【基礎社会学第三六回(2)】エミール・デュルケムの「機械的連帯と有機的連帯の違い」を解説

    はじめに

    動画での説明

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    エミール・デュルケムとは、プロフィール

    POINT

    エミール・デュルケム(Émile Durkheim,1858-1917)フランスの社会学者。デュルケームと翻訳されることもある。マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルとともに社会学の創設者として扱われている。社会学の機関紙『社会学年報』(1898年)を創刊し、デュルケーム学派を形成した。甥には人類学者のマルセル・モースがいる。代表作は『社会分業論』(1893)、『社会学的方法の規準』(1895)、『自殺論』(1897)、『宗教生活の原初的形態』(1912)であり、社会学の古典となっている。

    前回の記事

    【基礎社会学第一回】エミール・デュルケームの「社会的事実」について

    【基礎社会学第二回】エミール・デュルケームの「社会的分業」とはなにか?

    【基礎社会学第三回】エミール・デュルケームの「自殺論」、「聖と俗」、「機能主義」とはなにか?意味

    【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

    【基礎社会学第三六回(2)】エミール・デュルケムの「機械的連帯と有機的連帯の違い」を解説(現在の記事)

    【基礎社会学第三六回(3)】エミール・デュルケムの「集合意識と集合表象の違い」を解説

    【基礎社会学第三六回(4)】エミール・デュルケムの「非契約的要素」を解説

    【基礎社会学第三六回(5)】エミール・デュルケムの「拘束的分業とアノミー的分業の違い」を解説

    社会学とはなにかを『社会分業論』を通して学ぶ

    機械的連帯と有機的連帯の違い

    機械的連帯と有機的連帯とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    分業が発展する前にも社会は存在した。主に分業は近代的な現象と考えられており、前近代社会において分業の規模は小さく、単純であった。

    それにもかかわらず、前近代社会においても「連帯(絆)」は存在した。つまり、分業以外が生じさせる連帯と、分業が生じさせる連帯を分けて考える必要が出てくる。これらの連帯の違いが機械的連帯と有機的連帯の違いである。

    POINT

    機械的連帯個人の価値観や生活、労働などが相互に似ているゆえに可能になっている社会的連帯のこと。

    POINT

    有機的連帯個人の価値観や生活、労働などが相互に異なっているゆえに可能になっている社会的連帯のこと。

    はじめて社会学を学んだとき、私はこの2つの連帯に困惑した。似ていても異なっていても連帯が生じるなら、わざわざ分業を行わなくていいのではないかと思ってしまった点がまず1つ。

    また、「社会の歯車」という言葉は私にとって現代的なイメージであり、現代のほうが冷たい、機械的連帯なのではないかと直感的に思ってしまった点が2つ目である。

    第一に、機械的連帯と有機的連帯は、その連帯以外が同一の条件であるという仮定をした場合、理解しにくくなる。

    例えば前近代社会よりも近現代社会のほうが人口が多く、人々の流動性も高い。他国に侵略されないように産業を発展させたり軍備を整えたり、文化を発展させるためにはさまざまな「分業」が必要不可欠になっていく。要するに、「そうせざるをえない」側面がある。

    全員が呑気に狩猟や農業をやっていては国が滅びてしまう死活問題というわけである。個人的な趣味嗜好の理由というよりも、社会的な理由によって分業が必要不可欠になっていく。要するに、コンテクスト(社会的文脈)によってもはや両者は機能的等価だとはいえないということになる。

    キーワード:機械的連帯、有機的連帯

    「伝統的な社会では個人は社会に埋没しており、個性をもつことは少ない。そこでは連帯は諸個人の類似から生ずる。個人が社会に従属するこの連帯を、デュルケムは機械的連帯と呼び、このような連帯の優位する社会を環節社会と呼ぶ。それに対して産業社会では個人を個性化し互いに異なる機能をはたし、その活動は依存する傾向を強める。こうした連帯を彼は有機的連帯と呼ぶ。」
    『クロニクル社会学』,26p

    「類似にも基づく伝統的な共同体では、個人の思想や行動に関するすべての問題も共同体の意思によって決定される。財産も共同で、個人は共同の型から文化することができない。だが分業はひとびとの異質性を促進し、共同体的抑圧に代わって、自由な諸個人による有機的連結をもたらすであろう。『すべての成員の個人的意識が、共同の類型に合致すること』で生じる融合を『機械的連帯』と呼べるのに対して、成員各自が異なった機能ないし役割を分担することによって全体的共同に参加し、この相互依存関係から生じる連帯は『有機的連帯』と呼ばれる。」
    「社会学のあゆみ」,78p

    「『社会分業論』は、社会変動――といいますか近代化――についての基本的な構図を提示しています。近代化は、社会の連帯の様式の変化として理解することができる、と。機械的連帯から有機的連帯へ。これら二つはどこが違うかというと、機械的連帯は『みんな似てるから仲良くなる』というもの、つまり相互に似ているがゆえに可能になっている連帯です。似ているもの同士であるがゆえに互いに結びついている。それに対して、『お互い違うから結びつく』、異なるがゆえに連帯が有機的連帯です。」
    大澤真幸『社会学史』,241p

    「機械的連帯とは何か。それは、『社会の心理的型にほかならぬある共同型式に、すべての個人がなにほどか合致している』ことから生ずる社会的凝集のことである。ここでは、集合意識(共同意識)――『同じ社会の成員たちの平均に共通な諸信念と諸感情の総体』と定義され、諸個人のうちにしか実現されないが各人の個別的諸意識とはまったく異なる『社会の心理的型』と説明されている(80~81頁)――が強力な支配力をもっており、極端にいえば、成員の個性はゼロである。この連帯は類似による連帯であり、『個人的人格が集合的人格に吸収しつくされているかぎりにおいてのみ可能』といえる。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,50p

    「有機的連帯とは何か。それは、集合意識の弱体化、というよりもむしろその抽象化・合理化にともなう個人化の過程によって生じた、新しい社会的紐帯である。それは、分業に基づく連帯であり、各人が固有の活動領域を、したがって一個の人格をもつかぎりにおいてのみ可能である。高等動物の諸器官のあいだにみられる連帯と同様、ここでも、『一方では、個人は、その労働が分割されればされるほど、いっそう密接に社会に依存し、他方、各人の活動が専門されるほど、いっそう個人的となる』という性質がみられる。社会の凝集性は、成員のあいだの機能的な相互依存をとおして維持されるのである。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,51p

    異質性と同質性の機能等価性について

    「せざるをえない」という視点は、ウェーバーで学んだ資本主義の発展を思い出す。プロテスタントは最初は宗教的な動機(貨幣を稼ぐ量が死後の救済の確かさと相関する)に基づいて会社を発展させていったかもしれないが、そのうちそうせざるをえない側面が徐々に強くなっていく。

    宗教的な動機が抜け落ち、周りとの競争に明け暮れ、落ちぶれないために、あるいは欲求との関連でひたすら投資や合理化を繰り返していく。ある国の技術力が発展すれば、それに負けないようにと周りの国も模倣したり、発展を目指していく。そうして世界的に分業化が進んでいく。

    我々が今生きている現代社会において、「分業しなくてもやっていける」、というのは楽観的すぎるのだろう。そんなことをしていたらこの国は維持できないので、せざるをえないのである。

    ウェーバーが官僚制をかたい檻や貝に例えたように、我々を拘束、規制するような社会的な力が存在しているのである。もちろん、そうであるとしても絶対的に特定の経済体制や政治体制がつねに正しい訳ではなく、新たな「せざるをえない体制」というのものが今後くるかもしれない。新たな体制をせまる力としてマルクスは階級闘争や革命を重視したが、デュルケムは何を重視したのかという点も重要になってくる。

    【基礎社会学第二十二回】マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」とはなにか

    分業発達の原因について

    分業発達の原因はデュルケムによると、「社会の容積および動的ないし道徳的密度の増大」にあるという。

    個人が幸福を増大させたいとおもっていたり、能率を高めたいと思っていたりとかいった「個人的な原因」ではなく、「社会的な原因」だという点がポイントである。

    容積の増大は人口密度や量的な増加を意味し、動的密度の増大は社会成員間の接触頻度や強さの増加を意味するという。

    デュルケムによると人口が増えて人々が同じ労働を行っていると、生存競争が激化するという。例えば人口が増えても農地がその増加に従って増えるわけではなく、農地を使える人は一定数に限られてくる。そこで、こうした競争を緩和するために人々は多様化し、異なる分業を自ら生み出していくのである。すべきことが狭い選択肢の中で前もって決められているのではなく、自分で選択肢を作る時代でもあるといえる。

    こうした分業化、多様化は一種の「自然淘汰」として考えることも可能である。

    正確には「競争を緩和するために」という目的論的な説明ではなく、「競争を緩和させる機能があった」というような作用論的、結果論的な説明になるのだろう。なぜならデュルケムは目的論的機能主義を明確に批判する立場だからである。

    図にするとこのようなイメージとなる。

    ものすごく安直に表現すれば、負けた人間や特定の役割を強制されている人間、勝ったとしても自分のことばかり過剰に考える人間は自分の欲求が現状よりも過剰に高く、実現することができないという不適合が生じる傾向があるといえる。

    そうした異常な傾向は社会の連帯にとってネガティブな影響をもたらしがちだという話である。

    もちろん、勝ち/負けや正常/異常はその定義と区分が単純、容易ではないことには強く注意する必要がある。また、能力以外による差別(たとえば出自や血縁など)によって不平等が生じていた場合は、なにかしらの規制が必要であるという(メリトクラシー的)視点もデュルケムはもっている。

    また、社会学者のピエール・ブルデュー(1930-2002)が提唱した「ハビトゥス(文化資本)」という概念も併せて平等とはなにかを考えていく必要も出てくるだろう(例えば高学歴の親に育てられた子どもは高学歴になる傾向がある。これは経済的資本だけではなく、読書習慣や芸術鑑賞、社会的関心などさまざまな文化資本が関係していることであり、大学を無償化したからといって問題は容易に解消できない)

    キーワード:社会の容積および、動的ないし道徳的密度の増大、自然淘汰

    「さて個人の動機や目的など個人的事実を分離するという考えは、分業発達の原因説明にも貫かれる。すなわち、分業の進展は、幸福を増大させたいとか、能率を高めたいとかいった人間の願望に原因があるという説を斥けて、社会の容積および、動的ないし道徳的密度の増大こそが原因だと主張する。容積の増大とは人口や密度など量的な増加を意味し、動的密度の増大とは社会成員間の接触頻度および接触の強さなど精神的密接さの強化を意味する。社会成員数が増し、かれらの間の関係が密になるほど、生存競争も激化するが、とくに競争する当事者が類似しているほどこの傾向が強い。そこで競争する領域を分化することでこの競争を緩和する。成員間の多様化、異質化は、自然淘汰の自然的結果だったというのである。」
    「社会学のあゆみ」,81-82p

    相互依存の形態は違うが同じ相互依存である

    すこしまとめよう。分業の発達の原因は「容積と動的密度の増大」であり、分業が連帯を生み出す原因は「相互依存性の増大」である。

    「個人が異なっているゆえに相互依存し、連帯する」という有機的連帯は理解できた。では、「なぜ前近代社会は個人が異なっていないのに連帯できていたのか」、「そもそも前近代社会に相互依存はなかったのか」、という素朴な疑問が生じてくる。

    ここで単純な推測をするとすれば、「連帯の形態は違うが連帯である」のと同じように、「相互依存の形態は違うが相互依存である」という説明の仕方である。

    前近代社会においても相互依存はあったが、人口の増加などによってそうした前近代的な相互依存の形態が維持できず、新たな形態に変化せざるをえなかったというわけである。

    前近代社会の相互依存、連帯では、人々との関係が「密接」だった。距離が近いのである。こういうと、適切な距離と自由に関するジンメルの話を思い出す。

    ネットがあるわけでも車があるわけでもない社会において関わるのは家族や親族、近隣の人々などに限られてくる。相互依存の質の形態が違うのである。相互依存の距離が近く、具体的であったということだ。近現代においては遠く、抽象的だという点がポイントだ。例えばamazonで買い物をする場合、誰が売っているのか、誰が作っているのか、どう作っているのかよく知らないという抽象的な関係にある。都市の大部分の人は隣に住んでいる人がどういう人かよく知らない。

    近い距離、限定的な対象の範囲で社会生活を送っているだけではもはやその社会は維持できなくなり、遠い距離、広い対象の人間関係を送らざるをえない社会になっていく。近い距離の人からしか物の売り買いができない状態を想定すると、いかに不便な生活が想定できるだろう。

    例えば農家が地域の人だけではなく(顔も知らない)全国の人のために作物を作っていることを考えるとわかりやすい。もちろん、「グローバル化」という言葉が示すように、人と人との関わりは世界規模にまで距離を伸ばしている。我々のほとんどは自分が生きるための何かをほとんど他者に依存しているのである。

    このように「せざるをえない」側面を強調すると、決定論的な響きがあるが、実際デュルケムの主張を聞いているとそう感じてしまう。

    人間の主体性や意思というより、社会的な力をデュルケムは重視する傾向がある。恐竜が自然環境の変化で滅びたように、社会的な傾向に逆らうことは難しいと比喩的に考えることができるかもしれない。もっとも、一人の力ではなく、集団の力(集合的沸騰)で社会は変革できるという考え方をデュルケムはもっていたことは抑えておくべきだろう。

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    個性と自由について

    機械的連帯が優勢な社会では成員の「個性」がほとんどないという点もポイントになる。人と人との差異性よりも類似性が重視されるからである。 

    デュルケムは「個人的人格が集合的人格に吸収しつくされているかぎりにおいてのみ可能な連帯」とさえ表現している。個性をそれぞれが強くもってしまっていてはその社会が維持できないような社会というわけだ。

    例えば狩猟が得意、農作が得意といった個性は昔の社会でもありえたかもしれない。

    しかし現代社会では許されがちな、同性愛や無宗教、派手な髪や飲み会への不参加などといった個性が許容される度合いは低いといえる。そうした個性は集団の絆、つながり、連帯を壊すものとみなされがちだというわけである。

    現代でもそうした個性に寛容ではない人もいるように、我々の社会も一定程度は機械的連帯を通して維持されていると言える。

    「個性的な人間であろう」というスローガンが日本でももてはやされているが、しかし前述したような個性は批判や排除の対象となりがちである。

    ちょっとしたことでマスコミに叩かれる芸能人を見ればわかりやすい。いくら自由だからといって、厳粛な葬式に派手なスーツで来る人はいないように、同質性によって結びついているケースは多い。

    日本では特に、「出る杭は打たれる」、「付和雷同」、「お上に従う」といった協同意識が昔ほどではないにせよ強いと言える。

    いわば「和を乱さない限りの個性」へのバランス感覚が重視されがちなのが日本社会である。このようにいうと、日本国憲法第十三条が「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り……」と記載されていたことをイメージする人もいるだろう。あるいはジョン・スチュアート・ミルの「個人の自由は、他人の自由を侵害してはならない」という主張を思い出す人もいるかもしれない。

    このバランス感覚を失うと、社会的な力は人をダブルバインドへ陥らせる可能性があるので注意するべきである。(個性的になれ/個性的になるなという矛盾した命令と受け取って狂う人もいるかもしれない。ダブルバインド概念はG・ベイトソンによるもの)。

    キーワード:個性

    「この連帯は類似による連帯であり、『個人的人格が集合的人格に吸収しつくされているかぎりにおいてのみ可能』といえる。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,50p

    【1】なぜ「機械的」と呼ばれているのか

    「無機物体の諸分子と同様に、それぞれが固有の運動をしないかぎりにおいてのみ全体として動くことができるから」らしい。

    たとえば酸素や水素、窒素などを考えてみる。もし酸素が我々が通常考える酸素の機能を果たさずに、個性を出してフッ素の機能を出してしまったとする(そんなことが可能かという現実的な話は比喩なので隅に置く)。

    そうすると水は安定して維持できなくなる。なぜなら、水という物体には酸素が酸素としての固定した役割を果たす必要があるからである。

    ほかの元素になりたいなどという部分の自由や個性を許していてはH2Oという無機物体、全体が維持できない。一方、Oはその類似的な機能ゆえに、他のOでも代わりがきくという点もポイントである。

    これと同じように、機械的連帯において個々人は類似している必要があり、個性的であってはならないとされ、また代替性も高い。

    他にも、機械の歯車のひとつが、突然個性をもちだすと全体が崩れだしてしまうのとも似ている。機械の部品が組み合わさって一つの機能を果たすように、人々が互いに密接に結びついている状態の比喩である。

    もっとも、分業が発展した社会でも一般に個人は機械の歯車と呼ばれることがあるから、私は当時混同した。

    たとえば個性があまり許されない公務員の仕事や単純作業の仕事などもそうであり、現代では「タイミー(スキマバイト)」という仕事のあり方のように、簡単に代わりがきくものとみなされる仕事も多々ある。

    とはいえ全体の機械が単純ではなく複雑になった分、歯車の個性が求められたり、またその個性の許容度が上がったと考えることもできる。あらゆる多くの仕事をかけもって隙間で仕事ができるというスキルというように、別の視点から見れば代わりがききにくい仕事のスタイルだということもできる。

    キーワード:無機物体

    「この連帯がなぜ機械的と呼ばれるかといえば、無機物体の諸分子と同様に、それぞれが固有の運動をしないかぎりにおいてのみ全体として動くことができるからである。機械的連帯が成立している前近代社会は、社会構造の側面から環節社会と呼ばれる。なぜなら、環形動物の一つ一つの環が似ているように、この社会が、類似した基本的集合体(クラン)の反復によって成立しているからである。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,50p

    【2】なぜ「有機的」と表現されているのか

    有機物とは一般に、炭素を含む化合物を意味する。いわゆる生命をもつものは有機物から構成されている。一方、無機物は炭素を含まない。

    重要な違いは、無機物は比較的単純な構造であり、有機物は複雑な構造であるという点だろう。たとえば水や食塩、ダイヤモンドは無機物であり、糖やタンパク質などは有機物である。

    たとえばデュルケムは社会を人間や動物の体にたとえることがある。心臓や胃、脳などの諸機関が連帯してひとつの体をつなげて維持するように、社会もまたそれぞれの固有の役割をもった人間が連帯し、つながっているというわけである。

    水はその単純な構造ゆえに複雑な活動ができないが、まさに単純ゆえに代替可能になり、維持が容易に可能になるのかもしれない。

    人間は複雑な構造ゆえに複雑な活動ができ維持が可能になる(とはいえ、その複雑な意識ゆえに核戦争で社会全体が滅亡する可能性があるのだが)。

    心臓は水素や機械のように、簡単には代わりがきかない。同じようにある個人が心臓のように、ある集団において代わりがききにくくなっていく。たとえばサッカーチームにおいてあるエースが抜けただけでその集団的な力が激減するのと似ている。新しいエースをもってくればいいではないか、と思うかもしれないがそううまくはいかない。チームとのコンビネーションはいままでの相互作用の蓄積によって体が覚えるような複雑な能力だからである。

    キーワード:有機体

    「高等動物の諸器官のあいだにみられる連帯と同様、ここでも、『一方では、個人は、その労働が分割されればされるほど、いっそう密接に社会に依存し、他方、各人の活動が専門されるほど、いっそう個人的となる』という性質がみられる。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,51p

    環節的社会と組織的社会の違い

    環節的社会とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
    POINT

    環節的社会(環節社会、分節社会)機械的連帯が優勢な社会のこと。

    なぜ環節的社会と呼ばれるのか。「環形動物の一つ一つの環が似ているように、この社会が、類似した基本的集合体(クラン)の反復によって成立しているから」だという。たとえばそれぞれ似たような部族からなる社会を想像するとわかりやすい。

    環節とは生物学では関節などの「つなぎ目」を意味している。環節動物とは、たとえばミミズやムカデなどである。環とは輪の形、ドーナツ型の形を意味する言葉である。

    ミミズの体はそのほとんどが同じような、類似した見た目のパーツ(部分)からできていることからその比喩表現として「環節的社会」と呼ばれるのだろう。それぞれ似た機能や構造を持ちながら結合しているイメージである。

    キーワード:「環節的社会」

    「機械的連帯が成立している前近代社会は、社会構造の側面から環節社会と呼ばれる。なぜなら、環形動物の一つ一つの環が似ているように、この社会が、類似した基本的集合体(クラン)の反復によって成立しているからである。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,50p

    組織的社会とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
    POINT

    組織的社会(有機的社会、産業社会、組織社会)有機的連帯が優勢な社会のこと。

    環節的社会は極端に言えばみんなで狩りをして、みんなで食事を用意し、みんなで政治をするといった、特定の、固有の役割をもたない社会である。

    それに対して組織的社会ではそれぞれ固有の役割に分かれ、また政治の中、経済の中、家族の中でもまた分かれていくような複雑な組織をなしている。

    一般に、組織化とは「個別の要素や行動を秩序立てて体系化し、特定の目的に向かって効果的に機能させること」を意味する。

    例えば人間の体も組織化されており、心臓、脳、腸、膵臓などの個別の要素が生命の維持あるいは恒常性の維持に向かって効果的に機能している、あるいは結果として機能しているといえる。要素がより複雑に、個性的に、体系的、相互依存的に組織されているゆえに組織的社会というのである。

    キーワード:組織的社会

    「有機的連帯が成立する近代社会は、社会構造の側面からは、組織的社会と呼ばれる。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,51p

    「チーム友達」と「チーム組織」

    最近、あるHIPHOPシーンで「チーム友達」という言葉と「チーム組織」という言葉が対立的に扱われていたが、これもその一種なのだろう。「友達感覚ではもうやっていられない」という近代的意識の表れなのかもしれない。

    日本も2000年あたりまでは終身雇用などがあり、会社員は家族であり仲間だという意識があったかもしれない。しかし現在では終身雇用も難しく、家族というより共通の利益のために協力している他人だというイメージのほうが強いのではないだろうか。仲間だからと感情的に付き合うよりも、組織がまとまるための合理性や規律性、利益性を第一にするような集団意識が優勢となっていくイメージである(ウェーバーの言葉で言えば「官僚制」に近い)。

    もちろん前近代社会が全く組織されていなかったかといえば、そうではないだろう。たとえば軍隊などはいつの時代も強く組織化されている。とはいえ、軍隊では誰かが欠けるとその集団が崩壊するような組織のされ方はあまり好ましくない。誰が欠けても代わりがきくような形で、非個性的に組織されている必要がある。

    先程のHIPHOPの話でも、「チーム組織」では誰とでも気軽に、感情的に友だちになるのではなく、必要な仲間を選ぶべきだというニュアンスが込められていた。代わりのきかなさをそこに感じる。組織化のされ方がより個性的、相互依存的、非代替的になったのである。漫画のワンピースで言えば、大事なメンバー(船員)の代わりはいないというイメージ。

    【基礎社会学第十八回】マックス・ウェーバーの「官僚制」とはなにか

    機械的連帯/有機的連帯の二分法をほとんど用いなくなった理由

    デュルケムは『社会分業論』以降、機械的連帯/有機的連帯の二分法をほとんど用いなくなったという。なぜか。

    機械的連帯から有機的連帯へ、環節的社会から組織的社会へといった「社会変動論」のどこが問題だったのだろうか。

    社会生活は有機的連帯の側面、環節的社会の側面が強い。したがって「有機的連帯は機械的連帯を必要とする」ということになり、単純な二分法で語ることが難しくなる。

    図式がざっくりとしすぎているのである。「機械的連帯が有機的連帯にとって代わられる」のではなく、両者はある程度共存しているのであり、お互いに支え合っている。

    有機的連帯にとって機械的連帯が必要であり、相補的な関係にあるといえるにせよ、排他的な側面もある。

    例えば機械的連帯では個性をできるだけ排除しようという傾向がある。一方、有機的連帯では個性をできるだけ受容しようという傾向がある。この意味で両者は排他的である。このようなコンフリクト(衝突)においては、望ましい個性とそうではない個性というような文脈に依存した受容と排除の判断が調和を生むのかもしれない(その判断が難しい。だからこそLGBT問題があれほど論争を生むわけである)。

    では、有機的連帯のどの要素が具体的に組織的社会でも必要不可欠なのか。

    端的に言えば「社会集団への愛着」である。具体的に言えば、同じ土地への愛着、祖先への崇拝、習慣の共同性などである。

    もし仮にこの愛着がなければ、成員間における生存競争が加速し、人々は分離し、分業は連帯を生み出せない。分業や競争には社会的意義があり、それは一つの貢献であり、またその貢献の価値がある我々の社会という意識が必要だということである。心理学者のアドラーが「仲間意識、我々意識」をあれほど強調したのもこの延長で考えることができるかもしれない。

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか

    分業の発展要因である「動的密度の増大」ではこうした道徳的密度、つまり社会集団への愛着も必要になる。ウェーバーがプロテスタントに見出した神に赦されているかどうかの意識もまた、ひとつの道徳的密度だったのかもしれない。

    単なる孤立した個による競争ではなく、その競争は個を超えた全体的、超越的なものへとつながっているという意識である。もちろん、その個人を超越した全体的なものこそが「社会」である。もっとも、デュルケムは人類(ユマニテ)単位の社会というものはまだ構成されていないため、国単位の「愛国心」を重視していたようだ。たとえば「日本のためになにかしたい」というような意識、コンテクストが「単なる分業」を、「連帯へとつながる分業」へと変化させるというわけである。

    キーワード:二分法

    「図式的にいえば、有機的連帯は機械的連帯に支えられていなければならない、ということである。しかし、厳密にいえば、有機的連帯を支えるのは、有機的連帯のうちのある要素にすぎない。各個人の個性をゼロにするような特性の集合意識であってはならない。いずれにせよ、『分業論』のなかに主張の転換があるとみることも可能なのである。機械的連帯と有機的連帯は必ずしも排他的ではない。とすれば、二分法とは言えなくなる。『分業論』より後、この二分法が用いられなくなるひとつの理由がここにある。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,55-56p

    キーワード:愛国心

    「愛着すべき社会としては、人類(ユマニテ)はまだ構成された社会とはいえないから、ユマニテの理想をもりこんだ祖国においてない。したがって、デュルケムにおいては愛国心が重視される。愛国心というのは、祖国あるいは政治社会の理想にコミットすることであって、そのままでは、愛国心の中身について語るものではない。この中身として、デュルケムは『新しい正義と連帯の観念』を予想しているようである(139頁)。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,72p

    「カオスでしかない異常な分業形態を『アノミー』的と呼んで斥ける。かくて、生理的分業が、すでに一定の凝集性をもった多細胞集合体のなかにしか生じないのと同様、『同じ土地への愛着』、『祖先への崇拝』、『習慣の共同性』などにおう社会の統一性のなかでのみ真の分業、すなわち有機的連帯が生じる。」
    「社会学のあゆみ」,85p

    中庸の感覚

    機械的連帯が形成されていなければ有機的連帯は生じていない。カオスのみでは新しい秩序(連帯)は生まれない。また、一旦有機的連帯が派生したならば機械的連帯は全て消失するわけではないという論点も重要になる。

    1か0かだけではなく、グラデーションがあり、範囲内の優位、あるいはそのバランスとして語ることができる。どちらかが単に絶対的に劣っていて0にするべきという性質のものではない。

    デュルケムのセンスにはいたるところに「中庸の感覚」がみられる。古代の哲学者のアリストテレスは徳として中庸を追求するべきだとしていたそうだ。

    お風呂は冷めすぎても熱すぎても体に悪いのであり、その両方をもって適切な中間をちょうどよく生じさせていくのである。こうしたセンスはウェーバーの情熱と冷静さを同時にもつ意識とも重なって見えてくる。ウェーバーは「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」と言っている。

    「だが相対性の認識が、だから健康などの弁別基準も所詮、各社会において、ひとびとが共有する評価様式、つまり集合意識としてしかあり得ないという認識とはならない。健康が生理学的身体の客観的状態として弁別できるのと同じ意味で、社会種の客観的状態を弁別しようというのである。おまけに、『健康は中庸の活動にこそある。現実にも、健康とは全機能の調和的発展を意味する』という具合に、何事にもよらず過ぎたるは及ばざるが如しといった、恣意的なバランス感覚がしのびこむ。個々にも、コントから継承した保守的精神主義が露呈する。」
    「社会学のあゆみ」,92p

    参考文献リスト

    今回の主な文献

    エミール・デュルケム: 社会の道徳的再建と社会学 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    エミール・デュルケム: 社会の道徳的再建と社会学 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    新睦人「社会学のあゆみ」

    新睦人「社会学のあゆみ」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    参考論文

    ・奥村隆「ジンメルのアンビヴァレンツ」(2008)(URL)

    ・奥村隆「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」(2012)[URL]
    ・野中 亮「『宗教生活の原初形態』における「俗」の位置――デュルケーム宗教社会学の動学化のために――」(1997)[URL]

    米川茂信「アノミーの規範分析: デュルケム・アノミー概念のマートン・アノミー概念における継受と展開」(1983)[URL]

    村田裕志「社会学的機能主義系 「社会システム論」 の視角 (I)」(2008)[URL]

    盛山和夫「<特集><社会調査の社会学>説明と物語:社会調査は何をめざすべきか」(2005)[URL]

    江原由美子「『ジェンダーの社会学』と理論形成」(2006)[URL]

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    蒼村蒼村

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    創造を考えることが好きです。
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