーパーでオニギリを買う目的は基本的には食べるためだという「動機」が考えられます。もちろんこれは純粋なもの、架空なものであり、類型的(個性を省き型にはめる)なものです。たとえば日本人は皆に礼儀正しいという理念型が構築されたとしても、実際に礼儀正しくない日本人はたくさんいます。また実際に礼儀正しい人間が平均的であったとしても即理念型として構成できるわけではありません。それが研究者の目的にとって重要かどうかであるかどうかが重要だからです。たとえば禁欲的なプロテスタントプロテスタントの平均ではなく、むしろ少数だったそうです。しかし近代化との関連において禁欲的なプロテスタントは理念型として構成する価値があったというわけです。つまり特定の分析や理解に重要な道具として構築されるものが理念型であり、平均的なイメージを捻出するものでは必ずしもないのです。

    この「スーパーでオニギリを買うのは食べるためだ」という理念型を元に、実際の人間を分析するのです。どうやら食べるためではなく、怒りによって買っているだけだ、という非合理的なケースが現実にはありえます。こういうものは理念型からの「偏向(かたより)」として理解されるわけです。イメージで言えば、純粋な黄色をモデルとしてイメージできるからこそ、濁った黄色や薄い黄色などを認識することができるようなものです。大澤真幸さんによれば理念型とは「似顔絵」のようなものらしいです。似顔絵は写真のように現実そのものの模写ではありませんが、写真よりもその人間の特徴を捉え、かえってわかりやすい場合があるそうです。

    「それゆえ、類型構成的な科学的考察においては、行動の非合理的感情的な意味連関が行為に影響を及ぼす場合、すべてこういう意味連関は、先ず、行為の純粋目的合理的仮定を観念的に構成した上で、それからの偏向として研究し叙述すると非常に明瞭になる。例えば、株式恐慌を説明するのには、先ず、非合理的感情の影響がなかった場合に想像される行為の仮定を明らかにし、次に、非合理的要素を撹乱要素として導入するのが便利である。同じように、政治的行動や軍事的行動についても、先ず、当事者の事情や意図が完全に知られているという仮定、また、正しいと思われる経験に従って手段の選択が純粋目的合理的に行われているという仮定を行い、これらの仮定の下で行為がいかなる仮定を辿るかを明らかにするのが便利である。

    こうして初めて、それらの偏向の原因を、そこに働いている非合理性に求めることが出来る。右のような場合、純粋目的合理的行為には明確な理解可能性と合理性に基づく明白性とがあるため、純粋目的合理的行為を観念的に構成することは、類型(『理想形』)として社会学に役立ち、感情や錯誤など、あらゆる非合理性の影響を蒙る現実の行為を、純粋合理的行動に期待される仮定からの偏向として理解させるものである。」

    『社会学の根本概念』12P

    解明的理解と因果的説明の区別

    解明的理解

    POINT

    解明的理解(かいめいてきりかい)・理にかなっているので明瞭にわかるか、あるいは感情が追体験的に出来るように理解できるかの二種類。合理的な理解と非合理的な理解にわかれる。解明的理解には明証性という基準がある。

    明証性

    POINT

    明証性(めいしょうせい)・明白であって直感的に把握しうることを意味する。解明的理解の度合い。

    因果的説明

    POINT

    因果的説明(いんがてきせつめい)・行為の経過と過程が「なぜかくなって、かくならなかったか」という因果的で妥当な説明。

    経験妥当性

    POINT

    経験妥当性(けいけんだとうせい)・経験科学一般の因果帰属の論理に従って検証する。→「実験」であり、「比較対照試験」である。社会学においてはほとんどのケースで自然科学のような比較対照試験は難しい(歴史は一回きり)。したがって「思考実験」として、もし〇〇という歴史現象が起こらなかったら、という形での比較や、〇〇という要素が見られない他の文化では実際にどうなっているかという文化の比較や、過去において同じようなケースではこうなっていたというような比較が用いられる。そうした意味では、客観的可能性(経験妥当性)の度合いできるだけ高めていく作業であるといえる。

    ・行為者の動機が論理的に考えると普通はこうだろう、あるいは感情的にはこうだろうという直感的な「理解」だけではだめ。
    ・訓練された方法、つまり「実験」によって「理解」が妥当な説明によって因果的に裏付けされる必要がある。
    ・このことについては次回の「理解社会学」で深く扱う。

    「人間の(『外的』あるいは『内的』)行動は、あらゆる出来事と同じように、その経過のうちに連関や規則性を示す。しかし少なくとも完全な意味で人間の行動のみに固有なのは、そこに、その経緯が理解できる形で解明しうるような連関や規則性があることである。解明によって得られた人間の行動の『理解』は、さしあたり、極めてさまざまな大きさと質をもった特有の『明証性』を備えている。しかしある解明がこの明証性を特に高度に備えているからといって、その事自体は、まだその解明の経験的な妥当性を少しも証明するものではない。

    というのも、外的な経緯や結末において同一の行動が、極めて異なった動機の布置連関から生み出されることもありうるのであって、それらのうちで理解の明証性が最も高いものが、常に現実にも作用していたとは限らないからである。むしろ、いかに明証的な解明といえども、それが妥当性を伴う『理解による説明』と言えるためには、当の連関の『理解』はさらに、他の場合でも常に用いられる因果帰属という方法によって常にできるだけ」コントロールされねばならない」

    マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』10P

    解明的理解(明証性)と因果的説明(妥当性)と明確性について

    (合理的あるいは非合理的に主観的に理解できるだけではだめ。それが妥当な客観的説明となるにはどうすればいいか)

    明確性は「合理的なもの(論理的・数学的なもの)」と「非合理的なもの(感情移入的なもの)」にわかれます。

    「第三項 広く一切の科学と同様、すべての理解は『明確性』を求める。理解における明確性は、二つの種類があって、合理的なもの(これも、論理的か数学的かに分れる)か、それとも、感情移入による追体験的なもの、すなわち、エモーショナルな、芸術鑑賞的なものかである。」

    『社会学の根本概念』10P

    社会学の対象はもっぱら「合理的なもの」です。理念型も目的合理的行為を前提に行われ、非合理的行為はその偏差として扱われます。つまり、いったん理想的なモデルを構成して、そのモデルを使って現実を分析し、その差異や距離を分析するというわけです。たとえばプロ倫において予定説の結果として理念型において論理的には禁欲的行動が帰結しないのにもかかわらず、現実には禁欲的行動が観察される場合などです。どうして非合理的な動機に基づいて現実には行為されるか、といったような分析につながるわけです。ウェーバーは合理的なものだけを社会学の対象とするべきだと考えているのではなく、合理的なモデルから出発して、非合理的なものも考えていくという方法的手段をとったというわけです。

    非合理的なものから出発するようなケースはもっぱら「心理学」の領域なのかもしれません。たとえば「景気変動に反応して行動する企業家のふるまい」を心理学的な要素、たとえばその人間の個別的な性格といった心理的なものから分析するのではなく、収益性を求めるという営利活動という「意味」から分析するわけです。

    「意味」というのは一人の行為者が実際に主観的に考えている意味と、多くの人間が平均的近似的に実際に主観的に考えている意味と、概念的に構成された理念型における意味にわかれます。このケースで言えば三番目の、理念型における意味が重要になるわけです。たとえば収益性を求めるという個人の「意味」は必ずしも実際に考えている意味でも、平均的な意味でもなく、観察者の関心によって抽出され、強調された要素というわけです。たとえばプロ倫における「禁欲的なプロテスタント」は平均でも多数派でもなかったらしいです。

    「しかし、禁欲的なプロテスタントは、当時の西洋の多数派でもないし、平均値でもない。むしろ、どちらかといえば少数派ですが、しかし、理念型なのです。なぜなら、西洋に起こりつつあった本質的な変化(資本主義化)との関連では、この人間像こそが有意義だからです。理念型は、社会(科)学のみで活用されているわけではない。自然科学を含むあらゆる学問で必ず、理念型は構築されている。ある種のモデルを作るということです。」

    大澤真幸『社会学史』300P、講談社現代新書

    理解は「直接的理解」と「説明的理解」にわかれます。直接的理解はたとえば2×2=4というような理解(合理的直接的理解)であったり、怒りが顔に表れているというような理解(非合理的直接的理解)であったりします。

    説明的理解は「動機を説明的に理解するもの」です。たとえば木を切る動機は「お金を稼ぐためだ」とという理解です。

    ウェーバーによれば、ただ「直接的理解」ができるだけではだめで、妥当な説明が必要であるといいいます。たとえば悪貨が良貨を駆逐するというのは「直接的理解」が可能です。利益を目的とした場合は悪貨ばかりを人々が使うことにになり、良貨は使われないと「合理的直接的理解」が可能です。しかしこの「直接的理解」だけでは「解明的理解」ができただけで、「妥当な説明」ができていません。すなわち、「因果的説明」ができていないわけです。

    ではどうしたら「因果的説明」ができるのか。「実験」によって可能であるといいます。自然科学ではまずは直感によって把握してから、実験によってそれを裏付けます。いわゆる仮説と実証というわけです。仮説だけで実験による裏付けがないものには「価値がない」わけです。

    では社会科学における実験とはなにか、という話になります。それは「比較対照試験」だといいます。これについては次のマイヤー論文の検討にて扱います。

    参考文献・おすすめ文献

    マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』

    マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』

    マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

    マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

    雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』

    知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論

    山之内靖『マックス・ウェーバー入門』

    マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    参照論文

    ・『ウェーバー行為論の物語論的転回に向けて: ミルズとシュッツからの発展』加藤隆雄 (URL)

    ・『 ギデンズのウェーバー研究─社会理論の中心問題─ 』宮本孝二 (URL)

    ・『 マックス・ヴェーバーにおける 『客観的可能性判断』 をめぐる諸考察』宇都宮京子 (URL)

    ・論文ではありませんが、橋本勉さんのまとめはわかりやすいです:URL

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    蒼村蒼村

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