- 動画での説明
- はじめに
- (7)[E]システム関連
- [7-2]ルーマンの「社会システム理論」
- ハーバーマスにおいてシステムとは「技術体系」である
- ハーバーマスにおいてシステムの機能は「社会の物質的再生産」である
- ルーマンの社会システム理論基礎知識:社会システム
- ルーマンの社会システム理論基礎知識:システムと環境、自己組織
- ルーマンの社会システム理論基礎知識:相互浸透、構造的カップリング
- ルーマンの社会システム理論基礎知識:コミュニケーション
- (1) ルーマンにとって「理解」とは、「送り手が伝達したいと思った情報がそのまま受け手に伝わる」ことではない。
- (2) ルーマンにとって「誤解」とは「理解」の一種である。
- (3) コミュニケーションだけがコミュニケーションできる。人間はコミュニケーションできない。
- なぜルーマンはヒューマニズム的な立場に批判的なのか
- [7-2]ルーマンの「社会システム理論」
- 参考文献リスト
動画での説明
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はじめに
社会学とはなにか
社会学とは、「社会を対象とする学問」のことである。そして社会とは基本的に「人々の社会的行為の相互作用の集まり」を意味する。
なぜ社会学が存在するのかについては多種多様な立場があるが、根本的には「社会を分析し、よりよい社会へ導くため」だといえる。社会とはなにか、どう変動していくのかという事実判断やどうあるべきかという価値判断の両方のバランスをとる必要のある学問である。
【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか
この動画チャンネルシリーズは創造発見学に位置づけられている。要するに、アイデアをひらめくための情報を学ぼうというわけである。ビジネス、友人関係、学業、さまざまなものにそれぞれ活かしてほしい。
できるだけ1ワードに説明する対象を絞っていく。
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(準備中)
(7)[E]システム関連
[7-2]ルーマンの「社会システム理論」
ハーバーマスにおいてシステムとは「技術体系」である
ドイツの社会学者であるルーマンは、ハーバーマスと論争したことで著名になった人物である。代表作は『社会システム理論』(1984)である。
まず、ハーバーマスにとってシステムとは(一般的な定義的に)「相互に関係をもつ構成要素からなるひとまとまりの全体」といった抽象的なものが主に想定されているわけではない。
人間が人間のために考案した「技術(テクノロジー)」を主に意味する。ハーバーマスがルーマンの分野を「社会工学(社会テクノロジー)」とみなすのは、もっぱらこの意味でシステムをとらえているからである。ちなみにルーマンは自分の立場を社会工学であるとは思っていない。
ようするにハーバーマスが考えるシステムは「技術の体系(システム)」だというわけだ。たとえばから揚げを自動でつくる工場は技術システム的であるという言い方をすればすこしわかりやすい。そこに人間の人格、理性や感情といったものは強く関与せず、決められたプロセスを自律的、自動的、機械的に守ることが第一に重要になる。
・特に参考にしたページ
クリスティアン・ボルフ「ニコラス・ルーマン入門」,27p
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,121p
ハーバーマスにおいてシステムの機能は「社会の物質的再生産」である
人間が人間のために作ったものがシステム(技術)であるのだから、なんらかの目的があるはずであり、システムはなんらかの機能(結果)を出力しているはずである。
ハーバーマスにとってシステムの機能とは「社会の物質的再生産」であるという。つまり、「社会の物質的再生産を促すような技術体系」がハーバーマスにおけるシステムのイメージなのである。
具体的には「官僚制」のような政治システム、「資本主義体制」のような経済システムが念頭におかれている。共に、近代合理化とともに分化し、発展してきた技術体系である。
ハーバーマスはたしかに意識哲学を批判したが、人々の意識を軽視しているわけではない。ある孤立的な個人の自分勝手な思念によって社会がどうなっているか、どうあるべきかを決めるべきではないといいたいのである。
意思疎通し合う諸個人における意識、自発性、能動性、創造性、多様性といったものをハーバーマスはむしろ極めて重視している。人間が集まったときの理性の能力を、特に理想的な条件における討議における能力にたいしてハーバーマスは信頼しているのである。人格、意識、選択、合意、理性、価値、規範などを重視せずにシステム的な効率性、再生産ばかりにルーマンは関心があるようにハーバーマスには見えてしまうのである。
とはいえ、ハーバーマスは理性よりも意思、決断や欲求に重きを置く主意主義者ではない。あくまでもコミュニケーション的理性に反しない限りでの、またそれを発揮する限りでの自発性や創造性、個性、欲求、他の道具的理性などを重視する啓蒙主義者である。単なる希望や欲求に基づいて非合理的に革命や反権力を目指す態度をハーバーマスはよしとしない。
(理想的な)意思疎通のために、また、意思疎通において、という前提がハーバーマスではくり返し強調されるのである。
ハーバーマスの姿勢には、パーソンズが個人の主意主義性を社会の価値・規範を指向する限りで認めて行為理論を構築したものと通じるものがあるだろう。
ただし、ハーバーマスはその社会の価値・規範を所与のものとせず、たんに贈与され、継承されるだけのものともせず、人々の日々の具体的なコミュニケーションによって生成・維持・変革されるものであると考え、パーソンズよりも動態的な行為理論を作ろうとしている。
生活世界では人びとの意思疎通、つまりコミュニケーション的行為がその中心、土台となっている。そしてコミュニケーション的行為は人格や意識、行為というものが重要になる。
しかしハーバーマスの理解では、システムというものは行為者の意識(意図)や具体的な行為とは直接的には関係なく、システムを一定の結果にむけて要素同士がなんらかの自律性と安定性を伴って相互作用し合っているまとまりとみなされているのである。ハーバーマスは生活世界の領域は行為理論で、システムの領域はシステム理論でといったように棲み分けを強調しているのであり、生活世界の領域がシステム理論によって捉えられることを拒絶するのである。
・特に参考にしたページ
中岡成文「ハーバーマス」,講談社,152p
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993),55-56p
ルーマンの社会システム理論基礎知識:社会システム
ルーマンによれば、社会システムは経済システムや政治システム、法システムなどからなっているという。そして社会システムにおけるそれぞれの要素は「コミュニケーション」であり、意識ではない。ハーバーマスはルーマンとの論争によってシステム概念を摂取したのであり、システム理解はルーマンのシステム理解に深く関係する。
意識は社会システムにとって「環境(別のシステムの要素)」にあたり、外部にあるのである。ルーマンにとって心理システムの要素が意識であり、生命システムの要素が生命であるといったように、それぞれの区別できるシステムはそれぞれに独自の要素をもつのである。
社会システムはさまざまなサブシステムからなり、更にそのサブシステムも独自のメディアをもつ。ここでいうメディアとは「コミュニケーションを促進させる媒体」のことである。
たとえば経済では「貨幣」がメディアであり、機能は希少性の減少である。政治では「権力」がメディアであり、集団拘束的な決定の実現が機能であるとルーマンは考える。ちなみにコミュニケーション・メディアは言語(ボディーランゲージや芸術を含む)、流布メディア(通信技術や文字など)、成果メディア(真理、愛、権力、貨幣)などに分類されている。
さて、これでルーマンの社会システム理論を学ぶ必要性は理解できた。彼らの違いを理解することを通して、ハーバーマスの言いたいことを理解していきたい。
社会システム理論とは、文字通り「社会をシステムとして捉える理論のこと」である。たいていの社会学者は基本的に広義の意味で社会システム理論家である。
しかし、体系的に社会システム理論を構築しようとした有名な社会学者では主にパーソンズとルーマンが知られている。
そしてハーバーマスもある意味では社会システム理論家であるといえる。なぜなら、社会をシステムという観点から捉えるというマクロな理論と、生活世界を行為という観点から捉えるというミクロな理論を統合しようとしているからである。
この意味で、中範囲理論を唱えたマートンに近い。
【基礎社会学第三十四回】ロバート・K・マートンの中範囲理論とはなにか
ルーマンの社会システム理論基礎知識:システムと環境、自己組織
(ルーマンにおける)システム:「ある環境との区別そのもの」である。
(ルーマンにおける)環境:ある特定のシステムの外部にあるものすべてである。「あるシステムとの区別そのもの」である。
このあたりをスッと理解することは難しい。たとえば円の中がシステムであり、円の外が環境であるとする。この場合、システムと環境は線という境界によって区別されている。
もちろんこうした描画は説明のための簡易的なものであり、ルーマンはシステムと環境の差異が「空間的」なものだと考えていない。
たとえば我々は対面せずとも、電話やネットを通して離れたところでコミュニケーションを行えることを考えるとすこしわかりやすい。もちろん過去の誰かとコミュニケーションを行えることを考えれば、「現在」という時間に縛られてもいない。私が今ルーマンの本を読んでいる場合も、コミュニケーションは生じている(ルーマンが生きているかどうかは重要ではない)。
システムと環境の間にはなんらかの「境界」がある。ここまではなんとなく理解できる。もし環境というものがなければ、システム(なんらかのまとまり)は存在することができない。いわば、外部がなければ内部もないというわけである。
その逆も同じであり、内部がなければ外部も存在できず、システムがなければ環境も存在できない。
私とあなたの境界を私は明確に理解しているわけではないが、しかしそれは存在するのである。
私の生命システムの作動があなたの生命システムの作動に直接影響を与えることはほとんどない(ように見える)、といったことからもわかる。私の生命システムの作動、たとえばなんらかの血液の流れの増大が、経済システムの作動の代わりにはならない。それらには境界があるからである。
もちろん、境界が絶対的なものであるというわけではない。
しかしある要素が別のシステムの要素の代わりになるとしたら、それらの境界がなくなるということであり、区別することが難しくなるということになる(サブシステムという形で境界はできるかもしれないが)。たとえばアメーバAとアメーバBが合体してアメーバCになれば、AとBは区別できない(アメーバが合体できるのかという点は置いてておく)。
社会学者の佐藤俊樹さんの説明では「システムがあってその境界ができるというよりも、境界が形成されてその『内』とされたものがシステムになる」という。
ルーマンはシステムを「複合的で変化しうる環境において内/外の差異の安定化をとおして自己を維持する同一性(アイデンティティ)」とも定義している。
システムは環境と区別されたなにものかであり、また、システムは他の外部からの直接的な指示や干渉なしに、自らの構造を維持し、変化させている。
このようなシステムの性質を「自己組織」という。システムは「作動において閉じている」と表現されることがある。図でいうとこのように示される。
ルーマンの社会システム理論基礎知識:相互浸透、構造的カップリング
では、干渉がない(外部が内部を直接決定しない)とはいったいどういうことか。たとえば意識システムでは私の意識を要素としてのみシステムが組織されている。
それゆえに「急に他の人間の意識が私の意識システムに入り込んできて動かす」ということは(おそらく)SF小説でもないかぎりない。もしそれが可能ならテレパシーのようなサイキック現象が起きていることになる。
たとえば他者が私の頭を物理的に強く揺さぶり、意識が変化したなら干渉なのではないかと素朴に思ってしまう。
しかしそれらは違うシステムであり、違う要素によって生じているのだから、それぞれのシステムに「翻訳」される必要がある。なんらかの物理的な刺激が電気信号などに翻訳されるわけであり、刺激そのものが要素となるわけではない。
つまり、因果的影響がないといっているわけではなく、要素として直接入り込めないといっているのである。システムにとっての環境から刺激や錯乱を促されているという事態を否定しているわけではない。
とはいえシステムからすれば外部から刺激されているというよりも、外部のなんらかの刺激を通して「自己刺激」をしているというかたちになる。刺激かどうかを判定するのも当のシステムのルールによるのである。自動販売機に声で語りかけても、自動販売機のシステムでは対応できない(お金のコミュニケーションが基本となる)。
たとえば「光の刺激そのもの」ではなく、「なんらかの電気信号」として(変換、翻訳、媒介されて)脳に自分で刺激を与えているようなイメージである。このような変換がなければ知覚システムにとって刺激はないものとみなされるかもしれない。われわれは赤外線を見てもそれが目の前にあると通常は自己刺激できない(おそらく)。
要素はあくまでも区別されうるシステム内でのみ生産されるのであり、他のシステムから入り込んでくることはないのである。ちなみにこのように翻訳的に影響を与えている関係を「構造的カップリング」という。
それぞれの意識システムが作動において閉じているように、それぞれの社会システムも閉じているのという点も重要である。
たとえば右翼の社会システムが急に左翼的なコミュニケーション作動を重要な作動とするということは基本的に考えられないだろう。電車という領域ではその領域特有の作動のあり方、コミュニケーションのあり方があるという意味では境界がそこにあるといえる。そして我々はそうした境界をコミュニケーションによって維持(再生産)しているのであり、その瞬間においてのみシステムは存在するのであり、物のように実在的に存在しているのではないのである。左翼的なコミュニケーションがなくなれば「左翼」というなんらかのまとまりは消滅するのである。
ルーマンにとって社会システムとは世界全体や社会全体といった規模の大きなものを必ずしも意味せず、パッと生じてパッと消えるような、道ですれ違ったときの安定したやりとりすら社会システムなのである。
もちろん、あるシステムが作動において閉鎖しているということは、他の環境と一切関わらない、孤立しているという意味ではない。システムと環境との関係は「相互浸透」や先程説明した「構造的カップリング」というような概念でルーマンによって説明されている。
たとえば社会システムは生命システムや意識システムがなければ存在することができないし、経済システムは政治システムと依存し合っている(相互浸透している)。
それだけではなく、システムは環境を観察することでもできるし、認識することもできるし、環境から刺激することもできる。例えば左翼は右翼が悪いと観察するだろうし、右翼は左翼が悪いと観察するだろう(構造的カップリング)。
ルーマンの社会システム理論基礎知識:コミュニケーション
ハーバーマスにおいて大事なのは「コミュニケーション的行為」であった。
ルーマンにおいて社会システムの要素は「コミュニケーション」である。これは同じではないか、と思えてしまう。しかしまるで違うのである。
(一般的な)コミュニケーション:情報や感情を他者と交換するプロセスのこと。
例えばルーマン以前のコミュニケーション概念では「送り手-受け手モデル」が採用されていたという。送り手(主体)がメッセージを送り、受け手(他者)が受け取るときコミュニケーションが生じるという人格的な相互作用の説明である。要するに、単に言葉を伝えるようなものと理解されているのであり、その核心は「伝達行為(情報を他者に伝えること)」にあると考えられている。
(ルーマンにおける)コミュニケーション:「情報・伝達・理解」の三つの契機からなる概念。情報、伝達、理解の三つの要素が揃ったときに創発する出来事のこと。複数の主体の間で相互調整的に創発する出来事のこと。
ルーマンは「送り手―受け手」モデルでコミュニケーションを考えていない。ルーマンはコミュニケーションを「情報、伝達、理解の選択」のモデルで考えている。
情報の選択:何が発せられたのかに関わっている出来事のこと。例:車を買ったという事実確認的な側面。バッテリーが切れそうだとスマホで自動的に表示される。
情報の伝達の選択:なぜ、どのように発せられたのかという意図などと関わっている出来事のこと。例:車を買ったと、なぜこちらに伝えてきたのか、という行為遂行的な側面。※情報の選択(what is uttered)、情報の伝達(why is uttered)と考えるとわかりやすい。
伝達や伝達によって伝えられる情報の選択的な理解あるいは誤解:目の前の出来事を情報と伝達の2側面においてとらえるという出来事のこと。
コミュニケーションとはこのように、ある情報が何らかの意図をもって発されていたと理解されたときに生じる出来事なのである。情報だとみなされないと単なる体験になり、意図があるとみなされないと単なる独り言であり、コミュニケーションにならない。情報と伝達の2つの要素があると推定(理解)されなければコミュニケーションにならない。単なる情報の伝達の完了だけではなく「なにが、なぜといった聞き手の理解の選択」までが必要という点が極めて重要である。
また、情報と伝達が区別可能という点もポイントである。たとえば電車で会話しているカップルがいるとして、情報は理解可能だが、第三者に対する意図を理解できない場合、それは単なる情報の伝達であり、第三者とのコミュニケーションは生じない。もちろん、意図があると理解することも可能であり、第三者とのコミュニケーションが生じることもありうる。
「推定」という点が重要であり、とにかく情報と受け手が推定され、意図があると推定されればいいのであり、送り手が情報であると意識していたり、意図をもっている必要は必ずしもない。政治家の発言をもとに情報や意図がありとあらゆる人間に解釈され、コミュニケーションが生じ、さらに別のコミュニケーションを生じさせていくことを考えるとわかりやすい。
たとえば木がこちらに倒れてきて、「木は私を攻撃しようとして倒れてきた」というような「伝達」として(普通は)考えない(もし考えるなら木とコミュニケーション可能である)。「車を買った」と友人が伝えてきた場合は、自慢かもしれない。あるいは送り迎えをしてあげるという意味かもしれない。あるいは、本人は特別な意図がないかもしれない。
しかしなんらかの「推定」、つまり「理解」を意識的にか無意識的に、我々は行っている。その理解がきわめて的外れで常識はずれの場合はコミュニケーションの衝突が生じるかもしれないが、ほとんどの場合はどうにかなっている(行為調整されている)。またそのようにする仕組みもさまざまな形で存在する。貨幣や言語もそのひとつである。
(1) ルーマンにとって「理解」とは、「送り手が伝達したいと思った情報がそのまま受け手に伝わる」ことではない。
送り手からすれば、自分の意図が相手に正確に理解される保証はないし、相手がなんらかの理解をした時点では正確に理解されたかどうかわからない。受け手からすれば、送り手の意図を正確に理解できたという保証はないし、自分がなんらかの理解をした時点では正確に理解できたかどうかわからない。
要するに、お互い、相手の心や頭は覗けないということである。現象学的な視点で面白い。しかし、お互いの心が覗けないのにも関わらず、また、それゆえに、コミュニケーションが成立し、社会秩序が成立しているのである。このことに素朴に驚いたのがルーマンである。
たとえば、「先程の発言はこういう意図でよかったか」と送り手に確認したり、送り手が「さっきのはこういう意図だった」あるいは「そういう意味じゃないのよ」と受け手に示すような新しいコミュニケーションが必要になる。つまり、理解(誤解)したかどうかはコミュニケーションにおいてのみ確定されていくのである(ある人間の理解において確定されるのではない点がきわめてポイントである)。これもなかなか面白い。
「秘密」があるゆえに人間関係がうまく行くという両義性を主張したジンメルを個人的に思い出すくだりでもある(全て知っているとコミュニケーションを行う動機を失う。閉じているゆえに開く。すべて開くと閉じてしまう。)。
あるコミュニケーションが創発した時点では、そのコミュニケーションが誤解されたかどうか、誤解しているかどうかはわかりようがない。誤解かどうか観察するためには、新たなコミュニケーションが必要になる。ルーマンは意見の一致を理想とするハーバーマス的な態度に批判的であり、「意見の一致の追求は社会の生命力をそぐ可能性がある」という立場をとる。
(2) ルーマンにとって「誤解」とは「理解」の一種である。
たとえば、「先程の発言はこういう意図でよかったか」と送り手に確認したり、送り手が「さっきのはこういう意図だった」あるいは「そういう意味じゃないのよ」と受け手に示すような新しいコミュニケーションが必要になる。
つまり、理解(誤解)したかどうかはコミュニケーションにおいてのみ確定されていくのである。これもなかなか面白い。
あるコミュニケーションが生じた時点では誤解だとはわからないにせよ、なんらかの意図があるとして受け手に「解釈」されているわけである。たとえば「もう遅い時間だね」と送り手に言われて受け手は「自分と一緒にいてあっという間に時間が過ぎてしまったんだなという喜びの表現」として解釈(了解)したとする。
それで受け手は「次はあの店に行こう」と誘うが、送り手は「もう帰らなきゃ」と返すとする。そこで受け手は、「さっきの発言は帰りたいという意味だったのか」と自分の誤解に気づくわけである。発話の情報だけではなく、それを包み込む人間関係や文化、直観などあらゆるものが動員されて解釈されるという点も重要になる(この意味で語用論的である)。
このように、後になって誤解だとわかるにせよ、その時点では一定の推定のもとで送り手の情報と伝達の差異を観察し、理解しているという点には変わりがない。明らかに誤解だとある時点において認識しているわけではなく、理解したつもりになっているのである。
また、誤解だと後でわかったつもりになっているが、じつは誤解ではないかもしれない。「もう帰らなきゃ」という言葉が帰りたくないという意味かもしれない。他者の全てを了解することはなかなか難しく、不確定である(本人でさえ、自分の動機を正しく理解していないかもしれない)。しかし不確定であるゆえにコミュニケーションが連鎖していくのであり、その連鎖を安定させようという力も働くのであるといえる。
それゆえに、誤解とは理解の一種であり、誤解も理解も次のコミュニケーションへと接続するコミュニケーションの要素であるといえる。このようにコミュニケーションが連鎖していくこと、そしてその連鎖の全体が「社会システム」なのである。
連鎖が終われば社会システムも消えるのである。売買が社会のどこかで連鎖しているからこそ、世界規模で経済システムは存在(偏在)しているのである。もし世界で誰も貨幣(に相当するメディア)を使わない瞬間があるとすれば、経済システムはその間存在しないかもしれない(単純化するとだが)。
(3) コミュニケーションだけがコミュニケーションできる。人間はコミュニケーションできない。
まず、「人間はコミュニケーションできない」という主張に我々は違和感を覚えるだろう。なぜなら田中さんは鈴木さんとコミュニケートした、田中さんはコミュニケーション能力が高いといった言い方を日常でしているからである。
つまり、コミュニケーションをするのは「主体である人格を持った人間」という日常感覚をわれわれはもっている。
ハーバーマスもそう考えている(日常感覚だから、という素朴な理由ではなく、おそらくもっと規範的で理論的な理由からだが)。この日常感覚とルーマンの主張との差異を、比較しつつ違和感を薄めていく作業が必要になる。
【1】ルーマンはコミュニケーションに人間は不可欠だと考えている。
なぜなら、人間、つまり生命システムや意識システムがなければコミュニケーションシステムが基本的には成り立たないからである。それゆえに、「人間がコミュニケーションしない」ことは「人間がいかなるかたちでも関わらない」ということを意味しない。別の言い方をすれば、ルーマンは人間はコミュニケーションに間接的に関わると考えている。
井庭崇さんの喩えでいえば、植物は太陽でできているわけではないが、太陽がなければ生きていくことができないのと同じである。
社会システムは人間がいなければ生きていく(維持、再生産する)ことができない。それゆえに、人間がコミュニケーションをする主体ではないからといって、人間が関わらないということではない。ここでいう人間とは主に人間の意識や人格性といった、心理システム的なものを意味するのであり、こうした意識は社会システムにとっては環境にすぎず、前提条件にすぎない。
たとえるならボールは私が投げなかったら飛ばなかったかもしれないが、飛んだボールは私ではなく、また私の意識によって直接的に制御でき、作動しているものではない。
私の意識を離れてボールは他のボールへぶつかり、跳ね返り、また別のボールへとぶつかるといった自律的な作動をしはじめるわけである。このたとえをすると、神と人間の話を思い出してしまう。神はなんらかの目的(たとえばエデンの園の管理など)で人間を創造したが、自由意志という禁断の果実を食べ、人間は神の手を離れて自分勝手に生き始めるという比喩だ。コミュニケーションは人間を離れて自律的に展開していくのであり、ひどい勘違いをされてもはや別物になっていることもある。
【2】ルーマンは「コミュニケーションがわたしたち人間の意のままになることはほとんどない」と考えている。
もちろん我々の日常感覚的にも、自分の意図が完璧に相手に伝わるとか、相手の意図を完璧に理解できるとは思っていないだろう。そうした「意のままにならなさ」とは少し違う。ルーマンが言っているのは、「コミュニケーションが創発的であり、いずれかの個体としての人間には還元できない」という意味での「意のままにならなさ」である。
たとえばサッカーチームではひとりひとりの能力以上のものがチームワークによって生じることがある。みんなでアイデアを出し合って、一人では出せない、それぞれの単なる集積以上の「何か」が生じることがある。
部分の寄せ集め以上の何か、部分には還元できない何かの性質を「創発性」という。コミュニケーションは創発する出来事なのである。
重要なのは「人間がコミュニケーションする」というのもひとつの解釈の視点であり、「コミュニケーションがコミュニケーションする」というのもひとつの解釈の視点であるということである。同じ事態を違う枠組みで分析しているのである。ルーマンの社会学は「ほかであり得る可能性(偶発性)」を提供するという発想を大事にする。社会システム理論はそのための道具にすぎない、発見ツールであるとさえルーマンはいう。
問題は解釈の視点の変更においてルーマンがどういう「理解のボーナス」をもたらしたいかという点である。
なぜルーマンはヒューマニズム的な立場に批判的なのか
ルーマンは人間中心的な立場をとっている主張や理論に批判的である。一旦冷静になろう、という趣旨の強調だともいえる。なぜだろうか。この理由を通して、理解のボーナスが見えてくる。また、ハーバーマスとの違いが見えてくる。
【1】「人間中心的な立場をとると人を誤らせるから」だという。
たとえば人間がコミュニケーションをコントロールできると考えてしまうと、コミュニケーションが人間の意のままになる、人間に還元できると考えてしまうようになる。
しかし実際は人間には還元できない創発的な現象であり、そのことを踏まえて物事を分析する必要がある。
この意味で、ハーバーマス的な意味での戦略的行為を単に推奨しているわけではないという点が重要だろう。また、戦略的行為は人間の思考能力に依存したものであるという意味で評価しないとはいえるかもしれない。
コミュニケーション的行為も戦略的行為も、「人間的な合理性」に依存(あるいは期待)している、個々人の意図が強く関係するという意味で人間中心主義的なのである。
「システム的合理性」と「人間的合理性」を区別する必要があるのであり、ルーマンからすれば戦略的行為だからといってシステム的合理性が発揮されているとは限らないのである。
【2】理論的な意味で、そもそも人間はコミュニケーションシステムの外部(環境)だからである。
コミュニケーションシステムはコミュニケーションのみが作動と再生産に関わる要素であり、人間(意識、人格、理性など)がとって代わることはできない。
【3】ルーマンは規範的な立場としてヒューマニズムに懐疑的である。
なぜなら、人間の主体性を基礎とする理論で「簡単にイデオロギー的に悪用されてしまうから」だという。たとえばある理論が「人間は主体的に、理性を通して〇〇の方向に発展していくべきであり、それが最善の道である」と主張すると、そのためにはそれらに反するものを抑圧しても構わないという態度につながるかもしれない。人間中心的な理論は柔軟さを失いがちなのだろう。
社会学者のカール・マンハイムが「民主主義の基本的価値観(基本的な同調性)を侵害し、破壊するものにたいしてのみ、戦闘的になる」という「戦闘民主主義」に基づいた自由のための計画を主張したが、これもルーマンからすれば危険なのかもしれない(詳細は基礎社会学第三十三回参照)。
ハーバーマスもマンハイムと同じく、基本的で普遍的な価値(討議倫理)を模索しようとしている。ルーマンからすればその時代ごと、状況ごとの秩序を手探りで、そしてシステム論を通して見つけていくほかなく、冷静に、柔軟にやっていくべきだということになるのだろう(社会学的啓蒙)。
ルーマンからすれば他の誰かの主張や態度を批判できる絶対的な地点などない、中心などないということになる。「虚偽意識である、間違っている」と誰かが誰かを批判したとして、その批判が虚偽意識でない、間違っていないとどうしていえるのか、その根拠は最終的な地点なのか。
絶対的で普遍的な正誤や善悪はわからないが、あるシステムの維持や機能の出力のためにある作動が効率的かどうか、他の作動のあり方で代わりうるかどうかは近似的に記述できるといった技術屋的な立場をルーマンはとっているようにみえる。人々が奪い合うよりも奪い合わないほうが食料品などがよく生産できるならば、奪い合わない方が効率的だ、といったように考えていくのであり、善い/悪い、理性的/非理性的では考えない。あえていえば「問題解決能力でありうる選択肢を提案し、比較する」といったイメージとなる(比較社会学)。
しかしハーバーマスからすれば、間違ったものを間違っていると批判できなければこの世界は崩壊に向かっていくということになるのだろう。「批判の基礎づけ」をハーバーマスは行おうとするのである。その場その場の妥当な足場を模索していくという態度すら、なんらかの大きな足場がないと難しいのではないかというわけである。
ルーマン的な立場は仮に間違った社会のあり方があるとすれば、それを加速しかねない危険なものとしてハーバーマスには見えるのである。つまり、ハーバーマスはルーマンを保守主義だとみなしているのである。ちなみにパーソンズも保守主義であると批判されることが多かった。
・社会システムのイメージ図
【基礎社会学第三十三回】カール・マンハイムの「甲羅のない蟹」とはなにか
参考文献リスト
今回の主な文献
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」
汎用文献
佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」
大澤真幸「社会学史」
新睦人「社会学のあゆみ」
本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる
アンソニー・ギデンズ「社会学」
社会学
社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)
クロニクル社会学
社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像
参考論文
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]
永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]
嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)








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