創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(8)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか

    Contents

    はじめに

    動画での説明

    ・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    アルフレッド・アドラーとは、プロフィール

    ・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者、精神科医

    ・主な著作は『器官劣等性の研究』。

    ・フロイト、ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる。

    ・フロイトと袂を分かち、独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた。日本ではあまり知られていなかったが、岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり、多くの人に知られるようになった。

    前回の記事

    【創造発見学第二回】創造性とはなにか

    動画の分割について

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(1)心理学の基礎知識

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(2)アドラー心理学の理論

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(3)劣等感とはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(4)劣等コンプレックスとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(5)ライフスタイルとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(6)ライフタスクとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(8)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか

    記事が長すぎて重いので8つに分割することにしました。動画では1つにまとめています。長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが、どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません。

    3つの技法

    3つの技法について

    野田俊作さんによると、アドラー心理学に特有の「心理療法」ではライフスタイル分析、エピソード分析、勇気づけの3つが主に行われているそうだ。今回は主に「勇気づけ」を理解していくことになる。

    現代のアドラー心理学における技法では、アドラーによる心理療法がそのまま使われているとは限らず、発展的なものや、他の分野の技法が取り入れられているという。

    ただし、いずれにせよ「共同体感覚の育成を目標に治療を行う」という根は同じだという。きわめて重要な点であり、アドラー心理学の治療とは端的に「共同体感覚の育成」にあるといえる。なんだか魔法の言葉のような気がしてくる。

    治療のためには様々な「影響因」を分析することになる。影響因に支配されていると考えたり、言い訳に用いることをできるだけ止めさせること、「自分の意志で未来を切り開くこと」をできるだけ助けることが重要になる。

    こうした「分析」と「勇気づけ」がセットで治療が行われるといえる。分析にはより専門的なテクニックが必要になる。ここで社会学などの客観的・学問的な調査方法も有効になるのではないかと考える。

    キーワード:3つの技法

    「アドラー心理学による治療や問題解決のためには、アドラー心理学の理論に沿った事例の分析が必要です。しかし理論だけを踏襲するのでは、アドラー心理学治療やカウンセリングとはいえません。「アドラー心理学は第一義的には思想であると確信している」と、アメリカのアドレリアン、R.コーシーニは言いました。アドラー心理学カウンセリングや心理療法の目標は、共同体感覚の育成です。そのために、何が問題として起きているのかを理論に沿って分析し、思想を指針に治療を進めます。

     思想と理論をひとまとめにしてAdlerian Theory(アドラー心理学の理論)と呼ぶ学者もいるように、アドラー心理学においては理論と思想とは切り離せないものです。一方で、技法は言ってみればツールの役割にあたります。そこでアドラー派の中には、他派の技法を取り入れて用いる治療者たちもいます。たとえ治療にどのような技法を採用したとしても、アドラー心理学の理論に沿って、共同体感覚の育成を目標に行われるなら、それはアドラー心理学のカウンセリングや心理療法といえる、というのが、古今東西のアドレリアンの共通認識です。」
    出典:野田俊作財団

    「ライフスタイル分析」

    「ライフスタイル分析」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    ライフスタイル分析ライフスタイルを分析することによって神経症などの治療を目指す方法。

    たとえば子供の頃の家族布置やエピソードなどを分析する。その分析を元に、クライエントの私的な意味付け(劣等の位置と愉悦目標)や目標に向かう方法などを探していくという

    キーワード:ライフスタイル分析。

    「ライフスタイル分析は、アドラー心理学の心理療法です。アドラーはライフスタイルのことを「人生の運動の線」「人生目標とそれに向かう方法」などと述べました。ライフスタイル分析は主に神経症などの治療の領域で使われます。子どもの頃の家族布置やエピソード(早期回想)などをもとに、クライエントの私的意味づけ(劣等の位置と優越目標)や目標に向かう方法などを探していきます。」

    出典:野田俊作財団

    「エピソード分析」

    「エピソード分析」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    エピソード分析例えば個人が幼少期や子どもの頃に経験した記憶や出来事など、いわゆるエピソード、早期回想を分析することである。

    このような分析をもとに、対処の仕方を考えていくという。ライフスタイル分析とセットで行われるものだろう。野田さんいわく、自分自身でも日常生活の中で応用することができるという。

    キーワード:エピソード分析

    「アドラー心理学のカウンセリングでは、日常生活で実際に起きたエピソードを素材として、そのエピソードを分析し、よりよい対処のしかた(代替案)を考えて行きます。

    出典:野田俊作財団

    「勇気づけ」

    「勇気づけ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    勇気「困難を克服する活力」を意味する。

    POINT

    勇気づけ「横の関係に基づく援助」を意味する。「相手が、より共同体感覚に基づく生き方ができるように働きかけること」と定義されることもある。具体的には素直な「感謝」、「尊敬」、「喜び」、「共感」の言葉、態度である。

    追記(2024/04/30):野田俊作さんによると、「励ましたり優しくしたり、明るい気分にしたり、元気づけたりする」というようなポジティブなイメージが勇気づけと言うと一般的に理解されがちだという。しかしアドラー心理学における勇気づけは独特の意味であり、「共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること」を重視するという。それゆえに、一見ネガティブにみえる頼まれたことを拒否することも、相手に対する厳しい、冷たい言動も勇気づけになりうるということになる。

    それは単なる相手への無関心、拒絶というよりも、相手に関心があるからこその冷たい言葉であり、拒絶だということになる。介入や押しつけ、褒めることや叱ることは勇気づけではない。とはいえ、それらの間の微妙なニュアンスの違いはむずかしく、表面的には重なるところも出てくるだろう。重要なのは動機や意識であり、必ずしも目に見える結果ではないからだ。

    キーワード:勇気

    「…ここでいう勇気とは、『困難を克服する活力』のことです。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P

    「つまり勇気づけとは、その活力を与えること。ほめることでも、励ますことでもありません。この勇気づけを実行するために必要なのが、アドラー心理学の5つの理論です。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P
    「哲人『ええ、ほめるのでも叱るのでもありません。こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,202p」
    「ところで、一般に「勇気づけ」というと、励ましたり優しくしたり、相手を明るい気分にしたり元気づけたりすることをイメージするのではないでしょうか。しかしアドラー心理学では「勇気づけ」という言葉を、独特の意味合いで使っています。たとえ相手にとって厳しい言葉や行動であっても「勇気づけ」となることがありますし、逆に、一般的には勇気づけだと受け取られる行為なのに勇気をくじく結果となってしまうこともあります。つまり「勇気づけ」とは、「こうするとよい」という特定の行動や声がけなどといったものではないのです。

     ではいったいアドラー心理学でいう「勇気づけ」とはどんなことなのでしょうか。

     「勇気づけ」とは、相手が、より共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼びます。そのため「勇気づけ」は、まず自分自身が競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは、縦の関係を抜けて横の関係で生きる決心をすること、から始まります。

    出典:野田俊作財団

    「他者貢献」と「勇気づけ」の違い

    (1)勇気づけの場合は「他者の行動」に力点が置かれている。

    「他者の行動」に対して私がどう反応するかに力点が置かれている。他者の貢献を素直に喜べること、感謝できることに力点がある。「ありがとう」と素直にあなたは普段言えているだろうか。

    すこし言い方を変えれば、「他者からの貢献」に自分がどう貢献するかといってもいいかもしれない。こうした他者からの貢献に「私」がどう反応するか、どういう態度をとるかというのは私の課題である。

    そして他者が私に貢献するかどうかは「他者」の課題である。この「他者からの貢献」は具体的な行為だけではなく、究極的には「存在自体」に至ると言える。

    生きているだけで、ありがとう」という気持ちを抱くような「愛」のイメージに近い。特定の行為をしなければ感謝できないのであれば、それは見返り主義に近づいてしまう。そんなことはできるのか?と私も思う。しかし「誰かが始めなければならない」のである。

    キーワード:行為のレベルと存在のレベル
    「哲人『あなたはいま、他者のことを「行為」のレベルで見ています。つまり、その人が「なにをしたか」という次元です。たしかにその観点から考えると、寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで、なんの役にも立っていないように映るかもしれません。そこで他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたのか」で判断せず、そこで存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,209p

    (2)他者貢献の場合は「他者への私の行動」に対して私が貢献していると感じることができるかに力点が置かれている。

    他者への貢献を私が素直に喜べること、幸せだと思えることに力点がある。例えばゴミ掃除を自分がした場合に、他者からの直接の感謝の有無に関わらず、その行為が他者への貢献だと感じることができるかどうかに力点が置かれている。他者からの具体的な感謝はプラスアルファ(おまけ)であり、それを目的としているわけではない。

    そうした「具体的な見返りに基づいたライフスタイル」をアドラーは批判している。大事なのは「私」が貢献したと感じることであり、「他者」が貢献されたという証拠を私が確認することではない。他者がそれを貢献と感じるかどうかは「他者」の課題である。

    「褒める」と「勇気づけ」の違い

    「褒める」と「勇気づけ」の違いとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    表にするとこのようなイメージになる。

    キーワード:勇気づけと褒めることの違い

    「(1)状況、【ほめる】相手が自分の期待していることを達成したとき(条件付き)【勇気づける】相手が達成したときだけでなく、失敗したときもあらゆる状況で(無条件)。(2)関心、【ほめる】与える側の関心で【勇気づける】受ける側の関心で。(3)態度、【ほめる】一種のほうびとして上から下への関係として与える態度【勇気づける】ありのままの相手に共感する態度。(4)対象、【ほめる】行為をした『人』に与えられる【勇気づける】『行為』に対して与えられる。(5)波及効果【ほめる】他人との競争に意識が向かう。周囲の評価を気にするようになる【勇気づける】自分の成長、進歩に意欲が向かう。自立心と責任が生まれる。(6)継続性、【ほめる】その場限りの満足感を刺激する一次的な効果【勇気づける】さらに向上しようとする意欲を生み、継続性が高い」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,37P

    褒めるとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    褒める・「能力のある人が能力がない人に下す評価付け」のこと。

    【ポイント】アドラー心理学では好ましい行動だとしていない。

    このことはアドラーが「賞罰教育」を否定していることにもつながっている。

    「褒める」という行動には「操作」という目的が隠されているという。相手によく思われたい、自分が有利な条件にたちたい、相手に傷つけられたくない、相手からいいものをもらいたいなどなど。

    さらに、人は褒められることで「自分には能力がない」という信念を形成していくという。これは心理目標と反する行為である。縦の関係のライフスタイルは、褒める、他者への課題への介入、嫉妬、競争などにつながっていく。

    「いやいや、少しは褒めないと、褒められないと人間関係はうまくいかないでしょ!友人はいいかもしれないけどビジネスではどうするの!うちの子は褒めないと素行が悪くなるわ!」という言い分はわからなくもない。しかしそれでほんとうに人間関係はよくなるのか。自由はあるのか。

    幸せはあるのか。十二分に考えた末にそれでも「褒めること」を必要とするのか。ただ「楽」な道に逃げようとしているだけではないのか。人間はエサで調教しなければ悪をなす存在だろうか。それでも、ともしかしたらの中で人間は揺れている。

    追記(2024/04/30):「罰する」ことも、「自分には能力がない」という信念を、ライフスタイルを形成させる影響因になりがちなことに強く注意する必要がある

    キーワード:自分には能力がない

    「哲人『人は、ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していきます』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,203p

    「罰せられると自分には能力がない、と思うようになり、子どもが学校や家庭には居場所がないという気持ちを強くすることから、ひいてはこの世界には自分の居場所がない、と感じるようになり、人々は私の仲間ではない、自分の敵である、と感じるようになるでしょう。後に見るように、自分の居場所があると感じられることは、他の何をさしおいても人が基本的に求めることである、と考えられるからです。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,60P

    褒められた時に人は貢献感を感じるのか?

    縦の関係では「他者は仲間であるという意識」が薄れる。自分に役立つ行為をする人間にだけ利用価値があり、見返りがなければ存在価値がないと思うようになる。他人の幸せを喜ぶこともできなくなる。大学受験の時に友人の推薦合格を素直に喜べなかったことを思い出す。一般受験で他人を蹴落とそうとピリピリしている私のライフスタイルはよくなかった。

    1. 行為を褒められたとき、評価されたときに人間は「貢献」を感じるのではない
    2. 存在自体に「感謝」されるようなときに人間は「貢献感」を得られる

    とくに「存在自体に感謝」というのが理想の勇気づけの形なのだろう。もちろん「嫌味や皮肉」として用いられたら勇気づけにはならないので注意する必要がある。例えば「失敗してくれてありがとう」などと言葉に出すことは微妙である。

    心のなかで、その失敗のお陰で自分は成功のヒントを得たと感謝し、存在自体に感謝するのはOKかもしれない。たとえばロケット開発では失敗は成功の元だと考えていくらしい。

    ほんとうの貢献感

    「貢献感」があちこちで使用されすぎて頭が混乱してきている。おそらくは貢献感にもレベルがあるのだろう。例えば信用関係よりは信頼関係のほうが「ほんとうの貢献感」が得られやすいといえる。だからといって信用関係でなんら貢献感が得られないというわけではないだろう。

    先日、子どもが落とした切符を拾って教えてあげた女性を見かけた。これは一見「他者貢献」に見える。しかし彼女が「貢献感」を抱いているかどうかは私にはわからない。

    ここで重要なのは彼女の「意図」である。たとえば周囲の人に褒められたい、落とした人に感謝されたいという見返りに基づく動機・ねらい・目的があれば「ほんとうの貢献感」を抱かないかもしれない。

    貢献感ではなく何を感じるのか。「承認欲求が満たされた」というようなイメージだろうか。アドラーは承認欲求に基づいたライフスタイルを否定している。他人の人生を生きることであり、「自由」はないからだ。

    そうした見返り主義の意図をもたず、純粋に周りの人々は尊敬に値し、仲間であり、協力したいという心に満ち溢れ、そうした状態で切符を拾ってあげているのが理想なのかもしれない。私のメリット・デメリットではなく、我々のメリット・デメリットという脱自己中心的なライフスタイルをアドラーは望ましいとしている。もちろんそうした状態にまでライフスタイルをもっていくことは「困難」かもしれないが、しかしアドラーが言っているのはおそらくそういうことだろう。「誰かがはじめなくてはならない」のである。

    キーワード:承認欲求ばかりの人生は「幸福」ではあるかもしれないが「不自由」である
    「哲人『あなたは大切な問題を忘れています。貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」に成ってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえません。承認欲求を通じてえられた貢献感には、自由がない。われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在なのです。…ええ。制度としての自由は、国や時代、文化によって違うでしょう。しかし,対人関係における自由は普遍的なものです。…もし本当に貢献感がもててれいるのなら、他者からの承認はいらなくなります。わざわざ他者から認めてもらうことなく、「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから。つまり、承認欲求に囚われている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容な他者信頼、他者貢献ができていないのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,254-255p

    「評価する」と「勇気づけ」の違い

    「評価する」とはいったいなにか検討

    「評価する」という行動は「褒める」行動と同じように、「縦の関係」から出てくる言葉だという。

    正直、「評価」と「褒める」の違いがよくわかっていない。一般的には、評価の場合は「客観性」指標が重要になる(もちろん主観もあるが)。たとえば営業成績や学業成績が10%伸びた場合にも用いられるし、逆に10%減った場合にも用いられる。

    そのように評価したからといって、必ずしも褒めているわけでも貶しているわけでもなく、事実を述べているだけである。そうした事実を価値付ける、意味づける場合に、褒める、あるいは貶すという行動に近づく。

    もちろんそうした事実を相手に伝える、あるいはそうした事実としてまとめた時点で、そこになんらかの価値付けはあるのだろう。褒めて業績を上げようとする、貶して業績を上げようとする、どちらも「操作」に近づく。

    アドラー心理学の場合は減点主義ではなく加点主義であり、どんな些細なことでも「感謝」の対象となりうる。恋人はただ居るだけで気持ちが嬉しくなるだろう。その感覚の拡大のイメージになる。

    そもそも存在の時点で尊敬され、信頼され、加点されているようなイメージである。我々は子供に対しても嫌な人に対しても犯罪者に対しても人間としては「対等」という精神で接する必要があるわけである。いったいどんな基準で我々は上から下という判断を下す権利があるのだろうか。

    「違う」けれども「対等」であるという態度が横の関係である。確かに道を間違えた仲間もいるかもしれない。しかしそれでも敵ではない。我々が「縦の関係」であることによって他の人達が道を間違えてしまうことだってある。

    であるならば、まず我々が横の関係で接することで、横の関係で接する人達を増やす必要がある。「我々」という意識である以上、我関せずと見知らぬふりはできない。

    メモ(2024/04/30):アドラーが他者の価値を「鑑定」することも好ましくないと考えていたことにも通じるところがある

    キーワード:評価

    「哲人『ええ。一番大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,205p

    褒めたほうが人間関係がよくなる気がする?

    「褒めることはよくない」というアドラーの考えは、なるほどと思うのと同時に、頭の中に納得いかない部分がある気がする。

    その部分は「褒めたほうが人間関係がよくなる気がする」という経験則である。

    しかし上下関係になってしまっている、相手を操作することに目的があるのではないか、とズバリ言われるとこちらも怯んでしまう。我々は我々の資本主義パラダイムに馴染んでいるので「競争」と「賞罰」などの市場原理を第一とすることに抵抗があまりない。むしろそれを「望ましい」とすら考え、そうした原理がないと国力が衰え、没落すると考えている。

    市場原理を第一にしない思想こそが共同体感覚に反しているのではないか、という考え方もできなくもない。これは正しいのか。他に機能等価の道はないか。

    アドラーのパラダイムは健全な社会主義とでもいうべきものに近いと私は感じてしまう。現実の社会主義はロシアのように過剰なほどのヒエラルキー社会だったことを思い出す。某国の過剰な検閲や、他国の文化を見たからと言って過剰な処罰をするような様子を見ると、適切な社会主義(共産主義)の実現とは・・と思ってしまうのは無理はない。かといって民主主義もそれはそれでヒトラーのような暴力装置として民主的に達成される場合もある。

    「尊敬」と「褒める」というニュアンスの違い

    もうひとつもやもやしている部分がある。「尊敬」と「褒める」というニュアンスの違いである。「すごい!」や「やばい!」、「いいね!」とつい口に出すとき、これは褒めているのではなく「尊敬」や「感嘆」に近い。「よくできました」という上から下のニュアンスとはすこし違う。

    それは「下から上」の関係ですよ、と言われてしまうと怯んでしまいそうになるが、そう簡単にはこちらも引き下がれない。対等であることと感嘆すること、尊敬すること、素晴らしいと思うことは矛盾しない(過剰な英雄崇拝は別だが)。

    重要なのは「操作」の意識や「見返り」の意識があるかどうかである。たとえば大谷翔平さんがホームランを打ったとき、とんでもなくゲームが上手い人を見たとき、絵が上手い人を見たとき、すごい論文を見たとき、「すごい」と思う。

    そのとき操作や見返りなんて感じていない。私がそんな反応をしたことで、彼らになにか見返りをもらえるわけではない。単純に「すごい」、「ありがとう」と思うのである。打たなくても、そんな日もあるさ、「元気でいてくれてありがとう」とすら思うこともある。

    心に思うだけならたしかに操作の意識はないが、本人に言うのならなにかしらそうした見返りを求めてるのではないかと、気に入られようとしているのではないかとズバリ言われるとする。なるほど、これは痛いところを突かれている。

    たしかにわざわざ本人に尊敬を伝える必要はないのかもしれない。「楽しいです!ありがとうございます!」と「感謝」として伝えるのはセーフなのか。

    そこに操作の意識や見返りの意識はほんとうにないのか。結局は外面の文字列の如何ではなく、内面の意識の如何、態度の如何が問題であることがわかる。

    どこまでも痛いところを突いてくる。要するに、「横の関係」の上で感謝を伝えたり、尊敬を伝えることが重要なのである。

    そして「横の関係」を作るためには自己受容、他者信頼、他者貢献が重要であるという話である。つまり、共同体感覚が重要だということである。

    追記(2024/04/30):尊敬とは?

    フロムによれば尊敬とは「ありのままのその人を見ること」であり、「その人がその人であることに価値を置くこと」らしい。自らの価値観を押しつけることなく、その人が「その人」であることを尊重することを岸見さんは強調し、アドラー心理学の勇気づけと重ねようとしている。

    叱って相手を否定したり、特定の行為だけを褒めたりする場合は直接的に、あるいは間接的に自らの価値観を押し付けていることになるのかもしれない。

    かといってありのままのその人をすべて受容することなどなかなか難しいと感じてしまう。嫌いな人は嫌いだ。欠点がある人は欠点がある。しかしそういう人でも「対等」であり「仲間」であるという意識が重要になる。嫌いだけど仲間だというのは必ずしも矛盾しないだろう。たとえば会社で嫌いな同僚や上司がいるとしても、同じ目的を目指す仲間であり、それぞれが貢献して、協力しあって成果を出すことができるのである。

    欠点ではない、嫌いではないと無理に自分の考え方を変えると不自由になりかねない。もちろん考え方を固定せずに改めようとすることも重要な点ではあるが、いちいち自分の考えを否定して他人に合わせているとそれは「不自由」になる。「欠点ごと、存在を受容すること」と「欠点ではないと存在を受容しなおすこと」は違うだろう。

    キーワード:尊敬について

    「哲人『なぜ尊敬なのか?尊敬とは何なのか?ここでわれわれは、エーリッヒ・フロムの言葉を思い出さねばなりません。つまり、尊敬とは「ありのままのその人を見ること」であり、「その人がその人であることに価値を置くこと」なのだと。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,196p
    「哲人『自らの価値観を押しつけることなく、その人が「その人」であることを尊重する。なぜそんなことができるのかといえば、その人のことを無条件で受け入れ、信じているからです。すなわち、信頼しているからなのです。…他者のことを「信頼」できるか否かは、他者のことを尊敬できるか否かにかかっています。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,197p

    荒んだ畑から作物は育たない

    本当に「横の関係」を創ることができていれば、「適切なライフスタイル」を創ることができていれば、「不適切な動機」が生じないのである。それゆえに、適切な動機から行動が生じ、そして適切だと自分が思える行動によって、適切な「貢献感」が生じる。

    荒んだ畑から作物は育たない。豊かな畑から作物は育つ。まずは畑から変えるのである。種や農薬を小手先で変えたところで、ほんとうに適切な貢献感、幸せは生じない。産地を偽装したところで味が変わるわけではない。

    土足で相手の領域に入り込む人たち

    頼まれてもないのに相手のタスクに土足で入り込むことになるので好ましくないとされている。ただし相手が「援助」を求めてきた場合は、自分ができうる限りの分だけ、自分のタスクが疎かにならない分だけ、「協力」することが重要になる。

    本当に本人では解決できないタスクかどうかを見極めることが重要だろう。「宿題ができていないから助けて」と言われて毎回助けていたら甘やかすことになってしまう。これは親子だけではなく、友人関係もそうだろう。何が援助になるのかを見極める「センス」が重要になる。このセンスはケースバイケースであり、その人、環境、状況によるのである。

    明らかに困っている人を助けに行くべきか

    では、明らかに困っている人を助けに行く場合はどうだろうか。優先席で譲る場合はどうか。

    あるいはSNSで明らかに病んでいる人に対して、「私がなにか力になります」、「あなたは間違っています」、「あなたはこうすべきです」というのは土足で入り込んでいるのか。なかなか難しい。

    他者が困っているという状態としてわれわれが「見ている、意味づけしている」からといって、他者が困っているとは限らない。本人が困っているということを言っていたとしてもである。

    援助を我々に明確に求めてきた場合にのみ、協力するということなのだろうか。切符を落とした少年にそれを教えないことで、「切符をなくさないようにするためにはどうしたらいいか」と考えさせることも重要なのではないかという発想だってある。

    もちろん助けてもらったことで「他者は味方だ」という発想が根付くことだってある。その境界はどこにあるのか。

    優先席で「譲ってください」と明確に言われなければ譲らなくていいのかと言われると、すこし困ってしまう。なにごとも柔軟に対応していく必要がある。

    こうした対応は適切なライフスタイルに基づくかどうかという動機的な、内面によるものが大きく関係するのだろう。ケースバイケースで柔軟で適切な対応をできるだけしていく。正解というものはないかもしれないが、正解というものに近づけるかのように試行錯誤していく。柔

    軟に、バランスよく、適切に、ケースバイケースに、センスで・・・という調子のよい言葉が続いてしまっている。しかし大事なのは「あなたがそれを考える」ということである。

    正解を待つ、愛を待つ、貢献を待つ、友情を待つ、信頼を待つ物乞いの人間になってはならないとアドラーは考えている。岸見さんの言葉を用いれば「与えよ、さらば与えられん」である。

    キーワード:「与えよ、さらば与えられん」
    「哲人『そしていま、あなたはなにも与えようとせず、「与えてもらうこと」ばかりを求めている。さながら物乞いのように。金銭的に困窮しているのではなく、心が困窮しているのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」218p
    「哲人『われわれは、心を豊かに保ち、その蓄えを他者に与えていかなければなりません。他者からの尊敬を待つのではなく、自らが尊敬を寄せ、信頼を寄せなければなりません。…心の貧しい人間になってはいけないのです』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」218p
    「哲人『アドラーならきっと、こんなふうに言うでしょう。「与えよ、さらば与えられん」と。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」218p

    追記(2024/04/30):頑張れ!と励ますことは勇気づけ?

    「頑張れ」と言いに行く事自体すら微妙なラインだろう。特に、頑張れと言われるとその時点で頑張っていないと見なしていると思われることもあるので強く注意する必要がある。

    アドラー心理学の場合は、家族と会社、友人のケースでは微妙に扱いが変わってくる。もちろんそれぞれの顔を使い分けることの難しさ、是非については別だにしても、実際は変わるのである。

    たとえば家族の場合、とくに自分の子供の場合は仕事の同僚や友人のように関係を切ることがきわめて難しいからだ。自分の子供に対して、「困っていることがあればいつでも助ける準備はある」ということは好ましい場合もある。

    一方で、同僚や友人に対してそれを言うことは好ましいだろうか。甘やかしを生じさせないだろうか。心としてはそういう気持ちで、仲間意識でいることは重要だとしても、実際に口に出すことの難しさがある。

    ここで疑問が生じるだろう。「どういう困り事なら助けてくれるのか」、と。たとえばお金で困っていると言われればNOというかもしれない。「助ける準備があると言ったではないか」とならないだろうか。ここでもやはりセンスの問題が重要になるのだろう。相手のタスク分担できるか、つまり相手を助けてあげられるかどうかは人により、文脈によるといえる。

    重要なのは困っている人が自分の努力を尽くしているかどうかがポイントになりそうだ。真剣に仕事を学ぼうとする姿勢が見られる場合と、なにもかも教えられるのを待つ受動的な姿勢の場合では助け舟の如何も変わってくるだろう。後者の場合は教えれば教えるだけ依存関係になり、相手の勇気をむしろくじくことになりうる。

    ひとつの鍵としては「答え」を授けるというような態度ではなく、「考え方」を提案するような態度が重要になるのだろう。

    「メサイアコンプレックス」

    「メサイアコンプレックス」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    メサイアコンプレックス一般に「他人があまり援助を求めていないのに、親切の押し売りをすること」をいうという。アドラー心理学においては「優越コンプレックス」のひとつとされている。劣等感を努力や忍耐のような適切な方法で解決できない人間が自分を一種の「救世主(メシア、メサイア、キリスト)」に仕立て、他者を救うことで自らが救われようとする行為を指している。心的な倒錯であり、一種の「病気」とみなされている。

    勇気づけが「自己中心的な動機」からきていないか

    【ポイント】メサイアコンプレックスを理解することで、過剰に自己中心的な動機からくる「援助」になっていないかをチェックすることができる。内面的な違いだけではなく、結果として不純な動機の援助は勇気づけとして機能していない場合もある。自分を救えていない人間に他者を救うこと、ほんとうの意味で勇気づけることはできない。

    まずはあなたが幸せになる勇気をもつこと。岸見さんは「不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません」とまで断言している。

    アドラー心理学からすればメサイアコンプレックスの根本には「承認欲求」があり、ライフスタイルとして適切ではない。また、課題の分離にも失敗しているケースだとも言える。他者の課題に必要以上に踏み込む場合があるからだ。

    「人を救うこと」、「他者に貢献する」はアドラー心理学では適切なことだとされている。ただし、その「動機」が問題だというのである。

    自分の価値を感じるため、自分が幸せになるため、見返りのため、そうした自分中心の貢献は結局は「自分が幸せと感じていない」という証になるという。

    不幸だからこそ、幸せになるために他者へ貢献しようとするというわけである。これはすこし胸が痛い話である。幸せのための手段として他者貢献をして何が悪いのか、と一見思えてしまう。

    キーワード:メサイアコンプレックス

    「哲人『他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって、自らの価値を実感しようとする。これは劣等感を払拭できない人が、しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり、一般に「メサイアコンプレックス」と呼ばれています。メサイヤ、すなわち他者の救世主たらんとする、心的な倒錯です。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,142p

    キーワード:誰一人幸せにしない

    「哲人『大切なのは、ここからです。不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません。実際、あなたは子どもたちの救済に乗り出しながら、いまだ不幸の只中にいる。自分の価値を実感することだけを願っている。だとすれば、これ以上教育論をぶつけ合っても意味はない。まずは、あなたが自らの手で幸せを獲得すること。そうしないことには、ここでの議論はすべて不毛な、ただの罵り合いに終わりかねません。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,163p

    「ここでは,劣等感コンプレックスの一つ「メサイア(救世主)・コンプレックス」を取り上げてみたい。「メサイア・コンプレックス」とは,自分は価値のない人間なのではないかという「抑圧」された強い劣等感が原動力になって,人を助けたり人を救ったりといった行動が起こる(「反動形成」される)事態を意味する。「抑圧」は「投影」と同じくフロイトによって発見された自我防衛機制の代表的なもので,意識にとって受け入れがたい考えや記憶,それに伴う感情などを意識から追い出し,無意識に閉じ込めておこうとする無意識的な活動である。つまりこの場合,抑圧された強い劣等感とは,「自分自身が生きにくさを抱えており,本当は自分自身が救われたい」という意識から排除された感情である。「反動形成」とはこれも防衛機制の一つで,自分にとって許しがたい衝動が起こってくると,その衝動とは逆方向の態度で接するというものである。この場合は,「救われたい」という衝動が「救いたい」という衝動に反転するのである。人を救いたいという思い自体は望ましいものであるが,こうした無意識的な「抑圧」や「反動形成」が背景にある衝動は非現実的な行動を引き起こしやすく,本人は善意でやっているつもりでも,周囲は困惑しているといったこともある。メサイア・コンプレックスに取りつかれている人の行動は,「有難迷惑」と評されることが多い。(河合,1971)」
    吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」,15-16p

    「哲人『あなたは承認欲求に搦めとられている。どうすれば他者から愛されるのか、どうすれば他者から認められるのかばかりを考えて生きている。自分で選んだはずの教育者という道さえ、もしかすると「他者から認められること」を目的とした「他者の望むわたし」の人生かもしれないのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,256p

    どうやって他者貢献せずに幸せになるのか

    しかし同時に、幸せではないのに他者貢献などできるのか、と疑問も生じる。そして最後に、「どうやって他者貢献せずに幸せになるのか」と頭が混乱する。幸せになるためには他者貢献をする必要がある。他者貢献するためには幸せになる必要がある。こう言われている気がしてならない。これでは表面的には一種のダブルバインドであり、これこそが心的倒錯をもたらしかねない。

    この問題のポイントは後で「自己中心と脱自己中心」の項目でも検討する。

    「私はほんとうに幸せなのだろうか」、「私の幸せのために、私が価値を感じるために他者を利用しているのではないか、救おうとしているのではないか、メサイア気取りなのではないか」と自問自答して「そんなことはない」なんて自信をもって言えるか。

    少なくとも私は「自分はメサイアコンプレックスなのかもしれない」と不安になってしまう。

    動機だけの問題か

    もし動機だけが問題で、結果としては幸せな人の行為と同じだとすればいいのではないか、という見方もできる。

    しかし「不幸せな人が自分のために他者を救おうとすると不適切な結果が生じがちだ」といわれたら反論しがたい。その例が「あなたのためなのよ」という善意の押し付けである。本人は善意でも周囲が困惑しているケースである。

    感染病のとき、マスクをはずせ、あるいはマスクをつけろと周りに強要した人達は正義感が強く、「善意」だったのかもしれない。彼らも一種の「メサイアコンプレックス」だった可能性がある。彼らは自分勝手な「貢献感」を獲得して「幸せ」を獲得しているかもしれない。

    相手なんてどうでもいい、私は正義を行使し、みんなが嫌がってもみんなのためになることをやっている!と押し付け始めている人は「本当の幸せ」を主観的に感じることはできるのか。

    適切な他者貢献と適切ではない他者貢献

    他者貢献にも分類があり、適切なものと適切ではないもの(不幸な人間による救済)があるということになる。適切ではない他者貢献では人を幸せにせず、適切な他者貢献では人を幸せにするということになる。

    そもそも他者貢献せずにどうやって人間は幸せになるのか、というところにまた戻る。おそらくはその前のステップである「自己受容」と「他者受容」によって、ということになる。

    しかし自己受容は「他者貢献」によって、という循環論がある。この循環に関しては人は生まれながらに全ての要素を最低限もっている、という前提に立つことで解消しようとした。

    あるいはそれぞれ重なりうるものがあるという点でも解釈することができるかもしれない。

    いずれにせよ、自己受容や他者受容が欠けている人間の他者貢献は不適切になりがちだということである。そして自己受容や他者受容は「決心」の問題につながる。あなたは自分の能力を信じることができるか。他者を信頼することはできるか。

    「問題行動の5段階」とは

    POINT

    人間の問題行動における5つの段階(1)称賛の要求、(2)注目喚起(3)権力争い、(4)復讐、(5)己の無能さの誇示。人間の問題行動はこの5つのどれかにあてはまるという。5つの段階は順に問題行動がエスカレートしていくのであり、なるべく早い段階で対策を講じる必要があるという。なお、「現代アドラー心理学」で述べられていることだという。

    【ポイント】:「他者の問題行動」を観察することで、他者に勇気づけをしたほうがいいか見極めることができる。

    特に、権力争いの段階までならなんとか教育や治療、あるいは我々の日々の勇気づけでなんとかなるかもしれいという。ただしそれ以上の段階は、第三者は専門家の助けがいるという。また、「自らの問題行動」を反省し、勇気が足りないかどうかチェックすることもできる。

    また、問題行動は「褒められたい」というような承認欲求がエスカレートしたり、失敗したりすることで生じることが多いと考える。それゆえに「褒める子育て」は好ましくない。そして「叱る子育て」も好ましくない。ではどうすればいいのか。「勇気づける子育て」が好ましいということになる。

    キーワード:問題行動の5段階
    「青年『問題行動の5段階、たしかに興味深い分析です。まずは称賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それがかなわなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復讐に転じる。そして最終的には、己の無能さを誇示する。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,104p

    称賛の欲求とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    称賛の要求「私を褒めてくれ」という段階のこと。「いいこと」をするのではなく「ほめられること」をする点が重要。学校で「いい子」を演じたり、会社でやる気や従順さをアピールするような段階。

    注目喚起とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    注目喚起「褒められなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考える段階のこと。「悪いこと」をするのではなく「目立つ」ことをする点が重要。ただし、この段階ではちょっとしたルールを破る程度であり、「いたずら」に留まるようなイメージだという。「できない子」として振る舞うことで所属感を得ようとする段階。

    権力争いとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    権力争い「反抗」の段階のこと。万引きや喫煙などの「わるいこと」をする積極的な反抗の場合も、勉強や習い事を拒否する消極的な反抗の場合もあるという。大半の問題行動を起こす人間はこの段階に留まっているという。

    復讐とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    復讐「悪いことをするのではなく、相手が嫌がることをしよう」と考える段階のこと。この段階は第三者に助けを求める必要があるという。教師と生徒、親と子だけでは解決することが難しいという。リストカットなどもこの段階かもしれない。

    己の無能さの誇示とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    己の無能さの誇示「私を見捨ててくれ」、「なにも期待しないでくれ」と考える段階のこと。

    専門家ですらこの段階の人間を援助していくことは困難であるという。

    周りの人間が援助しようとすると、彼らはより極端なやり方で「無能の証明」を図ろうとするという。要するに勇気づけによってさらに悪化していくのである。アドラーはカウンセリングのマニュアルで「たとえ自分の手に負えないケースであっても、検討する価値があると伝えて、打つ手がないと言わないようにします。ただし、非常に絶望的なケースで重大な場合は本当のことを言う必要があります」と述べている。

    問題行動の目的について

    いずれの段階においても「所属感を得る」という目的があるという。問題はその不適切な手段である。まず第一段階において「褒められたい」という承認欲求や見返り主義の「縦の関係」からはじまってしまっている。これを「横の関係」に変える必要がある。この横の関係における教育が「勇気づけの教育」だといえる。適切な手段は横の関係から生じる他者貢献である。

    では「横の関係」にするためにはどうすればいいのか。自己受容、他者受容、他者貢献をひたすらこなしていくことである。「そんなことはできない」という意見もある。しかし「誰かが始めなければならない」のである。たしかに100点満点は難しい。しかし一歩でも勧めていく必要がある。いきなり100点ではなく、加点式に今日は10点、明日は15点と主観的に感じることができればいいと考えていく。今日は10点だけ相手を信頼できた、と考えていけばいい。

    追記(2024/04/30):岸見さんの言葉では、「共同体のなかに特別な地位を確保することという目的」である

    キーワード:問題行動の目的

    「哲人『そしてそのすべては「所属感」、つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,104p

    追記(2024/04/30):【行動の類型】不適切な行動、適切な行動、中性の行動

    POINT

    不適切な行動共同体に対して実質的な迷惑をかける行為のこと

    POINT

    中性の行動適切とも、不適切とも言えない行動のこと

    適切な行動は動機の面と結果の面に分けることができるだろう。しかし結果は容易にわかることではないので、動機として共同体に迷惑をかけずに貢献することが重要になる。

    だからといって結果を考慮しないというのではなく、結果を考慮することの努力を含めて、動機が確立するべきだといえる。これでもかと考慮したうえで「貢献するだろう」という適切な目的、動機、ねらい、さだめ、予測が生じるのであり、より適切な結果も生じると信じる。すくなくともその責任があるだろう。

    「勉強をしない」というのはたしかにただちに共同体に対して実質的な迷惑をかける行動ではない。しかしだからといって適切な行動だともいうことができない。勉強して、その知識を共同体に活かすというのは適切な行動かもしれない。勉強せずに、肉体労働によって共同体に貢献するというのも適切な行動だろう。

    学生の仕事のタスクは勉強であり、タスクから逃げているという意味では不適切ではない。問題は勉強の代わりにその時間を何に使っているかだろう。勉強だけが適切な行為、仕事のタスクではない。高校に行くことを選択せずに働くことも選択として可能だろう。あるいは義務教育期間さえ、なんらかの代替のタスクがあるかもしれない。

    しかしいずれにせよ教育には「交友のタスクを初めて学ぶ場」という側面があるので学校に行かないという選択肢が適切かどうかは慎重な議論が必要になるのだろう。ただ知識だけが問題になるなら自宅学習でいいかもしれないが、実際にはそうではないだろう。

    また、「迷惑」の基準についても議論する必要があるだろう。我々は生きているだけでなんらかの税金が用いられている。医療や教育の施設は無料で作られ、運営されているわけではない。フリーライドばかりしているのは迷惑とも考えられる。

    あるいは「親」に迷惑をかけるというのは迷惑ではないのだろうか。課題の分離で親が介入するべきではないという考え方もわかるが、しかし迷惑がかかったかどうかは親の課題である。親も共同体の一部であり、共同体に迷惑をかけたかどうかの一因になるはずである。ただし、親が自分本位で、自己中心的な目的を主軸とした「迷惑」という感情を作り出していたのなら、それは別軸で問題となりうるだろう。

    いずれにせよ「中性行動」が不適切だとほんとうに言えないのかはよく考える必要がある。また、不適切だといえない、問題行動だと必ずしも言えないとしても、「どっちつかずのなんてことのない行動」という分類には意味が薄い。

    勉強をしないことよりも勉強をしたほうが適切な行動ならば、適切な行動を選ぶようなライフスタイルを創るべきだろう。もちろん勉強をしない上で適切な行動をしているというのならそれもそれで適切な行為である。

    そもそも適切・不適切の計算が難しいのだから、「結果的」としてはすべての行動が長期的には中性行動に留まるはずである。したがって主要なのは先ほど検討したように、適切な動機であり、その中に適切な予測をする責任感があるかどうかである。責任感があるのなら、中性の行動に留まることはなく、より適切だと思える結果につながる未来へ向けて、目的を設定していくはずである。

    キーワード不適切な行動、適切な行動、中性の行動

    「これまでのところでははっきりと定義してきませんでしたが、共同体に対して実質的な迷惑をかける行為のことを不適切な行動と呼んでいます。…たとえば、勉強をしないことは本人だけが困ることであり、他の人に実質的な迷惑を及ぼしているわけではありません。しかし勉強をしないことは不適切な行動ではないので、適切な行動であるともいえません。このような行動を『中性の行動』といいます。このような中性の行動に、親や教師は『問題行動』というレッテルを張ってしまいます。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,162p

    「幸せの三段階」について検討する

    幸せの三段階の図

    【ポイント】幸せの三段階をきちんと登っていくこと、つまり人生における3つの課題に適切な方法で解決することで「勇気づけ」も適切になると私は考える。

    つまり、勇気づけのためにはまず幸せのレベルを上げていく必要がある。「幸せ」と一括りで表現するから、言葉尻で矛盾が生じてしまう。それゆえに三段階に分けて整理したいと思う。

    自分だけの幸せ」の段階に留まっているようでは真の勇気づけはむずかしく、「我々の幸せ」の段階へと移行する必要がある。

    とはいえ、それぞれのレベルが完全に満たされて次に移行するわけではなく、徐々に満たされて移行したり、循環したりして強化されていくものであると考える。また、「最低限」の幸せのレベル、つまり共同体感覚をそれぞれもっていると仮定する。それを「掘り起こす」作業、「強化する作業」であるといえる。

    「最低限」の幸せのレベルについては以前使用したこの図を思い出していただきたい。レベル1が自己受容、レベル2が他者信頼、レベル3が他者貢献である。これを仕事(利己)、交友(利他)、愛(利共)に置き換え、完全の目標として共同体感覚(利世)を置く。

    「幸せレベル1」について

    重要なのは、「幸せレベル1」の場合だと劣等コンプレックスに至りやすいということである。タスクはこなしているかもしれないが、しかし自分のこと、自分のメリット、見返りや承認ばかりを考えているケースでありうる。なぜならメインは「自分の幸せ」で相手の幸せは「おまけ」だからだ。自分の幸せにつながらないならば相手のことは考えなくていい。条件つきの相手への貢献である。

    したがって、仕事のタスク「だけ」をしていても「十分な(あるいは本当の)」幸せに至っていない。

    たとえば仕事のタスクでは基本的に「あなた」ではなく「機能」が認められるものだという。たとえば1億円の営業成績を得られる人間と、100万円で営業成績を得られる人間ならば、前者が認められる。

    もちろん、そうした「量的な評価」だけではなく「質的な評価」が優先される場合もあるが、基本的に資本主義社会では「目に見える客観的な量」が優先される。また、質である勤務態度や人柄なども量に換算されることがしばしばある。勤務評価として点数化される。小学生の内申点ですら5段階で性格や貢献度が評価される。

    もちろん仕事によって社会に貢献しているという貢献感や幸せ、所属感はなんらか得られるかもしれない。

    しかし「他ではない、代わりのきかないかけがえのないあなた」自体が無条件に、存在ごと信頼され、必要とされ、そういう人達の中に居場所を見いだせるような幸せとは質が違う。

    追記(2024/04/30):岸見さんは「仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られない」と断言している。この段階では幸福にいたっていないのであり、いわば赤点のようなものだろう。「社会」から存在が認められることと、機能が認められることの相違点について検討する必要がある。重なる部分もあるが、全てではないだろう。

    キーワード:機能
    「青年『仕事で認められること、すなわちそれは社会から認められることですよ!』哲人『違います。原則論から言えば、仕事によって認められるのは、あなたの「機能」であって、「あなた」ではない。より優れた「機能」の持ち主が現れれば、周囲はそちらになびいていきます。それが市場原理、競争原理というものです。結果、あなたはいつでも競争の渦から抜け出すことができず、ほんとうの意味での所属感を得ることもないでしょう。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,210-211p

    キーワード:仕事のタスクだけでは幸せになれない
    「哲人『他者に「信頼」を寄せて、交友の関係に踏み出すこと。それしかありません。われわれは、仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,211p

    「幸せレベル2」について

    交友のタスクにおける対人関係は、仕事の信用関係とは違い、信頼関係が主軸となる。また、対等な関係(横の関係)や尊敬の関係があってこそ、信頼が可能になるという。

    取引先の会社ではなくなったから、取引先のAさんとは今後関係を断とうというのはよくあるケースだろう。しかし取引先かどうか、自分の仕事の利益があるかどうかを超えて、この人のためになにかをしてあげたい、困っているなら見返りを求めずに援助してあげたい、協力してあげたいという人間関係ができることもある。

    こうした場合は「交友のタスク」だろう。一般的には友人や親友などと呼ぶ。仕事場の人間であると同時に友人であることはあり、それぞれのタスクが明確に分離しているとは限らない。

    自己中心的な人物は必ずしも自己受容をしていない

    信頼関係に基づく交友のタスクを解決できない人間は「自己中心的(自己執着的)」な場合が多いという。

    確かに自己受容は他者信頼につながるが、「自己中心的な人物」は必ずしも「自己受容」をしていない。むしろ「自分のことが好きではなく、嫌いであり、ありのままを受け入れることができていない不安な状態」にいるという。自己受容ができていないからこそ、自分を中心に考えてしまう

    それゆえに他者を考える余裕がなく、他者を信頼できない。それゆえに、交友の課題に進むことができず、仕事の課題に留まったり、あるいは仕事の課題すらできない場合もある。

    キーワード:自分のことが嫌いだから、自己中心になる
    「哲人『自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相はまったく逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心がありません。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,184p

    「幸せレベル3」について

    さらに愛のタスクにおいては仕事のタスクにおける「わたしの幸せ」や交友のタスクにおける「あなたの幸せ」とは違い、「わたしたちの幸せ」が追求されるという。

    そしてこの愛のタスクが最も困難であるという。この段階では利己心も利他心も消え、「われわれにとっての利益の追求」が重要になる。最小限の愛のタスクは「わたしとあなた」から構成される「われわれ」であり、最大限の愛のタスクは「わたしとあらゆるすべて」から構成される「われわれ」になるのだろう。

    いずれにせよ愛のタスクの段階では自己中心化から脱自己中心化が生じている。この脱自己中心化を「自立」という。

    キーワード: 自立
    「哲人『自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,244p
    「哲人『だからこそアドラーは、共同体感覚のことをsocial interestと呼び、社会への関心、他者への関心と呼んだのです。われわれは頑迷な自己中心性から抜け出し、「世界の中心」であることをやめなければならない。「わたし」から脱却しなければならない。甘やかされた子ども時代のライフスタイルから、脱却しなければならないのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,244p
    「哲人『そのとおりです。人間は、変わることができます。そのライフスタイルを、世界観や人生観を変えることができます。そして愛は、「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,244p

    「幸せレベルn」について

    では交友のタスクと愛のタスクをこなせば「十分な(あるいは本当の)」幸せに至ることができるのか。これも難しいと言える。物のように手に入れたから終わりというような幸せは得られるわけではないからである。

    いわば「完全な幸福感(貢献感、所属感)」へ無限に前進をして向かっていく作業なのであり、その過程においてより高い程度の幸福感を得ていくことになる。無限に転がしていく必要がある。その場その場で必要な課題をこなしていく連続であり、「今・この瞬間」を精一杯生きていく。

    幸福感を得ることと共同体感覚を得ることは密接につながっているという。共同体感覚が高いほど、幸福感も高いということになるのだろう。

    ところで、承認欲求は無限に終わりがないから否定されるものだった。承認欲求で幸福が得られたとしても、死ぬまで承認欲求が生じてしまう。

    脱自己中心化はもはや自己中心化を脱している状態であり、承認欲求がもはや存在しない段階だと言えるだろう。しかし同じく、そこまでの過程は無限であり終わりがない。同じ無限の終わりのないものでも、社会的、精神的に「健全」で「自由」であるほうはどちらか、と考えていくことになる。もちろん後者なのだろう。

    「哲人『愛を知り、人生の主語が「わたしたち」に変わること。これは人生の、あらたなスタートです。たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。』青年『それが…』哲人『共同体感覚です。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,245p

    「自己中心」から「脱自己中心」へ

    出発点としての自己中心について検討

     【ポイント】勇気づけを自分や他者に行うためには「自己中心」から「脱自己中心へ」と成長させていく必要がある。人間はほとんど不可避的、先天的に「過剰なほどの自己中心」から出発せざるをえない。自分が世界の中心だと思い込み、他者からの愛を一方的に求めざるをえない。

    出発点としては「利己的」な「愛されるライフスタイル」や「甘やかされたライフスタイル」を創らざるをえない。しかし人間は大人になるにつれて「自立」し、「愛するライフスタイル」を創っていくべきである。

    「脱自己中心化」へ至るには人生の課題を解決していく必要があり、特に愛のタスクがポイントとなる。

    キーワード:出発点としての自己中心性

    「哲人『原則として子どもたちは、自活することができない。泣くこと、つまり己の弱さをアピールすることによって周囲の大人を支配し、自分の望み通りに動いてもらわないと、明日の命さえ危うい。彼らは甘えやわがままで泣いているのではない。生きるためには、「世界の中心」に君臨せざるをえないのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,243p
    「哲人『すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,244p

    子供時代の自己中心性について検討

    POINT

    子供時代の自己中心性子供時代において自分の利益を何よりも優先し、他人を支配・利用するような態度のこと。仮の定義。

    すべての人間は「過剰なほどの自己中心性」から出発せざるをえないという。赤ん坊は周囲の大人に愛され、世話されなければ生きていけない。幼い子供も同様である。泣いたり、ふてくされたり、怒ったりとと「自分の弱さ」をアピールすることで他人から注目され、世話をしてもらおうとする。ある種の先天的な自己中心性である。

    具体的な時期については未定とする。0歳から3歳くらいとしてもいい。イメージとしては保育園児あたりまでである。

    子供の頃は「ある程度依存せざるをえない」という意味である種「しかたのないもの」だといえる。子どもはこのままではよくないと、なんとか創造的に試行錯誤し、生まれ持っている「共同体感覚」を掘り起こそうと、ライフスタイルを刷新しようとする。保育園児でさえもそうであると考える。どの時代でも程度の問題であり、子供時代は特に「しかたのなさ」の程度が大きいと言うだけである。それが肉体的な弱さ、経験の少なさに特に表れているといえる。

    子どもは大人になるにつれて「自立」する必要がある。子どものライフスタイルをいつまでも引きずっているのは不適切であり、病気だという。

    追記(2024/05/01):岸見さんの「子どもの黄金時代」という表現がすごくいい

    キーワード:子どもの黄金時代
    「哲人『そうです。再びアドラーの言葉を引きましょう。「かつて彼らは、ほしいもののすべてを与えられる黄金時代に生きていた。そして彼らのなかにある者は、依然としてこう感じている。十分長く泣き、十分抗議し、協力することを拒めば、再び欲しいものを手に入れられるだろう、と。彼らは人生と社会を全体として見ず、自らの個人的な利益にしか焦点を合わせない。」』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,242p

    中間時代の自己中心性について検討

    POINT

    中間時代の自己中心性人生のタスクに意識的に直面する時期であり、試行錯誤によって創造的にライフスタイルを特に形成する時期であると私は考える。仮の定義。

    10歳くらいまでの時期と仮定する。ライフスタイルが固定的になるまでの時期のイメージになる。さらに中間として幅を取り、15歳くらいまで、イメージとしては義務教育期間までとしてもいいかもしれない。

    大人ほどタスクが課されていなく、親に資金面・精神面共にまだ甘やかされている時期である。しかし人生のタスクも課されており、精神的に自立もしようとしている時期であり、幼少期のライフスタイルが修正される時期であるとも考える。子供時代の自己中心性と比べ、「しかたがない(まだ子供だから)」が徐々に通用しなくなってくる時期である。

    大人時代の自己中心性について検討

    POINT

    大人時代の自己中心性主に成人した年齢や就職した年齢を想定した時代である。子供時代や中間時代とは違い、もはや子ども時代の自己中心性を「しかたがない」と言い訳にできない時期である。仮の定義。

    仕事のタスクでは「信頼」ではなく「信用」 の対人関係が重要になる。つまり、何らかの利害関係などの「条件つきの関係」だという。そして、仕事のタスクでは「利己心」、つまり「私の幸せ」に力点が置かれている。このような「仕事のタスクにおける自己中心性」は経過点としては健全だと考える。

    追記(2024/05/01):「世界は、あなたの母親ではない」は某漫画の「世間は母親ではない」というセリフと繋がっていて面白い

    キーワード:大人時代の引きずり
    「哲人『彼らのような生き方を選ぶのは、子供だけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとするのです。そんな大人たちをアドラーは「甘やかされた子ども」と断じ、そのライフスタイル(世界観)を厳しく批判しました。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,243p

    「哲人『結局あなたは、「この人はわたしを愛してくれるのか?」しか見ていないわけです。相手のことを見ているようで、自分のことしか見ていない。そんな態度で待ち構えているあなたを、誰が愛してくれるでしょうか?…もしもそんな自己中心的な欲求に応えてくれる人がいるとすれば、それは両親だけでしょう。両親の愛、ことに母親の愛は無条件ですから。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,260p
    「哲人『いいですか、あの『黄金時代』は、もう終わったのです。そして世界は、あなたの母親ではない。あなたは自分の隠し持つ子供時代のライフスタイルを直視し、刷新しなければなrない。愛してくれる誰かが現れるのを待っていてはいけません。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,260p

    分業の論理必然性について

    子供時代の自己中心性と同じように、実質的には先天的なものであり、別の言葉で言い換えるとすれば人間において「本質的」なものである。種全体に話をしぼるならば、後天的必然性だといえる。個人単位においては働かない人がいても生きていけるじゃないか、という反論があるかもしれないが、それも一定量を超えると種として維持できなくなる。

    赤ん坊は単体で生きていけないゆえに家族の助けを必要とするという意味の本質と、大人もまた単体で生きていけないゆえに大人たちと利己的に力を合わせることを必要とするという意味の本質に分けることができる。いずれも出発点としてのしかたなさ、経過点としてのしかたなさをもっている。

    我々は働いて生産しなければ基本的に生きていけない生き物である。また、群れるだけではなく分業して、協力するという点において多くの他の動物とは異なる人間に特有の点が見られる。

    アドラーはこうした仕事のタスクにおける「働き、協力し、貢献すべきである」を論理的に考えている。

    我々人間は肉体的に弱く、分業して協力しなければ生き残っていけない。他者が嫌いでも好きでも、善でも悪でも、「協力せざるをえない」という事実を重視する。この不可避性は子供が「甘えざるをえない」という点と似たようなものであり、出発点や経過点としてのしかたなさ、適切さがあるといえる。しかし「いつか取り外されるべき足場」であると考えていく。

    キーワード:分業の論理性
    「哲人『ところが、実際の地球はそういう環境にない。食料には限りがあり、住む場所も誰かが提供してくれるわけではない。それではどうするのか?…働くのです。しかもひとりで働くのではなく、仲間たちとともに。アドラーは、こう結んでいます。「論理的でコモンセンスに一致する答えは、われわれは働き、協力し、貢献すべきである、ということだ」と。』青年『あくまでも論理的な帰結だと。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,188p
    「哲人『ええ。人間には「信じない」という選択肢などありえません。協力しないこと、分業しないことなどありえないのです。その人が好きだから協力するのではなく、否が応でも協力せざるをえない関係。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,188p
    「哲人『試合に勝つためには、個人的な好悪を超えて協力せざるをえない。嫌いだから無視をするとか、仲が悪いから欠場するとか、そういった選択肢はありえない。試合が始まってしまえば、「好き」も「嫌い」も忘れてしまう。チームメイトのことを「友人」としてではなく、「機能」のひとつとして判断する。そして自分自身も、機能のひとつとして優秀であろうとする。』青年『仲の良さよりも、能力が優先される』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,190p

    「不健全な自己中心性」と「経過点としては健全な自己中心性」について検討

    大人の時代は「不健全な自己中心性」と「経過点としては健全な自己中心性」の2つに区分することができると私は考える。

    POINT

    不健全な大人時代の自己中心性成人しているにも関わらず子供時代と同じ自己中心性に留まっている状態のことである。

    POINT

    経過点としては健全な大人時代の自己中心性利己的な動機に基づいて働いた結果、結果的に「他者のため(利他的)」になる自己中心性のこと。ギブアンドテイクの発想ともいわれる。なぜ「経過点としては」と留保をつけたかというと、この段階に留まっていることは不健全だからである。交友のタスクや愛のタスクへ進む必要がある。

    なぜ「大人時代の自己中心性」は健全なのか

    アドラーは賞罰主義や見返り主義、承認欲求を否定している。そのため、「自分に利益があるから他者と関係を築き上げる」というようなものを健全とは思わないのではないかと疑問が生じる。動機を蔑ろにして健全だとみなしていいのか。

    しかし岸見さんによれば、こうした仕事のタスクにおける利害関係は「健全なギブ・アンド・テイク」だという。なぜだろうか。考えてみる。

    1:「仕事のタスクの段階に留まるわけではない」と考えていく

    我々はどうやら不純な動機から出発せざるをえない」という事実をまずは認める。そしてこれは「完全から見れば不純であるが、しかし出発点として、あるいは経過点としては健全である」と認める。

    これはフッサールが独我論から出発して独我論を脱する事を考えたことに似ている。「出発点と、経過点としては健全だ」と考えていく。自己中心から出発して我々は自己中心を脱するのである。出発点の次には仕事のタスク、交友のタスク、愛のタスクという経過点が待っている。

    2:「経過点として健全ではないケース」と比較すると健全だ、という考えができる。

    「利己的な態度における行動が結果的に利他的なものにつながる」ケースよりも、「利己的な態度における行動が結果的に利他的なものにつながらないケース」のほうが不健全だと考える。結果として利他的かどうか、ギブアンドテイクをどのように計算するのか、判断するのかという問題は残る。

    他人からの利益と自分からの利益のどちらが多いか、イーブンではないケースがあるだろう。

    しかしそうした厳密な議論を置いておいたとしても、自分が生きていくためにした仕事が誰かの役に立っているということは認めるざるをえないだろう。野菜をつくる人も、野菜を売る人も、野菜の本を書く人も、野菜を運ぶ人も、我々が生きていくために役立っている。

    そして同時に貨幣を獲得して生計を立てている。嫌いな人だからといってスーパーで食物を売らないということが(基本的には)ないように、協力せざるをえないのである。

    アドラーは本当に必要のない仕事は淘汰されていくと考えているので、いまある仕事はどれもなんらかのかたちで貢献しうるものなのだと想定する(過剰な高利貸しすら、そうであるということになる)。

    例えば大人になっても「子供時代の自己中心性」を引きずっていては不健全である。赤ん坊が母親に完全に頼ることは「出発点としては適切」である。赤ん坊ではない引きこもりやニートなどは「経過点としては健全ではないケース」になる。

    友達と呼べる人や愛する人がいない人は「経過点としては健全ではないケース」であるといえる。交友のタスクをきちんとこなしている人からすれば不健全であるということになる。留まってしまっていてはもはや「経過」ではない。

    なんらかの子供時代の自己中心性を引きずっているといえる。不適切なライフスタイルのままだということである。他者に依存し、他者から愛されることを目的としている。あるいは自分に自信がなく、勇気を持てず、他者を信頼したり、愛したりすることができない。できるのはせいぜい条件つきの信用に基づいた仕事における対人関係というケースである。

    キーワード:健全なギブアンドテイク

    「哲人『ここで大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということです。つまり、純粋な利己心の組み合わせが、分業を成立させている。利己心を追求した結果、一定の経済秩序が生まれる。これがアダム・スミスの考えた分業です。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,191p
    「青年『でも、アドラーは「他者貢献」を推奨するわけですよね?3年前、あなたは力強く断言していたはずです。他者への貢献をめざせ、それが人生の指針であり、「導きの星」だと。自分の利益を優先する考えは、「他者貢献」と矛盾しませんか?』哲人『まったく矛盾しません。まずは仕事の関係に踏み出す。他者や社会と利害で結ばれる。そうすれば、利己心を追求した先に、「他者貢献」があるのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,191p
    「哲人『分業の根底に流れていたのは「わたしの幸せ」、つまり利己心でした。「わたしの幸せ」を突き詰めていくと、結果として誰かの幸せにつながっていく。分業の関係が成立する。いわば、健全なギブアンド・テイクが働いている。そういう話でした。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,238p

    3:「経過点としては健全」だが、「ゴールからみれば不健全である」と考えていく

    交友のタスクや愛のタスクをある程度解決しても、この解決には原理的に終わりがない。完全にライフタスクを解決しているというような「完全の目標」からすれば全ては「不健全」である。よりよい健全を、よりましだと思える不健全を一歩一歩積み重ねていく必要がある。

    図にするとこのようなイメージだと私は考える。暫定的なもの。

    キーワード:幸せレベル2

    「哲人『一方、交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」です。相手に対して、担保や見返りを求めることなく、無条件の信頼を寄せていく。ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません。ひたすら信じ、ひたすら与える利他的な態度によって、交友は生まれます。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,238p
    「哲人『つまりわれわれは、「わたしの幸せ」を追求することによって、分業の関係を築き、「あなたの幸せ」を追求することによって、交友の関係を築いていく。だとした場合、愛の関係は、なにを追求することによって、交友の関係を築いていく。だとした場合、愛の関係は、なにを追求した結果、成立するのでしょうか。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,238p

    キーワード:幸せレベル3
    「哲人『利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしの幸せ」を築き上げること。それが愛なのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,239p

    「哲人『ええ。「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして、「わたしたち」を掲げる。人生のすべての選択について、その順序を貫く。「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「わたしあち」のふたりが幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とは、そういうことです。』青年『利己的でありながら、利他的でもある…と?』哲人『いいえ。利己的では「ない」のだし、利他的でも「ない」のです。愛は、利己と利他の両方を兼ね備えるのではなく、どちらも退けるのです。』青年『なぜです?』哲人『…「人生の主語」が変わるからです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,239p
    「哲人『われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない、まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,240p
    「哲人『まさに。幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,240p

    それではその理解不能なものにたいして自分は一体どういう態度をとるのか?

    最後に、M・ウェーバーの言葉を引用します。

    「それから君が引き合いに出しているもう一つの問題、宗教的事象の『理解不能性』の問題も、[君はただそれが理解不能というだけで]一向に方がついていません。なぜなら、それではその理解不能なものにたいして自分は一体どういう態度をとるのか、といった問題がただちに生ずるからです。宗教は世界史の中で人間にとってどんな価値をもったのか、この自分にとってそれはいかなる価値をもつのか?それとも、ひょっとするとそれは理解不能なるがゆえに、自分にとっておよそ何の意味ももたないものなのだろうか?私の考えでは、このあとの方の見解にはどうしても賛成することができません。しかし、それでは一体宗教が人々にとって、またこのわたし自身にとってどういう意味をもつのかと言った問題は、そう簡単なものではないし、どんな人でも一気に答えることのできるような問題でもありません。」

    「君はどうしてそういつもいつも──君の言い草によると──自分はもうダメだとか絶望せざるをえないなどと自分に言い聞かせることができるのか、わたしには不思議でなりません。端的に聞きますが、一体なぜなのです?もしその理由が、なにか一般的な理論的見解上の問題で君がぶつかっている困難のせいでしかないとすれば──だって、ほかにどんな理由があると言うのです?──、もしそうなら、君は、およそ理論というものがこの世でもつ、そして各人にとってもつ意義を、あまりにも過大評価しているとしか言いようがありません。地獄の劫罰とかそれに類する永遠の世界などあるはずがないと考えている君が、なにか理論的見解の上で行きづまり、もう自分は生きていけないとか、自分にとって生きることは重荷である、などといったことを本気で思い込んでいるとすれば、これはもうどこからどう見てもまったくのお笑いでしかありません。」

    「そんなことで色々思い悩む人もいることは、わたしにもよく分かります。しかし、そうした極論に溺れたりせずに、われわれの認識手段が──絶対の観点からすれば──いかに取るに足らない価値しかもたず、いかに弱点だらけのものであるかを弁えるすべを心得、またそのことを日頃つねに自分に言い聞かせている者は、物事というものは必ずわれわれの経験をはみ出すものであり、それを捉えようとする理論はつねに誤謬を犯す可能性があるということを思い知らされたとしても、だからといって認識への努力そのものを放棄しようとは夢にも思わないでしょう。」

    「もしもそんな極端な考え方をする人がいるとしたなら、はたしてその人はそれで結構自己欺瞞に陥っているのではないか、とかくペシミズムというものにはつきもののあの魅力──これは大抵の人間が一度は参ってしまうものだが──に取りつかれて、そんなことを言い出している面もあるのではないかと、わたしはその人の顔を正面からのぞき込んで、とくと吟味してやろうと思います……いずれにしても、そんな考え方は邪道です。」(アルフレートへの手紙)

    参考文献リスト

    今回の主な文献

    岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」

    岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」

    岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」

    岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」

    岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」

    岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」

    永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」

    永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」

    岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」

    岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」

    アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」

    アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」

    心理学 改訂版 (キーワードコレクション)

    心理学 改訂版 (キーワードコレクション)

    汎用文献

    米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

    米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

    トーマス・クーン「科学革命の構造」

    トーマス・クーン「科学革命の構造」

    真木悠介「時間の比較社会学」

    真木悠介「時間の比較社会学」

    モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

    モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

    グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

    グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

    グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

    グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

    参考論文

    ※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です

    ・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(URL)

    ・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照
    ・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(URL)
    – 統計データ、考察、成人版

    千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(URL)
    – アーレントの「共同体感覚」の参照。アドラーへの言及は皆無なのだが、しかし人類にとって切実であろうことを語っており、面白かった。これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる。ただし、私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず、今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)。

    ・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(URL)
    – 認知行動療法について参考に。また、行動主義や機能主義についても参考になる
    ・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(URL)
    – 認知行動療法、不安障害について参考に
    ・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(URL)
    – アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳
    – 論理療法、アドラーの主張についての理解
    ・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(URL)
    – アドラーの怒り、悲哀、不安などについて参考になる
    ・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(URL)
    ・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(URL)
    – アドラー、フロイト、ユングなどの夢解釈について参考に
    ・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(URL)
    – 行動療法について参考に
    ・石倉陸人, 林篤司, 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(URL)

    – 認知行動療法について参考に
    ・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(URL)
    – 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(URL)
    – ファイフィンガー、二元論、デカルトについて参考に。ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ。
    ・小西 美典「法における擬制」(URL)
    – ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる

    ・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(URL)
    – メサイアコンプレックスの定義の参考に
    吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(URL)
    – メサイアコンプレックスの説明の参考に

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    蒼村蒼村

    投稿者プロフィール

    創造を考えることが好きです。
    https://x.com/re_magie

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