【基礎社会学第二回】エミール・デュルケームの「社会的分業」とはなにか?

エミール・デュルケームとは

プロフィール

エミール・デュルケーム

 デュルケームは「現代社会学」の建設者として、マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルと並び称される。ユダヤ教ラビの息子に生まれたそうだが、棄教して高等師範学校へ進んだ。本来ならばデュルケームは宗教者になるはずだったらしい。1893年に『社会分業論』、1895年に『社会的方法の基準』、1897年に『自殺論』を書いた。社会学の機関紙である『社会学年報』も創刊した。また、多くの弟子を育成してデュルケム学派を育成した。

エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年4月15日 – 1917年11月15日)は、フランスの社会学者。デュルケム、デュルケイムなどと表記されることもある。オーギュスト・コント後に登場した代表的な総合社会学の提唱者であり、その学問的立場は、方法論的集団主義と呼ばれる。また社会学の他、教育学、哲学などの分野でも活躍した。(wiki)

今回の抑えておきたいキーワード

  1. 「社会的分業」
  2. 「道徳的連帯」
  3. 「機械的連帯と有機的連帯、環節社会と有機的社会の違い」
  4. 「産業革命」

動画での説明

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社会的分業と道徳的連帯

社会的分業とは

社会的分業(しゃかいてきぶんぎょう):責任感や連帯感を生み出す分業を社会的分業という*1。

参考書籍の例では「複数人で共同して行う料理」を出していました。たしかに規模が大きくなると、食器を洗う人、野菜を切る人、肉を調理する人、鍋で煮込む、注文を取る人、経理の人等、飲食店では分業が行われています。スマートフォン一つとっても、膨大な分業の最終成果物ですよね。ディスプレイ、バッテリー、CPU、タッチパネル、ケーブル等々下請けの下請けの下請け・・・といったように分業がありそうです。さらにそうした下請けをする際の道具も分業でといえばきりがないですね。

「業(ぎょう)」には様々な意味がありますが、「やるべきこと、しごと、事業」か「暮らして行くための仕事。なりわい。職業」のどちらでしょうか。いずれにせよ「仕事」が分けられているということでよさそうです。分業は人々に責任感や連帯感を生み出すそうです。たしかに液晶パネルを作るという社会的分業を担っている人がもしサボっていたらどうなるでしょうか。スマートフォンが出来上がらなくなります。肉屋さんがいなければ、ステーキ屋さんもこまります。こうした意味で、たしかに責任感がありそうです。また、お互いが依存しているので、連帯感も生み出しそうです。

「連帯」とは「二人以上の者が共同である行為または結果に対して責任を負うこと」や「二つ以上のものが結びついていること」という意味があります。おそらくは後者の意味で使われていると思います。「つまり、2人以上で結びついている感じ」が「連帯」なのです。どちらかといえば「連係」にも意味が近いですね。「互いの間につながりがあること」ですね。

ギデンズによれば分業を「労働は、人々がそれぞれ専門に従事する膨大な数の職業に分化してきた*5」とあるので,職業に近いのかもしれません。

コラム:労働と職業

「労働」という言葉は現代社会の私たちにとっての一般的なイメージとしては「お金がもらえる仕事」というものが多いのではないでしょうか。しかし「労働」は必ずしも有給であるとは限らず、無給のものも含まれます。より広義の定義では「人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段などをつくり出す活動のこと」というものがあります。

昔の社会では貨幣といったものがありませんよね。狩りをする人、服を作る人、子供の面倒を見る人、家を作る人、農作をする人などさまざまな「労働」がありました。昔は物々交換などをしていたそうです。米と肉を交換といった形ですね。貨幣を基準とした原罪社会でさえも、食べるためにベランダでプチトマトを育てたりするはずです。こうした小さなものも「人間が自然に働きかけて生活手段や生産手段などをつくり出す活動」なのです。家事や(自分で行う)車の修理も「労働」に含まれるのです。

アンソニー・ギデンズは「労働」とは「有給であれ無給であれ、人々の要求を充たす物的財やサービスの生産を目的した課業を、心身を費やしながら遂行すること」と定義し、職業(職務)とは「一定の賃金や給与との交換でおこなわれる労働」と定義しました*4

道徳的連帯とは

道徳的連帯(どうとくてきれんたい):責任感や規範によって結びついた連帯を道徳的連帯という。デュルケムは道徳的連帯のあり方から社会の形態を「機械的連帯」と「有機的連帯」に分類した*2

デュルケムの社会学の目的は「道徳の科学」にあります。一般に「道」は人が従うべきルールのことであり、「徳」はそのルールを守ることができる状態です。あるいは社会で承認されている倫理的価値です。たとえば生命を大切にするといったものは多くの社会で道徳的な行為だとされています。法律とは違って外面的な矯正ではなく、内面的で自発性を伴うものです。

デュルケムの関心は「社会を統合する道徳力としての社会」に向けられているそうです*3。前回の記事で「犯罪があることは正常である」ということについて扱いました。犯罪があるということは、社会で規範が存在している状態であるといえるので、正常だという話です。たとえば暴力は犯罪だとみなされるのは、暴力が責められる行為であり、非道徳的な行為だと社会で共通認識があるからです。

こうしたことを考えてみると、やはり社会と道徳とは関係があるような気がしてきます。仮に無人島で一人で生まれ、一人で生活すると考えたときに、今ある道徳と同じような規範の多くは生まれないと思います。複数の人が生活する社会であるからこそ、道徳というものが関係してくるのです。

機械的連帯と環節社会

機械的連帯(きかいてきれんたい):個人が社会に従属する連帯を機械的連帯という*7。ただ似ているという理由で集まった均質な人々によって構成された、単純な結びつきしか持たない連帯*6。機械的連帯が優位になっている社会を「環節的社会」という。

機械的連帯は「伝統的な社会」によくある連帯です。「伝統的」とは昔から受け継がれてきたという意味です。伝統の対義語は革新です。ざっくりいえば昔の社会ですね。近代以前の、古代や中世の社会といってもいいかもしれません。

そうした機械的連帯において「個性」を持つことは少なく、社会に埋没しています。日本のことわざでは「出る杭は打たれる」とありますね。あるいは「付和雷同」という言葉のように、「他人の意見に同調すること」が重視されてきたのが日本的な伝統のひとつとしてあります。

こうした機械的な連帯の優位する社会を「環節的社会(かんせつてきしゃかい)」というそうです。「環節」とは一般的に「環形動物や節足動物の体節」を意味するらしいです。たとえるなら「ミミズ」ですね。ミミズはおなじ機能を持つ体節の集まりらしいです。「体節(たいせつ)」とは動物の体の頭から尻尾にかけてみられる繰り返し構造のことらしいです。体節の数だけ腎臓があるらしいです。そういう動物を環形動物といいます。他にもヒルも環形動物です。

ミミズのように同じような機能が寄り集まっているという意味で、比喩的に「環節的社会」というんですね。「機械的な連帯」と合わせて覚えておきましょう。

有機的連帯と有機的社会

有機的連帯(ゆうきてきれんたい):個人は個性化し、互いに異なる機能をはたし、相互に依存する傾向を強めるような連帯を有機的連帯という*8。有機的連帯が優位になっている社会を「有機的社会」という。

「有機(ゆうき)」とは生命力をもっているという意味です。機械には生命力がないので、反対の概念になります。「有機的」と表現するときは「多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっているさま」を意味します。

「[個性(こせい)」とは一般的に「 個々の人または個々の事物に備わっていて、他から区別させている固有の性質。パーソナリティー。(日本国語大辞典)」を意味するそうです。何度調べてもいまいち理解できません。「絵の具と同じで、いろいろなものが混ざり合って出来上がる、同じ色は作れない自分だけのもの」という定義は面白いですね。要するに人と違うことです。個性的な服といえば、他の人が着ていないような服ですよね。

環節社会では同じような機能のあつまり、つまり非個性が重視されていました。近現代社会になると分業が複雑化し、人々がそれぞれ専門に従事する膨大な数の職業に分化してきます。他の人と同じような機能の仕事が少なくなってくるのです。伝統的な社会では主要な職人は二~三〇種類しか存在しませんでした*9が、現在では何万、何十万と種類があります。就職の面接では「人との違い(個性)」をアピールすることが多いのではないでしょうか。

私たちは食べるもの、着るもの、移動する手段、住居、ありとあらゆる消費物を自分で生産していないことが多いです。他の職業の人々に依存しています。また、他の職業の人々も何らかの形であなたの職業に依存している場合があります。このような依存を相互依存といい、別の用語では「経済的相互依存性」といいます。

このように「個性」や「経済的相互依存性」が重要視されるような連帯を「有機的連帯」といいます。「有機的」とは一般的に「多くの部分から成り立ちながらも、各部分の間に密接な関連や統一があり、全体としてうまくまとまっているさま(日本国語大辞典)」を意味します。人々が個性的で、人と違うような機能をそれぞれ持ちながらも、全体としてうまくまとまっている状態を「有機的連帯」というのです。

「全体としてうまくまとまっている」とはデュルケムの文脈に即して言えば、「道徳的」であるということですね。分業を通して人々が責任感や連帯感をもつことできるとデュルケムは考えていました。社会的分業が発達すればするほど、社会は道徳的な性質を帯びるということです。

コラム:産業革命

近代になる前、特に「工業化」する以前はほとんどの労働は家庭で行われ、世帯員全員が一緒になって仕事を仕上げていたそうです*10。現代のように工場がいくつにも分かれていて、家庭とは分離しているイメージではないんですね。ひとことで言えば「家内工業(かないこうぎょう)」です。「家族従業者を主体に,自己の住宅を作業場所として営む工業の形態。低賃金と劣悪な労働条件を一般的特徴としている。歴史的には,マニュファクチュアに先立つ初期資本制経営形態の一つで,商品生産の発展とともに中世封建社会において広まった。産業革命以後,マニュファクチュアないしは工業制生産の発展とともにその多くは消滅した(略)出典」らしいです。

昔は人間が手で物を作っていました。そのような形態を「手工業」といいます。家庭内で行われる手工業を、「家内制手工業」といいます。「家内制手工業」では職人が仕入れをして、生産をして、販売をします。そうした形態から、「問屋制手工業」へと移り変わります。問屋というのは「取次ぎを営業としておこなう商人」です。たとえば漁師は問屋に魚を売り、問屋は店(小売商)に魚を売り、店は我々に魚を売るわけですね。「問屋制手工業」では職人が問屋から材料や道具を貸し付けられ、生産をする形態です。

さらに「問屋制家内工業」から「工場制手工業」に移ります。資本家が労働者をひとつの場所に集めてい分業による協業を行うそうです。更に今度は手ではなく機械によって物を作る形に変わります。そういった形態を「工場制機械工業」といいます。このように「家内制手工業」から「工場制機械工業」へと移り変わっていったのが「産業革命」というわけです。産業革命は「工業化、工業革命」などとも言われます。1760年代から1830年代頃にイギリスで最初に起こったそうです。

デュルケムが考える好ましい連帯のあり方と「個人」

「デュルケムにとって社会の進化とは、社会の内部に多様性が生み出され、個人のあいだに多様な差異が生ずることである。そのとき、社会を維持するためには多様性を統合する作用、すなわち分業が必要であるというのである。」

「社会内部の相互作用の密度が増大するにつれて分業は増大し、機械的連帯は有機的連帯へ移行していく。デュルケムは有機的連帯の概念によって、共同体の解体が進行する産業社会での望ましい社会のあり方を示唆したと言えよう。個人の自由が増大するほど諸個人は有機的連帯を強め、それにともなって社会の道徳的密度も増大すると考えたのである。」

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、P26-27

近代化が進むにつれて、機械的連帯から有機的連帯へと移行していったようですね。近代化とは科学革命であり、産業革命であり、商業革命でもあります。テクノロジーの変化に伴い、連帯も変化していったというところでしょうか。

ポイントは、デュルケムは有機的連帯を好ましいのと考えていたことです。復習すると有機的連帯とは「個人は個性化し、互いに異なる機能をはたし、相互に依存する傾向を強めるような連帯」です。個性化するということは、同時に個人の自由が増大するということでもあります。個人の自由が増大すると有機的連帯も強くなり、社会の道徳的密度も増大するとデュルケムは考えたのです。

デュルケムは社会学を「道徳の科学」として考えていました。デュルケムにとって社会とは人々の相互作用を統合する道徳的な力なのです。個人化や多様性が発展すると、そうしたものを統合する力が必要となります。その力が「社会」なのです。そしてその社会的事実のひとつが「分業」というわけです。分業を多様性を統合する作用としてデュルケムは考えました。

アノミーとはなにか

アノミーの意味

アノミー(あのみー,anomie):「法の不在」を意味するギリシャ語anomosに由来する概念。中世以来使われていなかったが、デュルケムが社会学の概念として採用し、「行為を規制する共通の価値や道徳的規準を失った混沌状態」と定義した(出典)。※哲学者としてはフランスのギュィヨーというひとが用いらたしいです。

アノミーは大不況や、経済の急激な成長によって起こることがあります。社会の道徳力が機能しなくなり、人間の欲求が際限なく肥大化していくような状態をアノミーというのです。アノミー状態では不満、絶望、焦りなどが人々を苦しめます。アノミーが原因で起こる犯罪を「アノミー的犯罪」、アノミーが原因で起こる犯罪を「アノミー的自殺」といいます。
大不況になると、今まで叶っていた欲望がかなわなくなり、アノミーになります。反対に経済が急激に成長すると、今まで以上に欲望が際限なく増えて、それが叶えられなくなり、アノミーになります。

たとえば「詐欺はよくないことだ」という共通の価値観が日本にはあります。そして詐欺行為は法律では犯罪行為であり、罰せられる行為です。もし法がなくなったらどうなるでしょうか。窃盗や暴行、誹謗中傷等々が横行するかもしれません。

たとえば人に優しくする、親孝行をする、まじめに働く、清潔にする等々の一般的に「良いこと」とされる行為がありますが、まもらなくても法で罰せられません。価値観には法に関係するものと、しないものがあります。

アノミー(anomie)は「法の不在」を意味するギリシャ語に由来する概念で、社会による欲望の無規制状態を意味し、現在でもしばしば用いられる概念となっている。社会による道徳的規制が弛緩すると個人の欲望が際限なく拡大する。これがアノミーの状態である。

「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、P32

社会による「欲望」の無規制状態とはなんでしょうか。別の用語では「欲求」ともあります。欲望の一般的な定義は「ほしがる心。不足を感じて、これを満たそうと望む心。」です。性欲、食欲、物欲、承認欲求などは欲望のひとつの形態です。マズローという人が欲求段階説を唱えましたが、そこでは下から生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求、承認の欲求、自己実現の欲求というものがありました。

たとえば家族と喧嘩をしたり、職場でいじめに合うと人間は孤立し、社会的な欲求を満たしにくくなります。社会には「人とのつながりはよいことだ」という道徳的な規範が仮にあると仮定します。そういう状態を「欲望の」規制状態だとします。もし仮に「人とのつながりはよいことかもしれないし、わるいことかもしれないし、よくわからない」という無規制状態になったらどうなるでしょうか。人間はどうしたらいいかよくわからなくなるかもしれません。そうした状態もアノミーというのかもしれませんね。価値基準は人それぞれだ!自由だ!という言説が広まりすぎると、「じゃあどうしたらいいいんだ?」ということになる場合もあります。

デュルケムは、分業が潜在的に有害な影響を及ぼすことを十分認識していたとはいえ、分業についてもっと楽観的な見解を示した。デュルケムによれば、役割の専門分化は共同体内部の社会的連帯性を強める。人々は、孤立した自給自足的な単位として生活するよりも、相互依存によって互いに結びついていく。連帯性は、生産と消費の多次元の関係をとおして高められる。デュルケムは、かりに変動があまりにも急激に生ずると社会的連帯が崩壊する可能性を認識していたとはいえ、このような社会の布置連関を極めて機能的なものとみなした。デュルケムは、この結果として生ずる規範を失った感覚を、アノミーと称した。

「社会学」、アンソニー・ギデンズ、而立書房、P736

ギデンズが説明しているように、やはり「規範を失った感覚」がアノミーなんですね。また、アノミー状態では「社会的な連帯も弱まる(崩壊する)」というのもポイントではないでしょうか。急激な経済成長や大不況以外にも、「分業」しすぎて道徳的連帯を逆に弱めるといったこともあるということです。夏休みに学生が自殺しやすい理由も、学校や友達等の社会と離れ、孤立する時期なのかもしれません。親離れ、子離れ、リストラ、恋人との別れといったような社会から人間が離れる方向にある現象が起きる時、アノミー的な状況が個人的に生じているのだと思います。

現実の近代西欧社会では、無規制的な産業化のために諸機能の相互依存よりも不統合が、有機的連帯よりも弱肉強食の対立・抗争が、むしろ支配的になっている。『社会分業論』では、このような状態がアノミーとして記述されている。他方またアノミーは、個々の人間の行為や意識のレベルに現象してくる病理でもある。デュルケームは『自殺論』においては、急速な産業化による価値規範体系の攪乱(かくらん)が個々人の欲求の無規制を引き起こすという現象に目を向け、これを自殺の発生の社会的条件の一つとして重視した。この型の自殺はアノミー的自殺と名づけられている。

出典

これによればアノミー状態は「相互依存よりも不統合が、有機的連帯よりも弱肉強食」が支配的になっているそうです。有機的連帯は分業の発展によって相互依存が高まり、人々との結びつき(統合)が強化されていくはずでしたが、逆に人とのつながりが弱まっていくこともあるようです。

経済とアノミー的分業の関連について

デュルケムは、人々の結びつきを複雑で強固にする社会的分業が発達すればするほど、社会はより道徳的な性質を帯びるようになると考えていた。しかし、経済が穀物から鉄へ、つまり農業から工業へとその重心を移す中で、分業による連帯は極めて制限されたものとなり、道徳的な結びつきはむしろ弛緩していったのである。これをデュルケムは有機的連帯の異常事態として、「アノミー的(無規制的)分業」と読んで批判したのであった。

「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、P25

「アノミー的分業」という新しい言葉が出てきました。意味はそれほど変わらず、人とのつながり(連帯、統合)が弱まり、社会の道徳的な力が弱まってしまうような分業ですね。

重要なのは背景です。なぜ農業から工業へとその重心を移す中でアノミーという状態になってしまうのでしょうか。おそらくそのヒントはギデンズのマルクスの説明の中にある気がします。

コラム:マルクスと疎外化

マルクスによれば、分業は、人間を労働から疎外していく。マルクスは、たんに労働だけでなく、資本主義的工業生活の全体的枠組みにたいしても、人々がいだく無関心なり敵意を、疎外と称した。マルクスの指摘によれば、伝統社会では、労働は多くの場合、心身を疲れさせるものだった──農民は、時として夜明けから夕暮れまでせっせと働かねばならなかった。しかしながら、農民はその労働が多くの知識と技能を必要としていたため、自分の労働を現実に管理していた。対照的に、多くの工業労働者は、製品を造るのに断片的に寄与するだけで、自分の仕事にたいする管理権をほとんどもっていない。また、工業労働者は、その製品が、どのような仕方で、誰に売られていくのかに関して何の影響力ももっていない。ジョッキーのような労働者にとって、労働は疎外されたもの、つまり、収入を得るためにしなければならないが、本質的に充足感が得られない課業のように思われている、とマルクス主義者は主張する。

「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、P736P

デュルケムのアノミーとマルクスの疎外化は一定の共通性を思っていると思われたので紹介しておきます。文章中に出てくるジョッキーは「青銅製のキノコ型弁」のみを61年間作りつづけてきた人物です。旋盤の台に取り付け、切込みを入れるだけの作業です。ある製品の部品の部品の部品、といったように分業が広がっていくと、自分が一体何を作っているか、何のために作っているかわからないケースが出てきます。誰に売られていくかもわからないし、その影響力をもてないのです。ただ収入のために仕事をしている状況です。

そうした状況ではマルクスの用語では疎外化が進み、デュルケムの状態ではアノミー状態になるのかもしれませんね。現代社会で「本質的に充足感が得られる仕事」をできている人はどのくらいの割合いるのでしょうか。昔と比べてどのくらい減ったのでしょうか。分業の形態はどうあるべきなのかを考えるきっかけになりそうですね。

アノミーに対する解決策としての「個人主義」

デュルケムはアノミーに対して「個人を尊重する(個人主義)」という新しい道徳が必要だと考えた*11

出典

  1. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、P24-25
  2. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、P24-25
  3. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、P26
  4. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、P733
  5. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、P735
  6. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、P24-25
  7. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、P26
  8. 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、P26
  9. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、P735
  10. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、P735
  11. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、P24-25

参考文献・おすすめ文献

「本当にわかる社会学」

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学

クロニクル社会学

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

 

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蒼村蒼村

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創造を考えることが好きです。

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