【基礎社会学第二十六回】G・H・ミードの「社会的行動主義」とはなにか

    はじめに

    動画での解説・説明

    ・この記事のわかりやすい「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    G.H.ミードのプロフィール

    ジョージ・ハーバート・ミード(1863-1931)はアメリカの哲学者であり、社会心理学者。社会学者として扱われることもある。

    プラグマティズム哲学の影響を受け、行動主義的社会心理学を開拓し、自我を社会過程の中に位置づけた。社会学者であるH.ブルーマーのシンボリック相互作用論への影響を与えたといわれている。

    主な著書は「精神・自我・社会」(1938)や「行為の哲学」(1938)。どの著書も死後に出版されている。

    プラグマティズムとは

    プラグマティズムとはなにか、意味

    POINT

    プラグマティズム(英:pragmatism)・プラグマティズムとは知識や価値の問題を「行為」に関係づけて理解する哲学の立場のこと。プラグマティズムに共通する主な4要素は行為、実利、可謬、創造である。パースが創始し、ジェームズやデューイが広めたといわれている。「行為」や「実行」を意味するギリシャ語の「プラグマ」が語源。

    この3人に加えて、ミードを代表的プラグマティストとして加えるべきだと主張する人々が出てきた。例:社会学者のC・W・ミルズ、I・シェフラー、鶴見俊輔さんなど。

    「しかし、こんにち、ミードを代表的プラグマティストの一人として明確に指名するようになってきている。社会学者のC・W・ミルズ……『社会学者とプラグマティズム』(一九六三)の『あとがき』においては、ミードを取り上げなかったことを『知的には許せない、代表性のないやり方である』と自己批判している。また、鶴見俊輔は……ミードを『大衆思想史として世界の思想史を訂正する一つの新しい理論的枠組を作った人』として高く評価し……D・リュッカーの『シカゴ・プラグマティストたち』(一九六九)においては……一九七四年に出版されたI・シェフラーの『四人のプラグマティスト』(一九七四)においては……」

    「ジョージ・H・ミード」,30-31P

    プラグマティズムに共通する要素

    1. 「行為」を重視している:知識は実際の行為過程で経験的に確認できるものとして理解される。「知識は行為の一部である」という言葉で表される。行為による結果を考えることができない知識は無用のものとされる。例:「氷」を知るとは、「氷そのもの」を知っているということではなく、氷を触ったら冷たい、氷に熱をあてると溶けるといった「行為の結果により判断できるもの」だと考えた。イデアといった客観的で超越的なもの(例えば「氷そのもの」)を行為によって知ることは難しい。科学の場合、行為とは主に「実験」。行為主義、行動主義。
    2. 「実利」を重視している知識は「問題解決」のための行為に向かうものではない場合は抽象的で無用なものとみなされる。例:「トウモロコシの育て方に関する知識」は食べるためなど、役に立つから有用なものとされ、かつ生産性の高い手法など、行為の結果を考えることのできるものである。「ある地域のあるトウモロコシの生産性が低い(困難)」→「水を減らしてみる(行為)」→「生産性が高まる(問題解決)」。トウモロコシそのものとはなにか・・と抽象的に考えても役に立ちにくい。実用主義、道具主義。
    3. 「間違い」を重視している人間の知識は将来的に誤りが発見され、修正される可能性があると考えられている。絶対的で客観的であり、人間や人間の行為とは無関係のあるような真理、もうこれ以上はなんら探究することがない知識というものは基本的には到達できないと考えられている。可謬主義。
    4. 「創造」を重視している絶対的で客観的な真理というものは難しいが、問題に対して試行錯誤を繰り返し、新しく修正していくという立場
    「行為」を重視している

    知識は実際の行為過程で経験的に確認できるものとして理解される。「知識は行為の一部である」という言葉で表される。行為による結果を考えることができない知識は無用のものとされる。経験、行為の結果が重視する。

    例:「氷」を知るとは、「氷そのもの」を知っているということではなく、氷を触ったら冷たい、氷に熱をあてると溶けるといった「行為の結果により判断できるもの」だと考えていく。イデアといった客観的で超越的なもの(例えば「氷そのもの」)を行為によって知ることは難しい。科学の場合、行為とは主に「実験」。

    「実利」を重視している

    知識は「問題解決」のための行為に向かうものではない場合は抽象的で無用なものとみなされる。

    例:「トウモロコシの育て方に関する知識」は食べるためなど、役に立つから有用なものとされ、かつ生産性の高い手法など、行為の結果を考えることのできるものである。「ある地域のあるトウモロコシの生産性が低い(困難)」→「水を減らしてみる(行為)」→「生産性が高まる(問題解決)」。トウモロコシそのものとはなにか・・と抽象的に考えても役に立ちにくい。実用主義、道具主義。

    「間違い」を重視している

    人間の知識は将来的に誤りが発見され、修正される可能性があると考えられている。絶対的で客観的であり、人間や人間の行為とは無関係のあるような真理、もうこれ以上はなんら探究することがない知識というものは基本的には到達できないと考えられている。可謬主義。

    「創造」を重視している

    絶対的で客観的な真理というものは難しいが、問題に対して試行錯誤を繰り返し、新しく修正していくという立場。創造的知性。

    プラグマティズムにおける真理とはなにか

    C.S.パースが考えた真理

    真理とはみんなに共通する知識であり、真理はいつか収束する。真理はつねに更新されていく(可謬主義)。科学的施策の結果として現れる「真理」は科学者の社会によって審査された上で公認されるという立場(便宜主義)。

    「真理は科学者たちが作り出す共通の知識だ。探究を続けていれば知識の収束点に到達する。……真理とは、みんなに共通する知識(概念)。真理はつねに更新されつつ、一つの収束点に向かう。」

    「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P

    W.ジェームズが考えた真理

    真理は人それぞれ(主観的)であり、事実(客観的世界)と対応していない。事実がどうなってるかは問題ではない。真理は客観的かどうか、事実かどうかではなく、「私(個人)にとって有用であるかどうか」を基準に考えた。有用であれば真理とみなされる(実用主義)。宗教における神の信仰なども、有用であれば真理であるとみなされる。

    「真理はひとそれぞれ違う。だから人間の数だけ真理はある。真理は人それぞれ異なる。客観的な世界である『事実』がどうなっているかは問題ではない。」

    「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P

    J.デューイ(1859~1952)が考えた真理

    真理とは、納得できる証明がなされた客観的なものであるが、間違っている可能性をはらんでいる(保証付きの言明可能性)。事実(客観的世界)とは対応している必要はない。ただし、パースとは異なり、いつか客観的な知識の収束点に到達できるとは考えていなかった。学問や知識は、人間の行動に役立つ道具であるという考え方。知識はそのものに価値があるのではなく、知識を使った結果として有用性があるから価値がある(道具主義)。

    「保証付きの言明可能性。真理とは、納得できる証明がなされた客観的なもの。けれども人間と無関係に存在する『事実』と一致している必要はない。」

    「続・哲学用語図鑑」,プレジデント社,224-225P

    「パースによる可謬主義は評価するものの,パースの真理観は「最終的に収束されるもの」であり,「会話」のように終わりのない探求という真理観を持つローティからすると,その点がローティの言う「プラトンーカント的な伝統」から逃れられていないと見なされており,パースへの低評価の一因となっている。」

    大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」,48P

    ミードが考えた真理

    真理とは、問題解決と等しい。したがって、現実には特定の状況ごとに特定の、多くの真理が存在する(唯一絶対の真理は想定されていない)。ジェームズは個人が「満足」した点を規準にし、必ずしも問題解決と同義として扱わなかった点で違いがある。

    「ミードにおいては「真理」も「本質」と同様に、個別的状況に結びついたものである。したがって、現実においては多くの真理が存在することになる。先に述べたとおり、ミードにおいて真理は問題解決と同義である。問題状況において状況が再構成され、新しい仮説が採用されたとき、その仮説が真理となる。真理はリアリティの中にあり、常に変革を迫られているのである(船津1989,148-149頁)。もともとプラグマティズムは絶対的に真なるもの、絶対的に根元的なものの存在を措定しない。すべての命題は後人の追実験によって否定される可能性をもっている。そうした考え方が、.ミードのパースペクティヴ論によって確立されたといえる。」

    小林さや香「ミードとプラグマティズム」33-34P

    ミードにおけるプラグマティズムの要素

    「行為」を重視している

    「心的なもの(精神、意識、知性、主観)」は外的な「行為」を通して経験的・科学的な把握ができると考えた。ミードにおいて行為は「内的行為と外的行為」の2つの行為から構成される。今まではワトソンの行動主義のように、心的なものは科学的に捉えることができず、外的な行為の結果のみを観察の対象とするべきだとされていた。

    「実利」を重視している

    デューイに影響をうけ、「問題的状況」を克服するという意味での「行為」を重視した。

    「間違いを」を重視している

    反省的思考(意識、精神、内的行為、態度)による問題状況の解決こそが人間の知性であると考えている。

    「創造」を重視している

    「創発的内省性」を重視した。「創発的内省性」とは、他の人間の目を通じて客観的に自分の内側を振り返ることによって、そこになにか新たなものが創発されてくるという考え。「一般化された他者」など、「共有の意味世界(共通のパースペクティブ、ユニバースオブディスコース)」が広がっていくことは「同質化」を必ずしも意味せず、コミュニケーションに繋がり、新たなものが創発されていくと考えた。

    ミード特有のプラグマティズムの要素

    1. コミュニケーション:他者とのコミュニケーション(社会的「行為」)を通じて有意味な会話を内面化することによってはじめて反省的思考が可能になると考えられている
    2. 主体と客体(精神と身体)の統合としての行為:行為は衝動、知覚、操作、完了の4局面から構成され、すべての局面に精神的過程と生理的過程の両方が含まれていると考えられている。どちらかだけに絞って分析する、どちらかを把握不能として切り捨てることはできないとされている(相即的な関係)。また、内(精神、意識)的なものは、孤立して存在するのではなく、他者との関わり合いにおいて社会的に形成されると考えられている。
    3. 時間論:人間は現在の行為を決める際に、過去を再構成すると同時に、未来をイメージしているという。ミードにとって過去は実際の過去そのものではなく、常に現在という枠を通じて作り直されていくものである。未来は予測不可能であり、現在という枠を通じて常に作り直されていく。唯一の正しい過去も唯一の正しい未来というものもなく、常に構成されていくのであり、「批判されてまたテストされる」といういわゆる「リサーチサイエンス」の発想につながっていく。プラグマティズムとの関連では「可謬主義」に近い。
    4. パースペクティブ論:パースペクティブとは「世界に対する個人独自の眺め」であり、それぞれの眺めの数、関係の数だけ「真理」がある。

    ※小林さや香「ミードとプラグマティズム」を参照

    コミュニケーション

    他者とのコミュニケーション(社会的「行為」)を通じて有意味な会話を内面化することによってはじめて反省的思考が可能になると考えられている。

    →人間の「自我」は他者との関わり合いにおいてはじめて形成される。人間特有の意味のあるシンボルを通したコミュニケーション、特に「音声」が重視されている。

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション:行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、「意味のある他者(重要な他者)」という。※「一般化された他者」であっても「有意味」という。動画では記載し忘れていましたm(_ _)m。多くの他者とコミュニケーションを行うためには、重要な他者だけではなく「一般化された他者」を自分の中に形成してく必要があります。重要な他者・一般化された他者については次回の記事で詳細を扱っています。

    主体と客体(精神と身体)の統合としての行為

    「行為」は衝動、知覚、操作、完了の4局面から構成され、すべての局面に精神的過程と生理的過程の両方が含まれていると考えられている。特に知覚、操作は「内的行為」として位置づけられ、人間特有の精神や意識に大きく関わる要素である。※社会的行動主義の項目で詳細を説明

    →主体(精神、意識、内的なもの)を社会における行為という観点から説明しようとしたことがポイント。外から内へのアプローチ。社会的行動、社会的行為から出発して内的なものを捉えていく(社会的行動主義)

    どちらかだけに絞って分析したり、どちらかを把握不能として切り捨てることはできないとされている(相即的な関係)。また、内(精神、意識)的なものは、個人に孤立して存在するのではなく、他者との関わり合いにおいて社会的に形成されると考えられている(内的なものの全体性であり、要素還元主義の否定)。自我は社会的現象。

    時間論

    人間は現在の「行為」を決める際に、過去を再構成すると同時に、未来をイメージしているという。ミードにとって過去は実際の過去そのものではなく、常に現在という枠を通じて作り直されていくものである。

    未来は予測不可能であり、現在という枠を通じて常に作り直されていく。唯一の正しい過去も唯一の正しい未来というものもなく、常に構成されていくのであり、「批判されてまたテストされる」といういわゆる「リサーチサイエンス」の発想につながっていく。プラグマティズムとの関連では「可謬主義」に近い。

    自我も客我と主我との相互作用によって常に構成されていく、流動的なもので、テストされていき、新たな仮説に基づく行為、問題解決、真理を創造していく。

    ④パースペクティブ論

    パースペクティブとは「世界に対する個人独自の眺め」であり、それぞれの眺めの数、関係の数だけ「真理」がある。

    ミードによれば真理とは「問題が解決した成功の状態」である。個人と環境との間に不適応という問題状況が生じた際に、人間は知性を含む行為によって新たな仮説を形成し、問題を解決する。問題が解決され状況が再構成されたとき、実際に行為の結果として解決されたとき、仮説は真理となる。

    →何が問題状況かはそれぞれのパースペクティブ、それぞれの状況、それぞれの社会によって変わり、その問題解決の手段、仮説、行為もそれらに応じて変わる。絶対的な不動の真理というものはなく、常に問題的状況の変化に応じて変化していく、流動的なもの。ただし、真理は主観的なものにすぎない、という話ではなく、人それぞれ、行為によって、具体的な状況における真正な側面、リアリティ、本質との関係を結んでいるというイメージ。

    ※パースペクティブについては次回の記事で説明してます。

    行為は意識であり、自己は他者であり、肉体は精神である

    POINT1:行為は意識である。

    POINT2:自己は他者である。

    POINT3:肉体は精神である。

    一見対立するものを切り離せないものとして、相互作用の関係、過程として説明しようとするのがミードの基本的なスタンス。どちらかを孤立した要素として扱うことは難しい。極端な観念論も極端な実在論も否定。どうやって観念と実在(リアリティ)を関係づけるかというのがポイント。ミードの結論は、「行為」、特に「他者との社会的行為」によって関係づけるということ。

    補論:プラグマティズムの代表者

    ※この項目は掘り下げない。いずれ哲学のカテゴリーで扱う予定。

    1:C.Sパースのプラグマティズム
    POINT

    C.Sパース(Peirce,Charles Sanders)1839~1914。アメリカの哲学者であり、プラグマティズムの祖とされている。パース本人は「プラグマティシズム」と呼び、W.ジェームズがパースの主張を「プラグマティズム」と命名したらしい。

    ・パースの主な主張

    1. 批判的常識主義(critical common-sensism):永遠に批判されない、疑われない常識というものはないという立場。人々にとって「疑いようのない信念」というものが存在するが、それは「今日この場で思索するわれわれにとって疑い得ないというという程度」のものにすぎないという立場。
    2. マチガイ主義もしくは可謬主義(falliblism):間違った推測に基づいた議論を行っているかもしれないという可能性を常にはらんでいるという立場。マチガイを重ねながら、そのマチガイの度合いが少なくなるように進むことはよいことであり、良い機会だとした。絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性などは経験的知識の積み重ねでは達することはできないという(ただし、パースの真理観としては最終的には収束していくという、つまりマチガイの程度は少なくなっていく)。論理学的可謬主義。
    3. プラグマティズムもしくはプラグマティシズム(pracmatism):抽象的な概念は実験され得るような形に直されるとき初めて意味がはっきりするという立場。例:ある物質が「硬い」という概念は、他の物質で引っ掻いても傷がつきにくいといったような他の関わり、実験(テスト)を通してのみ判明するという立場。「重力」という概念も、上向きの力を加えなければ落下するというテストによって、その効果によって意味がはっきりする。プラグマティズムの格率(プラグマティック・マクシム)。
    4. 便宜主義:科学的施策の結果として現れる「真理」は科学者の社会によって審査された上で公認されるという立場

    「・批判的常識主義(criticalcommon,sensism)人々にとって「疑い得ない信念」というものが存在するが、それは「今日この場で思索するわれわれにとって疑い得ないという程度のもの」にすぎないのであり、永遠に批判を排するものではない。・マチガイ主義/(早川操によれば可謬主義)⑫niblism)絶対的な確かさ、絶対的な精密さ、絶対的な普遍性などは経験的知識の達し得ないところにある。われわれの知識はマチガイを重ねながら、マチガイの度合いの少ない方向に向かって進む。マチガイこそは知識の向上のための最:もよい機会である。……・プラグマティズムまたはプラグマティシズム(pragma重ism,pragmaticism)抽象的な概念は実験され得るような形に直されるとき初めて意味がはっきりする。仮説を選ぶときにも実験され得る形に直らないものは採用してはいけない。……・便宜主義科学的思索の結果として現れる真理なるものは、科学者の社会によって審査された上で公認される。この場合科学的知識は、その時その場所の科学者集団にとっての社会的便宜によって決定される。」

    小林さや香「ミードとプラグマティズム」,34P
    「パースは実験科学的見地から次のような結論に至る。我々の概念の対象が及ぼすと我々に考えられる諸々の効果を.しかも実際と関わりがあると考えられるかぎりでのそうした効果をとくと考えてみよ。その結果得られる,それらの効果についての我々の概念がすなわちその対象についての我々の概念のすべてである[Peirce1878:45】パースはこのような哲学的立場を「プラグマティック・マクシム(プラグマティズムの格翠)」と名付けた。パースは続けてこの格率の適用例を挙げている。ある物質が「硬い」とはどのようなことか?それは,その物質が他の物質で引っ掻いても傷がつきにくく,テーブルの上から落としても壊れにくいというようなことであって,その「硬さ」とはテストに付されてはじめて判明するものである。あるいは,ある物質の「重さ」とはそのようなことか?それは,その物質に上向きの力を加えなければ,物体は落下するということである。パースによると,「重力という言葉で我々が意味するものそれ自体は,その力が生み出す効果のうちに完全に含まれている[Peirce1878:48】」ということになる。」

    大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」47P

    2:W.ジェームズのプラグマティズム
    POINT

    ジェームズ(James,William)・1842~1910。アメリカの哲学者であり、心理学者。プラグマティズムの指導者。

    1. 真理の有用性(実用主義):真理は客観的かどうか、事実かどうかではなく、「私(個人)にとって有用であるかどうか」を基準に考えた。有用であれば真理とみなされる。科学だけではなく、宗教、人生、道徳など多くの分野でも実用主義の立場をとった。たとえば宗教的な信念を誰かがそれを正しいと信じることに役立つならば、その人にっててその信念は真理であるとみなされる。自分とは無関係に真理があるという立場ではない。
    3:J.デューイのプラグマティズム
    POINT

    デューイ(Dewey,John)・1859~1952。アメリカの哲学者であり、心理学者。パースに学んだ。機能心理学の開拓者。

    1. 保証付き言明可能性:「探究」は①「探究の先行条件」、②「問題の設定」、③「仮説形成」、④「推論」、⑤「仮説のテスト」を通して真理へ至るとデューイは考えた。しかし、この真理は信念や「知識」といったような固定した、閉じたものではなく、探究が言明を保証したという意味で真理なのであり、この真理は間違っている可能性を含んでいて、新しい探究への可能性が開かれているとした。真理は「実践(行為)」によって裏付けされて獲得していくべきであり、失敗をはらんでいる(創造的知性)。試行錯誤なしに真理は獲得できない。可謬主義。
    2. ダーウィン化されたヘーゲル(ローティーによる理解):ヘーゲルの弁証法は、矛盾し合う2つの概念がよりひとつの高次な概念へと統合され、よりよいものへと進化、最終的には真理へ達するというような主張である。ダーウィンは『種の起源』などで、進化は偶然性をはらみ、特定の環境で有用な性質をもった種の生物がその環境に適応したものだと考えた。デューイはこの2人から影響を受け、真理とは究極的なもうこれでいいといった到達点ではなく、現在の環境に「適応」したものであり、時代が変わればその最良とされていた真理も代わりうると考えた。真理への探究は常に探究へと無限に開かれ、常に失敗の可能性をもっていると考えた。
    3. 道具主義:学問や知識は、人間の行動に役立つ道具であるという考え方。知識はそのものに価値があるのではなく、知識を使った結果として有用性があるから価値がある。知識は道具であり、道具は実際に使わないと意味がない。行動は状況に対する適応反応であり、動物は困難を避け、よりより状況を作り出すように行動する生き物。知識は困難を回避するための道具ではならないという立場。例:トウモロコシを育てる知識は人間の役に立つ。

    「デューイは,論理学とは「探求の理論」であると考えていた。それによると,探求とは①疑念の発生という不確かな状況からの「探求の先行条件」,②問題を立て探求が始まる「問題の設定,③与えられた問題状況から観察によって解決策を仮説として立てる「仮説形成」,④その仮説をより明確な観念へと変化させる「推論」,(彰仮説が実験され,その結果が秩序ある全体を形成し,統一され完結したとき証明される「仮説のテスト」という五つの過程を経て真理-と至るが,その真理は「信念」や「知識」といった閉じたものではなく,「探求」が言明を保証し,その言明は可謬的であるため,新たな「探求」への可能性が開かれた「保証付き言明可能性」と呼ばれるのである。」

    大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」,55P

    社会的行動主義

    社会行動主義とはなにか、意味

    POINT

    社会的行動主義(Social Behaviorism)・行動主義心理学と社会心理学の2つの取り組みを統合した立場のこと。「社会的行動主義(社会行動主義)」という用語自体はミードは一度も用いたことがなく、ミードの文章を編集したモリスが『マインド・自我・社会』(1934)の副題に創作して挿入したものだと言われている。ミードが「行動主義」の立場を名乗った時期は、後期(1922年の「有意味シンボルに対する行動主義的説明」から)だという。ミードこの言葉でいえば「ワトソンの行動主義よりも適切な行動主義」である。

    「ミードの「主著」とされる『精神・自我・社会』はその典型である。例えぼ、その副題となった「社会行動主義」は、ほとんどの社会学・社会心理学の辞書に載っているほど著名な術語として定着してきたものだが、しかしこれはミードが一度も用いたことのない語を編者が創作して挿入したものなのである。」

    徳川直人「G.H.ミードの社会理論一再帰的な市民実践にむけて」246-247P

    「中でも有名な『精神・自我・社会』(1934)は、後期心理学の全体像を知るには格好の手がかりである。この本には奇しくも「社会的行動主義の立場から」という副題が付されているが、この副題がたとえ編集者の手によるものだとしても、この本の中にある次のような記述は興味深い。「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」(MSS:pp.40-1=訳p.45)つまり、社会的行動主義は、行動主義心理学と社会心理学とのふたつのアプローチを統合した立場なのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」46P

    「ミードは『マインド・自我・社会』(一九三四)のなかで自己の立場を『社会行動主義』と標榜したとされている。しかし、『社会行動主義』というタームは実は編者モリスの造語であって、ミード自身はそれを使っていたわけではない。ミードはワトソンが一九一三年の行動主義宣言でもって表舞台に登場するずっと以前に、その基盤が形づくられていた機能主義心理学に対して、ただ新しい名称を与えること以外は何もしなかったのである。……ミード自身も、心理学は連合主義心理学、運動心理学、機能主義心理学、行動主義心理学へと発展してきていると述べている。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」42P

    「ミードはこのように、人間の精神的過程を社会における行為という観点から説明しようとした。精神的過程も含めた人間の行為は、動的な全体としての進行中の社会過程の一部であり、複雑な有機的過程として捉えられる。ここからミード独自の行動主義が形成されることになる。それは、「動的で進行中の社会過程、およびその構成要素である杜会的行動から出発する」(ibid,p.7)という意味で、「社会的行動主義」(ibid,p.6)と名付けられた9>。このように精神の全体性をとらえることによって、還元主義的心理学に異議を唱えただけではなく、単に刺激に反応するだけの受動的な人間像を否定して、自ら刺激を選択して反応するという能動的存在として人間を描きだそうとしたのである。」

    小林さや香「ミードとプラグマティズム」,32P

    ワトソンの行動主義

    POINT

    ワトソンの行動主義・心的なものは科学的、客観的に捉えることができず、外的な行為の結果のみを観察の対象とするべきという立場。

    John Broadus Watson(1878~1958)はアメリカの心理学者。内観法を否定し、客観的に観察できる刺激と反応の関係、(パブロフの犬のような)条件反射などを研究すべきことを主張した。行動主義、行動主義心理学の創始者。

    例:梅干しを見せて人間に刺激を与え、唾液が出た場合、唾液が出たという行為(行動)の事実を客観的に共有できる。梅干しを見て何を感じたかという、心的なものをわざわざ報告させる必要はない。

    ミードはワトソンを批判している

    1:ワトソンが精神や意識を分析の対象から除外したことや、精神的な現象を目に見える条件反射などの行動のみに還元して説明しようとするアプローチを批判した。

    2:精神や意識を行動主義の用語で「還元」することは確かに不可能だが、「説明」することは可能だと批判した。→直接的に観察することは不可能でも、「外的行為(行動)」から出発して間接的に説明すること、精神や意識の「機能」という点でアプローチすること(機能主義心理学)、生理学的、社会的に自我(内的行為)を説明することは可能だとした。

    3:他者が観察できることのみを観察するという「行動主義」の視点を受け継ぎつつも、ワトソンよりもさらに進んで、他者が観察できる範囲を広げようとした。どちらも内観法を否定する点は同じ。他者が観察できる範囲はもう少し広いのではないか、内的な部分も少しはわかるのではないか、という拡張。

    ワトソンによる内観心理学の否定:悲しいと被験者が意識、精神を口頭で説明したところで、そのデータが客観的に正しいかどうかわからない。涙を流した、逃げた、神経が動いた、といったような誰の目からみてもわかる客観的な「行動」で説明するのがワトソンの行動主義。

    「ミードのワトソン批判は、次のような引用に代表されよう。「ワトソンは、客観的に観察できる行動が、科学的な個人心理学及び社会心理学の領域を、完全にそして排他的に構成すると主張している。彼は、『精神』とか『意識』といった考えを誤りとして退け、すべての『メンタルな』現象を条件反射やそれに類似した生理学的メカニズムつまり、純粋に行動主義的な用語に還元するのである。」(MSS:p.10=訳p.13)このようなワトソンの行動主義に対し、ミードは次のように主張する。精神や意識を、純粋に行動主義的用語に「還元する」ことは不可能だとしても、行動主義の用語で「説明する」ことは不可能ではない。少なくとも意識や精神の説明を放棄したり、その存在を完全に否定する必要はない、というのである(MSS,p.10=訳p.13)。要するに、ミードとワトソンの違いは、問題関心の違いなのである。ミードの関心は意識の発生論にあった。これは初期からのミード心理学の課題である。ワトソンはこれを不可能として切り捨てたが、ミードの関心はまさにここにあった。そしてミードはワトソンが不可能としたこの領域こそ、行動主義によって説明可能となるのだとしたのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」48P

    「行動を刺激に対する反応として捉え、それを客観的に観察するという方法を主張したワトソンの行動主義である。周知のように、ミードはこれを批判していた。マクフェイルは言う。「ミードがワトソンの行動主義を拒否したのは、ミードではなくワトソンがそのようなアプローチに設けた限界ゆえである。このことを多くのシンボリック・インタラクショニストが認識し損じている」(McPhail&Rexroat:1979)と。ワトソンは周知のとおり、意識、精神、心的なものといった「客観的に観察不可能なもの」を方法論上その研究対象から除外していた、つまりそのア。フローチに限界を設けていた、それに対してミードは、ワトソンが取り組もうとしなかったそれらにもアプローチの手を伸ばしている、というわけである。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,308P

    「ワトソンは、心理学の主題は行動である、と明言し、「人々はなぜ、今現に行っているように行動するのか」、またその行動を効果的に支配する方法は何かと問う。そして、これらの問題とその解決をすべて、「刺激と反応ということばに翻訳することができる」(Watson:1930:邦41)と考える。個体の行うことを、客観的に観察可能な刺激と反応とによって捉えるというのである、この要求は、心理学の自然科学化に準じており、その背景には、彼の強い問題解決志向が伺われる。ある個体の行動を、刺激Aに対する反応Bであると観察し、しかもそのいずれもが誰の眼にも同様に観察できるものであれば、研究者は、共有可能な観察結果をもとに、個体の行動について語り合うことができる。そして、求められる行動を喚起する適切な刺激は何か、排除すべき行動を排除するために排除すべき、または与えるべき刺激は何か、といった観点から、社会問題に取り組むことができるというのである。こうした行動主義的心理学を確立しようとするワトソンの努力は、当時の内観心理学に対する批判と一体を成している」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,310P

    「ミードの言う、他者による観察可能性が、ワトソンの言う、研究者という特権的な他者による観察可能性とは全く異なるものであることも、今や明らかである。ミードは、自分のアプローチが行動主義的であるとすれば、それは観察可能な活動-進行中のダイナミックな社会的プロセスと、それを構成する社会的行為-から出発するという意味においてであると述べる(MSS7)が……」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,313P

    「彼は述べる。「内部から外部へ、ではなく、外部から内部へと進むのである」(MSS8)と。他者によって観察可能なプロセス(外部)を通じて、個人の内的経験のプロセス(内部)にアプローチする、というのである。彼はこのことを端的に主張する。われわれは、互いにそうすることが可能な、あるいはそうすることが個人の内的経験にアプローチする方法として最も妥当するような、相互行為のプロセスに巻き込まれているのだ。次のようなD・R・レインの表現は、このような状況についてのイメージを朋快に語るものであろう。「自己(われわれの文脈では行為の観察者)は、他者(同じく行為者)の経験を直接的に経験することはない。他者について自己が手にしうる事実は、自己によって経験される他者の行動である」(()内筆者)(Laing:1961:邦15)。こうした状況を仮定することによって初めて、ミードの、観察可能な行為のプロセスからの出発という要請は、一つの方法論上の主張として了解しやすいものとなる。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,314P

    【1】社会学的な文脈における「社会的行動主義」解釈

    POINT

    シンボリック相互作用論・ブルーマーが創始。人間が物事を意味づけ、それに基づいた行為をすること、人間同士の行為によって社会が成立すると考える理論のこと。人間の主体性を強調し、人間が主体的に社会を成立させると考えた。相互行為の中で流動的に意味は変化し、社会も変化していく。パーソンズの構造機能主義理論は人間の相互行為は社会の維持のための機能として考えられており、人間の主体性を軽視しているという意味で、対照的に比較されることがある。

    ①ワトソンとの「違い」を強調する立場

    人間を消極的で受け身的な存在として考えるワトソンを否定し、積極的、主体的、創造的な存在として評価するミードの手法を強調する。船津衛さんやブルーマーなど、シンボリック相互作用論などではこうした解釈がされている。

    「まずシンボリック相互作用論の方では、例えば船津衛(1976)は、社会的行動主義を次のように解釈している。彼は、ワトソン流の行動主義心理学とミードの社会的行動主義を対置させて次のようにいう。「人間行動の外的・空間的分析によって、人間を消極的で受け身的な存在としてしか考えない自然科学的立場[ワトソンなど]に対し、ミードは、人間行為を、その内的・時間的な深まりと広がりにおいて究明し、積極的で主体的な人間像を明らかにする方法の必要性を説いたのである。それが、かれ固有の社会行動主義を提唱させるベースとなり、かれが終始一貫して追求した人間把握の科学的方法の中核をなすものとなっているのである。」(船津衛,1976:p.103)しかし船津の議論では、ワトソンとの違いを強調するばかりで、ミードがわざわざ「行動主義」という語を選んだ意図が明らかとはなっていない。科学的に「人間の主体性」を追求する方法論的立場とはいかなるものかについては、十分な説明がなされているとは思われないのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,42P

    ②ワトソンとの「共通性」を強調する立場

    ミードの特徴は「相互浸透的相互行為」であり、「あらゆる所与の社会的相互行為の中で、参加者がお互いの一部」になっているという点を強調する。

    一人の行動ではなく、二人以上の社会行動を扱うところにミードの社会的行動主義の独自性を見いだした。L.S.コットレルなどがこのように解釈している。ワトソンの理論の発展型として捉えている立場。「社会行動主義(社会”的”行動主義ではなく)」といわれる。

    「他方、「社会行動主義」の立場は、ワトソンとの方法論的同一性を認めるところから始める。ここでは、この立場の代表としてL.S.コットレル(Cottrell,1980)をとりあげよう。彼はミード理論の42第1節社会的行動主義の立場主眼点は「相互浸透的相互行為(interpenetrativeinteraction)」にあり、これがミードの社会的行動主義の中心概念であるとする。相互浸透的相互行為とは、「あらゆる所与の社会的相互行為の中で、参加者がお互いの一部となっている」(Cottrell,1980:p.52)ようなものである。要するに、一個人の行動ではなく、二人以上の社会行動を扱うところに、ワトソンとは異なるミードの社会的行動主義の理論的特徴があるというわけである(cf.Lewis,1976:p.349)。そしてさらに、シンボリック相互作用論を含めこれまでのミード研究は、ミード理論の経験的研究を怠ってきたと批判し、ミードの理論の経験的検証を求めている(Cottrell,1980:p.60)」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,42-43P

    【2】心理学、生理学的な立場による「社会的行動主義」解釈

    意識の発生を論じるためには「社会」を扱う必要があり、そのため「社会心理学」が必要であるとミードは考えたが、あくまでも「生理学的心理学」の相補物であり、弱点を補うものとして「社会心理学」が位置づけられているという理解。

    なぜ「行動主義」をミードが主張したのか、という点がポイント。「行動(行為)」を理解するためには社会的なもの(意識の社会的条件)だけではなく、物理的、生理学的、心理学的な理解が重要になる。行為は社会によって条件付けられると同時に、生理学的なものである。

    ※生理学とは一般に、人体を構成する各要素(細胞や器官など)がどのような活動を行っているか、その「機能」を解き明かす学問。中枢神経系は意識の発生にどのような機能を持つか、なども解明していくことが重要になる。生理学と心理学を「行為」によって関係づけることが重要。

    人間の主体性や社会的な条件のみを強調して社会的行動主義を解釈するのではなく、生理学的、心理学的な条件との関係の中で、全体的に、過程として解釈するべきだという立場。山下祐介さんなどが主張しています(ミードによる意識の「心理学的説明」にもっと目を向けるべきだという立場)。

    「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」(ジョージ・I・ミード『精神・自我・社会』40-41P)

    「いずれにしてもこれらの社会学的立場においては、社会的行動主義は、社会学の方法論として捉えられているようである。しかしながら、前稿に述べたとおり、ミードの研究歴は第一に心理学者のそれである。そして社会的行動主義は、心理学的研究のための心理学的な方法論的立場である。しかもそれは社会学者がいう意味での社会心理学の立場でもなく、第一に哲学的探求のための基礎をそしてその先には社会改革のための理想や方法の科学的基礎づけの作業が見据えられている与えるべく、意識の心理学的説明を供給するためにとられた方法論的立場である。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,43P

    社会的行動主義の図による説明:外から内へのアプローチ

    ・「ごめんなさい」と言う「行為」は、客我において仮定した他者を前提としている。客我とは自我の要素のひとつ、内的行為の過程のひとつであり、「外的行為」によって「内的行為」を間接的に観察することが可能となる。

    ・ごめんなさいと実際に口を動かす(外的行為であり、目に見えて観察できる行為)前に、イメージとして自分で発してみて、自分のなかの他者の反応をたしかめ、その後で実際に口を動かす。そして口を動かした結果、自分はこういうふうに客我に対して主我が反応していたんだな、という内的行為がわかる。

    ・外から内へのアプローチ。あなたはどういう感情で言ったのか、と質問して直接的に内へアプローチするわけではない。行為の結果、あくまで外からアプローチし、観察する。

    【1】生理学的、行動主義心理学的説明

    行為とはなにか、意味

    POINT

    行為(act)・有機体と環境を結び付けるもの。①行為は「内的行為」と「外的行為」の2つの行為の相互作用によって形成される過程。②行為には「1:衝動」、「2:知覚」、「3:操作」、「4:完了(達成)」という四局面がある。Handlung(ドイツ語)。また、行為には「時間」があり、行為は「一つの進行する出来事」、過程であるという点が重要。

    POINT

    衝動(impulse)・有機体の自然的な欲求を感じている状態。個体と環境の間に適応を欠く状況であり、対象への対応が適切ではない状態。問題的状況。例:お腹が空いている

    POINT

    知覚(inception)・欲求を充足させるために、有機体が感覚器官によって刺激としての対象の特性を選択識別する過程(因果的ではなく選択的に環境を決定していく)。例:テーブルにある友達のパンを食べたらどうなるか、その結果をイメージする。操作の先取り。動物の場合は食べたらどうなるか、友達(他者)は食べたらどう思うか、ということを知覚する前に達成する(衝動から達成へ、刺激から反応へ一気に行く)。

    POINT

    操作(manipulation)・欲求を充足させるために、手によって対象を直接的に操作したり、知覚過程を経過した記号を間接的に操作する過程(数式、観念、単位などを操作するケース)。例:手でパンをつかむ。手につかむことによってリアリティ(実体)が生まれる。物の「態度」を取得する過程ともいえる(物の抵抗を感じることによってリアリティが生まれる。手が物に触れることは[作用]、物が手に触れること[反作用]であり、その相互作用からリアリティが知覚される)。知覚の時点では未来の約束、仮定、記号(社会的対象など)であったリアリティが、現在に引き戻され、物質的なリアリティ(物的対象、大きさ、形、重さ、運動、抵抗など)をもつ。SNSでは美しいと思っていた異性と実際に会ったら想像と違っていた(あるいはイメージと同じだった)ようなイメージ。観念が行為によって実在になっていく。

    精神(科学技術的態度)」の形成と深く関わっている。手によってシッカリと対象を把握することと、頭脳において了解・理解することは密接であり、切り離せない。人間に手がなかったら、精神が発達していなかったかもしれない。原始人や子供は前科学的な態度であり、「物体に人間と同様に反応することを期待した擬人的態度」だという。プレイやゲームを通じて自我を形成し、手による接触を通して精神を形成していく。科学は最も発達した知性の形態でもあり、問題の設定、仮説の形成、データの収集、仮説の検証(実験などの行為)を通して問題解決を行う。

    POINT

    完了(consummation,達成)・欲求の充足が実現される過程。例:食事が完了し、食欲は満たされ、空腹という問題的状況が解決する。

    「価値」が生まれる段階でもある。「意味」は生物体と環境との関係にある。例えば、食べ物の意味は、その生物体がそれを「食べる」ことにある。実際に食事が達成、完了されることによって、価値や意味というものが生まれる。人間とパンの関係は「行為」によって生じる。

    ・自然や事物は知覚され、意味づけられ、価値付けられて「社会的対象」として存在し、また操作されることによって「物的対象」として存在し、行為によってどのように意味づけされ、価値づけされたかを認識する事ができる。内的行為の時点ではどう意味づけしていたかはわからないが、外的行為の時点で達成することによって、どう意味づけしてたか、価値づけしていたかが間接的にわかる。その人にとって、その状況においてパンの意味、価値は「食べる」ことにあったということが認識できるのであり、真理はパンを食べることによって問題が解決できたということである。空を飛ぶためには飛行機には羽がいる、と仮説し、実際飛ばせることができ、問題が解決できた場合、飛行機には羽がいるという仮説は真理となる。羽根がなくても飛べる、と仮説し、問題が解決できた場合でもそれは真理となる。状況は常に変わり、真理もそれに合わせて流動している。

    POINT

    遅延反応(delayed response)・思考などの内的なものを活性化させるために、外的行為が一旦停止すること。中枢神経系などがその機能を持っているという。

    actを行為と訳すか、動作と訳すか、あるいは行動と訳すかなどについて議論があるようだ。実際、行為だったり行動だったりと、論文によって違うことがある。

    今回は人間の主体性、選択性などを重視するという平川茂さんの立場に準じて、内的「行為」と訳します。一方、外的行為は内的行為と違って生物的な要素が多いので外的「行動」と訳されることもあるようですが、個人的にごちゃごちゃしてしまうので外的「行為」で統一します。

    「ミードにおいて、行為とは有機体と環境を結び付けるものであり、それは外的行為のみならず、内的行為もまた含まれている。内的行為とは思考・知性・マインドなどを指している。人間は『問題的状況』においてこれまでの行為を停止し、『遅延反応』(delayed response)を示し、そこにおいて思考などの内的なものを活性化させるようになる。ミードによると、行為には『インパルス』、『知覚』、『操作』、『完了』などの四局面がある。『インパルス』は有機体の行為を開始させ、『知覚』は物的、社会的対象の知覚を行い、『操作』は接触対象を取り扱い、『完了』は行為が達成されることを表す。そしてどの生物有機体の場合も『インパルス』から行為が初められるが、人間においては『知覚』が大きな役割を果している。人間は行為を刺激→反応として生み出すのではなく、対象の『知覚』にもとづいて行為を形成する。『知覚』は対象の選択という積極的機能を有し、とりわけ、遠隔対象への構えを形成し、未来とのかかわりにおいて行為を導くものとなる。」

    船津衛「ジョージ・H・ミード──社会的自我論の展開──」36-37P

    「ミードは、環境との不適応を解消するという問題解決の試みとしての行為、というプラグマティズムの行為論をさらに細かく分析する。ミードにおいて人間の行為は衝動(インパルス)によって発動し、数多くの刺激の中から反応すべき刺激を選んで反応することによって成り立つものである。ミードによると、行為には「衝動」「知覚」「操作」「完了」の四局面がある。その衝動は、基本的には生存を保持することへの欲求に基づいている。そして人間において最も大きな役割を果たすのは「知覚」である。「知覚」は対象の選択という積極的機能を有し、行為を導くものである。この四局面はひとつの流れを成しており、すべての局面に精神的過程と生理的過程の双方が含まれている。行為は、精神的過程と生理的過程を含む目的的な過程として捉えられるのである。ミードにとっては「身体の内部で起こるすべてのことは行為」なのであり、感情などの心理的過程も「行為の準備という観点、そして進行するものとしての行為そのものという観点から」扱うことができる(MSSp.21)。そして生理的過程と心理的過程の双方に対して行為という見地からアプローチすることで、二者間の相関関係を検討できるようにしようとした。そうすることによって、分断された心身を統合しようとしたのである」

    小林さや香「ミードとプラグマティズム」,32P

    「ミードは「行為」を次のように定義する。「環境への我々の第一次的な適合邑FEggs仲は個体宣伝iE包と環境の関係を決定する行為の内で行われる。行為とは刺激と反応と反応の結果とから成る一つの進行する出来事である。そして、それら(刺激と反応と反応の結果)の背後に特定の刺激への個体の感受性及ぴ反応の適切さと深く関わる個体の態度と衝動がある」。ミードの行為概念を理解するにあたっては次の二点が重要である。まず、行為が「個体と環境の関係を決定する」ということ。次に、行為がごつの進行する出来事」であり、その意味で行為の重要な要素として「時間」があること。今、第二の点についていえば、行為はとおくにある刺激を追い求める衝動によって始まり、@その衝動の充足によって終る。ミードはこうした「一つの進行する出来事」としての行為の内に「衝動」(impulse)「知覚」(preception)「操作」(manipulation)「達成」(consummation)という四つの「位相」(phase)を区別する。これらの位相はそれぞれ独自の仕方で「個体と環境の関係を決定する」のに与る。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,25P

    「人間が直立歩行する動物であることは,自由になった前肢,つまり手によって対象を操作する動物であることと表裏一体の意義がある.”manipulation”「操作」の”mani”は手を意味しており,「操」は手(〓)でつかむ(桑)の意味である.手によって操作は可能になり,手は道具の道具であり,目的実現のための手段である.また,われわれは,ものごとをシッカリと了解したり,理解したりする場合,「把握した」と言う.このことは,手によってシッカリと対象を把握することから,頭脳において了解・理解する(精神的機能)ことへの転化を表わしている.その意味で,手の機能とは操作することであるとともに,了解・理解することである.」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,82P

    内的行為とはなにか、意味
    POINT

    内的行為・思考、知性、精神などの領域。精神的過程。別の言葉では「態度」であり、「外的行動の準備段階」。または「内的反応」。

    ただし、肉体とは無関係の主観的な世界という意味ではなく、あくまでも体内で生じる過程であり、生理学的、生物学的状態を指している。独我論のような極端な観念論(自分にとって存在していると確信できるのは自分の精神だけ)をミードは批判している。

    「ミードのいう『社会的行動主義』にとって『行為』は『基本的な素材であり、それは内的及び外的な局面』をもつものとして位置づけられた。けれども、この場合の『内的局面』とは『別の世界すなわち主観的な世界にあるという意味ではなく、個人の有機的の内部にあるという意味』である。従って『我々は完成された行為ないしは社会的な行為ばかりでなく、個人の行為の始まりとして、また行為の組織化として中枢神経系の内で進行していることをも考慮しなければならない』。すなわち、ミードのいう『行為の内的局面』とは個人の特定の生理学的ないし生物学的状態をさすのである(稲葉・滝沢・中野訳『精神・自我・社会』青木書庖、一九七三、八、一O、一四頁)。尚、M・ナタンソンはミlードの『行為』概念を『刺激──反応パタンからっくりあげられる生物学的機能としての行為』と『主観性がもっ選択的・構成的機能としての行為』に区別し、『精神』は主に前者を扱うものだという……。ところで、actを『行為』と訳すことには異論があるかもしれない。実際、先の訳者たちはミードが『精神』でいうactは主として生物学的な意味をもっという理由で『動作』という訳語をあてている。ほほ同じ理由からK・ライザーも、それを”Handlung”と訳すことに反対する……。けれども、本稿ではJ23の内部構造を問題にする限り、それは先のナタンソンがいうように『主観性がもつ選択的・構成的機能』としても考えられるという立場から、『行為』と訳した。」

    平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」,35P

    外的行為とはなにか、意味
    POINT

    外的行為・口の動き、手の動き、唾液の量、涙など体外で目に見えて生じる過程。主に完了(達成)段階。

    ワトソンはこの領域のみを観察の対象にするべきだと主張し、ミードはそれを批判した。ワトソンの場合は外から内へ、ではなく外は外、内は内という考え方で、内はブラックボックスとして、不明であり、排除した。

    人間と対象の関係

    遠隔経験

    人間と対象が「距離的関係」にある。色、音、香りなど。衝動、知覚の段階。

    接触経験

    手による「接触的関係」にある。大きさ、形、重さ、運動・抵抗など。操作の段階。

    達成経験

    目的(問題的状況に対する解決)を「実現する関係」にある。「価値性質」の段階。完了の段階。

    POINT:色や大きさ、価値は物(客体、客観的世界)だけ、主体だけに起因するものではなく、人間の行為と対象の「相関関係」において出現するもの。行為と対象の「関係性」こそが真に客観的に存在する。関係は人によって、状況によって変わるので、真理もその数だけ存在する。ミードの認識論的立場は「客観的相関論」、「実在的相関論」などと言われる。主観的な相対主義ではない。

    「これらの行為過程との相関性から,自然や事物は主として次のような三つの特性を現わす.これらは,有機体(人間)と対象が距離的関係にある場合としての「遠隔性」(distant properties)(色・音・香り等)であり,手による接触的関係にある場合としての「接触性」(contact properties)(大きさ・形・重さ・運動・抵抗など)であり,目的を実現・達成する関係にある場合としての「実現性(価値性質)」(consummatory properties,”adjective of value”)である.以上の対象の三特性を経験することは,ミードのタームに従うと,それぞれ「遠隔経験」(distant experience),「接触経験」(contact experience),「達成経験」(consummatory experience)である.色・音・香り・味・触れた感じ(冷暖・平滑性等)・大きさ・形・重さ・運動・抵抗・価値性質等は,客体および主体のいずれにも起因するのではなく,人間(有機体)の行為と対象との相関関係において出現するのである.上述した多様な三つの経験の世界が,ミードのしばしば使用するタームである「あるがままの世界」(the world that is there)である。人間(有機体)の行為と対象との「関係性」(relativity)こそが,真に客観的に実在する,という意味において,ミードの認識論的立場は,「客観的相関論」(objective relativism)ないしは「実在的相関論」(realistic relativism)と特徴づけられるのである.」

    笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」,81-82P

    目的追求行動、コンフリクト、行動は意識である

    ・ミードにとって重要なのは誰の目にも見えるというようなワトソン的な「客観性」というよりも、意識は行動(行為)であり、内的行為として扱うことができるというアイデア。

    そうした意味で、ミードは「行動主義」を自ら名乗った。純粋に考えれば、客観的、直接的に観察できない「意識」を行動によって観察するというのは「行動主義」と矛盾しているように見える。しかし、外的行動の中に内的なものが含まれていて、それを間接的に観察は可能であるとミードは考え、行動から観察できる範囲をワトソンよりも拡張しようとした。

    そうした意味で、ワトソンの行動主義よりも適切な行動主義として、「社会的行動主義」が位置づけられる

    1:有機体(人間)は目的追求行動をする。例:食欲を満たすという目的のために、パンを食べるという行為をする。熱いものに触れて反射的に手を離すといったものは行為でも、目的追求行動でもない。動物でもする行動。反射と内省は違う。内省は遅延反応によって生じる人間特有の過程。

    2:ただし、意識は「コンフリクト(対立)」の状態でのみ意識が発生する。ほとんど習慣的、自動的な行動は自分を対象化しにくい。たとえば仕事で上司とトラブルが起きたときなど、そうした場合に相手の立場から自分(客我)というものを考える自分(主我)が生じ、問題解決のために創発的な意識を働かせる。目の前にパンがあれば動物と同じように自動的に食べてしまうかもしれないが、友達のパンであれば一旦立ち止まり、食べたら相手は自分のことをどう思うだろう、というように遅延反応(内的行為)を通してから外的行為(食べる)へ至る。実際に食べ終わった後(完了後)に、こういうことを考えていたんだ、というように内的行為、主我によって再構成された客我を間接的に認識し、価値付けられる。行為に関連付けて意識や意味、価値を考える。行為として現れないと捉えにくい。

    「ミードは意識を内的行為(行動)と捉えた。意識=行為である以上、ミードの心理学は行動主義たらざるをえない。中期に到達していたこの見解からいって、後期ミードが行動主義を名乗るのは当然の成りゆきだったのである。こうしてミードにとって行動主義導入のもっとも重要な意義は、ワトソン流の行動主義が標榜する「客観性」にあったのではない。意識を行為(行動)として扱うこと、ここにあったのである(1925:p.251」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」,54P

    【2】社会心理学的説明

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーションとは、意味
    POINT

    意味のあるシンボル交換によるコミュニケーション・:行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致するとき、「有意味」という。そしてこの場合の他者を、「意味のある他者(重要な他者)」という。※「一般化された他者」であっても「有意味」という。動画では記載し忘れていましたm(_ _)m。多くの他者とコミュニケーションを行うためには、重要な他者だけではなく「一般化された他者」を自分の中に形成してく必要があります。重要な他者・一般化された他者については次回の記事で詳細を扱っています。

    「そしてミードは、行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない、と言う。行為の有意味性は、他者たちが最初の行為をどのような刺激として受け取り、それにどのように反応したかということをいわば基準とし、それと同じように行為者自身が自分の行為を他者が受け取ったような刺激として受け取り、他者がするように反応できるかどうかということにかかっている、というわけである(4)。「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“standoveragainst”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P

    シンボルとは、意味
    POINT

    シンボル(symbol)・ジェスチャー、サイン、言葉など。日本語でいうと記号。

    「つまり、『意味のあるシンボル』となるのは自分が自分自身であると同時に他者でもありうる能力を通じてである。つまり、『意味のあるシンボル』とは『他者に向けられた時に自分に産められ、また自分に向けられる時に他者にも、それも形式上はすべての他者に向けられるようなジェスチュア、サイン、言葉』(Mead,[1922]1964-246.訳二五頁)」

    「ジョージ・H・ミード」、78P

    ジェスチャーとは、意味
    POINT

    ジェスチャー(gesture)・身振り、個体が行為しようとする構え、態度のこと。行為の内側にある領域。外側には現れないが、行為に属するものとミードは考える。ワトソンが軽視している要素。

    ・ジェスチャーは行為者だけの意識の状態や、心的な構成物ではなく、他者の反応として客観的に存在するものだとミードはいう。たとえばコミュニケーションにおいて「好きです」と言うことによって他者が「私も好きです」と反応した場合などが挙げられる。自分の中の仮定による相手(客我)の反応と、相手の実際の反応が一致しているとき、ある人間の意識だけといった主観の把握ではなく、他の相手を通して客観的に把握できる可能性が開ける。告白のケースでは実際に発音する前に、内的行為において相手の立場になって、自分が告白したら「私も好きです」と言ってくれるだろうなと予測している態度、身振りのイメージ。

    ・特に音声ジェスチャーは他者と自己の両方の耳に入っていくため、コミュニケーションにおいてお互いの反応の一致を把握しやすい。自分の仮定(ジェスチャー)が外的行為(音声器官)によって、その一致が検証されるイメージ。自分の顔や表情などのシンボルはわかりにくい。

    「ではどのようにして行動主義の用語で意識が説明されるのであろうか。ミードは次のように論じている。「…行為の一部は生物体の内側にあり、それはただ後になって表出されるにすぎない。ワトソンはまさにこの部分を見落としているのである。行為の内側にある領域があり、それは外側には現われないが、行為に属するものである。そのような内的な生物体の行動の特質は、我々自身の態度(attitude)の中に、とくに会話と結び付いた態度の中に現われる。」(MSS:p.6=訳pp.8-9)こうしてミードは、意識を行動主義の用語で「説明」するための必要概念として、「行為の内的側面」、あるいは「態度(attitude)」の概念を導入するのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」49P

    「有意味だと行為者が思っているだけ、『つもり』では有意味シンボルの交換にはならない」

    ・「おはよう」という音声ジェスチャーが相手に適切な反応、自分と同じ反応、を生じさせない場合、意味のあるシンボル交換とはならない。自分が「通じるだろう」と内的行為では仮定して、有意味だと思っていても、実際に音声器官によって外的行為を行い、相手が適切な反応をしなかった場合、それは有意味なシンボル交換を行ったとはいえない(有意味シンボルを交換したつもりにすぎない)。たとえば挨拶に反応してくれると予測したのに、無視されたなど。お辞儀をしてもある部族では敵対の意味として捉えられてしまうかもしれない。同じ日本人だから有意味シンボルになるコミュニケーションもある。

    ・シンボルが他者にも共通の意味として、有意味になるためには、共通の意味世界、「一般化された他者」も想定されている必要がある。ふつうはこういう状況ならこういう意味だよね、というような前提。日本における一般化された他者は、「おはよう」といえば「おはよう」と返してくれる前提がある。もちろん、特定の日本人は「返してくれない」という反応をされる場合もあり、その他者に対するイメージも再構成されていく(客我の変化)。

    ・必ずしも辞書的な言葉の意味ではなく、相手によって「ふざけるな」は「もっとやれ」という意味で一致する可能性もある。特定の他者の反応と、一般化された他者の反応の予測の2種類がある。特定の他者とはコミュニケーションできても、違う他者になった瞬間に、一般化された他者の反応を予測しないとコミュニケーションできない場合もある。コミュニケーションのたびに相手への印象、自分の中の他者は変わっていく(自我は流動的)。

    POINT:社会的行動主義のフレームの中では、自己・行為者の行為は、彼が行為した(つもりの)ことではなく、他者が観察したこととして捉えられる。それゆえ、ある行為は、それを行ったと見なされるある特定の個人に帰属させて捉えられるものというよりも、それを何らかの行為であると同定する他者の観察、そしてさらに、その行為を捉えたことに対する他者の反応と、関連づけられ、その文脈の中で意味を持っていくことになる。ここにミード独自の、行為・意味論の端緒が展開される。

    POINT:ハンプティ・ダンプティの行為は、彼が行った(つもりの)ことではなく、アリスが受け取ったその行為であり、彼女がそれをどう受け取ったのか、彼女のそれに対する反応が、彼の行為に意味を与えるのである。そしてミードは、行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない、と言う。「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる

    「第二に、この社会的行動主義のフレームの中では、自己・行為者の行為は、彼が行為した(つもりの)ことではなく、他者が観察したこととして捉えられる。それゆえ、ある行為は、それを行ったと見なされるある特定の個人に帰属させて捉えられるものというよりも、それを何らかの行為であると同定する他者の観察、そしてさらに、その行為を捉えたことに対する他者の反応と、関連づけられ、その文脈の中で意味を持っていくことになる。ここにミード独自の、行為・意味論の端緒が展開される。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P

    「ハンプティ・ダンプティの行為は、彼が行った(つもりの)ことではなく、アリスが受け取ったその行為であり、彼女がそれをどう受け取ったのか、彼女のそれに対する反応が、彼の行為に意味を与えるのである。そしてミードは、行為者によって発せられる行為によって他者にもたらされた効果と、行為者自身にもたらされた効果とが一致しないとき、初めの行為者の行為を「有意味(シグニフィカント)」でない、と言う。行為の有意味性は、他者たちが最初の行為をどのような刺激として受け取り、それにどのように反応したかということをいわば基準とし、それと同じように行為者自身が自分の行為を他者が受け取ったような刺激として受け取り、他者がするように反応できるかどうかということにかかっている、というわけである。「他者に影響を及ぼすように自分身にも影響を及ぼすとき、それは有意味シンボルとなる」(Mead:1927CL)のであり、「それは人間の自分自身であると同時に他者になれる能力」(Mead:1922)を通じて実現されるのである。そこにイメージされているのは、個人・対・他者(たち)という二項対立的な構図において他者たちに対して孤軍奮闘し行為する人間の姿、ブルーマーの強調するように、世界や他者に対して立つ(“stand over against”)(Blumer:1962)人間の姿ではないようである。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,316P

    他者の役割交換とは、意味

    POINT

    他者の役割取得(ole-taking of theo ther)・他者の自分に対する態度、役割、期待などを認識、取得し、他者の立場になって役割を行為できる準備が完了すること。

    コミュニケーションによって相手の役割を取得することにより、自分というものが客体化され、対象化され、客我が形成される。さらに客我は主我によって調整され、自我が形成されていき、行為(役割演技)となる。

    例:AはBに反省してほしいという意味で「ふざけるな」と言うとする。

    ①Aが実際に外的行為として口を動かす前に、内的行為の中で、相手の立場になって相手の反応を仮定する(他者の役割取得という)。ふざけるなと言ったら相手は反省するだろう、と仮定するとする。この仮定における相手が「客我」であり、客我に対して主我の反応が「反省するだろう」という予測である。

    ②BはAから「ふざけるな」といわれて、「相手は怒っているから反省しないといけない」と感じた場合、Aにおきた効果とBにおきた効果は一致している。効果が一致しているからこそ、コミュニケーションが成立する。

    ③大事なのは、効果が一致しているということは、Aの客我がBの反応によって間接的にわかるということであり、Aの主我がAの客我に対してどう反応したかも間接的にわかるということである。そして、そうした自我の把握はAとBの2人の相互行為によって、社会的条件によって把握できるということである。

    →社会的条件によって、さらに行動によって「内的なもの」を間接的に説明する立場を「社会的行動主義」という。

    人間以外の動物に意識は発生するのか

    ・ジェスチャーは個人単独の所有物ではなく、他者とのやりとりによって生じる社会的な構成物。

    ・オウムは音声シンボルを使うことはできるが、その好意の意味を意識しているわけではない。

    →他者とのやり取りとは、「役割取得」であり、役割取得は意味のあるシンボルの交換、つまり「コミュニケーション」によって生じる。

    ジェスチャーの意味を意識しているのは人間だけ

    ※意味の意識については次回の記事で解説します。

    「人間以外の動物においては『音声ジェスチュア』によって他の動物に引き起こすものと同一の反応を自己のうちに引き起こすことはない。オウムや九官鳥は自分のしゃべっていることが他の鳥に一定の反応を引き起こすことを意識しないし、他の鳥に対すると同じ仕方で自分自身を刺激することがない。これに対して、人間の場合は他者のうちに引き起こすのと同一の反応を自己のうちに引き起こすことができる。人間において『意味のあるシンボル』は他者にも自分にも同一の反応を引き起こす。」

    「ジョージ・H・ミード」,79P

    内的なもの、精神、意識、思考、自我等々をどうやって説明するのか

    ・「内的行為」の仮定がどのようにして「精神、意識」の科学的、経験的な観察へとつながるのか。

    Q・内的行為があると定義、仮定しただけでは、人間には主観的な領域がある、精神があるといっているのと変わらない。具体的にどうやって観察対象とするのか、どうやって意識や精神を科学的に説明するのか。

    →社会的行動主義は、生理学的、社会心理学的、行動主義心理学的、機能主義心理学的といったようにさまざまな学問による説明を統合し、包括的に説明する立場。内的なものは社会だけが生み出すわけでもなく、独立した個人の行動だけでもなく、中枢神経系だけが生み出すわけでもない。

    ①生理学的な説明

    ・行為の内的側面、具体的に言えば「遅延反応」は、中枢神経系内で進行している。他の動物は遅延反応がないため、自動的に、反射的に、刺激からすぐ反応へ移行する。人間は環境に対して生命維持のために無限に適応しようとする存在である(進化論的説明、遺伝学的、生物学的説明)。

    POINT:行為は内的な側面と外的な側面、内的行為と外的行為に分類されるが、内的側面や内的行為は「主観的な世界がある」という意味ではなく、「特定の生理学的、生物学的状態」をさしている。したがって、内的側面(精神、意識など)は科学的、経験的に観察することが可能である。※経験は一般に、五感などの知覚で刺激を受け取ることができるということ。たとえば氷に触れば冷たいとわかる。氷などの物に触らずに、非経験的に冷たさを理解することができるか。重力を実験(行為)せずに存在を確認できるか。触ったり行為したりして、経験的に観察することが経験科学。

    例:発達した人間の脳は対象に対する直接的、本能的反応を遅らせることができる。この「遅延反応」があるからこそ、人間特有の「知覚」や「操作」という段階が生じ、この段階で「自我、意識、精神」が生じる。たとえば中枢神経系に障害がある人間が自分を意識できない、というようなことが観察できれば、中枢神経系にはそうした機能がある、と仮定することができる。

    ②機能主義心理学的、行動主義心理学的な説明

    POINT:心的なものはどのような機能をもつかを科学的、経験的に観察することが可能である

    →「内的行為」にはある「機能」があると仮定する。機能があると説明することは科学的な観察である。機能主義心理学とは、デューイが提唱したものであり、「人間の主観、意識、思考をそれが果たす機能の観点からとらえようとする学問」です。たとえば鳥の翼は空を飛ぶ機能がある、という説明は客観的なものであり、誰か一人だけの主観に偏った説明ではありません。それと同じように、心的なものを機能という観点から説明することによって、経験的・科学的な把握を試みようとしたわけです。機能そのものは科学における重力と同じように見えませんが、物に作用していることは確認できるわけです。三角形そのものといったようにイデア的なものではありません。

    →ミードは人間の行動(行為)を刺激と反応だけではなく、衝動、知覚、操作、完了の4つに分解した。この中で知覚や操作は人間に固有の領域であり、特定の機能をもっていることをミードは証明した。問題的状況に対して選択的、主体的、積極的な機能をもつとミードはいう。

    ③社会心理学的な説明(社会的な条件から心理を説明する)

    POINT:「役割取得」を通して、プレイやゲームを通して、自我が社会的に形成されることを説明することで、科学的、経験的に観察することが可能である。

    →「内的行為」は個人単体で成立するものではなく、他者との関わりにおいて、コミュニケーションにおいて、社会において成立するもの。

    ・内的行為は個人の私的な領域のみで構成されているわけではなく、社会的な性格をもっている。したがって、経験的、科学的に観察することができる。人間はプレイやゲームを通じて「一般化された他者」や「特定の他者」の態度として自己の態度を形成するようになる。自我は主我と客我からなり、客我は主に一般化された他者からなり、主我は客我に対する反応であり、客我はその反応を通して再構成されていく。客我とは言い換えれば「客観的自我」であり、他者や社会的立場に身を置いてコントロールする機能である。

    整理用

    生理学とはなにか、意味
    POINT

    生理学(physiology)・一般に、生体の機能、すなわち生物の体の働きを研究する自然科学の一分野(「日本大百科全書」)。

    機能主義心理学となにか、意味
    POINT

    機能主義心理学(機能心理学,functional psychology)・意識内容の分析を主とし、意識現象を要素の結合で説明する構成心理学に対して、有機体と環境との生物学的関係を重視し、環境への適応の機能として意識をとらえ研究する心理学。一九世紀末から二〇世紀にかけて提唱され、デューイによって基礎づけられ、エンジェル、ミードなどによって体系化された(「日本国語大辞典」)。

    1:ミードは最初、心的なものをそれが果たす「機能」の観点から捉えようとした。それが経験的、科学的な手法だと考えていた。

    2:しかし、機能主義心理学の「個人的性格」に不満を抱くようになった。他者との関係において考えるという「社会」の要素が軽視されていた。

    3:「社会」という条件、および心的なもの機能、生理学的な機能等、統合して分析する立場が「社会的行動主義」であるといえる。

    「デューイらによって提唱された機能主義心理学は人間の主観、意識、思考をそれが果たす機能の観点からとらえようとする。人間が障害や妨害また禁止などに出会い、従来の行為様式が役に立たなくなる『問題的状況』においては行為が一時停止し、『遅延反応』が生じる。そこにおいて反省的思考が活性化し、状況を乗り越えさせるようになる。このような人間の内的なものの問題解決機能を明らかにするのが機能主義心理学である。異m-度は、デューイとともに、機能主義心理学の確立を目指した。この機能主義心理学がミードの『社会行動主義』を生み出す源泉となっている。」

    「ジョージ・H・ミード」42P

    「このように、ミードは内的なものをいかにして経験的、科学的にとらえうるかを追求し、行為においてそれがはたす機能の観点からアプローチすることを試み、機能主義心理学の発展に力を注いだ。しかし、やがて、機能主義心理学の個人的性格に不満を抱き、それが『行動の社会的性格、また、マイドンや内省的思考の行動的性格を十分に強調していない』(Miller,1973:xxix)と感じるようになった。そして、内的なものがそれだけで存在するのではなく、他の人間とのかかわりにおいて社会的に形成され、展開することを見い出していった。」

    「ジョージ・H・ミード」44P

    社会心理学とはなにか、意味
    POINT

    社会心理学(social psychology)・一般的に、社会心理学は「心理学的な社会心理学」と「社会学的な心理学」に大別することができるという。「心理学的な社会心理学」では「社会的文脈の中で個人の行動や心理」を研究対象とし、「社会学的な心理学」では「社会性成員に共有されている行動や心理」を対象とする。

    POINT:ミードの社会心理学とは「心理学的な社会心理学」に近いイメージ。さらにそこから「行為」を規準に「社会的文脈の中で個人の行動や心理」を研究対象とするという意味で、行動主義的、あるいはプラグマティズム的だということができる。つまり、「社会的行動主義」という用語がマッチする。

    「社会学と心理学との境界領域に立つ科学。研究者の学問的背景や関心の方向によって、対象や方法に差が見られるが、大別すれば『社会的文脈の中で個人の行動や心理』を研究対象とする心理学的な社会心理学と、『社会性成員に共有されている行動や心理』を対象とする社会学的な心理学にわけられる。前者では、分析のレヴェルも個人に置かれ、社会的認知、社会的態度、パーソナリティ形成などが具体的な研究対象となる。後者では、社会的レヴェルでの集合行動、社会意識、社会的性格などが対象として扱われる。」

    「社会学小辞典」257P

    行動主義心理学とはなにか、意味
    POINT

    行動主義心理学(行動主義,behaviorism)・心理学を心の科学、意識の分析とすることに反対し、それを行動の科学とすることを主張する立場。20世紀はじめワトソンによって最も徹底的に主張され、そえまでの意識心理学(consciousness psychology)の内省的方法を批判して、パづロフの条件反射理論にもとづいて人間行動を刺激と反応の単純な結びつきかあ理解し、客観的に観察可能な行動だけを心理学の対象とすることが強調された。

    POINT:意識界と物理界との相関関係を見いだすために、行動主義が重要。しかし従来のワトソンによる行動主義ではそれができず、また構成心理学や意識心理学でもそれができなかった。それにゆえに社会的行動主義的なアプローチが必要とされる。

    「「心理学は意識を取り扱うのではなく、個人の経験を、それを進行させている条件との関係において取り扱うものである。そのような条件が社会的なものである場合に、それは社会心理学となる。経験へのアプローチが行為を通じて行われるところで、それは行動主義的となる。」(MSS:pp.40-1=訳p.45)つまり、社会的行動主義は、行動主義心理学と社会心理学とのふたつのアプローチを統合した立場なのである。ここで、先ほど見た中期の立場と、この後期の立場とを比較すれば、中期において生理学的心理学であったものが、後期においては行動主義心理学に代わっているのが分かるであろう。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」46P

    「行動主義:心理学を心の科学、意識の分析とすることに反対し、それを行動の科学とすることを主張する立場。20世紀はじめワトソンによって最も徹底的に主張され、そえまでの意識心理学(consciousness psychology)の内省的方法を批判して、パづロフの条件反射理論にもとづいて人間行動を刺激と反応の単純な結びつきかあ理解し、客観的に観察可能な行動だけを心理学の対象とすることが強調された。この立場は、しだいに修正を余儀なくされ、個体の主体的な条件についても考慮する立場(新行動主義)への……」

    「社会学小辞典」178P

    構成心理学とは、意味
    POINT

    構成心理学(structural psychology)・一般に、複雑な精神現象を要素に分解し,それらを結合して心的過程を説明しようとする要素主義心理学をいう。この立場は,純粋な基本的感覚と単純感情という要素によって精神過程を説明しようとした W.ブントの心理学に始り,その考えを徹底させ,純化させたのが E.B.ティチェナー(「ブリタニカ国際百科事典」)。

    「しかしミードによれば、構成主義心理学は次のような過ちを犯してしまったという。すなわち、意識界と物質界とをパラレルなものと認めながらも実質的には分離したままにした、意識界と物質界との相関関係を問題にすることができなかったというのである。構成主義心理学は、意識界と物質界を関係づけるのではなく、むしろ意識界によって物質界を一方的に説明しようとした、といっ47てよいであろう。例えば、赤色という観念に相当する中枢神経系内の要素があると仮定されたように、である。このままでは意識を説明することはできない。なぜなら、中枢神経系のどこにも赤色に相当する要素は存在しないからである。ミードは、この問題を解決するために、つまり意識界と物理界との相関関係を見いだすために、行動主義が重要だというのである(cf.MSS,p.40=訳pp.44-5)」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」47-48P

    身振り状況とは、意味
    POINT

    身振り状況・自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなもの。例:犬の喧嘩やフェンシング

    ※次回扱います

    「社会的状況においてのみ、自分の行為に注意が向けられるのだ、とミードは主張する。ここでミードが言う社会的状況とは、同じ種の他の生物体との身振り会話の状況であり、このアイディアは、周知のとおり、彼がドイツで学んだW.ヴントから来ているものである。身振り状況とは、ミードによれば、自らの反応が相手の次の反応の刺激となり、相手の新しい反応が自分の次の反応への刺激となっているようなものである。ミードが好んであげる例は犬のケンカや、フェンシングである。一方の出方が相手の次の出方を変える。状況はめまぐるしく変わっていく。反応は様々であり刺激も様々である。ここではコンフリクトの絶え間ない持続が見られる。そして、自らの反応が相手の次の反応、つまり自分に向けられる次の刺激を決定するが故に、自分自身の反応が次の状況を決める大きな要因となっている。当然、生物体は、状況にうまく適応するために、自分自身の反応にも注意を向けるようになる。こうして社会的状況においてのみ、自分の反応(身振り)に対して注意が向けられるような状況が生じてくるのである(1910c:p.404)。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」55P

    「行為者が何をしたか、ということは、他者が何を見たか、という問を通して捉えられうるものとなる。このことを概念化しているのが、ミードの「身振り」概念である。「身振り」は、「社会的行為の第一義的に外的に開かれた位相」(Mead:1910)、「社会的行為の部分であり、そのプロセスを完成する刺激を成す」(Mead:1927CL)ものとして、社会的行為に関わる個人間の相互適応を媒介する。身振りとは、他者が行為者から受け取った刺激なのであり、それによって他者は最初の行為者に対して、適応的な反応を返すことができる。行為者の身振りは、他者がそれをある刺激として受け取った限りで、ある身振りとして捉えられるのである。そして相互行為のプロセスは、ミードによれば、このような「身振り」による「身振り会話」(MSS47etc.)なのである。」

    岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」,312P

    精神とはなにか、意味
    POINT

    精神(mind)・反省的意識。※次回扱います。

    「意識は以上のような条件のもとで発生してきた。列挙するならこうである。(1)ライフプロセスの存在。(2)本能的直接的反応の抑制と、内的行為と外的行為との区別。(3)それを可能にする中枢神経系。(4)社会の先在。(5)他者として反応することと、それを可能にする有声身振りのメカニズム。こうして、すべてが揃ったところで、(6)感覚刺激と他者としての内的反応との結合が可能となり、有意味シンボルが現われることとなる。この有意味シンボルが、反省的意識を形成する。そしてこれが精神(mind)と呼ばれているものである。人間の意識精神とはこうして、他者の態度をとることによって、動物的環境が生物体自身の身体の状態にまで拡張されたものなのである。」

    山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」47P

    参考文献

    主要文献

    G・H・ミード「精神・自我・社会」

    船津衛「ジョージ・H・ミード―社会的自我論の展開 」(シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    参照論文(論文以外を含む)

    1:小林さや香「ミードとプラグマティズム」(URL)

    2:徳川直人「G.H.ミードの社会理論一再帰的な市民実践にむけて」(URL)

    3:山下祐介「G.H.ミードの心理学(上)」(URL)

    4:西城卓也「行動主義から構成主義」(URL)

    5:岩城千早「G・H・ミードの「社会的行動主義」-相互行為プロセスへのパースペクティブ-」(URL)

    6:大賀祐樹「伝統的なプラグマティズムとローティのネオ・プラグマティズム」(URL)

    7:平川茂「G・Hミードの『自我論』再考」(URL)

    8:笠松幸一「G.H.ミードの役割取得行動論と物的対象」(URL)

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    蒼村蒼村

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    創造を考えることが好きです。
    https://x.com/re_magie

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