はじめに
概要
- 軸の転回:形式が内容から離れ、それ自体のために存在するようになるような事態。
- 社交:諸個人間の心的相互作用の交流を「社交」という。この交流が「内容」をできるだけ排除するようなマナーやデモクラシー構造などを元に「遊戯(ゲーム、社会の遊戯的形式)」として行われるような「純粋な社交」を「社交の理想的な社会(純粋な社会)」という。
- 社会的遊戯:社交はまるで「内容」がないかのように演じているという意味で「遊戯(ゲーム)」である。
- 社会的理想:「内容(生命のリアリティ)」から分離しつつ結びつき、知性的にその距離を遊ぶ遊戯としての「社交」にジンメルは「社会的理想」を発見した。
前提知識
- 形式社会学とは:心的相互作用の「形式」を社会学の対象とした学問。
- 心的相互作用とは:諸個人を結び合わせる「糸」のようなもの。人間の社会関係。人間の心(内容、目的、利害等)を通してお互いに関わる行動
- 社会化(社会)とは:「内容」が「形式」に入り込み、社会を作ることを「社会化」という。この社会を作る過程こそが社会であり、実在としての社会は存在しない。個人も同様に、個人化する過程こそ個人である。
- 内容と形式とは:相互作用の「内容」は「生命の目的・内実」であり、エロティックな本能、物質的利益、宗教的衝動などの目的が例としてあげられる。他にも経済、政治など。相互作用の「形式」は内容が相互援助や相互協力、相互対抗、信頼関係、支配関係など。
動画での解説・説明
・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
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ジンメルのプロフィール
ゲオルク・ジンメル(1858~1918)はドイツの社会学者。ベルリンの中心街に裕福なユダヤ商人の7人姉妹の末っ子として生まれる。
ベルリン大学の哲学部に進学し、23歳で哲学博士の学位を取得する。その4年後にベルリン大学の哲学部の私講師になり、その5年後に院外教授となる。哲学正教授となったのは56歳のときであり、ベルリン大学ではなくシュトラスブルク大学であった。学問的には評価されながらも、ベルリン大学の正教授になれなかった理由はジンメルがユダヤ人だったこと、宗教的見解が相対主義的だったことが原因という説がある。
1909年にM・ウェーバーやF・テンニースらと共にドイツ社会学会を創設した。ジンメルの社会学に関する主な代表作は『社会文化論』(1890)、『社会学』(1908)、『社会学の根本問題』(1917)。
ジンメルには「個人と社会の葛藤(かっとう)」という問題関心があった。当時のドイツにおいてユダヤ人は「異邦人(よそもの)」であり、いかにして社会にとって異質なものが社会との関係を築くのかという視点が重要になる。
ジンメル関連の記事
・以前の記事
【基礎社会学第五回】ゲオルク・ジンメルの「形式社会学」とはなにか
【基礎社会学第七回】ゲオルク・ジンメルの「社会学的悲劇」について学ぶ
【基礎社会学第九回】ゲオルク・ジンメルの「純粋社会学」の例である「軸の転回」、「社交」について学ぶ。(今回の記事)
・以後の記事
【基礎社会学第十一回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (前編)
【基礎社会学第十三回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (後編)
軸の転回とはなにか
軸の転回の意味
軸の転回(じくのてんかい):・「現実の生活のなかで本能や目的に従って展開される諸形式が自律し、独自の生命をもって逆に人々の行動を規定しはじめるようになるという事態。形式は内容から離れ、それ自体のために存在するようになる」*1
例:最初は「お金を稼ぐため(内容)」に社内で「競争(形式)」していたが、競争自体が楽しくなり、競争が生命をもってくる。お金を稼げるかどうかといった内容や目的は切り離され、目的の手段であることをやめる。やがて競争のためには無駄遣いをしてはいけないといったように、人々の生活における行動を「規定」しはじめる。
形式が「生命の目的に従わせて来たところの対象」に拘泥することなく、「自由自在に自己を目的として遊び戯れ」、そのエネルギーの「独立」が達成されるという事態
ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』、69、奥村隆の「距離のユートピア」(125P)
ジンメルはこれらの例から、「生命の形式が生命の実質によって規定される段階」から「決定的な価値に高められた形式が生命の実質を規定する段階」への移行を抽出し、これを「転回」と名づける。この「転回」がもっとも広く行われるのが「遊戯」においてであり、生命の力・目的が生み出した「形式」は「遊戯のうちで、いや、遊戯として」生命のリアリティに対して独立したものとなる
ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』、70-1、奥村隆の「距離のユートピア」(125P)
※以下孫引きという場合はジンメルの言葉そのものと奥村さんの解説そのものが混在している形になります。私は原典を参照していないため、区別していません。詳細は奥村さんの論文を出典から確認してください。
文化における「軸の転回」
文化(ぶんか):・ジンメルによれば文化とは「生活の洗練化と精神化された諸形式」*3である。生活における趣味をよりよいものとしたり、知的なものとしたりするのは元々「生活のための手段」であった。たとえばよりより絵を描こうと洗練させるのは、絵を売ってパンを買うためといったように「手段」としてまずは存在した。その積み重ねによって、「文化」というものが形成されるようになる。日本の文化では墨彩画があり、着物があり、寿司がありといったようなものが考えられる。文化は人々の相互作用によって作り上げられていく。
彼によれば「文化」とは、「生活の洗練化と精神化された諸形式」である。ここには彼が社会学において使用した「社会化の形式」の「形式」が文化を指しても使用されている。そしてこの「洗練化と精神化」は人間の生存活動によってもたらされ、その結果が「形式」をもつさまざまな文化財である。
芸術
芸術:生命の必要から生まれた空間やリズムの形式が生命に巻き込まれずに選択・創造されるようになる。
・絵を売って暮らしたり、犯人探しに絵を利用したりしている段階では「絵」はなにかの目的のための手段でしか無い。しかし絵を描くことそれ自体が目的となるような場合、それは軸の転回が起きているといえる。ゴッホの絵などは売れなかったが「文化」になる。
・たとえば元々「芸術」は生存のための「手段」であったが、この「芸術」それ自体が目的となる場合がある。こうした現象が「軸の転回」である。転回(てんかい)とは今まで進んでいた方向と逆方向に変わることである。生活のための手段であった芸術が、芸術それ自体を目的とするようになったというのはたしかに転回している。
科学
科学:もともと生存競争に必要だった「認識」が科学として独自の価値をもち、自己完結性をもつようになった。
生きていくための「薬」を作るために「科学」を使うのではなく、「真理や客観的法則」それ自体を探求することが価値があるとみなされるようになる。それが使えるかどうかは問題ではなく、探求それ自体が価値をもつ。
科学もはじめは生活の手段であったが、真理を探求するためという目的に変わっていく。
法
法:生命の手段だった行動様式が法としてなんらかの目的への手段であることをやめる
・たとえば「暴力は罪である」という法は人に暴力を振るわれないことで自分に利益があり、その意味で目的への手段である。社会秩序維持のための法。
・法を維持するために「社会が混乱する」といった逆の現象もありえる。悪法もまた法なりといったように悪い法律でも法律だから守るべきという内部的な要請が出てくる。社会に不利益であるといったようなものは外部性、内容として排除される。
このように、はじめは目的や本能のために存在した「形式が」が自律しはじめ、「独自の生命」をもち、逆に人々の行動を規定してくるようになってくる。これが「軸の転回」である。
たしかに宗教ははじめ心の安心のための「手段」であったかもしれないが、「宗教」は人に「テロリズム」を強要する場合もある。安心のために宗教を使うのではなく、宗教のために人々が戦争をするようになる。まさに宗教のために、宗教をそれ自体として人々が受け入れるようになる。
貨幣は使うために存在したはずなのに、貨幣を稼ぐこと、貯蓄すること自体が目的となってしまうのもある意味では「軸の転回」である。
芸術も同じように、芸術的なものは金銭的な誘惑に負けてはならない、と命じてくるかもしれない。生活のための手段であったのに、生活のための芸術は美しくない、といったような要請すらしてくることもありうる。まさに生活のための手段というのは具体的な「目的」であり、軸の転回においてこうした「目的」は排除ないし「隠蔽(いんぺい)」されるようになる。
「すべての認識作用は、もともと生存競争の一手段であるかのように思われる。……しかし科学が意味するのは、もはや認識作用がこの実際的な業績には力をかさず、独自の価値となり、自ら対象を選んで、それを自己の内的な要求にしたがって構成し、自らの自己完結性を疑わないことである。」
(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』,70P)
「ジンメルはこれらの例から、『生命の形式が生命の実質によって規定される段階』から『決定的な価値に高められた形式が生命の実質を規定する段階』への移行を抽出し、これを『転回』と名付ける。この『転回』がもっとも広く行われるのが『遊戯』においてであり、生命の力・目的が生みだした『形式』は『遊戯のうちで、いや、遊戯として』生命のリアリティに対して独立したものとなる(『社会学の根本問題』,70-71)。」
奥村隆「距離のユートピア」125P参照
社交とは
社交関連の整理
- 社交とは:諸個人間の心的相互作用の交流。社会化の過程。人との交流。
- 社交の場とは:諸個人間の心的相互作用の交流の場。人との交流の場。
- 社交性とは:諸個人間の心的相互作用を行おうとする人間の特性。社会化をしようとする性質。
- 社交衝動:社会化を行いたいと思う人間の心、本能。人との交流それ自体を楽しみたいという気持ち。
- 純粋な社交とは:心的相互作用の交流それ自体、つまり形式それ自体を目的とする。芸術的な遊戯。特に「歓談(楽しむこと、話をすること)」が自己目的とされる。社交的な会話はさまざまな形式(心的相互作用)によって形成される。一定のマナーに規定された人との交流。純粋に「軸の転回」が発生しているような社交。つまり形式そのものが自律し、命を持ち、マナーを要求するような、人々に行動を規定するような事態。
- 純粋な社交の場でのマナーとは:「地位、学識、名声、業績、富の差」や「現実的な目的や個人の気分、不機嫌、昂奮」などを社交に持ち込むことはマナー違反とされる。つまり「内容」が排除される。
- 純粋な社交における定言命法:各人は誰もが、自らが感じる最大の社交的価値と一致するような、最大の社交的価値(喜び、気晴らし、生き生きとしていること)を他者に与えるべきであるという原理。デモクラシー的構造
- 社交の理想的社会:純粋な社交の世界は一種のフィクションであり、形而上学的な世界であり、演技されている「遊戯(ゲーム)」である。実際には人との平等性だったり、自分の喜びを他人に与えようという倫理観をもっていない人も、もっているかのように演じるという意味。演じている内容はまさに社会の「理想」である。また結合や分離が自由になされるという意味も「理想」である。しかし「現実」はそううまくはいかず、様々な「内容」に支配されることが多い。
- 社交の救済性:社交は諸個人を現実の課題や生の重荷から「救済」してくれる。
- 社交の理想の条件:社交は「現実の人間の活動、感覚や魅力、衝動や信念」といった「内容」をマナーとして排除するが、そうした「内容」はエネルギーとしては使える。形式そのものは「エネルギー」にならない。内容と形式を完全に切り離してしまうと、社交は遊戯ではなく悪戯になってしまう。理想的な社交においては、内容に解放されながら、内容を保っているような「寄せては返す波」のような状況が必要となる。そもそも「解放されるもの」がなければ社交そのものを楽しむことは難しい。内容(リアリティ)から形式そのもの(フィクション)への「距離」を楽しむ。
- 社交の相対的自立性:社交は現実の内容とは切り離され、形式そのものが自立している。しかし完全に、絶対的に切り離されているわけではなく、形式が成り立つためのエネルギー源として「内容」は存在する。また、内容と形式の距離、現実からの距離故に、現実の生の本質が現れることがある。たとえば芸術の非現実的な絵は、現実との距離ゆえに現実の本質を表現できることもある。非現実的な絵を描くことができるのは、現実を知っているからである。社交が絶対的に自立しているわけではなく、現実・内容・目的との距離によって自立しているという意味で「相対的」自立性なのである。
- 社交の本質:人々のリアリスティックな相互関係からリアリティを切り離すところ
社交の意味
社交(しゃこう):・一般に社交とは、人と人との付き合いを意味する。あるいは社会での付き合いを意味する。ジンメルにおける社交は「心的相互作用の交流」を意味する。つまり、社交をするということは「社会化」をするということになる。そしてこのような社交は広義においては2人関係においても生じるし、複数の人数との関係においても生じる。ジンメルにおける「社交」は純粋な例としては1親しい人間を15人位招待して成立するものとされている。イメージで言えばフランスの宮廷で行われる社交、あるいは仮面舞踏会だ。私のような一般人がいくと、無作法だと思われてしまうかもしれないような「マナー」というものがたくさんある。このような一定のマナーが設けられている社交を「純粋な社交」とここでは定義しておく。そしてこの純粋な社交は「軸の転回」のもっとも純粋な例である。なぜなら「マナー」が内容ではなく「形式」そのものを楽しむように要請するからである。
私の偏見もありますが、日本では上流階級の人々がよくやるものというイメージがあります。あるいは社交ダンスのイメージですね。河原で挨拶をするときに、社交をしているという意識はたしかにあるかもしれませんが、河原が社交の場であるという意識はあまりないはずです。
仮面舞踏会なども社交の場になることがあります。仮面舞踏会は「内容」がないというイメージにぴったりですね。顔をお互いに見せないので、そこには「個性」という「内容」が欠けています。基本的にその場かぎりの付き合いなので、性的な目的や金銭的な目的といった「内容」が欠けています。地位や富、学識や名声といった「内容」も社交にはマナーとしてあまり持ち込まないようにするそうです。純粋に匿名性を通して会話を楽しむこと、会話それ自体を楽しむことが目的となります。これが「社会的遊戯」と呼ばれるわけです。
純粋な社交の意味
純粋な社交(じゅんすいなしゃこう):・心的相互作用の交流それ自体、つまり形式それ自体を目的とする、芸術的な遊戯。特に「歓談(楽しむこと、話をすること)」が自己目的とされる。社交的な会話はさまざまな形式(心的相互作用)によって形成される。一定のマナーに規定された人との交流。純粋に「軸の転回」が発生しているような社交。重要なのは社会化が一般に生命の保持や物質的利益などの「内容」のための「手段」なのに対し、この「社交」は「社交」自体が目的となる。
形式そのものが自律し、命を持ち、マナーを要求するような、人々に行動を規定する。こうした純粋な社交は「仮面舞踏会」等をイメージするとわかりやすい。企業の飲み会などでは、参加することで取引先が増える等の「内容」が入り込みやすく、その意味で純粋な社交ではないが、社会を形作るという意味では社交である。
ジンメル的な「社交」の定義をするとすれば、「内容から一切解放された活動であり、形式そのもの、つまり社会形成そのものを楽しむような純粋の「社会(社会化)」である。純粋な社会=純粋な社交。
形式社会学はまさに「社会化の形式」の分析が目的。その「形式」が内容から離れて純粋に最も見られる現象が「社交」であり、「社交」の場であるということ。物質的利益・宗教的目的等々の内容から離れれば離れるほど、純粋な形式が考察できる。人とつながろうとする形式そのものを分析する。
「『社交』は、この『内容と形式の分離』という『転回』あるいは『遊戯』が典型的に見られる現象である。社交においては『内容という根から一切解放された活動』が生じ、形式そのもののため、この解放から生まれる刺戟のために活動がなされ、『社会形成そのものの価値を楽しむ感情』が付着する(ibid.:72)。この意味でジンメルは、社交を『純粋の『社会』』と呼び(ibid.:73)、『社会化の遊戯的形式』と呼ぶ(ibid.:74)。社交とリアリティの関係は形式的なものであって『リアリティとの衝突』はなく、社交では『リアリティのうちから生命のシンボリックな戯れ』のみが取り出される(ibid.:73)。」
奥村隆「距離のユートピア」より引用 ibid=ゲオルク・ジンメル「社会学の根本問題」
「純粋な形態における社交は、具体的な目的も内容も持たず、また謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たないものであるから、社交はただ人間を基礎とし、この瞬間の満足──もっとも、余韻が残ることはあろうが──だけが得られればよいのである」
(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』)
社交におけるマナー
社交におけるマナー:・社交には「内容」が排除ないし隠蔽される。たとえば富や社会的地位、名声や能力、功績や生活、生活や気分といった「内容」が社交にはマナーとして持ち込まれない。個人的なものは排除される。本気の「ナンパ」もマナー違反だし、会社の取引を持ち込もうとすることもマナー違反になる。たとえば個性を極端に排除する場合もある。
マナー(manner)とは一般に、人と人との関わりで当然その場面でしかるべきとされる行儀・作法のことである。例えばフランスでは音をたててご飯を食べると無作法とされる。
例:仮面舞踏会では文字通り仮面を被って人間の顔といった「個性」が排除される。自分の地位や名声について喋ると「節度を知らぬもの」とされてしまう。恋人同士の関係では社会化が起きているかもしれないが、個性が排除されず、むしろ要請される。つまり「内容」が大きく前に出ているのであり、形式のための「内容(個性)」になっている。その意味で、本気の恋愛関係は”純粋”な社会化ないし社交ではない。もし恋愛関係そのものを、その形式として楽しむ場合は「コケットリー」と言われ純粋な「社交」に近いものになる。しかしコケットリーは「理想的な社交」とは少しズレる(後述のデモクラシー原理や定言命法と関連してくる)。
「ジンメルが『マナーに反する行為』として戒めているのは,ひとつには,地位,学識,名声,業績などの外的な意味や,貧富の差などの物質的な条件を社交の世界に潜り込ませる行為である。例えば,自らの富を利用して指導的な立場に立とうとしたり,名声のある人物の知己を得るために誰かとの会話を画策したりする行為がマナー違反とみなされているのである.だが,その場合にも,外的な意味や物質的な条件が,社交に「リアリティだけが付与されうる程度に,あの影のような軽いニュアンス)として入り込みうることにも注意を促している」
「ふたつめに,現実的な目的や個人の気分,不機嫌,興奮などを社交に持ち込むことも『マナーに反する行為』として戒められている.社交の世界では,外的な意味や物質的な条件と並んで,個人の気分を持ち込むこともマナーによって制限されるべきなのである.」
釜崎 太「スポーツにおける社交の意義と可能性-ジンメル『社交の社会学』読解-」104P
「ここで人は『既に個人としての現実的意義をすべて捨てて、ただ彼の純粋な人間性としての能力、魅力、関心をもって社交形式に入って行く』のであり、『この構成物は、個人の真に主観的なもの及び純粋な内面性の前で停止する』(ibid.:77)。」
奥村隆「距離のユートピア」126P ibid = ゲオルク・ジンメル「社会学の根本問題」
社交における定言命法(社会的な価値とは)
社交における定言命法(ていげんめいほう):・各人は誰もが、自らが感じる最大の社交的価値と一致するような、最大の社交的価値(喜び、気晴らし、生き生きとしていること)を他者に与えるべきであるという原理。
・社交における定言命法:哲学者であるカントの道徳法則の形式にそって構成された積極的なマナーによる制限。
カントにおける定言命法:「汝の意思の格律が常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
「これは平たく言えば、こういうことである。──各人は、いついかなる場合にも、いま自分のやろうとしていることが誰がどう考えてもそうであるべきだと思えるかどうか、したがって誰もがお前の意思で原理を自分のものとしてたてていいと考えることができるかどうか、を不断に吟味しつつ行為せよ。もしそうだと言えるようなら、おまえの行為は義務にかなっており、まさになすべき行為である。」
「知と意味の位相」雀部幸隆、86P
カントの定言命法の具体例を考える
・嘘をついてはいけない(道徳に反する) Aならば嘘をついていいといったケースはない(こういう形式は仮言命法という)。いかなる場合でも絶対的に嘘をついてはいけないから定言命法という。
・王様に嘘の証言を裁判でしないと処刑する、と言われた兵士はどうするべきか。自分の命を大事にして嘘をつく場合、これは定言命法に反する。まさに「汝なすべきがゆえに、なしあたう」であり、その結果として不幸になるかどうか、利益を得るかどうかは定言命法とは無関係である。嘘をつかないことと幸福になること(命を得る)ことは無関係。だからこそ定言命法に従って生きることは常人には難しい。幸福を捨てて何が残るのか?→死後の世界でなにかある”はず”であるというカントの”信仰”が垣間見えると雀部さんは説明しています。
・カントはキリスト教における「隣人愛」を普遍的律法のように考えていた。
・隣人愛とは
「あなたは人々という子らに仕返しをし、恨みを懐いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である(レビ記19章18節)。」
「できるだけ他人に親切をつくすことは義務である」という命題。
・ジンメルはカントに影響を受けている。マックス・ウェーバーも同様。ジンメルは23歳で「カントの物理的単子論による物質の本質」という論文で哲学博士の学位を取得。
「各人は誰もが,自らが感じる最大の社交的価値と一致するような,最大の社交的価値(喜び,気晴らし,生き生きとしていること)を他者に与えるべきである.あのカントにもとづく法がまったくもって民主的であるように,この原理もあらゆる社交の民主的な構造を指し示している.この民主的な構造はもちろん,各社会層の自己内部においてのみ実現しうるものであり,まったく異なる社会階級のもとでは,この民主的な構造は社交をしばしば矛盾に満ちたものや気まずいものにする.しかし,社会的に平等である人々の間でも,彼らの社交の民主主義は演じられたものなのである.社交は,ひとつの理想的な社会学的世界を創造する,と言ってもよい.と言うのも,社交における-上述したあの原理から-個人の喜びは,他者と対立する感情という代償を払って自らの喜びを見出すことは誰にもできず,他者の喜びでもあるということと,まったくもって結びついている.それは他者の生活形態を超えた倫理的な定言命法によってであり,直接的に生活様式の固有的で内的な原理によって排除されているのではない」
ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』4-5P
社会のデモクラシー構造
社交のデモクラシー構造:・デモクラシーとは日本語でいうところの民主主義であり、王や貴族だけではなく、人民・大衆・民主が権力を握る体制を意味する。たとえば日本も間接民主主義であり、選挙を通じて権力者を選ぶという意味で、我々有権者として文字通り権力を間接的に握っている(昔は男のみ、金持ちのみに選挙権があった)。青年男女に平等に選挙権が認められていることなどに特徴がある。貴族も大衆も同じ一票の権利をもっており、その意味で平等に扱われる。社交ではこうしたデモクラシーと同じような構造があるという。つまり、社交では成員が平等であり対等であるかのように演じられる構造がある。デモクラシー的原理ともいう。
社交の場ではたしかに社会的地位の高い人と低い人が一緒に顔を合わせることもあるかもしれません。たとえば国会議員、社長、会社員、無職が顔を合わせるといったこともあるかもしれません。民主主義においては基本的に地位は皆等しいとされていますが、実際の社会的地位はそれぞれ違いますよね。会社員と国会議員は実際には社会的地位が異なります。憲法で「法の下の平等」が記載されていて、資格としてはあらゆる身分における差別がなくなったとしても、心情としては地位の違いという意識がありえます。
しかし社交の場ではこうした身分の違いを、まるでないように、平等であるかのように「演じる」というのが形式によって要請されます。形式は歓談そのものを楽しむというそれ自体の目的に従っているので、それに反するような外部性をもつ「身分」は排除ないし隠蔽(いんぺい)されるというわけです。白人至上主義の人間もすべての人種が平等であるかのように接するというわけです。
たしかにプライドの高い貴族が明らかに身分の低い人間と対等に接することは苦痛をともなう場合もあるかもしれませんが、自分の地位をひけらかして低い身分のものを貶める行為は場をしらけさせ、「社交」を台無しにしてしまいます。だからこそ、同じ地位であるかのように、つまりデモクラシー的構造が形式によって要請されるというわけです。またこうした同じ地位であるかのように演じること自体をも楽しむというのもポイントです。ただひたすらその瞬間を楽しみ、過去や未来を捨象するのです。
個人としての現実的な意義や主観性・内面性は社交から切り離されねばならない。そうすることで社交は「平等な人たちの間の相互作用の様式」となり、人々は「客観的内容の多くを捨て……社交的人間として平等」になる。「社交というのは、すべての人間が平等であるかのように、同時に、すべての人間を特別に尊敬しているかのように、人々が「行う」ところの遊戯である」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:80)
奥村隆『距離のユートピア』より孫引き
社交性はまた「デモクラシー構造」によっても特徴づけられる。社交の場には、それぞれ自分が受けたのと等しい社交的価値──喜びや慰め、また元気など──を他の人にも与えるべきであるという原理が貫徹しており、この原理は、成員すべてが平等であるというデモクラシー的構造を示しているのである。
だが、たとえば社交性が外部の社会的・個人的な事柄を排除するところから生まれるとしても、そうした構造は、同じ階層のなかでは比較的容易に実現されうるにしても、逆に、異なる社会階級に所属する成員の社交をしばしば苦痛に満ちたものにする。そして実は、社会的に対等な地位にある人々のあいだでさえも、デモクラシーは「演じられたもの」にほかならない。
「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、173P
社交衝動とはなにか、意味
社交衝動(しゃこうしょうどう):・衝動とは一般に、「強い何かによって心的に動かされること」です。「衝動買いしてしまった」という言い方をしますよね。たとえば食事は食事の衝動によってなされます。生物的な食欲として、何かを食べる意思というものが食事にはあります。人間は食事を欲するように、社交を欲する生き物でもあります。集団を形成するように、またそれを欲するようにできているというわけです。社交衝動とは、そういった社会化のための抑えきれない欲求や本能があるということです。
社交とは、純粋には社会であり、社会化を意味します。つまり諸個人の間の相互作用を意味します。信頼関係や上下関係といったような「心的相互作用」の形式を作っていくことそのものです。まさにこうした心的相互作用を作ることそのものを人間は衝動としてもっているということです。切っても切り離せないようなものなのですね。仮面舞踏会に参加していないからといって社交をしていないという話ではないのです。卑近な話で言えば、ツイッターでだれかに「いいね」をしただけでも、そこには心的相互作用の形式が存在しているということができます。つまり社会化をしている、社交性を伴っているということができます。
ジンメルによればおよそすべての相互作用に「社交の衝動」は程度の差はあれ、存在するそうです。たとえば「信頼関係」という相互作用は利益を得るためという「目的・内容」を伴っている場合があります。しかし、「信頼関係」を結ぶことそれ自体に、その形式自体を楽しみ、また目的とするといった場合もあるはずです。この形式それ自体を楽しむ、関係それ自体を楽しむ、相互作用それ自体を楽しむということ、その欲求が「社交の衝動」というわけです。たしかにそう考えればあらゆる相互作用に「社交の衝動」は存在しそうです。しかし形式自体が内容を持ち込んではいけないと要請するような「軸の転回」が純粋に起きるような事態は、まさに「社交」において行われるということです。
心的相互作用から内容や目的をできるだけ排除し、隠していくと純粋な形としての「社交」となり、形式社会学の純粋な典型例となるわけです。それゆえに、形式社会学は「純粋社会学」ともいわれ、「一般社会学」とは分けて考えられるわけです。
要するに「社交の社会学」が示しているのは、「社会化の内容」を実現するための「社会化の形式」が自己目的化して、「社会化の形式」が成立したということであるが、この「社交の世界」の成立は、社会学の対象を拡大させることになった。というのも、「社交の世界」はむしろ「社会の世界」というべきであるからである。
すなわち「社交の世界」をつくりあげる「社交衝動」はその純粋な活動のなかで、社会的な生活の実現から、「……たんなる社会化過程をとりだし、それによって狭義の社交と呼ぶものをつくりあげ(ゲオルク・ジンメル「社会学の根本問題」,72)」、そのことによってそれは相互作用そのものの「抽象的に戯れる充実した生命と意義をとり出す(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』,73)」とすれば、社交衝動はたんに「社交の世界」のみであるとはかぎらない。
芸術心が芸術作品の創造活動のみにおいてみたされるとはかぎらず、時にすばらしい作品を見たり、自然の景観にふれて美を感じるように、また研究欲が図書館や実験室のみでみたされうとはかぎらないように、社会衝動もまた社交のみにかぎらず、人間のすべての相互作用そのものに多少の差はあれみたされるであろう。
居安正「ゲオルク・ジンメル」、東信堂、124P
社会的遊戯(社会化のゲーム形式)とはなにか、意味
社会的遊戯(しゃかいてきゆうぎ,Gesellschaftsspiel):・相互作用「形式」、つまり「社会化」そのものを楽しむこと。社会化のゲーム形式ともいう。社交性はひとつの遊戯(ゲーム)であり、社会が演じられている。成員は皆が対等であるかのように、お互いに尊敬しあっているかのように振る舞い、社会学的な世界を作り上げていく。形式が諸個人に一定の行動を要請し、社会化させていくことに特徴がある。
「遊戯」の魅力は「活動形式そのものの活気や僥倖(ぎょうこう)」にあるらしいです。僥倖とは偶然に得る幸せのことです。社交の場で偶然面白い人と出会った、偶然面白い話を聞けた等々が考えられます。純粋型としての社交では具体的な目的も内容ももっていません。だからこそ、その瞬間の満足が得られるということです。
これは見田宗介の共時的な時間の概念ともすこし似ています。未来へ向けても出なく、過去へ向けてでもなく、現在それ自体が充実しているから虚無に至らず、むしろ虚無ゆえに時間が未来や過去へ向かうという話を思い出します。
「社会」が「遊戯」になる条件は目的や内容をできるだけ排除し、隠すことというのがポイントです。
・個人的には「おままごと」で夫婦を演じる幼稚園児の遊びが理解しやすいです。夫婦関係そのものを演じることを楽しんでいるからです。そこに金銭的利益や物欲などの「内容」が入ってきません。ただ形式を楽しみます。もちろんこの例ではジンメルのいうような社会的価値(定言命法)が要請されないので「社会的理想」とまではいえませんが、「遊戯」としてはしっくりきます。
・社交では内容が排除ないし隠蔽される。しかしこの排除や隠蔽が「遊戯」としてされるので、人と人とをむしろ近づけるような作用を生みだす
・なんの利益(内容)もないのに人と交流することなんて馬鹿げているという人もいるかもしれない。またマナーとして演じるというのも上っ面だけと思うかもしれない。しかし、人との交流それ自体は人間の社交衝動を満たすものであり、また外部の内容(上っ面ではない内面性・物質的・性的利益等)がもちこまれないことで、純粋に社交衝動を満たすことができる。それゆえに、むしろ人と人とを近づける。現実との距離を楽しむ。
・こうした社交は軽薄な面もあるが、洗練された面もある。両義的(アンビバレンス)。
社交は「社会的遊戯(Gesellschaftsspiel)」である。あらゆる相互作用は「油断のならぬ現実では目的内容に満たされている」が、遊戯は「そのものの魅力だけを基礎として生きて行く」のであり、遊戯の魅力は「活動形式そのものの活気や僥倖」にあるだろう(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:81)。
「純粋な形態における社交は、具体的な目的も内容も持たず、また謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たないものであるから、社交はただ人間を基礎とし、この瞬間の満足──もっとも、余韻が残ることはあろうが──だけが得られればよいのである」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:74)。
目的や内容が社交という相互作用をとりまいているだろうが、それが社交に入りこむとき社交は台なしになる。社交はこれらを排除し隠しつづけることで、自身以外に目的を持たない相互作用となり、このとき「「社会」が「遊戯」になる」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:81)
奥村隆『距離のユートピア』より孫引き
人々は社交において「相互作用」そのものを楽しみ、その「形式」を楽しみ、そこに含まれる「分離と結合」を、つまり「距離」を楽しむ。目的も内面性も悲劇もそこから切り離される。隠蔽という人と人を遠ざけるものが、遊戯という形で人と人を近づける。ジンメルはこれを「社会的遊戯=社会ゲーム」と呼んだが、分離と結合のゲーム、あるいは「距離のゲーム」「距離の遊戯」と呼ぶこともできるだろう。コケットリのように「距離を遊ぶ」ことそのものが、社交の喜びであり、存在価値となるのだから。
奥村隆『距離のユートピア』、127P
「ところがこの手段にすぎない『社会化の形式』が、いまや根本問題での『社交』の叙述においては『社会化の遊戯形式』として、『具体的な目的も内容ももたず』、まさに自己目的となり、人々はそこに相互作用そのものを享楽し、そこへ世俗的な目的や内容を持ち込むことは忌み嫌われる。したがってここ社交にあっては諸個人の相互作用からなる社会は、以上の文化の諸世界、すなわち『芸術の世界』や『宗教の社会』などとならぶ『社交』の世界をなす」
居安正「ゲオルク・ジンメル」、120P
「社会的理想」と「結合の自由」について
社会的理想(しゃかいてきりそう):・ジンメルは「社交」が「理想的な社会学的世界を創造するといえる」と述べた。純粋な社交の世界は理想的な社会学的世界である(同時に人工的・形而上的な世界であもる)。擬制された人口の世界。演じられた世界。具体的には「自分の喜びは相手の喜び」という定言命法やデモクラシー構造、結合の自由といった要素が理想的だということです。ある人の喜びが他の人々も喜んでいるということと関係し、また平等であるかのように演技され、純粋な相互作用をひたすら作り上げようとする世界は社会的価値をもつ。また、社交では具体的な「目的や内容」から自由に結合や分離が生じ、衝動や偶然によって対話が始まる。こうした「結合の自由」は社会的理想の縮図だとジンメルはいう。ただし社交が理想的な社会とみなされるには条件があり、それは「リアリティをもった相互関係からリアリティを切り離すこと」だという。社交は現実の人間の活動や、感覚や魅力、衝動や信念といった「内容」を排除し、隠蔽することを要請するが、元々その人間にそうした「内容」、つまりエネルギーの源泉がある必要がある。エネルギーの源泉が全くない人は、そもそも排除することや隠蔽することができない。
この話はとても面白いですね。ぜひ記憶しておきたい内容です。たとえば貴族が、あたかも平民と同じ社会的地位にあると演技するためには、そもそも貴族である必要があります。つまり、貴族であるという内容を隠すこと、排除して演技するためには貴族であるという内容が必要になるのです。これは非貴族であっても同様です。自分が平民だということを排除して社交に参加できるからです。貴族という内容を排除しながらも、完全にはつながりを絶たずに、かすかに遠くに感じられるというニュアンスですかえん。
本当はものすごい人種差別者が、あたかも人類平等主義者であるかのように演じる場合も、元々人種差別主義者である必要があります。逆もまたしかりです。人間の「個性」が社交にもちこまれてはいけないが、人間の「個性」は社交に(エネルギーとして)必要であるという少しややこしい話です。個性と非個性の間の距離を楽しむといえばいいのでしょうか。いずれにせよ距離というものは片方なければもう片方もうまれません。
ものすごく礼儀作法に厳しく、服の乱れを見ただけでも発狂しそうなある人間が、社交の場ではそういった「内容」を隠し、あたかも「気にしない」といった態度をとる、相手が喜びそうなことをするといったこともこのケースにあたるのかもしれません。ものすごい資産家が自分の資産があることを社交の場であえて隠すことも、元々資産があるということを前提にしています。
社交はこうした現実の「内容」か解放してくれるものとして、形式そのものを楽しむ遊戯として魅力があるとジンメルはいいます。社交の「理想」、「解放」、「救済」といった側面をジンメルは評価しています。
彼は、「社交は理想的な社会学的世界を創造する、と言えば言える」と述べる。社交では、「或る人の喜びは、他の人々も喜んでいるということと堅く結ばれて」いるのだから。ここでは「平等であるかのように」という「お芝居の民主主義」ではあるが、「社交の民主的構造の原理」というものが存在するだろう。「この社交の世界、平等な人々の民主主義が摩擦なしに可能な唯一の世界、これは人工の世界で、実質的なものの重みでバランスを失うことのない、純粋無垢の相互作用をひたすら作り上げようと願う人々から成る世界である」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:78ー79)
「一つの「社会」の中で多くの集団が形成され分裂する姿、社会の中で全く衝動や偶然によって対話が始まり、進み、気が抜け、終わって行く姿、これは、結合の自由とも呼ぶべき社会的理想の縮図である」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』:87)。
ただしそう評価されるためには条件がある。社交の本質は「人々のリアリスティックな相互関係からリアリティを切り離すところ」にある。「自由に動いて、自分の外にもう何の目的も認めない諸関係の形式法則に従って、愉快な国を打ち樹てるところにある」。しかし、この国にエネルギーを与える源泉は形式そのものではなく、「現実の人間の活動」「彼らの感覚や魅力」「深い衝動や信念」のうちにある。「すべての社交は、生命が快い遊戯の流れとして現われるという意味で、生命の一つのシンボルであることにほかならないが、あくまでも生命のシンボルであって、生命の姿は、生命との距離が要求する範囲で変化し得るに過ぎない」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:89)
「社交を生活のリアリティと結びつけている糸があって、この糸で社交はリアリティとは全くスタイルの違う織物を紡ぎ出すのであるが、この糸が完全に断ち切られる時、社交は遊戯から空しい形式の悪戯になる。生命がないのみか、生命がないのに居直った紋切型になる」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』:89-90)。
「何かが少し変わっただけで、直接のリアリティからの距離は同じなのに、もっとリアリスティックに、何の距離も設けずに把握しようとする試みにも増して、リアリティの最も深い本質を完全に、応用社会学研究2012No54127統一的に、意味通りに示し得ることもある」(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:90)。
このような社交は、「生命に解放されながら、しかも生命を保っているから」、まるで「寄せては返す波」を見ているように「救済と幸福」を与えてくれる(ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』.:91)
奥村隆『距離のユートピア』,127P,孫引き
社交の「救済性」
社交の救済性:・社交の救済(解放)性:社交は現実生活の「深刻なもの、悲劇的なもの、あるいは摩擦」等から人々を救済してくれる性質がある。単なる生の現実の重圧からの逃避、人生への無視ではない。
・現実では相互作用が内容と共に、重圧として現れる。たとえば自分の金銭的利益のために「信頼関係」を結んだり、競争相手に出し抜かれないために「支配関係」においたりする。そうしたものは人と人との間に摩擦を生むこともある。物を買わせるために客と会話の関係を結ぶ。
・社交ではそうした関係、つまり形式が遊戯として楽しまれる。信頼関係そのものを楽しんだり、支配関係そのものを楽しんだり、会話そのものを楽しんだりする。こうした相互作用そのものを楽しむことは、単なる現実の逃避ではない。
・「社交の世界」は理想的なかたちで諸個人を調整する「倫理」を体験することができる。
たとえば「平等」や「共存」、「自由」や「共有」といったものを体験することができる。現実ではそうしたものを純粋に体験することは難しいが、「社交の世界」という架空の、人工的な世界でそうしたものがまるであるかのように演技し、遊戯として受け入れることで人間は現実の重みから解放される。単に現実から逃げられるから解放されるのではなく、理想的な形式を遊戯として受け入れることで解放される。
・人殺しのテレビゲームをすることでも一時的に現実は忘れられるかもしれないが、社交のような「救済」をもたらしてくれるとは限らない。
・社交では理想的な社会を人々が遊戯として形作るゆえに、救済性をもつ。ジンメルにとっての理想とは「平等や自由、共存や共有」など。人が喜ぶことを自分もする。そのように演技する。
「私たちは,単に目を逸らすことで生から救済されるのではなく,生の諸形式の一見まったく独断的な遊戯において,生の現実性そのものなしに,生の最も深い現実性の諸力と意味を形成し体験することによって救済される.あらゆる瞬間に生の重圧を感じるような,とても深い人たちにとっては,もし生の真剣さの単なる一時的な破棄や生からの自己逃避であったならば,社交がこのような自由を与えてくれるもの,救済的な陽気さを含むものとは思われないだろう.(中略)けれども,より深い人間ならば,解放してくれるものと心を軽くしてくれるものを社交に見出すのである.その社交においては,生のすべての課題とすべての重荷が生じる共同での生活と相互交流が,芸術的(artistisch)な遊戯として享受され,洗練化されると同時に希薄化しながら,しかもなお現実の内容を付加する諸力がかろうじて遠くに感じられ,現実の重荷がひとつの魅力のなかに蒸発するのである」
ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』15-16
「社会的な交流の表面性を人々が嘆くのには,正当な場合もあれば,不当な場合もある.すなわち,以下のことは,精神的な存在者の最も重要な事実である.もし我々が存在の全体から何らかの諸要素を結合して,全体の法則ではなく,それ独自の法則にしたがって管理されている,自らの国にまとめ上げるとすれば,その国は,もちろん全体の生からは完全に切り離されていて,内的には完全であるのに,空洞化して宙に浮いた本質を示すことがある.しかし,量りえないものによって変化しただけで,距離を取らずによりリアルに把握しようとする何らかの試み以上に,より完全に,より統一的に,より意味にかなって,まさにあらゆる直接的なリアリティからの距離のなかに,直接的なリアリティの最も奥深い本質を示しうることもしばしばあるのである」
ゲオルク・ジンメル「社会学の根本問題」15P
「社交を生活のリアリティと結びつけている糸があって、この糸で社交はリアリティとは全くスタイルの違う織物を紡ぎ出すのであるが、この糸が完全に断ち切られる時、社交は遊戯から空しい形式の悪戯になる。生命がないのみか、生命がないのに居直った紋切型になる』(ibid.:89-90)。だから、社交が『全体の生命から完全に切り離されている』とき、それは『型に嵌まった、ナンセンスな、空々しいもの』になるだろう。しかし、『何かが少し変わっただけで、直接のリアリティからの距離は同じなのに、もっとリアリスティックに、何の距離も設けずに把握しようとする試みにも増して、リアリティの最も深い本質を完全に、統一的に、意味通りに示し得ることもある』(ibid.:90)。このような社交は、『生命に解放されながら、しかも生命を保っているから』、まるで『寄せては返す波』を見ているように『救済と幸福』を与えてくれる(ibid.:91)。」
奥村隆「距離のユートピア」,127-128P ibid=ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』
「社交の世界は,個人の現実の生から養分を得ることで,その生命性を維持しているのであり,逆に,生の現実から「完全に離れると,社交は遊戯から空虚な形式を持ったもてあそびへ」と陥ることになる.つまりジンメルは,芸術論や遊戯論を参照しながら,社交の世界は現実の世界からは自立した理想の世界でありながらも,個人の生を媒介として現実とのつながりを保つことで自らの生命性を獲得するという,いわば社交の相対的自立性を指摘しているのである.この相対的に自立的な関係から,社交の意義と可能性が生まれることになる.」
「スポーツにおける社交の意義と可能性-ジンメル『社交の社会学』読解- 」釜崎太 101P
社交の相対的自立性
社交の相対的自立性:・社交の相対的自立性:社交のルールが現実にまったく関係なしに絶対的に自立しているわけではなく、現実との距離によって相対的に自立しているにすぎない。現実の内容がまるでないかのように演じることによって社交は成り立つ。社交の形式のエネルギーは現実の生活からくる。そもそ差異は非Aとの距離で成り立つ。貧乏人がいない状態では金持ちは存在しない。
現実からいったん外に出てみることで、現実がよく見えてくるという場合がある。この現実がいったん外に出るというのは、形式からいったん内容を排除してみる、距離をとってみるということと等しい。ウェーバーの比較社会学っぽい。
相対性の例:人間は他の動物と比べて相対的に頭が良いといえる。しかし他の動物が全くいなかったら、頭がいいかどうか判断する材料がないので頭がいいか判断できない。いったん人間の枠組みから外に出てみることで、やっぱり人間って頭がいいな、ということがわかる。あるいは他の動物のほうが賢いのでは?という面も見えるかも。
形式社会学と純粋社会学の違い
形式社会学と純粋社会学の違い:・基本的には同じ。形式社会学が純粋社会学に名称が変わったのは、「一般社会学」という分類をジンメルが新たに取り入れたから。「一般社会学」では「諸形式の結果」として起こる現実を分析している。たとえば「社会学的悲劇」は人々の相互作用の結果として起こる現実を分析するので「一般社会学」の分類である。純粋社会学はこの「一般社会学」とは違い、形式そのものを純粋に扱うという意味である。一般社会学は抽象度が低く、現実的であり、純粋社会学は抽象的が高く、非現実的である。いうならば純粋社会学は「理論社会学」であり、一般社会学は「現実社会学ないし応用社会学」である。社交の分析は純粋社会学の分類に入る。
…なぜこれが「純粋社会学」と改名されたか。このことはこれまでの叙述から明らかであろう。従来の「形式社会学」は、諸個人の相互作用から「社会化の形式」を抽象的に分離するのもで、その対象を見いだすことができた。ところが『根本問題』には「一般社会学」が加えられ、これは「全体的な歴史生活」を対象としながらも、「一面的な抽象」、「いっそうの抽象」といった表現によって示される「社会化の形式」と「その結果」への注目によって特徴づけられる。
ところが「純粋社会学」のばあいの抽象は、「一般社会学」のそれとは「別の方向から」のものであり、「生きた人間のたんなる総計」を社会たらしめる「諸形式そのもの」のみを問題とする。これを彼は「社会化の純粋な諸形式」という。してみれば「一般社会学」が問題とするのはいわば「社会化の現実的な諸形式」ということができよう。
居安正「ゲオルク・ジンメル」、東信堂、131P
出典
- 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、172P
- 「クロニクル社会学」、那須壽編、有斐閣アルマ、173P
- ゲオルク・ジンメル「貨幣の哲学」、居安正訳、白水社、1999年、499P
- 居安正「ゲオルク・ジンメル」、東信堂、116P
参考文献・おすすめ文献
・『スポーツにおける社交の意義と可能性-ジンメル『社交の社会学』読解- 』釜 崎 太(URL)
・「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」、奥村隆(URL)
ゲオルク・ジンメル『社会学の根本問題』
ジンメルコレクション
ゲオルク・ジンメル―現代分化社会における個人と社会 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)
ゲオルク・ジンメル―現代分化社会における個人と社会 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)
雀部幸隆『知と意味の位相―ウェーバー思想世界への序論』
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
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