【1ワード社会学第十三回(22)】ハーバーマスとポパーの論争

動画での説明

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はじめに

社会学とはなにか

社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。

なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。

【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。

できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。

記事の分割

(準備中)

(5) [C]言語行為関連

[5-7]ハーバーマスの「真理の合意説(討議説)」カール・ポパーとの「実証主義論争」

ポパー(アルバート)とハーバーマスの論争

言語分析哲学関連で、ハーバーマスは従来の分析哲学とは異なる立場をとっているので紹介しておきたい。

カール・ポパーはオーストリア出身のイギリスの哲学者である。継承者の1人にハンス・アルバート(1921-2023)がいる。

1961年の10月にアドルノがポパーと討論を行った。いわゆる「実証主義論争」である。そしてその後、1963年にハーバーマスがその討論への補足(反論)として、ポパーに対して「分析的科学論と弁証法」を発表する。

これに対してポパーは直接返さず、1964年にアルバートが「全体的理性の神話」というハーバーマスへの批判を行う。同年、ハーバーマスは「実証主義的に二分された合理主義」で再反論する。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,52-53p

ポパーらの「批判的合理主義」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

ポパーやアルバートは「批判的合理主義」という立場にたっている。

POINT

批判的合理主義あらゆる理論は仮説であり、最終的な基礎づけは不可能で、理性の役割は「(絶対的な)正当化」ではなく「批判」にあるとする立場のこと。

有名な用語ではポパーの「反証可能性」がわかりやすい。分析哲学における論理実証主義などでは、検証できる論理のみが科学であると提唱されていた。

しかし、完璧に見えるような論理でも例外で反証される可能性が存在する。もし絶対に正しいと完全に検証されたものだけが科学だとすれば、科学に論理やその体系である理論はひとつもなくなってしまうというわけである。それゆえに、カルナップのように検証できる理論/検証できない理論という分類は適切ではないとしたのである。

そこで、ポパーは「反証可能である理論」と「反証可能ではない理論」に分類することを提唱した。たとえば「カラスは全て黒い」という論理は、白いカラスを見つければ反証できるので、反証できる論理だということになる。一方で、「私はあなたのオーラが赤色に見える」という主張は他者が反証することが形式を備えていない(おそらく)。

前者には相対性理論やメンデルの法則などがわりふられ、後者には霊能力などをわりふるということになる。

そして現代の科学理論は「反証可能な理論であるが、今のところ反証されていない理論」であり、それゆえにその時点では厳しい批判を耐え抜いている優れた仮説ということになる。

もちろんこの原理的には終わらない活動を批判的に続けていく必要があるという。たとえばパーソンズの社会システム理論は論理的な誤りが指摘され、反証されている(諸説あるだろうが)。しかし反証できるということは、反証可能な理論であったということでもあり、疑似科学ではないということでもある。社会学者のマートンの中範囲理論も同様に、観察可能、経験可能、反証可能な範囲に絞るという作戦がとられている。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,54p

「哲学用語図鑑」,280-281p

ハーバーマスによるポパーへの批判、自己遂行的矛盾の指摘

一見すると、ポパーの批判的合理主義はハーバーマスの立場に近いように見える。どこが問題なのだろうか。

批判的合理主義の立場は、単純化すれば「すべては仮説にすぎない、反論されていない有力な仮説があるだけである」といっていることになる。極端にいえば、民主主義も、討議も、人権も、合意も、たまたま反復されてきた慣習、権力関係の結果にすぎないものということになる。もちろん民主主義や人権の確保は批判をくり返し受けてきたものであり、他のあり方よりも批判可能性が小さい、「よりマシなあり方として優れている」ということではある。最善ではなく最小の悪といったところだろう。

しかし、ハーバーマスは、妥当性、対等性、合意性といった要素、いわゆる「コミュニケーション的合理性」が普遍的であることを示したいという狙いがある。また、普遍語用論で述べたような意思疎通の普遍的構造も単なる仮説ではないと主張したいということになる。

具体的な政治のありかた、民主主義のあり方は変わりうるし誤りうるかもしれないが、コミュニケーション的合理性のような規範的前提は放棄できないとハーバーマスは主張しているのである。議論を成立させているルールそのものにまで相対化する危険性についてハーバーマスは批判している。

もちろんハーバーマスも基本的には可謬主義の立場をとるのだが、それはあくまでも強制によらない対等な諸個人同士の討議の結果の「具体的な内容」についてである。

たとえば討議の結果「死刑制度に賛成」という内容が生じたとしても、それはあくまでも仮説であり、批判可能であり、将来は変わる可能性がある。しかし討議の基本的な構造自体、形式自体は普遍的だというわけである。ポパーやアルバートからすれば、こうした形式的普遍性の主張は新しいタイプの基礎づけ主義にすぎず、無限後退や循環、独断といった、いわゆる「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」に陥るというわけである。

討議における構造は「何が正しいか、妥当かについて対等に話し合う構造」を意味する。相手を合理的に批判するためには、そうした構造において批判する必要がある。いわば「批判の土台」なのである。

つまり、合理的に批判するためには「討議」という形式が必要なのである。そして討議の構造には民主主義的要素である対等性や了解性、妥当性といった普遍的な構造が存在している。相手を合理的に批判するためには、討議に内在する規範を受け容れる必要があるというわけだ。もしそうした規範を受け入れないなら、討議を否定しながら討議に参加するという自己矛盾(遂行的自己矛盾)に陥ってしまうというわけである。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,57-59p

「真理の一致説」と「真理説の討議説」の違い

ポパーは命題と態度を区別し、真理性を語ることができるのは命題に対してのみであり、態度は合理的に根拠づけることはできないと主張した。

ポパーはいわゆる「真理の一致説」の立場であり、真理とは、命題が客観的事実と一致していることであると考えている。しかし、我々はそれを最終的に証明することはできず、必然的に反証可能性が存在していると考えた点が重要になる。たとえば「水は100℃で沸騰する」という命題は今のところ反証されていないならば、現時点では妥当だといえるが、未来において反証される可能性が常に存在しているわけである。

たとえば「水は100℃で沸騰する」という命題は真理に関わるが「『水は100℃で沸騰する』という命題は真である」という態度は真理に関わらないとポパーの立場では考えることができる。

なぜなら、そうした立場自体は経験的には真でも偽でもなく、発言者の決断的な問題だからである。真理はあくまでも現実との対応に基づくのであり、態度表明やメタ命題は真理の性質を変えるようなものではないとされている。

ハーバーマスはこうしたポパーの真理観に対して批判を行っている。もし態度が合理的に根拠づけられないとすれば、非合理的な決断をしてもいいということになりかねないからである。

そこでハーバーマスは、真理は「理想的な討議における妥当性の合意」という新しい基準によって考慮されるべきだと主張する。真であるか偽であるかは、理想的な討議における合意で決まるというわけである。これを「真理の合意説」や「真理の討議説」という。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,149p

トーマス・クーンにおける「パラダイムシフト」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

「水は100℃で沸騰する」という命題までもが「理想的な討論による合意」によって判定されるというのはいまいちイメージしにくい。

このイメージをつかむためには科学哲学者のトーマス・クーンによるパラダイム理解がヒントになるかもしれない(クーンもポパーと論争している)。

クーン的に考えれば、その時代や社会の科学者集団によって合意されている限りで、ある命題は真であるとみなされることになる。より厳密に言えば何が事実であるかを判定する基準そのものが一定の、時代ごと、社会ごとのパラダイム(認識枠組み)に依存するというわけである。

こうした立場は、ポパーの観点からは相対主義的だと批判されている(ポパーは合理的批判の積み重ねを重視するからである)。また、それまで伝統的に(意識するかにかかわらず)支持されてきた体系が大幅に刷新される事態、認識論的変化を「パラダイムシフト」とクーンはいう。

パラダイムシフトは例外的な事態であり、通常は伝統的な理解に基づいて規定された上で我々はある命題が事実かどうかを考えているのである。

また、パラダイムシフトが可能なのはそもそも伝統的な理解、通常的な理解があるからであり、その意味でも規定されている(普通と違うことが生じるためには、まず普通のことがあるということを前提とする)。

ハーバーマス的にいえば「生活世界」における伝統的な前提が最も基礎的であり、そのうえで科学者集団における専門的な前提があるということになる。

大きな合意を土台として小さな合意があり、その中である命題が正しいとか間違っていると科学者は判断しているのである。

ウェーバーが事実判断だけを学者はすることができないと主張したことをこの点で解釈することも可能である。価値中立とは価値判断を排除するという意味ではなく、事実判断と価値判断を峻別する必要があるという趣旨なのである。つまり、価値判断のうえに事実判断があることをわきまえなさいということだ。

たとえば学者が自殺という現象を客観的に記述するとして、自殺とは日常的にどういう意味なのか、またそうした自殺は分析する意義のあるものであるという前提が全く入っていないといえるだろうか。価値が完全に排除された(ラッセル的な意味での)「生のデータ」を我々は捉えることはできない。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,74p

【創造発見学第一回】アブダクションとはなにか

【基礎社会学第四回】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか?

真理の討議説は相対主義か

理想的な合意のもとである命題Aが真理だと決まったとする。しかし状況が変わったので、もう一度Aが真理か討議した結果、もはや真理とはいえないと決まるということがありうるのか。

ここで重要なのは、「あるXの条件においてある命題Aが真理である」という点は変わっていないことである。命題Aが否定されたと言うより、「あるYの条件においてある命題Bが真理である」という新たな真理が創出されたということになる。それゆえに同じ命題が時代によって真偽が移ろうという相対主義的なものではないといえる。

このように言い出したら、「同じ川には二度と入れない」ということにもなる。厳密に言えば状況は1秒後にも変わっていると言えるからだ。それでも「類似した条件」、「大きく見れば同じ条件」というものはあるかもしれない。

たとえば水が100℃で沸騰するときの状況は分子の位置などが厳密にはあらゆる時点で異なるが、しかしだいたい類似しているはずである。経験科学では厳密な再現というよりも、統計的な一致や構造的な一致に重きを置くのである。

人類学者のベイトソン的に言えば「類全体の振る舞いを知ることができても、個に関する言明はできない」ということになる。たとえばある均一な構造の鎖に力を加えればちぎれるということを科学では予測可能だが、どの鎖の部分がちぎれるかを予測することはできないという。もちろん個の範囲をどのようにとるかにもよるかもしれない。マートン的に言えば、予測可能な範囲まで調整するということになるのだろう。

デュルケムが「個人の内面」ではなく「社会全体」を扱おうとしたこととも共通する話である。たとえば統計によって自殺のあり方を把握したようにである。

また、「違う社会では同じ条件においても合意が形成されないのでは」という疑念も生じる(そもそも社会が違えば条件も違うのではという話は置いておく)。しかしハーバーマスは条件が同じであれば、理想的にはどの社会でも同じ結論に達するはずと考える。

人間にはそうした能力、コミュニケーション的合理性を発揮できる可能性が普遍的に備わっているからである(このあたりが後に扱うルーマンとの態度の根本的な違いだとも言える)。これも反事実的な考え方であり、現実にはそうした能力が潜在的なままに留まっているということになる。

ハーバーマスによれば、理想的な人間が理想的な条件で討議すれば、同じような情報をもとに判断するなら同じような合意が形成されるはずだということになる(経験的な予測ではなく規範的な構成としてではあるが)。やはり希望の哲学とでも形容すべき姿勢がハーバーマスには存在する。

もっとも、時期によってハーバーマスの考え方は異なり、最終的には具体的な内容の一致(合理的合意への期待)よりも形式の一致(手続きの普遍性)が重視されるようになる。

一方で、「理想的な討議」はいかにして実現されるのか、あるいはいかにして阻害されているのかという現実的な問題もある。

「ただ話し合って、合意されたものが真理である」という単純なものではない。たとえば権力によって抑圧され、強制的に合意を獲得したならば、それはもはや(討議的)真理とはいえないのである。阻害については「生活世界の植民地化」でより詳細に扱っていく。理想については「討議倫理」でより詳細に扱っていく。

デリダとハーバーマスの論争

ハーバーマスはデリダとも論争を行っている(前回の動画で扱ったデリダ=サール論争の延長である)。

ハーバーマスはいわゆるポスト構造主義者達は「近代的理性全体を強く批判するあまり、批判の根拠そのものを喪失している」といいたいのである。

十分に批判するためにはなんらかの近代的理性が必要であり、その近代的理性の普遍性すら認めないというのはおかしいというわけである。

理性を批判するなら、その批判が依拠する規範的条件を説明できなければならないのである。そしてハーバーマスの普遍語用論、コミュニケーション行為理論はその条件を解明しようとするものである。

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

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蒼村蒼村

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創造を考えることが好きです。社会学の英語版サイトを現在制作中です。

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