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創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(3)劣等感とはなにか
- 2024/5/1
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はじめに
動画での説明
・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
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アルフレッド・アドラーとは、プロフィール
・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者、精神科医
・主な著作は『器官劣等性の研究』。
・フロイト、ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる。
・フロイトと袂を分かち、独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた。日本ではあまり知られていなかったが、岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり、多くの人に知られるようになった。
前回の記事
動画の分割について
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(1)心理学の基礎知識
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(2)アドラー心理学の理論
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(3)劣等感とはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(4)劣等コンプレックスとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(5)ライフスタイルとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(6)ライフタスクとはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか
創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(8)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか
記事が長すぎて重いので8つに分割することにしました。動画では1つにまとめています。長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが、どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません。
劣等感
劣等感とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
劣等感:「主観的に他人より劣っている」 と思い込むこと。
課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみであるという。身体器官、容貌、性、能力、社会的経済的条件など、さまざまな事実・出来事に対して生じうる感覚である。アドラーは劣等感を、優越性の追求とともに病気ではなく、「健康で正常な努力と成長への刺激」であると述べている。
例:ある出来事や事実にたいして貧乏だ、ブサイクだ、頭が悪いなどと意味付け(認知)を行い、自分を劣等だと主観的に感じること。
重要なのは「主観」が関係するという点である。この主観による意味付けが変わればある事実が短所であるとも長所であるとも変わりうる。優柔不断は慎重とも解釈できるし、ノロマとも解釈できる。何事にも裏と表があり、コインのようなものである。主観によって自分が「選択」することができるという点にポイントがある。
アドラー心理学では悲観主義(この先悪いことしか起きない)と楽天主義(この先良いことしか起きない現実逃避)を避け、楽観主義(この先良いことも悪いことも起きるという現実直視)を推奨する傾向がある。自己否定と自己肯定を避け、自己受容をするというわけである。自己受容については共同体感覚の項目で扱う。
偏差値が70ある高校生も偏差値が71ある別の高校生に対して劣等感をもつことがある。別の人から見たら「そんなものに劣等感を覚えるのか?」ということもありうる。
これは、事実や出来事から必ず劣等感が帰結するわけではなく、その人特有の思考、解釈によって劣等感が帰結するかどうかが決まることを意味している。例えば負けず嫌い、競争好きの性格ならば、好ましくない事態であると解釈し、偏差値が1違うだけでも劣等感を強く覚えることはありうる。
「アドラーは性本能という概念を不要とし、劣等感(ingeriority feeling)とその補償という概念で人間を理解しようとした。すべての人は身体器官、容貌、性、能力、社会的経済的条件などに劣等感を抱き、それを補償しようとして、自らの生き方を決める。劣等感は、客観的な劣性ではなく要求水準の高さによる場合も(この場合は優劣感情の裏返しといわれる)、幼少期に与えられた否定的な評価による思い込みの場合もありうるが、どんな場合も、人の心に、自己評価を高めること、すなわち下から上へ、負から正へ、劣等から優越への要求(striving for superiority)を生じさせる。」
「キーワードコレクション 心理学」,281P
「自分の心で劣等と感じていること。理想や目標と、現実のギャップによって産まれます。たとえばその人が平均以上の能力をもっていても、本人が引け目を感じていれば劣等感が生まれます。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20p
「アドラーは『優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である』と語っています。劣等感も、使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となるのです。」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,80p
「器官劣等性」
「器官劣等性」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
器官劣等性(劣等性):身体機能が客観的に他人より劣っていること。例:身体の障害や持病、身長など。
劣等感が「主観的」であるのに対して器官劣等性は「客観的」であるという特徴がある。
・器官劣等性は客観的に推し量れるという点にポイントがある。
ただし、ある人が客観的に「劣っている」からといって、その人がその事実に対して「劣等感」を覚えているとは限らない。両者は異なるものである。
そもそも身長が低いことが事実として劣等というのも、言い方の問題である。単に、モノサシで測れば身長が他の人より低い、物理的に指や手がない、数値的に視力が低いといったものを指しているだけに過ぎない。そうした事実が「社会的に高く評価されるか、有利な経済条件に置かれるか、機会に恵まれるか」、どういう「基準」を用いるかはケースバイケースとなる。要するに、「プラス」と評価できる余地はどの器官劣等性にもあるといえる。
たとえば岸見さんは身長が低いことで相手を安心させるというプラスがあるという例をあげている。
なんだ、「ものは言いよう」ではないか、「屁理屈」ではないかと反論がきそうだ。しかし、「ないものはない」のである。「あるものでなにができるか、プラスの側面はないか、他の面で努力してプラスに変えていこう」と考えていくしかない。アドラー心理学は「使用の心理学」である。器官劣等性を「言い訳」にしてライフタスクから逃げる悲観主義は単なる劣等感ではなく「劣等コンプレックス」になってしまう。アドラーは類型的に「器官劣等性」をもっている子どもは「劣等コンプレックス」をもちやすい「傾向」があることを認めている。しかしそれは不可避的な帰結ではない。
「身体機能が、客観的に他人より劣っていることを器官劣等性、主観的に『他人より劣っている』と思い込むことを劣等感という。」
「心理学用語大全」,119P
「客観的に推し量れる身体的な特徴で、身体の障害や背の低さ、持病などがあてはまり、アドラーは器官劣等性という言葉を使っています。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20P
劣等感の先天性
劣等感の先天性について検討
【大前提】人間という存在は社会的存在である。つまり、他者と基本的に関わらざるをえない。対人関係の中で人は生きていくのである。全く他者と間接的・直接的に関わらないで生きていくことは現代ではほとんど不可能である。
・アドラーは「劣等感を生まれつき与えられた感情」であると明言している。赤ん坊のころから、意識的な他者との比較をせずとも劣等感をもっている生き物である。人間は劣等感を大なり小なり感じざるをえない。
親のように自由に物を買いたい、自由に出かけたい、友達のようにスポーツ万能になりたい、頭が良くなりたいなどと劣等感をもつ。他者との比較だけではなく、自分の理想に届いていないという理由でも劣等感をもつ。
とはいえ、こうした自分の理想は他者との生活の中、文化の中で築き上げられていくものでもあり、他者との関係の中で生じてくるものだと言える。食べ物や安全といった単純な生存欲求ならともかく、他の優越欲求は真空の中で突然ふとわいてくるものではないだろう。それゆえに、人間が社会的存在であることが劣等感と強く関係しているといえる。
・人間は劣等感のなかに落ち着くことはできない。
・アドラーは「強い劣等感は恵みとして与えられている」と明言している。劣等感が克服や努力、生命の確保へと向かわせるという。
・アドラーは「克服を目指す努力が植え込まれている」と明言している。こうした努力をアドラーは「進化」と解釈している。また努力の際の性質を「創造力」とも表現している。
極端な話として、ゴリラや狼に人間が育てられたとする。そして他に人間が居ないと仮定する。この場合、この人間に劣等感は生じるのか。正直わからない。たとえば、他のゴリラと違って自分は素早く動けない、力が弱いと感じることはあるかもしれない。
ではゴリラや狼すらいない世界を想定してみる。木の上のリンゴを取ろうとしても取ることができない。もっと腕が長ければリンゴをとれるのに、どうして自分の腕は長くないのかと劣等感を覚えるのか。あるいはそもそも「言語」を習得しなければ「認知」も生じないのか。
あるいは先言語的な段階でも程度の低い認知なら生じ、その中に劣等感も含まれるのか。このようにいろいろと想定することはできるが、現実問題として我々のほとんどは社会の中に生きており、言語を習得している。
それゆえに、こうした極端な前提を、科学的な事実を探求するよりも「現実の我々の生をよりよくする」という実践的な探求を優先することになる。少なくともアドラーはそうした実践的、現実的な探求を優先している。
「利口なひとたちはわたしが間違っていることを主張するために、子どもが劣等感をもつにはまず自分に十分な価値があると感じていなければならないと考えました。しかし、自分が不十分であることを感じるのは前向きな苦しみです。少なくとも、課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみです。これは生まれつき与えられた感情で、解消の必要なつらい緊張に似ています。緊張の解消は、フロイトの考えのように快楽に満ちている必要はありませんが、ニーチェの見解のように快楽が含まれていることはあります(訳注:フロイトの『快楽原則』。人間は不快を避けて、快を求めるという考え。ニーチェは、克服を目指す努力の中には苦悩も快楽もあると考えた)。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,102p「赤ん坊は満たされていないことを自分の動きで伝え、より完全な状態を目指して、生きるために必要なことを満たそうとします。同じように、人間の歴史的な行動も、劣等感とそれを解消する挑戦の歴史だと考えられます。
」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,102p
「個人心理学は、示される行動の意味を学習的にまとめようと努力してきました。何千もの可能性のあるなかから行動を解釈するには、2つの要素を見ます。一つは幼少期から続く要素で、マイナスの状況からの克服を目指し、劣等感から完全を求め、緊張の解消へ向かう欲求です。この要素は子供時代にはもう独自のさまざまな形で習慣づけられ、その後の人生でもずっと同じ形で行動として現れます。ひとによって微妙に違うので、観察者には芸術的な読解力が求められます。もう一つの要素では、行動するひとの共同体感覚、また共生への準備がどのくらいできているか、どのくらい足りないかをみます。…途切れることなく時間が推移していく中で行動を主導するのは、1つ目の克服を目指す欲求です。2つ目の共同体感覚の要素は、上へ向かうこの行動に色を加えます。」アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,99p
「このようなアドラーの考えに問題がないわけではありません。なぜなら主観的に自分が劣っていると感じるという意味での劣等感があるから優れようとする、また劣等感が人間を動かすというのは原因論的といわねばならないからです。そこで、やがて優れていることを目標とするということが最初にあって、その結果として劣等感を持つというふうにアドラーは考えるようになりました。」
岸見一郎「アドラー心理学入門」,64p
「人間であることは劣等感を持つことだと、わたしは以前から指摘してきました。もしかすると劣等感をもった記憶のないひともいるかもしれません。この表現を苦々しく感じて、別の名前を選ぶひともたくさんいるかもしれません。実際に何人もの学者のそうした行動を見ているので、わたしはとくに反対はしません。利口な人達はわたしが間違っていることを主張するために、子どもが劣等感をもつにはまず自分に十分な価値があると感じていなければならないと考えました。しかし、自分が不十分であることを感じるのは前向きな苦しみです。少なくとも、課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみです。これは生まれつき与えられた感情で、解消の必要なつらい緊張に似ています。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,101pキーワード:「克服を目指す努力が植え込まれている」,恵み
「自然からこんなにも冷たく扱われる人間に、恵みとして強い劣等感が与えられていることはだれの目にも明らかです。この劣等感が人間をプラスの情況、生命の確保、克服へと向かわせます。人類の成長の基盤として染み付いた劣等感に反抗せずにいられない欲求は、それぞれの赤ん坊や子どものなかで新たない呼び起こされ、繰り返されています。子どもは、よほどの障害がなければ、上へ向かう成長の流れにすでに乗り、肉体と精神の発展を促されます。子どもにも、克服を目指す努力が植え込まれているのです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,105p
「補償」
メルツァーの確保の原理とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
確保の原理:メルツァーによる「人間の体は生命の『確保』という原理で作られている」という原理。もし身体器官が傷つけば別の器官が支え、傷ついた器官からは修復のエネルギーが生まれるという。
自己保存の法則に加えてさらに確保の原理という能力を進化で手に入れたという話。アドラーの『器官劣等性の研究』と同時期の文書だという。
しかしこのメルツァーなる人物がなにものなのか、調べてもあまり出てこない。朝倉書店の辞書では「メルツァーの法則(反対神経支配の法則)」というものがある(この用語自体、2つともほとんど検索にヒットしない。英語で調べた限り、おそらく生理学者のSamuel James Meltzer(1851- 1920)ではないかと思うが確証は全くない)。
辞書では「すべての生体機能は常に相反する二つの力で支配されている。その一つは増強または活動であり、もう一つは抑制である」と説明されている。たしかにアドラーが紹介する確保の原理と合致するものがある。アドラーがいう確保の原理はダーウィン的な自己保存の法則に加えて、この「反対神経支配の法則」が加わったものなのだろう。
キーワード:確保の原理とは
「人間の体は、生命の『確保』という原理で作られています。メルツァーは1906年と1907年の『The Harvard Lectures(ハーバード講義)』で、この確保の原理を伝えています。これはわたしの『器官劣等性の研究』とほぼ同時期の文書ですが、確保の原理についてかなり深く書かれています。もし身体器官が傷つけば、別の器官が支えます。傷ついた器官からは修復のエネルギーが生まれます。すべての器官が通常の負荷がかかっているときより働くようになり、生存に必要ないくつもの機能などを1つの器官がもつこともよくあります。もともと自己保存の法則を備えた生命は、生物学的な進化によって、存在を確保するためのエネルギーや能力も手に入れてきたのです。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,103p
劣等感補償とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
劣等感補償:・「劣等感を補償しようとする心の動きが行動のエネルギーであり、優れていたいという優越欲求がそうした心の動きを生み出す」というアドラーの考え。
防衛機制のひとつとして紹介されることもある。フロイトとの違いは、性的エネルギー(リビドー)が人間を動かすことを強調するのではなく、劣等感こそが人を動かすことを強調する点にある。メルツァーの確保の原理を、物理面ではなく精神面から考えたものとも言える。
ただし、後にアドラーは「まず劣等感が人間を動かす、そして優越欲求が生まれるというのは原因論的である」と考え、「まず優越欲求が先にあり、その結果として劣等感をもつ」と考えを変更するようになったという。
おそらく、人間は先天的に完全を求める、優越を求めるという目的をもつ生き物であり、その結果として劣等感が生まれるということだろう。そして次に、そのギャップを「克服したい」という欲求が生じる。まず意志ありきであり、その落差で劣等感が生じるという順序が大事なのである。まず劣等感が生じ、次に克服の意志が生じるという順序だと、すべての行動はある種の受動的な劣等感に支配されることになってしまう。
キーワード:補償(compensation)
「アドラーの提唱した概念で、自分の弱点をカバーするために他の望ましい特性を強調することを指す。劣等感に由来する心理的緊張を、他の側面で優れることによって解消しようとする傾向である。」
「キーワードコレクション 心理学」,274P「アドラーはフロイトの精神分析に大きな影響を受けましたが、性的エネルギーが人間を動かしているとは考えませんでした。アドラーは防衛機制の中でも、特に補償を重要視します。劣等感を補償しようとする心の動きが行動のエネルギーだと考えたからです。アドラーによれば、他人より優れていたいという優越欲求がそうした心の動きを生み出します。」
「心理学用語大全」,118P「アドラーは1928年,劣等感補償の枠組みに重要な追加を行った。アドラーは論文「理性,知性,知能障害に関する簡潔なコメント」のなかで,私的な知性や理性とコモンセンスを区別した。後者は共同体感覚(世界に対する開放性と共感)と関連するものである一方,前者は共同体感覚の欠如によって特徴づけされる。アドラーは初期において,精神障害の核心を劣等感と補償に置いていたが,その考えを完全に捨て去ることはせず,のちに個人の人生における合理的で全般的な問題解決への行程に対する関心にシフトし,人生おける失敗は社会的感覚,つまりコモンセンスの欠如に由来すると記している4,p.53)。1936年のインタビューにおいてアドラーは,「共同体感覚を持たない子どもは常に自分の殻に閉じこもり,想像的に不満を大きくする」と述べ,さらに劣等コンプレックスについては,「それは一つの表現に過ぎない。今やあちこちで使われるが,私自身は滅多に使わない」と述べている。アンスバッハーは,イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は,コモンセンスの欠如であり,個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き,アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が,私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p
「Adler,A(1897-1937)アルフレ都度・アドラーはオーストリアのウィーン郊外に生まれた。ウィーン大学で医学博士号を取得。始めフロイトに師事したが、意見の対立により彼から離反して独自の理論を発展させた。彼は『劣等感』という言葉を作ったが、その劣等感を優越感に置き換えようとする補償の作用を重要視した。後にアメリカの大学で教授職についている。」
「キーワードコレクション 心理学」,22-23P
健全な補償と不健全な補償について
健全な補償:努力と成長を通じて劣等感を補償しようとすること。マイナスと感じていることを努力や成長を通じてプラスに変えようとすること。共同体感覚を伴った補償ともいえる。
過剰補償(不健全な補償):努力や成長といった忍耐を伴うような補償を避け、安易な補償に走ること。たとえば劣等感を言い訳に使う「劣等コンプレックス」や 、あたかも自分が優れているかのように振る舞ったり他者を貶めたりする「優越コンプレックス」が代表的な例である。共同体感覚に欠けた補償ともいえる。
・補償に失敗すると「劣等コンプレックス」が生じ、人は神経症的な非合理的行動に駆り立てられるという。補償に失敗したままでは感情的なしこりや軋轢が続くことになる。かといって健全に立ち向かう勇気もない。どうにかして対処しようとして劣等コンプレックスが生じるのである。
具体的な特徴として、(1)客観的状況を変えるための前進はしない態度(2)自我に脅威となる場面や相手を回避する非攻撃的な態度(不安、臆病)、(3) 自我に脅威となる場面や相手に接近する攻撃的態度(自己顕示、尊大、突っ張り)が見られるという。いわゆる「神経症」や「精神疾患」と呼ばれる症状が見られる場合もある。
もっとも、アドラーは劣等コンプレックス(および優越コンプレックス)を「ほとんど病気」だと述べている。
つまり、過剰補償は病気なのである。劣等感補償単体が後ろ向きな病気なのではない。劣等感を克服する努力や忍耐から逃げることが病気へとつながる。これは「勇気の欠如」とも関連する。そしてその勇気の欠如は「共同体感覚の欠如」とも関連してくる。
キーワード:過剰補償とは
「しかし補償に失敗すると、感情的なしこりやあつれき(劣等コンプレックス)が生じ、人は神経症的な非合理行動に駆り立てられる。人は、客観的状況を変えるための前進は一歩もせず、重要な人間であることを納得させるためのトリックを使う。それは、(1)自我に脅威となる場面や相手を回避する非攻撃的な表れ方(不安、臆病)をすることも、自我に脅威となる場面や相手に接近する攻撃的表れ方(自己顕示、尊大、突っ張り)をすることもあるだろう。」
「キーワードコレクション 心理学」,281Pキーワード:ほとんど病気
「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで、自身の課題を避けようとする姿勢です。過度な劣等感であり、アドラーは『ほとんど病気』と指摘しています。」
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20p
「克服」
「克服」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
克服の欲求:マイナスの状況からのプラスに、劣等感から完全を求め、緊張の解消へ向かう欲求。「克服を目指す努力」は子どもに植え込まれているという(先天的だという意味だろう)。
先天的とはようするに生まれつき備わっている性質・傾向のことである。先天的な性質にも順序があり、まず優越性の欲求、次に劣等感、そして克服の欲求が生じるということになる。これらはほとんど不可避的に生じるものであり、いわば同じコインの裏表のようにセットのものだといえる。卵か鶏かという話と同じで、事実的な因果関係の先後はあまり重視されないのかもしれない(ただし実践的意義としては先後が重視されるだろう)。
キーワード:克服の欲求
「個人心理学は、示される行動の意味を学習的にまとめようと努力してきました。何千もの可能性のあるなかから行動を解釈するには、2つの要素を見ます。一つは幼少期から続く要素で、マイナスの状況からの克服を目指し、劣等感から完全を求め、緊張の解消へ向かう欲求です。この要素は子供時代にはもう独自のさまざまな形で習慣づけられ、その後の人生でもずっと同じ形で行動として現れます。ひとによって微妙に違うので、観察者には芸術的な読解力が求められます。もう一つの要素では、行動するひとの共同体感覚、また共生への準備がどのくらいできているか、どのくらい足りないかをみます。…途切れることなく時間が推移死ていく中で行動を手動するのは、1つ目の克服を目指す欲求です。2つ目の共同体感覚の要素は、上へ向かうこの行動に色を加えます。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,99p
克服の方向について
- 克服が共同体感覚を伴うようなライフスタイルのもとで行われると、人間は幸せと感じることができる。
- 克服が共同体感覚の乏しいライフスタイルのもとで行われると、人間は幸せと感じない傾向がある。神経症を患ったり、自分の人生に不満をもつ。場合によっては「楽」ではあるかもしれないが、「幸せ」ではないという。
克服の「方向」は人によって異なるという。共同体感覚を伴う方向が前向き、伴わない方向が後ろ向きであるといえる。後者の場合はアドラーの表現でいうと「後ろ向きの前進」である。なぜなら、たとえ共同体感覚を伴わないという意味で後ろ向きであったとしても、本人の「善(ためになる)」にとっては前進だからである。楽でいたい、自分だけが楽でいられればいいということが善なら、ひたすらそこへむかうことになってしまう。
生きていくうえで「克服」は絶対に欠かすことができないという。アドラーは「生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらない」とまで述べている。この大きな理想の手段として様々な目的が設定されることになる。完全という理想ではおそらく「我々の善」というような共同の善が設定されるのだと考えられる。
・食糧問題を解決したい。もっと労働を少なくして食料生産をしたい。そのためには植物を研究する必要がある。そのためには観察機材を開発する必要がある。
このように無限のように広がる目的と手段の連鎖があり、その頂点の付近にアドラーが述べたような抽象的、理念的、極限的な「大きな目的」があるのである。いわば、同じ「大きな目的」のために創造的により小さな「目的≒手段」が設定され、そこに向かって人間は努力していくイメージになる。アドラーは職業に貴賤はないと考えていたそうだ。農夫であれ、総理であれ、サラリーマンであれ、主夫であれ、「すべての仕事は共同体の誰かがやらねばならないことであり、われわれはそれを分担しているだけ」と考えている。それゆえに、職業は「等価」だという。究極的な理想にむかって我々はそれぞれの目的・手段系列のいずれかに位置しているとも考えることができるかもしれない。「人間の価値はどんな仕事かではなく、仕事にどのような態度で取り組むかで決まる」ともいう。要するに、共同体感覚を伴った態度ということである。こうしてみると動機重視だといえる。
キーワード:「生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらない」
「しかし人間という存在は、劣等感の中に落ち着くことはできません。生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらず、上へ向かう道を見つけて、共同体感覚の方向へ進んだり、それに反する方向へさまざまな形で進んだりします。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,247pキーワード: 職業の貴賤、人間の価値について
「哲人『いいえ、外れません。分業という観点に立って考えるなら、職業に貴賤はないのです。一国の宰相、企業の経営者、農夫、工場労働者、あるいはそれを職業と見なされることの少ない専業主婦に至るまで、すべての仕事は「共同体の誰かがやらなければならないこと」であり、われわれはそれを分担しているだけなのです。』青年『どのような仕事も等価である、と?』哲人『はい。分業について、アドラーはこんなふうに語っています。「人の勝価値は、共同体において割り当てられる分業の役割を、どのように果たすかによって決められる』と。つまり、人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのだと。」
岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,192pキーワード:克服の方向について
「このとき、人間とは、克服を迫る劣等感をもつものだとわかるのです。求める克服の方向は、求める完全という目標と同じくらい、人によって異なります。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,75p
克服と劣等感の関係
- 人間は完全という理想(目的、目標)を生まれつきどうやらもっている。
- それゆえに、現実との落差により劣等感が不可避的に生じる。
- 劣等感をそのままにしておくことはできない。それゆえに、人間はそれを克服しようとする。つまり、劣等感は克服を迫る。全ての劣等感を完全に克服することは難しいが、しかし目標をもち、それに向かって努力することで劣等感は解消されていき、和らいでいく。
傷つかないことは楽であるが不満もある
傷つかないことは楽であるが不満もある。受験勉強から逃げる、就職活動から逃げる、友人や恋人をつくることから逃げることは「楽」であるかもしれない。しかし同時に「もしちゃんと勉強できていたら・・・就職できたら・・・友達と向き合っていれば・・・恋人がいたら・・・」という「不満」と「優越」も奥にひそんでいるのである。
学歴なんて意味がない、自分の価値と労働の対価が釣り合っていない、友達や恋人は時間の無駄、男はろくなもんじゃない、女はろくなもんじゃない、親が悪い、環境が悪い、運が悪い、お金がない、集中力がないと言い訳ばかりを述べて不満を正当化するのである。「共同体感覚の乏しいライフスタイル」は場合によっては「楽」ではあるかもしれないが、「不幸」だと感じる人が多いのではないか。
特に、劣等感が劣等コンプレックスとなる場合が好ましくない。言い訳のために劣等感が使用されるようになり、ライフタスクから逃げるように後ろ向きになり、自己中心的な人間になる。
劣等感の克服過程には快楽も不快も両方ある。快不快は努力の途中でもらえる助けやおまけにすぎないとアドラーはいう。
キーワード:快不快について
「しかし、わたしたちを囲む文化はつねに成長しています。文化にも存続を確保しようとする傾向があるので、反発を受けた人間は劣等感をもちつづけ、そこから行動を促されてもっと大きな安全を得ようとします。この努力にともなう快や不快は、途中でもらえる助けやおまけにすぎません。もし与えられた現実に適応するだけなら、甘やかされた子どもの世界観のように、他者の努力を利用するのと変わりません。」
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,104p
「優越性の追求」
「優越性の追求」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
優越性の追求:自らの足を一歩手前に踏み出す意志であり、理想の自分を目指す行動であり、先天的な欲求であるとされている。また、優越性の追求自体は「健康で正常な努力と成長への刺激である」とアドラーは述べている。
アドラーの考える健全な優越性の追求は「他者より優れていようとする欲求」ではないということに注意する必要がある。アドラーはこうした他者と比較して、蹴落とそうとする競争的な態度を肯定しているのではない。上下関係がない対等な「横の関係」に基づく優越性の追求を重視している。
・この優越性の追求が先にあり、その結果として劣等感が生じ、この劣等感を克服しようとする欲求が生じる。これらはセットであり、実質的にどれも人間の本質であり、本質的な欲求であるという。
・人間は大抵の場合、「完全という理想」を最初はもって追求していくが、「他の人々や物事を完全にはコントロールできない」という事実に直面する。次に理想と現実のギャップから劣等感が生じ、苦しむようになる。それゆえに、できるだけギャップをなくそうと「克服」を試行錯誤で一歩一歩行うようになる。この過程でさまざまな中間領域の優越という一種の「目的」が設定され、また解消され、また設定されの繰り返しのイメージである。この繰り返しの果てに「完全という理想」がある。たとえばたくさん食べたいという欲求は一時的に解消されるかもしれないが、安全の欲求や自己実現の欲求など、より上位のさまざまな目的・理想が中間領域で生じていくのである。
メモ:優越性の追求は人間の基本的な欲求である
「哲人『こう考えてください。「優越性の追求」というと、他者より優れていようとする欲求、他者を蹴落としてまで上に昇ろうとする欲求のように思われがちです。人々を押しのけながら階段をのぼっていくようなイメージですね。もちろんアドラーはそんな態度を肯定しているのではありません。そうではなく、同じ平らな地平に、前を進んでいる人もいれば、その後ろを進んでいる人もいる。そんな姿をイメージしてください。進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うけれども、みんな等しく平らな場所を歩んでいる。「優越性の追求」とは、自らの足を一歩手前に踏み出す意志であって、他者より上をめざさんとする競争の意志ではありません。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,
健全な劣等感と劣悪な競争の関係
健全な優越性の追求:他者との比較ではなく自分の理想との比較において生じる追求のこと。
また、そうした健全な優越性の追求からは健全な劣等感が生じやすい。また、健全な劣等感からは健全な克服が生じやすいといえるだろう。
・アドラーいわく、他者との競争的、嫉妬的な比較によって克服の目的を設定するよりも、理想の自分との比較のほうが健全であるという。
なぜかといえば、対人関係の軸に「競争」があると人間は対人関係の悩みから逃れることができず、結果として不幸になるからである。競争における勝ち負けを意識すると、他者は「敵」だと見なすようになったり、身長が低いせいで負けただけだといった「劣等コンプレックス」や「学歴が低いやつはしょうもない」といったような「優越コンプレックス」に浸るようになってしまう。また、他者の幸福に対して「私の負け」だと捉えてしまい、素直に喜べなくなってしまう。
キーワード:健全な劣等感とは
「哲人『健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、『理想の自分』との比較から生まれるものです。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,92p
それぞれの人間は「違う」けれども「対等」である
勝敗などの縦の関係ではなく横の関係で見ることによって、他者を「仲間」として見ることができる。
知識や外見などの「違い」で人間の価値は決まらないという。一体何で決まるのだろうか、と疑問に思う。岸見さんの説明では「今より前へ進もうとすることに価値がある」という。では「前」とは一体「何処」にあるのか。人それぞれの前があるのかもしれないが、やはりそこには「完全」や「永遠」という言葉で形容されるような、個人には還元できない目標があるのだろう。
※詳細は縦の関係、横の関係の項目で説明
メモ:優越性の追求と競争の追求は違う
メモ:どうして人は劣等感を抱くのか?
「哲人『まず、人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の欲求」と呼びました。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,79p
「哲人『他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう。しかし、われわれは「同じではないけれど対等」なのです。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,92p
「『哲人』知識や経験の量、それからとれる責任の量については、違いがあるでしょう。…しかし、そんなもので人間の価値が決まるはずもありません。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,93p
「哲人『いわば、縦の軸が存在しない平らな平面を、われわれは歩んでいる。われわれが歩くのは、だれかと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。』」
岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,93p
「哲人『対人関係の軸に「競争」があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。』」,95p
参考文献リスト
今回の主な文献
岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」
永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」
永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</p
岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」
岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」
アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」
アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」
心理学 改訂版 (キーワードコレクション)
汎用文献
米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」
トーマス・クーン「科学革命の構造」
真木悠介「時間の比較社会学」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」
マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」
参考論文
※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です
・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(URL)
・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(URL)
– 「共同体感覚」の定義の参照
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(URL)
– 統計データ、考察、成人版
千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(URL)
– アーレントの「共同体感覚」の参照。アドラーへの言及は皆無なのだが、しかし人類にとって切実であろうことを語っており、面白かった。これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる。ただし、私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず、今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)。
・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(URL)
– 認知行動療法について参考に。また、行動主義や機能主義についても参考になる
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(URL)
– 認知行動療法、不安障害について参考に
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(URL)
– アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳
– 論理療法、アドラーの主張についての理解
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(URL)
– アドラーの怒り、悲哀、不安などについて参考になる
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(URL)
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(URL)
– アドラー、フロイト、ユングなどの夢解釈について参考に
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(URL)
– 行動療法について参考に
・石倉陸人, 林篤司, 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(URL)
– 認知行動療法について参考に
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(URL)
– 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(URL)
– ファイフィンガー、二元論、デカルトについて参考に。ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ。
・小西 美典「法における擬制」(URL)
– ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる
・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(URL)
– メサイアコンプレックスの定義の参考に
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(URL)
– メサイアコンプレックスの説明の参考に
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