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【1ワード社会学第十三回(4)】理性とはなにか、カント、アドルノ、ホルクハイマーの批判理論について
- 2026/3/18
- ユルゲン・ハーバーマス
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Contents
(3) [A]合理性関連
[3-3]理性とはなにか、カント、アドルノ、ホルクハイマーの批判理論について
カントにおける理性とは
「理性」とはなにかを把握するために、まずカントの哲学を説明する。
理性:一般的に、「論理的、概念的に志向する能力」や「善悪や真偽などを正当に判断する能力」を意味する。
たとえば、「人間が数学を扱うことができるのは、理性があるからだ」という言い方をすれば論理的・概念的能力のニュアンスが強い。一方で、「彼は理性を失って暴走した」という言い方をすれば、「善悪や真偽などを正当に判断する能力」のニュアンスが強いといえる。
このように考えると、前者は目的合理的であり、後者は価値合理的であるとも捉えることができるかもしれない。ちなみにウェーバーはカントに強い影響を受けている。カントは行為の正当性の基準を外的結果ではなく行為そのもの、内的理性に基準をおく。カント的な意味での善行(当為)を、価値合理的行為を貫こうとすれば、政治家は戦争で他国の人間を殺すことを命じることがほとんどの場合許されないだろう。
カントにおける理論理性と実践理性とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
カントにおいて理性は主に「理論理性」と「実践理性」の2つに分かれている。
理論理性:事実や世界のあり方を探求する能力のことであり、その対象は自然、経験的対象、因果法則、数学的対象などである。
要するに、「何があるか」、「どのようにあるか」を扱う能力である。
実践理性:人が「何をすべきか(当為)」を判断し、その判断にもとづいて意志を決める能力のこと。
カントは理論理性と実践理性を先天的なもの、つまり人間が生まれ持って備わっている普遍的な能力であると考えている。自分がどういう能力をもっているかを内省すればわかるというわけである。ちなみにこうした孤立的で意識重視の哲学をハーバーマスは批判している。
人間は「認識装置」を先天的にもっているという。認識装置とは情報を整理し、秩序づける仕組みのことであり、感性、悟性、理性の3つの形式から構成されている。
物そのものに備わる属性ではなく、「我々が与える属性や形式であり、構え」である。これらの能力(解釈の枠組み)をもっていない動物からすれば、違った対象が構成されるということになる。感性だけならば、食欲や性欲といった刺激で反射的に行動することになるかもしれない。比喩的にいえば青色のサングラスをかければ世界は青色に見え、黄色のサングラスをかければ世界は黄色に見えるようなものであり、色は先天的にきまっているというわけである。
図にするとこのようになる。
感性は時間と空間という枠組みを世界に与えるものであり、悟性は時間と空間に位置づけられた対象を秩序づけて、何らかの判断をもたらすものであり、理性は推論する能力であるとされている。理性は悟性を前提とし、悟性は感性を前提とし、その全体が認識の能力であるということになる。
カントは理論理性を使って「私は何をなすべきか(当為)」に対して回答することはできないと批判している。「どうなっているか」がわかったとしても、「どうすべきか」はわからないのである。
しかし、実践理性を使った場合、「私はなにをなすべきか」の回答への道が開かれているという。
人間には善悪を判断する能力は先天的に備わっていると仮定するならば、「なにをなすべきか」に対して回答できるということになる。
ただし、具体的な道徳的行為が先天的に決定されているわけではない。たとえば物を盗んではいけないという経験則や法がいついかなるときも正しいというようには解釈されない。たとえば定言命法のような、「人間の行動が自分勝手なものではなく、誰もが従うべきであるような、世の中全体に調和をもたらすような行動の規準」という抽象的な形で良心が自分に訴えかけるような「形式」をとるのである。
【基礎社会学第三九回(13)】エミール・デュルケムにおける「認識論」とは
理性的啓蒙
17~18世紀に広がった啓蒙主義は「理性的啓蒙」と呼ばれ、「人間としてより善く生きるためにはどうすればいいのか」という回答に、「より真理に近づくべし、真理は状況で左右されずに一つである」という立場をとった。迷信や無知を徹底的に排除すれば、するべきことが科学的、学問的にきっと把握できるという立場である。
しかしカントは「理論理性」を用いて「事実(どうなっているか)」をいくら認識しても、「価値(どうあるべきか)」は認識できないと「批判」したのである。ちなみにハーバーマスは真理が絶対的にひとつであるというような立場ではない(後で扱うが、真理の討議説の立場である)。
社会秩序の維持が困難になったときも、理性的啓蒙主義者たちは「(理論)理性」によってなんとか事実を把握すれば解決できると信じていた。より効率的な科学や法律などを考えてくれるはずであると考えたのである。こうした人間の能力を重視する立場を(近代的な意味での)「ヒューマニズム」という。
しかし、人間の先天的にもっているとされる理性は現状では健全に発揮されていないと思えてしまうような事態がその後、頻発するようになる。労働者の疎外、戦争による虐殺、核戦争、環境問題、人口爆発、精神病の蔓延などである。
アドルノ、ホルクハイマーの「批判理論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
アドルノやホルクハイマーはそうした理性の発揮の現状を踏まえて、「理性の暴走」を論じ、理性を批判する。彼らは第一世代の批判理論家であるとされている。ハーバーマスは第2世代であり、アドルノらは師にあたる。
フランクフルト大学の研究者たちが中心となって活躍したため、フランクフルト学派と呼ばれる。
(第一世代の)批判理論(英:critical theory):社会をより合理的で自由なものにするはずだった啓蒙的理性が、現実には支配や抑圧の道具になっている理由を明らかにし、その状態を変える可能性を探る理論のこと。
批判理論による分析によると、自然を目的論的に支配しようとして理性を道具的に扱い、その対象が「人間」や「人間の社会」にも向けられるようになったということになる。人間を管理し、分類し、あるいは排除するようになるのである。たとえばナチズムにおける虐殺もその文脈で考えることができる。「野蛮への逆戻り」ではなく、「効率的、事務的な手続き」なのである。
人びとが自然なものとして受け入れがちな不健全な思考様式や価値観、いわゆる「虚偽意識」を暴くことが重要だと彼らは考えている。
たとえば「長時間労働は努力の証だ」、「政治は専門家に任せるのがいい」、「苦しさは個人の弱さの問題だ」、「競争は人を成長させる」といった意識は自然なものとして受け容れるべき健全な思考様式だろうか。
もしそれが不健全な思考様式であるとしても、我々はそれを不健全であると認識することが難しい。なぜなら、そうした思考様式の多くは社会に適合しようとし、合理的に生きようとした結果生じていることがあるからだ。人々の単なる内面、意識の問題ではなく、社会の構造、とくに経済的な諸関係によって意識が条件づけられていると第一世代の彼らはカール・マルクスの社会理論を継承しながら考えている。
理論的理性を用いて人間が「あるべき行為、あるべき世界」を理解することで社会が進歩していくという素朴な考え方を第一世代の批判理論家は批判している。もちろん、神や国家といった超越的なものに「あるべき行為や世界」を頼ることも彼らは批判している(ホルクハイマーやフロムなど)。
かといって、「ほんとうにあるべき行為、世界はこうだ」と具体的に掲げることも彼らは基本的にしていない。「すくなくともこうあるべきではない」と消極的に言及しているということになる。
ハーバーマスと第一世代の違い
我々は素朴に、「殺人をするべきではない」と理性によって認識できると信じている。
しかし、晩年のホルクハイマーは「殺人がなぜ許せないかという決定的論拠は、理性には提出できない」とすら述べている。「普遍的・絶対的にこうあるべきだ」という正解を理性的に打ち出していくことは難しいという話であり、徹底的に理性を疑う姿勢、批判する姿勢、そして理性への悲観的な観点であるペシミズムがここにある。
ちなみにハーバーマスはこのようなホルクハイマーの発言に「今でも自分をいらだたせる」と批判している。なぜならばハーバーマスは「理性によって社会秩序の構築ができると信じる立場=理性的啓蒙主義者」だからである。
ホルクハイマーは資本主義や工業化など、いわゆる近代化に伴い、理性は「目的を達成するための技術的な道具(手段)」にすぎないものとなったと批判している。
カントにおける実践理性のようなものも、価値の多様性の時代、宗教的な力の弱い時代では重視されなくなっていく。近代以降、基本的に理性は「道具的理性」が中心となっていくというわけである。そしてこの「道具的理性の暴走」が、近代のさまざまな悲惨な現象の主要な要因であるというわけだ。自然に対する態度が人間に転写されたように、AIに対する態度が人間にこれから転写されると考えると、新たなタイプの暴走が始まる可能性もあるかもしれない。
・特に参考にしたページ
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,18p
批判理論における「道具的理性」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
道具的理性:目的そのものの正当性を問わず、与えられた目的を最も効率的に達成するための手段に関する計算能力へと縮減された理性のこと。
とくに、自然や他者を支配・操作するために用いられる理性を指す。ホルクハイマーの概念。
マルクーゼの「技術的理性」と近い概念である。
ウェーバーの目的合理的行為も、基本的に道具的理性が前提となっているといえるだろう。
たとえば工場では生産量を最大化することが目的であり、「なぜそれを生産するべきなのか」といった目的自体の反省はほとんどない。官僚制では規則を効率的に適用することが優先され、個別の事情や正しさは排除される。教育も人格形成ではなく経済で役立つ技術の育成に特化されていくことになる。
参考文献リスト
今回の主な文献
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)
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