【基礎社会学第十三回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (後編)

Contents

はじめに

・『貨幣の哲学』の理解を目的としていますが、一気に扱うのは難しいのでいくつかわけます。前回の記事を前提としていきます。前回は「貨幣とはなにか」をメインに、今回は「貨幣がもたしたもの」をメインに扱っていきます。

【基礎社会学第十一回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (前編)

・この記事は『貨幣の哲学』の要約を目指すものではありません。個人的に面白いと思った物をピックアップしているものであり、内容も『貨幣の哲学』のみに限定されたものではありません。

・「基礎社会学」としてのジンメルはこれで終わりです。後は別枠としてジンメルを今後も扱っていこうと思います。次回はテンニースの予定です。

・この記事は「動画作成のレジュメ」のようなものです。

・その他基本事項は以下のURLから確認をお願いします。

私が記事を執筆する理由について

主な参照論文リスト

私の解釈を離れて「正確に」貨幣の哲学を理解したい場合は、以下の論文や原典を参照する必要があると思います。ジンメルの書籍はかなり高いので、購入できない場合は論文を利用するといいと思います。

・古川顕 「ジンメルの貨幣論」(URL)

・坂口明義「ジンメル貨幣論についての一考察」(URL)

・奥村隆「距離のユートピア」(URL)

・奥村隆さんのインタビューもわかりやすいです(URL)

・宮村重徳『「社会学言論のカテゴリー」構想–ヴェーバー「理解社会学」の解釈課題として』(URL)

・『貨幣の哲学』第一章~第三章(分析編):「貨幣の本質を一般生活の諸条件と諸関係から理解させようとするもの」

・『貨幣の哲学』第四章~第六章(総合編):「一般生活の本質と形成を貨幣のはたらきから理解させようとするもの」

全体の概略

『貨幣の哲学』は全部で六章あり、第一章から第三章までは「分析編」、第四章から第六章までは「綜合編」といわれている。

  1. 貨幣と価値
  2. 貨幣の実体価値
  3. 目的系列における貨幣
  4. 個人的な自由
  5. 個人的な価値の貨幣等価物
  6. 生活の様式

今回は主に4から6を扱うが、1から3の内容も混在している。また便宜的に4から6をタイトルとして今回利用するが、その項目のみを扱うという趣旨ではない。

第四章は主に貨幣が人間に自由をもたらしたというポジティブ面と、またその自由のネガティブ面を扱われる。

第五章は主に貨幣が人間に人格の深化、つまり「個人主義」をもたらしたというポジティブ面と、人格の価値剥奪などのネガティブ面が扱われる(売春や収賄など)。

第六章は主に貨幣が人間に「客観的な文化」の発展をより可能にさせたというポジティブ面と、また「主観的な文化」は「客観的な文化」に比例して発展していない(むしろ下品で不正確になっている)というネガティブ面が扱われる(分業の両義性)。

前回の記事の概略

  1. 価値:価値は「主体と客体との距離」によって生じるものであり、「欲求」の対象の獲得のために必要とされる「犠牲」のことである。
  2. 交換:交換は「価値」の獲得のための「手段・道具・橋」である。つまり主体と客体の距離を埋めるために「交換」という手段を用いる。例:米を手に入れるために牛と交換する
  3. 貨幣:貨幣は「道具のもっとも純粋な形式」である。貨幣は目的達成に対する最良の手段である。
  4. 客観性:「人間は交換する動物」であり、それゆえに人間の固有性は「客観的な動物」であることである。人間は交換を通して、主観的な衝動だけではなく、相手とつり合いがとれるかを気づかうようになる。つまり交換価値が等価になるように努めるようになるのであり、そこで「客観性」が育っていく。
  5. 貨幣の歴史概略:物々交換から金や銀といった装飾貨幣、紙幣といった抽象紙幣へと交換手段が移り変わってきた。この変遷は交換手段それ自体がそれ自体としては無内容・無個性になってきていることがわかる。また、物自体に価値がないゆえに、「信頼」が必要になってくる。金や銀の貨幣はその含有量への信頼とそれが本当に使えるのかどうかという信頼という二重の信頼が必要である。紙幣も同様に、政府への信頼が必要になってくる。ジンメルによれば「信頼」は他者たちに対する心の原初的態度である(スーパーで売っている水が安全かどうか、専門的知識によってではなく「信頼」によって成り立っている。「信頼」がないと社会は崩壊する。)。

動画での説明

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ゲオルク・ジンメルとは

ゲオルク・ジンメル(1858~1918)はドイツの社会学者。ベルリンの中心街に裕福なユダヤ商人の7人姉妹の末っ子として生まれる。

ベルリン大学の哲学部に進学し、23歳で哲学博士の学位を取得する。その4年後にベルリン大学の哲学部の私講師になり、その5年後に院外教授となる。哲学正教授となったのは56歳のときであり、ベルリン大学ではなくシュトラスブルク大学であった。学問的には評価されながらも、ベルリン大学の正教授になれなかった理由はジンメルがユダヤ人だったこと、宗教的見解が相対主義的だったことが原因という説がある。

1909年にM・ウェーバーやF・テンニースらと共にドイツ社会学会を創設した。ジンメルの社会学に関する主な代表作は『社会文化論』(1890)、『社会学』(1908)、『社会学の根本問題』(1917)。

ジンメルには「個人と社会の葛藤(かっとう)」という問題関心があった。当時のドイツにおいてユダヤ人は「異邦人(よそもの)」であり、いかにして社会にとって異質なものが社会との関係を築くのかという視点が重要になる。

個人的な自由とはなにか

貨幣のもたらす自由

自由とは
POINT

自由・「完全な自由」などなく、これまでの義務が新しい義務に取り替えられるとき、それまでの圧迫が脱落したと感じるときなどに「自由」を感じるという。「接近」と「距離」の間に自由はある。あるいは「結合」と「分離」の間に自由はあるといえる。

たとえば高校受験が終わり、高校受験勉強という義務から解放されるとき、人は「自由」を感じる。しかし、新しく「大学受験」という義務が生じる。あるいは「就職」という義務が新たに生じるかもしれない。金曜日まで働いて土曜日から休みがはじまるとき、人は「自由」を感じるかもしれない。しかし義務が全くない状態では解放を感じることができず、したがって自由を感じることも難しくなる。後から振り返ってみれば「自由」だったということもあるかもしれないが、やはりそこには義務が新しく生じた時に感じるものである。たとえば大学で勉強している時は出席の義務に不自由を感じるが、就職した後で勉強してたときのほうが自由だったと感じるケースだ。

ジンメルによれば個人的自由は「相手がいなければ意味を失ってしまうような相関現象」である。つまり人間関係があるからこそ、人は自由を感じるというわけだ。普段は口うるさい親と過ごしていたが、親が旅行をしている間は「自由を満喫できる」というようなケースで理解できる。つまり自由はジンメルの言葉をつかえば「心的相互作用」の中に存在しているというわけだ。この世で人間が自分一人しか居ない場合、社会も自由も存在しなくなる。無人島で食糧がより簡単に手に入るようなシステムを作り出し、「労働から自由になる」といった言葉を使うことはできるかもしれないが、どちらかといえば自由というより「楽」という要素が強い。そもそも労働は無人島で誰かに命じられているものでも、拘束されているものでもないからだ。自分の意志で労働し、自分の意思で楽にしているだけだ。無人島で一人で生きているという究極の仮定ではそこに一切「他者」は関与しない。

自由とは程度の問題であり、完全な自由と完全な不自由との間にあるということだ。つまり「接近と距離」のあいだに自由がある

一般に、自由とは「ほかからの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っている」ことだ。たとえば私が今記事を書いているのは、強制や拘束、支配などを受けず、自らの意思にしたがっているといえる。したがって、私はその意味で自由に記事を書いている。しかし完全な自由かというと、そういうわけでもない。そこには読者がいるし、道徳的なルールなどいくつか制約がある。できるだけ理解しやすいように書かなければいけないし、独りよがりの文章になってはいけないと心のどこかで考えている。つまりそこには他者との関係が存在しているようにみえる。

もちろんそんなことは無関係だ、自分ひとりのために書いていると主張することはできるだろうが、やはり私は他者を想定して書いているし、誰も読まないなら書かないという意味では他者に完全に依存している。つまり他者に完全に拘束されているわけではないが、ある程度は拘束されているというわけだ。たとえば普段上司にあれを書け、あれを書くなと言われている人間が、個人的なブログで「何でも書いていい」というような状況になった時に「義務の交替」が起こり、自由を感じるようになるのかもしれない。あるいはもっと厳しい上司に代わった時に、「私は自由だったんだ」と程度の差によって感じるのかもしれない。「価値」が対象物との距離によって生じるように、自由もまた結合と分離の距離によって生じる、あるいは感じるのかもしれない。

ジンメルは「交換」を通じて人間は「客観性」を身につけ、自己の衝動や他者の衝動から「自由」になることができるともいう。この交換の最も純粋な形が「貨幣による交換」であり、したがって「貨幣」は人間に「自由」をもたらすというわけだ。自分は相手の持ち物が欲しい、相手は自分の持ち物が欲しいという場合を想定してみる。相手の持ち物を自分が自由にできない場合、人間は不自由を感じる。つまり、対象物との距離を感じるようになり、そこに価値を感じるようになる。

価値を手に入れるためには何かを「犠牲」にしないといけない。それが今まで物だったり労働を通した交換だったり、略奪や譲渡だったりしたわけだが、「貨幣」を通すことでより広く、より多くの人と「交換」が可能になるというわけだ。自分の肉と相手の魚は本当につり合いがとれているのだろうかと客観的に考えてもなかなかわからない。しかし貨幣ならよりそれを可能にしてくれるというわけだ。ダイアモンドの交換価値が高く、小石の交換価値が低いのは、ダイアモンドのほうが希少性が高いからだ。希少性が高いかどうかは主観ではなく、客観的な視点が重要になる。自分だけが小石は価値があると思っても、相手がそう思えなければ交換は成立しない。相手も価値があると思えるようなものは物々交換時代においては不安定だったかもしれないが、貨幣経済においては貨幣で済むことが多い。Aは小石は価値が高い、Bは小石は価値が低いという主観的なばらつきよりも、1000円は1000円であるというほうが客観的で安定しているように思える。

「個人的自由は、けっして孤立した主体の純粋に内的な性質ではなく、いかなる相手もそこにいなければその意味を失う相関現象である」。自由もまた相互作用のなかに位置づけられる。「人間のあいだのいっさいの関係が、接近の要素と距離の要素から成り立つとすれば、独立とは、距離の要素がなるほど最大になってはいるが、しかし……完全には接近の要素が消滅してしまうことのできない関係である」(ibid.:319)。

奥村隆『距離のユートピア』、132P ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

「客観化できるから交換でき、交換できるから客観化できる。このとき、相手の利益を駆逐することなく双方が獲得することができ、主観的衝動から自由になる。こうして、「客観性」が「自由」を生む。」

奥村隆『距離のユートピア』、133P 

納税義務の変遷、職業の自由:自由のポジティブ面

納税とは義務であり、納税をしなくていいということはある意味で「自由」になる。先程、完全な自由というものはないということを学んだ。貨幣が人間に自由をもたらすということは、完全に自由をもたらすということではなく、ある程度自由にしてくれるということになる。ではどの程度もたらしてくれるのか。

納税義務には3つの段階があるという。

1:「義務者の個人的な行為と履行を内容とする」段階

例:奴隷制(現物でも貨幣でもなく、履行者そのものが義務の対象となる) 中世以前

・なにをどう納めるかでなない。奴隷の全人格が主人によって支配される。労働時間と体力が要求される。休んでいいかどうかも主人の判断次第。労働者がどういう人格であるべきかも要求・関心が向けられる。

・人格的に支配されているケースが奴隷制。嫌になったから別の仕事をする、嫌になったから主人を無視するといったことができない。

・現代社会では嫌になったら仕事を変えることができ、嫌いな上司を人格的に敬ったりする必要がない(少なくとも奴隷制よりは)。人格的に帰依しているのではなく、利益を目的として自由な労働者として会社と雇用関係を結んでいる。

2:「個人的な労働の直接の結果にかかわる」段階

例:荘園制(お米や塩、鉄、牛などの産物(現物)を徴収。いわゆる年貢) 中世的

・奴隷よりも自由が増大している。現物さえ納めていれば他のことをしてもいい。自分の意志で休むことができる。しかし何をどう納めるかは領主(主人)に指定される。職業は簡単に変更できない。農家の子供は農家、武士の子供は武士、刀鍛冶の子供は刀鍛冶、漁師の子供は漁師。

・自分は魚を税として納めたいが、米で納めろと言われることもある。この意味で不自由である。つまりまだ「人格」に関わる。

「人格の原理」から「事実性の原理」への移行

3:「一定の客体のみが問題とされ、権利者はその享楽に対して権利をもつが、義務者がそれを調達する方法にたいしてはもはやいかなる影響力をもたない」段階

例:所得税(現物による納税から貨幣による納税へ) 近代的

・荘園制よりも自由が増大している。貨幣さえ納めていればどんな手段をとってもいい。所得に応じて税金が要求される。職業の自由

・貨幣支払い以外の他の如何なる要因にも決定されなくなり、「人格の解放」が進む。

貨幣は人間に自由をもたらしている

・貨幣は人格的な関係を切り離すことで、人間を自由にしている。人格の支配から物象の支配へ

ポイント:貨幣がどうやって獲得されたかは問題ではなくなる。問題は質ではなく、量になり、人格ではなく、非人格的な成果になる。

「仕事が金納にかわれば、人々は、その仕事が彼らに課していた特殊な拘束からただちに解放される。他者が請求できるのは、もはや直接的な人格的行為ではなく、同じ行為の非人格的成果にすぎない。金納において人格が提供するのは、もはや自分自身ではなく、同じ行為の非人格的成果にすぎない。金納において人格が提供するのは、もはや自分自身ではなく、個人との内的関係をいっさい断ち切られた何ものかなのだ(『ジンメル・コレクション』273P)。」

直接的な人間関係からの自由:貨幣のポジティブ面

物々交換時代では基本的に経済は直接的に行われていた。現代では生産者の顔も性格もどこへ住んでいるかも何人かもよく知らないことが多い。しかし物々交換時代は誰がいつどこで作っているかを知っていることが現代より多かったと言える。もしコンビニもスーパーもない田舎に行ってみれば、野菜や米を物々交換している人が現代にもいるかもしれない。その人達はお互いのことをきっとよく知っている。つまり誰が作っているかという「人格」がつきまとい、「直接的」に人間関係が結ばれている。そうした直接的な人間関係から自由にしてくれるものが「貨幣」というわけだ。

我々は貨幣によってより多くの人間と関係を結ぶことができるようになっている。私が今使っているパソコンも、キーボードも、マウスも、シャーペンも、コーヒーも「誰が」作っているかよく知らない。つまり直接的な関係ではなく、「間接的な関係」にある。極端な場合、生産者も自分が何を作っているのか知らない場合がある(部品のそのまた部品の部品となるともはやわからない)。アマゾンでワンクリックで購入できるので、いちいち人格的な関係を結ぶ必要がない。貨幣では済まず、仕事の手伝いをしないと物がもらえないといったことはほとんどない。

しかしもし誰が作っているかすべて知っていたらどうだろうか。パソコンもキーボードも親戚からしか手に入らず、しかも物々交換のみでしか手に入らないようなケースを考えてみる。親戚に何を差し出せば交換してくれるのだろうか、ご機嫌をとったほうがいいのだろうか、自分の立ち位置では交換してもらえないだろうか、嫌味を言われるのではないだろうかといったような直接的な関係になる。そうした関係において人間は拘束されていると感じるかもしれない。

物々交換時代よりも貨幣経済のほうが多くの人間と間接的な関係を結ぶことができ、直接的な関係による拘束から人間を解放してくれる。我々は昔の人よりも多くの人間に依存し、多くの関係を結びつつも、関係を結んでいることを意識しない。しかし、意識しないゆえにそれを拘束とは感じず、自由でいられるのだ。自由に結合し、自由に物を所有するようになる。

以前の経済時代に生きた人間は、いまよりはるかに少数の人間としか依存関係をもっていなかったが、その少数者はあくまで特定の個人であって、その関係は根強く固定していた。それに比べると、今日の私たちは以前よりずっと深く商品供給者に依存しているが、供給者個々人について言えば、ときに思い通りに取り替えることができる。あらゆる特定の人間からは、私たちのほうがはるかに独立している。

まさにこうした人間関係が必然的に強い個人主義を生みだす。人間関係を疎遠にし、すべての人を自己省察に導くのは、他者からの孤立ではなく、あくまで他者への関係なのだ。ただしその関係は、その他者がだれなのかということには顧慮しないような、匿名的で、個人としてのありかたには無関心な関係だということだ。

他者への外的な関係が同時に人格的な性格を帯びていた時代とは異なり、貨幣は、人間の客観的な経済行為とその個人的な色彩とをより純粋な形で分離することを可能にした。それは近代全体についてのわれわれの性格づけとも対応する。こうして分離された固有の自我は、外的な関係からいまや完全撤退を開始し、さらにはかつてないほど深く、さながら自我の最前部にまで撤退しうるようになる。

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 270-271P

貨幣は「個性化(人格の深化)」を促す:貨幣のポジティブ面

個人と人格
POINT

個人(こじん)「個人は相互行為という糸が交差するところにできる『結び目』である。ジンメルによれば、個人もまた、確固とした実体というより、たえず個人になる個人化(個人形成)のプロセスのうちにある」

個人とは社会的な糸がたがいに結びあう場所にすぎず、人格とはこの結合の生じる特別な様式にほかならない。

(ゲオルク・ジンメル、『社会学』(上)、居安正訳、白水社、12P、1908年 訳は1994年)

心的相互作用は糸、社会は織物、そして個人は結び目らしいです。ジンメルにとって個人もまた実体というより、たえず個人になろうとする個人化のプロセスのうちにあるそうです。社会化と対応していますね。社会唯名論では個人を確固たる実体とし、社会実在論では社会を確固たる実体として強調していますが、ジンメルにいわせれば両方ともプロセスのうちにあるもので、確固たる実体はないということです。

それら人格を構成する諸要素の多くがいわばある焦点においてたがいに出会い相互に結びつくことによって、はじめてそれらがある人格を形成し、この人格がこんどは逆にそれぞれの特徴に反作用して、それらをある人格的・主観的なものとして特徴づける。彼がこれかあれかであるということではなく、彼がこれでもありあれでもあるということが、人間を代替不可能な人格にする。

ゲオルク・ジンメル、『貨幣の哲学』、居安正訳、白水社、316P、1900年 訳は1999年

「第二に、「人間一般を特定の人格とする発展」があげられる。少しイメージしにくいが、「人格」とは「相対的な統一」であり、「人格がさまざまな諸規定を統一化することによって」現実的・活動的になる(ibid.:315)、とジンメルは考える。「彼がこれかあれかであるということではなく、彼がこれでもありあれでもあるということが、人間を代替不可能な人格とする」。「これかあれか」ではなく「これもあれも」という諸属性の交差としての「人格」は、貨幣経済において「完全に分解される」だろう。人は供給者、資金提供者、労働者といった「一面にしたがってのみ」関係にはいり、それ以外の規定は考慮されず、「人格として作用するのではない」。そうすると、人はますます多くの人々の仕事に依存するようになるが、「その背後に存在する人格そのものからはますます独立するように」なる。」

『距離のユートピア』、奥村隆、133P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

人格も同様に実体ではなく、人格を構成する要素の集まりです。あらゆる要素が相互に結びつき、人格が形成され、さらにそこからそれぞれの要素に反作用して、人格が構成されるそうです。ただの諸要素の集まりではなく、相互作用によって複雑に結びつき、人格を形成するゆえに代替不可能な人格になるということです。

こう考えると、土地が人格を構成する要素のひとつでありうるということが理解できる。土地は質的であり、貨幣は量的である。

人格と社会の分化

人格はいうならば「内容」であり、貨幣は「形式」です。A大学卒業、B会社に入社、Cという友人、Dという恋人、Eという街に住んでいて、Fという趣味があり、Gという食べ物が嫌い、といったように「これでもありあれでもある」ということを積み重ねていくと「代替不可能な内容」、つまり「人格」というものが作り上げられていくというわけです。

この「これでもありあれでもある」は社会が分化するとより進みます。たとえば都市で働いて都市外に住んでいて、外国に遊びに行くケースを考えてみても「分化」しているといえます。A会社に勤めていたけど、B会社に転勤したといったような時間による分化もそうです。

昔は小さな共同体内でずっと定住して生きている人がほとんどだったので、分化していませんでした。つまりどこを見渡しても、ほとんど同じような学校に行き、同じような遊びをして、同じような服を着て、同じような友人がいるケースです。社会圏が小さい世界では人格、つまり「個性」が発達しにくいと言えます。人との違いに触れること、違う社会に触れることが「個性」の発達を促します。

違う社会にたくさん触れるためには、社会が複数に分化している必要があります。都市外に住んでいて、都市で働くというケースは2つの社会に同時に属していることになるので、個性が発達しやすいといえます。現代では高校も地元ではなく、電車で都心に通学するケースなども考えられます。あるいは「ネット」で多様な社会に触れ合うことで「個性」が生まれていくのかもしれません。

貨幣は分業を可能にし、分業は「人格」を労働から分離させます。分離させるからこそ人格が発達するのです。彼女と別れたからこそ彼女の大事さやかけがえのなさが初めて意識にのぼるように、分離は「分離されたもの」を意識にのぼらせ、深化させることがあるのです。人格の深化は個性化、個人主義化をも生みだすというわけです。ジンメルは「個人や人格、自由」といったものを重視しています。

貨幣は人格を背後に置く

分業が一面ごとの人間を関係付けるとはどういうことか。

たとえばパソコンの部品を作る人間は、その部品のみを作ることができればいい。またその部品のみを作ることができるという一面的な成果に報酬が与えられる。「誰」が作ったのかといったような人格とは切り離されるというわけだ。昔の牧歌的な生活をイメージすると、たとえば米や野菜を作る農家から村民が貨幣でその成果物を購入することはできない。たとえば魚と交換したり、手伝うからすこし分けてくれといったような物々交換が起こる。そこでは単純な物々交換ではなく、「誰」が作ったのか、「誰」のものと交換するか、「どこ」に住んでいる人間かといった要素が重視される。つまり米という客観的成果物だけが重視されるのではなく、誰がいつどこで作ったのかといった全面的な要素が考慮されるというわけだ。同じ仲間だから売る、同じ仲間だから交換するといった人格的、主観的な要素が強い。

違う村から来た人間であっても、国内で流通していて使える貨幣であればその人間は信用せずとも、貨幣は信用できるので交換可能になる。つまり人格が背後に置かれていく。だからこそ現代人は会ったこともない国内の人と物が売り買いでき、また国外のひととも物が売り買いできるようになる。つまり人格的、地縁的要素から自由になっていくというわけだ。

分業体制では簡単に人を雇うことができる。同じ仲間でなく、よそ者であっても簡単に雇える。労働者に期待するのは部品を作れるかどうかであり、その能力が重要視されていく。派遣のアルバイトで雇用主はその派遣が「どういう人物か」を重視しているイメージはあまりない。データを打ち込む仕事なら、そのデータを打ち込めるなら誰だっていいわけだ。もし貨幣がない時代なら、こうした分業体制はなかなか発展しなかった。田舎の農家がその点イメージしやすい。誰であろうと仕事ができるなら雇うというスタンスではなく、どういう人間かが重視される。つまり一面的な成果ではなく、全面的なものが要求される。

「分業や交換は貨幣に媒介され、一面ごとの人間を関係づけるが、「人格」を背後に置いておくのだ。「貨幣は、なるほど人間のあいだに関係をつくり出しはするが、しかし人間を外部に放置する」。個人的・人格的なものは関係の外部に放置される。だからここでは「緊密な依存から分化した人格と自由」、つまり依存関係に巻き込まれない「人格」が独立し自由なものとして存在しうるのである(ibid.:324-5)。」

『距離のユートピア』、奥村隆、133P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

人格と所有の関係

現物経済時代、つまり物々交換時代の人格と物権関係はどうなっていたのでしょうか。

物権(ぶっけん)とは物の支配に対する権利です。たとえば今私はキーボードで文章を打っていますが、このキーボードに対する物権を私は有しています。売ることもできますし、捨てることもできます。

ジンメルによれば古代においては、土地所有は人格そのものに帰属する権限だったそうです。貨幣というものが存在しない時代です。代々受け継いできた土地だから、あるいは仲間だからという理由で土地を所有することができるというわけですね。現代は簡単に貨幣で土地の所有権を買うことができますが、古代では簡単に土地を所有することはできないわけです。人格、つまり「おまえはだれなのか」ということが大事になるわけです。「よそ者」は簡単に土地を所有できません。

10世紀になると人格的要素よりも地縁的要素が強くなったそうです。「だれが」というより、「土地を持っているかどうか」が重要視されるようになります。ジンメルの例では隷属農民の共同体では1フーフェの耕地の完全保有が正式な共同体構成員のための資格だったそうです。仲間だから土地を保有できるというより、土地を持っているから仲間だとみなされるというわけです。しかしただ土地をもっているだけではだめで、その共同体の内部に、つまり人格として帰属している組織の内部に土地を所有していないと仲間だとみなされないというわけです。たとえば東京に土地を持っていても、鹿児島の土地を持っていなければ鹿児島県民としてみなされないというようなイメージですね。

貨幣経済が発達する、すなわち近代化移行はこうした人格的要素や地縁的要素は解体されていったそうです。土地を購入する際に「貨幣」を通すことによって、「誰が」という人格性が重視されなくなっていきます。また土地が簡単に売り買いできることによって、土地をもっているから仲間だといったような地縁的要素も重視されなくなっていきます。

経済活動に毎回人格的要素が入り込んできた中世以前とは違い、経済活動は非人格的行為になっていきます。アマゾンでワンクリックで購入できるようになる場合、客はだれでもいいし、商人も安ければ基本的に誰でもいいわけです。

「現物経済時代に特有のこうした人格と物権関係の共属性を、貨幣経済は解体する。貨幣経済は、人間と一定の品質を付された事柄とのあいだに、たえず貨幣と貨幣価値という完全に客観的で、それ自身は無品質な媒介項をすべりこませる。貨幣経済は、人間と所有との関係を媒介された関係にすることによって、両者の間に乖離を生みだす。それによって、かつては緊密に結びついていた人格的要素と地縁的要素は高度に分化させられ、今日では、私はベルリンにいながら、アメリカの鉄道やノルウェーの抵当権、アフリカの金鉱からの収入さえ受け取ることができるようになった。」

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 264P ※ジンメルの講演である「近代文化における貨幣」の内容 以下同じ

貨幣の所有と自由の関係

貨幣は人格的な支配から解放してくれることを学びました。奴隷や物による税ではなく、お金を払えばいいというのはたしかに人格的な支配から解放してくれているように思えます。

「人間と人間がより結合している」というニュアンスがイメージにしにくいです。たとえば奴隷制は主人と奴隷が人格的に結合しています。つまり「距離」が短く、接近しているといえます。奴隷がこうしたい、こうありたいと思っていても、主人が「こうしろ、こうあれ」と言えばそれに従うしかありません。奴隷はただ農作物を納めていればいいだけではなく、主人に従順であり、気に入られるようにしなければいけません。

現代人も上司の機嫌をうかがって同じじゃないか、と思うところもないわけではありません(だから社畜という言葉が生まれるわけですから)。しかし嫌だったら従わずに転職するという手段もあるわけです。あるいは法律で人格的な強制は違反する可能性もあります。奴隷制では従わなきゃ別の人間に売られるか、殺されてしまうかもしれません。そういうった意味では、現代の上司と部下の間には「距離」があります。完全に依存、結合した関係ではなく、いざとなったら離れますよ、といったように「距離」があります。

労働以外にも、たとえば市場でも同じようなことが言えます。昔は「誰が」売るか、「誰が」買うかといった人格が重視されていました。今では「貨幣」があれば誰であっても買えるし、誰であっても売れるというのがほとんどです。アマゾンで物を買う時に、「君は気に入らないから売らない」といったことはほとんどないはずです。お金を払ってくれるならどの客も同じなわけです。つまり結合した関係ではなく、より分離した関係になります。その意味で貨幣は人格からの自由をもたしていれているといえます。

貨幣は人格をつくりだす

貨幣は経済活動から人格的要素を消していくと同時に、人格的な要素を作り出す要素もあるようだ。

分業は個人に一面的な要素だけを求めて、人格的な要素を基本的に求めない。たとえば部品を作る会社で、その人の個性は重視されない。むしろ個性が邪魔になる場合もある。

「企業は自らの論理に従ってできるだけ個人を一つの役割に押し込めようとし、個人は企業の一個の歯車であることには飽き足らず、自己の完成を追求する。分化した近代的な社会では、相互行為は、社会化(社会形成)と個人化(個人形成)という2つの過程が互いに衝突しながら同時に進行する緊張に満ちた場となる。これが社会学において相互行為が概念化の焦点となってきた理由であり、また概念化が行われる際の共通の構図である。」

『社会学』,有斐閣、51P

この説明がわかりやすい。貨幣によって分業が発達し、会社は個人に人格的要素を求めなくなった。つまり個性をあまり重視しなくなった。生産性が高くなる要素なら個性は歓迎されるかもしれないが、生産性が低くなる個性は歓迎されないだろう。たとえば人を騙すような真似をしてまで商品を売りたくないというような人格的要素は、商品を売ればいいという一面的要素を求める企業の要素とは対立する。

しかし対立するゆえに、より人格的要素が強化される場合がある。貨幣以前の時代においては、こうした個人化と社会化の対立の程度が低かった。たとえば米をつくるときに、自分は本当は商人になりたい、野菜を作りたいといったような個性が発生しにくい。自分は代々米を作る家業であり、そうすることがアイデンティティだと捉える傾向があったというわけだ。本当に自分のしたいこととは、自分とはなにかという答えを考える近代人とは違い、何をするべきかの答えが自然に与えられていたということができる。この意味で不自由ではあるが、意味においては安定し、個人化と社会化があまり対立していなかったといえる。

イメージで言えば近代以前は「付和雷同(ふわらいどう)」的だったのかもしれない。つまり、他の人との違いがあまり重視されず、他人と同じであることが重視されるような状態だ。他の慣用句でいえば「出る杭は打たれる」である。農村では、その農村の共同体のメンバーらしくあることが重要とされる。武士には武士らしさが求められ、商人には商人らしさが求められる。お互いに職業を簡単には変更できず、個性はあまり重視されない。所属する団体に無関係な「個人」というイメージがない。というよりも社会集団と個人が分離せず、統一しているといえる。貨幣はそうした統一を解体し、個人というものを際立たせるようになる。

「他者への外的な関係が同時に人格的な性格を帯びていた時代とは異なり、貨幣は、人間の客観的な経済行為とその個人的な色彩とをより純粋な形で分離することを可能にした。それは近代全体についてのわれわれの性格付けとも対応する。こうして分離された固有の自我は、外的な関係からいまや完全撤退を開始し、さらにはかつてないほど深く、さながら自我の最深部にまで撤退しうるようになる。」

『ジンメルコレクション』271P

貨幣によって職業の自由が生じ、また簡単に他の地域へ連絡・移動できる技術が発展し、人格的要素が背後に置かれていくようになった。人は対立を感じるからこそ、本当の自分とはなにかを考え出し、人との違いを重視するようになるのかもしれない。会社はどうあるべきかについて、つまり人格的要素の安定を与えてはくれない。むしろ自分がこうあるべきだという要素と対立しさえすることもある。

「経済も仕事の個人的側面と客観的側面の「未分離」に始まり、この「無差別」はやがて対立へと分裂し、個人的な要素は生産や販売から後退する。「しかしこの過程が個人的な自由を解き放つ。……個人的な自由は経済的な宇宙の客観化と脱個人化とともに高まる」。そして「貨幣はそのような関係の絶対にふさわしい担い手である」(ibid.:324)。貨幣は未分離・無差別な物と人、人と人のあいだを分離させ、「客観性」と「人格」をつくりだし、人を「自由」にするのだ。」

『距離のユートピア』、奥村隆、133P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

貨幣の自由の裏側にある抑圧、質的な価値の喪失:貨幣のネガティブ面

ジンメルによれば、たいていのものは両義的(アンビバレンス)である。貨幣は自由をもたらしたが、この自由と同時に抑圧をももたらしたという。

「土地の所有」と「貨幣の所有」はどちらが自由度が高いだろうか。土地は貨幣のように持ち運ぶことができない。土地は利用に際してさまざまな制約があり、また土地と交換できる物も限られている。人は土地を貨幣に換えると開放感を得るという。貨幣に換えたことで、土地の管理の煩わしさや祖国との結びつき、内容、質とのむすびつきから解放されるという。つまり「所有物からの自由」というわけだ。

しかし同時に、土地は貨幣以上の価値をもつこともある。つまり人格活動に関わるような価値だ。たとえば代々住んできた土地を売ると心にポッカリを穴が空くような人間の心をイメージすることができる。形式的には量的な価値は減っていない。土地が妥当な値段、たとえば1000万円で売れた場合、量的な価値だけを見れば土地を所有していたときと価値の量は同じである。

しかし代々住んできた、あるいは耕してきた土地の思い出、先祖とのつながり、そういったものが積み重なり、質的な価値を形成することもある。こうした質的な価値が貨幣の登場によって失われてしまうこともあるのだ。たとえば戦争に加勢する代わりに貨幣の援助で済ませようとした場合、援助される側はそれで納得がいくだろうか。

湾岸戦争時に日本はクウェートへ1兆円近くの援助を行ったが、戦後クウェートは日本は感謝広告のメンバーのうちに入らなかったという(ドイツなどを除く他のメンバーは貨幣ではなく人的に参戦していた)。これの善し悪しはおいておいて、貨幣的な価値以上のものが存在するというのが重要になる。戦争の場合は「人的貢献」である。

ジンメルはアテナイの例をあげ、同盟諸国が船と船員の供出を貨幣支払いで代替したことが引き金となり、同名の権利を剥奪されたという。「金じゃないんだよ」というのは実際、生活の中にもよくある。ほしいのは謝罪の気持ちだといって札束を突き返すようなシーンはドラマでもときどきある。誕生日プレゼントに現金をもらうよりも手作りのマフラーのほうが嬉しいということも理解できる。

農民が現物ではなく貨幣によって納税が可能になった場合、納税できない場合は「土地」を貨幣にすることもあるだろうし、あるいは「自分自身」を貨幣に換える場合もあったかもしれない。先祖代々続いてきた工房を商人に明け渡す場合もあったかもしれない。自由と引き換えに大事なものも人間は失う場合がある。

前世紀にみられた農民の頻繁な土地売却は、たしかに農民に一時の自由を与えた。しかしその代わりに農民から、金では買えないなにか、それがあってはじめて自由にも価値が出てくるというなにか、すなわち人格的活動の確固たる対象が奪われた。これもまた貨幣のうえに立つ文化、すなわち後期アテナイの、後期ローマの、そして近代世界の文化の憂慮すべき点なのだ。

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 275P

「貨幣の所有は、他のあらゆる所有のこのひそかな反抗から自由である」。事物と結びついた特別な喜びを「断念」して、客体から十分に隔たり、客体の所有の限界につまずかずに、「貨幣のみをわれわれは完全に無条件に所有」できる(ibid.:355)。とくに土地所有と貨幣所有を対比すると、土地所有者は「解きがたくその祖国と結びついて」いるが、貨幣所有者は危急時にどこに逃げだすこともでき、集団からの自立が可能になる」(ibid.:373-4)。

『距離のユートピア』、奥村隆、134P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

個人的な価値の貨幣等価物とはなにか

個人的な価値の貨幣等価物とは:貨幣のポジティブな面

POINT

個人的な価値の貨幣等価物(かちのかへいとうかぶつ)・個人的な価値とは、たとえば「人格」があります。人格は貨幣によって評価することは可能でしょうか。田中さんの人格的価値は1000万円、佐藤さんの人格的価値は2000万円といったように評価できるでしょうか。ジンメルは「殺人賠償金」を検討し、人格は貨幣に換算されないもの、換算不可能な独自の価値をもつと考えられるようになったと検討しています。

結論から言えば貨幣は人格のかけがえなさ、貨幣には換えられない独自の価値を生みだしたというわけです。

「殺人賠償金」とは殺人を犯したものが貨幣によって賠償するというものです。現代の日本では基本的に殺人を犯したら貨幣によっては賠償できません。軽微な交通違反ならお金を払えば済むかもしれませんが、人をはねたりした場合は貨幣によって賠償することはできなくなります。もちろん「慰謝料」といった形で現代にも殺人の賠償金というものはありますが、それだけでは済まされず死刑になったり刑務所に行ったりしますよね。昔はお金を払うだけで刑務所に行かなくていいケースがあったというわけです。

しかし近代以前においては、貨幣によって殺人の賠償ができる時代があったそうです。ジンメルによれば貨幣によって殺人の賠償ができるということは、個人が「かけがえのないもの」としての価値をもっていなかったそうです。つまり人格が貨幣に換算できるような価値だったというわけです。奴隷が売り買いされているような時代もあったわけですからそういうこともあるのかもしれませんね。人との違い、あれでもありこれでもあるという人格性や集団とは切り離された個人というものが重要視されていなかったわけです。貨幣のほうも同様に、昔はどんなものでも買えるといえるほどのものでもなかったそうです。どんなものでも買えるようになったということは貨幣の価値が上がると同時に、下がるということでもあります。どんな異性とでも付き合えるような人間は素晴らしいともいえますが、それゆえに浮気しやすいという両義性のようなものでしょうか。

近代以降において人格が貨幣に換算できないような価値とみなされるようになっていったという話ですね。貨幣が「他と比較できないかけがえのない人格」というものを生みだしたプロセスとはいったいどういうわけでしょうか。貨幣は人格とからの自由を、すなわち「距離」を生みだします。人格からの自由が生まれるということは、人格が意識されるということであり、意識されるということはそれが価値をもちはじめるということであもります。貨幣によって経済活動から人格が切り離されることによって、逆に人格の価値が高まり、殺人が貨幣によって賠償できないものとなっていくというわけですね。

「原始社会で殺人が貨幣によって償われえたということは、一方においては──個人がより明確かつ個別的に集団から区別されるようになった後世と比べると──個人がまだそれ自体としての価値を十分に認められておらず、他と比較のできぬかけがえのないものとは感じられていなかったことを意味している。しかし他方においては、貨幣のほうがまだそれほど無差別なものになっておらず、まだあらゆる質的な意味の彼岸に立っていなかったことをも意味している。進展する人間の分化と、同じように進展する貨幣の無差別化がここで出会い、罰金による殺人の償いを不可能にしたのだ。」

『ジンメルコレクション』278P

売春と貨幣等価物

売春とは一般に、「女性が報酬を得ることを目的として不特定の相手と性交すること」である。ジンメルによれば売春は人格の「価値剥奪(はくだつ)」である。自分の人格という価値をお金に変えているわけだ。その意味で、自分の人格的な価値と貨幣が等価物のような関係になる。人格というものは個人的なものであり、価値のあるものだとジンメルはいいます。このかけがえのない代替不可能な価値がどこにでもあり、なんにでも代替可能な価値と交換可能になってしまう現象のひとつが「売春」だということです。殺人の賠償金においてもかけがえのない人格への暴力が貨幣で償われていたように、貨幣等価物になってしまうわけです。

「というのは、貨幣がいっさいの事柄の尺度となってしまえば、千差万別のどんなものでも金で手に入ることができるのであって、貨幣は、あらゆるものの等価物となり無色透明となって、ある意味では、全面的な価値剥奪を起こします。貨幣というのは、この世にあるもっとも没個性的なものです。したがって、女の献身のような個人的な価値と交換するのにはもっとも不的確な交換手段です。それにもかかわらず、金と女の献身とが交換されれば、そのことで、この個人的で独自の価値をもっていた事柄が、貨幣レベルに失墜してしまいます。身を売る女は、もっともかけがえのない個人的ななにかを、貨幣という、どこにでもころがっている何千もの物の交換手段と何ら区別しないことになるのです。」

『ジンメルコレクション』38-39P

「本来でしたら、その人しかもっておらず、その人のもっとも大切な価値となっているものを差し出すべきです。正しい婚姻生活ではそういう関係になっています。」

40P

「今日の売春では、商品と値段が釣り合わないので、身売りする者たちだけでなく、それを利用する者たちも道徳的に堕落してしまいます。」

41P

売春自体は貨幣経済の前から古代より存在していたそうです。祭礼売春のように、しきたりとして婚姻までに女性が尽くさなければいけないというものもあったそうです。他にも食糧や敵から守るといった報酬があったのかもしれません。

貨幣は女性のかけがえのない人格的価値を剥奪するものであるからこそ、売春における使用に適している場合があるのです。もし売春において貨幣以外が、それも人格に関わるものが等価物として交換されると問題になるというわけです。たとえば売春の報酬に身の安全を保証する、家に住ませてやると言った場合は人格的な付き合いがつきまといます。そうした人格的な付き合いは売春ではなく愛情関係においてふさわしいというわけです。

要するに「あなたとは単にお金だけの関係で、お金のために行為しているのであり、それ以外はなんの結びつきももたない」というメッセージ性としての貨幣だというわけです。貨幣は「かけがえのない人格」を剥奪させ、「どこにでもころがっている単なる交換手段」と等価にさせてしまうネガティブな面もありますが、そうであることで非人格的な関係が可能になるというポジティブ面もあるわけです。売春においての善し悪しというより、貨幣の両義性の話です。売春が多くの場合に自由意志でなされているかどうかは定かではありませんが、自由な結合を貨幣が可能にしたということはいえそうです。

「貨幣のための取引のみが、まったく一時的な関係というあの性格、売春に固有ないかなる痕跡も残さないという関係の性格を帯びる。人はなんらかの性質をもつ対象の譲渡によるよりも貨幣の譲渡によって、関係からより完全に解放され、その関係をより徹底的に皆済する。というのも性質をもつ対象には、その内容と選択と利用とによって、よりたやすく贈り手の人格の息吹きがつきまといつづけるからである。売春の仕える欲望は瞬間的に燃えあがるとともに同じように瞬間的に消滅し、この欲望には単に貨幣等価物のみがふさわしい。なぜなら貨幣は何ものとも結びつかず、原理的にはあらゆる瞬間に手元にあり、あらゆる瞬間に歓迎されるからである。人間のあいだの関係のうち、その本質から見て結合的な力と持続と内的な真実をめざすもの──いかに急速に破れるにせよ現実の愛情関係のような──にとっては、貨幣はけっして適当な仲介者ではない。購入しうる享楽は、瞬間ともっぱら感覚的な衝動とをこえるいっさいの関係を拒否するが、このような享楽には貨幣が、客観的にも象徴的にももっとも完全に奉仕する。というのも貨幣は譲渡によって完全に人格から分離し、それ以上のいっさいの結合をもっとも徹底的に切り離すからである」

『貨幣の哲学』414P

貨幣における転回

貨幣における転回とは
POINT

貨幣における転回(てんかい)・「交換可能性の純粋な形式」、つまり純粋な「手段」であった貨幣が、形式そのものに価値を帯びるようになり、価値が「究極目的」のように求められるようになること。お金を使って何かを交換するのではなく、お金を使うこと自体、あるいはお金を稼ぐこと自体が目的となってしまうような自体。手段から目的への逆転を転回という。

貨幣は「絶対的な手段」であるがゆえに「絶対的な目的」にまで上昇するとジンメルはいう。どういう意味か。

たとえば「相対的な手段」として「遊戯王カード」を考えてみる。たとえばあるレアカードは遊戯王をやっている人の中ではものすごく価値があり、そのカードとなら他のどんなカードとも交換したいと思うような価値があるとする。しかし遊戯王カードをやっていない人にとってみれば「ただの紙」であり、その限りで遊戯王カード界隈でのみしか価値がないのであり、その意味で交換手段としては「相対的」である(※レアカードの換金性は捨象する)。

しかし貨幣は遊戯王カードとは違い、あらゆる物と基本的に交換可能である。レアカードと卵は交換できないかもしれないが、貨幣と卵は交換できる。このようにあらゆる物と交換できるという「絶対的な手段」であるがゆえに、貨幣は価値をもち、貨幣それ自体が「絶対的な目的」にまで価値が上がる。たとえば遊戯王レアカードがどんな物とも交換できるとすれば、そのレアカードを持っている事自体に価値が出てくるだろう(しかし現実には遊戯王カード同士くらいしか交換されないので、貨幣のような究極目的にまで価値が上昇しない)。

貨幣は、「絶対的な手段」(にもかかわらず、ではなく)であるがゆえに、多くの人間にとって「絶対的な目的」にまで上昇する(ibid.:238-9)。とくに「究極目的」が力を失った時代においては、絶対的な手段としての貨幣が「あまりにも容易に究極目的としてあらわれ、あまりにも多くの人びとにおいて目的論的な系列を最終的に終決」させるということが生じる(ibid.:245)。「純粋な道具」だからこそ「究極目的」になる、という逆転がここで生じるとジンメルはいう。

『距離のユートピア』、奥村隆、130P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

貨幣もまた「交換可能性の純粋な形式」であり、「道具のもっとも純粋な形式」とされる。これはあらゆる「目的内容」に対して「無差別」かつ「無色」であって、それから切り離された「空虚な形式」であり、だからこそどんな「内容」も容れることができる。そして、この「純粋な道具」は、あたかも「純粋な形式」としての社交がそれ自体求められるようになるのと同じように、「価値」を増し、「究極目的」のように求められるという逆転あるいは「転回」が生じる。

『距離のユートピア』、奥村隆、131P

吝嗇、守銭奴、浪費

守銭奴や吝嗇(りんしょく)はいわゆる「ケチ」であり、金をため込むことばかりに異常な関心をもつひとたちのことである。ジンメル的に言えば「貨幣自体を究極目的のように求める人々」である。

ジンメルによればそういう態度は、貨幣の「転回」によって起こるという。つまり、貨幣が絶対的な手段ではなく、絶対的な目的へと逆転してしまっている。

何かに使うためにお金を稼いでいたのに、お金を稼ぐこと、貯めること自体が楽しくなり、お金を使うことを惜しむようになるというのは理解できる。まわりにそういう人もいる。

お金はなんにでも交換できる「絶対的な手段」であり、「享楽の無限の可能性」をもっている。たとえば高級車を買ったりいい食事をしたり、良い施設に泊まったりというような欲求を満たせる可能性をもっている。高級車が欲しい、でも買えない、という「距離」があるからこそ高級車には「価値」がでてくる。しかし実際に高級車を買ってしまうと「距離」がなくなる。ジンメルによればこうした距離の消失は「失望」を起こすという。

ケチとは正反対に、無意味な商品のために棄ててしまうことで強烈な「瞬間の享楽」を感じる浪費家も同じようなものだという。貨幣は本来、意味のある交換手段である。食欲を満たすために肉を買い、住むために家を買い、遊ぶためにゲームを買う。しかし浪費家は浪費すること自体、つまり貨幣を使うこと自体に享楽を感じる。つまりなにか食欲を満たすためだとか他の「内容」を伴うものではないのだ。ジンメル的に言えば「形式そのもの」を楽しむということである。その意味で社交とも共通している。また、お金を貯めること自体に価値を感じることも、お金を使うこと自体に価値を感じることも、それぞれ貨幣の形式それ自体を楽しんでいる人々である。

だから吝嗇家はなんとでも交換できる可能性=貨幣を「何らかの享楽の手段として利用することを断念」し、「架橋できない距離」に置くことでこの失望を予防する(ibid.:250-1)。逆にこの無限の可能性を「実質的な内容や随伴現象への顧慮なく」無意味な商品のために棄ててしまうとき、強烈な「瞬間の享楽」を感じることができるだろう。これが、商品の価値を顧慮しない純粋な(つまり無意味な)消費、すなわち「浪費」である(ibid.:255)。

『距離のユートピア』、奥村隆、130-131P ※ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

橋渡しとしての貨幣

人の究極目的とはなんだろうか。たとえばお腹が空いたからご飯を食べる必要があり、ご飯を食べるためにはお金が必要である。この意味でいえばご飯を食べるための手段として貨幣がある。しかしご飯を食べることは究極目的である人は少ないだろう。自分の人生の究極的目的を明確に意識できている人は少ないかもしれない。昔はその答えに、つまり生きる意味に対して「宗教」が答えを与えてくれた。しかし今はウェーバーのいうところの「脱魔術化」した時代であり、宗教的は力を失いつつある。それぞれ諸個人が自分でそういった目的を神々の争いによって選び取る時代にある。

もし仮に、「愛する人のために生きる」ということを人生の究極目的であると設定したとする。愛する人のためにために生きるためには、お金を稼ぐ必要があるとする。お金を稼ぐためにはいい仕事につくひつようがあり、いい仕事につくためには学歴が必要であり、学歴のためには勉強する必要がある。勉強するためには健康である必要があり、健康であるためには食事が必要である。

究極目的のための手段のための手段のための手段・・といったようにいくえにも手段が連なっていくようなさまをジンメルは「目的達成のための迂回(うかい)」と表現した。社会が複雑になると迂回も増えていくという。昔のような単純な世界では、愛する人を幸せにするためには米を作っているだけでもよかったケースもあるかもしれない。しかし今の時代ではそうした目的のための手段が多すぎて、ほんとうの目的をいつのまにか忘れてしまうという。

たしかに大学受験で頑張っていた学生が、大学に受かった瞬間に気が抜けてしまい、ろくに大学で勉強もせずに退学してしまうような人もいる。何かのための手段として大学を意識していたのに、いつのまにか大学に入学することそれ自体が目的となり、それ自体に価値があり、入学してしまったら「距離」を失い価値が抜け出ていってしまう。

愛する人のために仕事をしていたのに、仕事をして貨幣を稼ぐこと自体が目的となってしまい、愛する人と過ごす時間を犠牲にして家庭が崩壊する例もある。

「最終的な目的や享楽へと通ずる数列のひとつの項としての、すなわち橋渡しとしての役割、これが貨幣のもつ意味のすべてだ。ところがこの数列は、心理的にはこの頃の段階でとぎれてしまい、目的意識は貨幣のところで立ち止まる。現代人の大半は人生の大部分を、金を得ることを目前の努力目標として過ごさざるをえない。そのために、あらゆる幸福、人生のあらゆる最終的満足は、なにがしかの額の金を所有することと不可分に結びついているという思い込みが生じる。たんなる手段であり前提条件にすぎないものが、内面的には最終目標へと成長していく。

ところが、いったんこの目標に到達してしまうと、死ぬほどの退屈と失望が待ち構えている。こうした例は枚挙にいとまがなく、なかでもいちばん目立っているのは、いくばくかの金を貯金した後に金利生活者として隠居する商人たちだ。

それまで貨幣に価値意識を集中させていた情況が失われると、貨幣はその本当の性格、すなわちたんなる手段としての性格を露呈する。この集団は、人生が貨幣にだけ頼るようになった途端に、役立たずで不十分なものと化す──貨幣は何といっても最終的な価値への橋渡しにすぎず、しょせん人間は橋のうえに住みつくことはできないからだ。」

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 279-280P

「高度な社会では第一歩がそのまま目標に通じるなどということはほとんど考えられず、つねにひとつの手段が必要となる。しかしそれだけではない。その手段もまたしばしば直接には手に入らない。必要とされるのは、ひとつの手段がつねにほかの手段の担い手になっているような幾重にもつらなった手段の連鎖であり、それを経てようやく最終目標にたどりつく。それだけに、この手段の迷路の中で立ち往生し、そのために最終目標を忘れてしまう危険性は十分にある。あらゆる生活領域の技術──それはつまりたんなる手段と道具のシステムということだが──は、より錯綜し、より精巧で、より細分化したものになればなるほど、それ自体がいっそう自己満足的な最終目的と感じられるようになり、その先のことは問題にされなくなっていく。」

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 280P

倦怠

自分の個性的で質的な仕事の価値が「貨幣」の「量」によって測られるとするとうケースを考えてみる。

自分の絵を1万円の価値だとある芸術家、あるいはあるオークションでで測定されるとする。自分の質は他の物とは交換不可能な、代替不可能な質をもっていると信じている人間が自分の絵を1万円の価値と評価されたのだ。これが高いか安いかは問題ではない。1万円の価値であるということは、他に1万円の価値をもったあらゆる物と同等の価値をもつということである。たとえば電動歯ブラシと自分の絵は同じ価値であるということにもなる。

倦怠(けんたい)とは一般に、「物事に飽きて嫌になること」である。貨幣は「倦怠」を起こさせる場合もあるとジンメルはいう。たしかに自分の質的な性質、お金には換えられないと思っているかけがえのなさが「お金」をいったん通すと消え失せてしまうように見え、自分のやっていることに関心を失っていくというのは理解できる。

また貨幣の「平均化」は前に扱った「社会学的悲劇」と似ている。質的なものが量的な貨幣へと換算されることで、最も高いものが最も低いものへと落ちていく。質的にもっとも高い人ともっとも低い人の価値が量的にはおなじになる、つまり平均化するのである。

「倦怠の本質はむしろ、事物の相違に対する無感覚にある。倦怠とは、事物の相違の意義と価値とが、それゆえに事物そのものが無価値に感じられることなのである。ジンメルは、そうした倦怠もまた貨幣経済の主観的な反映であるという。『貨幣は、事物のあらゆる多様性を等しく尊重し、それらのあいだのあらゆる質的相違をいかほどかという量の相違によって表現し、そしてその無色彩性と無関心とによって、すべての価値の公分母にのしあがる。そうすることによって貨幣は、もっとも恐るべき平準器となり、事物の核心、その特性、その特殊な価値、その無比性を、望みなきまでに空洞化する』

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、175-176P

「貨幣は、すべてのものと等価物であるがゆえに『通俗的』であり、個別的なものだけが高尚なのだ。多くのものと等しいものは、そのなかの最低のものと等しいのであり、それゆえ最高のものを最低のものの水準へと引き下げる。こうして平均化は最低の要素をめざして一直線に落ちていくのであり、これこそあらゆる平均化のもつ悲劇だ。なぜなら、最高のものが最低のものに向かうことはつねにありえても、あらゆる低きものが高き要素へとはいあがることはほとんど起こり得ないからだ。こうして物のもつもっとも固有な価値は、あらゆる異質なものが等しく換金可能であるという事実によって傷つけられる。だから言語が、きわめて特別なもの、卓越したものを、『金には換えられない』と形容するのはもっともなことだ。」

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 276-277P

生活の様式

客観的な文化と主観的な文化の齟齬

POINT

客観的な文化と主観的な文化・文化とは、「生活の洗練化と精神化された諸形式」であり、「生活における内的及び外的な労働の成果」である。客観的な文化とは、文化が歴史的に蓄積されたものであり、主観的な文化とは我々を形成する文化である。

たとえば「若者の文化」というものがあるとする。配信を見たり、ゲームをしたり、様々な文化がある。たとえば織田信長が天下統一をはたしたというのは文化のひとつだが、私を文化的に形成するものであるとは限らない。私は「TwitterやブログというSNSを通した文化」に強く影響を受けているといえる。あるいはアニメや漫画の文化に影響を受けている。客観的な文化を主観的に吸収したり、あるいは独自に文化を形作ったりするにせよ、自分との関わりをもつ文化が主観的な文化である。たとえば一時期「ギャル語」などが流行っていたが、ジンメルに言わせればこれは「文化の後退」というのだろうか。文化の善し悪しや進退を決める基準がとても難しい。

たとえば話し言葉は歴史を通じて洗練され、素晴らしい比喩表現や慣用句が生み出されてきたと言える。しかし個人が日常会話で使うレベルはそれに応じて進んでいるとは限らない。客観的な文化としては進歩しているのに、主観的な文化としては相対的に後退しているというわけだ。わかるような、わからないような気がする。確かに昔と比べて科学技術は進歩しているし、芸術もより表現が多様になってきていることは理解できる。それに比べて私はそうした科学技術を理解できる頭ももっていないし、優れた芸術を製作できるわけでもないし、優れた詩人のように言葉を巧みにつかえるわけでもない。パソコンが優れた技術で作られていることは推測できるが、どういう技術で作られているかは関心を持っていない。ただ貨幣でそうした客観的な文化を無機質に消費するだけである。

たしかにアニメや小説と接するときの私の態度、つまり主観的な文化の吸収は愛着もなく、疎遠で流行的な態度だったのかもしれない。正直な話誰が作っているかよく知らないし(知りたくもないし)、消費して暇つぶしができればいいという態度も一方ではある。しかし友人が作ったアニメや小説ならそうした態度をとらないのだとおもう。貨幣(あるいはテレビなど無機質なつながりを通して)を通してアニメを見るからこそ、愛着もなく疎遠で流行的な態度をとってしまうのかもしれない。そうした態度の結果、「個人的な文化」は進歩しない。優れた文章を読んでも心に残らず、それが個人の人格へ浸透していかない。しかし貨幣があるからこそ、製作者はより製作が可能になるという側面もある(漫画家として食べていけるのは貨幣があるから)。

「たとえば現代文化を一〇〇年前の時代と比較すれば、……それでもわれわれの生活を実際的にみたしとり囲んでいる事物、器具や交通手段、科学や技術や芸術の成果は、けっして同じ割合で進歩してはおらず、むしろ往々にして後退しさえしている。これは個々の証拠をほとんど必要とはしない関係である。それゆえ若干の証拠のみをあげるにとどめる。言語上の表現可能性はドイツにおいてもフランスに置いても、この一〇〇年以来いちじるしく豊かになり繊細となった。たんにゲーテの言葉がわれわれに送られているのみでなく、さらになお多数の優雅さと微妙さと個性化された表現が加わっている。にもかかわらず諸個人の言葉と文化に着目すれば、それらは全体としてますます不正確になり下品になり、さらに陳腐になっている。」

『貨幣の哲学』502-503P

貨幣による文化の蓄積と分業

「第六章『生活と様式』は、貨幣経済の発展にともなう現代の知的機能の優位が経済の発展とともに生活に『精密性と厳格性と正確性』と『数的な計算可能性の理想』をもたらし、未曾有の文化の繁栄を出現させ、われわれの生活を向上させた。しかしこの客観的な文化の繁栄にもかかわらず、それをわれわれ個人が主体的に吸収した主観的な文化は、それに比例しては向上せず、ここに『主観的な文化』と『客観的な文化』とが分離し、校舎が前者に対して優越する。」

『ゲオルク・ジンメル』、居安正、96P

POINT

貨幣と分業・貨幣は生産の分業を可能にした。物々交換の状態でも分業はわずかながらあったが、より大規模な分業を可能にしたのは「貨幣」があったからである。たとえばある機械の部品の、そのまた部品、それを作る装置を作る人、またそれを使う人、それを監督する人、それを売る人といったよなものが分業である。分業では労働者に「一面的な業績」だけをもとめるし、その人がどういう人格かについてもあまりタッチしない。昔の伝統的なギルドでは1から10までほとんど職人がひとりで作っていたし、また売っていた。アダム・スミスの「国富論」では、一人で留め針を作ると1日に10本しか生産できなかったが、工程を分けて10人に分けて生産することによって1日に48000本も生産できることになったらしい。生産効率はおよそ240倍である。このような分業を物々交換状態でしようとすると、それぞれの労働者にそれぞれが欲するものをいちいち聞いて、用意しないといけない。この労働者は今日は「ミルク」を希望しているから「ミルク」を労働の代わりに差し出す、この労働者は「米」を希望しているから・・・と「欲望の二重の一致」を毎回行わないといけない。しかし「貨幣」があれば「貨幣」を労働者に支払うだけで済む。こういうわけで「貨幣」は「分業」をより可能にするわけである。分業が人々との結びつきをより可能にするとはどういうことか。たとえばこの労働者を雇うためには「ミルク」が必要だが、「ミルク」を手に入れる手段がない、といったことがあるかもしれない。こうなるとこの労働者を雇えず、この労働者と関係を結ぶことができない。しかし「貨幣」があれば雇えるといった場合はより人間関係、この場合は雇用関係(あるいは分業関係・形式)を結びやすくなる。今まで関わってこなかった他の村の人間とも貨幣を通して関係を結びやすくなる。これはたしかに貨幣がもたらしたポジティブな面だともいえる。我々は見知らぬ人と物の購入を通して簡単につながるようになっている。つまり貨幣を通して販売者と購入者の関係を容易に、かつ自由に結べるようになっているというわけだ。この人は気に入らないから売らない、といったようなケースが貨幣以前には多く存在していただろうが、現在は貨幣があれば人格に関係なく購入できるようになる(スーパーで客の人格をいちいち気にする店員はいないだろう)。

・貨幣は分業を可能にした

・分業は「客観的な文化」の蓄積および進歩を可能にした 例:科学技術など

・分業は「生産」においては「労働者の労働手段からの分離」や「人格の一面化あるいは断片化」をもたらし、「消費」においては愛着をもつことなく、疎遠なまま、流行的に、主体として消化することなく消費することをもたらした。

・分業は「消費や生産」から「人格的なもの」からの解放をもたらした(=自由)。それによって自我が芽生え、個人化が促進される。

こうした近代生活の錯綜した共生関係にとくに影響を与えたのは、私たちの時代の分業にほかならない。物々交換状態では当然ながら、分業はわずかな芽生えこそあったものの、それ以上には発展しえなかった。そもそも、あらゆる異質な物や質をはかる共通の価値尺度が存在しないかぎり、個々の生産物の価値を他の物と比較できるはずがあろうか。どんな種類の差異でも埋め合わせすることができ、どんな生産物を提供しても受け取ることができ、また逆にどんな生産物にも換えることができるような交換が円滑かつ容易に行われるはずがあろうか。

貨幣はこうして生産の分業を可能にし、それによって人々を有無を言わさずひとつに結び合わせる。なぜなら、いまやすべての人が他の人のために働き、すべての人々の労働によってはじめる包括的な経済上の一体性が作り上げられ、それがまた個人の業績の一面性を補完するようになるからだ。これほど多くの人間同士の結びつきを創出したのは、ほかならぬ貨幣であり、その規模は、結社好きのロマン主義者がほめそやす封建同盟や任意盟約の時代などとは比較にならないほど大きい。

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 268-269P

貨幣における量と質

とくに賃金労働という形が一般的な資本主義社会においては、自分が質的に価値のあると思える仕事も、自分が質的に価値のないと思える仕事も量的には同じ「時給1000円」である場合もある。こんなに価値があることをやっているのに、貨幣という測定器をもってすると単なる数量的な違いしか無いものになる。そうした情況に人はある意味では萎えるのであり、やる気を失ってしまう。貨幣には換算できないような価値がある、貨幣には表現できないような価値があるということに目を向けなくなってしまう。それだけ貨幣のインパクトは強いのである。

「対象の質にかかわる側面は、貨幣経済によって、その心理的なインパクトを失う。たえまなく値踏みが必要とされることによって、貨幣に換算した価値がついには唯一の有効な価値と思われてくる。事物にそなわった特殊な、経済的には表現不可能な意味に、人々は目を向けることなく、そのかたわらをいよいよ足ばやに通りすぎていく。

そしてここで見落とされた意味は、あたかも復讐をとげるように、私たちのうちに、あのどんよりとした、すぐれて現代的な感覚を引き起こす。すなわち、人生の中核と意味がつぎつぎと手の中からすべりおち、決定的な満足感がますます希薄になり、すべての努力と営みが結局は無駄なのだと思わせるあの感覚を。

私達の時代がすでにそのような精神状態に完全に陥っている、とまで主張する気はない。しかし、もしその状態に近づきつつあるとすれば、それはまちがいなく、質的な価値がたんに量的な関心、すなわちたんなる多い少ないへの関心によって次々に押しつぶされてきたことと関係がある。──なぜといって、私たちの欲求を最終的に満足させてくれるのは、結局の所質的な価値だけだからだ。」

「ジンメル・コレクション」、鈴木直 訳 275-276P

貨幣における無軌道、無弁別

たとえば女性や男性を恋人から奪い去る、あるいは大事な時計や土地を奪い去るといったとき、そこには「起源を暗示する物」があります。元カレあるいは元カノの影がちらついたり、あるいは時計の所有者や土地の所有者の影がちらついたりします。だからこそ倫理的に抑制されるケースがあるのです。しかし貨幣の場合は必ずしもそうではありません。貨幣を奪っても、この貨幣にその面影はほとんどありません。簡単に他のものに換えられます。

ジンメルの言葉でいえば、「貨幣にはその起源を暗示するものが何も発見されない」そうです。それゆえに人間を愚かな行動に導きやすいそうです。「金のためならなんだってする」というようなフレーズはよくききますよね。

一生懸命耕してつくった「米」にはその製作者の質を見出すことができます。しかしそれを「貨幣」にしたとたん、そうした質が単なる量に変換されるわけです。一生懸命作ったお米も、宝くじで当てたお金と同様の価値であり、その量の違いへと変化するわけです。だとしたら一生懸命お金をつくるよりも、いかがわしいことをして作っても最終的には同じではないか、結果としては同じではないか、という発想になるのかもしれません。

ジンメルは貨幣のポジティブ面とネガティブ面を両方検討しています。つまり貨幣には両義性があるということです。自由が結合と分離の間にあるように、貨幣もまた結合と分離の間にあるというわけです。

「こうして、他の面では人格的に誠実な人物たちが、きわめてあやしげな『会社創設』に手を出していった。純粋に金の問題となると、他の場面で道徳的にいかがわしいことをするときよりも、さらに破廉恥であやしげな行動をする人が多い。というのも最終的に獲得された結果である貨幣には、その起源を暗示するものが何も発見されないからだ。これに比べるとほかの所有物や状態はより個人的で、質感にあふれているため、実質的に、あるいは心理的に、その来歴を自らのうちに宿している。貨幣の場合よりそれが多く観察される。しかしいったん行為が貨幣の大海原に流入してしまうと、もはやそれだけを区別して取り出すことは不可能になり、大洋から流れでたものは、もう流れ込んだものの性格をまったく留めていない。」

『ジンメルコレクション』288P

参考文献・おすすめ文献

ゲオルク・ジンメル『貨幣の哲学』

貨幣の哲学(新訳版)

ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』

社会学の根本問題―個人と社会 (岩波文庫 青 644-2)

ジンメルコレクション

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ゲオルク・ジンメル―現代分化社会における個人と社会 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

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