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【基礎社会学第十九回】タルコット・パーソンズの「主意主義的行為理論」とはなにか
- 2022/4/11
- タルコット・パーソンズ
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はじめに
概要
- 主意主義的行為理論:行為を分析の基礎単位として考え、行為を規定する要素を遺伝や環境といった条件だけではなく規範をも考慮し、さらにその規範を科学的・合理的なものだけではなく宗教といったような没合理的なものを含めることにより、行為者を規範へ意志をもって努力する存在として主意主義的に構成された行為理論のこと。
- 主意主義的行為理論はパーソンズ初期(主に1937年の『社会的行為の構造』)の内容であり、まだ社会体系への言及は少ない。既存の行為理論(実証主義、功利主義、理想主義、さらにそれを乗り越えようとしたウェーバーやパレート、デュルケムなど)を紹介しつつ、単位行為(目的+手段+条件+規範)と行為体系(単位行為の集合+創発特性)を枠組みとして秩序問題(ホッブズ的秩序問題)を考えるという内容。端的に言えば人間は規範的志向をもち、価値を共有するので秩序問題は解決するとされた。
- 収斂理論:実証主義は条件を重視したが規範を軽視した。理想主義は規範を重視したが条件を軽視した。功利主義は条件と規範の両方を重視したが、規範の内容を合理性のみという偏った考え方をした。
パーソンズは行為が条件と規範の両方に規定され、かつ規範は合理的なものだけではなく、没合理的なものを含めた理論を構築しようとした。 - パーソンズへの批判:1:初期では主意主義的要素を重視していたのに、中期以降は行動を規定する基準としての「規範(共通価値)」を重視するようになった。2:論点先取りという問題がある(共通価値の生成メカニズムに対して説明不足)。
動画での解説・説明
・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
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タルコット・パーソンズとは
タルコット・パーソンズ(1902-1979)はアメリカの社会学者で、行為の一般理論(行為の準拠枠)、構造機能主義、AGIL図式などを提唱したといわれている。秩序問題をとりあげた社会学者の代表格。デュルケーム、ジンメル、ウェーバーなどの知識を受け継いで独自の理論を作り上げたとされている。主な著書は『社会的行為の構造』(1937)や『社会体系論』(1949)。
パーソンズ関連の記事
・以前の記事
【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか
【基礎社会学第十九回】タルコット・パーソンズの「主意主義的行為理論」とはなにか(今回の記事)
・以後の記事
【基礎社会学第二十一回】タルコット・パーソンズの「分析的リアリズム」とはなにか
【基礎社会学第二十三回】タルコット・パーソンズの「パターン変数」とはなにか
【基礎社会学第二十八回】タルコット・パーソンズのAGIL図式とはなにか
パーソンズを3つの時期にわけて理解する
初期パーソンズ
パーソンズ初期(1937年~1950年)
・『社会的行為の構造』(1937年):ホッブズ的秩序問題、共通価値統合、規範的志向、分析的リアリズム、主意主義的行為理論、行為の準拠枠(触りだけ)
1:主に功利主義的行為理論、実証主義的行為理論、理想主義的行為理論への批判と、彼らを乗り越えようとした4人の学者の紹介。
2:マーシャル、パレート、デュルケム、ウェーバーなどを紹介しながら、彼らの良いところを自分の理論に取り入れ、収斂(しゅうれん)させていく。
3:主意主義的行為理論とは既存の行為理論の問題点を改善し、新しい行為理論を作り上げようとしたもの
4:パーソンズは主意主義的行為理論によってホッブズ的秩序問題(自然状態、つまり国家、社会、文化などがない原子論的個人の集まりからいかにして社会秩序は成り立つのか)が解決できると考えた。
5:個人の集まりというのは複数の行為者からなる体系(システム)の問題である。個人の集まりが創発的特性を生みだし、さらにこの創発的特性が価値は規範となり、この価値規範が個人を規制するようになる。こういうわけで社会に秩序が形成されることになる。つまり、秩序問題は行為体系や社会体系レベルの問題である。
6:一方で、単位行為においてすでに要素として規範がある。この単位行為においてすでに規範があるということはいろいろと批判がされている。つまり個人の集まりによって創発的特性が生み出されるはずなのに、個人の段階で創発的特性である価値がすでに個人を規制している。これを論点先取り、アプリオリ(経験や事実に先立つ条件)的、トートロージーなどと批判されることがある。アレクサンダーがいうところの個人主義のジレンマである(個人主義的に、個人の主体性や創造性、自由を重視して社会秩序を考えた結果、超経験的なもの(アプリオリ的なもの)を前提とせざるをえなくなり、結果として個人主義的立場を維持できなくなること)。
・今回扱うパーソンズは初期パーソンズが中心。前回の内容はホッブズ的秩序問題(これもまた初期パーソンズが中心)であり、今回は重点を「単位行為」、及び単位行為と行為体系の関係について置く。今回の内容で基礎的な初期パーソンズは終わりです。次回は中期パーソンズを取り上げます(おそらくパターン変数)。
【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか
中期パーソンズ
パーソンズ中期(1951年~1965年)
・『社会体系論』(1951):内面化(摂取)、制度化、システム論(パーソナリティシステム、社会システム、文化システム)、機能──構造分析、役割、期待の相補性、ダブルコンティンジェンシー、価値の共有、行為の準拠枠(価値志向と動機志向、内面化、制度化等 行為者──状況図式等)
・『価値・動機・行為体系(1951年)』:5つのパターン変数
・『作業論文』(1953):AGIL図式、4つのパターン変数に絞られる
・行為理論から体系理論に関心や力点が移ったのが中期以降とされている。前期を主意主義的だとすれば、中期以降は規範主義的、実証主義的だとされる。個人の主体性が弱まり、ガーフィンケルがいうところの「判断力の麻痺した人間」と批判されるようになる。
・中期は個人の行為や主体性というより、個人を動機づけるもの(価値・規範)に重点が置かれている。
後期パーソンズ
パーソンズ後期(1966年~)
・AGIL図式のさらなる発展をめざした。
・『社会類型──進化と比較』(1966)など:サイバネティックスを取り入れたシステムの変動論、、コントロールハイアラーキー(L→I→G→A図式)など。他にも社会進化論の内容などがある。
・情報量が大きいものがエネルギーが大きいものを制御するというサイバネティックス・コントロールという考え方が面白い。体系(システム)でいえば、文化システムが社会システムを制御し、社会システムが人格システムを制御し、人格システムが行動システム(行動有機体)を制御するというアラーキー(位階制)になっているというもの。
・サイバネティックス:ある状況で、制御可能な変数と制御不可能な変数があるとき、制御可能なものを変化させることで状況をより良いものとし、目標を達成するための方法。アメリカの数学者ウィーナーが考え出したといわれている。
基礎用語解説
主意主義的行為理論とは、意味
主意主義的行為理論(voluntaristic theory of action):・行為を分析の基礎単位として考え、行為を規定する要素を遺伝や環境といった条件だけではなく規範をも考慮し、さらにその規範を科学的・合理的なものだけではなく宗教といったような没合理的なものを含めることにより、行為者を規範へ意志をもって努力する存在として主意主義的に構成された行為理論のこと。
パーソンズにおいて行為理論は単位行為と行為体系の2つに大きく分類することが出来る。従来の功利主義(実証主義)的行為理論には主体性や能動性が欠けており、一方で理念主義的行為理論は現実の条件を考慮していないととパーソンズは批判する。1937年の『社会的行為の構造』においてこれらの行為理論を欠点を踏まえ、ひとつにまとめあげようとしたもの(収斂という)が主意主義的行為理論である。具体的に行為理論における主体性や能動性は、規範的なものに強制されて人間が行為するのではなく、人間が触発されて能動的に志向するというような要素だったり、規範的なものは社会の成員によって修正・創造される余地があるという意味であると解釈される(溝部)。主意主義的な要素がパーソンズによって強調されたのは、決定論的な実証主義を批判するためである。
「行為は、外的な要因の規定力から多少なりとも独立した行為社の能動的な努力を不可欠なものとして要請する主観的・理念的な選択の過程である、と想定する立場からの行為理論のことで、パーソンズが提唱したもの。ヴォランタリズム。」
「社会学小辞典」、有斐閣、276P
主意主義とは、意味
主意主義(voluntarism):・一般に、意志や感性を知性や理性よりも優先させる立場。反対に、知性や理性を優先させる立場を主知主義という。
・パーソンズにおいては意志や努力、人間の主体性、主観性、能動性、自由意志による選択、創造性などを重視する立場等さまざまな解釈がある。
・パーソンズが直接的に述べたのは、規範に対して積極的に関心を持とうと「意志」をもって「努力」(effort)するという意味合い。努力と意志については後述。
「ラテン語の voluntas (意志) に由来する言葉で,真理と知性を第1のものとする主知主義に対して,善と意志の優位を説く哲学的な考え方。心理学的,倫理学的,神学的,形而上学的主意主義に区別すれば,心理学的主意主義は,人間を何かある目標に向って意欲し,知性や悟性が意志に従属しているような存在と考えるもので,その代表者はホッブズ,ヒューム,ショーペンハウアーらである。」
出典:ブリタニカ国際大百科事典(URL)
努力とは、意味
努力(effort):・力学におけるエネルギーに相当するとパーソンズは比喩的に表現している。さらに、行為者は目標の達成へと「努力」するものとして定義されている。もっとも、努力へと導くものは「精神的及び肉体的エネルギー」ともあるので、エネルギーがまずありそれが動機によって努力へと転換されると考えることも出来る。また、社会化の過程において、努力は「後天的に自発的には意志と努力によって,他発的には訓練と賦課によって獲得されるもの」とある。したがって、努力には自発性を含むものとして考えることもでき、また意志と同列に考えられているとも解釈できる。パーソンズは行為を決定論的な、自動的・受動的な過程とは考えておらず、意志と努力による選択過程を経ると解釈している。このような要素から、パーソンズの主意主義的要素は努力に関係していると考えられ、また努力をどのように解釈するかによって主意主義的要素が大きいのか、小さいのかが決まるといえる。
この記事でもっとも重要な部分ですが、もっとも曖昧で捉えにくい部分です。努力を主意主義的要素として捉えるという論文が多い中、この努力の意味がよくわからないというわけです。パーソンズも努力をきっちりと定義している様子はありません。溝部さんのように力学におけるエネルギーというような解釈をする場合、これは主意主義的要素として解釈して良いのか困惑します。
とりあえずは「意志や努力」というキーワードがあるので、主意主義的なものが含まれているというのは明らかなようです。ただし「自由意志」といったような自由や創造性が含まれているかどうかは解釈の問題となるようです。
たとえば人間は強制によって選ばされているわけではなく、自分の意志で選択しているという意味ではそこに「自由」を解釈できます。
「内容的には「行爲者とはすべての社会体系の単位を構成するものであり,それは目標の達成へと努力し,諸対象・諸事物へ情緒的,感情的に反応し,そして多かれ少なかれ自己の状況,目標及び自己自身を認識的に知り理解していると云う基礎的性格を有する実体(entity)である」4」
4=タルコット・パーソンズ「社会体系論(1951)」11P
田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」29P
「動機(motive)とは意識所有体に於て,行爲遂行の努力へと導かしめるための精神的及び肉体的エネルギーの発動を促がすところの,主観的な意味を附与された,それが外在的要素から構成されている場合はそれが内面的に主観化された,起動的原因である。動機付け又は動機化(motiva-tion)とは,ある主体における変化過程に前提的に動機を附与するところの過程である。換言すれば,意味的要素をして動機へと構成せしめるところの過程であり,云わばあらゆる素材対象は動機化の関門を通って動機へとなる。」
田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」32P
「パーソンズは云う。「社会学的に関連せる形態に於ては,「動機化」は人格の段階で組織されたものとしてやってくる。」又行爲諸過程のエネルギーや「努力」要因(“effort”factor)の窮極の渕源は有機体から派生される。従って又,ある意味に於てすべての満足と損失とは有機体的意義を有する。しかし根源は有機体の得失に根ざすものではあるが,動機化の具体的組織は行爲理論にとっては,有機体の有機的欲求に於ては分析されえない。この行爲要素の組織は行爲の理論にとっては,就く行爲者の彼の状況に対する関係の機能であり,その関係の,即ちこの意味に於ては「経験」の,歴史である。」20)しかし乍ら必要の限度に応じてある條件のもとに,心理学その他の可能な理論を動員することを妨げるものではない21)」
田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」33P
「第二の特性はその習得可能性にある。この場合に於ける習得乃至学習(learning)とは個人の具体的行爲に於て,文化の要素の必要な統合が動機付けられるに至る過程である。このことは文化型象の要素を個々の行爲者の行爲体系の中へ組み入れることである。即ちこゝに於て,文化が社会体系のみならず個人間に於ても移動するものであることが明瞭に知られる。しかもそれは,その特性の示す如く個人が発生学的に遺伝的に獲得するものではなく,後天的に自発的には意志と努力によって,他発的には訓練と賦課によって獲得されるものである。従ってそこには習得の難易が対象の性質と主体の能力とによって決定されるけれども,その間において最初の試みから反復によって体得されるまでの時間的経過が考えられる。」
田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」45P
「人格は自我意識のみではなく,更にそれに伴って自己目的を自己意志によって求め之を自己のものたらしめんと努力する。それは一応自己完結的であり,その損失も獲得も自らの責任と権利を以て覆われるものである。それは意思決定論,非決定論を別としても,少なくとも自我意識の側にあっては意志は自由であると主観していることに変りはない。かゝる人間の行爲活動の過程に於て,そこには自我意識形成と並行して,性格がその先天的なものの他に後天的なものも附帶せられ,両者は混融してその人格独自の性格が形成される。かくして他我との区別の明確さは,その内面的主観的な自我意識と外面的客観的な諸性格と容姿と相俟って独自の人格を形成するに至る。かくして,たとえ性格は類型的に分類把握することが必ずしも不可能でないとしても,自我意識の本質そのものは簡約不能(irreducibility)であり,こゝに人格的人間を一個の個人として把握する所以がある」田野﨑昭夫田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」49P
「目的・状況・規範を結びつける要素として、「努力」(effort)が考えられている。「努力」は力学におけるエネルギーの対応物であるといわれる。日常的用語法における、困難に打克ちながら刻苦勉励するというような意味あいが、この「努力」という概念に付着しているのかどうか。ここではエネルギーの相似物という説明に力点をおいて、一つの専門用語と受けとっておきたい。」
溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」4P
「まず「主意主義的」という語の使用例を検討する。パーソンズが「窮極的価値論文で最初にこの語を使用したのは、「主観的目的が:::実際に行為における実効的要因を構成する」という言明に関連させてであり、第二の使用の支脈においては「人聞が事実目的を達成しようと努め、しかもその目的に対する合理的な手段適用によってそうする」という言明が続く(286P)。この二つの言明を受ける形で、行為が自動的過程ではなく「努力」と「意志」の行使の結果であることを確認した上で、最も明確な定式化を示す第三の使用例が提主意主義的行為理論の生成過程157示される。行為という概念自体、寸実在する」目的と、目的手段関係についての合理的規範を離れては意味をなさず、他方その規範を実現しようとする中で努力によって克服さるべき障害物を離れても意味をなさない。(287P。これが行為の主意主義的概念(voluntaristic conception of action」である。この言明のうち、最後の「障害物」という語を「条件」と置き換えるなら喝ここで述べられている内容は『社会的行為の構造』での定式と完全に一致することは明白である。そしてまたここで示されている行為の四つの構成要素l!目的・規範・努力・障害物=条件のうち、前三者が「実証主義に欠落していたものとしてパーソンズによって把握されていた限り、また行為の「条件」(遺伝・環境)要素への還元による説明が「実証主義」に特有の傾向と把握されていた限り、「行為の主意主義的概念」とはつまるところ「実証主義」的行為概念に「ロマン主義」的要素を加えた上での「綜合」概念ということになる。」
遠藤雄三「主意主義的行為理論の生成過程 パーソンズの初期論文を中心に」157-158P,タルコット・パーソンズ「社会学理論における窮極的価値の位置」(1935)
行為理論とは、意味
行為理論(theory of action):・「行為」を基礎単位として現象を考えようとする理論。あるいは行為に関する定義命題。パーソンズによれば行動と行為は区別され、一定の条件に合致するような行動が行為とみなされる。端的に言えばパーソンズにおける行為とは社会的行為である。社会的行為は目的と手段図式の元、条件と規範によって規制されつつ、意識的に人間が行為を選択する図式で説明され、単位行為と言われる(主体性を強調するという点から主意主義的行為理論と呼ばれる)。この単位行為の集合からなるものが行為体系である。行為体系とは端的に言えば個人同士の行為の相互作用からなる。従って、行為理論とは単位行為と、その集合である行為体系を秩序だてて理論として構築されたものを意味する。
・行為理論と体系理論を区別して考えます。行為理論は体系理論の前提というわけです。そして行為理論は単位行為と行為体系に区別して考えることができます。行為体系とは行為の相互作用の過程、行為の集合を意味します。
この図の内容は後期パーソンズの内容です。「人間の条件の一般的パラダイム」と呼ばれ、パーソンズの図式の最終的な姿だそうです。亡くなる前年に関西学院大学で『社会システムの構造と変化』という講義が行わており、そのときの図だそうです。この図は行為システムがそれぞれの体系を基礎づけているという意味がわかりやすいです。個人の相互作用がそれぞれのシステムを生み出すというわけですね。さらに行為システムへ文化システムや社会システムはそれぞれ影響を与えるというわけです。具体的に言えば文化システムは規範の要素であり、行為を規制するものであり、また個人はこの規範へ能動的に志向するというわけです。たとえば人殺しは善くない、というような文化は個人の行為を規制します。そうした文化は個人にある程度外在しているもの、デュルケムで言う社会的事実であはありますが、その外在しているものを個人は内在化(内面化)させるといるわけです。さらに社会システムはそうした価値を法律などによって制度化し、さらに秩序を安定へつなげます。
次回のパターン変数の内容なのであまり深掘りはしませんが、要するに単位行為からなる行為体系(行為システム)は一定のパターンがあるというわけです。二項対立による変数が4つあり、その組み合わせは4の2乗で16通りあります。4図式で考えれば、合計で4つのシステム(それぞれ4通りずつ)を構成することになります。つまり、16通りのうち4通りのパターンの組み合わせが社会システムを構成し、他の組み合わせはそれぞれ文化システム、パーソナリティシステム、行動システムを構成するということになります。
「一般的には、M.ウェーバーに始まりパーソンズによって精緻化され、現在もその整備が進められている、行為に関する一群の定義的言明(および経験命題)をいう。実質的には、社会的行為の概念を中核として、行為システムの安定と変動とを首尾一貫して記述するための概念図式である。すなわち、行為理論は、ダイアディックな(二者関係の)相互行為過程の考察から導き出された基本的範疇によって、行為システムの構造と機能(あるいは過程)を系統立てて記述することをその目的とする抽象的な概念図式である。したがって、行為理論は同時に、行為システム理論つまり社会体系・文化体系およびパーソナリティ体系の理論であもり、そのための行為の一般理論(general theory of action)ともいわれる。さらにもう少し広く考えて、社会や集団をその成員の行為にまで分解して把握しようとする分析の一般的方針ないしアプローチも、行為理論に含めてよい。」
「社会学小辞典」、有斐閣、166P
「図式は入れ子式に何段階にもなっているが,最も拡張されたものは「人間の条件の一般的パラダイム」と呼ばれ,図1のような構成になっている([21]27頁,第4図)。当面の対象である社会システムは,行為システムの「統合的サブシステム」と位置づけられており,そのことから分かるように社会システムの要素は行為,正確には相互行為である。念のため『社会体系論』(1951)の冒頭に立ち返ると,「〔本書の議論の〕基システム本的な出発点は,行為の社会体系という概念である::いいかえれば,個人行為者たちのあいだで,相互行為がおこなわれる条件を考えるとそういった相互行為の過程を科学的な意味システムでの一つの体系とみなすことができる」([19]訳9頁.〔〕内は引用者の補足)と記されている。」
春日淳一「社会科学における説明図式の次元構成 : 3次元か4次元か」139P
「行為は社会システムの要素という側面以外の側面,すなわち,パーソナリティ・行動・文化の各システムの要素という側面をも,もっているとパーソンズは考えるからである。」
春日淳一「社会科学における説明図式の次元構成 : 3次元か4次元か」142P
行為の準拠枠とは、意味
行為の準拠枠(action frame of reference):・行為体系や社会体系の分析に行為を不可欠な枠組みとして採用する概念図式のこと。行為理論における基礎的な道具、枠組みのこと。準拠枠とは関係枠、枠組みとも翻訳されることがある。何のための枠組みかというと、分析のための枠組みである。分析の際はこの色眼鏡を通してください、ということである。初期に構想された「行為の準拠枠」は中期以降では「AGIL図式」へと発展し、さらに後期では「LGIL図式(コントロールハイアラーキー)」へと発展していった。
「文化・社会現象の解明に、行為という術後を必要不可欠なものとして採用する概念図式。パーソンズによると、その内容のエッセンスは、具体的な単位としての行為を目標・状況・規範・動機づけの四つの要素から記述するところにある。」
「社会学小辞典」、有斐閣、165P
「社会体系とは、行為理論の関係枠のなかで分析された、複数の人間の相互作用の体系である。それは、もちろん、個人としての行為者の関係によって、ただそのような関係だけによって成り立っている」
タルコット・パーソンズ「行為の総合理論をめざして」,37P
「パーソンズは、『社会的行為の構造』を出版していた当時から、目的論を前提にし、目的を達成するための手段を選択する基準として、規範を重視していた。もちろん、手段を選択する際には、その条件としての社会環境も考慮しなければならないと考えていた。この目的・手段・条件・規範という行為の準拠枠自体の中に、既に進化論の適応性や淘汰性としての選択性が内包されているのである。この行為の準拠枠とパターン変数的思考がさらに展開され、AGIL図式となって結実するのである。このAGIL図式に、サイバネティクス的思考を取り入れることによって、後期パーソンズは、進化論的かつ比較論的な社会理論を完成させることになったのである。後期には、彼は、彼の図式を、AGIL図式ではなく、LIGA図式と呼ぶことになった。初期パーソンズも規範の重要性を認識していたが、後期になってそれがいっそう前面に出てくることになったのである。それは、サイバネティクス的思考を取り入れ、エネルギー最小で情報最大のものが、エネルギー最大で情報最小のものを制御するというヒエラルキー的思考に良く具現されている。」
川上周三「ピューリタン系譜の社会思想家の比較研究―マックス・ヴェーバー、賀川豊彦、タルコット・パーソンズ―(上)」、28P
「もう少しパーソンズの『社会体系論』を見よう。彼は冒頭で、この本は「行為の準拠枠を用いて社会体系を分析するための概念図式を説明し、例証すること」を主題とする、という。つまり、「行為」から出発し、「行為の社会体系」として社会を描こう、というのだ(Parsons1951=1974:9)。」
奥村隆「行為とコミュニケーション ふたつの社会性についての試論」38P
「まず第一に、構造的要素には、目的、手段、条件、そして規範という最小の区別がある。これら四つのすべてを特定化することのできないような行為の記述は意味がない。それはちょうど、質点を記述するには若干の最小属性があり、そのいずれを欠いてもその記述は不完全なものになるのと同様である。第二に、これら諸要素間の関係づけのなかに行為の規範的志向、つまり目的論的性格が含意されている。行為はいつでも規範的と条件的という二つの次元を異にする要素の緊張関係の中に置かれている、と考えなければならない。ある行為をその過程に注目してみれば、それは条件的的要素が規範に同調させられる方向に変化していくものとして捉えることができる。この規範的要素を排除することは行為概念そのものを排除することであり、そうなれば極端な実証主義の立場に行き着くしかない。条件の排除(これもまた上の緊張関係の排除を意味する)もまた、同様にして行為概念それ自体の排斥につながり、理想主義的な流出論に帰着せざるをえないことになる。このように、条件をその一方の端に置き、他の端には目的と規範的ルールを据え、そしてその両者を結びつけるものとして手段と努力が配置される。第三に、本来この準拠枠には時間的要素が含まれている。行為は時間を含んだ過程である。行為の目的論的性格に対応して、規範的要素と非規範的要素との間には時間軸が関わっている。目的の概念には将来への言及、つまり予期されてはいるが行為者の介在なしには存在し得ないだろう事態が含まれている。行為者の頭の中では、目的は状況と同時的に、しかも『手段の選択』に先立って存在している。そしてこの後者は、結果に先行していなければならない。こうした諸要素間の関係が記述されうるのも時間軸に沿ってのことである。最後に、その図式は、これまで議論してきたような意味で本来的に主観的なものである。このことはつぎの事実、すなわち規範的要素は行為者の心のなかにだけ『存在する』ものとして考えることができるという事実によってこの上なく明瞭に示されている。」(タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造』,pp.732-733.稲上毅・厚東洋輔・溝辺明男訳、140-141頁。)
単位行為
単位行為(unit act):・単位行為には具体的な現象を単位に分解して考えるもの(単位分析)と、観察者側が要素に区分されたもの(要素分析)の2種類がある。ひとつが、行為者、目的、状況(手段、条件)、規範という4つの”単位”で行為を”説明”する図式。もうひとつが、行為を“分析“する際の図式は目的、手段、条件、規範という四つの”要素”である。単位行為は行為システムにおける「最小単位」である。この4つの要素自体は功利主義的行為理論と同じであるが、それぞれの中身が違う。特に規範のなかには非合理的な価値や信念も含まれているという点が最も異なる(もちろん功利主義的な合理性という価値も含まれている。非合理性は没合理性ともいう)。この単位行為の結合は行為体系につながる。単位行為と行為体系をまとめて行為理論といい、行為理論は社会システム理論の前提となる。レゴブロックで恐竜を作る際のパーツにあたる。ただし単なるパーツの集まりではなく、創発的特性を伴い、単なる部分の集合以上のものを生み出す)。基本的な点は行為者、目的、手段の3要素が規範と条件の両方から規定(制御)されるということである。この単位行為を基準にして行為体系や社会体系を考えていく枠組みを「行為の準拠枠」という。
単位と要素(記述レベルと分析レベル)
※今回はこの部分は詳説しません。次回に「分析的リアリズム」と題して繰り越すことに決めました。
この話がややこしい。単位行為を先程、行為者、目的、状況、規範という4つの「単位」にわけるといいました。この分類は行為者にとって意味のある行為の最小単位です。
行為者以外になにがあるのか、といえばそれは「観察者」です。パーソンズによれば観察者が構成する単位行為は、目的、手段、条件、規範です。そうです、行為者が欠けています。言い換えれば目的、状況、規範になります。行為を分解した単位、あるいは分解から再構成された行為というのは、原子論的です。この単位だけでは創発的特性(個人1人では説明できない共通価値など)を説明できません。この創発的特性を説明するために、観察者側が行為を区分して分析する必要があるといいます。
その前に前提として「科学の方法」というのを紹介しておきます。パーソンズによれば科学の方法は以下の3つに分類できるそうです。正直な話をすれば物理を学んでいる気分になって文系の人間はズシッとくるものがありますが、大事な部分なので理解していきましょう。
- 記述的方法:現象を詳細に言語によって記述する方法。目的は説明する現象を定義すること
- 説明的方法:現象間の関係を何らかの形で分析的に説明すること。説明的方法は「現象を単位或いは部分に区分することで説明すること」と、「分析的リアリズムを用いること」の2つに分かれる。
- 単位分析:単位によって現象を区分して説明する方法。単位間の相互分析によって現象を説明する。この単位は具体的な実在(reality)であり、具体的な現象の一部分である。単位分析による比較から諸現象に共通する単位が導き出されるとき、これを経験的一般化(Empirical Generalization)という。イメージで言えば物理学で物質を原子まで分解するようなもの。
- 要素分析:分析的要素によって現象を説明する方法。単位分析では捉えられない特性を捉えるために考案された(ここは大事)。単位分析は具体的現象を分解したものであり、行為体系を分解して残るのは単位行為だけになり、行為体系を考える際に必要とされた「創発特性(共通価値)」が消滅してしまう(原子論的個人を想定すると、道徳や価値のような創発特性が消える。集合は単なる部分の集まりではない)。パーソンズは観察者の観点を導入することで、単位分析によって見過ごされがちな側面を分析することが可能になると考えた。
- 分析的リアリズム(要素分析):
難しいですよね分かります。しかしなんとなくわかります。これは先程学んだパレートの「具体的な歴史は繰り返さないが、歴史の抽象度を上げると共通の部分が見えてくる」という話を思い出します。あるいは具体的現象を分析するための枠組みとしてウェーバーが理念型モデルを想定したことも思い出します。理念型モデルはユートピアであり、それに当てはまる具体的な現象は殆どありませんが、分析には有効だという話でした(もっとも、パーソンズは理念型に対して全面的に賛成というわけではなかったようですが)。
単位分析 ・単位は「具体的現象」を分解することで得られる ・単位分析とは、単位によって現象を区分して説明しようとする方法。 | 要素分析 ・要素はあらかじめ構成された概念によって分析的に得られる。 例:創発的特性や共通価値は要素分析上の概念であり、具体的現象の部分(単位)ではない。 |
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具体的 | 抽象的 |
行為者目線 | 観察者目線 |
呼び方:単位・部分 【1】行為者:行為の主体(個人・集団であるかを問わない) 【2】目的:行為過程が志向する事象の未来の状態 【3】(状況)手段・条件:行為過程の状況のこと。状況の中で制御できるものが手段であり、制御できないものが条件。 【4】:規範・価値:規範は行為者を内側から制御し、価値は外側から制御する(規範と価値が区別されているのはポイントか) | 呼び方:要素 【1】目的:ある行為の結果と、その行為をしなかったときに起こる事態との差 【2】手段:行為者が制御することで望ましい方向に変化させることの出来る自体のある側面 【3】条件:行為一般に帰属できない状況という要素 【4】規範:(パーソンズは定義をしていないが)行為体系の創発特性を導く要素 POINT1:観察者の分析単位における4単位はすべて特定できる(心の中だからわからない、というケースは具体的なケースに起こること)。 POINT2:規範的志向がある(行為者の目的は選択的要因である規範、価値の影響を受けているから。条件から手段を、規範から目的を導くために、条件と規範を結びつける意思や努力という要素がある) POINT3:目的は手段に先行するので、目的と手段には時間的な差がある。したがって、行為単位には時間という概念が含まれる POINT4:規範的要素は行為者の心の中にみに存在する(観察者は規範そのものを見ることはできない)。観察者が規範的要素を観察できるのは、規範が実現され、ある形態をとるからである。 |
ものすごく直観的な把握では、記述レベルにおける行為単位は具体的なもので、分析レベルにおける行為単位は抽象的なものです。
「行為のシェーマは主要諸特徴を有し,その使用にさいし2つの異なるレベル―記述的と分析的一に分けることが必要である。理論が適用できる具体的現象は,具体的意味をもつ行為体系として記述される。この体系はつねにヨリ小さな諸部分または単位に分割されることができ,この分割すなわち分析が 分に行なわれるならば,「単位行為 (unit act)」具体的行為体系の一部分として有意味性をもつ行為体系の「最小」単位――に到達する。この単位行為は、行為の窮極的下位体系ではあるが,行為理論の看点からは,分析不可能な実体なのではなく,複雑なものである。すなわち,行為の具体的諸要素――具体的な目的,具体的な諸条件,および目的に対する手段ならびに手段の選択を規制する1つ以上の規範一一から組成されている。注意を要する点は,これら 諸要素の1つひとつは1つの具体的な実体であるが,単位行為の1部分とみられないかぎり行為理論にとってはまったく重要ではないということである。たとえば,椅子は物理学のコンテクストでは分子と原子の複合体であるが,行為の文脈においては1つの手段,「座るものなのである。この意味で,行為理論の具体的=記述的使用と分析的使用との区別は必須である。目的は,分析的には、期待される将来の具体的事情ではなく、行為者が行為することをさし控えたばあいに発生する結果とは異なるものである。究極的な諸条件は、分析的には,ある具体的な行為者の制御不能な情況に関する具体的な諸特徴ではな く,行為一般に帰せしめえない情況の抽象的な諸要素である。また,手段は, 分析的には,具体的な道具ではなく、行為者が事物に関する知識と制御とによ って望ましいものに変更できる事物の属性(aspects or properties) である。」
鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」70~71P
「単位行為は,「行為者」[Actor],「目的」[End],「手段・条件」[Means・Condition],「規範・価値」[Norm・Value]という四種類の「単位」[Unit]に分解される。そしてまた,「目的」,「手段」,「条件」,「規範」という「要素」[Element]に分析的に区分される。単位行為は行為体系の一部分であり,行為者にとって意味のある行為の最小単位である。単位行為には,単位あるいは,「部分」[Part]に分解した形式と,観察者の構成する要素に区分した形式がある。」
大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」57P
他の説明は基本的に大束さんの論文を参考にしています(すべて引用すると大量になるので省略します。)。
単位行為の数式
・単位行為と行為体系を数式にするとどうなるか
A=S(T, t, ie, r)+E(T, t, i, r, ie)+N(T, t, ie, i, r)
Z=(A1+A2+A3+…….An)+Rel+Ri+Rc
A:単位行為 S:状況(手段と条件) E:目的 N:規範 T:科学的に妥当な知識 t:非科学的な要素 i:理念的要素 ie:理念的要素の象徴的表出 r:ランダムに変化する要素
Z:行為体系 Rel:単位行為 の原基的関係 Ri:個人に関わる創発特性 Rc諸個人の相互関係に由来する創発特性
単位行為=状況(科学的に妥当な知識、非科学的な要素、理念的要素の象徴的表出、ランダムに変化する要素)+目的(科学的に妥当な知識、非科学的な要素、理念的要素、ランダムに変化する要素、理念的要素の象徴的流出)+規範(科学的に妥当な知識、非科学的な要素、理念的要素の象徴的表出、ランダムに変化する要素)
重要なのは、規範は合理的なものと没合理的なもの、ランダム的なものがあるということです。宗教的な自殺はよくないといったような規範のみが人間を規定するわけではなく、科学的な知識も人間を同様に規定する。従来の功利主義は科学的な知識のみ、合理的な規範のみを前提に行為を考えていたという点でパーソンズは批判している。また、目的がランダムに変化する要素のみと考える立場の功利主義を批判している。
要するに役に立つかどうか、有効かどうか、利益(欲求を充足させるかどうか)になるかの計算可能性のあるものが科学的な要素です。ウェーバーで言えば目的合理性です。理念要素は宗教、道徳などで没合理性といわれます。算数のテストで1+1=3と答えるようなものは没合理性というより非合理性(無知、誤謬)ですが、墓を蹴ってはいけないというようなものは没合理性(宗教、道徳)です。知識要素は科学的なものだけではなく非科学的な無知やミスも含まれます。
「功利主義思想においては単位行為が集積した結果である行為体系(H社会状態)については95パーソンズの行為理論における諸問題(一)でみたようにまったく楽観的公見通ししかもっていなかったが、ホップスは「この単位が定義どおり事実として存主するとすれば、そごから帰結される具体的体系の性質はどのようなものか、この点まで立ち入ってそれを演縛しているのである。ではその帰結とは何であろうか。それこそが1万人の万人にたいする戦闘状態」にほかならない。ここに功利主義思想がこれまでまったく気づかずにいた秩序問題がもっとも鋭い形で提起されたことになる。」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題,95-96P
「パーソンズは主意主義的行為理論における単位行為と行為 体系を次のような等式で表している(SSA p.82=訳一巻一三 四頁)。
A=S(T, t, ie, r)+E(T, t, i, r, ie)+N(T, t, ie, i, r)Z=(A1+A2+A3+…….An)+Rel+Ri+Rc
A:単位行為 S:状況 E:目的 N:規範 T:科学的に妥当な知 識 t:非科学的な要素 i:理念的要素 ie:理念的要素の象徴的 表出 r:ランダムに変化する要素 Z:行為体系 Rel:単位行為 の原基的関係 Ri:個人に関わる創発特性 Rc諸個人の相互
関係に由来する創発特性S (状況)は条件と手段からなるとパーソンズによって書か れているので(SSA p.78=訳一巻一二六頁)、結局主意主義 的行為理論における単位行為の構成要素は、条件、手段、目的、規範の四つであることがわかる」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題,100P
「行為と行為体系をわかっもっとも決定的な違い、それは、パlソンズの等式が明瞭に示しているように、創発特性がド仔在するか一合かということである。創発特性が行為体系において存在しているということは、いうまでもなく、ある社会状態は単なる単位行為の総和とは異なる性質を有しており、逆にいえば、そのような社会状態はけっして単位行為へと還元されることはない、ということを意味している。功利主義思想においては、前節で述べたように原子論的な考えが強かったため、この創発特性についてはほとんどまったく主題化されることがなかったのであった。しかしながらパlソンズもまたごの創発特性に関していえば、その存在は認めるのであるが(したがって素朴な方法論的個人主義者ではないーしかしそれを理論の中心に位置づけることはしていないのだから、実質的に功利主義と選ぶところがなくなってしまっている、といわねばならない。パ1ソンズは功利主義思想の特徴のうち原子論についてはついに克服できていないばかりか、自らもそこに陥ってしまっているのである。」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題,101P
行為体系とは、意味
行為体系(action system):・行為が一定の秩序のもとに組織化されている状態。単位行為が集合したものであり、単なる集合ではなく創発特性に従って統合されたものである。
・端的に言えば行為の集合だが、他にも創発特性という重要な特徴がある。初期パーソンズでは行為体系とその他の社会体系や文化体系は明確に分離していなかった。明確に理論化されるのは中期以降。単位行為が行為体系を構成するように、行為体系は社会体系や文化体系をそれぞれ構成する。その構成はパターン変数の4つの組み合わせからできており、それぞれの組み合わせは特定の機能をもつ(いわゆるAGILであり、それぞれ適応、目標達成、緊張処理、統合という四機能をもつ)。
「行為が一定の秩序のもとに組織化されている場合、それを行為システムと呼ぶ。パーソンズは『社会体系論』(1951)などにおいて、行為システムを社会体系、パーソナリティ体系、文化体系に区分している。」
「社会学小辞典」、有斐閣、165P
「単位行為が集合したものを,パーソンズは「行為体系」と呼ぶ。行為体系とは,単位行為の規範的志向を,観察者の構成した要素である「創発特性」[Emergent properties]に従って統合したものである。創発特性とは,適当な大きさに統合された行為体系に典型的に現れる特性である。」
大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」58-59P
創発特性
創発特性(emergent property):・一般に、「諸要素が集合して一つの全体をつくる場合や、ある現象の組成水準が低次のものから高次のものへ発展する場合に、元の要素や低次の水準には存在しなかった新しい特性」を意味する。パーソンズにおいては創発特性は5種類の合理性に区別されている。原初的合理性は技術に、経済的合理性は効用に、政治的合理性は権力に、社会的合理性は共通価値に結びついている。パーソナリティにおける合理性は定かではない。
詳細は扱いませんが、共通価値が創発的特性のひとつというのは覚えておいたほうが良さそうです。
個々人の総和を超えたところに生成する価値であると同時に、社会的に望ましいものとされている。個人にのみ焦点を当てても確認されないような要素。この価値は共通価値、共有価値ともいわれる。この共有価値の具体的な形(表出)が究極的目的や究極的価値、道徳的規範や社会的規範である。抽象度の高いものが価値であり、具体度の高いものが規範。たとえば人殺しは善くない、神様を信じるというのは価値であり、信号無視はよくないというのは社会的規範、墓を蹴ってはいけないというのは道徳的規範のイメージ。どちらかといえば価値は外在よりで、規範は内在より。
こうした共通価値がないと支配に正統性がうまれず、したがって権力も安定しません。権力が安定しないと資源の配分も安定しません。要するにまずは社会が安定して、その上で経済やら政治やらが安定するということだと思います。こうした価値による統合を共通価値統合といいます。中期では制度による統合へと重点が変わります。
「諸要素が集合して一つの全体をつくる場合や、ある現象の組成水準が低次のものから高次のものへ発展する場合に、元の要素や低次の水準には存在しなかった新しい特性が出現し付加される。この新しい特性をいう。たとえば、分業は個人にはなくて集団において創発してくる特性であり、言語は人間以下の水準にはなくて人間の水準で創発する特性である。」
「社会学小辞典」、有斐閣、390P
「創発特性とは,適当な大きさに統合された行為体系に典型的に現れる特性である。特定の創発特性は,行為体系が小さすぎたり大きすぎると観察されなくなる。この創発特性は,パーソンズによれば,5種類の合理性に区別されている6)。この5種類の創発特性は,ミクロな行為体系に典型的に現れるものから順に,「原初的合理性」,「経済的合理性」,「政治的合理性」,「社会的合理性」と,そして「パーソナリティ」である。またそれら創発特性の具体的表現と’して「技術」[Technology],「効用」[Utility],「権力」[Power],「共通価値[Common-Value]があげられている7)。」
大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」59P
規範的要素
規範的要素():・「あるものが、(1)集合体の成員達にとって(2)集合体の一部の成員達にとって(3)単位としての集合体にとって、それ自体目的である(他の目的のための手段であってもよい)という感情を、一人以上の行為者に抱かせるような、行為システムの一つの側面、部分ないし要素」。要するに、ある集合体に共通して望ましいと思われているような要素を規範的要素というわけです。別の用語で言えば「共通価値」であり、「究極的価値」です。ただし究極的価値他の目的のための手段ではなく、論理的に最上位の目的であり、まさにそれ自体を目的としているのですこし印象が違います。
規範と規範的要素は違う。規範的要素の中に、規範が含まれている。さらには価値や社会的規範をまとめて1937年時点では規範的要素と言っていることがある。端的に言えば多くの人間が共通して望ましいと思っているような要素を言う。たとえば平和や愛などはどちらかといえば価値に、老人に電車で席を譲るというのは社会的規範にあたる(抽象度の違いで区別、あるいは価値は外側から制御し、規範は内側から制御するというイメージ)。
「規範的という語の定義を引用しておこう。「あるものが、(1)集合体の成員達にとって(2)集合体の一部の成員遼にとって(3)単位としての集合体にとって、それ自体目的である(他の目的のための手段であってもよい)という感情を、一人以上の行為者に抱かせるような、行為システムの一つの側面、部分ないし要素に、ふさわしい語として、規範的という用語が用いられる」この定義の特徴は、ある要素が、成員聞に共通して望ましいと認められていること、ないし認められるべきだと行為者が考えているということ、つまり成員間における共通性(ないし共有性)が強調されていることである。規範は、規範的要素の一つである。上の引用文のすぐ後に、「規範とは、望ましいと考えられている行為の具体的コlスの遂行を、行為者に命令する言語的な記述である」)と定義されている。この定義だけならば、単位行為に関連して述べられていた「手段と目的を関連守つける基準」という定義と変わらない。けれどもパーソンズの論旨の展開においては、成員聞に共通する規範的要素としての規範が、重要なのである。だから何らかの一般的な妥当性を主張できないような基準、つまりある特定の行為者のみが独特に採用している基準がありうるとしても、そのような基準は、規範的要素としての規範から排除されているのである。規範的要素のもう一つの主要な要素は、目的であるが、これについても同様である。」
溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」11P
規範的志向
規範的志向(normative orientation):・人間は諸刺激に単に反応するだけではなく、行為者と集合体のメンバーによって望ましいと評価されるパターンに、自分達の行為を一致させようとすることに関心があるというもの。また、そのような傾向へと自らを方向づけること。単位行為における単位として扱われることがある。
四単位のうちの規範は規範的”志向”と言われることがある。志向とは関心を向けることであり、心の中の動き、方向である。おそらく規範は行為者に完全に外在しているようなイメージで考えると、行為単位レベルではなく行為体系レベルになってしまうからだろう。つまり、行為体系レベルで生じる創発特性が規範的要素にあたるもので、これは個人レベルでは生じない。極端な話、無人島で生まれて1人で暮らす人間(原子論的個人のイメージ)が、争いはよくないだとか、愛はよいだとかそういう規範へ志向するのかという問題。無人島で独りで暮らす人間にそもそも社会的行為は不可能であり、ほぼすべて行動になる。
もちろん象徴(シンボル)という言葉が単位行為にあるように、ある規範は行為者の心の中にのみ存在するという意味では行為者に内在している(たとえばお墓そのものに規範が存在しているわけではなく、お墓を神聖だと思う行為者の心に規範が存在している)。ポイントは、この心が行為者1人だけに由来するものか、集団で共通に心の中に存在するような望ましいものかということ。殺人は善いというようなものも心の中に存在し、目的や手段を規定しているという意味では規範になるのか。共通に望ましいかどうかは個人の段階ではわからないのではないか(独断的に思うことはできるが、それでいいのか)。それぞれ自分勝手な規範へ志向したら秩序は解決しないのではないか。
「こうしてパーソンズは、「人間は、諸刺激に単に反応するだけではなくて、行為者と集合体のメンバーによって望ましいと評価されるパターンに、自分達の行為を一致させようとする(これが規範的指向 引用者)、するという経験的事実」を分析の出発点にして、この規範的指向を、行為の根本的な要素とみなすことになる。けれども、この「経験的事実」の反面、つまり共通のパターンに一致しない行為の可能性が存在することも確かである。パーソンズの主旨は、後者を否定するのではなくて、前者の事実に問題領域を限定する、ということである。このことを彼は明確に自覚していて、次のように述べている。「空間が古典力学にとって、根本的であるのと同じ意味で、規範的指向は、行為図式にとって根本的である。空間的位置の変化以外に運動がないのと同様に、規範に従おうとする努力(effort)以外に、行為はない。どちらの場合も(力学と行為理論 引用者)この命題は、定義ないし定義からの論理的な帰結である。けれども、人間行為が、実際に規範的に指向しているかどうかという問題を提起することは、今の目的にとって必要がない」。この文章は要するに、システム・レヴェルにおいて採用されている概念閲式を明示しているものと考えられる。「規範に従おうとする努力」という行為の定義スケッチは、彼の種々の定義スケッチの中で、(「秩序問題」が彼の第一のテーマであるとするならば)最も直裁的な表現であろう。」
溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」12-13P
規範とは、意味
規範(norm):・単位行為における規範とは、「手段と目的を関連づける基準」であり、規範的要素における規範とは、「望ましいと考えられている行為の具体的コースの遂行を、行為者に命令する言語的な記述」である。さらに規範的要素となると、「複数の人間にとって共通して望ましいとされる基準」となる。一般に規範とは、「社会や集団において、成員の社会的行為に一定の拘束を加えて規整する規則一般」を意味する。
(単位行為の文脈における)規範:手段と目的を関連づける「基準」。合理的なものもあれば非合理的なもの、没合理的なものもあるとされる。
(規範的要素のうちのひとつの)規範:規範とは、望ましいと考えられている行為の具体的コースの遂行を、行為者に命令する言語的な記述。ここでは望ましいかどうかは個人の判断のみであり、複数の行為者による共通の承認という要素がないとも考えられる。その意味で、単位行為レベルでは創造的な余地、能動的な余地が残されていると解釈されるケースがある。たとえば、集団で人種差別は望ましいと思われていた場合でも、ある個人が自分の意思で能動的に、人種差別は善くないという規範へと志向するなどといったブレイクスルー(創造、革命的)要素。
規範的要素:複数の行為者による共通の承認を前提とする(この定義では、単位行為レベルでは生じない規範というものが見られる)。
「規範は、規範的要素の一つである。上の引用文のすぐ後に、『規範とは、望ましいと考えられている行為の具体的コースの遂行を、行為者に命令する言語的な記述である』(『社会的行為の構造』,75P)と定義されている。この定義だけならば、単位行為に関連して述べられていた『手段と目的を関連付ける基準』という定義と変わらない。けれどもパーソンズの論旨の展開においては、成員間に共通する規範的要素としての規範が、重要なのである。だから何らかの一般的な妥当性を主張できないような基準、つまりある特定の行為者のみが独特に採用している基準がありうるとしても、そのような基準は、規範的要素としての規範から排除されているのである。規範的要素のもう一つの主要な要素は、目的であるが、これについても同様である。以上から明らかなように、「規範的要素」という概念は、複数の行為者から成るシステムを前提にしてむり、複数の行為者による共通の承認ということを含んでいる」
溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」11P
「社会や集団において、成員の社会的行為に一定の拘束を加えて規整する規則一般を意味する。成員たちが多少とも共有している価値との関係でいうと、その価値に誘導されて行為を規整するのが規範であるから、規範は価値よりも、行為を具体的に特定化する度が大きい。したがって、規範は、行為において追求される目的選択の基準や、その実現に取られるべき行為の様式に関する指示を含んでいる。社会規範は通常、①慣習(伝統、流行、風俗を含む)、②習律(モーレス)、③法、に分類される。規範はすべて、それへの同調のチャンスを高めるような社会的サンクション(報酬と罰)を伴っている。サンクションは誇りや恥の感じをもたらす無定型の圧力から、明示的な非難、称賛を経て物理的強制に至る多様なかたちをとる。
「社会学小辞典」、有斐閣、108P
価値と規範の違い
価値:具体的な個々の状況を超えて行為者はこうすべしという格率
規範:具体的な相互行為の場面を想定し、「社会の秩序」を維持するために、あるいは、「社会システム」が活力を持って作動してゆくためにプラスとなる行為を奨励し、マイナスとなる行為を禁止する決まり
「『社会的規範』は、個々の相互行為を統制するものである。社会と時代が異なれば、それに応じて異なった規範がその社会と時代に通用するだろう。「価値」と「規範」の違いは、その内容の抽象性が高いか(価値)、それとも具体的な状況にある程度対応して具象的に表現されているか(規範)の違いである。たとえば、教育制度において、身分、出自、性差などの個人の属性に関わらず、教育の機会を与えることが、教育制度における「価値」であろう。他方、学生は試験に際して、カンニングをしてはいけないという決まりは、「社会的規範」である。(1937年当時のパーソンズは、「価値」と「社会的規範」をまとめて「規範的要素」と呼んでいる。)以上のように、「価値」は具体的な個々の状況を超えて行為者はこうすべしという格率であるのに対して、「規範」は、具体的な相互行為の場面を想定し、「社会の秩序」を維持するために、あるいは、「社会システム」が活力を持って作動してゆくためにプラスとなる行為を奨励し、マイナスとなる行為を禁止する決まりであると基本的には考えられる。」
溝部 明男「社会システム論と社会学理論の展開 : T. パーソンズ社会学と残された3つの理論的課題」、31~32P
事実的秩序と規範的秩序
事実的秩序(factual order):・ランダム性やチャンスと対立するもの、科学的な分析を受け入れることが出来るもの。経験科学によって理解可能な程度の行為の規則性、安定性。人々の行為が斉一的に生起し、科学的に理解可能な状態。
規範的秩序(normative order):・規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起すること。行為過程がなんらかの規範によって一定程度制御されていること。正しいと思われるイメージに従って、人々の行為が規則的に席している状態のこと。
主に功利主義な前提である「目的のランダム性」への批判であり、目的はある程度科学的な分析の対象となるとされている。
パーソンズによる「事実的秩序」とはそのようなランダムなものではなく、一定の規則がある秩序のことである。たとえばある人間が朝決まった時間に起き、決まった時間に寝るとする。この人間はまったくランダムに寝起きするわけではなく、一定の規則にしたがって寝起きしていることが観察できる。こうした規則は科学的に理解できる(たとえば数字などによって)事実であるといえる。
しかしそうした事実が「安定」するのはなぜか、という問題も生じる。それは「規範」によるものだとパーソンズはいう。たとえば決まった時間に寝起きすると仕事の効率が上がるよね、といったような規範が人間の中に内面化されていると、より決まった時間に寝起きするようになるかもしれない。
「パーソンズが『社会的行為の構造』の中で、社会秩序を事実的秩序(factual order)と規範的秩序(normative order)に区分したことはよく知られている。もっとも、その概念化はごくあっさりとしたもので、事実的秩序は、「ランダムネスやチャンスと対立するもの」であって、「科学的な分析を受け入れることができる(susceptible)もの」、規範的秩序は「規範的体系に定められた道筋にしたがって物事が生起すること」とされている(Parsons1937:91)。しかし、この区分によって彼が強調したかったのは次のことだ。すなわち、社会学の探究対象である社会秩序は、まずもって科学的分析の対象となりうる事実的秩序でなければならない。そして、「社会秩序は科学的分析を受け入れられうるかぎりにおいて常に事実的秩序なのだが、…それは何らかの規範的要素の働きなしには安定的であることはできない」(Parsons1937:92)。つまり、社会秩序はそこに何らかの規範的要素の働きがあるからこそ、科学の対象となりうるのであって、規範的要素が働いていなければ安定的な事実的秩序であることができない。規範的要素こそは、社会秩序を「秩序」たらしめる不可欠の条件なのだ、ということである。」
盛山和夫「経験主義から規範科学へ- 数理社会学はなんの役に立つか -」、200P
「(規範的秩序とは)正しいと思われたイメージに従って、人々の行為が規則的に生起している状態のこと。人々の行為が斉一的に生起し、科学的に理解可能な状態である事実的秩序(factual order)と区別される。パーソンズ(『社会的行為の構造』1937)は秩序問題を解決するために、この2つの社会秩序のあり方を区別した。規範的秩序が成立することで、規範は人々のパーソナリティ体系へ内面化され、逸脱に対する内面的な抑止力を得ると同時に、規範の社会体系による制度化も可能となり、力による逸脱の統制も可能となる。事実的秩序は、規範的秩序のおかげで、内的・外的保障を得て安定化し、長期の存続が可能となるという。」
行為体型における構造的要素
行為体系における構造的要素:・行為体系は「究極的目的」、「内在的中間領域」、「究極的手段」の3つの構造的要素にわけることができる。
・行為体系における3つの構造的要素(中期以降ではパーソナリティ体系、社会体系、文化体系などに行為体系から分化していくことになるが、初期ではまだ分化していない。)
【1】究極的な条件:たとえば遺伝や森や海などはそれ自体としては有意味ではない。しかし行為者によって意味づけされることで、主観的に、心の中で価値のあるものとなる。また、行為には欠かせないという意味で、行為の条件や手段である。
【2】内在的中間領域:目的──手段関係の中間領域。目的を達成するために行為者は必要な手段を選択し、主体的に活動していく領域。
【3】究極的目的:目的ー手段の連鎖の最上位に位置するようなもの。例えばお金を稼ぐため(目的)に仕事をする(手段)が、お金を稼ぐというのもさらに何かの目的のための手段であると考えられる。この連鎖の最上位、なにかのための手段ではなくそれ自体が目的というような分析的な概念を究極的価値という。この究極的価値は規範的要素(共有価値)にあたる(定義的には下位の目的でもよいとありますが、目的そのものという意味からはそう解釈できる)。
・パーソンズは究極的価値を非経験的なもの、宗教的なものと考えた。
・人間の中間領域、つまり目的と手段の連鎖を統合するような、頂点で支えているような要素が「究極的価値」である。
例:生きるために食べる、食べるために稼ぐ、稼ぐために働く、働くために学ぶ…といった目的と手段の無数の連鎖がある。その最上位の目的が究極的目的(価値)である。ある目的が究極といえるかどうかという価値判断ではなく、目的と手段の連鎖には論理的に最上位の目的と最下位の手段があるということ。究極的目的の「具体的な中身」については時代や社会などによって異なる。その意味でパーソンズの理論は抽象的な一般理論であり、個別具体的な理論ではない。比喩的に言えば「入れ物」であり、「枠組み(準拠枠)」である。
たとえば生きる目的は神から救済されるため、遺伝子を残すため等。それにたいして最下位のものが究極的条件であり、手段をとるための基礎をなすものであると考えることが出来る。学ぶためには脳みそが機能していて、文字が読めて、図書館を利用できて、といった条件が最下位付近にはある。木材は中間領域で人間が目的の達成に価値がある手段だと考えることで、はじめて意味をもってくる。木材それ自体に人間から離れて独自に、客観的に意味をもっているわけではない。
・このように考えると、究極的価値や究極的条件は基本的に個人レベルにおいてはコントロールが及びにくく、ある程度外在しているものであると考えられる。人間は中間領域において、究極的価値へ向かって自ら(下位の連鎖の)目的や手段を意志的に、努力によって選択していく存在であり、その意味で主意主義的であると考えることができる。
「この行為準拠枠ではまた、目的と手段は相対的な関係にあり、一連の『連鎖』を成している。ある行為で目的として想定される事柄でも、もっと大きな(高度な、または広い)別の目的の『手段』かもしれない。そして、分析的な想定として、そうした連鎖の一方の側に『究極的目的』を、他方の側に『究極的手段』が置かれる。究極的目的とは、いかなる目的の手段でもなくそれ自体が目的そのものであるという意味であるが、涅槃や永生などという超越的ないしは宗教的な目的がそれにあたるとされる。分析的な想定とはいえ、究極的な目的は上位の目的を持たないがゆえに、『本来的』な規範としての合理性とは異なる次元で設定される。」
「大黒正伸「パーソンズとシュンペーター合理性をめぐる出会い」」108,111P
非合理性と没合理性の違い
パーソンズによれば宗教などは非合理的(irrationality)なものに入らないそうです。非合理的なものとは無知や誤謬(ごびゅう、ミス)の要素が強いみたいですね。
たとえば1+1=3というのは算数のテストではミスであり、非合理的です。しかし神様はいると信じるというのは無知や誤謬とは必ずしも言い切れず、科学からしたら「言及できない(わからない、理解できない)」ものとなります。明確にミスといえるのは分かるものであり、非合理的であると断言できます。しかしわからないものに対しては断言できないので、没合理的(non-rational)という言い方が望ましいのかもしれません。
ちなみに没と非の違いとはなにか、ときかれたらなかなかむずかしいですよね。英語でirrationalといえば「馬鹿げた、理性のない」といった意味になります。non-rationalは「理論または観測というよりも直観を通じて得られた、理由に基づいていない」という意味になります。
「しかし、パーソンズは、目的と手段との間には合理的ではない関連の仕方も存在することを指摘する。彼は、目的と手段との「象徴的」な関連という事態を想定する。宗教儀礼は、そうした目的-手段関連の代表例である。パーソンズは、行為を構成する要素として、知識要素(科学知識、無知、誤謬)の他に理念要素(宗教、道徳、など)をも想定する。そうした要素は本来的な合理性からの偏倚と言えるものの、非合理性(irrationality)とは異なるものである。パーソンズは、こうした要素の性質を「没合理的(non-rational)」と呼んでいる。彼の行為理論の基本図式には、合理/非合理/没合理という三元区分が含まれる[大黒2007]。こうして見ると、パーソンズの関心は、合理性そのものに限られるわけでなく、合理性を必須の要素として含む行為の一般理論にあった。彼は、合理性からの「逸脱」を詳細に論じる志向をつとに持っていた。「合理性セミナー」に対するレポートにおいても、パレートの「論理的行為」と「非論理的行為」という区別を参照し、合理/非合理という従来の二分法を相対化しようとした[Parsons1940(HUA):7-9](3)。」
大黒正伸「パーソンズとシュンペーター合理性をめぐる出会い」、108P
収斂理論
1:主意主義的行為理論とは、意味
主意主義的行為理論(voluntaristic theory of action):・主意主義とは人間の主体性、能動性、自由意志による選択を重視する立場のこと。一般に、意志や感性を知性や理性よりも優先させる思想上の立場を主意主義、反対に知性や理性を優先させる立場を主知主義という。人間の主体性を行為理論にとりこんだものが、主意主義的行為理論である。行為理論とは行為を分析の最小単位と考えて物事を理論的に考えることである。
パーソンズにおいて行為理論は単位行為と行為体系の2つに大きく分類することが出来る。従来の功利主義(実証主義)的行為理論には主体性や能動性が欠けており、一方で理念主義的行為理論は現実の条件を考慮していないととパーソンズは批判する。1937年の『社会的行為の構造』においてこれらの行為理論を欠点を踏まえ、ひとつにまとめあげようとしたもの(収斂という)が主意主義的行為理論である。具体的に行為理論における主体性や能動性は、規範的なものに強制されて人間が行為するのではなく、人間が触発されて能動的に志向するというような要素だったり、規範的なものは社会の成員によって修正・創造される余地があるという意味であると解釈される(溝部)。主意主義的な要素がパーソンズによって強調されたのは、決定論的な実証主義を批判するためである。
「行為は、外的な要因の規定力から多少なりとも独立した行為社の能動的な努力を不可欠なものとして要請する主観的・理念的な選択の過程である、と想定する立場からの行為理論のことで、パーソンズが提唱したもの。ヴォランタリズム。」
「社会学小辞典」、有斐閣、276P
補足:自由意志とマトリックス
自由意志(free will):・外からの制約をまぬがれた自発的な意志、具体的には選択可能性をいう.
話はすこし変わりますが、最近アマゾンプライムでマトリックスという映画を見ました。うろ覚えですが紹介します。
モーフィアスというキャラクターは預言者のいうことを信じています。預言者は機械のプログラムを擬人化したものなのですが、現実で言えばキリスト教的における預言者とも近いニュアンスを持っていると感じました。たとえばキリスト教の預言者が、神はこういっている、将来こうなるだろう、あなたはこうすべしであると。モーフィアスはそれ(世界は救世主によって救われる)を信じて、救世主を探し当て、機械の支配(預言者は味方側のプログラ的な感じです)と戦っていきます。
さてマトリックス世界の機械のプログラム(敵)がこういっていました。世界は選択しているようで、実は因果関係であり、作用、反作用にすぎない。つまり原因と結果であり、選ばされているだけである。と。つまり人間の自由意志などというものは幻想にすぎないというわけです。しかしネオ(主人公であり、預言者の言う救世主、キリスト教的に言えばイエス・キリスト)は敵の前でこういいました。「選択が大事だ」と。
つまり人間は条件や文化によってある程度は因果律に影響をうけるけども、最終的に選択するのは人間であり、そこに自由があり、意志があり、能動的な要素があり、全てが決定論的に説明できるわけではない、というわけです。
これはまさにパーソンズのいう主意主義的なものです。人間は遺伝や環境といった自分ではどうにもならないものに行動を規定される存在です。ご飯を食べていないからお腹が減るというのは人間の意志ではどうにもならないですよね。そこから逃れることはできない、原因と結果です。しかし、規範的なものに制御されているとき、それは遺伝や環境のように強制されているわけではありません。規範的なものへの同調は強制ではなく、”ある程度”自発的で自由な選択によるもの、つまり主体的な努力によって志向するものだというわけです。
たとえばある部族において、生贄のためにある人間を捧げなければいけないとします。この生贄は部族にとって大事なのものであり、規範だったとします。そしてこの規範は個人に対して自由をある程度制限します。生贄なんてどうでもいい、知るかといったような行動は取りにくいわけです。しかし大事な友人が生贄に捧げられるというときに、人間は選択に迫られます。規範への同調か、逸脱か、あるいは新しい規範の創造かです。たしかに生贄は大事だ、それでも私はそれを拒み、友人を助けると能動的で主体的な意志を見せたとき、これはやはり人間には選択というものが大事になってきそうだということが直観的にわかります。たとえば熊に襲われないように生贄をしていた場合、勇気を振り絞ってカリスマ的な人間が熊を打倒し、これで怯える必要はないといったようにブレイクスルーが起きることもあるでしょう。
もちろん因果律を押し広げれば、友人を大事だと思うようになった理由など原因と結果ですべて把握できると反論があるかもしれませんが、結局のところ人間の行動はすべてが合理的なものではなく、不合理的で予測できないものもあるわけです。そういう人間だからこそ、選択の自由というのがあるわけです。たとえば動物実験において、ある刺激を与えればある作用が必ず見られる、といったような生物ではないわけです。人間は選択をする生き物であり、意志を重んじる姿勢というのは大事だなと思います。
たとえば監視カメラがないような場所で財布を拾ったとします。自分の経済的な効用を最大にしようとすれば、中身を抜き取ったほうがいいと功利主義的な発想をすればなるかもしれません。しかし人間は選択する生き物です。財布を抜き取るか、抜き取らないか、それはその人間の積み重ねや家庭環境、遺伝等から完全に決定できるものでしょうか。それでもやはり!(ウェーバーの責任倫理と心情倫理のように)といって財布を交番に届ける人もいるでしょう。こうした行為はパーソンズ的にいえば規範によって行動がある程度規制されているからですが、しかし規制されている中でも最終的に選択をするのは自律的な個人であり、自発的な意志や努力というわけです。
わかったような、わからないような気がしますが、多分そういうことです。”完全には”規定されていない中間領域に人間はいるわけです。ロボットのプログラムでは、1+1と入力すれば答えは2と帰っていきます。このロボットは完全に因果律にしばられています。紙に火をつければ必ず燃えるのと同じです。原因と結果です。しかし人間は3にも4にも0にも-100にもなる可能性を秘めているわけです。”完全に”規範によっても規定され、強制されていると考えれば文化決定論であり、ロボットのような機械決定論と変わりせん。しかし完全には規範によって強制されていないとなれば、人間の自由意志の余地はあるわけです。選ばされている受動的な存在ではなく、選ぶという能動的な存在でもあるのです。1か0かではなく、その中間にあるわけです。そういうものが、主意主義的行為理論のエッセンスではないでしょうか。
「自由意志(free will) 外からの制約をまぬがれた自発的な意志、具体的には選択可能性をいう。意思の自由というのも同じテーマであり、決定論(determinism)との堆肥で問題となる概念である。すなわち、人間の行為は、神によって、あるいは生物学的な諸条件によって、あるいは社会的諸関係によって、あらかじめ決定されているという主張に対する反論の場面で用いられる。社会学では、方法論的集団主義と方法論的個人主義の対立に、この概念がかかわっている。」
「社会学小辞典」、有斐閣、276~277P
補足:方法論的個人主義と方法論的集団主義
方法論的個人主義(methodological individualism):・社会あるいは社会諸関係の分析単位を個人に求め、個人の心理や行動および個人間の相互作用などから社会あるいは社会諸関係を説明していこうとする方法的志向
方法論的集団主義の(methodological collectivism):・社会或いは社会諸関係を個人ではなく、集団もしくは下位の社会関係に求める方法的志向
パーソンズの場合は社会の分析単位を個人に求めつつ、その個人に対する集団的な力、デュルケムで言う集合意識や道徳にも重きをおいています。パーソンズの用語で言えば創発であり、規範です。つまり個人主義と集団主義のいいとこ取りをしようとした、かっこよく言えば止揚しようとしたわけです。
「方法論的集団主義に対比されるもので、社会あるいは社会諸関係の分析単位を個人に求め、個人の心理や行動および個人間の相互作用などから社会あるいは社会諸関係を説明していこうとする方法的志向。この場合は、一般に、社会は諸個人の相互作用のネットワークとして把握される。」
「方法論的個人主義に対比されるもので、社会或いは社会諸関係を個人ではなく、集団もしくは下位の社会関係に求める方法的志向。社会科学の成立のためには、多かれ少なかれ社会を実在として捉える見方が必要であったが、この方法が極端化されると、個人の役割や自律性を極大化する考え方に陥る。」
「社会学小辞典」、有斐閣、564P
実証主義的行為理論と理想主義的行為理論への批判
- 実証主義的行為理論の悪い点:目的の軽視→人間の主体性の軽視につながる
- 理想主義的行為理論の悪い点:条件の軽視→人間の主体性や超経験的に要素が強調されすぎて、条件の軽視につながる
- 両者の良いところを合わせようとしたものが主意主義的行為理論。人間の行為は条件によっても規範(究極的価値、規範、非合理的な要素)によっても両方規定される存在であり、その中で人間は能動的、主体的、創造的に、意志と努力を伴って行為する存在。
・従来の行為理論は主体性を重んじてこなかった。パーソンズは人間の主体性が軽視され、条件によって行動が決定される受動的・機械的な行為理論を批判している。その代表例として実証主義的行為理論と理想主義的行為理論という従来の行為理論の2つをまずは批判している。
実証主義とは、意味
実証主義(positivism):・経験的事実にもとづいて確証できる認識以外を否定する立場
「経験的事実にもとづいて確証できる認識以外を否定する立場。実証主義は、18世紀フランスの数学的自然研究の運動(ダランベール、ラグランジュ、ラプラスら)の方法論を継承して、それを社会現象の研究に拡張したコントにおいて完成した。コントによれば実証的(positif)の意味は六つある。つまり、①『否定的』に対する『肯定的』、②『絶対的』に対する『相対的』、③『空想的』に対する『現実的』、④『無益』に対する『有益』、⑤『不確実』に対する『確実』、⑥『曖昧』に対する『明確』」
「社会学小辞典」、有斐閣、234P
実証主義的行為理論とは、意味
実証主義的行為理論():・実証主義(positivism)とは、経験的事実に基づいて確証できる認識以外を否定する立場のこと。実証主義的行為理論には2つあり、第一に極端な実証主義であり、第二に功利主義である。極端な実証主義においては、目的が合理的に選択され、さらに手段が合理的に選択される。何が合理的かは条件(遺伝や環境)によって因果関係的にすべて特定できると考える。端的に言えば機械決定論的、ダーウィニズム的、行動主義的な立場であり、環境に対する動物的適応のように人間の行為が概念化される。第二の功利主義においては、手段においては合理性の基準を採用するが、目的は合理的に選択されるのではなく、ランダムであると考える。ランダムであるとは、各々の欲望に準じて自由に選択されるということであり、この選択を規制する要素は物理的条件以外の何ものもないという立場である。したがって、パーソンズのいうような規範による規制もない。パーソンズによれば功利主義は目的を合理的に考えても、ランダムに考えても秩序問題を解決できないという意味でジレンマに陥っているという。これを功利主義のジレンマという。なお、功利主義行為理論も主意主義行為理論と同じように目的、手段、条件、規範の4要素からなる枠組みを考えるが、規範の要素が合理性に限定されているという点で主意主義的行為理論とは異なる。主意主義的行為理論は合理性だけではなく、宗教などの非合理的な要素をも含む。
- 【極端な実証主義的行為理論】:手段だけではなく目的も合理的に選択され、人間の行動は遺伝や環境といった条件から決定論的に分析可能だとする立場。人間の主体性(主観的観点)が失われてしまう。多くの場合、目的が合理的であるとは、効用を最大化させるという目的が設定される。この場合の効用とは端的に言えば生命の維持である。このケースで言うと、生命の維持につながらないような不合理な目的は設定されない。
- 【よりマシな功利主義的行為理論】:条件に規定されつつも、目的はランダムであり、手段のみ合理的に選択されるという立場をとっている。パーソンズと同じように規範によって行動が規定されるという点は同じだが、規範の内容が合理性のみという点でパーソンズと異なる。パーソンズの主意主義的行為理論は功利主義的行為理論をベースとしつつ、非合理性を取り入れた新しい行為理論だと考えることが出来る。
- ホッブズ的秩序問題:実証主義的行為理論も功利主義的行為理論もホッブズ的秩序問題を解決できない。たとえば功利主義的行為理論の場合は、目的がなんの規制もなく欲求にもとづいて人間に自由に選ばれる。たとえば楽をしたいという欲求を人間が考え、それを目的にするとする。その手段は合理的に考えられるので、自分で田を耕すといった非効率的なものよりも、他者の財物をだまし取ったり、暴力によって奪い取るという手段が選択される。その結果、万人の万人に対する戦いが帰結する。
原因を科学的に特定し、結果を推測する。ある程度のミスや無知などは考慮に入るが、宗教といった科学では理解できないような没合理的要素は考慮されない。なぜならばそれは経験不可能だから。たとえば神は目に見えないので科学の対象とならない。
「このように,目的の地位について.実証主義思想は『功利主義的ディレンマ」に陥ることになる。つまり二つのうちのいずれかに落ち着かざるをえない。目的の選択における行為者の能動的作用因を行為の独立要因として目的要素をランダムなものにするか,あるいは目的のランダム性という客観的含意を否認し,目的の独立性を消去し,目的を状況の諸条件と融合して目的を非主観的範晴一主として生物学的理論の分析的意味における遺伝や環境といった範鴫一によって分析可能な要素とするかのいずれかである」(Parsons,1937=1976:105-6)」
タルコット・パーソンズ「社会的行為の構造」、105-106P
ホッブズ的秩序問題と功利主義的ジレンマ
ホッブズ的秩序問題:国家や社会もない、バラバラの個人(原子論的個人)という想定をした場合にいかにして社会秩序が生成されるかという問題。
・功利主義ではこの問題を解けないとパーソンズは批判した。功利主義では目的がランダムであると設定されている。つまり目的は個人が自由に、各々の欲望に応じて能動的に選択される。この目的の選択を規制するものはほとんどない(物理的な条件などのみ)。その意味で、主意主義的要素がある。もし目的の選択までもが合理的に選択されると考えた場合は、極端な実証主義、したがって機械論的決定論に陥る。
功利主義的ジレンマ:目的がランダムな場合を想定し、手段のみ合理的と考えると万人の万人に対する戦い(戦争)が帰結する。なぜなら暴力や詐欺といったものが目的達成のための合理的な手段として選択されるから。目的は自分勝手に設定され、平和や愛といった特定のものに収束するわけではない(規範によって規定されない)。目的が合理的に設定されると考えた場合、決定論的になり、主意主義的要素が消える。どちらを選んでも行為をうまく分析することはできない。
理想主義的行為理論とは、意味
理想主義的行為理論():・理想主義は観念主義といわれる場合もある。極端な実証主義的行為理論が「条件」にこだわるのに対して、極端な理想主義的行為理論は「目的」にこだわる。たとえば神がもち出され、神が人間に目的を与えたという理想をまずは掲げる。そこから手段などが流出されていく(流出論)。極端な理想主義においては、条件が軽視される。パーソンズにおける道徳的な規範に自発的に意思するような人間ではなく、理想的な規範に受動的に従うようなイメージである。代表的なものはドイツ観念論など。環境から独立した人間の内面世界が想定され,その内面における特定の価値や観念は人間の行為が目指すべき目標とされる。
・たとえば神がもち出され、神が人間に目的を与えたという理想をまずは掲げる。そこから手段などが流出されていく(流出論)。極端な理想主義においては、条件が軽視される。パーソンズにおける道徳的な規範に自発的に意思するような人間ではなく、理想的な規範に受動的に従うようなイメージである。代表的なものはドイツ観念論など。環境から独立した人間の内面世界が想定され,その内面における特定の価値や観念は人間の行為が目指すべき目標とされる。
・ここでいう神は具体的・個別的な神であり、目的となる。分析的・抽象的に抽出されたものではない。
「パーソンズは宗教のリアリティを否定する自然主義的実証主義 を、受け入れ難い立場としてくり返し批判する。それに対して,理想主義では環境から独立し た人間の内面世界が想定され,その内面における特定の価値や観念は人間の行為が目指すべき 目標になる。行為の目標になる価値や観念の中には政治的なものもあれば、経済的なものもあ り得るが,突き詰めていくと宗教的なものに行き着く。そのように考えれば,宗教的なものが 行為の目標となる価値や観念の最も基本的な源泉になるだろう。
明らかにパーソンズにとっては理想主義の立場が望ましいけれども,人間が持つ生物有機体 としての側面や環境との関わりも社会的行為においては無視できない役割を果たしているか ら,実証主義の立場を一方的に退けるわけにはいかない。そこで,彼は理想主義の中でも特に ウェーバーの行為の類型論を軸にして,環境や生物有機体を行為者にとって有意味な状況とい う要素に再構成しながら,主体的要素である価値や観念に接合した。そのようにして,主意主義と名づけられた総合的な行為理論の枠組みが形成され,後の「行為者-状況」図式と体系論 を展開していくための基礎が出来上がる。」小松秀雄「パーソンズ社会学における宗教 -ウェーバーからパーソンズへの転換- 」73P
収斂理論
主意主義的行為理論は収斂理論:収斂(しゅうれん)と読む。要するに既存の理論をうまく組み合わせていくこと。たとえば実証主義は条件を重視したが規範を軽視した。理想主義は規範を重視したが条件を軽視した。功利主義は条件と規範の両方を重視したが、規範の内容を合理性のみという偏った考え方をした。
パーソンズは行為が条件と規範の両方に規定され、かつ規範は合理的なものだけではなく、没合理的なものを含めた理論を構築しようとした。
マーシャル、パレート、デュルケム、ウェーバーの理論について
前回扱ったので、デュルケムやウェーバーは概要のみ扱います。パレートやマーシャルについても軽く扱って終わります(そろそろ文量が多すぎるため、別の機会に扱います)。
パーソンズによる『社会的行為の構造(1937)』はマーシャル、パレート、デュルケム、ウェーバーという4人の行為理論の紹介という側面が大きい。主意主義的行為理論は、彼らの良いところを独自にパーソンズが取り込んで、新しいものとして主意主義的行為理論というものを作り上げたということになる。
【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか
アレフレッド・マーシャル
アルフレッド・マーシャル(1842-1924)は経済学者です。 功利主義的な世界観をもつひとです。
- マーシャルは功利主義的な世界観を持っていた。
- マーシャルは人格の発展という倫理的な価値を重視していた。この倫理的な価値は従来の功利主義的における合理的な価値とは異なる、独自性を持つものであり、パーソンズはこれを評価した。
- マーシャルは合理的に見える経済人の行為は、動機として非合理的な理想(人格の発展)に基づいていた。→実証主義的な前提に立ちながらも、理想主義的な要素が見られた。
「マーシャルは行為の動機が利己的でない場合もありうること(同一三六頁てあるいはそうした場合の方が人間にとって本質的であると考えたのである。合理的を特質とする経済的な行為の基礎、即ちその動機としてマーシャルは、非合理的な理想を置いた。この独創的な思考の線は、経済的な行為の担い手を合理性という単色の枠から脱け出させ、それをより具体的で豊かなイメージに近付けたといえよう。このことは、マーシャルの主張の中心である人格の発展というテ17をみればわかる。それは観念的な精神主義ではなく、自由な企業活動という制度によって倖証された企業家を担い手とする、具体的な理念である。……なぜなら行為における倫理的な要素への着目は、合理的な欲求充足として行為をとらえる功利主義とは全く異質だからであり、最も合理的なはずの企業活動にみられる経済人の行為が、人格の発展という倫理的な価値をめざすということになるからである。要約すれば、マーシャルの思想の中に見出された二つの線は、一方に功利主義の伝統であり、それは個人主義と合理性を核とするものであった。他方はマーシャルが独自に発想した異質な要素、つまり行為を導く倫理的な価値であり、それは特に、功利主義と無縁の思想伝統を継承するウェーバーへ接近する線をなしていることが明らかにされた。そして両者の接点に位置する発想が、行為における倫理的要素への着目なのである」
山下雅之 「パ ーソンズにおける社会学の成立」40-41P
ヴィルフレド・パレート
ヴィルフレド・パレート(1948-1923)は経済学者であり、社会学者でもあります。「パレート均衡」などでよく知られている人物です。
パレートによれば人間の行為は論理的な行為と非論理的行為(残基)にわけられる。前者は合理的な行為であり、後者は非合理的行為として分類することが出来る。
たとえば古代ギリシアの水夫は海の神ポセイドンに毎年犠牲を捧げているが、このような行為は非論理的行為とされている。なぜなら、この犠牲によって航海の安全が保たれているという科学的な根拠がなにもないからである。しかしそういう非論理的なものに人間はとらわれるということにパレートは着目し、パーソンズはこの姿勢を評価している。
他にも論文で紹介されていた「変化しにくいもの(残基・利害)」と「変化しやすいもの(派生体・エリートの周辺)」という二分法が面白かったです。これによれはパーソンズにおける「変化しにくいもの(構造)」と「変化しやすいもの(機能)」に対応しているからです。つまりパレートの社会システム論をパーソンズは継承したということになります。
また、「歴史は二度と繰り返さない」という格言の説明も面白かったです。歴史は二度と繰り返さないので、具体的に細部にだわると法則を見つけ出すことはできませんが、抽象的なレベルを上げれば、同じ構造を把握することが可能というものです。これはウェーバーのいう理念型を思い出す内容です。理念型も同様に、理念型自体は現実のものとは一致しないが、思考の中で純論理的に秩序付けられたという意味で、抽象的なレベルが上っています。重用なのはおそらく残基の部分が変化しにくいというところでしょう。前期はパーソンズでいうところの「規範」にあたります。端的に言ってしまえば文化です。日本人的なもの、日本人が道徳的だと考えるものは数日、数年では簡単に変わりそうにないですよね。たとえば和をもって尊しとなすという規範は長い間続いているものだと思います。しゃしゃり出ることが嫌われる傾向は私の学生の時代にもありました。
「歴史的、社会的事象は細部にこだわる限り、法則命題を定立することはできない(歴史的事象の一回起性)。だが抽象レベルを上げれば、それらの事象に同じ構造や斉一性を把握することが可能となる。残基は緩慢にしか変化しない。ゆえに残基を現象の不変的部分を決定する要因の一つとすることができる。……だが、ここで私が注目したいのは科学的方法論ではなく、パレートが相対的に「変化しにくいもの(残基・利害)」と「変化しやすいもの(派生体・エリートの周流)」という二分法を用いて、社会システムの分析を行ったことである。なぜならパーソンズが自ら言明しているように、彼もまたパレートが理想とした、社会システムの偏微分方程式による記述を諦め、代替策として相対的に「変化しにくいもの(構造)」と「変化しやすいもの(機能)」という構造-機能分析の手法を採用したからである。この点においてパーソンズは明らかにパレートの社会システム論を継承している。」
赤坂真人「パレート社会システム論再考(II)―歴史における社会システムの均衡―」6-7P
エミール・デュルケーム
【3】エミール・デュルケーム(1858-1917)
・デュルケームは合理的・功利的な行為だけではなく、「価値(道徳)」に着目した。「祝祭」において人々は集まって祭儀を行い、「集合的沸騰」と呼ばれる人的・物理的な集中、心的な融合状態がなされるそうだ。これによって成員は連帯し、協同体が形成され、したがって秩序が形成される。
・規範(道徳、究極的価値、聖なるもの)が秩序の形成を生成するという考え方がパーソンズによって引き継がれた。
・デュルケームがもし集合的沸騰のメカニズムを説明しきれていれば、価値の生成メカニズムに対して有力な手がかりになったのかもしれない(アイデアのみ)。
詳細は前回の記事を参照 【基礎社会学第十七回】タルコット・パーソンズの「ホッブズ的秩序問題」とはなにか)。とくにウェーバーにおいては権威(正統性、カリスマ性)が重用になる。ウェーバーにおけるカリスマ性(神がかりなもの、非合理的な要素を多分に含むもの)はパーソンズにおける規範へとつながる。
マックス・ウェーバー
マックス・ウェーバー(1864-1920)
・日常性や利害に関係した経済性といった世俗的なものの対極に位置づけられる概念である「カリスマ」というアイデアをパーソンズは受け継いだ。これはパーソンズにおける規範(究極的価値、共有価値、特に没合理的な規範)にあたる。たとえば預言者などはカリスマであり、このカリスマ性が支配の正当性につながる。利益になるから支配を受けるのではなく、カリスマ性があるから支配を自発的に受けるという図。合理性だけでは説明しきれない。
・他にも理念型を批判的に受け継いだとされる(次回の動画でおそらく扱う予定です)。
主意主義的要素
パーソンズにおける行為理論のどこが主意主義的なのか
- 【前提】パーソンズは実証主義への批判の際に、実証主義は「人間が本質的に能動的、創造的な、評価する存在であるという事実を曖昧にしている」と批判した。これを批判したからには、人間の主意主義的要素を曖昧にしない行為理論を考えた、ないしそれを目指している、と考えることができる。
- 目的を自分で選択し、手段を自分で選択し、目的を達成しようと意志・努力をもって行為するという3つの点で主意主義的要素が認められるという説
- 条件や規範によって人間は行動を規定されるが、規範による規定は強制ではなく、拘束されつつ自発的に志向するという点で主意主義的要素がある
- 規範は人間の行動を規定するが、規範自体は人間によって修正や創造されうる余地があるという点で主意主義的要素がある
- 目的ー手段図式は「時間的要素」がある。目的を思い浮かべて手段を選択するという意味で、目的は手段に先行する。つまり目的は時間的に手段よりも前に、過去にある。目的が設定された途端に同時に手段が選択されるのではなく、そこには時間的な距離がある。この距離を埋めようとして人間は意志をもって努力し、選択を行う。そういった意味で主意主義的。たとえば他の動物は目的を思い浮かべるとほとんど同時に手段を選択しているケースが多い(ほぼ無意識的な行動)。
- 規範は心の中だけにある。たとえば文化は人間が存在しなければ意味づけされず、ただの物質である。たとえば墓を蹴ってはいけないなど人間は規範的志向をもつが、墓自体はなんら規範ではなく、ただの石である。しかしただの石に人間が意味づけするゆえに、それはシンボル(象徴)として意味をもつようになる。つまり規範は人間の心の中だけに存在するという意味で、主観的なものであり、そうした意味で主意主義的である。
具体例
1:腹が減ったから食べ物を探すというのはほとんど条件からの強制。
2:食べ物を探す手段として他者からの略奪を選ぶかどうかという段階では規範から規定(制御)を受ける。「略奪は善くない、平和は善いこと」等。
・略奪を選ばずに自力でなんとかしようといったような「努力」を目的選択、手段選択、目的達成を通して「意志」をもって行うという点で、主意主義的要素が見られる。
人間の主観的な要素や動機、要するに「頭の中身」を、別の言葉で言えば「精神」を扱うことになります。
たとえば「自殺」を考えてみましょう。ある人間が橋から落ちて死んだとします。これを自然科学的に考えればどうなるでしょうか。正直文系にはよくわかりませんが、速度がどうたら力がどうたら、どこが損傷しただのどうのこうの、そうやって原因と結果が結び付けられるわけです。ここでいうところの人間の頭の中身、つまり動機は考慮に入れられません。なぜなら目で見えないからであり、客観的にわからないからです。外形的要素・環境的、遺伝等はまったく同じ自殺でも、頭の中(動機)は不合理なものあれば合理的なものも可能性としてはあるわけです。観察者はこれを「推定」するしかありません。「確定」は難しいのです。
たとえば遺書によって人間が「経済的に苦しくなったので自殺します」と書いていたとしても、あるいは本人がそう思ってたとしても、別の隠された、無意識的な動機によって行為している可能性もあります。たとえば私は社会が良くなるように、その知識を皆で共有するためにブログを書いている、と今頭の中で考えたとします。しかし実際は承認欲求だったり、あわよくばお金になると良いなとか、そういう考えもあるかもしれません。自分でもよくわからないのに、観察者が人間の頭の中を正確に、科学的に把握することは難しいわけです(脳みそをいじくってどこの神経が作用しているからどうのだの未来においては言えるかもしれませんが)。
ウェーバーなら理念型によって、ユートピア的に人間の動機を理解しようとします。たとえば目的合理的な動機をもとにしたモデルを作って現実を比較し、その差異によって分析しようとするわけです。たとえば生命保険をかけてしんだのだから、家族や社員に財産を残すという目的のために合理的に自殺という行為をしたのだろう、という推定もできます。実際に現在の裁判では本人がいくら自分が過失だったと主張してもそれが客観的に証明できないと過失だと見なされません。普通この場合なら、横切る歩行者に気づいただろう、というようにある種の理念型によって現実との比較がなされるわけです。
さてパーソンズの場合はどうかというと、人間は規範と条件によって規定される存在です。それならば規範と条件が明らかになれば、人間の行為の大部分は説明可能になるはずです。もし条件だけから説明すれば、機械論的決定論になります。たとえばある条件のもとでは原因と結果の関係が必ず結びつくと考えるわけです。特定の刺激を与えれば特定の作用をもたらすというようにです。条件が全て明らかになり、相互作用も全て明らかになれば、自ずと結果もすべて予測できることになります。
しかしパーソンズで重用なのは、人間が規範によっても規定される存在であり、また規範それ自体は非合理的な場合もあり、科学によって把握することは難しいとされている点です(だからこそ非合理的なものは完全に予測できず、原因と結果の連鎖に組み込むことが難しい。。また、規範は人間を完全に規定するわけではないのです。たとえば食事を取らないとお腹が空く、腐った魚を食べるとお腹が壊れる、というのは完全に条件に規定されている現象です。他にも火に触れると反射的に手を引っ込めるというのも完全に規定されています(これは行為ではなく行動ですが)。
人を殺すというケースを考えてみましょう。たとえば貧困で食べるものがなく、もう死にそうで、他人を殺して食べ物を奪わないと絶対に生き残れないというような極端なケースを考えてみます。機械決定論的に考えれば、貧困などの状況が原因となり、人を殺して食べ物を奪うという結果に結びつきます。この原因と結果には人間が自由に選択できる余地などなく、必ず帰結するものです。別の言葉で言えば無数の原因と結果の積み重ねによって「選ばされている」ものであり、完全に決定されているものです。条件だけで考えればそうなるかもしれません。あるいは実証主義的に考えれば、人間は自分の効用を最大化するという目的をもつので、生命の維持という目的の手段として強奪が最も合理的な手段として帰結することになります。これは万人の万人に対する戦いに通じます。
しかし(物理的)条件以外に、(精神的)規範というものもまた、人間を規制するものだとパーソンズは考えます。人を殺さなければ生き残れず、条件は自分に強奪を促します。しかし一方で、規範は自分に「人を殺すことは善くない」と訴えかけてきます。ここで人間は「選択」に迫られます。人を殺すか、殺さないかです。ここで自由意志の問題、したがって「選択可能性」の問題が出てきます。パーソンズによれば人間は規範的志向をもちます。つまり規範へ向かう意思や努力をもちます。これは強制ではなく、主体的、能動的な志向だというわけです。たしかに人の物を盗んではいけないと訴えかけてきたとしても、実際に盗む人間はいるわけです。だから完全には強制できない。
ただしこの「完全には強制できない」という曖昧なものになると社会秩序もまた不安定になりかねないので、パーソンズは中期以降、「制度化」という話を持ち出してきます。たとえば盗んだら「法律で罰せられる」というような制度によってより秩序が安定するようになるということです。しかしパーソンズは中期以降、この制度に重点を置くようになり、主意主義的要素が薄れていったという批判があります。たしかに盗まないのは自由な意思というより、法律による制裁が怖いからだ、というような感じもします。
さらにパーソンズは規範への志向だけではなく、規範そのものを修正、創造する余地もあると述べているそうです。その意味では確かに人間の創造性、主体性の余地もあるかもしれません。ウェーバーは官僚制は容易に破壊されないと予言し、パーソンズがこれに対して批判したのは、これと関連してるのかもしれませんね。というのも官僚制は一種の規範(合理性)だからです。もっとも、ウェーバーはカリスマ性によってブレイクスルーできる可能性をもっているともいいました。不可能ごとにアタックしないようではだめですよね。
「例えば、「構造』に先立って書かれ(一九三五年)似通った論旨をもった「究極価値」論文の冒頭には、「(実証主義は)人間が本質的に能動的、創造的な、評価する存在であるという事実を曖昧にしている」。これと同様の命題は、「構造」中にも、やや調子を落とした形で散見される。けれどもこのような命題がどれだけの合意をもっているのか、ということを、パーソンズは彼の理論と結びつけて限定してはいない。従って、右のような文章を、初期パiソンズの全体に照らして限定する作業は、読み手の側に残されているということになる。そこで、これまで検討してきたパーソンズの所説に従って解釈すれば、右の文章中の人間の能動性・創造性とは、行為が「規範的要素」によっても規定されており、その際行為者は規範的要素に対して、強制からではなく、ぞれのもつ拘束性に誘発されて指向するのであり、またその規範的要素は、条件的要素とは異って、社会の成員によって修正・創造されうるものである(この側聞をパーソンズは、付言するだけで十分に議論してはいない)、という意味にすぎない。」
溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」17P
「「行為者は,未来の望ましいある特定の事態を表象に思い浮かべながら,特定の条件下で,その実現にもっともふさわしい手段を,なんらかの規範に依拠して選択し,目的達成に努力する存在として立ち現れることになる。こうしたパーソンズの『単位行為」範鴫の中には,目的定立,目的達成にふさわしい手段の選択,目的を成就しようとする『意思と努力』,この3点において,そして同時に,これらを行為者の『主観的観点』に即して理解しようとする点において,主意主義的性格が込められているということができる」
高城和義,1986,「パーソンズの理論体系」日本評論社.44P
「パーソンズは、個人の能動的行為を支えるものとして規範的要素が作用しているという点を積極的に考察し、個人の自立性を高めるものとしての秩序を考えているのである。さらにかれは、こうしたものとしての規範が物的条件の制約の下にあり、規範的要素と非規範的要素の間に緊張関係が存していることを忘れているわけではい……もしも現代社会の秩序が事実において人間性を抑圧しているとすれば、人間的自由と両立関係にある秩序を重視するパーソンズにとって、秩序問題の真の解決は、既存の秩序の打倒と個人の自律性と適合的な、新たなる秩序の形成によってしか考えられないのである。この点において、再びわれわれは、パーソンズが現代社会の現実的秩序そのものを十分に捉えきれていないし、なかでも経済構造の把握において骨く、いいかえれば、人間的自由に対する社会的制約要因を重視するとする自らの行為理論の鉄則が、必ずしも貫徹されてはいないことを知らないわけにはいかない」
佐藤勉「社会的なものの論理―T・パーソンズのばあい―」、73P
「私の考えでは、こうした制度的統合の公理の背景には、パーソンズ自身の独得の考え方、すなわち主意主義的な人間観、そうした人間の社会生活に適合的なものとしての多元的な社会観ならびにそうした人間と社会のかけ橋としての個人主義の価値の重視といった三つの前提が存しているのである。この三つの前提を考えなければ、この公理の意味するところは十分に理解されないだろう。社会秩序は、よしんば個人の欲求充足をしばしば抑圧することがあるとしても、外在的で拘束的な道徳的規範がパーソナリティの中に内面化されて、いわば行為者の内部環境となって、内側から個人をコントロールして、個人の自律性を高める73ことができる(15)。個人の自律性を保証しうる社会秩序はどんなものかということが、パーソンズにおける秩序問題の核心なのである。以上の諸説から、パーソンズは秩序一般を取り上げているのでないことは歴然としている。抽象的な個人を想定して、そうした個人と社会一般との関係に関する空想的・思弁的な考察をめぐらし、その帰結として、抽象的な個人と空想的な社会の連関の理論として、制度的統合の公理が想定されたのではない。それどころか、西欧社会の歴史的発展をふまえた上で、制度的統合の公理という方法的武器で、現代西欧社会における秩序の存在形態さらには社会現象・行為現象の現実形態を解明しようとしているといってよい。そのさい、パーソンズは禁欲的プロテスタンティズムの倫理に代表される自由主義的個人主義に着目している。この個人主義がいわゆる集合主義と両立しうる点をパーソンズはみごとに見ぬいているのであり、両者の関係に関する論理的表現が制度的統合の公理なのであるといってよいだろう。」
佐藤勉「社会的なものの論理―T・パーソンズのばあい―」、73-74P
「行為者はまったくでたらめに目的を選択し行為しているのでつねに社会的な究極価値によって規制されているというわけである。それだけではない。この価値は、行為者にたいして事物のように外在しているのではなく、個人のパーソナリティを構成すべく内面化されることによって、行為者は自発的にこれにコミットするようにさえなるのである。ここに秩序問題を解くときの「蹟きの石」となっていた目的のランダム性は完全に克服されることになった(すくなくともパlソンズはそう考えた)。秩序問題に解決を与えたとするパーソンズの秩序観は次のような言明に端的に表れている。「社会に共通の価値態度が存在するかぎりにおいて、社会は非生物学的レヴェルにおいて利害関係の力の均衡以上のものになりうるのだ」」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」99P
「単位行為は、目的・手段・条件・規範によって構成される。この準拠枠により、行為者は、時間軸に沿って、将来実現してほしい目的を思い浮かべながら、特定の条件下で、目的実現のために最も適した手段を、何らかの規範に照らして選択し、目的達成を目指そうと努力する存在なのである。この目的―手段図式は、心の中に存在する規範的要素に依拠して手段を選択し、目的実現を図ろうとするのであるから、本来的に「主観的なもの」なのである。彼は、この主観性、すなわち主意主義の側面を強調し、そのために規範的要素を取り入れ、ある条件の中で、規範に依拠して、目的実現のための手段を選択するという行為図式を主張している。」
川上周三「ピューリタン系譜の社会思想家の比較研究―マックス・ヴェーバー、賀川豊彦、タルコット・パーソンズ―(上)」,25-26P
その他補論
イマニュエル・カントにおける自由
「カントにとって人間は道徳という自由の法則にしたがうがゆえに自由なのであったが、パーソンズにとってもまた、究極的価値の内的な命令にしたがうことは合理的な意志の行使と矛盾するものではなく、むしろそれを支えるものであった」(盛山和夫さんの解釈)
たとえば「嘘をついてはいけない」という道徳に従うことは、一見不自由に思える。自由に嘘をつきたいのに、つけないから。しかしカントいわく、道徳に従うがゆえに自由だという。一般的な考えでは意思を強くもて、という場合は命令に盲目的に従うというより自分で考える態度を指します。しかしカントは道徳(という命令)に従うがゆえに自由であると考えた。つまり、意思的であること、自由であること、規範に規定を受けることはそれぞれ矛盾しない。
要するに、自分勝手な目的や手段の選択が「自由意志による選択」なのではなく、規範(カントでいうところの道徳)に方向付けられた上での目的や手段の選択が「自由意志による選択」という考え。人間の自由(主体性)をどう捉えるかという解釈の問題にもなる。自分勝手になんら道徳から規定されず、自由に選択できるという意味での主意主義ではない。
「パーソンズ研究の立場から、パーソンズは主意主義的行為理論を作り上げようとしたのに、秩序問題の解決に専念するあまり主意主義的要素がいつのまにかすっかり消え去ってしまったという「パーソンズのパラドックス」を主張する論者(前川一九八三)にも基本的に同じことがいえる。なぜなら、パーソンズのいう主意主義とは、行為者は単にパーソンズの行為理論における諸問題条件的要素に拘束されるだけでなく、社会の価値規範にたいしても積極的にコミットするよう「努力」する存在であるという意味であり(『社会的行為の構造』二巻一九二頁参照)、そもそも規範にたいしても主体的・能動的に振る舞いえるという意味はこめられていなかったからである。だから行為の主意主義理論において行為者が社会的な価値に背後からつき動かされているような印象を与えるにしても、そのことがパーソンズの考える主意主義(このような用語を使用することの当否はさておき)と矛盾するわけではない。盛山はパーソンズが主意主義をこのように考えたことに関して、パーソンズにたいするカントの影響を指摘している。「カントにとって人聞は道徳という自由の法則にしたがうがゆえに自由なのであったが、パーソンズにとってもまた、究極的価値の内的な命令にしたがうことは合理的な意志の行使と矛盾するものではなく、むしろそれを支えるものであった」(盛山一九九二一三頁)。」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」107-108P
ゲオルク・ジンメルにおける自由
補論:ゲオルク・ジンメルの自由と個人に関する考察
18世紀の自由:量的個人主義、単一性の個人主義
自由と平等は調和する:不平等を取り除くこと。奴隷制や身分制度の「制度」を廃止すれば人間は自由で平等になる。この考えの根底には、人間は社会的なもの(社会的地位や教育、制度など)を取り去ってしまえば、皆同じ人間(普遍的人間)であるというものがある。
ジンメルのカント理解:カントのいう定言命法「汝の意志の格率が同時に一般的立法の原理として妥当するように行為せよ」は、私は他人とは違うという「手前勝手な空想」ではなく、「何人たるかを問わぬ」道徳律の前における平等を意味し、これを実現する「道徳的な人間だけが自由」である。そもそもジンメルは完全な自由などありえないと考えており、自由とは完全な自由と完全な不自由の間にあるものと考えています。規定されているがゆえに、その開放から自由を感じたり、規定されていることを意識した上で意思的に従うという意味で自由を感じるのかもしれません。たとえば将軍からの命令で仕えていたある兵士が不自由を感じていたとしても、将軍のカリスマ性に魅力を感じ、自発的に従うことが自分の意志であり、それは自由だと考えているような想定ができます。この兵士は完全に命令に規定されたマシーンではなく、ある程度の自発性、自由、命令に従おうとする努力が見られます。
19世紀の自由:質的個人主義、唯一性の個人主義
自由と平等の調和は難しいと考える。したがって、「自由なき平等」か「平等なき自由」にわかれる。前者は社会主義的、後者は資本主義的である。貧富の差などは広がるが、ひとりひとり個性的になる。また、個性的であることがビジネスでも有利になる。分業体制は人との違いを生み出す。
・18世紀の人間は奴隷制や身分制から開放され、自由に、平等になったし、開放されるという点で個人が重んじられていた。19世紀になると、平等になったがゆえに、人との違い(個性)や不平等を求めるようになった。人と違うこと、自分が特別でありかけがえのない、代わりのない存在であることが重視されるようになり、そうした状態は「平等なき自由」に近い。
・18世紀から19世紀に変わるにつれて、自由な個人から特別な個人へと求めるものが変わっていく。ジンメルは「平等なき自由」を評価した(分業体制が人との違い(差異)を生みだしていったのを評価したように)。
「ジンメルはまず「自由」とはなにかを論ずる。そして、完全な自由などないと彼はいい、これまでの義務が新しい義務に取り換えられる「義務の交替」において、それまでの圧迫が脱落したと感じるとき「自由」が感じられるのではないかという(ibid.:301)。「個人的自由は、けっして孤立した主体の純粋に内的な性質ではなく、いかなる相手もそこにいなければその意味を失う相関現象である」。自由もまた相互作用のなかに位置づけられる。「人間のあいだのいっさいの関係が、接近の要素と距離の要素から成り立つとすれば、独立とは、距離の要素がなるほど最大になってはいるが、しかし……完全には接近の要素が消滅してしまうことのできない関係である」(ibid.:319)。このように、「接近と距離」のあいだに「自由」はあり、どちらかが消滅するゼロ点などはない。われわれの状態はあらゆる瞬間に、「ある程度の拘束とある程度の自由から合成される」(ibid.:320)」
ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の経済学』132P
奥村隆「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」
「ジンメルは、こうした考察から、18世紀の「個性概念」とは、すべての人間に含まれている真の「人格」はまったく平等であって、人格的自由は平等を排除せずむしろこれを包含するという個性概念である、と主張する(ibid.:114)。これを彼は、「量的個人主義」「単一性の個人主義」とも呼ぶ(ibid.:126)。ひとつの「普遍」へと平等に到達する自由を個々人が追求すること、これが18世紀的な個性であり、個人主義であるというのだ。だがこの「個性概念」「個人主義」は19世紀に大きく転換し、これをジンメルは「質的個人主義」「唯一性の個人主義」(ibid.:126)と呼ぶ。これについて次項で検討してみよう。」
ibid=ゲオルク・ジンメル『貨幣の経済学』
奥村隆「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」136P
補論:ウェーバーと文化
「『文化』とは、世界に起こる、意味のない、無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇的と見て対峙し、『自然への回帰』を要求するばあいでも、それは、当の人間にとって、やはり文化であることに変わりはない。けだし、かれがこの立場決定に到達するのも、もっぱら、当の具体的文化を、かれの価値理念に関係づけ、『軽佻浮薄にすぎる』と判断するからである。ここで、すべての歴史的個体が論理必然的に『価値理念』に根ざしている、というばあい、こうした純論理的──形式的事態が考えられているのである。いかなる文化科学の先験的前提も、われわれが特定の、あるいは、およそなんらかの『文化』を価値があると見ることにではなく、われわれが、世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意志をそなえた文化人である、ということになる。」(マックス・ウェーバー『客観性』92-93P)
この文章はウェーバーにおける主意主義性がみられます。かっこいい。
パーソンズの主意主義的行為理論への批判
1:社会的な要素を重視するあまり、非社会的、創造的な要素を軽視しているのではないか。保守的だと批判されている。
たとえば単位行為における「規範」は、集団に共有されないようなある個人のみが抱くような基準は規範とみなされない。極端に言えば、殺人は善いことであるとある個人が考え、その基準を元に自分の行動が規定されるようなケース。
→規範がそれぞれの個人によってバラバラであり、独自の基準が規範として認められるなら、ウェーバーの言うところの神々の闘争(価値の対立)状態になり、結局のところ万人の万人に対する戦いが帰結する(ホッブズ的秩序問題は社会や国家がない原子論的個人を想定する)。秩序問題の解決には、集団に共有されるような価値がまずあり(論点先取り)、その価値は個人を規定し、個人はその価値を自ら望ましいものとして自発的に取り込んで選択していくという順序が用いられる。
2:そもそも規範がどうやって生成されるか妥当な説明を与えず、所与のものとして扱われている。
・これはホッブズ的秩序問題でも扱った通り、論点先取りと言われる問題。
・単位行為においてすでに規範という分析要素があるが、この要素は社会体系レベルにおいてはじめて創発的特性として現れる、個人に還元されない要素だったはずなのに、単位行為レベルですでに扱われているのはおかしいという批判。
3:初期では主意主義的要素を重視していたのに、中期以降は行動を規定する基準としての「規範(共通価値)」を重視するようになった。
→個人主義のジレンマ(アレクサンダー):個人主義的方法で秩序に接近しようとすると、秩序はランダムで予見不可能なものになってしまう。そうしたランダム性に満足できず、超個人的なものを導入し、集合主義的な方法へと進んでしまう。その結果、個人主義的立場を維持できなくなる。
→判断力の麻痺した人間(ガーフィンケル):パーソンズの描くところの行為者は社会の価値によって背後からつき動かされるだけの存在、いわば「判断力の麻薄した人間」になり下がっており、行為者のもつ創造的・能動的側面がほとんど無視されてしまっている。
「パーソンズの影響力の低下を引き起こした要因のひとつは、社会秩序は行為者間の価値共有によって維持されるという彼がその初期から一貫して保持した中核ともいうべき考えが、批判の集中砲火を浴びることになったということであろう。そこでなされた批判の代表的な見解は次のようなものである。パーソンズの描くところの行為者は社会の価値によって背後からつき動かされるだけの存在、いわば「判断力の麻痺した人間」(Garfinkel1967p.67)になり下がっており、行為者のもつ創造的・能動的側面がほとんど無視されてしまっている。このような批判がある程度のインパクトをもったということは、その後の現象学的社会学やエスノメソドロジーなどいわゆる意味学派の隆盛を思い起こせばよかろう。」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」93-94P
「結局、パーソンズは創発特性の存在を認めるという意味では、確かに素朴な方法論的個人主義の立場を免れているのではあるが、しかし創発特性の問題を主題として取り上げていないため、実質的にはアレクサンダーのいう「個人主義のジレンマ」に巻き込まれることになってしまった。個人主義のジレンマという言葉で意味されているのは、次のような事態である。理論家が徹底して、個人主義的方法で秩序に接近しようとするなら、彼は秩序の理解をほとんどランダムにしまったく予見不可能なものにするような偶有性に開かれたレヴェルを説明の中に導入しなければならないのだが、ほとんどの理論家にとってこのようなランダム性は満足しがたいものなので、彼はやむなく超個人的なものを導入することでより集合主義的な方向へ進むことになってしまい、個人主義的立場を維持できなくなってしまう(Alexander1988p.224)。-アレクサンダー自身はこのようなジレンマを現象学やインターラクショニズムに見いだしているのであるが、パーソンズもまた同じジレンマに陥っていることがこれまでのわれわれの考察で明らかになったと思われる。つまり、行為体系における創発特性という集合主義的問題を棚上げし、単位行為レヴェルで議論を進めようとするため、究極価値が「つねに/すでに」先取りされる形で規範のなかに埋め込まれてしまうのである。だから、われわれは、アレクサンダーが秩序問題の個人主義的解決に向けた次のような批判の言葉は、そのままパーソンズにもあてはまるものである、と結論づけねばならない。」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」102-103P
「パーソンズ研究の立場から、パーソンズは主意主義的行為理論を作り上げようとしたのに、秩序問題の解決に専念するあまり主意主義的要素がいつのまにかすっかり消え去ってしまったという「パーソンズのパラドックス」を主張する論者……」
名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」107-108P
参考文献
参照論文
※最初はパターン変数について調べていたので主意主義に関しては後半の文献中心になります
1:山本 祥弘「パーソンズ医療社会学の形成について― 初期専門職研究と医療社会学の差異に着目して ―」(URL)
・主にパーソンズ全体の概略的な理解の参照にしました。
2:小川 晃生「パターン変数による人類学的基底の書き換えについての一論考― ゲマインシャフト・ゲゼルシャフト概念を参照して ―」(URL)
・主にパターン変数や主意主義的行為理論の定義を参照しました。内容自体は基礎的ではなく、応用的です。
3:木村雅文「T.パーソンズとドイツ社会論」(URL)
・パターン変数の詳細について参照しました。AGIL図式との関連についても参照。
4:宇賀博「初期パーソンズ研究」(URL)
・主にパーソンズ全体の概略、とりわけデュルケームとフロイト、ミードとの関連
5:池田光穂「病気になることの意味 : タルコット・パーソンズの病人役割の検討を通して」(URL)
・主に役割期待とパターン変数の説明の参照
6:小門裕幸「四つの象限論のその後と日本人:キャリアデザイン的視点から」(URL)
・前近代と近代のパターン変数の参照,日本人のパターン変数
7:山田吉二郎「広報メディア研究の「準拠枠」―パーソンズ行為理論の適用可能性について―」(URL)
・パーソンズの用語全般の参照
8:大黒正伸「パーソンズとシュンペーター合理性をめぐる出会い」(URL)
・究極的目的の説明に関する参照、目的手段の図を参照
9:大黒正伸「パーソンズにおける経済社会学の可能性─社会システムとしての経済─」(URL)
・究極的目的の説明に関する参照
10: 小松 秀雄 「パーソンズ社会学における宗教-ウェーバーからパーソンズへの転換-」(URL)。
・究極的目的の説明、究極的条件、究極的価値、中間、聖なるものに関するもの等の参照。
11:溝部 明男「初期パーソンズの諸問題 主意主義と秩序問題」(URL)
・主に主意主義と規範的指向の参照
・規範的要素の定義の参照
12:溝部 明男「社会システム論と社会学理論の展開 : T. パーソンズ社会学と残された3つの理論的課題」(URL)
・主にパーソンズ全体の用語の解説の参照
・価値と規範の違い
・規範的要素が価値と社会的規範を合わせたものという説明
13:山田吉二郎「広報メディア研究の『準拠枠』 : パーソンズ行為理論の適用可能性について」(URL)
・主にパーズン全体の用語の解説の参照
14:溝部明男「パーソンズのAGIL図式-その形成における基本的問題-」(URL)
15:高旗正人「 パーソンズの子ども社会化パラダイムの検討 」(URL)
16:友枝敏雄「方法論的個人主義にもとづく社会理論の問題点 : パーソンズとロールズを中心として」(URL)
・内面化や制度化、パーソンズの用語全般について参照
17:春日淳一「社会科学における説明図式の次元構成 : 3次元か4次元か」(URL)
・パターン変数とAGIL図式との関連について、及びパターン変数の医者の例について参照
18:春日淳一「N.ルーマンのメディア論について」(URL)
19:名部圭一「パーソンズの行為理論における諸問題」(URL)
・パターン変数の説明について参照
20:川越次郎「『パタン変数』 の批判的再構成: 三つのテクストにおけるパラドックスを中心に」(URL)
・パターン変数の説明について参照 特に客体類別
21:新 睦人「パーソンズからルーマンとハバーマスへ(佐藤報告に対する討論)」(URL)
主意主義に関して
22:新明正道「タルコット・パーソンズについて──その学問的業績の全体像──」(URL)
主意主義に関して
23:小松秀雄「パーソンズ社会学における宗教 -ウェーバーからパーソンズへの転換- 」(URL)
主意主義に関して。構造的要素、デュルケーム
24:佐藤勉「社会的なものの論理―T・パーソンズのばあい―」(URL)
主意主義に関して
25: 大束貢生「パーソンズの主意主義的行為理論について」(URL)
・主意主義に関して、単位行為の詳細
・行為体系の定義、創発特性の定義
26:大束貢生「 パーソンズのマックス・ウエーバー解釈について」(URL)
主意主義に関して
27:川上周三「ピューリタン系譜の社会思想家の比較研究―マックス・ヴェーバー、賀川豊彦、タルコット・パーソンズ―(上)」(URL)
主意主義に関して
28:山下雅之 「パ ーソンズにおける社会学の成立」(URL)
マーシャルに関して
29:赤坂真人「パレート社会システム論再考(II)―歴史における社会システムの均衡―」(URL)
パレートに関して
30:霜野寿亮「権力概念の検討 : タルコット・パーソンズの場合」(URL)
31:鈴木幸毅「行為理論と協働理論 (その 2)」(URL)
単位行為 主に分析と記述
32:村井,重樹「目的-手段図式から習慣へ : パーソンズとブルデューの功利主義批判を通して」(URL)
・主に創発特性
33:田野﨑昭夫「タルコット・パーソンズにおける行爲体系理論の考察」(URL)
・主に努力
34:遠藤雄三「主意主義的行為理論の生成過程 パーソンズの初期論文を中心に」(URL)
・主意主義・努力
35:奥村隆「行為とコミュニケーション ふたつの社会性についての試論」(URL)
・行為の準拠枠 メモ:ルーマンとの関連など面白いので後で参照する。奥村さんの説明は全体的に柔らかく分かりやすい。
36:奥村隆「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」(URL)
・主にジンメルの自由について
今回の主な文献
タルコット・パーソンズ『社会的行為の構造 』
※全5冊あるみたいです
中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」
中野秀一郎「タルコット・パーソンズ―最後の近代主義者 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
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