宮﨑駿の「出発点(1979~1996)」についてのまとめ

宮﨑駿の「出発点」について

600ページほどの長い本のなかで、私が気になった箇所をピックアップして紹介(要約)していくいくことにする。

アニメについて書かれている本ではあるが、「創造」に関する本としても読むことができる。「創る」ということはどういうことかについてこの本は我々に教えてくれる。

 日常の仕事の中で、御都合主義の話に、ちょっぴり真実味を付け加えたり、カラッポな人間像に、かすかな息吹を吹き込むことだってできる。汚い絵になるところを、とるに足らない程度であっても、ましな画面にしていくこともできる。そして、相手が油断して、スキができるのを狙いつづけるのだ。

 言い訳をやめて、日常的に努力している者にだけ、そのスキ間が見える。そのとき、君は初めて、君の展開したかった世界を、思いっきり投入する。

(54頁)

要約

 1 失われた世界への郷愁がアニメ制作の原動力となる
 2 よい作品を見たり、それを乗り越えていく姿勢が大切
 3 虚構であっても中心にリアリズムがなければならない
 4 ギャグは一生懸命やった人が我を忘れて日常的な行動からはみ出してしまう、そういうもの
 5 何がいいたいか(テーマ)は技術よりも大事
 6 芸を磨く過程で、素材は”かたち”をなしていく
 7 世界を創ると、世界に縛られ始める
 8 マンガ映画の本当の面白さは、自転車が、スーパーカーと競争して、正々堂々と勝利を収めるところにある
 9  自分の子供時代に見たかったもの、あるいは自分の子供がみたがっているもの、つまり、そのとき何が欲しかったのか、というもの作りたい。それが作れたら、ほんとうに良い
10 自分自身がしっかりと土台をもたないといけない

失われた世界への郷愁について(42~51頁)

失われた世界の憧れとしてアニメがある

宮﨑駿 ぱいにゃん

 10代なかば(ミドル・ティーン)において、誰しもが自分の世界を持ちたいと願う。受験勉強やなんやらで抑圧される時期であり、同時に異性への関心をもつ時期である。そして彼らはアニメが好きだ。宮﨑駿さんはこうした感情を失われた世界の憧れと名づけている。「自分はいまこうなっているけれど、こうでなかったら、ああいうこともできたはずだ」、こうした気持ちが彼らをアニメに熱狂させているのである。

 世界の喪失を埋めるものとして、アニメがある。これはなかなかおもしろい指摘だ。喪失を埋めるものは他にもありそうだ。スポーツだとか、映画、テレビドラマ、ファッション、小説といろいろ考えられる。しかし、ミドル・ティーンが熱狂するのはとくに”アニメ”だ。あるいは”漫画”だ。人間は生まれたときに、可能性を失っている。ある時代に生まれてしまえば、他の時代にうまてくる可能性を失うことになるからだ。あるいは同時代であっても、他の性別、他の家族といった多くの可能性を失っている。また、成長していくにつれて他の可能性も次第に失っていく。あのときもっと勉強をしていれば、あのときあの子に告白していれば、あのとき怪我をしなければ、さまざまな可能性が偏在する。そうした失われた可能性に対して、人間は「空想」をもちだす失われた可能性への憧れが、 アニメの原動力となって空想を紡ぎ出していくといえる。

 人間は、みたされない部分を”なにか”ととりかえることにより、満足する。宮﨑さんは恋人のいない時代に、東方動画の「白蛇伝」に出てくる「白娘(パイにゃん)」に対して恋愛感情に似た思いをもっていたそうだ。恋人がいないという満たされない部分を。アニメの女の子で埋めていたといえる。アニメは満たされない部分の代用品だ。悲劇の主人公に憧れる気持ちと、実際にその渦中に入ることは嫌だという気持ちが同時にある。そこには一種のナルシズム(自己陶酔)が存在している。

アニメをつくる姿勢について

 宮﨑さんの変わらぬ姿勢は、「よい作品を見たり、それを乗り越えていく」姿勢だ。これじゃだめじゃないか、自分が作るとしたらこうする、といったような姿勢が大事である。宮﨑さんいわく、「みていて胸がドキドキして、しばしぼう然というようなアニメ」は非情に少ないそうだ。こうした作品こそほんとうのアニメであるという。そういう作品を作るためには、たった一枚の絵を描くにしても集中し、アニメーターが思いを込めて作らなければ、誕生するものではない。

リアリズムについて

出発点 宮﨑駿

 「アニメの世界は”虚構”の世界だが、その中心にあるのは”リアリズム”ねあらねばらならないと私は思っている」と、宮﨑さんはいっている。虚構とは「事実ではないこと、いわゆるフィクション」だ。そしてリアリズムとは「現実をありのままに模写・再現しようとする芸術上の傾向」を意味する。虚構とは事実ではないものを、”事実らしく”つくりあげるということなので、虚構においてもリアリティが重要であることがわかる。リアリズムだけを極端に推し進めてしまえば、現実を重視し、空想を排除することになるので、紅の豚のように豚が喋ることはないだろう。あくまでもリアリズムを中心に、虚構を構成するという、バランスが重要であることがわかる。

 たとえば機械を動かすのは人一人であるが、動かすまでに設計者や整備士など何人もの人がいる。そういうところを細く描くことで、虚構の世界であっても本物であり、それを描かないような作品は嫌だと宮﨑さんはいう。現代社会では人間が機械に従属し、機械が人間の運命の鍵を握っているが、このような”現実”の社会に対して、”アニメ”の世界においては人間が機械を動かせるのである。それにもかかわらず、多くのアニメはそれを放棄してしまっているという。これは面白い指摘である。現実の社会でできないようなことを、アニメの世界ではできる。小説や映画の世界でも同じである。創造によって、現実とは異なる世界を作り出すことができるのだ。だから創造は面白い。

つくられた世界? たしかにそうさ。客も役者同様それは知っている。それでも楽しんでくれるのさ。・・・お客さんたちは、自分が勇敢で強くて、美しいことをさとるんだ。そうした性質があるからだ!

 つくられたウソの世界? そうじゃない! わしらはお客さんたちに真実を見せているのさ。こういうふうにだってなれる、というかたちでね。

(ロイド・アレグザンダー「セバスチャンの大失敗」神宮輝男訳)

 アニメーションをつくるということは、ウソ(虚構)の世界を作ることでもある。本当にあった事実ではないからだ。もしこうなっていたら、こうだっただろうという空想を、事実のように見せるということだ。そこにはリアリズムも併存している。そしてもうひとつの世界を提示することで、お客さんたちの現実の疲れを癒やし、清々しい気分にさせてくれる。普段は弱気な少年も、アニメを見ているときは強くなった気分でいることができる。そこにアニメの魅力がある。

ギャグについて

出発点 シータ

 「ほんとうのギャグとは―。一生懸命やった人が、なにかのひょうしにわれを忘れて日常的な行動からはみ出してしまう―そういうものだろう。」と、宮崎さんはいっている。人の間抜けさ、失敗を笑うのはギャグではなく、いやらしいものであると。たとえば美しくやさしいお姫様が、恋人の危機を救うために賊を足で蹴飛ばしてしまうようなとき、笑いが生まれる。お姫様像がこわれるのではなく、「急にお姫様が人間として生きてくる」。

作品を作るにさいして何が一番大事か

この世は生きるに値する

 「その作品で何をいいたいかということ」が一番大事である。いわゆるテーマだ。もしテーマがはっきりせずに、技術だけが先行したりすると、表現したいことが曖昧な、なんだかわからない作品になってしまう。反対に、技術が劣っていたとしても、表現したいことがはっきりしている作品は、高く評価される。

若いときはだれしも「はやく一人前になりたい」との気持ちからか、すぐ技術へと先走る。いまだ、アニメーターの道へ飛び込まぬ人たちまでもが、技術をうんぬん語り、技術面の知識を得ようとする。しかし、アニメにおける技術というものは、実際にこの世界へはいれば、わずかの間にマスターできることなのである。(49頁)

 宮崎さんは大学に行くべきか、アニメーターにすぐなるべきかという高校生の質問に対して、「なんでもよいから大学へ行きなさい。大学へ行き、四年間、大学生活をエンジョイしながら、絵の勉強したいならするのがよろしい」と答えてる。もしすぐアニメーターになってしまえば、たくさんの仕事が押し寄せてきて自分自身のための勉強する時間がなくなってしまうからだ。物の見方や考え方といった基礎的な分野を固める時間が大事だ

K0030831

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 アニメの世界に入ってしまうと、本を読んで勉強したり、すぐれたイメージを創造するヒマがない現実が待っているという。たとえば、「自分本来のイメージで飛行機を飛ばそうとするならば、飛行機に関する本を一冊でも読んで、そこからイメージをふくらませて欲しい」と宮崎さんはいう。テレビやアニメの真似、ジェット旅客機の経験からだけでは、ほんとうの飛行機を飛ばせることはできない。これはリアリズムの重視とも大きく関わっている。自然な歩き方、自然な建物、自然なロボット、自然な服のシミといった多くのリアリズムは経験と学習の両方から生まれるといったいいだろう。

発想からフィルムまで(52~77頁)

発想

夕焼けのジブリ

 「混沌の中から、君は自分の表現したいものの姿をおぼろげにつかまえていく。そして君は描きはじめる。ものがたりはまだできていなくても構わない

 企画としての物語や原作は引き金にすぎない。”漫画”原作のアニメは、世界を創る作業は済んだあとなのでつくる作業がつまらないらしい。引き金に触発され、「君が今まで自分のうちに描いてきた世界、貯えてきたたくさんの風景や表現されたがっている思想、情感が、君の中から湧き出てくる」。大自然で遊んだり、人のあたたかさ、そしてつめたさにふれたりしてきた、そういう感情や風景が湧き出てくるのだ。

 「アニメーターになろうとする君は、すでに語るべき物語や、ある情念や、形にしたい架空の世界を、素材としていくつも持っているはずだ

  こうした世界は人が語った「借り物の世界」であったり、現実逃避の「ナルシズムの世界」であったりする。自己満足、自分本位で語るのではなく、誰かに伝えるためには、借り物やナルシズムの世界を、一つの世界に仕上げていかなければならない。想像力、技術などの芸を磨く過程で、素材は”かたち”をなしていくのである。表現したいもの、喪失を埋めてくれるようなもの、憧れているもの、そうした素材を一つの世界に仕上げていくこと、進歩させていくことが重要である。そして素材はすべてのはじまりである。表現したいもの、テーマを自分の無意識や過去の意識の中、いわゆるカオス(混沌)の中からつかみ出してくるのだ。

こずえとジブリ

 素材さえつかみ出すことができれば、ストーリー、キャラクター、背景、内容などは後からついてくる。最初に一つの世界の貴重となる絵を描く。そして「初めて描かれた絵」が生まれ、作品の準備段階がはじまる。

 どんな世界、シリアスなのかマンガ的なのか、デフォルメの度合いは、舞台は、気候は、内容は、時代は、太陽は一つなのか三つなのか、登場する人物たちは、そして主題は何か・・・。描きすすむうちにしだいに明らかになっていく。できあいのストーリーに従うのではなく、こんな物語の展開は?こんな人物は出せないか!幹を太くし、枝をひろげ、あの梢の先(それが発想の出発点だったりする)、そしてその先の葉っぱへまで、枝はどんどん伸びていく。

 「できるだけたくさん描くことで、しだいに一つの世界が作られていく

 世界を構築していくさいに、矛盾したり反ぱつしたりする世界を捨てなければいけない。もし捨てたものが大事なものだったら、いつか使う日がくるまでにとっておけばいい。

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 それはかつて、自分が夢想した絵の切れっぱし、組立て中に放り出した物語の片方の幹、ある少女への憧れの記憶、趣味と思って深入りしていた分野の知識などが、一つ一つ役割をもって一本のナワに綯(な)われていくのを。君の中の、バラバラの素材が一つの方向をみつけて流れはじめたのだ。

 やがて虚構の世界の原形ができあがる。それがスタッフ全体の共通の世界になっていく。それはもう、そこにある世界なのだ!

 このプロセスがアニメーションの制作過程で”イメージボード”と呼んでいる過程で、もっとも胸はずむ時期である。

 

演出

 どのシーンに力を注ぐか、そういったバランスを決定するのはアニメーターではなく、演出家である。仮に脚本通りに絵を描いていくだけなら、ストーリーボードはいらない。脚本の不備を補うものとして、ストーリーボードの意味がある。また、ストーリーボードより絵コンテのほうが安上がりだという。予算や製作時間の問題から、ストーリーボードが省かれるようになり、しだいにアニメーターたちは指示されたものを描き、動かすだけの職業になっていった。アニメーターは演出をしなくなり、ストーリーボードをかかなくなったのである。

机にむかって呻吟(しんぎん)し、ボードを描き、自分の考えに笑い、興奮し、ときにはのめりこんで涙したアニメーターたちは、こうして退場していった。漫画映画という言葉が光を失っていき、「アニメーション」になり、「アニメ」になっていく過程である。

(61頁)

脚本

 「『発想』の段階で描いたたくさんの絵、語られたイメージの混沌とした材料の中に、実は表現したい本体がかくされている。脚本で大切なのは、本体を削り出し、しっかりとした根幹を打ち立てることなのだ。

 アニメーターのしごとは、クリスマスツリーの飾り付けのようなものだという。脚本家の仕事はクリスマスツリーの幹をつくることだ。幹がないクリスマスツリーも、飾りがないクリスマスツリーもバランスが悪い。

極端な話、「A(主人公)とB(悪役)が最後に激しい闘いを演じてAが勝つ」だけでも脚本はいいのだと思う。それまでに、AとBがどういう人物で、なぜかくも激しく争わざるをえないのかが、しっかり描かれているなのならあとはどれほど愉快に、あるいは爽快に決着をつけるかの工夫であり、多くの場合動きが決め手になるし、絵にしてみなければわからないことが多い。これこそ、アニメーターの領域の仕事である。

主題と脚本と発想について

主題(テーマ)をはっきりさせる。主題というと、文明批評とか、世界平和とか大ゲサな看板を考える人もいるが、ここで言う主題は、もっと単純で素朴で、つまり根源になるものだ。(62頁)」

 大きな看板ほどいい加減な作品の隠れミノになりやすいらしいです。

大切なことは、しっかりと裏付けのある人物たち、その人間たちが生きることを肯定している人たちであること、その人間の願いや目的がはっきりしていること、そしてできるだけ単純で無理のない筋の運び、だと思う。脚本がそれを踏まえてくれたなら、あとの飾り付けはアニメーターの仕事だ。そのシーンの意味をはっきりつかみ、登場人物の考えていることを踏み台に、芝居やアクションを考えていく。(62~63頁)

 「幹(脚本)に不必要な物を削ったり、足りないものを補ったりして自分の頭のなかにその世界を再構成する。」

 風景や家の構造などを頭のなかに構築していく。そうして世界を創る。世界を創ると、世界に縛られ始める。これは必ずしも悪いことではない。構造に矛盾したものを付け足すことはできないのである。自分の作った世界、頭のなかの世界を写生できるようになるまでにイメージを固めておくことが大切だ。私は創ったものに創られるという感覚、縛れるという感覚が一番興奮する。創造の爆発が起きている感じがする。対象と主体の合体のような感覚が、自分の中に広がっていくのだ。爆発をいかに形にして、見る人に伝えられるのか、そこを考えるだけでほんとうに楽しい。

 丘があった、そこに登れば何が見えるのだろう。自分で登っていって、「ああ、湖があったんだ!」と。自分で発見したりもする。この仕事が場面設定の基礎なのだ。

 その世界でいま、AとBが対決しようとしている。あとはジグソーパズル。ありとあらゆる方法を考える。もし自分がAだったらどうするか、Bだったらどうするか。

 このとき、大切なのは理屈をとおすことではない。理屈はいくらでも考えつく。一番面白い方法を考えるのだ。かつて、アニメーターが笑ったり怒鳴ったり泣いたりしながらたくさんのボードを描いたように、描いていくにしたがってよくわかってくるはずだ。それぞれの人物のそのときの感情、怒りや喜びや、やさしさが自分のものになっていく。よく言われるように、役者としてのアニメーターに君はなっていく。

 

漫画映画の面白さ

 

マンガ映画の本当の面白さは、自転車が、スーパーカーと競争して、正々堂々と勝利を収めるところにあるような気がする。」

 通常、自転車がスーパーカーに勝つことはない。もし本当に勝ったらパロディのようになってしまう。そこで、上手な嘘の積み重ねで説得力のある勝利になったとき、愉快になるという。私の記憶が曖昧なのだが、丸裸の未来少年コナンは様々なロボットや武器を備えている敵にたちむかっていき、勝利するというストーリーがだった気がする。いきなりコナンが超人的なパワーを発揮してすべてを破壊する、というストーリーは愉快ではないだろう。出会った仲間たちと協力したりすることによって的に勝利していく、そういう積み重ねがうまくいき、説得力のある勝利になるのではないだろうか。

マンガ映画の中で、のりものが地を走り、水をくぐり、大空をかけるのは、人を、束縛から開放するためでありたいと思う。

・・・

空間を画面に取り込み移動する視点は、開放感を生み、風や雲や、眼下に広がる美しい大地に、心からの挨拶を送りたくなるような、そんな素晴らしい画面とのりものを、いつか、本当に描いてみたい。(76~77頁)

宮﨑駿の原点(77~86頁)

子どもたちに”励まし”となる映画を作りたい

劇画雑誌

 宮﨑さんは子どものときの受験時代に、病んでいたそうです。そしてそのときに劇画雑誌が出ていたそうです。劇画雑誌には「世の中はうまくいかないものだ」ということばかりが描かれていたそうです(笑)。そしてそれが宮﨑さんにとってある種の爽快感だったそうです。それがきっかけで、劇画のような「恨みつらみ」を描こうとしていたのです。しかし白蛇伝というアニメを見て、劇画に対する、「オレが、いま描いている劇画は、本当に自分がやりたいことなのか、本当はちがうのじゃないか」という疑問がわいてきたそうです。そうして劇画をやめて、漫画を描き始めてそうです。

※劇画は基本的に大人向けであり、漫画は子供向けと考えてもらえれば分かりやすいと思います。内容も絵の描き方も違います

 宮崎さんが子供の頃は、いい子だったそうです。自分の意志ではなく、親の意見に従っていたそうです。しかし、少年・青年時代になると、いい子ではなく、自分の目で見、考えて立ち上がっていかなければいけないと気づきました。そして子どもの本質的な、純粋さをあにがしろにして、恨みつらみの劇画に走ったのです。その後で、「白蛇伝」をみて子どもの素直な、おおらかなものを描くべきだと思うようになったそうです。

親というものは、子どもの純粋さ、大らかさをやもすれば踏みにじることがあるんですね。そこで、子どもに向かって「おまえら、親に食い殺されるな」というような作品を世に送り出したいと考えていたのです。親からの自立ですね。

 そういう出発点が、二十年間たった現在でも継続されているわけです。ですから作品のカギとして「自分が小学校三年生のとき、あのディズニーやソビエトの漫画映画をワクワクして待ち望んでいるとき、どんなものを見たがっていたか」というようなことが出てくるのです。

 そのうち、ぼくは結婚し、子どももできるようになってくると、こんどは、自分の子どもがどんな漫画映画を見たがっているかを考えるようになっていきました。

 私の子供時代はまさに、ジブリにワクワクしていましたね。あとハリーポッターにも。受験期はGANTZとか見ていましたね・・。その頃はロボットとかで破壊したい、とか考えたりしていたような気もします。落書きは子供の頃、モンスターでいっぱいだった気がします。大学でいろいろなことを学ぶうちに、少しずつ創りたい世界が変容しているのが今の私ですね。

自分の子供時代に見たかったもの、あるいは自分の子供がみたがっているもの、つまり、そのとき何が欲しかったのか、というもの作りたい。それが作れたら、ほんとうに良いなあと思っているわけです。(83頁)

 

自分のやりたいことを作品に反映させるためには

自分がやりたいことを少しでも作品に反映させるつもりなら、自分自身がしっかりとした土台をもたざるをえません。」

ぼくにとっての土台は、なんのために生きていこうとするのかわからないままさまよっている人たちに、元気でやっていけよ、というメッセージを送ることなのです。(84頁)

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砂フキン

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