【1ワード社会学第十三回(30)】フッサールの「間主観性」

ユルゲン・ハーバーマス

動画での説明

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はじめに

社会学とはなにか

社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。

なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。

【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。

できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。

記事の分割

(準備中)

(6)[D]生活世界関連

[6-8]フッサールの「間主観性」

間主観性」は慣れなければわかりにくい用語である。また、使う学者によって意味合いが違うという点も困惑する。しかし理解しなければハーバーマスの主張を理解することが難しい。

※詳細は以下の記事シリーズを参照

【応用哲学第一回】フッサールの現象学における「志向性」とはなにか

【基礎社会学第二十九回】アルフレッド・シュッツにおけるフッサールの現象学とはなにか

まず間主観性は現象学を創始したフッサールが最初に用いた用語であるという点から理解していこう。

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POINT

(フッサールにおける)間主観性(英:intersubjectivity)私と同じような主観性をもった他者が存在するという意識が私の意識において不可疑的に与えられているという性質のこと。

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正直、これだけでは何をいっているか意味不明である。また、これを詳細に説明されても、理解しがたいケースが多い。

「私の意見は主観的だ」と一般的に用いる時、それは私という自我が意識などによって作り出した意見だということを意味する。

たとえば哲学で言う極端な立場である独我論(観念論)では、(かなりざっくり言えば)世界には「私の意識のみ」が存在していると考えられている。

極端な独我論では、世界には自我のみが確実に存在するのであり、それ以外のものが存在するかどうかは確実に証明することはできないという立場をとる

たしかに映画のマトリックスのように感覚を支配されて、なにものかがいるように錯覚しているだけだという可能性もある(マトリックスではそのように錯覚させるなにものかがいるという前提があるのだが)。たとえばデカルトが、全てが夢である可能性を想定したこととも似ている。

さらに一方では、存在するのは物質のみであり、意識や精神は物質の作用に過ぎないとする立場として「唯物論」がある。独我論(唯心論)では意識のみが確実とされ、唯物論では物質のみが実在するとされている。

そして哲学では長い間、主観と客観の一致が真理だとみなされていた。しかし近代以降の哲学では事情が大きく変わる。カントは客観そのものへの理論理性による到達は不可能だと主張し、ニーチェは真理を相対的な解釈にすぎないとした。ただし、ヘーゲルは弁証法によって主観と客観の対立は克服されるはずであると考えている。

フッサールはそもそも主観と客観が一致するかどうかという問題設定そのものが誤りだと考えた。ゲームの中でなんとかしようとするのではなく、ゲーム自体から抜け出そうとしているようなイメージだろう(リオタールのところで学んだパラロジーを思い出す)。

フッサールはデカルトのように「確実なものは考える私だけである(独我論)」という捉え方から方法論的に出発するが、しかしそこから「神が他の確実なものを保証してくれる」とは考えない(方法論的に出発するだけであり、その帰結は独我論ではないとされている)。

フッサールは「主観と客観がどのように一致するか」ではなく、「なぜ主観は客観があるかのように不可疑的に意識してしまうのか」という問い方に変えた。

この確信(不可疑性、妥当性)の構造を分析する方法としてエポケーや本質的直観、超越論的還元が位置づけられている。

なんだ、結局フッサールも独我論かと感じた人もいるだろう。実際、社会学者のアルフレッド・シュッツもそう感じていたという。

しかしフッサールは「主観以外の物や他者も主観が任意に、自発的に創りあげたものだ」と主張したいわけではない(これが独我論の一般的なイメージである)。「主観以外の物や他者が存在するという認識が不可疑的に、超越論的に構成されてしまう」ということを主張したいのである。神でも任意の主観性でも、思考停止の不可知論でもなく、「不可疑的で直接的な、確かな経験」からあらゆるもの、他者の存在や科学の法則など、いわゆる「本質的なもの」を基礎づけようとしたのである。

たしかに主観とは独立的に客観が存在するとは学問的に証明することはできないという点でカントとフッサールは立場が似ている。

しかし、そうであるにもかかわらず、人間は客観が存在すると不可疑的に考えてしまう生き物なのである。ではどのようなプロセスを経てそのように考えているのか、後天的に考えていくのかを考えるのが「間主観性問題」である。ただし、カントのように思弁的に「そうした認識枠組みが人間に備わっているから」といった先天的な前提によって簡潔に終わらせるわけではない。

たとえば自分の身体と他者の身体が似ているから、自分と同じような意識をもっていると認識するのではないかといったように類比的に解明していくわけである。

それは心理学ではないのか」と思うかもしれない。しかし、心理学はさまざまな自然な、無反省な、素朴な前提をもとに解明していくという点で異なる(また、シュッツがこの意味で自分の立場は心理学にすぎないと述べていることとも重なる)。

心理学の場合は、他者が私とは独立的に存在するのはあたりまえであり、物が客観的に存在するのは当たり前であるという前提で心理学は本質を捉えようとしているのである(それゆえに他の学問を基礎づけすることはできない)。

たとえば未来という意識や過去という意識、客観的な時間、客観的な空間、否定、数字、論理法則といったものがいかにして主観の内部で構成されていくのかといった基礎づけを現象学は行っていく。掘り下げるイメージを表す言葉で、哲学者のハイデガーが用いていたセリフが「事象そのものへ」である。

こうした不可疑的なものの多くが積み重なった世界が「生活世界」であり(もちろんフッサールのように疑わず、素朴な判断を停止ぜず、自然的態度として自明なものとして、暗黙のうちに受け入れられている世界である)、この生活世界を土台として科学を構築するべきだというのがフッサールの主張である。

任意に、自分勝手に、生活世界を軽視して無関連に学問を行うべきではないという考えであり、そうした事態は「危機」であるという。実際、近代化に伴って生じたさまざまな問題は、この危機と無関係ではないだろう。

単に生活に必要という目的から外れて、手段自体が目的となって過剰に追求されてしまうわけである。

昨今ではAIを進歩させること自体が競争的に自己目的化している側面があり、それがほんとうに日常生活に必要なのかという視点は薄いのではないだろうか。そうした視点の希薄性からどのような新たな技術が誕生し、どのようにして技術が我々の生活世界を変容させるのだろうか。単なる「人間のコミュニケーションのお手伝い」に留まるというのは楽観的ではないだろうか。動物に対する扱いが人間に対する扱いに反映されるように、機械に対する扱い、そして人工知能に対する扱いが人間に対する扱いにどのように反映されるかを考える必要がある。

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

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大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

 

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