- Home
- ユルゲン・ハーバーマス
- 【1ワード社会学第十三回(13)】ハーバーマスの「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」の違い
【1ワード社会学第十三回(13)】ハーバーマスの「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」の違い
- 2026/3/26
- ユルゲン・ハーバーマス
- コメントを書く
動画での説明
よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m
ショート動画で1分で説明しているバージョンも投稿していますm(_ _)m
はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
記事の分割
(準備中)
(4) [B]コミュニケーション的行為関連
[4-2]ハーバーマスの「道具的行為/コミュニケーション的行為/戦略的行為/その他の社会的行為」
出来事、行動、行為、作動の違い
まず、最広義に「出来事」をおくことにする。時間の中で発生し、何らかの変化を伴う事態ならば全て出来事である。たとえば体内で血液が流れているという事態も出来事である。我々は意識的に血液を流しているわけではないが、血液は流れているわけである。
血液の流れはルーマン的に言えば生命システムの「作動(代謝など)」である。市場の価格統制も「作動(コミュニケーション)」である。ルーマンの社会システム理論では行為や行動が基礎的な単位とされない(行為理論ではない)。
仮に出来事には行動、行為、そしてシステムの作動などがあると整理しておく。システムの作動など、行動と行為以外のあらゆる出来事を「その他」としてまとめるとこのような図になる。
行動は脊髄反射的な出来事を意味する。意味づけの要素がほとんどない領域である。たとえばヤカンに手を触れて熱いから離すというのは一種の行動である。
花粉が鼻に入ってくしゃみをする、驚いて肩をすくめてしまうといったものもその例だと言える。生命システムの作動と区別することは難しいが、しかし外形的に「人間がなにかをしている」と分かるという点で区別することができる。血液が体内を流れているだけでは「なにかしている」と他者は判断することができない。
もちろん、花粉が入っていないのにくしゃみを意図的にするというケースもありうるのであり、この場合は外見上はわからず、行為者の意図性、意味づけ、意思の有無で判断することになる。
行動も生命システムの作動も、どちらも主観的意味づけがなく、自動的であるという点で一致している。意図的に生じさせる可能性があるが意図的ではないタイプの出来事が「行動」であると理解しておくことにする。
もし意図的に生じさせる可能性がまったくないとすれば、「行為でも行動でもない出来事」である。実際に意図的に生じさせているとすれば「行為」であると分類できる。
もちろん、その意図性がほとんど弱い慣習的で無意識的なものから、明確に目的を意識したものまでグラデーションがあるといえる。
行為はさらに、相互行為と個人的行為に区別することが可能である。そして相互行為の中に「社会的行為」が存在することになる。
ウェーバーにおける社会的行為は「主観的な意味づけ」が前提であった。一方で、ウェーバーは主観的な意味を「実際に歴史上のあるひとりの人間が主観的に考えた意味」、「多くの人間が平均的に考えた意味」、「理念型における主観的な意味」に区別している。
たとえば「電車で老人に席を譲るという行為」は社会的行為だろうか。行為者が実際に「そうすることが正しいから」だとか、「非難されたくないからだ」とかいった意味づけをしているかもしれない。この場合は社会的行為だといえる。
一方で、たまたま座っている姿勢が辛くて立ち上がっただけという可能性もある。この場合は他者へ向けられた意味づけが欠けているといえる。
【基礎社会学第十四回】マックス・ウェーバーの社会的行為の四類型とはなにか
ハーバーマスにおける「行為調整」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
ハーバーマスにおいて社会的行為は行為者の「主観的意味づけ」に力点が置かれていない。ハーバーマスにおいて重要なのは、行為者同士の相互作用の中で、間主観的に「行為調整」が生じているかどうかである。
行為調整:複数の行為者が互いの行為を予期しつつ、一定の基準に基づいて自らの行為を整え、その結果として行為が相互に結びつくこと。行為整合とも呼ばれることがある。例えば雑踏でAが右へ足を踏み出し、Bが左へ足を踏み出して衝突を防ぐという事態も一種の行為調整である。
社会的行為をもっとも広義に解釈するのならば、「他者の行為を前提にしながら行為調整的に遂行される行為」となるのだろう。
他者の行為を前提としていない場合は「行為」ではあるが「社会的行為」とならない。たとえば瞑想や、雨がふったから傘をさすといったタイプは基本的には社会的行為ではないといえる(これも状況次第になり、普通はそうだというタイプの話にすぎない)。
調整とは一般に、「望ましい状態にする」ことを意味する。どんな基準をもって望ましいとするのかが問題になり、その基準によって社会的行為のタイプが分類できる。望ましくない状態はなんらかの衝突(コンフリクト)があるということであり、秩序が不安定であるともいえる。
・特に参考にしたページ
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,152p
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,287p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993),47p
ハーバーマスの「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」の違いとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
「了解(意思疎通)」を目的とすればコミュニケーション的行為であり、「成果」を目的とすれば戦略的行為であるとハーバーマスは区別している。たとえば「顧客は内容に全く納得していないが、契約が結べたからどうでもいい」と考えれば戦略的であり、「自分の主張を納得してほしい」と第一に考えればコミュニケーション的である。
コミュニケーション的行為:行為者のあいだでまず意思疎通をしようとし、そこで成立した相互了解にもとづいて何らかの成果を獲得しようとする行為のこと。
戦略的行為:ある行為者が、他の行為者の行為を自己の成果の達成のための手段として利用しようとする行為のこと。
これらの社会的行為は言語を媒介した行為が中心となるが、言語を媒介としないものもあることに注意する必要がある。ボディーランゲージや絵、音楽などでも行為調整を伴う相互作用は可能である(システム作動による調整については後で扱う)。
とはいえ、ハーバーマスはこれらの非言語的作用の分析を主題としていない、いわば後回しにしている。オースティンが「通常の文脈における通常の言語使用」に分析を限定したこととも共通する。
しかしいずれの場合もなんらかの「シンボル(象徴)」が用いられていることに注意する必要がある。
ミードが述べたように、われわれは相手の立場にたって有意味なシンボルの交換をする動物なのであり、それが人間特有の行為だというわけである(詳細は基礎社会学第二十七回を参照)。「シンボリック相互作用論」としてブルーマーが理論化していく内容でもある(詳細は1ワード社会学第十一回を参照)。
簡単に区別すれば、コミュニケーション的行為は「了解」を優先し、戦略的行為は「成果」を優先する社会的行為であるといえる。
では、了解や成果とはいかなる意味か。まずは「了解」から考えていきたい。類似した用語に意思疎通や承認、同意といった用語があるが、それらとの違いはどこにあるのだろうか。
・特に参考にしたページ
「社会学小辞典」、有斐閣、新板増補版第四刷,194-195p
「本当にわかる社会学」,現代位相研究所編,第四刷,225-226p
「新しい社会学の歩み」,有斐閣アルマ,第一刷,188p
「自己・他者・関係」(社会学ベーシックス),世界思想社,第一刷,242p
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,147p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),132p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993),41-42p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」,33p
【基礎社会学第二十七回】G・H・ミードの「プレイとゲーム、重要な他者と一般化された他者」とはなにか
【1ワード社会学第十一回】ブルーマーの「シンボリック相互作用論」とはなにか
ハーバーマスの「意思疎通」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
「意思疎通」とは一般に、「互いに考えていることを伝え、理解を得ること、認識を共有すること」を意味する。英語で言えば「コミュニケーション」であり、広義の概念だといえる。
「意思疎通」を達成するためには、相手に自分の言っていることを「認知」してもらう必要がある。言語が通じなかったり、難解だったりすれば相手の主張を認知することはできない(理解可能性を満たせていない)。そして認知したとしても、その主張の妥当性が承認されるとは限らない(三種類の妥当性を満たせていない)。
意思疎通は、単に情報を伝達するタイプのもの(認知だけを求める)と、了解を目指すタイプのもの、さらにその了解の下位分類に分析的には区別することができる。もちろん、純粋に認知だけを求めるタイプは理念的なものであり、実際はそれが事実だと「了解(承認・同意)」してほしいという妥当性とセットの場合が多いといえる。
たとえば、「昨日は雨が降っていたか」と聞かれて、「雨が降っていた」と応えるような会話を想定してみる。ハーバーマスはこのようなケースを「会話(情報交換)」と呼んでいる。
ただ「何を言っているかを伝えたい」だけではなく、「相手にその主張が妥当であると同意してもらいたい」ケース、つまり「了解」を主題としたケースを考えてみる。
たとえば、「うるさいので静かにしてください」と発話するケースでは、情報を単に伝達しているのではなく、自分の主張は妥当であると合意してもらいたいケースだと言える。そして、その了解を踏まえたうえで、一定の「成果」、このケースで言えば「静かにしてもらう」という結果(成果)を望んでいるといえる。
「うるさいので静かにしてください」とAが述べ、Bが「わかりました。すいません」と返答したとする。日常的な感覚から言っても、われわれはこれを意思疎通がとれていると考えるだろう。
もちろん、「この場所では声を出しても問題はないはずだ」といったように反論することも可能であり、その反論は妥当だとAに認められる場合もある。この場合でも意思疎通がとれていると我々は考えるだろう。
しかし、Bがいきなり「黙れ!出ていけ!」と大声を出し始めたら、了解を目指しているとはもはやいえず、意思疎通とはいえなくなる。
「アンパンは好きですか」と返答されたら、われわれはこれを意思疎通がとれていないと考えるだろう(対話をしようとする気がないと感じるわけだ)。言語が通じない場合も、意思疎通が難しいと感じるだろう(非言語的なやりとりで意思疎通を試みるかもしれないが)。
Aが意思疎通をしようとしても、Bがそれに応答しない場合は全体としてコミュニケーションとはいえないのである。
もちろん、権力や暴力をチラつかせて形だけの強制的な合意を相手から引き出したとしても、意思疎通における「了解」とはいえない。
今までの内容を整理すると、このような図のイメージになる。
・特に参考にしたページ
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),132p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」,33p
ハーバーマスの「成果」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
次に、「成果」という言葉について説明していきたい。
成果(独:Erfolg):行為者が目標に向けて行為することで、自分にとって望ましい事態を因果的に生じさせた結果のこと。
発話とは無関係に、非因果的に、偶然に生じた結果のことではない。あくまでも意図して、目的として生じた結果を意味する。「意図していないが成果があった」などという使い方は不正確だということになる。
戦略的行為はこうした意味の「成果」を第一に考え、「了解」は二の次であることに特徴がある。他者が自発的に、対等に、そして正当に自分の主張を認めているかどうかは二の次だということになる。
もちろん、そうした正当性がいかなる場合も必要ではないということを意味しない。正当であろうとなかろうと、「成果」が得られれば良いのであり、たとえ主張が正当に認められたとしても、行為者の内心が成果第一であれば戦略的行為なのである。
今までの内容を整理すると、このような図のイメージになる。
・特に参考にしたページ
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),131-132p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」,33p
コミュニケーション的行為と戦略的行為をどのように区別するのか
ハーバーマスは社会的行為であるかどうかの分類については「個人の具体的な主観的意味、内心、心理的次元」を重視せず、行為者同士が「行為調整をしているか」という「コミュニケーションに存在する形式的な構造」を重視した。
内心では成果を重視していようと、了解を重視していようと、外形的に行為調整が観察されればとりあえずはいいということになる。
しかし、社会的行為の下位分類については、「個人の具体的な主観的意味」が重視される。
外形的には全く同じように見える行為でも、個人の内心において成果を第一としていれば「戦略的行為」であり、意思疎通を第一としていれば「コミュニケーション的行為」なのである。戦略的行為とコミュニケーション行為の区別は、基本的には外から観察して判断できるものではないということになる。
また、コミュニケーション的行為が「成果」を全く指向していないとはいえず、戦略的行為が「了解」を全く指向していないともいえないという問題がある。
もちろん、コミュニケーション的行為が成果よりも了解を優先し、戦略的行為が了解よりも成果を優先するという「優先度」という違いで分類することは可能である。しかし、コミュニケーション的行為が目的を副次的とはいえ指向するならば、コミュニケーション的行為も目的論的行為であり、社会的行為は目的論的行為を土台にすることになってしまうのではないかという問題がある。それゆえに、より形式的で構造的な違いを体系的に明らかにする必要がある。
コミュニケーション的行為と戦略的行為の本質的な違いを明らかにするために、ハーバーマスはオースティンの言語行為論を批判的に分析している。結論を言えば、「批判可能性が存在するかどうか」がキーポイントとなる。
批判可能性が存在するような発話のタイプや、存在しない発話のタイプとはどのようなものかといった「構造」を扱うのである。
もっとも、結局は行為者の内面を観察者は一定の判断材料をもとに推定するしかないという点は変わらないかもしれない。
たとえば明確に暴力をチラつかせておいて「そんなつもり(了解よりも自分の成果を第一としているつもり)はなかった」と内心を表明したところで、そこに説得力はあるだろうか。
批判を封じる構造が言語外にあり、かつ行為者はそれを意識していることを客観的に説明することは難しいが、すくなくとも理解可能な形、ふつうはこうだろうというかたちで解釈することは可能だといえる(現実の裁判では基本的にこの形が多い)。暴力をチラつかせているような場合は了解を普通は第一に指向していないだろうといったようにである。
あるいは「実際の行為者、被行為者の内面」はどうあれ、「構造としては批判を封じるような形式が存在する」といったようにパターンを見出すことはできるかもしれない。暴力をチラつかせてもそれに全く影響を受けない人が仮にいたとしても、構造としては了解指向的ではない、批判可能性にたいして開けていないと記述することができる。
デュルケム的に考えればより広い視野で、社会の構造が個人の内面を規定するのであり、実際にある特定の個人が完全に気分や恣意的な選択によって内面における動機の優先度を変動させるといった想定にはあまり関心がないのかもしれない。
マルクスで言えば下部構造(経済など)が上部構造(意識など)を規定するといったようなマクロな視点に近い。いわば社会の変容が個人の変容にどのように変化をもたらしているのか、という点に強く着目するのである(もちろん諸個人の営みが社会を変えうるという循環的、再帰的な点にも着目するが)。
もちろんハーバーマスは経済に特化した説明を受け入れているわけではない。経済システムだけではなく、システムとは概念的に区別された(人々の具体的な営みによって維持、変化する)生活世界によっても人々は規定されているのであり、システムを基礎づけているのは生活世界であると考えている。
これらを扱う前に、まずは非社会的行為である「道具的行為」や、他の社会的行為、そしてコミュニケーション的行為の下位類型を抑えておきたい。
・特に参考にしたページ
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」,34p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993),132p
参考文献リスト
今回の主な文献
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)
コメント
この記事へのトラックバックはありません。












この記事へのコメントはありません。