【基礎社会学第一回】エミール・デュルケームの「社会的事実」について

エミール・デュルケームとは

プロフィール

エミール・デュルケーム

 デュルケームは「現代社会学」の建設者として、マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルと並び称される。ユダヤ教ラビの息子に生まれたそうだが、棄教して高等師範学校へ進んだ。本来ならばデュルケームは宗教者になるはずだったらしい。1893年に『社会分業論』、1895年に『社会的方法の基準』、1897年に『自殺論』を書いた。社会学の機関紙である『社会学年報』も創刊した。また、多くの弟子を育成してデュルケム学派を育成した。

エミール・デュルケーム(Émile Durkheim、1858年4月15日 – 1917年11月15日)は、フランスの社会学者。デュルケム、デュルケイムなどと表記されることもある。オーギュスト・コント後に登場した代表的な総合社会学の提唱者であり、その学問的立場は、方法論的集団主義と呼ばれる。また社会学の他、教育学、哲学などの分野でも活躍した。(wiki)

今回の抑えておきたいエミール・デュルケームのキーワード

  1. 「犯罪は正常なものである」
  2. 「社会的事実(集合意識)」
  3. 「客観性、正常と病理」
  4. 「実証主義」

動画での説明

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犯罪は正常なものである

犯罪行為の存在しない社会というものはあるか?

犯罪は正常的なものである*5」とデュルケムはいいました。これは犯罪は正しい行為だ、という意味ではありません。犯罪行為が存在していることは正常な状態だということです。

いつの時代にも犯罪というものは、どの社会にも存在しているそうです。人間が罪を犯すように定められた本質的には悪い人間だからでしょうか?そうではないとデュルケムはいいます。

デュルケムによれば、「われわれは、それを犯罪だから非難するのではなくて、われわれがそれを非難するから犯罪なのである*6」といったそうです。どういうコト?って一瞬なりますよね。

こういうときは具体例で考えましょう。たとえば万引は犯罪です。たしかに万引は日本の法律では犯罪扱いされています。また、万引は人に非難される行為です。

今、目の前に万引している人がいるとします。私は万引を望ましくない行為だと、非難するかもしれません。もし仮に犯罪として六法辞典に記載されていなくても、おそらくなんらかの非難の感情をもっていたでしょう。自分の物もまた盗まれる可能性があるからです。そしてそういう感情を社会全体で共有するようになり、やがて法律に犯罪として明記されるかもしれません。やはり、犯罪だから非難するのではなく、非難するから犯罪なのかもしれません。

別の言い方をすれば、ある現象(例えば万引)それ自身が犯罪であるということではなく、社会の集合的・道徳的感情がそうした意味を与えているということですね。

もっと他の例で考えてみましょう。大麻は日本では犯罪です。しかし、大麻が合法な国もあります。つまり、社会的に大麻が避難される社会の集合的・道徳的感情があるか、ないかによって大麻が犯罪かそうではないか変わるということです。ある社会で、どのようなものがどの程度非難され、どのようなものが非難されないかという基準は社会ごとに異なるものがあります。

我々が万引を非難するということは、我々の社会では適切な行為と不適切な行為を区別する基準(規則)が存在していいるということです。そして万引は不適切な行為として区別されています。適切な行為と不適切な行為を区別する基準が存在している社会は正常なのです。

仮に適切な行為と不適切な行為を区別する基準が存在しない社会を想像してみてください。何をやっても非難されない社会です。これは言い換えれば、完全に秩序が失われた状態と言えます。

犯罪のような「反社会的」な行為も、”社会によって”「反射秋的」とされている限り、それは社会の一部であり、社会が健康な証拠あり、不可欠な要素らしいです。

社会実在論と、社会事実

社会実在論とは

社会実在論(しゃかいじつぎょうろん):「個人を超えた社会が実在していることを前提に社会を考えること*1」を社会実在論という。

社会実在論に対して、社会は個人の単なる集まりだと考えること*2を「社会唯名論」という。

社会的事実とは

社会的事実(しゃかいてきじじつ):「個人の外にあって個人を拘束する、集団に共有された行動・思考様式*3」を社会的事実という。もしくは「個々人に外在する行為や思考、感情の様式であり、ひとりひとりの生き方や知覚を超えた社会独自の現実*4」を社会的事実という。

・集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行

・社会的事実とは、固定化されていると否とを問わず、個人のうえに外部的な拘束をおよぼすことができ、さらに言えば固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行為様式のことである

エミール・デュルケーム「社会学的方法の基準」(1895) ※「クロニクル社会学」27-28P

デュルケムは社会実在論の立場をとっています。社会そのものは目に見えず、手で触ることもできません。個人は目に見えて、手で触ることができます。どうして目に見えず、手で触ることができない社会が実在していると言えるのでしょうか。

デュルケムは、社会的事実の研究が難しいことを認めていた。社会的事実は目に見えず、手で触れられないため、社会的事実を直接観察することはできない。したがって、その代わりに、社会的事実の及ぼす作用を分析したり、法律や宗教教典、成文化された行動規則のように社会的事実がどのように表出されてきたのかを検討することで、間接的に社会事実の特性を暴露していく必要がある。

「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、28P

ギデンズ等の説明から理解していきます。こによれば法律は社会的事実の表出のようです。たしかに法律は個人を超えるもので、集団で共有され、また個人を拘束するものです。

さきほど「犯罪は正常なものである」という項目を扱いました。社会では、あるものが適切であり、あるものが適切ではないという基準があるとします。そうした物を文章(成文化)にしたものが「法律」なわけです。もちろん法律ではない、村の慣習や宗教といった形で現れるかもしれません。それらに共通しているのは、個人を超えていて、集団で共有され、個人を拘束するということです。

わかりにくい。そうですよね。しかし個人を超えて、集団で共有され、個人を拘束するものはなんとなく実在しそうです。その例が「法律」です。しかし法律とはなんでしょうか。六法辞典は物です。裁判官は人です。しかし「法律」はどちらでもありません。概念的なものです。目に見えるものではありません。また、法律に書いてあるからといって、集団で共有されているとは限りません。一般人は六法辞典の1000分の1すら把握していないでしょう。

しかし殺人が非難される、窃盗が非難される、暴行が非難される、脱税が非難される、そして非難と同時に法律で犯罪だとされている等々の雑駁なイメージはなんとなく共有しています。であるとすれば、やはり社会的事実はあるようにも思えます。

彼が集合意識の『実在』を強調することは、形而上学的思考によるものではなく、個人と社会のシステムとしての分離を要求する方法的視点なのである。こうして、デュルケムは当時の思考の限界内の用語を用いつつ、この限界を超えて現代社会学の地位を切り拓いたのである。そしてこの地平の上に、社会的事実が社会学の対象として確定され、同時に社会学は独自の対象をもつ独立した経験科学として出発することになったのである。

(・・・)現代の社会学の言葉で言えば、社会システムにおいて生ずる出来事を、パーソナリティ・システムなどの他のシステムとは独立に判断するべきである、となるだおる。

(・・・)すなわち社会的事実を物ののように観察するとは、それを客観的な対象として取り扱うことを意味しているのである。

「クロニクル社会学」、28-29P

わかるような、わからないようなといった感じです。たとえば科学では「重力」という概念があります。しかし「重力」”そのもの”は物のように見ることができません。しかし、重力というものがあるのだなということはなんとなくわかります。リンゴが木から落ちるのは、重力があるからなんでしょう。であるとすれば、「重力」は科学の「対象」となりえるのでしょう。

同じように、「法律の影響」というのは目に見えません。しかし確実にあります。個人に外在し、集団で共有され、個人を拘束するものです。

客観性、正常と病理の区別について

デュルケムは科学者が自然的世界を研究するときとおなじように、客観的に社会生活を研究しなければならないと確信していたそうです*7。客観的(きゃっかんてき)という言葉もおそらく重要です。「客観的」とは主観または主体を離れて、独立の存在であるさまです。あるいは「第三者の立場で考える」ことです。

日常会話で「客観的に物事を冷静に考えようよ」といったりするはずです。誰が見てももっともだと思えるような立場です。たとえば自分の顔はイケメンだと確信している人がいるとします。しかし自分以外の多くの人は、その人をイケメンではないと感じているとします。この場合、「自分の顔はイケメンだ」という思考は「主観的」であり、「客観的に見れば自分の顔はイケメンではない」になります。

自分たちの社会では当たり前のようなことでも、他の社会から見たら当たり前ではないということはよくあるはずです。日本人というカテゴリー内では客観的にイケメンに見えても、アメリカ人というカテゴリー内ではイケメンに見えないということもあるはずです。逆もまたしかりです。

だがデュルケムが強調する客観性は、われわれが通常理解する客観性とは異なり、個人的意識と集合的意識を区別するための方法的な、あるいは戦略的な概念なのである。

戦略的概念としての客観性は、正常と病理の区別にも適用されている。デュルケムは同書のなかで、正常な減少と病理的な現象の区別について次のように述べる。

『もっとも一般的な諸形態を示している事実を正常的と呼び、他方を病態的または病理的と名づけることにしよう』。

つまり、ある集団において典型的であり普通であるものを正常とし、そうでないものを病理的とするのである。この定義がめざすのは、正常/病理の区別を研究者が事前にもつあらゆる倫理的・観念的な先入観から解放することである。

「クロニクル社会学」29P

わかります。混乱しますよね。「われわれが通常理解する客観性とは異なり、個人的意識と集合的意識を区別するための方法的な、あるいは戦略的な概念」というところがポイントのようです。われわれが通常理解する、というのは辞書の語義でしょうか。

どうも頭が悪い私にはスパッと理解できないんですよね。学問というものはたいてい同じような難しさがあります。しかし何度も何度も接しているうちに、ああ、こういうことなのかとわかる瞬間がきた経験があります。読書百遍義自ずから見るみたいなもんですね。最初は意味がわからなかった本も、何度か読むうちに言いたいことが理解できるようになるということです。

たとえば私はマグロの刺し身が好きです。日本では生魚をそのまま食べるというのは、一般的な形態であり事実です。つまり、日本においては「正常的」です。しかし他の国では生魚を食べるなんてありえない!キモい!と思う人が一般的な国もあるかもしれません。そうした社会からすれば、「生魚をそのまま食べる」ということは「病理的」です。

日本人の私からすれば、生魚をそのまま食べるなんて普通じゃん!正常じゃん!と思います。しかしそこには「先入観」があることがわかります。先入観とは「特定の事物、事柄、人物などについて、あらかじめ接していた情報や、自分が初めて接触したときにもった知識が、強力に作用し、それらの対象に対して形成される固定的で変化しにくい評価ないし見方をいう(日本大百科全書)」らしいです。

日本に生まれ、親や親戚、友達は刺し身を食べていました。テレビで見る芸能人たちも刺し身を食べていました。料理屋では刺し身を注文する人がたくさんいました。なるほど、世の中では刺し身を食べることは普通なんだなと思っていました。しかしそれは日本という”社会”で正常であるだけで、”世界”で正常であることを意味しません。私は今まで接してきた情報だけで、世界ではこうなんだなと思ってしまっていたのです。

刺し身の話だから「それは考えが足りないだけじゃ?」となるかもしれません。しかし「お辞儀」や「電車でのマナー」等々、意外と日本だけで正常だったというようなことは多々あります。社会学はなぜ特定の社会で、そのような現象が起こるのか?を科学がするように実証的に突き止めるわけです。科学者が客観的な態度を重んじるように、社会学者も客観的な態度を重んじるわけです。

実証主義とは

「デュルケムは、古くからの哲学的問題を実証主義の手法によって検討することで、これらの問題の解明に寄与できる新たな科学として、社会学をとらえていた。デュルケムに先立ってコントがそう考えたように、私たちは、化学者が自然的世界を研究するときと同じように、客観的に社会生活を研究しなければならない、とデュルケムは確信していた。デュルケムの有名な社会学の第一原理は、『社会的事実を《モノ》として研究せよ!』であった。デュルケムは、この原理によって、社会生活を自然界の物体や事象と同じくらい厳密に分析できると言おうとした。」

ギデンズ「社会学」27P

実証主義(じっしょうしゅぎ,positivism): 経験的事実にのみ立脚し,先験的ないし形而上学的な推論を一切排除する哲学の立場。狭義には A.コントの哲学をさす。実証主義の名は,自然科学の方法を哲学に適用しようとしたサン=シモンに始り,コントが実証哲学として確立した。その淵源は J.ロック,D.ヒューム,G.バークリーらのイギリス経験論と,ボルテール,D.ディドロらのフランス啓蒙主義の唯物論にあるが,背景には自然科学の急速な発達と工業社会の成立がある(出典)。

「positum」はラテン語で事実を意味するらしいです。そこからpositivismに派生したらしいです。オーギュスト・コントは「社会学」という言葉を創案した人として有名ですね。オーギュスト・コントはサン・シモン(釈迦主義思想家)の秘書をしていたそうです。そのサン・シモンがはじめて「実証主義」という言葉を使い、コントが使うようになって有名になったとこのことです。

経験的事実とは、「個人的に経験・体験した事実という意味ではなく、実験観察、調査などの手続きによって誰でもが確認できる普遍的な事実のこと」らしいです。たとえばデュルケムは自殺を統計という手段で考察しましたが、統計は誰でも確認できる普遍的な事実ですよね。ある人が見れば数値が変わってしまう、というようなことは通常ないわけです。それに対して「形而上学」とは超自然的であり、超越的です。だれもが確認できる普遍的な事実ではありません。たとえばプラトンのイデア論のようなものは形而上学です。統計などの経験的事実は形而”下”にあるといえます。

「経験を重んじ、超越的なものの存在を否定する」というのはわかったような、わからないような感じがします。

そういえばある本で「実証主義」という言葉を最近見かけたので紹介します。

ここでニュートンが、科学革命におけるあのメインテーマを響かせていることはお気づきだろう。私は”why”を問わない。問うのは”how”のみ。重力が何物であるか説明できなくても、それは問題ではない。測定し観察し予測することが現にできるのだから。それが科学者に必要とされるすべてなのだ。測定できない現象は「実験哲学には無用なのだ」。実証主義と呼ばれるこの哲学的姿勢は、、さまざまな形で、今日に至るまで近代科学の建前となってきたものである。

モリス・バーマン,「デカルトからベイトソンへ」,国文社,45P

また、以前見かけたカントの項目も思い出します。点と線をつなげる(個人的な)作業を今しています。

〈それなら、あなたがたはやっぱり宇宙を有限なものと考えているのだ。その先は一体何なのか〉と、わたしは子供みたいな質問を繰り返した。<そんなことは知らない>と、相手はけんもほろろである。しばらく議論は空回りしたが、そのうちかれはきっぱり言ったものである。<その先は何だとあなたは言うけれども、大体なんのインフォメーションもやってこない所について、一体何が言えますか?>わたしは黙って引き下がらざるをえなかったが、そのうち得心したものである。なるほど、それがサイエンスというものか、と。”およそインフォーメションを欠き経験を欠く”事柄について、学問的にはどんな立言も可能ではない。わたしはそのとき改めて、経験科学の精神とは何かについて、その物理学者から教わったのである。と同時に、物自体と現象との峻別、限界概念ないし発見的概念としての理念といったカントの考え方が──”これはウェーバーの社会科学的方法論の根底にある考え方であるものだが”──、すこし分かったような気がするのである。

雀部幸隆、「知と意味の位相」、恒星社厚生閣、67P

科学だけではなく、現代の学問は神学を含めすべて経験科学的であり、また実証主義的であるのかもしれませんね。たしかに情報がない事柄について学問的にはなにもいえません。「ニュートンが重力そのものとはなにか」に対して説明できなくても問題ないという姿勢は実証主義的なんですね。神がいるかどうかは超越的な問題であり、実証主義的に説明できない事柄ということになります。whyではなくhowというのも大事ですね。なぜ重力が存在しているのか?というのは説明できなくても、重力がどのような作用をしているかといったhowさえ説明できればいいというわけです。

コントに戻ります。コントはこのような科学における実証主義的な側面を、哲学に対しても当てはめようとしたということになります。たとえばプラトンのイデアは実証主義的に考えれば超越的なものであり、考察の対象にならないでしょう。コントは神学的段階を通り、形而上学的段階を経たうちに、学問の最高段階としての実証的段階に到達すると考えたそうです。神がいるかどうかなどを学問的に考えることが神学的段階だとすれば、イデアがあるかどうかなどを考えるのが形而上学的段階ですね。自然学(文脈的には事実、経験か?)の後ろ(メタ)にある永遠不変の問題を論じた書を配置したことから、形而上学(metaphysics)と呼ばれるようになったそうです。形而(けいじ)とは経験によって認識できるもので、形而上とは経験を超越したものです。形而が自然だとすれば、形而上は超自然、超越的だということになりますね。

さてデュルケムがコントをどう思っていたのか、気になりますよね。

デュルケムは、コントの研究のおこなった諸側面に学んでいたとはいえ、コントの見解の多くがあまりに思弁的で漠然としており──科学的基礎の上に社会学を確立したいという──目論見をコントがうまく達成できなかったと考えた。デュルケムは古くからの哲学的問題を実証主義の手法によって検討することで、

これらの問題の解明に寄与できる新たな科学として、社会学をとらえていた。デュルケムに先立ってコントがそう考えたように、私たちは、科学者が自然的世界を研究するときと同じように、客観的に社会生活を研究しなければならない、とデュルケムは確信していた。デュルケムは、この原理によって、社会生活を自然界の物体や事象と同じくらい厳密に分析できると言おうとした。

「社会学」、アンソニー・ギデンズ、而立書房、27P

ギデンズによればこのようにあります。デュルケムもコントと同じように実証主義の手法を使おうとしていたんですね。「客観性」が科学で重要視されるように、デュルケムもまた「客観性」を社会学で重視したわけです。自然を「モノ」として科学が扱うように、社会を「モノ(社会的事実)」として扱うわけです。

脚注、出典等

  1. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、13P
  2. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、12P
  3. 「本当にわかる社会学」、現代位相研究所、13P
  4. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、27P
  5. 「Durkheim,E.,[1895]1960、Les regles de la methode sociologique,Presses Universitaires de France (1978,宮島喬訳『社会学的方法の基準』) 岩波文庫,153P」
  6. 「Durkheim,E.,[1893]1960、De la division du travail du travail social,Presses Universitaires de France.(=1971,田原音和訳『社会分業論』 青木書店),82P」
  7. 「社会学」、アンソンー・ギデンズ、而立書房、27P

参考文献・おすすめ文献

「本当にわかる社会学」

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学

クロニクル社会学

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