【1ワード社会学第十三回(45)】「討議的沸騰」について

ユルゲン・ハーバーマス

動画での説明

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(9) 教訓

[9-3]ルターの「我、自由意志を欲せず」の重みと、「討議的沸騰」について

マルティン・ルターの人間観について

「人類の幸福のため」、「弱者の救済のため」、「正義の実現のため」という主語が大きな壮大な目的は果たして人間に実現可能なのだろうか。

ここで私が思い出してしまうのは神学者マルティン・ルターである。私がyoutubeで最初に扱った動画の人物でもある。宗教革命に深く関わる人物であり、資本主義の精神の発展に関係する人物でもある。

ルターはこのように人間についてたとえば述べている。

人間はあまりにも自己中心的に歪んでしまっているので、物的諸財ばかりか霊的諸財でさえも、これを自己本位的に歪めて悪用し、よろずに自分自身を追求することしか知らない、と。

人間というものは、一般的に、また全体として見るならば、善とは何かをよくわきまえており、実際に善を望みもするが、しかし個々の具体的なケースとなると、その点でときどき間違いをおかし、善を望まない場合がある。これが世間一般の人間に対する見方である。しかし私はむしろ次のように言わなくてはならないと考えている。

人間というものは、一般的に、また全体として見るならば、善とは何かをよくわきまえており、実際に善を望みもするが、しかし個々の具体的なケースとなると、その点でときどき間違いをおかし、善を望まない場合がある。これが世間一般の人間に対する見方である。しかし私はむしろ次のように言わなくてはならないと考えている。

人間はその魂を神の像に似せて造られ、したがってまた神の恩恵を受けるにふさわしい存在であるが、しかし、生得の力だけに頼って生きるかぎり、彼はその手にゆだねられた被造物を(正しく管理せず)すべて台無しにしてしまう。なぜなら、彼はよろずに自分自身にしか関心を示さず、また、もっぱら肉に属することしか追求しようとはしないからである。

人間の自由意志が承認されているのは、人間の上にある事柄[対神関係]に関してではなく、もっぱら彼の下にある事柄に関してだけである。つまり人間は、自分のお金や財産に関しては、それを意のままに使い、稼ぎだし、処分する権利をもつと考えても善い。とはいえその点にかんしても、いつも我々は神の自由意志にもとづく介入を考慮しておかなくてはなるまいが。

しかしながら、それ以外の神にかかわること、救いに関する事柄では、人間は自由意志をもたず、神の意志か、さもなくばサタンの意志か、そのどちらかの意志のとりこであり、下僕であり、奴隷である。

私自身についていえば、私ははっきりと告白しておきたい。私はどんなことがあっても自分に自由意志が与えられ、みずから浄福を獲得すべき何らかの力が私に授けられることを望まない、と。それはなにも世に満ちたかくも多くの誘惑や危険、悪魔の襲撃にたいして、私がとても抵抗できそうにない……という理由だけからではない。」

かりにどんな誘惑、どんな危険、どんな悪魔の攻撃もこの世に存在しないと仮定しても、それでも私は、もし自由意志が与えられているとしたら、いつもいつも極度の不安にさいなまれ、みずから浄福を獲(か)ちとるため、あたかも刀で空を切る者よろしく、きりきり舞いしなければならないからである。

だって、そうではないか。かりに私に無限の生命が与えられ、私が永遠に善き業に励むことができたとしても、それでも私は、神によしとされるためには自分がまだどれほどの功業を積まなければいけないかについて絶えず悩まされねばならず、その点で私の良心は決して安らかになりはしないだろう。

・特に参考にしたページ

雀部幸隆「知と意味の位相」89-114p

ルターにおける2つの抽象度の違う規範、偶像崇拝

さて整理しよう。ルターによれば、規範には2つのレベルがある。まずは、神のみぞ知る、聖書からも直接的にはよくわからない「普遍的な規範」である。次に、人間が各々具体的な状況において考える「特殊的な規範」である。

人間が普遍的な規範を認識しようなどとは、おこがましいというわけである。普遍的な規範がわからないのだから、ある行為が(神から見て)正しいかどうかもわからないので、人間は常に不安にならずにはいられない。そんな不安な状態の中で神からの救済のために善行に励み続けるというのは、大変なことであるというわけだ。

多くの人間は、結局自分勝手に、自己本位的に正しいと思うこと(その自己の範囲がたとえ家族、国家だとしてもである)を、心地よいと思える行為をしてしまう。科学を信仰したり、異性を信仰したり、子どもを信仰したり、仕事を信仰したり、趣味を信仰したり、あるいは理性(コミュニケーション的理性にしろ認知道具的理性にしろ)を信仰したりするかもしれない。

ルターからすればそれは世界内在的な対象に対する「偶像崇拝」であり、人がそれぞれ我を忘れて心酔し、心を奪われ、夢中になるものがそれぞれの偶像(価値)となるのである。ウェーバーでいうところの「神々(価値観)の闘争」になる。

ルターからすれば「資本の増大が神からの救済の確信となる」といった考えは、偶像崇拝にすぎない。そんなことは人間にはわかりようがないからである。

ルター的にいえば人間にできることは「信じることのみ」である。自著の撤回を当時の国王から求められ、「わたしはほかにできない。わたしはここに立つ。神よ助けたまえ。アーメン。」とルターが言ったことは有名である(厳密な言葉は脚色という説があるが、近い内容のことは述べたようだ)。

もし神を信頼することができれば、ルター的にいえば「神の恩恵」を感じることができれば、人間は正しいと思えるようなことを(もちろん確信をもつことはできないのだが)し続けられるかもしれない。

たとえば哲学者のショーペンハウアーは、カント倫理の背景にキリスト教的道徳があると批判している。他者を手段とするなかれ、人にウソをつくなかれ、物を盗むなかれといったぐあいにである。

そうした具体的な内容を伴う規範を学問によって捉えることは慎重にならざるをえない。だからこそハーバーマスは具体的内容ではなく、形式的な条件に普遍的な規範を限定しようとしたのである。最低限、この「形式的な価値(偶像)」のみは優越的に、特権的に信じようというわけである。そしてその普遍的な価値に基づいた合意の範囲内の各偶像への志向、多様性は許し合おうということになる。

なぜなら、この偶像を他の偶像よりも上位であると信じないと他の偶像の妥当性を一切批判できないからである。批判できないと世界の秩序は危ないというわけだ。

もちろんカントは聖書の十戒そのものが定言命法だとは言っていない。

人間にはきちんと考えれば普遍的な規範がわかるはずであり、その能力が先天的にあり、それをきちんと実行しなさいというわけだ。しかしそれを実行することは難しい。たとえばウソをつくことで失職を防げる場合、しかもそのウソで誰も傷つかず、支障がない場合どうするだろうか。

私ならおそらくウソをついてしまう。ウソをつくことは明らかによくないと思うことができる能力がありながら、ついてしまうのである。もし暴力団に脅されて自著を撤回しろと言われたら、ルソーのように「できません」とはおそらく私ならいえない。

地上で不合理な事態にさらされても、天国では救済されるはずである、と信仰しきること、実践しきることなども私には到底難しい。たとえば自分の赤ん坊が生まれた次の日に死んだとして、天国ではどうにかなっていると信仰しきることも私には到底難しい。

ルソーのように人間にとって外在的な神を信じて生きること、カントのように人間に内在する能力である定言命法に従って生きることは相当困難なのであり、普通の人間ではできないのではないか。ニーチェのように永遠回帰を信じて生ききることも相当な困難を伴う。

ジンメル的に解釈すれば「そうした理想や超越性が”あるかのように”考えることの倫理的メリット」といった現実的な解釈は可能かもしれない。それが神であれ理性であれ、超越的な、反事実的なものへの「信仰(信頼)」がなければならない。

・特に参考にしたページ

雀部幸隆「知と意味の位相」255-256p

多様な動機の衝突と、それを調停する「納得感」の難しさについて

そもそもの大前提として、人間は多様な「動機」をもち、そうした動機は自己内でも他者間でも「衝突」してしまうものなのである。大事な人をまもるために職を失いたくないと私は考え、それゆえにウソをついてしまうかもしれない。

あるいは誰かをコントロールしようとしたり、明らかに不要なガラクタをセールストークでそれが価値あるものだと思わせて買わせるかもしれない。

討議によって規範を形成するという理想の提示はたしかに立派である。カントのように定言命法に従って生きることも立派であり、ルソーのように信仰に従って生きようとすることも立派である。

しかし多くの人にそうした立派な行為ができるのだろうか。見知らぬ多くの他者が虐げられていて、自分は虐げられていないとする。「虐げられている人々を救おうと立ち上がらなければならない。それはしなければいけないことだから」と、私が他の私的な動機を差し置いて、その合意の形成へと向かうことは私に可能なのだろうか。そんな時間を使うなら、家族や恋人といった大事な周りの他者を守ろうとするかもしれない。

ハーバーマスにおいても、結局は「」の力を頼らざるをえないのであり、なんらかの「サンクション(制裁)」を前提とせざるをえないのではないか。要するに、制裁によって、他の動機を消そうとするわけである。

もちろんそれは国家からの伝統的・権威主義的な押し付けや、宗教的な押しつけではない。我々が妥当な根拠を元に合意して、「納得」して形成したのだから、それが法になってサンクションを伴ったとしても文句はいえないだろう。

ここで重要なのは神であれ、権威であれ、合意であれ、「納得」が生じているかどうかである。納得できればそれに従って、それを望み、それを動機として行為することが可能になる。動機がコンフリクトを起こすことなく、調整されている状態である。

ただし、納得が「健全に」生じるかどうかという点は重要になる。しかし、なにをもって健全だといえるのか。結果を十分に計算しないが、しかし動機だけは権力などに強制されずに健全な精神によって合意が形成された場合は健全に生じたといえるのか。

たとえば「人を殺してはいけない」と私は納得できている。そのルール(規範)の作成の瞬間に私はその場にいなかったが、しかしもしいたら納得して同意していただろう。そしてそれに従わなければ制裁を受けることにも同意しただろうし、それに従わない人間に制裁を与えることにも同意しただろう。

では、「自国民10人をまもるために、他国民100人を犠牲にしてもいい」というルールに納得できるか。こうなると、それは「状況次第だ」と弁明することになるか、「わたしにはよくわからないから専門家の意見を聞きたい」と責任を放棄してしまうかもしれない。

また、殺人においても同様であり、たとえば家族がそうした事件を起こしてしまったら「正当防衛なら許される」と弁明するかもしれない。

旧約聖書にはイスラエル民族に敵対したアマレク人の殲滅(聖絶)を神が命じたと預言者サムエルが述べるシーンがある。われわれはこれを一体どう解釈すればいいのか。ルター的にいえば、神の考えは「我々にはわからない、神のみぞ知る」と信じることだけである。これはウェーバー的な考えでは心情倫理であり、神に責任を丸投げすることでもあるのかもしれない。

しかし神のみぞ知るという「信仰」を失っている多くの人びとにとっては深刻な問題である。たとえば600万人ものユダヤ人が犠牲になったホロコーストとも重なる問題である。

我々はキリスト教の神であれ、他の宗教の神であれ、国家というナショナリスティックな神であれ、趣味であれ、異性であれ、その犠牲を許せなくなる心情がある。互いにこちらの正義のほうが勝ると考えて争うのである。

愛する至上の価値を守るために、敵対するものを侵害してもいい、あるいは、「それは悪いかもしれないがせざるをえない」と思いがちなのである。

だからこそ「具体的な内容を信仰する」ことは危険を伴うのであり、ハーバーマスは「抽象的で手続き的な形式」にシフトしたといえる。貨幣という「中身のない形式」が人を自由にすると考えたジンメルと類比させることもできる。

【基礎社会学第十一回】ゲオルク・ジンメルの『貨幣の哲学』を学ぶ (前編)

アドラーにおける理想と教育

たとえば心理学者のアドラーは「完全という目標を具体的に思い浮かべるのはほとんど不可能であり、抽象的、理想的にのみ思い浮かべることのできるものである」と考えている。

具体的、現実的な形で理想を思い浮かべることは危険だとアドラーは考えているニュアンスがある。

例えば共産主義だけが、あるいは資本主義だけが世界を善くする目標を我々に提供してくれる、キリスト教だけが、イスラム教だけが、〇〇教だけが、と具体的に考えれば考えるほど「他の価値観をもつ人々への蔑視や支配」になりかねない。

「なにが正しい道なのか我々は知ることができない」が、人類が「共同体感覚」をもつことが人類の幸福へつながるとアドラーは信じている(国家などの狭い単位ではなく、理想としては世界全体という共同体であり、人間以外の動物、無機物すらも含む、考えられる限りもっとも広い包括的なシステム的単位だといえる)ということになる。我々は大きなものの一部であるという感覚がそこにはある。

そして人間にはそうしたことが可能だと、能力があると、選択することができるとアドラーは信じている。その実践的な道としてアドラーは「教育」を重視し、可能性を見いだしている。デュルケムもマンハイムも教育を重視していた。

また、教育のあり方も変動的なものであり、時代によって価値観は代わり、適切な教育のあり方も変動していくという。

理想はあくまでも理想である。一方、我々は常に現実と直面している。それゆえに、完全とまではいかないまでも、より完全に近いと信じることができる目的、手段の系列を理想という光に照らされて掴みとることが重要になる。岸見一郎さんが「我々はアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。原理主義者になってはならない。これは、あたらしい時代に生きる人間に託された、使命なのです」と強調していることとも通底する。

わたしはこのウェーバーの言葉を思い出す。「しかし、いつか色彩が変わる。無反省に利用された観点の意義が不確かとなり、道が薄暮れのなかに見失われる。大いなる文化問題が、さらに明るみに引き出されてくる。そのとき、科学もまた、その立場と概念装置とを添えて、思想の高みから事象の流れを見渡そうと身構える。科学は、ただそれのみが研究に意味と方向とを示せる星座を目指して、歩みを進める。」

マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」149-150P

創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか

見田宗介さんにおける「拡大されたエゴイズム」

自分だけのためではなく、愛する他者のために生きるという態度も「拡大されたエゴイズム」であると社会学者の真木悠介さんは表現した。なぜなら愛する他者以外に対する敵視や無関心、嫉妬等が発生してしまうからだ。つまり、動機のコンフリクトが発生しうる。

恋人や自国の民への攻撃は「自分への攻撃」であると感じる態度であり、自分たちが最優先(ファースト)であると考える立場である。

「宗教」はこうした「性のエゴイズム」を克服する試みであるという。特定の国を超えた関係を形作るからである。

しかし宗教もまた自分とは異なる宗教に属する人たちに対する無関心や敵視を発生させてしまうことになりうる。宗教もまた「拡大されたエゴイズム」といえるわけである。エゴイズムゆえに愛があり、愛ゆえに人は苦しむのであり、他者を苦しませるのである。

詩人の宮沢賢治さん(1896-1933)は特定の人を愛することを避け、宗教をも避けたという。

こうした「自我の解放」が現実的な社会的枠組みのなかで可能かどうか、私にはわからない。しかしエゴイズムが過剰にならないように、なんらかのバランスをとる仕組みが必要であるというのは妥当な主張ではないだろうか

「自我の起原」要約

「理性の他者」への回帰

こうした事態に対して、古代の素朴な伝統的ななんらかの社会へ戻ろうという方法もあるかもしれない。あるいは芸術や無意識といった、近代的啓蒙思想からすれば非合理的な手法によって、あるいは飲酒という酩酊によって実現(治療・逃避)しようとする人もいるかもしれない。

ハーバーマスはそうした非合理的な手法、いわゆる「理性の他者」に頼ることを徹底して避ける。また、他者との違いを放棄することを望まない。アーレント的な意味での他者性、レヴィナス的な意味での他者性、ジンメル的な意味での他者性を重視する。

あくまでも理性の枠内で、エゴイズムやニヒリズムに対処しようとするわけである。ゲーレンのように国家になにをすべきか任せようという新保守主義や、非合理的な決断に任せる過激思想も否定する。

ちなみにこの姿勢は近代の成果を全面的に放棄するわけではないという意味ではグレゴリー・ベイトソンの考え方、真木悠介さんの考え方と類似している。

理性を用いて、健全なシステムを謙虚に考えようという姿勢が彼らにはある。私は彼らが好きだ。

「どうやって?」「それは実現可能?」と批判することは簡単であるが、妥当な根拠をもって理念そのものを批判しきることは難しい。虚偽意識(を批判する意識)は虚偽意識なのではないか、相関主義もまたひとつの価値観なのではないかというのもまた簡単である。結局はいずれかの立場にコミットしなければならないとしたら、私はよりましな、健全な立場にコミットして生きたい。

・特に参考にしたページ

中岡成文「ハーバーマス」,講談社,19p

社会学的想像力をもった超人

理性を用いて健全なシステムを謙虚に考えようとすれば、孤立的に、自分勝手な思念や内省によって考えるわけにはいかない。

他者の気持ちになって考えてみるという姿勢が重要であり、また他者との実際の交流が必要である。また、単に精神的な問題だけではなく、健全なシステムを考えるためにはさまざまな分野、社会学だけではなく生物学、物理学といった自然科学や他の社会科学にも精通していなければならない。もちろん芸術などにも理解がある必要があるのだろう。カントやルター的なものとは違った意味での「超人」にならなければならないといえるかもしれない。

ライト・ミルズが述べたような「社会学的想像力」とも重なる問題であり、さまざまな経験と知識が必要になる。

社会学者の宮台真司さん的にいえば、社会学はいわゆる「団子の串」であり、串だけをもっていても、それだけでは何の役にも立たないのである。ゲーム機だけをもっていてゲームソフトをもっていないようなものである。日常で他者を観察して団子を獲得したり、自分で経験してみたり、諸科学を学んで団子を獲得しなければならないのである。

しかし「1人の人間」があらゆる学問に精通することは原理的に難しい。それゆえに「協働」する必要がある。過去の学者の知見を利用することも一種の対話であり、一種の共同作業である。1人でなにもかもできるはずがない。我々は巨人の肩の上で生きているのである。

・特に参考にしたページ

井庭崇,他「社会システム理論」128️P

「討議的沸騰」が多様な動機を「納得感」へ調和させる可能性について

ここで、ハーバーマスの「討議」という概念と接合してくるのではないだろうか。

もちろんそれぞれが専門分野に籠り、討議の時だけ交わればいいというわけではない。

しかしそれぞれの強みをより「論理整合的に、理解可能な形」に翻訳できるのは、それぞれの専門家だというのも事実である。もし彼らが理解可能な形で「言語化」を行い、人びとに互いに提供できるならば、時間のリソースを大きく節約することができる(もちろん言語以外のメディアのほうが容易に理解できることもあるだろうが)。つまり、より人びとが多様な学問に精通しやすくなるといえる。

もちろん、ここでいう専門家は大学教授や企業に所属する科学者などに限られない。

カール・マンハイム的にいえば「知識人」だろう。主婦(主夫)であれ漁師であれ、コックであれなんであれ、我々は何らかの意味で専門性を備えている。ウェーバー的にいえば我々は「世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意志をそなえた文化人」である。

ウェーバーは「いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして『日々の要求』に──人間関係のうえでもまた職業のうえでも──従おう」とも表現していた。

日常の具体的な問題に責任を持って対処していればそれなりの「日常知」をもつのであり、その日常知はかけがえのないものであり、「柔軟性のためのリソース(資源)」だといえる。専門知だけが世界のコンフリクトを解決するリソースではない。むしろ日常知に基礎づけられていることが必要になる。

この日常知を互いに交流させることは、よりよい討議への道へとつながっていくのではないだろうか。もちろん、日常知をリソースとして串をさす社会学や、日常知を論理整合的に整える諸科学、専門知もその補助ないし総合としては必要である。

専門家が専門知をつかって、きっと健全な世界のあり方を考えてくれるだろう、そうした超人が未来において現れてくれるだろうと待ち焦がれているだけの態度は、天国できっと救われる構造になってくれるはずであると信じる前近代的な態度と機能的に等価であり、そのままでは何も変わらない。むしろその楽観視ゆえに事態は悪化し、技術の暴走を促しかねない。

また、単に社会学という串でさされた全体的な団子を獲得できるというだけではない。人々で討論するということは、そこにはデュルケム的な意味での「聖性」が宿ることもありうるのではないだろうか。

人間がルター的な意味で「肉欲のままに生きること」、「拡大されたエゴイズムに過剰に向かいすぎること」を止めて生きるためには「抽象的で形式的な聖性」が必要になるといえるのではないだろうか。

デュルケム的にいえば「聖性」は形を変えて「社会」に宿っている。というより、社会こそが聖性なのである。

たとえばフランス革命における集合的沸騰は、「新しい聖性」の生じた瞬間とデュルケムは捉えていた。人間が集まって創発的に生じた力というものは、人間の肉欲、個人的な動機を超える力、制約する力をもつ。そうした聖性に基づく力だからこそ、また、そうした聖性に「参加する意識」(モリス・バーマン的な意味での)をもつからこそ、そうした力に自発的に「納得」するのであり、その力に納得する限りにおいて、他者と肉欲的な利害関心を超越して他者に配慮できるのではないだろうか。

より普遍的で健全で、バランスをもったものを志向する人びとが討議することで、そこには「健全な集合的沸騰」が生じる。完璧ではない討議だとしても、人々を健全な形へ志向させる力があるのではないだろうか。

もちろん、原始的な意味での、ハーバーマスやジンメルなら眉をひそめるような「非合理的沸騰」ではなく、「討議的沸騰」とでもよべるようなものであり、世界内在的な沸騰である。ルーマンが言ったような「無益な興奮」にならないようにどのように集合的沸騰を生じさせることができるのか、その条件を考える必要がある。そのためには適切な理論が必要であり、精緻なシステム理論を利用することも視野に入れる必要がある。

近代化が進み、脱呪術化が進み、伝統的な力や宗教的な力、先天的な人間の力への信頼は失われ、もはやそうした力だけに「納得」を期待することはできない。神々の闘争と表現されるように、あまりにも多様な価値観を人びとは信仰し始めている。

もともとキリスト教的な神が登場する前、原始共同体においては人格的な神ではなく、社会そのものが神であった。人々の集合的な力、社会の力が神聖な力であり、神そのものだったのである。この神聖な力が人々を規範に従わせる力を持つのである。やがて人々はこの力を記号化し、表象し、言語化し、さまざまな具体化を伴うようになり、そのひとつが「法の力」でもある。

「よくわからないけど、なんだか力がみなぎる」ではなく、「よくわかり、そこに力を感じる」のである。

人びとは活力を感じるようになる。その力の源が、討議であり、妥当性に基づいているという点が重要である。単なる伝統や宗教に基づく沸騰ではない。もちろん、このようなドライな感覚で沸騰が、聖性が生じるかどうかはわからない。しかし自己中心ゆえに脱自己中心的になる、閉じるゆえに開く、合理性ゆえに合理性に留まらない力をもつこともあると信じたい。

【基礎社会学第三九回(10)】エミール・デュルケムにおける「集合的沸騰」とは

参考文献リスト

今回の主な文献

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

J.(ユルゲン) ハーバーマス (著), 河上 倫逸 (翻訳), 平井 俊彦 (翻訳) 「コミュニケイション的行為の理論 上」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

中岡成文「ハーバーマス (現代思想の冒険者たちSelect)」

汎用文献

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

佐藤俊樹「社会学の方法:その歴史と構造」

大澤真幸「社会学史」

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新睦人「社会学のあゆみ」

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本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる

本当にわかる社会学 フシギなくらい見えてくる!

アンソニー・ギデンズ「社会学」

社会学 第五版

社会学

社会学 新版 (New Liberal Arts Selection)

クロニクル社会学

クロニクル社会学―人と理論の魅力を語る (有斐閣アルマ)

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

社会学用語図鑑 ―人物と用語でたどる社会学の全体像

参考論文

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (上)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (中)」(1993)[URL]

永井彰「コミュニケーション行為理論の論理構造 (下)」(1993)[URL]

嘉目道人「発語媒介効果の不可逆性とフィクションの倫理的責任」(2020)

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