要約する理由

 創造法まとめ。これはこのサイトのタイトルであり、目的でもある。しかし創造とはなんだろうか。響きはいい。しかし具体的な意味がわからない。創ることと、造ることの違いはなにか。辞書で調べると、創造は「新しいものを産み出すこと」と出る。新しいものとは一体なんだろうか。我々は先人の知識を受け継いで生きている。いわば継ぎ足して生きているのであり、全く新しいもの、というものは存在しない。古いものの多くに、少しだけ新しい物を付け足していくことができるのみである。そしてほとんどの人が、その少しすら付け足していくことができない

 創造とは何か。これは一度熟考して見るべき事柄である。新しければ良いというものではない。創造は、なにか目指すべき場所のようなものに向かって漸進的に進む行為であると私は思ってきた。愛する友のため、家族のため、あるいは国や世界のためなどなにか目的があるのではないだろうか。その手がかりのひとつとして、川喜田二郎の「創造性とは何か」を読み、共有したいと考える。

要約

CHAOS2

 創造的行為といえるためには3つの条件がある。「自発性」、「モデルのなさ」、「切実性」である。この3つの「実践」によって、矛盾することなく創造的行為になる。創造は「一般論」としてはなりえず、固有の状況・条件のもとにのみ行われる「実践」である。創造的行為の後に、人間は「これは俺のものだ」という所有の感覚をもたない。「対等な愛の感情」であり、「畏敬の念」を抱くものである。創造によって生み出されたものと、「強い連帯感」を抱くようになり、自分自身も変わっていく。「偉大な創造」とは、その時代の人間はだれも理解してくれないという場合があり、非合理なものである。しかし偉大な創造は数十年、数百年を通してやがて理解され、循環する。

 創造における問題解決の経過は、「渾沌(こんとん)→矛盾葛藤→本然(ほんねん)」である。渾沌とは、漠然としていてつかめないもやもやした状況であり、創造の「出発点」である。つかもうとすると矛盾が生じたりする。この矛盾を解決した後の状態を本来的に自然な状態である「本然」と呼ぶ。西洋文明の根幹のひとつであるデカルトでは、「我」が「渾沌」に先行する。「我」が「他者」を征服する形の関係である。しかし、創造的行為の内面的世界においては、客体との相互関係において「我」があり、「我」の前に「渾沌」がある。

 「真の主体性」とは、「全体状況」が自分にやれと迫るから、やらざるをえないような、「天命」を感じるようなものである。自分がやりたいからやるんだ、というような主体性は不自然さが残る。「全体状況」を総体として集約的にとらえる能力が必要となってくる。本当の創造とは、自分を変容させるような「ひと仕事」である。創造を「実践」しないで自らを変えられると思うことは、結局「逃げ」である。

 創造の後には、そこに「ふるさと」ができる。創造による愛や連帯が蓄積した創造の場はやがてふるさと化し、「伝統」になる。西洋文明が生み出した現代科学は、「伝統」や「個性」を扱いきれない。神が主体をつくり、主体が客体をつくるという一方的な線があるだけだ。「創造愛」においては、主体が客体をつくり、客体がまた「主体」をつくるように、循環している。

 

 

川喜田二郎とは

川喜田二郎

プロフィール

三重県出身。京都帝国大学文学部地理学科卒業。文学士。東京工業大学教授を経て川喜田研究所代表、筑波大学教授、中部大学教授、東京工業大学名誉教授。元日本ネパール協会会長。財団法人・日本エスペラント学会顧問。実父は、「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれる川喜田半泥子で、その次男である。銀行家で元百五銀行頭取・会長を務めた川喜田壮太郎は実兄。実姉の澄子は民族学者岡正雄の妻(wiki)。

 

創造とは何か

創造の定義

「ひと仕事やってのけること」(74頁)

「創造とは問題解決なり」(74頁)

「創造は必ずどこかで保守に循環するもので、保守に循環しなければ創造とは言えないということである。」(77頁)

「創造につきまとう本性を、私は非合理(irrational)なものと考えている。」(80頁)

「創造的なこととは本来、まだ論理的に人々に受け容れられていないこと、イコール非合理的なことなので、これを堂々と世の中に認めさせなければいけない、と私は思う。」(81頁)

創造性の定義

「ひと仕事やってのける能力を持つこと」(74頁)

「創造性とは問題解決の能力である」(74頁)

発見・発明の能力ではない

「創造性とは何かというと、現状を打破し、つねに新しい状態に変えていくこと」(75頁)

保守性と創造性

保守性の定義

「保守性とは何かというと、現状を維持したいということ」(76頁)

(例)死にたくない、生きながらえたいと考えること。給料を維持したいと考えること。

保守性と創造性の関係

「保守性と創造性は、人間が生きているということに、必然的に随伴する根本的な原理」(75頁)

「保守性と創造性という二つの原理はつねに対立ばかりかというと、そうではなく、相補う面、―保守なくして創造なし、創造なくして保守なしという、いわゆる補完関係がある。」(76頁)

(例)健康(保守)なくして仕事(創造)なし。資本の蓄積(保守)なくして、新規事業(創造)なし。新陳代謝(創造)なくして、からだの維持(保守)なし。

保守と創造の循環関係

創造とは何か

 図は79頁を参照しながら私が描いたものだ。創造と保守は「対立的」な関係であり、同時に「相補的」な関係である。そして両者は図のように「循環」している。循環とは、たとえば新商品の開発(創造)を行わなければ、企業の維持(保守)ができない。そして保守がなければ想像ができないように、お互いに繰り返されていることだ。まるで蛇が自分の尻尾を噛むウロボロスを思い出す。

ウロボロス

 

破壊とはなにか

 「保守とも創造とも結びつかない方向に向かったのが破壊で、破壊にはまったく循環がないということである。」(77頁)

偉大な創造とはなにか

「偉大な創造のばあいには、一見すると破壊と同じように保守から離れていくばかりで、循環しないように見えるのは、その循環の範型がとてつもなく大きいからで、たとえて言えば、銀河系宇宙の中では循環しているが、太陽系循環の半径を超えているので、宇宙の放浪者のように見える星のようなものである。」

「すばらしい思想家・芸術家は、その時代の人間は誰も理解してくれず、彼らが生み出した思想や芸術は、それまでの思想や芸術の否定、あるいは権威の破壊と受け取られるが、じつはたいへんな創造だという場合がある。」(78頁)

 

創造的行為とは

 

創造的行為の三カ条

 

第一条は「自発性」ということである。つまり、その仕事を自発的に行えば行うほど、そこには創造的と言いたい何かがあるということである。

第二条は「モデルのなさ」ということである。つまり、その仕事をやるのに、こうすればできるに決まっているというモデルとかお手本がなければないほど、創造的だということで、もちろんマニュアルなどはまったくない仕事である。

第三条は「切実性」ということである。つまり、その仕事をやることが冗談や酔狂ではなくて、自分にとって切実であればあるほど創造的になるということである。

 この三カ条をできるだけ高度に持っている「ひと仕事」ほど、それは創造的な行為であるという結論になった。

(84~85頁)

 この三カ条はそれぞれ矛盾する。たとえば、切実であればあるほど、仕事をやめるわけにはいかず、自発的とはいえない場合がある。しかし、論理的には矛盾するが、実践的には矛盾しない

「矛盾を起こしうる創造性の三カ条をあえていっぺんに呑み込んで実践すれば、その実践的行為の中で矛盾は解消しうるのである」(86頁)

創造的行為の内面

渾沌(こんとん)とは

「何が問題で、何が悩みの種かということすら、まだ漠然としていて掴めない、いっさいがもやもやとしている状況。これを私は『渾沌』と呼んでいる。創造は、この渾沌から出発するのである。」(90頁)

 渾沌の次には「なんとかしたいという意志」が生じ、次に「関心」が発生する。関心の発生により「自己」と「他者」が渾沌の中から分かれてくる。とくに青年期になるとはっきれい主体の意識が出てくるし、客体に対する意識も出てくる。次に「出会い」が生じる。

矛盾葛藤とは

 たとえば「女性」と出会うことによって、人間関係から矛盾や葛藤が生じてきたりするように、出会いは「矛盾葛藤」を生む。解決することもあれば、挫折することもある。

本然(ほんねん)とは

 「本来の『本』と自然の『然』をとって『本然』と書く。どういう意味かというと、さまざまな矛盾葛藤を経て、解決に辿り着いて振り返ってみたら、なるほどこれはひじょうに自然だなということで、本来的に自然だから『本然』としたのである。それは、渾沌の状態から矛盾葛藤を経て初めて到達できる世界であるから、詰めて言えば、『渾沌→矛盾葛藤→本年』で、これが創造における問題解決の実際の経過であると思う。」(93頁)

愛と畏敬

 「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すものである。」(114頁)

 「自分が生み出したものとの間に強い連帯感を抱くものであり、それによって自分自身が変わっていくのを感ずるのである。」(118頁)

創造的行為の全体像

全体

全体状況とは?

ー>「創造的行為とは、そのときの状況が人を動かす、―あそこに森があった、ここに川があった、あそこで人に会ったとかいうさまざまな状況で、それも、その一つひとつの状況ではなくて、そのすべてを包括した全体状況のなかで自分がそうせざるをえなかったという絶対感があるということである。」(120~121頁)

 「創造的行為は、その野放図な全体状況の底に徹してこそ、絶対感のある行動で全体の価値の創造に寄与できるのである。」(120頁)

※野放図(のぼうず):限りがないこと

 「自分は全体への価値の創造に寄与しているんだという感覚がないと救いがない」(125頁)

 「だから、天命を感じている人というのは必ず、自分を取り巻いている全体状況、これをたいへん感受性豊かに受け止めている人だということになる。今、全体状況は、自分に『汝、かくかくのことを為すべし』と言って迫っていると感じて、やむにやまれず行動するのだと思う。」(126頁)

 「本当は全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるをえないというほうが、じつは真に主体的であると私は思うのである。」(127~128頁)

 「結論を言えば、全体状況の底に徹してこそ、絶対感で『ひと仕事やり遂げる』ことに寄与できるということである。絶対感で行動するということは、人間にとってたいへん辛いことだけれども、反面、もっとも気持ちのいいことでもある。」(131頁)

伝統体と創造愛の循環

☆創造愛の蓄積によって伝統体が生じる

☆創造愛と伝統帯との循環と蓄積が現実社会の実体

 「二度とはこない、ある独自な状況のなかで自分が探求しなければならないとの絶対感が生まれる。その創造的行為の達成によって、主体と客体と創造が行われた場への愛と連帯との循環―私が『創造愛』と名付けたものが生まれてくる。これが創造愛の原理である。」(162頁)

感想

 創造に善悪は関係がないかもしれない。デカルトやベーコン、ニュートンの創造は自発性、マニュアルのなさ、切実性をおそらく満たしていた。そして我々の世界は物質的に豊かになった。同時に自然破壊や貧富の格差増大などありとあらゆる問題を生み、神を追放した。しかし我々は、ある種の自由を勝ち取ったといえる。トーマス・クーンはこうした創造による世界の変換をパラダイムシフトと呼んだ。偉大な創造とは、パラダイムシフトを伴わせるような創造といっていいだろう。だが偉大であることと、善であることは同じではない。創造がいい、新しい物はいい、問題解決はいい、と叫んだところで、「はたして我々は創造をするべきなのか?」という疑問符がつきまとう。

 創造のあり方において、主体が客体を支配するという考え方が正しいとは思えない。このまま自然を犯して、人類が滅亡したほうがいいのか、それとも自然と共生したほうがいいのか。直感的なレベルで私は「共生」がいいと考える。主体は客体との相互関係の中にあり、主体は客体をつくり、客体は主体をつくるものであり、循環しているという考え方が「よい」と直感的にはわかるのだ。しかし現実に眼をおろしてみると、「我々は生きることに必死だ」といううめき声が聞こえてくる。愛や自然だの、創造だの、それは一部のブルジョワがヒッピーのように余暇を楽しんでいるだけじゃないのか、と。学生の一部にはそう感じている人も少なくないはずだ。世界のあり方を論じるのもいいが、私は就活に忙しい、と。

 理論と実践には千里の距離がある。すべきだが、できない。カントの定言命法と同じだ。この「壁」を取り壊せるような社会設計をどのようにするべきか。この「問題解決」がカオスのなかからわきでてきて、矛盾葛藤が起こっている。我々はこの問題にたいしてどのように取り組むべきだろうか。どのように世界を創造していくべきであり、その世界は我々をどのように変容していくのだろうか。ひとりだけでは世界はきっと変わらない。ひとりが矛盾葛藤と戦っているさまは、人々に「感染」していく。人と人とがともに創造していく場がやがてでき、問題に向かって漸進していく。そうした世界が望ましい。

 創造の場をどのようにつくるのか。第一ステップはここにくる。そしてその実験として、このサイトを作ったのかもしれない。いや、つくれと命じられているのかもしれない。「全体状況」がしなければならないと、命じているのだ。

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砂フキン

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