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【基礎社会学第八回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「支配の三類型」を学ぶ。
- 2022/1/9
- マックス・ウェーバー
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Contents
はじめに
概要
- 支配の三類型とは:人間が人間を支配する際の正当性の根拠、支配の在り方を3つの類型にわけて説明したもの。伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配の3つの類型からなる。
- 時代による類型の変化:近代になるにつれて、伝統的支配から合法的支配へ支配の在り方が変わっていった。たとえば家父長制や家産制は伝統的支配、行政府の官僚制は合法的支配。
- 今必要とされる指導者:官僚を使いこなすためにはカリスマ的な指導者が必要。カリスマ的な指導者は大統領制などの人民投票で生み出されることがある(解釈替えされたカリスマ的支配)。
- 政治家に必要な資質とは:政治家になるということは暴力装置である国家にたずさわるということなので、情熱・責任感・判断力といった資質が必要になる。
動画での解説・説明
・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
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マックス・ウェーバーのプロフィール
マックス・ウェーバー(1864~1920)はドイツの経済学者、社会学者、政治学者。28歳で大学教授を資格を得て、1905年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表した。社会学の元祖ともいわれる。ウェーバーの研究成果はT・パーソンズの構造ー機能理論、A・シュッツの現象学的社会学、J・ハーバーマスの批判理論やシンボリック相互理論等々に引き継がれた。
マックス・ウェーバー、私は大好きです。全学者のなかで一番好きです。文献もなけなしのお金を費やしてできるだけほとんど買うようにしています。
したがって、マックス・ウェーバーに費やす記事の量は他と比較にならないほど多くなるというわけです。文献が手元にあるということは、引用もたくさん増えます(レポートの素材として提供できるので嬉しいです)。
マックス・ウェーバーが終われば次はジンメル、次はパーソンズといきたいです。マックス・ウェーバーだけでも相当時間がかかると思うので、とりあえず隙間隙間にジンメルやパーソンズを進めていきたいと思います(彼らはあまり多くの時間を割く予定がありません)。したがって、記事の発表は断続的になってしまいますがご了承ください。
前提概念の整理
・基本的にはここ説明した概念を使っていきます。
・概念をわかりやすく説明することが難しい場合はウェーバーの言葉をそのままほとんど引用しています。
支配とはなにか、意味
支配(しはい):「特定の命令に対して、一群の人々に服従を見出し得るチャンスのこと。服従することに対する利害関心があるということが、あらゆる真正な支配関係の要件。支配の基礎は利害関心と正当性の信仰という動機などで形成される。」*11
「『支配』という語は次のような事態を意味する……。すなわち、『支配者』の明示された意思(『命令』)が、被支配者の行為に影響を及ぼそうとし、また実際、この行為が、社会的に意味がある程度に、あたかも被支配者が支配者の命令内容を、・…:自分たちの行為の格率としたかのように実行する(『服従』)、これほどまでに影響を及ぼしている事態である」(マックス・ウェーバー「支配の社会学」,S.544/P.11)*13
「支配とは,一定の内容をもつ命令に,特定の人びとが服従するチャンスのことをいうべきである」
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」82P
・支配は「権力」のより限定された「概念」
・支配には二種類ある。ひとつは「利害関心による支配」であり、もう一つは「信仰(権威)による支配」である。
たとえば「1億円もらえる」から言うことを何でも聞くという人が一定数いるのではないだろうか。この場合、1億円もらえるから支配されたほうが得と考え、支配を受けるわけである。もし1億円もらえないなら支配は受けないだろう。このような「利害関心による支配」だけでは支配が安定しない。
安定した支配のためには「信仰による支配」が重要である。そしてこの類型が伝統・カリスマ・合法である。たとえば「伝統的にそうだから従うことは当然であるから従う」という場合である。もちろん従うことで利益が有る場合も想定できるが、明らかな利益がなくても従う場合がある。たとえば「親父の言うことはきかなきゃダメだ」というのはある種の伝統的にそうだから、といったことになるかもしれない。もちろん従わないと罰を受けるから、かもしれない。しかし罰を受けない場合でも「普通はそうだから」という信仰によって支配を受ける場合がある。
ほかにも、木村拓哉の言う事なら聞いちゃう、といった人はいるかもしれない。この場合はカリスマ的な信仰による支配とも言える。あるいは「法律で決まっているから賠償金は払わなければいけない」といったように合法的に行政から支配を受けるかもしれない。
目の前に内閣総理大臣が突然現れて、君は校庭を100週しなさいといわれたら、ついしてしまうかもしれない。その権威におののいてしまうかもしれない。それが合理的かどうか、合法的かどうか関係なしに、ただ内閣総理大臣という権威そのものに圧倒されて支配されてしまう人もいるかもしれない。これもある意味ではカリスマ的支配である(もちろん実際に総理大臣にカリスマ性があればの話だが)。
服従(ふくじゅう):「服従者が、命令の内容を、――それが命令であるということ自体のゆえに、しかももっぱら形式的な服従関係だけのゆえに、命令自体の価値または非価値について自己の見解を顧慮することなく、――自己の行為の格率としたかのごとくに、彼の行為が経過するということである。」*11
伝統的支配:たとえば両親が子供を支配する根拠は、「昔からそうだから」といったような根拠に基づくことがあります。こうした支配は日常的な信仰に基づく支配ともいえますし、支配することで両親に利害関心があるともいえます。子供は両親に従うことで生活することが可能になるので、利害関心があるといえます。
カリスマ的支配:たとえば呪術者が見習いを支配する根拠は、「呪術者の神聖性」といったような根拠に基づくことがあります。見習いは呪術者に従うことで技を獲得することや生活が可能になるかもしれないので、利害関心があるともいえます。また、呪術者の資質(カリスマ)に対する信仰に基づく支配とも言えます。
合法的支配:たとえば軍隊で上官が下官を支配する根拠は、軍の法や規則に書かれているからという意味で、「法に則っているから」といったような根拠に基づくことがあります。下官は上官に従うことで給料をもらえますし、戦場で生き残ることができるという点で利害関心がありそうです。また、つくられた規則の合法性に対する信仰に基づいているとも言えます。
官吏にとっては、自分の上級官庁が、──自分の意見具申にもかかわらず──自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かつ正確に──あたかもそれが彼自身の信念に合致しているかのように──執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。
これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、33P
これは公務員(官吏)だけではなく、官僚制的な企業においても同様である。明らかに自分が不要と思う物を客に買わせろという命令が上司から来た場合、それが自分自身の信念に合致しているかのように、ある種無責任に客に買わせるように行為するわけである。客が損をしても自分に責任があるわけではなく、命令した上司に責任がある。近代的な団体は政治団体も行政団体も企業団体も官僚性的であり、合法的な正当性に基づいている側面がある。
団体とはなにか、意味
団体(だんたい):・「団体とは,社会関係の秩序の維持が一定の人びとの,すなわち指導者の,そして時には,場合によっては通常同時に代表権をもつ行政スタッフの,秩序維持の遂行にとくに定位した行動によって保証されるときに,外部に向かって規制的に制限されたまたは閉鎖された社会関係」
・国家はチャリティ団体などと同様に、「団体」である。団体にとって重要なのは「秩序維持」である。秩序維持に重要なのは「指導者」であり、「行政スタッフ」である。団体内部では外部に対して閉鎖された社会関係がある。団体は社会的行為によって形成された社会的形成体である。
・国家は「支配団体」であり、「政治団体」である。
「団体とは,社会関係の秩序の維持が一定の人びとの,すなわち指導者の,そして時には,場合によっては通常同時に代表権をもつ行政スタッフの,秩序維持の遂行にとくに定位した行動によって保証されるときに,外部に向かって規制的に制限されたまたは閉鎖された社会関係のことを言うべきである。」
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」74P
支配団体とはなにか、意味
支配団体(しはいだんたい):・構成員自身が,妥当している秩序によって支配関係に従属しているような団体
支配という事態は,成功裡に他者に命令する一人の者が現実に存在することだけと関係があり,行政スタッフや団体が存在していることにはかならずしも関係がない。しかし,ともかくそれは少なくともあらゆるノーマルな場合には両者の一つが存在することと関係がある。団体は,その構成員自身が,妥当している秩序によって支配関係に従属している限り,支配団体というべきである。
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」82-83P
政治団体とはなにか、意味
政治団体(せいじだんたい):・その存立とその秩序の妥当が,一定の地理的領域の内部において行政スタッフによる物理的強制の使用及び威嚇によって持続的に保証されているとき,その限りにおいての支配団体のこと
政治団体とは,その存立とその秩序の妥当が,一定の地理的領域の内部において行政スタッフによる物理的強制の使用及び威嚇によって持続的に保証されているとき,その限りにおいての支配団体のことをいうべきである。
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」83-84P
政治団体にとっては,いうまでもなくゲヴァルト行使は,唯一の行政手段でもなければ,ノーマルな行政手段でもない。その指導者は,自己の目的を貫徹するために,むしろあらゆる可能な手段を用いてきた。しかし,それによる威嚇,場合によってはその使用は,たしかにその特有の手段であって,他の手段が役に立たない場合には,いたるところで究極の手段である。
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」84P
※ゲヴァルト=暴力
政治団体だけが,ゲヴァルト行使を正統な手段[legitimesMittel]としてこれまで用い,かつ現に用いているのではなく,同様に,氏族,家,組合,中世では場合によっては,あらゆる武器所有者たちもそうである。政治団体を特徴づけるものは,『諸秩序』を保証するために(少なくともまた)ゲヴァルト行使が行われるという事情のほかに,政治団体は,その行政スタッフおよびその諸秩序があるひとつの領域を支配することを要求し,かつこのことをゲヴァルト的[gewaltsam:実力的,暴力的]に保証するというメルクマールである。ゲヴァルト行使を行う団体につねにこのメルクマールがあてはまる場合にはそれが村落共同体であっても,個々の家共同体でレーテさえあっても,ツンフトの団体や労働者団体(『評議会』)の団体であっても,それはその限りで政治団体というべきである。
マックス・ウェーバー「社会学の基礎概念」84-85P
政治とはなにか
政治(せいじ):広義には「自主的に行われる指導行為」であり、狭義には「政治団体(国家)の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為」*1。「権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力」*3
政治とは何か。これは非常に広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。
…今日ここで政治という場合、政治団体──現在でいえば国家──の指導、またはその指導に影響を与えようとする行為、これだけを考えることにする。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、8P
国家とはなにか
(近代)国家:「ある一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体」*2。「正当な暴力行使といいう手段に支えられた、人間の人間に対する支配関係」*3
むしろ近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めたすべての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」。
…国家とは、ある一定の領域の内部で──この「領域」という点が特徴なのだが──正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国会外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲でしか、物理的暴力行使の権利が認められていないということ、つまり、国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされていること、これは確かに現代に特有な現象である。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、9-10P
国家も、歴史的にそれに先行する政治団体も、正当な(正当なものとみなされているという意味だが)暴力行使という手段に支えられた、被治者がその時の支配者の主張する権威に服従することが必要である。では、被治者は、どんな場合にどんな理由で服従するのか。この支配はどのような内的な正当化の根拠と外的な手段に支えられているのか。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、10P
権力とはなにか、意味
権力(けんりょく):「命令行為において、その行為に参加している他者の抵抗を排してまで、自己の意思を実現しようとする可能性」*5
政治における倫理的問題とはなにか、意味
政治における倫理的問題(りんりてきもんだい):倫理とは一般に、「 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの(デジタル大辞泉)」。政治における倫理的問題とは、「ある政治家が権力をもって善いのか悪いのか、権力の結果に責任をもつことができるかどうか、その資格があるかという問題。」
一体どんな資質があれば、彼はこの権力(個別的に見てそれがどんなに限られた権力であっても)にふさわしい人間に、また権力が自分に課する責任に耐えうる人間になれるのか。ここにいたってわれわれは倫理的問題の領域に足を踏み入れることになる。どんな人間であれば、歴史の歯車に手を掛ける資格があるのかという問題は、たしかに倫理的問題の領域に属している。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、77P
資質(ししつ):生まれつきの性質や才能。資性。天性。姿質。
行政スタッフとはなにか
行政スタッフ:・政治的支配機構が存在しているという事実を外に向かって表示するもの。例:警察、裁判官、自衛隊、各省庁の事務職員など公務員全般
どんな支配機構も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つはそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従するよう方向づけられていること。第二に、支配者はいざというときに物理的暴力を行使しなければならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者の手に掌握されていること。
ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、14P
たとえば国内のテロや国外の侵略に対して、国家は武力で鎮圧しなければいけない時がある。あるいは凶悪犯罪者に対して死刑という究極の暴力を行使しなければいけないことがある。死刑を実行するのは行政スタッフである。具体的にはおそらく法務省矯正局の国家公務員である刑務官が行う。
行政手段とはなにか
行政手段(ぎょうせいしゅだん):・貨幣・建物・武器・車両・馬などの行政のための物的手段。支配は行政スタッフと物的な行政手段からなる。
ところですべての国家秩序は、権力者の側でその服従を当て込んでいる人的行政スタッフ(官吏であれ、その他、何であれ)が行政手段(貨幣・建物・武器・車輛・馬匹)を自分で所有するという原則の上に立っているか、それとも行政スタッフが行政手段から「切り離されている」か──今日、資本制経営内部の職員や労働者が物的生産手段から「切り離されている」のと同じ意味で──によって分類できる。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、15P
支配の三類型とはなにか
支配には「正当化の根拠(権力の源泉)」というものが重要になる。この根拠なくして人間を支配することはむずかしい。
たとえば国家が国民に対して「税金を支払え」と主張し、国民はその命令をきかなければならない。なぜ我々は税金を支払わなければいけないのだろうか。現代日本では税金を支払うことが義務である。この支配の正当化はどのようにされているのだろうか。税金を支払わせる根拠を国民にどのように説明しているのだろうか。あるいは自衛隊を国は支配し、官僚を国家は支配しているといえる。その支配の根拠はなんだろうか。
国防のためだとか、貧困層の援助のためだとか、安全のためだとか、それらしい正当化を挙げていけばきりがない。おそらくわれわれの多くが税金を支払う理由は「法で決まっているから」だろう。自衛隊や官僚の支配も「法で決まっているから」だろう。法律で決まっているから罰として死刑にしてもいい、法律で決まっている場合は拳銃で撃ち殺してもいい(正当防衛など)、法律で決まっているから税金を払わないものは刑務所に入れてもいいということになる。死刑は人間に対する暴力である。なぜそのような暴力が国家に許されるのか。その根拠はどこにあるのか。
ウェーバーによれば近現代の支配の正当性は「伝統的支配」から「合法的支配」に移り変わってきているらしい。
支配の三類型の整理
正当性の三類型、権威の三類型などともいわれる。
(1)伝統的支配の意味
伝統的支配(でんとうてきしはい):「古くからのしきたりや家柄、血筋などが根拠になった支配関係」*8。「長い間に確立された文化的様式にたいする畏敬によって正当化された支配。中世ヨーロッパでの世襲貴族による支配など。」*5
まず、支配の内的な正当化、つまり正当性の根拠の問題から始めると、これには原則として三つある。第一は「永遠の過去」がもっている権威で、これは、ある習俗がはるか遠い昔から適用しており、しかもこれを守り続けようとする態度が習慣的にとられることによって、神聖化された場合である。古い家父長や家産領主のおこなった「伝統的支配」がそれである。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、11P
※習俗(しゅうぞく):ある時代・社会のならわし。習慣や風俗。
※家父長制(かふちょうせい):父系の家族制度において、家長が絶対的な家長権によって家族員を支配・統率する家族形態。家長権が男性たる家父長に集中している家族の形態。
※家産国家(かさんこっか):領土や人民などがすべて君主の私有物となされる国家。封建時代の国家、ことに領主国家がこれにあたる。
(2)カリスマ的支配の意味
カリスマ的支配(かりすまてきしはい):「預言者、呪術者、英雄などの超人的な資質に対してみずから進んで服従するような支配関係」*7。「ある個人にそなわった非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導者的資質に対する、まったく人格的な帰依と信頼に基づく支配」*6
第二は、ある個人にそなわった非日常的な天与の資質(カリスマ)がもっている権威で、その個人の啓示や英雄的行為その他の指導者的資質に対する、まったく人格的な帰依と信頼に基づく支配、つまり「カリスマ的支配」である。
預言者や──政治の領域における──選挙武侯、人民投票的支配者、偉大なデマゴーグや政党指導者の行う支配がこれに当たる。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、11P
※デマゴーグ(demagogue):一般に、古代ギリシアの民主政治に置いて民会の決疑を左右する弁舌を振るった「民衆の指導者」のことを表す言葉。現代では刺激的な詭弁や虚偽情報を発信して人々を煽り立て、権力を獲得しようとする政治家を意味することが多い。アドルフ・ヒトラーなどもデマゴーグの一人。
※選挙侯(せんきょこう):12~13世紀以後ドイツ国王の選挙権を有した聖俗諸侯を指す。諸侯(しょこう)とは権力をもっている貴族(封建領主)のこと。中世のドイツでは王位は世襲制ではなく、選挙によって決められていたらしい。選挙権があるのは一部の諸侯だけであり、そこから王が決められた。
※:カリスマ:人物にやどった非日常的な能力・資質
(3)合法的支配
合法的支配(ごうほうてきしはい):「法などの規則が根拠になった支配関係。規則に対して服従がなされている」*7。「制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配」*6
最後に「合法性」による支配。これは制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配で、逆にそこでの服従は法規の命ずる義務の履行という形でおこなわれる。
近代的な「国家公務員」や、その点で類似した権力の担い手たちのおこなう支配はすべてここに入る。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、11-12P
理念型と「支配の三類型」の関係について
理念型(りねんけい):理念型とは、文化事象を理解するために手段として利用できる概念的な分析モデル
・理念型は実在には存在せず、思考の中にのみ存在する純粋な論理モデル(架空物のもの)。
・理念型と実在を比較することによって、実在(現実世界)が理解(認識)可能になる。
・一面的・非実体的な把握とは、実在を「概念」的に把握することであり、つまり「理念型」として実在を把握することである。
・概念は一面的であり、非現実的なものである。概念と現実を混同してはいけないし、概念に当てはめるために現実を捻じ曲げてもいけない(プロクルステスの寝台)。※ベッドの大きさに合わない人間の足を切断するギリシア神話。
【社会学を学ぶ】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)
前回の記事で理念型を学びましたので復習です。今回学ぶ「支配の三類型」も理念型だというのがポイントです。つまり純粋な論理モデルであり、それ自体は実在せず、実在と比較することによって実在に対する理解が容易くなるようなツールにすぎません。支配の根拠が「伝統」に”のみ”あるといったケースはおそらくほとんどありえないのだと思います。お金のためかもしれないし、従わないと報復されるかもしれないし、宗教的な理由かもしれないし、家族的な理由かもしれません。さまざまな理由(無限にある)が混み合って人間は支配者に服従しているのが実在なのです。
もちろん実際の服従で非常に強い動機となっているのは、恐怖と希望──魔力や権力者の復讐に対する恐怖、あの世やこの世での報奨に対する希望──であり、また、それと並んでさまざまな利害関心が考えられる。
その点についてはすぐあとでふれるが、いずれにせよ、この服従の「正当性」の根拠を問い詰めていけば、結局は以上の三つの「純粋」型につき当たるわけである。
しかもこの正当性の観念や、それが内的にどう基礎づけられるかは、支配の構造にとってきわめて重要な意味をもっている。もちろん純粋型は実際にはほとんど見当たらないし、これら純粋型相互の間の変容・移行・結合の関係はおそろしくこみいったものである。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、12P
マックス・ウェーバーの権力論は、権威を複数の範疇(カテゴリー)に──あるいは「理念型」に──わけている。ウェーバーによれば、権威には三つの源泉がある。伝統的なもの、カリスマ的なもの、合理的ー合法的なものの三つである。
「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、830P
伝統的支配の整理
伝統的支配 | ・純粋型は「家父長制」 ・家父長制が発展したものが「家産制」になる。 ・「家産制」がさらに発展していったものが「荘園制」となる。さらに拡大していくと、「家産官僚制(身分官僚制)」となる。 |
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家父長制 | 家父長制国家:「国家を家族の集合体とみなし、君主や支配者は、家父長(かふちょう)patriachが家族の全成員に対して絶対権をもつように、臣下に対しても絶対的な支配権をもつ、と考えられた国家形態。絶対君主制や戦前の日本においてこのような政治が行われ、またそのような国家観が唱えられた(日本大百科全書より引用)」 家父長制家族:「家族類型としての家父長制 家族におけるいっさいの秩序が,最年長の男性がもつ専制的権力によって保持されている場合,こうした家族は〈家父長制家族patriarchal family〉とよばれる(世界大百科事典より引用)」 古代ローマの例:「古代ローマの家父長制家族はその典型であり、家父長の権力は、家の成員が男であれ女であれ、子であれ奴隷であれ、財産同様に取り扱い、生殺与奪の権さえもっていた。子は自由人として奴隷とは区別されたが、家父長権は自分の子を奴隷として売ることも、遺言に基づいて奴隷を子とし同時に相続人とすることさえもできた(日本大百科全書より引用)」 家父長支配は「君主の直接支配」:ウェーバーによれば家父長支配において、君主(ここでいう家父長)以外は財産も名誉もなく、自力で君主に対抗することができない階層である。 |
家産制 | 家産制:国家や集団の首長がその構成員や人間関係、財産、物品を自分の家産のごとく支配する前近代的な統治制度をいう(「日本大百科全書」より引用)。 古代エジプトの例:「家産制は、この家父長制が発展したもので、その典型は古代エジプトのように、国家そのものが国王の家計の拡大された家計とみなされ、家臣や人民は一家の家長に対するごとく国王に子としての恭順を守り、国王は伝統的権威に基づいて支配し、人民と財産とを管轄する(コトバンク)。」 ※恭順(きょうじゅん):朝廷の命令などに対してつつしんで従うこと。おとなしく命令に従うこと。 スルターン制度:支配者が伝統的権威の拘束から脱して唯一人が恣意的行動のままに国家を統治する体制が確立している様。伝統的支配(家父長制的家産制)の極端な例。 家父長制的家産制:家産制のなかでも恣意性の強いもの。 身分制的家産制:家産制のなかでも伝統性が強いもの。 |
荘園制 | 荘園制:家産性が発展したもの。農奴制。公的支配を受けない一定規模以上の私的所有・経営の土地。ヨーロッパでは法的・経済的な権力が「領主」に集中していた。また農奴を支配していた。農奴とは領主によって保有された農民。 ・荘園制においては、君主の臣下である領主や農奴は全人格的に君主に隷従せずに、ある程度独立している。 ・日本では墾田永年私財法(743年)によって貴族の私的な土地所有が認められるようになり、自立しはじめた。 |
身分官僚制(家産官僚制) | 家産官僚制:家産制がさらに発展したもの。これがさらに発展すると封建制になる。家産官僚制では君主の絶対的単一支配ができなくなり、君主と人民の中間に立つ幹部臣僚が一定の土地を与えられ、行政権を行使する。 ※家産官僚制と身分官僚制は正確には違います。詳細は家産官僚制の項目に記載。官僚の身分が強まり、君主の単なる奴隷的な所有物ではなく、自前で武器を用意し、君主と契約によって主従関係を結ぶようになると家産制から封建制へ移行します。家産官僚制は奴隷的、直接支配的な要素が強く、封建制は自律的、間接支配的な要素が強いというわけです。 「物的行政手段の全部ないし一部が、権力者に仕える行政スタッフ自身の手に直接握られている政治団体を、『身分制的』に編成された団体と呼ぶことにする。たとえば、封建制下の封臣は、授封された所領内における行政や司法を自分の財布で賄い、戦争のための装備も自分の手でととのえていたし、その部下である下級封臣の場合もそうであった。(「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、16P)」 封建制:伝統的支配(身分制的家産制)の極端な例。支配者と家産官僚との契約関係。 |
近代官僚制 | 近代官僚制:君主への行政手段の集中が特徴的な制度。君主の直接支配であり、間接支配である家産官僚制とは異なる。 ※「官僚制」の詳細は今回扱いません |
「伝統的支配」から「合法的支配」への推移について~近代化~
上の項目で整理したとおり、伝統的支配の純粋型は「家産制」です。家産制では君主が自分の民や領土を物のように自分で支配しています。そこから荘園制、身分官僚制と発展していくにつれて、君主からある程度、臣下や農民が独立して力を持っていきます。家産官僚制において臣下は自分で武力を準備し、自分で行政や司法を行っています。
イメージとしては徳川将軍に従っている各地の藩主が自分で戦力を保有しているイメージですね。徳川将軍の力で戦力を整えているわけではないのです。だからこそ薩摩藩などが力を持ち、江戸幕府と戦争を行うことができたわけですね。
身分官僚制から近代官僚制へ移行するにつれて、君主が直接武力手段を保有するようになっていきます。各地の藩主が武力を準備しているのではなく、明治政府にすべての運営手段(武力・法・行政等)が集まっているというイメージでしょうか。各地の農民は明治政府の法や行政に従い、明治政府の命令がなければ武力を正当に行使することができなくなります。
もちろん純粋な家産制は君主が運営手段を独占していたという点で近代官僚制と同じですが、近代官僚制は合理的に完成されているという点で近代的なのです。どういう意味で合理的か、合理化されているかという詳細な点は今回省略します。近代官僚制は合法的支配のひとつです。規則によって権限が正当化され、専門家によって職務活動が行われ、上司と部下の服従関係、迅速性、節約性等々が合理的なわけです。
「身分制」団体の君主が自立性の強い「貴族」の助けを借りて支配し、したがって貴族と支配権を分け合っているのに対し、ここでの君主は、家僕や平民──財産も固有の社会的名誉もなく、物質的にも完全に君主に縛りつけられていて、自力でこれに対抗する力をもたない階層──をみずからの支えとしている。家父長支配や家産制支配、スルターン制的専制政治、官僚制的国家秩序はすべてこの型に入る。
とくに官僚制的国家秩序は、しかも最も合理的に完成された形でのそれは、近代国家の特徴でもある、というよりずばり近代国家に特徴的なものである。
近代国家の発展は、君主の側で、自分と方を並べている行政権力の自立的で「私的な」担い手に対する収奪が準備されるにつれて、どこでも活発化して来た。この場合の「私的な」担い手とは、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の・政治的に利用できるあらゆる種類の物財を、自分の権利として所有している者のことである。
この全過程は独立生産者層が徐々に収奪されていって、資本制経営が発展してくる過程と完全に併行してる。結局、近代国家では政治運営の全手段をうごかす力が事実上単一の頂点に集まり、どんな官吏も自分の支出する金銭、自分の使用する建物・備品・道具、兵器の私的な持ち主ではなくなる。
こうして、今日の「国家」では──そしてこの点こそ近代国家概念にとって本質的なことなのだが──行政スタッフ、つまり事務官僚と行政労務者の・物的行政手段からの「分離」が完全に貫かれている。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、16-17P
家僕(かぼく):家の雑用をするために雇われる男
家産制的官僚制とは、意味
※詳細は「官僚制」の記事の方で扱っています。
家産官僚制(かさんかんりょうせい):・「家産の維持や行政上の要件を目的にして、首長の臣民である「官僚(奴隷、家士として)」が階層的に編成され、客観的な権限を有しているような制度。支配の類型では「伝統的支配」に分類さる。古代エジプトや秦の始皇帝以来の中国などが例としてあげられている。家産とは「家の財産」であり、家産制においては君主によって人間が家産として扱われる。家産官僚制は近代官僚制とは違い、君主と官僚は感情的な関係であり、非人格的な規則による支配関係ではなく、伝統的で感情的な「恭順(忠誠)」による支配関係の側面が強い。
家産官僚制と近代官僚制の類似点の例 | 1:中国における科挙制度による官吏登用試験制度 2:中国や古代エジプト、ローマにおける「上下関係の徹底による支配」(奴隷制度など) 他:文書の利用や秩序ある進級制度など |
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家産官僚制と近代官僚制の相違点の例 | 1:ただし、近代における試験は科挙のような詩の素養など教養重視ではなく、技術的な専門性の要素が強い 2:不自由で人格的な恭順・忠誠による奴隷的支配関係ではなく、自由意志に基づく契約的、非人格的な法による支配関係 ・他の大きな違い 家産官僚制は現物経済であり、近代官僚制は貨幣経済である点 家産官僚制における支配の正当性は伝統性にあるが、近代官僚制における支配の正当性は合法性にある。 公私の分離がはっきりしていない 君主による権力が恣意的で人格的 |
家産官僚制の話は明確に定義されていないのでややこしいんですよね。ポイントは「封建制」と「家産官僚制」の相違です。どちらも伝統的支配に属しています。しかし封建制は間接支配的であり、家産官僚制は直接支配的です。封建制は自前の領地や武器をもつ、ある程度独立した貴族ないし封臣によって支配が行われ、君主と封臣は「契約(盟約)」が前提とされています。
封建制における身分制団体に対して、家産官僚制における官僚組織は君主が直接支配し、財産も固有の社会的名誉もなく、物質的に完全に君主に縛り付けられている「奴隷」の要素が特徴的です。ウェーバーは行政スタッフからの行政手段の分離を重視しています。たとえば昔の戦国大名は自前の武器や兵士を将軍から独立してもっていましたが、現代の軍隊や警察は自前でもっていませ(貸し出されているだけであり、所有は個人ではない)。同じようにエジプトや中国の官僚制においても、基本的に君主の所有物なのです。
たとえば中国の「科挙」という制度は、試験に合格した人間が官職の就任資格を得るというものでした。こうした制度は官僚の専門人の要素に近いです(とはいえ中国の科挙はウェーバーによれば技術的な知識というよりも、教養という面が強かったそうです)。あるいは中国における上下関係の徹底も近代官僚制のヒエラルキーに近いです。
カリスマとは
カリスマとは、意味
カリスマ(Charisma):・「神の恩恵に由来する言葉で、予言や奇跡を行う超能力を意味する。転じて、転じて、大衆を心酔させ、従わせる、超人間的な資質や能力。また、そのような資質をもった人を意味するようになった(日本国語大辞典より引用)。」「マックス・ウェーバーによれば、カリスマとは預言者や呪術師・英雄などの超自然的・非日常的な資質を意味する(「百科事典マイペディアより引用」)」
…党員、とくに党職員や党起業家たちは、指導者の勝利から個人的な報酬──官職やその他の利益──を期待する。その際、指導者から、であって、個々の議員からではない、少なくとも個々の議員からだけではない、という点が重要である。
…凡庸な人間から成り立っている政党の抽象的な綱領のためだけでなく、ある一人の人間のために心から献身的に働いているのだという満足感──すべての指導者資質にみられるこの「カリスマ的」要素──が彼らの精神的な動機の1つである。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、55P
カリスマに対する帰依とは、意味
カリスマに対する帰依(きえ):・帰依とはすぐれた者に対して絶対の信をもってよりどころとすること。ウェーバーによる「カリスマに対する帰依」とは、個人が、内面的な意味で人々の指導者たる「天職を与えられている」と考えられ、人々が法規によってではなく、指導者個人に対する信仰のゆえに、これに服従するという意味。
ここで難しいのが、指導者の資格を表す「天職」とはなにかということです。どういう指導者なら天職をもっていると考えられるのでしょうか。ウェーバーによれば「自分の仕事に生き、自分の偉業をめざす」ような人であり、そうした人柄であり資質をもつことが天職をもっていることになるかと思います。もっといえば、「情熱と判断力をもつ指導者」です。今回は深堀りしませんが、下に引用しておきます。下の方の文章はまさに名文ですね。私は好きです。
ここでとりわけわれわれの興味を惹くのは、三つの型の中の第二のもの、すなわち支配が指導者の純粋に個人的な「カリスマ」に対する服従者の帰依に基づいている場合である。「天職(ベルーフ)」という考えが最も鮮明な形で根を下ろしているのが、この第二の型だからである。預言者、境界や議会での傑出したデマゴーグがもつ「カリスマ」に対する帰依とは、とりもなおさずその個人が、内面的な意味で人々の指導者たる「天職を与えられている」と考えられ、人々が法規によってではなく、指導者個人に対する信仰のゆえに、これに服従するという意味である。
指導者個人は、彼が矮小で空疎な一時的な成り上がり者でない以上、自分の仕事(ザッへ)に生き、「自分の偉業をめざす」であろう。しかし彼に従う者──つまり彼の弟子・子分・まったく個人的なシンパ──の帰依の対象は、彼人柄(ペルゾーン)であり、その人の資質に向けられている。
過去における指導者の最も重要な形態としては、一方で呪術者と預言者、他方で選挙武侯・一味の狩猟・傭兵隊長の二つに大別できるが、こうした形での指導者の登場はどんな地域、どんな時代でにも見られた。
しかしここで、われわれにもっと関係の深い政治指導者──まず自由な「民衆政治家(デマゴーグ)」として、ついで議会での「政党指導者」という形で登場した──となると、これは西洋独自のものである。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、12-13P
政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけではなく、──はなはだ素朴な意味での──英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意思でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、今可能なことの貫徹もできないであろう。
自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が──自分の立場からみて──どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、105-106P
資質(ししつ):生まれつきの性質や才能。資性。天性。姿質。
帰依(きえ):すぐれた者 (特に人格者) に対して,全身全霊をもって依存すること。仏教では特に,信仰をいだくことに用いられる。 正式な仏教徒は仏・法・僧の3つに帰依する。
カリスマの日常化
カリスマの日常化:・「カリスマ関係が永続的になると、伝統化や合理化が推進される」*11。
カリスマ支配とは本来、「非日常的」な資質によって支配関係を成り立たせているものである。しかしカリスマ的支配が続くと、カリスマがなくなっても支配が続く場合がある。たとえば戦国武将の上杉謙信のカリスマ性が非日常的で優れていたために部下は従っていたが、その関係が続くにつれてカリスマ性がなくなっても従い続けるということはありえる。また、武将の息子だからという理由で息子に対してもまた従属するということはありえる(伝統化)。優れていない人物が武将になることはよくある。また、従属することで自分の地位も保持することから利害関心が考えられる。
…そればかりではない。なににもまして重要なことは、人々の心をふるいたたせ酔わせる革命の高波が退いていったあとには、ふたたび旧態依然たる日常生活が舞いもどり、信仰の英雄、いや当の信仰信条が政治的俗物や官僚どもの決り文句の一部になってしまうということである。こうした発展が信仰の闘争のばあいとりわけ急速にすすむのは、その闘争が革命の預言者といった正真正銘の指導者タイプの人間によって導かれ鼓舞されるからである。
というわけは、さらにいえば、すべての指導者装置の例にもれず、このばあいにも、もっぱら『規律』優先の観点から部下の独自な政治的魂を抜きさり、かれらを歯車装置の部品に変えることによって、一連の精神的プロレタリア化をおしすすめることが、革命成功の条件の一つとなるからである。
マックス・ウェーバー『政治論集』2,みすず書房、60p~
カリスマ的な非日常が日常になってしまうのが、カリスマ的な指導者がその装置であるスタッフの「魂」を抜いてしまうからである。つまり自分の命令をなにも考えずにひたすら専門的にきいてくれるような「装置(マシーン)」に変えていくからだ。世界はこうあるべきだ、こういうことはよくないといったスタッフの個人的な思想は指導者にとって無用になるし、そうした発言は許さないようになっていく。ただ上の命令をきけばいいというような「官僚制」的になっていく。スタッフは子供にもっと助成金をあげるべきだと思う、と内心で思っていたとしても関係がない。支配者が子供より老人を重視すると言ったら、その方向に全力で専門的知識を使って動いていく。スタッフはカリスマ性についていっているので、自分の考えは押し殺して従う。
やがて指導者が後退したり、カリスマ性がなくなったりしてってもスタッフは魂が抜けたままになり、マシーンのままである。指導者が「世界はこうあるべきだ」といったような革命のビジョンを信仰していたスタッフがもはやそうしたものを信仰しなくなる。ウェーバーによれば信仰がなくなるだけではなく、信仰が「決り文句」となる場合があるらしい。たとえば「共産主義革命はするべきだ」と指導者のカリスマ性ゆえに信仰していたスタッフが、カリスマ性がなくなった後でも「共産主義革命はするべきだ」と「とりあえず言っておく、思っておく」といったような日常のレベルにまで落ちてしまうようなことだろうか。そのほうが自分の地位の維持に「合理的だから」という理由で従い続ける場合もあるだろうし、そうするのは「伝統だから」という理由で従い続ける場合があるかもしれない。「カリスマ」(非日常)から「伝統・合法」(日常)への移行とはそういうことだろう。
カリスマ的な資質は社会が合理化・複雑化していくと希少なものとなっていくらしい。
解釈がえされたカリスマ(カリスマの没支配的な解釈がえ)
カリスマの没支配的な解釈がえ:・「正当性の結果」ではなく「正当性の根拠」として被支配者に承認されるケース。たとえば選挙で政治家が選ばれるのは政治家にカリスマ性があったからではなく、選挙で選ばれたからカリスマ性があるという「解釈の変更」。第三類型に加える第四類型、「被支配者の意思による正当性」として理解されることもある。最終的には第三類型のカリスマ的支配に組み込まれた。
没個性的という言葉は聞いたことがあるだろう。「個性がない、個性が薄い」という意味である。であるとすれば、「没支配的」とは非支配的という意味である。いったいどういうことか。
カリスマ的支配 | ・ある支配者にカリスマ性があるから、被支配者は従う ・支配の正当性は「支配者のカリスマ性」にある ・選挙で選ばれたのは支配者に「カリスマ性」があったからという解釈。 |
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カリスマ的没支配 | ・ある支配者が被支配者によって選ばれたから、被支配者は従う ・支配の正当性は「被支配者の自由意志」にある ・選挙で選ばれたゆえに、支配者に「カリスマ性」があるという解釈(カリスマ的支配の転倒型?) |
実際の政治は・・・ | ・たとえばアメリカの大統領制では2021年、バイデン氏が僅差でトランプ氏に勝利した。 ・トランプ氏を支持していた人もバイデン氏に支配されるようになる。このケースでは、バイデン氏にカリスマ性を感じてはいないが、国民の過半数がバイデン氏を支持していたという理由で、支配の正当性を帯びてくる場合がある。 |
支配って複雑 | ・バイデン氏は行政府、つまり官吏(官僚)を支配する地位にある。官吏がバイデン氏に従う正当性は「規則だから」かもしれないし、「カリスマ性があるから」かもしれない。カリスマ的支配は二種類考えられる。 1(カリスマ的没支配/一種のカリスマ的支配):「選挙で国民の総意として選ばれたのだから、カリスマ性があるのだろう」という考えかもしれない。 2(カリスマ的支配):「選挙で国民総意として選ばれなくてもカリスマ性があるから」かもしれない。バイデン氏を元々信仰的に支持していた人はカリスマ性を根拠にして従うだろう。 |
支配の正当性は支配者の「カリスマ的な人格」にあるというのは通常の「カリスマ的支配」である。つまり被支配者が支配者に従うかどうかは支配者のカリスマ性に依存している。
選挙で支配者が承認されるのは、支配者にカリスマ性があるからだというのは「カリスマ的支配」である。つまり、「正当性の結果」として被支配者に承認されるわけである。カリスマをもっているから承認されるわけである。
この「解釈がえ」とは順序が「逆」になるということだ。つまり、「選挙で支配者が承認される」結果として「支配の正当性がある」とみなされるようになる。こうした現象を「カリスマの没支配的な解釈がえ」という。ややこしい。
「『人民投票的民主制』(plebisz reDemokratie)。――指導者民主制(Futhrer-Demokratie)の最も重要な類型は、その純粋な意味からすれば、被支配者の意思(vomWillenderBeherrschten)から引き出され(abgeleiteten)、この意思によってのみ存続する正当性という形式のもとに隠された、一種のカリスマ的支配である」(マックス・ウェーバー「支配の社会学」,S.156/p.140)*13。
正直な話、こういう話頭がクラクラしますよねわかります。国民に選ばれたから支配の正当性があるというのは理解できます。たとえばアメリカの大統領が国民を支配できるのは、選挙で選ばれたからです。つまり、支配の正当性は国民の自由な意思によるものだ、と理解することもできます。
一方で、大統領のカリスマ性にゆえに国民は支配に従うのではないか?とも思いますよね。実際にカリスマ性をもった大統領というものがアメリカにもいたはずです(おそらくですが)。行政スタッフはなぜ大統領に従うのでしょうか。選挙で大統領が選ばれたからでしょうか。大統領にカリスマ性があるからでしょうか。大統領に従わなければいけないと規則で決まっているからでしょうか。
選挙で選ばれたから支配の正当性があるというのは、ウェーバーによれば「カリスマ的支配」の類型に入るそうです。特に人民投票民主制は「カリスマの没支配的な解釈がえ」の例だそうです。アメリカの大統領は人民投票民主制ですね。国民が大統領を”直接”決めているからこそ、カリスマ性がやどるというわけです。日本では国民が決めるのではなく、実際には与党の総裁選で決まっています(もちろん国会議員は国民の代表なので、”間接”的に我々が総理大臣を決めているわけではありますが)。
なぜこの「被支配者の意思」に基づく支配が「支配の三類型」に入らず、「カリスマ的支配」の類型に入るかというややこしい問題は以下の論文で検討されているのでよろしかったら参照してみてください。「支配の四類型」として扱われていた時期もあったとは驚きです。たしかに三類型は基本的に支配者が主体であり、被支配者側からの視点という意味合いが薄いですね。
「第四の正当性観念」がヴェーバーの著作から消えた要因としては他の一部論者の見解も考慮すると以下のマックス・ヴェーバーの講演「国家社会学の諸問題」(1917年)をめぐって三点が考えられよう。「被支配者の意思」に基づく支配は正当的支配の類型ではなく、『経済と社会』の旧稿「非正当的支配(都市の類型学)」のなかで展開された「非正当的支配」との関係で捉える方が適切であること、②第四の正当性観念は、「支配の諸類型」で展開された「反権威主義的に解釈がえされたカリスマ」の枠組みで処理されたこと、(3)「正当的支配」の三類型は、支配という、いわば上からの観点で思考されたものであり、下からの被支配者の意思を正当的支配の類型に組み入れることは、論理矛盾であること、である。結論的に言えぽ、②と(3)が妥当な要因であり、ωについては、今後の法制史研究、ヴェーバー研究にとっても重大な問題点・疑問点が含まれており、妥当とは言い難い。
「ヴェーバー国家論の諸要素」、捧堅二、23P,(URL
団体がしだいに合理化されてゆくにつれて、カリスマ的権威の被支配者による承認は、「正当性の結果」ではなくて、「正当性の根拠」とみなされる。→民主制的正当性。ヘルは今や、自由に選挙された指導者に転化する。
…「人民投票的民主制」は、指導者民主制のもっとも重要な類型であるが、これは、一種のカリスマ的支配である。指導者は、被支配者の承認によって支配を獲得するが、事実上は、彼の政治的従士団たちの帰依にもとづいて支配する。僭主、デマゴーグ、クロムウェルの独裁。革命的権力所有者。など。
URL(橋爪さんのレジュメ)
合法的支配とは
合法的支配とは、意味
合法的支配(ごうほうてきしはい):「法などの規則が根拠になった支配関係。規則に対して服従がなされている」*7。「制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配」*6
最後に「合法性」による支配。これは制定法規の妥当性に対する信念と、合理的につくられた規則に依拠した客観的な「権限」とに基づいた支配で、逆にそこでの服従は法規の命ずる義務の履行という形でおこなわれる。
近代的な「国家公務員」や、その点で類似した権力の担い手たちのおこなう支配はすべてここに入る。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、11-12P
合法的支配の例:官僚性的な行政
官僚制的な行政:・正確性・機能性・合理性・能率性などの性質によって定められた規則をそなえている、つまり官僚制的な支配がある行政のこと
・行政官吏(要するに公務員)は正確性・機能性・合理性・能率性などの性質によって規則が定められている。上司の命令に部下が従うのは、その方が合理的で公務がうまくいくから。
・官僚制は行政官吏以外にも司法、軍隊、大学、企業、教会、政党等にも見られるが、ウェーバーは特に国家の行政官吏を合法的支配の純粋型(典型例)と見ている。
・一般企業の規則でも上司の命令に従うというものはよくある。
・伝統的な工房などはそうした規則がゆるく、上司に技術的な面で反発しやすい。カリスマ性が上司にあれば、反発を抑えることができる。あるいは工房が代々続いてきた伝統性のあるものの場合、その伝統制ゆえに上司に従うかもしれない。ほぼ自動の機械でグラスを大量生産する場合は官僚制のほうが有利か。
・社会が複雑になると、組織の合理化・規則化が必要になってくる。そうしないとライバル企業に負ける。
「合法的支配の最も純粋な類型は、官僚制的行政幹部の支配である」(マックス・ウェーバー「支配の社会学」、S.126/P.20)。
「制定規則による合法的支配。最も純粋な型は、官僚制的支配である」(マックス・ウェーバー「正当性的支配の三つの純粋型」,1/22-4,S.726/P.33)。
「以下においては、まず第一に、……行政幹部の最も純粋に支配的な構造、すなわち『官吏制度』『官僚制』の構造だけが、理念的に分析される」(マックス・ウェーバー「支配の社会学」,S126/P.16F.)。
それぞれの出典は→*14
近代官僚制(依法官僚制)とはなにか、意味
近代官僚制(きんだいかんりょうせい):・「近代的社会契約論の下で展開された官僚制で、役人は国民と国家に奉仕すると定められた法律に従って働くべきだとする。近代官僚制という場合もある。役人が国家も役職も自分のものだと思いこみ、公権と公金を恣にする家産官僚制の対立概念。ヴェーバーは、官僚機構が機械のように動くことが公平さを実現する(官僚制の非人格制)と考えた。 」
近代管理制度に特有な機能様式を表せば、つぎのごとくである。
(1)規則、すなわち法規や行政規則によって、一般的な形で秩序づけられた明確な官庁的権限の原則がある。
…
(2)職務体統と官庁順序の原則。すなわち、上級官庁による下級官庁の監督という形で…
(3) 近代的な職務執行は、原案または草案という形で保存される書類(文章)に基づいて行われ、…
(4)職務活動、すくなくともいっさいの専門家した職務活動──そしてこれはすぐれて近代的なものであるが──は、通常、つっこんだ専門的訓練を前提とする。…
(5)完全に発達した職務では、職務上の活動には官吏の全労働力が要求される。それは、役所における官吏の拘束労働時間の長さが明確に制限されるという事情にかかわりない…
(6)官吏の職務執行は、多かれ少なかれ明確で周到な、また習得しうる一般的な規則に従ってなされる。…
マックス・ウェーバー「官僚制」、阿閉吉男、脇圭平訳、恒星社厚生閣、7-10P
WIKIによれば以下の通りにまとめることができるらしいです*15。
- 規則による規律の原則
- 明確な権限の原則
- 明確な階層性(ヒエラルキー構造の原則)
- 経営資材の公私分離原則
- 官職占有排除の原則(世襲制への反対)
- 文書主義の原則
- 任命制の原則(上級者の権限の明確化、ヒエラルキー構造の保守)
- 契約制の原則
- 資格任用制の原則(世襲ではなく試験で採用資格者を決定)
- 貨幣定額俸給制の原則
- 専業性の原則
- 規律ある昇任制の原則
合法的支配における「法」とはなにか?自然法との関連について
・合法的支配とは、なんでもかんでも「法」による支配を意味しない。
・形式的に正しい手続きで定められていれば、任意の制定規則(法)を制定することもできるし、また変更もできる
・自然法を創造・あるいは変更することは難しい。自然法とは、事物の自然本性から導き出される法の総称。形式的な正しさというより、実質的な正しさが自然法では中心。
・合法的支配とは形式的な正当性を意味する。ウェーバーはかつて合理的支配とも表現している。
・価値の闘い、つまり神々の争いの時代において、普遍的な正しさとしての法律である「自然法」は時代にそぐわなくなってきている。
・規則が正しいかどうかは、その制定手続きが形式的に正しいかどうかによる。昔は聖書にはこう書いてあるから善悪がすぐわかったが、今や宗教の力が弱まっている(脱魔術化)。
・極端な例:民主的な手続きによって正当に「民族差別は誹謗中傷に含まない」という法律が制定されたとすれば、この法律は形式的には正しいということになる。もちろんそんな不道徳なものは現代国家では成立しないだろうが、史実としてヒトラーなどはまさに形式的な正しさにおいて合法的にユダヤ人大虐殺を行った。
「自然法的な公理論は、今日では大きく信用を失っている。……それは、一つには法学的な合理主義そのものと、一つには近代的な主知主義一般の懐疑的精神とによって、あらゆる超法律的な諸公理一般がますます崩壊と相対化を遂げていった、ということの結果であった。……自然法的な公理論は、法の基礎を支えるだけの力を失ったのである」。
マックス・ウェーバー『支配の社会学』502P*13
指導者民主制か指導者なき民主政か
指導者民主制とは、意味
指導者民主制(しどうしゃみんしゅせい):たとえば政党指導者を頂点とした民主政をいう。民主制とは国民全体が主体的に参加する政治体制を意味する。国民全体が投票によって指導者を決める選挙の在り方を「人民投票制」という。人民投票的民主制は指導者民主制の類型であり、カリスマ的支配である。なぜなら、指導者の資質に人民が帰依している側面が強いからである。それと同時に、指導者が人民を支配する根拠が法や規則によって定められていることから、合法的支配でもある。指導者民主制はカリスマ的支配と合法的支配の混合型であるともいえる。民主的に支配の根拠を作り出すことによって、被支配者である人民の自由な信頼という形式で支配の正当性の根拠を獲得することができる。
指導者なき民主制とは、意味
指導者なき民主制:指導者がいない民主制。ここでいう指導者とはカリスマ的な資質を持つ人間のこと。指導者なき民主制では、カリスマ的な資質をもたない「職業政治家」が支配している。「派閥支配」ともいわれる。指導者なき民主制の典型的な特徴は「比例選挙法」にあるという。たとえば日本の比例代表制では、政党が立候補者に順位をつけ、各政党が獲得した投票数に比例して候補者に議席を配分する。つまり、有権者が立候補者Aのみが政治家として望ましいと思って投票しても、政党が立候補者BやCを上位に名簿で記していた場合、立候補者Aは議員になれない場合がある。この順位付けというシステムはある種の「官職任命」であり、闇取引が横行する危険性がある。
ところでぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。そして後者は、党内反対派の立場からよく「派閥」支配と呼ばれるものである。
…もうひとつの問題は比例選挙法で、今の形でのそれは、指導者なき民主制の典型的な現象である。比例選挙法は官職任命をめぐる名望家たちの闇取引を助長するだけでなく、今後、各種の利益団体がその役員を候補者リストの中に割り込ませ、議会を本当の指導者の入る余地のない、政治不在の議会にしてしまうおそれがあるからである。そうなれば、大統領制──議会によってではなく人民投票によって選ばれた──だけが、指導者に対する期待を満たす唯一の安全弁となるであろう。
「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、74-75P
現在の日本の政治は議院内閣制であり、総理大臣は議会によって決定されます。つまり、国会議員の中から国会議員による投票で過半数の指名を受けたものが総理大臣になるということです。日本では基本的に与党の総裁が総理大臣になるので、自民党内部で行われる「総裁選」挙が実質的な総理大臣を決める争いの場になります。アメリカの大統領制では議員で投票して決めるのではなく、国民が投票して決めます。
現在の日本の指導者である総理大臣の岸田文雄さんがカリスマ資質をもつかどうか、指導者の資質をもつかどうかは正直な話、私には判断できません。岸田さんのことをよく知りませんし、日本の政治システムすらよくわかっていません。そうした分析は専門家の人に任せましょう。「指導者の資質」の詳細は次回の記事で扱います。
政治ってややこしい。用語整理
用語整理
人民投票とは、意味
人民投票(じんみんとうひょう):「国民主権の表われとして,国民一般が,議員その他公務員の選挙以外の課題について直接行う投票。(ブリダニカ国際大百科事典より引用)」
・たとえばアメリカの大統領選は「人民投票」によって決まるとも言える。アメリカ大統領選は事前に登録した18歳以上のアメリカ国民(有権者)が大統領にふさわしいと思う人に投票する仕組み。4年に1回行われる。ただしアメリカ大統領選は少し複雑で、有権者(約1億5000万人)は「選挙人」と呼ばれる538人を州ごとに選ぶ。この選挙人の投票の過半数を獲得した人物が大統領となる。
この選挙人は政党が選んだ人物からなり、選挙人は自分を選んだ政党へ基本的に投票する(これに反することは異例らしい)。たとえば有権者は投票用紙でバイデン氏に○をつけたり、トランプ氏に○をつけたりして投票するのであって選挙人の名前に○をつけるわけではない。ある州でバイデン氏のほうが投票数が多かった場合、バイデン氏の所属する政党(民主党)が指名した「選挙人」を政党は獲得する。選挙人は誰に投票するかを事前に公約している。つまりトランプ氏へ投票する選挙人団、バイデン氏に投票する選挙人団というのが別々にある。
たとえば2021年のアメリカ大統領選では、バイデン氏が8100万票、トランプ氏が7400万票を有権者から獲得した。選挙人からバイデン氏が306票、トランプ氏が232票を獲得し、最終的にバイデン氏がアメリカ大統領となった。
なぜこんな面倒なシステムを取っているか正直理解できないが、そうらしい。選挙人団は基本的にお飾りのようなもので、州でより多く選ばれた人に投票するロボットのようなものだと思う。本質はこのロボットではなく、「総取り」というシステムにあるのだが、ここでは詳述しない(気になる人は調べてみてください)。大事なのはこの選挙人団というシステムがあるので有権者から過半数の票を獲得しても大統領になるとは限らないということだ(ヒラリー・クリントンは過半数を獲得したがトランプに負けた)。
比例選挙とは、意味
比例代表性(ひれいだいひょうせい):「各政党の得票率に比例して議席配分する選挙制度。政党が順位をつけた候補者名簿を提出する政党名簿比例代表制などがある。(ブリタニカ国際大百科事典より引用)」
議院内閣制とは、意味
議院内閣制(ぎいんないかくせい):#「行政府である内閣の存立が、議会(特に衆議院)の信任を得ることを必須条件とする制度。英国で発達し、下院の多数党、または、多数を制する政党の連合によって内閣を組織し、閣員は原則として議席を有する。日本国憲法でもこれを明文化している。責任内閣制。 (小学館より引用)」
大統領制とは、意味
大統領制(だいとうりょうせい):広義には、大統領を元首とする統治形態をいう。狭義には、厳格な三権分立制をとるアメリカの統治形態をいう。共和国の元首。また、その職。選出方法はアメリカ、フランスなど国民が選出する国と、イタリアなど議会で選出する国とがある(日本国語大辞典より引用)。
議会主義とは、意味
議会主義(ぎかいしゅぎ):#「国家の最高意思を、国民を代表する議会において決定していく政治方式。特に議院内閣制をいう場合が多い。議会政治。資本主義社会から社会主義社会への変革を、議会に多数を占めることによって成し遂げようとする主義・立場。 (デジタル大辞泉より引用)」
金権政治とは、意味
金権政治(きんけんせいじ):・「金権によって何事も支配しようとする政治。経済力のある少数者によって行なわれる政治(日本国語大辞典より引用)。」
官僚主導とは、意味
国民主権のもと、国会を国権の最高機関とし、構造的・概念提示政策を打ち出すのは政権政党であっても、基本・実施設計や総合・個別機能的政策の形成に積極的に関与し重要な役割を担っているのは官僚集団であり、政策過程の中枢は「官僚主導」であると評されてきた。石原信雄は、日本の官僚は国際的にトップ水準にあり、日本社会の最も擾秀な人材層が集まる官僚機構は近代以後の日本が蓄積してきた価値ある財産であると指摘し、政治主導論に対して、政策形成過程から有能な官僚集団を排除することは国にとって大きな損失であり、議院内閣制の下で官僚機構が全般的な行政機能を担っている日本では、政策の形成・策定過程に官僚集団を関与させることはむしろ必要なことである 、 と 主 張 す る。
官僚主導の終罵? – J-Stage
出典
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、8P
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、9P
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、10P
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、19P
- 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、830P
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、11P
- 「社会学用語図鑑」田中正人(編者)、香月耿孝史、プレジデント社、81P
- 「社会学用語図鑑」田中正人(編者)、香月耿孝史、プレジデント社、80P
- 「職業としての政治」、マックス・ウェーバー、脇圭平訳、岩波文庫、80P
- 家産制
- https://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Weber%20Herschafts%20Kategorie.htm
- 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、100P
- 「マ ッ ク ス ・ヴ ェ ー バ ー の 講 演 「国 家 社 会 学 の 諸 問 題 」(1917年)を め ぐ っ て 」、佐野誠、27P(URL)
- 「ヴェーバー国家論の諸要素」、捧堅二、67P,(URL)
- 「依法官僚制(WIKI)」
参考文献・おすすめ文献
マックス・ウェーバー『職業としての政治』
マックス・ウェーバー『権力と支配』
雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』
山之内靖『マックス・ウェーバー入門』
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
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