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ジャン・ボードリヤールの消費社会論
- 2015/11/15
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目次
- ジャン・ボードリヤールとは
- 使用価値とは
- 消費社会とは
- 意味付けされる人間
- 『消費社会の神話と構造』
- シュミレーション社会とは
- 誇示型商品(ウェブレン財)とは
- 広告と消費社会
- 資本主義と消費社会
- 消費社会論の未来
- 参考文献
Contents
ジャン・ボードリヤールとは
ジャン・ボードリヤール(Jean Baudrillard, 1929年7月27日 – 2007年3月6日)は、フランスの哲学者、思想家である。『消費社会の神話と構造』(La Société de Consommation 1970)は現代思想に大きな影響を与えた。ポストモダンの代表的な思想家とされる(wiki)。 フランスの”社会学者”としても捉えることができる。構造主義、記号論の影響下に、記号としてのモノについて考察、批判原理としての象徴交換を説き、脱工業化時代の消費、再生産のありようを分析した。*1
ソルボンヌ大学でドイツ語を学び、リセのドイツ語教師となる。哲学と社会学の分野の翻訳者・批評家として活動し、後に社会学教授などを歴任。『消費社会の神話と構造』は消費社会論・消費人類学の基本文献とされ、また、現代思想に大きな影響を与えたものとして知られる。*2
使用価値とは
使用価値とは「商品の機能」のことです。 商品の機能とは文字通り、 商品の働きや役割のことです。時計だったら、時間を把握する機能、かばんだったら、物を入れる機能、服だったら、外部の刺激から守る機能ですね。 私たちは全く同じ機能を持つような商品をすでにもっていても、また欲しいと思ったり、買ってしまったりすることがあります。たとえば時計、財布、服、カバンなどです。カバンは一つあればいいのに、使わなくても同じような機能をもつカバンをたくさん買っている人がいます。「ブランド物」とかがその例ですね。現代社会に生きる私達の多くは、商品の機能だけを求めて商品を購入する生活をおくっていないということになります。 ▲ 目次にもどる
消費社会とは
消費社会とは、欲求と消費が無限循環するようになった社会のことです。 ボードリヤールの根本的な洞察は、現代社会が生産社会から消費社会に移行したと考えたことにあります。マルクスは社会を分析するとき、生産を基本において解明した。しかし、ボードリヤールによると現代社会では生産は飽和(最大限まで満たされた状態)に達し、生活必需品が求められるわけではないと述べる。消費者は商品の意味や差異を求めだしている。 <欲求とは> 文字通りに解釈すれば欲しがって求めることです。問題は何を欲しがって求めるかです。 ボードリヤールによれば、私たちが欲し購入しているものは、商品自体でも機能でもなく、「意味」であるそうです。 消費社会ではあらゆるモノが意味をもち、あらゆる「商品」は意味を示す「記号」として存在しています。 たとえば「ルイヴィトンのバック」は機能としては物を入れる入れ物です。しかし、記号としては上流階級としての意味をもっていることがあります。ルイヴィトンのバックを買うときに人々は必ずしも機能のために買うわけではなく、意味を示す記号として購入していると言っていいでしょう。何十個もバックを買っている人は特にそうですね。 ボードリヤールは、商品は「その物質性においてではなく、差異において消費される」と述べています。
「差異」の一般的な意味は「他のものと異なる点」です。 先ほどのルイヴィトンのバッグは118万円です。 ではもうひとつ、このルイヴィトンと異なる物を紹介します。 ルイヴィトンのイメージ:高級ブランド おしゃれ 質が高い このアディダスのバッグは2160円です。 アディダスのイメージ:スポーツが好き サッカーが好き 若者向け 両者とも「物質性」という面においてはほぼ同じです。物を入れる機能をもつからです。 しかし、両者には差異があります。意味としての差異です。 おしゃれだと思われたい、高級ブランドを持っているという自尊心に浸りたい、というような「おしゃれ」や「高級ブランド」という意味、記号を消費する人がいます。 もう一方では、スポーツが好きな人と思われたい、というような意味を消費する人がいます。 他にもさまざまなバッグがあり、それぞれ違う意味をもちます。つまり、差異があります。 これが「差異において消費される」という意味の説明です。 簡潔に言えば、「意味とは産業的に生産される他のモノとの差異」のことです。 欲求はどこで生み出されているかというと、「市場」で生み出されています。 市場とは、売り手と買い手とが特定の商品や証券などを取引する場所です。 どうやったら買い手は商品を買ってくれるのか、ということを考えるのが売り手の役割です。 売り手は欲求を増大するように行為しています。ブランドを宣伝によって高めたり、新商品を開発したりしています。買い手はその欲求の果実に釣られて商品を買い漁っています。買い手が商品を買うと、売り手の資本が増え、さらに新商品を開発したりしていきます。このような市場の中で欲求はどんどん増えていくことがわかります。もし機能として、生理的欲求としてのみ市場で売り買いされるなら、バッグは一つで十分でしょう。しかし、意味としての商品が市場で売り買いされることで、欲求がどんどん増えていくような社会になっています。これを消費社会といいます。
意味付けされる人間
消費社会において、人間は意味付けされています。 意味とは価値であり、内容です。 私たちが生理的な必要以上に、使用価値以上にモノを必要とする理由は、差異を示す記号としての商品を所有することで、私たち自信が意味付けされるからです。 ブランドバックを買う人は、上流階級という意味付けを自らにしていることになります。
「しかし、私たちは本当に差異を獲得しえているのだろうか。差異を求めて消費意欲を煽られる均質な記号=存在となってはいないだろうか。(73P)」
『消費社会の神話と構造』
今まで確認してきたように、使用価値に重きをおいていた時代から、記号としての意味に重きをおくような時代に社会は変容しているといえます。 使用価値とは商品の機能のことです。財・サービスに内在する「欲求充足の力」に重きをおいていることですね。たとえば食欲を満たすために「食品」を購入したり、計算をするために「コンピューター」を購入したり、人を運ぶために「車」を購入したりすることです。寒さから身を守るために「服」を買ったり、時間を管理するために「時計」を買うこともおなじです。財・サービスと金銭の交換はその財・サービスに内在する「欲求充足の力」を求めて行われていました。 現代社会はそのような使用価値に重きをおく時代から記号としての意味に重きを置く時代に変容しています。たとえば、「社会への反抗心」を満たすために「カップラーメンを」を購入したり、「自分が優秀である人間であるという優越感情」を得るためにコンピューターを購入したり、「女にもてたい」がために車を購入しています。他にも上流階級であると見られたいがために (ステイタスシンボルとしての)ブランドバックや時計を買ったりする人がいます。そういえば私もブックオフで小難しい哲学の本を読めもしないのに買っていた気がします。それは本の本来の使用機能というよりは、頭がいいと思われたいというような記号としての意味を消費していたのかもしれません。 (自己解釈:昔から黄金や宝石・服などは上流階級であると見られたいがために買っていた人もおそらくいると思いますが、日本は近代以前は士農工商制度のように身分が分かれていたので、あえて記号としての意味をもつ食べ物や物品を買って自分に意味づけする必要がなかったのでしょう。資本主義が浸透していくという背景には民主主義があり、民主主義には平等原理が潜んでいます。したがって、資本主義と民主主義は階級制度を崩壊させ、血族的・地縁的な意味付けを溶解させる機能があったと思います。意味付けの溶解が記号としての意味の消費を促している、つまり意味を求めざるを得ない状況に陥っているともいえます。)
「物の第一次的身分は、記号の社会的価値によって後から意味制限されるような実用的身分ではなくて、記号の交換価値こそが根本的なのである。その使用価値は、しばしば交換価値の実用的な担保でしかない(場合によっては、その純然たる合理化ですらある)。(今村仁ほか訳『記号の経済学批判』法政大学出版局 1982)」
シュミレーション社会とは
キーワード
◇シミュラークル:模造、複製 ■近代社会の歴史的変化 1ルネサンスから産業革命までの時代:オリジナルに依存する模造の時期 2大量生産の時代:機械によって大量に複製される時期 ◇シュミレーション:シミュラークルが先行する状態 ■大量生産が終わった現代 ◇ハイパーリアル:シュミレーションと現実とが区別がつかなくなる状態
シュミレーション社会
ボードリヤールはシュミレーションを「地図が領土に先行する」という言葉で説明している。
領土が地図に先行するのでも、従うのでもない。今後、地図こそ領土に先行するーーシュミラークルの先行ーー地図そのものが領土を生み出すのであり、仮に、あえて先のおとぎ話の続きを語るなら、いま広大な地図の上でゆっくりと腐敗しつづける残骸、それが領土なのだ。帝国の砂漠にあらずわれわれ自身の砂漠に点在する遺物とは、地図ではなく実在だ。実在の砂漠それ自体だ。 『シュミラークルとシュミレーション』竹原あき子訳 (法政大学出版局)
シミュラークルとは模造という意味や複製という意味であった。実際の領土がリアルなものであるとしたら、地図は模造や複製、つまりシミュラークルにあたる。地図は領土そのものではないからだ。 シミュラークルが先行する状態(シュミレーション)とは、リアルからリアルの模倣へという順序ではなく、リアルの模倣からリアルへといったように模倣が先にある状態である。 カーナビの例で考えてみてもいい。カーナビの画面上に地図と現在地が示され、それにしたがって道路を進んでいく。地図の模倣や複製であるカーナビの画面が先行して、後にリアルである道が開けていくのである。これが進んでいくとハイパーリアルという世界観が生まれてくる。
ハイパーリアル
ハイパーリアルとは、シュミレーション(模倣・複製)と現実とが区別できなくなる状態である。 先ほど地図と領土の関係やカーナビでシュミレーションを説明した。他にもミサイル攻撃なども例としてあげられる。現代の戦争では遠隔地で画面を見ながらスイッチを押し、ミサイル攻撃をしている。映画などももちろんシミュラークルが先行している状態である。映画そのものはリアルではなく、リアルを模倣したものであることが多い。テレビ、ケータイ、パソコンなどもシュミレーションの装置であるといえる。 ▲ 目次にもどる
誇示型商品(ウェブレン財)と消費社会
誇示(こじ)型商品(ウェブレン財):自己の虚栄心を満足させるという効用をもった商品
「効用の成分から見ると、消費財、さらには生産財でさえ、一般的に二つの要素の結合体として現れる。もっとも、一般的に言えば、消費財のなかで無駄の要素が支配的になる傾向はあるが、生産的な用途のためにデザインされた物品についてさえ、いずれにしても虚飾ではあるが、つねにいくらかの有用な目的が含まれていることを見抜くことができる。それゆえ他方では、ある特定の産業過程用に考案された特殊な機械や道具の場合でさえ、人間の勤労が尤も原始的に応用された場合と同様に、顕示的消費、すなわち少なくとも見栄を張る習慣の名残をとどめていることが、細かに調査すればいつでも浮かび上がってくるのである。」(ソースタイン・ヴェブレン著、高哲男訳『有閑階級の理論』ちくま学芸文庫、1988.117頁)
これも先ほどと同じように、使用価値と記号としての意味に分けたら簡単に理解できます。 誇示型商品とは虚栄心を満足させるという効用をもった商品なので、「記号としての意味」を消費する商品に分類することができます。たとえばブランドバックは、虚栄心の満足や優越感の充足などといった記号としての意味として捉えることができます。
広告と消費社会
広告とは、商品や興行物などを広く知らせ、人の関心を引きつけることを意味します。 ポイント:使用価値以外の効用部分は広告や宣伝などによって私たちの心のなかに形成されている。 使用価値以外の効用はたとえばウェブレン財のように、自己の虚栄心を満足させるという効用が挙げられます。 こうした効用は「広告や宣伝」によってわたしたちの心のなかに形成されているといいます。たとえば自動車の広告では「家族の絆」や「自尊心の充足」が強調されたり、飲料や食品の広告では「若さを取り戻す」ということが強調されます。私は最近テレビを見ないのですが、インターネットの広告でも似たような広告はたくさんあります。タバコのCMは現在禁止されていますが、昔は「タバコを吸っている人はかっこいい」という使用価値以外の効用が強調されるようなCMが流されていたと思います。 実際に車を買って家族の絆が作られたり、食べ物を食べて若さを取り戻したり、タバコを吸ってかっこいいと思われたりすることもありますが、中にはほとんど効果がないものがあります。わたしたちはそのような使用価値以外の効用に対するイメージをCMによって埋め込まれ、そのイメージに誘導されるままに商品を購入していることもあります。 ▲ 目次にもどる
資本主義と消費社会論(自己解釈)
資本主義の一般的な語義:生産手段を資本家・企業者の階級が所有し、自分たちの利益追求のために労働者を働かせて生産を行う経済体制 マルクスに言わせれば資本家階級が労働者階級を搾取する体系が資本主義です。 では、どうやって資本家階級は労働者階級を搾取すればいいのかということになっていきます。言い換えれば、どのように利益を増大させるかです。もちろん労働者階級の賃金を少なくすることで資本家階級の利益は増大しますが、これには限界があります。搾取し過ぎると労働者階級が反発する可能性も同時に大きくなるからです。そこで、消費者が生産者の作る商品をより購入するようにすればいいということになります。言い換えれば、消費者に本来必要のないものを買わせることができればその分利益は増大します。 本来必要のないものを消費社会論の文脈で言えば、使用価値以外の効用を満たすような商品を消費者に売りまくればいいわけです。高級ブランドバッグ、時計、健康食品、ダイエットサプリ、高価な化粧品、骨董品、etc。資本主義は本来の使用価値以外の効用を満たすような商品を売りつけなければうまくいかないようなシステムであるといえます。資本家の利潤を増大させるための手段として使用価値以外の効用のイメージを埋め込むようなCM等が挙げられます。ケンタッキーのクリスマスにはチキンを買わせようとする戦略、バレンタインにはチョコを作らせようとする戦略、ハロウインにはおかしを買わせようとする戦略、いろいろあります。「可愛いは作れる」といって女性に化粧品を買わせようとするCMもありましたね。女性は化粧品をつかって可愛くなければいけない、可愛くなければおしゃれじゃないというイメージを視聴者(消費者)に埋め込めば、自然と消費者は化粧品を買うようになります。男性は女性が化粧をしていないことに不満を抱くようになり、女性同士でも化粧をしていない人はだらしがないというイメージがつくようになります。その結果、本来必要がないような過剰な化粧をするようになり、資本家の利潤を増大させます。資本家の利潤が増大すれば、さらに会社を大きくし、さらにCMに資本を投下するようになり、イメージをまた埋め込みます。このサイクルで資本家の利潤が増大していきます、 ▲ 目次にもどる
消費社会論の未来
問い:商品は使用価値のみによって売買されることが望ましいのか?
「過度に欲望を喚起する商品イメージや、広告や宣伝に対しては、十分に警戒する必要があります。私たちは、『よい商品』がこの社会にあふれることを期待するべきであり、そのためには『よい商品』自体、もしくは『よい商品を製造・販売している企業』に一票を投じるべきです。それによって、よい商品が市場に多く流通することになります。(*2-133p)」
(自己解釈)正直言って消費者の選択に身を任せるという考えは微妙ですね。消費者は記号の波に抗うことができないほど広告のイメージに汚染されていると思います。なぜ抗えないかというと、意味を失っているからだと思います、意味とは、自分とは何かという問いに対する自分への意味付けです。昔は農民、武士、商人といった階級の意味付けや、親の仕事を受け継ぐとう意味付け、あるいは宗教による意味付けがあり、自分への意味付けがなされていたと思います。しかし近現代においては、そういった階級制度は崩壊、職業の自由及び両親への軽視、及び宗教に対する関心の低下が進んでいます。このような状況では自分で意味を探していくしかありません。現代はあらかじめ意味が埋め込まれていないので、自ら意味を探していくしかありません。この意味で、現代は自由だと捉えることもできます。 しかし、意味を「商品の記号」に求めていくというものが資本主義における消費社会です。ブランドバックを買って自分は上流階級であるという意味を獲得したり、予備校や塾で学費を払って大学に進み、高学歴であるという意味を獲得したり、車やマイホームを買って「いい家族の亭主」という意味を獲得したり、記号の消費による意味の獲得が横行しています。こうした現象がいいのか悪いのかは様々な議論があると思います、今さら近現代以前の不平等社会に戻るという安直な考えを是とするわけにもいきません。今、新たな道を模索しなければいけない岐路に来ているのかもしれません。 ▲ 目次にもどる
参考・引用文献
*1「本当にわかる社会学」現代位相研究所(日本実業出版社) *2「現代思想の使い方」高田朋典(秀和システム) ▲ 目次にもどる 「本当にわかる現代思想」岡本裕一郎(日本実業出版社) 『シュミラークルとシュミレーション』竹原あき子訳 (法政大学出版局)
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