【1ワード社会学第十三回(44)】ハーバーマスかルーマンか

ユルゲン・ハーバーマス

動画での説明

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(9) 教訓

[9-2]ハーバーマスかルーマンか

討議で価値命題を出すわけにはいかない

ハーバーマスとルーマンの論争(討議?)の書籍として共同で出版された『社会の理論か、それとも社会テクノロジーか――システム研究はなにをもたらすのか』(1971)が知られている。

発端は1968年にフランクフルトで開かれたドイツ社会学会でルーマンが報告した『全体社会の分析の形式としての現代システム論』に対するハーバーマスの批判であり、その記録が書籍としてまとめられた。

ルーマンは行政機関で働いていたという。行政学の目的は、「行政行為に関わる価値命題を出すこと」である。「行政はこうすべきだ」、「行政官はこうするべきだ」という価値命題を出すことが重要なのである。

たとえば「特定の集団ではなく、できるだけ公益を優先すべきである」とか、「行政官は法に基づいて、裁量は法の範囲内で行為するべきである」とか、「行政決定の理由を市民に説明すべきで、情報を公開するべきである」といったようなイメージである。

行政組織はなんらかの価値規範に基づいて判断し、行為しなければならない。そしてその行政行為は我々の日常生活に強い影響を与えるものである。保育園が増えるのか、水道費が下がるのか、ゴミ出しのルールはどうするかなど、さまざまな身近な問題に関わっている。

なんらかの価値規範、価値基準に基づき、具体的な価値命題を出力しなければならないとすると、価値規範の妥当性はいかにして判断されるのだろうか。たとえば「情報はできるだけ透明にするべきである」という規範はなぜ妥当なのか。

ルーマンは価値命題の根拠として、「人々の合意」、つまりハーバーマス的にいえば「討議」に基づくべきとは考えない。

また、人間が先天的にもっている、あるいは後天的に発達させると解釈される「普遍的な理性」、たとえば「コミュニケーション的理性」によって価値命題の根拠を基礎づけられるとも考えない。誰でも考えれば普遍的に正しいと思えるようなものにきっとたどり着けるはずだろうとは素朴に考えない。また、権力関係などの阻害条件を取り除いたとしても、それは変わらないという。

価値命題の根拠としてルーマンは自分の「社会システム理論」が妥当だと考えている。社会学者の宮台真司さんの説明によれば「価値命題を正当化するために、システムという概念を後から持ってきた」というわけである。

ルーマンは「価値命題などなんら関心がない、ただ社会がどうなっているかを記述したいだけの技術屋(テクノクラート)」ではないのである。

・特に参考にしたページ

井庭崇、宮台真司、熊坂賢次、公文俊平「社会システム理論」、慶應義塾大学出版会、第二刷、56p

社会学者は「価値命題の出力」ではなく、「リソースの提供」を目的とする

もちろん、社会学が価値命題の出力を目的としているというわけではない。

社会学によって目指されるのはあくまでも謙虚に「社会の現象の客観的記述(どうあるべきかではなく、どうなっているか)」である。その意味でルーマンは社会学者としては無規範的であり、冷たい人間である。

社会学の仕事は政治家や行政官、あるいは日常生活を送る人びとの価値命題の出力のさいの「リソース(資源)」の一つの提供だということになる。私が好きなルーマンの言葉で言えば「ほかであり得る可能性(偶発性、コンティンジェンシー)の提示」である。

「こういう選択肢もありますよ、こっちのほうが効率は良いですよ、でも選ぶのは私たち専門家(社会学者)ではないです」というわけである。ウェーバー的にいえば責任倫理と心情倫理の2つを備えた政治家、官僚が選択するということになる。

社会学の仕事は政治家や行政官、あるいは日常生活を送る人びとの価値命題の出力のさいの「リソース(資源)」の一つの提供だということになる。私が好きなルーマンの言葉で言えば「ほかであり得る可能性(偶発性、コンティンジェンシー)の提示」である。

「こういう選択肢もありますよ、こっちのほうが効率は良いですよ、でも選ぶのは私たち専門家(社会学者)ではないです」というわけである。ウェーバー的にいえば責任倫理と心情倫理の2つを備えた政治家、官僚が選択するということになる。

トロンボーンはさまざまな共同社会の価値や連帯の感情をよびおこします。ときどきこれらの楽器は不協和音を出すことがあります。それをうまく調和させ、そこから一つのメロディーを生み出せる人は、ただ天分のある人だけ、つまり預言者や政治家、芸術家など、多少ともカリスマにめぐまれた人だけなのです。わたしは教師であり、ですからまた認識を人々の使いものにできるよう調律する仕事にたずさわっております。私の楽器は書棚にしまってあります。ところがこの楽器は『音』を出しません。この楽器をつかって、いきいきとしたメロディーをかなでることはできないのです。

ハーバーマスからすれば、こうしたルーマンの「非規範的な姿勢」は保守的に見えるという。

仮に現代の政治家や行政官の出力が不適切だとして、その不適切なあり方を維持するためにリソースが用いられるならば、たしかに「不適切な支配の正当化」につながりうるものだといえる。ルーマンは現代の社会のあり方を批判しようとか、政治的な革命や運動を引き起こそうという、積極的な意識がないようにハーバーマスには感じるのである。

「ただ社会がどうなっているかを記述するのがうまい人」、つまりテクノクラート(技術屋)だというわけである。

また、ハーバーマスからすればルーマンの社会記述が優れているのはシステム領域に限ってであり、生活世界は別である。ルーマンからすれば生活世界も討議もシステムの一種であるが、ハーバーマスは断固としてそうした見方を拒絶するのである。

また、社会システムの単位を人々の人格的なコミュニケーションではなく、非人格的なコミュニケーションとすることにもハーバーマスは反対している。

ルーマンは言語的なコミュニケーションだけではなく、非言語的なコミュニケーションも視野にいれている。同じような出力(機能)であればいいのであり、特定の出力方法にこだわるわけではない。

・特に参考にしたページ

クリスティアン・ボルフ「ニクラス・ルーマン入門」27~28p

ハーバーマスの理論は保守主義的か

ルーマンによると、ハーバーマスの理論こそ、「(解放)保守主義」的であるという。批判や進歩という革新性を全面に出してはいるが、「抑圧的な社会構造から人間は解放されるべきであり、解放可能であるとされる主体の存在を当然の前提としている」ようにみえるという。これは時代遅れで保守的な態度であるという。

主体と客体、人間(生活世界)とシステムといった対立ではなく、システムと環境という新しく適切な区別から出発するべきだとルーマンは考える。そうした意味で、ルーマンの社会理論は革新的ですらあるというわけだ。

ハーバーマスが人間の理性の能力を信頼したヒューマニストであるとすれば、ルーマンは人間の理性の能力を信頼していないリアリストであるといえる。

理性に基づいた討議によって世界の秩序のあり方を考える、価値命題を出力するという発想がない。そうした素朴な出力をルーマンは信用しない。「普遍的なるもの」をルーマンは重視せず、あくまでも特定のコンテクストに依存した妥当な論理関係を重視する(社会学的啓蒙、円熟した啓蒙)。いわば特殊語用論に留まるといったイメージだろうか。

・特に参考にしたページ

クリスティアン・ボルフ「ニクラス・ルーマン入門」29p

処方箋を提示するよりも理論を整備するほうが先

社会システム理論は直接的に価値命題を出力しない。言いかえれば、社会システム理論は「処方箋」を直接的に提示する理論ではないということになる。規範的な政治的主張を欠陥のある理論を前提にして具体的に述べるよりも先に、理論を整備するほうが先だとルーマンは考える。

ルーマンの発言を引用する(『エコロジーのコミュニケーション』の序文)。

「理論に主導される分析に対しては、いつでも『実践との結びつき』が欠けていると非難することが可能である。そうした分析は、誰かに処方箋を提示したりはしない。ただ実践を観察し、もしも人々が事を急ぐあまり修正を必要とする観念にもとづいて行為している場合には、いったいそれがどれほど役に立つのかと、折に触れて問うだけである。もちろん、修正を必要とする観念にもとづいて行為する場合でも何らかの有用な成果が得られる可能性は否定されない。しかし、そうだとしても理論には相変わらずつぎのような意義があるであろう。すなわち、よりよく統制された方法にもとづいて考えを構築するならば、有用な成果をもたらす可能性を高めることができる――とりわけ、無益な興奮をもたらす可能性を低めることができる、という意義である。」

・特に参考にしたページ

クリスティアン・ボルフ「ニクラス・ルーマン入門」30-31p

理想的な討議の実現の難しさについて

ルーマンによれば、そもそも理想的な討議はなかなか実現させることが難しいという。たとえば討議のなかで、発言の機会を獲得しようとする競争、反応速度の違いといった構造的な問題が存在する。つまり、非対称な関係が存在してしまうのである。

また、討論は時間を必要とするものであり、長くなれば最初の方の発言が忘れられてしまうという問題があるという。ルーマンにとって、高度に複雑化した社会で「討議」という手法は問題解決には適さないという。

仮に理想的な討議が成立し、参加者が従うべき価値命題ができあがったとする。それをどうやって実現させるのかという点でもルーマンは批判を行っている。

たとえば宮台真司さんは、どんなに理想的な討議を行ったとしても、情報が統制されている可能性があるという。また、情報が統制されているかどうかについて認識することもなかなか難しい。そのような諸要因が構造的に複雑に絡み合っている状態の中で、個人の洞察に頼ったり、諸個人の合意に頼るわけにはいかないというわけだ。

技術に関する知識は膨大に膨れ上がっている。日常に生きる我々が仮にそれら全てにアクセス可能だとしても、それらを総合的に理解することは困難である。人間の処理能力には限界があるのである。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,122-123p

井庭崇、宮台真司、熊坂賢次、公文俊平「社会システム理論」、慶應義塾大学出版会、第二刷、94p

ルーマンにおけるシステム合理性

これは「人間的な合理性(コミュニケーション的合理性)」にルーマンが批判的だったことと重なる。もっとシステマティックな視点から得られる合理性をルーマンは欲しているのである。それがシステム的合理性なのである。

POINT

システム合理性環境の変化に応じてその目的をも変更し、個人的な動機レベルと切り離すことができるような、より複合的で包括的なシステムの縮減能力に基礎をおいた合理性のこと。機能的に分化した社会システムが創発的に生み出す合理性のこと。

POINT

合理性極度に複雑な世界への関わりのなかで、複雑性を縮減する能力が強化されること。合理的なものとは真に縮減能力をもつものに与えられるべき言葉であるという。

ルーマンは全体社会それ自体はけっしてその姿を見ることも把握することもできない種類の集合的存在であるとみなしている。

たとえば法システムや経済システムなどの機能システムを通して、それなりに描画しうる存在として推定することができるにすぎないと考えているという。

結局は全体社会は近似的に、あるいはヒューリスティックに捉えることができるにすぎないということだろう。そのためには全体性を参照できるような、複数の団子に串を刺すことができるようにならなければならない(これも相当の超人でなければ難しいだろう。あるいは現代なら代わりにAIがシステム論的な回答を、その枠組さえ入力すれば出力してくれるのかもしれない。ただし、その回答が妥当かを判定できる能力がなければならない。)。

熱くなって現実を見失うのではなく、謙虚に、柔軟性をもって多角的に現実を見つめるという姿勢が大事であるといえそうだ。

応用社会学第一回:「社会システム理論は楽しい」(前編)

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

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