【基礎社会学第二十一回】タルコット・パーソンズの「分析的リアリズム」とはなにか

Contents

はじめに

・パーソンズの内容は難しく、難しいものを簡単に説明するという作業はもっと難しい。「おまえがそう捉えただけだろう」となりかねないので、逐一専門家の文章を引用していくことで私の理解の浅さを継ぎ接ぎかもしれないが解消することにします。

・概要以降の文章は概要や動画を作るためのメモのようなものです。

・その他の前提:私が記事を執筆する理由について

概要

  1. 分析的リアリズム:分析的・抽象的な概念を観察者が主観的に構成し、枠組み(概念から構成された一般理論)を通してのみ実在(リアリティ)の一面を把握することができると考える立場。この立場では概念は実在そのものではないが、実在の一部分に対応していると考えられており、その意味で分析的抽象性(概念)が実在性へと結合する。
  2. 分析的概念:現象の具体的属性あるいは性質を抽象化した概念。分析的要素を組み合わせて分析的概念が構成される。
  3. 単位行為:行為理論において基礎的単位となるもの。分析的概念。概念図式。行為者、目的、状況(手段+条件)、規範という4つの「単位」に分解して現象を行為者の観点から具体的に分析する場合と、目的、手段、条件、規範という4つの「要素」に区分して現象を観察者の観点から抽象的、一般的に分析する場合にわかれる。目的や手段といった「分析的要素」が組み合わされることによって「分析的概念」が構成され、さらに「分析的概念」が組み合わされることによって「行為体系(システム)」や「社会体系」、「文化体系」などが構成される。この全体的な枠組みを「行為の準拠枠」という。
  4. 今までの理論は分析単位に留まっており、要素分析からなる一般理論という視座に欠けていた。特定の歴史的個体にのみ適用できる特定の理論の構築ではなく、不特定多数の具体的分析に用いることができるような分析的要素からなる分析的概念を構成することが社会学の役割だとパーソンズは主張する。たとえるなら物理化学における質点であり、質点は質量や速度から構成される。そして質点はあらゆる物体に適用できるのであり、特定の物体のみに適用するものではない。
  5. パーソンズによれば社会学の定義は「共通価値による統合という特性によって理解することのできる限りにおける、社会的行為体系に関する分析的理論の展開を目指す科学(『社会的行為の構造』)」である。パーソンズまず社会の秩序はどうして成り立つのかと考え、その解決方法として「共通価値への志向」を考えた。この共通価値は個人と個人の相互作用によってできる創発特性であり、個人の行為に還元されない特性である。しかし、個人の行為に還元されない特性を調べるためにはまず個人の行為を定義する必要があり、また個人の行為から分析的に出発する必要がある(行為理論)。そうしてできた単位が単位行為である。単位行為は行為体系を構成し、行為体系は社会体系を構成する。社会体系は共通価値という創発特性を生みだし、創発特性は経済や政治の安定性へとつながる。それらは社会の秩序へとつながっていく。

タルコット・パーソンズとは

タルコット・パーソンズ(1902-1979)はアメリカの社会学者で、行為の一般理論(行為の準拠枠)、構造機能主義、AGIL図式などを提唱したといわれている。秩序問題をとりあげた社会学者の代表格。デュルケーム、ジンメル、ウェーバーなどの知識を受け継いで独自の理論を作り上げたとされている。主な著書は『社会的行為の構造』(1937)や『社会体系論』(1949)。

動画説明

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分析的リアリズムとはなにか、基礎用語解説

分析的リアリズムとは、意味

POINT

分析的リアリズム(Analytical Realism)「分析的抽象性」と「概念の実在性」を結びつけた立場。分析的実在主義ともいう。単に現実(リアリティ)を記述してもリアリティを把握したことにはならず、分析的な枠組み(行為の準拠枠)を通してのみ、現実のリアリティを把握できるという態度。観察された経験的事実を寄せ集めても現象の理解はできず、観察者の特定の観点(関心)から特定の現象の特定のケースの特定の値を一面的・抽象的に分解して取り出し、それらを再構成することで理解できるという考え。たとえば経済学の場合は人間の行動の経済的な側面のみに関心を集中して現象を理解しようとする。パーソンズの場合は習慣的な行動や感情的な行動といった目的を伴わない行動を除外し、条件と規範に規定されて目的と手段を意識的に選択するという一面的な行為のみを扱う。こうした行為は具体的な現実(リアリティ)そのものではないが、単に事実を記述するよりもリアリティを把握できるという。

パーソンズが分析的リアリズムを誰の影響で作り上げたかについては諸説あるそうです。カミックによればフランク・ナイトによる影響が強いそうです。他にもウェーバーの理念型、ヘンダーソンの事実──概念図式、ホワイトヘッドの「科学と近代世界」を経由したという解釈もあります。多くの学者の考えが収斂された態度だと言えそうです。

分析的抽象性と概念の実在性は次の項目で扱います。

「パーソンズ理論を特徴づけているもうひとつの側面は、その抽象性にある。当時のアメリカ社会学を支配していたのは、シカゴ学派を中心とした経験主義的な方法であった。経験主義はモノグラフィを重視し、観察と調査だけを科学的であると考え、抽象的な理論一般化を軽視した。それに対してパーソンズは、科学は出来事をあるがままに記述するのではなく、それを要素に分解して理論的な内容を再構成するべきだと考えた。彼は自らのこの立場を分析的リアリズムと呼び、あらゆる事象に通底する分析的要素によってすべての人間行為を説明する行為の一般理論をめざした。パーソンズにあっては、資本主義が直面した秩序問題と、社会学が科学であるかぎり要求される普遍的な理論的概念枠組みとが段階的に精緻化され、それが構造──機能分析へと収斂していったのである。」

「クロニクル社会学」,38P

「パーソンズ行為理論の認識論的前提である「分析的リアリズム」(Parsons1937:vol.2,730=1989:第五分冊138)は、科学的な訓練を受けた観察者であることを、当該の行為の状況の事実を知るための必要条件としている。だから、パーソンズによれば、行為者自身による行為の状況の記述は、科学的な観察者からすれば不正確なものでしかない。たしかに社会秩序はリアルなものとして存在しているが、それは分析的にしかあきらかにならないというわけである。パーソンズの行為理論は、まさにこのリアルな社会秩序が可能になるための分析的な前提条件を整理することであった(有名な「共有価値」説はここから導出されている)。」

西山真司「 政治学におけるエスノメソドロジーの寄与」80P

「カミックの要約に従って、ナイトの考え方を手短に引用しておく。経済学は真の、また精密な科学である。それは不変的な法則に到達することができる。その点では、数学や力学と変わりがない。すべての一般的真実は、結局、経験からの帰納である。しかし、帰納だけでは膨大な事実の集積ができるだけで、それでは意味がない。理論と離れて事実が存在するということはありえない。観察は科学者の関心と相関するが、科学者の考えは、彼の目的や概念や感情や形而上学的な観念によって浸透されている。その科学者のつくりあげる理論というものは、抽象的で、一般的に重要と考えられる現象のある側面を選択したものである。その理論は、選択した側面にだけ関わって、他の側面を排除している。経済学は人間行動の経済的な側面に関心を集中する。そして、理論的な原理と細かい事実に関する研究の間の相互作用(interplay)から、一つの分析的な(analytical)構造が構成される。それは、選択的な意味でのリアリティの記述である。カミックの整理によると、ナイトの見解は、結局、演繹と帰納、両方の相互作用(interplay)から理論がつくられ、またその理論は抽象の産物である、というものである(Camic1989:52)。このような考え方は、ナイトだけではなく、A.ヤングその他の人々の著作にもあらわれていた。パーソンズはこのような考え方を、彼自身の方法論的立場となし、「分析的リアリズム」31)と名付けた。この「分析的リアリズム」という名称はおそらくパーソンズのオリジナルなものと思われる。しかし、ナイトその他の著作の中でも、”analytical””reality”という用語は、断片的ではあるが使用されており、パーソンズはそれらの語をヒントにこの名称を発案したのである。」

溝部明男「パーソンズ研究における二つのスタイル : J.C.アレグザーンダとC.カミック」,66-67P

「これに対して、後者の分析的要素概念は、われわれの実際観察するものがもっぱら特定ケースにおける特定の値(あたい)だけであるような一般的属性を指示しているがゆえに、抽象的である。たとえば、ある物体がある質量(一般的属性)をもつことは観察できるが、質量そのものは観察できない。ある行為がある程度の合理性(一般的属性)をもつことは観察できるが、合理性そのものは観察できない。この場合、質量、合理性は、分析的要素概念なのである。パーソンズにおいては、このような分析的要素概念が前面に出ているのであり、概念はフィクションではなく、客観的なリアリティの一側面を把握できるとされる。具体的な現象は、この分析的要素のとる値の組合せとして、あるいは、この要素の組合せとして記述される。こういった意味で、パーソンズのスタンスは分析的リアリズムなのである(Ibid.:730,747-748=5-138,162-164)。」

大野道邦「ソローキンとパーソンズ文化システム概念をめぐって」

「パーソンズは価値を科学の範疇で捉えるために分析的リアリズムの考え方を導入する。分析的リアリズムでは,科学の区分の根拠は「一つの科学が取り扱う`実在’の客観的性質の中にではなくて,科学者の関心の`主観的な’方向のうちにある」(Parsons[1937→1949:582=1974VI:170])。すなわち実在の区分は科学者という主体の概念構成によって形成されたものであるとする。だから,分析的リアリズムでは,観察者の構成する概念によって分析がなされている。この分析的リアリズムによって,要素分析が可能となり,適切な体系が考察可能となる。分析的リアリズムは,丸山によれば21である(丸山[1991:136])1°)。このように分析的リアリズムによれば,具体的な実在は様々の理論によって把…握可能である。従って現象は社会現象としても自然現象としても把握可能である(Par-sons[19371949:730f=1989V:138f])」、62P

「こうしてたどりついた分析的実在主義の立場は、具体的に次のように表現できるだろう。「理論や概念は本質的に抽象的であり、いかに総合しようとも決して具体的現実そのものの反映とはなりえない。したがって、そのままの形では経験的実在のなかにその対応物を見いだすことはできないが、それは決して概念が現実の恣意的な歪曲であったり、単なる虚構であることを意味するものではない。科学的理論や概念は実在の諸側面を適切に把握しうるものであり、具体的な事象から分析的に分離された諸要素との部分的対応という限定された形ではあるが、実在との対応を有するものである」。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」126P

「パーソンズの方法論的立場は「分析的実在主義(AnalyticalRealism)」と呼ばれる。自伝によれば、彼はこの立場にM.ウェーバーの「理念型」の考察を含む学問論、L.J.ヘンダーソンの「事実と概念図式についての陳述」、そしてA.N.ホワイトヘッドの「具体性置き違えの誤謬」を含む『科学と近代世界』を経由して到達したという。)「分析的実在主義」とは、基本的に理論を構成する諸概念の「分析的抽象性」と、概念に対応する具体的事象の「実在性」という二つの異なった要請を結びあわせたものである。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」124P

分析的抽象性とは、意味

POINT

分析的抽象性()・科学的認識及び概念は抽象的であるということ。この立場を「抽象主義」ともいう。パーソンズの分析的リアリズムはこの抽象主義の要請を含んでいる(赤坂真人)。

たとえば経験主義は「具体性置き違えの誤謬(ホワイトヘッドの言葉)」を犯しているという。つまり、「概念」を「具体的なもの」として実体化してしまっているというミスである。「概念」はあくまでも「抽象的なもの」であるという立場をパーソンズはとっている。抽象化することは正しいが、それが具体的なものと混同されてはいけない。

例:古典力学では「物質の配置は空間と時間において単に位置を占めているもの」として概念化されている。しかしこれはあくまでも抽象的な概念であり、実体化させて「現実にもすべての物質は空間と時間において単に位置を占めているだけであり、世界には精神というものはなく、物質のみから成る」という考えに至るのは間違え。現実には位置を占めているだけではなく、位置同士の複雑で多様な相互関係性がある。

・モリスバーマンを通して「概念」を考える

別の言い方をすれば、「地図は土地ではない(アルフレッド・コージプスキーの言葉)」でもあると私は考える。たとえば車道で光をみれば我々は即座に「車」だと捉える。しかしこの捉えているのは「概念」である。自分の頭の中の枠組みを通して光を見ることで、それが車だと認識する。しかし実際には「蛍の群れ」かもしれない。2つの光は車であるという概念はあくまでも地図にすぎず、土地そのものではない。現実は概念を通して抽象化され、認識されるが、その概念は現実そのものではない。犬と狼が区別されるのは狼という概念が人間によって構成されたからである。

医者がレントゲンを見て、即座に異変があると気づく。画家が絵を見て、即座にデッサンが崩れていると気づく。これらは一定の枠組み(図柄、図式)を通して見たからこそ、即座に認識することができるといえる。バーフィールドでいうと形付けであり、「アルファ思考」である。感覚をイメージ(図、概念)に置き換える行為である。このイメージは抽象的なものであり、実体そのものではない。しかし、アルファ思考といえるほどまでに形付けされていると、人間はイメージを実体そのものだと考える傾向があるという。

我々は「現実の出来事(リアリティ)そのもの」を経験するのではなく、アルファ思考(概念化)によって経験している。つまり、体験(経験)は一般的概念に関係づけられてはじめて経験となるという考えがパーソンズやウェーバーにはある。

・パーソンズとウェーバーの概念観の違い
  1. ウェーバーは体験(経験)と認識を区別している
  2. ウェーバーは体験は一般的概念に関係づけられてはじめて経験となると考えた。経験はそれ自体としては「生のもの」ではなく、概念図式によって選択的に知覚され、意味を持ったまとまりとして構成される。
  3. ウェーバーは「認識」が一般的な概念図式によって決定されているという事実を強調できなかった。→ウェーバーは一般理論をつくろうとはせず、あくまでも個別具体的な現象をその場限りの理論をもって理解し、因果関係を特定しようとした。一般概念よりも歴史的概念などの把握が中心であった。
  4. パーソンズはヘンダーソンの影響を受け、「科学的認識は主観において合理的に構成された、一般概念による経験的データの秩序付けによって成立する」と考えた。歴史的概念は「具体性置き違えの誤謬」を犯しやすく、まずは一般概念の構築、およびその関係付けによる一般理論の構成を先にするべきであり、そこからその枠組を通して現象を説明していくべきだとした(公理論による演繹)。
  5. POINT:カントのようなフレームは先天的な形式として備わっているものであるが、パーソンズにおいては後天的に、観察者の主観において枠組みが構成されるものだとして捉えられている。中期以降で言えば「社会化(内面化)」によって規範を学習していくような例でわかる。つまり、枠組み(概念図式、概念)は先天的なものではなく、後天的な「学習」によるものである。

「以上の三つの経験主義批判とウェーバーの理念型批判に、われわれは次のような要請を看取することができる。すなわち第一に、実証主義的経験主義における概念の実体化に対する批判から、「科学的認識および概念は抽象的である」との「抽象主義」の要請を……」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」125P

「恐らくヘンダーソンのこの陳述がパーソンズに与えたもっとも重要な影響は、「理論の分析的抽象性」をあらためて自覚させたことであろう。)パーソンズによれば、ウェーバーは体験(Erleben)と認識(Erkennen)とを区別し、体験は一般的諸概念に関係づけられてはじめて経験となるものであること、したがって経験はそれ自体、決して「生のもの」ではありえず、概念図式によって選択的に知覚され、ひとつの意味をもったまとまりとして構成されたものであることを正しく指摘した。にもかかわらず彼は、認識の対象となる経験の価値関心による選択という観念にとらわれ、結果として、経験それ自体が一般的な概念図式によって決定されているという事実を十分に強調しえなかった。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」128P

「ここで我々は問題の核心に行き当たる。すなわち、自分が日常として生きている世界では、人はみな鳥類学者なのだ。我々の経験とは、現実の出来事そのものの経験ではなく、社会全体によって含意された一連のアルファ志向の経験なのである。タルコット・パーソンズの用語で、『注解(glosses)』の経験と言っても同じだ。要するに、世界を図柄として捉えることは、学習の初期段階から同じなのだが、はじめは動的で具体的だったのが次第に自動的・概念的に──すなわちアルファ思考的に──なっていくということである。ここで、ピーターエイチンスタインが『科学の諸概念』で挙げている例を紹介しよう。……この話のポイントはこうだ。ふたつの光が平行に、同じスピードで、夜の道を進んでいれば、我々の文化では、それは自動的に『車』を意味する。光そのものをまともにかぶって、その経験を形づけるのではなく、『車』の概念が直接に形をなすのである。そうした出来合いの枠を破って、経験の豊かな可能性を開くことができるのが、幼児であり、、詩人であり、画家である。X線の場合も、それが『正しく読める』学習を済ませていない者だけが、さまざまなイメージを揺らめかすことができる。どんな文化も、どんな下位文化(鳥類学、X線学等)も、アルファ思考のネットワークができあがったうえに、はじめて安定して存在するのである。アルファ思考が存在せず、すべてをそのつどはじめから形づけなくてはならないとしたら、科学も、現実というもののモデルも、成立しなくなってしまうのだ。このネットワークはしかし、あくまでもモデルである。我々はそれを忘れがちだ。『地図は土地ではない』とは、アルフレッド・コージブスキーが『科学と正気』(一九三一)のなかで述べた有名な言葉だが、我々は自分たちが描いた地図を見て、それが現実の世界だと思ってしまうのである。あのとき『車』と見えたものが、本当は蛍だったとしたら……?地図に二しかすぎないものを土地だと思って生きる──そこに参加からの離脱がある。アルファ思考は必然的に参加を排除してしまうのだ。」

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』154P

概念の実在性とは、意味

POINT

概念実在論()概念は実在そのものではないが、科学的概念は実在と対応している。概念は単なる恣意的な虚構ではない。パーソンズは具体的な事象は分析的に分離された諸要素(概念)と部分的に対応していると考えている。パーソンズは「ウェーバーの概念の虚構説に強く反対し、科学的概念の実在との対応性、すなわち概念実在論」の立場を主張した(赤坂真人)。

・概念は実在のある側面を適切に理解するものであり、具体的な事象から分析的に分離された諸要素と部分的に対応している。つまり、実在と限定的に対応している。この点をもって、概念には実在性があるといえる。パーソンズの言葉で言えば、思惟による「論理的秩序(概念)」の前に「事実的秩序(実在)」が存在する。概念は実在の一部の反映ではあるが、実在は概念に還元されない。

・ウェーバーは概念非実在論(観念論、概念虚構説)。たとえば「国家」という概念は主観的に人々が国家の存在を信じない限り、存在しないものとされている。人間の絶えざる意味付けと共同主観化によってはじめて社会的客体は存在する(この考えでは客観的な意味内容は主観によって絶えず創られ、変化する)。「水」という物体は主観的に人々が信じなくても存在する(認識できるかは別として)が、「国家」はそうではないということ。極論すれば、国家はラング(言葉による規約)にすぎない。水を人々が概念化することによって水の物理的性質が変わるわけではない。しかし国家は概念化することによって絶えず変わる。

・パーソンズの場合は、行為という概念には適切な意味内容、たとえば目的、手段、条件、規範からなるという適切な規定が与えられる。行為について自由に解釈して、自由に言語によって分節化してよい、という想定はされていない(水の物理的性質のように、社会学における概念も「一義的」な答えがあるとみなされる)。概念に先立って実在があるのであり、概念化と同時に実在が創られているのではない(虫眼鏡が対象を変化させるのではない)。人々が国家という概念を言語や行為や主観によって作ると同時に国家という社会的事実が実在するわけではなく、人々が概念化する前に国家という社会的事実は存在する。

「これによってウェーバーは、経験主義において見失われた、認識における抽象的一般概念の重要性を回復させることに大きく貢献した。だがパーソンズによれば、ウェーバーは次の一点で重大な誤りを犯した。すなわち彼は「概念を実在の反映とは考えずにむしろく有用な虚構とみなす」立場を取ったのである。これに対しパーソンズは、「科学の一般概念のいくつかのものは決して虚構ではなく、客観的な外的世界の諸側面を適切に<把握する〉ことができる」として、ウェーバーの概念の虚構説に強く反対し、科学的概念の実在との対応性を、すなわち「概念実在論(Begriffs realisms)」の立場を明示した。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」125P

「デュルケームと比較するとウェーバーには『実在としての社会』という視点が全面に見えてこない。……すなわち彼にとっては、人間の絶えざる意味づけとその共同主観化こそが、社会的客体を存在せしめる第一義的な条件なのである。P.L.バーガー(PeterL.Berger)はそれを社会現象の「主観的基礎」と呼んだが、ここに社会学において観念論が生き残る余地がある。すなわち社会学の認識対象である「社会的事実」は、先天的に備っている身体的な感覚および知覚能力、すなわち丸山主三郎の言葉でいえば〈身分け構造〉によって把握されるものではなく、言語による主観的規定〈言分け〉によって現前する存在だからである。)もちろん自然科学の対象としての自然的客体の場合も、言語的な分節化によってわれわれの主観に現前するのではあるが、それは言語的分節化以前に実在すると前提される客体に、概念が適切な規定を与えた結果、われわれの意識にとらえられるようになったという意味での現前にすぎない。それに対し社会的客体の様相は、われわれの言語的規定および意味づけによって大きく変化する。極端な観念論の立場に立てば、社会はラング〈諸民族に特有の言語で規定された人間関係についての規約〉にすぎないものとして、単なるコトバに還元する見解さえ引き出せよう。しかし実在論の立場をとる限り、この言語的分節化の恣意性と、それに伴う客体の様相の変化という問題は回避される。なぜならパーソンズの言葉で言えば、われわれの主観において構成した論理的秩序(logical order)以前に、実在そのものこの事実的秩序(realorder)が厳然と存在し(=実在の認識に対する先行)、前者は後者を反映するという意味で無限の多様性を示すことはありえないと考えられるからである。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」130P

概念とは、意味

概念()・パーソンズにとって概念とは、「先立って存在している実在に適切な名称と意味内容の規定を与えたもの(命名目録)」である(赤坂真人)。したがって、概念化の前に実在があるのであり、実在が概念化によって創造されるというわけではない。概念は実在を把握するための道具にすぎない。

POINT1:ある実在にたいしては一義的な意味をもつにすぎず、多義的・創造的に解釈される余地はないとみなされる。要するに、「解釈」されるのではなく「解読」されるものとしてみなされている。例えるなら、国語のテストでは決まった解読があり、創造性的な解釈の余地はない。こうした創造的な「解釈」の欠落は意味学派によって批判されている。

POINT2:分析的リアリズムは所与の社会的事実の「解読」に限定されている。その際のコードは「行為の準拠枠(概念からなる理論的枠組み)」である。そしてこのコードが自由に創造されることや、コードを使ってテキストを自由に解釈できるとは考えられていない。※ただしパーソンズが自分の理論(コード)が唯一絶対のものだ、と考えていたかどうかは議論がある(複数の理論を認めていると解釈もできる)。たとえばカミックは「過度の一般化」としてパーソンズを批判している。たとえば「単位行為図式」では目的を明確に持たないような習慣的行為や感情的行為が排除されているという。

「以上のように実在論は、一般に概念を、それに先立って存在している実在に適切な名称と意味内容の規定を与える、単なる「命名目録」と考える伝統的な記号観に立つ。しかしながらこのような立場は、必然的に「言語的分節化による指向対象の創造」という視点、すなわち「社会的事実に関する我々の主観的な概念化が、同時に社会的事実を創造する(=認識と実在の同時性)」という視点を背後に押しやってしまう。パーソンズの概念図式論は、認識対象の性質と範囲が概念図式によって規定されることを正しく指摘しているが、それは、あくまでも「観察者が概念図式を構成する以前に存在している」社会的客体を把握するための図式であって、存在論的な意味で「認識の対象を積極的に創造する」ものではない。「概念の意味を変更する」ことや「視点をずらす」ことで「今まで見えなかったものが見えてくる」という場合、それは「隠れていたものに光をあてる」という意味ではなく、「見慣れたものが、新しい意味を担って、まったく異なったものとして見えるようになった」ということであろう。すなわち視点そのものが客体を創造するのである。だが、自然科学的実在論をとるパーソンズの分析的実在主義においては、所与の社会的事実の解読(コードに照してテクストの一義的な意味を探ること)に限定され、解釈(コードを自由に創造し、テクストをふくらませながら創造的に読むこと)はなしえない。したがって、社会学のひとつの課題である「自明的意味世界の相対化」、すなわち社会的事象を意味付与的に解釈することで既存の解釈を相対化し、その自明性を問い返すことによって社会的意味世界の再活性化をはかる知識社会学的視点が抜け落ちる。いわゆる意味学派(現象学的社会学・象徴的相互論・エスノメソドロジー等)によるパーソンズ批判は、なによりもこの文脈において読まれねばならない。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」130P

長い引用で申し訳ありません。しかしこれは極めて重要な文章だと思います。何度も見返す予定です。

理論とは、意味

POINT

理論()・パーソンズによれば、経験との対応をもった一般概念が論理的に相互に関係づけられたもの

たとえばパーソンズにおける「一般概念」は目的、手段、条件、規範である。これは自然科学において、質量や速度といった概念と類似している。この4要素からなる図式を単位行為図式というが、これは「概念図式」である。

たとえば「質量」は太陽にも人間にもカエルにも石ころにも適用することができる「一般性」をもっている「一般概念」であり、「抽象的属性」である。

同じように、「目的」は佐藤さんの買い物にも、田中さんの受験勉強にも、鈴木さんの選挙活動にも適用することができる「一般性」をもっている。

こうした「一般概念(分析的要素)」が論理的に相互に関係づけられたものが「分析的概念」であり、「分析的概念」から構成されたものが「一般理論」である。具体的には「主意主義的行為理論」などを意味する。「相互に関係づけられた」とは、たとえば規範が目的や手段を規定するといったようなこと。あるいは単位行為同士の相互作用などを通して行為体系を構成したりすること。

「これに対しパーソンズは、理論とは「経験との対応をもった〈一般概念〉が論理的に相互に関係づけられたもの」という定義でじゅうぶんであり、科学哲学者のC.G.ヘンペル(Hempel,C.G.)E.ネイグル(ErnestNagel)、そしてG.C.ホマンズらが主張した、「初期条件への適用により〈説明と予測〉の演繹を可能とする普遍的命題の立言集」のみを理論と考える立場を、「不必要に厳密と思える妥当性の基準」としてこれを退けた。)」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」131P

主意主義的行為理論とは、意味

POINT

主意主義的行為理論()・行為を分析の基礎単位として考え、行為を規定する要素を遺伝や環境といった条件だけではなく規範をも考慮し、さらにその規範を科学的・合理的なものだけではなく宗教といったような没合理的なものを含めることにより、行為者を規範へ意志をもって努力する存在として主意主義的に構成された行為理論のこと。

この用語は前回扱ったので省略します。

【基礎社会学第十九回】タルコット・パーソンズの「主意主義的行為理論」とはなにか

構成主義とは、意味

POINT

構成主義()・科学的認識は主観において合理的に構成された、一般概念による経験的データの秩序付けによって成立するという考え。パーソンズは構成主義の立場をとっている(赤坂真人)。

概念は客観的に実在・現象そのものに存在しているのではない。人間に先天的に備わっているようなものでもなく、観察者が自らの主観において合理的に構成するものとして考えられている。

「第二に、個別主義的経験主義における認識論的経験論の批判から、「科学的認識は主観において合理的に構成された、一般概念による経験的データの秩序づけによって成立する」という「構成主義」の要請」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」125P

普遍主義とは、意味

POINT

普遍主義()・科学的認識及び概念は普遍的であるべきという立場。パーソンズは普遍主義の立場をとっている(赤坂真人)。

普遍の対義語は特殊である。一般に普遍とは「多くの事例に共通して見られるさま」を意味し、特殊とは「ある事例に際立って見られるさま」を意味する。
たとえば「目的」は多くの行為に共通して見られるさまである。「質量」が多くの物体に共通して見られるのと同様である。パターン変数によって行為のタイプを特定する場合も同様であり、パターン変数という概念の組み合わせによってどんな行為も分類できるとみなされる(普遍性をもつ)。
たとえば「ナポレオンの目的」は個性的であり、特殊的な概念である。「ナポレオンの目的」を概念化したとしても、それは一般概念ではない。比較による差異の索出は使えるかもしれないが、ある個別的な事例の属性として記述することはできない。社会学の対象は一般概念であり、特殊概念は歴史学などほかの学問の対象となる。たとえば「官僚制」は普遍的であるが、「中国家産官僚制」は特殊的である。ウェーバーの理念型(これも概念)は「官僚制」にも「中国家産官僚制」にも用いられており、普遍的なものだけが対象となっているわけではない。ウェーバーは概念が普遍的になればなるほど社会科学的には価値が小さくなる、とまでいっている。

分析的概念とは、意味

POINT

分析的概念()・現象の具体的属性あるいは性質を抽象化した概念。より正確な定義としては「特定の事例の特定の値いにおいてのみ観察しうる、ある一般概念としての『分析的要素』が論理的に関係づけられたもの」。

POINT:分析的概念は具体的事例をある属性に即して適切に記述するという意味で、実在と対応する。それゆえに、概念実在論といえる。現象の具体的な「実体」を抽象化した概念ではないという点で、理念型概念とは異なる。

例:質量は分析的要素である。質点は分析的概念である。質点(F)は「質量(m)、速度(v)、位置(r)」によって論理的に関係づけられ、構成される。いわゆる運動方程式。パーソンズは行為=質点、質量=目的、速度=状況、位置=規範として比喩的に扱っている。努力はエネルギー。

例:太陽の「質量」という場合、それによって記述されるのは太陽の具体的な質量の値(具体的な属性)である。「質量」と「太陽」の関係は外延的な関係ではない。たとえば「生物」と「人間」の場合は、人間が外延にあたる。しかし太陽は質量の外延ではない。質量は太陽の属性である。人間は生物の属性ではない。目的は行為の属性である。

「それに対して「分析的概念」は類概念ではなく、「現象の具体的属性あるいは性質」を抽象化した概念である。従って分析的概念の特殊的要素は、「ある対象のある属性に関する具体的な値」で構成されるのであり、何らかの実体を値としてとることはない。例えば太陽の「質量」という場合、それによって記述されるのは、太陽の具体的な質量の値であり、太陽そのものが「質量」の外延であるわけではない。すなわち分析的概念は具体的事例を、ある属性に即して適切に記述するという意味で「実在と対応する」のである。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」127P

補論:ラプラスの悪魔

・フランスの数学者ラプラスが考えた仮定。ある瞬間におけるすべての原子と位置と運動量をすべて知ることができる存在を仮定すると、未来を完全に予測することができるという考え。機械論的、決定論的、唯物論的思考。

・この抽象化された概念を実体化させると、世界には精神というものがなく、あるのは物質だけという考えになる。

・しかしこれらは概念にすぎない。現実には観察によって実験の結果が変わってしまう(いわゆる不確定性原理)。要するに、原子の位置や運動量を確実に全て知ることはできず、確率的にしか知ることができない。位置や加速度は独立して存在しているのではなく、相補的に存在している。つまり相互作用が現実にはある。ラプラスにおける抽象化された概念ではそうした相互作用が無視されている。

→これは「理念型」ともつながる。現実には無限に思えるほど大量の相互作用から行為というものが形成されるが、観察者はたとえば「経済的合理性」という一面的な観点をとりだして考える。とりだされた理念型は他の要素を無視している点で完全なフィクションである。しかし現実の分析には有用である。同様に、科学における摩擦のない平面や完全な真空という概念も完全なフィクションではあるが、現実の分析には有用である。しかしそうした概念を「実体化」させてはいけない。大澤真幸さんの例えでは、「似顔絵」のようなもの。似顔絵それ自体は誇張・抽象化されており、本人それ自体ではないが、犯人探しなどには有用になる。

「アインシュタインをも含めた古典物理学の認識論においては、ふたつの考えがその大前提となっている。ひとつは、あらゆる現実は物体と運動によって完全に記述可能である、という考え。ものの位置とその加速度(質量×速度)こそが、現象世界の本質であるというわけだ。もうひとつの考えは、我々の意識は参加しない意識である、ということである。せかいのさまざまな現象は、我々がそこにいてそれを見ようと見まいと何ら変りはなく、我々の精神は不変の現実を少しも動かすことはない、ということである。第一の前提は、厳密な因果論、つまり決定論の基礎をなしている。おそらくこれをもっとも明確に表現したがの、フランスの数学者ピエール・シモン・ド・ラプラスである。ラプラスは一八二八年に、こう述べている──我々の物理学を以てすれば、ある時間における、宇宙のすべての分子の位置と加速度を知ることができさえすれば、過去・未来を問わず他のあらゆる時間におけるそれら分子の位置と加速度を計算することができるであろう、と。そして実験者は実験の一部ではないという第二の前提は、この第一の前提の唯物論的視点を肯定するものであり、さらには、実験が反復可能であることを保証するものである。したがって、もしかりにある科学者が、自分は機械的に斜面を転がされたサイコロに精神を集中しただけでその運動パターンを支配することができる、と宣言し、しかもその主張が正しいことが明らかになれば、物理学の一分野の内容が否定されるだけでなく、物理学全体の理論的土台が崩れ去ることになる。意識が<外=そこ>にある世界の一文となり、科学は錬金術に逆戻りし、予測可能性という大前提が(少なくとも理論的には)崩壊してしまうことになるのである。このような過程を一部現実にしたのが量子力学である。量子力学のもっとも重要な哲学的意味は、独立した観察者などというものは存在しないということだ。このことを分かりやすい形で要約したのが、量子力学の生みの親のひとりウェルナー・ハイゼンベルグが一九二七年に提唱した『不確定性原理』であるい。」

モリスバーマン「デカルトからベイトソンへ」156-157P

補論:一般理論は虫眼鏡である

・観察者は虫眼鏡(認識の枠組み)がなければ現象を説明することができない。虫眼鏡を通さないと実在は把握できない、とみなされている。素人が難解な数式を見ても答えがわからないように、枠組みがなければ複雑な現象を説明できない。ただ数式が見えているだけである。数式を見ることはできるが、素人では「説明」することはできず、「理解」することもできない。素人がレントゲン写真を見ても「コード(理論、概念)」を知らないので患者の異変(テキスト)がわからない。レントゲンをそのまま記述しただけでは意味がない。数式を説明するためには、数字という概念や方程式(数字と数字の関係性)をマスターする必要がある。自然現象を理解するためには「質量」や「速度」という概念と、それらの相互関係をマスターする必要がある。では、社会学では何が必要な一般概念か。

自然科学では人間の目的や規範を把握できる枠組みがない。社会科学では目に見えない人間の目的や規範を把握することが重要となるので、その枠組みを用意しないといけない

いくら現象を観察したところで、その見え方、理解の方法が確立されていなければ科学として成立しない(経験主義、特殊理論への批判)。社会学が他の学問と肩を並べるためには、自然科学のように一般概念を用いた一般理論をつくるべきだ、とパーソンズは考えた。

経験主義批判

・パーソンズの理論は規範と条件の両方を重視した「一般理論(主意主義的行為理論)」を作成しようとした。

経験主義とは、意味

POINT

経験主義(empricism)・一般には、「経験をすべての知識の源泉とする立場」。パーソンズの文脈においては、「ある理論体系のカテゴリーだけでそれが適用される総体に関して科学的に重要な事実はすべて説明できると考える立場」、端的に言えば「実在に本質的な区分があるという考え」を意味する。

「実在に本質的な区分があり、その区分をそのまま記述すれば実在を認識できる」vs「人間の主観側の構成した区分によってのみ、実在を認識することができる」

「科学的な知識は人間に外在する現実の反映そのもの」vs「科学的な知識は人間が実在を主観的に選択し秩序立てて構成することによってのみ得られる」

「経験をすべての知識の源泉とする立場。①認識論としては古代ギリシアからそんざいするが、とくに16,17,18世紀,ベーコン(Bacon,F.),ロック,ヒューム(Hume,D.)に代表されるイギリス経験論が有名である。これは近代科学の成立に積極的に貢献し、また実証主義や唯物論の源泉ともなった。社会学を実証科学として確立するうえでの貢献も大きい。経験<論>と呼ばれることが多い。②特殊に経験<主義>と呼ばれる場合、経験によって確認しえないものすべてを否定しようとする立場に対する批判的呼称となる。それは合理的思考、演繹的思考、弁証法的思考に対立する立場とされる。現在では、個別的な経験を不当に拡大したり、それに執着する立場への蔑称として用いられる。」

142P

「ここで「経験主義」という用語が特殊な意味で使われていることに注意せねばならない。すなわち「経験主義という言葉は、ある理論体系の諸範疇だけで、それが適用される総体に関しておよそ科学的に重要な諸事実はすべて説明しつくせるのだと明示的にか暗黙的にか主張するような理論体系を指示するために用いられる」。(Parsons,T.,前掲書、1937年、邦訳、第一分冊、113頁)。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」、124P

「経験主義とは,現象の性質によって科学の方法を固定化したものである。だから,現象を分割して説明する方法である単位分析のみが分析の方法であり,経験的一般化以上の分析ができない。そして,この方法では,価値は現象の中に実在しないから単位分析では捉えられない。「功利主義的思想」,そして「実証主義[Positivism]的行為理論」と「理念主義的行為理論」が価値を行為の理論に含めることができなかった理由を,パーソンズは,価値という「実在」が具体的現象として存在すると考える「経験主義的認識論」に求めている。この場合の「経験主義」とは日常使用している「経験的」という用語とは異なっている。経験主義とは実在に本質的区分があり,この実在の区分に基づいて主体の側の認識の区分が成立しているという考え方である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」62-63P

「若い頃生物学と哲学(とくに、カントの『純粋理性批判』)を勉強した経験から、かれはひとが諸事象を理解するということは、ある理論的な概念枠組みを通してそれらを『解釈』することだと考えた。こうした考え方は、社会理論では哲学史の用語を借りて新カント主義と呼ばれている。なるほど、事実は一見観察によってわかるように思われるが、それは『わかっている』のではなく、『見えている』だけなのだ。わかるためには、そのことに対してある『意味』が与えられなければならない。この意味をつくりだすのが理論枠組みである。かれは、ハイデルベルグ留学でこの確信をいっそう強くして帰国するのだが、当時のアメリカ社会学の実情は、まさにこの意味では理論不在の状態であった。パーソンズは書いている。『帰国してみると、行動主義(客観主義)が花盛り。主観的な解釈が科学的な有効性をもつと信じるものは、しばしば馬鹿者扱いされる始末であった。また、いわゆる経験主義も隆盛を極めており、それによると、科学的な知識とは、主観の外に厳然として存在する現実の反映そのものであり、主観が(勝手に)あれこれ選択するなどはもってのほかであると考えられていた。』ヘンダーソンやホワイトヘッドの影響の元、パーソンズはこの考え方をいっそう明確に自らの理論構築の基礎におくようになる。具体的なもの(経験的なもの)をいくら並べても、それは事象の理解にはならないし、ましてやそこから理論が生まれるわけでもない。理論は、事象(経験)に意味を与える分析的抽象であって、人間の精神が構築するものだというわけである。」

「タルコット・パーソンズ」、中野秀一郎、31-32P

経験的一般化とは、意味

POINT

経験的一般化(emprical generalization)・一定の経験にもとづいて、さまざまな諸事実を観察し、それあの観察諸事実を整序したうえで、諸事実相互の関係について仮説を設計すること。パーソンズにおいては、単位分析による比較から諸現象に共通する単位を導き出すことであり、理論形成にはいたらない。

・ある特定の状況では特定の行為をする傾向がある、というような一般化。単位分析では「事実(データ)の記述による羅列」か、もしくはその経験的一般化しかできない。

・たとえば自殺という行為を、プロテスタント、教育水準、貯金額といったような単位へ分解するとする。そしてプロテスタントの人間はカトリックの人間より自殺する傾向がある、というような「相関」をもって一般化するようなケース。

※デュルケムはこのような単純な経験的一般化を行っていない。デュルケムの場合は教育の高さにも相関があると判明し、どちらが自殺率に因果関係を持つかわからなくなった(現代で言えば疑似相関の可能性)。つまり見えているデータを並べただけでは法則や理論がわからない。そこでデュルケムは見えていないデータとして「社会的統合度」や「アノミー的自殺」といった概念(観察者の枠組み)を持ち出してくる(現代で言えば潜在変数の発見)。そこから概念を組み合わせ理論へと構成する。その意味で、デュルケムは見えている現実を記述するだけの極端な経験主義者とは一線を画す存在であったといえる。

実証主義とは、意味

POINT

実証主義(positivism)・経験的事実にもとづいて確証できる認識以外を否定する立場

「経験的事実にもとづいて確証できる認識以外を否定する立場。実証主義は、18世紀フランスの数学的自然研究の運動(ダランベール、ラグランジュ、ラプラスら)の方法論を継承して、それを社会現象の研究に拡張したコントにおいて完成した。コントによれば実証的(positif)の意味は六つある。つまり、①『否定的』に対する『肯定的』、②『絶対的』に対する『相対的』、③『空想的』に対する『現実的』、④『無益』に対する『有益』、⑤『不確実』に対する『確実』、⑥『曖昧』に対する『明確』」

「社会学小辞典」、有斐閣、234P

実証主義的経験主義とは、意味 (実証主義的行為理論へ)

POINT

実証主義的経験主義()・すべての実在は本質的に時間的、空間的な位置を占め、それゆえに、ひとつの理論体系によってすべての実在が把握可能であるとされる立場。ひとつの理論体系とは特に古典力学の論理形式を意味する。社会現象はすべて自然現象に還元され、現象の変化は理論体系において与えられた諸変数の値を知ることによって、説明され、予測されると考えられる立場。機械論的決定論など。実証主義的経験主義は自然科学においては理論体系を認めているが、抽象化することによって得られた概念を具体的事象そのものだと取り違え、実体化する傾向がある。これを「具体性置き違えの誤謬」という。

・「実証主義的経験主義」とは社会現象はすべて自然現象に還元されると考えであり、観察できない価値概念は無用のものとされる。単位行為でいう「目的」や「価値」を直接観察することはできない。なぜなら、目的や価値は行為者の「心の中に」存在しているからである。観察者が観察できるものは究極的には「条件」であり、条件さえ分かれば手段や行為は自動的(=科学的)に決定される(実証主義的行為理論につながる)。パーソンズはこうした考え方を機械論的決定論として批判した。古典力学や功利主義的な古典派経済学など。抽象的な一般理論は自然科学においては必要とみなされるが、社会現象については理論が拒否される。ただし、自然科学においても具体的事象の抽象化によって得られた「概念」を「具体的事象そのもの」と取り違えてしまっている。

・社会科学の方法=自然科学の方法のみであり、目に見えるもののみを扱う。人間の目的や価値は目に見えないから扱わない。極端な経験主義は実証主義的行為理論につながる。パーソンズはこうした経験主義を批判している

「具体性置き違えの誤謬」とは「抽象化することによって得られた概念を具体的事象そのものだと取り違え、実体化する過ち」のことです。(これはかなり比喩的な解説ですが)たとえば友人の「田中さんは鬼だ」と表現してみるとします。これは田中さんの数ある性質の中の、「怒りっぽく乱暴である」という性質を取り出して、抽象化し、概念化したものです。田中さんを理解するために鬼という概念は便利ですが、田中さん自体は鬼ではありませんし、鬼それ自体は概念であり、実在していません。それゆえに、田中さんは鬼である、だから退治しなければいけないといったような「取り違え」をしてはいけないわけです。

同じように、古典力学では「物質は精神から切り離されて、無感覚、無価値、無目的なものである」と抽象化さています。しかし物質が「具体的に」無感覚であるか、無価値であるかは別なのです。これは田中さんが自体が鬼でないのと似ています。たとえば摩擦のない平面や真空状態という抽象的な概念によって法則を導き出すのは便利ですが、摩擦のない平面や真空状態が具体的に自然に存在しているわけでもなく、重力そのものや速度そのものが具体的に存在しているわけでもありません。しかし摩擦のない平面や真空状態という抽象的な概念は便利ですよね。便利だけれども、それを実在そのものと誤解してはいけないですよ、という話です。

ここで重要になっているのが「実在」と「抽象」の関係です。抽象的な概念は実在そのものではないです。しかし実在そのもののある一面を認識するためには欠かせないものです。したがって、科学的な理論や概念は実在のある側面を適切に理解することができるという点で、実在と関わっているのです。この関わり方が「分析的」なので、パーソンズの手法が「分析的リアリズム」と呼ばれているわけです。

「実証主義的経験主義は,実証主義的行為理論の前提条件になっている。この考え方では,すべての実在は本質的に時間的,空間的な位置を占める。それ故,一つの理論体系によってすべての実在が把握可能であるとされる。ここでの一つの理論体系とは自然科学,特に古典力学の論理形式のことである。だからこの考え方によれば,社会現象はすべて自然現象に還元される。現象の変化は,理論体系において与えられた諸変数の値を知ることによって,説明され予測されると考えられている。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、63P

「ホワイトヘッドに依れば、近代科学の基本前提は17世紀以来、次の2点である:a)世界は物質から成るという科学的唯物論。物質は精神から切り離されて、無感覚、無価値、無目的なものであるとされる。そしてb)宇宙における物質の配置は、空間と時間において「単に位置を占めるsimplelocation」ことと捉えられる。このような抽象化された思考によって、近代科学は多くの知見を産み出した。抽象化と推論によって一般法則を見出し、その成果を人間の文明に生かすこと。これが近代科学技術の基盤であり、近代文明の基礎となっているのである。問題は、このような抽象化された前提に立つ近代科学の成果を、そのまま現実の具体性であると思い込むこと、にある。これがホワイトヘッドの言う「具体性置き違いの誤謬」である。何が置き違えられているのであろうか。抽象化自体に誤謬はない。抽象化された前提に立って得られる理論を、そのまますべてが具体性のものだと信ずることに誤謬が潜む、ということである。また、「単に位置を占める」という前提は、関係性の無視あるいはその脱落ということでもあろう。この点は後述されるであろう。」

「文明と経営・生命と象徴から学問と倫理へ」――浦井憲先生の整理を受けて、改めて考えること(1)――村田晴夫(URL)

「まず第一に実証主義的経験主義とは、抽象的な一般理論概念の重要性を認めるものの、具体的事象の一部分を抽象化することによって得られた概念を具体的事象そのものと取り違え、これを実体化する傾向が著しい立場をさす。具体的には『科学と近代世界』のなかでホワイトヘッドが痛烈に批判した機械論的な近代科学、とりわけ古典力学や、功利主義思想に基づいて展開された古典派経済学がそれにあたる。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」124P

個別主義的経験主義とは、意味(理念主義的行為理論へ)

POINT

個別主義的経験主義(読み)・すべての実在はそれぞれ本質的に独特のものであり,数多くの理論体系によっても,すべての実在を把握することは不可能であると考える立場。認識は感覚・知覚器官を通して得られた印象の蓄積により成立すると考える極端な経験主義であり、主観の側でのカテゴリーや枠組みによる経験の秩序付け、認識の主観的構成を認めず、事象は観察され、記述されたもののみが客観的な知識とみなされる立場。

・すべての実在は独特のものであり、どんな理論によってもすべての実在を把握することは不可能であると考える立場。

・認識の主観的構成を認めない。理論や概念を通した認識を認めず、感覚的な印象のみを認める極端な立場。抽象的な概念が認められていない。

→社会現象に関してできることは、具体的に詳細に記述することのみ。理論を通して捉えることができるリアリティを取りこぼしているとパーソンズは批判している。

→理念主義的行為理論につながる

「個別主義的経験主義は「理念主義[ldealism]的行為理論」の前提条件になっている。この考え方によれば,すべての実在はそれぞれ本質的に独特のものであり,数多くの理論体系によっても,すべての実在を把握することは不可能である。特に理念主義的行為理論を導く個別主義的経験主義では,自然現象には自然科学の理論体系が必要であるが,社会現象,とりわけ人間現象においては理論体系自体が拒否される。なぜなら人間現象は物質的なものではなく精神的なものだからである。人間現象は具体的独自性と個性を持っ。故に人間現象を64理論的に把握することは困難である。理念主義的行為理論の前提条件である経験主義では,人間現象そして社会現象に関しては具体的に詳細に記述することのみが唯一の客観的な方法である。よって個別主義的経験主義では理論的把握自体が成り立たない。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、63P

「認識は感覚・知覚器官を通して得られた印象の累積により成立すると考える極端な経験主義をさす。この立場は主観の側での一般的範疇(category)や枠組(frame)による経験の秩序づけ、すなわち認識の主観的構成を認めず、認識の成立根拠を経験にのみ求める。そこから「事象は観察され記述され、時間の経過のなかで位置づけられるにすぎない」と考えられ、しかもそのようにして得られた知識が唯一客観的な知識とみなされる。言うまでもなくこのようなタイプの経験主義は、認識の成立根拠とされる経験そのものが、なんらかの一般的諸概念を前提としなければ成立しないことを見落している。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」、125P

直観主義的経験主義とは、意味(理念主義的行為理論へ)

POINT

直観主義的経験主義()・具体的な現象を記述し説明するためには理論的な把握が必要であるとされる立場。ただし、理論は説明される当該の人間現象ごとに必要となる。一般的な抽象概念によって個性的な歴史現象を把握してしまうと、個性が壊されてしまうと考えている。概念の分析的抽象性を否定する立場。

・認識の主観的構成(理論)を認めるが、社会科学においては自然科学のような普遍的法則の認識はできず、個々の歴史的事象の「個性」を把握することにあり、具体的な事象にはそれぞれ具体的な理論が存在すると考えている。概念の「個性」が強調され、概念の「一般性」が否定されている。

たとえば具体的な歴史現象を一般理論で捉えると、個性が破壊されると考えられている。具体的な歴史現象はその歴史現象を捉えるための具体的な理論のみが用いられるという考え。

パーソンズは歴史的説明は一般理論なしには不可能であるという批判を向けている。具体的な現象ごとに具体的な理論が構成されていくと、具体的な理論同士の関連性をつけることが難しくなり、全体としてはモザイク理論のようにバラバラなイメージしか見えてこなくなってしまう。「具体性置き違えの誤謬」も犯しやすくなる。

→理念主義的行為理論につながる

「直感主義的経験主義では,個別主義的経験主義とちがって,具体的な現象を記述し説明するためには理論的な把握が必要であるとされる。しかし,人間現象の個別的特性が強調されたために,人間現象に対応している各々の理論にも個別的な特性があると主張される。この立場では理論は説明される当該の人間現象ごとに必要となり,各々の理論は本質的にはなんら結び付いてはいない。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、64P

「具体的な「現象を分解して何らかの一般概念に包摂するような試みは個性を破壊する企てである」として、概念の分析的抽象性を否定する立場を言う。このような立場は、広い範囲の具体的現象に適用可能な一般理論の構築に関心を寄せる「分析的諸科学」の論理としてはまったく不当であるのみならず、知識の妥当性の証明に必要な一般的、理論的諸概念を欠くという点で、特殊な具体的事象の因果関係の理解をめざす「歴史的諸科学」の論理としても妥当性を欠くものとパーソンズは批判した」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」、125P

単位行為における分析的リアリズムとは

単位行為とは、意味

POINT

単位行為(Unit-act)・行為体系における「最小単位」のこと。単位行為は四種類の「単位(部分)」に分解して理解するものと、四種類の「要素」分析的に区分して理解するものの二種類がある。前者の場合は、行為者、目的、状況(手段+条件)、規範的志向(規範・価値)という四種類の単位分解される。後者の場合は、目的、手段、条件、規範という四つの要素に分析的に区分される。前者は「単位分析」といわれ、後者は「要素分析」といわれる。単位分析と要素分析は現象間の関係を何らかの形で分析的に説明する「説明的方法」であり、現象を詳細に言語によって記述する「記述的方法」とは区別される。行為の四つの要素を特定しなければ、行為は有意味に記述することはできないとされる。

ややこしいですよね。しかも参考書籍や論文では単位と要素の区別が明確にされていないケースもあります。調べてているうちにだんだん面倒になってきます。そもそも単位分析と要素分析にきちんとわけて説明している論文が少ない。

単位分析

単位分析とは、意味

POINT

単位分析()・単位によって現象を分解して説明しようとする方法。分解された単位間の相互分析によって現象を説明する方法である。この場合の単位は具体的な実在であり、単位は具体的現象の一部分となる。ただし、分解された単位はもはや実在そのものではなく、抽象化されたものであり、仮説的に存在する実体(entity)となる。実在(reality)そのものではない。単位分析による比較から、諸現象に共通する単位が導き出されるという。これを経験的一般化という。物理学で物質が原子に分解されるように、行為も諸単位(部分)に分解される。単位分析における単位は行為者、目的、状況、規範(価値)の4単位。

たとえば私が木を斧で切るとします。この現象を単位よって分解すると、行為者(私)という単位がうまれます。しかし条件や規範、目的や手段から完全に切り離された私というものは実在していません。それらは頭の中だけで存在しているフィクションです(完全なフィクションというわけではなく、実在と対応があるフィクションです)。レゴブロックでできた恐竜を分解して、一つのパーツに分解するのとは少し違うのです。

「単位分析は,単位によって現象を区分して説明しようとする方法である。単位分析では,現象は,物理学ですべての物質が原子に分解されるように,部分に分解されて単位となる。そしてその単位間の相互分析によって当の現象を説明する。この場合,単位は具体的な「実在」[Reality]である。すなわち単位は具体的現象の一部分である。また,単位分析による比較から諸現象に共通する単位が導き出される。これが「経験的一般化」[EmpiricalGeneralization]である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、61P

「前者の概念の場合、たとえば、具体的な実体としての生きている有機的全体からその部分=単位(細胞・組織・器官)を引き離して取り出したとき、その部分=単位は以前と同じようには具体的に存在しているものとして観察しえないので、この部分=単位は一種の抽象化されたものである。すなわち、この部分=単位は、フィクションであり仮説的に存在する実体(entity)なのである。要するに、この部分ないし単位概念は、虚構を指示している。」

大野道邦「ソローキンとパーソンズ文化システム概念をめぐって」

128P

単位分析における行為者とは、意味

POINT

単位行為における行為者・行為の主体のこと。行為者は個人であるか集団であるかは問われない。

パーソンズはあまり「誰が」というような具体性にはこだわっていないようです。なぜなら一般理論の形成が目的であり、「行為者一般」が問題となるからです。何ができるか、どんな肉体的能力をもっているかという要素は条件や手段などに分類されています。パーソンズの用語では「自我」などとも呼ばれることがあります。

「行為者とは行為の主体のことである。パーソンズの行為理論では,行為者は個人であるか集団であるかは問われない。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

単位分析における目的とは、意味

POINT

単位分析における目的・行為過程が志向する事象の未来の状態

「目的とは,「行為過程が志向する事象の未来の状態」のことである(Parsons[1937→1949:44=19761:78])。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

単位分析における状況とは、意味

POINT

単位分析における状況()・手段と条件を合わせたもの。行為過程の状況を意味する。目的に合わせて制御できるものが手段であり、制御できないものが条件となる。

「手段・条件とは,行為過程の状況のことである。この状況の中で目的に合わせて制御できるものが手段であり,制御できないものが条件である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

単位分析における規範的志向(規範・価値)

POINT

単位分析における規範的志向(規範・価値)・規範は行為者を内側から制御し、価値は外側から制御する。

「最後に行為の「規範的志向」[Normativeorienta-tion]において,規範は行為者を内側から制御し,価値は外側から制御する。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

補論:デカルトと原子論

「ここまで、ベーコンとは対照的なデカルトの姿勢が強調されたかもしれない。ベーコンが五感を頼みにして、データ、実験、機械的操作の術を知の土台と見るのに対し、デカルトはそれらを純粋な精神の明晰さをかき曇らせる異物として、まずは排斥し、幾何学に基盤を持つ知の獲得法を追求した。外界を知るための第一ステップは、複雑に見える問題をその複雑さのまま記述すること。そうしたら次に、その紛糾して不明瞭な問題を分解し、もっとも単純な構成要素を取り出す。この基本ユニットのレベルでは、明晰判明なるものはすぐさま見て取ることができるだろうから、それをきちんとおさえて、あとは純論理的に問題を再構成していけばよい。このやり方で行けば、複雑に見える問題も、人知による征服が可能である。我々自らがそれを分解し再構成した以上、その問題は我々によって『知られたのだ』。──この方法論はデカルトにとって、探究の果てに掘り当てた金の鉱脈だった。これこそ世界を知る唯一の鍵だと彼は考えた。『幾何学者たちが、あれほど困難な証明問題を、かくも単純明快な論理の連鎖を延々とつないでいくことで解いてしまう、そのやり方を適用することで、およそこの世で知りうることは、すべて知られるのではないだろうか……』

このデカルト的思考体系が、その後どのような人々の意識に食い入り、西洋における意識の歴史を方向づけたかということに思いを馳せるとき、その測り知れない影響力に呆然とするほかはない。たしかにベーコンの影響──知と産業的有用性との結合、『実験』という知の産業的有用性との結合、『実験』という知のための策術の定着──も、現代の科学思考の根本をなすものではあるが、デカルトのえ異教はそれをしのいで余りあるように思われる。さらに、デカルトの方法論は、ベーコンのそれとは百八十度異なっているかに見えて、テクノロジー推進という点ではしっかりと結託している。というのも、デカルトが描く本質的人間──すなわち思惟する存在──は、純粋に機械的な活動にいそしむのである。この精神的存在は、ひとつのたしかな方法をもって、自分とは切れた外なる世界と向かい合う。そして相手に対し、その方法を何度も何度も機械的に適用し、ついには知りうるべきことのすべてを知ってしまう。しかもその方法自体からして、機械的である。対象をもっとも単純な構成要素に分解してそれぞれを知るという行為をもって、その寄せ集めとしての全体を知ったことにするのだ。部分と全体との関係を、一インチが寄り集まって一フィートになるようなものとして捉えているのである。なんか以下に分けて測定し、結果を合計して答えよするように、それぞれの知覚の結果を足すことで、対象が知れるという考え方だ。分解し、測定し、寄せ集めよ……ものを知るには、最小の単位に分けよというこの思考型は、まさに『原子論』という呼び名がふさわしい。物質的世界を相手にした場合も、知の世界を相手にした場合も、『原子論』は、全体の部分の総和として、それ以上でもそれ以下でもないものとして、取り扱う。この見方を土台とした哲学を後世に残した小t路が、デカルトの最大の業績だった。」

モリスバーマン『デカルトからベイトソンへ』33P

単位分析と経験主義

単位分析は経験的一般化にとどまるものであり、従来の行為理論はこのレベルにとどまっていた。

「この分析的リアリズムは,先の4人の行為理論の研究から出てきたものである。パーソンズによれば,この4人の行為理論は,「経験主義」[Empiricism]の影響によって,単位行為や行為体系を適切に考察することが出来なかった。経験主義とは,現象の性質によって科学の方法を固定化したものである。だから,現象を分割して説明する方法である単位分析のみが分析の方法であり,経佛大社会学第22号(1997)パーソンズの主意主義的行為理論について経験的一般化以上の分析ができない。そして,この方法では,価値は現象の中に実在しないから単位分析では捉えられない。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」62-63P

要素分析

要素分析とは、意味

POINT

要素分析()分析的要素によって現象を説明する方法。単位分析では捉えられない特性(創発特性)を捉えるために考案された。観察者の観点から要素を構成して区分することが特徴的。分析要素は目的、手段、条件、規範の4要素。要素分析における単位行為の要素は観察者自身が決定できるので、4要素すべて特定することができる。さらに、行為者には規範的志向があるという前提がおかれている。

「これに対して、後者の分析的要素概念は、われわれの実際観察するものがもっぱら特定ケースにおける特定の値(あたい)だけであるような一般的属性を指示しているがゆえに、抽象的である。たとえば、ある物体がある質量(一般的属性)をもつことは観察できるが、質量そのものは観察できない。ある行為がある程度の合理性(一般的属性)をもつことは観察できるが、合理性そのものは観察できない。この場合、質量、合理性は、分析的要素概念なのである。パーソンズにおいては、このような分析的要素概念が前面に出ているのであり、概念はフィクションではなく、客観的なリアリティの一側面を把握できるとされる。具体的な現象は、この分析的要素のとる値の組合せとして、あるいは、この要素の組合せとして記述される。こういった意味で、パーソンズのスタンスは分析的リアリズムなのである(Ibid.:730,747-748=5-138,162-164)。」

大野道邦「ソローキンとパーソンズ文化システム概念をめぐって」

128P

要素分析における目的

POINT

要素分析における目的()・ある行為の結果と、その行為をしなかったときに起こる事態との差。

「目的とは,ある行為の結果と,その行為をしなかったときに起こる事態との差である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

「目的は,分析的には、期待される将来の具体的事情ではなく、行為者が行為することをさし控えたばあいに発生する結果とは異なるものである。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」,71P

要素分析における手段

POINT

要素分析における手段()・行為者が制御することで望ましい方向に変化させることのできる事態のある側面

「手段とは,行為者が制御することで望ましい方向に変化させることのできる事態のある側面である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

「また,手段は,分析的には、具体的な道具ではなく、行為者が事物に関する知識と制御とによって望ましいものに変更できる事物の属性(aspects or properties)である。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」,71P

要素分析における条件

POINT

要素分析における条件()・行為一般に帰属できない状況という要素

「条件とは,行為一般に帰属できない状況という要素である。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

「究極的な諸条件は、分析的には,ある具体的な行為者の制御不能な情況に関する具体的な諸特徴ではなく,行為一般に帰せしめえない情況の抽象的な諸要素である。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」,71P

要素分析における規範

POINT

要素分析における規範()・未定義。大束さんによれば「行為体系の創発特性を導く要素」。

「最後に規範に関してはパーソンズは定義を与えていないが,行為体系の創発特性を導く要素であると考えられる。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

パーソンズは「秩序問題」の関係を「分析的リアリズム」の立場で行った。この秩序問題の解決における単位行為の「規範」は「共通価値」にあたるものだとみなされる。つまり、集団において共通して望ましいと思われているような規範である。しかし「単位分析」レベルにおいて創発特性は確認できない(技術的合理性のみ)。つまり、単位分析だけでは創発特性がみられないので、秩序問題は解決できない。共通価値は行為体系(社会体系)レベル、つまり単位行為の集積によってはじめて生じる特性(分析的概念)だからである。

そこで、具体的な属性の集まりである単位分析ではなく、より抽象的な、観察者の観点から構成される要素分析において、規範を共通価値であるとして組み込むことによって秩序問題を解決しようとしていることがわかる。これは論点先取りだといわれることもある。パーソンズにいわせればおそらく、要素分析における規範は実在そのものではないが、実在と対応している「近似的なもの」であるということになるのだろう。

秩序問題についての論点先取りについては前回の記事を参照。

【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか

元々分析的リアリズムというものは人間の主意主義的要素、創造性やら自由意志といった従来の経験主義に欠けていることを批判し、それらを取り入れて理論を作ろうとしたものである。しかし、分析的リアリズムを論理的につきつめていけば、人間の主意主義性がどんどん消えていっているのではないか、という批判がある(パーソンズのパラドックス)。

ただしこのパーソンズのパラドックスへの批判として、パーソンズは単に従来の経験主義を批判しようとするポレミーク(論争)として人間の創造性や主体性を強調しただけであり、理論としては「努力する存在」にすぎず、またカントのように、規範へ向かって志向すること自体を自由と解釈している傾向があるという。

この点については前回の記事を参照。

【基礎社会学第十六回】マックス・ウェーバーの「理解社会学」とはなにか

「第二に、個人を要素と考えるデユルケムの観点を受けて、パーソンスは「手段ー目的連関図式」の目的を個人的に定義しうるものではなく、社会的要素を含むものと考え、同時に、社会が均衡した状態で安定したシステムであるための条件として「共通価値システム」の観念をデユルケムから引き出してきて、これら二つの観念を、先述の「集合体」の強調(「集合体〈社会〉の優位」)とともに「秩序問題」の解決にとって決定的な意義をもつものとして位置づける。すなわち、パーソンスは「共通価値システム」の観念を「手段i目的連関図式」の目的次元に充当し、また概念図式としての「単位行為」に対しては、そのインプリケーションとして予め定義されていた「規範的志向」(これは、行為の目的と手段を選択する範囲を決定していく機能をもっている)に組みこむことによって「秩序問題」(「目的のランダム性」)の解決に機能させるのである……しかしながら、以上の議論には、目的を主体的に選択していく「独立したエージエンシー」としての人間(行為者)、そしてそのエージエンシーの属性・所産としての行為といったところの、パiソンスの「行為の主意主義理論」において定式化された諸観念は、もはや組み込まれる余地は残されていない。その結果、行為の分析は人間エージエンシーを分析するのではなく、所与の意味へのオリエンテーションを明らかにすること、いわば「共通の価値システム」とそれをパーソナリテイの構成要素として摂取していく過程とを把握することで果たされることになる。この意味において、パーソンスが「共通の価値統合の属性の観点から、社会的行為のシステムが理解されうる限りに・おいて社会的行為のシステムの分析理論を発展させていくことを試みる科学」として社会学を定義申つけているのは極めて象徴的である。ここに・おいて、パーソンスはかつて彼自身が「出発点」において批判したところの「行動主義」と同列の地点に立っているのである。この特徴を「パーソンスのパラドックス」と呼ぼう。そしてこのパラドックスは、「陥葬」を底胎していた「分析的実在主義」の内在的論理にパラレルであって、その論理的な帰結とみなしうるのである」

前川正行「初期パーソンズにおける論理構造」、131P

補論:規範的要素
POINT

規範的要素()・「あるものが、(1)集合体の成員達にとって(2)集合体の一部の成員遼にとって(3)単位としての集合体にとって、それ自体目的である(他の目的のための手段であってもよい)という感情を、一人以上の行為者に抱かせるような、行為システムの一つの側面、部分ないし要素」。要するに、ある集合体に共通して望ましいと思われているような要素を規範的要素というわけです。別の用語で言えば「共通価値」であり、「究極的価値」です。ただし究極的価値他の目的のための手段ではなく、論理的に最上位の目的であり、まさにそれ自体を目的としているのですこし印象が違います。

規範と規範的要素は違う。規範的要素の中に、規範が含まれている。さらには価値や社会的規範をまとめて1937年時点では規範的要素と言っていることがある。端的に言えば多くの人間が共通して望ましいと思っているような要素を言う。たとえば平和や愛などはどちらかといえば価値に、老人に電車で席を譲るというのは社会的規範にあたる(抽象度の違いで区別、あるいは価値は外側から制御し、規範は内側から制御するというイメージ)。

「規範的という語の定義を引用しておこう。「あるものが、(1)集合体の成員達にとって(2)集合体の一部の成員遼にとって(3)単位としての集合体にとって、それ自体目的である(他の目的のための手段であってもよい)という感情を、一人以上の行為者に抱かせるような、行為システムの一つの側面、部分ないし要素に、ふさわしい語として、規範的という用語が用いられる」この定義の特徴は、ある要素が、成員聞に共通して望ましいと認められていること、ないし認められるべきだと行為者が考えているということ、つまり成員間における共通性(ないし共有性)が強調されていることである。規範は、規範的要素の一つである。上の引用文のすぐ後に、「規範とは、望ましいと考えられている行為の具体的コlスの遂行を、行為者に命令する言語的な記述である」)と定義されている。この定義だけならば、単位行為に関連して述べられていた「手段と目的を関連守つける基準」という定義と変わらない。けれどもパーソンズの論旨の展開においては、成員聞に共通する規範的要素としての規範が、重要なのである。だから何らかの一般的な妥当性を主張できないような基準、つまりある特定の行為者のみが独特に採用している基準がありうるとしても、そのような基準は、規範的要素としての規範から排除されているのである。規範的要素のもう一つの主要な要素は、目的であるが、これについても同様である。」

溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」11P

補論:創発特性
POINT

創発特性(emergent property)・一般に、「諸要素が集合して一つの全体をつくる場合や、ある現象の組成水準が低次のものから高次のものへ発展する場合に、元の要素や低次の水準には存在しなかった新しい特性」を意味する。パーソンズにおいては創発特性は5種類の合理性に区別されている。原初的合理性は技術に、経済的合理性は効用に、政治的合理性は権力に、社会的合理性は共通価値に結びついている。パーソナリティにおける合理性は定かではない。

詳細は扱いませんが、共通価値が創発的特性のひとつというのは覚えておいたほうが良さそうです。

個々人の総和を超えたところに生成する価値であると同時に、社会的に望ましいものとされている。個人にのみ焦点を当てても確認されないような要素。この価値は共通価値、共有価値ともいわれる。この共有価値の具体的な形(表出)が究極的目的や究極的価値、道徳的規範や社会的規範である。抽象度の高いものが価値であり、具体度の高いものが規範。たとえば人殺しは善くない、神様を信じるというのは価値であり、信号無視はよくないというのは社会的規範、墓を蹴ってはいけないというのは道徳的規範のイメージ。どちらかといえば価値は外在よりで、規範は内在より。

こうした共通価値がないと支配に正統性がうまれず、したがって権力も安定しません。権力が安定しないと資源の配分も安定しません。要するにまずは社会が安定して、その上で経済やら政治やらが安定するということだと思います。こうした価値による統合を共通価値統合といいます。中期では制度による統合へと重点が変わります。

「諸要素が集合して一つの全体をつくる場合や、ある現象の組成水準が低次のものから高次のものへ発展する場合に、元の要素や低次の水準には存在しなかった新しい特性が出現し付加される。この新しい特性をいう。たとえば、分業は個人にはなくて集団において創発してくる特性であり、言語は人間以下の水準にはなくて人間の水準で創発する特性である。」

「社会学小辞典」、有斐閣、390P

「創発特性とは,適当な大きさに統合された行為体系に典型的に現れる特性である。特定の創発特性は,行為体系が小さすぎたり大きすぎると観察されなくなる。この創発特性は,パーソンズによれば,5種類の合理性に区別されている6)。この5種類の創発特性は,ミクロな行為体系に典型的に現れるものから順に,「原初的合理性」,「経済的合理性」,「政治的合理性」,「社会的合理性」と,そして「パーソナリティ」である。またそれら創発特性の具体的表現と’して「技術」[Technology],「効用」[Utility],「権力」[Power],「共通価値[Common-Value]があげられている7)。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」59P

「共通価値」がないと支配に正統性がうまれず、したがって権力も安定しない。権力が安定しないと資源の配分も安定しない。

・価値による統合を「共通価値統合」といいます。「(社会学は)共通価値による統合という特性によって理解することのできる限りにおける、社会的行為体系に関する分析的理論の展開を目指す科学である(『社会的行為の構造』)。」

要素分析における特徴

1:観察者自身が要素を決定できるので、4要素すべて特定可能

「まず,この単位行為では4要素すべてが特定できる。なぜなら観察者自身が要素を決定できるからである。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

2:規範的志向、意志と努力

規範は直接的に条件を規定できません。たとえば遺伝や環境は自分自身ではどうにもなりません。たとえば地震や干ばつで食糧が不足している、という条件は自分ではどうしようもないような条件です。この条件を規範が規定する、というようなことはないはずです。

規範が規定するのは「目的」です。食べ物がほしいという目的を持ったとします。そして条件からは土地が豊かな国の人間から奪うという選択肢と、自分の国でなんとかするという選択肢、あるいは他の何らかの手段といった選択肢が与えられるとします。もし「平和は善いものだ」という規範が目的を規定していたならば、食べ物がほしいという目的は、平和的な手段を伴うものとして規定を受けるわけです。したがって、規範は目的を規定し、さらに手段をも規定します。

条件は手段を規定しますが、規範も手段を規定するので、間接的に規範が条件と結びつきます。人間の行為は条件に規定されつつ、規範にも規定され、さらに規範へと意志や努力をもって志向するということになります。条件からの規定は人間がどうしようもないような、ある種の「自動的な強制」ですが、規範は「強制」ではないのです。あくまで「選択」の問題とります。人殺しが悪いこととされている世の中で、人間が人殺しをしないというのは、遺伝子が性欲を導くような自動的なものではないのです。あくまでも、人間が意思や努力によって志向することから、人殺しをしないという選択が導かれるわけです。だからこそ、実際に意志や努力をしないことで人殺しする人間もいるわけです(逸脱ケース)。

「第二に,行為には規範的志向があると考えられる。というのは,行為者の目的は選択的要因である規範,価値の影響を受けているからである。ここから,条件から手段を規範から目的を導くために,条件と規範を結び付ける「意志」[Will],「努力」[Effort]という要素が必要となる。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

3:時間という概念

目的が設定された途端に同時に手段が選択されるのではなく、そこには時間的な距離がある。この距離を埋めようとして人間は意志をもって努力し、選択を行う。そういった意味で主意主義的という解釈。

「第三に,目的は手段に先行することから,目的と手段の間には時間的な差がある。だから,この単位は時間という概念を含む。最後に,規範的要素は行為者の心の中にのみ存在する。なぜなら,観察者が規範的要素を観察できるのは,規範が実現され,ある形態をとるからである。(Parsons[1937→1949:731‐737=1989V:139‐147])」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

4:規範は心の中にある

規範は心の中だけにある。規範は人間が存在しなければ意味づけされず、ただの物質である。

例:墓を蹴ってはいけないなど人間は規範的志向をもつが、墓自体はなんら規範ではなく、ただの石であり、シンボル。

規範は心の中だけにあり、心というのは「主観的」なものである。この主観的要素を重視するという点で、主意主義的であるという解釈。客観的要素、目に見えて経験できる合理的要素のみを重視すると決定論的な考えになり、主意主義的要素は弱まる。

「最後に,規範的要素は行為者の心の中にのみ存在する。なぜなら,観察者が規範的要素を観察できるのは,規範が実現され,ある形態をとるからである。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、58P

社会学は分析的諸科学

1:パーソンズは社会学を「分析的諸科学」だと考えており、特定の具体的現象を説明することは社会学の仕事ではないと考えている。そういった具体的現象の説明は歴史的諸科学の仕事であると考えた。要するに、社会学の仕事は現象の特定の具体的分析のための「枠組み(道具)」を提供することであると考えた。また、パーソンズは「普遍的な法則」を追求しているのであり、個別具体的な特定の歴史のみに対応する法則や概念、理論を追求しているのではない。だからパーソンズの理論は一般理論と呼ばれている。こうした個別具体的な理論をパーソンズはアドホック、つまりその場限りの理論として批判している。

2:パーソンズにとって特定の具体的分析のための道具とは「行為の準拠枠(一般理論)」であり、たとえば初期パーソンズにおいては「単位行為図式」も行為の準拠枠のひとつである。中期においてはAGIL図式に当たる。

3:(社会学ではなく)歴史的諸科学は社会学がつくりあげた「行為の準拠枠」を用いて、①具体的な現象を分析的諸要素に分解し、②それぞれの分析的要素に具体的な変数値を与え、③その現象を記述し、現象を説明する。ただしこうした説明は社会学の役割ではない、とパーソンズは考える。

「第二に、パーソンズは歴史的な多様性という問題(行為および行為者観における批判と同一の線上にある問題)をうまく取込むことができなかった、とカミックは批判している。『構造』中のパーソンズは新古典派の議論に従って、特定の具体的現象を説明することは、社会学のような分析的諸科学の仕事ではなく、歴史的諸科学の仕事であると主張した。歴史的諸科学はある具体的な現象を、分析的諸科学のそれぞれの概念図式に従って、分析的諸要素に分解し、それらの分析的要素に具体的な変数値を与えながら、その現象を記述し、分析的諸科学の提供する法則を使ってその現象を説明する。この考え方には、分析的諸要素が歴史的に多様であるという可能性がはじめから排除されている、とカミックは批判する(Camic1989:54)32)。こうして方法論においても、またもパーソンズは、チャーターを書くためには重要であっ*たかもしれない特定の方法論を、その分野のあるべき唯一の方法論にまで格上げして一般化するという誤りをおかした、とカミックは批判している(Camic1989:54)。」

溝部明男「パーソンズ研究における二つのスタイル : J.C.アレグザーンダとC.カミック」、68P

抽象化の三段階

4:抽象化には「3つの段階」がある。そのどの段階でも行為の準拠枠が適用される。①具体的な事実「部分(単位)」へ抽象化する段階。②構造的関係が抽象化され、確定させる段階。③分析的要素(変数)が選択される段階。構造的関係とはたとえば目的と規範がどのように関係しているか、行為同士はどのように関係しているかといったことを扱う。この関係は抽象的な関係であり、具体的な関係そのものではない。

POINT:①現象を言語で記述②単位分析の段階=記述的概念の構成③記述的概念どうしの関連④要素分析の段階=分析的概念の構成

「パーソンズは彼が提出する分析的理論が三重の抽象に基づいている、と指摘している。 準拠枠の適用によって構成される事実、全体から切り離された単位、選択された変数、という三重の抽象の産物として、分析的理論があるという意味である」
溝部明男「パーソンズ研究における二つのスタイル : J.C.アレグザーンダとC.カミック」、80-81P

「ジンメルが、抽象化の道に乗り出したことは称賛されるべきであるが、抽象化の第一は、『部分』ないし『単位』であり、第二は『構造的関係』である。『ジンメルの抽象化の議論は、単位と構造的関係の議論にかぎられている』が、第三に『分析的要素』ないし『変数』という重要な『抽象化の様式』がある。ジンメルはこれを完全に無視している。このようなパーソンズは、第一草稿と同じ批判を展開している。パーソンズによれば、分析的要素を無視した結果、ジンメルは、記述的概念レヴェルにとどまっている。むろん一定の限定された目的のためには、記述的概念は有用であり、不可欠でさえある。分析的要素は、記述的概念をさらに要素に分解したものにほかならず、その意味で、記述的概念を構成している分析的要素へと、さらに分析をすすめ、複数の分析的要素の組み合わせとして、概念を構成しなおすことが必要となる。記述的概念にのみとどまっていたのでは、概念の実体化をまねくのみならず、体系的一般理論を構築することは不可能となる。ウェーバーもまた、ジンメルと同じように、記述的理念型に焦点を置いていたが、ジンメルと異なってウェーバーは、理念型の体系的分類を構成するという試みを通じて、事実上、『一般化された分析的理論』へと導かれていった。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」、34-35P、岩波書店

定数と変数

5:分析的要素には「単位(部分)」と「要素」の二種類がある。それぞれ単位分析、要素分析と呼ばれる。具体的な現象を単位に分解し、定数を取り出していく抽象化の過程を「単位分析」という。さらに観察者の視点から分析的に区分し、変数が選択されていく過程を「要素分析」という。

・比喩的に言えば、主観的カテゴリーは「定数」であり、分析的カテゴリーは「変数」である。

例:単位分析において、規範は「具体的な規範」が想定されている。たとえば「鈴木院長のように怒りっぽくならないようにしよう」といったような具体性をもっているかもしれない。これは行為者の観点から説明されるもの。数値は固定されている、つまり「定数」である(端的に言えば、正解があるものであり、実在そのものに近い。※ただし、本人がすべて明確に目的を述べることはできない。なぜならば複雑すぎるから。当然、他者である観察者も「目的そのもの(リアリティ)」を全て把握することはできない)。

要素分析においては、規範はたとえば「感情性 or 感情中立性」といったように考えられる。観察者が医者(個別的ではなく、医者一般)の規範を分析的に取り出す場合、「感情中立性」である、という要素が選択される。これは「変数」である。「感情性か感情中立性か」といったような数値が固定化されていない状態であり、ここから観察者が「選択」していく。

正直な話、この定数と変数についてよく理解できていません。おそらく鈴木さんの論文を読めば理解できる人もいると思うので、そちらを参照してください。昔の論文ほど説明が難しい。また、変数と定数について詳述してる論文もほとんどない。

定数が端的に言えば正解があるもの、といいました。いわゆる「事実(データ)」にあたります。「橋から飛び降りて死んだ」という行為があるとすれば、「橋」は事実となり、データとなります。もし物理学的な枠組みなら、飛び降りる際の速度や距離の具体的な数値が定数となるのだと思います。社会科学において重要なデータは主に4つであり、それは行為者、目的、状況、規範です。この4つの定数をまずは特定する必要があります。自殺した人の目的はなにか、どんな状況だったかなどです。それは「観察」によって具体的な事実を「記述」していく段階です。行為の文脈において必要なデータであり、「橋」は渡るものなどの具体的な用途として捉えられ、橋の分子構造などまでは社会学的文脈で必ずしも特定、記述する必要がないケースがほとんどです。

変数とは端的に言えば「選択肢」です。たとえばパーソンズは後に「パターン変数」という概念を用いますが、この変数は二項対立的に設定されています。あるいは選択肢というより「属性」といったほうがいいかもしれません。物理学でいえば「質量」などにあたります。たとえば質量自体は具体的な数値をもっていませんが、具体的数値をいくつも表現できる概念です。たとえば太陽の質量は~であり、橋の質量は~である、といういいかたができます。太陽の質量は~であるというのは定数ですが、質量それ自体は変数であり、属性であり、そのものは存在していません。いうならば値が固定されていないという意味で変数ですね。

「したがって、パーソンズによれば、部分ないし類型概念と分析的要素とは『論理的に根本的に区別』されなければならない。『分析的要素』とは、『一定の記述的準拠枠内で有意味となる具体的現象の一般的属性、ならびにその組み合わせ』である。物体を、ある特定の量・速度・①をもつものと叙述する時、量、速度、位置は、この分析的要素であり、『変数的要素』とみることができる。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」61P、岩波書店

・たとえば規範への志向は、上のパターン変数からも分かる通り、二項対立的に説明される(パーソンズ中期以降)。ここでは具体的な実体ではなく、「抽象的な属性(変数)」の「選択」によって説明される。たとえば医者の行為を規定する規範は、感情性か感情中立性のどちらかといえば、感情中立性である、といったように説明される(どちらかに必ず分類されるので、漏れることはない=必ず特定できる)。もちろんこれは観察者の観点であり、”実際に具体的な行為者がどのような観点をもっているかは関係がない。ある個別的・個性的な医者が内心では怒りに満ち満ちていたとしても、観察者の関心は一般的な医者の一般的行為の属性であり、捨象される。その意味で、実在そのものではないが、しかし医者のある一面のリアリティを把握している、ともいえる。だから分析的リアリズムなのである。そしてこの把握のための概念は分析的概念であり、一般的概念である必要があり、具体的な実体、具体的な概念であってはならない。たとえば「ヒトラーの感情性」といった具体的・実在的・個別的・個性的なものをパターン変数の分析的概念として用いることはできないし、そのようなものは行為体系の基礎概念や単位とはならない。そのような実体を理論の基礎単位とするとモザイク理論になってしまう。ある人間の感情がヒトラーの感情と似ているかどうかというような比較のみできる(これは理念型のやり方)。

要するに、定数とは正解であり、変数とはその正解をより抽象的に表現するものである、と私は捉えています。別の言い方をすれば、定数とは記述的概念であり、変数とは分析的概念です。記述的概念が「怒っている」なら、分析的概念は「感情的か感情中立性かといえば、感情的である」と表現されるということになります。定数は具体的で、変数は抽象的です。

たとえば「大学に受かるために勉強する」という場合、定数は「大学に受かるため」というものが記述されます。変数は「受験勉強によってのみ生じたと思われる結果」となります。この変数は「定数」と同じように「観察」によって決定されるものですが、抽象度が違います。もちろん、行為者本人が「大学に受かるため」と言明したところで、それ以外の目的があるかも知れませんし、あらゆる目的が絡まりあう複雑な目的があるかもしれません。だからこそ、定数には正解がありますが、その定数を全て具体的に正確に記述することは困難になります(だから抽象化して理解する必要が出てくる)。困難ゆえに、変数として捉え直してリアリティをつかもう、という話です。これが記述的概念から分析的概念への移行です。

たとえば「橋から飛び降りた」という行為は、飛び降りた結果に「死んだ」というものがあるとすれば、目的は「死ぬこと」であるということになります(もちろんそれ以外も論理的には含んでいますが)。しかし、ほんとうに死ぬことが目的だったのか?という具体的な定数としては観察者からしたら確定しようがありません。人の内心を他人が完全に捉えることなど不可能であり、一面的に観察者が選択していくしかないということになります(その意味で、経験そのものの説明ではなく、経験(実在)のある属性を説明するにすぎません)。つまり、抽象的な変数を選択していくわけです。

もし、事故と自殺がまったく同じ外形だったらどうするか、というような問題にもなってきます。ウェーバーいわく、理念型を通した理解はあくまでも「相関」があるかどうかです。相関性があるからといって因果関係がわかるわけでもなく、社会学における実験や論証で客観性を高めたとしても、それは確実にズバリそれが目的である、ということはできないのです。ウェーバーのことばでいえば客観性の蓋然性(がいぜんせい)、つまり確かさの度合いを経験的法則や比較によって高める作業にすぎません(客観的可能性の問題)。

「以上で一般慣用のフレーム・オブ・リファレンス内で記述される具体的現象について観察される事実はすべて説明されたが,科学上のデータ・カテゴリーすべてを説明し尽してはいない。以上はむしろ,物理学上,通常,定数(constants)といわれているものだけである。そのほかに物理学上および社会科学上重要なものとして,変数の値(the values of the variables)がある。自殺のばあい,物理学上重要な変数値はジャンプの場所から水面までの距離などである。社会科学上重要な変数値は、行為者の情況に関する若干の特殊な特徴,行為者の目的,その他である。これらのデータは,定数と同様、つねに特殊な具体的状況において与えられている。これらはけっして理論的概念から導びかれず,観察によって決定されなければならない。しかしながら,データ相互間の重要な意味関連が明らかであれば,われわれは理論的に別のデータの組を論証することができる。たとえば,あるシステムの4つの変数のうち3つの変数の値がわかっていれば,われわれは,必要な論理的もしくは数学的技術を用いて,第四の変数値を導出できる。かくして,どの具体的問題に関するデータも二種類のデータ,すなわち定数的データと変数値に区別できる。フレーム・オブ・リファレンスのもっとも重要な機能の1つは,既述の区別を可能にすることである。定数的データはフレーム・オブ・リファレンスによって記述されうるにすぎず,そのさらに詳細な分析には別の「用語」が必要である。他方,変数値の記述は分析の出発点にすぎない。それは,変数を区別するためには,分析的諸要素が定義されなければならないからである。この作業は次節で行なわれる。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」、76P

「社会科学者はこの自殺を1つの「行為」とみる。物理学者は1つの「イベント」とみる。社会科学者は,この行為には溺死するという「具体的」目的があると述べる。(行為者は「自分は水死する」ことを期待している。)手段は「飛び込み」であり,「条件」としては橋の高さ,水深,陸地と飛び込み地点との距離,飛び込みの衝撃や肺への水の浸入に関する生理学的影響,などがある。行為者は物理的空間のシェーマによって理解可能な現象に「志向」したのである。すなわち,かれはジャンプすれば落ちる,泳げなければ溺れることを知っていたのである。この事実が行為のシェーマによって述べられるとき,これらの物理的事実は「データ」とみなされ,そしてこれらの事実が与えられれば,社会科学者の設定する問題は、泳げないのになぜ橋から飛び込んだのか,であり,かれの関心は、泳げないのに飛び込めば溺死する,という結果を自殺者自身が知っているという事実にだけ集中する。これに対して物理学者がこの特殊現象を研究するときの関心の焦点は、落下する,という「イベント」である。かれはこのイベントに「落下する物体の法則」を適用する。「ジャンプする」ということは,かれにとっては1つの与えられた事実であり,かれは,橋から飛び込んだ「理由」を問わない。「動機」を問うとすれば,かれはもはや「物理学」のフレーム・オブ・リファレンスによって記述できなくなる。すなわち,物理学という特殊理論体系にとって重要な用語を用いてデータを記述できなくなる。……すなわち,記述的なフレーム・オブ・リファレンスの科学的機能は,ある理論体系にとって重要であり,またそれによって記述可能である現象についての諸事実とそうでない諸事実とを区別するような方法で,現象の記述を可能ならしめることである。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」74-75P

「以上はむしろ,物理学上,通常,定数(constants)といわれているものだけである。そのほかに物理学上および社会科学上重要なものとして,変数の値(thevaluesofthevariables)がある。自殺のばあい,物理学上重要な変数値はジャンプの場所から水面までの距離などである。社会科学上重要な変数値は、行為者の情況に関する若干の特殊な特徴,行為者の目的,その他である。これらのデータは,定数と同様,つねに特殊な具体的状況において与えられている。これらはけっして理論的概念から導びかれず,観察によって決定されなければならない。……かくして,どの具体的問題に関するデータも二種類のデータ,すなわち定数的データと変数値に区別できる。フレーム・オブ・リファレンスのもっとも重要な機能の1つは,既述の区別を可能にすることである。定数的データはフレーム・オブ・リファレンスによって記述されうるにすぎず,そのさらに詳細な分析には別の「用語」が必要である。他方,変数値の記述は分析の出発点にすぎない。それは,変数を区別するためには,分析的諸要素が定義されなければならないからである。」

鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」76P

要素分析整理

1:現象をそのまま記述するためでは説明したことにはならない。現象は複雑であり、無限に思えるような相互作用から成り立っている。現象(実在そのもの)を全て記述することは不可能。

2:現象を「説明」するためには「一般理論」が不可欠であり、この理論は「概念」を関係づけることによって構成される。つまり、現象を説明するためには概念が必要になる。「特殊理論」では概念を実体化してしまう危険性があるので避ける。

3:概念をとりだすためには、具体的な現象を「分解」する必要がある。たとえば具体的な行為は「(具体的な)行為者、(具体的な)目的、(具体的な)状況、(具体的な)規範」に分解することができる(単位分析)。この段階は「記述的概念」であり、概念によって具体的な現象を一面的に記述することになる。行為者は誰々、目的は何々と、記述していく。現象をそのまま記述するのではなく、枠組みを通して記述していく。例えば橋の「分子構造」などは行為という文脈では重要な記述ではなく、渡ることができる「橋」が手段として有用な記述になる等。どこまで分解するべきか、どう分解すべきか、という基準を単位分析は与えてくれる。こし器のようなもの。

4:「具体的概念」へと分解しただけでは現象を「説明」したことにはならない。分解して共通の要素を見つけ出し、経験的一般化をおこなったところで「理論」は構成できない。

例:「受験勉強」という行為を、田中さん、勉強する、大学へ受かるため、等々に分類して分解したところで説明にはならない。田中さんと佐藤さんには共通して大学へ受かるためという目的をもっている、と言明したところでそれは理論にはならない。

5:単位分析では「創発特性」を説明できない。

→創発特性とは、孤立した個人のレベルでは確認できないような特性であり、個人と個人の相互作用によってはじめて確認できるものである(全体は部分の単なる集合ではなく、それ以上の性質をもつ)。したがって、現象から行為者や目的を孤立させても、説明しきることはできない。たとえば受験勉強に経済的合理性があると説明するためには、「経済合理性という創発特性」が前提となる。勉強は善いものであるという規範(共通価値)を説明するためには、社会体系レベルの、「社会的合理性という創発特性」が前提となる。それゆえに、具体的な現象から具体的な概念へと分解することは第1段階目の「抽象化」であり、それらは「分析的要素」となる。

6:「行為体系」を構成するような「単位行為」を考える必要がある。この「単位行為」は行為者の主観的な観点からではなく、観察者の分析的な観点から作る必要がある。つまり、具体的概念ではなく、一般概念が必要とされる。単位分析によって分解された概念を、さらに要素に区分し、分析的要素を組み合わせて再構成する。

・この一般概念の組み合わせからなるものが単位行為であり、この単位行為の組み合わせからなるものが行為体系であり、行為体系からそれぞれ構成されるものが社会体系、パーソナリティ体系、文化体系である。社会学は「社会体系」を主な分析の対象とする。そうした全体の枠組みを、「行為の準拠枠」という。それゆえにパーソンズの理論は多次元性をもつといわれる。

例:要素分析における「目的(分析的要素、一般概念)」には大学に受かるため、といったような個別的な具体性がない。「もし行為をしなくても起きたであろう事態を行為の結果から引いた残りの部分」という言い方からわかるように、どの行為であっても目的が特定できる。たとえば受験勉強をしたことで起きたような結果を目的と論理的に確定させることができるからである。もし大学に受かったなら、その大学に受かったという結果は”自動的に”目的へと分類される(具体的な行為者が具体的なイメージとして思い浮かべているかどうかは関係がない)。

自然科学において「質量」それ自体は具体的な値をもっていないように、社会科学において分析的要素である「目的」は具体的な値をもっていない、一般概念として扱われる。

・概念(感情中立性という観察者の選択)は実在(ある特定の医者が規定されている特定の規範)そのものではない。しかし、医者一般の特定の属性が「感情中立性」という判断を下すことはできる。これはリアリティそのものではないが、こうした枠組みによって分析することで、リアリティの一面を把握することができる、とパーソンズは考える。

というよりパーソンズは具体的・歴史的・個別的な医者の実在性を明らかにすることに重点を置いていない。そうした分析は「歴史諸科学」の役割であると考えている。もし具体的な医者の具体的な概念がわかったところで、それは「具体性置き違えの誤謬」を犯しやすくなってしまう。大事なのは一般概念であり、分析的概念である。

ウェーバーの「理念型」への批判

理念型とは、意味

POINT

理念型()

無限に多様な実在から、観察者が自分の価値関心によって一面的に実在のある要素を取り出して構成された、それ自体矛盾のない論理的なモデル。実在に理念型と対応するものは存在せず、現実の現象(実在)と比較することによってのみ、「差異(偏倚)」を索出し、その現象の個性や特徴を明らかにすることを目的としている。マックス・ウェーバーの考えた概念。

理念型の詳細については前回説明したので、省略します。

【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)

パーソンズによる理念型批判

1:ウェーバーは「理念型(概念)」を「完全な虚構」だと主張している。

2:しかし、完全な虚構といいながら、理念型は「実体化(実在そのものだとみなされる)」する危険性を孕んでいるとパーソンズは批判している。なぜか。

3:ウェーバーが「歴史的概念」と「分析的概念」を区別できていないから。この区別をしない結果、「具体性置き違えの誤謬」が生じてしまっている。

・歴史的概念=ウェーバーにおける個別化概念としての理念型。たとえば家産官僚制など、特定の歴史的個体にそくして構成された概念。当該歴史的個体にのみ適用可能。

・分析的概念=ウェーバーにおける普遍化概念としての理念型。たとえば資本主義など。不特定多数の具体的分析に適用可能。

・具体性置き違えの誤謬=抽象概念を具体的実体だと思いこんでしまうこと

「以上の二つの思考方法の欠点を修正した理論がウェーバーの理念型という方法である。理念型は「具体的なものから抽象され,統一的な概念形式を形成するように組み立てられたもの」である(Parsons[1937→1949:603=1974VI:202])。しかしこの理念型も,前述の単位分析と要素分析との両方の視点が混同されたものであった。このため,この理念型の理論もまた科学の一般体系を形成することはなかった。」

大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」、64P

普遍化概念としての理念型と個別化概念としての理念型

パーソンズいわく、ウェーバーには2つの理念型が混同して使われている。パーソンズの言葉では、「普遍化概念としての理念型」と「個別化概念としての理念型」である。

普遍化概念としての理念型:不特定多数の具体的分析に適用可能な、行為の類型的仮定、または関係の類型に関する理想上の概念構成。たとえば「官僚制」。

個別化概念としての理念型:ある特定の歴史個体に即して構成された概念。たとえば「中国家産官僚制」。

・この2つが混同されることによって、「具体性置き違えの誤謬(ホワイトヘッドの言葉)」を犯す危険性をもっているという。つまり、完全なフィクションであるといいつつも、歴史的に実在する個別具体的概念を用いて理念型を構成することによって、その理念型を実在するものであると混同しやすくなってしまう。

「しかし、もし研究者に理念型という分析道具が与えられるならば、彼らは、現実に生起するさまざまな事象を、理念型と比較することによって把握することができる。その意味で理念型は、『究極的価値』要素をふくむすべての行為を理解するための、客観的基準となる。こう理解したうえでパーソンズはさらに、アレクサンダー・フォン・シュルティングに依拠して、『ウェーバーは理念型という述語のもとで、普遍化概念と個体化概念との、二つのまったく異質な範疇を一括してしまっている』という、批判的観点を提示する。パーソンズによれば、『個体化概念としての理念型』とは、『ある特定の歴史的個体』にそくして構成された概念であり、したがって当該歴史的個体にのみ適用可能な理念型である。これは、実体的な現象にかんする概念(たとえば『近代合理的・市民的資本主義』、『インド・カースト制』、『中国家産官僚制』など)と、理念にかんする概念(たとえば『カルヴィニズム神学』、『業=輪廻思想』など)とを、ともにふくんでいる。これらは、科学者の価値関心にしたがって、歴史的諸事実のなかから本質と考えられる要素がえりぬかれ、極度に単純化された概念として構成されたものである。これにたいして『普遍化概念としての理念型』は、『事象の仮想上の諸過程にかんする概念構成』であり、『不特定多数の具体的分析に適用可能な、行為の類型的過程、または関係の類型にかんする理想上の概念構成』である。『目的合理的行為』、『資本主義』、『伝統的支配』、『官僚制』などはすべて、この『普遍化概念としての理念型』と考えられる。パーソンズは、ウェーバーの理念型のなかにふくまれている『二つの異質な範疇』をこのように峻別して、理念型のフィクションとしての本来の正確が厳密に保持されているのは、『普遍化概念』の場合だけであり、『個体化概念としての理念型』は、これとまったく異質の論理的性格をもつと理解する。『個体化概念としての理念型』は、ある特定の歴史的個体にそくして構成されているために、それは『普遍的概念』ではなく、あくまで『歴史的概念』とみなければならないからである。それに歴史的個体の一側面にではなく、まさに本質と考えれられる諸要素についての概念構成である以上、研究の単なる道具ではありえない。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」59P、岩波書店

具体性置き違えの誤謬

・たとえば「官僚制」という普遍化概念としての概念すら「実体化」する傾向がウェーバーにはあるという。普遍化概念と個別化概念を区別していないと、普遍化概念を個別化概念的に、つまり実体的にあつかってしまう危険性が前提にある。パーソンズいわく、ウェーバーは「鉄のように貫徹する合理化」といった表現を官僚制にあたえており、これは理念型に歴史的具体性が付与されてしまっているという。つまり、「具体性置き違えの誤謬」をおかしてしまっている。ウェーバーは官僚制が近代化の帰結としては不可避であり、ペシミズム的な要素があるといいます。

「つまりウェーバーの場合、理念型は本来フィクションであるとされているにもかかわらず、理念型のなかに、歴史具体的な事象にかんする『個体化概念』を同時にふくんでいるために、具体的分析のなかでは、そのフィクションとしての性格があいまいにされ、たえず実体化される危険をふくんでいる。『個体化概念』のみならず、官僚制のような『普遍化概念としての理念型』もまた──この両者が明確に区別されていない以上──、実体化の危険性を免れていないという。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」59-60P

「とはいえ、『鉄のように貫徹する合理化過程』(=官僚制的化石化)という『ウェーバーの経験的著作の顕著な特徴』も、このような方法論的問題点の帰結にほかならない。『疑いもなく、鉄のように堅固な合理化過程[というウェーバーの理解]の理論的基礎は、社会発展の一局面を分離し、かつけっして歴史的現実を描画したものとは考えられていなかった理念型に、歴史的具体性を付与する点にあったと思われる。もしこのような誤りが正されるならば、合理化過程が全社会過程を絶対的に支配しているとする命題は、地に落ちてしまうことになろう。』こうしてパーソンズは、ウェーバーの悲観的な将来展望のもつ一面的な像を克服する方向として、『理念型の結合のしかたにふくまれている硬直性』の克服を、模索することになる」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」67-68P

理念型と創発特性との関連、全体と部分、一般理論と特殊理論、モザイク理論

1:理念型(個別化概念)は変数の値が固定されてしまっている(つまり定数)。

2:そのような理念型は具体的な歴史的個体にのみ適用可能であり、普遍的に適用可能することができない。ただし、差異を索出するという意味では使用できる。

3:変数の値が固定された特殊な枠組みは他の特殊な枠組みと同じ共通の枠組み(一般理論)をもっているわけではないので、それぞれの枠組みの中で完結している。特殊理論同士を組み合わせても明快な説明に至らず、モザイク理論になってしまう。

4:具体的な事象を分解して、一面的に矛盾の内容に構成して説明することには限界がある。なぜなら、他の事象との相互作用(創発特性)などが見えてこないからである。ある特定の行為に関するある特定の理論を構成しても、他の行為との関連が大局的に見えてこない。他の行為との相互作用、つまり行為体系レベルの枠組みや社会体系レベルの枠組みなしには、行為レベルを説明することはできない。

・「具体性置き違えの誤謬」を犯さないような概念構成とはなにか。

→「分析的概念」である。パーソンズでいえば「目的」や「規範」といった「分析的要素」から構成された「単位行為」や、「単位行為」から構成された「創発特性」など。

・なぜ「具体性置き違えの誤謬」を犯さないのか

→ウェーバーの理念型のように歴史的・具体的な「実体」を抽象化したものではないから。たとえば「ヒトラーの第三帝国支配」という「具体的な実体」を抽象化すると「カリスマ的支配」になる。しかしこのカリスマ的支配は「具体的な実体」を抽象化したゆえに、「具体性置き違えの誤謬」を犯しやすい。論理学の用語で言えば、「ヒトラーの第三帝国支配」は「カリスマ的支配」の「外延」になってしまっている。生物という概念のなかに人間という概念があるような関係である。それに対して、「太陽」は質量の外延ではない。「行為者」は目的の外延ではない。「ヒトラーの第三帝国支配」は「カリスマ的支配」の外延である。「人間」は「生物」の外延である。

パーソンズにおける「質量」は行為者の「目的」にあたる。この目的は一般的概念であり、一般的行為者の属性であり、歴史的・個別的な行為者の具体的な目的ではない。だからこそ実体化しにくい。太陽における質量と同じように、行為における目的であり、それは「具体的な実体」ではなく、「具体的な属性」を抽象化したものである。太陽の質量は「具体的な実体」ではなく「具体的な属性」であると同じように、行為者の目的は「具体的な実体」ではなく「具体的な属性」としてみなされる。

端的に言えば、「カリスマ的支配」と頭の中でイメージしたときにヒトラー(実体)が頭の中でチラつくのである。一面的に、観察者の価値理念から秩序立てて構成したのだからそれは「完全な虚構」であるといったところで、具体的な実体、歴史的な個体を元に構成している以上、それが実在すると思い込む危険性をもっている。だからこそ、概念を構成する際には「具体的な行為の実体」ではなく「具体的な行為の属性」を抽象化するべきだ、ということになる。実際にウェーバーは「官僚制」を実体化するような表現を行っている(官僚制的化石化等)。

「ウェーバーの理念型は、変数間の固定的な関係に着目して、なにほどかアドホックに構成されており、実体化の危険からもまぬがれていない。このような理念型が、『理想的な実験的条件』を備えていない複雑な現実に適用されるならば、『ウェーバーの多元主義は、理念型を本質とみなすことによって、具体的な歴史的個体や歴史的諸過程の有機的統一を、破壊しがちとなる──ある意味で、分析それ自体に内在しているわけではないにしても──。理念型は、その実体化という局面において、文化や社会を、異質な諸原子(=類型)』からなると考える、いわゆる『モザイク理論』に帰結する。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」67P

「そもそもパーソンズは、より一般的に、理念型のような類型概念に、分析道具としての大きな限界を感じ取っていた。もし蒸気機関のような機械体系を部分ないし単位に分解しても、シリンダー、ピストン、ボイラー、バルブなどは、意味をもちうる。しかし有機的システムの場合、ひとたびシステムから分離された部分ないし単位は、システムのなかにおかれているときと同じものではなく、それはいわば『虚構的性格』をもつ。逆にいえば、有機的システムは、諸部分のたんなる合成ではなく、諸部分が関係しあったときに新たに創出される『創発的属性』をもつ。それゆえ、有機的システムを部分ないし類型によって理解することは、ホワイトヘッドのいう『誤って与えられた具体性の誤謬』におちいる危険性が大きい。部分ないし類型概念の抽象的性格を失念し、それを実体化する危険性があるという。この危険は、同時に、複雑な有機的システムを、極度に単純化して理解することにつながる。」

高城和義、「パーソンズとウェーバー」60P

「論理学的に言えば、「類」概念は「種」から「個」へ特殊化される普遍概念であり、逆に言えば、「種」や「個」は「類」の外延を構成する関係にある。したがって、もし理念型が「類」概念であるとすれば、その特殊的要素(すなわち理念型の実質的内容)は、類型の外延にあたる「具体的実体」で構成されねばならない。例えば「カリスマ的支配」という類型の特殊は、ヒトラーの第三帝国支配や、ある教祖による教団支配といった具体的事例で構成される。だがこのとき、これらの事例をもとにして構成された理念型は、事例の多様な属性から特定の観点を価値関心に従って一面的に選択し、それを論理適合的に整合化することによって構成した「仮説的実体」であるがゆえに、理念型と一致する事態そのものを現実に見い出すことはできない。すなわち理念型は具体的事例に適用し、その偏差によって事例の個性を認識することを目的とする概念であり、それによって事例の具体的属性を記述することはできないのである。それに対して「分析的概念」は類概念ではなく、「現象の具体的属性あるいは性質」を抽象化した概念である。従って分析的概念の特殊的要素は、「ある対象のある属性に関する具体的な値」で構成されるのであり、何らかの実体を値としてとることはない。例えば太陽の「質量」という場合、それによって記述されるのは、太陽の具体的な質量の値であり、太陽そのものが「質量」の外延であるわけではない。すなわち分析的概念は具体的事例を、ある属性に即して適切に記述するという意味で「実在と対応する」のである。もちろん分析的要素を組み合わせて、対象を分類することも可能である。だが分析的概念は、第一義的に「分類」ではなく「記述」に指向する概念である。すなわち、ある対象を属性の観点から部分へと分解(すなわち分析)し、それぞれを具体的な値(または事実)で記述する。」

赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」127P

補論:ウェーバーの理念型とファウスト

・ウェーバーにおいて理念型は複数の構成が存在できると考えており、相反する複数の理念型を対決させていくことこそ、認識実践の進歩と考えている。

・ウェーバーにおいては、概念は非実在であり、常に後代によって更新されていくもの、批判されていくものとして扱われている。実在と対応した属性ではなく、実在と理念型を比較することで歴史的実体の個性が明らかになる、というその場かぎり、その時代限りの道具にすぎない。

・たとえば「ヒトラーの第三帝国支配」によって「カリスマ的支配」が構成され、それが実体化されるようなら、概念と実体は異なるものだと批判すればいい。過ちがあれば正していく。「ヒトラーの第三帝国支配」が理念型の具体事例として好ましくないなら、べつの具体事例を使ったものと対決させていけばいい。未来の時代において、もはや特定の価値理念から形成されたある概念が不必要となることもある。それぞれの時代において、それぞれの価値理念から形成していけばいい。たとえば今の時代は資源が有限なので、経済的な観点から概念が構成されることがある。しかし将来では資源が無限になり、別の観点から概念が構成されることがあるかもしれない。

・パーソンズは過度の一般化、過度の抽象化をしすぎて行為者の主観、観察者の主観という観点を取りこぼしているのではないか。

「科学のみが寄与できる出来事とは、経験的実在[そのもの]でもなければ、経験的実在の模写でもなく、ただ経験的実在を思考により妥当な仕方で秩序づける、概念と判断である。……..生活は、その非合理的な現実性において、また、可能なその意義の豊かさにおいて、汲み尽くされることなく、価値観系の具体的な形成は、つねに流動的であり、人間文化の幽遠な未来に向けて、たえず変遷を遂げる運命にある。あの最高の価値理念から分かれ出てくる光は、時を貫いて流転していく膨大な出来事の混沌のなかから、たえず交替していく一有限部分をとらえて、その時時に降り注ぐのである。」

マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」149-150P

「しかし、いつか色彩が変わる。無反省に利用された観点の意義が不確かとなり、道が薄暮れのなかに見失われる。大いなる文化問題が、さらに明るみに引き出されてくる。そのとき、科学もまた、その立場と概念装置とを添えて、思想の高みから事象の流れを見渡そうと身構える。科学は、ただそれのみが研究に意味と方向とを示せる星座を目指して、歩みを進める。」

同,161P

「……新しい願望が目覚める。女神の永遠の光が飲みたくて、夜を背にし、昼を面にし、空を負い、波に俯して、わたしは駆ける。」

同,161P、ウェーバーによる『ファウスト』の引用

「しかし、ウェーバーにおいて理念型は、「現実的なるものの叙述ではない」けれども「存在すべきもの」とか「模範的なもの」を意味しているのではなく、むしろ認識の手段として位置づけられており、複数の構成が可能であると考えられている。そしてウェーバーは、相反する複数の理念型を対決させていくことにこそ認識実践の進歩を認めているのである。要するに、理念型は、ウェーバーにとって何よりも各々の認識者の関心に支えられて構成されたところの「主観的なるものと関連する諸要素を含むところの――これは、パーソンスによって排除されていたものである――カズイスティックな認識手段なのである。そしてこのようなウェーバーの理念型に対する態度は、「ひとつの完結した概念体系をつくりあげ、その中に何らかの意味で究極妥当的な組織のかたちで実在を総括し、さてそこから再び実在を演繹しうるようにするのがたとえいか程遠い未来のことであるにしても文化科学の目標でありうるという思想の無意味なこと」を主張し「永遠の春」としての科学をめざす彼の立場に反映されている。それ故、パーソンスが言うところのウェーバーが「体系化された一般理論を発展させることを誤った」という批判は、不当であるし、何よりもウェーバーにおいて概念の非実在性と更新されていく認識手段の根拠となっている「主観的なるものとの関連」を無視したうえでの理念型批判は、ウェーバーの曲解にほかならない。」

前川正行「初期パーソンズにおける論理構造」、132-133P

補論:なぜ観察者は他者の内心がわかるのか

POINT:パーソンズはなぜ、他人が行為者本人の目的や規範を特定できると思ったのか

1:ア・プリオリな前提があるから。パーソンズは人々が規範へと志向するということを前提としており、また共有された規範があるということを前提としている。それがどのように生成されたかの説明をせず、所与のものという前提をおく。これが「論点先取」と批判される理由である。

2:人々は同じ規範を共有しているゆえに、同じ規範が具体的なそれぞれの人間の目的を規定していることになる。同じ規範によって目的が規定されているので、人々の目的は近似している、と推定することができる。つまり、同じ規範によって我々は規定されているので、他人であっても本人の目的を「そのもの」ではないが、「近似的に」追体験できると考えられる。つまり、「ありのままの目的(リアリティそのもの)」を説明することはできないが、同じ規範によって規定されているのだから、「ありのままの目的のある側面(リアリティのある部分)」は分析的に把握できるのではないか、という判断。

・たしかに具体的な行為者の具体的な目的を全てありのままに説明することは「複雑」すぎて不可能である。具体的な目的を全てありのままに「記述」することも「概念によって抽象化」することもできないし、すべてを「理解・解釈」することもできない。そんなことができるのはラプラスの悪魔の前提にいるような神様や宇宙人のみである。

例:全ての因果的連関を特定することは人間には不可能。たとえば田中さんが受験勉強をする行為の目的を特定するためには、田中さんだけではなく、田中さんの両親との関係、友人との関係、政治との関係、学校との関係、近所との関係…と無限に思えるようないんがかんけいの連鎖からなりたっている。もしこの全ての因果的連関を特定できるならば、抽象理論などいらない。しかし特定できないならば、抽象理論は必要とされる

・ウェーバーの場合は抽象概念として、理念型を使う。理念型という虚構と、現実の行為を比較して、その差異をみつけだす。たとえば「プロテスタントの予定説」は理念型で考えれば、論理的に「宿命論」に帰結する。なぜなら、救われているかどうか産まれる前から宿命的に定められているなら、現世で何をしてでも無駄だからである。

しかし現実には、「現世では何をしても無駄」というような宿命論に基づいた行為がされていないことが確認される。むしろ、より、倫理的な行為が積極的に確認できる。

→概念(理念型)と実在には差異(変異)がある。この変異はなにか、と明らかにしていくために理念型は有用となる。ウェーバーの分析では「救われているかどうかという不安」が明らかにされていく。理念型のモデルでは目的合理的行為が基準とされていて、感情的行為は排除されていた(だからこそ一面的なモデルなのである)。しかし、理念型によって、リアリティの一面が明らかになっていく。

→リアリティそのものは特定不可能だから、抽象理論を使って、個別的・具体的な現実の一面を理解し、その因果的連関を突き止めていこう、というウェーバーの立場。

パーソンズも基本的にはウェーバーと同じ立場である。なぜなら、「リアリティそのもの」は無限に多様であり、全て特定することはできず、全て記述することもできず、理論(分析的概念)を通してのみ把握できると考えるからである。

ただし、パーソンズはウェーバーとは違い、個別的・具体的でその場限りの概念ではなく、一般的な概念や、それを関係づけた体系(システム)を通して分析するべきだと主張した。パーソンズいわく、「ウェーバーは主観的に理解された個人行為者の準拠枠から出発したために行為の社会体系の一般的枠組みを発展できるとは考えなかった」らしい。

端的に言えば、理念型(概念)同士の関係が体系的に明らかになっておらず、その場限り(アドホック)な、その歴史的個体かぎりの説明になっているという。

「第二の留意点として、この行為概念は自分の身体動静と他人の身体動静を区別しなければならない。この区別の必要性は概念を具体的現象へと適用し、それを言語化しようとする局面であらわになる。当事者が自分である場合には、その身体動静が行為であるか否か、また行為であるとしてそれがどのような目的を持って為されるのかを確信し、その内容を知ることは容易であるように思われるだろう。しかしこの概念を他人にまで適用しようとする際にはそれほどうまくいかない。その場合には可規的な身体動静から不可視の目的を導き出す以外に適用の方策があり得ないからである。つまり当事者が自分である場合には、身体動静そのものが為される事前に、目的を〈ありのまま〉の実体として確信し、その内実を描写することは可能であるように思われるだろうが、当事者が他人である場合には身体動静そのものが為された事後にしか、自分によるその確信、描写は可能でなく、且つ常にその妥当性についての疑念を打ち消すことができない。」

「社会学的行為理論において、この問題は、自分の行為と他人の身体動静とのあいだに存する異質性を積極的に評価する方向ではなく、いかにすれば両者のあいだに同一性を確保できるのかという方向に向けて思考され、ヒューム、アダム・スミスにおける「共感」概念からさほど隔たっていない「追体験」による近似値的把握の可能性という素朴ではあるが説得力ある想念から始まって、粗型としてはヴェーバーに、また洗練されたものとしては初期パーソンズに要約されるような規範的価値システムの「共有」として解決されやここでそれぞれの解決について詳述することはできないのだが、いずれにせよ諸個人の目的よりも上位に位置する、或いは諸個人の白的を内包する集団的目的の「共有」を解決の鍵とすることにかわりはない。他人の身体動静は自分と目的を「共有」しているから、自分の行為の似姿として扱うことができる、またそうすることによって行為概念は実用的な理論的資産であることができる、というわけだ。近年でも例えばアレクザンダーは次のように述べて「共有」による解決を要約し、基本的にそれを支持する立場をとっている。「行為の『目的』という伝統的概念は、実際に、行為に対する内的、主体的準拠のふたつの異なる水準を含むものとして見られ得る。-規範とは行為を導く将来への期待の総合的概念である。目標とは所与の行為において追求される特定の目的であり、特定の状況への準拠とともに追求される理想的状態である」。パーソンズ、ブレクザンダーにおいて、集団的規範と個人的目標は同じ「目的」の語のもとに統括される。自分と他人の身体動静は集団的規範を介して同じ「目的」を持つものと見なされ得る。しかしこの解決は他人の身体動静の拭いきれない不可解さを抹消してしまうのではなかろうか。パーソンズにしたがうならば、我々は他人の〈ありのまま〉の目的を把握することができることになる。「(行為)図式の準拠枠は特別な意味で主観的である。つまり、それは、分析され考察される行為をおこなう『行為者の見地から見て生起する』諸現象、諸事物、諸出来事を論じるのである」両RSEsa–)生]。この文言は、まるで、自分が他人になり替わることが可能である言っているように読める。」

左古輝人「行為概念の再検討」6-7P

補論パーソンズへのよくある批判

・パーソンズへよくある批判

1:パーソンズの理論はそもそも正しいのか。もし一般理論が正しければ、たしかに社会現象を近似的に捉えることができる。多くの社会学者はこの一般理論の挑戦は失敗したと考えている。AGIL図式が論理的整合性や近似性を失っていることを橋爪大三郎さんなどに論証されているケースなど。他にもア・プリオリな前提があるなど(論点先取り、大澤真幸さんなど)。

「一般理論という着想を導入することで、パーソンズはウェーバーの熟練的な解決と逆の方向に、社会学をひっぱった。何しろ、四つの要件のみたされ具合がわかれば、社会の大きな動きがつかめるというのだから。なかなかすごい着想だったと私も思うが、問題はもちろん、そのしくみの理論が正しいかどうかにある。現在では、多くの社会学者はパーソンズの構造機能主義は失敗したと考えている。どこで破綻したのか。それは大きく二点ある。一つはモデルとしての論理的整合性、もう一つはこれが近似なのかである。」

佐藤俊樹「社会科学の方法」、203P

2:主意主義的要素が要素分析の時点でほとんどなくなってしまっているのではないか。意味学派からの批判。概念の実在性を強調するがゆえに、主観的世界からの創造的解釈や理解を軽視している(シュッツなど)。

3:「過度の一般化(カミックなどが言及)」を行い過ぎではないか。たとえば明確な目的がないような習慣的行為や感情的行為はどうやって説明するのか。ミルズによれば「難解な誇大理論」。

※ただし、パーソンズによる「社会システム」によって社会現象を捉えるという考え方は、N・ルーマンなどに引き継がれていった。ウェーバーが言うように、学問の目的は後世において批判され、乗り越えられていくことにあり、その点でパーソンズを理解し、問題点を把握し、自分でそうした問題点の改善を考えていくことができるという点で有意義である。

参考文献

参照論文

星が多いほど参考・引用が多い論文となります。とくに星にそれ以上の意味はありません。自分の振り返り用です。

★★1: 大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」(URL)

・主意主義に関して、単位行為の詳細。今回依拠しているメインの論文。

2:大野道邦「ソローキンとパーソンズ文化システム概念をめぐって」(URL)

単位行為の詳細

3:西山真司「 政治学におけるエスノメソドロジーの寄与」(URL)

分析的リアリズムとはなにかについて およびガーフィンケルとの関連

4:佐藤勉「社会的なものの論理―T・パーソンズのばあい」(URL)

置き違えられた具体性の誤謬、個人主義とパーソンズ

5:周藤真也「エスノメソドロジーと人びとの社会学」(URL)

具体性取り違いの誤謬

6:鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」(URL)

単位行為の詳細 特に単位要素や分析的要素の詳細

7大黒正伸「方法論的個人主義と「原子論」―経済学方法論から社会学が学ぶこと―」(URL)

・分析的法則とは

★8:溝部明男「パーソンズ研究における二つのスタイル : J.C.アレグザーンダとC.カミック」(URL)

・分析的リアリズムとは

9:吉良伸一「初期パーソンズ研究──パーソンズ社会理論の基本的視角──」(URL)

・分析的リアリズムとは

★10:鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 1)」(URL)

★★11:赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」(URL)

・分析的リアリズムとは 経験主義の説明、分析的リアリズムの定義、ウェーバーとの関連など詳細に語られている。おすすめ。もっとはやく読みたかったが、検索になかなかひっかからなかった(画像媒体なので)。

★12:前川正行「初期パーソンズにおける論理構造」(URL)

・分析的リアリズムとは

13:左古輝人「行為概念の再検討」(URL)

・なぜ他人である観察者に行為者の内心がわかるといえるのか

今回の主な文献

タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造 』

※全5冊あるみたいです

タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造 』

高城和義『パーソンズとウェーバー 』

高城和義『パーソンズとウェーバー 』

中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」

中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

大澤真幸「社会学史」

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

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蒼村蒼村

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