【基礎社会学第三七回(2)】エミール・デュルケムの「実証主義(合理主義)」を解説

    はじめに

    動画での説明

    ・この記事の「概要・要約」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    エミール・デュルケムとは、プロフィール

    POINT

    エミール・デュルケム(Émile Durkheim,1858-1917)フランスの社会学者。デュルケームと翻訳されることもある。マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルとともに社会学の創設者として扱われている。社会学の機関紙『社会学年報』(1898年)を創刊し、デュルケーム学派を形成した。甥には人類学者のマルセル・モースがいる。代表作は『社会分業論』(1893)、『社会学的方法の規準』(1895)、『自殺論』(1897)、『宗教生活の原初的形態』(1912)であり、社会学の古典となっている。

    前回の記事

    【基礎社会学第一回】エミール・デュルケームの「社会的事実」について

    【基礎社会学第二回】エミール・デュルケームの「社会的分業」とはなにか?

    【基礎社会学第三回】エミール・デュルケームの「自殺論」、「聖と俗」、「機能主義」とはなにか?意味

    【基礎社会学第三六回(1)】エミール・デュルケムの社会学とはなにか、学ぶ意味や価値はあるのか

    【基礎社会学第三六回(2)】エミール・デュルケムの「機械的連帯と有機的連帯の違い」を解説

    【基礎社会学第三六回(3)】エミール・デュルケムの「集合意識と集合表象の違い」を解説

    【基礎社会学第三六回(4)】エミール・デュルケムの「非契約的要素」を解説

    【基礎社会学第三六回(5)】エミール・デュルケムの「拘束的分業とアノミー的分業の違い」を解説

    【基礎社会学第三七回(1)】エミール・デュルケムの「社会的事実を物のように考察せよ」を解説

    【基礎社会学第三七回(2)】エミール・デュルケムの「実証主義(合理主義)」を解説(現在の記事)

    【基礎社会学第三七回(3)】エミール・デュルケムの「社会学主義」を解説

    【基礎社会学第三七回(4)】エミール・デュルケムの「社会実在論/社会唯名論」を解説

    行為形式と存在様式の違い

    社会的事実には「組織化された形式」と「組織化されていない形式」の二種類に分けることができ、それらは客観的に見える形で我々が観察できるように整える必要があることを学んだ。

    これまで見てきたのは行動や意識といった集団の平均的な生理学的側面に近い。たとえば自殺の割合などはその一種である。デュルケムは社会的事実をこうした「行為様式」と、それ以外の「集合的な存在様式」に区別して考えている。

    デュルケームの「行為様式」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    行為様式社会の中で人々が従う規範やルール、日常的な行動パターン、傾向のこと。

    具体例:法の規則、道徳、言語、金融制度といった「組織化された形式をもったもの」や、自殺への傾向などといった「社会的潮流(組織化された形式をもっていないもの)」が挙げられる。

    規範やルールのどこが「行為」なのか、と私には疑問が生じる。おそらく、「行為を縛るなにか(様式)」という意味で行為様式なのだろう。

    そもそも「様式」とは一般に「ある事柄を行う際の、決まった形式や方法、スタイル」を意味する。つまり、「行為の様式」とは行為する際の決まった「形式」を意味するのであり、法律や道徳、金融制度がそこに含まれることにも納得がいく。

    自殺の傾向がなぜ行為様式に含まれるのかというと、自殺は個人的な問題ではなく、集団的、集合的な「何か(社会的事実)」が自殺を導いている、つまり自殺という行為を導くとデュルケムは考えているからである。『自殺論』については次回扱う。

    たとえば「世論が誰かを叩いてることに影響されて私も叩く」というのはある意味で行為に世論が、つまり社会的潮流が影響を与えているということになる。その行為は単なる個人の内面(ストレスがあるとか、怒りっぽいとか、正義感があるなど)だけに還元できない。そもそも個人の性格というものが他者との関係によってのみ語ることができるようなものであるということをアドラーは述べていたことを思い出す。

    キーワード:「行為様式」

    「これまでとりあげてきた社会的事実はすべて行為様式であり、生理学的な種類のものである。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,34-35p

    デュルケームの「集合的な存在様式」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    集合的な存在様式・社会を構成している基本要素的な諸部分の数や性質、それらの配置の様式、それらの達している融合の度合い、特定地域上の人口分布、交通路の数や性質、居住の形態のこと。例えば人口分布、交通路の配置、移住の形態、経済活動の集中など。まとめて「集合生活の基体に関係する事柄」とも表現される。

    行為様式は「生理学的」であり、集合的な存在様式は「解剖学的もしくは形態学的」と比喩が用いられている。

    中島道男さんは「集合的な存在様式」を「固定化された行為様式」と表現している。

    我々が日々行為する結果、ある習慣、パターンに則って行為する結果、そうした「構造」が出来上がり、固定的になったということである。そしてこの集合的な存在様式は「河床」にたとえられることがある。キリンの首が長い時間を経た行為によって構造的に長くなっていったというように、アナロジー的に考えることもできるかもしれない。C.アレグザンダー的に言えば「醜い建物が適応の中でそこら中に存在するようになった」ともいえるのかもしれない(もっとも、美/醜の基準が問題になるわけだが)。

    河床とは水の流れによって形作られる地形のことである。河(川)の水が長い時間をかけて同じ場所を流れると、地面や土が削られ、次第に特定の形の河床ができあがる。

    これと同じように、我々の日々の「行為様式」の流れが、「集合的な存在様式」を形作ってきたといえる。そしてその行為様式を集合的、創発的に形成しているのが我々、諸個人の行為や意識である(水だけを取り出しても流れは見えず、流れは孤立した水だけに還元できない)。

    たとえば法律が行為に影響を及ぼし、その行為の積み重ねが人口分布に影響を及ぼす。もちろん、矢印は双方向的であり、行為が法律に影響を及ぼしたり、人口分布が法律に影響を及ぼすこともある。

    行為様式と集合的な存在様式は孤立した社会的事実ではなく、相互に影響を与え合っているのである。こうした「要素と要素の相互連関性」、あるいは「創発性」がデュルケムでは重要になる。創発性とは要素と要素を足し算するのではなく、掛け算のように大きな結果が生じるイメージである。

    「これまでとりあげてきた社会的事実はすべて行為様式であり、生理学的な種類のものである。このほかに、集合的な存在様式、すなわち、解剖学的もしくは形態学的な種類に属する社会的事実もある。たとえば、『社会を構成している基本要素的な諸部分の数や性質、それらの配置の様式、それらの達している融合の度合い、特定地域上の人口分布、交通路の数や性質、居住の形態』といった、『集合生活の基体に関係する事柄』である。しかし、これらの存在様式は、固定化された行為様式にすぎない。たとえば、交通路は、取引や人員移動などの規則的な流れが同一の方向にむかうことによってうがたれた河床にほかならない。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,34-35p

    距離へのセンス

    個人と社会の関係もまた相互に影響を与え合っているといえる。とはいえ、社会と完全に切り離された個人などはいない。

    社会なしに個人は存在せず、個人なしに社会は存在しない。社会から完全に距離を置いて個人が社会を眺めたり、影響を与えることはできない。ルーマンにおいてさえ、社会システムはたしかに個人をその構成要素として含まないが、しかし個人が外部にいないと成立しないと考えられている。

    我々は社会の内部からしか社会を眺めることしかできない。完全に距離をおくことはできなくとも、適度な距離を置くことは可能であると信じられ、それがデュルケムの「物のように扱う」という戦略なのである。

    適度な距離において扱う」という発想はジンメル的で面白い(自由と不自由、個人と社会といような両義性とそのバランスが重要とされる)。佐藤俊樹さん的に言えば「常識から外れすぎない、うまい範囲に収める」ということになるだろう。こうした「距離へのセンス」がきわめて社会学では重要になる。マンハイム的に言えば「全体性へのセンス」だろう。

    ある一部の人間が十全に社会をその「主観的な感性」によって理解したり意識できてもたいした意味はないのかもしれない。多くの人間に「理解させ、意識させる」という目的に対しては、「客観的な手法」が優先されるのである。

    そしてその「社会の存在を理解させ、意識させる」ことによって「道徳の危機に瀕している社会に道徳を再建する」という結果をデュルケムは期待している。

    【基礎社会学第九回】ゲオルグ・ジンメルの「純粋社会学」の例である「軸の転回」、「社交」について学ぶ。

    【基礎社会学第三十二回】カール・マンハイムの「相関主義」と「自由に浮動するインテリゲンチャ」とはなにか

    キーワード「危機」

    「道徳論には危機意識がみなぎっている。『ヨーロッパ社会がこの一世紀以来経験して来た危機ほど重大な危機は、過去の歴史にその例を見ないといってよい』とまで言われている(137頁)。現存の規則体系は動揺してしまっていて、規律の精神は効力を発揮できない。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,72p

    「だが、十九世紀フランスが生み出した独特の風潮として特定化する限り、『実証主義』は人間的諸価値を疎外する、かの『価値中立的』ないし『感情中立的』科学主義を意味しない。コント後期の『実証政治学体系』はもとより、前期の『実証哲学講義』においても、かれの実証精神は、当時フランスの混乱を収束し、ヨーロッパに新しい秩序をもたらそうという強い実践的、道徳的関心に貫かれている。コントの実証主義を『実証的形而上学』と別称したデュルケムも、社会学がもし社会改革に貢献できないのなら、そもそも学問をする意味はないと力説している。先入見を排除した冷静な観察を要請する一方で、秩序再建にとり組む強烈な実践的意欲を表明し続けたところに、『フランス実証主義』の強みと同時に弱味があった。」
    「社会学のあゆみ」,70p

    社会は生命をもっている?

    社会は複雑である

    社会は無限に思えるようなさまざまな大きさや客観性をもつそれぞれの要素から複雑な相互作用によって構成されていると言える。

    我々はそれぞれの視点、フィルターから観察することしかできない。経済学の視点、物理学の視点、哲学の視点、美学の視点、日常生活における素朴な視点といったようにさまざまな視点、それぞれの枠組みで社会を観察している。そうしたパーツや視点のひとつが社会学的視点であり、「社会的事実」のありようだといえる。

    例えば「自殺」という社会的事実から、その社会全体がどのような状態にあるかを観察する場合、社会的事実は一種の色眼鏡、視点であるといえる。経済学者は「経済」に特化した色眼鏡をもっている。

    では、このように様々な視点で見られている社会が「生命」をもっているとはいったいどういう事態なのか。

    デュルケームの「社会生命の構造」と、「社会生命の潮流」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    デュルケムは生命がある程度固定化したものを「構造」であると考え、ある程度流動的なものを「潮流」と考えている。

    構造とは一般に、「その社会の安定した相互依存関係」を意味している。たとえば法や経済といった制度などがその例として挙げられる。一日や二日でそう簡単には変わらないような社会的事実である。「挨拶は大事だ」という日本の文化もそう簡単には変わらないだろう。とはいえ、構造や体系、エートスや文化といった曖昧に使われがちな用語を厳密に使いこなすことは難しいことを頭に入れておく必要がある。あくまでも色眼鏡であることを自覚しながら使うべきだろう。

    潮流とは一般には海水の流れを意味する。「ある時代や状況において主流となる動向や傾向」という意味合いで使われることが多い。

    たとえば世論で盛り上がっている議論が一日で終わることもあれば、一日でまるで逆に変わることもある。たとえば最近、ある政治家への批判がその主流の傾向であったのにも関わらず、次の日にはその逆の称賛が主流の傾向になり、またさらにその逆の・・・と流動的、急激に変わっていくことがありえる。

    POINT

    社会生命の構造(構造的諸事実)生命のある程度固定化したもの。例:法律

    POINT

    社会生命の潮流生命のある程度固定化していないもの。例:自殺の傾向など

    自殺の傾向が潮流に分類される理由は、たとえば経済の不況や盛況によって容易に変化しやすいからであるといえる。ある程度組織化されたものと、組織化されていないものとも区別できるだろう。

    キーワード:「構造」、「潮流」

    「社会的事実を連続的なものととらえる際の観点は、社会の生命性(la vie sociale)ということである(中久郎)。生命性という観点からは、構造的諸事実と社会生命の自由な潮流は、生命の結晶化・固定化の度合いの大小という程度の差があるにすぎない。『構造とは、生命のある程度固定化したものをいうのであって、構造をその源泉である生命、あるいは構造により規定をうける生命と区別することは、不可分の事物を区別するに等しい。』(「社会学とその学問的領域」)」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,34-36p

    構造と潮流の相互関係、アナクシメネス的要素について

    生命は構造によって規定を受け、構造は生命によって作り出されるという。

    相互関係や循環関係にあるというわけである。こうした考え方を極端に引き伸ばしていけば、地球とはひとつの生命であり、さまざまな部分の全体から構成されていると考えることもできるかもしれない。

    とはいえ、そうした分析では範囲が広すぎて難しいので、範囲を部分社会に絞ったり、あるいは部分社会の部分的な構造に絞ったり、あるいは部分的な相互作用に絞ったりするというわけである。

    これらはマクロ(大範囲)、ミクロ(小範囲)、メゾ(中範囲)といった範囲の違いにも関係してくる。たとえばデュルケムならマクロ、ジンメルならミクロ、マートンならメゾといったイメージである。

    社会は「生命」であり、「時間」の経過によって変化していく。0から1への変化だけではなく、その間にグラデーションが存在する。

    「組織化された形式」と「社会的潮流」の間のグラデーションの問題とも重なる。あるいは社会的潮流になる前の、もっと具体的な傾向を帯びる前の、何かとのグラデーションともいえる。デュルケムが社会的事実は「連続的な層」であると考え、それらの間の「相互作用(相互連関)」を重視していた点が極めて重要である。

    私がこうした比喩を聞いて思い出すのは、古代の哲学者のアナクシメネスである。

    アナクシメネスは万物の根源(アルケー)を空気であると考えた。世界は空気でできていて(存在)、空気によって変化している(生成)という説明をした。万物は根源である「空気」が希薄化と濃密化によって変化したのであり、生成されているというわけである。

    火や水、土といった異なる個別具体的なもの(バラバラに見えるもの)を、空気という尺度によって足し合わせたり引き合ったり(濃密化や希薄化)できるようにしたということが社会学的には重要になる。

    社会的事実も自殺や法や経済制度、相互作用といったように個別具体的に細かく見ていくことができる。しかし、それは「社会の表れ方の違い」であると見ていけば、同じ現象の違う表れとして統一的に見ていくことができる。生命の固定化したものが制度であり、固定化していないものが潮流であり、潮流は制度に、制度は潮流になる可能性を秘めているという考え方がスッと入ってくる。

    【基礎哲学第三回】アナクシメネス「万物の根源は空気である」

    キーワード:「連続性」、「相互作用」

    「デュルケムにおいては、社会的事実は連続的な層としてとらえられている。『もっとも明確な特徴をもった構造的諸事実を、いまだいかなる確固たる外型にも枠づけられるにいたらないこれら社会生命の自由な潮流へ切れ目なく連続的にむすびつけている微妙に濃淡をもった諸段階が存在していることになる。』(68頁)。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,34-36p

    「『分業論』や『方法の基準』においては、社会的事実のうちの構造的諸事実が重視されていたが、その後、デュルケムの力点は映っていく。こうした社会概念の展開を理解することこそ、デュルケム社会学を理解する鍵となる。いずれにせよ、連続的なものとしてとらえらる諸層のあいだの相互作用こそ、デュルケムの注目するものにほかならない。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,34-36p

    実証主義と合理主義

    コントの「実証主義」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    実証主義(positivism)一般に、観察・実験を通じて得られた客観的なデータに基づいて現象を説明・予測しようとする科学のアプローチのこと。自然科学や社会学で用いられている方法論的な態度である。

    18世紀に数学者のダランベール、ラグランジュ、ラプラスらによって研究され、こうした方法論をオーギュスト・コント(1798-1857)が完成させたといわれている。

    たとえば「クロニクル社会学」ではデュルケムの解説として、「社会的事実を客観的な対象として取り扱うということは、同時に社会学者に対して客観的な方法的態度を要求することであり、……それは実証主義というかたちで表現された」とある。

    たしかに「社会的事実を物のように考察せよ」という方法の基準は実証主義的アプローチのように見える。

    『社会分業論』では「道徳生活の諸事実を、実証諸科学の方法によってとりあつかおうとする、ひとつの試み」とデュルケムは述べている。実証諸科学の方法とは、「実証主義の方法によって」と読み替えることができる。

    一方で、デュルケムはコントの実証主義を「実証主義的形而上学」と呼び、それと自分の立場を混同されることを嫌がっていたという。

    デュルケムは自らの立場を「合理主義」とも呼んでいたそうだ。

    また、実証主義が合理主義の帰結なら、「実証主義のレッテルを受け容れるのはやぶさかではない」とも考えていたようである。合理主義は後で扱うとして、まずはコントの実証主義はいかなるものだったのかを扱いたい。

    コントは実証主義を肯定、相対、現実、有益、確実、明確という6つの意味に分けて考えている。

    要するに、自然科学の態度と同じように、「経験によって直接知ることができる観察可能な対象に絞るべきだ」という考えであり、絶対的、形而上学的な対象を取り扱うべきではなく、またそれらを認識することは不可能だという不可知論の立場である。

    キーワード:オーギュスト・コントにおける実証主義

    「経験的事実に基づいて確証できる認識以外を否定する立場。……コントによれば実証的(positif)の意味は六つある。つまり、①『否定的』に対する『肯定的』、②『絶対的』に対する『相対的』、③『空想的』に対する『現実的』、④『無益』に対する『有益』、⑤『不確実』に対する『確実』。⑥『曖昧』に対する『明確』。1と2とは自然法思想の放棄、3は資本主義に内在する事実につくことを、4は実用主義を、5と6は自然科学的合理主義を意味するが、この合理主義は本質認識と因果法則の認識とを断念する不可知論にたち、機能的相関関係の認識に自己を限定する。」
    『社会学小辞典』,234p

    「デュルケムはみずからの立場を合理主義と呼んだ。これは、コントやスペンサーの実証主義的形而上学と混同されることを嫌ってのことである。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,41p

    デュルケームによるコントへの批判とその内容

    デュルケムの「社会的事実を物のように考察せよ」という方法的基準とほとんど同じではないか、と疑問に思うかもしれない。

    実際、ほとんど同じに見える。デュルケムはコントの実証主義を実証主義的形而上学と皮肉を込めて表現しているが、コント自身は形而上学を否定し、形而下の対象を扱うべきだと主張しているのである。ギデンズによればコントは「科学がそれぞれ独自の研究対象をもつことを認識していた」という。では、コントにおける実証主義のどこが形而上学的なのか。いったいどこがデュルケムの独自の態度なのか。

    【1】コントの実際の分析は、実証主義的ではなく形而上学的である

    たとえばデュルケムはコントの「三段階の法則」を主観的であると批判している。

    観察可能な実体だけを問題にするべきだと言っているのにも関わらず、抽象的、あるいは形而上学的な概念を振りかざしているのではないか、というわけである。

    POINT

    三段階の法則人類の精神は神学的段階、次いで形而上学的段階を経て実証主義的段階へと進化するという法則

    デュルケムによれば、こうした「進歩」は普遍的な事実として存在するものではない。むしろ、独立して発生し、発達し、滅亡する個々の社会が「事実」として観察されるだけである。

    こうした事実をもとに「進歩」という価値判断を、あたかも価値を排除した事実判断のように扱うのは誤りだというのがデュルケムの立場である。コントの考え方は、科学よりも哲学に発想が近いと言える。

    【2】コントは素朴に自然科学の手法を模倣して社会学に取り入れることができると考えている

    ギデンズによるとコントは「科学がそれぞれ独自の研究対象をもつことを認識していた」という。しかし、「どの科学も、普遍的法則の解明を目指して同じ論理と科学的方法を共有すべきである」とも考えていたという。つまり、社会学独自の対象に合わせた独自の方法論を煮詰めるという段階に至っていなかったと言える。

    物理学のモデルをそのままメタファーとして移植するといった、コントの手法をデュルケムは批判している。たとえばコントやスペンサーは社会を「有機体」に喩えている。

    もちろんデュルケムも「有機的社会」などのメタファーないし比喩表現を用いているが、しかしそれは理解の補助のためであり、具体的に、客観的に理解できる形で整備して煮詰めていったという点が重要になる。

    デュルケムは社会学の固有の対象を明確に「社会的事実」として定義し、かつ固有の方法として「物のように扱う」ことを提唱している。

    また、デュルケムは複雑な現象を単純な要素に分解して説明しようとする極端な「還元主義」などの自然科学的方法を社会学にそのままのかたちで持ち込めるとは考えていない。

    自然科学の手法をそのままではなく、社会学の固有の対象に合わせて「改変」する必要があるという主張は理解できるが、デュルケムはどのように改変したのか。

    たとえば『自殺論』では「統計による比較実験」という手法が用いられている。具体的な方法論とその問題点については次回の動画で扱う。社会学において直接的な実験はほとんど不可能であり、間接的に思考実験するほかないというのが通底する考え方である。

    デュルケムは全ての現象を(社会学の視線から発見できる特有の)法則によって説明しようとする自然主義の立場ではあるが、しかし還元論的な自然主義ではない。

    デュルケムの立場は自然主義(ナチュラリズム、実証主義的立場)と抽象主義(観念論、形而上学的な立場)の間の、ネオ・ナチュラリズムとも表現されることがある。

    キーワード:「実証主義的形而上学」
    「デュルケムは、先達の実証主義にも、当時自国の実証主義が陥っていた状態にもいたく不満だったらしく、自らの方法と、伝統的実証主義との峻別を繰り返し要請している。コントに対しては、かの三段階の法則――人類の精神は神学的段階、次いで形而上学的段階を経て実証主義的段階へと進化するという法則――を批判して、それは主観的な着想でしかない、このような進歩は『事実として存在しない。存在するのは、つまり観察に与えられている事実としてあるものは、相互に独立して発生し発達し、そして滅亡する個々の諸社会だけである』と述べている。」
    「社会学のあゆみ」,71p
    「他方、現にデュルケムの前にある実証主義的諸研究に対しては、それらが自然科学を模倣するあまり、複雑な現象を何によらず単純な要素に分解して説明しようとする極端な『還元主義』に陥ったとして批判する。」
    「社会学のあゆみ」,71p

    「だが、十九世紀フランスが生み出した独特の風潮として特定化する限り、『実証主義』は人間的諸価値を疎外する、かの『価値中立的』ないし『感情中立的』科学主義を意味しない。コント後期の『実証政治学体系』はもとより、前期の『実証哲学講義』においても、かれの実証精神は、当時フランスの混乱を収束し、ヨーロッパに新しい秩序をもたらそうという強い実践的、道徳的関心に貫かれている。コントの実証主義を『実証的形而上学』と蔑称したデュルケムも、社会学がもし社会改革に貢献できないのなら、そもそも学問をする意味はないと力説している。先入見を排除した冷静な観察を要請する一方で、秩序再建にとり組む強烈な実践的意欲を表明し続けたところに、『フランス実証主義』の強みと同時に弱味があった。」
    「社会学のあゆみ」,70p

    「デュルケムはみずからの立場を合理主義と呼んだ。これは、コントやスペンサーの実証主義的形而上学と混同されることを嫌ってのことである。コントの『三段階の法則』なるものは、まったく主観的な一表象にすぎない。実証主義が合理主義の一帰結にほかならないなら、実証主義というレッテルを受け容れるのにやぶさかではない。これがデュルケムの立場である。さて、そこで問題になるのは、合理主義と単純主義の関係である。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,41p

    デュルケームの「単純な合理主義」と「峻厳な合理主義」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    合理主義一般に、経験や感覚よりも理性の能力を重視する立場を意味する。

    社会学小辞典の定義では「理性を最高の原理とするような、近代社会で有力となった世界観、生活態度」である。

    デュルケムは合理主義を「単純な合理主義」と「峻厳な合理主義」の2つに分け、自分の立場は後者だと述べている。まずは2つの立場を見ていこう。

    POINT

    単純な合理主義(カルテジアン合理主義)ルネ・デカルトの哲学に基づく合理主義のこと。単純なもののみが唯一の実在だとみなし、複雑なものの実在を拒否しようとする立場のこと。

    社会は諸個人の単なる総計であり、実在するものは個人であるとみなされてしまうという。デカルトの原子論的アプローチは「全体を部分の単なる総和」として取り扱うからである。複雑なものを複雑なまま記述し、単純な構成要素まで分解し、またそこから再構成すれば「それ」を理解できたとする方法である。

    POINT

    峻厳な合理主義複雑なものの実在を拒否せずに認め、理性によってなんとか捉えようとする立場。

    いずれの立場も「理性」を重視するという意味では同じ立場である。しかし、単純な合理主義の場合は還元主義的自然主義に近い。デュルケムは個人などの単純なものに分解して社会を説明しようとする還元主義の立場を否定する。なぜなら、デュルケムは社会とは個人の肉体や行為、表象には還元できない、単なる総計を超えた複雑なものだからである。

    キーワード:「単純な合理主義」、「峻厳な合理主義」

    「デュルケムは、系譜的には、カルテジアン合理主義に属している。しかし、同時に、デュルケムはデカルト主義への批判者でもある。彼によれば、単純な合理主義(または『合理主義の低次の形態』)と『峻厳な合理主義』とを区別しなければならない。デカルト主義は前者なのである。前者の合理主義はデカルトを代弁者とし、哲学者のみならず国民精神に根ざすものであり、『わが国民的特性の一つの本質的欠陥』にほかならないものとされている(『フランス教育思想史』594頁)。これは、単純なもののみが唯一の実在だとみなし、複雑なものの実在を拒否しようとする。原子論的社会感は、『単純な合理主義』の見方を社会に適用したものにほかならない。『単純な合理主義』によれば、個人だけが唯一の存在となってしまう。そのとき、『社会はそれ自体では何物でもなく、一種独特の実在を構成していないのであって、社会とは諸個人の総計を示すたんなる集合名詞にすぎない』ことになる(『道徳教育論』2(138~140頁))。それゆえ、『単純な合理主義』は否定されなければならない。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,42p

    「デュルケムの与する『峻厳な合理主義』は、かくして、事物の複雑性をいっそう深く自覚するものであり、そこでは、理性は事物の複雑さを感じながらも、けっして自らの力を疑いはしない。」
    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,42p

    デカルト的な考え方について

    デカルトの立場を極論的に表現すれば、「この世界は物体と運動から成り立つ巨大な機械のようなものである」と考えることができる。

    例えば、磁力による現象がいかに神秘的に、非物質的に見えたとしても、最終的には物質的基盤を持っており、いずれ物質的作用の存在が明らかにされるということがデカルト的な考えから帰結する(物事は幾何学のようにスッキリと理解できるというわけだ)。

    デカルト自身は神を信じていたが、神がどのように世界に関与しているのかについては詳細には述べていない。たとえば、「私たちが明晰判明に認識するものが真実であることを保証する」といった神の役割は存在するとされている。

    たとえば究極的には1+1=2であるということは疑う対象になるが(「我思う、ゆえに我あり」のように、なにかを信じたり疑ったりしている我がいるということしか確信できない)、神が「それは正しい認識であるということを保証している」と、「神は完全であり、欺くことがない」と信じるわけである。

    しかし、デカルトは神が積極的に個別の行為を歪めたり、出来上がっている因果関係を変えたりできるとは述べていない。神は始原において自然法則を創ったり維持したりしているわけだが、しかしそれを気まぐれで操作したりするわけではないということである。

    神はサイコロを振らないというアインシュタインの言葉に近いかもしれない。アインシュタインは量子力学の確率論的な性質に批判的であったが、現代物理学では量子力学の確率的な解釈が多くの実験結果を説明するものとして広く受け入れられているという点も重要だろう。

    デュルケムはデカルトの還元論的あるいは原子論的アプローチを避けつつも、デカルトのように「神秘主義を排除しようとする態度」を受け継いでいる。

    この態度は、理性によって明晰判明に、ようするに客観的に理解できる確かなもの以外を排除しようとする実証主義的な姿勢として捉えられる。

    たとえば、神が我々の行為に介入する、あるいは前世の影響が現在の行動に影響を与えるといった超自然的な説明や、イデア界が存在するといった形而上学的なアプローチをデュルケムは採用しない。

    カントが指摘したような、神やイデアは人間の理性によって容易に到達できる領域ではないという考え方と通底するものがある。

    デュルケムの合理主義は、理性によって理解できる現象に絞り、その理性を通じて複雑な社会現象さえも独自の科学的アプローチで捉えられると信じる態度に現れている。

    前回、唯心論的個人主義と道徳的個人主義の比較を行った。唯心論的個人主義が個人の内省や理性によって現象を捉えようとするアプローチであるのに対し、デュルケムの立場は、個人の先天的な理性に加え、後天的な社会的要素(社会的事実)を考慮するアプローチである。

    キーワード:「デカルト」

    「しかし、『われわれが血を承けているデカルト哲学』の全否定であってはならない。神秘主義、つまり、事物には理性を受けつけない不可知の原理があるとする考えに逃げては、問題の解決にならない。」

    中島道男『エミール・デュルケム-社会の道徳的再建と社会学-』,42p

    「近代という時代は、その精神面に焦点を合わせるなら、しだいに『魔法』が解けていく物語として語ることが出来る。十六世紀以降、現象界から『精神』なるものがみるみる追放されていった。近代科学は、少なくとも理論レベルでは、すべてを物体と運動に還元して説明する。」

    モリスバーマン『デカルトからベイトソンへ』14P

    「ものを知るには、最小の単位に分けよというこの思考型は、まさに『原子論』という呼び名がふさわしい。物質的世界を相手にした場合も、知の世界を相手にした場合も、『原子論』は、全体のを部分の総和として、それ以上でもそれ以下でもないものとして、取り扱う。この見方を土台とした哲学を後世に残したことが、デカルトの最大の業績だった。『哲学原理』のなかでデカルトは、明晰判明なる観念の論理的結合の結果として、永遠に作動するよう、髪に寄ってネジを巻かれた宇宙像を提示している。『物体』と『運動』のニ者からなる、ひとつの巨大な機械としての宇宙だ。霊的なものは神という姿で、この、ビリヤード台のような宇宙の外側をさまようが、その作動に直接の介入を行うことはない。宇宙の内部の現象は、いかに非物質的に見えるものも、最終的には物質的基盤を持つのだ。たとえば磁力の現象。二つの離れた物体がたがいに引き合うのを見ると、何か非物質的な働きが存在しているかに見えるけれども、その背後には必ず物質的作用が存在することが、いつの日にか私の方法論によって解明されるはずである――とデカルトは主張する。」

    モリスバーマン『デカルトからベイトソンへ』33P

    参考文献リスト

    今回の主な文献

    エミール・デュルケム: 社会の道徳的再建と社会学 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    エミール・デュルケム: 社会の道徳的再建と社会学 (シリーズ世界の社会学・日本の社会学)

    エミール・デュルケム「社会学的方法の規準 (講談社学術文庫 2501)」

    エミール・デュルケム「社会学的方法の規準 (講談社学術文庫 2501)」

    汎用文献

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

    大澤真幸「社会学史」

    大澤真幸「社会学史」

    新睦人「社会学のあゆみ」

    新睦人「社会学のあゆみ」

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

    本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

    アンソニー・ギデンズ「社会学」

    社会学 第五版

    社会学

    社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

    クロニクル社会学

    クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

    参考論文

    ・奥村隆「ジンメルのアンビヴァレンツ」(2008)(URL)

    ・奥村隆「距離のユートピア──ジンメルにおける悲劇と遊戯──」(2012)[URL]

    ・野中 亮「『宗教生活の原初形態』における「俗」の位置――デュルケーム宗教社会学の動学化のために――」(1997)[URL]

    ・米川茂信「アノミーの規範分析: デュルケム・アノミー概念のマートン・アノミー概念における継受と展開」(1983)[URL]

    ・村田裕志「社会学的機能主義系 「社会システム論」 の視角 (I)」(2008)[URL]

    ・盛山和夫「<特集><社会調査の社会学>説明と物語:社会調査は何をめざすべきか」(2005)[URL]

    ・江原由美子「『ジェンダーの社会学』と理論形成」(2006)[URL]

    ・赤坂真人「社会システム論の系譜(Ⅲ)──ヘンダーソンとパーソンズ;科学方法論をめぐって──」(1994)[URL]

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    蒼村蒼村

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    創造を考えることが好きです。
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