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	<title>アルフレッド・アドラー | 創造法編集社</title>
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	<description>社会学や哲学、その他創造に関する知識をまとめます</description>
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	<title>アルフレッド・アドラー | 創造法編集社</title>
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		<title>創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/14/creation-discovery-studies-4-what-is/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 14 May 2024 05:44:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
		<category><![CDATA[創造発見学]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第四回目､創造発見学に関する記事です｡]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-1" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-1">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での解説・説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">前回の記事</a></li></ol></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">創造発見学とはなにか</a><ol><li><a href="#toc5" tabindex="0">創造発見学という名前について</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">新しい知への旅</a></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">創造発見学の目的</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">【問い】研究において何に価値があるとみなすのか</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">【問い】何を問題と考えるかは人それぞれか</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">幸福の定義と単位について</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">【問い】幸福の定義や単位はどうするのか｡</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">【問い】個人のために学問を使うのか､人類のために学問を使うのか</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">【問い】:学問は人間の幸せに対してどのように貢献できるのか</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">創造発見学で主要になる三つの枠組み</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">what,why,how</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">結果を予測する責任</a></li></ol></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">第二回の動画の整理</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">目的と問題発見について</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">手段と問題解決について</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">鍵とドア</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">創造の方向について</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">象徴性について</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">１：私にとってこのニュートンの表現が「不幸」の概念に近い</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">２：ルソーのこの表現が「幸せ」の概念に近い</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">３:ウェーバーのこの表現が「当為」の概念に近い</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">４:ベイトソンやアレグザンダーらのこの表現が「信仰」に近い</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">創造発見学とアドラー心理学との関連づけ</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">善と幸福の違い</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">善とはなにか</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">幸福とはなにか</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">人間の幸福の単位について</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">【問い】なぜ隣人を愛さなければならないのか</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">「個」から出発するか､「種」から出発するか</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">永遠</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">責任</a></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">欲望について</a><ol><li><a href="#toc37" tabindex="0">【問い】マズローの欲求段階説とアドラーの欲求はどう接続できるのか</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">承認欲求</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">独自性</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">円環</a></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">認識論について</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">【問い】認識論とはなにか</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">ライフスタイル</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">不適切な認識論の例としての「甘やかし」</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">ダブルバインド</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">縦と横の認識論</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">「言い訳としての社会的条件」､「援助としての社会的条件」</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">コンテクスト</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">生き生きとした学問</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">知への努力の責任性</a></li></ol></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">次回の予定について</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">コンサマトリーな時の充実=幸せ</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">・印象に残る象徴性の例</a></li></ol></li></ol></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc55" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc56" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc64" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での解説・説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/fGQmtLyaeQU" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>※今回の記事の後半は創造性第三回の内容(1~8)を元に構成しています｡出典は省略します｡</p>
<h2><span id="toc4">創造発見学とはなにか</span></h2>
<h3><span id="toc5">創造発見学という名前について</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>創造発見学</strong></span>：</big>個々人の「問題発見」と「問題解決」に対し､主に「認識論的アプローチ」によって対処する「健全な理論､技法､及び態度」を考える学問のこと｡暫定的な緩い定義､名前である｡</p>
</div>
<p>・人間にはそれぞれの関心､つまり自分の中で「<b>解決するべき問題(当為)</b>」がある｡</p>
<p>問題を解決できない時､「解決する技法や理論､素材」を求める｡「<b>実践的で生活に根ざした必要性</b>」ゆえに､学問は必要とされると考える｡空理空論だと直感的に確信できるようなものに時間を割かない｡</p>
<p>テクニックに偏れば「<b>創造技法</b>」であり､創造の定義や過程の体系的な説明に偏れば「<b>創造理論</b>」とでもいうべきものである｡その中でも創造発見学は技法と理論､さらには哲学(形而上学)さえもバランスよく取り込み､その核には「認識論的アプローチ」を置く｡</p>
<p>・井庭崇さんの「発見の連鎖」という創造の定義が好きなので「発見」という名前を入れてみた｡</p>
<p>創造発見学の大半は「<b>素材集めの旅</b>」にすぎない｡もっと言ってしまえば､これらの動画シリーズのほとんどは「<b>私が発見の連鎖にいい素材だと思ったものを紹介するだけのログ(記録､覚え書き)</b>」である｡もちろん既存の知を共有しようとする一種の講座的な内容もあるけれど､そもそも「<b>共有すべき新たな知がなにかを共に探していく</b>」というその過程の共有が主題である｡</p>
<p>その中には創造理論もあれば創造技法もある｡第二回の内容は特にそれが中心だった｡できるだけ体系化したいと思っているが､道のりは長そうだ｡しかし「認識論的アプローチ」を主軸にするという土台が定まってきたことは喜ばしい｡</p>
<p>・私は「学問の最初の段階でよくあるような緩い思考」が重要な過程だと考える｡</p>
<p>とりあえず関連付けて遊び､フックにひっかかったものが後で想起され､また関連付けられていく｡そうしていくうちに「<b>何か</b>」が見えてくると期待している｡緩い関連付けが終わったあとで､自らの専門性に則して厳密な思考を重ねて「<b>専門的</b>」な論文なり研究がスタートするのである｡いわば大半は「<b>閃く段階</b>」､「<b>外に開く段階</b>」であり､「<b>より具体的な問題を総合的､創造的に発見する段階</b>」の学問である｡内と外を反復させて､創り創られる回路を歩んでいくイメージである｡</p>
<h3><span id="toc6">新しい知への旅</span></h3>
<p>・創造発見学は「<b>新しい知のあり方､新しい認識論</b>」を探す旅でもある｡さらには新しいだけでは不足であり､「<b>適切な学問､認識論</b>」というものの充足を求めているのである｡</p>
<p>そうした知を手に入れるためには特定の学問だけに縛られないような､「<b>越境するような緩い学問</b>」である必要がある｡いろいろな素材を吸収し､紹介する過程でそうしたものを見つけたい｡ベイトソンの言葉で言えば「<b>トランス・コンテクスチュアル</b>」に近く､多様なコンテクスト(文脈)に物事を置いて吟味していきたい｡</p>
<p>「発見の連鎖」や「独自性」に特化してこだわるわけでもないので厳密には創造学ではないかもしれない｡</p>
<p>もっと適切な名前をつけるとすれば､「総合学」や「関係学」､「コンテクスト学」､より直接的に言ってしまえば「認識学」かもしれない｡</p>
<p>しかし創造編集社という身に余る大層な名前と創造に重きを置く明確な意思を今までもってやってきたゆえに､創造という名前をはずしたくない｡「創合学」もいいと思ったが､いまいち伝わりにくい｡「創発学」もいいと思ったが､これだと堅い｡</p>
<p>「新しい知」のためには「<b>発見の連鎖</b>」である創造が(目的ではなく)手段として不可欠である｡特定の学問だけでは解決できないような問題発見がある場合､不可避的に総合的な学問が要請されるはずである｡</p>
<p>私は「<b>適切な認識論</b>」を探したい｡この「適切」は「<b>健全</b>」にニュアンスが近い｡私はグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』にそのヒントがたくさんあると考えている(ベイトソンは認識論に重きを置く学者である)｡そしてベイトソンの認識論はむずかしく､私には容易に理解することができない｡そこで､社会学や哲学､心理学といった各学問の基礎を学んでいるという側面がある｡</p>
<h3><span id="toc7">創造発見学の目的</span></h3>
<h4><span id="toc8">【問い】研究において何に価値があるとみなすのか</span></h4>
<p>・創造発見学では「<b>人間の幸福</b>」を目的とする｡</p>
<p>創造発見学では「人間の幸福」の手段として､どのような「<b>認識論</b>(思考法､認知論､思考パターン､パラダイム､エピステモロジー､ライフスタイル､性格)」が適しているのかを探すことが一番重要であると考える｡そしてその認識がどのような社会的条件において生じやすいかという「<b>社会構造</b>」に重きを置く｡遺伝など「生物的条件」も重要だが､どちらかといえば「社会関係､社会構造､社会体系」にまずは重きを置く｡</p>
<p>少なくとも私はこのような信条をもっているし､価値づけている｡もし学問を「人間の幸福」の手段として考えられない人がいるならば、この創造発見学を理解しようとする意義は薄いかもしれない｡</p>
<p>とりわけ他人に関心がなく､個人の幸福ないし快楽だけに関心がある人は「創造発見学」ではなく､価値､啓蒙､倫理や形而上学に無関心な「創造技法(ハウツー)」や「理論」のみを学んだほうがいいのかもしれない(別のカテゴリーで扱う予定)｡</p>
<h4><span id="toc9">【問い】何を問題と考えるかは人それぞれか</span></h4>
<p>・人それぞれ「何を問題とみなし､解決したいと考えるか」という具体的な点は<b>違う</b>と考える｡</p>
<p>・「その人のためになる」という抽象的な点では<b>同じ</b>と考える｡</p>
<p>もちろん善(ためになる)と幸福は同義ではないと考えることはできるが､しかし動機としては「<b>自分のためになることが自分の幸福となることへとつながっている</b>」と期待していると考えていく｡</p>
<p>結果としてはむしろ不幸であるとしてもである｡わざわざ不幸と幸福の二択があり､動機として不幸を選ぶ人はそう多くはいない｡</p>
<p>第三者に「不幸な道」に見えたとしても､当事者は「よりましな不幸としての幸せ」を選んでいると考える｡例えば引きこもりに対して多くの人は「不幸な道」を意図的に選んでいると考える｡</p>
<p>しかし当事者にとっては外に出るほうが「不幸な道」に見え､引きこもっているほうが「よりましな不幸=相対的には幸せ」にみえるのである｡そこには不満はあるだろうが､対人関係で傷つく不安は少ないからである｡</p>
<p>もちろんだからといって､創造発見学は「よりましな不幸」を強化するような､成就するような手段を提供するに留まるかといえばそうではない｡</p>
<p>「より適切な道」に対しても何らかの提言をしたい｡適切な認識論､つまり適切な学問を体系的に確立することができれば､より適切な生き方への助力になると信じている｡「よりましな不幸」を選ばざるをえないような選択状況ができるだけ起こりにくいような社会条件､認識の枠組みを考えるということである｡</p>
<p>単なる道具の提供を目指すのではなく､物事に対する見方それ自体を変化させるような､生き方､態度､解釈の変化を促すようなものを提供したい｡</p>
<p>メガネをかけている人がメガネを単なる道具だと思わずに体の一部と思うようなイメージである｡</p>
<h3><span id="toc10">幸福の定義と単位について</span></h3>
<h4><span id="toc11">【問い】幸福の定義や単位はどうするのか｡</span></h4>
<p>ここが前回のアドラー心理学の問題と関わってくる(後半で扱う)｡創造発見学の価値判断の根幹に関わる問題でもある｡</p>
<h4><span id="toc12">【問い】個人のために学問を使うのか､人類のために学問を使うのか</span></h4>
<p>これは利己と利他､自己中心と脱自己中心などと関わってくる問題である｡「<b>私だけのためという生き方</b>」と､「<b>他者だけのためという生き方</b>」､「<b>我々のためという生き方</b>」というベクトルが３つある｡どれが適切だろうか｡私だけのために生きるという利己心によって結果としては他の選択肢よりも人類が幸福に至るのか｡利他心によって結果としてはむしろ不幸に至るのか｡利共心によって結果としてはむしろもっと不幸に至るのか｡</p>
<p>どの道が適切かどうか､真剣に考える必要がある｡この問題は思ったよりも難しく､結果が予測しにくい問題であり､極端な話をすれば「どうとでもいえる問題(=結果論)」になりかねない｡</p>
<p>そうした旅の道標として､今回は「なぜ創造を､発見の連鎖をするべきか」のヒントになる素材として「アドラー心理学」を選んだ｡</p>
<p>特にアドラー心理学は「<b>幸福とは何か</b>」という問いの素材のひとつになりうると考えている｡</p>
<h4><span id="toc13">【問い】:学問は人間の幸せに対してどのように貢献できるのか</span></h4>
<p>なぜ我々は学問をするべきなのか｡それは「人間の幸せ」のためだ､という動機を仮に置くとする｡</p>
<p>・次に生じる問いは「<b>人間の幸せとはなにか､どういう状態か(what)</b>」である｡その次は「<b>どうやって幸せになることができるのか(how)</b>」という方法であり､「どのようにして､現在不幸であるのか､幸せなのか」という現状の分析である｡もちろん､「<b>そもそも人間は幸せでいるべきなのか､どうしてか(why)</b>」も考える必要があるのだろう｡</p>
<p>創造発見学では特に「社会的条件がどのように認識のパターンに影響を与えているか」を重視している｡</p>
<p>どのような現実の社会的条件が､「健全な認識」や「不健全な認識」を生み出しやすいのかを明らかにしたい｡</p>
<p>たとえば資本主義によって競争が第一､人間はただの手段にすぎない､時は金なりといった「不健全な認識」が生まれ､そうした環境､コンテクスト(文脈)に生きる人間の多くが自分を不幸だと感じやすいと仮定する｡しかし一方で､そうした社会的条件が自国の「物質的豊かさ」や「他国に侵略されない武力」､あるいは「差別からの解放」､「多様性」や「自由」を我々に与えてくれるメリットがあるとする｡われわれは簡単にそれらのメリットを捨てるわけにはいかない｡では､どうするか､と真剣に考えていく必要がある｡それらのメリットをある程度残したまま､健全な道へと進む方法はあるのか｡</p>
<p>我々は特定の認識に基づいて､行動を重ね､生きている｡もし不適切な社会的条件があれば､不適切な認識を生み出し､不適切な行為を生み出すはずである｡そうして人間は不幸になる｡</p>
<p>そうした「社会的条件」のヒントにアドラー心理学の内容や､次回の関連付けの素材として選んだ真木悠介さんの時間の比較社会学は力になると考える｡もちろん今まで社会学や哲学の動画で扱ってきたものも､そうした力の一部である｡</p>
<h3><span id="toc14">創造発見学で主要になる三つの枠組み</span></h3>
<h4><span id="toc15">what,why,how</span></h4>
<ol class="sample">
<li class="sample">創造とはなにか(what)※過程や技法を含む</li>
<li class="sample">問題発見(どういうものを問題とするのか､why)</li>
<li class="sample">問題解決(どうやって問題を解決するのか､how)</li>
</ol>
<p>創造を純粋に定義するとすれば､「<b>発見の連鎖</b>」であるという井庭さんの定義が一番適切だと考える｡</p>
<p>ただし「<b>なぜ</b>」創造をする必要性があるのかという目的を考える場合は違った取り組みが必要になる｡それゆえに「<b>健全な人格</b>」という「<b>価値</b>」の問題が私には最も根底として､前提として重要な問題だと考える｡哲学が抜けると科学は､そしてあらゆる学問は土台を喪ってしまい､地に足がつかない｡</p>
<p>そして健全な人格は必ずしも「個人」だけではなく､「人類」全体､さらにその他の有機物・無機物を含めた文脈､より大きなシステムの中で考えるべきだと考えている｡いわば「<b>健全な世界のシステム､パーソナリティ､ライフスタイル､エピステモロジー(認識論)</b>」という価値を考える必要がある｡</p>
<p>究極的には個人の存続､人類の存続､そして世界の存続を目的とするというように仮設することになるだろう｡</p>
<p>しかしより短期的には個人が幸せだと感じるという「主観的な幸福感」を重視する｡</p>
<p>まずは具体的に「<b>あなたが幸せにならなければ､他の人を幸せにすることは難しい</b>」という教訓を心に留める(しかしあらゆる教訓は踏み場であり､絶対化しない)｡</p>
<p>とはいえ､「<b>どのようにして？</b>」が難題である｡</p>
<h4><span id="toc16">結果を予測する責任</span></h4>
<p>また､マートンの動画で学んだように､動機(目的)と結果(機能)はできうるかぎり峻別することを心がける｡</p>
<p>動機や目的さえ適切ならばよいと考えるのではなく､結果(機能)及びその「<b>結果を予測する責任</b>」を重視する｡</p>
<p>理想と現実のバランス感覚を心がける｡地に足がついたまま飛ぶような､一見不可能に見えるようなことをなしとげる必要がある｡あるいは足をつけ､飛び､足をつけるの反復・交替作業であり､その動態の中で二つが両立しているように見えてくるようなものである｡</p>
<h3><span id="toc17">第二回の動画の整理</span></h3>
<p>第二回の記事:<a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<p>(１)理性と情感、論理と直観、合理と非合理、言語と非言語、意識と無意識、事実と価値、部分と全体、客観と主観、客体と主体、他者と自己、区切る世界と区切らない世界といったような、２つに分けた上でどちらかに偏りがちな、二元論的な思考手段が多くある。</p>
<p>(２)それら二項の「関係」を重視し、「統合」を目指す思考がある(全体論的な思考)。</p>
<p>(３)創造には社会的な評価が不可欠な創造と、不可欠ではない創造がある。前者では「独自性のある有用な成果」が重視されがちであり、後者では「創造的な過程、および健全な人格」が重視されがちである。</p>
<p>(４)新たに、社会や個人を一旦切り離して、「純粋な創造過程(創造システム)」を観察する立場もある。</p>
<h3><span id="toc18">目的と問題発見について</span></h3>
<p>前回はマズローの欲求段階説を、切実な問題と重ねていった｡問題発見をし､問題を解決したいと思うとする｡そこで重要なのは「<b>なんのために解決したいと思ったのか</b>」という目的､動機､あるいは本能である｡そしてその目的は「<b>欲求</b>(欲望)」となんらかの関係があると考えていく｡</p>
<p>人間はある程度先天的に､こうした欲求をもっている｡あるいは後天的に､もたざるをえないようにある程度方向づけ､強化させられている｡その中でも利他的な､あるいは利共的なものが先天的かどうかが重要となってくるのだろう｡</p>
<p>・以前整理した図</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/9ed6801c8c0a21f2140b9c124e90cc63.jpg"><img fetchpriority="high" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3718" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/9ed6801c8c0a21f2140b9c124e90cc63.jpg" alt="" width="824" height="749" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/9ed6801c8c0a21f2140b9c124e90cc63.jpg 824w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/9ed6801c8c0a21f2140b9c124e90cc63-800x727.jpg 800w" sizes="(max-width: 824px) 100vw, 824px" /></a><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4239a3d754fffb44cd180da6b4f9e14d.jpg"><img decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3719" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4239a3d754fffb44cd180da6b4f9e14d.jpg" alt="" width="1000" height="530" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4239a3d754fffb44cd180da6b4f9e14d.jpg 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4239a3d754fffb44cd180da6b4f9e14d-800x424.jpg 800w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></a></p>
<p>この欲求の種類についても､前回(第三回の動画)のアドラー心理学は大きなヒントを与えてくれる｡</p>
<h3><span id="toc19">手段と問題解決について</span></h3>
<h4><span id="toc20">鍵とドア</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/3123b2c8e8f7ec01b821a6e312fa489a.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3720" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/3123b2c8e8f7ec01b821a6e312fa489a.png" alt="" width="1000" height="504" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/3123b2c8e8f7ec01b821a6e312fa489a.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/3123b2c8e8f7ec01b821a6e312fa489a-800x403.png 800w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></a></p>
<p>第二回の動画では問題解決の手段を「鍵」として表現し､「学問､道具､象徴性」の３つに主に分類した｡</p>
<p>第三回の動画は「コードを仕入れる」ことと「象徴性」に関連している｡コードとは端的に言えば物の考え方､要するに認識パターン､変換装置､色眼鏡である｡例えば物事を「目的論的に考える」というのは一種のコードである｡問題はそのコードが健全かどうか｡</p>
<p>私は具体的な理論よりも､アドラーは「象徴性」に重きを置いていると考える｡つまり「<b>なぜ創造するべきかという動機</b>」の問題に強くコミットしていると考える｡より具体的な言葉で言えば「<b>愛</b>」と「<b>自由</b>」､そして「<b>幸福</b>」である｡</p>
<p>もちろんこの象徴性は「問題発見/問題解決」とも強く関連しているものである｡愛や自由につながりうると推定されるゆえに､仕入れたコードが価値があると見なされるというふうに関連付けていくことになる｡</p>
<p>理論的には無限にありうる手段の選択から､ドアや鍵を絞っていくような指標である｡また､なぜ愛や自由､幸福が他の概念と比べて優先されるのか､優遇されるのかという根拠も同時に問い詰めていく必要性がある｡しかしそれは学問によって「<b>知られる</b>」だけではなく「<b>生きること</b>(実践)」によって「<b>感じとるもの</b>」でもある｡</p>
<h4><span id="toc21">創造の方向について</span></h4>
<p>（１）エネルギーを使う「方法」ばかりに議論が集中し、どこにエネルギーを使ったら良いかが曖昧になる。創造を支援する方法ばかりを蓄積しても、その「<b>方向</b>」がよくわからない。</p>
<p>「<b>それは各人で勝手に考えて｡科学は事実だけ考えていればいい｡価値には一切関与しないし､関与しないことに徹底的に努める｡</b>」という態度もひとつのあり方かもしれない｡しかし私はそんな冷静な学問や科学では満足できない｡情熱(価値､哲学)も必要だと考える｡そして価値に関する科学も可能だと考える｡我々は従来の「事実と価値を区別しすぎる科学のあり方」を改めていく必要がある｡</p>
<p>（２）私的欲望､私的感覚ばかりにエネルギーが使われても、それは一時的､断続的な「<b>麻酔剤</b>」としては有効だが、痛みが生じるシステム、枠組み事態はそのままである。</p>
<p>幸せだった次の日に､特に具体的な根拠がなにもないのに「ふとした瞬間に何となく死にたくなる」ような一種の躁鬱的な心のあり方である｡むしろ、さらに凝り固まった不動のシステムの再生産として、いつか爆発するまで強化されていくかもしれない｡</p>
<p>もしそのような認識論が世界を包んでいる場合､指をくわえて何も対処しないのは無責任ではないだろうか｡「<b>皆そうだから､自分には無関係､世界はそういうものだから､そうしないと世界に適応できないから</b>」と言い訳をしていいのか｡</p>
<p>（３）せっかく創造性を発揮するなら、この世界の歪みを解消する方向に、フレーム自体を解消する方向、パラダイムを変更する方向に発揮したい｡では､どうやってか｡</p>
<p>それを考えるのが創造発見学の主要な役目であると考える｡というより私は学問全般の役目だと思っている｡</p>
<p>経済学や法律学､自然科学等は具体的な､特定の諸問題を解決するのに忙しい｡それはそれで世界に重要である｡しかしそれらを結ぶ､より体系的な緩い学問も､より大きなコンテクストを考える学問も必要だろう｡日本は物質的に比較的豊かな国である｡そういう余裕がある国の人間こそ､世界の問題を考えるべきである｡</p>
<h3><span id="toc22">象徴性について</span></h3>
<p>以下の４つは私にとっての重要な象徴性である｡いずれの問題に対処する場合も､なんらかの方向づけを与えてくれると信じている｡これらの象徴性に一切関与しないような素材を扱うことは決してない｡</p>
<h4><span id="toc23">１：私にとってこのニュートンの表現が「不幸」の概念に近い</span></h4>
<p>「<i>ちっぽけな奴。顔は青白い。僕が座る場所はない。どんな仕事ができるというのか？何の役にたつのか？失意の男。船は沈む。僕を悩ませるものがある。彼は罰せられるべきだったのだ。誰も僕を理解してくれない。僕はどうなるのか。終わらせてしまおう。泣かずにはいられない。何をしたらよいか分からない。</i>」</p>
<p>※幼少期の、ラテン語への翻訳の練習のために自由連想で選ばれた文のノートらしい。（モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』からの孫引き。129-130P）</p>
<h4><span id="toc24">２：ルソーのこの表現が「幸せ」の概念に近い</span></h4>
<p>「<i>魂が十分に堅固な地盤を見出して、完全にそこに安住し、そこに自分の全存在を集めて、過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態、時間が魂にとってなんの意味もなく、いつまでも現在が続き、しかもその持続を示さず、継起のあともなく、不安や充足の、快楽や苦痛の、欲望や恐れの感情もなく、ただわれわれの存在という感情だけがあって、その感情だけが魂の全体をみたすことができる、そういった状態があるとすれば、その状態が続くかぎりは、そこにある人は幸福な人といえる。</i>」</p>
<p>(『孤独な散歩者の夢想』より)</p>
<h4><span id="toc25">３:ウェーバーのこの表現が「当為」の概念に近い</span></h4>
<p>「<i>われわれの認識手段が──絶対の観点からすれば──いかに取るに足らない価値しかもたず、いかに弱点だらけのものであるかを弁えるすべを心得、またそのことを日頃つねに自分に言い聞かせている者は、物事というものは必ずわれわれの経験をはみ出すものであり、それを捉えようとする理論はつねに誤謬を犯す可能性があるということを思い知らされたとしても、だからといって認識への努力そのものを放棄しようとは夢にも思わないでしょう。……君がいま初めて自分に提起されたこの課題をどう解くか、それはもっぱら君自身の問題であり、君の良心と君の知性、君の心が責任を負うべき事柄です。</i>」</p>
<p>(アルフレートへの手紙から引用)</p>
<h4><span id="toc26">４:ベイトソンやアレグザンダーらのこの表現が「信仰」に近い</span></h4>
<p>「<i>自然界のあらゆる分野の現象に、同じ種類のプロセスを探っていくことができるのではないか、そんな神秘的な考えに、わたしはすっかり染まっておりました。結晶の構造と社会の構造とに同じ法則が支配しているかもしれない、とか、ミミズの体節の形成プロセスは溶岩から玄武岩の柱が形成されていくプロセスと比較できるかもしれない、とか。今のわたしなら、同じことをこう表現するでしょう。──ある分野での分析に役立つ知的操作が、他の分野でそのまま役立つことがある。自然の枠組み(形相)は分野ごとに違っていても、知の枠組みはすべての分野で同じである、と。</i>」</p>
<p>「<i>しかしかつての私は、そのことを神秘的な表現において信じたのです。そして、その信仰はわたしの研究にある種の威厳を与えました。ヤマウズラの羽のパターンを分析しているときでも、いま自分は自然のパターンと規則性という大問題と向かっているのだ、その答えの一かけらを摑もうとしているのだ、という意気込みを持つことができました。そればかりか、この神秘主義は、生物学で学んだこと、物理・科学の基礎コースから拾い上げた思考法をそのまま活用する自由も与えてくれた。人類学の研究に、自然科学の分野で学んだことが役に立つということを私は疑いませんでした。</i>」</p>
<p>グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』,134P</p>
<p>「<i>諸価値基準の相違は、ある一つの中心的な価値基準に訴えれば解消できると私は信じている。まったくのところ、この中心的な価値基準はすべての背後にある。それをわれわれは一者(the one)や無(the void)と呼んでもよいだろう。すべての人はこの価値基準と結びついており、自分自身の意識を目覚めさせることによって、程度の差はあっても、この価値基準と接触できる。この単一の価値基準との接触は、われわれの行為に究極の基盤を与え、創造者、芸術家、建築家としての行為に究極の基盤を与えると私は信ずる。</i>」</p>
<p>長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの思考の軌跡』より孫引き,136p</p>
<h2><span id="toc27">創造発見学とアドラー心理学との関連づけ</span></h2>
<h3><span id="toc28">善と幸福の違い</span></h3>
<h4><span id="toc29">善とはなにか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>善</strong></span>：</big>徳､正義や公益という意味ではなく､「(個人にとって)有益や役立つ」という意味｡</p>
</div>
<p>岸見一郎さんによれば､ギリシャ哲学における「善」はそのような意味で使われているという｡そのため､定義的には泥棒も「善」になりうるということになる｡</p>
<p>アドラー心理学では「<b>行動はすべて目的をもつもの</b>」とされている｡そしてその目的は「<b>善</b>」にあるという点が重要になる｡いわゆる「<b>目的因</b>」であり､これが「<b>決定因</b>」とみなされている｡</p>
<p>たとえば引きこもるケースを考えた場合､「人間関係で傷つきたくない」という目的を自分の意志で決定しているという見方をとる｡</p>
<p>トラウマや社会的条件によって因果関係的に完全に決定されているというような決定論の立場をとらず､人間の「<b>主体性</b>」を強調する立場をアドラーはとっている｡</p>
<p>もちろん､傷ついた過去や学校､法律､政治や家族といった社会条件も目的の設定に「影響」を与える｡しかしそれは「<b>影響因</b>」であり､「決定因」ではないと考える｡</p>
<p>アドラーは人間の本性は､上記の意味で「善」であると考えている｡そして悪に見えるものは､「<b>進化の過程のしくじり</b>」にすぎないという｡</p>
<p>動機としては善だが､結果的には本人(あるいは人類)のためにならなかったような結果論的なケースともいえる｡たとえば引きこもった結果､負のスパイラルが強化され､犯罪を起こす可能性もありうる｡もちろんこの犯罪が人類の維持にプラスするかどうかも判断が難しい｡</p>
<p>ある特定の共同体が絶滅した場合､その共同体単位にとっては「しくじりだった」ということが結果論的にいえるかもしれない｡</p>
<p>しかし「人類全体」においてしくじるかどうかを判定することは､(究極的には)「人類全体が絶滅」したあとではじめて可能になるものなのかもしれない｡だが､そんな極論､不可知論に走らず､「<b>適切な予測をできうるかぎり試みる努力</b>」をするべきだと考える｡</p>
<h4><span id="toc30">幸福とはなにか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>幸福</strong></span>：</big>アドラー心理学では「貢献感」とほとんど同義として考えられている｡</p>
</div>
<p>そして貢献感とは､他者への貢献によって得られる「わたしは誰かの役に立っているという主観的な感覚」を意味する｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共同体感覚</strong></span>：</big>アドラー自身のシンプルな定義は「他の人の目で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる」という感覚である｡私のことだけでも､あなただけのことだけでもなく､「我々」という主語のもとで物事に関心をもつ姿勢､感覚を意味することから「社会的関心」と呼ばれることがある｡</p>
</div>
<p>要するに自己中心的ではなく「我々」という脱自己中心的な態度で物事を捉える感覚のことである｡なお､過剰な「自己犠牲」の感覚は共同体感覚ではないことに注意する必要がある｡</p>
<p>アドラーは貢献感によってのみ人間は自分の価値を感じることができると断言している｡さらにアドラーはアドラーは「<b>勇気と幸福は共同体感覚にしか見られないもの</b>」だと断言している｡</p>
<p>したがって､幸福は「共同体感覚」を必要とすることになる｡というより､共同体感覚と幸福感はほとんど同義といってもいいものであり､「<b>所属感</b>」などとも通底するものである｡</p>
<p>この「所属感」は象徴性で引用したニュートンの「居場所がない」というワードと対照的でしっくりとくる｡</p>
<p>「幸福は共同体感覚にしか見られないもの」であるとした場合､「<b>自分だけの､自己中心的､自己執着的な善</b>」だけを追求しても幸福を得られないということになる｡なぜなら､共同体感覚は「他者関心」や「脱自己中心化」という概念に近いからである｡</p>
<p>であるとすれば､「善」は「自己中心的な善」と「他者中心的な善」､さらに「我々の善」に区別することができる｡これは利己､利他､利共とも分類することができる｡そして「我々の善」という我々意識､つまり「共同体感覚」の中にのみ「幸福」があるといえる｡</p>
<p>この「我々の善」における幸福を「本当の幸福」と呼ぶことができる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3721" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png" alt="" width="971" height="509" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png 971w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/0103ce40532066e967b7680d6c661f08-800x419.png 800w" sizes="(max-width: 971px) 100vw, 971px" /></a></p>
<p>前回整理したように､「ほんとうの幸福」は幸福のレベル３やn段階に属するものである｡もちろん､最初からnレベルに至ることは困難であり､出発点としては幸せレベル１以下にならざるをえない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3722" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png" alt="" width="1000" height="614" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1-800x491.png 800w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></a></p>
<p>こうした経路として幸福を考えた前回の図がこちらである｡</p>
<p>仕事・交友・愛のタスクをどのような「認識論」に基づいて達成すればよいのか､という問いとして捉え直すことができる｡</p>
<h3><span id="toc31">人間の幸福の単位について</span></h3>
<h4><span id="toc32">【問い】なぜ隣人を愛さなければならないのか</span></h4>
<p>この問いに創造発見学はいかにして答えることができるのか｡</p>
<p>シンプルな答えは「人間が幸福へ至る手段として必要だから」である｡しかしここで重要なのはこの人間が「個人」なのか「人類」なのかである｡</p>
<p>アドラーは「個人や集団の動きは､永遠に値する価値､人類の発展に向けた価値を創るときだけに､価値があると見なされる」と述べたり､「人類の幸福に貢献しなかった人間はどうなるか？､何も残さず消えた」と述べている｡</p>
<p>これらは規範的な要素である｡端的に「<b>人類の幸福に価値を置かないような個人の幸福や価値はなく､実現もしない</b>」とまとめられるような規範である｡</p>
<p>おそらくは「<b>快楽</b>」と「幸福」を区別することになるのだろう｡</p>
<p>「<b>自分だけがいい思いをできればいい</b>」と､自己中心的に他者に関心をもたない人生は「快楽」をもたらすかもしれない｡しかしそこに「幸福」は定義上存在しないし､また「価値」ももたないのだろう｡他者のことを考えずに快楽を得ることも､人間が社会的動物である以上､困難であるといえる｡</p>
<p>たとえば「なぜ隣人を愛さなければいけないのか」という質問に対して､論理療法を提唱したエリスはアドラーとは対照的に「<b>自分自身が生きていきやすい社会を作るのに役立つから</b>」と明確に答えている｡</p>
<p>隣人愛は目的ではなく､手段であり､個の幸せが最重要の位置をもつ｡アドラーからすれば「隣人愛が実現している状態」は目的でもあるだろう｡隣人愛は「単なる手段」として考えられていないはずである｡誇張して言えば､「隣人愛的な状態が実現するために､隣人愛的な手段が必要だ」ということになる｡</p>
<p>仮に「反隣人愛的な手段」によって「隣人愛的な状態」が逆説的に成立する場合もあると考えることもできるか｡</p>
<p>エリスならば､もし「反隣人愛的な手段」によって「個人の幸せ」が成立するならば､それは適切であり合理的だと認めるのだろう｡アドラーならば「そんな論証はありえない」となるのだろう｡もちろんエリスの場合も､そんなものは仮説であり､実際には難しいと考えるのだとは思う｡しかしこの問いに対して結果を精査せずに決めつけるのではなく､真摯に考える必要がある｡</p>
<h4><span id="toc33">「個」から出発するか､「種」から出発するか</span></h4>
<p>「個」から出発するか､「種」から出発するかの強調点が違うだけで結果が同じだったら議論する価値は薄い｡</p>
<p>「自分のために､しかたなく相手のことを考えざるをえない」という事態を言い換えれば､「自分のためを考えることは相手のためを考えることを通して以外達成することはできない」ということになる｡</p>
<p>それゆえに､結局は「相手のために自分のことを考える」という論理構成と「自分のために相手のことを考える」という論理構成は実体としては大差ない､機能等価なのではないか｡</p>
<p>「象徴性」として「種」を強調するほうが､あるいは「信仰」するほうが「適切な結果」を導くと推定できる場合は議論する価値がある｡</p>
<p>自分のことや具体的な他者､具体的な自然を考えて生きることと､抽象的な､永遠の先にあるような他者を考えて生きることには一種の乖離がある｡両者にはメリットやデメリットがあり､いくつもの階層がある｡</p>
<h4><span id="toc34">永遠</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>永遠の目からみた目的(完全な目標)</strong></span>：</big>アドラーが共同体感覚論で想定しているような「人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就」や「人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態」などの目的のこと｡</p>
</div>
<p>アドラー心理学の中にも「完全な目標」という抽象的な､永遠の未来の先にあるような要素と､具体的な他者というような目先にあるような要素がある｡それらをどうつなげて､乗り越えていくのかが主要なテーマとなる｡</p>
<p>個と種､具体と抽象､体と精神､物と心等々の二元論的な意識を乗り越えるような試みを模索していくのである｡アドラーならば「信仰」あるいは「勇気」によって乗り越えるということになるのだろう｡「他者を信じる」､あるいはその前提としての「自分を信じる」ことに重きを置く｡そして教育という事前の社会的条件の改善､治療という事後の改善もバランスよくとり入れていく｡</p>
<h4><span id="toc35">責任</span></h4>
<p>さらには象徴性でウェーバーが「<b>責任</b>」を説いたように､アドラーもまた「責任」を重視している｡</p>
<p>人間には未来を切り開く自由意志､能力がある｡それを認める以上､自分が選択した「結果」にも責任を負う必要がある｡あなたは結果をきちんと予測したのか｡もちろん完全にはできないにしても､可能な限りの努力を今までしてきたのか｡「やることをやってきたのか」と強く問う姿勢なのである｡「やることをやらずに意志だけでなんとか幸せだと思い込む」というようなインスタントで観念的な取り組みではなく､「生きること(実践すること)」で感じていく姿勢(認識)の哲学である｡</p>
<p>答えをひたすらに知性に求めたり､信仰に求めたりするだけではなく､「<b>やることをやる</b>」という点が重要だ｡</p>
<p>ウェーバーの言葉では「自分の仕事に就き、そして『日々の欲求』に──人間関係のうえでもまた職業のうえでも──従おう」である｡そのうえで「やり方」を模索する「やり方」､メタ的なやり方を重視するのである｡さらにやり方のやり方のやり方・・というように抽象度や論理階系を上げていき､ほとんどの要素を包摂するような､より大きなコンテクストを探していく｡ここに「より広い共同体」というアドラーの指針と通底する点が見えてくる｡</p>
<p>アドラー流に言い換えれば､「ちゃんと人生のタスクである仕事､交友､愛のタスクをバランスよくこなそう」ということになる｡</p>
<p>安易に新興宗教や薬､自分本位の<span style="text-decoration: underline;">過剰な</span>仕事や趣味､性愛､友情への熱狂といった「<b>救済(麻酔剤)</b>」に頼ったりするな､留まるなといったところだろうか｡</p>
<p>まずはちゃんと「<b>生きろ</b>」ということだ｡アドラーなら他者を自己救済として頼ることもまた､不適切なのだというだろう｡愛されようとするのではなく､まずは自分を救うのであり､自分を愛することが重要になる｡救われていないものは他者を救うことはできないのである｡他者を自分の幸福の手段化､物象化してはならない｡</p>
<h3><span id="toc36">欲望について</span></h3>
<h4><span id="toc37">【問い】マズローの欲求段階説とアドラーの欲求はどう接続できるのか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>マズローの欲求段階説</strong></span>：</big>人間の持つ主要な欲求として、生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求、という5つの欲求を挙げ、この順に下から階層をなし、この順に発達が進行し、下位の層の欲求が満たされることによって上位の層の欲求が発達していくとする説。</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4403b347756f8a2dc36aa2befca6b785.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3723" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4403b347756f8a2dc36aa2befca6b785.png" alt="" width="871" height="559" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4403b347756f8a2dc36aa2befca6b785.png 871w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/4403b347756f8a2dc36aa2befca6b785-800x513.png 800w" sizes="(max-width: 871px) 100vw, 871px" /></a></p>
<p>・以前使用した図</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>優越性の追求</strong></span>：</big>自らの足を一歩手前に踏み出す意志であり､理想の自分を目指す行動であり､先天的な欲求であるとされている｡アドラーの用語｡</p>
</div>
<p>また､優越性の追求自体は「健康で正常な努力と成長への刺激である」とアドラーは述べている｡</p>
<p>・アドラーによるとこの「優越性の追求(欲求)」がまず先天的にあり､その結果として「劣等感」が生じ､この劣等感を「克服しようとする欲求」が生じる｡</p>
<p>これらはセットであり､実質的にどれも人間の本質であり､本質的な欲求であるという｡</p>
<p>人間は大抵の場合､「完全という理想」を最初はもって追求していくが､「<b>他の人々や物事を完全にはコントロール(制御)できない</b>」という事実に直面する｡</p>
<p>次に理想と現実のギャップから劣等感が生じ､苦しむようになる｡それゆえに､できるだけギャップをなくそうと「克服」を試行錯誤で一歩一歩行うようになる｡この克服､補償の不適切なタイプが「劣等コンプレックス」や「優越コンプレックス」である｡</p>
<p>「親が､学校が､お金が､身長が」と「言い訳」に使う回避的な姿勢である｡あるいは「あいつは学歴だけ､あいつは金だけ､私は学歴がある､お金がある」など優越感にひたって不安や苦しみを紛らわせようとする攻撃的な姿勢である｡</p>
<p>克服の過程でさまざまな中間領域の優越という一種の「目的」が設定され､また解消され､また設定されの繰り返しのイメージである｡この繰り返しの果てに「完全という理想」がある｡</p>
<p>たとえばたくさん食べたいという欲求は一時的に解消されるかもしれないが､安全の欲求や自己実現の欲求など､より上位のさまざまな目的・理想が中間領域で生じていくのである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/ac7ef4d1bd74f0ff32ef28cf8a2aa49b.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3724" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/ac7ef4d1bd74f0ff32ef28cf8a2aa49b.png" alt="" width="1000" height="374" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/ac7ef4d1bd74f0ff32ef28cf8a2aa49b.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/ac7ef4d1bd74f0ff32ef28cf8a2aa49b-800x299.png 800w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></a></p>
<p>・前回使用した図</p>
<h4><span id="toc38">承認欲求</span></h4>
<p>たとえばマズローの生理的欲求が適切に満たされている状態を想定するとする｡しかし現実には､飢えたり､奪われたり､病気になったりして満足しない「不完全な現実」がありうる｡そのために劣等感は生じ､また克服の欲求も生じるのである｡</p>
<p>たとえば承認欲求が完全に飽和するような事態はあまりないのだろう｡さらに他人に承認欲求を求める人生は「<b>他人の人生を生きること</b>」につながる｡だからこそアドラーは承認欲求を不適切､不健全だと考えたのである｡</p>
<p>承認欲求の無限性は貨幣や時間の無限性と似ている｡底が抜けたバケツに水を入れ続けているようなものなのかもしれない｡</p>
<p>入れていく内に穴が広がり､さらにもっと水を必要とする｡そうしてその勢いで穴が広がる｡もっと水が必要になる｡そうして存在感､リアリティの底が､生き生きとした底がなくなっていく｡</p>
<h4><span id="toc39">独自性</span></h4>
<p>岸見さんは「『人と違うこと』に価値を置くのではなく､『わたしであること』に価値を置くのです｡それがほんとうの個性というものです｡『わたしであること』を認めず､他者と自分を引き比べ､その『違い』ばかり際立たせようとするのは､他者を欺き､自分に嘘をつく生き方に他なりません｡」という｡</p>
<p>「人と違う」という独自性(新奇性)に価値を置くのではなく､「わたしであること」に価値を感じるために「創造発見学」を用いることの「健全性」について検討する必要性があるということとつながってくる｡また､「独自性」と「個性」の差異についても検討する必要があるという新たな「問い」が生まれてくる｡良い言葉は問いを生み出すような言葉だと誰かが言っていたが､その通りなのかもしれない｡ただ受け入れるだけではなく､創っていく｡</p>
<h4><span id="toc40">円環</span></h4>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/d73b73b36ec66f467ad83a388871f263.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3725" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/d73b73b36ec66f467ad83a388871f263.png" alt="" width="608" height="273" /></a></p>
<p>アドラーの場合はどれも先天的にある程度は欲求が生じており､その根底に「幸福(共同体感覚､所属感)への欲求」というものが通底している印象がある｡</p>
<p>とはいえ､自己受容は他者受容へ､他者受容は他者貢献へといったように､ある程度のステップは円環的ではあるけども見受けられる｡</p>
<p>マズローの「自己超越」とはまさに「脱自己中心化」であり､それ以下の階層ではまだ「自己中心化」にある程度留まっていると言える｡</p>
<p>もちろん自分のことばかり考えている段階から､相手のこと「も」考える段階まで幅はある｡また､それぞれのマズローの階層は一段一段飽和してステップアップしていくものとは限らず､同時並行だったり､飛ばされたりすることもあると柔軟に考える｡</p>
<p>たとえば最低限の自分の衣食住の欲求が満たされることは仕事のタスクと関連している｡さらに尊敬や承認､信頼されたいと思うことはそのために自分から信頼するというベクトルへ変えさせうると考える｡そうした積み重ねの中で自己実現がより他者からの協力的なコンテクストの中で健全に可能になっていくと考える｡</p>
<h3><span id="toc41">認識論について</span></h3>
<h4><span id="toc42">【問い】認識論とはなにか</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認識論(エピステモロジー,認識型)</strong></span>：</big>グレゴリー・ベイトソンによると「個々の生物または生物の集合体がいかにしてものごとを知るのか､考えるのか､決めるのかを考察するのか」という科学的な面と「知る過程､考える過程､決める過程に必然的な限界その他の特徴を考察する」という哲学的な側面にわけられるという｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>「科学の一支流と哲学の一支流が合流したもの｡個々の生物または生物の集合体がいかにしてものごとを知るのか､考えるのか､決めるのかを考察するのが､その科学的な面｡知る過程､考える過程､決める過程に必然的な限界その他の特徴を考察するのが､その哲学的な側面｡」</p>
<p>グレゴリー・ベイトソン『精神と自然』,309p</p>
</blockquote>
<h4><span id="toc43">ライフスタイル</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフスタイル</strong></span>：</big>アドラーによると「個人の世界観に基づいて､個人が選択する思考や行動のパターン(型)」のこと｡</p>
</div>
<p>「行動原理」という用語とほとんど同義だと考える｡主に健全なライフスタイルと不健全(病気)のライフスタイルに区別することができる｡一般的な言葉で言えば「性格」である｡</p>
<p>ライフスタイルはまさに「認識の型」であり､この認識を考察するので「認識論」であるといえる｡アドラーは「個人」に絞っているような定義に見えるが､「類型」としてもライフスタイルを扱っている｡これをもっと広くすれば「世界のライフスタイル､世界の性格」ということもできる｡このような言い方をすると私の中では「<b>パラダイム</b>」という言葉と近しいものとなってくる｡</p>
<p>もちろん､類型(理念型､典型例)はあくまでも指標であり､実際の治療については特定の個人の特定な認識やパターンを分析する必要があることを強く注意している｡しかし「<b>類型として適切な人類のライフスタイル</b>」を考えるにあたって「ライフスタイルは分析できる」､「ライフスタイルは変えることができる」という視点は希望を与えてくれる｡「我々の勇気」によって内的条件も外的条件も変革させていくことができるという希望がある｡</p>
<h4><span id="toc44">不適切な認識論の例としての「甘やかし」</span></h4>
<p>たとえばアドラーは類型的に幼少期の「<b>甘やかし</b>・<b>放置</b>・<b>器官劣等性</b>」の三つが主要な「不適切なライフスタイル」を形成しやすい影響因だと考えている｡言い換えれば「不適切な認識論､パラダイム」を形成する「社会的条件､生物学的条件」だろう｡</p>
<p>もちろん完全に決定する訳では無いが、不適切なライフスタイル形成の確率を上げるような要素である｡個人的にはベイトソンが分裂病に遺伝が与える影響と環境が与える影響の両方を分析したことがここに関連してくると考えている｡</p>
<p>そして重要な点は､「環境が与える影響がわからないと､遺伝が与える影響を特定しにくい」ということにある｡だからこそ､社会的条件を明らかにすることは生物学者にとってさえ必要なのであるといえる｡</p>
<h4><span id="toc45">ダブルバインド</span></h4>
<p>また､ベイトソン的に言えば「ダブルバインドを形成しやすいような条件が不適切なライフスタイルを生む」ということになるのだと考える｡たとえば愛しているといいながら､愛していないような行為を親が子にし続ける場合､そして子どもはそれを批判できないようなコンテクストに置かれると､子どもは不適切なライフスタイルを形成する｡しかし本人にとってはそれが「生きていくための戦略であり､善である」という点が重要になる｡</p>
<p>これはただ「劣等コンプレックス」を本人の怠惰や勇気のなさとして押し付けることができない問題であり､また親だけにも押し付けることができない､「関係」の問題だと言える｡※ベイトソンに関しては創造発見学とは独立したカテゴリーで主題的に扱う予定である</p>
<p>より範囲を広げていけば､「生物の集合体のライフスタイル」､いわゆる「パラダイム」というものを明らかにしていく必要がある｡</p>
<p>「不適切なライフスタイル」はいつ頃形成されるようになったのか｡近現代特有のものなのか､それとも古代からあるのか｡そうしたものを分析する作業が認識論である｡社会構造を分析すれば社会学に近づく｡私はとくに(社会学における)認識論としてルーマンの社会システム理論が役立つと考えているが､しかし理解がまだ浅く､これから学んでいく必要がある｡</p>
<h4><span id="toc46">縦と横の認識論</span></h4>
<p>たとえばアドラーの「縦の関係」というような認識パターンも参考になるだろう｡縦の関係はいつ頃生まれたのか､という問いは重要になる｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>縦の関係</strong></span>：</big>上下関係で判断する人間関係のこと｡競争関係や支配関係など｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>横の関係</strong></span>：</big>「同じではないけれど対等」という人間関係のこと｡</p>
</div>
<p>いかにして他人を蹴落とすような競争意識､自然はただの物であり､支配されるべきであり､操作されるべきという対象意識は生まれたのか｡その条件をアドラーよりも多角的に分析する必要がある｡</p>
<p>どうして人間はアドラーの定義における「幸福」からみると「不幸」に見えるようなライフスタイルを創造してしまうのか｡それは単なる個人の意志だけで何とかなる問題なのか｡</p>
<p>もちろん可能なケースもあるかもしれない｡「単なる個人の意志､勇気､決心､決断」の問題と考える実践的意義も認めるが､しかしそれだけでは不足だと考える｡</p>
<h4><span id="toc47">「言い訳としての社会的条件」､「援助としての社会的条件」</span></h4>
<p>社会的条件の分析､更新も重要であり､経済､文化､宗教､法律､政治とあらゆる条件がライフスタイルに影響している｡「<b>言い訳としての社会的条件</b>」ではなく､より勇気を持ちやすくするための「<b>援助としての社会的条件</b>」の分析である｡その前向きな姿勢が重要になる｡</p>
<p>そして我々の日々の行為､物を売り､買い､SNSで何気ないことをつぶやくこともまた社会的条件に影響を与えているという具体的な視点､当事者(全体の一部)としての視線､責任も重要である｡</p>
<p>もちろん､学問によって「社会を制御､コントロール､悪く言えば支配する」という極端な発想に至らないように注意する必要がある｡</p>
<p>そもそも大きな制御は(社会が複雑すぎるために)「<b>できない</b>」と自覚しながら､なお適切な「<b>援助</b>」を模索するのである｡個人の勇気というベクトルと､社会の条件というベクトルの両方をバランスよく模索する必要がある｡</p>
<p>とりわけ操作や支配､制御ではなく「勇気や自立､自己修正をもたせるような社会的条件」が重要になるのだろう｡こうした抽象論ではなく､具体的にどのように援助するのかを教育と医療以外の側面でも議論していく必要がある｡</p>
<p>教育がうまくいけば自ずとそれ以外の分野も派生的に上手くいくと期待するだけでは足りない｡また､教育単体を経済や政治といった他のコンテクストから取り出して変えることは不可能であり､より大きな全体の相互関係を考えていく必要がある｡</p>
<p>アドラーは社会的条件を軽視しているのではなく､社会的条件を「言い訳」に用いることに警鐘をならしているのである｡言い訳に使い始めると､より適切なライフスタイルへと自らを創り変えていく「意志・勇気」がくじかれてしまう｡</p>
<h4><span id="toc48">コンテクスト</span></h4>
<p>うつ病などの精神疾患でも「社会が悪い」､「遺伝が悪い」､「あなたの勇気が足りない」とどれかの要素に偏ることは好ましくない｡それぞれの「関係」を明らかにすること､それぞれが協働してひとつの症状を生じさせていくと考えていく姿勢が重要である｡</p>
<p>どれかを複数のコンテクストから切り離して独立的に考える姿勢は不健全である｡「過去などない」と言ったり､「単なる決断の問題」と問題をシンプルに考えることの実践的なプラスと学問的なマイナスの両方を考える必要がある｡複雑に考えると勇気が生じにくいこともある｡しかし複雑に考えなければいけないコンテクストもあると考える｡</p>
<h4><span id="toc49">生き生きとした学問</span></h4>
<p>他者や社会は自分にはコントロールできないものだからときっぱりと課題を分離してしまうのも一つの手段かもしれないことを認める｡</p>
<p>自分にできることを､具体的にできることをコツコツとしていく､もし可能ならば他者やほかの条件にもできうるかぎり参与するという日々の出来事に従事する姿勢も重要であることを認める｡</p>
<p>しかし一方にはより全体性や複雑性に参与して､社会をコントロールできないとしても何かをしようとする姿勢も重要だと考える｡</p>
<p>それが主に学問の役割だろう｡学問は大学の教授や学生でなくとも､誰にでも開かれているのである｡そうした「<b>開かれた姿勢</b>」を学ぶことが学問の最大の役割であり､出発点だと言える｡</p>
<p>ウェーバーが「<b>矛盾を乗り越えるのは不可能ごとのように思えるが、不可能ごとにアタックしないようではなにごとをもなしえない</b>」と述べていたことを強く心に刻むべきである｡しかし同時に､学問(知)単体でも変えられないものであり､「<b>共に生きる､創る､実践するという感覚</b>」を強く自戒する必要がある｡学者はときに､実際の具体的で経験的な生活から乖離した抽象論を展開しがちである｡マートンのように経験と抽象を反復しながら､その間で「<b>生き生きとした学問</b>」を目指す(創造発見学よりもいい名前だ)｡</p>
<h4><span id="toc50">知への努力の責任性</span></h4>
<p>また､社会的条件をよく「理解」していないと「責任」からの逃避ということにつながるとわたしは考える｡たとえば法律をコントロールすることは難しいが知ることはできる｡同様に､社会の構造や認識の枠組みを「理解」しようとすることはできる｡これもまた難しいが､近似的､部分的にでも理解しようとする努力は必要である｡</p>
<p>日常知から専門知まで､知っておくことで未来の結果の一部を予測することが可能になると信じる｡それゆえに､「われわれのため」に､共同体感覚を伴って行動するという際に､その「<b>健全な動機</b>」だけではなく､「<b>知への努力､実践する努力</b>」が欠かせないと考える｡</p>
<p>知への努力をしないということは「<b>結果</b>」に対してあまりにも無責任である｡だからこそ､知への努力の素材を提供すること､今までの知の巨人たちの道標をできるだけ平易にまとめることには「意義」があると私は信じている｡</p>
<h3><span id="toc51">次回の予定について</span></h3>
<p>今回の動画で盛り込もうと思っていた真木悠介さんの『時間の比較社会学』の内容を扱おうと考えている｡変更する可能性もある｡</p>
<p>先走り的に少しだけ触れておく｡</p>
<h4><span id="toc52">コンサマトリーな時の充実=幸せ</span></h4>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>不幸</strong></span>：</big>「虚しいという感覚」や「居場所を感じられないという感覚」､「孤立の感覚」と暫定的に定義しておく｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>時間のニヒリズム</strong></span>：</big>時間のニヒリズム:「個体と人類の未来に不可避の死をみるがゆえにこの生を虚しいと認識する感覚」のこと｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>コンサマトリーな時の充実</strong></span>：</big>真木さんの定義では「具体的な他者や自然との交響のなかで､絶対化された『自我』の牢獄が溶解している事態」である｡「現時充足的な時」や「生きられる共時性」､「存在感の確かさ」､「共感性」とも表現されることがある｡</p>
</div>
<p>【大前提】「時間のニヒリズム」は､一見理性にとっては不可避の論理的帰結のようにみえるけれども､それが特定の時間意識の型を前提としている</p>
<p>【問い】どのような特定の時間意識の型なのか｡どのような特定の社会的背景をもって､その特定の時間意識の型は生じてきたのか｡</p>
<h4><span id="toc53">・印象に残る象徴性の例</span></h4>
<p>「…私が久しい以前から失っていたもの､すなわちわれわれに事物を単なる景物として眺めさせるのではなく等価物のない存在として信じさせるところのあの感情…」(プルースト)</p>
<p>「田舎の自然のただなかにあっては､われわれは自分たちのいる場所の独自性やその個性的な生活をまるで深い信仰のように信じる……｡」(プルースト)</p>
<p>「プルーストの世界において､現在に正しい実在性を与えているのは､神ではなくて､ただ過去である｡いま生きることを救うのは､すでに生きたことなのである(ジョルジュ・プーレ)</p>
<p>「生まれて来ぬことが最上であった｡日の目を見ぬことが最上であった｡いったん生まれて来てしまったからには､できるだけ早く死の門をくぐり大地の下に埋もれることだ｡」(テオグニス)</p>
<p>「…この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして われもまたにんげんのいのちなりしや かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにて われもおん身も ひとりのきわみの世をあいはてるべく なつかしきかな…」</p>
<p>(石室礼道子『天の魚』)</p>
<h2><span id="toc54">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc55">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc56">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc57">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc58">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc59">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></p>
<h4><span id="toc60">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc61">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc62">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc63">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc64">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc65">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc66">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc67">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc68">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc69">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc70">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
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		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 09:36:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､技法編(勇気づけ)です(8)]]></description>
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  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-2" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-2">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">3つの技法</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">3つの技法について</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">
「ライフスタイル分析」</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">
「ライフスタイル分析」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">
「エピソード分析」</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">
「エピソード分析」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「勇気づけ」</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">「勇気づけ」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">「他者貢献」と「勇気づけ」の違い</a><ol><li><a href="#toc15" tabindex="0">(１)勇気づけの場合は「他者の行動」に力点が置かれている｡</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">(２)他者貢献の場合は「他者への私の行動」に対して私が貢献していると感じることができるかに力点が置かれている｡</a></li></ol></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">「褒める」と「勇気づけ」の違い</a><ol><li><a href="#toc18" tabindex="0">「褒める」と「勇気づけ」の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">褒めるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">褒められた時に人は貢献感を感じるのか？</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">ほんとうの貢献感</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">「評価する」と「勇気づけ」の違い</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">「評価する」とはいったいなにか検討</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">褒めたほうが人間関係がよくなる気がする？</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">「尊敬」と「褒める」というニュアンスの違い</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">追記(2024/04/30):尊敬とは？</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">荒んだ畑から作物は育たない</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">土足で相手の領域に入り込む人たち</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">明らかに困っている人を助けに行くべきか</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">追記(2024/04/30):頑張れ！と励ますことは勇気づけ？</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">「メサイアコンプレックス」</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">「メサイアコンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">勇気づけが「自己中心的な動機」からきていないか</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">どうやって他者貢献せずに幸せになるのか</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">動機だけの問題か</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">適切な他者貢献と適切ではない他者貢献</a></li></ol></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">「問題行動の５段階」とは</a><ol><li><a href="#toc38" tabindex="0">称賛の欲求とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">注目喚起とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">権力争いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">復讐とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">己の無能さの誇示とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">問題行動の目的について</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">追記(2024/04/30):【行動の類型】不適切な行動､適切な行動､中性の行動</a></li></ol></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">「幸せの三段階」について検討する</a><ol><li><a href="#toc46" tabindex="0">幸せの三段階の図</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">「幸せレベル１」について</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">「幸せレベル２」について</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">自己中心的な人物は必ずしも自己受容をしていない</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">「幸せレベル３」について</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">「幸せレベルn」について</a></li></ol></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">「自己中心」から「脱自己中心」へ</a><ol><li><a href="#toc53" tabindex="0">出発点としての自己中心について検討</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">子供時代の自己中心性について検討</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">中間時代の自己中心性について検討</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">大人時代の自己中心性について検討</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">分業の論理必然性について</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">「不健全な自己中心性」と「経過点としては健全な自己中心性」について検討</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">なぜ「大人時代の自己中心性」は健全なのか</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">１:「仕事のタスクの段階に留まるわけではない」と考えていく</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">２:「経過点として健全ではないケース」と比較すると健全だ､という考えができる｡</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">３:「経過点としては健全」だが､「ゴールからみれば不健全である」と考えていく</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">それではその理解不能なものにたいして自分は一体どういう態度をとるのか？</a></li></ol></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc65" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc66" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc71" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc74" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc78" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc79" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc80" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc81" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc6">3つの技法</span></h2>
<h3><span id="toc7">3つの技法について</span></h3>
<p>野田俊作さんによると､アドラー心理学に特有の「心理療法」ではライフスタイル分析､エピソード分析､勇気づけの３つが主に行われているそうだ｡今回は主に「勇気づけ」を理解していくことになる｡</p>
<p>現代のアドラー心理学における技法では､アドラーによる心理療法がそのまま使われているとは限らず､発展的なものや､他の分野の技法が取り入れられているという｡</p>
<p>ただし､いずれにせよ「<b>共同体感覚の育成を目標に治療を行う</b>」という根は同じだという｡きわめて重要な点であり､アドラー心理学の治療とは端的に「共同体感覚の育成」にあるといえる｡なんだか魔法の言葉のような気がしてくる｡</p>
<p>治療のためには様々な「<b>影響因</b>」を分析することになる｡影響因に支配されていると考えたり､言い訳に用いることをできるだけ止めさせること､「自分の意志で未来を切り開くこと」をできるだけ助けることが重要になる｡</p>
<p>こうした「分析」と「勇気づけ」がセットで治療が行われるといえる｡分析にはより専門的なテクニックが必要になる｡ここで社会学などの客観的・学問的な調査方法も有効になるのではないかと考える｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:３つの技法</p>
<p>「アドラー心理学による治療や問題解決のためには、アドラー心理学の理論に沿った事例の分析が必要です。しかし理論だけを踏襲するのでは、アドラー心理学治療やカウンセリングとはいえません。「アドラー心理学は第一義的には思想であると確信している」と、アメリカのアドレリアン、R.コーシーニは言いました。アドラー心理学カウンセリングや心理療法の目標は、共同体感覚の育成です。そのために、何が問題として起きているのかを理論に沿って分析し、思想を指針に治療を進めます。</p>
<p>　思想と理論をひとまとめにしてAdlerian Theory（アドラー心理学の理論）と呼ぶ学者もいるように、アドラー心理学においては理論と思想とは切り離せないものです。一方で、技法は言ってみればツールの役割にあたります。そこでアドラー派の中には、他派の技法を取り入れて用いる治療者たちもいます。たとえ治療にどのような技法を採用したとしても、アドラー心理学の理論に沿って、共同体感覚の育成を目標に行われるなら、それはアドラー心理学のカウンセリングや心理療法といえる、というのが、古今東西のアドレリアンの共通認識です。」<br />
出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc8">
「ライフスタイル分析」</span></h2>
<h3><span id="toc9">
「ライフスタイル分析」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフスタイル分析</strong></span>：</big>ライフスタイルを分析することによって神経症などの治療を目指す方法｡</p>
</div>
<p>たとえば子供の頃の家族布置やエピソードなどを分析する｡その分析を元に､クライエントの私的な意味付け(劣等の位置と愉悦目標)や目標に向かう方法などを探していくという</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ライフスタイル分析｡</p>
<p>「ライフスタイル分析は、アドラー心理学の心理療法です。アドラーはライフスタイルのことを「人生の運動の線」「人生目標とそれに向かう方法」などと述べました。ライフスタイル分析は主に神経症などの治療の領域で使われます。子どもの頃の家族布置やエピソード（早期回想）などをもとに、クライエントの私的意味づけ（劣等の位置と優越目標）や目標に向かう方法などを探していきます。」</p>
<p>出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc10">
「エピソード分析」</span></h2>
<h3><span id="toc11">
「エピソード分析」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>エピソード分析</strong></span>：</big>例えば個人が幼少期や子どもの頃に経験した記憶や出来事など､いわゆるエピソード､早期回想を分析することである｡</p>
</div>
<p>このような分析をもとに､対処の仕方を考えていくという｡ライフスタイル分析とセットで行われるものだろう｡野田さんいわく､自分自身でも日常生活の中で応用することができるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:エピソード分析</p>
<p>「アドラー心理学のカウンセリングでは、日常生活で実際に起きたエピソードを素材として、そのエピソードを分析し、よりよい対処のしかた（代替案）を考えて行きます。</p>
<p>出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc12">「勇気づけ」</span></h2>
<h3><span id="toc13">「勇気づけ」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>勇気</strong></span>：</big>「困難を克服する活力」を意味する｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>勇気づけ</strong></span>：</big>「横の関係に基づく援助」を意味する｡「相手が、より共同体感覚に基づく生き方ができるように働きかけること」と定義されることもある｡具体的には素直な「感謝」､「尊敬」､「喜び」､「共感」の言葉､態度である｡</p>
</div>
<p>追記(2024/04/30):野田俊作さんによると､「励ましたり優しくしたり､明るい気分にしたり､元気づけたりする」というようなポジティブなイメージが勇気づけと言うと一般的に理解されがちだという｡しかしアドラー心理学における勇気づけは独特の意味であり､「共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること」を重視するという｡それゆえに､一見ネガティブにみえる頼まれたことを拒否することも､相手に対する厳しい､冷たい言動も勇気づけになりうるということになる｡</p>
<p>それは単なる相手への無関心、拒絶というよりも､相手に関心があるからこその冷たい言葉であり､拒絶だということになる｡介入や押しつけ､褒めることや叱ることは勇気づけではない｡とはいえ､それらの間の微妙なニュアンスの違いはむずかしく､表面的には重なるところも出てくるだろう｡重要なのは動機や意識であり､必ずしも目に見える結果ではないからだ｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:勇気</p>
<p>「…ここでいう勇気とは､『困難を克服する活力』のことです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P</p>
<p>「つまり勇気づけとは､その活力を与えること｡ほめることでも､励ますことでもありません｡この勇気づけを実行するために必要なのが､アドラー心理学の５つの理論です｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P<br />
「哲人『ええ､ほめるのでも叱るのでもありません｡こうした横の関係に基づく援助のことを､アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,202p」<br />
「ところで、一般に「勇気づけ」というと、励ましたり優しくしたり、相手を明るい気分にしたり元気づけたりすることをイメージするのではないでしょうか。しかしアドラー心理学では「勇気づけ」という言葉を、独特の意味合いで使っています。たとえ相手にとって厳しい言葉や行動であっても「勇気づけ」となることがありますし、逆に、一般的には勇気づけだと受け取られる行為なのに勇気をくじく結果となってしまうこともあります。つまり「勇気づけ」とは、「こうするとよい」という特定の行動や声がけなどといったものではないのです。</p>
<p>　ではいったいアドラー心理学でいう「勇気づけ」とはどんなことなのでしょうか。</p>
<p>　「勇気づけ」とは、相手が、より共同体感覚に基づく生き方、暮らし方ができるように働きかけること、と、アドラー心理学では考えます。人々とお互いに協力しあって幸福に暮らしていく勇気に結びついてこそ、その働きかけを「勇気づけ」と呼びます。そのため「勇気づけ」は、まず自分自身が競合的な構えを抜けて協力的に暮らす決心をすること、あるいは、縦の関係を抜けて横の関係で生きる決心をすること、から始まります。<br />
」<br />
出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc14">「他者貢献」と「勇気づけ」の違い</span></h2>
<h3><span id="toc15">(１)勇気づけの場合は「他者の行動」に力点が置かれている｡</span></h3>
<p>「他者の行動」に対して私がどう反応するかに力点が置かれている｡他者の貢献を素直に喜べること､感謝できることに力点がある｡「ありがとう」と素直にあなたは普段言えているだろうか｡</p>
<p>すこし言い方を変えれば､「他者からの貢献」に自分がどう貢献するかといってもいいかもしれない｡こうした他者からの貢献に「私」がどう反応するか､どういう態度をとるかというのは私の課題である｡</p>
<p>そして他者が私に貢献するかどうかは「他者」の課題である｡この「他者からの貢献」は具体的な行為だけではなく､究極的には「<b>存在自体</b>」に至ると言える｡</p>
<p>「<b>生きているだけで､ありがとう</b>」という気持ちを抱くような「愛」のイメージに近い｡特定の行為をしなければ感謝できないのであれば､それは見返り主義に近づいてしまう｡そんなことはできるのか？と私も思う｡しかし「誰かが始めなければならない」のである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:行為のレベルと存在のレベル<br />
「哲人『あなたはいま､他者のことを「行為」のレベルで見ています｡つまり､その人が「なにをしたか」という次元です｡たしかにその観点から考えると､寝たきりのご老人は周囲に世話をかけるだけで､なんの役にも立っていないように映るかもしれません｡そこで他者のことを「行為」のレベルではなく､「存在」のレベルで見ていきましょう｡他者が「なにをしたのか」で判断せず､そこで存在していること､それ自体を喜び､感謝の言葉をかけていくのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,209p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">(２)他者貢献の場合は「他者への私の行動」に対して私が貢献していると感じることができるかに力点が置かれている｡</span></h3>
<p>他者への貢献を私が素直に喜べること､幸せだと思えることに力点がある｡例えばゴミ掃除を自分がした場合に､<b>他者からの直接の感謝の有無に関わらず</b>､その行為が他者への貢献だと感じることができるかどうかに力点が置かれている｡他者からの具体的な感謝はプラスアルファ(おまけ)であり､それを目的としているわけではない｡</p>
<p>そうした「具体的な見返りに基づいたライフスタイル」をアドラーは批判している｡大事なのは「私」が貢献したと感じることであり､「他者」が貢献されたという証拠を私が確認することではない｡他者がそれを貢献と感じるかどうかは「他者」の課題である｡</p>
<h2><span id="toc17">「褒める」と「勇気づけ」の違い</span></h2>
<h3><span id="toc18">「褒める」と「勇気づけ」の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b82e1c64b56f2388895d67a425bb923c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3610" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b82e1c64b56f2388895d67a425bb923c.png" alt="" width="978" height="246" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b82e1c64b56f2388895d67a425bb923c.png 978w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b82e1c64b56f2388895d67a425bb923c-800x201.png 800w" sizes="(max-width: 978px) 100vw, 978px" /></a></p>
<p>表にするとこのようなイメージになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:勇気づけと褒めることの違い</p>
<p>「(1)状況､【ほめる】相手が自分の期待していることを達成したとき(条件付き)【勇気づける】相手が達成したときだけでなく､失敗したときもあらゆる状況で(無条件)｡(2)関心､【ほめる】与える側の関心で【勇気づける】受ける側の関心で｡(3)態度､【ほめる】一種のほうびとして上から下への関係として与える態度【勇気づける】ありのままの相手に共感する態度｡(4)対象､【ほめる】行為をした『人』に与えられる【勇気づける】『行為』に対して与えられる｡(5)波及効果【ほめる】他人との競争に意識が向かう｡周囲の評価を気にするようになる【勇気づける】自分の成長､進歩に意欲が向かう｡自立心と責任が生まれる｡(6)継続性､【ほめる】その場限りの満足感を刺激する一次的な効果【勇気づける】さらに向上しようとする意欲を生み､継続性が高い」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,37P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">褒めるとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>褒める</strong></span>：</big>・「能力のある人が能力がない人に下す評価付け」のこと｡</p>
</div>
<p>【ポイント】アドラー心理学では好ましい行動だとしていない｡</p>
<p>このことはアドラーが「賞罰教育」を否定していることにもつながっている｡</p>
<p>「褒める」という行動には「<b>操作</b>」という目的が隠されているという｡相手によく思われたい､自分が有利な条件にたちたい､相手に傷つけられたくない､相手からいいものをもらいたいなどなど｡</p>
<p>さらに､人は褒められることで「<b>自分には能力がない</b>」という信念を形成していくという｡これは心理目標と反する行為である｡縦の関係のライフスタイルは､褒める､他者への課題への介入､嫉妬､競争などにつながっていく｡</p>
<p>「いやいや､少しは褒めないと､褒められないと人間関係はうまくいかないでしょ！友人はいいかもしれないけどビジネスではどうするの！うちの子は褒めないと素行が悪くなるわ！」という言い分はわからなくもない｡しかしそれでほんとうに人間関係はよくなるのか｡自由はあるのか｡</p>
<p>幸せはあるのか｡十二分に考えた末にそれでも「褒めること」を必要とするのか｡ただ「楽」な道に逃げようとしているだけではないのか｡人間はエサで調教しなければ悪をなす存在だろうか｡それでも､ともしかしたらの中で人間は揺れている｡</p>
<p>追記(2024/04/30):「罰する」ことも､「自分には能力がない」という信念を､ライフスタイルを形成させる影響因になりがちなことに強く注意する必要がある</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自分には能力がない</p>
<p>「哲人『人は､ほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していきます』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,203p</p>
<p>「罰せられると自分には能力がない､と思うようになり､子どもが学校や家庭には居場所がないという気持ちを強くすることから､ひいてはこの世界には自分の居場所がない､と感じるようになり､人々は私の仲間ではない､自分の敵である､と感じるようになるでしょう｡後に見るように､自分の居場所があると感じられることは､他の何をさしおいても人が基本的に求めることである､と考えられるからです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,60P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">褒められた時に人は貢献感を感じるのか？</span></h3>
<p>縦の関係では「他者は仲間であるという意識」が薄れる｡自分に役立つ行為をする人間にだけ利用価値があり､見返りがなければ存在価値がないと思うようになる｡他人の幸せを喜ぶこともできなくなる｡大学受験の時に友人の推薦合格を素直に喜べなかったことを思い出す｡一般受験で他人を蹴落とそうとピリピリしている私のライフスタイルはよくなかった｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">行為を褒められたとき､評価されたときに人間は「貢献」を感じるのではない</li>
<li class="sample">存在自体に「感謝」されるようなときに人間は「貢献感」を得られる</li>
</ol>
<p>とくに「<b>存在自体に感謝</b>」というのが理想の勇気づけの形なのだろう｡もちろん「嫌味や皮肉」として用いられたら勇気づけにはならないので注意する必要がある｡例えば「失敗してくれてありがとう」などと言葉に出すことは微妙である｡</p>
<p>心のなかで､その失敗のお陰で自分は成功のヒントを得たと感謝し､存在自体に感謝するのはOKかもしれない｡たとえばロケット開発では失敗は成功の元だと考えていくらしい｡</p>
<h3><span id="toc21">ほんとうの貢献感</span></h3>
<p>「貢献感」があちこちで使用されすぎて頭が混乱してきている｡おそらくは貢献感にもレベルがあるのだろう｡例えば信用関係よりは信頼関係のほうが「<b>ほんとうの貢献感</b>」が得られやすいといえる｡だからといって信用関係でなんら貢献感が得られないというわけではないだろう｡</p>
<p>先日､子どもが落とした切符を拾って教えてあげた女性を見かけた｡これは一見「他者貢献」に見える｡しかし彼女が「貢献感」を抱いているかどうかは私にはわからない｡</p>
<p>ここで重要なのは彼女の「意図」である｡たとえば周囲の人に褒められたい､落とした人に感謝されたいという見返りに基づく動機・ねらい・目的があれば「ほんとうの貢献感」を抱かないかもしれない｡</p>
<p>貢献感ではなく何を感じるのか｡「<b>承認欲求が満たされた</b>」というようなイメージだろうか｡アドラーは承認欲求に基づいたライフスタイルを否定している｡他人の人生を生きることであり､「<b>自由</b>」はないからだ｡</p>
<p>そうした見返り主義の意図をもたず､純粋に周りの人々は尊敬に値し､仲間であり､協力したいという心に満ち溢れ､そうした状態で切符を拾ってあげているのが理想なのかもしれない｡私のメリット・デメリットではなく､我々のメリット・デメリットという脱自己中心的なライフスタイルをアドラーは望ましいとしている｡もちろんそうした状態にまでライフスタイルをもっていくことは「困難」かもしれないが､しかしアドラーが言っているのはおそらくそういうことだろう｡「<b>誰かがはじめなくてはならない</b>」のである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:承認欲求ばかりの人生は「幸福」ではあるかもしれないが「不自由」である<br />
「哲人『あなたは大切な問題を忘れています｡貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」に成ってしまうと､結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえません｡承認欲求を通じてえられた貢献感には､自由がない｡われわれは自由を選びながら､なおかつ幸福をめざす存在なのです｡…ええ｡制度としての自由は､国や時代､文化によって違うでしょう｡しかし，対人関係における自由は普遍的なものです｡…もし本当に貢献感がもててれいるのなら､他者からの承認はいらなくなります｡わざわざ他者から認めてもらうことなく､「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから｡つまり､承認欲求に囚われている人は､いまだ共同体感覚を持てておらず､自己受容な他者信頼､他者貢献ができていないのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,254-255p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc22">「評価する」と「勇気づけ」の違い</span></h2>
<h3><span id="toc23">「評価する」とはいったいなにか検討</span></h3>
<p>「評価する」という行動は「褒める」行動と同じように､「縦の関係」から出てくる言葉だという｡</p>
<p>正直、「評価」と「褒める」の違いがよくわかっていない｡一般的には､評価の場合は「客観性」指標が重要になる(もちろん主観もあるが)｡たとえば営業成績や学業成績が１０%伸びた場合にも用いられるし､逆に１０%減った場合にも用いられる｡</p>
<p>そのように評価したからといって､必ずしも褒めているわけでも貶しているわけでもなく､事実を述べているだけである｡そうした事実を<b>価値付ける､意味づける</b>場合に､褒める､あるいは貶すという行動に近づく｡</p>
<p>もちろんそうした事実を相手に伝える､あるいはそうした事実としてまとめた時点で､そこになんらかの価値付けはあるのだろう｡褒めて業績を上げようとする､貶して業績を上げようとする､どちらも「操作」に近づく｡</p>
<p>アドラー心理学の場合は減点主義ではなく加点主義であり､どんな些細なことでも「感謝」の対象となりうる｡恋人はただ居るだけで気持ちが嬉しくなるだろう｡その感覚の拡大のイメージになる｡</p>
<p>そもそも存在の時点で尊敬され､信頼され､加点されているようなイメージである｡我々は子供に対しても嫌な人に対しても犯罪者に対しても人間としては「対等」という精神で接する必要があるわけである｡いったいどんな基準で我々は上から下という判断を下す権利があるのだろうか｡</p>
<p>「違う」けれども「対等」であるという態度が横の関係である｡確かに道を間違えた仲間もいるかもしれない｡しかしそれでも敵ではない｡我々が「縦の関係」であることによって他の人達が道を間違えてしまうことだってある｡</p>
<p>であるならば､まず我々が横の関係で接することで､横の関係で接する人達を増やす必要がある｡「我々」という意識である以上､我関せずと見知らぬふりはできない｡</p>
<p>メモ(2024/04/30):アドラーが他者の価値を「鑑定」することも好ましくないと考えていたことにも通じるところがある</p>
<blockquote>
<p>キーワード:評価</p>
<p>「哲人『ええ｡一番大切なのは､他者を「評価」しない､ということです｡評価の言葉とは､縦の関係から出てくる言葉です｡もしも横の関係を築けているのなら､もっと素直な感謝や尊敬､喜びの言葉が出てくるでしょう｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,205p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">褒めたほうが人間関係がよくなる気がする？</span></h3>
<p>「褒めることはよくない」というアドラーの考えは､なるほどと思うのと同時に､頭の中に納得いかない部分がある気がする｡</p>
<p>その部分は「褒めたほうが人間関係がよくなる気がする」という経験則である｡</p>
<p>しかし上下関係になってしまっている､相手を操作することに目的があるのではないか､とズバリ言われるとこちらも怯んでしまう｡我々は我々の資本主義パラダイムに馴染んでいるので「競争」と「賞罰」などの市場原理を第一とすることに抵抗があまりない｡むしろそれを「望ましい」とすら考え､そうした原理がないと国力が衰え､没落すると考えている｡</p>
<p>市場原理を第一にしない思想こそが共同体感覚に反しているのではないか､という考え方もできなくもない｡これは正しいのか｡他に機能等価の道はないか｡</p>
<p>アドラーのパラダイムは健全な社会主義とでもいうべきものに近いと私は感じてしまう｡現実の社会主義はロシアのように過剰なほどのヒエラルキー社会だったことを思い出す｡某国の過剰な検閲や､他国の文化を見たからと言って過剰な処罰をするような様子を見ると､適切な社会主義(共産主義)の実現とは・・と思ってしまうのは無理はない｡かといって民主主義もそれはそれでヒトラーのような暴力装置として民主的に達成される場合もある｡</p>
<h3><span id="toc25">「尊敬」と「褒める」というニュアンスの違い</span></h3>
<p>もうひとつもやもやしている部分がある｡「尊敬」と「褒める」というニュアンスの違いである｡「すごい！」や「やばい！」､「いいね！」とつい口に出すとき､これは褒めているのではなく「尊敬」や「感嘆」に近い｡「よくできました」という上から下のニュアンスとはすこし違う｡</p>
<p>それは「下から上」の関係ですよ､と言われてしまうと怯んでしまいそうになるが､そう簡単にはこちらも引き下がれない｡対等であることと感嘆すること､尊敬すること､素晴らしいと思うことは矛盾しない(過剰な英雄崇拝は別だが)｡</p>
<p>重要なのは「操作」の意識や「見返り」の意識があるかどうかである｡たとえば大谷翔平さんがホームランを打ったとき､とんでもなくゲームが上手い人を見たとき､絵が上手い人を見たとき､すごい論文を見たとき､「すごい」と思う｡</p>
<p>そのとき操作や見返りなんて感じていない｡私がそんな反応をしたことで､彼らになにか見返りをもらえるわけではない｡単純に「すごい」､「ありがとう」と思うのである｡打たなくても､そんな日もあるさ､「元気でいてくれてありがとう」とすら思うこともある｡</p>
<p>心に思うだけならたしかに操作の意識はないが､本人に言うのならなにかしらそうした見返りを求めてるのではないかと､気に入られようとしているのではないかとズバリ言われるとする｡なるほど､これは痛いところを突かれている｡</p>
<p>たしかにわざわざ本人に尊敬を伝える必要はないのかもしれない｡「楽しいです！ありがとうございます！」と「感謝」として伝えるのはセーフなのか｡</p>
<p>そこに操作の意識や見返りの意識はほんとうにないのか｡結局は外面の文字列の如何ではなく､内面の意識の如何､態度の如何が問題であることがわかる｡</p>
<p>どこまでも痛いところを突いてくる｡要するに､「横の関係」の上で感謝を伝えたり､尊敬を伝えることが重要なのである｡</p>
<p>そして「横の関係」を作るためには自己受容､他者信頼､他者貢献が重要であるという話である｡つまり､共同体感覚が重要だということである｡</p>
<h3><span id="toc26">追記(2024/04/30):尊敬とは？</span></h3>
<p>フロムによれば尊敬とは「ありのままのその人を見ること」であり､「その人がその人であることに価値を置くこと」らしい｡自らの価値観を押しつけることなく､その人が「その人」であることを尊重することを岸見さんは強調し､アドラー心理学の勇気づけと重ねようとしている｡</p>
<p>叱って相手を否定したり､特定の行為だけを褒めたりする場合は直接的に､あるいは間接的に自らの価値観を押し付けていることになるのかもしれない｡</p>
<p>かといってありのままのその人をすべて受容することなどなかなか難しいと感じてしまう｡嫌いな人は嫌いだ｡欠点がある人は欠点がある｡しかしそういう人でも「対等」であり「仲間」であるという意識が重要になる｡嫌いだけど仲間だというのは必ずしも矛盾しないだろう｡たとえば会社で嫌いな同僚や上司がいるとしても､同じ目的を目指す仲間であり､それぞれが貢献して､協力しあって成果を出すことができるのである｡</p>
<p>欠点ではない､嫌いではないと無理に自分の考え方を変えると不自由になりかねない｡もちろん考え方を固定せずに改めようとすることも重要な点ではあるが､いちいち自分の考えを否定して他人に合わせているとそれは「不自由」になる｡「欠点ごと､存在を受容すること」と「欠点ではないと存在を受容しなおすこと」は違うだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:尊敬について</p>
<p>「哲人『なぜ尊敬なのか？尊敬とは何なのか？ここでわれわれは､エーリッヒ・フロムの言葉を思い出さねばなりません｡つまり､尊敬とは「ありのままのその人を見ること」であり､「その人がその人であることに価値を置くこと」なのだと｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,196p<br />
「哲人『自らの価値観を押しつけることなく､その人が「その人」であることを尊重する｡なぜそんなことができるのかといえば､その人のことを無条件で受け入れ､信じているからです｡すなわち､信頼しているからなのです｡…他者のことを「信頼」できるか否かは､他者のことを尊敬できるか否かにかかっています｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,197p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc27">荒んだ畑から作物は育たない</span></h3>
<p>本当に「横の関係」を創ることができていれば､「適切なライフスタイル」を創ることができていれば､「不適切な動機」が生じないのである｡それゆえに､適切な動機から行動が生じ､そして適切だと自分が思える行動によって､適切な「貢献感」が生じる｡</p>
<p>荒んだ畑から作物は育たない｡豊かな畑から作物は育つ｡まずは畑から変えるのである｡種や農薬を小手先で変えたところで､ほんとうに適切な貢献感､幸せは生じない｡産地を偽装したところで味が変わるわけではない｡</p>
<h3><span id="toc28">土足で相手の領域に入り込む人たち</span></h3>
<p>頼まれてもないのに相手のタスクに土足で入り込むことになるので好ましくないとされている｡ただし相手が「援助」を求めてきた場合は､自分ができうる限りの分だけ､自分のタスクが疎かにならない分だけ､「協力」することが重要になる｡</p>
<p>本当に本人では解決できないタスクかどうかを見極めることが重要だろう｡「宿題ができていないから助けて」と言われて毎回助けていたら甘やかすことになってしまう｡これは親子だけではなく､友人関係もそうだろう｡何が援助になるのかを見極める「センス」が重要になる｡このセンスはケースバイケースであり､その人､環境､状況によるのである｡</p>
<h3><span id="toc29">明らかに困っている人を助けに行くべきか</span></h3>
<p>では､明らかに困っている人を助けに行く場合はどうだろうか｡優先席で譲る場合はどうか｡</p>
<p>あるいはSNSで明らかに病んでいる人に対して､「私がなにか力になります」､「あなたは間違っています」､「あなたはこうすべきです」というのは土足で入り込んでいるのか｡なかなか難しい｡</p>
<p>他者が困っているという状態としてわれわれが「見ている､意味づけしている」からといって､他者が困っているとは限らない｡本人が困っているということを言っていたとしてもである｡</p>
<p>援助を我々に明確に求めてきた場合にのみ､協力するということなのだろうか｡切符を落とした少年にそれを教えないことで､「切符をなくさないようにするためにはどうしたらいいか」と考えさせることも重要なのではないかという発想だってある｡</p>
<p>もちろん助けてもらったことで「他者は味方だ」という発想が根付くことだってある｡その境界はどこにあるのか｡</p>
<p>優先席で「譲ってください」と明確に言われなければ譲らなくていいのかと言われると､すこし困ってしまう｡なにごとも柔軟に対応していく必要がある｡</p>
<p>こうした対応は適切なライフスタイルに基づくかどうかという動機的な､内面によるものが大きく関係するのだろう｡ケースバイケースで柔軟で適切な対応をできるだけしていく｡正解というものはないかもしれないが､正解というものに近づけるかのように試行錯誤していく｡柔</p>
<p>軟に､バランスよく､適切に､ケースバイケースに､センスで・・・という調子のよい言葉が続いてしまっている｡しかし大事なのは「<b>あなたがそれを考える</b>」ということである｡</p>
<p>正解を待つ､愛を待つ､貢献を待つ､友情を待つ､信頼を待つ物乞いの人間になってはならないとアドラーは考えている｡岸見さんの言葉を用いれば「<b>与えよ､さらば与えられん</b>」である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「与えよ､さらば与えられん」<br />
「哲人『そしていま､あなたはなにも与えようとせず､「与えてもらうこと」ばかりを求めている｡さながら物乞いのように｡金銭的に困窮しているのではなく､心が困窮しているのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」218p<br />
「哲人『われわれは､心を豊かに保ち､その蓄えを他者に与えていかなければなりません｡他者からの尊敬を待つのではなく､自らが尊敬を寄せ､信頼を寄せなければなりません｡…心の貧しい人間になってはいけないのです』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」218p<br />
「哲人『アドラーならきっと､こんなふうに言うでしょう｡「与えよ､さらば与えられん」と｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」218p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">追記(2024/04/30):頑張れ！と励ますことは勇気づけ？</span></h3>
<p>「頑張れ」と言いに行く事自体すら微妙なラインだろう｡特に､頑張れと言われるとその時点で頑張っていないと見なしていると思われることもあるので強く注意する必要がある｡</p>
<p>アドラー心理学の場合は､家族と会社､友人のケースでは微妙に扱いが変わってくる｡もちろんそれぞれの顔を使い分けることの難しさ､是非については別だにしても､実際は変わるのである｡</p>
<p>たとえば家族の場合､とくに自分の子供の場合は仕事の同僚や友人のように関係を切ることがきわめて難しいからだ｡自分の子供に対して､「困っていることがあればいつでも助ける準備はある」ということは好ましい場合もある｡</p>
<p>一方で､同僚や友人に対してそれを言うことは好ましいだろうか｡甘やかしを生じさせないだろうか｡心としてはそういう気持ちで､仲間意識でいることは重要だとしても､実際に口に出すことの難しさがある｡</p>
<p>ここで疑問が生じるだろう｡「どういう困り事なら助けてくれるのか」､と｡たとえばお金で困っていると言われればNOというかもしれない｡「助ける準備があると言ったではないか」とならないだろうか｡ここでもやはりセンスの問題が重要になるのだろう｡相手のタスク分担できるか､つまり相手を助けてあげられるかどうかは人により､文脈によるといえる｡</p>
<p>重要なのは困っている人が自分の努力を尽くしているかどうかがポイントになりそうだ｡真剣に仕事を学ぼうとする姿勢が見られる場合と､なにもかも教えられるのを待つ受動的な姿勢の場合では助け舟の如何も変わってくるだろう｡後者の場合は教えれば教えるだけ依存関係になり､相手の勇気をむしろくじくことになりうる｡</p>
<p>ひとつの鍵としては「答え」を授けるというような態度ではなく､「考え方」を提案するような態度が重要になるのだろう｡</p>
<h2><span id="toc31">「メサイアコンプレックス」</span></h2>
<h3><span id="toc32">「メサイアコンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>メサイアコンプレックス</strong></span>：</big>一般に「他人があまり援助を求めていないのに、親切の押し売りをすること」をいうという｡アドラー心理学においては「優越コンプレックス」のひとつとされている｡劣等感を努力や忍耐のような適切な方法で解決できない人間が自分を一種の「救世主(メシア､メサイア､キリスト)」に仕立て､他者を救うことで自らが救われようとする行為を指している｡心的な倒錯であり、一種の「病気」とみなされている｡</p>
</div>
<h3><span id="toc33">勇気づけが「自己中心的な動機」からきていないか</span></h3>
<p>【ポイント】メサイアコンプレックスを理解することで､過剰に自己中心的な動機からくる「援助」になっていないかをチェックすることができる｡内面的な違いだけではなく､結果として不純な動機の援助は勇気づけとして機能していない場合もある｡自分を救えていない人間に他者を救うこと､ほんとうの意味で勇気づけることはできない｡</p>
<p>まずはあなたが幸せになる勇気をもつこと｡岸見さんは「<b>不幸を抱えた人間による救済は､自己満足を脱することがなく､誰ひとりとして幸せにしません</b>」とまで断言している｡</p>
<p>アドラー心理学からすればメサイアコンプレックスの根本には「承認欲求」があり､ライフスタイルとして適切ではない｡また､課題の分離にも失敗しているケースだとも言える｡他者の課題に必要以上に踏み込む場合があるからだ｡</p>
<p>「人を救うこと」､「他者に貢献する」はアドラー心理学では適切なことだとされている｡ただし､その「動機」が問題だというのである｡</p>
<p>自分の価値を感じるため､自分が幸せになるため､見返りのため､そうした自分中心の貢献は結局は「<b>自分が幸せと感じていない</b>」という証になるという｡</p>
<p>不幸だからこそ、幸せになるために他者へ貢献しようとするというわけである｡これはすこし胸が痛い話である｡幸せのための手段として他者貢献をして何が悪いのか､と一見思えてしまう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:メサイアコンプレックス</p>
<p>「哲人『他者を救うことによって､自らが救われようとする｡自らが救われようとする｡自らを一種の救世主に仕立てることによって､自らの価値を実感しようとする｡これは劣等感を払拭できない人が､しばしばおちいる優越コンプレックスの一形態であり､一般に「メサイアコンプレックス」と呼ばれています｡メサイヤ､すなわち他者の救世主たらんとする､心的な倒錯です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,142p</p>
<p>キーワード:誰一人幸せにしない</p>
<p>「哲人『大切なのは､ここからです｡不幸を抱えた人間による救済は､自己満足を脱することがなく､誰ひとりとして幸せにしません｡実際､あなたは子どもたちの救済に乗り出しながら､いまだ不幸の只中にいる｡自分の価値を実感することだけを願っている｡だとすれば、これ以上教育論をぶつけ合っても意味はない｡まずは､あなたが自らの手で幸せを獲得すること｡そうしないことには､ここでの議論はすべて不毛な､ただの罵り合いに終わりかねません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,163p</p>
<p>「ここでは，劣等感コンプレックスの一つ「メサイア（救世主）・コンプレックス」を取り上げてみたい。「メサイア・コンプレックス」とは，自分は価値のない人間なのではないかという「抑圧」された強い劣等感が原動力になって，人を助けたり人を救ったりといった行動が起こる（「反動形成」される）事態を意味する。「抑圧」は「投影」と同じくフロイトによって発見された自我防衛機制の代表的なもので，意識にとって受け入れがたい考えや記憶，それに伴う感情などを意識から追い出し，無意識に閉じ込めておこうとする無意識的な活動である。つまりこの場合，抑圧された強い劣等感とは，「自分自身が生きにくさを抱えており，本当は自分自身が救われたい」という意識から排除された感情である。「反動形成」とはこれも防衛機制の一つで，自分にとって許しがたい衝動が起こってくると，その衝動とは逆方向の態度で接するというものである。この場合は，「救われたい」という衝動が「救いたい」という衝動に反転するのである。人を救いたいという思い自体は望ましいものであるが，こうした無意識的な「抑圧」や「反動形成」が背景にある衝動は非現実的な行動を引き起こしやすく，本人は善意でやっているつもりでも，周囲は困惑しているといったこともある。メサイア・コンプレックスに取りつかれている人の行動は，「有難迷惑」と評されることが多い。（河合，1971）」<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」,15-16p</p>
<p>「哲人『あなたは承認欲求に搦めとられている｡どうすれば他者から愛されるのか､どうすれば他者から認められるのかばかりを考えて生きている｡自分で選んだはずの教育者という道さえ､もしかすると「他者から認められること」を目的とした「他者の望むわたし」の人生かもしれないのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,256p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">どうやって他者貢献せずに幸せになるのか</span></h3>
<p>しかし同時に､幸せではないのに他者貢献などできるのか､と疑問も生じる｡そして最後に､「<b>どうやって他者貢献せずに幸せになるのか</b>」と頭が混乱する｡幸せになるためには他者貢献をする必要がある｡他者貢献するためには幸せになる必要がある｡こう言われている気がしてならない｡これでは表面的には一種のダブルバインドであり､これこそが心的倒錯をもたらしかねない｡</p>
<p>この問題のポイントは後で「自己中心と脱自己中心」の項目でも検討する｡</p>
<p>「私はほんとうに幸せなのだろうか」､「私の幸せのために､私が価値を感じるために他者を利用しているのではないか､救おうとしているのではないか､メサイア気取りなのではないか」と自問自答して「そんなことはない」なんて自信をもって言えるか｡</p>
<p>少なくとも私は「自分はメサイアコンプレックスなのかもしれない」と不安になってしまう｡</p>
<h3><span id="toc35">動機だけの問題か</span></h3>
<p>もし動機だけが問題で､結果としては幸せな人の行為と同じだとすればいいのではないか､という見方もできる｡</p>
<p>しかし「不幸せな人が自分のために他者を救おうとすると不適切な結果が生じがちだ」といわれたら反論しがたい｡その例が「あなたのためなのよ」という善意の押し付けである｡本人は善意でも周囲が困惑しているケースである｡</p>
<p>感染病のとき､マスクをはずせ､あるいはマスクをつけろと周りに強要した人達は正義感が強く､「善意」だったのかもしれない｡彼らも一種の「メサイアコンプレックス」だった可能性がある｡彼らは自分勝手な「貢献感」を獲得して「幸せ」を獲得しているかもしれない｡</p>
<p>相手なんてどうでもいい､私は正義を行使し､みんなが嫌がってもみんなのためになることをやっている！と押し付け始めている人は「本当の幸せ」を主観的に感じることはできるのか｡</p>
<h3><span id="toc36">適切な他者貢献と適切ではない他者貢献</span></h3>
<p>他者貢献にも分類があり､適切なものと適切ではないもの(不幸な人間による救済)があるということになる｡適切ではない他者貢献では人を幸せにせず､適切な他者貢献では人を幸せにするということになる｡</p>
<p>そもそも他者貢献せずにどうやって人間は幸せになるのか､というところにまた戻る｡おそらくはその前のステップである「自己受容」と「他者受容」によって､ということになる｡</p>
<p>しかし自己受容は「他者貢献」によって､という循環論がある｡この循環に関しては人は生まれながらに全ての要素を最低限もっている､という前提に立つことで解消しようとした｡</p>
<p>あるいはそれぞれ重なりうるものがあるという点でも解釈することができるかもしれない｡</p>
<p>いずれにせよ､<b>自己受容や他者受容が欠けている人間の他者貢献は不適切になりがち</b>だということである｡そして自己受容や他者受容は「決心」の問題につながる｡あなたは自分の能力を信じることができるか｡他者を信頼することはできるか｡</p>
<h2><span id="toc37">「問題行動の５段階」とは</span></h2>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>人間の問題行動における５つの段階</strong></span>：</big>(１)称賛の要求､(２)注目喚起(３)権力争い､(４)復讐､(５)己の無能さの誇示｡人間の問題行動はこの５つのどれかにあてはまるという｡５つの段階は順に問題行動がエスカレートしていくのであり､なるべく早い段階で対策を講じる必要があるという｡なお､「現代アドラー心理学」で述べられていることだという｡</p>
</div>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/dcf914d15ecdf1416782a63bd8a0f369.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3614" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/dcf914d15ecdf1416782a63bd8a0f369.png" alt="" width="442" height="312" /></a></p>
<p>【ポイント】:「他者の問題行動」を観察することで､他者に勇気づけをしたほうがいいか見極めることができる｡</p>
<p>特に､権力争いの段階までならなんとか教育や治療､あるいは我々の日々の勇気づけでなんとかなるかもしれいという｡ただしそれ以上の段階は､第三者は専門家の助けがいるという｡また､「自らの問題行動」を反省し､勇気が足りないかどうかチェックすることもできる｡</p>
<p>また､問題行動は「褒められたい」というような承認欲求がエスカレートしたり､失敗したりすることで生じることが多いと考える｡それゆえに「褒める子育て」は好ましくない｡そして「叱る子育て」も好ましくない｡ではどうすればいいのか｡「<b>勇気づける子育て</b>」が好ましいということになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:問題行動の５段階<br />
「青年『問題行動の５段階､たしかに興味深い分析です｡まずは称賛を求め､次に注目されんと躍起になり､それがかなわなければ権力争いを挑み､今度は悪質な復讐に転じる｡そして最終的には､己の無能さを誇示する｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,104p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">称賛の欲求とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>称賛の要求</strong></span>：</big>「私を褒めてくれ」という段階のこと｡「いいこと」をするのではなく「ほめられること」をする点が重要｡学校で「いい子」を演じたり､会社でやる気や従順さをアピールするような段階｡</p>
</div>
<h3><span id="toc39">注目喚起とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>注目喚起</strong></span>：</big>「褒められなくてもいいから､とにかく目立ってやろう」と考える段階のこと｡「悪いこと」をするのではなく「目立つ」ことをする点が重要｡ただし､この段階ではちょっとしたルールを破る程度であり､「いたずら」に留まるようなイメージだという｡「できない子」として振る舞うことで所属感を得ようとする段階｡</p>
</div>
<h3><span id="toc40">権力争いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>権力争い</strong></span>：</big>「反抗」の段階のこと｡万引きや喫煙などの「わるいこと」をする積極的な反抗の場合も､勉強や習い事を拒否する消極的な反抗の場合もあるという｡大半の問題行動を起こす人間はこの段階に留まっているという｡</p>
</div>
<h3><span id="toc41">復讐とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>復讐</strong></span>：</big>「悪いことをするのではなく､相手が嫌がることをしよう」と考える段階のこと｡この段階は第三者に助けを求める必要があるという｡教師と生徒､親と子だけでは解決することが難しいという｡リストカットなどもこの段階かもしれない｡</p>
</div>
<h3><span id="toc42">己の無能さの誇示とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>己の無能さの誇示</strong></span>：</big>「私を見捨ててくれ」､「なにも期待しないでくれ」と考える段階のこと｡</div>
<p>専門家ですらこの段階の人間を援助していくことは困難であるという｡</p>
<p>周りの人間が援助しようとすると､彼らはより極端なやり方で「無能の証明」を図ろうとするという｡要するに勇気づけによってさらに悪化していくのである｡アドラーはカウンセリングのマニュアルで「たとえ自分の手に負えないケースであっても､検討する価値があると伝えて､打つ手がないと言わないようにします｡ただし､非常に絶望的なケースで重大な場合は本当のことを言う必要があります」と述べている｡</p>
<h3><span id="toc43">問題行動の目的について</span></h3>
<p>いずれの段階においても「<b>所属感を得る</b>」という目的があるという｡問題はその不適切な手段である｡まず第一段階において「<b>褒められたい</b>」という承認欲求や見返り主義の「<b>縦の関係</b>」からはじまってしまっている｡これを「<b>横の関係</b>」に変える必要がある｡この横の関係における教育が「勇気づけの教育」だといえる｡適切な手段は横の関係から生じる他者貢献である｡</p>
<p>では「横の関係」にするためにはどうすればいいのか｡自己受容､他者受容､他者貢献をひたすらこなしていくことである｡「そんなことはできない」という意見もある｡しかし「誰かが始めなければならない」のである｡たしかに100点満点は難しい｡しかし一歩でも勧めていく必要がある｡いきなり100点ではなく､加点式に今日は10点､明日は15点と主観的に感じることができればいいと考えていく｡今日は10点だけ相手を信頼できた､と考えていけばいい｡</p>
<p>追記(2024/04/30):岸見さんの言葉では､「<strong>共同体のなかに特別な地位を確保することという目的</strong>」である</p>
<blockquote>
<p>キーワード:問題行動の目的</p>
<p>「哲人『そしてそのすべては「所属感」､つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,104p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">追記(2024/04/30):【行動の類型】不適切な行動､適切な行動､中性の行動</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>不適切な行動</strong></span>：</big>共同体に対して実質的な迷惑をかける行為のこと</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>中性の行動</strong></span>：</big>適切とも､不適切とも言えない行動のこと</p>
</div>
<p>適切な行動は動機の面と結果の面に分けることができるだろう｡しかし結果は容易にわかることではないので､動機として共同体に迷惑をかけずに貢献することが重要になる｡</p>
<p>だからといって結果を考慮しないというのではなく､結果を考慮することの努力を含めて､動機が確立するべきだといえる｡これでもかと考慮したうえで「貢献するだろう」という適切な目的､動機､ねらい､さだめ､予測が生じるのであり､より適切な結果も生じると信じる｡すくなくともその責任があるだろう｡</p>
<p>「勉強をしない」というのはたしかにただちに共同体に対して実質的な迷惑をかける行動ではない｡しかしだからといって適切な行動だともいうことができない｡勉強して､その知識を共同体に活かすというのは適切な行動かもしれない｡勉強せずに､肉体労働によって共同体に貢献するというのも適切な行動だろう｡</p>
<p>学生の仕事のタスクは勉強であり､タスクから逃げているという意味では不適切ではない｡問題は勉強の代わりにその時間を何に使っているかだろう｡勉強だけが適切な行為､仕事のタスクではない｡高校に行くことを選択せずに働くことも選択として可能だろう｡あるいは義務教育期間さえ､なんらかの代替のタスクがあるかもしれない｡</p>
<p>しかしいずれにせよ教育には「交友のタスクを初めて学ぶ場」という側面があるので学校に行かないという選択肢が適切かどうかは慎重な議論が必要になるのだろう｡ただ知識だけが問題になるなら自宅学習でいいかもしれないが､実際にはそうではないだろう｡</p>
<p>また､「迷惑」の基準についても議論する必要があるだろう｡我々は生きているだけでなんらかの税金が用いられている｡医療や教育の施設は無料で作られ､運営されているわけではない｡フリーライドばかりしているのは迷惑とも考えられる｡</p>
<p>あるいは「親」に迷惑をかけるというのは迷惑ではないのだろうか｡課題の分離で親が介入するべきではないという考え方もわかるが､しかし迷惑がかかったかどうかは親の課題である｡親も共同体の一部であり､共同体に迷惑をかけたかどうかの一因になるはずである｡ただし､親が自分本位で､自己中心的な目的を主軸とした「迷惑」という感情を作り出していたのなら､それは別軸で問題となりうるだろう｡</p>
<p>いずれにせよ「中性行動」が不適切だとほんとうに言えないのかはよく考える必要がある｡また､不適切だといえない､問題行動だと必ずしも言えないとしても､「どっちつかずのなんてことのない行動」という分類には意味が薄い｡</p>
<p>勉強をしないことよりも勉強をしたほうが適切な行動ならば､適切な行動を選ぶようなライフスタイルを創るべきだろう｡もちろん勉強をしない上で適切な行動をしているというのならそれもそれで適切な行為である｡</p>
<p>そもそも適切・不適切の計算が難しいのだから､「結果的」としてはすべての行動が長期的には中性行動に留まるはずである｡したがって主要なのは先ほど検討したように､適切な動機であり､その中に適切な予測をする責任感があるかどうかである｡責任感があるのなら､中性の行動に留まることはなく､より適切だと思える結果につながる未来へ向けて､目的を設定していくはずである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード不適切な行動､適切な行動､中性の行動</p>
<p>「これまでのところでははっきりと定義してきませんでしたが､共同体に対して実質的な迷惑をかける行為のことを不適切な行動と呼んでいます｡…たとえば､勉強をしないことは本人だけが困ることであり､他の人に実質的な迷惑を及ぼしているわけではありません｡しかし勉強をしないことは不適切な行動ではないので､適切な行動であるともいえません｡このような行動を『中性の行動』といいます｡このような中性の行動に､親や教師は『問題行動』というレッテルを張ってしまいます｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,162p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc45">「幸せの三段階」について検討する</span></h2>
<h3><span id="toc46">幸せの三段階の図</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3615" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png" alt="" width="971" height="509" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0103ce40532066e967b7680d6c661f08.png 971w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0103ce40532066e967b7680d6c661f08-800x419.png 800w" sizes="(max-width: 971px) 100vw, 971px" /></a></p>
<p>【ポイント】幸せの三段階をきちんと登っていくこと､つまり人生における３つの課題に適切な方法で解決することで「勇気づけ」も適切になると私は考える｡</p>
<p>つまり､勇気づけのためにはまず幸せのレベルを上げていく必要がある｡「幸せ」と一括りで表現するから､言葉尻で矛盾が生じてしまう｡それゆえに三段階に分けて整理したいと思う｡</p>
<p>「<b>自分だけの幸せ</b>」の段階に留まっているようでは真の勇気づけはむずかしく､「<b>我々の幸せ</b>」の段階へと移行する必要がある｡</p>
<p>とはいえ､それぞれのレベルが完全に満たされて次に移行するわけではなく､徐々に満たされて移行したり､循環したりして強化されていくものであると考える｡また､「最低限」の幸せのレベル､つまり共同体感覚をそれぞれもっていると仮定する｡それを「掘り起こす」作業､「強化する作業」であるといえる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d3fd7682b1c654e4c27b470088d9005f.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3616" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d3fd7682b1c654e4c27b470088d9005f.png" alt="" width="341" height="336" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d3fd7682b1c654e4c27b470088d9005f.png 341w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d3fd7682b1c654e4c27b470088d9005f-60x60.png 60w" sizes="(max-width: 341px) 100vw, 341px" /></a></p>
<p>「最低限」の幸せのレベルについては以前使用したこの図を思い出していただきたい｡レベル１が自己受容､レベル２が他者信頼､レベル３が他者貢献である｡これを仕事(利己)､交友(利他)､愛(利共)に置き換え､完全の目標として共同体感覚(利世)を置く｡</p>
<h3><span id="toc47">「幸せレベル１」について</span></h3>
<p>重要なのは､「幸せレベル１」の場合だと劣等コンプレックスに至りやすいということである｡タスクはこなしているかもしれないが､しかし自分のこと､自分のメリット､見返りや承認ばかりを考えているケースでありうる｡なぜならメインは「自分の幸せ」で相手の幸せは「おまけ」だからだ｡自分の幸せにつながらないならば相手のことは考えなくていい｡条件つきの相手への貢献である｡</p>
<p>したがって､仕事のタスク「だけ」をしていても「十分な(あるいは本当の)」幸せに至っていない｡</p>
<p>たとえば仕事のタスクでは基本的に「あなた」ではなく「<b>機能</b>」が認められるものだという｡たとえば１億円の営業成績を得られる人間と､１００万円で営業成績を得られる人間ならば､前者が認められる｡</p>
<p>もちろん､そうした「量的な評価」だけではなく「質的な評価」が優先される場合もあるが､基本的に資本主義社会では「目に見える客観的な量」が優先される｡また､質である勤務態度や人柄なども量に換算されることがしばしばある｡勤務評価として点数化される｡小学生の内申点ですら５段階で性格や貢献度が評価される｡</p>
<p>もちろん仕事によって社会に貢献しているという貢献感や幸せ､所属感はなんらか得られるかもしれない｡</p>
<p>しかし「<b>他ではない､代わりのきかないかけがえのないあなた</b>」自体が無条件に､存在ごと信頼され､必要とされ､そういう人達の中に居場所を見いだせるような幸せとは質が違う｡</p>
<p>追記(2024/04/30):岸見さんは「仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られない」と断言している｡この段階では幸福にいたっていないのであり､いわば赤点のようなものだろう｡「社会」から存在が認められることと､機能が認められることの相違点について検討する必要がある。重なる部分もあるが､全てではないだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:機能<br />
「青年『仕事で認められること､すなわちそれは社会から認められることですよ！』哲人『違います｡原則論から言えば､仕事によって認められるのは､あなたの「機能」であって､「あなた」ではない｡より優れた「機能」の持ち主が現れれば､周囲はそちらになびいていきます｡それが市場原理､競争原理というものです｡結果､あなたはいつでも競争の渦から抜け出すことができず､ほんとうの意味での所属感を得ることもないでしょう｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,210-211p</p>
<p>キーワード:仕事のタスクだけでは幸せになれない<br />
「哲人『他者に「信頼」を寄せて､交友の関係に踏み出すこと｡それしかありません｡われわれは､仕事に身を捧げるだけでは幸福を得られないのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,211p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">「幸せレベル２」について</span></h3>
<p>交友のタスクにおける対人関係は､仕事の信用関係とは違い､信頼関係が主軸となる｡また､対等な関係(横の関係)や尊敬の関係があってこそ､信頼が可能になるという｡</p>
<p>取引先の会社ではなくなったから､取引先のAさんとは今後関係を断とうというのはよくあるケースだろう｡しかし取引先かどうか､自分の仕事の利益があるかどうかを超えて､この人のためになにかをしてあげたい､困っているなら見返りを求めずに援助してあげたい､協力してあげたいという人間関係ができることもある｡</p>
<p>こうした場合は「交友のタスク」だろう｡一般的には友人や親友などと呼ぶ｡仕事場の人間であると同時に友人であることはあり､それぞれのタスクが明確に分離しているとは限らない｡</p>
<h3><span id="toc49">自己中心的な人物は必ずしも自己受容をしていない</span></h3>
<p>信頼関係に基づく交友のタスクを解決できない人間は「自己中心的(自己執着的)」な場合が多いという｡</p>
<p>確かに自己受容は他者信頼につながるが､「自己中心的な人物」は必ずしも「自己受容」をしていない｡むしろ「<b>自分のことが好きではなく､嫌いであり､ありのままを受け入れることができていない不安な状態</b>」にいるという｡<b>自己受容ができていないからこそ､自分を中心に考えてしまう</b>｡</p>
<p>それゆえに他者を考える余裕がなく､他者を信頼できない｡それゆえに､交友の課題に進むことができず､仕事の課題に留まったり､あるいは仕事の課題すらできない場合もある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自分のことが嫌いだから､自己中心になる<br />
「哲人『自己中心的な人は､「自分のことが好き」だから､自分ばかり見ているのではありません｡実相はまったく逆で､ありのままの自分を受け入れることができず､絶え間なき不安にさらされているからこそ､自分にしか関心がありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,184p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">「幸せレベル３」について</span></h3>
<p>さらに愛のタスクにおいては仕事のタスクにおける「わたしの幸せ」や交友のタスクにおける「あなたの幸せ」とは違い､「<b>わたしたちの幸せ</b>」が追求されるという｡</p>
<p>そしてこの愛のタスクが最も困難であるという｡この段階では利己心も利他心も消え､「われわれにとっての利益の追求」が重要になる｡最小限の愛のタスクは「わたしとあなた」から構成される「われわれ」であり､最大限の愛のタスクは「わたしとあらゆるすべて」から構成される「われわれ」になるのだろう｡</p>
<p>いずれにせよ愛のタスクの段階では自己中心化から脱自己中心化が生じている｡この脱自己中心化を「<b>自立</b>」という｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 自立<br />
「哲人『自立とは､「自己中心性からの脱却」なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,244p<br />
「哲人『だからこそアドラーは､共同体感覚のことをsocial interestと呼び､社会への関心、他者への関心と呼んだのです｡われわれは頑迷な自己中心性から抜け出し､「世界の中心」であることをやめなければならない｡「わたし」から脱却しなければならない｡甘やかされた子ども時代のライフスタイルから､脱却しなければならないのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,244p<br />
「哲人『そのとおりです｡人間は､変わることができます｡そのライフスタイルを､世界観や人生観を変えることができます｡そして愛は､「わたし」だった人生の主語を､「わたしたち」に変えます｡われわれは愛によって「わたし」から解放され､自立を果たし､ほんとうの意味で世界を受け入れるのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,244p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc51">「幸せレベルn」について</span></h3>
<p>では交友のタスクと愛のタスクをこなせば「十分な(あるいは本当の)」幸せに至ることができるのか｡これも難しいと言える｡物のように手に入れたから終わりというような幸せは得られるわけではないからである｡</p>
<p>いわば「完全な幸福感(貢献感､所属感)」へ無限に前進をして向かっていく作業なのであり､その過程においてより高い程度の幸福感を得ていくことになる｡無限に転がしていく必要がある｡その場その場で必要な課題をこなしていく連続であり､「今・この瞬間」を精一杯生きていく｡</p>
<p>幸福感を得ることと共同体感覚を得ることは密接につながっているという｡共同体感覚が高いほど､幸福感も高いということになるのだろう｡</p>
<p>ところで､承認欲求は無限に終わりがないから否定されるものだった｡承認欲求で幸福が得られたとしても､死ぬまで承認欲求が生じてしまう｡</p>
<p>脱自己中心化はもはや自己中心化を脱している状態であり､承認欲求がもはや存在しない段階だと言えるだろう｡しかし同じく､そこまでの過程は無限であり終わりがない｡同じ無限の終わりのないものでも､社会的､精神的に「健全」で「自由」であるほうはどちらか､と考えていくことになる｡もちろん後者なのだろう｡</p>
<blockquote>
<p>「哲人『愛を知り､人生の主語が「わたしたち」に変わること｡これは人生の､あらたなスタートです｡たったふたりからはじまった「わたしたち」は､やがて共同体全体に､そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう｡』青年『それが…』哲人『共同体感覚です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,245p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc52">「自己中心」から「脱自己中心」へ</span></h2>
<h3><span id="toc53">出発点としての自己中心について検討</span></h3>
<p> 【ポイント】勇気づけを自分や他者に行うためには「自己中心」から「脱自己中心へ」と成長させていく必要がある｡人間はほとんど不可避的､先天的に「過剰なほどの自己中心」から<b>出発</b>せざるをえない｡自分が世界の中心だと思い込み､他者からの愛を一方的に求めざるをえない｡</p>
<p>出発点としては「利己的」な「愛されるライフスタイル」や「甘やかされたライフスタイル」を創らざるをえない｡しかし人間は大人になるにつれて「自立」し､「愛するライフスタイル」を創っていくべきである｡</p>
<p>「脱自己中心化」へ至るには人生の課題を解決していく必要があり､特に愛のタスクがポイントとなる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:出発点としての自己中心性</p>
<p>「哲人『原則として子どもたちは､自活することができない｡泣くこと､つまり己の弱さをアピールすることによって周囲の大人を支配し､自分の望み通りに動いてもらわないと､明日の命さえ危うい｡彼らは甘えやわがままで泣いているのではない｡生きるためには､「世界の中心」に君臨せざるをえないのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,243p<br />
「哲人『すべての人間は､過剰なほどの「自己中心性」から出発する｡そうでなくては生きていけない｡しかしながら､いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない｡世界と和解し､自分は世界の一部なのだと了解しなければならない｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,244p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc54">子供時代の自己中心性について検討</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>子供時代の自己中心性</strong></span>：</big>子供時代において自分の利益を何よりも優先し､他人を支配・利用するような態度のこと｡仮の定義｡</p>
</div>
<p>すべての人間は「過剰なほどの自己中心性」から出発せざるをえないという｡赤ん坊は周囲の大人に愛され､世話されなければ生きていけない｡幼い子供も同様である｡泣いたり､ふてくされたり､怒ったりとと「自分の弱さ」をアピールすることで他人から注目され､世話をしてもらおうとする｡ある種の先天的な自己中心性である｡</p>
<p>具体的な時期については未定とする｡0歳から3歳くらいとしてもいい｡イメージとしては保育園児あたりまでである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/bf7f5fbeb6ff2040302d8f0d86383f14.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3617" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/bf7f5fbeb6ff2040302d8f0d86383f14.png" alt="" width="364" height="413" /></a></p>
<p>子供の頃は「ある程度依存せざるをえない」という意味である種「しかたのないもの」だといえる｡子どもはこのままではよくないと､なんとか創造的に試行錯誤し､生まれ持っている「共同体感覚」を掘り起こそうと､ライフスタイルを刷新しようとする｡保育園児でさえもそうであると考える｡どの時代でも程度の問題であり､子供時代は特に「しかたのなさ」の程度が大きいと言うだけである｡それが肉体的な弱さ､経験の少なさに特に表れているといえる｡</p>
<p>子どもは大人になるにつれて「自立」する必要がある｡子どものライフスタイルをいつまでも引きずっているのは不適切であり､病気だという｡</p>
<blockquote>
<p>追記(2024/05/01):岸見さんの「子どもの黄金時代」という表現がすごくいい</p>
<p>キーワード:子どもの黄金時代<br />
「哲人『そうです｡再びアドラーの言葉を引きましょう｡「かつて彼らは､ほしいもののすべてを与えられる黄金時代に生きていた｡そして彼らのなかにある者は､依然としてこう感じている｡十分長く泣き､十分抗議し､協力することを拒めば､再び欲しいものを手に入れられるだろう､と｡彼らは人生と社会を全体として見ず､自らの個人的な利益にしか焦点を合わせない｡」』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,242p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc55">中間時代の自己中心性について検討</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>中間時代の自己中心性</strong></span>：</big>人生のタスクに意識的に直面する時期であり､試行錯誤によって創造的にライフスタイルを特に形成する時期であると私は考える｡仮の定義｡</p>
</div>
<p>１０歳くらいまでの時期と仮定する｡ライフスタイルが固定的になるまでの時期のイメージになる｡さらに中間として幅を取り､15歳くらいまで､イメージとしては義務教育期間までとしてもいいかもしれない｡</p>
<p>大人ほどタスクが課されていなく､親に資金面・精神面共にまだ甘やかされている時期である｡しかし人生のタスクも課されており､精神的に自立もしようとしている時期であり､幼少期のライフスタイルが修正される時期であるとも考える｡子供時代の自己中心性と比べ､「しかたがない(まだ子供だから)」が徐々に通用しなくなってくる時期である｡</p>
<h3><span id="toc56">大人時代の自己中心性について検討</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>大人時代の自己中心性</strong></span>：</big>主に成人した年齢や就職した年齢を想定した時代である｡子供時代や中間時代とは違い､もはや子ども時代の自己中心性を「しかたがない」と言い訳にできない時期である｡仮の定義｡</p>
</div>
<p>仕事のタスクでは「信頼」ではなく「信用」 の対人関係が重要になる｡つまり､何らかの利害関係などの「条件つきの関係」だという｡そして､仕事のタスクでは「利己心」､つまり「私の幸せ」に力点が置かれている｡このような「仕事のタスクにおける自己中心性」は経過点としては健全だと考える｡</p>
<p>追記(2024/05/01):「世界は､あなたの母親ではない」は某漫画の「世間は母親ではない」というセリフと繋がっていて面白い</p>
<blockquote>
<p>キーワード:大人時代の引きずり<br />
「哲人『彼らのような生き方を選ぶのは､子供だけではありません｡多くの大人たちもまた､自分の弱さや不幸､傷､不遇なる環境､そしてトラウマを「武器」として､他者をコントロールしようと目論みます｡心配させ､言動を束縛し､支配しようとするのです｡そんな大人たちをアドラーは「甘やかされた子ども」と断じ､そのライフスタイル(世界観)を厳しく批判しました｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,243p</p>
<p>「哲人『結局あなたは､「この人はわたしを愛してくれるのか？」しか見ていないわけです｡相手のことを見ているようで､自分のことしか見ていない｡そんな態度で待ち構えているあなたを､誰が愛してくれるでしょうか？…もしもそんな自己中心的な欲求に応えてくれる人がいるとすれば､それは両親だけでしょう｡両親の愛､ことに母親の愛は無条件ですから｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,260p<br />
「哲人『いいですか､あの『黄金時代』は､もう終わったのです｡そして世界は､あなたの母親ではない｡あなたは自分の隠し持つ子供時代のライフスタイルを直視し､刷新しなければなrない｡愛してくれる誰かが現れるのを待っていてはいけません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,260p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc57">分業の論理必然性について</span></h3>
<p>子供時代の自己中心性と同じように､実質的には先天的なものであり､別の言葉で言い換えるとすれば人間において「本質的」なものである｡種全体に話をしぼるならば､後天的必然性だといえる｡個人単位においては働かない人がいても生きていけるじゃないか､という反論があるかもしれないが､それも一定量を超えると種として維持できなくなる｡</p>
<p>赤ん坊は単体で生きていけないゆえに家族の助けを必要とするという意味の本質と､大人もまた単体で生きていけないゆえに大人たちと利己的に力を合わせることを必要とするという意味の本質に分けることができる｡いずれも出発点としてのしかたなさ､経過点としてのしかたなさをもっている｡</p>
<p>我々は働いて生産しなければ基本的に生きていけない生き物である｡また､群れるだけではなく分業して､協力するという点において多くの他の動物とは異なる人間に特有の点が見られる｡</p>
<p>アドラーはこうした仕事のタスクにおける「<b>働き､協力し､貢献すべきである</b>」を論理的に考えている｡</p>
<p>我々人間は肉体的に弱く､分業して協力しなければ生き残っていけない｡他者が嫌いでも好きでも､善でも悪でも､「<b>協力せざるをえない</b>」という事実を重視する｡この不可避性は子供が「<b>甘えざるをえない</b>」という点と似たようなものであり､出発点や経過点としてのしかたなさ､適切さがあるといえる｡しかし「<b>いつか取り外されるべき足場</b>」であると考えていく｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:分業の論理性<br />
「哲人『ところが､実際の地球はそういう環境にない｡食料には限りがあり､住む場所も誰かが提供してくれるわけではない｡それではどうするのか？…働くのです｡しかもひとりで働くのではなく､仲間たちとともに｡アドラーは､こう結んでいます｡「論理的でコモンセンスに一致する答えは､われわれは働き､協力し､貢献すべきである､ということだ」と｡』青年『あくまでも論理的な帰結だと｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,188p<br />
「哲人『ええ｡人間には「信じない」という選択肢などありえません｡協力しないこと､分業しないことなどありえないのです｡その人が好きだから協力するのではなく､否が応でも協力せざるをえない関係｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,188p<br />
「哲人『試合に勝つためには､個人的な好悪を超えて協力せざるをえない｡嫌いだから無視をするとか､仲が悪いから欠場するとか､そういった選択肢はありえない｡試合が始まってしまえば､「好き」も「嫌い」も忘れてしまう｡チームメイトのことを「友人」としてではなく､「機能」のひとつとして判断する｡そして自分自身も､機能のひとつとして優秀であろうとする｡』青年『仲の良さよりも､能力が優先される』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,190p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc58">「不健全な自己中心性」と「経過点としては健全な自己中心性」について検討</span></h3>
<p>大人の時代は「<b>不健全な自己中心性</b>」と「<b>経過点としては健全な自己中心性</b>」の２つに区分することができると私は考える｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>不健全な大人時代の自己中心性</strong></span>：</big>成人しているにも関わらず子供時代と同じ自己中心性に留まっている状態のことである｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>経過点としては健全な大人時代の自己中心性</strong></span>：</big>利己的な動機に基づいて働いた結果､結果的に「他者のため(利他的)」になる自己中心性のこと｡ギブアンドテイクの発想ともいわれる｡なぜ「経過点としては」と留保をつけたかというと､この段階に留まっていることは不健全だからである｡交友のタスクや愛のタスクへ進む必要がある｡</p>
</div>
<h3><span id="toc59">なぜ「大人時代の自己中心性」は健全なのか</span></h3>
<p>アドラーは賞罰主義や見返り主義､承認欲求を否定している｡そのため､「自分に利益があるから他者と関係を築き上げる」というようなものを健全とは思わないのではないかと疑問が生じる｡動機を蔑ろにして健全だとみなしていいのか｡</p>
<p>しかし岸見さんによれば､こうした仕事のタスクにおける利害関係は「健全なギブ・アンド・テイク」だという｡なぜだろうか｡考えてみる｡</p>
<h3><span id="toc60">１:「仕事のタスクの段階に留まるわけではない」と考えていく</span></h3>
<p>「<b>我々はどうやら不純な動機から出発せざるをえない</b>」という事実をまずは認める｡そしてこれは「<b>完全から見れば不純であるが､しかし出発点として､あるいは経過点としては健全である</b>」と認める｡</p>
<p>これはフッサールが独我論から出発して独我論を脱する事を考えたことに似ている｡「出発点と､経過点としては健全だ」と考えていく｡<b>自己中心から出発して我々は自己中心を脱するのである</b>｡出発点の次には仕事のタスク､交友のタスク､愛のタスクという経過点が待っている｡</p>
<h3><span id="toc61">２:「経過点として健全ではないケース」と比較すると健全だ､という考えができる｡</span></h3>
<p>「利己的な態度における行動が結果的に利他的なものにつながる」ケースよりも､「利己的な態度における行動が結果的に利他的なものにつながらないケース」のほうが不健全だと考える｡結果として利他的かどうか､ギブアンドテイクをどのように計算するのか､判断するのかという問題は残る｡</p>
<p>他人からの利益と自分からの利益のどちらが多いか､イーブンではないケースがあるだろう｡</p>
<p>しかしそうした厳密な議論を置いておいたとしても､自分が生きていくためにした仕事が誰かの役に立っているということは認めるざるをえないだろう｡野菜をつくる人も､野菜を売る人も､野菜の本を書く人も､野菜を運ぶ人も､我々が生きていくために役立っている｡</p>
<p>そして同時に貨幣を獲得して生計を立てている｡嫌いな人だからといってスーパーで食物を売らないということが(基本的には)ないように､協力せざるをえないのである｡</p>
<p>アドラーは<b>本当に必要のない仕事は淘汰されていく</b>と考えているので､いまある仕事はどれもなんらかのかたちで貢献しうるものなのだと想定する(過剰な高利貸しすら､そうであるということになる)｡</p>
<p>例えば大人になっても「子供時代の自己中心性」を引きずっていては不健全である｡赤ん坊が母親に完全に頼ることは「<b>出発点としては適切</b>」である｡赤ん坊ではない引きこもりやニートなどは「<b>経過点としては健全ではないケース</b>」になる｡</p>
<p>友達と呼べる人や愛する人がいない人は「<b>経過点としては健全ではないケース</b>」であるといえる｡交友のタスクをきちんとこなしている人からすれば不健全であるということになる｡留まってしまっていてはもはや「経過」ではない｡</p>
<p>なんらかの子供時代の自己中心性を引きずっているといえる｡不適切なライフスタイルのままだということである｡他者に依存し、他者から愛されることを目的としている｡あるいは自分に自信がなく､勇気を持てず､他者を信頼したり､愛したりすることができない｡できるのはせいぜい条件つきの信用に基づいた仕事における対人関係というケースである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:健全なギブアンドテイク</p>
<p>「哲人『ここで大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということです｡つまり､純粋な利己心の組み合わせが､分業を成立させている｡利己心を追求した結果､一定の経済秩序が生まれる｡これがアダム・スミスの考えた分業です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,191p<br />
「青年『でも､アドラーは「他者貢献」を推奨するわけですよね？３年前､あなたは力強く断言していたはずです｡他者への貢献をめざせ､それが人生の指針であり､「導きの星」だと｡自分の利益を優先する考えは､「他者貢献」と矛盾しませんか？』哲人『まったく矛盾しません｡まずは仕事の関係に踏み出す｡他者や社会と利害で結ばれる｡そうすれば､利己心を追求した先に､「他者貢献」があるのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,191p<br />
「哲人『分業の根底に流れていたのは「わたしの幸せ」､つまり利己心でした｡「わたしの幸せ」を突き詰めていくと､結果として誰かの幸せにつながっていく｡分業の関係が成立する｡いわば､健全なギブアンド・テイクが働いている｡そういう話でした｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,238p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc62">３:「経過点としては健全」だが､「ゴールからみれば不健全である」と考えていく</span></h3>
<p>交友のタスクや愛のタスクをある程度解決しても､この解決には原理的に終わりがない｡完全にライフタスクを解決しているというような「完全の目標」からすれば全ては「不健全」である｡よりよい健全を､よりましだと思える不健全を一歩一歩積み重ねていく必要がある｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3618" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png" alt="" width="1000" height="614" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1.png 1000w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/72aab7e644b38f71b1b5ee0d23607ca1-800x491.png 800w" sizes="(max-width: 1000px) 100vw, 1000px" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージだと私は考える｡暫定的なもの｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:幸せレベル２</p>
<p>「哲人『一方､交友の関係を成立させるのは「あなたの幸せ」です｡相手に対して､担保や見返りを求めることなく､無条件の信頼を寄せていく｡ここにギブ・アンド・テイクの発想はありません｡ひたすら信じ､ひたすら与える利他的な態度によって､交友は生まれます｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,238p<br />
「哲人『つまりわれわれは､「わたしの幸せ」を追求することによって､分業の関係を築き､「あなたの幸せ」を追求することによって､交友の関係を築いていく｡だとした場合､愛の関係は､なにを追求することによって､交友の関係を築いていく｡だとした場合､愛の関係は､なにを追求した結果､成立するのでしょうか｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,238p</p>
<p>キーワード:幸せレベル３<br />
「哲人『利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく､利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく､不可分なる「わたしの幸せ」を築き上げること｡それが愛なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,239p</p>
<p>「哲人『ええ｡「わたし」や「あなた」よりも上位のものとして､「わたしたち」を掲げる｡人生のすべての選択について､その順序を貫く｡「わたし」の幸せを優先させず､「あなた」の幸せだけに満足しない｡「わたしあち」のふたりが幸せでなければ意味がない｡「ふたりで成し遂げる課題」とは､そういうことです｡』青年『利己的でありながら､利他的でもある…と？』哲人『いいえ｡利己的では「ない」のだし､利他的でも「ない」のです｡愛は､利己と利他の両方を兼ね備えるのではなく､どちらも退けるのです｡』青年『なぜです？』哲人『…「人生の主語」が変わるからです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,239p<br />
「哲人『われわれは生まれてからずっと､「わたし」の目で世界を眺め､「わたし」の耳で音を聞き､「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます｡これはすべての人がそうです｡しかし､ほんとうの愛を知ったとき､「わたし」だった人生の主語は､「わたしたち」に変わります｡利己心でもなければ利他心でもない､まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,240p<br />
「哲人『まさに｡幸福なる生を手に入れるために､「わたし」は消えてなくなるべきなのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,240p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc63">それではその理解不能なものにたいして自分は一体どういう態度をとるのか？</span></h3>
<p>最後に､M・ウェーバーの言葉を引用します｡</p>
<p>「それから君が引き合いに出しているもう一つの問題、宗教的事象の『理解不能性』の問題も、[君はただそれが理解不能というだけで]一向に方がついていません。なぜなら、それではその理解不能なものにたいして自分は一体どういう態度をとるのか、といった問題がただちに生ずるからです。宗教は世界史の中で人間にとってどんな価値をもったのか、この自分にとってそれはいかなる価値をもつのか？それとも、ひょっとするとそれは理解不能なるがゆえに、自分にとっておよそ何の意味ももたないものなのだろうか？私の考えでは、このあとの方の見解にはどうしても賛成することができません。しかし、それでは一体宗教が人々にとって、またこのわたし自身にとってどういう意味をもつのかと言った問題は、そう簡単なものではないし、どんな人でも一気に答えることのできるような問題でもありません。」</p>
<p>「君はどうしてそういつもいつも──君の言い草によると──自分はもうダメだとか絶望せざるをえないなどと自分に言い聞かせることができるのか、わたしには不思議でなりません。端的に聞きますが、一体なぜなのです？もしその理由が、なにか一般的な理論的見解上の問題で君がぶつかっている困難のせいでしかないとすれば──だって、ほかにどんな理由があると言うのです？──、もしそうなら、君は、およそ理論というものがこの世でもつ、そして各人にとってもつ意義を、あまりにも過大評価しているとしか言いようがありません。地獄の劫罰とかそれに類する永遠の世界などあるはずがないと考えている君が、なにか理論的見解の上で行きづまり、もう自分は生きていけないとか、自分にとって生きることは重荷である、などといったことを本気で思い込んでいるとすれば、これはもうどこからどう見てもまったくのお笑いでしかありません。」</p>
<p>「そんなことで色々思い悩む人もいることは、わたしにもよく分かります。しかし、そうした極論に溺れたりせずに、われわれの認識手段が──絶対の観点からすれば──いかに取るに足らない価値しかもたず、いかに弱点だらけのものであるかを弁えるすべを心得、またそのことを日頃つねに自分に言い聞かせている者は、物事というものは必ずわれわれの経験をはみ出すものであり、それを捉えようとする理論はつねに誤謬を犯す可能性があるということを思い知らされたとしても、だからといって認識への努力そのものを放棄しようとは夢にも思わないでしょう。」</p>
<p>「もしもそんな極端な考え方をする人がいるとしたなら、はたしてその人はそれで結構自己欺瞞に陥っているのではないか、とかくペシミズムというものにはつきもののあの魅力──これは大抵の人間が一度は参ってしまうものだが──に取りつかれて、そんなことを言い出している面もあるのではないかと、わたしはその人の顔を正面からのぞき込んで、とくと吟味してやろうと思います……いずれにしても、そんな考え方は邪道です。」(アルフレートへの手紙)</p>
<h2><span id="toc64">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc65">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc66">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc67">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc68">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc69">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></p>
<h4><span id="toc70">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc71">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc72">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc73">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc74">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc75">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc76">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc77">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc78">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc79">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc80">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc81">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/</link>
					<comments>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 09:24:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､思想編(共同体感覚)です(7)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-3" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-3">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">「共同体感覚」</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">「共同体感覚」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">共同体</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">共同体とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">広さとバランスの図</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">幸せの鍵としての共同体感覚</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">幸せの鍵としての共同体感覚とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">「完全という目標」</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">「完全という目標」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">人類全体の幸福について</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">なぜ隣人を愛さなければならないのかという問いについて</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">前進とは､進歩とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">隣人愛は目的なのか手段なのか</a><ol><li><a href="#toc19" tabindex="0">隣人愛とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">アドラー心理学と隣人愛的思想の関連性について</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">追記(2024/04/29)なかなか腑に落ちない宗教に関する雑感</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">世界に参加する意識</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">死後の世界の理想(永遠の命)ではなく､現世における人類の発展</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">完全な利他主義について</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">「自分自身が生きていきやすい社会を作るのに役立つから」という簡潔なエリスの論理</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">「なるほどすべきです、しかしできません」</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">動態的な思想について</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">論理の前後にすぎないのか､それ以上のものがあるのか</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">追記(2024/04/29):卵が先か鶏が先か</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">私たちどこから来てどこへ行くのか</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">宇宙は生命の維持に関心をもっているか</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">人生の意味について</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">「完全という目標」へと向かってきた歴史について</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">個人の幸福について</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">(１)過剰な自己犠牲(過剰な共通感覚)</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">(２)過剰な他者犠牲(過剰な私的感覚)</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">(３)共同体感覚が伴っている理想のケース</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">「共同体感覚が過剰」という言葉はあまり意味がない</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">決断主義と責任主義</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">まずはできることからする</a></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">ファイヒンガーの「かのように哲学」</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">ファイヒンガーの「かのように哲学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">擬制とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">「擬制」と「仮設」は違う概念</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">アドラーと「かのように哲学」の関連</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">自由意志について</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">共同体感覚は形而上学的である</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">共同体感覚をなぜ実存のものに限定しないのか</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">幸せと「かのように哲学」</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">共同体感覚は相対主義か絶対主義か</a><ol><li><a href="#toc51" tabindex="0">相対主義､絶対主義とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">相対主義とニヒリズムについて</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">絶対主義とエゴイズム</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想か</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">相対主義ではないかのような主義</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">「人間に能力がある」という点をいかに説得力を持たせるかたちで実証できるか</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">マンハイムの相関主義への接近</a></li></ol></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">導きの星</a><ol><li><a href="#toc59" tabindex="0">導きの星について</a></li></ol></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">「自己受容」</a><ol><li><a href="#toc61" tabindex="0">共同体感覚をもつ人の特徴</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">自己受容とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">自己受容と自己肯定の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">「他者信頼」</a><ol><li><a href="#toc65" tabindex="0">他者信頼とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">他者信用とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">「他者貢献」</a><ol><li><a href="#toc68" tabindex="0">他者貢献とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">貢献感とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">他者貢献は偽善なのかについて検討</a><ol><li><a href="#toc71" tabindex="0">偽善とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">「わたし」の価値を実感するために他者貢献をする､という論理について</a></li><li><a href="#toc73" tabindex="0">「他者を仲間だと見なして行う貢献は偽善にはならない」のか</a></li><li><a href="#toc74" tabindex="0">しかし・・でも・・やはり､それでも</a></li><li><a href="#toc75" tabindex="0">ひっかかり:「われわれ意識」､「われわれ感覚」について</a></li><li><a href="#toc76" tabindex="0">やらない善よりやる偽善？</a></li><li><a href="#toc77" tabindex="0">「我々のためにならない」のなら左頬を差し出す必要はないか？</a></li><li><a href="#toc78" tabindex="0">カントがいう「義務としての義務の名に値しない行動」</a></li><li><a href="#toc79" tabindex="0">「相手のために自分のことを考える」という論理構成と「自分のために相手のことを考える」は機能的にほんとうに等価な論理か？</a></li><li><a href="#toc80" tabindex="0">「主体性」と「他人のため」を超える､あるいは補強</a></li><li><a href="#toc81" tabindex="0">「国民が疲労困憊しているこの時に､自分一人の魂を救って何になる」､討論によって創られる規範(センス)について</a></li></ol></li><li><a href="#toc82" tabindex="0">円環構造について</a><ol><li><a href="#toc83" tabindex="0">「自己受容することができるから､他者信頼をすることができる」←なぜ？</a></li><li><a href="#toc84" tabindex="0">「他者信頼することができるから､他者貢献することができる」←なぜか</a></li><li><a href="#toc85" tabindex="0">そもそもなぜ自己受容することができるのか</a></li><li><a href="#toc86" tabindex="0">三角形を転がすような人生のイメージについて検討</a></li><li><a href="#toc87" tabindex="0">「どこ」へ我々は転がっていくのか｡「どこから」我々は転がっていくのか｡それはわからない｡</a></li></ol></li><li><a href="#toc88" tabindex="0">共同体感覚の発展を妨げる３つの要素</a><ol><li><a href="#toc89" tabindex="0">共同体感覚の発展を妨げる３つの要素とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc90" tabindex="0">共同体感覚が欠如している人にありがちな態度</a><ol><li><a href="#toc91" tabindex="0">共同体感覚が欠如している人にありがちな態度とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc92" tabindex="0">共同体感覚で精神疾患を治せるのか</a><ol><li><a href="#toc93" tabindex="0">個人の精神疾患</a></li><li><a href="#toc94" tabindex="0">社会の精神疾患</a></li></ol></li><li><a href="#toc95" tabindex="0">共同体感覚の悪用(誤用)</a><ol><li><a href="#toc96" tabindex="0">共同体感覚の悪用(誤用)とは</a></li><li><a href="#toc97" tabindex="0">基本的な価値観を破壊するような個性などに対して許容するものではない</a></li></ol></li><li><a href="#toc98" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc99" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc100" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc101" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc102" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc103" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc104" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc105" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc106" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc107" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc108" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc109" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc110" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc111" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc112" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc113" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc114" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc115" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc6">「共同体感覚」</span></h2>
<h3><span id="toc7">「共同体感覚」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共同体感覚</strong></span>：</big>アドラー自身のシンプルな定義は「他の人の目で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる」という感覚である｡</p>
</div>
<p>Crandallの定義では「他者に対する興味と関心」であり､Mosak&amp;Maniacciの定義では「私たちがお互いに､そして､世界と共に持っている共感的で情緒的な絆」である｡「自分の居場所がこの世界にあるという感覚(所属感)」のことともいえる｡</p>
<p>追記(2024/04/29):アドラーは共同体感覚の類似語として､共生､協力､人間性､理性の自我を挙げてる点もポイントである</p>
<blockquote>
<p>「共同体感覚の提唱者であるAdler自身は“他の人の目で見て，他の人の耳で聞き，他の人の心で感じる”という言葉が共同体感覚の許容し得る定義であると述べている（Adler,1927）。また，Crandall（1981）は共同体感覚を“他者に対する興味と関心”と定義し，Mosak&amp;Maniacci(1999坂本監訳2006）は，共同体感覚は“私たちがお互いに，そして，世界と共に持っている共感的で情緒的な絆”であると述べている。」<br />
髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」,88p<br />
「野田（1998）は，共同体感覚の定義は困難であると述べた上で，これまでの共同体感覚の議論をまとめ，共同体感覚は“「私は共同体の一員だ」という感覚”である「所属感」，“「共同体は私のために役に立ってくれるんだという感覚”である「信頼感」，“「私は共同体のために役立つことができる」という感覚”である「貢献感」という3側面で構成されると述べている。Manas-ter&amp;Corsini（1982高尾・前田訳1995）が所属感は共同体感覚の一部であると述べ，Mosak&amp;Maniacci（1999坂本監訳2006）は，共同の福利への貢献や献身，信頼などを共同体感覚の行使の例として挙げている。これらからも野田（1998）が指摘した「所属感」，「信頼感」，「貢献感」は共同体感覚を構成している側面であると考えられる。また野田（1998）はこれらに加え，“「私は私のことが好きだ」ということ”である「自己受容」も共同体感覚の一側面であると述べている。SIIやSSSIにおいて自己に対する肯定感や信頼感に関わる下位尺度が設定されていることから，「自己受容」も共同体感覚を構成する一側面であると考えられる。つまり，共同体感覚は，「所属感」，「信頼感」，「貢献感」，「自己受容」の４側面で構成されていると考えられる。」<br />
髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」,88p</p>
<p>キーワード:類似語</p>
<p>「共同体感覚､あるいは共生､協力､人間性､理想の自我などなんと呼んでもいいのですが､これが不足していると､人生のあらゆる問題に対する準備ができなくなります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,116p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc8">共同体</span></h2>
<h3><span id="toc9">共同体とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共同体</strong></span>：</big>自分が属する家族､学校､職場､社会､国家､人類…という集団のすべて､過去・現在・未来のすべての人類､さらには生きているものも生きていないものも含めたこの宇宙の全体を指しているという｡</p>
</div>
<p>既存の特定の共同体を指すわけではなく､あくまでも理想の中にのみ存在する一番範囲の広い共同体である｡</p>
<p>そのような理想の共同体の視線で物事を考えることを「<b>永遠の目で見る</b>」ともいい､こうした永遠の目による感覚が定義上最も共同体感覚に満ちている状態となる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共同体</p>
<p>「ここでいう『共同体』というのはさしあたって自分が属する家族､学校､職場､社会､国家､人類…という集団のすべて､過去・現在・未来のすべての人類､さらには生きているものも生きていないものも含めたこの宇宙の全体を指している､と考えていいのですが､アドラーはこれを『到達できない理想』である､といい(Individualpsychologie in der Schule(学校における社会心理学),S.20)､どこにも既存の社会であるとはいっていません｡」</p>
<p>岸見一郎「アドラー心理学入門」,112p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc10">広さとバランスの図</span></h3>
<p>現実の共同体感覚の程度には幅があり､より大きな共同体の視線を持っているかどうかが重要になる｡自分中心の､私的な目しか持っていない場合が共同体感覚の真逆の感覚である｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/9a6e0bfa7cbd9a81d7277da3f7aa3918.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3604" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/9a6e0bfa7cbd9a81d7277da3f7aa3918.png" alt="" width="499" height="479" /></a></p>
<p>だからといって他人の人生を生きる「自己犠牲」や「承認欲求」の感覚が共同体感覚ではない｡そのバランスの上に共同体感覚はあるといえる｡ポイントは「<b>広さ</b>」と「<b>バランス</b>」である｡共同体の範囲が広ければ広いほど､バランスはとりにくくなる｡最も広い状態でもバランスが取れているような状態が理想の共同体感覚であるとわたしは考える｡</p>
<h2><span id="toc11">幸せの鍵としての共同体感覚</span></h2>
<h3><span id="toc12">幸せの鍵としての共同体感覚とは</span></h3>
<p>【ポイント】アドラーのほとんどすべての概念の根底には「共同体感覚」があり､<b>「共同体感覚」が個人や人類の幸せの根源である</b>と考えている｡</p>
<p>・アドラーは「<b>勇気と幸福は共同体感覚にしか見られないもの</b>」だと述べている｡共同体感覚がないところに､幸せはないという思想である｡</p>
<p>・ライフタスクに向き合い､解決することが「幸せ」につながっている｡そしてライフタスクは「共同体感覚」を伴った「ライフスタイル」によって向き合うことができ､適切な形で解決することができる｡</p>
<p>・共同体感覚が欠けている場合､劣等感は「劣等コンプレックス」になりやすい｡劣等コンプレックスになった場合､ライフタスクと向き合わずに回避するようになる｡その結果「幸せ」につながらずに不満が溜まり､「不幸」になってしまう｡</p>
<p>・不幸は対人関係の悪化にあり､幸福は対人関係が良好なことであるといえる｡そして対人関係を善くするためには「共同体感覚」をもつ必要がある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:幸せ</p>
<p>「私達は､他者の役にたっているときに､自分の価値を心から実感でき､充実感を感じます｡共同体感覚は人生を幸せに導くカギとなるわけです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,74P</p>
<p>キーワード:「勇気と幸福は共同体感覚にしか見られないもの」<br />
「人生のあらゆる問題は､私が指摘したとおり､協力する能力と準備を求めます｡これは共同体感覚の明らかな印です｡この状態には､勇気と幸福が含まれています｡勇気と幸福は共同体感覚にしか見られないものです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,300p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc13">「完全という目標」</span></h2>
<h3><span id="toc14">「完全という目標」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>完全という目標</strong></span>：</big>人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就を意味する目標｡これは「永遠の目」でみた時の目標｡アドラーは究極的には「人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態」を共同体感覚と表現している｡</p>
</div>
<p>アドラーは共同体感覚を「人類が完全という目標に到達したときに考えられるような『永遠』にふさわしい形の共同体を追求するということ」とも説明している｡こうした「完全という目標」はけっして現在や過去の<b>特定の</b><b>共同体や政治的・宗教的な形式のことを言っているわけではない</b>という｡</p>
<p>たとえば共産主義か民主主義かどちらかという問題ではなく､あらゆる政治主義を超越した､最高の､虚構であり理想の「政治形式」ということになる｡</p>
<p>宗教も同様であり､一切の宗教的対立をもたらさないような､理想の「宗教形式」となるのかもしれない｡要するに､具体的に言葉にすることは難しいような､経験することができないような理想の「何か」である｡物質のように形態をもたず､経験できない「何か」であることから形而を超えたものであり､それゆえに<b>形而上学</b>的だと言われることがある｡アドラーも共同体感覚が形而上学的だということ､一種の哲学であることを認めている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:完全という目標</p>
<p>「共同体感覚とは､人類が完全という目標に到達したときに考えられるような『永遠』にふさわしい形の共同体を追求するということです｡けっして､いま現在の共同体や社会とか､政治的・宗教的な形式のことを言っているわけではありません｡『完全』にもっともふさわしい目標とは､人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就を意味する目標です｡…わたしたちの考える共同体感覚は､人類の最終形であり､人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態でもあります｡ひとを律する理想で､方向を与える目標です｡この完全という目標には､理想の共同体という目標が含まれてなければいけません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,291-292p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc15">人類全体の幸福について</span></h2>
<h3><span id="toc16">なぜ隣人を愛さなければならないのかという問いについて</span></h3>
<p>Q なぜ隣人を愛さなければならないのか</p>
<p>「なぜ隣人を愛さなければいけないのかと尋ねられたら､<b>私はどのように回答すべきかわからない</b>｡だが､私は逆になぜそのような質問をするのかと尋ねることはできる」とアドラーは答えたという｡</p>
<p>一方で､アドラーは「流れが人類全体の幸福と反したり､聖書のカインの問い『なぜ隣人を愛さなければいけないのか？』が含まれていたりするのなら､わたしはどんな流れも<b>間違っている</b>ととらえるでしょう｡」と述べている｡</p>
<p>アドラーは「流れの方向が人類全体の幸福という目標で導かれているという確固たる証拠があるのなら､どんな流れも私は<b>正しい</b>と見なす」とも述べている｡</p>
<p>「正誤」を語りつつ､その正誤の根本的な根拠には「わからない」というニュアンスが感じ取れる｡</p>
<p>これはなかなか哲学的な問題だろう｡相対主義と不可知論と絶対主義とリゴリズム､そして一雫の希望が矛盾と調和の中で息をしているかのような印象を受ける｡まず「幸福」とはなにかを哲学的に定義する必要がある｡次に､その定義に背くようならば､いかなる行動も「誤り」だということになる｡この場合､アドラーは「隣人愛」や「生きる意味」というものを幸福に不可欠な要素と暫定的に考えているのだろう｡</p>
<p>アドラーは決定するつもりはないがと前置きをしつつも､「個人や集団の動きは､永遠に値する価値､人類の発展に向けた価値を創るときだけに､価値があると見なされる」と述べている｡<strong>個人の発展に向けているものではない</strong>という点が重要だろう｡</p>
<p>アドラーは人間の価値や幸福は共同体への貢献であることを強く強調する｡「<b>人類の幸福に貢献しなかった人間はどうなるか？､何も残さず消えた</b>」とまで述べている｡</p>
<p>問題は「永遠に値する価値」を人間は知ることができるかという「事実の問題」と､近づくことができるという「仮想」のもとで､その効用の「価値の問題」に分けることができる｡アドラーは後者だろう｡</p>
<p>実際にはケースバイケースであり､未来がどうなるかを我々は知ることができない｡間違えることだってある｡何が将来的に､かつ客観的に共同体への貢献になるかどうかを厳密に語ることは難しい｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:隣人愛､エリス</p>
<p>「また，共同体感覚に関する見解において，アドラーは論理療法と明確に異なる考えを持つ。論理療法では，人間の合理的な行動は，まずもって自己感覚に基づいており，論理的には，自己感覚は共同体感覚と根本でつながっていると考える。アドラーは逆に考えているようである。「人は共同体感覚によって，最大の自己に対する愛情や幸福を達成することができる」この点についてアンスバッハーとアンスバッハーは次のように示している。「なぜ隣人を愛さなければならないのかという一般的な質問に対して，アドラーは『なぜ隣人を愛さなければならないかを尋ねられたら，私はどのように回答すべきかわからない。だが，私は逆になぜそのような質問をするのかと尋ねることはできる』と答えた」｡論理療法家は，異なる立場を取る。なぜ隣人を愛さなければならないか，少なくとも傷つけないように注意しなければならないのかという質問に対しては，自分自身が生きていきやすい社会を作るのに役立つから，という回答を持っている。言い換えれば，論理療法家は，自己感覚は共同体感覚を必要としていると信じており，さきほどの理由から，幸福を目指すラショナルな人は他者にも関心を寄せるのである。さらに，論理療法家はマズローや他の理論家とともに，人間は，自己破壊的で自己嫌悪的な行動を取るような非論理的思考に巻き込まれていなければ，本来的に他者に対して支援的かつ友好的であると信じている。アドラーが，「すべての努力は患者の共同体感覚を育成することに向かう」と述べているが，論理療法家は，「すべての努力は患者の自己感覚を育成することに向かう」と述べる。論理療法家は，個人がラショナルな自己感覚を生物学的にも論理的にも持ちえた際には，強い共同体感覚を持つであろうと考える。」<br />
森本康太郎「論理療法と個人心理学」,133-134p</p>
<p>キーワード:人類全体の幸福、流れ</p>
<p>「つまり､流れの方向が人類全体の幸福という目標で導かれている確固たる証拠があるなら､わたしはどんな流れも正しいと見なすでしょう｡流れが人類全体の幸福と反したり､聖書のカインの問い『なぜ隣人を愛さなければいけないのか？』が含まれていたりするのなら､わたしはどんな流れも間違っているととらえるでしょう｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,293p</p>
<p>キーワード:「人類の幸福に貢献しなかった人間はどうなるか？」､「永遠に値する価値」<br />
「決定するつもりはありませんが､１つ言えることがあります｡それは､個人や集団の動きは､永遠に値する価値､人類全体の発展に向けた価値を作るときだけに､価値があると見なされるということです｡この主張を弱めるために､自分や他人の愚かさを言い訳にしてはいけません｡大事なのは真理は手にしていることではなく､真理を求める努力であることは明白です｡この事実は､『人類の幸福に貢献しなかった人間はどうなるか？』と問うとき､さらに決定的かつ明白になります｡問いに対する答えは､『なにも残さず消えた』です｡後に残るものはなく､肉体も精神も消え去っています｡地球に飲み込まれるのです｡宇宙の現実と調和できずに絶滅した動物と同じことが起こります｡そこには実際､ひそかな法則性があります｡答えを求める宇宙がまるで命令するかのような法則性です｡『去れ！おまえたちは生きる意味を理解できなかった｡未来へ達することはできない｡』」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,295p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">前進とは､進歩とは</span></h3>
<p>アドラーは「<b>共同体に貢献しないものを避けることができるだけで､大きな前進なのかもしれません</b>」と希望的に述べている｡これは客観的に貢献しているか､あるいは将来においてもそれが貢献の連鎖となっていくのかを知ることはできないが､しかしまずは「<b>貢献したと私が感じること</b>」が重要であると考えることができる｡まずは自分ができることからコツコツとしていく｡それがアドラーという個人にとって隣人愛だったのだろう｡</p>
<p>隣人愛を唱え続けて人類が滅びたならば､結果論からするとそのような流れは自己保存という目標からすると間違っていたということになるかもしれない｡どんな理想も価値も経過である以上「絶対的に正しい」かどうかなどわからない｡こう表現するとニヒリズムに接近するが､しかしそこを前提とするべきなのではないかと考える｡</p>
<p>「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」という理想と「目には目を」という理想のどちらが正しいのか､深く考えた人はどれだけいるだろうか｡神々の闘争とM・ウェーバーが表現した時代の中で､我々はより適切な理想をどのように見いだせるのか｡理想が具体性をもてばもつほど､他の理想と対立的になる｡</p>
<p>隣人愛という表現はアドラーが抽象的な理想の次元をひとつ外したかたちでこぼれ落ちた言葉であり､そのものではないと考えたほうが私はスッキリする｡完全に合致する「言葉」がないのであり､「近そうな言葉」で表現する他がない｡私でも他者でもなく､「<b>我々という意識</b>(脱中心化)」というほうがより抽象的で理想的な言葉のような気がする｡ちなみに私は「<b>参加する意識</b>」と表現したモリス・バーマンの表現が好きだ｡</p>
<p>遠い未来のことまではわからないが､すくなくともそう実感させる何かが「隣人愛」にはあるというわけだ｡実際に､その時代､その場所ではそういう思想がライフスタイルに組み込まれている人は幸せと感じている具体例をたくさん見たのかもしれない｡</p>
<p>そうした思想を正しいかのように考えさせることで､実際に人が幸福へと変わっていく例をたくさん見たのかもしれない｡そう感じさせざるを得ない､不可疑的なものがあったのかもしれない｡</p>
<p>そもそも「横の関係(仲間意識)」が共同体感覚という理想の目的の「手段」として採用されているのに､目的が仲間意識を伴うものでなければ背理になるのかもしれない｡それゆえに隣人愛が流れに必要だというのはわからなくもない｡しかし手段として正しいと確信している時点で論点先取り感がある｡</p>
<p>完全がどういう状態かはわからない｡しかし完全には隣人愛が含まれている「かのように」先取りしておくことの実践的意義があるのかもしれない｡先取りだから悪いというのはあくまでも科学の話である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:前進</p>
<p>「もちろんわたしは､未来がどうなるかならないか､断言するための鍵があると考えるほど浅はかではありません｡間違える可能性があること､正確に客観的に調べていかなければ物事はわからないこと､事の成り行きでしかわからない場合も多いことをよく知っています｡共同体に貢献しないものを避けることができるだけで､大きな前進なのかもしれません｡」</p>
<p>アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,296p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc18">隣人愛は目的なのか手段なのか</span></h2>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>隣人愛:</strong></span>：</big>一般に､「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」という聖書の教えのこと｡</p>
</div>
<h3><span id="toc19">隣人愛とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>「隣人愛」は「人類全体の幸福」のための「手段」であり､かつ隣人愛が完全に達成されている状態は「人類全体の幸福」とほとんど等しい状態ともいえる｡したがって手段であり目的でもあるような概念だと言える｡共同体感覚を達成するために共同体感覚を高める必要があるというようなものである｡一種のトートロジー(同義反復)を感じる｡</p>
<p>レビ記19章18節には「あなたは人々という子らに仕返しをし、恨みを懐いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。」とある｡</p>
<h3><span id="toc20">アドラー心理学と隣人愛的思想の関連性について</span></h3>
<p>これは自分を愛することができるから､他人を愛することができる｡そして他人に貢献することができるというアドラーの論理とも重なってくる｡また､理想は「神(主)」のみが到達できるようなものであるが､人間はそこへ努力して発展をめざしていくべきという思想が垣間見える｡見返り主義や賞罰主義への否定も聖書に現れている｡究極の理想ではなく､自分たち独自の具体的な理想や正義､ある種の偶像を固定的に崇拝することは好ましくないとされることも似ている｡</p>
<p>もちろん宗教的にまとめられるほどアドラーの思想は単純ではない｡利他主義(隣人愛)と利己主義の間でもがき苦しみ､抜け出そうと希望の光を探しているような印象を受ける｡宗教的な話をすると複雑になるのかもしれない｡たとえば「隣人」とはなにかや､「神」の位置づけなどである｡こうした宗教的な要素を取り除いて考えていく｡</p>
<p>自己中心から脱自己中心化を目指すのがアドラーの哲学であり､<b>愛のタスクの段階では</b><b>利己心や利他心が消え</b><b>､主語が「我々」になるという</b>｡なかなか不可能ごとにみえるようなものであるが､目指していく必要があるという｡これは「あなた」と「隣人」が重なるような､あるいは私以外の全ての人類・生き物・無機物を愛するような意識である｡</p>
<p>※脱自己中心化については後ほど扱う</p>
<h3><span id="toc21">追記(2024/04/29)なかなか腑に落ちない宗教に関する雑感</span></h3>
<p>岸見さんは「改宗は何か特別な宗教的確信に基づいてなされたわけではない」というが､どうもよくわからない｡そんなにホイホイと改宗が行われるものなのだろうか｡私にはわからないし､疑いだらけである｡隠された目的があるのか｡</p>
<p>宗教的な色を付けると主張が限定的になったり、対立する宗教の人から受け入れられにくいということは容易に想定がつく｡また､特定の宗教に重きを置かないという点でも､キリスト教やユダヤ教を強調するべきではないという自制が働くことは理解できる｡ユダヤ的色彩はないといいつつも岸見さんはユダヤ教の教えを引用しているし､またキリスト教の教えも引用している｡</p>
<p>要するに､キリスト教の色彩をアドラー心理学には強く感じるのである｡もちろんそこに留まるわけではなく､できるだけそこから離れようとも､視野を広げて抽象化し､一般化されている努力が見られる｡出発点として宗教があった､ということはなんら非難されることはない｡むしろ創造の素材として大いに利用することを推奨する｡</p>
<p>デュルケムが宗教の「社会の統合力という機能」を重視し､マートンが宗教戦争等の「宗教の逆機能」を指摘したことを思い出す｡特定の宗教は毒にも薬にもなるのであり､取り扱いが危険なのである｡</p>
<p>岸見さんは宗教と哲学の違いを「物語」の有無で区別している｡そして宗教を「歩みを止めて竿の途中で飛び降りること」であり､哲学とは「永遠に歩き続けることである」としている｡これも言わんとしていることは理解できる｡</p>
<p>私のイメージではキリスト教では答えは全て「神」が知っているのに対して､哲学では「神」がいるかどうかわからない､そこに到達するかどうかもわからない､なにもわからないことがわかるというだけである｡信仰や実践によって「それ」へと歩みを永遠に進めるか､理性によって「それ」へと歩みを永遠に進めるかの違いだろう｡あるいは答えは神だけが知っている､聖書に全て書いてあるから私が考える必要はない､あるいは「神は死んだ」と足を止めるか､学問もまた理性ではなにもわからないと不可知論に至るかである｡</p>
<p>私は宗教もまた信仰や実践によって歩みを進める必要があると考える｡ルソーが「自由意志などいらぬ」と苦しんだように､日々自分が合っているかどうかわからないと感じつつも､神のみぞ知るとは思いつつも､正しいと思えるような道を歩み続けるのである｡その点では宗教も学問もほとんど等価である｡どちらも絶対的な正解など人間は知ることができず､どちらも信仰である｡どちらも「生きる態度」である｡</p>
<p>Q&amp;Aがすべて聖書に書いてあれば答えはもらうだけで済むだろうが､実際にはそうではない｡抽象的な教えが羅列してあるだけである｡これで全ての正解が書いてあるとキリスト教徒は思えているのだろうか｡自分の心と行為を内省し､自分は正しいことをしたのかどうか､これからすることは正しいことなのだろうか､毎日が疑問と是正の連続だろう｡もちろん「答えがある」と信じているという点では歩みを止めているかもしれないが､自分の行為が「答えと合っているか」､「答えをどう解釈するか」という探求の旅は止まらない｡また､「答えがあるかのように信じている」という点ではアドラーもまた一種の宗教に近づいている｡もちろんそれは取り払われるべき足場としての位置付けであり､宗教とは違うものではある｡</p>
<p>学問に価値がある､文化に知る価値があるという信仰である｡技術の発展が人類の存続にこれからも寄与していくというのも信仰である｡いつ核戦争が生じるかわからない｡人間は増えすぎたのではないだろうか｡</p>
<p>ウェーバーが「<span style="color: #0000ff;"><strong>理論はつねに誤謬を犯す可能性があるということを思い知らされたとしても、だからといって認識への努力そのものを放棄しようとは夢にも思わない</strong></span>」と言ったことが私にはどうしても心に残っている｡学問的にも宗教的にも不可知論に至ることは出来ない｡そんなものは「無責任」だからだ｡精一杯努力して､「できうる限り客観的だと思えるほどの予測」をする必要がある｡そのためには学ぶ必要があり､視野を広げる必要があり､<strong><span style="color: #ff0000;">共同体感覚を獲得する必要がある</span></strong>のである｡そうした責任感の上で大事な人達と共に生きることができるし､幸せになることができる｡</p>
<blockquote>
<p>「アドラー自身もまたアドラーの心理学もユダヤ的色彩はありません｡後には(一九〇四年)ユダヤ教からプロテスタントへ改宗しています｡しかし､この改宗は何か特別な宗教的確信に基づいてなされたわけではない､といわれています｡アドラーはユダヤ人であることについて感情的なこだわりはなかった､ということができます｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,16p</p>
<p>キーワード:宗教と哲学の違い</p>
<p>「哲人『いえ｡最大の相違点は「物語」の有無でしょう｡宗教は物語によって世界を説明する｡言うなれば神は､世界を説明する大きな物語の主人公です｡それに対して哲学は､物語を退ける｡主人公のいない､抽象の概念によって世界を説明しようとする｡…あるいは､こんなふうに考えてください｡真理の探求のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿を歩いている｡常識を疑い､自問と自答をくり返し､どこまで続くかわからない竿の上を､ひたすら歩いている｡するとときおり､暗闇の内から内なる声が聞こえてくる｡「これ以上先に進んでもなにもない､ここが真理だ」と｡…そしてある人は､内なる声に従って歩むことをやめてしまう｡竿から飛び降りてしまう｡そこに真理があるのか？わたしにはわかりません｡あるのかもしれないし､ないのかもしれない｡ただ､歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを､わたしは「宗教」と呼びます｡哲学とは､永遠に歩き続けることなのです｡そこに神がいるかどうかは､関係ありません｡』」</p>
<p>岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,29-30p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">世界に参加する意識</span></h3>
<p>また私という意識すら抜けていく「<b>我々が我々を愛する</b>」というような意識であり､こうした考えは隣人愛のさらに一歩先の気もする｡</p>
<p>我々という意識では隣という意識もないだろう｡我々とは異なる我々やあなたなどもはやいないのである｡もはや人に限定する必要すらないだろう｡ただそこには他が自である「再帰的な愛」があるといえる｡</p>
<p>そもそも他者の目で見る感覚が研ぎ澄まされれば､自分と他者の境界は曖昧になり､他者の幸せが自分の幸せとなり､両者は矛盾しなくなる｡</p>
<p>両者が調和している､世界と自分が一体となっているような状態が､アドラーにとっての理想でなはないかと私は考える｡</p>
<p>まさにバーマンがいうところの「<b>世界に参加する意識</b>」だろう｡バーマンが「『世界についてのあらゆる認識、知覚、知識にはつねに「参加」が入り込んでいることをひとたび認めれば、根底的相対主義の問題は自然に消滅するはずである』」と言っていたことを強く思い出す｡</p>
<p>参加する意識はアドラーが言う「所属感」や「共同体感覚」と強く重なる感覚である｡</p>
<p>バーマンもまた､世界に参加する意識が薄れてきた「社会的条件」を産業革命や宗教革命､科学革命などの根に探っていく点でアドラーの哲学を補強していくものとなるのだと思う｡一言で表せば「<b>世界単位のライフスタイル</b>=パラダイム」の変遷を調べるということである｡</p>
<h3><span id="toc23">死後の世界の理想(永遠の命)ではなく､現世における人類の発展</span></h3>
<p>キリスト教のように「死後の世界の理想(永遠の命)」は直接的に語られず､「現世における人類の発展」に力点が置かれている点も重要かもしれない｡キリスト教においては「<b>現世における自己犠牲は彼岸の永遠の生の手段である</b>」ともいえるので､必ずしも利他主義とは言えないだろう｡むしろその真逆の､利己主義的な側面がキリスト教にはあると私は強く感じる｡神がいなければ､来世がなければ行動に価値がないというニヒリズムにつながる道であり､アドラーはそこをも回避しようとしていたのではないだろうか｡</p>
<p>だからこそあまり熱心なキリスト教徒ではないことを強調していたのかもしれない｡そもそもアドラーはユダヤ教からプロテスタントに改宗したらしいが､プロテスタントの「決定論(救われる人は生前に決定されている)」に対する反発はなかったのだろうかと疑問に思ってしまう(プロテスタントにもいろいろと派閥はあるのでわからないが)｡</p>
<p>利他主義も行き過ぎると自分がなくなり､他者の課題に過剰に介入するようになる｡困っている人を見かけたらその人が助けを求めているかどうかを問わずに介入してしまうかもしれない｡利他主義の過剰は自己はなくなるかもしれないが強い他者は残るという点で､脱自己中心化における「我々」という感覚とは離れた「彼ら」という感覚である｡</p>
<h3><span id="toc24">完全な利他主義について</span></h3>
<p>そもそも”完全な”利他主義などが成立した例はあるのだろうか｡このことは小説家のマーク・トゥエインがよく考察していた気がする｡アドラーでさえ行動には目的が必ずあり､目的にはその個人の「善(ためになる=利益)」があると考えている｡</p>
<p>人間は基本的に利己的な生き物であり､人類の存続や発展が自分の存続や発展の「ためになる」からこそ､それらを目標にすると考えることもできる｡たとえばアリが自分たちの生殖活動よりも姉妹かなにかの生殖活動を優先するのは「自己犠牲」だと思われていたが､実は遺伝子の存続の濃さが姉妹を手伝うほうが高いというようなことを聞いたことがある(自分の子供は1/2､姉妹は3/4の濃さ)｡つまり自己犠牲に見えても､そのアリにとっての「善」だということである｡</p>
<p>岸見さんはユダヤ教の教えである「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば､いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」を引用している｡</p>
<p>他者の人生を生きるのではなく､自分の人生を生きることを強調しているのである｡アドラー心理学も「<b>隣人愛は手段であり､自分の人生を生きるために､自分が幸福だと感じるために必要なものにすぎない</b>」という思想もあるのではないかと思う｡こうした「自分のため」と「他人のため」が絶妙に合致した点に理想があるというイメージがある｡他人のためと重なっている必要性を健全に､自然に感じているような状態である｡自分だけが幸せになるために､あるいは自分を犠牲にしてという不自然さがないような､本当に平衡感覚のとれた状態である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば､いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」<br />
「哲人『ユダヤ教の教えに､こんな言葉があります｡「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば､いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と｡あなたは､あなただけの人生を生きています｡誰のために生きているのかといえば､無論あなたのためです｡そしてもし､自分のために生きていないのだとすれば､いったい誰があなたの人生を生きてくれるのでしょうか｡われわれは､究極的には「わたし」のことを考えて生きている｡そう考えてはいけない理由はありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,135p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">「自分自身が生きていきやすい社会を作るのに役立つから」という簡潔なエリスの論理</span></h3>
<p>エリスは「なぜ隣人を愛さなければいけないのか」という質問に対して､アドラーとは対照的に「<b>自分自身が生きていきやすい社会を作るのに役立つから</b>」と明確に答えるという｡隣人愛は目的ではなく､手段である｡</p>
<p>アドラーは「すべての努力は患者の<b>共同体感覚</b>を育成することに向かう」と述べ､エリスは「すべての努力は患者の<b>自己感覚</b>を育成することに向かう」と述べている｡これは結果としては同じような状態(=人類の幸福や個人の幸福)に至るかもしれないが､力点の起き方､究極的な目的の起き方の違いであるといえる｡しかしここは重大な分岐点であると考えます｡</p>
<p>エリスの考えは見方を変えれば「<b>自己執着</b>」であり､「<b>私的感覚</b>」を第一に見る姿勢にもみえる｡実際､エリスは「論理療法家は､自己感覚は共同体感覚を必要としていると信じており､…幸福を目指すラショナルな人は他者にも関心を寄せるのである。」という｡自己感覚が共同体感覚を必要とするという論理関係が重要になる｡</p>
<p>もし必要としなければ､いらないということになる｡ただし､エリスは一方で「論理療法家は(非論理的思考に巻き込まれていなければ)本来的に他者に対して支援的かつ友好的だと信じている」という｡脱自己中心化をめざすというよりは､自己をのこしたまま､他者に関心をもつというような力点が置かれている｡いわば「健全(合理的)な自己中心化」であるといえるだろう｡</p>
<h3><span id="toc26">「なるほどすべきです、しかしできません」</span></h3>
<p>人間は「人類の幸福のため」という壮大な目的を第一に生きていくことは難しい｡これはニーチェの永遠回帰やカントの定言命法､あるいはルターの「我､自由意志を欲せず」の苦しみとも重なってくる｡いわゆる「<b>なるほどすべきです、しかしできません</b>」に要約されるものである｡</p>
<p>そうした生き方は宗教的な「<b>信仰</b>」があってはじめて可能に近づくものではないか｡いわゆる価値合理的な生き方において可能になるものである｡ここで重要なのは､<b><i>我々がアドラー心理学における思想を「信仰」できるか</i></b>という点である｡結局は「<b>かのように</b>」信じることができるかにかかっているし､また信じることに足りるだけの「<b><i>実践的な目的の手段</i></b>」としてその妥当性があるか､目的合理的行為としての説得力があるかという問題になる｡</p>
<p>ファイヒンガーは「<b>自己保存の目的</b>」と述べたが､これは「<b>種</b>」とは限定されず､「<b>個</b>」であるとも考えることができる｡種を強調すればアドラーに近づき､個を強調すればエリスに近づくのだと思う｡結果が同一の場合もあれば､力点の違いによって変わる場合もありうるだろう｡力点に差異による結果の差異を厳密に検討する方法はあるのか｡</p>
<p>もちろんその調和(個と種)にアドラーの思想があるともいえる｡とはいえアドラーの場合は種の存続が第一であり､これを犠牲にする特定の個の存続などに価値はないと考えている印象が私にはある｡</p>
<p>種の存続と重なったところにのみ､個の存続と価値があるという前提がある｡日本国憲法で「公共の福祉に反しない限り」自由が許されるところと似ている｡とはいえエリスの場合も結局は「手段として種に関心を持たざるをえない」という意味で､ほとんど近いところがある｡</p>
<p>ただしエリスの力点の起き方では過剰な自己犠牲が生じにくいというメリットはあるのかもしれない｡個と種が溶け合いすぎる､つまり脱中心化が起きると動機としては自己犠牲というものはないかもしれないが､結果として自己犠牲と同じものが生じる可能性は否めない｡</p>
<p>私が犠牲になるという意識・動機はないが､結果的に犠牲になっているのである｡もちろん､全員が脱中心化されれば「結果的に犠牲になる」と意味づけする外部の人間がいなくなり､こうした「結果」は消えるのかもしれない｡</p>
<h3><span id="toc27">動態的な思想について</span></h3>
<p>アドラーは自己犠牲に警鐘を鳴らしているので､問題はそう簡単ではない｡種か個かという二択で語れるような問題ではない｡</p>
<p>しかし「<b>あなたの利益のために他者の気持ちを考えよう､社会をよくしていこう</b>」と言われたほうがすくなくとも私には響いてくる｡これは勇気づけの項目でも扱うが､我々は「出発点」として利己的になるのは健全であるが､「終着点」に利己的なものを置くのは不健全であるという点が重要になる｡</p>
<p>それゆえに､アドラー心理学は静態的ではなく､<b>動態的な思想</b>だと表現することができる｡固定的に特定の価値を志向し続けているわけではない｡</p>
<p>こうした終着点に向かっている状態では利己心も利他心もなく､「我々」が主語になるのである｡私だけ､あるいは私にとってのあなただけという視点ではなく､「我々」がある｡我々の外に他者はいない｡「<b>最終点には我々だけがある</b>」のである｡</p>
<p>これが完全な目標であり､ゴールである｡その過程に「あなたとわたし」というような恋人の「我々」があるが､そこには「我々以外の他者」も存在するのでゴールではない｡全ての他者を､そして人間以外をも内包するような「我々」が得られるような地点が終着点であり、理想点であり､極限点である｡</p>
<p>完全な三角形というものが現実にはないと考えたプラトンのイデア論と通じるものがある｡他にもアリストテレスのディスポジション論も面白い｡現実性と対置される「<b>部分可能性</b>」といわれるものであり､「現実性に移行する条件が部分的には存在するが､完全には充足されていない可能性」という意味である｡ある意味では共同体感覚もディスポジション的だと言える｡そうした人間の素質を信じるかどうかがアドラー心理学では重要になる｡<b>アドラーは人間の素質を信じている</b>｡</p>
<h3><span id="toc28">論理の前後にすぎないのか､それ以上のものがあるのか</span></h3>
<p>利己心に基づいた思想は「利益がないのなら社会のことなんて考えなくていい」という賞罰的な､見返り思想にも聞こえる｡</p>
<p>しかし結局は社会のことを全く考えずに自己の利益を獲得することは困難であるという事実を認める点で単なる利己主義や見返り思想ではないともいえる｡「社会のことを考えざるをえない､人類の存続や幸福へと貢献せざるをえない」という結果は同じだからである｡これは神の見えざる手とも関連するのかもしれない｡利己心に基づいた結果､結局は他者に利することになる｡</p>
<p>しかし究極的な話として、エリスのような私的感覚第一の考え方は､自分独りの死か他の人類全員の死かを問われたときに「他の人類全員の死」を選ぶ思想だともいえる｡</p>
<p>自分が死んでしまうというのは目的からして本末転倒だからである｡しかし「<b>そんな生き方は幸せなのか</b>」という声も刺さるものがある｡独りで悲しみに暮れて残りの人生を生きることは本当に幸福だと言えるのか｡少なくともわたしはそんな人生を幸せだと感じることができない｡他の人類がいない生を送ってまで自分の生の価値を信じるほど人間は強い生き物なのか｡こうした極論を離れ､では「ある国の人びとだけの犠牲ならばどうか」という話はより現実味を帯びてきてしまう｡</p>
<p>いったい「正義」とはなにかという問題に話がつながっていってしまう｡私とは､あるいは我々に含まれていない「彼ら」を支配してもいい､攻撃してもいい､それは「(特定の)我々」のためだという発想にもつながっていくのかもしれない｡その特定の我々は､私の利になる我々という射程に限られる｡私の生存の不利になる彼らの射程は含まれない｡有利・不利を簡単に分析することはできないが､現実の人間は判断するからこそ戦争が生じるのである｡</p>
<p>私的感覚が「個の存続の長さ」を優先するか､「個の存続の質」を優先するかにもよるのかもしれない｡私がそうしたいから､人類を優先するのである｡私がそうしたいから､人類を犠牲にするのである｡</p>
<p>同じような論理かもしれない｡こうした話は極論だ｡しかし大きな選択をしなければいけないときが人生にはくるかもしれない｡</p>
<h3><span id="toc29">追記(2024/04/29):卵が先か鶏が先か</span></h3>
<p>論理の前後にすぎないのか､という問題は社会システム論の「卵が先か鶏が先か」を思い出さずにいられない｡これは「個人が先か人類が先か」という問題として捉えることができる｡もしどちらを優先しても結果が人類の発展､維持､幸福に繋がるならば､等価ならばその前後を明らかにする必要性はない｡</p>
<p>しかしもし結果が異なるのならば､真剣に考える必要がある｡これは客観的な因果関係の先後と言うより､実践的､倫理的､治療的な意義がどちらが高いかである｡</p>
<h2><span id="toc30">私たちどこから来てどこへ行くのか</span></h2>
<h3><span id="toc31">宇宙は生命の維持に関心をもっているか</span></h3>
<p>ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という作品のタイトルからとっている｡</p>
<p>アドラーは「人類の成長という最終目標を思い描こうと､さまざまな試みがなされてきました」と述べているが､「<b>どの道が唯一の正しい道なのか､わたしたちは知らない</b>」とも述べている｡</p>
<p>また､「<b>宇宙が生命の維持に関心をもっているはずだという考えは､ほとんど敬虔な願いでしかない</b>」とも述べている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:わたしたちは知らない､敬虔な願いでしかない,呪物</p>
<p>「こうして考えてみると､もう１つのことがわかります｡どの道が唯一の正しい道なのか､わたしたちは知らないのです｡人類の成長という最終目標を思い描こうと､さまざまな試みがなされてきました｡宇宙が生命の維持に関心をもっているはずだという考えは､ほとんど敬虔な願いでしかありません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,288p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">人生の意味について</span></h3>
<p>どんな目的や意味をもって人間がこの地球に生まれたのか､そして生きていくのか「私たちは知らないし知ることはできない」ということになる｡これは「理性によって」という留保がつくかどうかは直接的に言及されていない｡とはいえカントの純粋理性批判と重なるものがあるのだろう｡</p>
<p>アドラーは「<b>一般的な</b><b>人生の意味はない</b>」とまで述べている｡「<b>人生の意味はわれわれが創り出すものだ</b>」という趣旨らしい｡</p>
<p>追記(2024年4月30日):たとえば流産したような子ども､幼くして死んだ子どもの「人生の意味」とはなにか､という問題はドストエフスキーの作品に通底するものがある｡あるいはキリスト教の決定論である｡これは神への疑い密接につながる問題である｡別の宗教なら前世の罪､業だとかいうかもしれない｡</p>
<p>人類の成長とは､「人類全体の幸福を促す」ということだろう｡</p>
<p>アドラーは今までの歴史上の試みとして「呪術」や「宗教」などの「神」に当たるものを挙げている｡世界中の宗教や呪術に共通的なものとして「完全」という要素がある｡おそらくはここに「科学」などの試みも入ってくるのだろう｡</p>
<p>「宇宙が生命の維持に関心をもっているはずだ」という考えは､「我々生命は維持する価値がある､なぜなら宇宙はそれを望んでいるからだ」というような考えと通底している｡</p>
<p>しかしそんなものはこの宇宙を創ったものしかわからず､創ったものも知っているかわからず､また創ったものが存在するかどうかもわからない｡これはカントの理性の限界やマートンの目的論的機能主義への批判とも通じるところがある｡我々は「敬虔な願い」､つまり「<b>信仰</b>」することしかできない｡そんなものは科学ではない､と｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:人生の意味<br />
「哲人『人生の意味とはなにか？人はなんのために生きるのか？ある人からこの質問を向けられたとき､アドラーの答えは「一般的な人生の意味はない」というものでした｡…たとえば戦禍や天災のように､われわれの住む世界には､理不尽な出来事が隣り合わせで存在しています｡戦渦に巻き込まれて命を落とした子どもたちをまえに､「人生の意味」など語れるはずもありません｡つまり､人生には一般論として語れるような意味は存在しないのです｡しかし､そうした不条理なる悲劇を前にしながら､なにも行動を起こさないのは､起こった悲劇を肯定しているのと同じでしょう｡どんな状況であれ､われわれはなんらかの行動を起こさねばなりません｡カントのいう傾向性に立ち向かわねばなりません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,278p<br />
「哲人『そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと､こう続けています｡「人生の意味は､あなたが自分自身に与えるものだ」と｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,278p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">「完全という目標」へと向かってきた歴史について</span></h3>
<p>(１)今まで人間は「完全という目標」を思い浮かべ､またそれらの目標へ向かって努力してきた｡</p>
<p>宗教や呪術､いわゆる「神」で象徴することが近代までは多かった｡現代ではウェーバーが「<b>脱呪術化</b>」と述べたように､「科学」で象徴されることがある｡しかしその科学もどうやら怪しいかもしれない｡あるいはマルクス主義のような「政治思想」で象徴されることもあった｡実際にアドラーは社会主義による変革に興味があったという点も重要だろう(やがて失望し､教育へと力点は変わったが)｡</p>
<p>(２)「完全という目標」を具体的に思い浮かべるのはほとんど不可能であり､抽象的､理想的に思い浮かべることのできるものである｡</p>
<p>むしろ具体的な形で思い浮かべることは危険だとアドラーは考えているニュアンスがある｡例えば共産主義だけが､あるいは資本主義だけが世界を善くする目標を我々に提供してくれる､キリスト教だけが､イスラム教だけが､〇〇教だけが､と具体的に考えれば考えるほど「<b>他の価値観をもつ人々への蔑視や支配</b>」になりかねない｡</p>
<p>具体化は「縦の関係」を生み出しかねない｡宗教が共同体の維持に逆機能的でありうることは社会学者のマートンも述べていた｡宮沢賢治が個別的な愛もナショナリズムも避けていたことに通底するものがあるかもしれない｡</p>
<p>現代においても宗教戦争は続いているし､人が死んでいる｡そんな戦争が続く世界で我々は我々を仲間だと思うことができるのか｡そんな壮大な話は私と無縁であると考えているあなたも､愛するものを失ったときに「あなたが居ない人生は生きる意味がない､私には価値がない」と思うかもしれない｡具体的に思い浮かべれば思い浮かべるほど､それを失うことを極端に恐れ､それだけが正しいと過剰に信じるようになる｡</p>
<p>(３)「完全という目標」へ至る道､手段についてもなにが正しい道なのか我々は知ることができない｡</p>
<p>宗教かもしれないし､経済かもしれないし､科学かもしれないし､心理学かもしれない｡あるいはそれら全体かもしれないし､一部が除かれるかもしれない｡ある時代ごとにそれぞれ適したものがあるかもしれないし､全ての時代に適したものがあるかもしれない｡</p>
<p>我々ができることは､できるだけ具体化せずに､抽象的､理想的､包括的な「方向」を言及することであるといえる｡これは「バランスよく望ましい方向に進めば､バランスよく望ましい方向に進むことができる」というような一種の何も言っていないトートロジーになりかねない｡しかしそのトートロジーゆえに「実践的意義」があるのかもしれない｡</p>
<p>(４)「なにが正しい道なのか我々は知ることができない」が､アドラーは人類が「共同体感覚」をもつことが人類の幸福へつながると<b>信じている</b>｡そして人間にはそうしたことが可能だと､能力があると､選択することができると<b>信じている</b>｡</p>
<p>我々は「共同体感覚を伴って生きるべきだ」と<b>価値判断</b>を行っている｡それゆえに､共同体感覚は「哲学」であり､「思想」なのである｡しかし空疎で非実践的､思弁的な思想ではなく､社会問題や個人の問題に目を向けた実践的で現実を直視している思想だという｡事実だけを見て世界が良くなるのならそれでいい｡しかし実際にはそうではないのだろう｡まさに今この瞬間に苦しんでいる人を救う実践的な考えが必要とされている｡</p>
<p>その実践的な道としてアドラーは「<b>教育</b>」を重視し､可能性を見いだしている｡</p>
<p>また､教育のあり方も変動的なものであり､時代によって価値観は代わり､適切な教育のあり方も変動していく｡理想はあくまでも理想である｡一方､我々は常に現実と直面している｡それゆえに､完全とまではいかないまでも､より完全に近いと信じることができる目的､手段の系列をとることが重要になる｡岸見さんが「我々はアドラーの思想を大切にするからこそ､それを更新していかなければならない｡原理主義者になってはならない｡これは､あたらしい時代に生きる人間に託された､使命なのです」と強調していることとも通底する｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:呪物､神､宗教</p>
<p>「しかしこの考えは､宗教､道徳､倫理で､人類全体の幸福を促す強力な原動力として使うことができるもので､実際にそのように使われてきました｡呪物(訳注:呪物崇拝｡木や石などの自然物や人工物を崇拝すること)やトカゲの崇拝､先史での性器崇拝も､科学的に見れば正当とは思えません｡けれど､この原始的な世界観がどれほど人類の共生や共同体感覚を促してきたかを見落としてはいけません｡同じ宗教に熱中する者は兄弟､清浄と見なされ､部族の多くは保護を受けていました｡こうした人類の理想的な誘導で得られた最高の概念が､神です｡…ひとを律する宗教的な目標を打ち立てるのに役立ち､人間同士のつながりを作った根源的な力は､進化の成果と見るべき共同体感覚の力､進化の流れのなかで上を目指す追求の力にほかなりません｡もちろん､完全という目標を象徴的に表そうとする人間の試みは無数にあります｡」</p>
<p>アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,288p<br />
メモ:現代における宗教と､宗教の代わりに機能しているものとは</p>
<p>キーワード:更新</p>
<p>「哲人『現実を無視しているのはあなたです｡「なにが与えられているか」に執着して､現実が変わりますか？あわれわれは交換可能な機会ではありません｡われわれに必要なのは交換ではなく､更新なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,45p</p>
<p>キーワード:更新していかなければならない<br />
「哲人『われわれは､永久不変の聖典を手にする宗教者ではありません｡そしてアドラーは不可侵の教祖ではなく､われわれと同じ地平に存在した､ひとりの哲学者です｡…時は流れます｡あたらしい技術が生まれ､あたらしい関係が生まれ､あたらしい悩みが生まれます｡人びとのコモンセンスは時代にあわせてゆっくりと変化していきます｡われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ､それを更新していかなければならない｡原理主義者になってはならない｡これは､あたらしい時代に生きる人間に託された､使命なのです』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,276p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc34">個人の幸福について</span></h2>
<h3><span id="toc35">(１)過剰な自己犠牲(過剰な共通感覚)</span></h3>
<p>まず大前提として､個人には自己保存の欲求や安全の欲求､優越性､劣等感などさまざまな先天的な要素がある｡</p>
<p>個人がまずは個人の幸福を目的にする､という視点をとってみる｡そしてその手段として人類の幸福を位置づける｡重要なのは「部分である個人」と「全体である人類」は重なりうるという点である｡部分は全体の中に含まれるのであり､人類の幸福は個人の幸福でもある｡この重なりのセンスが共同体感覚ともいえるバランス・調和のセンスなのかもしれない｡</p>
<p>たとえばある個人やある集団が極端に不幸にならなければ人類が幸福にならないというケースを考えてみる｡こうしたケースは個人が被る不幸の程度のほうが全体の幸福に由来する個人の幸福の程度よりも大きいケースだと仮定する｡</p>
<p>こうした場合は「感情な自己犠牲(過剰な他者貢献)」のケースになり､アドラーが警鐘を鳴らす､<b>「</b><b>過剰に社会化された個人</b>」だといえる｡バランス感覚を失っている｡アドラーは不適切だと考えるだろう｡自己犠牲も程度があり､共通の課題として少しくらいなら自己を犠牲にすることもありえるバランスの問題だといえる｡</p>
<p>自分の価値は大したことがないと考え､他の人の価値だけを正しいと考える場合は自己犠牲の極端なケースだと考える｡このケースは勇気づけの項目で扱う「メサイアコンプレックス」に通じているといもいえる｡つまり､根底には自己の不幸せがあり､他者への自己犠牲で埋め合わせをしようとしているケースである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自己犠牲</p>
<p>「哲人『他者貢献が意味するところは､自己犠牲ではありません｡むしろアドラーは､他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを､「社会に過度に適応した人」であるとして､警鐘を鳴らしているくらいです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,238p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">(２)過剰な他者犠牲(過剰な私的感覚)</span></h3>
<p>自分の幸福だけを過剰に考え､その過程で他者を支配すること､他の人間を犠牲にすること､支配すること､強制すること､傷つけることを厭わない､共同体感覚の欠片もないケース｡</p>
<p>自己中心的､自己執着的､私的感覚が過剰なケース｡自分だけの価値観だけが正しいと考え､他の価値観を認めないケース｡</p>
<p>このケースもアドラーは不適切だと考えるだろう｡</p>
<h3><span id="toc37">(３)共同体感覚が伴っている理想のケース</span></h3>
<p>このケースでは過剰な自己犠牲にも､過剰な他者犠牲にも傾かず､バランスをとっている｡そのバランスの取り方は時代ごと､文化ごとに異なる｡</p>
<p>バランスの取り方の正解というものを知ることは難しいが､そうした「正解のバランス」がある<b>かのように</b>､正解を目指してトライアンドエラー(試行錯誤)をしていく姿勢である｡私的感覚(利己心的)と共通感覚(利他心的)のバランスをとっている､あるいはそれらを超えた感覚を共同体感覚として暫定的にわたしは位置づけておく｡</p>
<h3><span id="toc38">「共同体感覚が過剰」という言葉はあまり意味がない</span></h3>
<p>そもそも過剰とはバランスがとれていない状態をさしており､形容矛盾的であると私は考える｡</p>
<p>共同体感覚は「完全」の状態であり､完璧にバランスがとれている架空の､虚構の､仮想の､理想の状態である｡それゆえに過剰になることはない｡過剰になるとしたら「共通感覚」のほうだろう｡たとえばある特定の共通感覚を過剰に重視しすぎて他国と「戦争」をする場合などもこのケースなのかもしれない｡あらゆる特定の共通感覚を超えた､あるいはあらゆる共通感覚を内包したものが共同体感覚のイメージになるのかもしれない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/90db330ee1d93d5d51a8320c34782c75.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3606" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/90db330ee1d93d5d51a8320c34782c75.jpg" alt="" width="432" height="656" /></a></p>
<p>あえていうならば「共通感覚(コモンセンス)」が過剰であると自己犠牲になり､「私的感覚(プライベートセンス)」が過剰であると他者犠牲となるといえる｡少なくともわたしはそのように理解している｡普通家族では､普通学校では､普通この国では､普通あの国では・・・というように多種多様な､無限に思える「特定の範囲の共通感覚」がある｡そうしたものを超越したバランスを保った､理想的な､矛盾を乗り越えた視点が「共同体感覚」であると考える｡</p>
<p>我々はそうした理想を目指しながら､どこかマイナスはないか､バランスは崩れていないかと考えながらそれらをプラスに変え､努力していく必要がある｡無限の軌道修正の道だと言える｡右へ左へと揺れていく綱渡りのようなものなのかもしれない｡</p>
<p>ただし､その修正があっているかのように､進んでいくことになる｡そもそも修正は人間が生きている時点ではわからないことが多い｡</p>
<h3><span id="toc39">決断主義と責任主義</span></h3>
<p>歴史は長期間のスパンでわかることであり､「結果的によかった､悪かった」といえることが多い｡核爆弾は一時的に過剰な戦争を食い止めているかもしれないが､いつか核戦争によってより悲惨な結果を生むかもしれない｡遺伝子組換えや環境破壊も同様になる｡</p>
<p>しかし､だからといって「長期的にしかわからない」と不可知論者になるのは無責任であると考える｡できうる限りその次代ごとの自らの持てる知識､及び周囲の人達との協力によって無限の先とは言わないまでも中長期的な未来の具体的な､客観的可能性(シャンス)を掴もうとする努力を怠ってはならない｡そこまで努力してはじめて貢献感が､幸せがつかめるものだと考える｡博打打ちのような「<b>決断主義</b>(よく調べてないが､私はこれが正しい道だと考えることに決めた！というニュアンス)」へと勇み足を進める必要はない｡良心と知性と心が責任をもって取り組む「<b>責任主義</b>」に私は重きを置く｡</p>
<h3><span id="toc40">まずはできることからする</span></h3>
<p>岸見さんは「<b>目の前にいるこの人を離れて､共同体や人類というものをさしあたって想定しないでおこう</b>」と考えているらしい｡これはきわめて重要な指摘である｡</p>
<p>理想や普遍的思想ばかりを追い求めて目の前の具体的な問題から逃げる場合も同様のことが指摘されるのだろう｡抽象理論にかまけて具体的な実証を疎かにする場合も通底するものがある｡いきなり「人類や宇宙」という規模が大きい共同体をもちだすのではなく､まずは目の前にいる子どもや近所の人への貢献、勇気づけ､援助からはじめるといいという｡</p>
<p>そうしていくうちに､より大きな共同体への所属感や貢献感を持ててくるようになるという｡これは「順序」の問題であるともいえる｡</p>
<p>１:「人類全体の幸福に貢献すること」が「自分の幸福」と最終的にはつながってくると「主観的に感じる」ことが重要になるのだと考える｡</p>
<p>２:人類全体にはステップがあり､家族や友人､近所の人達､職場の人達､見ず知らずの困っている同国の人びと､外国の人びと､人間以外の生物､生物以外の全て､宇宙全体というようにすこしずつ段階を上げていけば良いという話だろう｡「宇宙全体を愛するなんて無理だ､だから目の前の人を勇気づける必要はない､時間の無駄だ」という「言い訳」に使うパターンが一番よくない｡</p>
<p>ここでもM・ウェーバーの言葉を私は思い出す｡私はウェーバーの倫理的な空気が好きで学問が好きになったのかもしれない｡ウェーバーの時代では「現実のかわりに理想を求めた青年たち」が仕事を放棄し新興宗教に走っていた時代でもあった｡あれこれと完全な理想や正解をただ欲しがり､与えられることを待つのはもう､やめにしよう｡今・この瞬間にできること､他者に与えること､今他者に貢献できることをしていこう｡</p>
<p>「…いたずらに待ちこがれることだけではなにごともなされないという教訓を引き出そう､そしてこうした態度を改めて､自分の仕事に就き、そして『日々の欲求』に──人間関係のうえでもまた職業のうえでも──従おう。(『職業としての学問』74P)」</p>
<blockquote>
<p>キーワード:最初の一歩<br />
「哲人『アドラーの共同体感覚も同じです｡世界平和のためになにかをするのではなく､まずは目の前の人に､信頼を寄せる｡目の前の人と､仲間になる｡そうした日々の、ちいさな信頼の積み重ねが､いつか国家間の争いさえもなくしていくのです｡…いいも悪いも､そこからはじめるしかないのです｡世界から争いをなくしたければ､まず自分自身が争いから解放されなければならない｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,216p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc41">ファイヒンガーの「かのように哲学」</span></h2>
<h3><span id="toc42">ファイヒンガーの「かのように哲学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>かのように哲学(虚構論､仮想論)</strong></span>：</big>事実ではない仮定を事実であるかのように扱う哲学のこと｡すべての概念が擬制であり､虚構であると考えること｡</p>
</div>
<p>ドイツの哲学者である､ファイヒンガー(Hans Vaihinger,1852-1933)がカントに影響を受けて考えた哲学のこと｡</p>
<h3><span id="toc43">擬制とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>擬制</strong></span>：</big>ある実践的な目的のために、事実と合致しない仮定を意識的に立てること｡事実でない､あるいは未だ事実だと確認されていない仮定を事実であるかのように扱うこと｡学問の領域では方法論的な手段として用いられることがあるという｡</p>
</div>
<p>・ファイヒンガーによれば「思考は自己保存のための１つの道具､手段」であるという｡そして擬制はそうした思考の補助作用であるという｡擬制によって作られた「概念」は我々を方向づけるための合目的的な道具であるという｡たとえばカントの「物自体」や幾何学や数学における諸概念もそれらに入るという｡それゆえに､デューイのプラグマティズムに通じるものがあるといわれている｡</p>
<p>ただし､ファイヒンガーの場合はある概念が理論的に誤りであったとしても､<b>実践的に有用であれば理論的な偽が承認される</b>という｡</p>
<p>一方､プラグマティズムの場合は有用であると認められる概念(観念)は理論的にも真であるという違いがある｡</p>
<p>追記(2024/04/30):ウェーバーの理念型もある種の擬制であると考える｡であるとすれば、社会学においても擬制は強力なツールであるといえる｡というより､特に社会学では頼らざるをえないツールである｡なぜならば自然科学のような実験がきわめて困難だからである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:擬制</p>
<p>「擬制とは、或る実践的な目的のために、事実と合致しない仮定を意識的に立てることである。したがって、擬制されるものが事実でないこと、しかも事実でないことが当事者によって意識されている点で、当事者の一方がそれを意識していない「嘘」と異なる。擬制は、事実でない仮定を事実であるかのように扱うのである」<br />
小西 美典「法における擬制」,163p<br />
「PhilosophischenBegriffe.によれば、擬制とは、創作においては、虚構・作り事を意味し、それは実際生活における意識的な欺瞞によって立てられる、現実と合致しない仮定Annahmeであり、学問の領域においては、方法豹な手段として、正当な結果を得または、それ以外に解決不可熊な問題を解決し、あるいは実践的な目的に到達するために、意識約に、矛盾した仮定または事実でないところの仮定を立てることである」<br />
小西 美典「法における擬制」,165p</p>
<p>「このような意味での擬制を徹底して主張したのは、ファイヒンガーである。彼は、カントの構成主義的な認識論の立場に立っているが、カントの先験的主観を擬制であるとみなして、それに基づいて構成される概念をすべて擬制であると考えた。彼によれば、思考は、自己保存のための一つの道具であり、論理は、そのような思考の工学TechnologiedesDenkensであって、いずれも人間の目的活動=実践のための手段である。擬制は、かかる思考の技巧および補助作用として生ずる。ファイヒンガーは、概念の世界はすべてわれわれを方向づけるための合目的的な道具であるとして、A・スミスの経済入、リンネの植物体系、平均人、ゲーテの原生植物、T・モアのユートピアやプラトンのイデア、自由、数学上の諸基本概念、原子のほかカントの物自体等々を擬制であるとしている。このようにすべての概念が擬制であるという考え方には批判の余地ぶあるように思われるが、擬制の実践的性格を指摘している点では、われわれに示唆するところが多い。」<br />
小西 美典「法における擬制」,163-164p</p>
<p>「ファイヒンガーは、理論と実践とを区別し、擬制が実践上有用であるために理論上誤まりであっても許容されると考えているのに、具体的な事実からの抽象概念をも擬制であるというのは理解できない。なるほど、「平均人」なる者は現実には存在しないし、そのことに意識されている。しかし、それは理論上の方法論的仮設であって実銭的・道具概念としての擬制と異なるものであると思われる」<br />
小西 美典「法における擬制」,166p</p>
<p>キーワード:プラグマティズム</p>
<p>「ファイヒンガーが、「自己保存のため」というような生物的な目的を立て、この目的に適うような仮定を立てることは、環境に対する生物の適応が経験であると考えるプラグマティズムの一般的な特色に通ずるものがあるように思われるし、概念を道具であると考えることも、プラグマティストたるデェーイと同様である。しかし、それぞれの真理観は、同じではないように思われる。プラグマティズムと呼ばれるものは、立場によってその説くところが等しくないが、その真理観は、「実際に有用であると認められる観念は、それ故に理論的にも真である」、というのに対し、擬制においては、「観念が理論的に誤まりであっても、それが実践的に有用であるから、理論的な虚偽が承認される」、すなわち、擬制においては、実際に有用であると認められる観念が必らずしも真であるとは認められない、という点で原理上の対立があるように思われる。」<br />
小西 美典「法における擬制」,166p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">「擬制」と「仮設」は違う概念</span></h3>
<p>擬制が「実践的目的の観点からの仮定」であるのに対して､仮設は「立てられた仮定が事実であることを志向し、それが真であることの検証がなされることを前提」としているという｡</p>
<p>仮設においては可能性や蓋然性(確実性)の度合いが重視されるのに対して､擬制の場合は「<b>実践的に妥当かどうか</b>」が重視される｡</p>
<p>仮設は最終的に確定されることを予期するのに対して､擬制の場合は補助手段であり､回り道であり､<b>取り払われるべき足場</b>であるという｡なかなかおもしろい話だ。</p>
<p>補助輪のまま我々は安定しているかのように感じつつ､とりあえず一歩一歩進んでいくのである｡</p>
<p>我々は何処からか来た｡そしてどうやら「ゴール」があるかのように､そこへ向かっているかのように進んでいく｡</p>
<p>終わりのない出口よりも､終わりのある､トンネルの出口の光を目指して行くほうが心地が良い｡哲学や思想とは一種の光なのかもしれない｡光なしで暗闇を歩き続けられるほど人間は強い生き物ではない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:取り払われるべき足場</p>
<p>「ところで、擬制と類似した概念として、仮設Hypotheseおよび類推Analogieがある。仮設は、擬制と同じく、現実に存在しない事柄をあたかも存在するかのように仮定する。しかし、擬制が実践的目的の観点からの仮定であるのに対し、仮設においては、立てられた仮定が事実であることを志向し、それが真であることの検証がなされることを前提としている。それゆえに、仮設が立てられるばあいには、等しく可能性を有するものがあれば、その中から蓋然性をもったものが仮設として選択される。これに対して、擬制においては真偽は問題とされず、等しく可能性を有するものの中から便宜なものが選訳されるのであって、選択されたものが実践的に妥当なものであるか否かがもっぱら問題となる。フアイヒンガーによれば、「仮設は、因果律の帰結によって立てられなければならない」し、仮設と擬劇との「両者の本来的な差異は、仮設が将来最終的に確定されることを予期するのに対して、擬制は単なる補助手段であう、廻り道であって、取払われるべき足場である」」<br />
小西 美典「法における擬制」,164p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc45">アドラーと「かのように哲学」の関連</span></h3>
<p>アドラーの提唱した思想はファイヒンガーの「かのように哲学」に基づいていると野田俊作さんはいう｡たしかに似ている気がする｡</p>
<p>重要なのはファイヒンガーの「擬制」という考え方である｡アドラーで言う擬制は「共同体感覚」である｡つまり､共同体感覚は虚構であり､仮想であり､経験的には確認されていない､事実とは断言できないものである｡しかし､事実であるかのように扱う､事実であるかのように目指すという考えである｡</p>
<p>追記(2024/04/30):アドラーは自分の共同体感覚(完全という目標)について､<strong>到達できない理想</strong>だと認めているらしい｡これは事実ではない､現実にありうるものではないことを認めつつ､しかしある<strong>かのように</strong>目指す､努力するということにつながっていく｡</p>
<p>共同体感覚は「実践的な目的」のために使用される｡ファイヒンガーの場合は「自己保存」にある｡アドラーも自己保存や確保の原理について言及している｡煎じ詰めて言えば､<b>自分の幸せのためにプラスだから､あるいは人類全体の幸せのためにプラスだから､完全な目標があるかのように扱うことは承認される</b>ということになる｡</p>
<p>事実として確認されず､また仮設(仮説)でもない「擬制」という概念は形而上学的であり､哲学であり､思想であり､科学とはいえない｡しかし<b>人類や個人の幸せにプラスするならば使っていこう</b>､というわけである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:到達できない理想<br />
「哲人『アドラー自身､自らの語る共同体について「到達できない理想」だと認めているくらいです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,180p</p>
<p>キーワード:かのように哲学=仮想論</p>
<p>「アドラーの提唱した共同体感覚という思想は、Ｈ・ファイヒンガーの唱える「かのように哲学」（仮想論）にも基づいていると考えられ、特定の理想を奉じるユートピア主義ではありません。」</p>
<p>出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">自由意志について</span></h3>
<p>ファイヒンガーは「<b>自由意志</b>」についても同様に擬制として考えている｡つまり､自由意志があるかのように考えてるわけである｡そうすることで人生は自分の意志で変えられる､というプラスの効果がある｡実際には決定論が仮に事実であったとしても､事実ではないように扱うのである｡</p>
<p>自由意志の有無の問題については現代でも論争がある大きなテーマである｡科学では事実として自由意志はない(ファンタジー)という意見もあるそうだ｡しかし､かのように哲学ではどちらにせよあるかのように扱うことになる｡</p>
<p>追記(2024/04/30):このあたりにハイデガーやサルトルを絡ませれば面白そうになる｡投企する人間像(自分のあり方を創造する､選択する)である｡</p>
<h3><span id="toc47">共同体感覚は形而上学的である</span></h3>
<p>・アドラーは「共同体感覚」について「直接経験して知っているわけではありません」と認めている｡</p>
<p>・さらに､「共同体感覚を形而上学的だと感じる人は正しい」と認めている｡</p>
<p>認めることは重要です｡事実ではないのに事実だと「嘘」をつくのは「かのように哲学」ではないからだ｡あくまでも「<b>事実かのように意識的､積極的にとらえていくことの実践的意義</b>」が強調される｡この「足場」を意識した使い方はマートンの動画で扱ったベイトソンの「<b>緩い思考</b>」と似ている｡</p>
<p>また､アドラーは「<b>直接把握できないものを人間の人生から排除しようとしているのです｡そんなふうに考えてしまっては､成長の可能性も､どんな新しい思想も生まれなくなるでしょう｡あらゆる新しいアイデアは､直接の経験の向こうにあります｡直接の新しい経験だけでは新しいものを生み出しません｡事実を結びつける包括的なアイデアがあってはじめて､新しいものが生まれます｡これを思弁的､超越論的と言うこともできるでしょう｡しかし､形而上学に通じない学問などありません｡わたしには､形而上学を恐れる理由は見当たりません｡形而上学は人間の生活や成長に大きく影響を与えてきたのです｡</b>」と述べている｡</p>
<p>これは心に刺さる言葉である｡M・ウェーバーの「矛盾を乗り越えるのは不可能ごとのように思えるが、不可能ごとにアタックしないようではなにごとをもなしえない」という言葉を思い出す｡創造においてこのような「挑戦」はとても重要である｡創造もまた､把握できないものを捉えようとあらゆるものを関連付け､なんとか「秩序」のような光を探っていく､あるいは形を掘り出していく作業に似ている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:形而上学</p>
<p>「共同体感覚とは､人類が完全という目標に到達したときに考えられるような『永遠』にふさわしい形の共同体を追求するということです｡けっして､いま現在の共同体や社会とか､政治的・宗教的な形式のことを言っているわけではありません｡『完全』にもっともふさわしい目標とは､人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就を意味する目標です｡どうしてそれがわたしにわかるのか､疑問に思う人ももちろんいるでしょう｡確かに､わたしは直接経験して知っているわけではありません｡個人心理学や形而上学(訳注:経験を超えた世界を思惟や直観で探求する学問)的だと感じるひとが正しいことも認めます｡それを褒めるひともいれば､批判する人もいます｡残念ながら多くのひとは形而上学を誤ってとらえています｡直接把握できないものを人間の人生から排除しようとしているのです｡そんなふうに考えてしまっては､成長の可能性も､どんな新しい<br />
は見当たりません｡形而上学は人間の生活や成長に大きく影響を与えてきたのです｡私たちは絶対の心理には恵まれて今円｡だからこそ､自分たちの未来､自分たちの行為の結果などについて考えるほかないのです｡わたしたちの考える共同体感覚は､人類の最終形であり､人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態でもあります｡ひとを律する理想で､方向を与える目標です｡この完全という目標には､理想の共同体という目標が含まれてなければいけません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,291-292p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">共同体感覚をなぜ実存のものに限定しないのか</span></h3>
<p>１:共同体感覚(=完全な目標､最終地点)が「かのように哲学」のように仮想のもの､虚構のもの､極限ではないものと仮定する｡</p>
<p>２:そうすると､現実に､具体的な共同体感覚があると仮定されることになる｡</p>
<p>たとえば〇〇主義の理想がまさに本物の唯一の共同体感覚の実体であるだとか､〇〇宗教の理想が､〇〇の共同体で信じられている理想だけが…というように共同体感覚が具体化され､凝り固まってしまう｡</p>
<p>ウェーバーやパーソンズ､ベイトソンなどが気をつけていた「<b>具体性置き違えの誤謬</b>」になる｡それぞれの共同体がそれぞれの考えを固定的な真理だと思い出すと､争いが生じ､お互いが敵に見えてしまう｡敵に見えてくると相手を疑い､見下し､疑われ､見下され､不安になり､不満になってしまう｡不安を満たそうと相手を傷つけたり､自分を傷つけることになる｡</p>
<p>３:それゆえに､共同体感覚は経験的に確認できるものではなく､まるである「かのように」考えていく必要がある｡いかなる具体的な形で象徴される共同体感覚がどのような形で妥当であり､またその妥当性が信仰されようとも､絶対視しない｡</p>
<p>具体的なものはその場ではなんらかの貢献をしているかもしれないが､しかし永続的・絶対的・固定的なものではなく､時代や場所が変わるにつれてやがては取り払われるべき足場だと考える｡とはいえ､パーソンズの行為理論のように抽象的すぎても使い勝手がない｡具体的すぎると汎用性がない｡やはりその間の中範囲の理論をコツコツと積み上げるというマートンの主張が私にはしっくりとくる｡</p>
<p>ここでも私はウェーバーの言葉を思い出します｡</p>
<p>「しかし、いつか色彩が変わる。無反省に利用された観点の意義が不確かとなり、道が薄暮れのなかに見失われる。大いなる文化問題が、さらに明るみに引き出されてくる。そのとき、科学もまた、その立場と概念装置とを添えて、思想の高みから事象の流れを見渡そうと身構える。科学は、ただそれのみが研究に意味と方向とを示せる星座を目指して、歩みを進める。」マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」149-150P</p>
<p>おすすめ記事:<a href="https://souzouhou.com/2017/11/23/%e3%80%8c%e8%87%aa%e6%88%91%e3%81%ae%e8%b5%b7%e5%8e%9f%e3%80%8d%e8%a6%81%e7%b4%84/">「自我の起原」要約</a></p>
<p>宮沢賢治がなぜナショナリズムや恋愛を重視しなかったのか､というヒントになる</p>
<h3><span id="toc49">幸せと「かのように哲学」</span></h3>
<p>まず､人間は「幸せ」か「不幸」かのどちらかである｡人類全体が幸福かどうかは正直はっきりはわからない｡しかし自分(個人)が幸せかどうかは自分でわかるはずである｡</p>
<p>自分が「不幸」だと感じているならば､我々は自分の「ライフスタイル」を変えていくべきであり､変わることができる｡そして適切に変えることで､我々は「幸せ」になることができる｡</p>
<p>しかしそんな事が可能なのか｡自由意志などあるのか｡共同体感覚などあるのか｡そうした諸疑問は生じうる｡そしてそれがあると科学的に､客観的真理として提示することはほとんど不可能であると考える｡</p>
<p>そもそも現象学の立場をとると､あらゆる客観的真理という概念は背理である｡しかしフッサールは「より本質的なもの」を探求することはできるという仮定にたっている｡アドラーも同じように､そうした極限的なものがあるという仮定にたっている｡まるである「かのように」の立場の倫理的意味を彼らは強調している｡また実践的意味として､そういう立場にたつことで､ライフスタイルを実際に変えることができると人は信じることができる｡つまり「<b>倫理的意義</b>」を誰よりも強調しているのである｡</p>
<p>追記(2024/04/30):リゴリスト(厳格主義者,一般に､道徳的に厳格な規律を設定し、それに従おうとする主義。快楽を否定し、禁欲的態度を守ろうとする立場)だったウェーバーや､啓蒙を重視したルーマン､究極的目的を強調したパーソンズ､宗教の統合力を重視したデュルケムなどとも通底するものがある｡学問はよりよい社会へ､よりより幸福への手段であるべきではないだろうか｡</p>
<h2><span id="toc50">共同体感覚は相対主義か絶対主義か</span></h2>
<h3><span id="toc51">相対主義､絶対主義とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>相対主義</strong></span>：</big>一般に､認識や価値の相対性を説く立場。つまり､絶対に正しいような認識や価値など､いわゆる「真理」に人間は絶対に到達できず､そんなものはなく､人の数だけ価値があるというような立場｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>絶対主義</strong></span>：</big>一般に､認識や価値の絶対性を説く立場。真理に人間は到達できると考える立場｡絶対的な真理や価値規準を認める立場｡</p>
</div>
<h3><span id="toc52">相対主義とニヒリズムについて</span></h3>
<p>・相対主義は「<b>ニヒリズム</b>」につながりうる思想である｡いわゆる虚無主義であり､全てのものに価値を認めることができない｡伝統などのあらゆる権威を否定する｡「神など存在しないのだから､すべての悪行は許される」､「そもそも絶対的な善悪などないのだから悪行ではない」というような極端な態度などもその例である｡</p>
<p>私は真木悠介さんが『時間の比較社会学』においてボーヴォワールを引用したことを強く思い出す｡「<b>人間は消滅するであろうなどとわれわれが断言するのを､何ものといえども許しません｡人はおのおの死にますが､人類は死ぬべきではないことをわれわれは知っています</b>」という文章である｡</p>
<p>これはアドラーの人の能力の信頼と等価的だと考える｡もし人類が消滅するという仮定にたってしまえば､我々の今している行動の価値が薄れていってしまうように思え､「<b>この生の時間は一瞬に過ぎないこと</b>」に慄くようになる｡「私は死ぬけれども､人類に何かを残せるから私は生きた価値がある､あるいはなんらかの形で生き続ける」という心の平安があるといえる｡</p>
<p>人間が不幸に､虚無に落ちないためにもその根底に「<b>人類が不滅であるか､人類は不滅を回避できる能力があるという信仰</b>」が不可欠なのであるといえる｡そんなものは証明できないのだから､形而上学的となる｡しかし形而上学が人間には必要なのである｡</p>
<p>真理相対主義の場合は他者の真理を軽視しやすい､無視しやすいといえる｡かといって自分の真理も絶対視することができない｡人間はそうしたニヒリズムを無関心や忘却によって消極的に解決したり､あるいは積極的に向き合うことによって解決しようとしたりしている｡単に処罰を受けることが怖いから悪と一般的に思われている行動をしないだけという立場であるとも言える｡</p>
<h3><span id="toc53">絶対主義とエゴイズム</span></h3>
<p>・絶対主義は「<b>エゴイズム</b>」につながりうる思想であり､また特定の思想を正しいと考える「<b>ユートピア</b>」や､自分の思想のためには別の思想をもつひとを支配してもよいとする「<b>ディストピア</b>」につながりうる｡</p>
<p>さて､アドラーの立場は「相対主義」なのか､「絶対主義」なのか｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ディストピア､ユートピア</p>
<p>「ユートピア主義は、容易に他の価値観の人々を支配するディストピアを生み出します。共同体感覚を価値の基準とする以上、他人を支配せずに生きることを考えなければなりません。なぜなら、他人を支配することは共同体感覚とは逆の、「これは私にとってどういうことだろう。私がしあわせになるために私はなにをすればいいだろう」といった自己執着（アドラーの言うIch-gebundenheit）につながるからです。アドレリアンは、自分たちの価値観だけが正しいという考えを退け、善だと信じるある価値観が本当に広く共同体の役に立つのか、常に自らに問い直します。「不寛容に対して寛容であってはならない」とする共同体感覚は、非常に厳しい思想でもあるといえるでしょう。<br />
」</p>
<p>出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc54">アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想か</span></h3>
<p>まず､岸見さんによるとアドラー心理学は「<b>ニヒリズムの対極にある思想であり､哲学</b>」だという｡</p>
<p>この場合のニヒリズムは「人間は感情に抗えない存在である」という思想､いわゆる「決定論」的な思想を指しているようにみえる｡アドラーは「自由意志」を強調し､我々は我々の「思考､意味づけ､解釈､意志」によって感情を利用し､行動していると考えている｡</p>
<p>そもそも自由意志の「価値」を強調する思想の時点で「相対主義」から遠ざかるのかもしれない｡「自由意志に価値があるかそんなものはわからない」と懐疑するのが相対主義である｡</p>
<p>かといって「自由意志」や「共同体感覚」が絶対の価値であり､どこか固定的に事実として存在する､到達できると述べているわけでもない｡具体的な宗教や経済､あらゆる特定の現存の具体的な主義主張､思想を固定的な絶対の価値とは認めていない｡そうした意味では相対主義的である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:人生になんの意味がある=人生に意味はない</p>
<p>「他者に寄りかかったり､他者を抑圧していると､共生や協働を求める世界から抵抗を受けます｡甘やかされた子どもはこの抵抗を克服できません｡幻想を奪われた子どもはすべてを他者のせいにして､人生ではみんな敵だと思い込ます｡『人生になんの意味がある？』『どうして隣人を愛さないといけない？』彼らの問いは悲観的です｡積極的に協力するという共同体からの要求に従ったとしても､ただ反動や罰が怖くて従っているだけです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,158p</p>
<p>キーワード:ニヒリズム</p>
<p>「哲人『たとえば､「神が見ているから､善行を積む」と考える｡しかしそれは「神など存在しないのだから､すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中わせの思想です｡われわれは､たとえ神が存在しなかったとしても､たとえ神からの承認が得られなかったとしても､この生を生きていかねばなりません｡むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ､他者からの承認を否定する必要があるのです』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,137p</p>
<p>
「他者に寄りかかったり､他者を抑圧していると､共生や協働を求める世界から抵抗を受けます｡甘やかされた子どもはこの抵抗を克服できません｡幻想を奪われた子どもはすべてを他者のせいにして､人生ではみんな敵だと思い込ます｡『人生になんの意味がある？』『どうして隣人を愛さないといけない？』彼らの問いは悲観的です｡積極的に協力するという共同体からの要求に従ったとしても､ただ反動や罰が怖くて従っているだけです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,158p<br />
「哲人『わたしは感情の存在を否定しているのではありません｡誰にでも感情はあります｡当たり前のことです｡しかし､もしも「人は感情に抗えない存在である』とおっしゃるのでしたら､そこは明確に否定します｡われわれは感情に支配されて動くのではありません｡そして､この「人は感情に支配されない」という意味において､さらには「過去にも支配されない」という意味において､アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり､哲学なのです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,」36-37p<br />
「哲人『苦しいだけではありません｡過去かすべてを決定し､過去が変えられないのであれば､今日を生きるわわれわれには人生に対してなんら有効な手立てを打てなくなってしまう｡その結果､どうなりますか？世界に絶望し､人生をあきらめるようなニヒリズムやペシミズムに行き着くことになるでしょう｡トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とはかたちを変えた決定論であり､ニヒリズムの入口なのです｡あなたはそんな価値観をお認めになりますか？』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,」37p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc55">相対主義ではないかのような主義</span></h3>
<p>私からするとアドラーは相対主義者にみえる｡しかし同時に､「共同体感覚」のような「絶対的なもの」がある<b>かのような</b>態度をとっているようにもみえる｡</p>
<p>個人や人類の幸福には事実として価値がある<b>かのような</b>態度をとっている｡つまり､相対主義であると同時に絶対主義であるかのような態度もとっているようにみえる｡偏っていないのでニヒリズムにも､ユートピアにも､ディストピアにも至っていないといえる｡綱渡りのような思考だと考える｡</p>
<p>一歩踏み外せば不可知論者や反知性主義に陥りそうな､信仰なしでは危うい綱渡りだと感じる｡とはいえ実験などの知性や理性､いわゆる「学問」や「科学」によって形而上学的な目標を補強しようとする努力も見える｡綱をすこしでも強く､厚くしようとする努力に見える｡これは宗教的な信仰とは違ったベクトルの､合理的や実践的な説得力だと言える｡宗教のように来世を信じろというのではなく､<b>あなたの現世でのあなたの幸せに役立つと説得する補強材料</b>である｡</p>
<h3><span id="toc56">「人間に能力がある」という点をいかに説得力を持たせるかたちで実証できるか</span></h3>
<p>科学的にはカントの立場のように､アドラーは人間は真理に理性をもって到達できないことを認めている｡この時点では相対主義である｡</p>
<p>そしてそれらは「信仰」や信仰を伴う「実践」といった領域へもちこまれるというわけである｡ゴール(共同体感覚=完全な目標)があるかどうかはわからないが､ゴールがあるかのように一歩一歩前進していくべきだ､そう考えたほうが 人間の幸せにとってプラスだから､と考えていくわけである｡</p>
<p>共同体感覚にすべての概念が収束していくというより､やはり「<b>人間の幸せ</b>」にすべての概念が絶妙にやりくりされている気がする｡事実かどうかではなく､人間の幸せにプラスするかどうかで概念を使用するかどうかを考えていく｡その単位が個人(私ひとり)か人類(我々)かが分岐点となる｡</p>
<p>ライフスタイルを変えることができるという「<b>勇気</b>」の後押しとして「アドラーの哲学」､つまり「共同体感覚」は必要になる｡勇気のために形而上学や信仰が重要なのである｡問題は何度も言うように､この信仰がどのような形で形成されるかである｡日本人は宗教に疎い｡だからこそより実践的､合理的な面で信仰を補足する必要がある｡信仰というと宗教じみているが､単純に言えば「<b>人間の能力を信じること</b>」である｡<b>「人間に能力がある」という点をいかに説得力を持たせるかたちで実証できるかが重要</b>だと私は考える｡創造力は能力の一形態である｡だからこそ創造発見学は重要な学問であると考える｡</p>
<h3><span id="toc57">マンハイムの相関主義への接近</span></h3>
<p>・個人的にはマンハイムの「<b>相関主義</b>」の立場にアドラーの立場は近いのだと思う｡相関主義は視野の拡大と補完の開放性を目指す立場だからである｡</p>
<p>雀部さんの「かのように」の哲学についての文章を引用する｡「他方では､われわれは『永遠回帰』が存在する『かのように』生きるべきだというジンメルの定言は､一個の形容矛盾である｡人は『かのように』の哲学にしたがって『永遠回帰』などといった重苦しい思想を生き抜くことはできない｡ニーチェなら､『かのように』などと『そう安直に言うな！』というだろう｡</p>
<p>『永遠回帰』のメッセージを真剣に受け止め､何をするにつけても､『お前はそれをもう一度､いや無限回､繰り返すことを欲するのか』の試金石に照らして生きるためには､『永遠回帰』は絶対に『実在』せねばならない｡というよりも､その実在への『信仰』が絶対的でなければならぬ｡だからこそニーチェはその『実在性』の論証に四苦八苦したのである｡」雀部幸隆「知と意味の位相」,310p</p>
<p>たしかに合理的に説得されれば､よしライフスタイルを変えよう！幸せになろう！と思い立つかもしれない｡しかし翌日にはぼやけ､やっぱり怖いと思うのが人間である｡屋上から飛び降りれば助かることを合理的に説得されても､人間は容易には飛び折りることはできない｡そこには非合理的な信仰も､熱い信念のようなものが必要になるのだと考える｡ウェーバーの言葉で言えば「情熱」や「心」である｡</p>
<p>おすすめ記事</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/04/04/karl-mannheim-2/">【基礎社会学第三十二回】カール・マンハイムの「相関主義」と「自由に浮動するインテリゲンチャ」とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2022/02/05/max-weber-5/">【基礎社会学第十二回】マックス・ウェーバーの『職業としての政治』から「職業政治家」を学ぶ。</a></p>
<h2><span id="toc58">導きの星</span></h2>
<h3><span id="toc59">導きの星について</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>導きの星</strong></span>：</big>アドラー心理学における自由なる人生の大きな「指針」だという｡輝きの星とも呼ばれることがある｡</p>
</div>
<p>この指針にむかっていけば「幸福」があると考える巨大な理想でもあるという｡完全という理想､完全な共同体感覚と等しいだろう｡こうした指針に基づいていれば､なにをしてもいいとされ､嫌われてもいいとされている｡</p>
<p>共同体感覚が「ある」といってもそれは常に不完全であることが想定されている｡しかし完全から見るとどんな感覚も不完全であり､幅があるといえる｡「共同体感覚の方角へ向かっている」というような表現のほうがイメージしやすいかしれない｡星へ人間が歩いていってもたどり着けない(空にあるから)｡しかし星は私たちに方角を示し､迷わないようにしてくれる｡北極星は真北にあって動かない星として人びとに用いられてきたらしい｡コンパスの代わりのようなものだ｡</p>
<p>トンネルの出口の光へ向かっている､というイメージもすきだ｡光そのものにたどり着いているわけではない｡しかしあたたかい､ほっこりとした気持ちになれるイメージである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:導きの星</p>
<p>「哲人『人が自由を選ぼうとしたとき､道に迷うことは当然あるでしょう｡そこでアドラー心理学では､自由なる人生の大きな指針として「導きの星」というものを掲げます｡…旅人が北極星を頼りとするように､われわれの人生にも「輝きの星」が必要になる｡それがアドラー心理学の考え方です｡この指針さえ見失わければいいのだ､こちらの方向に向かって進んでいけば幸福があるのだ､という巨大な理想になります｡…あなたがどんな刹那を送っていようと､たとえあなたを嫌う人がいようと､「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わければ､迷うことはないし､なにをしてもいい｡嫌われる人には嫌われ､自由に生きてかまわない｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,280p<br />
メモ:導きの星の先に「幸福がある」という所与の前提<br />
メモ:ウェーバーの光の比喩と､フッサールの倫理的な極限､ニーチェの極限に関連付ける</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc60">「自己受容」</span></h2>
<h3><span id="toc61">共同体感覚をもつ人の特徴</span></h3>
<p>・では､どのようにして自分が指針の方向へと向かっていると判断できるのか｡共同体感覚をもつ人の特徴をみていく｡</p>
<p>(1)共感､(2)所属感､(3)貢献感､(4)相互尊敬・相互信頼､(5)協力</p>
<p>この５つであるという｡これは大きくまとめて「<b>自己受容</b>､<b>他者信頼</b>､<b>他者貢献</b>」の３つとして考えていく｡</p>
<p>共同体感覚に欠かせない３つの条件としても「<b>自己受容､他者信頼､他者貢献</b>」の３つが挙げられることがある｡</p>
<p>これらは「自己への執着(自己中心)を他者への関心(脱自己中心)へと切り替える」ために必要な３つだという｡つまり､「自己受容､他者信頼､他者貢献」の３つが満たされていれば､「<b>他者への関心</b>」が高まっている状態だといえる｡他者への関心は「他の人の目で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる」というアドラー自身の定義とも合致していることから､同時に共同体感覚があると判断できることになる｡繰り返しになるが､ここでいう「ある」は完全を意味するわけではない｡「<b>完全の方向に向かっているかのように信じられる状態の程度がある</b>」というニュアンスである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共同体感覚をもつひとの５つの特徴</p>
<p>「一方で､共同体感覚をもつ人は､次の５つの特徴を備えています｡(１)共感､(2)所属感､(3)貢献感､(4)相互尊敬・相互信頼､(5)協力」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,74P</p>
<p>キーワード:精神的な健康を測る６つの条件<br />
「(1)自己受容､(2)所属感､(3)信頼感､(4)貢献感､(5)責任感､(6)勇気」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,79P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc62">自己受容とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自己受容</strong></span>：</big>「長所も短所も含めて､自分をありのままに受け止めること」を意味する｡また､「自分にできること」と「自分にはできないこと」を見極めることも重要だという｡「自分を好きでいること」という自己愛の要素も含まれていると考える｡</p>
</div>
<p>・自己受容によって自分をありのままに受け止めることで､他人も受容できるようになるという｡そして対人関係も協力的になるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自己受容<br />
「自己受容とは､長所も短所も含めて､自分はありのままに受け止めることです｡…自己受容と混同されがちなのは､うぬぼれです｡しかし､うぬぼれている人は､自分の短所を受け入れる勇気がありません｡また､自己受容できる人は､他人も受容しているので､対人関係で協力的な態度をとります｡対して､うぬぼれている人は独善的で他人を受容できないため､『こいつには勝てるな』と思うと競争的・高圧的な態度をとり､『この人には敵わない』と思うと回避的な態度をとり､やけに低姿勢になったりします｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,78P<br />
メモ:自己肯定感がもてはやされる現代だが､それは自己受容との定義と曖昧になっているのかもしれない<br />
「哲人『自己受容です｡ありのままの自分を受け入れ､「自分にできること」と「自分にはできないこと」を見極めることさえできれば､裏切りが他者の課題であることも理解できるし､他者信頼に踏み込むこともむずかしくなくなるでしょう｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,235p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc63">自己受容と自己肯定の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自己肯定</strong></span>：</big>「できもしないのにできると暗示をかけること」を意味する｡いわゆる「うぬぼれ」が類語であり､自分の短所を受け入れる勇気がないケースだという｡</p>
</div>
<p>こういったケースは「優越コンプレックス」につながりやすいという｡また､対人関係も相手を低く見ている場合は高圧的に､高く見ている場合は回避的､低姿勢になるという｡「自己受容」と「自己肯定」は違うという点に注意する必要がある｡より広義的な言葉に自己愛という概念があるが､自己愛の中にプラスの自己受容とマイナスの自己肯定という要素があるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自己肯定</p>
<p>「哲人『自己肯定とは､できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と､自らに暗示をかけることです｡これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり､自らに嘘をつく生き方であるともいえます｡一方の自己受容とは､仮にできないのだとしたら､その『できない自分』をありのままに受け入れ､できるようになるべく､前に進んでいくことです｡自らに嘘をつくものではありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,227p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc64">「他者信頼」</span></h2>
<h3><span id="toc65">他者信頼とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>他者信頼</strong></span>：</big>「無条件に他者を信じること」を意味する｡「他者信用」と区別する必要がある｡また､信頼の対義語は「懐疑」であり､信頼できない根底には他者への疑いがあるという｡また､信頼と信用の違いに注意する必要がある｡</p>
</div>
<blockquote>
<p> キーワード:他者信頼､他者信用<br />
「哲人『まず､信用とは条件つきの話なんですよね｡…「あなたが返済してくれるなら貸す」…｡他者を信じるにあたって､いっさいの条件をつけないことです｡たとえ信用に足るだけの客観的根拠がなかろうと､信じる｡担保のことなど考えずに､無条件に信じる｡それが信頼です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,231p</p>
<p>「哲人『しかしこのとき､たとえ家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても､食器を片付けながら「私は家族の役に立てている」と考えて欲しいのです｡他者がわたしになにをしてくれるかではなく､わたしが他者になにをできるかを考え､実践していきたいのです｡その貢献感さえ持てれば､目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,241p<br />
「共同体に属している人達を信頼できるかどうかです｡信頼しているからこそ､協力し合える関係を築くことができます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,78P<br />
キーワード:懐疑<br />
「哲人『信頼の反対にあるものは､はんですか？』…『懐疑です｡仮にあなたが､対人関係の基礎に「懐疑」を置いていたとしましょう｡他者を疑い､友人を疑い､家族や恋人までも疑いながら生きている､と｡いったいそこから､どんな関係が生まれるでしょうか｡』」<br />
メモ:ニヒリズムにつながる要因</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc66">他者信用とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>他者信用</strong></span>：</big>担保がないと信じないというのは信頼ではなく､「信用」だという｡たとえば銀行でお金を借りる場合は「信用」で借りているのであって「信頼」で借りているのではない｡</p>
</div>
<h2><span id="toc67">「他者貢献」</span></h2>
<h3><span id="toc68">他者貢献とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>他者貢献</strong></span>：</big>「仲間である他者に対して､役立とうと何らかの働きかけをすること」を意味する｡他者から目に見える貢献だけではなく､目に見えない貢献も含まれている｡</p>
</div>
<p>また､ある働きかけが他者にとって役立っているかどうかは他者が決めることであり､自分が介入できるものではないという｡これは貢献しているかどうかという私の主観が重要なのであり､実際に貢献していると思われているか､あるいは事実として客観的に貢献しているかに力点が置かれていない点に注意する必要がある｡</p>
<p>とはいえ､私はコントロールできない､理解出来ないからといって注意するべきではないという話ではなく､<b>最大限の客観的可能性を予測する努力の責任を伴う</b>と私は考える｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:他者貢献<br />
「自ら進んで他の人や共同体のために役立とうとしているかどうかです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,78P<br />
「哲人『仲間である他者に対して､なんらかの働きかけをしていくこと｡貢献しようとすること｡それが「他者貢献」です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,238p<br />
「哲人『そして思い出してください｡われわれは､自分の存在や行動が共同体にとって有益だと思えたときにだけ､つまりは「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ､自らの価値を実感することができる｡そうでしたね？つまり他者貢献とは､「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく､むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ､なされるものなのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,238p「哲人『そして個々が大切なのですが､この場合の他者貢献とは､目に見える貢献でなくともかまわないのです｡…あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは､あなたではありません｡それは他者の課題であって､あなたが介入できる問題ではない｡ほんとうに貢献できたかどうかなど､原理的にわかりえない｡つまり他者貢献していくときのわれわれは､たとえ目に見える貢献でなくとも､「わたしは誰かの役にたっている」という主観的な感覚を､すなわち『貢献感』を持てれば､それでいいのです｡…すなわち「幸福とは､貢献感である」｡それが幸福の定義です｡』」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc69">貢献感とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>貢献感</strong></span>：</big>他者貢献によって得られる「わたしは誰かの役に立っているという主観的な感覚」を意味する｡貢献感は「幸福感」と同義であり､この貢献感によってのみ人間は自分の「価値」を感じることができるという｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>キーワード:貢献感</p>
<p>「哲人『そして個々が大切なのですが､この場合の他者貢献とは､目に見える貢献でなくともかまわないのです｡…あなたの貢献が役立っているかどうかを判断するのは､あなたではありません｡それは他者の課題であって､あなたが介入できる問題ではない｡ほんとうに貢献できたかどうかなど､原理的にわかりえない｡つまり他者貢献していくときのわれわれは､たとえ目に見える貢献でなくとも､「わたしは誰かの役にたっている」という主観的な感覚を､すなわち『貢献感』を持てれば､それでいいのです｡…すなわち「幸福とは､貢献感である」｡それが幸福の定義です｡』」</p>
<p>メモ:事実として客観的に貢献しているかと､客観的に貢献していると主観的に感じているかどうかの区別｡</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc70">他者貢献は偽善なのかについて検討</span></h2>
<h3><span id="toc71">偽善とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>偽善</strong></span>：</big>一般的に「うわべだけを飾って正しいように、あるいは善人のように見せかけること」や「実際にもたない感情や徳などをもっているふりをする倫理的に悪い態度」を意味する｡</p>
</div>
<p>【問い】「表向きには他者に貢献しているとしながら､結局は自分のためとするロジックは偽善ではないのか」</p>
<p>この問題はアドラーにとっておそらくシンプルなのだろうが､当初の私の頭はカオスであり､灰色だった｡今でもまだ灰色に近いものがある｡この問題は力点を個に置くか種に置くか､あるいは両者を超えたものに置くかに関連している｡</p>
<h3><span id="toc72">「わたし」の価値を実感するために他者貢献をする､という論理について</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">他者貢献は手段であり､目的は「幸せ」である｡そして「幸せ」の状態とは「私の価値を実感しているような状態」である｡</li>
<li class="sample">岸見さんの説明では「『わたし』の価値を実感するために他者貢献をする」という論理関係になる｡</li>
<li class="sample">他者のために私の行動があるわけではなく､私のために他者への行動があるのである｡他者に幸せになって欲しい､という目的が先にあるのではなく､まず自分が幸せになりたいという目的があるということになる｡</li>
</ol>
<p>たとえば慈善活動や環境保護活動も､自分が満足するために行われるのであり､他者を第一として行われるわけではないということになる｡これは偽善､自己満足行為､うぬぼれ､独りよがりではないのか｡</p>
<p>追記(2024/04/30):岸見さんは「われわれは､究極的には『わたし』のことを考えて生きている｡そう考えてはいけない理由はありません｡」と言及している点も重要だろう｡これは言い換えれば､究極的には「私的感覚」のことを考えて生きているということにつながっていく｡もちろん､それが共同体感覚や共通感覚と必ずしも矛盾するとは限らない､という留保はつくだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:わたしの価値を実感するため</p>
<p>「哲人『そして思い出してください｡われわれは､自分の存在や行動が共同体にとって有益だと思えたときにだけ､つまりは「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ､自らの価値を実感することができる｡そうでしたね？つまり他者貢献とは､「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく､むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ､なされるものなのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,238p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc73">「他者を仲間だと見なして行う貢献は偽善にはならない」のか</span></h3>
<p>岸見さんいわく､「<b>他者を敵だと見なしたまま行う貢献は偽善につながるかもしれない</b>」という｡しかし「<b>他者を仲間だと見なして行う貢献は偽善にはならないはずだ</b>」という｡</p>
<p>納得できるような､できないような気がする｡そもそもなぜ他者を仲間とみなすことができるのか｡自己受容したからと言って自動的に他者受容もできるロジックとはなにか､そもそもどのようにして自己受容が可能になるのかを私は明確に理解することができていない｡簡潔に言えば私はまだ「説得」されていないのである｡</p>
<p>説得された気にはなっている｡しかし具体的にどの部分に説得されたのかと問われれば答えられない｡つまり､道徳的な雰囲気に押されているだけであるといえる｡あるいは私の頭が非常に悪いのかもしれない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:偽善</p>
<p>Q青年「表向きには他者に貢献しているといいながら､結局は自分のためとするロジックは偽善ではないのか」<br />
「哲人『他者を「敵」だと見なしたままおこなう貢献は､もしかすると偽善につながるかもしれません｡しかし､他者が「仲間」であるのなら､いかなる貢献も偽善にはならないはずです｡あなたがずっと偽善という言葉にこだわっているのは､まだ共同体感覚を理解できていないからです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,242p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc74">しかし・・でも・・やはり､それでも</span></h3>
<p>(１)他者に対して敵であり､上から下への態度であり､自分への具体的な報酬を目的としていたらそれは偽善になるのかもしれない｡ここでは､敵であることが前提であり､「味方のふりをする」という箇所に偽る善(=偽善)を見いだす｡</p>
<p>例えば単に就職活動の助けになるから､嫌いな団体を手伝う｡将来借りを返してもらうためにお金を貸す､手助けをするなど｡「<b>敵であるが自分に見返りがあるから､仲間であるかのように表面は接し助ける</b>」というイメージ｡</p>
<p>これは信用関係であり､信頼関係ではない｡見返り主義､縦の関係、承認欲求というような不適切な態度が含まれている｡しかし現実に､そうした見返りを求めずにあなたはそれらの行為をすることはできるだろうか｡</p>
<p>これは動機の問題であり､結果の問題ではない｡あなたの内面で起きていることである｡アドラーの言っている適切な態度は我々が思う以上にハードルが高いと確信している｡こうして言い訳をしている時点で「共同体感覚が欠如している」のかもしれない｡しかし・・でも・・やはり､それでも､となるのが人間である｡少なくともわたしはそうだ｡</p>
<h3><span id="toc75">ひっかかり:「われわれ意識」､「われわれ感覚」について</span></h3>
<p>(２)他者が仲間であり､対等な関係であり､無条件の信頼の関係にあれば､偽善にはならないのかもしれない｡なぜならば､敵という前提がないので偽るというプロセスが生まれないからである｡信頼関係に基づく行為であると言える｡</p>
<p>たしかに､偽るかどうかという点を主軸にすれば､そうかもしれない｡最初から仲間だと思っていれば偽る必要はない｡だから偽善ではない｡しかしどこかひっかかる｡やはり循環論が頭にひびいている｡おそらくこの「ひっかかり」が氷解するポイントは「我々意識」にあるのだとはうっすらと感じている｡私のためが「<b>我々のため</b>」になれば､たしかに偽善は形成されないのかもしれない</p>
<p>｡しかし「我々意識」という脱自己中心化概念をうまく捉えることができていない｡まさにこの概念こそがアドラーのキー概念であり､形而上学的概念であり､具体的に掴ませてもらえない雲のような概念だからである｡だからこそ説得が一歩先に進まない｡しかし説得を補強することは可能だと私は信じている｡</p>
<p>・「他人のために行動できて嬉しい」と口ではいったり行動したりしながら､「なんでこんなやつのために行動しなきゃいけないんだ」と思っていたらそれは「偽善」となる｡</p>
<p>・「他人のために行動できて嬉しい」という言動が「本心」からきているならば､それはもはや偽善ではない｡なぜなら偽ってないからである｡しかしもし「自分のためじゃなくて相手のためだけに私は自己犠牲的に行動している」と言っていたら偽善かもしれない｡なぜなら､「相手のためだけの行動などほとんどありえないから」であり､これは一種の偽りではないかと考えるからである｡この「相手のためと自分のため」という要素を強調すれば「我々のため」であり､これを拡大すれば「人類の幸福のため」になるのだろう｡人類には私という個人も含まれている｡我々のためにやるというのは私を含む｡</p>
<h3><span id="toc76">やらない善よりやる偽善？</span></h3>
<p>※ここでいう善は一般的な意味合いとして用いる</p>
<p>正直な話､他者が「敵」であり､「偽善」であったとしても「わたしは幸福と感じる」という状態に達しているのならいいのではないかと疑問が生じる｡</p>
<p>つまり偽善は肯定されるし､上下関係も肯定される｡他人に「そんなものは幸福ではない」と介入する権利はあるのか｡「わたしという個人だけが幸せだと感じる」という私的感覚に特化した究極的な目標を置いた場合はそうなる｡</p>
<p>問題は､他者が「敵」であるという意識のまま､自分の幸福感につながるのかという点である｡もしつながらないのであれば､手段として他者を敵であると思うことは間違っている｡</p>
<p>さらに､幸福感に「自由」が関連するのならば､他者が敵であるという意識は「不自由」に繋がりかねない｡承認欲求ばかりを気にしたり､見返りを気にする態度は「不自由」に繋がるという考え方もあるからだ｡</p>
<p>見返りを気にするという態度は他者をコントロールする態度でもあり､また他者にコントロールされかねないと怯えている態度でもあり､嫌われることを恐れている態度にもつながりうる｡それゆえに､幸福感につながらないという考え方もできる｡</p>
<p>自分のためにならないのだから､他者を敵だと考える態度は間違っている｡とはいえ､この「ためになる=善」も種々あり､<b>敵だと考えることで自分を救っている</b>とも考えられる｡であるとすれば､これはさらなる善のための勇気の問題になる｡</p>
<p>ビジネスの世界や友人関係で「目には目を､歯に歯を」という態度は正しいのではないか､と考える人もいるだろう｡むしろ悪には悪を返さないのは「罪」であると考える人達もいる｡警察官や裁判官が「あなたを信頼する､だから処罰はなしだ」なんてことがありうるか｡</p>
<p>いわゆる報復律である｡古代のハンムラビ法典にまでそうした思想を遡ることができる｡とはいえアドラー心理学では「嫌な友人や損失をもたらすビジネスパートナーを切ってはならない」と言っているわけではない｡</p>
<p>岸見さんは「あなたがその人との関係を良くしたいと思わないのなら､ハサミで断ち切ってしまっても構わない」と説明している｡</p>
<h3><span id="toc77">「我々のためにならない」のなら左頬を差し出す必要はないか？</span></h3>
<p>「右頬を殴られたら左頬をも差し出しなさい」というような聖人になれといっているわけではない｡たしかに無条件に信頼することはそうした思想に近い面､愛の面があるかもしれない｡ベクトルが「自分のため」にあること重要である｡「<b>私のために他者への行動､つまり他者信頼がある</b>」｡</p>
<p>さらに歩を進め､「<b>我々のためにならない</b>」のなら左頬を差し出す必要はないのかもしれない｡しかし我々という意識が完全になればなるほど､他者を断ち切るという概念が曖昧になっていく気がする｡まるで盲腸のように､我々の役に立たない部分だと見なされるのだろうか｡ど</p>
<p>うやって断ち切る基準を設ければ良いのか｡それもまた「永遠のセンス」に収束するのか｡重要なところで､それはわからない｡それは理想の彼方にある｡それは理想に近いほどいい｡そうした説明はなんとなく説得された気にはなるが､<b>現実の行動へ移しきれるほど説得できるものではない</b>と私は感じる｡</p>
<p>ウェーバーのこの言葉を私は思い出す｡この引用の「正しい問い方」ができるかどうかが「説得力」に関わる問題だと考える｡創造学でも「問い方(問題発見)」は問題解決より難しいと考える｡</p>
<p>「以上のような学問の意義に関する諸見解、すなわち『真の実在への道』、『真の芸術への道』、『真の自然への道』、また『真の幸福への道』などが、すべてかつての幻影として滅び去ったこんにち、学問の職分とはいったいなにを意味するのであろうか。これにたいするもっとも簡潔な答えは、例のトルストイによって与えられている。かれはいう、『それは無意味な存在である。なぜならそれはわれわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えないからである』と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自身としては争う余地のない事実である。問題となるのはただ、それがどのような意味で『なにごとも』答えないか、またこれに答えないかわりにそれが、正しい問い方をするものにたいしてはなにか別のことで貢献するのではないか、ということである。」</p>
<p>『職業としての学問』42-43P</p>
<h3><span id="toc78">カントがいう「義務としての義務の名に値しない行動」</span></h3>
<p>「私のため」よりも「隣人のため」や「神のため」という力点の起き方をすれば話は別になるのかもしれない｡たとえばカントのように､「一見義務にかなっているようにみえる行為であっても､それがためにする行為であったり､自分の愛着心や持って生まれた性癖のゆえになされう行為であれば､<b>それは義務としての義務の名に値しない</b>」と考えるかもしれない｡</p>
<p>要するに､「自分のため」というのは「<b>不純な動機</b>」であり､結果として自分が幸福と感じるとしてもカント的にいえばそれは<b>誤っている</b>ということになる｡だからこそ定言命法をまもって生き抜くことは非常に難しいとされる｡ルターが「自由意志などいらない」と苦しんだことも理解できる｡</p>
<p>問題はアドラーがこのようなカントの意見をどう考えていたかだろう｡アドラーは隣人愛について明確に答えることを避けたり､また隣人愛を伴っていない流れを否定すると明言していたりする｡</p>
<p>要するに､カント感､キリスト教のモーセの十戒感がありつつも､意図的に絶妙に隠されているか､曖昧にされているニュアンスを感じる｡</p>
<p>普遍的に正しいと明言してはならないが､しかし私はそれが正しいと個人的に信じているというような絶妙な立ち位置の苦しみを感じる｡</p>
<p>だからこそエリスはその点を強調したのではないだろうか｡エリスは「私的感覚」を第一とするからであり､その点でカントやアドラーと対照的である｡</p>
<p>岸見さんの説明ではたしかに「『わたし』の価値を実感するために他者貢献をする」という力点の起き方や「他者の人生ではなく私の人生を生きるべき」という力点の起き方が見られる｡</p>
<p>しかし､一方でその手段としては「他者貢献や他者の人生を考慮すること」が<b>必要不可欠</b>であるという論理がある｡なぜなら(個人の)幸福とは他者貢献であると定義されているからである｡共同体感覚のないところにいかなる幸福もないとアドラーは明言している｡</p>
<h3><span id="toc79">「相手のために自分のことを考える」という論理構成と「自分のために相手のことを考える」は機能的にほんとうに等価な論理か？</span></h3>
<p>自分のために相手のことを考えるが､しかし自分のためを考えることは相手のためを考えることを通して以外達成することはできないというわけだ｡</p>
<p>それゆえに､結局は「<b>相手のために自分のことを考える</b>」という論理構成と「<b>自分のために相手のことを考える</b>」という論理構成は実体としては大差ない､機能等価なのではないかと疑問に思ってしまう｡「自分の幸福のためには他者貢献が不可欠である」という手段の不可欠性という点で考えると､両者は切り離せるもの､現実的に容易に代替できるものではない｡</p>
<p>結局は「自由意志」や「主体性」というものを強調するために､飾りとして､あるいは倫理的意義として力点を自分においているのではないかと思う｡もちろんこの飾りにすぎないものが重要な価値を生じさせるのかもしれない｡</p>
<p>悪く言えば「ものは言いよう」である｡物は言いようならば､「<b>人は変われる</b>」という適切な方向で考えるべきだ､と言われれば「たしかにそうかもしれない」と頷ける部分はある｡とはいえ､まず他人のため､という力点に起き方は主体性が弱まってしまうのである｡</p>
<p>しかし「自分のため」という力点を置くことで失われるものもまたあるのかもしれない｡では､「われわれのため」ならどうか｡こういう話をしているとヘーゲル(弁証法)感をすごく感じる｡両方の相対する概念を超えたものがあるような期待がある｡しかしそこに深い沼を感じる｡</p>
<h3><span id="toc80">「主体性」と「他人のため」を超える､あるいは補強</span></h3>
<p>「他人のため」という箇所をなんらかの形で改善すれば主体性を損なわない形で改善できたらいいと思う｡</p>
<p>カントやパーソンズのように規範へ向かって志向する､努力すること自体を「自由」や「主体性」と捉えるのも一つの方法ではある｡しかしそれでは既存の価値によって規定される､「判断力の麻痺した人間」と言われかねない問題がある｡主体性をどう捉えるか､これは学問における主要なテーマである｡</p>
<p>ここでいう「他者」を究極的には具体的な生きている他者ではなく､抽象的な存在しない､理想的・超越的な他者､つまり実在しない共同体という「彼岸の人びと」のために生きることを意味しているのかもしれない｡その意味では宗教的な来世の思考と等価的なところがある｡もちろん､彼岸の人だけで構成されているわけではなく､此岸の具体的で現実な人もそこに含まれていることが重要である｡</p>
<p>そうすることによって「(特定の)他人だけのために生きている」という非主体性､不自由のニュアンスを和らげる｡なぜならそうした共同体は実在しないからである｡あるいは<b>実在するかのように信じるという私の主体性ありき</b>で､かれらは概念として存在できる｡私のために彼らを創り出すのであり､彼らの意味､彼らへのわたしの行動の意味を創り出すのである｡</p>
<p>この「他人」が具体的な形になるとヒトラーのような危険が生じかねない｡「<b>あなたたちは世界全体のことを考えていない</b>」といって一蹴される｡かといって抽象的すぎると我々の心に響かない｡「<b>我々には現実がある､守るべき家族や自国の人びとがいる</b>」という言葉で一蹴されてしまう気もする｡上辺だけは正しいことを述べる思想がサッカーボールのようにあちこちで蹴り散らかされている(SDGsもその例かもしれない)｡</p>
<p>絶妙な理想がある「かのように」､ある意味では手を使って遠くの宇宙へ投げ出したアドラーは賢いのかもしれない｡しかし現実にはそんな宇宙へ投げ出された共同体を思って人間は生きていくことができないだろう｡現実の共同体を思って人間は生きていくのである｡ただし､そこで「今より大きな」という具体的な､地に足のついた射程が広がるという点が重要である｡</p>
<h3><span id="toc81">「国民が疲労困憊しているこの時に､自分一人の魂を救って何になる」､討論によって創られる規範(センス)について</span></h3>
<p>M・ウェーバーが「新しい予言を求める青年」に対して「<b>国民が疲労困憊しているこの時に､自分一人の魂を救って何になる</b>」と吐き捨てるようにつぶやいたというエピソードが今でも私の心に深く残っている｡私の幸せだけを中心に考えることの是非を考えさせられたエピソードである｡</p>
<p>また､ウェーバーは趣味判断と倫理的な判断を明確に区別している｡趣味判断は「<b>人それぞれ勝手に</b>」が許されるが､倫理的判断は「<b>討論可能</b>」であるという｡こうして<b>討論によって作られていく倫理規範は普遍妥当性を獲得していくことになる</b>｡少なくとも､その時代ごと､その地域ごとに健全な討論によって創られていく倫理的判断は趣味判断と区別することは重要だろう｡その意味では相対主義と絶対主義を超えた相関主義に近いと言える｡</p>
<p>追記(2024/04/30):アドラーも戦争に参加し､医者として多くの兵士の命を救ったという｡そして救ったすぐあとに戦地へ戻り､死んでいく兵士を何度も見たそうだ｡そんななかでもし私が「わたしの幸せ！私の趣味！私の自己実現！」といったものを声高らかに叫ぶ人を見たらある種のグロテスクさえ感じるのかもしれない｡だからといってそれらの価値が蔑ろにされてはいけないということもわかる｡しかし優先順位というものがあるのではないか､とも考えさせられる｡だからといって強制や支配もよくない｡自発的に共同体感覚を胸に秘めるような､自発的に人類のことを考えることができるような態度が必要なのだろう｡もちろんそれは結果としての自己犠牲と紙一重であり､バランス感覚が必要になるものではある｡</p>
<h2><span id="toc82">円環構造について</span></h2>
<h3><span id="toc83">「自己受容することができるから､他者信頼をすることができる」←なぜ？</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/10c90813dd87cb73462b401f8538e47c.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3607" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/10c90813dd87cb73462b401f8538e47c.png" alt="" width="300" height="303" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/10c90813dd87cb73462b401f8538e47c.png 300w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/10c90813dd87cb73462b401f8538e47c-60x60.png 60w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/10c90813dd87cb73462b401f8538e47c-120x120.png 120w" sizes="(max-width: 300px) 100vw, 300px" /></a></p>
<p>なぜか｡自分のありのままを受け入れて､できることとできないことを分けて考えることがどうして他者信頼につながるのか｡なぜ自分のありのままを受け入れることが「他人を受容」することにつながるのか｡</p>
<p>マイナスの要素を考えることがヒントになる｡自己受容できてない人間はどうなるのか｡他者に対して攻撃的になり､うぬぼれ､独善的となる｡つまり､他者を受容できない人間になる｡自分にコントロールできないことをコントロールしようとしてイライラする｡</p>
<p>自己受容できている人間は「弱さ」を認める「強さ(勇気)」がある｡プライドで他者を回避したり､攻撃したりしない｡それゆえに他者受容しやすい｡他者受容しやすいゆえに､他者信頼につながりやすい｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:円環構造</p>
<p>「哲人『ありのままの自分を受け入れる――つまり「自己受容」する――からこそ､裏切りを恐れることなく「他者信頼」することができる｡そして他者に無条件の信頼を寄せて､人々は自分の仲間だと思えているからこそ､「他者貢献」することができる｡さらには他者に貢献できるからこそ､「わたしは誰かの役に立っている」と実感し､ありのままの自分を受け入れることができる｡「自己受容」することができる｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,242p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc84">「他者信頼することができるから､他者貢献することができる」←なぜか</span></h3>
<p>なぜか｡これもマイナスの要素を考えることがヒントになる｡他者を信頼できない人間は､他者を「仲間」だと思えないし､対等な「横の関係」でいることができない｡</p>
<p>仲間ではない人に対して人間は「貢献」しようと思うのか｡たとえば敵対していると思っているグループを助けようとするのか｡敵対する宗教､敵対する企業に通常は助けようとせず､「利敵行為」とマイナスにとらえられる｡利益がなければ助けようとせず、利益があった場合も内心では不満が渦巻いている｡</p>
<p>しかし「彼ら」ではなく「我々､共に」という仲間意識をもっていればどうだろうか｡敵対する企業であったとしても､同じ日本の成長を願う企業同士である｡それゆえに貢献できることは貢献していく｡では日本の企業はアメリカの企業に協力しなくてもいいのか｡同じ地球の成長を願う企業同士である｡それゆえに貢献できることは貢献していく｡より大きな理想的な共同体を目指して永遠に向かって努力していく｡</p>
<p>こうして「所属感」や「安心感」､「貢献感」を獲得していく｡そうした運動の､動的な総体が「共同体意識」であり､また「幸せ」である｡</p>
<h3><span id="toc85">そもそもなぜ自己受容することができるのか</span></h3>
<p>岸見さんの説明では「他者貢献」によって所属感や安心感を獲得できるからこそ､「自己受容」ができるという｡</p>
<p>「循環論法」的である｡他者貢献の獲得のためにまずは自己受容が必要だが､自己受容の獲得のためにはまずは「他者貢献」が必要になる｡</p>
<p>最初の自己受容は「<b>最低限</b>」､いわば<b>先天的に与えられている</b>と仮定する｡３つの要素が先天的に与えられており､それらがまずは転がっていくと考えてくことにする｡どの要素が起点となるのかは置いておいて､どの要素も最低限､すべて備わっていると私は仮定する｡</p>
<p>実際､アドラーは共同体感覚を先天的なものと考えている傾向があり､かつ明言している｡同時にそれだけでは不十分であるとも考えている｡「努力して高める」という表現よりも「<b>掘り起こす</b>」という表現を岸見さんは使っている｡なぜ先天的だと言えるのか､と突き詰めれば話は遺伝の話か､後天的な不可避性の二択になるのだろう｡</p>
<p>幼い子供も体は劣っているかもしれないが､<b>大人と心の面では対等</b>だという考えも重要になるだろう｡同じ共同体感覚を我々はもっているが､その掘り起こしの度合いが異なるのである｡違うけれども同じものをもっているので対等である｡</p>
<p>幼い子供は出発点として他者に甘やかしてもらわざるをえない､共同体感覚を発揮できない状況に不可避的に置かれている点が重要だろう｡赤ん坊を考えるとわかりやすい｡しかし全く無いわけではない｡また､急に掘り起こしたり無理やり掘り起こそうとすると欠けてしまうというイメージに繋がる｡慎重に､ゆっくりと掘り起こしていくのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:掘り起こす</p>
<p>「哲人『甲羅のない亀など想像できないように､あるいは首の短いキリンなど想像できないように､他者から切り離された人間などありえない｡共同体感覚は「身につける」ものではなく､己のうちから「掘り起こす」ものであり､だからこそ「感覚」として共有できるのです｡アドラーはこう指摘しています｡「共同体感覚は､つねに身体の弱さを反映したものであり､それときりはなすことはできない」と｡』青年『人間が抱える「弱さ」ゆえの､共同体感覚…』哲人『人間は､身体的には弱い｡しかしその心は､どんな動物にも負けないほど強い｡仲間内の競争に明け暮れることが､どれだけ自然の理に反したことか､よくおわかりになったでしょう｡共同体感覚とは､雲に浮かんだ理想ではありません｡われわれ人間に内在する､生の根本原理なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,148-149p<br />
「哲人『ひとりでは生きていけないことを本能的に熟知しているのですから｡ゆえにわれわれはいつも､他者との強固な「つながり」を希求しつづけている』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,148p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc86">三角形を転がすような人生のイメージについて検討</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d73b73b36ec66f467ad83a388871f263.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3608" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/d73b73b36ec66f467ad83a388871f263.png" alt="" width="608" height="273" /></a></p>
<p>たとえば３つの原点からなるような三角形を考えてみる｡まずは最初の頂点である自己受容が最低限満たされることで､なんとか右に転がる｡</p>
<p>そうするとその右に転がったエネルギーの影響を受けて､次の頂点である他者信頼が強化され､さらに右に転がる｡そうすると右に転がったエネルギーの影響を受けて、次の頂点である他者貢献が強化され､さらに右に転がる｡</p>
<p>そして他者貢献は次の自己受容である他者貢献を強化する｡もし順調に行けば､転がる速度はどんどん勢いを増して上がっていく｡</p>
<p>転がされるのではなく自分の意志で転がすのであり､またその勢いが強く､それぞれの調和を保っていれば､もはや三角形ではなく円に見える｡止まった時に白色は見えない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/5e02d48a29fcb2c5843b9d5639d9a918.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3609" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/5e02d48a29fcb2c5843b9d5639d9a918.png" alt="" width="355" height="283" /></a></p>
<p>動いてく限り三角形がもはや球に見え､またその中央の白色がかすかに見えるかのように思える｡いわば全体性に近づいているものだけがかすかにその印象を得られるようなイメージだろう｡</p>
<p>そしてどの具体的な色付けももたない､理想的な白色に近づくと信じる｡完全な白というものは現実にはないが､あるかのように､近づけるかのように信じる｡</p>
<p>追記(2024/04/30):まさに､今を生きている限り､コンサマトリーな感覚に包まれている限り､我々は白色=生きる意味を感じるのである</p>
<h3><span id="toc87">「どこ」へ我々は転がっていくのか｡「どこから」我々は転がっていくのか｡それはわからない｡</span></h3>
<p>「どこ」へ我々は転がっていくのか｡「どこから」我々は転がっていくのか｡それはわからない｡何のために産まれたのかという「(普遍的､一般的な)生きる意味」について我々は多くの場合は沈黙することしかできない｡</p>
<p>アドラーでさえ「一般的な人生の意味はない」､「人生は意味はあなたが自分自身に与えるものだ」と述べている｡この自分自身が与える意味は「完全の目的」により近いものが望ましいとはされている｡「生きる意味を問うことは､人間と宇宙の関連に着目した場合のみ､意味と価値があります」とアドラーは述べているからだ｡</p>
<p>「完全の目的」をもつことによって､「個人の幸せ」や私という個人を含む「人類の幸せ」につながるのなら､そうした「完全」があるかのように”信仰”することは実践的な目的からして&#8221;有用&#8221;だと私は考える｡</p>
<p>決して具体的で特定的な目的を完全と見なすことなく､足場として考え､常に一歩ずつ､進んでいく｡</p>
<h2><span id="toc88">共同体感覚の発展を妨げる３つの要素</span></h2>
<h3><span id="toc89">共同体感覚の発展を妨げる３つの要素とは</span></h3>
<p><b>甘やかし</b>､<b>生まれつきの身体器官の劣等</b>､<b>放置</b></p>
<p>放置はいわゆる「ネグレクト」のようなケースだろう｡甘やかされると他者からの貢献ばかりに目がいく｡</p>
<p>器官劣等性があると言い訳に使われがちになったり､過度に甘やかされるともいえる｡他人の目を気にしたり対人関係で傷つくことを恐れるようになる｡放置されると人は敵だと思ったり､承認を執拗に求めるようになるかもしれない｡</p>
<p>アドラーは「ひとが誤りから道を外れることについて､原因論ではなく統計的確率によって語るのがよいケースはたくさんある」と述べている｡</p>
<p>要するに､こうした３つの要素があるからといって「必ず」共同体感覚の欠如した人間になるとは言えないが､しかし「確率的に高い」というわけである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共同体感覚の発展を妨げる３つの要素<br />
「子供時代にひとが惑わされる状況を調べると､これまでもとくに重要だと指摘してきた問題に遭遇します｡共同体感覚の発展を難しくし､頻繁に妨げる問題――つまり､甘やかし､生まれつきの身体器官の劣等､放置です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,229p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc90">共同体感覚が欠如している人にありがちな態度</span></h2>
<h3><span id="toc91">共同体感覚が欠如している人にありがちな態度とは</span></h3>
<p>・劣等コンプレックスや優越コンプレックス</p>
<p>・また､それらのコンプレックスから帰結する「ためらう態度」､回避傾向</p>
<p>・具体例</p>
<p>Q 医者「元気になったらなにをしたいか」</p>
<p>A 患者X「ずっと頭痛は続いていて・・いまはよくわからないです」(回答を濁す)</p>
<p>A 患者Y「世界中を旅行したいです｡&#8221;でも&#8221;今はお金がなくて・・時間がなくて・・稼ぐ能力がなくて・・精神状態が悪くて・・・」(言い訳をする)</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 共同体感覚をもたないと「ためらう態度」が出てくる<br />
「つまり､個人心理学の技術でライフスタイルを突き止めるには､まず人生おきた問題を知り､それが個人になにを求めるかを知ることが欠かせません｡すると､問題を解決するには､ある程度の共同体感覚､人生全体とのつながり､協力や共生の能力が必要なことが見えてきます｡この能力が欠けている場合､さまざまな形で劣等感が強まり､たいていは『ためらう態度』や回避が観察されるようになります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,38p<br />
キーワード:「ためらう態度」に関する重要な質問<br />
「私が重要だと考える質問『元気になったらなにをしたいか』――これは､どう答えるかで､患者がなにを実行できずにひるんでいるのかがはっきりとわかる質問なのですが､女性はずっと頭痛は続いているなどと言って､返事を濁しました｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,82p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc92">共同体感覚で精神疾患を治せるのか</span></h2>
<h3><span id="toc93">個人の精神疾患</span></h3>
<p>A:治せる</p>
<p>「個人心理学による治療に成功して継続的な成果を出せれば､神経症の頭痛､片頭痛､顔面神経痛､てんかん様発作などの疾患は(器官の障害でないのが明らかな場合)､ライフスタイルを変え､精神的な緊張を減らし､共同体感覚を高めることで治せると証明されます｡」とアドラーは述べている｡</p>
<h3><span id="toc94">社会の精神疾患</span></h3>
<p>Q 共同体感覚で社会を治せるのか</p>
<p>A:治せる</p>
<p>「戦争､死刑､人種差別､民族差別､あるいは神経症､自殺､犯罪､アルコール依存など､人生における大きな過ちは共同体感覚の不足からきている」とアドラーは述べている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共同体感覚を高めることで精神障害を治すことはできるか<br />
「さらに､個人心理学による治療に成功して継続的な成果を出せれば､神経症の頭痛､片頭痛､顔面神経痛､てんかん様発作などの疾患は(器官の障害でないのが明らかな場合)､ライフスタイルを変え､精神的な緊張を減らし､共同体感覚を高めることで治せると証明されます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,80-81p</p>
<p>キーワード:共同体感覚の欠如による社会問題<br />
「ふだんの会話のなかで､みんなが共同体感覚を高めれば､子どもの未来や人類の未来が変わってくるとわかってもらえるようになります｡そして､戦争､死刑､人種差別､民族差別､あるいは神経症､自殺､犯罪､アルコール依存など､人生における大きな過ちは共同体感覚の不足からきていること､このような過ちは劣等コンプレックスであり､不適切な方法で状況を解決しようとするマイナスの試みであることを実感させることができます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,56p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc95">共同体感覚の悪用(誤用)</span></h2>
<h3><span id="toc96">共同体感覚の悪用(誤用)とは</span></h3>
<p>・現在や未来の共同体を救う名目で､誤った考えを強制したりするケース</p>
<p>たとえばヒトラーが「我々の共同体のためにユダヤ人を殲滅しろ」と強制するケースなどが考えられる｡共同体感覚がおまえは足りない！もっと貢献しろ！と他人に強制したり押し迫ったりすることも悪用だといえる｡</p>
<p>大事なのは本人の意志であり､本人の内側から生じたものである必要があり､我々はそれらを勇気づける､援助することができるだけである｡アドラーは「他人を鑑定することには､極めて謙虚になるべきだ。<b>人の道徳的判断を鑑定するようなことは控えるべきである</b>」とも述べている｡</p>
<p>自分に強制してきた場合にNOということは好ましいとしても､強制されていないのにも関わらず､ズカズカと相手に土足で入り込み､それは違うとNOを突きつけることは好ましいのか｡一体何を根拠に相手にNOと突きつけることができるのか｡法律に反する場合を除くとしても､そこに正当性はあるのか｡</p>
<p>アドラーは「共同体感覚へ向かう道がまだ十分に解明されていないのを利用したり､共同体の妨げになる考え方や生き方を認めたりすること」も危険だと述べている｡</p>
<p>相手にNOを突きつける資格があるのは究極的には「完全な目的」を事実として知っている人だけである｡しかしそんな人はいない｡知っているかのような立場になり､相手にNOを突きつけることも危険ではないのか｡「共同体の妨げになる考え方」とは､たとえば甘やかす教育や賞罰教育を認めることは危険だということだろうか｡「</p>
<p>人生に価値なんてない」と吹聴するニヒリズムは危険だということだろうか｡いずれにせよ「相手に押し付ける､強制する」ということは論外だとしても､議論は許容されるだろうし､また主張を発表することも許容されるのだろう｡</p>
<p>重要なのはその主張の説得力､客観的可能性である｡ここを押しのけて考えると「あなたは私の言うことを信じるか､信じないか」といった極論で終わってしまう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:誤用</p>
<p>「私が危険に思うのは､共同体感覚という考えが誤って使われることです｡共同体感覚へ向かう道がまだ十分に解明されていないのを利用したり､共同体の妨げになる考え方や生き方を認めたり､現在や未来の共同体を救う名目で､誤った考えを強制したりすることは危険です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,111p</p>
<p>キーワード:鑑定</p>
<p>「これらの表現より，近年論理療法家によってより明確な形で公表された最も重要な考え，すなわち，個人の価値は科学的にも経験的にも測定することができないということを，アドラーが明瞭明確に把握していたことを示している。アドラーは1920年代にこのように記している。『他人を鑑定することには，極めて謙虚になるべきだ。人の道徳的判断を鑑定するようなことは控えるべきである』。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,138p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc97">基本的な価値観を破壊するような個性などに対して許容するものではない</span></h3>
<p>アドラーはマンハイムが述べたように､「<b>基本的な価値観を破壊するような個性などに対して許容するものではない</b>」という立場をとっているのかもしれない｡こうしたものが信頼関係と調和するかどうかはわからない｡そもそもそんな個性をもつ人物とは一切の対人関係を結ばないという拒絶なのかもしれない｡であるとすれば､「我々」という究極的な理想からはみ出す｡となると､やはりそういう人に対してさえ､手を差し伸べる､勇気づけることも必要なのかもしれない｡</p>
<p>この勇気づけはその破壊的個性に対する肯定ではなく､そんな個性をもっているあなたも存在としては私と対等であり､尊敬の念をもって接するということである｡</p>
<p>たとえばアドラーは「隣人愛と反するような流れを間違っている」と述べている｡いずれにせよ､相手に対してNOを突きつけることはなかなか問題を生じさせそうだ｡そうした対処療法ではなく､そうした間違っている流れに乗らないような「教育」をそもそも行うという点が重要になるのだろう｡マンハイムが何よりも教育を重視していたこととつながっている｡</p>
<p>追記(2024/04/30):岸見さんが不寛容には寛容しないと言っていたことを思い出す</p>
<h2><span id="toc98">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc99">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc100">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc101">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc102">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc103">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc104">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc105">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc106">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc107">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc108">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc109">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc110">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc111">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc112">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc113">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc114">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc115">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 09:06:56 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､基礎用語編(ライフタスク)です(6)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-4" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-4">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">「ライフタスク」</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">「ライフタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">「仕事のタスク」</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">仕事のタスクとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">「対人関係で傷つきたくない」引きこもりやニート</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">その場かぎりの関係性</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「交友のタスク」</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">交友のタスクとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">交友には「この人と交友しなければならない理由がひとつもない」</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">「われわれは交友において､他者の目で見て､他者の目で聞き､他者の心で感じることを学ぶ」</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">ライフスタイルを人によって使い分けることは可能か？</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">競争原理から協力原理へ､出発点から通過点へ</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">追記(2024/04/29):アドラー心理学は「民主主義の心理学」</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">交友の関係とは､単なる友人関係にとどまるものか</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">まずは目の前の人と横の関係を､信頼関係を築くということが重要</a></li></ol></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">「愛のタスク」</a><ol><li><a href="#toc22" tabindex="0">「愛のタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">「セルフタスク」</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">「セルフタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">「スピリチュアルタスク」</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">「スピリチュアルタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">
「縦の関係」と「横の関係」</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">縦の関係とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">横の関係とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">仕事の課題における人間関係について</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">交友の課題における人間関係について</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">愛の課題における人間関係について</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">縦の関係の例</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">縦の関係は「幸せ」へと導かない</a></li></ol></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">「課題の分離」</a><ol><li><a href="#toc36" tabindex="0">課題の分離とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">特定の対人関係を切ることについて</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">できうる限りの予測の責任</a></li></ol></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">「共通の課題」</a><ol><li><a href="#toc40" tabindex="0">共通の課題とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">境界のぼやけについて</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">センスについて</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">
行動面の目標と心理面の目標</a><ol><li><a href="#toc44" tabindex="0">
行動面の目標と心理面の目標とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc46" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc47" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc55" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc6">「ライフタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc7">「ライフタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフタスク</strong></span>：</big>人間が人生(ライフ)においてたまたま遭遇するのではなく､避けて通ることのできない､直面せざるをえない課題(タスク)のこと｡</p>
</div>
<p>アドラーは<b>仕事の課題</b>､<b>交友の課題</b>､<b>愛の課題</b>の３つが私たちに突きつけられる主要な課題であるとした｡それぞれの問いは「人類の発展､人間社会､異性に対する関係」から生じ､それらは全て「<b>人類の避けられない問いに対してどう行動するか</b>」という１つの問いでつながっているという｡</p>
<p>・アドラーはライフタスクをどう解くかで「<b>人間の価値</b>」が決まると考えている｡ライフタスクから逃げていることは人間の価値につながらないと考えていることになるのだろう｡</p>
<p>結局は「共同体感覚や共通感覚」をもっているかどうかが「人間の価値」につながる｡いくらお金をもっていても､友人がいても､頭が良くても､顔が良くても､それは「価値」につながるとは限らない｡<b>そんなもので人間の価値は決まらない</b>｡</p>
<p>・アドラーはライフタスクを解くことが人類の運命であり､幸福に欠かせない要素だと考えている｡仕事の課題より交友の課題､交友の課題より愛の課題が難しいという｡それぞれみていこう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ライフタスク</p>
<p>「人間は人生の中でさまざまな課題に直面します｡この課題をアドラーは『ライフタスク』と呼び､次の３つに分類しました｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14P</p>
<p>「アドラーは人生に避けて通ることのできない課題がある､といいます｡仕事の課題､交友の課題､愛の課題です｡人生の課題に向かうには努力も忍耐もいります｡ところが､それらの課題を解決する能力がない､と考えて､人生の課題から逃れようとするところがあります｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,134p<br />
「哲人『いえ､これ(引用者注:ライフタスク)はもっぱら対人関係を軸とした話だと思ってください｡対人関係の距離と深さ、ですね｡そこを強調するためにも､アドラーは「３つの絆」という表現を使うこともありました｡ひとりの個人が､社会的な存在として生きていこうとするとき､直面せざるをえない対人関係｡それが人生のタスクです｡この「直面せざるをえない」という意味において､まさしく「タスク」なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,111p</p>
<p>「多くの心理学者が指示する確実な基盤から離れたとき､私たちの手元にあるのは､人間を測る唯一の尺度､つまり『人類の避けられない問いに対してどう行動するか』である｡わたしたちに突きつけられている問いは３つあります｡社会､仕事､愛にどう向き合うかです｡この３つは､１つの問いでつながつています｡たまたま遭遇するのではなく､人間には避けられない課題です｡それぞれは､人間社会､人類の発展､異性に対する関係から生じています｡こうした課題を解くことが人類の運命であり､幸福に欠かせない要素なのです｡人間は全体の一部です｡そのため､人間の価値も､それぞれが３つの課題をどう解くかで決まります｡答えを出すべき数学の問題のように考えればいいのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,6-7p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc8">「仕事のタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc9">仕事のタスクとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>仕事のタスク</strong></span>：</big>すべての個人が役割としてもっている「生産活動」をきちんと行うこと｡</p>
</div>
<p>たとえばサラリーマンや医者､農家といった「職業」における生産活動だけではなく､学生なら勉強(学問)が､主婦(主夫)にとっては家事や育児が仕事のタスクとなるという｡アドラーは職業に貴賤はないと述べていたことから、「生産活動」にも貴賤はないということになる｡どんな生産活動をするかという「結果」よりも「健全な態度」を重視する傾向がある｡おそらくは健全な態度から健全な結果も生まれるという予測も含意しているのだろう｡不健全な態度ではそもそも生産活動すら回避しがちだからである｡</p>
<p>もっと広義的に表現すれば「私たちが社会で生活するうえで生じる義務や責任」が仕事のタスクだという｡</p>
<p>たとえば環境保護や動物の保護､ボランティア活動なども仕事のタスクに含まれるという説明する人もた｡</p>
<p>仕事のタスクの本質は条件つきの「信用関係」である｡環境保護活動に貢献することは自分の幸せのため､動物の保護も自分の幸せのためというギブアンドテイク関係が重要になるのだろう｡たとえば企業の環境保護活動も､ただ慈善でやっているのではなく､節税や企業のイメージアップという目的があるといえる(なんらメリットがなければ株主が許さないだろう)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:仕事のタスク</p>
<p>「社会の中で与えられた仕事のことです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14P<br />
「すべての生産活動を仕事のタスクと呼ぶ｡職業だけにとどまらず､私たちそれぞれが役割としてもっている生産的な活動すべてを指す｡私たちが社会で生活するうえで生じる義務や責任も､仕事のタスクにあたる｡環境の浄化や動植物の愛護など､人間以外の自然や環境との付き合いも仕事のタスクに含まれる｡遊びも､仕事のタスクに分類できる｡仕事のタスクをこなせない場合､他のタスクをこなすのも難しい｡」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,76-77p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc10">「対人関係で傷つきたくない」引きこもりやニート</span></h3>
<p>この段階でつまずいてしまったのが「ニート」や「引きこもり」と呼ばれる人達らしい｡就職活動の失敗や上司からの叱責などで「<b>自分は価値がない</b>」と思わせられることを恐れているかもしれない｡根底には「<b>対人関係で傷つきたくない</b>」という目的がある｡</p>
<p>就職活動さえうまくできていれば自分はなんでもうまくいったのにと「<b>可能性の中で生きる</b>」という優越性なども目的にしているのかもしれない｡</p>
<p>もちろん「ニート」や「引きこもり」の場合でも他人のせい、社会のせい､トラウマのせいにして逃げるのではなく､課題にきちんと向き合っている場合､努力している場合はその足取りが重いにせよ､まずいていないのだろう｡</p>
<p>他の課題も同様であるが､「課題から言い訳をして逃げたり､避けたりしていること」が「つまずいている」状態だと言える｡いわば転んだまま立ち上がらずに止まっている状態である｡一時的に無職であるからと言って必ずしも逃げているとは限らない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ニート､引きこもり<br />
「哲人『そして､この段階の対人関係でつまづいてしまったのが､ニートや引きこもりと呼ばれる人たちです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,112p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">その場かぎりの関係性</span></h3>
<p>たとえば仕事先の人間は､取引が破綻すると困るから裏切らないだろう､というような条件つきの「信用関係」で結ばれている｡</p>
<p>また､仕事の時間だけの関係であり､仕事をやめたりすると関係が途切れる｡いわゆる「<b>その場限りの関係</b>」である｡次に扱う交友の関係とは区別される｡たとえば仕事場で上司と談笑をした､仕事外で飲み会をしたからといって､上司と交友の関係を結んでいるとは必ずしも言えない｡アドラーの言う交友(信頼関係)はわれわれが思う以上にハードルが高い｡我々が友人だと思ってる人すら､交友関係が結べていないことはありうる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:その場限りの関係性<br />
「青年『ああ､そうなんですよ！学校や職場のような「場」があれば､まだ関係も築けるんです｡もっとも､その場かぎりの､表面的な関係ではありますが｡ところが､そこから個人的な関係にまで踏み出すこと､あるいは学校や職場とは別の場所で友人を見つけること｡これはきわめてむずかしい｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,114p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc12">「交友のタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc13">交友のタスクとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>交友のタスク</strong></span>：</big>周囲の人との対人関係を良好にすること｡たとえば友人などがその顕著な例である｡</p>
</div>
<p>・仕事の課題よりは難しいという｡この段階でつまずいてしまったのは「ぼっち」などと呼ばれる孤立した人達かもしれない｡</p>
<p>交友の場合は<b>無条件の</b>「<b>信</b><b>頼</b><b>関係</b>」で結ばれているということになる｡無条件に相手を信頼することは信用することよりも難しく､勇気のいることである｡友人にお金を担保なしで借す場合を考えてみればその難しさがわかる｡</p>
<p>・職場の上司や同僚と「友達」になれといっているわけではない｡しかし彼らと「友達」になるなといっているわけでもないだろう｡同僚が大切な親友であり､かつ仕事仲間であるということはありうるのではないだろうか｡この場合は信用しつつ信頼するという表現は一種の形容矛盾であるから､信頼に１本化されるのだろう｡</p>
<p>「仕事場で同僚や上司を無条件に信じることは適切なのか」と問われれば私も困る｡しかしアドラーの言う「無条件」とは「何でもかんでも鵜呑みにする」というイエスマン的なものではなく､いかなる場合も関係を切ってはいけないというような聖人的なものでもない｡無条件の信頼はあくまでも対人関係を良くする、対等で横の関係でいられるための「手段」であると考える｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:交友のタスク</p>
<p>「周囲の人との対人関係を良好にすることです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14p<br />
「交友のタスクとは､他人とどう付き合うかという課題を指す｡職場の上司や同僚や部下､友人や隣近所の人々などとの付き合い方の問題｡交友のタスクでは､まわりへの思いやりが仕事のタスクよりも必要とされている｡交友のタスクがうまくいっているということは､他人と人間同士としてお互いに尊敬しあい､協力して生きている状態のことをいう｡」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,78p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">交友には「この人と交友しなければならない理由がひとつもない」</span></h3>
<p>岸見さんによれば交友には「<b>この人と交友しなければならない理由がひとつもない</b>」という｡とはいえ､入口として仕事づきあいという理由があったとしても､その経過のうちに理由が溶けて消えることはあるだろう｡</p>
<p>これは言い方の問題であるといえる｡なぜならば目的のない行動はないのであり､理由のない行動もないからである｡したがって､「しなければならない」という強制的な面に注目する必要がある｡たとえば仕事場では､ほとんど強制的に信用関係を結ばざるをえない｡嫌な上司や同僚､取引先とも関係せざるをえない｡</p>
<p>しかし個人的な友人関係ではそのような強制はない場合が多い｡「<b>この人が好きだ</b>」という内発的な､非強制的で自発的な動機､理由によって結ばれる関係だという｡これは相手からしてもそうであり､だからこそ勇気がいるもの､仕事の対人関係よりも築くことが難しいものとなる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「この人と交友しなければならない理由がひとつもない」<br />
「哲人『一方､交友には「この人と交友しなければならない理由」が､ひとつもありません｡利害もなければ､外的要因によって強制される関係でもない｡あくまでも「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれてく関係です｡先ほどあなたのいった言葉を借りるなら､その人の持つ「条件」ではなく､「その人自身」を信じている｡交友は､明らかに「信頼」の関係です｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,184p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">「われわれは交友において､他者の目で見て､他者の目で聞き､他者の心で感じることを学ぶ」</span></h3>
<p>アドラーは「<b>われわれは交友において､他者の目で見て､他者の目で聞き､他者の心で感じることを学ぶ</b>」と述べているという｡これは共同体感覚の定義であり､共同体感覚を「交友」を通して学んでいくことが述べられている｡</p>
<p>そして重要なのは､交友のタスクを回避するような人間は共同体に居場所を見いだすことができないという｡つまり､幸せを感じることができないということになる｡また､さらに重要なのは人間が最初に交友を学ぶ場所が「<b>学校</b>」だという｡それゆえにアドラーは教育を重視しているのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 「われわは交友において､他者の目で見て､他者の目で聞き､他者の心で感じることを学ぶ」</p>
<p>「哲人『「交友」についてアドラーは､こんなふうに語っています｡「われわは交友において､他者の目で見て､他者の目で聞き､他者の心で感じることを学ぶ」のだと｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,178p</p>
<p>キーワード:学校､教育</p>
<p>「哲人『子どもたちが最初に「交友」を学び､共同体感覚を掘り起こしていく場所｡それは､学校なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,179p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">ライフスタイルを人によって使い分けることは可能か？</span></h3>
<p>岸見さんは「<b>人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません</b>」と説明し､「もしもあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら､あなたは自分でも気づかないうちに､あらゆる対人関係を『縦』でとらえているのです」という｡</p>
<p>この考えを引き伸ばすと､誰か一人でも信用関係を築いているとしたら､あなたは自分でも気づかないうちにあらゆる対人関係を「信用関係」でとらえているということになりかねない｡信用関係が縦の関係を伴わない場合は別かもしれない｡意識の上では横の関係で､信用関係を結ぶということは可能か｡銀行員が自転車操業の中小企業に対して､意識の上では見下したりせずに､対等な人間同士と考えつつ､しかし担保を求めるということはあるだろうか｡おそらくあるだろう｡いや､可能だろう｡可能だろうか｡電気屋があきらかにコスパの悪い在庫のパソコンを「おすすめ」といって売りつける場合はどうだろうか｡古くからあるテーマであり､カントの定言命法ともつながる｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">仕事のタスクをこなすことは信用関係を築くことである｡</li>
<li class="sample">交友のタスクをこなすことは信頼関係を築くことである｡</li>
<li class="sample">信用関係を築くことは信頼関係を築くことと矛盾する｡それゆえに､信用関係を信頼関係へと変えていく必要があるのか｡</li>
</ol>
<blockquote>
<p>キーード:ライフスタイルを使い分けることはできない<br />
「哲人『とはいえ､あなたは親や上司､また後輩やその他の人びとに対して､縦の関係を築いているはずです｡』…哲人『ここは非常に重要なポイントです｡縦の関係を築くか､それとも横の関係を築くか｡これはライフスタイルの問題であり､人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません｡要は「この人と対等に」「こっちの人とは上下関係で」とならないのです｡』…哲人『もしもあなたが誰かひとりでも縦の関係を築いているとしたら､あなたは自分でも気づかないうちに､あらゆる対人関係を「縦」でとらえているのです』」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,214p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">競争原理から協力原理へ､出発点から通過点へ</span></h3>
<p>信用関係は「<b>出発点</b>」として考え､いつか乗り越えられる踏み場と考えていくとする｡一生､並行関係として使い分けるようなものではないと考えていく｡岸見さんは「意識の上で対等であること､主張すべきことは堂々と主張すること」を強調している｡</p>
<p>もし仮に､取引先と職責として担保付で契約しなければならないとしても､意識の上ではこの取引先の人とは対等なんだ､信頼しようという状態になることが重要なのだろう｡いわゆる「<b>仲間</b>」であるという意識､「<b>競争原理</b>」ではなく「<b>協力原理</b>」の上で相手と接するのである｡なんでもかんでも無担保で貸し付けることが協力とはならないだろう｡相手が自分で担保を用意するというのは「相手の課題」であると考えていく｡もちろん担保についてアドバイスなども勇気づけになりうる場合がある｡相手を蹴落とそうとして過剰な担保を要求したり､同僚より業績を出すために過剰な担保を要求する場合は不適切だということになる｡仮面をかぶって「仕事」だからを言い訳にするのではなく､「仲間」だから適切な担保を要求するのだろう｡共に生産する仲間として見ていくのである｡</p>
<p>たとえば店員のミスに大声を出して激怒したり､近所の人にちょっとしたことで罵倒したり､職場の上司に失礼な口をきいてしまったりするケースはどうだろうか｡怒らないほうが良いサービスをしてもらえるというような見返り意識や､怒って良いサービスをしてもらうというような敵意識は好ましくないだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:競争原理､協力原理､ほんとうの民主主義</p>
<p>「哲人『競争原理ではない､「協力原理」に基づいて運営される共同体です｡…他者と競争するのではなく､他者との協力を第一に考える｡もしあなたの学級が協力原理によって運営されるようになったら､生徒たちは「人びとはわたしの仲間である」というライフスタイルを身につけてくれるでしょう』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,139p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">追記(2024/04/29):アドラー心理学は「民主主義の心理学」</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>民主主義の心理学</strong></span>：</big>・競争原理ではなく､協力原理によって成り立っているような政治体制のこと｡言い換えれば､縦の関係ではなく横の関係による政治である｡岸見さんはアドラー心理学は「横の関係に基づく民主主義の心理学」だと述べている｡</p>
</div>
<p>メモ:どのような政治体制が望ましいのか､という政治の分野の素材となるので記憶しておく</p>
<blockquote>
<p>キーワード:本当の民主主義</p>
<p>「哲人『そんな事態を招かないためにも組織は､賞罰も競争もない､ほんとうの民主主義が貫かれていなければならないのです｡賞罰によって人を操作しようとする教育は、民主主義からもっともかけ離れた態度だと考えてください｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,139p</p>
<p>「哲人『一方､アドラー心理学の提唱する「横の関係」を貫くのは、協力原理です｡誰とも競争することなく､勝ちも負けも存在しない｡他者とのあいだに知識や経験､また能力の違いがあってもかまわない｡学業の成績､仕事の成果に関係なく､すべての人は対等であり､他者と協力することにこそ共同体をつくる意味がある｡…アドラー心理学は､横の関係に基づく「民主主義の心理学」なのです｡』」</p>
<p>岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,141p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">交友の関係とは､単なる友人関係にとどまるものか</span></h3>
<p>このケースは仕事のタスクか交友のタスクか迷うところはある｡しかしいずれにせよ､順序の問題で考えられる｡信用から信頼へ､信頼から愛へと成長させていく必要があるからである｡そうした意味では交友ですらもある意味では踏み場であり､愛への経過点である｡比喩として適切かどうかはわからないが､銀行員が企業にお金を貸す際も､まるで「家族」のように愛をもって貸すのである｡一緒にこの国を、この世界を豊かにしていこうという仲間意識で､協力意識で行う｡家族だからといってなんでもかんでもお金を貸すのが「甘やかし」で不適切なように､企業にもできるだけ自立を促すように接する｡</p>
<p>岸見さんの説明では「<b>交友の関係とは､単なる友人関係にとどまるものではありません</b>」と断言している｡つまり､友人以外にも､同僚や近所の人､店員に対して交友の関係を､信頼の関係を築くことは重要だということになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:友人関係</p>
<p>「哲人『ここは多くの人が誤解するところですが､「交友」の関係とは､単なる友人関係にとどまるものではありません｡友人とは呼べない仲であっても､「交友」の関係を結ぶことはよくあります｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,179p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">まずは目の前の人と横の関係を､信頼関係を築くということが重要</span></h3>
<p>岸見さんはマザーテレサが「世界平和のために､われわれはなにをすべきですか」と問われたときに「家に帰って､家族を大切にしてあげてください」という回答を引用している｡<b>まずは目の前の人と横の関係を､信頼関係を築くということが重要</b>だという話である｡自分のできることからコツコツとしていく｡それがやがて平和に繋がるという話である｡もちろん､他人を信頼するためにはまず自己受容が必要になる｡この自己受容のために出発点として仕事のタスクは重要になると考える｡</p>
<p>・するべきこと､役割というものが共同体ごとに漠然とあり､それらを守ることがまずは重要になる｡家族では年長者に従うこと､学校では先生に従うこと､仕事場では上司に従うことが漠然と共通感覚(コモンセンス)となっている｡</p>
<p>もちろん､必ず従うべきというわけではなく､より大きな共同体の視点(共同体感覚)から見た場合に従うべきではないケースもある｡従わないとしても課題につまずいていることにはならないだろう｡しかしその判断がなかなか難しい｡共同体感覚が育っていないとそもそも判断できないだろう｡</p>
<p>・「友人が多ければ多いほど課題を解決しているわけではない」ことに注意する必要がある｡とはいえ､この「友人」というのがどういう意味かにもよるだろう｡「交友のタスク」における交友で満ちている人は､多くてもいいのではないかと考える｡そもそも人類全員と仲間意識､交友意識をもてればそれにこしたことはないからである｡一般的なイメージでは「親友」に近い｡一般的には信頼はしていないが会ったら話す程度でも「友人」と呼ぶ場合もあるだろう｡</p>
<p>「関係の距離と深さ」が重要だという｡たとえばほとんど話さず､特に信頼もあまりない「友人」が１００万人いても､数人の互いに信頼､尊敬できる「親友」がいたほうが課題をこなしているといえるのかもしれない｡</p>
<h2><span id="toc21">「愛のタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc22">「愛のタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>愛のタスク</strong></span>：</big>主に異性関係と家族関係の２つの対人関係を良好にすること｡</p>
</div>
<p>・最も難しい課題だという｡詳細は勇気づけの項目で扱う｡一言で言えば､自己中心化から脱自己中心化へ向かう過程だと言える｡</p>
<blockquote>
<p>「夫婦や親子などの家族関係やパートナーシップのことです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14p<br />
「愛のタスクは異性関係と家族関係の２つからなる｡性的な対人関係では､もっとも親密な形でのコミュニケーションとお互いの協力を必要とする｡愛のタスクはライフタスクの中では一番難しいもの｡」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,80p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc23">「セルフタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc24">「セルフタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>セルフタスク</strong></span>：</big>自分自身との付き合いのことで､自分を受け入れること｡また､健康､趣味､遊び､自分をくつろがせることも含まれる｡</p>
</div>
<p>※アドラーの直接的な考えではなく､「現代のアドラー心理学」で追加されたものだという｡「自己受容」と関連するものであると考えられる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:セルフタスク</p>
<p>「自分自身との付き合いのことで､自分を受け入れることです｡また､健康､趣味､遊び､自分をくつろがせることも含まれます｡」</p>
<p>永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc25">「スピリチュアルタスク」</span></h2>
<h3><span id="toc26">「スピリチュアルタスク」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>スピリチュアルタスク</strong></span>：</big>人間を超えた存在との付き合いのこと｡例えば大自然､神仏や宇宙､瞑想や宗教儀式など｡</p>
</div>
<p>※アドラーの直接的な考えではなく､「現代のアドラー心理学」で追加されたものだという｡「他者貢献」に関連し､愛が人間を超えてどこまでも広がっていくようなイメージに関連すると考えられる｡</p>
<p>特定の個人や共同体より「大きな共同体」という意味､またその向こうのあらゆる生物を含めた極限の共同体という意味では「人間､人類を超えた存在」だといえる｡</p>
<p>とはいえ､特定､不特定問わず宗教や政治団体に加入することを推奨しているわけではないだろう｡いわば態度や意識の問題であるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:スピリチュアルタスクとは<br />
※現代のアドラー心理学で追加されたもの<br />
「人間を超えた存在との付き合いのことです｡大自然､神仏や宇宙､瞑想や宗教儀式のことです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,14p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc27">
「縦の関係」と「横の関係」</span></h2>
<h3><span id="toc28">縦の関係とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>縦の関係</strong></span>：</big>上下関係で判断する人間関係のこと｡</p>
</div>
<p>たとえば「褒める」という行為には能力のある人が能力のない人に下す評価という上下関係がある｡また､そのような縦の関係には「操作」という目的があるという｡</p>
<p>上下は「金銭」､「年齢」､「職業」､「業績」､「職責」､「学歴」や「容姿」など様々な価値観に基づいて判断される｡</p>
<p>アドラーは<b>縦の関係を明確に否定している</b>という｡ちなみに「褒める」や「叱る」というのも縦の関係であるということに強く注意する必要がある｡</p>
<p>また､縦の関係の中からそもそも(他者との比較による)「劣等感」や「劣等コンプレックス」が生じる｡</p>
<p>また､他者の課題に不必要な「<b>介入</b>」をしてしまうという｡いわゆる「<b>土足で相手の領域に踏み入る</b>」というもの｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:縦の関係</p>
<p>「哲人『誰かにほめられたいと願うこと｡あるいは逆に､他者をほめてやろうとすること｡これは対人関係全般を「縦の関係」としてとらえている証拠です｡あなたにしても､縦の関係に生きているからこそ､ほめられてもらいたいと思っている｡アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し､すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,198p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">横の関係とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>横の関係</strong></span>：</big>「同じではないけれど対等」という人間関係のこと｡</p>
</div>
<p>稼ぎや年齢､職業は違ったとしても働いている場所や役割が違うだけで「<b>人間的には対等</b>」だと考えていく｡たとえば大人と子どもでは筋肉､知識､身長や稼ぐ量などは違う｡しかし「対等」であると考えていく｡特に「心」という領域は対等だという点が重要である｡それゆえに「教えてあげる」という目線ではなく､尊敬する目線で､まるで親友のように対等な関係において教育を行うことが重要になるという｡とにもかくにも､まずは相手を信じることが重要である｡</p>
<p>アドラーは横の関係を重視しており､横の関係において「勇気づけ」が可能になるという｡</p>
<p>問題は「適切､良好な対人関係」とはなにかという点である｡</p>
<p>まず､大前提として「ケースバイケース」であるといえる｡時代、文化､諸状況次第であり､「これは絶対に良好な対応ではない」と言い切ることは難しい｡日本社会では適切ではないコミュニケーションとされがちな「空気を読まないこと」も適切な場合がありうるだろう｡</p>
<p>良好な対人関係には「共同体感覚」を伴っているというような何らかの基準が考えられる｡その具体的なあり方のひとつが「横の関係」だろう｡アドラーの諸概念は結局は「共同体感覚」につながっていく｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:横の関係</p>
<p>「哲人『経済的に優位かどうかなど､人間的な価値にはまったく関係ない｡会社員と専業主婦は､働いている場所や役割が違うだけで､まさに「同じではないけれど対等」なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,199p</p>
<p>「哲人『そもそも劣等感とは､縦の関係の中で生じてくる意識です｡あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば､劣等コンプレックスが生まれる余地はなくなります｡』」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">仕事の課題における人間関係について</span></h3>
<p>他者との協力なしで成立する仕事は基本的にない｡それゆえに､直接的・間接的に必ず<b>対人関係</b>が問題になってくる｡</p>
<p>我々が使っているパソコン､スマホ､シャーペンや椅子､机すら誰かの仕事(協力)によってはじめて可能になっている｡購入する際の貨幣も､誰かの仕事によって維持されているのである｡自分一人だけでなんでもかんでも仕事において生産をしているわけではない｡</p>
<p>上司との関係､会社の中の様々な部署の人間との関係､取引先との関係､顧客との関係､ライバル企業の社員との関係､さまざまな人間関係の中で我々は仕事をしている｡</p>
<p>なにかを「生産」するためには彼らと良好な関係を築いていく必要がある｡周りを「敵」だと思うような関係ではなかなか難しいだろう｡ただし現実問題として､何でもかんでも相手を信頼しているとビジネスでは痛い目に遭うことがある｡「まずは疑うことが基本」という言い分もわからなくはない｡また､ビジネスの失敗は自分だけの問題ではない｡</p>
<p>それゆえに「横の関係が重要だから損をしてもいい」という考えは必ずしも通用しない｡結局は１か０かではなく､また公私は別という仮面として割り切るのでもなく､バランス感覚(共同体感覚)に基づくことが重要なのだろう｡「<b>何が他者に自立を促すのか？</b>」という問いもヒントになる｡甘やかしと援助(勇気づけ)の違いもヒントになる｡</p>
<p>仕事場や生活において信頼関係で横の関係でいるなんてことはできるのか｡不可能ではないか､と思われることもある｡しかしアドラーはこのようにいう｡</p>
<p>「<b>誰かが始めなければならない｡他の人が協力的でないとしても､それはあなたには関係ない｡わたしの助言はこうだ｡あなたが始めるべきだ｡他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく</b>」</p>
<blockquote>
<p>「哲人『もう一度､アドラーの言葉を贈りましょう「誰かが始めなければならない｡他の人が協力的でないとしても､それはあなたには関係ない｡わたしの助言はこうだ｡あなたが始めるべきだ｡他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,282p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc31">交友の課題における人間関係について</span></h3>
<p>交友の課題は周りへの思いやりが仕事のタスクよりも必要とされるという｡また､交友のタスクがうまくいっているということは､「他人と人間同士としてお互いに尊敬しあい､協力して生きている状態のことを」を指すらしい｡</p>
<p>要するに､共同体感覚に充ちており､横の関係でいられるということである｡横の関係は全ての関係で重要になるが､特に重要になるのが交友と愛なのだろう｡交友が仕事へ､愛が交友へとだんだんと広がっていく、浸透していくようなイメージであると考える｡</p>
<p>例えばモノづくりの職人は営業職なと比べると関わる人が少なく､また素晴らしいものを作っていれば最低限の課題を達成できる｡間接的には多様な人々が確かに関わっているが､交友のように直接的な関係として直面することは少ないように思える｡</p>
<p>「<b>やることをやっている</b>」という点を仕事の課題だとすれば､交友の課題はプラスアルファであるといったところだろうか｡自分の仕事の課題と､同僚や上司との飲み会は必ずしも強い関係がない場合がある｡「やること」という具体的な量として見えるものではなく､「良好な関係自体」という抽象的な質にあるといえる｡「行為」ではなく他者の「<b>存在そのもの</b>」に価値があると思えるような､そうした態度である｡</p>
<p>「プライベートは係わりたくない」といって仕事の課題のみに目を向ける人もいる｡もちろん､飲み会などの社外の付き合いに参加することが良好な対人関係とは限らない｡</p>
<p>しかし交友は仕事の課題と重なることもある｡仕事場の同僚や上司との人間関係も固有の課題に含まれるからだ｡ちょっとしたことでも「ありがとう」や「ごめんなさい」を言うことができるのかなども大事だろう｡そうしたちょっとした交友関係が､仕事の生産性につながっていくこともある｡自分より劣っているから感謝しない､謝罪しないというような縦の関係で「やること(仕事)はやっているから問題ない」という態度は不適切だろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「存在そのもの」<br />
「このような危険を回避するために､『存在』そのものに注目したいのです｡何かをしたからではなく､ただ『存在』していることがすでに喜びであるということを伝えてみます｡ともすれば子どもたちやまわりの人についての理想を頭に描いてしまいます｡たとえば､親のいうことには一切口答えをしない理想的に従順な子どもを考えます｡そうなると現実の目の前にいる子どもはその理想から引き算することになります｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,72p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc32">愛の課題における人間関係について</span></h3>
<p>愛の課題では最も親密な形でのコミュニケーションとお互いの協力を必要とするという｡アドラーは「支配」や「束縛」といった対人関係を認めないという｡そうした対人関係は「不信感の現れ」であるという｡</p>
<p>だからといって積極的に浮気を肯定しているわけではなく､やはり「横の関係」が重要だという｡お互いに対等な人格と見ることによって､相手に対して「<b>この人と一緒にいると､とても自由に振る舞える</b>」と思えるような関係が「愛」だという｡家族の関係でも過度に甘やかしたり､競わせたり､放置したりといったものは良好な対人関係とはいえないだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:愛</p>
<p>「哲人『一緒にいて､どこか息苦しさを感じたり､緊張を強いられるような関係は､恋ではあっても愛とは呼べない｡人は「この人と一緒にいると､とても自由に振る舞える」と思えたとき､愛を実感することができます｡劣等感を抱くでもなく､優越性を誇示する必要にも駆られず､平穏な､きわめて自然な状態でいられる｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,116-117p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">縦の関係の例</span></h3>
<p>あいつは能力が低いから価値がない､あいつは顔が悪いから価値がない､あいつは能力が高いから積極的に助けよう､あいつは褒めておけば調子に乗って手伝ってくれるというようなケースが考えられる｡</p>
<p>かといって足手まといの人間に過度に介入し､甘やかすことが適切なことだとはいえない(これも上から下の態度である)｡しかし援助を求められてきたら､なんらかの助け船を出してあげるべきだろう｡では､「<b>どのような助け舟を出すべきか</b>」というのはケースバイケースである｡</p>
<p>自分が協力できる分だけ､あるいは相手の勇気づけになる方向で行う援助が重要になる｡ポイントは<b>相手に自立を促すような援助</b>である｡何でもかんでも答えばかりを教えてあげるのでは自立につながらない｡自分で考える力も重要である｡</p>
<h3><span id="toc34">縦の関係は「幸せ」へと導かない</span></h3>
<p>縦の関係は逆投射され､「私も彼らにそう思われているのかもしれない」と常にビクビクすることになる｡「<b>自分は能力が人よりないと価値がない</b>」と思うようになる｡</p>
<p>常に他者と比較し､比較されていると感じるようになる｡そしてもしそのショックや不安に対して努力することからも逃げるようになると､とうとう「言い訳」をはじめるようになる｡親の教育があいつはたまたまよかっただけだ､運が良かっただけだ､顔が良かっただけだなど｡そうしてますます努力から遠ざかり､また遠ざかっていることに不安を感じる｡ハリネズミのように常にトゲを出し､仲間であるはずのハリネズミにも常にトゲを出されているように感じ､接することを恐れるようになるイメージかもしれない｡</p>
<h2><span id="toc35">「課題の分離」</span></h2>
<h3><span id="toc36">課題の分離とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>課題の分離</strong></span>：</big>自分と他者の課題をきちんと分けること｡</p>
</div>
<p>対人関係は「課題の分離」が出発点だという｡「これは誰の課題なのか？」と問うことが重要である｡自分と他者の課題を判断する基準は「<b>誰が責任をとるか</b>」である｡</p>
<p>たとえば子どもが宿題をしないという選択をした場合にその結末の責任を引き受けるのは「子ども」であり､宿題は親の課題ではなく「子ども」の課題となる｡</p>
<p>自分について他者がどう思うかは他者の課題であり、自分の課題ではない｡</p>
<p>ほとんどあらゆる対人関係のトラブルは「課題の分離に失敗していること」から生じている｡相手の課題に<b>土足で介入</b>したり､介入されるとトラブルになり､悩むようになる｡これは「<b>他所は他所</b>」といって相手を敵と見たり､無関心の態度ではないことに強く注意する必要がある｡仲間だからこそ､その自立を助けるために介入するかどうかを見極めることが重要だという話である｡</p>
<p>・他者への課題の土足の介入は「縦の関係」に基づいている｡上から下へと「やってあげる」という態度､あるいは条件つきの「見返り」の態度がある｡「横の関係」に基づいていれば､介入ではなく「信頼」が重要になる｡相手は自分の課題をなんとか克服できることを信頼する｡</p>
<p>相手がこちらに頼んできた場合に「それはあなたの課題だ」と全て断ることを推奨しているわけではない｡話し合って自分が手伝える範囲の手伝いは良好な関係を築くことになる｡人は他者の協力が直接的・間接的になければ生きていくことはできない｡適切な「援助」や「勇気づけ」は対等な人格という横の関係から生じてくる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:課題の分離</p>
<p>「ところが誰の課題かわからないほど混同されているのが現状ですから､もつれた糸をほぐすように､これは誰の課題､これは誰の課題というふうに課題をきちんと分けていかなければなりません｡これを『課題の分離』といいます｡頼まれもしないのにこちらが勝手に判断して､相手は助けを必要としているであろうと考えて口出しをしないということです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,75p<br />
「しかし対人関係は､課題を分離したところで終わるものではありません｡むしろ課題を分離することは､対人関係の出発点です｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,178p<br />
「哲人『およそあらゆる対人関係のトラブルは､他者の課題に土足で踏み込むこと――あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること――によって引き起こされます｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,140p<br />
「誰の課題かを見分ける方法はシンプルです｡『その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か？』を考えてください｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,141p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">特定の対人関係を切ることについて</span></h3>
<p>ただし､この人と対人関係を築きたくないと思った場合は<b>切ることも重要</b>だという｡切るかどうかは自分の課題であり､他者の課題ではない｡援助を断るかどうかも「自分の課題」である｡八方美人になれといっているわけではない｡</p>
<p>他者の目を､承認ばかりを気にして生きていく「<b>承認欲求にまみれた人生</b>」をアドラーは否定している｡そこに「<b>自由</b>」がないからである｡不自由な人は承認ばかりを気にするので人目を気にし､人を切ることができない｡そうやって押しつぶされていく｡こうして考えると､アドラー心理学は「答え」を授けるのではなく「考える態度」を授ける学問であるように思えてきた｡自分に自信がなく､なんでもかんでも他者に甘え､マニュアルや正解を求めている人は「役に立たない」と感じるのかもしれない｡あるいは「変わる必要がある」と感じるかもしれない｡</p>
<p>メモ(2024/04/29):対人関係をよくしたいとおもう相手に「無条件の信頼」を手段として用いる｡もしよくしたいと思わない相手には「無条件の信頼」を手段として用いずに､関係を切っていいということになる｡もし誰も彼も無条件に信頼しなさいというのは「お人好しのお馬鹿さん」だという岸見さんのくだりはたしかにその面もあるかもしれないと感じた｡しかしなお､難しい｡もし我々意識が広がっていくとすれば､我々の身体の病気の盲腸やがん細胞が切り取られる感覚で､特定の部分が切り取られていくのだろうか｡この比喩は危険思想にも繋がりかねないが､重要な要素を孕んでいる｡いずれにせよ切除の基準が重要になる｡単なる快不快の基準では望ましくないだろう｡それが社会のためになるか､というもう１つの基準も重要になる｡自由と貢献の間で揺れている｡個人は完全な我々意識になることはできない｡それゆえに揺れ続けなければならない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:対人関係を切る</p>
<p>「哲人『ここは明確に否定しておきましょう｡アドラー心理学は､道徳的価値観に基づいて「他者を無条件に信頼しなさい」と説いているわけではありません｡無条件の信頼とは､対人関係をよくするため､横の関係を築くための「手段」です｡もし､あなたがその人との関係をよくしたいと思わないのなら､ハサミで断ち切ってしまってもかまわない｡断ち切ることについては､あなたの課題なのですから』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,234-235p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">できうる限りの予測の責任</span></h3>
<p>とはいえ､「対人関係を切る問題」はなかなか難しい｡共同体感覚に照らし合わせて､援助を断ることが適切なのか､関係を切ることが適切なのかが決まる｡</p>
<p>単なる個人の自己中心的な快不快で決めてよいものではないだろう｡個人の快に共同体への貢献が重なるという点が重要であり､援助や関係を切ることがそれとどう関係しているかを明らかにする必要がある｡無限に広がるようなプラスやマイナスの連鎖があり､ある項目を犠牲にすることが結果的に全体にプラスになる場合もあれば､周りまわってマイナスになることもある｡</p>
<p>そうした正味の正確な機能の計算を人間は完全ではないのですることはできない｡しかし不完全ながらも「<b>できうる限り</b>」そうした計算を試みていく必要､責任はあるだろう｡その「できうる限り」の予測の責任を全うせずに､結果に対して貢献したという意味付けを行うことは難しいと私は考える｡これはウェーバーから学んだことである｡</p>
<p>おすすめ記事:<a href="https://souzouhou.com/2021/11/16/max-weber-1/"> 【基礎社会学第四回】マックス・ウェーバーの価値判断や価値自由とははなにか？</a></p>
<h2><span id="toc39">「共通の課題」</span></h2>
<h3><span id="toc40">共通の課題とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共通の課題</strong></span>：</big>当事者が話し合って共同の課題にするという了解がある場合の課題のこと｡主に共通の課題になるのは「自分ではどうしても解決できない課題」である｡</p>
</div>
<p>基本的にはライフタスクは「個人の課題」であり､本人の責任において解決しなければならないものだという｡つまり､自分の課題に介入させない､他者の課題に介入しないが基本となる｡そのうえで協力や援助をしていこうという話｡では､介入と矛盾しない援助とは具体的にどのようなものか､という疑問が生じる｡これは「勇気づけ(技法)」と関連してくるものである｡</p>
<p>たとえば漫画が売られるケースを考えてみる｡漫画家はストーリーを考えたり､ネームを書いたりする課題がある｡しかしどうしても一人では連載に追いつかない場合､アシスタントにペン入れなどを依頼する場合がある｡</p>
<p>お互いが話し合い､ここは私ならできる､ここはできないなどと話し合って課題の分担を行うことになるだろう｡</p>
<p>また､漫画が完成したら､あるいは完成の過程で編集の担当者が誤字脱字やコンプライアンスなどについてチェックする｡さらに印刷工場への依頼､販売担当者への依頼､グッズの管理の依頼などさまざまなタスクの分担があるだろう｡</p>
<p>各々の課題はあるものの､しかし共通の「漫画を世に送り出す」という課題は共通のものであるといえる｡あるいは「共に収入を稼ぐ」という共通の課題があるのかもしれない｡一人よりも協力して課題に取り組んだほうがより大きな成果を出せるというコラボレーション効果､創発効果も期待できる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共通の課題</p>
<p>「…このような場合には､相手の課題が自分との『共同の課題』となるので､課題の克服に貢献するようにします｡もちろんある程度のラインは必要です｡『ここまでは協力できる』『ここからはできない』と線引きしておかないと､責任の所在があいまいになつてしまい､かえって人間関係にヒビが入る可能性があります｡…他人に踏み込みすぎると人間関係をこじらせる｡境界線を見極めること｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,64p</p>
<p>「本来は先に見たように個人の課題であり､本人の責任において解決しなければならないのです｡共通の課題にするためには､まず､共同の課題にしてほしいという依頼があり､共同の課題にしようという了承があることが必要です｡すなわち､両方､あるいは､複数の当事者が話し合って共同の課題にするという了解が必要なのです｡いずれにしても共同の課題にするのはどうしても自分では解決できないことについてだけです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,76-77p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc41">境界のぼやけについて</span></h3>
<p>ところで､「我々という感覚」である共同体感覚が拡大していく場合､「私の課題」や「あなたの課題」という境界がぼやけてくることになるといえる｡この場合に「介入」という概念は成り立つのだろうか｡</p>
<p>そうした適切な境地に達している場合は適切な援助ができる状態であり､そうした心配をしなくていいとも言える｡もし不必要な介入ばかりをするようであれば､「我々という感覚」という外面の内側に「私のため」という隠された目的があるケースなのかもしれない(メサイアコンプレックス)｡いわゆる「善意の押しつけ」である｡〇〇は人類で共に大事にするべきだ､あなたもするべきだ､あなたは〇〇を使ってはいけない､あなたの〇〇は〇〇に悪いから捨てておいたなどのケースが考えられる｡</p>
<h3><span id="toc42">センスについて</span></h3>
<p>アドラー心理学を学んでいて思うのは､ところどころ「<b>センス</b>」が問題になってくるのだと思う｡なぜなら「<b>絶対的な正解は分からない､他者は理解できない</b>」という前提でアドラーは話しているからである｡この前提の上で､より正解だと､適切だと思えるようなセンス≒共通感覚を磨いていくことになる｡ベイトソンがバリ島のセンスを綱渡りというバランス感覚で表現したことをわたしは思い出す｡また､「動いていった先に､過程で､自ずとバランスが取れている」というようなイメージともつながる｡</p>
<p>例えば「お金を貸す」という手伝いは拒否する場合もある｡子どもの教育の場合は「アドバイスをする」というのはOKだが､「宿題を代わりにやる」というのはNGだろう｡</p>
<h2><span id="toc43">
行動面の目標と心理面の目標</span></h2>
<h3><span id="toc44">
行動面の目標と心理面の目標とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動面の目標</strong></span>：</big>①自立すること｡②社会と調和して暮らせること｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>心理面の目標</strong></span>：</big>①わたしには能力がある､という意識｡②人々はわたしの仲間である､という意識</p>
</div>
<p>・これらの目標は「ライフタスク」と向き合うことで達成できるという｡</p>
<p>自立することは「他者に過度に甘やかされない」という対人関係につながっている｡社会との調和は縦の関係ではなく横の関係という対人関係につながっている｡</p>
<p>自己能力の意識は「自己受容」につながり､他者への仲間意識は「他者受容」につながっている｡</p>
<p>そして行動面の目標と心理面の目標は､「他者貢献」へとつながっているのである｡「<b>他者貢献によってのみ人間は幸せを感じることができる</b>」とアドラーは述べている｡</p>
<p>また､自己受容､他者受容､他者貢献が「共同体感覚」の条件だとも述べている｡結局は共同体感覚に収束しているのであり､また共同体感覚から始まっているのである｡では､この共同体感覚という思想はいったいどういうものなのかを見ていく｡アドラーの最も重要で最も議論(批判)が多い項目である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:行動面の目標と心理面の目標<br />
「行動の目標が､次の２つ｡①自立すること｡②社会と調和して暮らせること｡そして､この行動を支える心理面の目標として､次の２つ｡①わたしには能力がある､という意識｡②人々はわたしの仲間である､という意識｡…そしてこれらの目標は､アドラーのいう『人生のタスク』と向き合うことで達成することができるわけです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,110p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc45">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc46">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc47">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc48">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc49">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc50">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc51">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc52">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc53">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc54">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc55">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc56">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc57">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc58">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc59">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc60">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc61">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc62">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
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			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 08:52:13 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､基礎用語編(ライフスタイル)です(5)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-5" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-5">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">その他注意事項</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">「ライフスタイル」</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">「ライフスタイル」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">適切なライフスタイルと不適切なライフスタイル</a><ol><li><a href="#toc10" tabindex="0">適切なライフスタイルと不適切なライフスタイルとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">類型とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「私は能力がある」という意識</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">ライフスタイルの主要な形成時期</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">ライフスタイルの主要な形成時期について</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">ライフスタイルの影響因</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">内的要因と外的要因</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">ライフスタイルに与える遺伝の影響について</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0"> (１)家族布置について</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">家族価値について</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0"> (２)環境、文化について</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">【コラム】性格の遺伝について</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">「私的感覚」と「共通感覚」</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">私的感覚とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">共通感覚とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">「自己犠牲感」は貢献感か？</a></li></ol></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">ライフスタイルを見極める方法</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">そもそも自分のライフスタイルを自分は理解しているか</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">どうやってライフスタイルを理解することができるのか</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">回避するか､向き合うか</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">ライフスタイルを変える方法</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">Q あなたはいま幸せだと感じているか､不幸せだと感じているか｡幸せになりたいか｡</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">長く続いてきたライフスタイルほど､変わりにくい｡ライフスタイルの再選択は可能か？</a></li></ol></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc34" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc43" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p><iframe loading="lazy" title="YouTube video player" src="https://www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk?si=zoBe4I34o0Namq9a" width="560" height="315" frameborder="0" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">その他注意事項</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<h3><span id="toc4">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc6">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc7">「ライフスタイル」</span></h2>
<h3><span id="toc8">「ライフスタイル」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフスタイル</strong></span>：</big>「個人の世界観に基づいて､個人が選択する思考や行動のパターン(型)」のこと｡「自分と外界(他者､環境)のとらえ方､ものの見方」､「自己や世界についての意味付けの総体」のこと｡</p>
</div>
<p>「行動原理」という用語とほとんど同義だと考える｡ライフスタイルは先天的なものではなく<b>後天的</b>なものであり､人間が選択して創っていくものであるとアドラーはいう｡</p>
<p>・アドラーはライフスタイルを広義に考えている｡</p>
<p>「本能､衝動､感情､思考､行動､快不快への態度､自己愛､共同体感覚」などのあらゆる要素が関係していると考えている｡</p>
<p>たとえば「信念から行動が出てくる」とアドラーが述べるとき､信念はライフスタイルに近い｡</p>
<p>抽象的な定義では「人間の生き方そのもの」とアドラーは述べている｡ライフスタイルは「性格」や「世界観」と呼ばれることもあるが､「スタイル(型､考え方)」と呼ぶことで「<b>変えることができる</b>」というニュアンスを意図しているという｡たしかに「ヘアスタイルを変える」というように自分の選択によって変えることができるイメージがある｡</p>
<p>とはいえ､人間はヘアスタイルですら容易に変えられないことがある｡私も今まで慣れ親しんだヘアスタイルのほうが安心する｡いきなり坊主や青色の髪にすることはなかなかできない｡実際に､ライフスタイルもほとんどの場合は固定的になりがちであり､大きな変化を加えるためには「<b>勇気</b>」が必要になるといえる｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/f98669dad1215a72ec58d58c636cdd44.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3602" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/f98669dad1215a72ec58d58c636cdd44.png" alt="" width="388" height="493" /></a></p>
<p>・ライフスタイルは<b>どんな形でも表れる</b>という｡われわれが意識的・無意識的に何か行動するとき､思考するとき､感情を出すとき､ライフスタイルに沿ってそれらは行われる｡</p>
<p>つまり､ライフスタイルがそれらを支配するのである｡ライフスタイルは感情などの限られた部分を支配するのではなく､「全体」を支配するものだという｡言い方を変えれば思考や行動はライフスタイルや行動原理に縛られている｡関数のようなものなのかもしれない｡</p>
<blockquote>
<p>
キーワード:ライフスタイルとは<br />
「個人の世界観に基づいて､個人が選択する思考や行動のパターンをアドラーはライフスタイルと呼びます｡ライフスタルは個人が成功と失敗を繰り返し､『～のときは～をするほうが良い』ということを学びながら形成されます｡長く続けてきたライフスタイルは､たとえ自分が不幸だと感じるものであっても､変えるのは困難です｡ただし､共同体感覚を持てば､幸福なライフスタイルに変えることができるとアドラーはいいます｡」<br />
「心理学用語大全」,121P</p>
<p>「ライフスタイルは『自己と世界の現状および理想についての信念の体系』と説明できます｡そのため､ライフスタイルの要素は以下の3つに整理されます｡(１)自己概念､(２)世界像､(3)自己理想」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,16p</p>
<p>「ライフスタイルは､さまざまな心理学派で名付けられたものがすべていっしょになっています｡つまり､本能､衝動､感情､思考､行動､快不快への態度､そして自己愛です｡わたしが『共同体感覚』と呼ぶ他者と生きる感覚もです｡ライフスタイルはどんな形でも現れ､部分にとどまらない全体を支配します｡もしなにか問題があるとすれば､それは大本の行動原理なりライフスタイルの最終目標なりがおかしいのであって､部分的な症状だけがわるいわけではありません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,5p</p>
<p>「重要なのは､人間の生き方そのものが(私はこれを一言で『ライフスタイル』と呼んでいます)､言葉も概念もろくに知らない幼い子どものころに作られているという状況です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,8p<br />
キーワード:ライフスタイルと性格の違い<br />
「ここで『性格』という言葉を使わず､あえて『ライフスタイル』という言葉を使うのは､性悪という言葉に含まれる変わりにくいものだというニュアンスを一掃したいというねらいがあります｡人間の性格はそれほど変わりにくいものではない､それはスタイル､あるいは型であるから､他のものに置き換えることは思われているほど困難なことではない､と考えるのです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,40p</p>
<p>メモ:では､国の型(パターン)はどうなのか｡人間の性格の構造､つまりパターン変数として表示できるのか｡パーソンズのパターン変数､構造分析につながっていく｡基本的に人間も国と同様に､構造を維持するように､保守的になっていく｡<br />
メモ:置き換えるという発想はルーマンの機能等価主義と似ている</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc9">適切なライフスタイルと不適切なライフスタイル</span></h2>
<h3><span id="toc10">適切なライフスタイルと不適切なライフスタイルとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<p>ライフスタイルの類型は「適切なライフスタイル」と「不適切なライフスタイル」に分けることができる｡</p>
<p>前者の場合は「共同体感覚」の充実しているケースであり､後者の場合は欠如しているケースである｡</p>
<h3><span id="toc11">類型とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>類型</strong></span>：</big>一般的な傾向をまとめたもの｡</p>
</div>
<p>・アドラーは「それぞれの異なる個人を短い決まり文句でまとめることはできない」と述べている｡これが大前提である｡そのうえで､こういう人にはこういう傾向があるというような一般的な決まり事､パターンとしての「類型」を作っているという｡</p>
<p>・「類型」はあくまでも「<b>前もって見るべき範囲を照らす道具に過ぎない</b>」という｡</p>
<p>類型を特定の個人に当てはめてすべてのライフスタイルがわかったようになるのは危険である｡アドラーは類型は柔軟に使うべきであり､類型との差異にも敏感であるべきだという｡</p>
<p>・ライフスタイルは遺伝や家族などの「<b>影響</b>」を受けて作られる｡しかし､そうした外部環境や内部環境がライフスタイルを全て「<b>決定</b>」するわけではない｡</p>
<p>しかし､影響は大きい｡それゆえに「緩やかな決定論」とも呼ばれることがある｡</p>
<p>大事なのは「なーんだ､全部とは言わないまでもほとんどの要素は決定されているわけだ」と自分を正当化しないことである｡</p>
<p>なぜならば､我々はライフスタイルを今・現在､この瞬間から選び直すことが可能だからである｡可能である以上､そのスタイルを変えられないという言い訳にもちだすべきではない｡</p>
<p>特定の遺伝的条件や社会的条件はわれわれの決定に影響を与える｡これは事実であり､受け止める必要がある｡</p>
<p>アドラーは実際に､「器官劣等性」という遺伝的条件､家族や学校などによる「甘やかし､放置」は<b>不適切なライフスタイルへと導き</b><b>やすい</b>と述べている｡「このような条件があったらこのようなライフスタイルになりやすい」とあくまでも統計的確率論として､傾向として､理念型として述べることの有用性をアドラーは述べている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:類型</p>
<p>「それぞれの異なる個人を､短い決まり文句でまとめることはできません｡こういうひとにはこういう傾向があるというような一般的な決まりごとは､わたしの個人心理学でも作っています｡でもそれは､前もって見るべき範囲を照らす道具に過ぎません｡照らされた範囲で個人についてなにかが見つかるときもあれば､見失ってしまうときもあります｡ひとに当てはめられるパターンを評価し､柔軟に使ったりわずかな差異を読み取りするたび､私の確信は高まっていきました｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,4p</p>
<p>メモ:ウェーバーの「理念型」の使用方法とも似ている｡</p>
<p>キーワード:統計的確率</p>
<p>「器官の『劣等』､甘やかし､放置は個人の幸福や人類の発展と矛盾する目標を具体的に作らせることがあります｡けれど､ひとが誤りから道を外れることについて､原因論ではなく統計的確率によって語るのがよいケースはたくさんあります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">「私は能力がある」という意識</span></h3>
<p>・あくまでも個人はそれぞれ違うのであり､また個人をとりまく環境もそれぞれ違う｡双子であっても違うという｡</p>
<p>器官劣等性をもっていても適切なライフスタイルが創られる場合もあれば､甘やかされて育てられても適切なライフスタイルが創られる場合もあるということになる｡同じ赤色でも､朱色や紅色､紅葉色など細かくみれば違ってくることがある｡また､色を積み重ねていくうちに違う色に変わることもある｡また､自らの意志で「<b>変えることができる</b>」のである｡</p>
<p>一定のマイナス要因があっても､他の要因がプラスに影響すれば全体としてプラス､つまり適切なライフスタイルに傾くこともある｡</p>
<p>たとえば共同体感覚に満ちた友人と出会ったり､考え方を改めさせられるような事件があったり､映画を見たり､そうした多様な条件が考えられる｡例えば過度に甘やかされたところを友達に馬鹿にされたりするだけでも微妙に変わってくるのだろう(もちろん､これがマイナスになる場合もあるかもしれないが)｡なにがプラスで何がマイナスかは､その人がいままで創ってきたライフスタイル次第ということになる｡関数という箱にXを入れて､プラスで返す人もいればマイナスで返す人もいる｡重要なのは特定の対応というよりも全体のライフスタイルである｡汚れた箱に物を入れると､ほとんどの物は汚れてしまう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 私には能力がある<br />
「『私は能力がある』という信念について補足するならば､これは自分の人生の問題を自分の力で解決することができるという意味です｡このような能力があると感じることが自信を築く唯一の方法である､とアドラーはいっています(『個人心理学講義』六〇頁､八八頁)｡」</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc13">ライフスタイルの主要な形成時期</span></h2>
<h3><span id="toc14">ライフスタイルの主要な形成時期について</span></h3>
<p>【ポイント】アドラーは<b>四､五歳の比較的早い時期に最初のライフスタイルは形成される</b>と述べている｡</p>
<p>なお､現代アドラー心理学では十歳前後であるということになっている｡要するに､ライフスタイルが固定的で、容易に変化しにくくなるまでの時期である｡</p>
<p>こうしたライフスタイルが容易に変化して修正されていくような柔軟な時期のライフスタイルを「<b>子どものライフスタイル</b>」とアドラーは呼ぶ｡</p>
<p>「子どものライフスタイル」に対して､固定的で容易に変化しにくくなるライフスタイルを「<b>大人のライフスタイル</b>」と呼ぶこともできるだろう｡</p>
<p>しかし我々がもし自分のライフスタイルが不便であり､不満を持ち､また幸せではないと感じていたのならば､ライフスタイルを変えるという勇気をもち､選択する必要がある｡</p>
<p>「子どものライフスタイル」が反動もなくずっと続くとしたら「永遠を眺めるような目」で正しく作られた場合だけだとアドラーはいう｡実際は固定的になりがちであり､容易には変わりにくい｡しかし「<b>変えることはできる</b>」のであり､変える勇気をまずはもつ必要がある｡勇気という鍵で扉を開ける必要がある｡暗いところで不平を言いながら安心している人生でいいのか､自分に言い聞かせる必要がある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ライフスタイルはいつごろ作られるか<br />
「アドラー心理学では､行動は信念から出てくる､と考えますから､自立し､社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには､それを支える適切な信念が育っていなければならないのです｡ここでいう信念は､自己や世界についての意味付けの総体であり勝つライフスタイルと呼ばれています｡この信念を人は比較的早い時期に形成します｡アドラーは四､五歳といっていますが(『子どもの教育』一二五頁､『個人心理学講義』三二頁など)､現代アドラー心理学では十歳前後である､といわれています｡もとより次に見るようにライフスタイルは固定したものではありませんから､概してこの時期にライフスタイルが形成されるということです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,40p<br />
「子どもが行動原理を身に着けた場合､リズム､気質､活動性､そして共同体感覚がどのくらいあるかが観察されます｡行動原理はたいてい１歳くらい､遅くても４歳くらいで姿を現します｡ほかの能力もすべて､それぞれの形で行動原理の制限を受けています｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,8p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc15">ライフスタイルの影響因</span></h2>
<h3><span id="toc16">内的要因と外的要因</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample"><strong>内的要因</strong>(気質遺伝､器官劣等性､劣等感など)</li>
<li class="sample"><strong>外的要因</strong>(家族布置､社会制度､文化など)</li>
</ol>
<p>・遺伝などの先天的な要素や家族・制度などの社会的条件に「影響」は受ける｡しかし過去の影響因から全てが「決定」されるわけではない｡それらはあくまでも「素材」であり､この素材をもとにわれわれはライフスタイルを選択､創造していく｡</p>
<blockquote>
<p>「しかしアドラー心理学では『影響はあるかもしれないが､決定因ではない』と考えます｡決定するのはあくまで自分自身｡自分の身体や置かれた環境をどう感じ､どう意味を見つけていくか｡同じ経験をしても､人によって受け取り方はさまざまです｡すべて自分次第です｡できるだけ建設的で､前向きな決定をしていきたいのは言うまでもありません｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc17">ライフスタイルに与える遺伝の影響について</span></h3>
<p>・気質は「個人の性質､気風､性格」などのうち､とくに「先天的な性質」を一般的に表す｡</p>
<p><b>アドラーは基本的に遺伝を重視していない</b>｡例えば性的倒錯のようなものは遺伝ではなく､後天的な､間違った方向でのトレーニングの結果だとアドラーは述べている｡また､「遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました｡けれど､それは否定するほかありません」とアドラーはより直接的に述べている｡</p>
<p>・しかし一方で､アドラーは遺伝がライフスタイル形成に「影響」を与えることは認めている｡たとえば生まれつきの器官劣等性はある種の遺伝によるものであり､ライフスタイルに影響を与えるからだ｡</p>
<p>アドラーは遺伝が「材料」であり､そうした内的要因と外的要因という多種多様な材料をもとに子どもが「創造力」によってライフスタイルを形成していくことを強調している｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:気質の遺伝</p>
<p>「親から受け継いだ気質の遺伝や､身体の感覚器官や内蔵などに障害があることは､その人の人生に影響する｡」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,140p</p>
<p>キーワード:アドラーの遺伝に対する考え</p>
<p>「倒錯もまた子ども時代に表面化することは不思議ではありません.倒錯のある人は､たいていこれに遺伝が関係していると考えます｡彼らも多くの学者も､子供時代の倒錯を生まれつきか､なにかの体験で身についたものと見なします｡しかし､これは間違った方向で『トレーニング』してしまったことの名残で､共同体感覚の不足を明確に示しています｡共同体感覚の不足が人生の別のところにも姿を見せているのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,67p</p>
<p>メモ:材料=能力に表れる遺伝<br />
「進化という形で確かめられたとおり､克服という目標が存在するならば､子どものなかで具体化した進化は､さらなる発展に使われていきます｡つまり､肉体的であろうと精神的であろうと､能力に現れる遺伝が意味をもつのは､最終目標に利用できる場合､実際に利用される場合だけだということです｡のちに個人が成長したときに見られるものは､まず遺伝を材料に作られ､子どもの創造力で完成します｡私自身､遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました｡けれど､それは否定するほかありません｡外界は多様でつねに変化するので､この材料を創造的に､そして柔軟に使っていく必要があるからです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18"> (１)家族布置について</span></h3>
<p>・家族布置の布置は「配置」という意味で一般には用いられる｡噛み砕いて言えばある人間がその家族の中でどういう位置づけなのかというわけである｡心理学では布置を「ありさま､めぐり合わせ」として使うという｡</p>
<p>・家族布置として「<b>兄弟関係</b>」､「<b>家族価値</b>」､「<b>家族の雰囲気</b>」が挙げられている｡</p>
<p>その中でも特に「兄弟関係」が重視されているという｡たとえば誕生順位や競合関係である｡例えば一人っ子と複数の兄弟(姉妹)では兄弟関係が異なる｡複数の兄弟がいる場合の末っ子は甘やかされる傾向にあったり､第一子は年下の兄弟に愛情を奪われると感じやすくなる｡また､大家族の場合､流産があった場合､兄弟が幼い頃死んだ場合など､さまざまな事象がライフスタイルの形成に影響を与えるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:家族布置</p>
<p>「家族布置の『布置』とはモノの配置という意味ですが､心理学ではありさま､めぐり合わせというニュアンスで使われます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p</p>
<p>「第一の影響は…これは､家族の配置図で､きょうだいの中で誕生順位(何人きょうだいの何番目か)や､きょうだい間の力関係､親がよく口にする価値観(家族価値)､親を中心とした家族の雰囲気などのことを指している｡」<br />
岩井俊憲「アドラー心理学入門」,140p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">家族価値について</span></h3>
<p>・家族価値とは「<b>親が子どもに求めるもの</b>」だという｡</p>
<p>たとえば「学力が低いやつは価値がない」､「お金をいくら儲けるかが世の中の全てだ」､「親に従わない子どもは価値がない」､「男はこういうものだ､女はこういうものだ」等々､親が子どもに求めるものは子どもに影響を与える｡</p>
<p>なにが子どもの「適切なライフスタイル形成」にとって「適切な教育」なのかがここでは重要になる｡たとえば子どもの性格をレッテルで決めつけたり､甘やかしたり､競わせすぎたり､期待しすぎたりするのもよくないのかもしれない｡DVなど論外だろう｡アドラーは賞罰教育を否定している｡</p>
<h3><span id="toc20"> (２)環境、文化について</span></h3>
<p>たとえば環境は「自然環境」のような非人工的な､天然のものが考えられる｡</p>
<p>たとえば自然災害を経験したり､熊や野良犬に遭遇した子どもは､世界を危険なものとして捉えるかもしれない｡</p>
<p>一方で､人工的な文化や法律､政治などの制度が考えられる｡</p>
<p>人工的な環境の場合は､特にそれぞれの共同体ごとに環境のあり方が異なるという点が重要である｡たとえばアメリカでは「個人の自由」が重視されるパターンがあるが､中国は必ずしもそうではない｡そうした環境は人間のライフスタイルの形成に影響をあたえる｡</p>
<p>ある国では望ましくないと思われるような行動も､別の国では正反対の望ましいと思われる行動でありうる｡しかしアドラーは､そうしたケースバイケースを認めながらも､全ての共同体に共通するような､個別の共同体を超えた「理想」を仮想的に認めているという点が重要になる｡</p>
<h3><span id="toc21">【コラム】性格の遺伝について</span></h3>
<p>・行動遺伝学者の安藤寿康さんの双子の研究を紹介する｡</p>
<p>「遺伝子の違いが一人ひとりの高度や性格の違いにだいたい５０%ほど影響を与え､残りの５０%ほどが環境によるものだという｡この影響を与えるというのは親に似るということではないという点に注意する必要がある｡</p>
<p>たとえば知能は遺伝子の影響が６０%､環境が４０%であるという｡性格は３０～４０%が遺伝であり､環境が６０%だという｡</p>
<p>・環境は親の影響や家庭の影響といった共有環境と､非共有環境にわけられるという(双子でそれぞれ違う友達をもつ､違う学校に行く場合などを考えるとわかりやすい)｡この際､家族などの共有環境はきわめて影響が小さいと安藤さんは述べていることが興味深い(双子の実験の場合は､ということなのだろうか)｡</p>
<p>また､環境が整っていないと遺伝による素質は発揮されないので､環境を整えること､とくに家庭や学校といった「教育」の重要さも安藤さんは指摘している｡当然ながら､遺伝ですべてが決まると主張しているわけではない｡</p>
<p>安藤さんいわく性格や能力の遺伝の話はタブーになりがちだという｡性差別､人種差別等につながりうるからだ｡</p>
<p>とはいえ､「努力や選択」のせいだけに極端に偏る主張はほんとうに望ましいのか､と考えさせられる話である｡わたしは正直遺伝の話の論文をすべて見たわけでもなく､見たとしてもその実験の妥当性を容易に判定することは難しい｡能力が遺伝するならその能力が性格にも影響を与えるのはわかるが､そもそも性格の遺伝子なるものがあるのか｡正直ほとんど理解できていないため、こういう考え方もあることを頭に入れておく｡</p>
<p>・遺伝に向き合い､それぞれの遺伝に適した教育や努力というのはたしかに大事なのかもしれないと雑駁に感じた｡</p>
<p>自分の遺伝がどういうものなのか､たとえばどういう能力に秀でた遺伝子があり､どういう性格に至りやすい遺伝子があると具体的にわかっていたほうが「材料」としては扱いやすいだろう｡ただし､具体的に<b>わかってしまっているがゆえに「言い訳」に使われるようになると劣等コンプレックスの問題が生じる</b>ので扱いが難しいと言える｡</p>
<p>だからといってアドラー心理学と必ずしも矛盾する話ではないと私は考える｡仮に共同体感覚を育むような環境でライフスタイルが形成されていれば､安易に遺伝子を言い訳にするのではなく､むしろ前向きに､プラスに捉えていくような手段としても用いる視野の広さとして捉えることができるからである｡重要なのは特に外的環境であり､教育制度や文化､治療などになる｡特に私は社会学的視野が重要だと考える｡遺伝の明示化はそれらを補完するものとしてプラスへ機能させていくと考えていく｡</p>
<blockquote>
<p>行動遺伝学者に聞く「遺伝」と「環境」どちらが大事？【後編】 (出典:<a href="https://benesse.jp/kosodate/201603/20160316-1.html">https://benesse.jp/kosodate/201603/20160316-1.html</a>)</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc22">「私的感覚」と「共通感覚」</span></h2>
<h3><span id="toc23">私的感覚とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>私的感覚</strong></span>：</big>自分自身の価値観､全くの私的な､個人的な意味付けのこと｡私的感覚は「共同体感覚の欠如」によって特徴づけされるという｡「個人の感覚」とも呼ばれることがある｡アドラーによれば「人生からまったく価値を得られていなければ､私的感覚に偏ってしまう」という｡「私的な知性」､「私的な理性」､「個人的な意味付け」ともよばれることがある｡イメージとしては「自己中心的､自己執着的な感覚」だろう｡とにかく自分が大事であり､他者は道具にすぎない｡</p>
</div>
<p>私的な知性ともいわれる｡私的感覚そのものには正誤､上下､優劣などはないという｡人の数だけ私的感覚があるということになるだろう｡例えば辛いから仕事をしない､面倒だから掃除をしない､怖いから人助けをしない､楽だから人のものを盗むなどそれぞれの私的な感覚がある｡</p>
<p>「完全な目標」としての共同体感覚からすれば全ての現実の感覚は私的感覚であり､「誤り」であるとアドラーはいうのかもしれない｡自分が完全に達していて正しいと思い込むと危険である｡常にあらゆる相手の立場を想定して感覚を磨き続かなければならない｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/12244c828f5385a3aba1b0ed3b08ee7e.jpg"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3603" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/12244c828f5385a3aba1b0ed3b08ee7e.jpg" alt="" width="494" height="501" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/12244c828f5385a3aba1b0ed3b08ee7e.jpg 494w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/12244c828f5385a3aba1b0ed3b08ee7e-60x60.jpg 60w" sizes="(max-width: 494px) 100vw, 494px" /></a></p>
<p>私的感覚のみや､共通感覚のみなど１か０かのものではないと考えていく｡その間を我々は揺れ動き､その完璧なバランスを保っている状態が「共同体感覚」であるとわたしは考えている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:私的感覚とライフスタイル</p>
<p>「人間は人生で課題に直面すると、自分自身の価値観（私的感覚private sense）に基づいて、その課題がどのようなものなのか、自分がどのような解決を目指すのか、そのためにどんな対処を適切とするかなどを、主観的に判断し行動します。私的感覚をもとにしているため個人の行動には独特のパターンがあるとアドラー心理学では考えており、そのパターンを「ライフスタイル」と呼んでいます。</p>
<p>　私的感覚そのものには本来、正誤、上下、優劣などはないのですが、個人が自分の私的感覚でもってものごとを判断しようとばかりすると、他者との摩擦を生み出しやすくなります。仮想論に従って、どの私的感覚もたくさんある価値観のひとつにすぎないのだという立場をとるなら、課題を解決するそのときどきに有用な価値観を採用することができるでしょう。」<br />
出典:野田俊作財団</p>
<p>「彼の人生の捉え方は(わたしたちには明白なのですが､本人はわかっていませんでした)､『世界が勝たせてくれないから出ていかない』という公式にまとめられます｡他者への勝利を最終目標と考える人間として見れば､その行動は正しくかしこいものであることを否定できません｡男性が自分で作った行動原理のなかにあるのは『理性』でも『共通の感覚』でもなく､わたしが『個人の感覚』と呼ぶものでしょう｡実際に､人生からまったく価値を得られていなければ､ひとは男性と同じようなふるまいをするはずです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,20p</p>
<p>「アドラーは1928年，劣等感補償の枠組みに重要な追加を行った。アドラーは論文「理性，知性，知能障害に関する簡潔なコメント」のなかで，私的な知性や理性とコモンセンス）を区別した。後者は共同体感覚（世界に対する開放性と共感）と関連するものである一方，前者は共同体感覚の欠如によって特徴づけされる。アドラーは初期において，精神障害の核心を劣等感と補償に置いていたが，その考えを完全に捨て去ることはせず，のちに個人の人生における合理的で全般的な問題解決への行程に対する関心にシフトし，人生おける失敗は社会的感覚，つまりコモンセンスの欠如に由来すると記している4,p.53）。1936年のインタビューにおいてアドラーは，「共同体感覚を持たない子どもは常に自分の殻に閉じこもり，想像的に不満を大きくする」と述べ，さらに劣等コンプレックスについては，「それは一つの表現に過ぎない。今やあちこちで使われるが，私自身は滅多に使わない」と述べている。アンスバッハーは，イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は，コモンセンスの欠如であり，個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き，アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が，私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p</p>
<p>「個人の優越は協働と対立します｡この点から見ても､失敗するのは､共生の成長を止め､正しく見る､聞く､判断することのできない人物であることがわかります｡こうした人物は道を外れたままでいるために共通の感覚の代わりに『個人の感覚』をうまく利用します｡わたしは､甘やかされた子どもは､つねに他者を働かせようとする寄生者だと書き表しました｡そこで作られるライフスタイルは､愛情などの精神的なものであれ所有物などの物質的なものであれ､他者の貢献を自分のものだと思うことだと理解できます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,124-125p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">共通感覚とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共通感覚(コモンセンス)</strong></span>：</big>自分だけ､自分たちの共同体だけの常識や価値観を見るのではなく､より広い共同体の価値を考えるような､より普遍的な感覚のこと｡この定義だけだと､ほとんど共同体感覚と等しいものであるといえる｡</p>
</div>
<p>共同体感覚(世界に対する開放性と共感)」と関連するものだとされている｡どの私的感覚も数あるうちの価値観のひとつにすぎないと自戒していき､その時々の適した共通感覚から物事を考えるようになるべきだという｡</p>
<p>私は共同体感覚と共通感覚を便宜的に区別し､共通感覚の過剰は不適切であり､共同体感覚の過剰は形容矛盾であると考えていく｡</p>
<p>あるいは共通感覚は「普通の､常識の､平均的感覚」であり､共同体感覚は「普遍の､理想の､あるいは我々の感覚」であると考え､私的感覚は「特殊な感覚」だと読み替えていくこともできるかもしれない｡</p>
<p>このように読み替えていくと､マートンの特殊理論をより普遍的な理論へと繋いでいくという趣旨が煌めいて見えてくる｡私は〇〇をするべきである､普通は〇〇をするべきであるという考えから､ほんとうにそうか､〇〇ではないかと無限に視野を広げて考えていくのが共同体感覚である｡</p>
<p>アドラー心理学の文脈ではコモンセンス(共通感覚)は常識とは必ずしも重ならない､理想として､つまり共同体感覚とほとんど同義で用いられていることに注意する必要がある｡ただし仮に同義なら冗長であり､混乱させるだけである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:共通感覚</p>
<p>「共通感覚とは､『健全､建設的であり現実に即した考え』のことです｡自分のモノサシではなく､他の人の目で物事を見たり､考えたりすることと言えます｡この共通感覚を身につけるには､自分の意味付けを､『本当にそうなのだろうか？』『根拠はあるのか？』と疑ってかかることが大切です｡また､自分の意味付けの癖を知っておくのは便利です｡悪い方向に意味づけしていることに気づき､共通感覚で見直すきっかけになります｡そのうえで､できるだけ建設的に物事を捉え直しましょう｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,48p<br />
「コモンセンスは､しかし､常識とは必ずしも重ならないので､『共通感覚』というこなれない言葉を使うことにしています｡今現に私たちが属している社会の通念に合致しているのがいいのか､それに対してノーというのがいいのか判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ､とアドラーはいってきました｡ときには､それゆえ､既存の社会通念や常識に断固としてノーといわなければならないこともあります｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,113-114p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">「自己犠牲感」は貢献感か？</span></h3>
<p>アンスバッハーは哲学者であるイマニュエル・カントの「すべての精神障害に共通する唯一の特徴はコモンセンスの欠如であり､個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という叙述を引用していることが興味深い｡</p>
<p>私は共通感覚を「自己が他者の感覚を配慮する感覚」であり､共同体感覚を「我々という感覚であり､我々を配慮する感覚」として区別している｡共通感覚の場合は他者を配慮しすぎた結果､自己犠牲につながる｡ある種の「固定的になってしまった普通の感覚」とも表現できる｡</p>
<p>共同体感覚の場合はそもそも犠牲になる自己や犠牲を受ける他者がないので自己犠牲という概念が成り立たない｡自己犠牲は貢献感ではなく「<b>自己犠牲感</b>」というべきものと私は考える｡意味づけや動機の問題であり､結果として同じであったとしても違うものだと仮定する｡</p>
<p>「我々」にとってプラスの行為をバランスよく行っているような感覚である｡普通は私の命を捨てて国に尽くすべきだ､普通に考えて私の命よりも偉大な科学者や政治家の命のほうが価値がある､こうしたケースが過剰な共通感覚である｡</p>
<p>完全に共通感覚だけで構成されるようなライフスタイルというものも想定することができない｡言い換えれば､「<b>完全な自己犠牲</b>」など存在しない｡ある程度「自己のため」という私的感覚が混ざっているものだと考える｡人間は私的感覚と共通感覚の間で､常に揺れている存在だといえる｡</p>
<p>その揺れの中で､「私的感覚」に傾きすぎると､他者との摩擦､共同体にマイナスな貢献をしてしまうことになる｡そもそもこのような過剰な感覚は「メサイアコンプレックス」に近いものだろう｡また「我々感覚(共同体感覚)」の完璧なバランスにおいては「我々犠牲」などという意味付けはありえないことになる｡</p>
<p>アドラーは「<b>自己犠牲的な生き方を善しとはしていない</b>」という点がきわめて重要であり､「<b>社会に過度に適応した人</b>」として注意している｡そもそも､「自己犠牲」という言い方は「自己」と「他者」に区別がついているからこその概念なのかもしれない｡もし自己と他者が溶け合い､「我々」という主語になっていれば､他者のために自己を犠牲にするという感覚が生じないのではないだろうか｡</p>
<p>・もし宇宙で自分一人しか生きていないなら､共通感覚や共同体感覚は必要ない｡他者と一度も出会ったことがない､他の人間の存在自体知らないというような極端な前提のうえで考えるケースである｡</p>
<p>というよりそうした感覚は生じようがないという(動物たちのことを思う､ということはありえそうだが)｡しかし現実では､我々は孤立して生きるのではなく､引きこもりですら社会の中で､世界の一部として生きている｡山奥に籠もる仙人ですら「他者を思う」瞬間があるだろうし､何でも自分勝手に生きることはできない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自己犠牲</p>
<p>「哲人『他者貢献が意味するところは､自己犠牲ではありません｡むしろアドラーは､他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人のことを､「社会に過度に適応した人」であるとして､警鐘を鳴らしているくらいです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,238p</p>
<p>「このように常に自分のことだけではなく､他者のことも考えられる､他者は私を支え､私も他者とのつながりの中で他者に貢献できていると感じられること､私と他者とは相互依存的であるということ､しかし､同時にそのことは決して自己犠牲的な生き方を善しとする考えでもなく､自分も他者に貢献ができていると思えること…このような意味のことをアドラーは､アドラー派の中でも議論の多い『共同体感覚』という言葉で表そうとしているのだ､と私は考えています｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,111-112P</p>
<p>キーワード:カント</p>
<p>「アンスバッハーは，イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は，コモンセンスの欠如であり，個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き，アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が，私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc26">ライフスタイルを見極める方法</span></h2>
<h3><span id="toc27">そもそも自分のライフスタイルを自分は理解しているか</span></h3>
<p>人間は自分で理解している以上のことをわかっているという｡意識的な理解以上のものを無意識的に､あるいは「暗黙知」として理解しているということなのだろう｡</p>
<p>一方で、人間は自分の目的をたいして「理解」していないという｡これは「わかっている」と「知っている(理解している)」のニュアンスの違いに注意する必要がある｡たとえば我々は人を顔だけで見分けることができるが､どう見分けているかを具体的に理解していないし言葉で伝えられない｡</p>
<p>同じように自分で目的を隠していると強く意識できないでいるのだろう｡たとえば怒りや悲しみを支配や復讐のために使っていると明確に意識しているのかといわれれば､なかなか難しい｡しかし復讐のためにプラスになる行動だとは「わかっている」のである｡</p>
<p>かといって「無意識的に､勝手に､自分の意志とは無関係に､反射的に」という言い方はアドラー心理学では許されない｡孤立した部分が勝手にやったのではなく､「私という全体=個人」が部分を意志によって利用したのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:理解</p>
<p>「人間は自分で理解している以上のことをわかっているものです｡それでは､この『理解』が眠っているとき､夢のなかで『わかっている』という状態は目覚めているのでしょうか？もしそうであれば､起きているときと同じようなことが証明できるはずです｡そして実際､人間は自分の目的を理解せずに目的に従っています｡ライフスタイルを理解していませんが､つねにとらわれています｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,270-271p<br />
メモ:意図していないが､意図している？暗黙知？ギデンズ､ポランニーへ</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc28">どうやってライフスタイルを理解することができるのか</span></h3>
<p>本人の言葉や思考からは読み取ることは難しい｡嘘をついているかもしれないし､本人すら自分の思考をよく理解していない場合がある｡</p>
<p>しかしどうにかして自分や他者のライフスタイルがどういうものかを知りたいとき､どこに着目すればいいのか｡</p>
<p>ライフタスクに直面したとき「<b>どういう行動をとるか</b>」で特に読み取ることができる｡</p>
<p>これは「行動主義」的な側面も含んでいるといえる｡例えば口では人助けをしたいと言っていても､いざ病人が倒れたのを目の前にしたとき､いじめられてる人を目の前にしたとき､困っている人を見たときに「見て見ぬふりをして回避したり､これから仕事だからと言い訳をする」ケースもありうる｡いわゆる「<b>行動は言葉よりも雄弁</b>」であるということになる｡</p>
<p>私はここでもM・ウェーバーの言葉を思い出す｡</p>
<p>「『究極の立場』ですって？そんなものは愚にもつかぬおしゃべりのきっかけになるだけですし､センセーションを呼び起こすだけで､なんの役にもたちません｡それに､なによりもわたしは､長年の経験から､またわたしの原理的に確信することからして､その問題に関して次のように考えております｡</p>
<p>ある人間が本当に望んでいるものが何であるかは､これぞわが『究極』の立場だと称するその人の言い分からではなく､およそ言い抜けを許さぬその時々の全く<b>具体的な</b>問題に対して､いうところの『究極の』立場からして､その人が実際にどう対処するかによって<b>のみ</b>確かめられるのだ､と｡」</p>
<p>M・ウェーバー『政治論集』674p~</p>
<blockquote>
<p>「つまり､個人心理学の技術でライフスタイルを突き止めるには､まず人生おきた問題を知り､それが個人になにを求めるかを知ることが欠かせません｡すると､問題を解決するには､ある程度の共同体感覚､人生全体とのつながり､協力や共生の能力が必要なことが見えてきます｡この能力が欠けている場合､さまざまな形で劣等感が強まり､たいていは『ためらう態度』や回避が観察されるようになります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,38p<br />
「自分と外界のとらえ方は､その人が人生にどのような意味を見いだし､人生にどのような意味を与えているかを見ると､もっとよくわかります｡理想的な共同体感覚､共生､協力､仲間として生きる意識に問題があるだろうことは明らかです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,9p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">回避するか､向き合うか</span></h3>
<p>【ポイント】個人の適性が厳しく問われる状況(ライフタスク)で強くライフスタイルは現れ､見極めることができる｡</p>
<p>差し迫った問題がなかったり不利な状況でなかったりすればライフスタイルはあまり強くあらわれないという｡</p>
<p>たとえば「ためらう態度」や「回避」が見られる場合は､「共同体感覚に欠けているライフスタイル」だと推測することができる｡もし向き合う「努力」が見られる場合は､「共同体感覚に満ちているライフスタイル」だと推測することができる｡</p>
<p>あるいは「類型」によって､まずは暫定的にあたりをつけていくこともできる｡</p>
<p>たとえば幼少期のことを質問していく｡幼少期の頃から「器官劣等性」はあったのか､兄弟関係はどうか､親は甘やかしてくれたのか､欲しいものは何でも買ってくれたのか､放置されていないか､そうした影響を聞いていくことは有効だろう｡結婚観や将来観について聞いたりするのも有効かもしれない｡</p>
<p>当人がトラウマなどを持ち出して言い訳をするという行動を取った場合にもライフスタイルは共同体感覚に欠けているということができる｡</p>
<p>あるいは優越コンプレックスの諸特徴である高慢､目立つ服装､けなし好き､ごますり､英雄崇拝などがあるかどうかも重要である｡ちなみに､こうしたアドラー心理学の知識を用いて心理学者や医者気取りになり､「あなたは共同体感覚が足りないどうしようもない性格なのね」などと面と向かって言うことは好ましくないので注意する必要がある｡そんな事を言う人こそ「共同体感覚が足りない性格」といえる｡とはいえ､相手の勇気をくじかずに援助する絶妙な距離感はケースバイケースになるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ライフスタイルはどういう場面でつよく表れるのか<br />
「差し迫った問題がなかったり不利な状況でなかったりすればライフスタイルはあまり強くあらわれませんし､個人の適性が厳しく問われる状況ならばかなり強くあらわれます｡芸術や宗教のような並の解決でおさまらない問題では､３つの要素がすべて関わってきます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,42p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc30">ライフスタイルを変える方法</span></h2>
<h3><span id="toc31">Q あなたはいま幸せだと感じているか､不幸せだと感じているか｡幸せになりたいか｡</span></h3>
<p>もし神経症や不幸と感じるような状態にあるなら､その根本には「ライフスタイル」が関わっている｡したがって､ライフスタイルを根本的に変化させる必要があり､ある症状だけを緩和させるような対処療法では根本的に改善しない｡</p>
<p>例えば肌が荒れる人に肌荒れの薬を処方すると､肌は一時的に治るかもしれない｡しかし根本的なライフスタイル､たとえばお菓子ばかり､脂質ばかりを好んで食べる､掃除をしない､不清潔､寝不足､ストレスといった諸事象を生み出すようなパターンが変わらない限りまた肌は荒れてしまうだろう｡</p>
<p>出てしまった症状を治すのではなく､<b>そもそも症状を出にくいようなパターンに変化させることが重要</b>である｡そのためにはまず自分のライフスタイルを見直すこと､そして変化させる決心をつけることが重要になる｡</p>
<h3><span id="toc32">長く続いてきたライフスタイルほど､変わりにくい｡ライフスタイルの再選択は可能か？</span></h3>
<p>「簡単には変えようとしない固定的なもの」である｡しかし過去に規定されて一生根本的には「変えられない固定的なもの」ではなく､「<b>ライフスタイルは変えられる</b>」という立場をアドラーはとる｡</p>
<p>ガラリと変えることは現実には難しいでしょう｡一歩ずつ変えていけばいいのです｡まずは誰かに助けてもらった時に「ありがとう」と一言いうだけでも違ってくるでしょう｡</p>
<p>人間は不満があっても楽である「<b>予測できるような安定した自分のライフスタイルを変えない</b>」という「<b>決心</b>」をしているという｡この「決心」をどうにかする「勇気」さえあれば､人間はライフスタイルを変えることができる｡「<b>深淵の前にいて､深淵に飛び込めと言われれば恐れるのが人間です</b>」という岸見さんの言葉を思い出す｡たしかに勇気がいる｡もしかしたら就職活動や恋愛活動で自分の価値を全否定される場面に直面することもあるかもしれない｡しかし勇気をもつ必要がある｡</p>
<p>こうした勇気をもつために共同体感覚が必要だという論理になる｡後ほど検討するが､共同体感覚は生まれながら持っているものであり､それを「掘り起こす」と表現をすることがある｡</p>
<p>・どういう状況で「不適切なライフスタイル」は生じやすいのかを理解する必要がある｡</p>
<p>また､どういう方法で「適切なライフスタイル」へと変化させていくことができるのかを理解､発案する必要がある｡方法については「技法」に関わる問題､とくに「勇気づけ」が重要である｡何が適切かについては「哲学」に関わる問題､とくに「共同体感覚」が重要である｡</p>
<p>・アドラーは「ライフスタイルはごく初期のうちに発達し､変わらないからです｡変わるとすれば､本人が成長の中で誤りを理解し､人類全体の幸福を目標にして再び社会に参加できたときだけです｡」と述べている｡</p>
<p>やはり「共同体感覚」が重要になってくるのだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:再選択</p>
<p>「もしもライフスタイルが先天的に与えられたものではなく､自分で選んだものであるのなら､再び自分で選び直すことも可能なはずです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,50p<br />
「あなたが変われないでいるのは､自らに対して『変わらない』という決心をしているからなのです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,51p<br />
「神経症患者が活動性が低かったことを子ども時代にさかのぼって追跡できることは確実でしょう｡もともと活動性が低いことは､個人心理学にしたら当然と言えます｡ライフスタイルはごく初期のうちに発達し､変わらないからです｡変わるとすれば､本人が成長の中で誤りを理解し､人類全体の幸福を目標にして再び社会に参加できたときだけです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,166p</p>
<p>キーワード:固定</p>
<p>「子どもはライフスタイルを固定するまでに試行錯誤的にいろいろなことを試みたはずなのですがいつのまにかこのような状況ではこうすればいいのだという体験を繰り返す中で､自己や世界についての信念を身につけ､固定することになります｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,41p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc33">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc34">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc35">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc36">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc37">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc38">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc39">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc40">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc41">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc42">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc43">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc44">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc45">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc46">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc47">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc48">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc49">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc50">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 06:27:22 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､基礎用語編(劣等コンプレックス)です(4)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-6" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-6">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">その他注意事項</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">「劣等コンプレックス」</a><ol><li><a href="#toc8" tabindex="0">「劣等コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">見かけの因果律とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">「コンプレックス」</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">「コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">トラウマについてアドラーはどう考えたか</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">劣等感と劣等コンプレックスの違い</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">劣等感と劣等コンプレックスの違いとは</a></li></ol></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">劣等コンプレックスの典型的な影響因</a><ol><li><a href="#toc16" tabindex="0">劣等コンプレックスの典型的な影響因とは</a></li></ol></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">「優越コンプレックス」</a><ol><li><a href="#toc18" tabindex="0">「優越コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc20" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">その他注意事項</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<h3><span id="toc4">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc6">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc7">「劣等コンプレックス」</span></h2>
<h3><span id="toc8">「劣等コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>劣等コンプレックス</strong></span>：</big>「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで､自身の課題を避けようとする姿勢」のこと｡他人に対して発する場合だけではなく､自分に言い聞かせる場合も含まれるだろう｡</p>
</div>
<p>例:身長が低いからモテない､スポーツができない｡時間がないから芸術活動ができない｡お金がないから彼女ができない｡トラウマがあるから人間と話すことができない｡親のせいで人生がうまくいかない｡政治のせいで自分は惨めだ｡</p>
<p>「Aであるから(あるいはAではないから)､Bできない」という言い訳の論理をコミュニケーションの中で多用することを意味する｡</p>
<p>また､Aさえあれば､Aさえなければ､自分は価値があると言外に暗示している､言い訳しているという｡「劣等感」を言い訳に使う態度である､隠れた優越性という目的も見える場合があるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:劣等コンプレックスとは<br />
「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで､自身の課題を避けようとする姿勢です｡過度な劣等感であり､アドラーは『ほとんど病気』と指摘しています｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20p<br />
「アドラーは､劣等コンプレックスという語を強い劣等感という意味で使っている場合もありますが､『Aであるから(あるいはAではないから)､Bできない』という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するということが劣等コンプレックスの意味です｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,134p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc9">見かけの因果律とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>見かけの因果律</strong></span>：</big>本来は何の必然的な因果関係もないところにAゆえにBできないというような「言い訳の論理」をアドラーは「見かけの因果律」や「人生のうそ」と表現している｡</p>
</div>
<p>例:結婚できないのは両親の仲が悪かったからだ､自分が暴力的なのは親にDVを受けたからだ､身長が低いからスポーツをしても無駄だ､時間がないから絵が上手くならない､集中力のない人間だから勉強ができないといったように「本来はなんの因果関係もないところに重大な因果関係があるように自らを説明して納得させてしまう」という｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:見かけの因果律とは</p>
<p>「哲人『あなたのいうような因果関係について､アドラーは「見かけの因果律」という言葉で説明しています｡本来はなんの因果関係もないところに､あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し､納得させてしまう､と｡たとえば先日も､『自分はなかなか結婚できないのは､子ども時代に両親が離婚したせいです」とおっしゃっる方がいました｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,82p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc10">「コンプレックス」</span></h2>
<h3><span id="toc11">「コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>コンプレックス</strong></span>：</big>一般的には精神分析におけるトラウマなどの苦痛な体験における情動(複雑に絡みあった倒錯的な心理状態)を意味している｡いわゆる精神的な病気のことである｡</p>
</div>
<p>日本において日常的に「コンプレックス」は「学歴にコンプレックスがある」といったように劣等感の意味で主に用いられているが､学問の世界の言葉の誤用であるという｡なぜならば､学歴に劣等感を感じていること自体は病気でも精神的な倒錯でもないからである｡問題はどのような方法で補償するか､そのあり方が病的かどうかである｡</p>
<p>たとえばフロイトはエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)を「思春期の子どもが異性の両親を独り占めしようとするが､実際にはできず､苦痛を体験するもの」と表現している｡</p>
<p>こうしたコンプレックスやトラウマはさまざまな方法で無意識に抑圧されるが､もし抑圧しきれなければ日常生活に障害をきたすという｡</p>
<p>劣等感をもつこと自体は心理的な倒錯ではない｡劣等感を言い訳に使うこと､つまり劣等コンプレックスが心理的な倒錯である｡そして倒錯は「病気」である｡</p>
<p>たとえば自分の学歴に劣等感を抱き､自分のできることを伸ばしていこうと努力すること自体は病気ではない｡しかし「自分は学歴が低いから何も人生がうまくいかない､学歴が高かったらなんでもうまくいく」と殻にこもり始めたらそれはもう治療が必要な「病気」である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:キーワード:コンプレックス<br />
「コンプレックス(complex)とは､精神分析の文脈で出た言葉で､心的外傷(psycchic trauma)などの苦痛な体験における情動やその体験にまつわる観念・記憶が集合したものをいう｡一般に意識されず､日常の自我(ego)の働きすなわち適切な感情､態度､行動を妨害し､失錯行為､夢､神経症症状となって現れる｡自我は､さまざまな方法(防衛機制)で､コンプレックスを無意識のうちに抑圧するが､コンプレックスが勝れば日常生活に障害をきたす｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,280P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">トラウマについてアドラーはどう考えたか</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>トラウマ(trauma)</strong></span>：</big>・PTSDを生じさせるようなショック(心的外傷)のこと｡トラウマが原因の神経症を外傷後ストレス障害(PTSD)という｡自分または他人の生命に危険が及ぶ状況に直面したり､目撃した後､強い不安､恐怖､無力感が一ヶ月以上続き､社会的､職業的領域で機能の障害を起こすこという｡ショックには戦闘､性的暴行､誘拐､拷問､監禁､災害､家庭内虐待などがあるという｡重要なのは､そうしたショックの根底には「コントロール不能の確信」があるという点である｡</p>
</div>
<p>・アドラはーフロイトの「<b>トラウマ</b>」を明確に否定している｡</p>
<p>過去の事実をコントロールすることはできないが､われわれが現象・事実にどういう意味づけを行うかはわれわれがコントロールすることができる｡他者や過去の客観的事実をコントロールしようとするのではなく､まず自分の思考をコントロールすることに重きを置いている｡</p>
<p>また､その思考の適切な方向を示すという哲学的､治療的側面に重きを置いている｡その適切な方向が「共同体感覚」であるということになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:不安障害とは(恐怖症,パニック障害,全般性,不安障害,脅迫性障害,外傷後ストレス障害)<br />
「脅威とかストレスに対する不安､恐怖､懸念などの感情的反応は､健常な心理的昨日において重要な役割を担っている｡また､日常生活に支障をきたすような不安障害(anxiety disorder)は診断治療される精神疾患の中で最も頻度が高いものである｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,282P<br />
「外傷後ストレス障害(postraumatic stress disorder:PTSD)と診断される人は､自分または他人の生命に危険が及ぶ状況に直面したり､目撃した後､強い不安､恐怖､無力感が一ヶ月以上続き､社会的､職業的領域で機能の障害を起こしている｡症候として､外傷的出来事の再体験､出来事に関連する刺激を回避もしくは反応性の鈍磨､覚醒の亢進などがある｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,283P<br />
キーワード:トラウマとは<br />
「トラウマ(trauma)とは､傷を意味するギリシャ語に由来し､PTSDの外傷には､戦闘､性的暴行､誘拐､拷問､監禁､災害､家庭内虐待あるいは暴力(いわゆるドメスティック・バイオレンス)などが含まれる｡しかし､これらの出来事を体験しても障害を発症しない人もいて､実際には外的現実がもたらす脅威つまり心的外傷が病因として重視されている｡脅威の中心にあるのはコントロール不能の確信である｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,283P</p>
<p>「哲人『彼らのような生き方を選ぶのは､子供だけではありません｡多くの大人たちもまた､自分の弱さや不幸､傷､不遇なる環境､そしてトラウマを「武器」として､他者をコントロールしようと目論みます｡心配させ､言動を束縛し､支配しようとするのです｡そんな大人たちをアドラーは「甘やかされた子ども」と断じ､そのライフスタイル(世界観)を厳しく批判しました｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,243p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc13">劣等感と劣等コンプレックスの違い</span></h2>
<h3><span id="toc14">劣等感と劣等コンプレックスの違いとは</span></h3>
<p>劣等感は「努力や成長を促すきっかけとなりうるもの」であるのに対して､劣等コンプレックスは「自らの劣等感を言い訳に使い始めた状態のこと」である｡</p>
<p>アドラーいわく劣等感自体は「健全」だが､それを言い訳に使いだす劣等コンプレックスは「病気」だという｡</p>
<p>劣等感を言い訳に使わず､ライフタスクと向き合い､共同体感覚をもって努力していく姿勢が望ましいとアドラーは考えている｡</p>
<p>劣等コンプレックスはライフタスクを回避しようとする姿勢であり､共同体感覚に欠けた姿勢であり､望ましくないとアドラーは考えている｡</p>
<p>どちらも「方向の違い」であり､各人にとって「<b>善</b>(その人のためになる)」という点では同じである｡</p>
<p>ライフタスクを回避し､言い訳している方が不満を感じつつも不安を感じずに済み､自分の価値に向き合わずに済み､<b>可能性の中で生きることができる</b>というのはその人にとっては「善」である｡</p>
<p><b>現実と向き合うことで何もかもが崩壊してしまう人もいる</b>だろう｡勇気が欠けた人にとっては現実と向き合うことが「悪」である｡うつ病や頭痛をその人は生きていくために必要として､依存しているのである｡「病気のせいにするのは間違っている」､「なんでもかんでも◯◯のせいにするな」､「共同体感覚が欠けた不適切な人達だ」と我々がその人達を弾劾・非難することが望ましいとは言えないだろう｡適切な形で勇気づけすることが望ましく､またそうしたライフスタイルが形成されにくい世界単位のパラダイムをわれわれが一歩一歩形成していく必要があるといえる｡</p>
<p>一方で､ライフタスクに向き合い､不安を感じながらも未来へ幸福を求めていく､貢献によって価値を求めていく姿勢も違う人にとっては「善」でありうる｡</p>
<p>問題はどちらの「善」が望ましいか､価値があるかという点である｡この問題は科学というより哲学的なテーマであり､「共同体感覚」の話とつながってくる｡幸福とはなにか､不幸とはなにか､正義とはなにか､誤りとはなにか､公益とはなにか､生きる意味はなにかという次元と同じ話である｡誰にとっての善が優先されるかという考えを超えた､特定の私や他者ではない､「我々の善(脱自己中心化)」というような思想がそこにはある｡</p>
<blockquote>
<p>「哲人『現在､我が国では「コンプレックス」という言葉が､劣等感と同義であるかのように使われています｡ちょうど「わたしは一重まぶたがコンプレックス」とか「彼は学歴にコンプレックスを持っている」というように､これは完全な誤用です｡本来コンプレックスとは､複雑に絡みあった倒錯的な心理状態を表す用語で､劣等感とは関係ありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,81p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc15">劣等コンプレックスの典型的な影響因</span></h2>
<h3><span id="toc16">劣等コンプレックスの典型的な影響因とは</span></h3>
<p>(１)健全な補償に失敗したときに劣等コンプレックス(不健全な補償)は生じる｡</p>
<p>(２)「共同体感覚」がかなり不足していることから生じる｡そしてこの不足の典型的な影響因として幼少期の頃の「甘やかし」､「放置」､「器官劣等性」をアドラーは挙げている｡もちろんこれは「類型(こうなることが多いですよというイメージ)」であり､「影響因」にすぎない｡必ず劣等コンプレックスに帰結するという「決定因」ではない｡</p>
<p>・「克服」の過程において､人間はマイナスのものをプラスのもので「補償」しようとする｡この補償に失敗することで､人間は､感情的なしこりやあつれき､要するに「<b>うまくいかない感覚</b>」が生じる｡</p>
<p>・例えば身長を馬鹿にされて劣等感をもったとしても､代わりに勉強を頑張るとする｡しかし勉強も全くうまく行かず､苦痛を感じるとする｡この苦痛をそのままにしておくこともできず､勉強や他の分野をもっと頑張るという「努力」や「成長」をしようとする健全な場合もある｡このような健全な克服は「健全な補償」であるといえる｡</p>
<p>あれもだめ､これもだめと自分が否定されているように感じ､勇気が減退していくのかもしれない｡うまく自分の価値を感じられるような適性のある居場所､うまく当てはまるピースを探していくことが重要だと考える｡そのためには職業や趣味の多様性が手段として重要になるのだろう｡ただし多様な価値観の中にも､その基底に共同体感覚の価値が重要になる｡</p>
<blockquote>
<p>「倒錯もまた子ども時代に表面化することは不思議ではありません.倒錯のある人は､たいていこれに遺伝が関係していると考えます｡彼らも多くの学者も､子供時代の倒錯を生まれつきか､なにかの体験で身についたものと見なします｡しかし､これは間違った方向で『トレーニング』してしまったことの名残で､共同体感覚の不足を明確に示しています｡共同体感覚の不足が人生の別のところにも姿を見せているのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,67p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc17">「優越コンプレックス」</span></h2>
<h3><span id="toc18">「優越コンプレックス」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>優越コンプレックス</strong></span>：</big>劣等感を克服できず､他人に対する優越感をたえず追い求めること｡劣等コンプレックスから発展した特殊な心理状態であるという｡もちろん､劣等コンプレックスと同様に病的な状態である｡</p>
</div>
<p>優越コンプレックスのひとつとして「<b>メサイアコンプレックス</b>」と呼ばれるものもあるが､これは勇気づけの項目で掘り下げていく｡</p>
<p>例:高慢､外見へのうぬぼれ､品のあるなしを問わず目立つ服装､女性による男っぽいふるまい､男性による女っぽいふるまい､横柄､強い感情､俗物根性､自慢好き､暴君のような本性､けなし好き､過剰な英雄崇拝､著名人にごまをする傾向､弱者や病人や小柄なひとにいばる傾向､自分の特殊性の強調､他者の価値を下げることを目的とした優れたアイデアや時代の流れの悪用等々</p>
<blockquote>
<p>キーワード:優越コンプレックスとは<br />
「人生の課題を克服することを拒否する口実として､自分自身の劣等感を誇示して自分と他者をあざむくことを劣等コンプレックスといいます｡例えば､友人ができない理由をもともとの劣等感である身長のせいにするなどです｡また､劣等感を克服できず､他人に対する優越感をたえず追い求めることを優越コンプレックスといいます｡」<br />
「心理学用語大全」,119P<br />
「自分や他人への過剰な要求のなかに見られることもあります｡高慢､外見へのうぬぼれ､品のあるなしを問わず目立つ服装､女性による男っぽいふるまい､男性による女っぽいふるまい､横柄､強い感情､俗物根性､自慢好き､暴君のような本性､けなし好き(わたしが特徴的として記した他者の価値を下げる傾向です)､過剰な英雄崇拝､著名人にごまをする傾向､弱者や病人や小柄なひとにいばる傾向､自分の特殊性の強調､他者の価値を下げることを目的とした優れたアイデアや時代の流れの悪用などを調べれば､優越コンプレックスを見つけられます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,128p<br />
「哲人『劣等コンプレックスは､もうひとつの特殊な心理状態に発展していくことがあります｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,85p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc19">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc20">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc21">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc22">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc23">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc24">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc25">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc26">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc27">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc28">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc29">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc30">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc31">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc32">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc33">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc34">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc35">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc36">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/feed/</wfw:commentRss>
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			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 06:00:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､基礎用語編(劣等感)です(3)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-7" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-7">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">劣等感</a><ol><li><a href="#toc7" tabindex="0">劣等感とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">「器官劣等性」</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">「器官劣等性」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">劣等感の先天性</a><ol><li><a href="#toc11" tabindex="0">劣等感の先天性について検討</a></li></ol></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「補償」</a><ol><li><a href="#toc13" tabindex="0">メルツァーの確保の原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">劣等感補償とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">健全な補償と不健全な補償について</a></li></ol></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">「克服」</a><ol><li><a href="#toc17" tabindex="0">「克服」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">克服の方向について</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">克服と劣等感の関係</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">傷つかないことは楽であるが不満もある</a></li></ol></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">
「優越性の追求」</a><ol><li><a href="#toc22" tabindex="0">「優越性の追求」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">健全な劣等感と劣悪な競争の関係</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">それぞれの人間は「違う」けれども「対等」である</a></li></ol></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc26" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc27" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc35" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc4">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc5">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc6">劣等感</span></h2>
<h3><span id="toc7">劣等感とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>劣等感</strong></span>：</big>「主観的に他人より劣っている」 と思い込むこと｡</p>
</div>
<p>課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみであるという｡身体器官､容貌､性､能力､社会的経済的条件など､さまざまな事実・出来事に対して生じうる感覚である｡アドラーは劣等感を､優越性の追求とともに病気ではなく､「<b>健康で正常な努力と成長への刺激</b>」であると述べている｡</p>
<p>例:ある出来事や事実にたいして貧乏だ､ブサイクだ､頭が悪いなどと意味付け(認知)を行い､自分を劣等だと主観的に感じること｡</p>
<p>重要なのは「<b>主観</b>」が関係するという点である｡この主観による意味付けが変わればある事実が短所であるとも長所であるとも変わりうる｡優柔不断は慎重とも解釈できるし､ノロマとも解釈できる｡何事にも裏と表があり､コインのようなものである｡主観によって自分が「選択」することができるという点にポイントがある｡</p>
<p>アドラー心理学では<b>悲観主義</b>(この先悪いことしか起きない)と<b>楽天主義</b>(この先良いことしか起きない現実逃避)を避け､<b>楽観主義</b>(この先良いことも悪いことも起きるという現実直視)を推奨する傾向がある｡<b>自己否定と自己</b><b>肯定</b><b>を避け､自己</b><b>受容</b><b>をする</b>というわけである｡自己受容については共同体感覚の項目で扱う｡</p>
<p>偏差値が７０ある高校生も偏差値が７１ある別の高校生に対して劣等感をもつことがある｡別の人から見たら「そんなものに劣等感を覚えるのか？」ということもありうる｡</p>
<p>これは､事実や出来事から必ず劣等感が帰結するわけではなく､<b>その人特有の</b>思考､解釈によって劣等感が帰結するかどうかが決まることを意味している｡例えば負けず嫌い､競争好きの性格ならば､好ましくない事態であると解釈し､偏差値が1違うだけでも劣等感を強く覚えることはありうる｡</p>
<blockquote>
<p>「アドラーは性本能という概念を不要とし､劣等感(ingeriority feeling)とその補償という概念で人間を理解しようとした｡すべての人は身体器官､容貌､性､能力､社会的経済的条件などに劣等感を抱き､それを補償しようとして､自らの生き方を決める｡劣等感は､客観的な劣性ではなく要求水準の高さによる場合も(この場合は優劣感情の裏返しといわれる)､幼少期に与えられた否定的な評価による思い込みの場合もありうるが､どんな場合も､人の心に､自己評価を高めること､すなわち下から上へ､負から正へ､劣等から優越への要求(striving for superiority)を生じさせる｡」</p>
<p>「キーワードコレクション 心理学」,281P</p>
<p>「自分の心で劣等と感じていること｡理想や目標と､現実のギャップによって産まれます｡たとえばその人が平均以上の能力をもっていても､本人が引け目を感じていれば劣等感が生まれます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20p<br />
「アドラーは『優越性の追求も劣等感も病気ではなく､健康で正常な努力と成長への刺激である』と語っています｡劣等感も､使い方さえ間違えなければ､努力や成長の促進剤となるのです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,80p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc8">「器官劣等性」</span></h2>
<h3><span id="toc9">「器官劣等性」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>器官劣等性(劣等性)</strong></span>：</big>身体機能が客観的に他人より劣っていること｡例:身体の障害や持病､身長など｡</p>
</div>
<p>劣等感が「<b>主観的</b>」であるのに対して器官劣等性は「<b>客観的</b>」であるという特徴がある｡</p>
<p>・器官劣等性は客観的に推し量れるという点にポイントがある｡</p>
<p>ただし､ある人が客観的に「劣っている」からといって､その人がその事実に対して「劣等感」を覚えているとは限らない｡両者は異なるものである｡</p>
<p>そもそも身長が低いことが事実として劣等というのも､言い方の問題である｡単に､モノサシで測れば身長が他の人より低い､物理的に指や手がない､数値的に視力が低いといったものを指しているだけに過ぎない｡そうした事実が「社会的に高く評価されるか､有利な経済条件に置かれるか､機会に恵まれるか」､どういう「基準」を用いるかはケースバイケースとなる｡要するに､「プラス」と評価できる余地はどの器官劣等性にもあるといえる｡</p>
<p>たとえば岸見さんは身長が低いことで相手を安心させるというプラスがあるという例をあげている｡</p>
<p>なんだ､「ものは言いよう」ではないか､「屁理屈」ではないかと反論がきそうだ｡しかし､「<b>ないものはない</b>」のである｡「<b>あるものでなにができるか､プラスの側面はないか､他の面で努力してプラスに変えていこう</b>」と考えていくしかない｡アドラー心理学は「使用の心理学」である｡器官劣等性を「言い訳」にしてライフタスクから逃げる悲観主義は単なる劣等感ではなく「劣等コンプレックス」になってしまう｡アドラーは類型的に「器官劣等性」をもっている子どもは「劣等コンプレックス」をもちやすい「傾向」があることを認めている｡しかしそれは不可避的な帰結ではない｡</p>
<blockquote>
<p>「身体機能が､客観的に他人より劣っていることを器官劣等性､主観的に『他人より劣っている』と思い込むことを劣等感という｡」<br />
「心理学用語大全」,119P<br />
「客観的に推し量れる身体的な特徴で､身体の障害や背の低さ､持病などがあてはまり､アドラーは器官劣等性という言葉を使っています｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc10">劣等感の先天性</span></h2>
<h3><span id="toc11">劣等感の先天性について検討</span></h3>
<p>【大前提】人間という存在は社会的存在である｡つまり､他者と基本的に関わらざるをえない。対人関係の中で人は生きていくのである｡全く他者と間接的・直接的に関わらないで生きていくことは現代ではほとんど不可能である｡</p>
<p>・アドラーは「<b>劣等感を生まれつき与えられた感情</b>」であると明言している｡赤ん坊のころから､意識的な他者との比較をせずとも劣等感をもっている生き物である｡人間は劣等感を大なり小なり感じざるをえない｡</p>
<p>親のように自由に物を買いたい､自由に出かけたい､友達のようにスポーツ万能になりたい､頭が良くなりたいなどと劣等感をもつ｡他者との比較だけではなく､自分の理想に届いていないという理由でも劣等感をもつ｡</p>
<p>とはいえ､こうした自分の理想は他者との生活の中､文化の中で築き上げられていくものでもあり､他者との関係の中で生じてくるものだと言える｡食べ物や安全といった単純な生存欲求ならともかく､他の優越欲求は真空の中で突然ふとわいてくるものではないだろう｡それゆえに､人間が社会的存在であることが劣等感と強く関係しているといえる｡</p>
<p>・人間は劣等感のなかに落ち着くことはできない｡</p>
<p>・アドラーは「<b>強い劣等感は恵みとして与えられている</b>」と明言している｡劣等感が克服や努力､生命の確保へと向かわせるという｡</p>
<p>・アドラーは「<b>克服を目指す努力が植え込まれている</b>」と明言している｡こうした努力をアドラーは「<b>進化</b>」と解釈している｡また努力の際の性質を「<b>創造力</b>」とも表現している｡</p>
<p>極端な話として､ゴリラや狼に人間が育てられたとする｡そして他に人間が居ないと仮定する｡この場合､この人間に劣等感は生じるのか｡正直わからない｡たとえば､他のゴリラと違って自分は素早く動けない､力が弱いと感じることはあるかもしれない｡</p>
<p>ではゴリラや狼すらいない世界を想定してみる｡木の上のリンゴを取ろうとしても取ることができない｡もっと腕が長ければリンゴをとれるのに､どうして自分の腕は長くないのかと劣等感を覚えるのか｡あるいはそもそも「言語」を習得しなければ「認知」も生じないのか｡</p>
<p>あるいは先言語的な段階でも程度の低い認知なら生じ､その中に劣等感も含まれるのか｡このようにいろいろと想定することはできるが､現実問題として我々のほとんどは社会の中に生きており､言語を習得している｡</p>
<p>それゆえに､こうした極端な前提を､科学的な事実を探求するよりも「現実の我々の生をよりよくする」という<b>実践的な探求を優先</b>することになる｡少なくともアドラーはそうした実践的､現実的な探求を優先している｡</p>
<blockquote>
<p>「利口なひとたちはわたしが間違っていることを主張するために､子どもが劣等感をもつにはまず自分に十分な価値があると感じていなければならないと考えました｡しかし､自分が不十分であることを感じるのは前向きな苦しみです｡少なくとも､課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみです｡これは生まれつき与えられた感情で､解消の必要なつらい緊張に似ています｡緊張の解消は､フロイトの考えのように快楽に満ちている必要はありませんが､ニーチェの見解のように快楽が含まれていることはあります(訳注:フロイトの『快楽原則』｡人間は不快を避けて､快を求めるという考え｡ニーチェは､克服を目指す努力の中には苦悩も快楽もあると考えた)｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,102p</p>
<p>「赤ん坊は満たされていないことを自分の動きで伝え､より完全な状態を目指して､生きるために必要なことを満たそうとします｡同じように､人間の歴史的な行動も､劣等感とそれを解消する挑戦の歴史だと考えられます｡<br />
」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,102p<br />
「個人心理学は､示される行動の意味を学習的にまとめようと努力してきました｡何千もの可能性のあるなかから行動を解釈するには､２つの要素を見ます｡一つは幼少期から続く要素で､マイナスの状況からの克服を目指し､劣等感から完全を求め､緊張の解消へ向かう欲求です｡この要素は子供時代にはもう独自のさまざまな形で習慣づけられ､その後の人生でもずっと同じ形で行動として現れます｡ひとによって微妙に違うので､観察者には芸術的な読解力が求められます｡もう一つの要素では､行動するひとの共同体感覚､また共生への準備がどのくらいできているか､どのくらい足りないかをみます｡…途切れることなく時間が推移していく中で行動を主導するのは､１つ目の克服を目指す欲求です｡２つ目の共同体感覚の要素は､上へ向かうこの行動に色を加えます｡」</p>
<p>アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,99p</p>
<p>「このようなアドラーの考えに問題がないわけではありません｡なぜなら主観的に自分が劣っていると感じるという意味での劣等感があるから優れようとする､また劣等感が人間を動かすというのは原因論的といわねばならないからです｡そこで､やがて優れていることを目標とするということが最初にあって､その結果として劣等感を持つというふうにアドラーは考えるようになりました｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,64p<br />
「人間であることは劣等感を持つことだと､わたしは以前から指摘してきました｡もしかすると劣等感をもった記憶のないひともいるかもしれません｡この表現を苦々しく感じて､別の名前を選ぶひともたくさんいるかもしれません｡実際に何人もの学者のそうした行動を見ているので､わたしはとくに反対はしません｡利口な人達はわたしが間違っていることを主張するために､子どもが劣等感をもつにはまず自分に十分な価値があると感じていなければならないと考えました｡しかし､自分が不十分であることを感じるのは前向きな苦しみです｡少なくとも､課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみです｡これは生まれつき与えられた感情で､解消の必要なつらい緊張に似ています｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,101p</p>
<p>キーワード:「克服を目指す努力が植え込まれている」,恵み<br />
「自然からこんなにも冷たく扱われる人間に､恵みとして強い劣等感が与えられていることはだれの目にも明らかです｡この劣等感が人間をプラスの情況､生命の確保､克服へと向かわせます｡人類の成長の基盤として染み付いた劣等感に反抗せずにいられない欲求は､それぞれの赤ん坊や子どものなかで新たない呼び起こされ､繰り返されています｡子どもは､よほどの障害がなければ､上へ向かう成長の流れにすでに乗り､肉体と精神の発展を促されます｡子どもにも､克服を目指す努力が植え込まれているのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,105p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc12">「補償」</span></h2>
<h3><span id="toc13">メルツァーの確保の原理とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>確保の原理</strong></span>：</big>メルツァーによる「人間の体は生命の『確保』という原理で作られている」という原理｡もし身体器官が傷つけば別の器官が支え､傷ついた器官からは修復のエネルギーが生まれるという｡</p>
</div>
<p>自己保存の法則に加えてさらに確保の原理という能力を進化で手に入れたという話｡アドラーの『器官劣等性の研究』と同時期の文書だという｡</p>
<p>しかしこのメルツァーなる人物がなにものなのか､調べてもあまり出てこない｡朝倉書店の辞書では「メルツァーの法則(反対神経支配の法則)」というものがある(この用語自体､２つともほとんど検索にヒットしない｡英語で調べた限り､おそらく生理学者のSamuel James Meltzer(1851- 1920)ではないかと思うが確証は全くない)｡</p>
<p>辞書では「すべての生体機能は常に相反する二つの力で支配されている｡その一つは増強または活動であり､もう一つは抑制である」と説明されている｡たしかにアドラーが紹介する確保の原理と合致するものがある｡アドラーがいう確保の原理はダーウィン的な自己保存の法則に加えて､この「反対神経支配の法則」が加わったものなのだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:確保の原理とは<br />
「人間の体は､生命の『確保』という原理で作られています｡メルツァーは1906年と1907年の『The Harvard Lectures(ハーバード講義)』で､この確保の原理を伝えています｡これはわたしの『器官劣等性の研究』とほぼ同時期の文書ですが､確保の原理についてかなり深く書かれています｡もし身体器官が傷つけば､別の器官が支えます｡傷ついた器官からは修復のエネルギーが生まれます｡すべての器官が通常の負荷がかかっているときより働くようになり､生存に必要ないくつもの機能などを１つの器官がもつこともよくあります｡もともと自己保存の法則を備えた生命は､生物学的な進化によって､存在を確保するためのエネルギーや能力も手に入れてきたのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,103p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">劣等感補償とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>劣等感補償</strong></span>：</big>・「劣等感を補償しようとする心の動きが行動のエネルギーであり､優れていたいという優越欲求がそうした心の動きを生み出す」というアドラーの考え｡</p>
</div>
<p>防衛機制のひとつとして紹介されることもある｡フロイトとの違いは､性的エネルギー(リビドー)が人間を動かすことを強調するのではなく､劣等感こそが人を動かすことを強調する点にある｡メルツァーの確保の原理を､物理面ではなく精神面から考えたものとも言える｡</p>
<p>ただし､後にアドラーは「まず劣等感が人間を動かす､そして優越欲求が生まれるというのは原因論的である」と考え､「<b>まず優越欲求が先にあり､その結果として劣等感をもつ</b>」と考えを変更するようになったという｡</p>
<p>おそらく､人間は先天的に完全を求める､優越を求めるという目的をもつ生き物であり､その結果として劣等感が生まれるということだろう｡そして次に､そのギャップを「克服したい」という欲求が生じる｡まず意志ありきであり､その落差で劣等感が生じるという順序が大事なのである｡まず劣等感が生じ､次に克服の意志が生じるという順序だと､すべての行動はある種の受動的な劣等感に支配されることになってしまう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:補償(compensation)<br />
「アドラーの提唱した概念で､自分の弱点をカバーするために他の望ましい特性を強調することを指す｡劣等感に由来する心理的緊張を､他の側面で優れることによって解消しようとする傾向である｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,274P</p>
<p>「アドラーはフロイトの精神分析に大きな影響を受けましたが､性的エネルギーが人間を動かしているとは考えませんでした｡アドラーは防衛機制の中でも､特に補償を重要視します｡劣等感を補償しようとする心の動きが行動のエネルギーだと考えたからです｡アドラーによれば､他人より優れていたいという優越欲求がそうした心の動きを生み出します｡」<br />
「心理学用語大全」,118P</p>
<p>「アドラーは1928年，劣等感補償の枠組みに重要な追加を行った。アドラーは論文「理性，知性，知能障害に関する簡潔なコメント」のなかで，私的な知性や理性とコモンセンスを区別した。後者は共同体感覚（世界に対する開放性と共感）と関連するものである一方，前者は共同体感覚の欠如によって特徴づけされる。アドラーは初期において，精神障害の核心を劣等感と補償に置いていたが，その考えを完全に捨て去ることはせず，のちに個人の人生における合理的で全般的な問題解決への行程に対する関心にシフトし，人生おける失敗は社会的感覚，つまりコモンセンスの欠如に由来すると記している4,p.53）。1936年のインタビューにおいてアドラーは，「共同体感覚を持たない子どもは常に自分の殻に閉じこもり，想像的に不満を大きくする」と述べ，さらに劣等コンプレックスについては，「それは一つの表現に過ぎない。今やあちこちで使われるが，私自身は滅多に使わない」と述べている。アンスバッハーは，イマニュエル・カントの「精神障害の分類」の新訳から「すべての精神障害に共通する唯一の特徴は，コモンセンスの欠如であり，個人にとっての意味づけとしての補償的発達の欠如である」という記述を引き，アドラーより1世紀前の偉大な哲学者が，私的な知性とコモンセンスを区別していたことを指摘している。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」138-139p<br />
「Adler,A(1897-1937)アルフレ都度・アドラーはオーストリアのウィーン郊外に生まれた｡ウィーン大学で医学博士号を取得｡始めフロイトに師事したが､意見の対立により彼から離反して独自の理論を発展させた｡彼は『劣等感』という言葉を作ったが､その劣等感を優越感に置き換えようとする補償の作用を重要視した｡後にアメリカの大学で教授職についている｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,22-23P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">健全な補償と不健全な補償について</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>健全な補償</strong></span>：</big>努力と成長を通じて劣等感を補償しようとすること｡マイナスと感じていることを努力や成長を通じてプラスに変えようとすること｡共同体感覚を伴った補償ともいえる｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>過剰補償(不健全な補償)</strong></span>：</big>努力や成長といった忍耐を伴うような補償を避け､安易な補償に走ること｡たとえば劣等感を言い訳に使う「劣等コンプレックス」や ､あたかも自分が優れているかのように振る舞ったり他者を貶めたりする「優越コンプレックス」が代表的な例である｡共同体感覚に欠けた補償ともいえる｡</p>
</div>
<p>・補償に失敗すると「劣等コンプレックス」が生じ､人は神経症的な非合理的行動に駆り立てられるという｡補償に失敗したままでは感情的なしこりや軋轢が続くことになる｡かといって健全に立ち向かう勇気もない｡どうにかして対処しようとして劣等コンプレックスが生じるのである｡</p>
<p>具体的な特徴として､(１)客観的状況を変えるための前進はしない態度(２)自我に脅威となる場面や相手を回避する非攻撃的な態度(不安､臆病)､(３) 自我に脅威となる場面や相手に接近する攻撃的態度(自己顕示､尊大､突っ張り)が見られるという｡いわゆる「<b>神経症</b>」や「<b>精神疾患</b>」と呼ばれる症状が見られる場合もある｡</p>
<p>もっとも､アドラーは劣等コンプレックス(および優越コンプレックス)を「<b>ほとんど病気</b>」だと述べている｡</p>
<p>つまり､過剰補償は病気なのである｡<b>劣等感補償単体が後ろ向きな病気なのではない</b>｡劣等感を克服する努力や忍耐から逃げることが病気へとつながる｡これは「勇気の欠如」とも関連する｡そしてその勇気の欠如は「共同体感覚の欠如」とも関連してくる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:過剰補償とは<br />
「しかし補償に失敗すると､感情的なしこりやあつれき(劣等コンプレックス)が生じ､人は神経症的な非合理行動に駆り立てられる｡人は､客観的状況を変えるための前進は一歩もせず､重要な人間であることを納得させるためのトリックを使う｡それは､(１)自我に脅威となる場面や相手を回避する非攻撃的な表れ方(不安､臆病)をすることも､自我に脅威となる場面や相手に接近する攻撃的表れ方(自己顕示､尊大､突っ張り)をすることもあるだろう｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,281P</p>
<p>キーワード:ほとんど病気</p>
<p>「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで､自身の課題を避けようとする姿勢です｡過度な劣等感であり､アドラーは『ほとんど病気』と指摘しています｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,20p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc16">「克服」</span></h2>
<h3><span id="toc17">「克服」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>克服の欲求</strong></span>：</big>マイナスの状況からのプラスに､劣等感から完全を求め､緊張の解消へ向かう欲求｡「克服を目指す努力」は子どもに植え込まれているという(先天的だという意味だろう)｡</p>
</div>
<p>先天的とはようするに生まれつき備わっている性質・傾向のことである｡先天的な性質にも順序があり､まず優越性の欲求､次に劣等感､そして克服の欲求が生じるということになる｡これらはほとんど不可避的に生じるものであり､いわば同じコインの裏表のようにセットのものだといえる｡卵か鶏かという話と同じで､事実的な因果関係の先後はあまり重視されないのかもしれない(ただし実践的意義としては先後が重視されるだろう)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:克服の欲求</p>
<p>「個人心理学は､示される行動の意味を学習的にまとめようと努力してきました｡何千もの可能性のあるなかから行動を解釈するには､２つの要素を見ます｡一つは幼少期から続く要素で､マイナスの状況からの克服を目指し､劣等感から完全を求め､緊張の解消へ向かう欲求です｡この要素は子供時代にはもう独自のさまざまな形で習慣づけられ､その後の人生でもずっと同じ形で行動として現れます｡ひとによって微妙に違うので､観察者には芸術的な読解力が求められます｡もう一つの要素では､行動するひとの共同体感覚､また共生への準備がどのくらいできているか､どのくらい足りないかをみます｡…途切れることなく時間が推移死ていく中で行動を手動するのは､１つ目の克服を目指す欲求です｡２つ目の共同体感覚の要素は､上へ向かうこの行動に色を加えます｡」</p>
<p>アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,99p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">克服の方向について</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">克服が<b>共同体感覚を伴うようなライフスタイル</b>のもとで行われると､人間は幸せと感じることができる｡</li>
<li class="sample">克服が<b>共同体感覚の乏しいライフスタイル</b>のもとで行われると､人間は幸せと感じない傾向がある｡神経症を患ったり､自分の人生に不満をもつ｡場合によっては「<b>楽</b>」ではあるかもしれないが､「<b>幸せ</b>」ではないという｡</li>
</ol>
<p>克服の「<b>方向</b>」は人によって異なるという｡共同体感覚を伴う方向が前向き､伴わない方向が後ろ向きであるといえる｡後者の場合はアドラーの表現でいうと「<strong>後</strong><b>ろ向きの前進</b>」である｡なぜなら､たとえ共同体感覚を伴わないという意味で後ろ向きであったとしても､本人の「善(ためになる)」にとっては前進だからである｡楽でいたい､自分だけが楽でいられればいいということが善なら､ひたすらそこへむかうことになってしまう｡</p>
<p>生きていくうえで「克服」は絶対に欠かすことができないという｡アドラーは「<b>生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらない</b>」とまで述べている｡この大きな理想の手段として様々な目的が設定されることになる｡完全という理想ではおそらく「我々の善」というような共同の善が設定されるのだと考えられる｡</p>
<p>・食糧問題を解決したい｡もっと労働を少なくして食料生産をしたい｡そのためには植物を研究する必要がある｡そのためには観察機材を開発する必要がある｡</p>
<p>このように無限のように広がる目的と手段の連鎖があり､その頂点の付近にアドラーが述べたような抽象的､理念的､極限的な「大きな目的」があるのである｡いわば､同じ「大きな目的」のために創造的により小さな「目的≒手段」が設定され､そこに向かって人間は努力していくイメージになる｡アドラーは職業に貴賤はないと考えていたそうだ｡農夫であれ､総理であれ､サラリーマンであれ､主夫であれ､「<b>すべての仕事は共同体の誰かがやらねばならないことであり､われわれはそれを分担しているだけ</b>」と考えている｡それゆえに､職業は「<b>等価</b>」だという｡究極的な理想にむかって我々はそれぞれの目的・手段系列のいずれかに位置しているとも考えることができるかもしれない｡「<b>人間の価値はどんな仕事かではなく､仕事にどのような態度で取り組むかで決まる</b>」ともいう｡要するに､共同体感覚を伴った態度ということである｡こうしてみると動機重視だといえる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらない」</p>
<p>「しかし人間という存在は､劣等感の中に落ち着くことはできません｡生物の進化に定められた完全という理想を目指す努力はけっして止まらず､上へ向かう道を見つけて､共同体感覚の方向へ進んだり､それに反する方向へさまざまな形で進んだりします｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,247p</p>
<p>キーワード: 職業の貴賤､人間の価値について<br />
「哲人『いいえ､外れません｡分業という観点に立って考えるなら､職業に貴賤はないのです｡一国の宰相､企業の経営者､農夫､工場労働者､あるいはそれを職業と見なされることの少ない専業主婦に至るまで､すべての仕事は「共同体の誰かがやらなければならないこと」であり､われわれはそれを分担しているだけなのです｡』青年『どのような仕事も等価である､と？』哲人『はい｡分業について､アドラーはこんなふうに語っています｡「人の勝価値は､共同体において割り当てられる分業の役割を､どのように果たすかによって決められる』と｡つまり､人間の価値は､「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない｡その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まるのだと｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,192p</p>
<p>キーワード:克服の方向について</p>
<p>「このとき､人間とは､克服を迫る劣等感をもつものだとわかるのです｡求める克服の方向は､求める完全という目標と同じくらい､人によって異なります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,75p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">克服と劣等感の関係</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">人間は完全という理想(目的､目標)を生まれつきどうやらもっている｡</li>
<li class="sample">それゆえに､現実との落差により劣等感が不可避的に生じる｡</li>
<li class="sample">劣等感をそのままにしておくことはできない｡それゆえに､人間はそれを克服しようとする｡つまり､劣等感は克服を迫る｡全ての劣等感を完全に克服することは難しいが､しかし目標をもち､それに向かって努力することで劣等感は解消されていき､和らいでいく｡</li>
</ol>
<h3><span id="toc20">傷つかないことは楽であるが不満もある</span></h3>
<p>傷つかないことは楽であるが不満もある｡受験勉強から逃げる､就職活動から逃げる､友人や恋人をつくることから逃げることは「<b>楽</b>」であるかもしれない｡しかし同時に「もしちゃんと勉強できていたら・・・就職できたら・・・友達と向き合っていれば・・・恋人がいたら・・・」という「<b>不満</b>」と「<b>優越</b>」も奥にひそんでいるのである｡</p>
<p>学歴なんて意味がない､自分の価値と労働の対価が釣り合っていない､友達や恋人は時間の無駄､男はろくなもんじゃない､女はろくなもんじゃない､親が悪い､環境が悪い､運が悪い､お金がない､集中力がないと言い訳ばかりを述べて不満を正当化するのである｡「共同体感覚の乏しいライフスタイル」は場合によっては「<b>楽</b>」ではあるかもしれないが､「<b>不幸</b>」だと感じる人が多いのではないか｡</p>
<p>特に､劣等感が劣等コンプレックスとなる場合が好ましくない｡言い訳のために劣等感が使用されるようになり､ライフタスクから逃げるように後ろ向きになり､自己中心的な人間になる｡</p>
<p>劣等感の克服過程には快楽も不快も両方ある｡快不快は努力の途中でもらえる助けやおまけにすぎないとアドラーはいう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:快不快について</p>
<p>「しかし､わたしたちを囲む文化はつねに成長しています｡文化にも存続を確保しようとする傾向があるので､反発を受けた人間は劣等感をもちつづけ､そこから行動を促されてもっと大きな安全を得ようとします｡この努力にともなう快や不快は､途中でもらえる助けやおまけにすぎません｡もし与えられた現実に適応するだけなら､甘やかされた子どもの世界観のように､他者の努力を利用するのと変わりません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,104p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc21">
「優越性の追求」</span></h2>
<h3><span id="toc22">「優越性の追求」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>優越性の追求</strong></span>：</big>自らの足を一歩手前に踏み出す意志であり､理想の自分を目指す行動であり､先天的な欲求であるとされている｡また､優越性の追求自体は「健康で正常な努力と成長への刺激である」とアドラーは述べている｡</p>
</div>
<p>アドラーの考える健全な優越性の追求は「他者より優れていようとする欲求」ではないということに注意する必要がある｡アドラーはこうした他者と比較して､蹴落とそうとする競争的な態度を肯定しているのではない｡上下関係がない対等な「横の関係」に基づく優越性の追求を重視している｡</p>
<p>・この優越性の追求が先にあり､その結果として劣等感が生じ､この劣等感を克服しようとする欲求が生じる｡これらはセットであり､実質的にどれも人間の本質であり､本質的な欲求であるという｡</p>
<p>・人間は大抵の場合､「完全という理想」を最初はもって追求していくが､「<b>他の人々や物事を完全にはコントロールできない</b>」という事実に直面する｡次に理想と現実のギャップから劣等感が生じ､苦しむようになる｡それゆえに､できるだけギャップをなくそうと「克服」を試行錯誤で一歩一歩行うようになる｡この過程でさまざまな中間領域の優越という一種の「目的」が設定され､また解消され､また設定されの繰り返しのイメージである｡この繰り返しの果てに「完全という理想」がある｡たとえばたくさん食べたいという欲求は一時的に解消されるかもしれないが､安全の欲求や自己実現の欲求など､より上位のさまざまな目的・理想が中間領域で生じていくのである｡</p>
<blockquote>
<p>メモ:優越性の追求は人間の基本的な欲求である<br />
「哲人『こう考えてください｡「優越性の追求」というと､他者より優れていようとする欲求､他者を蹴落としてまで上に昇ろうとする欲求のように思われがちです｡人々を押しのけながら階段をのぼっていくようなイメージですね｡もちろんアドラーはそんな態度を肯定しているのではありません｡そうではなく､同じ平らな地平に､前を進んでいる人もいれば､その後ろを進んでいる人もいる｡そんな姿をイメージしてください｡進んできた距離や歩くスピードはそれぞれ違うけれども､みんな等しく平らな場所を歩んでいる｡「優越性の追求」とは､自らの足を一歩手前に踏み出す意志であって､他者より上をめざさんとする競争の意志ではありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc23">健全な劣等感と劣悪な競争の関係</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>健全な優越性の追求</strong></span>：</big>他者との比較ではなく自分の理想との比較において生じる追求のこと｡</p>
</div>
<p>また､そうした健全な優越性の追求からは健全な劣等感が生じやすい｡また､健全な劣等感からは健全な克服が生じやすいといえるだろう｡</p>
<p>・アドラーいわく､他者との競争的､嫉妬的な比較によって克服の目的を設定するよりも､理想の自分との比較のほうが健全であるという｡</p>
<p>なぜかといえば､対人関係の軸に「<b>競争</b>」があると人間は対人関係の悩みから逃れることができず､結果として不幸になるからである｡競争における勝ち負けを意識すると､他者は「<b>敵</b>」だと見なすようになったり､身長が低いせいで負けただけだといった「劣等コンプレックス」や「学歴が低いやつはしょうもない」といったような「優越コンプレックス」に浸るようになってしまう｡また､他者の幸福に対して「<b>私の負け</b>」だと捉えてしまい､素直に喜べなくなってしまう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:健全な劣等感とは</p>
<p>「哲人『健全な劣等感とは､他者との比較のなかで生まれるのではなく､『理想の自分』との比較から生まれるものです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,92p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">それぞれの人間は「違う」けれども「対等」である</span></h3>
<p>勝敗などの縦の関係ではなく横の関係で見ることによって､他者を「<b>仲間</b>」として見ることができる｡</p>
<p>知識や外見などの「違い」で<b>人間の価値は決まらない</b>という｡一体何で決まるのだろうか､と疑問に思う｡岸見さんの説明では「今より前へ進もうとすることに価値がある」という｡では「前」とは一体「何処」にあるのか｡人それぞれの前があるのかもしれないが､やはりそこには「完全」や「永遠」という言葉で形容されるような､個人には還元できない目標があるのだろう｡</p>
<p>※詳細は縦の関係､横の関係の項目で説明</p>
<blockquote>
<p>メモ:優越性の追求と競争の追求は違う<br />
メモ:どうして人は劣等感を抱くのか？<br />
「哲人『まず､人は無力な存在としてこの世に生を受けます｡そしてその無力な状態から脱したいと願う､普遍的な欲求を持っています｡アドラーはこれを「優越性の欲求」と呼びました｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,79p<br />
「哲人『他者との間に違いがあることは積極的に認めましょう｡しかし､われわれは「同じではないけれど対等」なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,92p<br />
「『哲人』知識や経験の量､それからとれる責任の量については､違いがあるでしょう｡…しかし､そんなもので人間の価値が決まるはずもありません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,93p<br />
「哲人『いわば､縦の軸が存在しない平らな平面を､われわれは歩んでいる｡われわれが歩くのは､だれかと競争するためではない｡今の自分よりも前に進もうとすることにこそ､価値があるのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,93p<br />
「哲人『対人関係の軸に「競争」があると､人は対人関係の悩みから逃れられず､不幸から逃れることができません｡』」,95p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc25">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc26">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc27">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc28">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc29">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc30">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc31">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc32">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc33">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc34">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc35">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc36">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc37">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc38">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc39">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc40">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc41">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc42">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/feed/</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 05:43:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://souzouhou.com/?p=3636</guid>

					<description><![CDATA[創造発見学第三回のアドラー心理学､理論編です(２)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-8" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-8">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">その他注意事項</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">アドラー心理学の３つの要素</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">５つの基礎概念</a></li><li><a href="#toc9" tabindex="0">「目的論」</a><ol><li><a href="#toc10" tabindex="0">「目的論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">「原因論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc12" tabindex="0">「仮想論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">「先導的自己理想」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc14" tabindex="0">「行動」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">「善」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">善と適切の違い</a></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">行動に隠された目的とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc18" tabindex="0">永遠の目からみた目的(完全な目標)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">「誰かが始めなければならない」</a></li></ol></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">
「認知論」</a><ol><li><a href="#toc21" tabindex="0">「認知論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">人間の感情と行動の３つの結びつけ方</a></li></ol></li><li><a href="#toc23" tabindex="0">「全体論」</a><ol><li><a href="#toc24" tabindex="0">「全体論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">「わかっているが､できない」と「わかっていて､したくない」</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">責任論と主意主義</a></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">追記(2024/04/28):自我というわけのわからぬもののわけのわからぬ説明について､雑感</a></li></ol></li><li><a href="#toc28" tabindex="0">「機能主義」</a><ol><li><a href="#toc29" tabindex="0">「機能主義」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">「対人関係論」</a><ol><li><a href="#toc31" tabindex="0">「対人関係論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc32" tabindex="0">「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">相手を理解することは不可能である</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">追記(2024/04/28):快と喜びの違いについて雑感</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">追記(2024/04/28)対人関係に影響を与える４つの要素について</a></li></ol></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">「実存主義」</a><ol><li><a href="#toc37" tabindex="0">「実存主義」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">自己決定性について</a></li><li><a href="#toc39" tabindex="0">自己中心性と自己決定性は違う</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">責任について</a></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">ルソーの「我ここに立つ」</a></li><li><a href="#toc42" tabindex="0">「所有の心理学」と「使用の心理学」</a></li></ol></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">「創造性」とはなにか</a><ol><li><a href="#toc44" tabindex="0">天才と独自性について</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">「世界を不断に創造している」</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">遺伝では全ては決まらない</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">創造力は発達(発展)である</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">行動原理(ライフスタイル)と創造力の関係について</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">子どもと創造力の関係について</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">神経症と創造力の関係について</a></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">追記(2024/04/29)神経症とはとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc52" tabindex="0">howとwhy</a></li><li><a href="#toc53" tabindex="0">創造に正しさはあるのか</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">共同体感覚と創造性の関連について</a></li></ol></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc56" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc57" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc61" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc65" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc69" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc70" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc71" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc72" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">その他注意事項</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<h3><span id="toc4">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc6">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc7">アドラー心理学の３つの要素</span></h2>
<p>・野田俊作さんはアドラー心理学を「<b>理論</b>・<b>思想</b>・<b>技法</b>」という三つの側面に分けている｡それぞれ重なり合うものではあるが､便利な分類である｡今回はこの分類に即して説明していくことになる｡</p>
<p>・理論について野田さんは「個人の主体性､目的論､全体論､社会統合論､仮想論」に区別している｡今回は主に「目的論､認知論､全体論､機能主義､対人関係論､実存主義､創造性」の７つに大まかに分類する｡野田さんの「個人の主体性」は主に実存主義の項目で扱う｡仮想論については目的論や共同体感覚の項目で扱う｡社会統合論については対人関係論に含まれるものとする｡</p>
<p>なお､こうした目的論や全体論といった「基本前提」を最初に定式化したのはアンスバッハー（Heinz Ansbacher 1904～2006)であるという｡</p>
<p>アドラー自身はこのような各論や基本前提として分類したり､体系を作ったりはしていないという｡要するに､アドラーの主張にはこうした基本前提が見られると後継者(アドレリアン)が考えていったわけだろう｡</p>
<p>理論を理解するためには､アドラー心理学におけるそれぞれの用語を理解する必要がある｡</p>
<p>詳細な用語の掘り下げや関連する用語の理解をまずは後回しにし､５つの基礎用語の基礎的な理解を行う｡５つの基礎用語が理解できれば理論の理解も容易くなる｡</p>
<blockquote>
<p>「　野田俊作によれば、アドラー心理学は理論・思想・技法の３つの側面から考えることができます。ここでは、理論と思想の中核となる概念をアドラー心理学の全体像のなかで説明するとともに、アドラー以外の諸理論、諸思想との差異を明確にします。また、代表的な技法について紹介します。」</p>
<p>野田俊作顕彰財団 (<a href="https://adler.or.jp/%e3%82%a2%e3%83%89%e3%83%a9%e3%83%bc%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e3%81%ae%e5%9f%ba%e7%a4%8e/">URL</a>)</p>
<p>「アドラー心理学の各論には、「目的論」「全体論」「対人関係論」「認知論」「創造性」があげられる。これらの根底に「共同体感覚」があり、それを前提にすると各論が理解しやすく実践的に活かせるものとなる。」<br />
山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」､２p</p>
<p>「ここでは解りやすく各論という言葉で表したが、もとよりアドラー自身の著書でこのような分類や体系が作られたことはない。野田俊作（1998）によれば、これを「基本前提」（Basicassumtions）と呼び、最初に定式化したのは、アンスバッハー（HeinzAnsbacher1904～2006）である。」<br />
山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」､7p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc8">５つの基礎概念</span></h2>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>劣等感</strong></span>：</big>「主観的に劣っている」 と思い込むこと｡比較対象は他者である場合もあれば自分である場合もある｡</p>
</div>
<p>課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみであるという｡身体器官､容貌､性､能力､社会的・経済的条件など､さまざまな事実・出来事に対して生じうる感覚である｡アドラーいわく劣等感自体は病気ではなく「<b>健全</b>」だといい､努力や成長を促すきっかけとなりうる大事なもの､授かりものだという｡</p>
<p>特に関連するワード:「克服」､「器官劣等性」､「優越性の追求」､「補償」､「健全」､「努力」､「マイナスからプラス」</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>劣等コンプレックス</strong></span>：</big>「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで､自身の課題を避けようとする姿勢」のこと｡「劣等感による反応がずっと続いて､劣等感にしがみつくこと」とも定義される｡「人生の課題を克服することを拒否する口実として､自分自身の劣等感を誇示して自分と他者をあざむくこと」とも定義される｡劣等感を「言い訳」に使いだす劣等コンプレックスは「病気」だという｡</p>
</div>
<p>特に関連するワード:「不幸」､「優越コンプレックス」､「過剰補償」､「病気」</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフスタイル</strong></span>：</big>「個人の世界観に基づいて､個人が選択する思考や行動のパターン(型)」のこと｡「行動原理」という用語とほとんど同義だと考える｡主に健全なライフスタイルと不健全(病気)のライフスタイルに区別することができる｡一般的な言葉で言えば「性格」である｡</p>
</div>
<p> 特に関連するワード:「私的感覚」､「家族布置」､「社会的条件」､「遺伝」､「環境」､「自由」､「対等」､「性格」</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ライフタスク</strong></span>：</big>「人生においてたまたま遭遇するのではなく､避けて通ることのできない､人間が直面せざるをえない課題」のこと｡アドラーは仕事の課題､交友の課題､愛の課題の３つが私たちに突きつけられる主要な課題であるとした｡</p>
</div>
<p> 特に関連するワード:「縦の関係と横の関係」､「課題の分離」､「仕事､交友､愛のタスク」､「行動面の目標と心理面の目標」､「人生」</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>共同体感覚</strong></span>：</big>アドラー自身のシンプルな定義は「他の人の目で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる」という感覚である｡私のことだけでも､あなただけのことだけでもなく､「我々」という主語のもとで物事に関心をもつ姿勢､感覚を意味することから「社会的関心」と呼ばれることがある｡</p>
</div>
<p> 特に関連するワード:「幸福」､「自己受容」､「他者信頼」､「他者貢献」､「かのように哲学」､「脱自己中心」</p>
<h2><span id="toc9">「目的論」</span></h2>
<h3><span id="toc10">「目的論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>目的論</strong></span>：</big>人間を、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があるという考えのこと｡</p>
</div>
<p>過去によって人間は全て規定されているのではなく､今・現在・この瞬間が重要であり､未来の目標に向かって選択を行い､主体的に生きていくという点にポイントがある｡</p>
<p>過去の出来事は現在や未来に「影響」はするが「全てを決定」するのではないと考え､最終的に決定するのはあくまでも今・現在の自分の思考を通した「選択」だと考える｡影響因と決定因を明確に区別し､あくまでも決定因は自由意志や選択にあると考える｡</p>
<p>それゆえにアドラーの立場は「<b>緩やかな決定論</b>」と呼ばれることがある｡例:今現在引きこもっている目的は「家族の注目を引きたい」､「他者との関係で傷つきたくない」という目的があるからだ､そのほうが「自分のためになる(善)」からだ､と考え､その目的を自分の意志で選択している｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:目的論</p>
<p>「人間を、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があると考えます。およそ生物は、マイナスの状況からプラスの状況に到達することを目標に活動します。人もそうです。ただ、一般的に生物は、個体の保存と種族の保存を目標に活動しますが、アドラー心理学では、人は社会的動物であるが故に、社会に所属することがより重要な目標となる、と考えます。さらに、「社会に所属するためには自分はどのようであらねばならない」という、主観的で仮想的な目標を個人がそれぞれ持つのであって、個人の行動は、様々な状況の中でこの（仮想的な）目標を実現させるための方法として行われる、と考えます。」</p>
<p>野田俊作財団の説明の引用(既出)</p>
<p>キーワード:緩やかな決定論</p>
<p>「しかしアドラー心理学では『影響はあるかもしれないが､決定因ではない』と考えます｡決定するのはあくまで自分自身｡自分の身体や置かれた環境をどう感じ､どう意味を見つけていくか｡同じ経験をしても､人によって受け取り方はさまざまです｡すべて自分次第です｡できるだけ建設的で､前向きな決定をしていきたいのは言うまでもありません｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p</p>
<p>メモ:マトリックスとの関連</p>
<p>「とはいえ､何の材料もなく決めるわけではありません｡ライフスタイルの形成に当たっては､さまざまな要因が影響因として作用します｡アドラーはこれを『素材』といっています｡素材をも元に人はライフスタイルを決定するのです(このようなアドラーの立場は『柔らかい決定論(soft determinism)』といわれます)｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,42p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc11">「原因論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>原因論</strong></span>：</big>「人の行動にはすべて原因がある」と考える立場｡</p>
</div>
<p>たとえばフロイトは人間の行動には必ず原因があると考える立場である｡</p>
<p>極端に言えば過去に生じたものにによって人間は全て規定されているのであり､決定論的な立場になる｡例:今現在引きこもっている原因(決定因)は過去にいじめにあったからだ､トラウマがあるからだ｡</p>
<p>Q 原因論から目的論へ変えたところで何が変わるのか</p>
<p>仮にある人間が自分を不幸だと感じていて､それを問題だと考えているとする｡原因論のアプローチの場合は「<b>過去の事実を変えられない</b>」以上､それより前へ進むことができない｡</p>
<p>夢判断や自由連想法などの精神分析療法で「過去の原因」を明らかにしても問題を「<b>解説</b>」するに留まり､「<b>解決</b>」することは難しい｡慰めるだけである｡</p>
<p>目的論の場合は「目的」を変更すれば解決の余地がある｡たとえばいじめや虐待という過去の事実を持ち出すことによって「他者とは関わりたくない､人間関係で傷つきたくない､楽でいたい」という目的をもっていたと仮定する｡この場合､「他者と関わりたい､他者に貢献したい」という目的をもつようになれば､過去の虐待やいじめを持ち出す必要はなくなる｡</p>
<p>目的は今・現在､未来に向けて自らが選択するものであり､今､この瞬間から変更することができる｡また､そのような変更を「<b>勇気づける</b>」ことがアドラー心理学の治療では重要になる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:フロイトの原因論</p>
<p>「アドラーと並ぶ三大心理学者の１人､ジークムント・フロイトは『原因論』を唱え､人間の行動には必ず原因があると言いました｡『虐待をするのは､過去に虐待を受けたからだ』『引きこもった原因はいじめにあったからだ』」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P</p>
<p>「このような目的論に対して『原因論』という考え方があります｡むしろこちらのほうが一般的でしょう｡息子が先生の話を聞かなかったときにその『原因』を､妹が生まれて精神的に不安定になったことに求めたり､愛情が不足すると子どもが学校にいかなくなるというような考え方を『原因論』といいます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,49P</p>
<p>キーワード:原因論から目的論へ</p>
<p>「哲人『これは対人カード､という観点から考えるといいでしょう｡原因論で「殴られたから､父との関係が悪い」と考えているかぎり､いまのわたしには手も足も出せない話になります｡しかし､「父との関係をよくしたくないから､殴られた記憶を持ち出している」と考えれば､関係修復のカードはわたしが握っていることになります｡わたしが「目的」を変えてしまえば､それで済む話からです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,167p<br />
メモ:なるほど｡最初は「だからなに」から「そういうことか」に変わった｡「選択」や「意志」が重要になる態度変更である｡</p>
<p>キーワード:原因論と目的論の違い</p>
<p>「感情が原因で行為が結果であるとは考えません｡私たちが感情をある目的のために使うのであって､感情が私たちを後ろから押して支配するとは考えません｡感情は多くの場合相手にこちらのいうことをきかせようというふうに相手を動かすために使うのです｡怒りを使うと相手がいうことをきかせようというふうに相手を動かすために使うのです｡怒りを使うと相手がいうことを聞くだろうと考えて､怒りをその目的のために創り出します｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,49p</p>
<p>メモ:目的のために感情を「創造」するという言い方に変えると少し面白い｡</p>
<p>キーワード:解説と解決の違い<br />
「過去の出来事をかえることはできないため､原因論は解説にはなりえますが､解決にはつながらないからです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P</p>
<p>メモ:理解社会学は理解し､解明することに重点があり､個々人の問題を解決することに重点はない｡平均化される個人｡</p>
<p>キーワード:目的論というアプローチで「問題解決」<br />
「つまり､フロイトは『原因論』から人間の行動を解明しようとしますが､アドラーは『目的論』というアプローチで問題解決をしようというわけです｡」</p>
<p>永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P<br />
メモ:創造の基本は問題解決</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc12">「仮想論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>仮想論</strong></span>：</big>目的は個人の想像であり､現実的なものではないという考えのこと｡</p>
</div>
<p>未来において投げかけるようなイメージであり､目的は「<b>虚構の目標</b>」や「<b>先導的自己理想</b>」と表現されることがある｡そもそもアドラーは劣等感が完全に満たされることは神でもなければありえないと考えている｡それゆえに､「<b>完全という目的</b>(目標)」を我々は実現すること､現実的なものとすることはできない｡そうした仮想論に向かって我々は具体的な目的と手段の連鎖を積み上げていくのだが､最終地点はあくまでも仮想にとどまるというわけである｡最終地点の目的からすれば他の目的は全て手段や過程にすぎない｡詳細は「共同体感覚」の項目で扱う｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/60ae0941ba2c2526a9bf72a3127c8cd2.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3598" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/60ae0941ba2c2526a9bf72a3127c8cd2.png" alt="" width="1025" height="398" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/60ae0941ba2c2526a9bf72a3127c8cd2.png 1025w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/60ae0941ba2c2526a9bf72a3127c8cd2-800x311.png 800w" sizes="(max-width: 1025px) 100vw, 1025px" /></a></p>
<p>以前､パーソンズの動画で利用したものを改変するとこのようなイメージになる｡ただし､アドラーが「個人の幸せ」と「人類の幸せ」のどちらを優先しているかは保留する｡最も重要な点であり､勇気づけの項目で扱う｡もっとも､究極的目的は最も大きな共同体感覚を得ている状態とも仮定することができ､その意味で中間領域の共同体感覚は下位の共同体感覚といえる｡</p>
<p>重要なのは「仮のものとして想像しておくこと､仮説しておくこと」でどんなプラスがあるかである｡まず､そうした目的を設定し､実現できるかどうかを問わずに理想に導かれて行動することで「<b>劣等感が緩和される</b>」という｡また､「<b>人格の統一と一貫性が保たれ</b>」､日常生活を処理できるという｡</p>
<p>過去にばかり執着して囚われ､自分を無能であり未来を変えることは不可能だと信じている状態と比較すると､なんとなくプラスがありそうである｡寺山修司さんの「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。」を思い出す｡アドラーなら「振り向くな、振り向くな、後ろには幸福がない。」と言うかもしれない｡振り向いて言い訳ばかりをしているんじゃない､と｡</p>
<p>仮想論(バーチャル)ではなく現実論(リアル)で考えてしまうと､自分の設定した目的が固定的になり､状況の変化に合わせて変化､創造していくことが難しくなってしまうことが考えられる｡</p>
<p>どんな目的が望ましいかは時代､文化､制度､個々人によってその都度異なるのであり､常に自ら判断し､主体性を持って「より視野の広い適切な目的」を設定していく必要がある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:仮想論</p>
<p>「そうではなくて､目的は個人の想像､イメージであって､現実的なものではなく､アドラーはこのような目的について『仮想的』という表現をしています｡原因ですら先に見たことから明らかなように､客観的に存在しているわけではないのです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,134p</p>
<p>「それは､虚構の目標(fictional final goal)ではあるが､人はその理想に導かれて行動し､理想に到達できるか否かにかかわらず､理想を抱くことで劣等感が緩和され､人格の統一と一貫性が保たれ､日常生活を処理できる｡理想を現実的なものに修正しつつ達成することで劣等感は解消され補償は成功する」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,281P</p>
<p>キーワード:絶対の価値を状況とは無関係に認めない<br />
「アドラーが『仮想』という言い方で意図していたことは､絶対の価値というものを状況とは無関係に認めたりしないということだったのです｡何が善で何が悪かは状況に応じてそのつど当事者が合意して決めていくものなのです｡したがってアドラーがいう共同体感覚についてもその内実に即して吟味していかなければならなのであって､超越的な価値としてアドラー心理学の基礎として位置づけることはできないのであり､危険なことである､とわたしは考えています｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,127p<br />
メモ:「どこへ」は仮想であり､絶対的なものではない<br />
メモ:マンハイムの相関主義や､ウェーバーの「光」の話とつながっていく｡あるいはマートンの結果につながっていく｡</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc13">「先導的自己理想」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>先導的自己理想</strong></span>：</big>仮想論における目的のこと｡虚構の目標ともいわれる｡人間はまず理想を抱き､そして現実との落差により劣等感が生じる｡</p>
</div>
<p>仮に理想を「全てにおいて完全に至る」という究極的なものだと仮定する場合､神でもない人間は決して達成することができそうにない｡それゆえに､不可避的に「劣等感」が生じるのである｡たとえ他者との比較をしない場合でも､「理想の自分との比較」により劣等感は生じうる｡また､アドラー心理学では基本的に「他者との比較」を不適切だと考え､「<b>理想の自分との比較</b>」を重視する｡なぜなら､他者との比較は「競争」を煽り､他者を「敵」と見なしがちだからである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:先導的自己理想</p>
<p>「そして､人は､ほとんど無意識的に先導的自己理想(guiding self-ideal)を抱く｡その理想は､劣等感を抱く対象に直接取り組むことで達成される理想であることも､それ以外の対象に取り組むことで達成される理想であることもある｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,281P</p>
<p>キーワード:健全な劣等感</p>
<p>「哲人『健全な劣等感とは､他者との比較のなかで生まれるのではなく､『理想の自分』との比較から生まれるものです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,92p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc14">「行動」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動</strong></span>：</big>アドラーはあらゆる行動は「目的(目標)」をもっていると考えている｡また､思考によって「手段としての感情」が創り出されるという点がポイントである｡</p>
</div>
<p>例えば打算的行動のような明確な目的をもった行動だけではなく､怒りのような突発的な行動も目的をもった行動だと考えている｡すなわち､感情だけに左右されてすべての行動が促されるだけではなく､間に「思考(認知､解釈)」が挟まれ､その思考過程において「目的」が設定される｡この際､目的は「未来」に向けられているという視点が重要になる｡</p>
<h3><span id="toc15">「善」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動の目的としての善</strong></span>：</big>「自分のためになること」を人間は目的として設定し､感情を利用し､行動する｡</p>
</div>
<p>岸見一郎さんによればギリシャ哲学における「善」は道徳的な善や正義や公益という意味ではなく､「(個人にとって)有益や役に立つ」という意味で使われているという｡</p>
<p>岸見さんによると､アドラーの使う「原因」とはソクラテスにおける「真の原因」､アリストテレスにおける「目的因」であるといい､「<b>決定因</b>」であるという｡</p>
<p>物理的条件や身体的条件などの因果律である「副原因」と区別される｡また､「善」という目的の設定は個々人の「判断(思考､認知､解釈)」であり､選択的､創造的な要素をもっている｡</p>
<p>例:甘やかされた環境に子どもが置かれたからといって､自分勝手な人間でいることを「善」とする人間に必ずなるわけではない｡子どもは各材料､諸影響のもと､選択する余地がある｡</p>
<p>・アドラーは人間の本性は善か悪かについて､「<b>善である</b>」という答えを出している｡</p>
<p>人間は共同体感覚を発達させ続けて進化するからだという｡「悪」に見えるものは「<b>進化の過程のしくじり</b>」にすぎないという｡人間は優越性の欲求や共同体感覚を先天的にもっているという考えに基づいている｡失敗は成功の元ともいう｡</p>
<p>例:「原子力の開発」というある個人の行動が善か悪かは単純な問題ではない｡ある種の「自然という大きな実験の場」と考えるわけである｡結果的にそれで人類が絶滅したならば人類単位では「悪」であるといえるだろう｡ものすごく曖昧な言い方をすれば「物事はどう転ぶかわからない」ということになる｡かといって結果を真摯に予測しようとする課題を回避してはならないとアドラーなら考えるだろう｡M・ウェーバーとつながる｡反面教師として生きているというような独りよがりの傾向が肯定されている訳ではない｡</p>
<p>この話を聞いて思い出すのはデュルケムの「犯罪があるほうが正常な社会」という話である｡窃盗や殺人があるからこそ､それらがよくないということが周知されていくし､犯罪とみなされるということはそこに規範があるという話｡だからといって犯罪行為単体が正当化できるとは思わないが､「社会のためにならない」と容易に断定できないことになる｡</p>
<p>正直､主語が社会の場合はためになるとかならないとか､善だとか悪だとかいう判定が極めて難しい｡判定するためには「<b>社会システム</b>」とはなにか､という難解なテーマに接近する｡また､動機(目的)と結果(機能)の違いという話にもつながってくる｡動機が善なら結果が悪でもいいのか｡動機が悪でも結果が善ならいいのか｡昔からよくあるテーマである｡しかし､すくなくとも動機が悪の時点で他者を敵であり利用するだけの存在であるとみなしているので結果が善であっても不適切であるといえる｡動機が善であったとしても､悪の結果を予測する対処をなんら行っていない場合は､他者への関心が欠けていると考え､私は不適切だと考える｡</p>
<h3><span id="toc16">善と適切の違い</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b0ff831d8c315bca938f73324368edac.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3599" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/b0ff831d8c315bca938f73324368edac.png" alt="" width="717" height="527" /></a></p>
<p>岸見さんの文脈で「(個人の)ためになる」という善で図をつくるとこのようになるだろう｡改めて考えると､適切・不適切は「(我々の)ためになる」というような軸に見えてくる｡</p>
<p>そもそも人間の目的は本人の主観において「善=ためになる」として設定されるので､基本的に「悪」として設定されない｡それゆえに､分類としては「善であり適切」か「善であり不適切」に絞られることになる｡一言で言えば自分の善が他者の善､そして我々の善として重なりうるかがポイントになる｡</p>
<p>あるいは目的と結果を区別して､マートンのような分類をすることもできるかもしれない｡たとえば「善」として動機や意図が設定されたが､「悪」という結果(逆機能)になったということはありうる｡</p>
<p>引きこもりも犯罪もマナー違反も「善」である｡適切かどうかは共同体感覚をもっているかどうかで判定する｡また､楽であることが幸せであることに必ずしもつながらないことには注意する必要がある｡「自分に価値がない」ことが明らかにされないほうが楽で安心することは多い｡だからこそ就職活動や恋愛活動などの対人関係は不安が多いのである｡しかしそうした対人関係の中にこそ「幸せ」がある｡</p>
<p>アドラーのいう「共同体感覚の発達」という観点から善悪を考えれば悪との組み合わせも分かるかもしれないが､結果論的なものであり､またプラスとマイナスのどちらが上回っているかの判断することが難しい｡極論を言えば人類が絶滅したあとで宇宙人が振り返ってわかることであるといえる｡これは個人にとって人生を振り返った時に結果的にあのときのあの行動は善であった､悪であったといえるのと同様である｡</p>
<p>今のところ「悪」に見えるが､それのために将来「共同体感覚が発達した」というような場合は「善」にも見える｡</p>
<p>アドラーが「<b>そもそも相手を理解することは不可能である</b>」と述べていることの延長として「<b>そもそも社会を理解することは不可能である</b>」ということもできると私は考える｡</p>
<p>したがって､大事なのは事実や結果として他者や社会に対してプラスに貢献したかどうかではなく､私がプラスに貢献したと感じたかどうかという「主観」に主軸を置いていくという点である｡動機でも事実としての結果でもなく､結果にどのような意味付けを行うのかという「<b>認知</b>(解釈)」を重視するのである｡もちろん､これはどんな動機でも結果でもかまわないというものではなく､適切な動機と結果に対する適切な予測・準備が伴ってプラスの認知､つまり貢献感や共同体感覚が可能になると考える｡</p>
<h3><span id="toc17">行動に隠された目的とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動に隠された目的</strong></span>：</big>人間は意識的にせよ無意識的にせよ､解釈(認知､意味づけ)によって目的を設定し､感情を手段として利用している｡この場合の無意識的なものを特に「隠された」と表現することがある｡しかし「無意識のせいで・・」といったような言い訳に使うことはできず､この場合も明確ではないにせよ自らの意志で目的を設定していることに注意する必要がある｡</p>
</div>
<p>例:怒りは「相手を容易に屈服させる」という目的のための手段として採用される､創り出されると考える｡自傷行為は相手に復讐をしたいという「目的」がある｡学校での悪ふざけは相手に注目してほしいという「目的」がある｡そして､目的にはほとんどのケースで「対人関係」が関わってくる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:隠された優越について､隠された目的について<br />
「思考､感情､判断､ものの見方は､つねに後退の方向へと向かっています｡そこから､神経症とは想像的な行為で､未発達な状態への遡りや先祖還りではないことがわかるはずです｡ライフスタイルが作った想像的な行為､みずからが作った行動原理は､なんらかの形で優越を目指します｡やはいライフスタイルに応じてさまざまな形で治療を妨げようとし､患者が納得して共通の感覚が優位になるまで続きます｡私が解き明かしたように､悲しみと慰めの半々になった展望のなかに優越というひそかな目標が隠されているのは珍しいことではありません｡患者は､自分の非凡な活躍がささいなことや他人のせいでだめにならなかったら､なんでもできたのにと思っているのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p<br />
「たしかに､社会的な問題に憤りを覚えることはあります｡しかしそれは､突発的な感情ではなく､論理に基づく憤りでしょう｡私的な怒り(私憤)と､社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います｡私的な怒りは､すぐに冷める｡一方の公憤は､長く継続する｡私憤の発露としての怒りは､他者を屈服させるための道具に過ぎません｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,101p<br />
「もし面罵されたなら､その人の隠し持つ『目的』を考えるのです｡直接的な面罵にかぎらず､相手の言動によって本気で腹が立ったときには､相手が『権力争い』を挑んできているのだと考えてください｡…勝ちたいのです｡勝つことによって､自らの力を証明したいのです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,102p<br />
「しかし､アドラー的な目的論は､子どもが持っている目的､すなわち『親への復讐』という目的を見逃しません｡自分が非行に走ったり､不登校になったり､リストカットをしたりすれば､親は困る｡あわてふためき､胃に開くほど深刻に悩む｡子どもはそれを知った上で､問題行動に出ています｡過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく､いまの目的(親への復讐)をかなえるために｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,104p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc18">永遠の目からみた目的(完全な目標)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>永遠の目からみた目的(完全な目標)</strong></span>：</big>アドラーが共同体感覚論で想定しているような「人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就」や「人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態」などが挙げられている｡</p>
</div>
<p>こうした「永遠の目から見た目的」は仮想論とつながる｡仮想論については共同体の項目で「かのように哲学」とあわせて扱う｡</p>
<p>・アドラーはこうした考えを形而上学的であり､直接経験することはできない､極限的､理想的なものだとしている｡確かに科学的ではないが､実際的､実践的､哲学的､倫理的､道徳的､治療的な意味はある｡人間の生を曖昧で主観的だと軽視した「科学的世界」よりも「生活世界」を重視する傾向とも言えるのかもしれない｡</p>
<p>もし共同体を経験しうる､実現するものと限定してしまうと､全ての共同体に貢献する態度を取ることは難しくなる｡現実にはある共同体に貢献することは別の共同体に貢献することと矛盾してしまうこともある｡例えばウクライナに貢献すればロシアには逆貢献になりかねない｡他人より家族が､恋人が､友人が､同国の人間が､同じ宗教の人間が優先されるナショナリズムが常である｡そうした利害関係を超えた､より共通の目的を目指すような立場を仮想的に取る必要がある｡</p>
<p>アドラーはそうした特定の共同体を超えた視野の広さゆえに「永遠の目から見た目的」と言っているのである｡私の目から見た目的や私とあなたの目から見た目的という限定された目では矛盾が生じてしまうのである｡</p>
<p>基本的な姿勢として､「<b>判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ</b>」とアドラーはアドバイスをしている｡そしてこの最も大きな共同体の目で見ている状態が永遠の目である｡</p>
<p>たとえばヒトラーのような差別的な政策を行う人間が国の元首であり､自分が国民であったとする｡そして仮にこの国の共同体の社会通念(コモンセンス)ではそれを正しいと考えていて､かつ仮にそうすることでその国はまとまり､それに協力することがこの国への貢献だと仮定する｡</p>
<p>そしてその国民は迷うはずである｡たしかにこの国に限定すれば､従ったほうが貢献かもしれない｡あるいは従わないと自分の生命すら危険かもしれない｡自分がノーを突きつければ国の統制は弱まり､戦争に負けてしまうかもしれない｡しかしより大きな共同体､この国だけではなく他の国も含めて考え､ほんとうにこの国に協力することは､正しいのかと考えていく｡そのようにして「より広いコモンセンス(共通感覚)」や共同体感覚を考えていった結果､やはりこの国に従うことは望ましくないとノーをつきつける場合がある｡そうした判断をするためには直観だけではなく客観的な推測ができる必要もあるだろう｡そのために学問を学ぶ意義があるといえる｡</p>
<p>人間は実際に「永遠の目」から見ることはできない｡しかし永遠の目から見る<b>かのように</b>､より大きな目を想像することはできるはずである｡こうした「かのように」という姿勢がまさに「<b>仮想</b>=ないものを仮にあるものとして考えてみる」なのである｡</p>
<p>そういう態度によってより適切なコモンセンスを獲得することができると信じるわけである｡自分だけ､自分たちの家族だけ､自分たちの国だけというような「私的な目」､「プライベートセンス(私的感覚)」だけでは幸せを獲得することは難しい｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:完全の目標</p>
<p>「「共同体感覚とは､人類が完全という目標に到達したときに考えられるような『永遠』にふさわしい形の共同体を追求するということです｡けっして､いま現在の共同体や社会とか､政治的・宗教的な形式のことを言っているわけではありません｡『完全』にもっともふさわしい目標とは､人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就を意味する目標です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,291p</p>
<p>キーワード「判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ」</p>
<p>「コモンセンスは､しかし､常識とは必ずしも重ならないので､『共通感覚』というこなれない言葉を使うことにしています｡今現に私たちが属している社会の通念に合致しているのがいいのか､それに対してノーというのがいいのか判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ､とアドラーはいってきました｡ときには､それゆえ､既存の社会通念や常識に断固としてノーといわなければならないこともあります｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,113-114p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">「誰かが始めなければならない」</span></h3>
<p>もちろん､「なるほどあなたのいうことはわかりました｡しかしできません」というように実践することは難しいかもしれない｡しかし一歩でも進んでいくことが重要になる｡</p>
<p>M・ウェーバーが「<b>矛盾を乗り越えるのは不可能ごとのように思えるが、不可能ごとにアタックしないようではなにごとをもなしえない</b>」と言っていたことが私には強烈に印象に残っている｡ウェーバーは「<b>世界に対してどういう態度をとるべきかは、自分の『良心』と『知性』と『心』が責任を負うべき事柄であり、各人が一生かけて色々と経験を積みながら解決してゆくべき問題</b>」だという｡アドラーならば「<b>誰かが始めなければならない</b>」というだろう｡</p>
<p>・ものすごく「理想や目標」を曖昧に言えば「プラスの状態」だろう｡その単位が個人か人類かも重要になる｡個人に傾けば自己中心へ､人類(我々)に傾けば脱自己中心へ向かう｡</p>
<p>人間はざっくりと､安全・生理的欲求が満たされていることに価値があり､プラスであるということをどういうわけか先天的にわかっている｡しかし現実にそれが満たされないような「マイナス」に直面する｡そしてこのプラスとマイナスのギャップで劣等感が生じる｡また､この劣等感を解消したいというさらに具体的なプラスに志向するようになる｡</p>
<p>たとえば赤ん坊でさえ､お腹が空くのは自分にマイナスであり､お腹を満たしている状態はプラスであるということを本能的､先天的に理解しているのだろう｡</p>
<p>それゆえに､それらを克服しようとして､泣き､注目を得て､プラスにもっていこうとする｡</p>
<p>・考えられる一番大きな､かつ範囲が広い目標は「<b>人類全体の理想的な共同体､進化の最終的な成就を意味する目標</b>」であるといえる(宇宙全体も可能かもしれないが)｡</p>
<p>そうした目的を実現するためにはさまざまな「ライフタスク」を適切に対処しなければならない｡たとえばアドラーは愛の課題､仕事の課題､交友の課題の３つを挙げている｡また､人間はほとんど不可避的にこうした課題に直面することになる｡</p>
<p>こうした課題を一歩一歩解決していく先の先の先の､無限の先に「完全の目標」の達成があると信じていくのである｡そんなものは無理だといってその一歩すら踏み出さない人間にアドラーはこういう｡</p>
<p>「<b>誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。</b>」</p>
<p>こうした課題の解決を目標あるいは理想とした場合､もしそれらが満足に実現しないとすれば､人間は「劣等感」をなにかしら覚えることになる｡</p>
<p>もちろん､こうした劣等感は必ずしも悪いものではなく､むしろ「<b>恵み</b>」であるという｡問題は､そうした劣等感を抱いて適切に克服できるかどうかであり､適切に克服できなかった場合にさまざまな神経症などが生じ､不幸に至ることがありうる｡</p>
<p>・より下位の「目標」についてはマズローの欲求段階説を参考にできるかもしれない｡</p>
<p>たとえば「対人関係」という目標を実現するためには､そもそも生理的欲求や安全の欲求が満たされている必要があるだろう｡マズローの欲求が厳密な目的―手段関係の階層かどうか､同時的に満たされる場合があるということを一旦おいておいたとしても､理解しやすい｡「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある｡就職するためにまずは家を確保して安全を達成し､就活するために日々食事をとっていく必要がある｡大きな目的にとって小さな目的は手段として捉えることができる｡</p>
<p>たとえば「自己超越の欲求」という目標は､アドラーの言う「人類全体の理想的な共同体の成就」に近い｡それより下位には､自己実現の欲求､尊敬・評価の欲求､社会的欲求､安全の欲求､生理的欲求などがある｡</p>
<p>たとえば「安全を確保したい」という目標があるのにも関わらず､親から常に暴力を振るわれたり､学校でいじめられたりすれば､人間は「劣等感」を抱く｡貧乏な人は食べ物をたくさん食べたいという生理的欲求があるのにも関わらず､現実にはたくさん食べることができないというギャップが生じ､「劣等感」を抱く｡人間は下位の欲求を仮に解消したとしても､次々と上位の目標を創っていく｡最終的な自己超越の欲求は特に「<b>自分だけの問題ではないもの=我々の問題</b>」なので､実現がほとんど不可能な､極限的な理想的なものである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「あなたが始めるべきだ」</p>
<p>「共同体感覚や協力について話したとき､アドラーは次のような質問を受けました｡『だって他の人はだれも私に関心を示さないではないか』と｡これに対するアドラーの答えは単純明快なものでした｡『誰かが始めなければならない｡他の人は協力的でないとしても､それはあなたには関係がない｡私の助言はこうだ｡あなたが始めるべきだ｡他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく』｡アドラーは他の人にそれがたとえ共同体感覚であっても押し付けることは出来ない､それを実践するのは自分であって他の人へ押し付けることの危険性をよく知っていたのでしょう｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,115P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc20">
「認知論」</span></h2>
<h3><span id="toc21">「認知論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認知論</strong></span>：</big>人間は､自分の主観で物事を見るという考えのこと｡人間は「事実そのもの」よりも「事実の解釈」に影響を受けていると考える立場｡</p>
</div>
<p>アドラーは「私は人間の行動は思考から生まれると確信する」と述べている｡「感情」は人間の価値づけ､意味づけ､評価､解釈､認識､思考､意志といった「認知」の結果だという考え｡現象論(現象学)やストア哲学の考え方でもあるという｡</p>
<p>例:「身長がAさんより低いという事実」を劣っていると意味づけ､解釈する人は劣等感を覚えている｡</p>
<p>一方で､身長が低いことでAさんに警戒心を抱かせないと意味づけ､解釈する人は劣等感を覚えていない｡</p>
<p>このように､事実や出来事による認知(解釈,思考,意味付け,意志)によって感情が生じるという考え方を「認知論」という｡</p>
<p>単なる事実が感情を完全に決定するのではなく､間に認知が入るという点が重要であり､この認知次第で感情が変化する｡そして認知には人間の「自由」や「意志」､「選択」が関連してくる｡また､認知は社会的な条件も関わってくるといえる｡それが「文化的な意味付け」と表現されることもある｡たとえば食べ物を残すことがマナーに反するという文化もあれば､むしろ食べ物を残さないことがマナーに反するという文化もありうる｡</p>
<p>認知を変えることで感情を変えることができると考えていく｡言い換えれば､「ライフスタイル(性格､世界観)」を変えることで(不適切な)感情､特に「劣等コンプレックス」を解消していくことにある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:認知論とは</p>
<p>「人間は､自分の主観で物事を見るというものです｡自分の主観を疑って､物事を捉え直します｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p</p>
<p>「わたしたちは『事実』そのものの影響を受けているのではありません｡事実をどうとらえるかで動いています｡物事をどのくらい事実にそって見ることができているかは､いくつかの点に表れます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,24p</p>
<p>「アドラーは，人間の情動反応は，健康的あるいは神経症的なライフスタイルであっても，その人の持つ基本的な考えやビリーフ，姿勢，目標，哲学，つまり認知的に作られたものと直接に関連しているという仮説を固守した。彼は例えば以下のように記している。<br />
『私たちは明らかに「事実」そのものよりも事実の解釈に影響を受けている。人は皆，自分についての考えと人生の問題－ライフパターンや活動の方法－を，自分で理解することなく，説明できるようになることなしに保持することとなる3,pp.26-27）。私たちは，人工的に作った実在しないフィクションに自分を順応させる。この試みは私たちの精神生活が不十分なために必要なものである』。<br />
『しばしば考えられるように，個人はあらかじめ定められた方法で外界に自分自身を関連づけない。人間は自分を，自分や現状の問題についての自分の解釈と関連付ける。人生に対する姿勢が，外界とのかかわりを決めている』<br />
したがって，アドラーの理論における情動は，「一言で表せば，私は人間の行動は思考から生まれると確信する」という記述に核心がある。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,137p<br />
「より正確かつ重要なことは，アドラーは，個人の根深い不全感，劣等感，無価値さも，認知に基づくものであることを認識していた。したがって次のように記している。<br />
『我々は，他者と闘いながら一生を送る人や，あるいは悲しみに暮れて人生を送る人を多く見る。我々は彼らがまちがった発達による犠牲者であり，その結果不幸にも彼らの人生に対する姿勢もまた誤っていることを理解しなければならない』。<br />
『共同的な生活のために最も重要で根源的な価値を持つテーマとは，人間の性格は決して道徳的判断に基づくものではなく，その人の持つ環境に対する姿勢であり，社会との関係性によって示されるものである』。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,137-138p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc22">人間の感情と行動の３つの結びつけ方</span></h3>
<p>・エリスによると､人間の感情(情動)と行動には３つの考え方があるという</p>
<ol class="sample">
<li class="sample"><b>行動主義者やフロイト派の考え</b>:情動反応は外的な刺激､出来事､経験（過去､現在ともに）によって第一義的に生じるというもの｡</li>
<li class="sample"><b>反主知主義的な考え</b>:情動は人間にとって不可侵のもので人間から湧き上がるもの</li>
<li class="sample"><b>ストア哲学や現象論者の考え方</b>:情動は人間の価値､評価､解釈､認識の結果だというもの｡アドラーはこの３番目の立場にいる｡それゆえに､「現象学」の視点を取り入れてると解釈されることがある｡</li>
</ol>
<p>人間の非機能的で不適切な情動を我々は今・現在､この瞬間から変えることができることをアドラーは強調している｡変われないのは「<b>勇気</b>」が足りないだけだという態度をとる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:【エリス】３つのことなる考え方<br />
「人間の情動の起源とそれを変えるための方法について，三つの異なる考え方がある。一番目は行動主義者やフロイト派の考えで，情動反応は外的な刺激，出来事，経験（過去，現在ともに）によって第一義的に生じるというものである。二番目は新しいエンカウンターグループや知覚認識運動に代表される反主知主義的な考えで，情動は人間にとって不可侵のもので人間から湧き上がるものという考え方である。三番目はストア哲学や現象論者の考え方で，情動は人間の価値，評価，解釈，認識の結果だというものである。アドラーは主として三番目に属する。彼は明確に記している。<br />
『どのような経験も成功や失敗の原因ではない。私たちはトラウマと呼ばれるような経験のショックのみに苦しむのではない。私たちの目的に合わせてそれを理解しているのだ。私たちは，自律的に経験に意味を与えている。将来の人生に向けた基礎としての特定の経験をした時に大抵誤りを犯す。意味は状況によって決まるのではなく，私たち自身が状況に意味を与えているのだ』。<br />
これは人間の情動や経験に関する，根本的に合理的で賢明な考え方である。加えて，大きな点として，人間の非機能的で不適切な情動を変えることができることを，深遠にかつ明確に示している。私がいまだに自分自身を本物のアドレリアンだと呼ぶことに躊躇している一方で，私はこの極めて論理情動的な認識において，アルフレッド・アドラーを追随することをうれしく思う。」</p>
<p>森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,145p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc23">「全体論」</span></h2>
<h3><span id="toc24">「全体論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>全体論(ホーリズム)</strong></span>：</big>人間を分割できない全体ととらえ､人間は統一されたものであるという考え｡</p>
</div>
<p>アドラーは「全体としての私」が「善」と考えるものを目的として行動すると考える｡</p>
<blockquote>
<p>「人間は内部で矛盾対立はしていないユニークな存在であるとするものです｡人はすべてかけがえのない存在と捉えます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p</p>
<p>「なかでも人間のライフスタイルを把握してたのは､近年まで詩人でした｡詩人の作品でとても驚かされるのは､人間を分割できない総体(訳注:『分割できない』『総体』『全体』はアドラーのキーワード｡個人心理学(Indivisualpsychologie)のindivisualは『それ以上に分割できない』という意味)として生かし､死なせ､行動させながら､人生の課題を密接にからめて描くその能力です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,31p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">「わかっているが､できない」と「わかっていて､したくない」</span></h3>
<p>例えば「悪いことと知りつつ、ついやってしまった」というような感情が理性に勝った､あるいは心のある部分が勝手にそうしてしまったというようには考えない｡</p>
<p>アドラー心理学では「わかっているができない」というような分割はせず､「<b>わかっていて､したくない</b>」､「わかっていて､善にならない」と考える｡逐一「意志」が､「決心」が介入しているのである｡</p>
<p>アドラー心理学が「<b>個人心理学</b>」と呼ばれるのは､個人を部分に分割することができない全体として捉えるからであるという｡岸見さんによれば個人心理学ではなくアドラー心理学と呼ばれるようになったのは誤解されることがあるからだという｡</p>
<p>おそらく､他者を考えず個人のみを重視する極端な個人主義のような解釈をされることがあるからだろう｡全体心理学と名乗るとゲシュタルト心理学とほとんど字面が同義になってしまう｡とはいえ､ゲシュタルト心理学における「全体は部分の寄せ集めではない」という全体論と通じているものがある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:全体論とは<br />
「全体論では､意識と無意識､理性と感情､心と身体などを､『分割不可能なもの』として､『お互いに補い合う相補的なもの』としています｡仕事で問題が解決できず悩んでいる時､夢でアイデアが浮かぶことはあるでしょう｡これは意識と無意識が補い合う例です｡<br />
」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,46p「アドラー心理学は､個人はそれ以上に分割できないと考えることに由来して､個人心理学ともいう｡」<br />
「心理学用語大全」,116P<br />
「アドラーが自分の創始した心理学の体系を『個人心理学』と呼んだのは､最初に見たように､人間を分割できない全体ととらえ､人間は統一されたものである､と考えるからです｡そこでアドラーは､たとえば､人間を精神と身体､感情と理性､意識と無意識に分けるというようなあらゆる形の二元論に反対します｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,25-26p<br />
「アドラーは､このようなアクラシアー､たとえば感情に支配され､悪いと知りつつもしてしまったというようなことを認めません｡あるいは､二つ以上の選択肢があっていずれを行おうかと迷い､決断できないという葛藤という事態を認めません｡一見､ある行為(A)が自分にとって善であるということを知っていながらそれを行わないということがあるとすれば､Aが善であることを知りながら行わないのではなく､それとは別の行為(B)がその時点で自分にとって善である､と判断しているからです｡任意のときのt1における､あることが善であるという知(これを『知t1』とする)は､別の任意のときt2においては別の知(これを『知(t2)』とする)にとって代わられているのであり､しかも『私』が知(t1ではなくて知(t2)を善しと判断した､と考えるのです｡全体としての『私』があることをする､と決めたり､また､しない､と決めたりするのですから､心の部分はしたい､と思っているが､別の部分はしたくないというような乖離はいっさいありえないのです｡わかってはいるができないというとき､実は､できない(cannot)ではなく､したくない(will not)なのです｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,143-144p</p>
<p>メモ:アクラシアー:平たく言えば、「わかっちゃいるけどやめられない」「悪いことと知りつつ、ついやってしまった」の概念。依存症・衝動的犯罪・暴飲暴食・喫煙・怠惰などの一因。</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">責任論と主意主義</span></h3>
<p>・【<b>責任論</b>】行為(行動)の責任を負うのは個人であり､「突発的に､感情的についやってしまったならしょうがないよね」とはならない｡これで思い出すのは「ついお酒の勢いで」も同じ言い訳の論理だといえる｡百歩譲ったとしてもお酒を飲むという選択をした時点では酔っていない｡</p>
<p>・【<b>ヴォランタリズム</b>(主意主義)】行動は思考(判断､意味づけ､解釈､認知､選択)を介在させているという意味で､出来事に対してどのような行動を選択するかは「自由」や「主体性」があるという意味で開かれている｡</p>
<p>例えばデカルトやフロイト的な考えでは人間を意識と無意識､理性と感情､心と体などに分解して考える｡いわゆる「二元論」であり､「構成主義､要素主義」である｡</p>
<p>フロイトの場合はイドと超自我が対立し､自我が調整するのであり､その調整に失敗した場合に神経症が生じると考えた｡</p>
<p>例えば快楽を求める本能的な欲求(リビドー)が生じても､道徳原理のような超自我がそれを抑制しようとする｡大声を出したいときでも､人がいるからと多くの人間は我慢する｡そうした対立軸で心の現象を考える｡</p>
<p>アドラーはそうした考えを批判し､それらは分割不可能であり､お互いに補い合う「<b>相補的なもの</b>」としているという｡たとえば夢における無意識的なものによってアイデアが浮かび､意識的なものを助ける場合がある｡大声を出すことも､怒りをぶちまけることも自分の善にとっては相補的で役立とうとしていると考えていく｡</p>
<h3><span id="toc27">追記(2024/04/28):自我というわけのわからぬもののわけのわからぬ説明について､雑感</span></h3>
<p>１:生体(個人)はひとつのシステムだと考える｡２:システム全体を統括し主催する部分は存在しない｡３:各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出している</p>
<p>アドラーは「個人(私)」を「自我」とほとんど同義として扱っている｡「総体としての自我」などと説明している｡これは「全体としての自我､生命システムとしての自我」などと言い換えてもほとんど同じである｡また､アドラーは「個人や私､自我」という用語をほとんど「ライフスタイル」と同義的に扱っている印象を受ける｡いわゆるパーソナリティであり､人格である｡倫理学においては人格とは「自律的行為の主体として、自由意志を持った個人」を意味する｡心理学では「行動原理」や「個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体」という意味でも用いられる｡まさにパーソナリティとは自我であり､個人であり､私でもあるといえる｡</p>
<p>１:「全体として切り離せない」と考えることを全体論という｡「個人が全体として存在する」という点を強く主張する｡</p>
<p>２:全体が部分を手段として利用するという｡たとえばアドラーは乗馬の例を挙げている｡馬は人に乗る｡たしかに馬と人は分割できるかもしれない｡しかし乗馬しているときは一体である｡この話はベイトソンの「杖と私の境界はどこにあるのか」という話に繋がっているのだと思う｡</p>
<p>３:あまり価値のない種々の観点から､人間の精神を分割することはできるとアドラーはいう｡たとえば意識と無意識､リビドーなどにわけたりすることだという｡これはフロイトへの批判だろう｡そしてアドラーにとって大事なのは「価値のある観点」であり､実証的かどうかではないのだろう｡もちろん､フロイトの分割が実証的だと言っているわけではない(むしろ､多分に具体性置き違えの問題がある)｡</p>
<p>４:自我全体を「外界」から説明することも可能だという｡これはどういうことなのか不明であるが､遺伝やら物理条件､因果系列でも説明が可能ということだろうか｡たとえば末っ子だからとか､そうした外的影響因をたくさんかき集めて､今の自我=パーソナリティが形成されてきたのではないかと推測するといったことは不可能ではないということだろう｡たしかに過去のすべての影響因を入手し､それを組み合わせればなんらかのパーソナリティが近似的に説明できるかもしれない(現実には難しいが)｡しかしより近似的なもの､いわゆる類型的な自我の説明は可能になるかもしれない｡</p>
<p>(１)たとえば私が腕を動かしたり､怒りを利用する｡この場合､腕や怒りや「私=個人=自我」の中に含まれているのか｡たとえば腕は私の自我の一部分という言い方や､怒りは私の自我の一部分という言い方が成り立つのか｡</p>
<p>(２)あらゆる肉体や､あらゆる感情なしに「自我」という全体は成り立つのか｡</p>
<p>いずれにしても､「システム全体の外部に統括者たる自我がいる」､「システム全体によって創発してくるものが自我」､「システム全体が自我」､「システム全体の中に部分として自我がある」等々､これらの厳密な説明の違いを整合的にわたしは説明できないし､理解できていない｡</p>
<p>たとえば一番大きな部分として精神と肉体､そして外部環境があるとする｡精神を細分化しようとすれば自我､意識､無意識などに分割できるとする｡肉体も手や足､目など分割できる｡環境も文化や自然､制度などに分割できる｡しかし自然環境や文化､社会と切り離された個人などと考えることは難しい｡肉体がない精神や､精神がない肉体というものもなかなか考えにくい｡要するに､精神､肉体、外部環境はそれぞれ相互依存関係にあり､全体としてひとつなのであると言いたいのだろう｡それをまとめて個人だとか人間だとかいう｡だとすれば､「自我」や「私」という言い方よりも「個人」という言い方のほうが適しているのだろう｡おそらく重要なポイントは「分割しようとすれば分割できる」と言い切ることができるという点にあり､またその分割の根拠である｡社会システム論では生命システムと社会システムを明確に分けている｡その根拠､システム同士の境界も説明している(理解できていないが)｡アドラーではそこが弱い｡</p>
<p>たしかに肉体と精神を「区別」すること､「分割」することは可能かもしれない｡それゆえに､精神が肉体を利用したといったり､ある精神がある精神を利用したといった言い方が可能かもしれない｡</p>
<p>しかし私､個人､生命システムは肉体と精神の相互作用から生じているし､また精神の内部の相互作用からも生じている｡それゆえに､お互いがお互いを必要とするのであり､コインの裏表のように依存し合っており､全体として一枚のコインだと強弁することは可能かもしれない｡</p>
<p>相補的な関係として意識と無意識を捉えたり､内的なものと外的なものを捉えたりするのもわからなくはない｡それらは一体であり､全体なのだと｡</p>
<p>であるとしても､それらを厳密に、科学的に､整合的に説明するとどうなるのか｡それぞれの定義をしっかりと行い､それらの相互関係､相補関係を厳密に､体系的に説明して欲しい｡緩いアナロジーや何処からか借用してきた理論でつなぎ合わせて強弁したところでツギハギの説得力しかない｡すくなくとも私の脳みそでは､かつアドラーの限られた文書を見たかぎりでは､そう感じてしまった｡</p>
<p>結局は「私はそうなっていると信じます」という信仰か「私はそれが人類に､個人が幸せになる道だと信じます」という道徳心に帰結してしまう話だと感じてしまう｡たしかにそうした情熱､そして彼の診療してきた経験は重要である｡しかし何かが足りない｡少なくともわたしは「理解」できないのである｡「すごい」と思うが､よくよく考えれば私は「理解」できていない｡それゆえに誰かに共有することも難しい｡ベイトソン的に言えば「緩い思考」のまま､そこから歩を進めていない｡</p>
<p>「自我」や「知覚」を血眼になって厳密に把握しようとしたフッサールの現象学はより説得力があった｡ルーマンの社会システム論はシステムをより厳密に定義づけしようと試みてそうであり､魅力的だった(まだあまり理解していないが)｡特に生物学の「オートポイエーシス」という概念は魅力的な説明を期待させるなにかがあった｡あるいはベイトソンの精神生態学も期待させるなにかがある｡遺伝的､社会学的な方向で自我を説明しようとした見田宗介さんも期待させるなにがあった｡</p>
<p>アドラーは「信仰」と「道徳心」と「希望」､そして多くの実り豊かな実証経験が確かにつまっている｡説得力も感じるものがある｡他のだれよりも人間の幸せを重視する情熱がある｡しかし科学的､理論的説得力に欠けている｡だからこそ､それを補う理論的説得力を他の分野のパワーを使って得られれば人間はより豊かに､幸せな方向へ進めるのかもしれない｡見渡しはいい｡しかしそこへ行く方法がわからない｡地道に整地していくだとか､船を作る必要がある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:責任</p>
<p>「アドラーのいう「個人」は、精神をも身体をも含めた、生体の全体です。生体はひとつのシステムであって、システム全体を統括し主催する部分は存在しません。各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出しています。その全体を仮に「個人」といい、「部分が個人を動かす」のではなく「個人が部分を動かす」という立場を取ります。アドラー心理学では、「個人」は分割できないひとつの全体であり、主観的に意味づけた世界（対人関係、社会）の中で、自分が定めた目標に向かって動こうとする存在と考えます。そうした「個人」をいつでも主語の位置において、人間の行動を捉えます。例えば「怒りが私に子供を叱らせた」と考えるのではなく、「私が怒りを使って子供を叱った」と考えます。このような考え方をすると、自分の行動の責任を感情など他の何ものかに負わせることができなくなるため、この理論を受け入れるにはある程度の勇気が必要になります。ですが、一度この理論を受け入れる事を選択すると、人は、人生を自分の責任で生きていく事ができるようになり、自分の人生の主人公として生きることができるのです。野田は「個人の主体性」を、他の４つの基本前提の基礎をなすアドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。」<br />
出典:野田俊作財団</p>
<p>
キーワード:自我とは<br />
「自我が全体として成立していることについては､まだあまり知られていないかもしれません｡けれど､総体としての自我は確実に存在します｡あまり価値のない種々の観点から､人間の精神を分割することはできるでしょう｡２つ､３つ､４つの学説を混ぜたり対立させたりして､自我の全体を捉えようとすることもできます｡意識､無意識､性的なもの､外界によって､自我全体を究明することは確かに可能です｡しかし結局は、乗馬で人馬が一体となるのが大事なように､個人が全体として存在することに目を向けないわけにはいかないのです｡いずれにしても､個人心理学が達成してきた進展はもう無視できません『自我』という概念は､現代の心理学の見解において地位を確立しています｡無意識や『エス』から自我を分離したと信じ込んでいても､エスは行儀よくもわるくも自我と同じようにふるまうのです｡いわゆる意識や自我は､『無意識』あるいはわたしの言う『理解されないもの』であふれています｡そして､つねにさまざまな度合いで共同体感覚を示しています｡こうした考えは年を追うごとに精神分析医に理解され､彼らの作った人工的なシステムにとり入れられています｡いわば､『個人心理学から捕虜をとったはずが､その捕虜に夢中になってしまった』のです｡わたは､分割できない精神世界の全体を早い時点から解明しようとしてきました｡そして､当然のように､記憶の機能と構造に行き当たりました｡その過程で、外界から受けた印象と感覚の集合が記憶だと見てはならないと考えた学者たちの説が確かめられました｡また､外界から受けた印象は記憶としてとどまるのではないこと､記憶は精神全体の力の一部であることも確かめられました｡つまり､自我も､『知覚』も能力も､できあがったライフスタイルに印象を当てはめ､ライフスタイルに合わせて印象を使うという働きをしているのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,211p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc28">「機能主義」</span></h2>
<h3><span id="toc29">「機能主義」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>機能主義</strong></span>：</big>意識(心的現象)は､人が環境に適応するため､すなわち人が存在するための機能だと考える立場｡心理学においては主にジェームズ機能主義の立場を指すと考える｡</p>
</div>
<p>・アドラーは思考や感情は「目的遂行のための機能」だと考えている</p>
<p>・怒りや悲しみといった感情はなにかしらの目的のための手段であり､目的の遂行､達成のためにプラスに貢献している｡</p>
<p>たとえば怒りという感情を表に出すことによって､相手を容易に萎縮させる､謝罪させるという目的を達成することができる｡手段として「機能(プラス)」しているというわけである｡もちろんプラスを「期待」するのであって､「結果としてプラス」になるかどうかは別である｡社会学者のマートンがいうように､目的と結果は区別する必要がある｡また､プラスの機能だけではなく､隠されたマイナスの機能なども考慮して､どちら側に傾くかも計算する必要がある｡しかし問題は計算の基準や潜在的機能の発見である｡</p>
<p>・重要なのは､感情は手段であり､道具であるという点である｡感情は目的次第で使われるかどうかが変わる｡もし共同体感覚を伴ったライフスタイルを形成していれば､思考パターンも変わり､安易に怒りに頼った手段をとらずに､言葉を使った話し合いのほうがよいと判断されることもある｡</p>
<p>単なる手段であり､脊髄反射的行動ではない以上､人間は変わることができるのである｡「<b>変わることができる</b>」ということをアドラー心理学では強く､何度も強調する｡足りないのは「<b>勇気</b>」である｡嫌われる勇気､幸せになる勇気､普通である勇気をもてば人間は「変わることができる」のである｡それも今すぐに､この瞬間からである｡「どうせ変われない､変わることは物理的に不可能だ」というのは決定されたものではなく､「<b>あなたの決心</b>」の問題である。</p>
<blockquote>
<p>キーワード:機能</p>
<p>「例えば､感情と思考は個人の中で対立しているものではなく､個人という全体が､自分の目的を達成するために､感情や思考という機能を使う｡フロイトは､思考と感情､意識と無意識は個人の中で対立していると考えた｡一方､アドラーは思考や感情は目的遂行のための機能だと考える｡」<br />
「心理学用語大全」,116P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc30">「対人関係論」</span></h2>
<h3><span id="toc31">「対人関係論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>対人関係論</strong></span>：</big>人間が抱える問題は､個人の内面に起きるのではなく､すべて対人関係上の問題であるという考えのこと｡社会心理学的な考え方である｡</p>
</div>
<h3><span id="toc32">「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」</span></h3>
<p>・アドラーは「<b>人間の悩みはすべて対人関係の悩みである</b>」と述べている｡また､それとセットで「<b>全ての喜びもまた対人関係の喜びである</b>」と考える｡要するに､「悩みと幸せ」は常に他者が関係せざるをえないということになる｡</p>
<p>・アドラーは「<b>ただ社会的な､対人関係的な文脈においてだけ個人(人間)は個人となる</b>」と述べている｡</p>
<p>・<b>人間は他者と関わらざるをえない</b>｡人間関係は仕事場や家庭､恋や交友だけではない｡人が作ったものを買ったり､人が作ったものを使ったり､あらゆるところに人間関係の糸は張り巡らされている(社会学者のジンメルもそこに着目した)｡独りで家にいても､対人関係は間接的に関わってくるのである｡生まれた瞬間から医者や母親が関わってくるのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:対人</p>
<p>「人間が抱える問題は､個人の内面に起きるのではなく､すべて対人関係上の問題であると考える｡よってアドラー心理学は社会心理学的な傾向がある｡」<br />
「心理学用語大全」,117P<br />
「すべての行動には相手役がいるとするものです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p</p>
<p>「つまり､人はだれでも相手によって感情やふるまいが変わるということ｡そのため､相手と周囲の対人関係に注目することで､相手を理解できるようになります｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,50p「このときに注目してほしいのは､『その行動にどのような目的があるか』です｡人間は必ずある目的を持って行動をします｡相手に対して､『もっと愛してほしい』『注目してほしい』もしくは『復讐をしたい』など､目的はさまざまですが､すべての行動には相手があり､その相手ごとに目的が存在します｡その目的を理解することで､その人が『どのような場面でどんな行動をする人物であるか』が見えてくるのです｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,50p</p>
<p>キーワード:「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」</p>
<p>「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである､といっています(『個人心理学講義』二六頁)｡人は生きているのではなく､《人の間》に生きています｡私たちは一人で生きているのではなく､他の人の間で生きているということができます｡アドラーの言葉を引くと､『個人はただ社会的な《対人関係的な》文脈においてだけ個人となる』わけです(『個人心理学』180頁)｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,44p</p>
<p>キーワード:「人間の喜びもすべて対人関係の喜びである」</p>
<p>「哲人『なぜなら､人間の喜びもまた､対人関係から生まれるのです｡「宇宙ひとり」で生きる人は､悩みがない代わりに喜びもない､扁平な一生を送ることになるでしょう｡アドラーの語る「すべての悩みは､対人関係の悩みである」という言葉の背後には､「人間の喜びもすべて対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです｡」<br />
岸見一郎､古賀史健､「幸せになる勇気」,178p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">相手を理解することは不可能である</span></h3>
<p>・「<b>相手を理解することは不可能である</b>」とアドラーは述べている｡</p>
<p>他者とわかり合うことはできないということを前提してなお､「<b>他の人で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる</b>」という「<b>共感</b>」が重要だという｡このように他の人の立場になって物事を考え､感じるという感覚はまさに<b>「共同体感覚</b>」と呼ばれるものである｡シンプルに言えば､他者に対する興味や関心をもち､相互に絆をもつことが「<b>幸福</b>」へとつながっていくのである｡</p>
<p>「他者とわかり合うことはできない」というのが事実かどうかはわからないだろう｡そもそも本人すら自分のことは完全にはわからない｡合っているかどうかを厳密に考えていくことは難しい｡そうした事実論ではなく､現実問題のテクニックの話となる｡「他者とわかり合うことはできない」という前提・心構えでいることは重要だという話｡</p>
<p>完全にわかり合えるという前提でいるといろいろ不都合が起きてしまうのだろう｡<b>相手を完全には理解できないからこそ､相手が自分とは違うことを「許す」ことができる</b>のである｡もし完全に理解した気持ちになると､許せなくなってしまう｡岸見さんの異星人同士の付き合いは上手くいくという例えが面白かった｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:他人は理解できない<br />
「さらにいえば､そもそも相手を理解することは不可能である､とアドラーは考えているのです｡だからこそ言葉を使うコミュニケーションが重要であることを強調するのです｡わからないと思って付き合うよりはるかに安全でしょう…わかり合うことはできないのですが､それを前提としてなお､『他の人で見て､他の人の耳で聞き､他の人の心で感じる(『個人心理学広義)一九八頁』という意味での『共感』の重要性を説くところがアドラーの真骨頂です｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,169p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">追記(2024/04/28):快と喜びの違いについて雑感</span></h3>
<p>ここでいう「<b>全ての喜びもまた対人関係の喜びである</b>」は隠された幸福の定義だという｡喜びを幸福と言い換えてもいいのだろう｡であるとすれば､単なる快楽ではないということになる｡</p>
<p>たとえばある料理を食べて美味しい､心地良いと感じるとする｡たとえ宇宙に一人しかいないとしても､美味しい料理を食べれば快楽を感じるだろう｡対人関係がなければ味がしない､なんてことはないはずだ｡しかしそれは快/不快であり､幸福/不幸とは重なる部分もあれば重ならない部分もあるのではないか｡我々は日常生活において､美味しいものを食べると「幸せだ」だと口にすることがある｡この微妙なニュアンスはどう説明すればいいのか｡</p>
<p>例えば美味しいものを食べたからといって､「ここにいていいんだ､存在していいんだ」というような居場所感､貢献感を感じない｡たしかにそうだ｡頬をつねると確かに痛いし不快だ｡しかし友人に絶縁された時の､あの胸がキュッとなる心の苦しさを感じない｡たしかにそうだ｡</p>
<p>やっぱり幸福と快楽は違う｡</p>
<h3><span id="toc35">追記(2024/04/28)対人関係に影響を与える４つの要素について</span></h3>
<ol class="sample">
<li class="sample">自分(自分の捉え方や行動)</li>
<li class="sample">相手(相手の捉え方や行動)､</li>
<li class="sample">関係性(恋人同士､上司と部下といった関係)</li>
<li class="sample">(4)環境(職場や住まいなど)</li>
</ol>
<p>２から４を自分でコントロールすることは難しい｡確かにそうだ｡相手の性格を変えたり､自然環境や文化、法律をコントロールすることは難しい｡不可能ではないかもしれないが､個人にできることは限られている｡関係性も同じであり､恋人関係でいることは相手ありきであり､自分だけの行動でなんとかなるものではない｡</p>
<p>しかし自分のライフスタイルを変えることはできる｡ライフスタイルが変われば行動も変わるし感情も変わる｡環境をどう利用するか､どう感じるか､相手についてどう感じるか､そうしたものは自分の選択である｡</p>
<p>言い訳ばかりして逃げて前に進まないのか､努力するか､自分のコントロールの範囲内である｡問題はそのコントロールする難しさの度合い､勇気の度合いである｡そしてその度合はある程度対人や過去に影響を受けている｡しかし影響であり､決定するのは自分である｡自分が最終的には決心するのである｡決心させられていると思って現状を維持するのか｡変えるのか｡動くのか｡</p>
<blockquote>
<p>「対人関係は､次の４つの要素に影響を受けるので､どれかが変われば､影響を受けて自然と変化が生じます｡(１)自分(自分の捉え方や行動)､(２)相手(相手の捉え方や行動)､(3)関係性(恋人同士､上司と部下といった関係)､(4)環境(職場や住まいなど)｡しかし相手の考え方を変えるのは至難の業ですし､関係性を完璧にコントロールするのはむずかしいでしょう｡理想の環境を追い求めるにも限界があります｡つまり､対人関係を好転させたいときに即効性があるのは､自分の意志で自分自身を変えることなのです｡まずは自分自身を見つめ直して､対人関係を向上させるなどヒントを紹介しましょう｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,13P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc36">「実存主義」</span></h2>
<h3><span id="toc37">「実存主義」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>実存主義</strong></span>：</big>一般に､「自分の行動は無意識や感情に左右されるもの､完全に決定されるものではなく自分の主体的な意思によるものである」という考えのこと｡</p>
</div>
<p>実存主義とは端的に言えば「<b>未来の一部分は自分の選択にかかっている</b>」と人間の在り方を考える立場であり､過去の因果関係のみによって規定できるものではないと考える立場である｡</p>
<p>アドラーは「心理学は哲学の手を借りるまではささいな技術にすぎませんでした」とまで述べ､「<b>人間についての学問的な知識は心理学と哲学から生まれている</b>」とまで述べている｡</p>
<p>野田俊作さんはこうした「個人の主体性」を他の基本前提の基礎をなす､アドラー心理学の最も根本的な仮説として捉えているという｡</p>
<blockquote>
<p>
「心理学は､哲学の手を借りるまではささいな技術にすぎませんでした｡人間についての学問的な知識は､心理学と哲学の人間学から生まれています｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,32p</p>
<p>「野田は「個人の主体性」を、他の４つの基本前提の基礎をなすアドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。」<br />
出典:野田俊作財団</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc38">自己決定性について</span></h3>
<p>アドラーは「<b>人間は運命を創造できる力がある</b>」と考えた｡これは実存主義の言い換えであるといえる｡また､この実存主義ゆえに､「自分で未来に何をするかという決定権」をもっている｡</p>
<p>映画マトリックスで主人公たちが「選択」を強調し､機械(プログラム)側は作用と反作用という「因果関係」を強調したこともこのテーマと関わり合っている｡</p>
<blockquote>
<p>「人間は運命を創造できる力があるとするものです｡自分で今後の行動の決定権をもちます｡」<br />
永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc39">自己中心性と自己決定性は違う</span></h3>
<p>自己決定性は言い換えれば､「<b>自分の人生の主人公として生きる</b>」という点が重要である｡ゲームのRPGのように他者に行動を選択され続けているようなキャラクターではない｡ゲームのキャラクターなら「操作している人間が悪い」､「ゲームの設定が悪い」､「相手が強すぎる」､「ランダムな効果だから運が悪かった」､「最初からストーリーで運命は決まっている」などと言い訳をすることができる｡それゆえに､真の意味での主人公ではない｡しかし現実の人間は真の意味での主人公である｡無責任な言い訳はできない｡</p>
<p>・「自己中心的(自己執着的)な人間として生きる」や「私は世界の中心に君臨している」とはニュアンスが違うことに注意する必要がある｡</p>
<p>・アドラーの考えでは「<b>世界の主人公</b>」ではなく､「<b>人生の主人公</b>」である｡世界の一部ではあるが､世界の中心ではない｡</p>
<p>「他者に何をしてもらえるのか」ばかり考える自分勝手な集団の和を目指す人間のケースが「自己中心的」なケースである｡課題の分離ができていない､承認欲求ばかりある､自分にばかり関心があるというような特徴があるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:自己中心的な人物､承認欲求について</p>
<p>「哲人『じつは「課題の分離」ができておらず､承認欲求にとらわれている人もまた､きわめて自己中心的なのです…あなたは他者によく思われたいからこそ､他者の視線を気にしている｡それは他者への関心ではなく､自己への執着にほかなりません｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,183p<br />
「哲人『そして､自分の人生における主人公は「わたし」である｡ここまでの認識に問題はありません｡しかし「わたし」は､世界の中心に君臨しているのではない｡「わたし」は人生の主人公でありながら､あくまでも共同体の一員であり､全体の一部なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,185p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc40">責任について</span></h3>
<p>自己決定権を個人はもっているということを認める限り､自分がした選択には「<b>責任</b>」が伴ってくる｡</p>
<p>自分の行動の責任を､「つい反射的に怒りが・・・怒りが私をそうさせた」といったように考えることをアドラーは許さない｡最終的に選択したのは「自分」であり､感情の間には無意識的にせよ意識的にせよ必ず「思考(認知､解釈､意味づけ､判断)」があると考える｡感情は「出し入れ可能な道具､目的のための手段」として考える｡例えばアドラーは母親が子どもに怒っている時に電話が来ると､いきなり穏やかな声になるケースを挙げている｡このように感情は意識的に出し入れ可能だという｡</p>
<p>・アドラー心理学は「責任を問う厳しい心理学」であるが､「選択の自由」を認めているので教育や治療の道が開かれているという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:責任</p>
<p>「ある行為を選択する時点でその選択の責任はその人にあります｡その意味でアドラー心理学は責任を問う厳しい心理学である､ということができます｡しかし､他方､誤るにせよ選択の自由を認めるということから教育や治療の道は開かれている､と考えることができます｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,144p<br />
メモ:ウェーバーの責任論と関連付けていく｡しっかりと熟慮して､情熱を持つ｡冷静と情熱の間で｡結局責任をもつためには､自分の行為の結果をある程度予測できる必要がある｡選択する際にある程度の結果が見えている必要がある｡その際の予測に､社会学はどのような視点を､ツールを提供することができるのか｡</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc41">ルソーの「我ここに立つ」</span></h3>
<p>人生やライフスタイルは「選択」することができる｡岸見さんによれば責任は「応答する能力」という意味であり､ライフタスクから逃げることなく､「<b>わたしのすべきことはします</b>」と応答すること､自分の人生の課題は自分の力で解決することであるという｡</p>
<p>個人的にルソーの「<b>我ここに立つ</b>」という心情を思い出させるものがある｡たとえば政治家が宗教的には悪とみなされる行為であったとしても「それにもかかわらず！」と責任倫理を貫く姿勢と近しいものがある｡現実にはさまざまな利害関係や善悪関係の矛盾が渦巻いている｡その中で適切な「<b>それにもかかわらず､我ここに立つ</b>」と言い切ることができるための周到な準備､予測が必要になる｡</p>
<p><strong>「完全な目的などわからないから､判断ができない」などと言っている場合ではない</strong>｡<strong>現実には選択をしなければならない｡あなたは「より適切だ」と､「我ここに立つ」と言いきれるだけの準備をする責任がある｡そのために学問という思考の枠組みがあるのである</strong>｡</p>
<p>映画トレインスポッティングの「選べ人生を」を思い出す内容である(皮肉交じりではあるが)｡</p>
<p>「政治や経済が～」､「親が～」､「友達が～」､「トラウマが～」とさまざまな原因ばかりに注目して､「選択肢なんてない､選ばされてると」悲観する人もいる｡こうした過去の出来事は変えられないし､現在や未来の他者や政治や経済もそう簡単には変わらないし､コントロールすることは難しい｡しかし､自分の考え方､ライフスタイルは自分でコントロールすることができるはずである､と考えていく｡<b>私にはその能力がある</b>と私を信じていく｡</p>
<h3><span id="toc42">「所有の心理学」と「使用の心理学」</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>使用の心理学</strong></span>：</big>「与えられたものをどう使うか」に注目する心理学のこと｡</p>
</div>
<p>アドラーは「<b>大切なのはなにが与えられているかではなく､与えられたものをどう使うかである</b>」と述べている｡</p>
<p>・「どの能力を先天的に､あるいは後天的に所有しているか」ばかりに注目してしまう「所有の心理学」ではない｡</p>
<p>・たとえば遺伝的に他者は優れていて､自分は優れていないからなにもできない､だめだというような態度は所有の心理学になる｡</p>
<p>ある映画で「記憶力がずば抜けている」人間がいて､それを羨ましいと思ったことがある｡しかしその人間は「とてつもない悲しい記憶」もいつまでも鮮明に残ってしまい､自分の能力を優れているとは必ずしも思っていないようだった｡自分は物事を忘れがちだが､それもそれで良いところがあると考えるようになった｡忘れることができるというのは一種の能力である｡</p>
<p>例えば身長が先天的に周りの人よりも低くても､それだけで劣等コンプレックスは生じない｡</p>
<p>「身長が高かったらなんでもできるのに」と後ろ向きに使うのか､「身長が低いことにはなにかメリットがある」と前向きに使うかで結果は変わってくる｡</p>
<p>・自らの持っているものをどう使うかを、個人が主体的に選択決定しているという点が重要である｡ないものねだりをして人生は変わるのか｡あるものをプラスに考えていく姿勢が重要になる｡「完全の目的」はまさにないものねだりだが､それは前進のためのないものねだりである｡ないことに執着して言い訳ばかりをする後ろ向きのないものねだりではない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:「所有の心理学」と「使用の心理学」<br />
「技術が進歩した頃には､実験的手法が盛んになります｡器具や選び抜いた質問を使って検査を行い､感覚機能､知性､人格を解明しようとしました｡実験的手法では､人格がどう関係するかは洞察されないか､推測で補うくらいでした｡のちに遺伝学が登場すると､こうした洞察はされなくなり､どの能力を所有しているかが重要だと示すだけで､どう使うかはとりあげられなくなります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,33p</p>
<p>「哲人『再びアドラーの言葉を引用しましょう｡彼はいいます｡「大切なのはなにが与えられているかではなく､与えられたものをどう使うかである」と｡あなたがYさんなり､他の誰かになりたがっているのは､ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです｡そうではなく､「与えられたものをどう使うか」に注目するのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,44p</p>
<p>「哲人『現実を無視しているのはあなたです｡「なにが与えられているか」に執着して､現実が変わりますか？あわれわれは交換可能な機会ではありません｡われわれに必要なのは交換ではなく､更新なのです｡』」<br />
岸見一郎､古賀史健､「嫌われる勇気」,45p<br />
「アドラーは、「人が何を所有しているかを確かめるよりも、所有しているものをどう使用できるかを引き出すほうに心理学は関心を寄せるべきだ」と考えていました。「剣を所有していても、それだけでは剣を正しく使えるとはいえない」のです。そして、何を所有しているかに関心を寄せる心理学を「所有の心理学」、所有しているものをどう使うかについて考える心理学を「使用の心理学」と呼びました。アドラー心理学は「使用の心理学」です。自らの持っているものをどう使うかを、個人が主体的に選択決定して暮らしていると考えます。」<br />
出典:野田俊作財団の説明</p>
<p>生きる意味では194p参照</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc43">「創造性」とはなにか</span></h2>
<p>創造性についてはアドラーの直接的な定義は私が見た限りは見当たらなかった｡</p>
<p>学問における創造性の定義問題については第二回の動画で扱っているので詳細は省略する｡おさらいすると創造性の定義は「<b>独自性のある有用な成果</b>」あるいは「<b>創造的な過程、および健全な人格</b>」のどちらかに傾きがちであった｡</p>
<p>前回の記事:<a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<p>創造性を「<b>生命プロセスの一部である</b>」とアドラーは述べていることから､創造性は先天的にある程度与えられているものであると考えられる｡</p>
<p>また､創造性を「健全な人格=健全なライフスタイル」の手段として重視していることから､どちらかといえば「独自性」よりも「健全性」を重視する傾向があるといえる｡もちろん不健全な人格形成のためにも用いられるので、その意味で「<b>創造的な過程</b>」を重視しているというほうが適切かもしれない｡「べき論」としては「健全性」に傾く｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:創造性は「生命プロセスの一部である」</p>
<p>「３つの要素に対する子どもの態度は『トライアル・アンド・エラー』(試行錯誤)だけで決まるのではなく､証明してきたとおり､むしろ子どもの成長エネルギーと創造力で決まります｡生命プロセスの一部である創造力の発揮は､子どもを圧迫も支援もする現代の文化のなかでは予測できず､創造力が発揮された結果からしか読み取れません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,229-230p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">天才と独自性について</span></h3>
<p>とはいえ､アドラーは「<b>天才</b>」という言い方で独自性を表現しているとも考えられる｡</p>
<p>例えば「わたしたちはみんな､芸術家､天才､思想家､研究者､発明家の不滅の業績にあずかって寄生するように生きているのです｡人類を本当に統率しているのは天才たちです｡彼らは世界の歴史を動かすエンジンで､わたしたちはその分配器です｡」とアドラーは述べている｡</p>
<p>理念化すれば人類全体に「結果」として貢献するタイプが「独自性タイプ」であり､人類全体の「動機」として貢献するタイプが「健全性タイプ」なのかもしれない｡</p>
<p>アドラーは天才タイプが不健全なライフスタイルをもっているケースを「例外」として見ているので､話はすこしややこしくなる(メサイアコンプレックスにも関連する)｡たとえば家族や恋人､友人や仕事を放棄し､ひたすら実験室で研究をする場合などが考えられる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:天才</p>
<p>「わたしたちはみんな､芸術家､天才､思想家､研究者､発明家の不滅の業績にあずかって寄生するように生きているのです｡人類を本当に統率しているのは天才たちです｡彼らは世界の歴史を動かすエンジンで､わたしたちはその分配器です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,132p</p>
<p>キーワード:例外</p>
<p>「劣等感から生じる行動として最後に挙げるのは､活動範囲が明らかにせまくて､前進の歩みが小さくなっている状態です｡このケースでは､人生問題の重要な部分は締め出されています｡ただし､共同体の向上にさらに貢献しようとして､芸術家や天才のように人生の問題の解消を放棄しているときは､やはり例外として扱わなければなりません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,120p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc45">「世界を不断に創造している」</span></h3>
<p>・人間は世界に「意味づけ(解釈)」して生きている｡</p>
<p>人間は「客観的な事実」ではなく「主観的な意味付け」を重視している｡はたして主観を媒介としない客観など人間は把握することができるのだろうか､という話は現象学へとつながっていく｡また､「人は見たいものを見る」というゲシュタルト理論にもつながっていく｡ある光の集まりをホタルと見るか､車と見るかは意味づけ次第なのである｡事実は「人が求めているものにあわせて形成(創造､色付け)されるもの」なのである｡</p>
<p>過去の事実や今直面している事実をどのように意味づけるかによって世界の在りようが変わってくる｡これは「<b>世界を不断に創造している</b>」ということとして解釈できる｡</p>
<p>私はこの話を聞くと､M・ウェーバーの言葉を思い出す｡</p>
<p>「世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の”意味”を読み取ることはできず、かえって、[われわれ自身が]意味そのものを創造することができなければならない。したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想とは、どの時代にも、もっぱら他の理想との闘争をとおして実現されるほかなく、そのさい、他の理想が他人にとって神聖なのは、われわれの理想がわれわれにとって神聖なのとまったく同等である。こうしたことを知らなければならない､ということこそ、認識の木の実を喰った一文化期の宿命にほかならない。」</p>
<p>「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫、41P</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 「世界を不断に創造している」<br />
「人は自分が意味づけした世界に生きているということを見てきました｡世界を不断に創造している､ということもできます｡」<br />
岸見一郎「アドラー心理学入門」,171p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">遺伝では全ては決まらない</span></h3>
<p>むしろ我々は遺伝という「材料」を創造的に､柔軟に使用していく必要があるという｡数多くの材料(外的・内的影響因)に対して我々は「創造力」を掛け合わせ､自由に､主体的に「選択」していくのである｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:遺伝</p>
<p>「進化という形で確かめられたとおり､克服という目標が存在するならば､子どものなかで具体化した進化は､さらなる発展に使われていきます｡つまり､肉体的であろうと精神的であろうと､能力に現れる遺伝が意味をもつのは､最終目標に利用できる場合､実際に利用される場合だけだということです｡のちに個人が成長したときに見られるものは､まず遺伝を材料に作られ､子どもの創造力で完成します｡私自身､遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました｡けれど､それは否定するほかありません｡外界は多様でつねに変化するので､この材料を創造的に､そして柔軟に使っていく必要があるからです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">創造力は発達(発展)である</span></h3>
<p>自らのライフスタイルなどを不断に自分の「善」に合致するように作り変え続けていく､「発達」という要素がある｡</p>
<p>この場合､井庭崇さんの創造の定義である「<b>発見の連鎖</b>」とも関連してくるのかもしれない｡あれもこれも自分の「善=ためになる」という目的のために使えるのではないか､と関連付けて使用していく｡この使用は共同体感覚を伴う「前向きな使用」である場合と､伴わない「後ろ向きな使用」である場合に大きく分かれるといえる｡</p>
<p>・もちろん､「創造的な過程」が「健全な人格」につながるべきだとアドラーは考えていただろう｡しかし､アドラーは創造性が(本人にとっては善であったとしても)<b>不健全な人格形成のために用いられることもある</b>と述べている(たとえば神経症は創られるものである)｡</p>
<p>たとえば劣等コンプレックスはまさに「<b>創り出される</b>」のであり､自分の不安を､価値のなさを誤魔化すために､解消しようとしたために創造性をもって作成されたものであるといえる｡たとえばニーチェからすればキリスト教すらも弱者の強者に対する劣等コンプレックスだととらえていたかもしれない｡</p>
<h3><span id="toc48">行動原理(ライフスタイル)と創造力の関係について</span></h3>
<p>ライフスタイルがつくられるときに､子どもは大いに自由に「創造力」を発揮しているという｡「甘やかし」や「放置」､「器官劣等性」などの条件はたしかにライフスタイルの形成に「影響」する｡しかしそれらの条件で「全て」が決定されるわけではない｡あくまでも素材をもとに我々が「選択」するという主体性をアドラーは重視する｡</p>
<p>選択は主に「ライフタスク」に直面した際に重要になる｡また､その選択は「創造力」をもって行われ､またその選択の繰り返しによって「ライフスタイル」が形成されていく｡</p>
<p>アドラーは子どもは「甘やかし､放置､器官劣等性」を「<b>幼少期の３つの重み(重荷)</b>」と表現している｡子どもはこの重みを創造力によって「克服」できる場合もあれば､できない場合もあるという｡</p>
<p>ライフスタイルは創造力によってつくられる｡そしてライフスタイルはどのような行動に創造力を用いるかに影響を与えていくことになる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:行動原理と創造力の関係について<br />
「現象には､行動原理が作られるときに子どもが大いに自由に創造力を発揮していることが表れています｡甘やかし以外の重荷とは､子どもがほうっておかれること､そして子どもの身体器官に『劣等』があることです｡どちらも甘やかしと同じく､子供の視線と関心を『共生』からそらし､自分の危険､自分だけの幸福へ向けます｡幸福には十分な共同体感覚が欠かせないことについては､さらにくわしい証明が必要でしょう｡けれど､あまり共同体感覚のないひとの前に現実の出来事が立ちはだかることについては理解できるでしょう｡幼少期の３つの重荷について言えるのは､どの重荷も､子どもの創造力でうまく克服できる場合もあれば､できない場合もあるということです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,49p<br />
「ライフスタイルが作った創造的な行為､みずからが作った行動原理は､なんらかの形で優越を目指します｡やはりライフスタイルに応じてさまざまな形で治療を妨げようとし､患者が納得して共通の感覚が優位になるまで続きます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc49">子どもと創造力の関係について</span></h3>
<p>アドラーは「<b>幼い子供のころは自由に創造力を発揮できるのに､人生の行動原理が固まってくると自由さが失われていく</b>」ことに確信をもっているという｡</p>
<p>人間はライフタスクに直面､つまり問題を発見していき､またそれを創造力をもって最初は問題解決をしていく｡しかし大人になるにつれて自分の創造した「ライフスタイル」に縛られるようになる｡「頑固ジジイ」という俗語があるように､考えかたが固定的になるわけである｡自由に判断したり､自由に創造したり､自由に選択したりすることがどんどん困難になっていく｡AかBかの二択しか目の前に見えず､新たなCを創ることができない｡</p>
<p>この話はピアジェによる「<b>子どもは最高7歳くらいまで､アリストテレスの宇宙に生きている</b>」という言葉を思い出す｡</p>
<p>ピアジェによると､子どもは「なぜものは床に落ちる？」の問いに対して､「<b>そこがものの居場所だから</b>」と答えるという｡科学では重力や因果関係で､HOWを説明する｡子どもは「なぜ隣人愛は大事なのか？」にどう答えるのかが興味深い質問になるのだろう｡おそらく､「それが自然だから､そのようになっているから」といったように目的論的(WHY)に答えるのかもしれない｡</p>
<p>アドラーの依拠している機能主義も､目的論的な機能主義であるといえる｡何のための機能なのかを常に重視する｡ちなみにこうした機能主義は科学的ではないとよく批判される｡</p>
<p>おそらくは子どもは生きていくうちに､バーマンのいうような「<b>デカルト的パラダイム</b>」を<b>学習</b>するのだろう｡事実と価値は区別するべきだ､実験が大事だ､自然は支配しろ､数量化できるものが大事､二元論､情感は単なる生理現象、原子論等々である｡ようするに､そのように事実を意味づけ､色付けするようになるのである｡デカルトはある種の天才であり､人類を発展させたともいえるが､しかし結果的に不健全なライフスタイルへ傾かせたともいうことができる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:子どもの創造力について<br />
「多いのは次の２つ目です｡この場合､母親は子どもに協力も協働もさせず､とにかくかわいがっていつも子どものために動き､考え､話､成長の芽をつんでまわります｡甘やかされた子どものために他者がなんでもしてくれるという､現実と違う空想の世界になじませるのです｡あっという間に､子どもは自分がつねに場の中心にいると考え､その世界観に反する状況やひとを敵と感じるようになります｡そこから生まれてくる結果の多様さを甘く見てはいけません｡子どもは自由に判断して､自由に創造力を働かせていくのです｡外部からの影響を利用して､自分の意識のなかで加工していきます｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,44-45p<br />
「３つの要素に対する子どもの態度は『トライアル・アンド・エラー』(試行錯誤)だけで決まるのではなく､証明してきたとおり､むしろ子どもの成長エネルギーと創造力で決まります｡生命プロセスの一部である創造力の発揮は､子どもを圧迫も支援もする現代の文化のなかでは予測できず､創造力が発揮された結果からしか読み取れません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,229-230p<br />
「幼い子供のころは自由に創造力を発揮できるのに､人生の行動原理が固まってくると自由さが失われていくという確信です｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,4p<br />
「子どもの創造力は､あらゆる物事から受ける印象を『使用』して､最終的な態度を決め､個人の行動原理を育てます｡」</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">神経症と創造力の関係について</span></h3>
<p>創造力によって作られたライフスタイルはなんらかのかたちで「優越」を目指す｡</p>
<p>「優越」を目指すという目的に対して､創造力を人間は発揮して手段を選択する｡目的の充実に失敗し､言い訳を用いる劣等コンプレックスの状態になると神経症が生じる｡アドラーは「<b>神経症とは創造的な行動である</b>」とすら述べている｡</p>
<p>例えば神経症は「未発達な状態への逆戻り(幼児退行)や先祖返り」ではないとアドラーはいう｡おそらく､フロイトの防衛機制のひとつである「退行」を批判しているのだろう｡</p>
<p>神経症は自分の劣等感を解消するために創造力によって作られたものであると考えていく｡後の精神分析で防衛機制としても分類されることがあるアドラーの考えた「<b>補償</b>(確保の原理)」が重要になる｡補償とは､ざっくりといえば「マイナスを補おうとしてプラスのエネルギーが生じること」である｡</p>
<p>たとえば劣等感が過剰になり､自分の価値を感じられず､常に不安でいるとする｡</p>
<p>そこで劣等感を利用し､「もし身長が高かったら…もしお金持ちだったら…もしイケメンだったら…自分は価値がある」というような「言い訳」を創る｡こうしたものは退行ではなく発達であるという｡ただしそれが適切な発達かどうかは別の話になる｡しかし何が適切なのかという基準が難しい｡</p>
<p>創造が共同体感覚を伴っている勇気のある態度や行為とは言えない点は重要である｡創造の動機として本人の善(ためになる)が関係するとしても､ある行動が創造的かどうかに善悪や正悪は関係しない｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:神経症は創造的な行為である<br />
「失望が続いて､新たな失望や失敗を恐れる態度は､ショック症状の固辞となって現れます｡ショック症状を利用して､共同体の問題の解決から遠ざかっているのです｡ときには(訳注:強迫神経症では多いのですが)､患者が弱々しく悪態をついて自分の不満を他者に伝えます｡被害妄想では､患者が人生に敵対意識を抱えているのがさらにはっきりと見られますが､人生の問題から遠ざかる段階ではまだ敵対意識は感じていません｡思考､感情､判断､ものの見方は､つねに後退の方向へ向かっています｡そこから､神経症とは創造的な行為で､未発達な状態への逆戻りや先祖返りではないことがわかるはずです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc51">追記(2024/04/29)神経症とはとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>神経症</strong></span>：</big>より大きな厄介を避けること､見せかけの価値をなんとか維持するためにあらゆる犠牲を払うこと､そして同時に､なにも犠牲にせずに目標を達成したいと願うこと｡アドラーの定義｡アドラーは従来の定義である「意識と無意識の衝突」や「科学的な変化」というような定義は議論として扱うことが難しいと批判的である｡</p>
</div>
<p>アドラーは神経症の治療には「人生に対する準備を促すこと､人生に参加すること､勇気づけること」を強調している｡また､無理強い､罰､厳しさ､強制では成立しないと注意していることがきわめて重要である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:神経症とはなにか<br />
「まず､これまでに決められた定義――たとえば､神経症と無意識の衝突であるといった定義を一度忘れる必要があります｡こうした定義は､議論として扱うことが難しいのです｡…高慢な学問の見解から､人体の化学的な変化を持ち出す場合も同じです｡…神経症で理解されていることと言えば､興奮しやすさ､不信感､しりごみなど､要するにネガティブな特徴を示す現象です｡こうした特徴からは､人生となじめず､感情を高ぶらせていることが見受けられます｡神経症が感情の高ぶりと関係していることは､どの学者も認めています｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,164p<br />
「これで神経症とはなにかわかったでしょう｡神経症とは､より大きな厄介を避けること､見せかけの価値をなんとか維持するためにあらゆる犠牲を払うこと､そして同時に､なにも犠牲にせずに目標を達成したいと願うことなのです｡あいにくそれはありません｡事態を発展させるには､神経症患者に人生に対する準備を促し､人生に参加させ､勇気づけるしかないのです｡これは､無理強い､罰､厳しさ､強制では成立しません｡」</p>
<p>アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,171p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc52">howとwhy</span></h3>
<p>「創造は発見の連続」であるとし､その発見が「何のために(why)」使われるかという目的は問われないことが多い｡創造の定義(what)や過程(how)にはあまり関係がないからだろう｡現代科学では特にhowを重視し､whyを問わない｡マートンが「目的論的機能主義」を強く批判したことに通じている｡しかしwhyを強く問うのがアドラー心理学であり､その哲学的要素でもある｡</p>
<p>ただし､whyについて一つの項目に固定するような必要十分条件を明らかにするのでなく､<b>機能的な項目の代替可能性が常にあり､常に刷新されうるものである</b>という点が重要である｡</p>
<p><b>仮想である以上､それは必然的で必要十分条件の因果関係にはなりえない</b>｡これは弱みではなく､強みであり､武器なのである｡〇〇教だけが､〇〇主義だけが､〇〇国だけが世界を良くするというような思い込みを避けることができる｡</p>
<p>マートンについては以下の記事を参照することをおすすめします</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/03/12/robert-king-merton-2/">【基礎社会学第三十五回】ロバート・K・マートンの実証的機能分析とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc53">創造に正しさはあるのか</span></h3>
<p>アドラー心理学は「問題を解決するときに人間の精神がどれだけ模索するか､正しいかどうかは別にしても､どれだけ芸術的に活動するかを熟知している」という｡</p>
<p>何が正しいかどうかはたしかにケースバイケースであり､簡単に「これだ」というものはわからない｡その都度ごとに判断していくものであり､「理想」として､「極限」として存在しうるものである｡</p>
<blockquote>
<p>「個人心理学は､問題を解決するときに人間の精神がどれだけ模索するか､正しいかどうかは別にしても､どれだけ芸術的に活動するかを熟知しています｡ライフスタイルから生まれた個人の行動を元にして､ひとそれぞれに問題を解いていくのです｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,156p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc54">共同体感覚と創造性の関連について</span></h3>
<p>・ライフタスクに直面したときに我々は問題を発見し､問題を解決する｡この解決の過程で我々は「創造力」を駆使している｡それが「永遠の目」から見て正しくても､誤っていても､我々はいずれにせよ創造力を用いているのである｡誤っている創造力にも芸術的なものはありうる｡</p>
<p>犯罪すらも現実問題として「創造力」が発揮されている｡映画やアニメの悪役や詐欺師の発想の素晴らしさに感嘆することはある｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/41372aec5274d9babba939571dc6d487.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3601" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/41372aec5274d9babba939571dc6d487.png" alt="" width="692" height="507" /></a></p>
<p>図にするとこのようなイメージとなる｡正誤(適切・不適切)を判断する基準は「共同体感覚の方向かどうか」が重要となる｡</p>
<p>共同体感覚に基づいていない場合は創造力(創造性)の有無に関わらず☓だといいたいところだが､正直わからない｡本人が共同体感覚をもっていないとしても､結果として人類に貢献する場合､他者に貢献する場合もある｡しかしいずれにせよ､その個人単位では精神の健全には繋がりにくいという意味では☓なのかもしれない｡</p>
<p>たとえば人類を滅ぼそうとしてウイルスを開発したつもりが､人類を救う薬だったという極端なケースもある｡あるいは人類が減ったほうが人類によって良かったというような極論もありうる｡犯罪をすることで､犯罪はよくないと知らしめるケースもそうだろう｡</p>
<p>本人はそれを意図していないが､結果としてそうだということがある｡しかしそれを容易に○とするわけにもいかない｡後々人類に逆機能になる場合もある｡この問題は思った以上に複雑である｡「不適切」ゆえに「創造力が高くなる」､それゆえに「結果としても多大に貢献する」という組み合わせのケースもありうるからである｡小説やアニメでも「復讐のエネルギー」が大きい人物がとんでもないことをしでかすようなイメージである｡たとえばニュートンの幼少期を考えると､幸せではなかったゆえに科学への力の注ぎ込み方､想像力が異常だったと思えてしまう｡</p>
<blockquote>
<p>「劣等感から生じる行動として最後に挙げるのは､活動範囲が明らかにせまくて､前進の歩みが小さくなっている状態です｡このケースでは､人生問題の重要な部分は締め出されています｡ただし､共同体の向上にさらに貢献しようとして､芸術家や天才のように人生の問題の解消を放棄しているときは､やはり例外として扱わなければなりません｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,120p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc55">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc56">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc57">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc58">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc59">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc60">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc61">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc62">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc63">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc64">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc65">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc66">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc67">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc68">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc69">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc70">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc71">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc72">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</title>
		<link>https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/</link>
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		<dc:creator><![CDATA[蒼村]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 01 May 2024 04:36:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アルフレッド・アドラー]]></category>
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					<description><![CDATA[【動画解説つき】創造発見学第三回のアドラー心理学､心理学基礎編です(1)]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[
  <div id="toc" class="toc tnt-number toc-center tnt-number border-element"><input type="checkbox" class="toc-checkbox" id="toc-checkbox-9" checked><label class="toc-title" for="toc-checkbox-9">目次</label>
    <div class="toc-content">
    <ol class="toc-list open"><li><a href="#toc1" tabindex="0">はじめに</a><ol><li><a href="#toc2" tabindex="0">動画での説明</a></li><li><a href="#toc3" tabindex="0">その他注意事項</a></li><li><a href="#toc4" tabindex="0">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</a></li><li><a href="#toc5" tabindex="0">前回の記事</a></li><li><a href="#toc6" tabindex="0">動画の分割について</a></li></ol></li><li><a href="#toc7" tabindex="0">なぜ心理学の基礎を学ぶ必要があるのか</a></li><li><a href="#toc8" tabindex="0">心理学の歴史</a><ol><li><a href="#toc9" tabindex="0">時期ごとの代表者</a></li><li><a href="#toc10" tabindex="0">アドラーと他の心理学者の相関図</a></li></ol></li><li><a href="#toc11" tabindex="0">フェヒナーの「精神物理学」</a><ol><li><a href="#toc12" tabindex="0">フェヒナーの「精神物理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく</a></li></ol></li><li><a href="#toc13" tabindex="0">ヴントの「実験心理学」</a><ol><li><a href="#toc14" tabindex="0">ヴントの「実験心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく</a></li><li><a href="#toc15" tabindex="0">構成心理学と内観法とは､意味､定義､わかりやすく</a></li><li><a href="#toc16" tabindex="0">アドラーと実験心理学の関係</a></li></ol></li><li><a href="#toc17" tabindex="0">ジェームズの「機能主義心理学」とはなにか</a><ol><li><a href="#toc18" tabindex="0">ジェームズの「機能主義心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc19" tabindex="0">「意識は流れる」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc20" tabindex="0">ジェームズ=ランゲ説､キャノン=バード説の違とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc21" tabindex="0">アドラーと機能主義の関係</a></li></ol></li><li><a href="#toc22" tabindex="0">ワトソンの「行動主義心理学」</a><ol><li><a href="#toc23" tabindex="0">ワトソンの「行動主義心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc24" tabindex="0">S-R理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc25" tabindex="0">ワトソンの目的論的行動主義､S-O-R理論､認知地図とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc26" tabindex="0">スキナーの徹底的行動主義､オペラント条件づけとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc27" tabindex="0">ウェルトハイマーの「ゲシュタルト心理学」</a><ol><li><a href="#toc28" tabindex="0">ウェルトハイマーの「ゲシュタルト心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc29" tabindex="0">仮現現象､ゲシュタルト要因､プレグナンツの法則とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc30" tabindex="0">レヴィンの「場の理論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc31" tabindex="0">フロイトの「精神分析学」</a><ol><li><a href="#toc32" tabindex="0">フロイトの「精神分析学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc33" tabindex="0">フロイトの自由連想法､夢判断とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc34" tabindex="0">フロイトの局所論(無意識､前意識､意識)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc35" tabindex="0">フロイトのイド(エス)､自我､超自我(スーパーエゴ)､リビドーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc36" tabindex="0">フロイトのエディプスコンプレックスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc37" tabindex="0">フロイトの防衛機制､昇華とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc38" tabindex="0">ユングの「分析心理学」</a><ol><li><a href="#toc39" tabindex="0">ユングの「分析心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc40" tabindex="0">ユングの個人的無意識､集合的無意識､元型､セルフとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc41" tabindex="0">「臨床心理学」</a><ol><li><a href="#toc42" tabindex="0">臨床心理学とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc43" tabindex="0">基礎心理学と応用心理学の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc44" tabindex="0">精神分析療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc45" tabindex="0">ウォルピの行動療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc46" tabindex="0">ロジャーズのクライエント中心療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc47" tabindex="0">パールズのゲシュタルト療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc48" tabindex="0">エリスの論理療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc49" tabindex="0">ベックの認知療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li><li><a href="#toc50" tabindex="0">認知行動療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</a></li></ol></li><li><a href="#toc51" tabindex="0">参考文献リスト</a><ol><li><a href="#toc52" tabindex="0">今回の主な文献</a><ol><li><a href="#toc53" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></li><li><a href="#toc54" tabindex="0">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></li><li><a href="#toc55" tabindex="0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></li><li><a href="#toc56" tabindex="0">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a></li><li><a href="#toc57" tabindex="0">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></li><li><a href="#toc58" tabindex="0">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></li><li><a href="#toc59" tabindex="0">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></li></ol></li><li><a href="#toc60" tabindex="0">汎用文献</a><ol><li><a href="#toc61" tabindex="0">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></li><li><a href="#toc62" tabindex="0">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></li><li><a href="#toc63" tabindex="0">真木悠介「時間の比較社会学」</a></li><li><a href="#toc64" tabindex="0">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></li><li><a href="#toc65" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></li><li><a href="#toc66" tabindex="0">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></li><li><a href="#toc67" tabindex="0">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></li></ol></li><li><a href="#toc68" tabindex="0">参考論文</a></li></ol></li></ol>
    </div>
  </div>

<h2><span id="toc1">はじめに</span></h2>
<h3><span id="toc2">動画での説明</span></h3>
<div class="video-container"><iframe class="fastyt" width="300" height="169" data-src="//www.youtube.com/embed/0nq2pO-Z6Vk" data-alt="動画の説明"></iframe></div>
<p><strong>・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください</strong>｡</p>
<p>よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m</p>
<h3><span id="toc3">その他注意事項</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/%e7%a7%81%e3%81%8c%e8%a8%98%e4%ba%8b%e3%82%92%e5%9f%b7%e7%ad%86%e3%81%99%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/">私が記事を執筆する理由について</a></p>
<h3><span id="toc4">アルフレッド・アドラーとは、プロフィール</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3631" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/05/Alfred_Adler12.png" alt="" width="200" height="243" /></a>・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者､精神科医</p>
<p>・主な著作は『器官劣等性の研究』｡</p>
<p>・フロイト､ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる｡</p>
<p>・フロイトと袂を分かち､独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた｡日本ではあまり知られていなかったが､岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり､多くの人に知られるようになった｡</p>
<h3><span id="toc5">前回の記事</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2023/10/10/souzougaku-2-creativity/">【創造発見学第二回】創造性とはなにか</a></p>
<h3><span id="toc6">動画の分割について</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-1/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(１)心理学の基礎知識</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-2/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(２)アドラー心理学の理論</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-3/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(３)劣等感とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-4/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(４)劣等コンプレックスとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-5/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(５)ライフスタイルとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-6/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(６)ライフタスクとはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-7/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(７)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか</a></p>
<p><a href="https://souzouhou.com/2024/05/01/creation-discovery-studies-3-adler-8/">創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(８)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか</a></p>
<p>記事が長すぎて重いので８つに分割することにしました｡動画では１つにまとめています｡長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが､どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません｡</p>
<h2><span id="toc7">なぜ心理学の基礎を学ぶ必要があるのか</span></h2>
<ol class="sample">
<li class="sample">心理学はいつ頃始まり､どういう流れを経てアドラー心理学へと繋がっていったのかを体系的に理解したい｡心理学を全体的に把握することでアドラー心理学の理解を高めたい｡</li>
<li class="sample">創造発見学の分野において心理学の基礎を学ぶことはプラスになる｡他の分野への関連付けの素材を得ることができる｡</li>
</ol>
<h2><span id="toc8">心理学の歴史</span></h2>
<h3><span id="toc9">時期ごとの代表者</span></h3>
<p>・心理学の起源として古代ギリシャ哲学ではプラトン(bc427-bc347)やアリストテレス(bc384-bc322)､さらに後にはガレノス(129-200)などが挙げられる｡</p>
<p>中世ではデカルト(1596-1650)やロック(1632-1704)が挙げられる｡近代ではフェヒナー(1801-1887)､ゴルトン(1822-1911)､ヴント(1832-1910)､ジェームズ(1842-1910)などが挙げられる｡</p>
<p>・心の問題が「哲学」から別の独立的な学問として扱われ出した時期については諸説あるだろうが､心理学が「科学」として､そして「哲学」から区別されて独立的に扱われた時期についてはヴントあたりと仮定する｡</p>
<p>なお､ヴントより前の具体的な諸主張､諸理論について今回はほとんど扱わない｡今回は主にヴント移行の流れを主に見ていきたい｡ただし､ヴントの前にフェヒナーの理解を行う｡</p>
<p>教育､産業､環境､犯罪､経営､広告､音楽､スポーツ､政治､社会などの心理学などは「応用心理学」としてまとめられている｡それらの個別の歴史については特に扱わない｡</p>
<p>「応用心理学」と区別された「基礎心理学」は実験心理学とほぼ同等のものと見なされることが多いという｡</p>
<p>今回は応用心理学の中でも「臨床心理学」に力点を置くことになる｡なぜなら､アドラー心理学は「臨床心理学」としても分類することが可能だからである｡</p>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0b190ea1c662d4c6164e23e892dd30d1.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3587" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0b190ea1c662d4c6164e23e892dd30d1.png" alt="" width="828" height="468" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0b190ea1c662d4c6164e23e892dd30d1.png 828w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/0b190ea1c662d4c6164e23e892dd30d1-800x452.png 800w" sizes="(max-width: 828px) 100vw, 828px" /></a></p>
<p>表でざっくりと整理するとこうなる｡</p>
<p>※代表的な人物を挙げている</p>
<p>※生没年順に並べており､必ずしも実際の理論が主張された順ではない</p>
<h3><span id="toc10">アドラーと他の心理学者の相関図</span></h3>
<p><a href="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/77c85e6c7fa4a15c645d6d3c503b6afe.png"><img loading="lazy" decoding="async" class="aligncenter size-full wp-image-3588" src="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/77c85e6c7fa4a15c645d6d3c503b6afe.png" alt="" width="966" height="613" srcset="https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/77c85e6c7fa4a15c645d6d3c503b6afe.png 966w, https://souzouhou.com/wp-content/uploads/2024/04/77c85e6c7fa4a15c645d6d3c503b6afe-800x508.png 800w" sizes="(max-width: 966px) 100vw, 966px" /></a></p>
<p>アドラーの関係図を簡易的に作るとこのようなイメージになる｡ただし､マイナスの批判だけではなく何かしらのプラスの影響も受けていると想定することにする｡</p>
<p>明確に否定している場合と､物足りないと判断している場合にも大別できる｡特にアドラーに明確に否定されたのがフロイトである｡</p>
<p>ヴントの立場は「構成主義」と呼ばれている｡ジェームズの立場は「機能主義」であり､ヴントの「構成主義」を批判している｡</p>
<p>ワトソンの立場は「行動主義」であり､ヴントの「内観法」を批判している｡ウェルトハイマーの立場は「ホーリズム(全体性)」であり､「構成主義や行動主義」を批判している｡フロイトはヴントの「意識」に偏りがちな分析を批判し､「無意識」をより重視をした｡行動主義心理学は「認知心理学」によって批判されている｡</p>
<p>このような専門的な諸用語は､日常で使われることが少ない｡初見では理解できない｡ざっくりとそれぞれの主義主張を見ていくことにする｡</p>
<h2><span id="toc11">フェヒナーの「精神物理学」</span></h2>
<h3><span id="toc12">フェヒナーの「精神物理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>精神物理学</strong></span>：</big>「精神と身体の関係について､物理学と同様に経験的事実を数学的に明示するべきである」という考えに基づいた心理学のこと｡例えば100グラムから102グラムに変えて重くなったと感じるが､200グラムからは204グラムに変えないと重くなったと感じないという｡重く感じるかどうかにはなんらかの方程式に集約できる法則性､傾向がある､というように考えていく｡</p>
</div>
<p>・E・ウェーバー(Ernst Weber,1795-1878)の法則を基礎にフェヒナー(Gustav Theodor Fechner,1892-1973)が提唱したといわれている｡</p>
<p>・ウェーバーやフェヒナーは生理学や物理学の専門家であり､心理学を独立の科学として扱おうとするものではなかったという｡ただし､心理学が科学的学問として独立するための優良な出発点になったといわれています｡</p>
<p>・ヴントやエビングハウスらに多くの影響を与えたといわれている｡</p>
<p>・「物理的刺激と感覚の関係」を問題にするにとどまり､フェヒナーは精神と身体の関係の精密理論を完全なかたちで確立できなかったと精神物理学は評価されている｡</p>
<p>・精神物理学研究は現在でも行われているらしいが､「刺激の物理的特性と感覚・知覚等の心理的過程の量的な関係を調べる研究」に限定されているという｡そのため､現代の「精神物理学」と対比して､「フェヒナーの精神物理学」と表現して区別することがある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:精神物理学とは</p>
<p>「フェヒナーは精神と身体の関係を科学的方法で解明していこうと考え､1860年に『精神物理学概要』を著し､ウェーバーの法則を基礎に『精神物理学(psychophysics)』という新しい学問を提唱した｡彼の基本的な考え方は､精神と身体の関係について､物理学と同様に経験的事実を数学的に明示するべきであるということであった｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,5P<br />
「しかし､実際になし得たのは物理的刺激と感覚の関係(これを外的精神物理学と呼んだ)を問題にするにとどまり､彼の意図した精神と身体の関係の精密理論としての精神物理学を完全なかたちで確立することはできなかった｡しかし『フェヒナーの精神物理学』は､その後､いくつかの批判はあったが､当時(19世紀後半)の科学的心理学研究の一つの焦点となり､ヴントはエビングハウスらにも多くの影響を与えた｡そしてまた､心理学が科学的学問として独立するための有力な出発点ともなったのである｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,5P<br />
「すでに１８世紀にはドイツを中心として身体と精神または物質的世界と心理的世界との関数関係を明らかにし､心理学に数学的基礎を与えようとする精神物理学(psychophysics)が発展しており､ウェーバーやフェヒナーらによって感覚や知覚の研究は新しい方法で取り組まれていた｡しかし､彼らはいずれも生理学や物理学の専門家であり，心理学を独立の科学として取り扱おうとするものではなかった｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,8P<br />
「したがって､現在使われている精神物理学とフェヒナーの精神物理学との違いを強調するために､『フェヒナーの精神物理学』というように特別に『フェヒナーの』という言葉を付けて表現している｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,6P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc13">ヴントの「実験心理学」</span></h2>
<h3><span id="toc14">ヴントの「実験心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>実験心理学</strong></span>：</big>広義には自然科学や経験科学の「実験」という手法を取り入れた心理学のこと｡実験心理学の一つとして､ヴント(Wilhelm Wundt,1832-1920)の構成心理学(意識心理学,要素心理学)がある｡</p>
</div>
<p>・ヴントは「近代心理学の祖」と呼ばれている｡</p>
<p>・ヴントが実験心理学の基礎をつくったといわれている｡</p>
<p>・ヴントの場合の実験の手法は「内観法」である｡最初の実験室を設立した人物として知られている｡</p>
<blockquote>
<p>「自然科学・経験科学の伝統的方法とは､現象を観察し､それに対する検証可能な仮説を立て､仮説検証のためのデータを集め､統計的検討を施し､事実として受け入れられる仮説から理論を構築するという帰納的方法である｡この研究を精神科学としての心理学に取り入れたのが実験心理学(experimental phychology)である｡実験心理学の方法は､実験者(experimenter)が条件を設定し､刺激・事象を生起・変化させ､それを被験者(paticipants)が観察し､観察結果を報告するという手続きを踏む｡そして､実験条件と観察結果との間の関係(できれば法則)を考察する｡これらを厳密に行うためには､他の実験科学と同様､実験変数の統制､実験計画､測定法を検討して実験に取り入れ､かつ実験の再現性を保証するためには､適切な変数操作､実験外変数の除去など､変数の厳密な統制が必要である｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,32P<br />
「ヴントは人間心理の研究に､自然科学の手法である実験を取り入れました｡これにより､人間の心理を客観的な自然科学として捉えようとする実証心理学という大きな流れが生まれました｡」<br />
「心理学用語大全」,58P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc15">構成心理学と内観法とは､意味､定義､わかりやすく</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>構成心理学</strong></span>：</big>構成主義に基づいた心理学｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>構成主義</strong></span>：</big>物質が原子や分子の結合体であるように､意識も心的な要素(１つひとつの感情や感覚など)の結合体であるとする主義のこと｡要素の結合体として意識を構成するため､要素主義とも呼ばれる｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>内観法</strong></span>：</big>被験者にさまざまな体験をさせ､その瞬間に何を意識したかを報告してもらうという方法のこと｡</p>
</div>
<p>・ヴントの構成心理学では､心理学の研究対象は直接経験である「意識」とされ､間接経験である物理事象とは区別されている｡</p>
<p>・研究対象が「意識」であるため､「ある刺激を与えられた観察者は自ら自分自身の意識過程を観察すること(内観法)」が必要であるとされている｡</p>
<p>・ヴントは内観法に基づいて､以下の手順で分析を行っているという｡</p>
<ol class="sample">
<li class="sample">意識内容を感覚､心象､感情などの心的要素に分析(分解)する｡</li>
<li class="sample">これら諸要素の結合の方式を見いだす｡</li>
<li class="sample">その結合法則を決定する｡</li>
</ol>
<blockquote>
<p>「ヴントが行った実験は､被験者にさまざまな体験をさせ､その瞬間に何を意識したかを報告してもらう内観法という方法でした｡」<br />
「心理学用語大全」,58P</p>
<p>キーワード:構成心理学とは<br />
「心理学はこの方法にもとづいて､(１)意識内容を感覚､心象､感情などの心的要素に分析し､(2)これら諸要素の結合の方式を見いだし､(3)その結合法則を決定しなければならない､とされた｡以上の手続きに従えば､複雑な意識現象も､単純な心的要素に分析された後､再結合されることにより､その構造を探ることができるのである｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,9p<br />
メモ:デカルト的</p>
<p>キーワード:構成主義<br />
「物質が原子や分子の結合体であるように､意識(心)も心的な要素(１つひとつの感情や感覚など)の結合体であるとする主義｡…意識(心)は､表象(イメージ)､意思､感情などに分類できさらに細かい要素に分解可能だとヴントは主張します｡物質が原子や分子の結合体であるように､意識(心)も一つひとつの心的な要素の結合体であると考えたからです｡こうした立場は､構成主義､要素主義などと呼ばれています｡」<br />
「心理学用語大全」,59P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc16">アドラーと実験心理学の関係</span></h3>
<p>・アドラーは内観法について､「<b>人間の内面を客観的に語ることができるとは思えなかったため､当然のように不評だった</b>」と述べている｡また､「実験的手法では人格がどう関係するのかは洞察されないか､推測で補うくらいだった」という点でアドラーは批判している｡</p>
<p>ただし､アドラーは「個人心理学の実験対象は人生です」､「<b>限定的に実験心理学に近づく</b>」と述べているように､実験心理学的な要素も認めている｡とはいえ､対象が「意識」ではなく「<b>人生や行動原理(ライフスタイル)</b>」であるという差異は重要である｡</p>
<p>つまり､内部的な「意識」だけではなく､外部的な「条件」もセットで､総合的に扱うということである｡外部から影響を受けているのはたしかであるが､それらを「どう使うか」という主体性､意識､意志に特に注目する「<b>使用の心理学</b>」であることをアドラーは強調する｡</p>
<p>また､実験によって典型例や類型を出せることはあるが､個人は一回きりの人生であり､そうしたよくあるパターン(法則)だけで対処できるとは限らないことを強調している｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:アドラーと実験心理学<br />
「しかし､個々のケースについては､よくあるパターンで十分には対処できないことを強調したいと思います｡一つ一つのケースは､一度きりでくりかえされないものです｡治療などに取り組むときは､よくある決まり文句を避けるべきです｡使用の心理学の事実からすれば､個人を通常の社会のつながりと切り離してしまうと､独自性は読み取れません｡わたしたちが独自性についてなにか言えるのは､検査して､能力の使い方を観察したときに限ります｡この点では､限定的な実験心理学に近づきます｡ただし､個人心理学の実験対象は人生です｡個人が直面する外的要因は､わたしたちの考察にとって非常に重要です｡それぞれに異なる個人が､目の問題とどんなふうに関係しているかを理解していかなければなりません｡この関係を考察し､個人が外部の問題に対してどんな方法で行動するかを学ぶ必要があります｡そして､どのように個人が問題を制御しようとするのか探求していくのです｡つねに社会に関わる課題に対してどのように進んでいくか､つまり個人の行動原理が個人心理学の観察対象です｡そこでは数え切れないほどの多様性に直面します｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,195-196p<br />
メモ:創造でも社会と切り離すことは難しいのと似ている</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc17">ジェームズの「機能主義心理学」とはなにか</span></h2>
<h3><span id="toc18">ジェームズの「機能主義心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>機能主義心理学</strong></span>：</big>機能主義的アプローチに基づいた心理学のこと｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>機能主義</strong></span>：</big>意識(心的現象)は､人が環境に適応するため､すなわち人が存在するための機能だと考える立場｡「生理学的事実」を重視する｡心理学の領域ではジェームズ(William James,1842~1910)やジョン・デューイが唱えた立場｡ジェームズは人間に役立つものを研究対象として重視することから､プラグマティズムの立場だと言われている(創始者の一人)｡感情や意志が(生存のために)何に役立っているのかなどと調べていく｡</p>
</div>
<p>・意識を分解した構成要素をひとつひとつ分析する「構成主義」とは違い､意識全体の動き方や機能(=役割､貢献)を探求する立場｡</p>
<p>例:崖で恐怖を感じるという心的現象は､その現場から人を回避させるという機能をもつ､などと考えていく｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:機能主義</p>
<p>「意識(心的現象)は､人が環境に適応するため､すなわち人が存在するための機能だと考える立場」<br />
「心理学用語大全」,60P<br />
「電気を自動車に例えれば､自動車(意識)の部品を一つひとつ分析しようとする立場が構成主義です｡対して､自動車(意識)の動き方や､自動車の機能(役割)を探求するのがジェームズの機能主義です｡」<br />
「心理学用語大全」,60P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc19">「意識は流れる」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意識は流れる</strong></span>：</big>「意識は固定的なものではなく､表象､感情､記憶､感覚､などが絶え間なく移ろっていくもの」とするジェームズの考えのこと｡</p>
</div>
<p>たとえば目の前の犬に対して可愛いと感じ､次の瞬間には過去に噛まれた犬の記憶を思い出して恐怖したり､やっぱり触ってみておとなしい犬だと安堵したりする｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:意識は流れる<br />
「意識は固定的なものではなく､表象(イメージ)，感情､記憶､感覚､などが絶え間なく移ろっていくものとする考え」<br />
「心理学用語大全」,61P<br />
「ジェームズにとって､意識はヴントが考えたような固定的な要素の結合体(構成主義)ではありませんでした｡そうではなく､『アイスクリームが見える』→『食べたい』→『甘い』→『懐かしい』→『幸せ』というように､表象(意識の中のイメージ)､感情､記憶などが絶え間なく変化し､流れていくというイメージで意識を捉えました(意識は流れる)｡」<br />
「心理学用語大全」,61P</p>
<p>メモ:プルーストに影響を与えた</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc20">ジェームズ=ランゲ説､キャノン=バード説の違とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ジェームズ=ランゲ説み</strong></span>：</big>情緒に伴って身体反応(行動)があるのではなく､身体反応に伴って情緒が変化するとする説｡</p>
</div>
<p>・ジェームズはこの説を「悲しいから泣くのではなく､泣くから悲しいのだ」と述べた｡</p>
<p>・ジェームズは､震えたり心臓が高鳴るといった身体反応(行動)が､恐怖という情緒に翻訳されるのだと主張した｡</p>
<p>※同時期にランゲ(Lange,Carl Georg)も同じ主張をしたという</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>キャノン=バード説</strong></span>：</big>情緒と身体反応は同時に起こるという説｡W.B.キャノンとP.バードによって提唱された説｡</p>
</div>
<p>・ひとつの身体反応がいつも同じ情緒を引き起こすとは限らない｡異なる情動状態でも同一の内蔵反応が生じることがある｡</p>
<p>・感覚情報は各感覚器官から視床経由で大脳皮質に伝わり､そこで知覚される｡</p>
<p>大脳皮質は視床の興奮を通常時は抑制しているが､その抑制を解除すると視床に興奮が生じる｡その興奮が内蔵や骨格筋に伝えられるという｡また､視床の興奮は大脳皮質にも伝えられ､単純な感覚に情動的な特質が与えられるという｡</p>
<p>現代では､「視床」だけではなく､視床下部､大脳辺縁系､網様体などが情動に関与していることが明らかにされているという｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>情報二要因理論</strong></span>：</big>身体反応とその身体反応に対する認知的解釈の両方の要因が情動の質を決定するのだと考える説のこと｡</p>
</div>
<p>例:震えが起こったあと､脳が「熊がいる」という情況と照らし合わせることによって､恐怖という情緒を体感する｡</p>
<p>人間はなんらかの「解釈」を挟んで情動を生じさせる｡単純な条件反射行動ではない｡解釈があるということは､なんらかの「選択」の余地があるということになる｡ただし､そのように解釈をせざるを得ないように過去の因果から決定されていると考えれば別である(意志の否定である決定論になる)｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ジェームズ=ランゲ説<br />
「情緒に伴って身体反応(行動)があるのではなく､身体反応に伴って情緒が変化するとする説｡…ジェームズはこの説を『悲しいから泣くのではなく､泣くから悲しいのだ』」<br />
「心理学用語大全」,62P</p>
<p>メモ:アドラーもこれに言及している<br />
「けれども実際は､無意識的に震えがはじまり､その後で意識が恐怖を感じるのではないでしょうか｡ジェームズは､震えたり心臓が高鳴るといった身体反応(行動)が､恐怖という情緒に翻訳されるのだと主張しました｡」<br />
「心理学用語大全」,62P<br />
メモ:同時期にランゲも同じ主張をした<br />
キーワード:キャノン=バード説<br />
「ジェームズ=ランゲ説に対して､W・B・キャノン(1871~1945)とP・バード(1989~1977)はひとつの身体反応がいつも同じ情緒を引き起こすとは限らないことを指摘します｡恐怖でも震えるし､寒くても震えるというわけです｡彼らは､熊を見たら､脳を介し､恐怖という情緒体験と､震えという身体反応が同時に起こると主張しました｡」<br />
「心理学用語大全」,62P<br />
「大脳皮質は通常､視床などの下位の脳の興奮を抑制している｡感覚情報は各感覚器官から視床経由で大脳皮質に伝わり､そこで知覚される｡皮質が視床に対する抑制を解除すると視床は興奮し､その興奮が内蔵や骨格筋に伝えられる｡一方で視床の興奮は皮質にも伝えられ､単純な感覚に情動的な特質を与える｡このように視床は情動の中枢としての役割を果たしている｡キャノン・バード説も現代の心理学ではそのままのかたちで受け入れられてはいない｡現在では､視床のほかに視床下部､大脳辺縁系､網様体などが情動に関与していることが明らかにされている｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,290-291p<br />
キーワード:情報二要因理論<br />
「後に､S・シャクター(1922~1997)は､震えが起こったあと､脳が『熊がいる』という情況と照らし合わせることによって､恐怖という情緒を体感する情動二要因理論を展開しました｡」<br />
「心理学用語大全」,63P<br />
「シャクターは､この結果から､､身体反応とその身体反応に対する認知的解釈の両方の要因が情動の質を決定するのだと考えた｡このような説を情動の２要因説(two-factor theory of emotion)という｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,291p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc21">アドラーと機能主義の関係</span></h3>
<p>アドラー心理学では決定論を否定し､目的論を重視する｡「解釈」や「意志」､いわゆる「認知」を重視する｡それゆえに「認知論」がアドラー心理学を構成する理論的な前提のひとつだとされる｡</p>
<p>同様に､「機能主義」もアドラー心理学を構成する前提のひとつである｡ある個人にとってプラス(善=ためになる)なのか､マイナス(悪=ためにならない)なのかなどで行動を解釈していく｡あるいは人類にプラス(貢献)しているのか､マイナス(負担)になっているのかなどとも解釈できる｡</p>
<p>例:「引きこもる」という行動の目的は「対人関係を避ける」ことや「親への復讐」であると考えていく｡外に出て不安を感じるより､中に居て不満を感じるほうが自分の「ためになる(善)」と考えていく｡もちろん､目的と結果が同じとは限らないことには注意する必要がある｡とはいえ､目的を変えれば行動を変えることができるという､「選択や意志」の重視につながる重要な点である｡</p>
<h2><span id="toc22">ワトソンの「行動主義心理学」</span></h2>
<h3><span id="toc23">ワトソンの「行動主義心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動主義心理学</strong></span>：</big>行動主義に基づいた心理学のこと｡主にワトソン(John Broadus Watson､1878~1958)によって基礎づけられたという｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動主義</strong></span>：</big>心理学は観察できない主観的な意識を扱うのではなく､客観的に観察できる行動を扱うべきだとする立場のこと｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>キーワード:行動主義</p>
<p>「当時､『心象を含まない思考はあるか』､『視感覚の属性は質､広がり､持続性､強度だけであるか､または明白性､秩序の属性も含まれるか』などの問題が論争になった｡しかし､内観法では､２人の心理学者の内観が異なった場合､互いに証明する方法も反論する方法もないので､いつまでも合意や実証可能な議論は得られなかった｡それに対し､ワトソンは1913年に『行動主義者から見た心理学』という論文を提出し､心理学はまず実証可能な自然科学の一分野であるべきだと主張した｡そのためには､従来の内観法を捨て､動物心理学の研究に使われるのと同じ客観的方法､すなわち『行動の観察』を人間の心理の研究に用いなければならない｡ワトソンは､この立場を行動主義(behaviorism)と呼んだ｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,16P<br />
「心理学は､観察できない主観的な意識を扱うのではなく､客観的に観察できる行動を扱うべきだとする立場｡」<br />
「心理学用語大全」,72P<br />
メモ:アドラーにも「行動」から主観(ライフスタイル)を理解するという側面がある<br />
「ヴントは人間心理の研究に､自然科学の手法である実験を取り入れました｡これにより､人間の心理を客観的な自然科学として捉えようとする実証心理学という大きな流れが生まれました｡」<br />
「心理学用語大全」,58P<br />
「ヴントが行った実験は､被験者にさまざまな体験をさせ､その瞬間に何を意識したかを報告してもらう内観法という方法でした｡」<br />
「心理学用語大全」,58P<br />
「主観的な意識ではなく､客観的な行動を研究対象とすることで､心理学は科学になりえるとする立場を行動主義といいます｡そして､行動を観察することで､行動を予測したり､行動をコントロールする方法を知ることが心理学の使命だとワトソンは考えました｡」<br />
「心理学用語大全」,72P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc24">S-R理論とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>S-R理論</strong></span>：</big>人の行動は､どんなに複雑に見えても､外部からの刺激(Stimulus)に対する反応(Response)の連合(結合)にすぎないとするワトソンの理論のこと｡</p>
</div>
<p>・行動はすべて生理的な条件反射であり､自分の意志によるものではないとワトソンは考えた｡</p>
<p>・刺激から反応を予測できるような「行動の法則」を確立し､行動を予測・制御することが心理学の目標であるとワトソンは考えた｡</p>
<p>・人の「行動」を見るという点ではアドラーと共通するが､行動が意思によらず反射的であると考える点でアドラーと共通しない｡とくにアドラーはライフタスク(人生の課題)に直面した時の行動を重視している｡たとえば就職活動や友人関係のトラブル､好きな人への告白などの場面が考えられる｡そのような状況で「回避」するか「向き合おうと努力」するかによってその人の性格(ライフスタイル)が見える｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:S-R理論<br />
「人の行動は､どんなに複雑に見えても､外部からの刺激(Stimulus)に対する反応(Response)の連合(結合)にすぎないとする理論をS-R理論といいます｡S-R理論はワトソンの行動主義の中核をなす理論です｡行動はすべて生理的な条件反射であり､自分の意志によるものではないとワトソンは考えました｡」<br />
「心理学用語大全」,73P<br />
「彼は､行動主義が扱うのは主観的データである自己の意識ではなく､観察可能な客観的データ､すなわち外界の刺激(S)と生体の反応(R)であり､刺激から反応を予測できるような『行動の法則』を確立し､行動を予測・制御することが心理学の目標であると考えた｡このため､ワトソンの行動主義心理学はS-R心理学(sitmulus-response psychology)とも呼ばれる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,16P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc25">ワトソンの目的論的行動主義､S-O-R理論､認知地図とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>新行動主義</strong></span>：</big>ワトソンの行動主義以降の､修正された行動主義の総称であり､一括してこのように呼ばれている｡</p>
</div>
<p>狭義に､S-O-R理論を用いる立場を示す場合もある｡代表的な人物はトルマン(トールマン)､クラーク・レナード・ハル(1884-1952)､スキナーである｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>目的論的行動主義</strong></span>：</big>行動を目的をもったものとして考える行動主義の立場のこと｡</p>
</div>
<p>刺激と反応だけでは説明できない行動もあると考え､刺激と反応の間の媒介変数として「目的」があるとトルマン（Edward Chase Tolman, 1886-1959）は考えた｡</p>
<p>たとえばワトソンの場合は「刺激と個々の反応の関係」を学習すると考えるのに対し､トルマンの場合は「手段刺激と目標との関係」を学習すると考えていく｡</p>
<p>このような学習は反応学習ではなく「<b>サイン学習</b>」と呼ばれる｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>S-O-R理論</strong></span>：</big>刺激(S)に対する反応(R)の間に､認知など(O)が媒介すると考えるトルマンの立場のこと｡</p>
</div>
<p>Sは外部からの刺激(<b>S</b>timulus)､Oは有機体の認知など(<b>O</b>rganism)であり､Rは生体の反応(<b>R</b>esponse)である｡認知とは周りの環境を判断・解釈することである｡</p>
<p>このOに目的が含まれている｡</p>
<p>ただし､ある有機体の認知を観察者は客観的・実証的に検証することが困難であるという｡</p>
<p>例えばある人物の目的は本人が無意識的､潜在的にしか意識していない場合もあり､観察者が推測せざるをえないことがある｡この辺りは社会学者であるマートンの目的と機能を明確に区別した機能分析と深く関わるだろう｡</p>
<p>自由意志による目的設定が「ある」と考える立場がアドラーであり､その点ではS-R理論よりはS-O-R理論のほうが親和的である｡アドラーはなによりも「自由意志」や「意志による選択」を重視する立場だからである｡</p>
<p>アドラーは仮に意志の存在が事実として証明されないとしても､まるで事実である「<b>かのような</b>」立場をとっているといえる(仮想論)｡S-O-R理論における目的設定は必ずしも自由意志によるものとは限らず､外部環境や内部環境､いわゆる過去からそうせざるをえないように目的が規定されている､選ばざるをえないようにさせられていると考えれば「出来事因果性一元論」､いわゆる自由意志を否定する「決定論」の立場になる｡認知にどれほどの自由度を認めるかという論点がキーポイントとなる｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認知地図</strong></span>：</big>学習に際して､生体が形成する環境の空間的な関係についての認知構造のこと｡トルマンの考え｡</p>
</div>
<p>サイン学習による生体は環境を様々な目標を指し示すサインの集合体(サイン・ゲシュタルト)として捉えるようになり､生体は環境に対する認知地図を形成するという｡たとえばネズミが迷路学習を行う際､目標地点まで認知地図が形成される｡このような学習を潜在学習ともいう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:新行動主義とは<br />
「ワトソンの行動主義はいろいろな修正を受けながらも､その基本的な立場は後の心理学者たちに受け継がれていった｡彼らの立場はさまざまであるが､行動を直接の研究対象とする点で共通しており､一括して新行動主義(neo-behaviorism)と呼ばれる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,17P<br />
「SとRの間にその人､その動物ならではの何か(認知の他に､信念､期待など)が媒介すると考えて､行動主義のS-R理論をS-O-R理論に修正する立場を新行動主義といいます(O=有機体:Organism)｡」<br />
「心理学用語大全」,77P<br />
キーワード:目的論的行動主義とは<br />
「トルマンは行動を､筋肉や腺などの生理学的反応の総和によって定義されるもの(分子的定義)以上のもの､すなわち目的をもったもの(目的的行動)としてとらえようとした｡たとえば､ワトソンは､ネズミが迷路で終点に達し､餌をもらったときに､ネズミは迷路という刺激と個々の反応の関係を学習するとしたのに対し､トルマンはネズミは迷路という手段刺激と目標(餌)との関係を学習すると考えた｡この手段-目標関係の学習によって､手段刺激は目標への期待を生じさせるサイン(sign)となる｡そして餌に対する動機づけが高まったときに､餌をとるために走るという行動を生起させる｡すなわち､トルマンは､学習とは基本的に反応学習ではなく､サイン学習(sign learning))であると考えたのである｡そして､生体はさまざまなサイン学習の経験によって､環境をさまざまな目標を指し示すサインの集合体､すなわちサイン・ゲシュタルトとしてとらえるようになる｡その結果，生体は環境に対する認知地図(congnitive map)を形成すると考えた｡このようなトルマンの立場は､目的論的行動主義(purposive behaviorism)と呼ばれている｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,18p</p>
<p>キーワード:認知地図とは<br />
「生活環境を思い浮かべる際の地図のようなイメージのこと｡」<br />
「心理学用語大全」,76P<br />
「トールマンは､迷路の中にネズミを入れておく実験で､エサ(報酬)を与えなくても､ネズミは迷路の道を覚えていることを発見しました｡迷路の中のネズミは､走り回るうちに迷路の空間的な構造を徐々に把握していき､いつのまにか脳内に認知地図を形成していたっと考えられます(認知:周りの環境を判断・解釈すること)｡」<br />
「心理学用語大全」,76P<br />
「けれどもトールマンは､こうした反射的行動と､目的地に向かって歩くとか､空腹を満たすために食事をするなどの目的的行動は分けて考えるべきだと主張します｡目的的行動には､刺激(S)に対する反応(R)の間に､認知など(O)が媒介すると考えたからです(S-O-R理論)｡」<br />
「心理学用語大全」,77P</p>
<p>キーワード:S-O-R理論とは</p>
<p>「SとRの間にその人､その動物ならではの何か(認知の他に､信念､期待など)が媒介すると考えて､行動主義のS-R理論をS-O-R理論に修正する立場を新行動主義といいます(O=有機体:Organism)｡」<br />
「心理学用語大全」,77P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc26">スキナーの徹底的行動主義､オペラント条件づけとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>徹底的行動主義</strong></span>：</big>心理学は観察・操作可能な刺激と反応の間の相関関係を見いだす､関数分析を行わなければならないと考えるスキナー(Skinner Burrhus Frederic,1904-1994)の立場のこと｡</p>
</div>
<p>スキナーは実験的行動分析学派の創始者としても知られている｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>オペラント条件づけ</strong></span>：</big>報酬や懲罰に対して､自発的に行動するよう学習することである｡スキナーの考え｡</p>
</div>
<p>オペラントとはオペレート(操作)の派生言葉である｡古典的条件づけが「先行する刺激」に行動が左右されるのに対して､オペラント条件づけは「報酬や懲罰といった､行動の結果としての刺激」に左右されるという点に特徴がある｡その結果によって行動が増えた場合は「強化」と呼ばれ､行動が減った場合は「弱化」と呼ばれる｡スキナーは人の自発的な行動は性格などの内的な要因ではなく､報酬や懲罰といった外的要因が引き起こすと結論づけている｡</p>
<p>アドラーは内的要因や選択を重視するので､スキナーの考えには反対するだろう｡また､賞罰教育をアドラーは否定している｡</p>
<p>とはいえ､外的要因がなんら行動に影響を与えないとまではアドラーは考えず､影響は与えると考える｡外的に全てが決定されるという決定論ではない｡行動するものの選択・自由の余地を残すことから「<b>緩やかな決定論</b>」とも呼ばれることがある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:徹底的行動主義とは<br />
「スキナーは徹底的行動主義(radical behaviorism)を唱え､抽象的な原理や仲介変数などの観察不可能な仮説的構成概念を心理学に導入するのに反対した｡彼は､科学の目標は出来事と予測の制御であるので､心理学は観察・操作可能な刺激と反応の間の相関関係を見いだす､関数分析を行わなければならないと考えた｡スキナーは一試行ごとにに生体に反応や条件づけを強いる従来の研究法をやめ､スキナー箱で動物に自由に反応させるフリー・オペラント(free operant)の研究を始めた｡そして､強化についての環境側の規則である強化スケジュール(schedules ogf reingorcement)が､生体の行動に及ぼす効果について､精力的に研究を展開した｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,19P</p>
<p>キーワード:オペラント条件づけとは<br />
「報酬や懲罰に対して､自発的に行動するよう学習すること｡」<br />
「心理学用語大全」,74P<br />
「古典的条件づけは､先行する刺激に行動が左右されましたが､オペラント条件付けは､報酬や懲罰といった､行動の結果としての刺激に左右されます｡報酬や懲罰で行動を増やすことを強化､報酬や懲罰で行動を減らすことを弱化といいます｡…条件反射のような生理反応は､性格などの内的な要因ではなく､ベルの音などの外的な要因が引き起こします｡人の自発的な行動もまた､性格などの内的要因ではなく､報酬や懲罰といった外的要因が引き起こすのだとスキナーは結論づけました｡」<br />
「心理学用語大全」,75P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc27">ウェルトハイマーの「ゲシュタルト心理学」</span></h2>
<h3><span id="toc28">ウェルトハイマーの「ゲシュタルト心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ゲシュタルト心理学</strong></span>：</big>全体は部分の寄せ集めではなく､まず全体があって部分はその全体に依存して現れると考える心理学のこと｡全体はゲシュタルトと呼ばれ､全体は部分(要素)の総和以上のものを生み出すと考える立場である｡</p>
</div>
<p>ゲシュタルト心理学は「<b>全体論</b>(ホーリズム)」に基づいた心理学といえる｡なお､個人の自由を否定し､国家ないし社会の全体を一元的に支配統制することを原理とする政治思想である「全体主義」とは異なることに強く注意する必要がある｡アドラーとも真逆の思想である｡</p>
<p>全体論(ホーリズム)的な要素はアドラーの考えと一致するものがある｡部分ではなく個人という全体､あるいは個人は人類や世界の一部という視点をアドラーは重視するからである｡</p>
<p>ゲシュタルト心理学はウェルトハイマー(Max Wertheimer,1880-1943)､ケーラー(Wolfgang Köhler,1887-1967)､コフカ(Kurt Koffka,1886-1941)などによって創始された｡レヴィン(Kurt Lewin,1890-1947)の場の理論などもゲシュタルト心理学系列である｡主にこの３人によって共同で理論が提唱されたものと仮定する｡</p>
<p>・全体を部分の単なる寄せ集めと考える「要素主義､構成主義､行動主義」に対して批判的な立場である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:ゲシュタルト心理学とは<br />
「当時支配的であった要素主義や構成主義､行動主義は､全体は部分の寄せ集めであり､刺激の性質と知覚の特性の間には一対一の一義的対応関係があるという考えに立っていた(モザイク仮説)｡しかし､ゲシュタルト心理学はそのような考え方を恒常仮定(constancy hypothesis)と呼んで批判し､全体は部分の寄せ集めではなく､まず全体があって部分はその全体に依存して現れると主張した｡この全体性を『ゲシュタルト(形態)』と呼び､心理学はこのゲシュタルトの性質を研究するべきだとした｡たとえば､２つの静止した光点を適当な時間間隔で経時的に提示すると､２つの光点の点滅ではなく､1つの光点のなめらかな運動印象が得られる(図５)｡これが､仮現運動と呼ばれる現象である｡この場合､仮現運動を構成している要素は二つの光点であるが､それらの要素に対する感覚を単に合わせただけでは運動印象は決して生じてこない｡二つの光点は互いに関連し合って､一連の全体過程の部分を構成しているのである｡心理学は､ここで生じたような全体過程を問題とするべきである､というのがゲシュタルト心理学の考え方である｡」</p>
<p>「キーワードコレクション 心理学」,1４P</p>
<p>「心理現象の本質は部分(要素)ではなく全体性にあるという説｡…このように､全体(ゲシュタルト)は要素の総和以上のものを生み出します｡ですから意識の中身を要素に還元するのではなく､全体として研究しなければならないとヴェルトハイマーは考えたのです｡」<br />
「心理学用語大全」,82-83P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc29">仮現現象､ゲシュタルト要因､プレグナンツの法則とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>仮現現象</strong></span>：</big>実際はなにもない部分に連続運動が見えてくる現象のこと｡</p>
</div>
<p>仮現現象は､意識は要素の総和だとする構成主義(要素主義)では説明ができない｡例えば２つの図形を交互に点滅させると､それらの図形が連続しているように見えるケースなど｡アニメや映画も､静止した画像を連続させることで動いているように知覚させる｡一つの画像､要素だけに着目していてはこのような知覚を説明できない｡足し算ではなく掛け算のようなイメージ｡アドラーの共同体感覚も仮現現象のようだと私は感じる｡なぜなら､実際は確認できない「(完全な)共同体感覚」を我々は前へ前へと日々連続的に運動しているうちに､なんとなく感じるような現象とも言えるからである｡人類全体と私がつながっているという意識も連続した生のうちに見えるかのように感じるのである｡改めてこのように言うとヘーゲル感がある｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ゲシュタルト要因</strong></span>：</big>まとまり(ゲシュタルト)を発生させる要因のこと｡</p>
</div>
<p>知覚されたいくつかの要素は､バラバラに認識されるのではなく､ひとつのまとまりとして認識されるという考えを「群化の理論」または「体制化の理論」とも呼ぶ｡</p>
<p>このゲシュタルト要因はクリストファー・アレグザンダーの美学にも通じるものがあるのでとても重要になる｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>プレグナンツの法則(簡潔性の法則)</strong></span>：</big>・人が物事全体(ゲシュタルト)を認識する際､受け取った刺激をなるべく単純明快な方向で認識しようとする傾向のこと｡</p>
</div>
<p>ゲシュタルト要因が発生する理由として､人間の心理にこの法則が作用しているという｡「簡潔な説明のほうが正しい」というオッカムの剃刀とも通じるものがあるだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:【ウェルトハイマー】仮現現象とは<br />
「このように､実際はなにもない部分に連続運動が見えてくる現象を仮現現象といいます｡仮現現象は､意識は要素の総和だとする構成主義(要素主義)では説明ができませんでした｡」<br />
「心理学用語大全」,84P</p>
<p>キーワード:【ウェルトハイマー】ゲシュタルト要因とは<br />
「ウェハイマーは､知覚されたいくつかの要素は､バラバラに認識されるのではなく､ひとつのまとまりとして認識されると考えました(群化の理論・体制化の理論)｡彼はそのまとまりを発生させる要因をゲシュタルト要因と名付けました｡」<br />
「心理学用語大全」,85P<br />
キーワード:【ウェルトハイマー】プレグナンツの法則とは<br />
「ウェルトハイマーは､人が物事全体(ゲシュタルト)を認識する際､受け取った刺激をなるべく単純明快な方向で認識しようとする傾向があると考えました｡これをプレグナンツの法則といいます｡さまざまなゲシュタルト要因が発生する理由は､人間の心理にプレグナンツの法則が作用しているからなのです｡」<br />
「心理学用語大全」,85P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc30">レヴィンの「場の理論」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>場</strong></span>：</big>人間が物事を全体的に捉えるひとつの枠組みのこと｡レヴィン(Kurt Lewin,1890-1947)の考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>場の理論</strong></span>：</big>ヒトの行動(B)はヒト(P)と環境(E)の関数B=f(P,E)であるとし､ヒトと環境の相互作用である生活空間によってヒトの行動は影響を受けるという考えのこと｡</p>
</div>
<p>人間の行動は個人の性格や欲望だけで決まるわけではなく､個人が置かれた場(環境)に左右される｡レヴィンの考え｡場の理論はマンハイムのイデオロギーやクーンのパラダイムシフトなどとも関連する用語であり､重要であると考える｡</p>
<blockquote>
<p>
キーワード:【レヴィン】場の理論とは<br />
「たとえば､レヴィンは独自の場理論により､ヒトの行動(B)はヒト(P)と環境(E)の関数B=f(P,E)であるとし､ヒトと環境の相互作用である生活空間によってヒトの行動は影響を受けるとした｡また､彼の社会行動についての研究は『集団力学』というかたちで発展し､現実の実験社会心理学のはしりとなった｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,15P<br />
「私たちは通常､上図を４本の線とは捉えずに､２本の棒と捉えます｡私たちは､一つひとつの要素を別々に見てそれらを結びつけているのではなく､物事を全体的にひとつの枠組み(場)として捉えれているのです｡」<br />
「心理学用語大全」,88P<br />
「レヴィンはゲシュタルト心理学を社会心理学(人の意識や行動は､社会からどのような影響を受けているか､また社会にどのような影響を与えているかを分析する学問)に応用しました｡人間の行動は個人の性格や欲望だけで決まるわけではなく､個人が置かれた場(環境)に左右されます｡これを場の理論といいます｡」<br />
「心理学用語大全」,218P」</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc31">フロイトの「精神分析学」</span></h2>
<h3><span id="toc32">フロイトの「精神分析学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>精神分析学</strong></span>：</big>無意識を意識化させて心理現象を分析する学問のこと｡精神分析療法として発展していった｡フロイト(Sigmund Freud,1856- 1939)によって創始され､体系化された学問である｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>キーワード:精神分析とは<br />
「精神分析学(phychooanalysis)はフロイトによって創始され､体系化された学問である｡フロイトはヒステリー(histeria)の研究に取り組む中で､ヒステリーの症状の原因として､無意識(unconsciousness)の中に抑圧(repression)された過去の不快な記憶(心的外傷体験)があること､そのために発生した情緒が適切に処理されないところから症状は起こること､そして催眠などの方法により不快なものとして抑圧された記憶を想起させることができれば､抑えられた情緒を開放し治療することのできることを見い出した｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,20P<br />
「無意識を意識化させて分析するフロイトが始めた研究｡精神分析は客観的な方法ではないため､科学ではないという批判もある｡」<br />
「心理学用語大全」,104P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc33">フロイトの自由連想法､夢判断とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自由連想法</strong></span>：</big>患者をソファーに寝かせて､リラックスさせた状態で心に浮かんだことを語らせ､抑圧された無意識内の願望や衝動を明らかにしていく方法のこと｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>夢判断</strong></span>：</big>夢の内容を分析することによって抑圧された無意識内の欲動を明らかにしていく方法のこと｡睡眠の中では自我の抑圧が低下し､無意識の中から欲動(リビドー)が浮かび上がり､意識と混ざりあって「夢」がつくられるとした｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<p>・ちなみにユングの場合は夢は「無意識の現れ」という点は一致しているが､無意識に抑圧されたものという「対立関係」ではなく､むしろ「意識を補償するもの」と考えているという｡この点でアドラーの意識と無意識の「相補関係」と通じるものがある｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 【フロイト】自由連想法とは<br />
「精神科医であったフロイトが､患者の治療のためにとった主な心理療法は自由連想法と呼ばれています｡自由連想法とは､患者をソファーに寝かせて､リラックさせた状態で心に浮かんだことを語らせ､抑圧された無意識内の願望や衝動を明らかにしていく方法です｡無意識を意識化させて分析するフロイト独自の研究は精神分析(精神分析療法)として発展していくことになります｡」<br />
「心理学用語大全」,104P<br />
キーワード:【フロイト】夢判断とは<br />
「夢を無意識の欲動が形を変えて現れるイメージと定義し､夢の内容で無意識の欲動を明らかにする方法｡夢のイメージは主に性欲を表すとフロイトは考えた｡」<br />
「心理学用語大全」,105P<br />
「フロイトは夢を『睡眠で自我の抑圧が低下することによって､無意識の中から欲動(リビドー)が浮かび上がり､それが意識と混ざり合うことでつくられるもの』と定義しました｡彼は､夢の内容を分析(夢判断)することによって､抑圧された無意識内の欲動を明らかにしていくことができると考えました｡夢判断も自由連想法と同じく､フロイトにとって重要な精神分析療法のひとつでした｡」<br />
「心理学用語大全」,105P</p>
<p>キーワード:【フロイト】夢解釈<br />
「伝統的には精神分析学派によって,悪夢の報告者の内的世界の解釈資料として理解する心理支援が行われてきた(小此木,1998)｡フロイトの夢解釈は,類型論的な方法で夢がどのような無意識を表しているかについて,象徴的に解釈する手法である｡また夢の主題やイメージのみならず,その後に続く自由連想を含めて,個々の夢だけではなく,一連の夢の流れを理解することに重きをおいている｡しかしフロイトの夢は病理モデルに基づいているため,すべての夢の解釈を一般化できるかについては批判が多い｡」<br />
松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」,148p</p>
<p>キーワード: 【ユング】ユング派の夢解釈<br />
「カール・G・ユングは,夢は無意識の現れであるとする点ではフロイトと一致してるが,無意識に抑圧されたものではなく,むしろ意識を補償するものと捉えた(Hill&amp;Spangker,2007)｡ユング派の夢分析では,連想の過程で出現するテーマを,神話や伝説の類似のテーマと結びつけ理解することを重要視している｡夢の神秘性,芸術性を求める場合にはよいが,これら精神分析的夢理論は,実証的なエビデンスを欠く主観的な推測と判断されている(Gardner,2000)｡」<br />
松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」,148p</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc34">フロイトの局所論(無意識､前意識､意識)とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>局所論</strong></span>：</big>心を意識､前意識､無意識の３つの層に分けて考える理論のこと｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>無意識</strong></span>：</big>自分では認識できない抑圧されている意識のこと｡常に意識の中に入り込みたがっている､意識できない層のこと｡人の行動の大部分は理性でコントロールできない無意識に支配されているとフロイトは主張した｡</p>
</div>
<p>今までは理性的に自分の行動を決めていると考えられていたので対照的である｡無意識は後に「イド(エス)」に相当するものと考えられるようになる｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>前意識</strong></span>：</big>抑圧されているわけではなく､単に忘れ去られているもので､容易に意識化できるもののこと｡努力すれば意識できる層のこと｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>意識</strong></span>：</big>抑圧されているものでも､忘れ去られているものでもないもののこと｡意識している層のこと｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<p>たとえば「無意識に暴力をふるってしまった」のは過去に父親に暴力を振るわれた体験が抑圧されていたからだ､といったように考えていく｡</p>
<p>アドラー心理学ではこのような自分のある部分が勝手にしたというような「<b>言い訳</b>」を許さない｡無意識という自分の中にある特定の「部分」のせいにするのではなく､「<b>私という全体</b>」がそれぞれの部分を利用したり影響を受けたりして最終的に「<b>選択</b>(意志､決定)」したのだと考えていく｡後で扱うが､フロイトは「原因論」の立場であり､アドラーは「目的論」の立場である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:【フロイト】無意識､前意識､意識､局所論<br />
「なお､彼のいう無意識とは､単に意識されないだけでなく､意識(consciousness)に受け入れると精神の安定が脅かされるために抑圧されたもののことをいっており､抑圧されているわけではなく､<br />
単に忘れ去られているもので､容易に意識化できるものについては彼は前意識(preconsciousness)と呼んでいる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,20P<br />
「自分では認識できない抑圧されている意識のこと｡今日､フロイトの『無意識』は実証できないため､科学な概念とはいえないという批判もある｡…長らく､自分の行動は自分で理性的に決めていると考えられてきました｡ところがフロイトは､人の行動の大部分は理性でコントロールできない無意識に支配されていると主張しました｡」<br />
「心理学用語大全」,92P<br />
「他にも､動機が不明な行動や思いつき､ささいな言い間違い､夢などは､すべて無意識が原因だとフロイトはいいます｡」<br />
「心理学用語大全」,92P<br />
「フロイトは心を意識・前意識・無意識という３つの層に分けて理解しました(局所論)｡そして､普段は無意識の中に抑圧されている記憶が､なにかの拍子に意識の中に入ることで､さまざまな行動が生まれるのだと主張しました｡」<br />
「心理学用語大全」,93P<br />
メモ:動機(目的)が不明な行動というワードは重要<br />
メモ:「人の行動はその人の意識が理性的に決めている(意志論)」vs「人の行動は無意識が影響している」(決定論)</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc35">フロイトのイド(エス)､自我､超自我(スーパーエゴ)､リビドーとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>イド(エス)</strong></span>：</big>無意識に相当するものであり､「快楽原則」に従って性の本能や攻撃の本能の満足を求めるものとされている｡リビドー(欲動)をこのイドが導くという｡リビドーのためのエネルギーのようなものである｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自我(エゴ)</strong></span>：</big>現実を意識し､「現実原則」に従って欲求を満足させようとするものであるという｡イドと超自我を調整する主体である｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>超自我(スーパーエゴ)</strong></span>：</big>子ども時代から親や社会によって規定された「道徳原則」に従い､正しい行動をするよう仕向ける「良心」に相当するものだという｡しばしば自我と対立するという｡フロイトの考え｡超自我は自我を抑圧し､自我はイドを抑圧しようとする｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>リビドー</strong></span>：</big>「本能的なエネルギーである性的欲動」のこと｡フロイトはリビドーが人間の主な原動力だと考えている｡</p>
</div>
<p>生まれたばかりの乳児にもリビドーは存在し､発達とともにリビドーは肛門期､男根期､潜伏期､性器期と変化していくという｡それぞれの時期に見合ったリビドーが上手く満たされないと､大人になってから精神疾患として症状が現れるという｡</p>
<p>フロイトは晩年､快楽原則や現実原則だけでは説明がつかない行動を説明するために<b>タナトス</b>(死の欲動)を考えたという｡</p>
<p>タナトスと対照的に､性的欲動や自己保存の欲動が<b>エロス</b>(リビドー)と呼ばれることがある｡</p>
<p>なお､アドラーはフロイトのタナトスという考えを批判している｡また､「ある種の性格特徴が子どもの誕生順と一致するということが正しければ､性格は遺伝する､性格の形成は肛門やなにかと関係すると言った議論はもう必要なくなります」とまでいっている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 【フロイト】イド(エス)､自我､超自我<br />
「フロイトの考えは時代とともに変遷しているが､彼の意識-前意識-無意識という心の構造のとらえ方は､後にイド(Id)､自我(ego)､超自我(superego)というパーソナリティ構造に発展することになった｡イドは従来の無意識に相応するものであり､『快楽原理』に従って性の本能や攻撃の本能の満足を求めるものとされる｡フロイトは人の基本的な生命エネルギーをリビドー(libido)と呼んでいるが､このリビドーがイドを導くのである｡一方､自我は現実を意識し､『現実原理』に従って､欲求を満足させようとするものである｡３番目の構造である超自我は､子ども時代から親や社会によって規定された『道徳原理』に従い､正しい行動をするよう仕向ける『良心』に相当するものである｡自我はイドの情熱に駆り立てられ､それを現実との関係で何とか調整しなければならないし､完全化を求める超自我の要求にも沿おうとして困難な立場に立つことになるわけであり､神経症などは自我がその立場に耐えられなくなったときに起こると考えるのである｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,21-22p<br />
「超自我とは､道徳的､社会的な自我で､しばしば自我と対立する｡自我とは､エスと超自我を調整する主体｡エスとは本能的(性的)な欲動｡」<br />
「心理学用語大全」,94P<br />
「エスは本能的な欲動であるリビドーを中心とする無意識的な心的エネルギーの貯蔵庫で､ただ快楽だけを求める快楽原則に基づいています｡一方自ら生きていくため自我は､理想原則に基づく超自我に抑制されながらも､現実原則に基づいてエスの欲動を抑圧しています｡」<br />
「心理学用語大全」,94P<br />
「快楽原則とは､ただ快楽のみを求める心の働き｡現実原則とは､欲動を抑圧しつつ現実世界に適応しようとする心の動き｡理想原則とは､社会で良心的に生きていこうとする理想的な心の動き｡」<br />
「心理学用語大全」,94P</p>
<p>キーワード: 【フロイト】リビドー<br />
メモ:リビドーはラテン語<br />
メモ:12歳以降のリビドーと幼児期のリビドーは区別される<br />
「本能的なエネルギーである性的欲動をフロイトはリビドーと呼び､リビドーが人間の主な原動力だと考えました｡フロイトによれば､生まれたばかりの乳児にもリビドーは存在し､発達とともにリビドーは肛門期､男根期､潜伏期､性器期と変化していきます｡各時期に見合った性的欲動がうまく満たされると､リビドーはスムーズに変化していきます｡ところがかく時期で､リビドーが通常の満たされ方をしない場合､大人になってから､その時期に固着した症状が現れるとフロイトは考えました｡彼は６歳くらいまでの経験がその後の人生を大きく左右するといいます｡」<br />
「心理学用語大全」,96P<br />
「口唇期は0~1歳くらいで､口唇で乳を吸うことにリビドーを感じる時期｡肛門期は1~3歳くらいで､排泄すること､我慢することにリビドーを感じる時期｡男根期は3~6歳くらいで､エディプス期でもあり､自分の性器にリビドーを感じる｡潜伏期は6~12歳くらいで､一時的にリビドーが抑えられる｡性器期は12歳以降であり､生殖が目的となり､異性の性器にリビドーを感じる｡」<br />
「心理学用語大全」,96P</p>
<p>キーワード:【フロイト】エロス・タナトス<br />
「フロイトは晩年､自傷行為や無差別殺人といった快楽原則と現実原則だけでは説明のつかない行動を説明するために､タナトスという概念を導入しました｡すべての生物は､自分が生まれる前の無機物の状態に戻ろうとする欲動があるというのです｡このような死の欲動がタナトスです｡対して､性的欲動や自己保存欲動といった､生きようとする本能的な性の欲動をエロス(リビドー)と呼びました｡」<br />
「心理学用語大全」,103P<br />
メモ:バーマンのエロスと関わってくるのかもしれない</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc36">フロイトのエディプスコンプレックスとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>エディプスコンプレックス</strong></span>：</big>3~6歳の男根期(エディプス期)に幼児期の男子の母親に対する性的あこがれと､その結果として生じる父親を競争相手として排除しようとする願望のこと｡性的倒錯とされている｡この願望は満たされることがなく､無惨に打ち砕かれることで心的外傷(トラウマ)体験となり､抑圧される｡この抑圧されたものが溢れたとき､神経症などになる｡フロイトの考え｡</p>
</div>
<p>女性の場合はエレクトラコンプレックスなどともいわれる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:【フロイト】エディプス・コンプレックス<br />
「フロイトはこうした自由連想の実践のなかで､患者の不安の記憶が常に子ども時代の経験に関わっていること､さらにそれが『性』に関係していることに注目した｡有名なエディプス・コンプレックス(Oedipus complex)とは幼児期の男子の母親に対する性的あこがれと､その結果として生じる父親を競争相手として排除しようとする願望である｡この願望は満たされることはなく､むしろ無惨に打ち砕かれるわけで､それが外傷体験となり､しかも抑圧されるために後の神経症などの原因になるとフロイトは考えたのである｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,21P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc37">フロイトの防衛機制､昇華とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>防衛機制</strong></span>：</big>「外部環境から危険が迫ったときや､不快な状況に直面したとき､自己をな何とか守ろうとすること」を防衛と呼ぶ｡この防衛のメカニズム､仕組みのこと｡適応機制とも呼ばれる｡</p>
</div>
<p>防衛機制はジクムント・フロイトの概念だが､娘のアンナ・フロイトが『自我と防衛機制』で整理したという｡重要な点は､おそらくアドラーの「補償」概念が加えられていることだろう｡</p>
<p>アンナ・フロイトは抑圧､反動形成､同一化､合理化､退行､昇華といったさまざまな防衛機制を説明している｡今回はジクムント・フロイトが特に重視していたという昇華を紹介する｡</p>
<p>また､アドラーが独自に追加したと思われる「補償」も紹介する｡なお､補償については後ほど詳細に扱う予定である｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>昇華</strong></span>：</big>「抑圧されている社会的､文化的に認められない欲動を､認められる行動に置き換えることで満足させる心の動き」を意味する｡芸術やスポーツなどもその例かもしれない｡</p>
</div>
<p>たとえば暴力は通常､社会的に認められていない｡しかしボクシングは認められている｡社会を破壊することは認められていないが､それを芸術で絵として表現することは認められている｡ジクムント・フロイトが最も重視した防衛機制だという｡ある種の治療なのかもしれない｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>補償</strong></span>：</big>「自分の弱点をカバーするために他の望ましい特性を強調すること」を意味する｡</p>
</div>
<p>いわゆるマイナスをプラスに変えようとする「優越性(プラス)への欲求」が補償を導くのであり､「劣等感(マイナス)」とセットで扱われる｡アドラーの考え｡</p>
<p>プラスでいたいという欲求がまずある(優越性の欲求)｡</p>
<p>しかし､現実ではそうではなく､理想のプラスの状態よりもマイナスの状態であることが多い(ギャップがある)｡</p>
<p>そこで劣等感が生じる｡さらにその劣等感を「克服」するためになんとかマイナスをプラスに変えようと努力する｡</p>
<p>重要なのはそうした補償や克服の「方向」であり､適切な方向と適切ではない方向をアドラーは区別している｡その基準が「共同体感覚」の有無である｡</p>
<p>たとえば努力や忍耐を避け､安易に家に引きこもって働かずに安心を確保したり､他人を攻撃して優越感に浸り安心を確保するのも「補償」である｡しかし､共同体感覚は伴っておらず､他者への貢献という意識､仲間意識が希薄であるといえる｡また､さらに重要な点として､当事者は不幸だと感じていることが多いということである｡そしてもし不幸だと感じているのならば､適切な補償の方向へと向かうような「ライフスタイル」をあなたは今・この瞬間から「選択」するべきだという｡そしてあなたにはそうしたライフスタイルを変えられる「能力」があるという｡</p>
<blockquote>
<p> キーワード:【フロイト】防衛機制(Defense Mechanism)<br />
「人は外部環境から危険が迫れば､自己をな何とか守ろうとする｡不快な状況に直面した場合や内的な衝動を満足できない場合も同様である｡これを防衛といい､防衛の際に人びとが採用する主として無意識的な手段を防衛機制(defence mechanism)という｡一般的にいえば､危険・不安を回避して状況に適応するための手段と考えられるので適応機制(adjustment mechanism)とも呼ばれる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,272P<br />
「自我は､常にエスから浮上してくるよくj道にさらされています｡そのため､自我は自らの崩壊を防ぐため､いろいろな心理的防御策をとっているとフロイトは考えました｡この心の働きを自我防衛機制といいます｡防衛機制における自我の働きは､意識的に､またしばしば無意識的に行われます｡防衛機制には､抑圧､反動形成､同一化､合理化､退行､昇華といったさまざまな種類があります｡」<br />
「心理学用語大全」,100p<br />
メモ:さらに投射､補償が挙げられている｡アドラーの「補償」概念が加えられていることにポイントがあるのだろう｡<br />
キーワード: 【アドラー】補償(compensation)<br />
「アドラーの提唱した概念で､自分の弱点をカバーするために他の望ましい特性を強調することを指す｡劣等感に由来する心理的緊張を､他の側面で優れることによって解消しようとする傾向である｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,274P<br />
メモ:補償の方向が大事</p>
<p>「アドラーはフロイトの精神分析に大きな影響を受けましたが､性的エネルギーが人間を動かしているとは考えませんでした｡アドラーは防衛機制の中でも､特に補償を重要視します｡劣等感を補償しようとする心の動きが行動のエネルギーだと考えたからです｡アドラーによれば､他人より優れていたいという優越欲求がそうした心の動きを生み出します｡」<br />
「心理学用語大全」,118P<br />
キーワード: 【フロイト】昇華<br />
「フロイトが最も重要視した防衛機制のひとつが昇華です｡昇華は抑圧されている社会的､文化的に認められない欲動を､認められる行動に置き換えることで満足させる心の動きを指します｡つまり､置き換えの健全なバージョンです｡性的欲動を芸術に向けたり､攻撃的欲動をスポーツに向けると言った行動が代表例といえます｡」<br />
「心理学用語大全」,102P</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc38">ユングの「分析心理学」</span></h2>
<h3><span id="toc39">ユングの「分析心理学」とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>分析心理学</strong></span>：</big>個人的無意識だけではなく､集合的無意識(普遍的無意識)を分析することに特徴がある心理学のこと｡たとえば人が恋をするとき､アニマあるいはアニムスのイメージを異性の相手に投影すると考えて分析する｡ユング(Carl Gustav Jung,1875-1961)によって創始された｡</p>
</div>
<p>ユングはフロイトの考えがあまりに生物学的であり､性的なものに偏っているとしてフロイトから離反し､独自の理論を形成するようになったという｡</p>
<p>リビドー(エネルギー)は性的なものだけではなく､もっと広い内容を含む生命エネルギーだと見なしている｡</p>
<h3><span id="toc40">ユングの個人的無意識､集合的無意識､元型､セルフとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>個人的無意識</strong></span>：</big>あらゆる忘却された経験や､意識に上らない衝動や願望から成り立っているもの｡容易に意識に呼び戻すことができるものとされている｡ユングの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>集合的無意識</strong></span>：</big>個人的無意識のさらに深層に位置しており､人類全体の心の奥底にあると考えられるもので､人類がその誕生以来積み重ねて来た経験から成り立っているもの｡「元型」が集合的無意識の元になっているとユングは考えた｡通常は意識されることがなく､夢や投影された形(芸術)などに現れるという｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>元型</strong></span>：</big>集合的無意識に保存されている要素､イメージのこと｡</p>
</div>
<p>すべての人類の無意識の中にある母なるものが「グレートマザー」と呼ばれている｡男性の中にはアニマ､女性の中にはアニムスが､というように多様な元型が考えられている｡他にはペルソナ、英雄、セルフ､トリックスター、シャドウ､オールドワイズマンなどがある｡</p>
<p>アドラーとの関連でユングの中でも重要な概念が元型のひとつである「<b>セルフ(自己)</b>」だろう｡</p>
<p>セルフは完全な自分像､真の自分像だとされている｡神や光､美しい模様として意識化されることがあるという｡こうしたセルフはアドラーの考える人間の先天的な優越性の欲求とつながっているとも考えることもできる｡</p>
<p>とはいえ､アドラーは無意識をあまり重視していない｡「無意識に・・・」､「ついとっさに感情的になって・・」､「過去のトラウマのせいで・・・」､「両親のせいで・・」と「言い訳」に使われると人間は後ろ向きになるからである｡</p>
<p>性や無意識を重要視している点をアドラーは批判してる｡ユングも無意識を最重要視している点で同じだろう｡アドラーは無意識よりも意識を､あるいはそれぞれの部分ではなく「全体」を重視する｡トラウマなどの過去に規定される存在ではなく､人間は未来へ向かって目的を自分の(自由)意志で設定するという考えを主張している｡そうした意志を勇気づける､援助するための教育などの社会的条件も重要であると考えている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:【ユング】個人的無意識と集合的無意識<br />
「ユングもまた無意識の重要性を強調したが､彼は無意識には２種類のものがあるとしている｡最初の個人的無意識(personal unconsciousness)はあらゆる忘却された経験や､意識に上らない衝動とか願望から成り立っており､これは容易に意識に呼び戻すことができるものとされる｡集合的無意識(collective unconsciousness)は個人的無意識のさらに深層に位置しており､人類全体の心の奥底にあると考えられるもので､人類がその誕生以来積み重ねて来た経験から成り立っているとされる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,23P<br />
キーワード:【ユング】元型<br />
「ユングは世界各地の神話や芸術を調べてみると､直接交流があったとは考えられない地域の間で非常によく似たモチーフがしばしば見られることを指摘している｡こうした共通したモチーフは元型(Archetype)と呼ばれ､これが集合的無意識のもとになっていると考えるのである｡元型は､通常は意識されることはなく､投影された形や､夢あるいは空想の中に現れる｡」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,23P</p>
<p>キーワード:フロイトとアドラー<br />
「ある種の性格特徴が子どもの誕生順と一致するということが立たしければ､性格は遺伝する､性格の形成は肛門やなにかと関係すると言った議論はもう必要なくなります｡」<br />
アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,240p<br />
「一般として，個人心理学の創設者は非常に鋭敏で知覚力があり，観念形成と情動の関係性について正しい見識を持つと私は考える。もともとフロイトは聡明にも，不適応的情動や神経症は基本的に観念的なものであるという理論を考案した。しかしながら，不幸に もこの素晴らしいアイデアはエディプス神話の論争の中に埋もれてしまった。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,137p</p>
</blockquote>
<h2><span id="toc41">「臨床心理学」</span></h2>
<h3><span id="toc42">臨床心理学とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>臨床心理学</strong></span>：</big>心の問題を抱える個人(クライエント,患者)の援助､治療を目的とする学問のこと｡応用心理学に分類される｡</p>
</div>
<p>「精神医学」と混同されることが多く､その境界は曖昧だという｡</p>
<p>アメリカ心理学会の臨床心理学の定義では「知的､情緒的､心理的､および行動上での障害と不安を理解し､その人の将来を予測するとともに､その状態の緩和をめざす」こと､「心理的苦痛､個人生活・社会生活・職業生活の機能不全について､その性質や原因を診断すること」とされている｡</p>
<p>臨床心理学という言葉を最初に使ったのはウィトマー(Lightner Witmer,1867-1956)であるが､臨床心理学に対する理論的な影響は小さいという｡</p>
<p>・臨床心理学の治療法は､主に「<b>投薬</b>」と「<b>心理療法</b>」の２つだという</p>
<p>・心理療法には精神分析､行動療法､クライエント中心療法､認知療法､ゲシュタルト療法､論理療法などがある｡現代の主流は行動療法と認知療法を組み合わせた「行動認知療法」だという｡ざっくりと各療法を理解していく｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:臨床心理学とは<br />
「臨床心理学(clinical psychology)とは､心理的な問題をかかえている人を理解し､その問題からの回復を援助するための学問である｡一般には精神医学(psychiatry)と混同されることが多く､その境界も曖昧である｡アメリカ心理学会(APA)のガイドラインによる臨床心理学の定義は､『知的､情緒的､心理的､および行動上での障害と不安を理解し､その人の将来を予測するとともに､その状態の緩和をめざす』こと､そして『心理的苦痛､個人生活・社会生活・職業生活の機能不全について､その性質や原因を診断すること』とされている｡臨床心理学という言葉を最初に使ったのは､アメリカのウィトマーである｡」</p>
<p>「キーワードコレクション 心理学」,24P</p>
<p>「クライエントの治療方法には､投薬と心理療法の2つがあります｡心理療法には､フロイトが創始した(1)精神分析､行動主義の考えを基盤とした(2)行動療法､ロジャーズの(3)クライエント中心療法､認知心理学を基礎とした(4)認知療法などがあり､現在は２と４を併用し認知行動療法が中心となっています｡」<br />
「心理学用語大全」,114P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc43">基礎心理学と応用心理学の違いとはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>基礎心理学</strong></span>：</big>科学的知識を実験によって得ようとする学問である実験心理学とほぼ同等のものと見なされている｡</p>
</div>
<p>知覚､学習､記憶､思考､パーソナリティ､感情､情動などの領域の問題を取り扱う｡理論心理学､数理心理学､知覚心理学､学習心理学など多様な分類がある｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>応用心理学</strong></span>：</big>基礎心理学で得られた成果を取り入れ､さらにそれを人間の実際の生活の向上に応用し､役立てようとする学問のこと｡</p>
</div>
<p>例えば(臨床､教育､産業､環境､犯罪､経営､広告､音楽､スポーツ､政治､社会)心理学など｡応用心理学の中には独自の研究方法と原理をもった1つの独立した学問として発展した分野もあるという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:基礎心理学とは<br />
「一方､基礎心理学は､科学的知識を実験によって得ようとする実験心理学(experimental psychology)とほぼ同等なものと見なされることが多く､知覚､学習､記憶､思考､パーソナリティ､感情､情動などの領域の問題を取り扱う｡研究方法によって分類されたり(たとえば､理論心理学､数理心理学など)､取り上げる領域によって分類されたり(たとえば､知覚心理学､学習心理学など)している｡<br />
」<br />
「キーワードコレクション 心理学」,37P</p>
<p>「心理学は基本的に､一般的な人間心理の法則を､実験を通じて科学的に解明しようとする学問です(実験心理学)｡これに対して臨床心理学は､心の問題を抱える個人(クライエント)の援助､治療を目的とします｡」<br />
「心理学用語大全」,114p<br />
キーワード: 応用心理学とは<br />
「応用心理学(applied psychology)は､基礎的な心理学で得られた成果を取り入れ､さらにそれを人間の実際の生活の向上に応用し､役立てようとする学問である｡しかし､単に心理学的な知識を利用するだけの学問ではない｡基礎的な心理学での研究が直接応用心理学につながらない場合もある｡また､応用心理学の中には独自の研究方法と原理をもった1つの独立した学問として発展した分野もある｡このように考えると､応用心理学は心理学の応用部門と考えるよりも､1つの独自の科学と考えるほうが妥当であるかもしれない｡」</p>
<p>「キーワードコレクション 心理学」,36P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc44">精神分析療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>精神分析療法</strong></span>：</big>カウンセリングを受けに来た人(クライエント)の無意識を意識化させて心の問題を治療する方法｡自由連想や夢判断など｡フロイトが代表的である｡</p>
</div>
<blockquote>
<p>キーワード:精神分析とは<br />
「クライエントの無意識を意識化させて心の問題を解決する自由連想法や夢判断などがある｡」<br />
「心理学用語大全」,114P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc45">ウォルピの行動療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動療法</strong></span>：</big>「行動科学を人の不適切な習慣や行動の修正に応用するための方法の総称」であるという｡オペラント学習理論に基づいた方法論が初期に採用されたという｡その後､「社会的学習理論」などの多くの理論を取り入れて発展していったという｡</p>
</div>
<p>具体的な方法としては「逆制止法(不安を引き起こす刺激に対して､安心を引き起こすように訓練をして不安を消去していく心理療法)」や「系統的脱感作法(恐怖が小さいものから段階的に恐怖を消去していく心理療法)」などがあるという｡代表的な人物はウォルピ(Joseph Wolpe,1915-1997)である｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>行動科学</strong></span>：</big>行動主義や新行動主義の理論体系はまとめて「行為理論」と呼ばれている｡ワトソンの行動主義の影響を受けて､別の学問として行動生理学､行動遺伝学､行動経済学､行動生物学などさまざまな諸科学が誕生していった｡そうした行動を扱う諸科学を総称して「行動科学」と呼ぶ｡</p>
</div>
<p>実験主義､実証主義的な側面を重視し､実験できない対象は実験可能になるまで扱うべきではないという禁欲主義の立場が基本である｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:行動療法</p>
<p>「行動療法は,1950年代に体系付けられた心理療法であり,｢行動科学を人の不適切な習慣や行動の修正に応用するための方法の総称｣である｡初期の行動療法は前述のオペラント学習理論に基づいた方法論であったが,その後,社会的学習理論をはじめ,多くの行動科学の理論的基礎を取り入れた方法論として発展している｡行動療法は,問題行動のセルフモニタリングなどの技法を用いて,行動変容の準備性の低い生活習慣に対する働きかけにも応用できるが,ここでは行動変容の実行支援に役立つ方法論を中心に紹介する｡行動療法のプロセスは,①問題とすべき行動を具体的に捉え(問題行動の特定),②その起こり方を刺激と反応の関係の中で捉えて相互の関係を明らかにし(行動の分析),③解決に効果がありそうな方法を試して(行動技法の選択と適用),④結果を確認しながらうまく続くように支援する(結果の確認とフィードバック),の4段階で構成される(図6)｡これらのプロセスは,臨床でいう｢問診｣,｢診断｣,｢治療｣,｢評価｣に相当する｡」<br />
中村正和「行動科学に基づいた健康支援」,6p<br />
「間違った条件づけによる学習を､訓練によって新しい条件づけに変え､行動を変化させる療法｡逆制止法や系統的脱感作などがある｡のちにアイゼンクは行動療法だけが効果的な心理療法だと主張した｡」<br />
「心理学用語大全」,115P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc46">ロジャーズのクライエント中心療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>クライエント中心療法</strong></span>：</big>クライエント(カウンセリングを受けに来た人)の考えを無条件に肯定しながら､クライエント自身が問題解決するのを助ける療法のこと｡代表的な人物はロジャーズ(Carl Ransom Rogers,1902-1987)｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自己概念</strong></span>：</big>自分の自分に対する概念(イメージ)のこと｡例:「自分は大人しい」､「自分は短気だ」など｡ロジャーズの主張｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>心理的不適応状態:</strong></span>：</big>自己概念と実際の体験の不一致､心的不適応状態に陥いった状態､自己認知の歪みの状態｡いわゆる心的ストレス状態である｡ロジャーズの主張｡</p>
</div>
<p>ロジャーズは「人には､自己認知の歪みを直し､自己実現(自分の個性の発展)をしようとする機能があらかじめ備わっている」という｡</p>
<p>これはマズローやアドラーに関連がある項目であるといえる｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:クライエント中心療法とは<br />
「クライエントの考えを無条件に肯定しながら､クライエント自信が問題解決するのを助ける療法」<br />
「心理学用語大全」,115P</p>
<p>キーワード【ロジャーズ】自己概念とは<br />
「人は誰もが『私はシャイだ』『私はおおらかだ』など､『自分はこういう人間だ』という概念(イメージ)を持っています｡自分の自分に対する概念を自己概念と言います｡」<br />
「心理学用語大全」,126P<br />
キーワード【ロジャーズ】心理的不適応状態とは<br />
「ロジャーズは､心的ストレスの原因は自己概念と実際の体験の不一致にあると考えました｡この不一致､つまり自己認知の歪みにある状態のことを心理的不適応状態と呼びます｡心理的不適応状態にあると､自分が自分ではないように感じられたり､自分に自信が持てなくなります｡けれども､人は常に成長する有機体です｡よって人には､自己認知の歪みを直し､自己実現(自分の個性の発展)をしようとする機能があらかじめ備わっているとロジャーズは主張します(自己実現傾向)｡この力を手助けする心理療法がクライエント中心療法です｡クライエント中心療法は､心の問題はクライエント自身にしか治せないという考えに基づいています｡」<br />
「心理学用語大全」,128P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc47">パールズのゲシュタルト療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ゲシュタルト療法</strong></span>：</big>クライエントが自分の中でさまざまな気持ちに「気づく」ことを手助けする療法のこと｡精神分析とクライエント中心療法をもとにパールズ(Frederick Salomon Perls, 1893-1970)が始めたという｡パールズの方法にはドリームワークやエンプティ・チェアなどのロールプレイングがある｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>今の原則</strong></span>：</big>過去は存在せず､現在のみが存在すると考える原則のこと｡問題は過去にあるのではなく､今心の中にあると考え､今ここで変えていくことができると考えていく｡パールズの考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>未完の行為</strong></span>：</big>本人は気づいていない､自己全体(ゲシュタルト)のどこか欠けた部分のこと｡「心の穴」とも表現される｡ゲシュタルト療法はそうした穴をクライエントが気づくことを助けることによって､またその穴を埋めることで治療を行うという｡パールズの考え｡</p>
</div>
<p>「今の原則」はアドラーや過去のトラウマを重視しないアドラーや､現在の没頭感を重視するマズローの考えとよく似ている｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:認知療法とは<br />
「クライエントの間違った認知をカウンセリングによって修正する療法｡」<br />
「心理学用語大全」,115P<br />
メモ:べックなど<br />
キーワード:ゲシュタルト療法とは<br />
「クライエントが自分の中でさまざまな気持ちに『気づく』ことを手助けする療法」<br />
「心理学用語大全」,115P<br />
メモ:パールズなど<br />
キーワード:【パールズ】今の原則<br />
「フロイトと同じようにパールズも､幼児期の未解決問題が､無意識的に心の問題を引き起こしていると考えました。けれどもパールズは､問題は過去にあるのではなく､今､心の中にあるだけだと考えます｡トラウマは今､心の中にあるのですから､その問題は､今ここで変えていくことができるわけです(今の原則)｡」<br />
「心理学用語大全」,124P<br />
メモ:アドラーとの関連性<br />
キーワード:【パールズ】未完の行為<br />
「本人は気づいていない未完の行為に気づくことを助けるのがパールズが創始したゲシュタルト療法です｡ゲシュタルトは全体という意味で､ここでは自己全体を意味します｡クライエントは､自分の心の穴が何であるかに気づき､それを埋めることでゲシュタルトの完成を目指します｡」<br />
「心理学用語大全」,125P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc48">エリスの論理療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>論理療法(REBT)</strong></span>：</big>患者にABC理論を理解させ､イラショナル・ビリーフ(不合理な考え)をラショナル・ビリーフ(合理的な考え)に変えさせることで､悩みを解消する心理療法のこと｡エリス(Albert Ellis,1913-2007)の考え｡</p>
</div>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>ABC理論</strong></span>：</big>「出来事(Affair)」に対する「考え(Belief)」が､悩みという「結果(Conclusion)」を生み出すという理論｡クライエントとの討論(Discussion)によって効果(Effect)を得るというところまでを含めて､ABCDE理論とも呼ばれる｡エリスの考え｡</p>
</div>
<p>Cの原因はAではなくB｡BをB’に変えれば､Cも変わる｡Aを変える必要はないと考えていく</p>
<p>アドラーの考えと似ている｡また､エリス自身も影響を受けていると述べている｡また､フロイトは聡明にも「不適応的情動や神経症は基本的に観念的なものであるという理論を考案した」と述べている｡認知論的な要素がフロイトにもあったが､やがてそれらを重視しなくなったということだろう｡</p>
<p>「人間の情動は思考が原因であり､思考によって引き起こされるという仮説」より始めるとエリスは述べている｡また､こうした思考は通常､「言語」によって生まれるものだという｡この言語は「文章記述」であり､意識または無意識に発生するという｡</p>
<p>たとえば「これはいい！」というような文章記述の場合は「ポジティブな感情」であり､「これはだめだ！」というような文章記述の場合は「ネガティブな感情」である｡言語ありきで思考があり､思考ありきで感情が引き起こされるということになる｡要するに､何かを何かとして意味づけるという「解釈」は言語的作用だという話である｡</p>
<p>感情を引き起こしているのは出来事ではなく､思考だと考えていく｡また､言語がなければ思考もなく､また感情(悩み)もないことになる｡解釈は先言語的になりたたないのか､という点は今でも議論がある分野である｡</p>
<p>重要なのはそうした学問的議論ではなく､「<b>人間を治療できるかどうか</b>(勇気づけることができるか)」にあるのだろう｡エリスの考えでは､感情を思考の変化によってコントロールすることができるという発想が重要になる｡</p>
<p>では､どのようにして「不適切な思考(=非合理的な思考)」を明らかにするのか､「適切な思考(=合理的な思考)」へと変化させることができるのかという点が手段として必要になる｡</p>
<p>たとえば「私にはあの人しかいなかった」というような失恋によくある思考は事実に基づいていないものとされ､「非合理的な思考」に分類される｡「もう一生恋愛できない」という思考も論理的ではないとされ､「非合理的な思考」に分類される｡</p>
<p>「私には未来はない」という思考も気持ちをみじめにさせるので､「非合理的な思考」に分類される｡分類できるかどうかはケースバイケースで各人によるのだろう｡</p>
<p>クライエントが混乱して自己破滅的な文章をもって思考し､心の問題が生じているとすれば､そこには「なんらかの非合理的な思考」が存在すると推定される｡</p>
<p>そうした「非合理的な思考」に気づかせるテクニックとして､エリスは「討論」を重視し､相手の非合理的な思考を論駁することを目指すという｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード:論理療法とアドラー心理学の違い<br />
「アドラーのコモンセンスや理性に関する見解は，なおも個人心理学と論理療法との重要な相違点を残している。例えば，筆者が個人の非合理性を論じる時，クライエントが誤った前提や非論理的な推論の両方を持っていることを含意している。アドラーは，たとえクライエントが持つ基本前提や目標が間違っていても，クライエントが一旦その前提が正しいと考えたならば，その人は非常に論理的に考えていくと主張する。惑乱した個人のすべてを変えるのではなく，その人が持つ前提や目標における誤りを変えるように求める点において，アドラーやアドレリアンは治療的利点を持つ。アドレリアンは，クライエントが非常に聡明であることを正直に示し，誤った前提について触れる。一方筆者は，思考と推論の両方が間違っていることを理由として，クライエントが非常に愚かな考え方を持っていることを述べるか，暗にそのことを示す」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学におる理性と情動 アルバート・エリス」,139p</p>
<p>「しかしながら，治療という面においては明確な違いが存在する。アドラーの治療は，惑乱した個人が間違った基本前提や目標を持っていることを，当人に対して指摘することを必要とする。これらの誤りは常に自己中心的な方向性のうえに見いだされ，不適応な情動は誤った目標のはたらきによる。論理療法の立場ではクライエントに対して，混乱するような感情を作り出すようなイラショナルビリーフが何であるかを具体的に示し，それを手放し，生じている感情が一時的だけでなく再び自然と起こりにくくなるまで，いかにそれを論駁し，質問して挑戦していくかを示す。論理療法ではクライエントに，イラショナルビリーフとラショナルビリーフとをいかに区別するかを明確に示す。そしてイラショナルビリーフに対して実証的論理的に立ち向かい根こそぎ退治し，非科学的に信じていて自分を落ち込ませるようなビリーフに対して逆自己教示するべく宿題に取り組み，賢明な基本的人生哲学をいかにして獲得するかを示す。」<br />
森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,140p</p>
<p>
キーワード: 【エリス】ABC理論とは<br />
「『出来事(A)』に対する『考え(B)』が､悩みという『結果(C)』を生み出すという理論｡尚､クライエントとカウンセラーとの『討論(D)』によって『効果(E)』を得るため､後にエリスはABCDE理論と呼んだ｡Cの原因はAではなくB｡BをB’に変えれば､CはEに変わる｡Aを変える必要はない｡」<br />
「心理学用語大全」,132P</p>
<p>
キーワード:【エリス】論理療法とは<br />
「ABC理論における考え(ビリーフ)にはイラショナル・ビリーフ(不合理な考え)とラショナル・ビリーフ(合理的な考え)の２つがあります｡患者にABC理論を理解させ､イラショナル・ビリーフをラショナル・ビリーフに返させることで､悩みを解消するエリスの心理療法を論理療法(REBT=Rational Emotive Behavior Therapy)といいます｡」<br />
「心理学用語大全」,133P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc49">ベックの認知療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認知療法</strong></span>：</big>主に鬱病患者の現状の認知､「自動思考」と呼ばれる認知上の歪みをカウンセリングによって修正し､患者の考え方や行動を改善させる心理療法のこと｡ベック(Aaron Temkin Beck,1921-2021)の考え｡</p>
</div>
<p>エリスの論理療法を「症状の重いうつ病」に取り入れたところに特徴がある｡感情や行動だけではなく､思考や言語といった「認知」に着目した点が重要になる(これはエリスと同じだが)｡</p>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>自動思考</strong></span>：</big>鬱病患者による物事の悲観的な側面ばかりに目を向ける癖のこと｡</p>
</div>
<p>ベックは認知療法に「行動療法」の要素も取り入れるようになり､これが後に「認知行動療法」として発展していくことになる｡</p>
<p>認知の改善だけに偏った治療の場合を認知療法と呼び､行動だけに偏った治療の場合を行動療法と呼ぶのだろう｡</p>
<blockquote>
<p>キーワード: 認知療法とは</p>
<p>「臨床心理学者のエリスは､フロイトが提唱した精神分析は心理療法として効果がないと考え､論理療法を提唱しました｡この論理療法を一時的な気分の落ち込みよりも症状の重いうつ病の治療に取り入れたのが精神科医のベックです｡ベックはうつ病患者が物事の悲観的な側面ばかりに目を向ける癖があること(自動思考)に注目します｡患者特有のこうした認知の歪みをカウンセリングを重ねながら修正しようとする心理療法を認知療法といいます｡のちにベックは､認知療法に行動療法の要素を取り入れます｡こうして生まれた認知行動療法は､今日､うつ病やパニック障害に最も効果のある心理療法のひとつとされています｡」<br />
「心理学用語大全」,134-135P</p>
<p>キーワード: 【ベック】自動思考<br />
「ベックはうつ病患者が物事の悲観的な側面ばかりに目を向ける癖があること(自動思考)に注目します｡」<br />
「心理学用語大全」,134P</p>
</blockquote>
<h3><span id="toc50">認知行動療法とはなにか､意味､定義､わかりやすく解説</span></h3>
<div class="box26"><span class="box-title">POINT</span></p>
<p><big><span style="background-color: #ffff99;"><strong>認知行動療法</strong></span>：</big>思考（認知）と言われる出来事に対する考え方や出来事の受け取り方を変えてストレスや悩みに対処できる状態の心を作っていく治療法のこと｡</p>
</div>
<p>思考の変化で感情の変化を促すだけではなく､感情の変化からさらに行動へと繋げるところにポイントがある｡</p>
<p>例:出来事(友人に無視された)､思考(聞こえなかったのだと認知する)､感情(申し訳ないと感じる)､行動(もう一度呼んでみよう)｡もしこれが不適切に行われた場合､思考(嫌われていると認知する)､感情(悲しいと感じる)､行動(友人を避けるようになる)｡極端な悲観的な思考を､より楽観的な､バランスの良い思考に持っていくことが重要だという｡そうしたバランスによって､ストレスの対処や問題を解決するための感情や行動をすることができるという｡</p>
<p>セルフヘルプマニュアルがあり､自分自身でも治療することができるという｡アドラー心理学でも悲観より楽観を重視する傾向がある｡</p>
<blockquote>
<p>「近年，うつ病や不安障害など様々な精神障害に対する治療法として薬物療法の他に認知行動療法（CognitiveBehavioralTherapy，以下CBT）が使用されている．CBTは思考（認知）と言われる出来事に対する考え方や出来事の受け取り方を変えてストレスや悩みに対処できる状態の心を作っていく治療法である．例えば，出来事に対して図1右のような思考が極端に悲観的で不適応にならずに，左のような楽観的な思考と悲観的な思考のバランスの良い適応的な思考にする．そうすることでストレスの対処や問題を解決するための感情や行動をすることができる．CBTでは患者が知識やスキルを学び，それを用いて思考を変えることで治療を試みる．イギリスやアメリカでは治療の第一選択とされており，うつ病に対する効果をみると薬物療法と同等の効果で低い再発率が認められている．我が国でも保険適応がされ，治療を選択することが可能となっている．」<br />
石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」,601p</p>
<p>「認知行動療法とは，クライエントの不適応状態に関連する行動的，情緒的，認知的な問題について，行動科学の諸理論や行動変容の諸技法を用いて，信念や価値観といった考え方の問題が関連して起こる不適応な反応を軽減するとともに，情緒や行動に直接的に介入するだけでなく，それらに影響を及ぼしている認知的要因を積極的に治療のターゲットとして扱うことにより，適応的な反応を学習させ，情緒の安定や行動の修正を効果的に行っていく方法である．認知行動療法の理論では，認知の誤りと歪み，すなわち誤ったあるいは否定的な思い込みや信念，価値観が否定的な認知的仮説を導き出し，その仮説が否定的な自動思考を作り出し，その自動思考により不適応な反応を起こすと考えられており，認知が行動や反応に与える影響（図1）を軽減させるとともに，その認知過程を変化させることによって心理的悩みや不適応行動を軽減させることを目標としている．また，考え方が変わることによって，気分や行動が変わることをクライエント自身が繰り返し経験することを通して，セルフコントロールの獲得を目標としている．図2は，Stallard13）による思考・感情・行動の適応的循環と不適応的循環のモデルである．Stallard13）によると，人は適応的な循環にあるとき，思考は前向きで，成功を受け入れ，長所を認めることができるため，穏やかでリラックスした感情を呼び覚まし，問題や困難にみずから積極的に向き合ったり挑戦したりするなどの適切な行動をとる．ところが不適応な循環にあるとき，思考は過剰に否定的になり，長所を認めることができず，自己批判的になる．そのことが不快，不安，抑うつ，怒りなどのネガティブな感情を呼び覚まし，回避や諦めなどの不適切な行動をとるようになる．つまり認知行動療法には，感情（情緒）と行動は，主として認知の結果生み出されるものであり，認知と行動に対して適切に介入することで，思考，感情（情緒），行動に変化をもたらすことができるという考えが背景にある．」<br />
川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」,270p</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<h2><span id="toc51">参考文献リスト</span></h2>
<h3><span id="toc52">今回の主な文献</span></h3>
<h4><span id="toc53">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3WbQBJz">岸見一郎､ 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」</a></p>
<h4><span id="toc54">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Wgg5W5">岸見一郎､ 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」</a></p>
<h4><span id="toc55">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4ddwaC0">岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」</a></p>
<h4><span id="toc56">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3xWhF5f">永藤かおる､ 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</a>&lt;/p</p>
<h4><span id="toc57">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/4dfSYkp">岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」</a></p>
<h4><span id="toc58">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/44eUX4o">アルフレッド・アドラー､長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」</a></p>
<h4><span id="toc59">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3Qqbehw">心理学 改訂版 (キーワードコレクション)</a></p>
<h3><span id="toc60">汎用文献</span></h3>
<h4><span id="toc61">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/42ewHg7">米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」</a></p>
<h4><span id="toc62">トーマス・クーン「科学革命の構造」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3JbErsX">トーマス・クーン「科学革命の構造」</a></p>
<h4><span id="toc63">真木悠介「時間の比較社会学」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3oEar1G">真木悠介「時間の比較社会学」</a></p>
<h4><span id="toc64">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/43wS79x">モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」</a></p>
<h4><span id="toc65">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」</a></p>
<h4><span id="toc66">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3LTjPH6">グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」</a></p>
<h4><span id="toc67">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</span></h4>
<p><a href="https://amzn.to/3qeyjt3">マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」</a></p>
<h3><span id="toc68">参考論文</span></h3>
<p>※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です</p>
<p>・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep/59/1/59_1_88/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(<a href="https://wako.repo.nii.ac.jp/records/3758">URL</a>)</p>
<p>・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(<a href="https://kutarr.kochi-tech.ac.jp/record/2240/files/04.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(<a href="https://toyama.repo.nii.ac.jp/records/19681">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照</p>
<p>・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(<a href="https://n-junshin.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=261&amp;item_no=1&amp;attribute_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; 「共同体感覚」の定義の参照<br />
・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/pacjpa/81/0/81_1C-014/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 統計データ､考察､成人版</p>
<p>千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(<a href="https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/24890/files/7.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アーレントの「共同体感覚」の参照｡アドラーへの言及は皆無なのだが､しかし人類にとって切実であろうことを語っており､面白かった｡これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる｡ただし､私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず､今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)｡</p>
<p>・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(<a href="http://hikumano.umin.ac.jp/UT_WS121117.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に｡また､行動主義や機能主義についても参考になる<br />
・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(<a href="https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1140091077.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法､不安障害について参考に<br />
・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=1052&amp;file_id=22&amp;file_no=1">URL</a>)<br />
&#8211; アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳<br />
&#8211; 論理療法､アドラーの主張についての理解<br />
・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1063/files/33-2-135.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; アドラーの怒り､悲哀､不安などについて参考になる<br />
・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(<a href="https://oiu.repo.nii.ac.jp/record/1120/files/34-3-012.pdf">URL</a>)<br />
・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(<a href="https://edo.repo.nii.ac.jp/records/19">URL</a>)<br />
&#8211; アドラー､フロイト､ユングなどの夢解釈について参考に<br />
・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(<a href="http://jlc.jst.go.jp/DN/JALC/00159852109?from=Google">URL</a>)<br />
&#8211; 行動療法について参考に<br />
・石倉陸人， 林篤司， 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(<a href="https://scholar.archive.org/work/qmwifxwcejf3jhdpehl4rnetgm/access/wayback/https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsoft/34/3/34_601/_pdf">URL</a>)</p>
<p>&#8211; 認知行動療法について参考に<br />
・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjlp/51/3/51_3_269/_pdf/-char/ja">URL</a>)<br />
&#8211; 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(<a href="https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/1284/files/horitsuronso_89_4-5_241.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; ファイフィンガー､二元論､デカルトについて参考に｡ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ｡<br />
・小西 美典「法における擬制」(<a href="https://www.jstage.jst.go.jp/article/jalp1953/1961/0/1961_0_161/_article/-char/ja/">URL</a>)<br />
&#8211; ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる</p>
<p>・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(<a href="https://serve.repo.nii.ac.jp/record/698/files/2617.pdf">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの定義の参考に<br />
吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(<a href="https://www.google.com/url?sa=t&amp;source=web&amp;rct=j&amp;opi=89978449&amp;url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4194/files/chiryo301321.pdf&amp;ved=2ahUKEwiamJeensGFAxW1klYBHRtlBBwQFnoECA8QAQ&amp;usg=AOvVaw0rlcLKXn_OE0zecCDGBTjJ">URL</a>)<br />
&#8211; メサイアコンプレックスの説明の参考に</p>
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