【1ワード社会学第十三回(28)】ハーバーマスの「生活世界の合理化」

ユルゲン・ハーバーマス

動画での説明

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はじめに

社会学とはなにか

社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。

なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。

【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。

できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。

記事の分割

(準備中)

(6)[D]生活世界関連

[6-6]ハーバーマスの「生活世界の合理化」

ハーバーマスの「生活世界の合理化」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

前の方の項目で「合理化」について学んだ。では、生活世界の合理化とは一体何を意味するのか。

POINT

生活世界の合理化コミュニケーション的合理性の拡大が生活世界において生じること。

生活世界はそこに社会がある限り、必ずある基盤である。社会が人と人との社会的行為のまとまりだとすれば、社会的行為が成立する条件を生活世界が提供するのである。生活世界がコミュニケーション的行為を支え、コミュニケーション的行為が生活世界を支えるといった相補的、循環的な関係にあるのである。

一方で、生活世界の合理化は近代に特に認められる現象であるということになる。本質的な基盤の変化というより、本質的な基盤の具体化の変化である。たとえば文化には伝承が必要であるが、その伝承が合理的に行われるといったイメージである。

コミュニケーション的合理性とはそもそも「他者との言語的相互行為において、妥当性要求の批判に開かれているという性質のこと」であった。

成果を得る能力の向上だけでなく、相互理解や相互批判を可能にする文化・規範・人格の形成などの発展をも意味する。

全体の概要を図にするとこのようになる(他にも要素はあるかもしれないが、まずはこれを概略とする)。

生活世界の変化はこちらである。

生活世界の合理化は分析的には「構造的分化」、「形式と内容の分離」、「文化的再生産の反省化」という3つの観点にわけられている。それぞれ説明していく。

・参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,167p

「本当にわかる社会学」,現代位相研究所編,第四刷,228p

生活世界における「構造的分化」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

生活世界が文化、社会、パーソナリティに分析的に分類できることを先程学んだ。前近代的な社会では生活世界におけるこれらの3つの機能が一体的であるという点がまずポイントである。

たとえば前近代では主に宗教体系や呪術体系が世界とはどうなっているかという文化を伝承し、善悪の基準を提示して社会に連帯感をもたせ、どう生きるべきかという人格形成にも関わっていたといえる。

いわゆる「真善美が一体的であった(とされる)時代」である。ヘーゲルが「失われた全体性の回復」と表現するのもここに関連しているのだろう。

ウェーバー的にいえば「神々(価値観)の闘争がまだそこまで生じていない時代」であるといえる。

前近代的な社会では生活世界におけるこれらの3つの機能が一体的であったが、近代化に伴って一体的ではなくなっていく。つまり、生活世界の構造が分化していったというわけである。

たとえば宗教が教育も科学も法律も政治も担っていたとすれば、それぞれが独立していくというわけである。ルーマン的にいえば社会システムが複数のサブシステムへと分かれていくということになる(科学システム、教育システム、法システムといったように)。

たとえば宗教と経済が明確に分化するとどうなるのか。ある宗教に所属しているからといって、ある企業に就職できないといったことがなくなるといえる。企業に就職する際に必要な要素の中心は「稼ぐことの能力」が基本となる場合もあるだろう。

政治も宗教的な理由で政策を打ち出していくのではなく、人々の対等な対話や合意によって政策を決定することが重要になっていく。お金持ちだけが全てを決めるわけでも、宗教的なリーダーが全てを決めるわけでもないのである。

それぞれの領域が独立していくことにより、「批判」や「内省」がより可能になったということができる。

ある主張が正しいかどうかを科学の立場から説明したり、宗教の立場から説明したり、法の立場から説明したりするといった選択肢が増えるのである。生活世界においてこのように批判可能性が高まるということは、生活世界においてコミュニケーション的合理性が高まっていることをポジティブに、「解放的側面」として捉えられることを意味するのである。もちろん、コインの表と裏のように、生活世界の合理化はシステムの合理化とセットであるという点は抑えておく必要がある(この問題は生活世界の植民地化で扱う)。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,167p

「形式と内容の分離」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

次に、「形式と内容の分離」を説明していく。これがなかなか抽象的で個人的には理解しにくい。前近代では形式と内容が結合しており、近代以降では形式と内容が分離したということになる。

ここでいう形式とは主に「生活形式」を意味している。つまり、「生き方」を意味する。たとえばキリスト教的な世界観が支配している時代では、そうした宗教体系(内容)が、「悪いことをすると天国に行けない」、「ウソをついてはいけない」、「浮気してはいけない」といった生活形式(生き方)と強く結びついている。宗教そのものは生き方ではないが、広範に具体的な生き方を規定するのである。

つまり、ここでいう内容とは主に「歴史的伝統をもつ個々の文化」を意味するのである。それゆえに時代によって、社会によって変わる、ある程度具体的な体系であるといえる。

キリスト教、イスラム教、神道、仏教など、それぞれの宗教によって生き方は違う。同じ宗教でも時代が変われば許される生き方も変動したり、地域によって違いがあるかもしれない。いずれにせよ前近代ではこうした具体的な内容を伴う伝統が諸個人の生き方(形式)に強く結びついていたのである。デュルケム的にいえばそもそも自分で生き方を考える個人という存在、個人主義的発想が近代的なのである。

形式と内容が分離するということは、伝統がどのように生きたらいいかを具体的に規定してこなくなるということになる。

たとえば結婚はどうしたらいいか、男や女はどうあるべきか、どんな働き方をすればいいのか、どんな趣味をもてばいいのかといったもろもろの具体的な生活形式を伝統は強く規定してこなくなるというわけだ。ようするに、「こうしなさい」ではなく「自分で考えなさい」という時代になるわけである(だからこそアノミー的自殺が近代化に伴い増大したわけである)。これらは先程の「生活世界の構造的分化」と同様に、近代的合理化の解放的側面だといえる。

もちろん、内容と形式が完全に分離するようなことは現実的にはありえないだろう。われわれは解釈学的循環でみたとおり、伝統に理解を常に既に依存しているのである。

そもそも先人が作った言語を使っている時点で、すでに生き方が、ものの見方(これも生活形式である)が伝統に何らかの形で規定されているのである(クーン的にいえば、その時代特有のパラダイムのなかで生きている)。

しかしその依存度が低くなり、最低限の価値観を共有できていればよくなったというわけである。たとえば日本では挨拶をする、おじぎをする、電車では整列して並ぶ、葬式では黒い服を着るといった「最低限の生活形式」を身に着けていればいいのである。

いわば最低限の常識やマナーを身につけておけばいいというわけだ。どんな曲や服が好きなのか、どういう宗教を信じていいのかといった生活形式まではそこまで要求されないのである。「最低限の常識がなにか」についてさらに思考停止せずに対話できるという意味でも、コミュニケーション的合理性が発揮されやすくなっているといえるかもしれない。

法的に言えば公序良俗に反しないうえでの自由、個性、創造性が許されるというわけである。

一方で、外出中に女性は顔を隠さなければならないといった「生き方」を規定してくるような社会も現代では存在している。たとえば日本でも女性が登ってはいけない神聖な山があったらしいが、多くのケースで撤廃されている(内容が力を失い、もはや形式を規定しなくなっている)。ちなみに現代でも相撲における土俵は女性が立入禁止とされているらしい(ただし、批判もされている)。

・特に参考にするページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,168p

「シンボル的再生産の反省化」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

最後に、「シンボル(文化)的再生産の反省化」である。簡単に言えば、伝統的な文化をそのまま単に継承するのではなく、「ほんとうにこの文化を継承するべきか」と反省するようになったというわけである。

たとえば先程の女人禁制の山の多くが、禁制を取りやめたというのはその例だろう。相撲の土俵に女性があがれないという伝統にたいして批判(異議申し立て)する人たちが存在するという事実も、一種の反省の現れだといえる(社会構築主義とも関連する話であり、異議申し立てする人を観察することによって「社会問題」を捉えていくことができる。逆に言えば、異議申し立てで可視化されなければ問題とみなされにくいのであり、異議申し立てできる状況の整備が重要だということになる)。

ハーバーマスは特に新しい形の民主主義と教育学を重視している。

民主主義は端的に言えば、権力者が一方的に政策を決めるのではなく、市民が理由を出し合い、討議を通じて合意を形成するという政治体制のことである。たとえば日本では間接民主主義の形を取り、市民から選挙で選ばれた国会議員が討議を通じて合意を形成するという形をとっている。

教育学は近代以前においては神への服従、家の秩序維持、身分制度の維持といった「社会への受動的な適応」が中心だった。社会的伝統にとにかく従わせる、慣れさせるという教育方針だったのである。

近代以降では、理性を育てる、自律した個人をつくる、個性を育てる、反省的で批判的な個人をつくるといった内容が中心となる。つまり、ハーバーマスにとって教育の合理化は「解放的側面」があるということになる。

ハーバーマスによれば、単に伝統的だから、宗教的だからといって無批判に伝承され、繰り返されてきたものが反省的に中断されることは「社会の進化」だという。

ハーバーマスは伝統や権威よりも人間の反省力や批判力といったコミュニケーション的理性を重視するからであり、またその発達を進歩だと考えているからである。もちろん、伝統的文化を中断するとは、それらをなくすということと同じではない。コミュニケーションを合理的に行うために必要な範囲において伝統を守るべきだとハーバーマスは考えている。無批判に受け容れるのではなく、自分で考えて、納得して受け容れるという姿勢が重要なのである。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,169p

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

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大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

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アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

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