論理とは何か
辞書によれば論理とは「考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式」であり、「事物の間にある法則的な連関」であり、「論理学の略」を意味する。
より短く言えば、「主題や対象が変わっても成り立つ『構造』『方法』」のことらしい。
論理と論理学はどう違うのか
「論理学を学ぶ」ことと「論理を学ぶこと」は、厳密には別のことです(ほんとうにわかる論理学 三浦俊彦 日本実業出版社)
どういうことなのか?
論理学は「論理を体系的に再編成し効率化する専門技術を身につけること」であり、論理そのものが身についていることが必須条件だという。比喩で言うならばまずボール(論理)を持っていないとシュートの打ち方(論理学)を身につけることが難しいということだろうか。
具体例で考えてみる。
「A」と「AならばB」から「B」を導き出す規則を論理学では「前件肯定」というらしい。
「A」が正しく、「AならばB」が正しい時、「B」が正しいというようなことが論理によって考えることができる。
具体例で考えてみる。
「人間はいつか死ぬ(A)」、「Aならば田中さんもいつか死ぬ」というような論理を考えることができる。私は今AとAならばBによってBの正しさを導き出した。確かに人間はいつか死ぬなら、田中さんもいつか死ぬだろう。
こういった論理は「前件肯定」と言われれば分からないが、こういう論理が正しいこと、理にかなっていることは少し考えれば分かる。つまりこういったことは「常識」であることが多い。
たしかに、「前件肯定」のような推論規則は当たり前の規則で、わざわざ言われるまでもない常識です。しかし、世に流通するいわゆる非論理的な議論の多くー偏見による議論、権威に頼る論法、感情にまかせた主張、自己中な議論、結論が先にありきの推論、錯覚の無反省な追認などーが、「前件肯定」をはじめとするごく常識的な規則を破っています。(ほんとうにわかる論理学 三浦俊彦 日本実業出版社11P
当たり前の規則が守られていないことが多く、わかっていたとしても守られていないことが多いらしい。
簡単に言うならば、「論理はわかっているが、きちんと使えていない」ということにおそらくなるだろう。
論理の対概念
非論理。
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