創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(2)アドラー心理学の理論

    Contents

    はじめに

    動画での説明

    ・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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    その他注意事項

    私が記事を執筆する理由について

    アルフレッド・アドラーとは、プロフィール

    ・アルフレッド・アドラー(1870-1937)はオーストリアの心理学者、精神科医

    ・主な著作は『器官劣等性の研究』。

    ・フロイト、ユングと並ぶ心理学における三大巨頭として挙げる人もいる。

    ・フロイトと袂を分かち、独自の「アドラー心理学(個人心理学)」という理論体系を発展させた。日本ではあまり知られていなかったが、岸見一郎さんと古賀史健さんによる「嫌われる勇気」(2013)がベストセラーとなり、多くの人に知られるようになった。

    前回の記事

    【創造発見学第二回】創造性とはなにか

    動画の分割について

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(1)心理学の基礎知識

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(2)アドラー心理学の理論

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(3)劣等感とはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(4)劣等コンプレックスとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(5)ライフスタイルとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(6)ライフタスクとはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(7)アドラー心理学の哲学(共同体感覚)とはなにか

    創造発見学第三回:「アドラー心理学と創造性」(8)アドラー心理学の技法(勇気づけ)とはなにか

    記事が長すぎて重いので8つに分割することにしました。動画では1つにまとめています。長い動画は分割するべきなのか迷い中ですが、どちらかだけでも一体的に一つの場所で確認できる手段が欲しいので今後もそのままかもしれません。

    アドラー心理学の3つの要素

    ・野田俊作さんはアドラー心理学を「理論思想技法」という三つの側面に分けている。それぞれ重なり合うものではあるが、便利な分類である。今回はこの分類に即して説明していくことになる。

    ・理論について野田さんは「個人の主体性、目的論、全体論、社会統合論、仮想論」に区別している。今回は主に「目的論、認知論、全体論、機能主義、対人関係論、実存主義、創造性」の7つに大まかに分類する。野田さんの「個人の主体性」は主に実存主義の項目で扱う。仮想論については目的論や共同体感覚の項目で扱う。社会統合論については対人関係論に含まれるものとする。

    なお、こうした目的論や全体論といった「基本前提」を最初に定式化したのはアンスバッハー(Heinz Ansbacher 1904~2006)であるという。

    アドラー自身はこのような各論や基本前提として分類したり、体系を作ったりはしていないという。要するに、アドラーの主張にはこうした基本前提が見られると後継者(アドレリアン)が考えていったわけだろう。

    理論を理解するためには、アドラー心理学におけるそれぞれの用語を理解する必要がある。

    詳細な用語の掘り下げや関連する用語の理解をまずは後回しにし、5つの基礎用語の基礎的な理解を行う。5つの基礎用語が理解できれば理論の理解も容易くなる。

    「 野田俊作によれば、アドラー心理学は理論・思想・技法の3つの側面から考えることができます。ここでは、理論と思想の中核となる概念をアドラー心理学の全体像のなかで説明するとともに、アドラー以外の諸理論、諸思想との差異を明確にします。また、代表的な技法について紹介します。」

    野田俊作顕彰財団 (URL)

    「アドラー心理学の各論には、「目的論」「全体論」「対人関係論」「認知論」「創造性」があげられる。これらの根底に「共同体感覚」があり、それを前提にすると各論が理解しやすく実践的に活かせるものとなる。」
    山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」、2p

    「ここでは解りやすく各論という言葉で表したが、もとよりアドラー自身の著書でこのような分類や体系が作られたことはない。野田俊作(1998)によれば、これを「基本前提」(Basicassumtions)と呼び、最初に定式化したのは、アンスバッハー(HeinzAnsbacher1904~2006)である。」
    山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」、7p

    5つの基礎概念

    POINT

    劣等感「主観的に劣っている」 と思い込むこと。比較対象は他者である場合もあれば自分である場合もある。

    課題や欲求や緊張を解消するまでずっと続く苦しみであるという。身体器官、容貌、性、能力、社会的・経済的条件など、さまざまな事実・出来事に対して生じうる感覚である。アドラーいわく劣等感自体は病気ではなく「健全」だといい、努力や成長を促すきっかけとなりうる大事なもの、授かりものだという。

    特に関連するワード:「克服」、「器官劣等性」、「優越性の追求」、「補償」、「健全」、「努力」、「マイナスからプラス」

    POINT

    劣等コンプレックス「自分がいかに劣等であるかをひけらかすことで、自身の課題を避けようとする姿勢」のこと。「劣等感による反応がずっと続いて、劣等感にしがみつくこと」とも定義される。「人生の課題を克服することを拒否する口実として、自分自身の劣等感を誇示して自分と他者をあざむくこと」とも定義される。劣等感を「言い訳」に使いだす劣等コンプレックスは「病気」だという。

    特に関連するワード:「不幸」、「優越コンプレックス」、「過剰補償」、「病気」

    POINT

    ライフスタイル「個人の世界観に基づいて、個人が選択する思考や行動のパターン(型)」のこと。「行動原理」という用語とほとんど同義だと考える。主に健全なライフスタイルと不健全(病気)のライフスタイルに区別することができる。一般的な言葉で言えば「性格」である。

     特に関連するワード:「私的感覚」、「家族布置」、「社会的条件」、「遺伝」、「環境」、「自由」、「対等」、「性格」

    POINT

    ライフタスク「人生においてたまたま遭遇するのではなく、避けて通ることのできない、人間が直面せざるをえない課題」のこと。アドラーは仕事の課題、交友の課題、愛の課題の3つが私たちに突きつけられる主要な課題であるとした。

     特に関連するワード:「縦の関係と横の関係」、「課題の分離」、「仕事、交友、愛のタスク」、「行動面の目標と心理面の目標」、「人生」

    POINT

    共同体感覚アドラー自身のシンプルな定義は「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」という感覚である。私のことだけでも、あなただけのことだけでもなく、「我々」という主語のもとで物事に関心をもつ姿勢、感覚を意味することから「社会的関心」と呼ばれることがある。

     特に関連するワード:「幸福」、「自己受容」、「他者信頼」、「他者貢献」、「かのように哲学」、「脱自己中心」

    「目的論」

    「目的論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    目的論人間を、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があるという考えのこと。

    過去によって人間は全て規定されているのではなく、今・現在・この瞬間が重要であり、未来の目標に向かって選択を行い、主体的に生きていくという点にポイントがある。

    過去の出来事は現在や未来に「影響」はするが「全てを決定」するのではないと考え、最終的に決定するのはあくまでも今・現在の自分の思考を通した「選択」だと考える。影響因と決定因を明確に区別し、あくまでも決定因は自由意志や選択にあると考える。

    それゆえにアドラーの立場は「緩やかな決定論」と呼ばれることがある。例:今現在引きこもっている目的は「家族の注目を引きたい」、「他者との関係で傷つきたくない」という目的があるからだ、そのほうが「自分のためになる(善)」からだ、と考え、その目的を自分の意志で選択している。

    キーワード:目的論

    「人間を、目標に向かって主体的に生きていく積極的な存在という観点でとらえ、人間の行動にはすべて目的があると考えます。およそ生物は、マイナスの状況からプラスの状況に到達することを目標に活動します。人もそうです。ただ、一般的に生物は、個体の保存と種族の保存を目標に活動しますが、アドラー心理学では、人は社会的動物であるが故に、社会に所属することがより重要な目標となる、と考えます。さらに、「社会に所属するためには自分はどのようであらねばならない」という、主観的で仮想的な目標を個人がそれぞれ持つのであって、個人の行動は、様々な状況の中でこの(仮想的な)目標を実現させるための方法として行われる、と考えます。」

    野田俊作財団の説明の引用(既出)

    キーワード:緩やかな決定論

    「しかしアドラー心理学では『影響はあるかもしれないが、決定因ではない』と考えます。決定するのはあくまで自分自身。自分の身体や置かれた環境をどう感じ、どう意味を見つけていくか。同じ経験をしても、人によって受け取り方はさまざまです。すべて自分次第です。できるだけ建設的で、前向きな決定をしていきたいのは言うまでもありません。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,18p

    メモ:マトリックスとの関連

    「とはいえ、何の材料もなく決めるわけではありません。ライフスタイルの形成に当たっては、さまざまな要因が影響因として作用します。アドラーはこれを『素材』といっています。素材をも元に人はライフスタイルを決定するのです(このようなアドラーの立場は『柔らかい決定論(soft determinism)』といわれます)。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,42p

    「原因論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    原因論「人の行動にはすべて原因がある」と考える立場。

    たとえばフロイトは人間の行動には必ず原因があると考える立場である。

    極端に言えば過去に生じたものにによって人間は全て規定されているのであり、決定論的な立場になる。例:今現在引きこもっている原因(決定因)は過去にいじめにあったからだ、トラウマがあるからだ。

    Q 原因論から目的論へ変えたところで何が変わるのか

    仮にある人間が自分を不幸だと感じていて、それを問題だと考えているとする。原因論のアプローチの場合は「過去の事実を変えられない」以上、それより前へ進むことができない。

    夢判断や自由連想法などの精神分析療法で「過去の原因」を明らかにしても問題を「解説」するに留まり、「解決」することは難しい。慰めるだけである。

    目的論の場合は「目的」を変更すれば解決の余地がある。たとえばいじめや虐待という過去の事実を持ち出すことによって「他者とは関わりたくない、人間関係で傷つきたくない、楽でいたい」という目的をもっていたと仮定する。この場合、「他者と関わりたい、他者に貢献したい」という目的をもつようになれば、過去の虐待やいじめを持ち出す必要はなくなる。

    目的は今・現在、未来に向けて自らが選択するものであり、今、この瞬間から変更することができる。また、そのような変更を「勇気づける」ことがアドラー心理学の治療では重要になる。

    キーワード:フロイトの原因論

    「アドラーと並ぶ三大心理学者の1人、ジークムント・フロイトは『原因論』を唱え、人間の行動には必ず原因があると言いました。『虐待をするのは、過去に虐待を受けたからだ』『引きこもった原因はいじめにあったからだ』」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P

    「このような目的論に対して『原因論』という考え方があります。むしろこちらのほうが一般的でしょう。息子が先生の話を聞かなかったときにその『原因』を、妹が生まれて精神的に不安定になったことに求めたり、愛情が不足すると子どもが学校にいかなくなるというような考え方を『原因論』といいます。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,49P

    キーワード:原因論から目的論へ

    「哲人『これは対人カード、という観点から考えるといいでしょう。原因論で「殴られたから、父との関係が悪い」と考えているかぎり、いまのわたしには手も足も出せない話になります。しかし、「父との関係をよくしたくないから、殴られた記憶を持ち出している」と考えれば、関係修復のカードはわたしが握っていることになります。わたしが「目的」を変えてしまえば、それで済む話からです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,167p
    メモ:なるほど。最初は「だからなに」から「そういうことか」に変わった。「選択」や「意志」が重要になる態度変更である。

    キーワード:原因論と目的論の違い

    「感情が原因で行為が結果であるとは考えません。私たちが感情をある目的のために使うのであって、感情が私たちを後ろから押して支配するとは考えません。感情は多くの場合相手にこちらのいうことをきかせようというふうに相手を動かすために使うのです。怒りを使うと相手がいうことをきかせようというふうに相手を動かすために使うのです。怒りを使うと相手がいうことを聞くだろうと考えて、怒りをその目的のために創り出します。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,49p

    メモ:目的のために感情を「創造」するという言い方に変えると少し面白い。

    キーワード:解説と解決の違い
    「過去の出来事をかえることはできないため、原因論は解説にはなりえますが、解決にはつながらないからです。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P

    メモ:理解社会学は理解し、解明することに重点があり、個々人の問題を解決することに重点はない。平均化される個人。

    キーワード:目的論というアプローチで「問題解決」
    「つまり、フロイトは『原因論』から人間の行動を解明しようとしますが、アドラーは『目的論』というアプローチで問題解決をしようというわけです。」

    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,44P
    メモ:創造の基本は問題解決

    「仮想論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    仮想論目的は個人の想像であり、現実的なものではないという考えのこと。

    未来において投げかけるようなイメージであり、目的は「虚構の目標」や「先導的自己理想」と表現されることがある。そもそもアドラーは劣等感が完全に満たされることは神でもなければありえないと考えている。それゆえに、「完全という目的(目標)」を我々は実現すること、現実的なものとすることはできない。そうした仮想論に向かって我々は具体的な目的と手段の連鎖を積み上げていくのだが、最終地点はあくまでも仮想にとどまるというわけである。最終地点の目的からすれば他の目的は全て手段や過程にすぎない。詳細は「共同体感覚」の項目で扱う。

    以前、パーソンズの動画で利用したものを改変するとこのようなイメージになる。ただし、アドラーが「個人の幸せ」と「人類の幸せ」のどちらを優先しているかは保留する。最も重要な点であり、勇気づけの項目で扱う。もっとも、究極的目的は最も大きな共同体感覚を得ている状態とも仮定することができ、その意味で中間領域の共同体感覚は下位の共同体感覚といえる。

    重要なのは「仮のものとして想像しておくこと、仮説しておくこと」でどんなプラスがあるかである。まず、そうした目的を設定し、実現できるかどうかを問わずに理想に導かれて行動することで「劣等感が緩和される」という。また、「人格の統一と一貫性が保たれ」、日常生活を処理できるという。

    過去にばかり執着して囚われ、自分を無能であり未来を変えることは不可能だと信じている状態と比較すると、なんとなくプラスがありそうである。寺山修司さんの「振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。」を思い出す。アドラーなら「振り向くな、振り向くな、後ろには幸福がない。」と言うかもしれない。振り向いて言い訳ばかりをしているんじゃない、と。

    仮想論(バーチャル)ではなく現実論(リアル)で考えてしまうと、自分の設定した目的が固定的になり、状況の変化に合わせて変化、創造していくことが難しくなってしまうことが考えられる。

    どんな目的が望ましいかは時代、文化、制度、個々人によってその都度異なるのであり、常に自ら判断し、主体性を持って「より視野の広い適切な目的」を設定していく必要がある。

    キーワード:仮想論

    「そうではなくて、目的は個人の想像、イメージであって、現実的なものではなく、アドラーはこのような目的について『仮想的』という表現をしています。原因ですら先に見たことから明らかなように、客観的に存在しているわけではないのです。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,134p

    「それは、虚構の目標(fictional final goal)ではあるが、人はその理想に導かれて行動し、理想に到達できるか否かにかかわらず、理想を抱くことで劣等感が緩和され、人格の統一と一貫性が保たれ、日常生活を処理できる。理想を現実的なものに修正しつつ達成することで劣等感は解消され補償は成功する」
    「キーワードコレクション 心理学」,281P

    キーワード:絶対の価値を状況とは無関係に認めない
    「アドラーが『仮想』という言い方で意図していたことは、絶対の価値というものを状況とは無関係に認めたりしないということだったのです。何が善で何が悪かは状況に応じてそのつど当事者が合意して決めていくものなのです。したがってアドラーがいう共同体感覚についてもその内実に即して吟味していかなければならなのであって、超越的な価値としてアドラー心理学の基礎として位置づけることはできないのであり、危険なことである、とわたしは考えています。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,127p
    メモ:「どこへ」は仮想であり、絶対的なものではない
    メモ:マンハイムの相関主義や、ウェーバーの「光」の話とつながっていく。あるいはマートンの結果につながっていく。

    「先導的自己理想」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    先導的自己理想仮想論における目的のこと。虚構の目標ともいわれる。人間はまず理想を抱き、そして現実との落差により劣等感が生じる。

    仮に理想を「全てにおいて完全に至る」という究極的なものだと仮定する場合、神でもない人間は決して達成することができそうにない。それゆえに、不可避的に「劣等感」が生じるのである。たとえ他者との比較をしない場合でも、「理想の自分との比較」により劣等感は生じうる。また、アドラー心理学では基本的に「他者との比較」を不適切だと考え、「理想の自分との比較」を重視する。なぜなら、他者との比較は「競争」を煽り、他者を「敵」と見なしがちだからである。

    キーワード:先導的自己理想

    「そして、人は、ほとんど無意識的に先導的自己理想(guiding self-ideal)を抱く。その理想は、劣等感を抱く対象に直接取り組むことで達成される理想であることも、それ以外の対象に取り組むことで達成される理想であることもある。」
    「キーワードコレクション 心理学」,281P

    キーワード:健全な劣等感

    「哲人『健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、『理想の自分』との比較から生まれるものです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,92p

    「行動」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    行動アドラーはあらゆる行動は「目的(目標)」をもっていると考えている。また、思考によって「手段としての感情」が創り出されるという点がポイントである。

    例えば打算的行動のような明確な目的をもった行動だけではなく、怒りのような突発的な行動も目的をもった行動だと考えている。すなわち、感情だけに左右されてすべての行動が促されるだけではなく、間に「思考(認知、解釈)」が挟まれ、その思考過程において「目的」が設定される。この際、目的は「未来」に向けられているという視点が重要になる。

    「善」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    行動の目的としての善「自分のためになること」を人間は目的として設定し、感情を利用し、行動する。

    岸見一郎さんによればギリシャ哲学における「善」は道徳的な善や正義や公益という意味ではなく、「(個人にとって)有益や役に立つ」という意味で使われているという。

    岸見さんによると、アドラーの使う「原因」とはソクラテスにおける「真の原因」、アリストテレスにおける「目的因」であるといい、「決定因」であるという。

    物理的条件や身体的条件などの因果律である「副原因」と区別される。また、「善」という目的の設定は個々人の「判断(思考、認知、解釈)」であり、選択的、創造的な要素をもっている。

    例:甘やかされた環境に子どもが置かれたからといって、自分勝手な人間でいることを「善」とする人間に必ずなるわけではない。子どもは各材料、諸影響のもと、選択する余地がある。

    ・アドラーは人間の本性は善か悪かについて、「善である」という答えを出している。

    人間は共同体感覚を発達させ続けて進化するからだという。「悪」に見えるものは「進化の過程のしくじり」にすぎないという。人間は優越性の欲求や共同体感覚を先天的にもっているという考えに基づいている。失敗は成功の元ともいう。

    例:「原子力の開発」というある個人の行動が善か悪かは単純な問題ではない。ある種の「自然という大きな実験の場」と考えるわけである。結果的にそれで人類が絶滅したならば人類単位では「悪」であるといえるだろう。ものすごく曖昧な言い方をすれば「物事はどう転ぶかわからない」ということになる。かといって結果を真摯に予測しようとする課題を回避してはならないとアドラーなら考えるだろう。M・ウェーバーとつながる。反面教師として生きているというような独りよがりの傾向が肯定されている訳ではない。

    この話を聞いて思い出すのはデュルケムの「犯罪があるほうが正常な社会」という話である。窃盗や殺人があるからこそ、それらがよくないということが周知されていくし、犯罪とみなされるということはそこに規範があるという話。だからといって犯罪行為単体が正当化できるとは思わないが、「社会のためにならない」と容易に断定できないことになる。

    正直、主語が社会の場合はためになるとかならないとか、善だとか悪だとかいう判定が極めて難しい。判定するためには「社会システム」とはなにか、という難解なテーマに接近する。また、動機(目的)と結果(機能)の違いという話にもつながってくる。動機が善なら結果が悪でもいいのか。動機が悪でも結果が善ならいいのか。昔からよくあるテーマである。しかし、すくなくとも動機が悪の時点で他者を敵であり利用するだけの存在であるとみなしているので結果が善であっても不適切であるといえる。動機が善であったとしても、悪の結果を予測する対処をなんら行っていない場合は、他者への関心が欠けていると考え、私は不適切だと考える。

    善と適切の違い

    岸見さんの文脈で「(個人の)ためになる」という善で図をつくるとこのようになるだろう。改めて考えると、適切・不適切は「(我々の)ためになる」というような軸に見えてくる。

    そもそも人間の目的は本人の主観において「善=ためになる」として設定されるので、基本的に「悪」として設定されない。それゆえに、分類としては「善であり適切」か「善であり不適切」に絞られることになる。一言で言えば自分の善が他者の善、そして我々の善として重なりうるかがポイントになる。

    あるいは目的と結果を区別して、マートンのような分類をすることもできるかもしれない。たとえば「善」として動機や意図が設定されたが、「悪」という結果(逆機能)になったということはありうる。

    引きこもりも犯罪もマナー違反も「善」である。適切かどうかは共同体感覚をもっているかどうかで判定する。また、楽であることが幸せであることに必ずしもつながらないことには注意する必要がある。「自分に価値がない」ことが明らかにされないほうが楽で安心することは多い。だからこそ就職活動や恋愛活動などの対人関係は不安が多いのである。しかしそうした対人関係の中にこそ「幸せ」がある。

    アドラーのいう「共同体感覚の発達」という観点から善悪を考えれば悪との組み合わせも分かるかもしれないが、結果論的なものであり、またプラスとマイナスのどちらが上回っているかの判断することが難しい。極論を言えば人類が絶滅したあとで宇宙人が振り返ってわかることであるといえる。これは個人にとって人生を振り返った時に結果的にあのときのあの行動は善であった、悪であったといえるのと同様である。

    今のところ「悪」に見えるが、それのために将来「共同体感覚が発達した」というような場合は「善」にも見える。

    アドラーが「そもそも相手を理解することは不可能である」と述べていることの延長として「そもそも社会を理解することは不可能である」ということもできると私は考える。

    したがって、大事なのは事実や結果として他者や社会に対してプラスに貢献したかどうかではなく、私がプラスに貢献したと感じたかどうかという「主観」に主軸を置いていくという点である。動機でも事実としての結果でもなく、結果にどのような意味付けを行うのかという「認知(解釈)」を重視するのである。もちろん、これはどんな動機でも結果でもかまわないというものではなく、適切な動機と結果に対する適切な予測・準備が伴ってプラスの認知、つまり貢献感や共同体感覚が可能になると考える。

    行動に隠された目的とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    行動に隠された目的人間は意識的にせよ無意識的にせよ、解釈(認知、意味づけ)によって目的を設定し、感情を手段として利用している。この場合の無意識的なものを特に「隠された」と表現することがある。しかし「無意識のせいで・・」といったような言い訳に使うことはできず、この場合も明確ではないにせよ自らの意志で目的を設定していることに注意する必要がある。

    例:怒りは「相手を容易に屈服させる」という目的のための手段として採用される、創り出されると考える。自傷行為は相手に復讐をしたいという「目的」がある。学校での悪ふざけは相手に注目してほしいという「目的」がある。そして、目的にはほとんどのケースで「対人関係」が関わってくる。

    キーワード:隠された優越について、隠された目的について
    「思考、感情、判断、ものの見方は、つねに後退の方向へと向かっています。そこから、神経症とは想像的な行為で、未発達な状態への遡りや先祖還りではないことがわかるはずです。ライフスタイルが作った想像的な行為、みずからが作った行動原理は、なんらかの形で優越を目指します。やはいライフスタイルに応じてさまざまな形で治療を妨げようとし、患者が納得して共通の感覚が優位になるまで続きます。私が解き明かしたように、悲しみと慰めの半々になった展望のなかに優越というひそかな目標が隠されているのは珍しいことではありません。患者は、自分の非凡な活躍がささいなことや他人のせいでだめにならなかったら、なんでもできたのにと思っているのです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p
    「たしかに、社会的な問題に憤りを覚えることはあります。しかしそれは、突発的な感情ではなく、論理に基づく憤りでしょう。私的な怒り(私憤)と、社会の矛盾や不正に対する憤り(公憤)は種類が違います。私的な怒りは、すぐに冷める。一方の公憤は、長く継続する。私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具に過ぎません。」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,101p
    「もし面罵されたなら、その人の隠し持つ『目的』を考えるのです。直接的な面罵にかぎらず、相手の言動によって本気で腹が立ったときには、相手が『権力争い』を挑んできているのだと考えてください。…勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,102p
    「しかし、アドラー的な目的論は、子どもが持っている目的、すなわち『親への復讐』という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に開くほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,104p

    永遠の目からみた目的(完全な目標)とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    永遠の目からみた目的(完全な目標)アドラーが共同体感覚論で想定しているような「人類全体の理想的な共同体、進化の最終的な成就」や「人生の課題や外界との関係をすべて解決したと思える状態」などが挙げられている。

    こうした「永遠の目から見た目的」は仮想論とつながる。仮想論については共同体の項目で「かのように哲学」とあわせて扱う。

    ・アドラーはこうした考えを形而上学的であり、直接経験することはできない、極限的、理想的なものだとしている。確かに科学的ではないが、実際的、実践的、哲学的、倫理的、道徳的、治療的な意味はある。人間の生を曖昧で主観的だと軽視した「科学的世界」よりも「生活世界」を重視する傾向とも言えるのかもしれない。

    もし共同体を経験しうる、実現するものと限定してしまうと、全ての共同体に貢献する態度を取ることは難しくなる。現実にはある共同体に貢献することは別の共同体に貢献することと矛盾してしまうこともある。例えばウクライナに貢献すればロシアには逆貢献になりかねない。他人より家族が、恋人が、友人が、同国の人間が、同じ宗教の人間が優先されるナショナリズムが常である。そうした利害関係を超えた、より共通の目的を目指すような立場を仮想的に取る必要がある。

    アドラーはそうした特定の共同体を超えた視野の広さゆえに「永遠の目から見た目的」と言っているのである。私の目から見た目的や私とあなたの目から見た目的という限定された目では矛盾が生じてしまうのである。

    基本的な姿勢として、「判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ」とアドラーはアドバイスをしている。そしてこの最も大きな共同体の目で見ている状態が永遠の目である。

    たとえばヒトラーのような差別的な政策を行う人間が国の元首であり、自分が国民であったとする。そして仮にこの国の共同体の社会通念(コモンセンス)ではそれを正しいと考えていて、かつ仮にそうすることでその国はまとまり、それに協力することがこの国への貢献だと仮定する。

    そしてその国民は迷うはずである。たしかにこの国に限定すれば、従ったほうが貢献かもしれない。あるいは従わないと自分の生命すら危険かもしれない。自分がノーを突きつければ国の統制は弱まり、戦争に負けてしまうかもしれない。しかしより大きな共同体、この国だけではなく他の国も含めて考え、ほんとうにこの国に協力することは、正しいのかと考えていく。そのようにして「より広いコモンセンス(共通感覚)」や共同体感覚を考えていった結果、やはりこの国に従うことは望ましくないとノーをつきつける場合がある。そうした判断をするためには直観だけではなく客観的な推測ができる必要もあるだろう。そのために学問を学ぶ意義があるといえる。

    人間は実際に「永遠の目」から見ることはできない。しかし永遠の目から見るかのように、より大きな目を想像することはできるはずである。こうした「かのように」という姿勢がまさに「仮想=ないものを仮にあるものとして考えてみる」なのである。

    そういう態度によってより適切なコモンセンスを獲得することができると信じるわけである。自分だけ、自分たちの家族だけ、自分たちの国だけというような「私的な目」、「プライベートセンス(私的感覚)」だけでは幸せを獲得することは難しい。

    キーワード:完全の目標

    「「共同体感覚とは、人類が完全という目標に到達したときに考えられるような『永遠』にふさわしい形の共同体を追求するということです。けっして、いま現在の共同体や社会とか、政治的・宗教的な形式のことを言っているわけではありません。『完全』にもっともふさわしい目標とは、人類全体の理想的な共同体、進化の最終的な成就を意味する目標です。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,291p

    キーワード「判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ」

    「コモンセンスは、しかし、常識とは必ずしも重ならないので、『共通感覚』というこなれない言葉を使うことにしています。今現に私たちが属している社会の通念に合致しているのがいいのか、それに対してノーというのがいいのか判断に迷ったらより大きな共同体を考えよ、とアドラーはいってきました。ときには、それゆえ、既存の社会通念や常識に断固としてノーといわなければならないこともあります。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,113-114p

    「誰かが始めなければならない」

    もちろん、「なるほどあなたのいうことはわかりました。しかしできません」というように実践することは難しいかもしれない。しかし一歩でも進んでいくことが重要になる。

    M・ウェーバーが「矛盾を乗り越えるのは不可能ごとのように思えるが、不可能ごとにアタックしないようではなにごとをもなしえない」と言っていたことが私には強烈に印象に残っている。ウェーバーは「世界に対してどういう態度をとるべきかは、自分の『良心』と『知性』と『心』が責任を負うべき事柄であり、各人が一生かけて色々と経験を積みながら解決してゆくべき問題」だという。アドラーならば「誰かが始めなければならない」というだろう。

    ・ものすごく「理想や目標」を曖昧に言えば「プラスの状態」だろう。その単位が個人か人類かも重要になる。個人に傾けば自己中心へ、人類(我々)に傾けば脱自己中心へ向かう。

    人間はざっくりと、安全・生理的欲求が満たされていることに価値があり、プラスであるということをどういうわけか先天的にわかっている。しかし現実にそれが満たされないような「マイナス」に直面する。そしてこのプラスとマイナスのギャップで劣等感が生じる。また、この劣等感を解消したいというさらに具体的なプラスに志向するようになる。

    たとえば赤ん坊でさえ、お腹が空くのは自分にマイナスであり、お腹を満たしている状態はプラスであるということを本能的、先天的に理解しているのだろう。

    それゆえに、それらを克服しようとして、泣き、注目を得て、プラスにもっていこうとする。

    ・考えられる一番大きな、かつ範囲が広い目標は「人類全体の理想的な共同体、進化の最終的な成就を意味する目標」であるといえる(宇宙全体も可能かもしれないが)。

    そうした目的を実現するためにはさまざまな「ライフタスク」を適切に対処しなければならない。たとえばアドラーは愛の課題、仕事の課題、交友の課題の3つを挙げている。また、人間はほとんど不可避的にこうした課題に直面することになる。

    こうした課題を一歩一歩解決していく先の先の先の、無限の先に「完全の目標」の達成があると信じていくのである。そんなものは無理だといってその一歩すら踏み出さない人間にアドラーはこういう。

    誰かが始めなければならない。他の人が協力的ではないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく。

    こうした課題の解決を目標あるいは理想とした場合、もしそれらが満足に実現しないとすれば、人間は「劣等感」をなにかしら覚えることになる。

    もちろん、こうした劣等感は必ずしも悪いものではなく、むしろ「恵み」であるという。問題は、そうした劣等感を抱いて適切に克服できるかどうかであり、適切に克服できなかった場合にさまざまな神経症などが生じ、不幸に至ることがありうる。

    ・より下位の「目標」についてはマズローの欲求段階説を参考にできるかもしれない。

    たとえば「対人関係」という目標を実現するためには、そもそも生理的欲求や安全の欲求が満たされている必要があるだろう。マズローの欲求が厳密な目的―手段関係の階層かどうか、同時的に満たされる場合があるということを一旦おいておいたとしても、理解しやすい。「衣食足りて礼節を知る」という言葉もある。就職するためにまずは家を確保して安全を達成し、就活するために日々食事をとっていく必要がある。大きな目的にとって小さな目的は手段として捉えることができる。

    たとえば「自己超越の欲求」という目標は、アドラーの言う「人類全体の理想的な共同体の成就」に近い。それより下位には、自己実現の欲求、尊敬・評価の欲求、社会的欲求、安全の欲求、生理的欲求などがある。

    たとえば「安全を確保したい」という目標があるのにも関わらず、親から常に暴力を振るわれたり、学校でいじめられたりすれば、人間は「劣等感」を抱く。貧乏な人は食べ物をたくさん食べたいという生理的欲求があるのにも関わらず、現実にはたくさん食べることができないというギャップが生じ、「劣等感」を抱く。人間は下位の欲求を仮に解消したとしても、次々と上位の目標を創っていく。最終的な自己超越の欲求は特に「自分だけの問題ではないもの=我々の問題」なので、実現がほとんど不可能な、極限的な理想的なものである。

    キーワード:「あなたが始めるべきだ」

    「共同体感覚や協力について話したとき、アドラーは次のような質問を受けました。『だって他の人はだれも私に関心を示さないではないか』と。これに対するアドラーの答えは単純明快なものでした。『誰かが始めなければならない。他の人は協力的でないとしても、それはあなたには関係がない。私の助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく』。アドラーは他の人にそれがたとえ共同体感覚であっても押し付けることは出来ない、それを実践するのは自分であって他の人へ押し付けることの危険性をよく知っていたのでしょう。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,115P

    「認知論」

    「認知論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    認知論人間は、自分の主観で物事を見るという考えのこと。人間は「事実そのもの」よりも「事実の解釈」に影響を受けていると考える立場。

    アドラーは「私は人間の行動は思考から生まれると確信する」と述べている。「感情」は人間の価値づけ、意味づけ、評価、解釈、認識、思考、意志といった「認知」の結果だという考え。現象論(現象学)やストア哲学の考え方でもあるという。

    例:「身長がAさんより低いという事実」を劣っていると意味づけ、解釈する人は劣等感を覚えている。

    一方で、身長が低いことでAさんに警戒心を抱かせないと意味づけ、解釈する人は劣等感を覚えていない。

    このように、事実や出来事による認知(解釈,思考,意味付け,意志)によって感情が生じるという考え方を「認知論」という。

    単なる事実が感情を完全に決定するのではなく、間に認知が入るという点が重要であり、この認知次第で感情が変化する。そして認知には人間の「自由」や「意志」、「選択」が関連してくる。また、認知は社会的な条件も関わってくるといえる。それが「文化的な意味付け」と表現されることもある。たとえば食べ物を残すことがマナーに反するという文化もあれば、むしろ食べ物を残さないことがマナーに反するという文化もありうる。

    認知を変えることで感情を変えることができると考えていく。言い換えれば、「ライフスタイル(性格、世界観)」を変えることで(不適切な)感情、特に「劣等コンプレックス」を解消していくことにある。

    キーワード:認知論とは

    「人間は、自分の主観で物事を見るというものです。自分の主観を疑って、物事を捉え直します。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p

    「わたしたちは『事実』そのものの影響を受けているのではありません。事実をどうとらえるかで動いています。物事をどのくらい事実にそって見ることができているかは、いくつかの点に表れます。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,24p

    「アドラーは,人間の情動反応は,健康的あるいは神経症的なライフスタイルであっても,その人の持つ基本的な考えやビリーフ,姿勢,目標,哲学,つまり認知的に作られたものと直接に関連しているという仮説を固守した。彼は例えば以下のように記している。
    『私たちは明らかに「事実」そのものよりも事実の解釈に影響を受けている。人は皆,自分についての考えと人生の問題-ライフパターンや活動の方法-を,自分で理解することなく,説明できるようになることなしに保持することとなる3,pp.26-27)。私たちは,人工的に作った実在しないフィクションに自分を順応させる。この試みは私たちの精神生活が不十分なために必要なものである』。
    『しばしば考えられるように,個人はあらかじめ定められた方法で外界に自分自身を関連づけない。人間は自分を,自分や現状の問題についての自分の解釈と関連付ける。人生に対する姿勢が,外界とのかかわりを決めている』
    したがって,アドラーの理論における情動は,「一言で表せば,私は人間の行動は思考から生まれると確信する」という記述に核心がある。」
    森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,137p
    「より正確かつ重要なことは,アドラーは,個人の根深い不全感,劣等感,無価値さも,認知に基づくものであることを認識していた。したがって次のように記している。
    『我々は,他者と闘いながら一生を送る人や,あるいは悲しみに暮れて人生を送る人を多く見る。我々は彼らがまちがった発達による犠牲者であり,その結果不幸にも彼らの人生に対する姿勢もまた誤っていることを理解しなければならない』。
    『共同的な生活のために最も重要で根源的な価値を持つテーマとは,人間の性格は決して道徳的判断に基づくものではなく,その人の持つ環境に対する姿勢であり,社会との関係性によって示されるものである』。」
    森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,137-138p

    人間の感情と行動の3つの結びつけ方

    ・エリスによると、人間の感情(情動)と行動には3つの考え方があるという

    1. 行動主義者やフロイト派の考え:情動反応は外的な刺激、出来事、経験(過去、現在ともに)によって第一義的に生じるというもの。
    2. 反主知主義的な考え:情動は人間にとって不可侵のもので人間から湧き上がるもの
    3. ストア哲学や現象論者の考え方:情動は人間の価値、評価、解釈、認識の結果だというもの。アドラーはこの3番目の立場にいる。それゆえに、「現象学」の視点を取り入れてると解釈されることがある。

    人間の非機能的で不適切な情動を我々は今・現在、この瞬間から変えることができることをアドラーは強調している。変われないのは「勇気」が足りないだけだという態度をとる。

    キーワード:【エリス】3つのことなる考え方
    「人間の情動の起源とそれを変えるための方法について,三つの異なる考え方がある。一番目は行動主義者やフロイト派の考えで,情動反応は外的な刺激,出来事,経験(過去,現在ともに)によって第一義的に生じるというものである。二番目は新しいエンカウンターグループや知覚認識運動に代表される反主知主義的な考えで,情動は人間にとって不可侵のもので人間から湧き上がるものという考え方である。三番目はストア哲学や現象論者の考え方で,情動は人間の価値,評価,解釈,認識の結果だというものである。アドラーは主として三番目に属する。彼は明確に記している。
    『どのような経験も成功や失敗の原因ではない。私たちはトラウマと呼ばれるような経験のショックのみに苦しむのではない。私たちの目的に合わせてそれを理解しているのだ。私たちは,自律的に経験に意味を与えている。将来の人生に向けた基礎としての特定の経験をした時に大抵誤りを犯す。意味は状況によって決まるのではなく,私たち自身が状況に意味を与えているのだ』。
    これは人間の情動や経験に関する,根本的に合理的で賢明な考え方である。加えて,大きな点として,人間の非機能的で不適切な情動を変えることができることを,深遠にかつ明確に示している。私がいまだに自分自身を本物のアドレリアンだと呼ぶことに躊躇している一方で,私はこの極めて論理情動的な認識において,アルフレッド・アドラーを追随することをうれしく思う。」

    森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」,145p

    「全体論」

    「全体論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    全体論(ホーリズム)人間を分割できない全体ととらえ、人間は統一されたものであるという考え。

    アドラーは「全体としての私」が「善」と考えるものを目的として行動すると考える。

    「人間は内部で矛盾対立はしていないユニークな存在であるとするものです。人はすべてかけがえのない存在と捉えます。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p

    「なかでも人間のライフスタイルを把握してたのは、近年まで詩人でした。詩人の作品でとても驚かされるのは、人間を分割できない総体(訳注:『分割できない』『総体』『全体』はアドラーのキーワード。個人心理学(Indivisualpsychologie)のindivisualは『それ以上に分割できない』という意味)として生かし、死なせ、行動させながら、人生の課題を密接にからめて描くその能力です。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,31p

    「わかっているが、できない」と「わかっていて、したくない」

    例えば「悪いことと知りつつ、ついやってしまった」というような感情が理性に勝った、あるいは心のある部分が勝手にそうしてしまったというようには考えない。

    アドラー心理学では「わかっているができない」というような分割はせず、「わかっていて、したくない」、「わかっていて、善にならない」と考える。逐一「意志」が、「決心」が介入しているのである。

    アドラー心理学が「個人心理学」と呼ばれるのは、個人を部分に分割することができない全体として捉えるからであるという。岸見さんによれば個人心理学ではなくアドラー心理学と呼ばれるようになったのは誤解されることがあるからだという。

    おそらく、他者を考えず個人のみを重視する極端な個人主義のような解釈をされることがあるからだろう。全体心理学と名乗るとゲシュタルト心理学とほとんど字面が同義になってしまう。とはいえ、ゲシュタルト心理学における「全体は部分の寄せ集めではない」という全体論と通じているものがある。

    キーワード:全体論とは
    「全体論では、意識と無意識、理性と感情、心と身体などを、『分割不可能なもの』として、『お互いに補い合う相補的なもの』としています。仕事で問題が解決できず悩んでいる時、夢でアイデアが浮かぶことはあるでしょう。これは意識と無意識が補い合う例です。

    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,46p「アドラー心理学は、個人はそれ以上に分割できないと考えることに由来して、個人心理学ともいう。」
    「心理学用語大全」,116P
    「アドラーが自分の創始した心理学の体系を『個人心理学』と呼んだのは、最初に見たように、人間を分割できない全体ととらえ、人間は統一されたものである、と考えるからです。そこでアドラーは、たとえば、人間を精神と身体、感情と理性、意識と無意識に分けるというようなあらゆる形の二元論に反対します。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,25-26p
    「アドラーは、このようなアクラシアー、たとえば感情に支配され、悪いと知りつつもしてしまったというようなことを認めません。あるいは、二つ以上の選択肢があっていずれを行おうかと迷い、決断できないという葛藤という事態を認めません。一見、ある行為(A)が自分にとって善であるということを知っていながらそれを行わないということがあるとすれば、Aが善であることを知りながら行わないのではなく、それとは別の行為(B)がその時点で自分にとって善である、と判断しているからです。任意のときのt1における、あることが善であるという知(これを『知t1』とする)は、別の任意のときt2においては別の知(これを『知(t2)』とする)にとって代わられているのであり、しかも『私』が知(t1ではなくて知(t2)を善しと判断した、と考えるのです。全体としての『私』があることをする、と決めたり、また、しない、と決めたりするのですから、心の部分はしたい、と思っているが、別の部分はしたくないというような乖離はいっさいありえないのです。わかってはいるができないというとき、実は、できない(cannot)ではなく、したくない(will not)なのです。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,143-144p

    メモ:アクラシアー:平たく言えば、「わかっちゃいるけどやめられない」「悪いことと知りつつ、ついやってしまった」の概念。依存症・衝動的犯罪・暴飲暴食・喫煙・怠惰などの一因。

    責任論と主意主義

    ・【責任論】行為(行動)の責任を負うのは個人であり、「突発的に、感情的についやってしまったならしょうがないよね」とはならない。これで思い出すのは「ついお酒の勢いで」も同じ言い訳の論理だといえる。百歩譲ったとしてもお酒を飲むという選択をした時点では酔っていない。

    ・【ヴォランタリズム(主意主義)】行動は思考(判断、意味づけ、解釈、認知、選択)を介在させているという意味で、出来事に対してどのような行動を選択するかは「自由」や「主体性」があるという意味で開かれている。

    例えばデカルトやフロイト的な考えでは人間を意識と無意識、理性と感情、心と体などに分解して考える。いわゆる「二元論」であり、「構成主義、要素主義」である。

    フロイトの場合はイドと超自我が対立し、自我が調整するのであり、その調整に失敗した場合に神経症が生じると考えた。

    例えば快楽を求める本能的な欲求(リビドー)が生じても、道徳原理のような超自我がそれを抑制しようとする。大声を出したいときでも、人がいるからと多くの人間は我慢する。そうした対立軸で心の現象を考える。

    アドラーはそうした考えを批判し、それらは分割不可能であり、お互いに補い合う「相補的なもの」としているという。たとえば夢における無意識的なものによってアイデアが浮かび、意識的なものを助ける場合がある。大声を出すことも、怒りをぶちまけることも自分の善にとっては相補的で役立とうとしていると考えていく。

    追記(2024/04/28):自我というわけのわからぬもののわけのわからぬ説明について、雑感

    1:生体(個人)はひとつのシステムだと考える。2:システム全体を統括し主催する部分は存在しない。3:各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出している

    アドラーは「個人(私)」を「自我」とほとんど同義として扱っている。「総体としての自我」などと説明している。これは「全体としての自我、生命システムとしての自我」などと言い換えてもほとんど同じである。また、アドラーは「個人や私、自我」という用語をほとんど「ライフスタイル」と同義的に扱っている印象を受ける。いわゆるパーソナリティであり、人格である。倫理学においては人格とは「自律的行為の主体として、自由意志を持った個人」を意味する。心理学では「行動原理」や「個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体」という意味でも用いられる。まさにパーソナリティとは自我であり、個人であり、私でもあるといえる。

    1:「全体として切り離せない」と考えることを全体論という。「個人が全体として存在する」という点を強く主張する。

    2:全体が部分を手段として利用するという。たとえばアドラーは乗馬の例を挙げている。馬は人に乗る。たしかに馬と人は分割できるかもしれない。しかし乗馬しているときは一体である。この話はベイトソンの「杖と私の境界はどこにあるのか」という話に繋がっているのだと思う。

    3:あまり価値のない種々の観点から、人間の精神を分割することはできるとアドラーはいう。たとえば意識と無意識、リビドーなどにわけたりすることだという。これはフロイトへの批判だろう。そしてアドラーにとって大事なのは「価値のある観点」であり、実証的かどうかではないのだろう。もちろん、フロイトの分割が実証的だと言っているわけではない(むしろ、多分に具体性置き違えの問題がある)。

    4:自我全体を「外界」から説明することも可能だという。これはどういうことなのか不明であるが、遺伝やら物理条件、因果系列でも説明が可能ということだろうか。たとえば末っ子だからとか、そうした外的影響因をたくさんかき集めて、今の自我=パーソナリティが形成されてきたのではないかと推測するといったことは不可能ではないということだろう。たしかに過去のすべての影響因を入手し、それを組み合わせればなんらかのパーソナリティが近似的に説明できるかもしれない(現実には難しいが)。しかしより近似的なもの、いわゆる類型的な自我の説明は可能になるかもしれない。

    (1)たとえば私が腕を動かしたり、怒りを利用する。この場合、腕や怒りや「私=個人=自我」の中に含まれているのか。たとえば腕は私の自我の一部分という言い方や、怒りは私の自我の一部分という言い方が成り立つのか。

    (2)あらゆる肉体や、あらゆる感情なしに「自我」という全体は成り立つのか。

    いずれにしても、「システム全体の外部に統括者たる自我がいる」、「システム全体によって創発してくるものが自我」、「システム全体が自我」、「システム全体の中に部分として自我がある」等々、これらの厳密な説明の違いを整合的にわたしは説明できないし、理解できていない。

    たとえば一番大きな部分として精神と肉体、そして外部環境があるとする。精神を細分化しようとすれば自我、意識、無意識などに分割できるとする。肉体も手や足、目など分割できる。環境も文化や自然、制度などに分割できる。しかし自然環境や文化、社会と切り離された個人などと考えることは難しい。肉体がない精神や、精神がない肉体というものもなかなか考えにくい。要するに、精神、肉体、外部環境はそれぞれ相互依存関係にあり、全体としてひとつなのであると言いたいのだろう。それをまとめて個人だとか人間だとかいう。だとすれば、「自我」や「私」という言い方よりも「個人」という言い方のほうが適しているのだろう。おそらく重要なポイントは「分割しようとすれば分割できる」と言い切ることができるという点にあり、またその分割の根拠である。社会システム論では生命システムと社会システムを明確に分けている。その根拠、システム同士の境界も説明している(理解できていないが)。アドラーではそこが弱い。

    たしかに肉体と精神を「区別」すること、「分割」することは可能かもしれない。それゆえに、精神が肉体を利用したといったり、ある精神がある精神を利用したといった言い方が可能かもしれない。

    しかし私、個人、生命システムは肉体と精神の相互作用から生じているし、また精神の内部の相互作用からも生じている。それゆえに、お互いがお互いを必要とするのであり、コインの裏表のように依存し合っており、全体として一枚のコインだと強弁することは可能かもしれない。

    相補的な関係として意識と無意識を捉えたり、内的なものと外的なものを捉えたりするのもわからなくはない。それらは一体であり、全体なのだと。

    であるとしても、それらを厳密に、科学的に、整合的に説明するとどうなるのか。それぞれの定義をしっかりと行い、それらの相互関係、相補関係を厳密に、体系的に説明して欲しい。緩いアナロジーや何処からか借用してきた理論でつなぎ合わせて強弁したところでツギハギの説得力しかない。すくなくとも私の脳みそでは、かつアドラーの限られた文書を見たかぎりでは、そう感じてしまった。

    結局は「私はそうなっていると信じます」という信仰か「私はそれが人類に、個人が幸せになる道だと信じます」という道徳心に帰結してしまう話だと感じてしまう。たしかにそうした情熱、そして彼の診療してきた経験は重要である。しかし何かが足りない。少なくともわたしは「理解」できないのである。「すごい」と思うが、よくよく考えれば私は「理解」できていない。それゆえに誰かに共有することも難しい。ベイトソン的に言えば「緩い思考」のまま、そこから歩を進めていない。

    「自我」や「知覚」を血眼になって厳密に把握しようとしたフッサールの現象学はより説得力があった。ルーマンの社会システム論はシステムをより厳密に定義づけしようと試みてそうであり、魅力的だった(まだあまり理解していないが)。特に生物学の「オートポイエーシス」という概念は魅力的な説明を期待させるなにかがあった。あるいはベイトソンの精神生態学も期待させるなにかがある。遺伝的、社会学的な方向で自我を説明しようとした見田宗介さんも期待させるなにがあった。

    アドラーは「信仰」と「道徳心」と「希望」、そして多くの実り豊かな実証経験が確かにつまっている。説得力も感じるものがある。他のだれよりも人間の幸せを重視する情熱がある。しかし科学的、理論的説得力に欠けている。だからこそ、それを補う理論的説得力を他の分野のパワーを使って得られれば人間はより豊かに、幸せな方向へ進めるのかもしれない。見渡しはいい。しかしそこへ行く方法がわからない。地道に整地していくだとか、船を作る必要がある。

    キーワード:責任

    「アドラーのいう「個人」は、精神をも身体をも含めた、生体の全体です。生体はひとつのシステムであって、システム全体を統括し主催する部分は存在しません。各部分が有機的に関係しあって、全体としての動きを作り出しています。その全体を仮に「個人」といい、「部分が個人を動かす」のではなく「個人が部分を動かす」という立場を取ります。アドラー心理学では、「個人」は分割できないひとつの全体であり、主観的に意味づけた世界(対人関係、社会)の中で、自分が定めた目標に向かって動こうとする存在と考えます。そうした「個人」をいつでも主語の位置において、人間の行動を捉えます。例えば「怒りが私に子供を叱らせた」と考えるのではなく、「私が怒りを使って子供を叱った」と考えます。このような考え方をすると、自分の行動の責任を感情など他の何ものかに負わせることができなくなるため、この理論を受け入れるにはある程度の勇気が必要になります。ですが、一度この理論を受け入れる事を選択すると、人は、人生を自分の責任で生きていく事ができるようになり、自分の人生の主人公として生きることができるのです。野田は「個人の主体性」を、他の4つの基本前提の基礎をなすアドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。」
    出典:野田俊作財団

    キーワード:自我とは
    「自我が全体として成立していることについては、まだあまり知られていないかもしれません。けれど、総体としての自我は確実に存在します。あまり価値のない種々の観点から、人間の精神を分割することはできるでしょう。2つ、3つ、4つの学説を混ぜたり対立させたりして、自我の全体を捉えようとすることもできます。意識、無意識、性的なもの、外界によって、自我全体を究明することは確かに可能です。しかし結局は、乗馬で人馬が一体となるのが大事なように、個人が全体として存在することに目を向けないわけにはいかないのです。いずれにしても、個人心理学が達成してきた進展はもう無視できません『自我』という概念は、現代の心理学の見解において地位を確立しています。無意識や『エス』から自我を分離したと信じ込んでいても、エスは行儀よくもわるくも自我と同じようにふるまうのです。いわゆる意識や自我は、『無意識』あるいはわたしの言う『理解されないもの』であふれています。そして、つねにさまざまな度合いで共同体感覚を示しています。こうした考えは年を追うごとに精神分析医に理解され、彼らの作った人工的なシステムにとり入れられています。いわば、『個人心理学から捕虜をとったはずが、その捕虜に夢中になってしまった』のです。わたは、分割できない精神世界の全体を早い時点から解明しようとしてきました。そして、当然のように、記憶の機能と構造に行き当たりました。その過程で、外界から受けた印象と感覚の集合が記憶だと見てはならないと考えた学者たちの説が確かめられました。また、外界から受けた印象は記憶としてとどまるのではないこと、記憶は精神全体の力の一部であることも確かめられました。つまり、自我も、『知覚』も能力も、できあがったライフスタイルに印象を当てはめ、ライフスタイルに合わせて印象を使うという働きをしているのです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,211p

    「機能主義」

    「機能主義」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    機能主義意識(心的現象)は、人が環境に適応するため、すなわち人が存在するための機能だと考える立場。心理学においては主にジェームズ機能主義の立場を指すと考える。

    ・アドラーは思考や感情は「目的遂行のための機能」だと考えている

    ・怒りや悲しみといった感情はなにかしらの目的のための手段であり、目的の遂行、達成のためにプラスに貢献している。

    たとえば怒りという感情を表に出すことによって、相手を容易に萎縮させる、謝罪させるという目的を達成することができる。手段として「機能(プラス)」しているというわけである。もちろんプラスを「期待」するのであって、「結果としてプラス」になるかどうかは別である。社会学者のマートンがいうように、目的と結果は区別する必要がある。また、プラスの機能だけではなく、隠されたマイナスの機能なども考慮して、どちら側に傾くかも計算する必要がある。しかし問題は計算の基準や潜在的機能の発見である。

    ・重要なのは、感情は手段であり、道具であるという点である。感情は目的次第で使われるかどうかが変わる。もし共同体感覚を伴ったライフスタイルを形成していれば、思考パターンも変わり、安易に怒りに頼った手段をとらずに、言葉を使った話し合いのほうがよいと判断されることもある。

    単なる手段であり、脊髄反射的行動ではない以上、人間は変わることができるのである。「変わることができる」ということをアドラー心理学では強く、何度も強調する。足りないのは「勇気」である。嫌われる勇気、幸せになる勇気、普通である勇気をもてば人間は「変わることができる」のである。それも今すぐに、この瞬間からである。「どうせ変われない、変わることは物理的に不可能だ」というのは決定されたものではなく、「あなたの決心」の問題である。

    キーワード:機能

    「例えば、感情と思考は個人の中で対立しているものではなく、個人という全体が、自分の目的を達成するために、感情や思考という機能を使う。フロイトは、思考と感情、意識と無意識は個人の中で対立していると考えた。一方、アドラーは思考や感情は目的遂行のための機能だと考える。」
    「心理学用語大全」,116P

    「対人関係論」

    「対人関係論」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    対人関係論人間が抱える問題は、個人の内面に起きるのではなく、すべて対人関係上の問題であるという考えのこと。社会心理学的な考え方である。

    「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」

    ・アドラーは「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」と述べている。また、それとセットで「全ての喜びもまた対人関係の喜びである」と考える。要するに、「悩みと幸せ」は常に他者が関係せざるをえないということになる。

    ・アドラーは「ただ社会的な、対人関係的な文脈においてだけ個人(人間)は個人となる」と述べている。

    人間は他者と関わらざるをえない。人間関係は仕事場や家庭、恋や交友だけではない。人が作ったものを買ったり、人が作ったものを使ったり、あらゆるところに人間関係の糸は張り巡らされている(社会学者のジンメルもそこに着目した)。独りで家にいても、対人関係は間接的に関わってくるのである。生まれた瞬間から医者や母親が関わってくるのである。

    キーワード:対人

    「人間が抱える問題は、個人の内面に起きるのではなく、すべて対人関係上の問題であると考える。よってアドラー心理学は社会心理学的な傾向がある。」
    「心理学用語大全」,117P
    「すべての行動には相手役がいるとするものです。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22p

    「つまり、人はだれでも相手によって感情やふるまいが変わるということ。そのため、相手と周囲の対人関係に注目することで、相手を理解できるようになります。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,50p「このときに注目してほしいのは、『その行動にどのような目的があるか』です。人間は必ずある目的を持って行動をします。相手に対して、『もっと愛してほしい』『注目してほしい』もしくは『復讐をしたい』など、目的はさまざまですが、すべての行動には相手があり、その相手ごとに目的が存在します。その目的を理解することで、その人が『どのような場面でどんな行動をする人物であるか』が見えてくるのです。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,50p

    キーワード:「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」

    「アドラーは人間の悩みはすべて対人関係の悩みである、といっています(『個人心理学講義』二六頁)。人は生きているのではなく、《人の間》に生きています。私たちは一人で生きているのではなく、他の人の間で生きているということができます。アドラーの言葉を引くと、『個人はただ社会的な《対人関係的な》文脈においてだけ個人となる』わけです(『個人心理学』180頁)。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,44p

    キーワード:「人間の喜びもすべて対人関係の喜びである」

    「哲人『なぜなら、人間の喜びもまた、対人関係から生まれるのです。「宇宙ひとり」で生きる人は、悩みがない代わりに喜びもない、扁平な一生を送ることになるでしょう。アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「人間の喜びもすべて対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。」
    岸見一郎、古賀史健、「幸せになる勇気」,178p

    相手を理解することは不可能である

    ・「相手を理解することは不可能である」とアドラーは述べている。

    他者とわかり合うことはできないということを前提してなお、「他の人で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」という「共感」が重要だという。このように他の人の立場になって物事を考え、感じるという感覚はまさに「共同体感覚」と呼ばれるものである。シンプルに言えば、他者に対する興味や関心をもち、相互に絆をもつことが「幸福」へとつながっていくのである。

    「他者とわかり合うことはできない」というのが事実かどうかはわからないだろう。そもそも本人すら自分のことは完全にはわからない。合っているかどうかを厳密に考えていくことは難しい。そうした事実論ではなく、現実問題のテクニックの話となる。「他者とわかり合うことはできない」という前提・心構えでいることは重要だという話。

    完全にわかり合えるという前提でいるといろいろ不都合が起きてしまうのだろう。相手を完全には理解できないからこそ、相手が自分とは違うことを「許す」ことができるのである。もし完全に理解した気持ちになると、許せなくなってしまう。岸見さんの異星人同士の付き合いは上手くいくという例えが面白かった。

    キーワード:他人は理解できない
    「さらにいえば、そもそも相手を理解することは不可能である、とアドラーは考えているのです。だからこそ言葉を使うコミュニケーションが重要であることを強調するのです。わからないと思って付き合うよりはるかに安全でしょう…わかり合うことはできないのですが、それを前提としてなお、『他の人で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる(『個人心理学広義)一九八頁』という意味での『共感』の重要性を説くところがアドラーの真骨頂です。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,169p

    追記(2024/04/28):快と喜びの違いについて雑感

    ここでいう「全ての喜びもまた対人関係の喜びである」は隠された幸福の定義だという。喜びを幸福と言い換えてもいいのだろう。であるとすれば、単なる快楽ではないということになる。

    たとえばある料理を食べて美味しい、心地良いと感じるとする。たとえ宇宙に一人しかいないとしても、美味しい料理を食べれば快楽を感じるだろう。対人関係がなければ味がしない、なんてことはないはずだ。しかしそれは快/不快であり、幸福/不幸とは重なる部分もあれば重ならない部分もあるのではないか。我々は日常生活において、美味しいものを食べると「幸せだ」だと口にすることがある。この微妙なニュアンスはどう説明すればいいのか。

    例えば美味しいものを食べたからといって、「ここにいていいんだ、存在していいんだ」というような居場所感、貢献感を感じない。たしかにそうだ。頬をつねると確かに痛いし不快だ。しかし友人に絶縁された時の、あの胸がキュッとなる心の苦しさを感じない。たしかにそうだ。

    やっぱり幸福と快楽は違う。

    追記(2024/04/28)対人関係に影響を与える4つの要素について

    1. 自分(自分の捉え方や行動)
    2. 相手(相手の捉え方や行動)、
    3. 関係性(恋人同士、上司と部下といった関係)
    4. (4)環境(職場や住まいなど)

    2から4を自分でコントロールすることは難しい。確かにそうだ。相手の性格を変えたり、自然環境や文化、法律をコントロールすることは難しい。不可能ではないかもしれないが、個人にできることは限られている。関係性も同じであり、恋人関係でいることは相手ありきであり、自分だけの行動でなんとかなるものではない。

    しかし自分のライフスタイルを変えることはできる。ライフスタイルが変われば行動も変わるし感情も変わる。環境をどう利用するか、どう感じるか、相手についてどう感じるか、そうしたものは自分の選択である。

    言い訳ばかりして逃げて前に進まないのか、努力するか、自分のコントロールの範囲内である。問題はそのコントロールする難しさの度合い、勇気の度合いである。そしてその度合はある程度対人や過去に影響を受けている。しかし影響であり、決定するのは自分である。自分が最終的には決心するのである。決心させられていると思って現状を維持するのか。変えるのか。動くのか。

    「対人関係は、次の4つの要素に影響を受けるので、どれかが変われば、影響を受けて自然と変化が生じます。(1)自分(自分の捉え方や行動)、(2)相手(相手の捉え方や行動)、(3)関係性(恋人同士、上司と部下といった関係)、(4)環境(職場や住まいなど)。しかし相手の考え方を変えるのは至難の業ですし、関係性を完璧にコントロールするのはむずかしいでしょう。理想の環境を追い求めるにも限界があります。つまり、対人関係を好転させたいときに即効性があるのは、自分の意志で自分自身を変えることなのです。まずは自分自身を見つめ直して、対人関係を向上させるなどヒントを紹介しましょう。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,13P

    「実存主義」

    「実存主義」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    実存主義一般に、「自分の行動は無意識や感情に左右されるもの、完全に決定されるものではなく自分の主体的な意思によるものである」という考えのこと。

    実存主義とは端的に言えば「未来の一部分は自分の選択にかかっている」と人間の在り方を考える立場であり、過去の因果関係のみによって規定できるものではないと考える立場である。

    アドラーは「心理学は哲学の手を借りるまではささいな技術にすぎませんでした」とまで述べ、「人間についての学問的な知識は心理学と哲学から生まれている」とまで述べている。

    野田俊作さんはこうした「個人の主体性」を他の基本前提の基礎をなす、アドラー心理学の最も根本的な仮説として捉えているという。

    「心理学は、哲学の手を借りるまではささいな技術にすぎませんでした。人間についての学問的な知識は、心理学と哲学の人間学から生まれています。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,32p

    「野田は「個人の主体性」を、他の4つの基本前提の基礎をなすアドラー心理学のもっとも根本的な仮説として捉えていました。」
    出典:野田俊作財団

    自己決定性について

    アドラーは「人間は運命を創造できる力がある」と考えた。これは実存主義の言い換えであるといえる。また、この実存主義ゆえに、「自分で未来に何をするかという決定権」をもっている。

    映画マトリックスで主人公たちが「選択」を強調し、機械(プログラム)側は作用と反作用という「因果関係」を強調したこともこのテーマと関わり合っている。

    「人間は運命を創造できる力があるとするものです。自分で今後の行動の決定権をもちます。」
    永藤かおる「勇気の心理学アドラー超入門」,22P

    自己中心性と自己決定性は違う

    自己決定性は言い換えれば、「自分の人生の主人公として生きる」という点が重要である。ゲームのRPGのように他者に行動を選択され続けているようなキャラクターではない。ゲームのキャラクターなら「操作している人間が悪い」、「ゲームの設定が悪い」、「相手が強すぎる」、「ランダムな効果だから運が悪かった」、「最初からストーリーで運命は決まっている」などと言い訳をすることができる。それゆえに、真の意味での主人公ではない。しかし現実の人間は真の意味での主人公である。無責任な言い訳はできない。

    ・「自己中心的(自己執着的)な人間として生きる」や「私は世界の中心に君臨している」とはニュアンスが違うことに注意する必要がある。

    ・アドラーの考えでは「世界の主人公」ではなく、「人生の主人公」である。世界の一部ではあるが、世界の中心ではない。

    「他者に何をしてもらえるのか」ばかり考える自分勝手な集団の和を目指す人間のケースが「自己中心的」なケースである。課題の分離ができていない、承認欲求ばかりある、自分にばかり関心があるというような特徴があるという。

    キーワード:自己中心的な人物、承認欲求について

    「哲人『じつは「課題の分離」ができておらず、承認欲求にとらわれている人もまた、きわめて自己中心的なのです…あなたは他者によく思われたいからこそ、他者の視線を気にしている。それは他者への関心ではなく、自己への執着にほかなりません。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,183p
    「哲人『そして、自分の人生における主人公は「わたし」である。ここまでの認識に問題はありません。しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,185p

    責任について

    自己決定権を個人はもっているということを認める限り、自分がした選択には「責任」が伴ってくる。

    自分の行動の責任を、「つい反射的に怒りが・・・怒りが私をそうさせた」といったように考えることをアドラーは許さない。最終的に選択したのは「自分」であり、感情の間には無意識的にせよ意識的にせよ必ず「思考(認知、解釈、意味づけ、判断)」があると考える。感情は「出し入れ可能な道具、目的のための手段」として考える。例えばアドラーは母親が子どもに怒っている時に電話が来ると、いきなり穏やかな声になるケースを挙げている。このように感情は意識的に出し入れ可能だという。

    ・アドラー心理学は「責任を問う厳しい心理学」であるが、「選択の自由」を認めているので教育や治療の道が開かれているという。

    キーワード:責任

    「ある行為を選択する時点でその選択の責任はその人にあります。その意味でアドラー心理学は責任を問う厳しい心理学である、ということができます。しかし、他方、誤るにせよ選択の自由を認めるということから教育や治療の道は開かれている、と考えることができます。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,144p
    メモ:ウェーバーの責任論と関連付けていく。しっかりと熟慮して、情熱を持つ。冷静と情熱の間で。結局責任をもつためには、自分の行為の結果をある程度予測できる必要がある。選択する際にある程度の結果が見えている必要がある。その際の予測に、社会学はどのような視点を、ツールを提供することができるのか。

    ルソーの「我ここに立つ」

    人生やライフスタイルは「選択」することができる。岸見さんによれば責任は「応答する能力」という意味であり、ライフタスクから逃げることなく、「わたしのすべきことはします」と応答すること、自分の人生の課題は自分の力で解決することであるという。

    個人的にルソーの「我ここに立つ」という心情を思い出させるものがある。たとえば政治家が宗教的には悪とみなされる行為であったとしても「それにもかかわらず!」と責任倫理を貫く姿勢と近しいものがある。現実にはさまざまな利害関係や善悪関係の矛盾が渦巻いている。その中で適切な「それにもかかわらず、我ここに立つ」と言い切ることができるための周到な準備、予測が必要になる。

    「完全な目的などわからないから、判断ができない」などと言っている場合ではない現実には選択をしなければならない。あなたは「より適切だ」と、「我ここに立つ」と言いきれるだけの準備をする責任がある。そのために学問という思考の枠組みがあるのである

    映画トレインスポッティングの「選べ人生を」を思い出す内容である(皮肉交じりではあるが)。

    「政治や経済が~」、「親が~」、「友達が~」、「トラウマが~」とさまざまな原因ばかりに注目して、「選択肢なんてない、選ばされてると」悲観する人もいる。こうした過去の出来事は変えられないし、現在や未来の他者や政治や経済もそう簡単には変わらないし、コントロールすることは難しい。しかし、自分の考え方、ライフスタイルは自分でコントロールすることができるはずである、と考えていく。私にはその能力があると私を信じていく。

    「所有の心理学」と「使用の心理学」

    POINT

    使用の心理学「与えられたものをどう使うか」に注目する心理学のこと。

    アドラーは「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と述べている。

    ・「どの能力を先天的に、あるいは後天的に所有しているか」ばかりに注目してしまう「所有の心理学」ではない。

    ・たとえば遺伝的に他者は優れていて、自分は優れていないからなにもできない、だめだというような態度は所有の心理学になる。

    ある映画で「記憶力がずば抜けている」人間がいて、それを羨ましいと思ったことがある。しかしその人間は「とてつもない悲しい記憶」もいつまでも鮮明に残ってしまい、自分の能力を優れているとは必ずしも思っていないようだった。自分は物事を忘れがちだが、それもそれで良いところがあると考えるようになった。忘れることができるというのは一種の能力である。

    例えば身長が先天的に周りの人よりも低くても、それだけで劣等コンプレックスは生じない。

    「身長が高かったらなんでもできるのに」と後ろ向きに使うのか、「身長が低いことにはなにかメリットがある」と前向きに使うかで結果は変わってくる。

    ・自らの持っているものをどう使うかを、個人が主体的に選択決定しているという点が重要である。ないものねだりをして人生は変わるのか。あるものをプラスに考えていく姿勢が重要になる。「完全の目的」はまさにないものねだりだが、それは前進のためのないものねだりである。ないことに執着して言い訳ばかりをする後ろ向きのないものねだりではない。

    キーワード:「所有の心理学」と「使用の心理学」
    「技術が進歩した頃には、実験的手法が盛んになります。器具や選び抜いた質問を使って検査を行い、感覚機能、知性、人格を解明しようとしました。実験的手法では、人格がどう関係するかは洞察されないか、推測で補うくらいでした。のちに遺伝学が登場すると、こうした洞察はされなくなり、どの能力を所有しているかが重要だと示すだけで、どう使うかはとりあげられなくなります。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,33p

    「哲人『再びアドラーの言葉を引用しましょう。彼はいいます。「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と。あなたがYさんなり、他の誰かになりたがっているのは、ひとえに「なにが与えられているか」にばかり注目しているからです。そうではなく、「与えられたものをどう使うか」に注目するのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,44p

    「哲人『現実を無視しているのはあなたです。「なにが与えられているか」に執着して、現実が変わりますか?あわれわれは交換可能な機会ではありません。われわれに必要なのは交換ではなく、更新なのです。』」
    岸見一郎、古賀史健、「嫌われる勇気」,45p
    「アドラーは、「人が何を所有しているかを確かめるよりも、所有しているものをどう使用できるかを引き出すほうに心理学は関心を寄せるべきだ」と考えていました。「剣を所有していても、それだけでは剣を正しく使えるとはいえない」のです。そして、何を所有しているかに関心を寄せる心理学を「所有の心理学」、所有しているものをどう使うかについて考える心理学を「使用の心理学」と呼びました。アドラー心理学は「使用の心理学」です。自らの持っているものをどう使うかを、個人が主体的に選択決定して暮らしていると考えます。」
    出典:野田俊作財団の説明

    生きる意味では194p参照

    「創造性」とはなにか

    創造性についてはアドラーの直接的な定義は私が見た限りは見当たらなかった。

    学問における創造性の定義問題については第二回の動画で扱っているので詳細は省略する。おさらいすると創造性の定義は「独自性のある有用な成果」あるいは「創造的な過程、および健全な人格」のどちらかに傾きがちであった。

    前回の記事:【創造学第二回】創造性とはなにか

    創造性を「生命プロセスの一部である」とアドラーは述べていることから、創造性は先天的にある程度与えられているものであると考えられる。

    また、創造性を「健全な人格=健全なライフスタイル」の手段として重視していることから、どちらかといえば「独自性」よりも「健全性」を重視する傾向があるといえる。もちろん不健全な人格形成のためにも用いられるので、その意味で「創造的な過程」を重視しているというほうが適切かもしれない。「べき論」としては「健全性」に傾く。

    キーワード:創造性は「生命プロセスの一部である」

    「3つの要素に対する子どもの態度は『トライアル・アンド・エラー』(試行錯誤)だけで決まるのではなく、証明してきたとおり、むしろ子どもの成長エネルギーと創造力で決まります。生命プロセスの一部である創造力の発揮は、子どもを圧迫も支援もする現代の文化のなかでは予測できず、創造力が発揮された結果からしか読み取れません。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,229-230p

    天才と独自性について

    とはいえ、アドラーは「天才」という言い方で独自性を表現しているとも考えられる。

    例えば「わたしたちはみんな、芸術家、天才、思想家、研究者、発明家の不滅の業績にあずかって寄生するように生きているのです。人類を本当に統率しているのは天才たちです。彼らは世界の歴史を動かすエンジンで、わたしたちはその分配器です。」とアドラーは述べている。

    理念化すれば人類全体に「結果」として貢献するタイプが「独自性タイプ」であり、人類全体の「動機」として貢献するタイプが「健全性タイプ」なのかもしれない。

    アドラーは天才タイプが不健全なライフスタイルをもっているケースを「例外」として見ているので、話はすこしややこしくなる(メサイアコンプレックスにも関連する)。たとえば家族や恋人、友人や仕事を放棄し、ひたすら実験室で研究をする場合などが考えられる。

    キーワード:天才

    「わたしたちはみんな、芸術家、天才、思想家、研究者、発明家の不滅の業績にあずかって寄生するように生きているのです。人類を本当に統率しているのは天才たちです。彼らは世界の歴史を動かすエンジンで、わたしたちはその分配器です。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,132p

    キーワード:例外

    「劣等感から生じる行動として最後に挙げるのは、活動範囲が明らかにせまくて、前進の歩みが小さくなっている状態です。このケースでは、人生問題の重要な部分は締め出されています。ただし、共同体の向上にさらに貢献しようとして、芸術家や天才のように人生の問題の解消を放棄しているときは、やはり例外として扱わなければなりません。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,120p

    「世界を不断に創造している」

    ・人間は世界に「意味づけ(解釈)」して生きている。

    人間は「客観的な事実」ではなく「主観的な意味付け」を重視している。はたして主観を媒介としない客観など人間は把握することができるのだろうか、という話は現象学へとつながっていく。また、「人は見たいものを見る」というゲシュタルト理論にもつながっていく。ある光の集まりをホタルと見るか、車と見るかは意味づけ次第なのである。事実は「人が求めているものにあわせて形成(創造、色付け)されるもの」なのである。

    過去の事実や今直面している事実をどのように意味づけるかによって世界の在りようが変わってくる。これは「世界を不断に創造している」ということとして解釈できる。

    私はこの話を聞くと、M・ウェーバーの言葉を思い出す。

    「世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の”意味”を読み取ることはできず、かえって、[われわれ自身が]意味そのものを創造することができなければならない。したがって、われわれをもっとも強く揺り動かす最高の理想とは、どの時代にも、もっぱら他の理想との闘争をとおして実現されるほかなく、そのさい、他の理想が他人にとって神聖なのは、われわれの理想がわれわれにとって神聖なのとまったく同等である。こうしたことを知らなければならない、ということこそ、認識の木の実を喰った一文化期の宿命にほかならない。」

    「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」、マックス・ウェーバー、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波文庫、41P

    キーワード: 「世界を不断に創造している」
    「人は自分が意味づけした世界に生きているということを見てきました。世界を不断に創造している、ということもできます。」
    岸見一郎「アドラー心理学入門」,171p

    遺伝では全ては決まらない

    むしろ我々は遺伝という「材料」を創造的に、柔軟に使用していく必要があるという。数多くの材料(外的・内的影響因)に対して我々は「創造力」を掛け合わせ、自由に、主体的に「選択」していくのである。

    キーワード:遺伝

    「進化という形で確かめられたとおり、克服という目標が存在するならば、子どものなかで具体化した進化は、さらなる発展に使われていきます。つまり、肉体的であろうと精神的であろうと、能力に現れる遺伝が意味をもつのは、最終目標に利用できる場合、実際に利用される場合だけだということです。のちに個人が成長したときに見られるものは、まず遺伝を材料に作られ、子どもの創造力で完成します。私自身、遺伝が重要なのではないかと考えたこともありました。けれど、それは否定するほかありません。外界は多様でつねに変化するので、この材料を創造的に、そして柔軟に使っていく必要があるからです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,106p

    創造力は発達(発展)である

    自らのライフスタイルなどを不断に自分の「善」に合致するように作り変え続けていく、「発達」という要素がある。

    この場合、井庭崇さんの創造の定義である「発見の連鎖」とも関連してくるのかもしれない。あれもこれも自分の「善=ためになる」という目的のために使えるのではないか、と関連付けて使用していく。この使用は共同体感覚を伴う「前向きな使用」である場合と、伴わない「後ろ向きな使用」である場合に大きく分かれるといえる。

    ・もちろん、「創造的な過程」が「健全な人格」につながるべきだとアドラーは考えていただろう。しかし、アドラーは創造性が(本人にとっては善であったとしても)不健全な人格形成のために用いられることもあると述べている(たとえば神経症は創られるものである)。

    たとえば劣等コンプレックスはまさに「創り出される」のであり、自分の不安を、価値のなさを誤魔化すために、解消しようとしたために創造性をもって作成されたものであるといえる。たとえばニーチェからすればキリスト教すらも弱者の強者に対する劣等コンプレックスだととらえていたかもしれない。

    行動原理(ライフスタイル)と創造力の関係について

    ライフスタイルがつくられるときに、子どもは大いに自由に「創造力」を発揮しているという。「甘やかし」や「放置」、「器官劣等性」などの条件はたしかにライフスタイルの形成に「影響」する。しかしそれらの条件で「全て」が決定されるわけではない。あくまでも素材をもとに我々が「選択」するという主体性をアドラーは重視する。

    選択は主に「ライフタスク」に直面した際に重要になる。また、その選択は「創造力」をもって行われ、またその選択の繰り返しによって「ライフスタイル」が形成されていく。

    アドラーは子どもは「甘やかし、放置、器官劣等性」を「幼少期の3つの重み(重荷)」と表現している。子どもはこの重みを創造力によって「克服」できる場合もあれば、できない場合もあるという。

    ライフスタイルは創造力によってつくられる。そしてライフスタイルはどのような行動に創造力を用いるかに影響を与えていくことになる。

    キーワード:行動原理と創造力の関係について
    「現象には、行動原理が作られるときに子どもが大いに自由に創造力を発揮していることが表れています。甘やかし以外の重荷とは、子どもがほうっておかれること、そして子どもの身体器官に『劣等』があることです。どちらも甘やかしと同じく、子供の視線と関心を『共生』からそらし、自分の危険、自分だけの幸福へ向けます。幸福には十分な共同体感覚が欠かせないことについては、さらにくわしい証明が必要でしょう。けれど、あまり共同体感覚のないひとの前に現実の出来事が立ちはだかることについては理解できるでしょう。幼少期の3つの重荷について言えるのは、どの重荷も、子どもの創造力でうまく克服できる場合もあれば、できない場合もあるということです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,49p
    「ライフスタイルが作った創造的な行為、みずからが作った行動原理は、なんらかの形で優越を目指します。やはりライフスタイルに応じてさまざまな形で治療を妨げようとし、患者が納得して共通の感覚が優位になるまで続きます。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p

    子どもと創造力の関係について

    アドラーは「幼い子供のころは自由に創造力を発揮できるのに、人生の行動原理が固まってくると自由さが失われていく」ことに確信をもっているという。

    人間はライフタスクに直面、つまり問題を発見していき、またそれを創造力をもって最初は問題解決をしていく。しかし大人になるにつれて自分の創造した「ライフスタイル」に縛られるようになる。「頑固ジジイ」という俗語があるように、考えかたが固定的になるわけである。自由に判断したり、自由に創造したり、自由に選択したりすることがどんどん困難になっていく。AかBかの二択しか目の前に見えず、新たなCを創ることができない。

    この話はピアジェによる「子どもは最高7歳くらいまで、アリストテレスの宇宙に生きている」という言葉を思い出す。

    ピアジェによると、子どもは「なぜものは床に落ちる?」の問いに対して、「そこがものの居場所だから」と答えるという。科学では重力や因果関係で、HOWを説明する。子どもは「なぜ隣人愛は大事なのか?」にどう答えるのかが興味深い質問になるのだろう。おそらく、「それが自然だから、そのようになっているから」といったように目的論的(WHY)に答えるのかもしれない。

    アドラーの依拠している機能主義も、目的論的な機能主義であるといえる。何のための機能なのかを常に重視する。ちなみにこうした機能主義は科学的ではないとよく批判される。

    おそらくは子どもは生きていくうちに、バーマンのいうような「デカルト的パラダイム」を学習するのだろう。事実と価値は区別するべきだ、実験が大事だ、自然は支配しろ、数量化できるものが大事、二元論、情感は単なる生理現象、原子論等々である。ようするに、そのように事実を意味づけ、色付けするようになるのである。デカルトはある種の天才であり、人類を発展させたともいえるが、しかし結果的に不健全なライフスタイルへ傾かせたともいうことができる。

    キーワード:子どもの創造力について
    「多いのは次の2つ目です。この場合、母親は子どもに協力も協働もさせず、とにかくかわいがっていつも子どものために動き、考え、話、成長の芽をつんでまわります。甘やかされた子どものために他者がなんでもしてくれるという、現実と違う空想の世界になじませるのです。あっという間に、子どもは自分がつねに場の中心にいると考え、その世界観に反する状況やひとを敵と感じるようになります。そこから生まれてくる結果の多様さを甘く見てはいけません。子どもは自由に判断して、自由に創造力を働かせていくのです。外部からの影響を利用して、自分の意識のなかで加工していきます。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,44-45p
    「3つの要素に対する子どもの態度は『トライアル・アンド・エラー』(試行錯誤)だけで決まるのではなく、証明してきたとおり、むしろ子どもの成長エネルギーと創造力で決まります。生命プロセスの一部である創造力の発揮は、子どもを圧迫も支援もする現代の文化のなかでは予測できず、創造力が発揮された結果からしか読み取れません。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,229-230p
    「幼い子供のころは自由に創造力を発揮できるのに、人生の行動原理が固まってくると自由さが失われていくという確信です。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,4p
    「子どもの創造力は、あらゆる物事から受ける印象を『使用』して、最終的な態度を決め、個人の行動原理を育てます。」

    神経症と創造力の関係について

    創造力によって作られたライフスタイルはなんらかのかたちで「優越」を目指す。

    「優越」を目指すという目的に対して、創造力を人間は発揮して手段を選択する。目的の充実に失敗し、言い訳を用いる劣等コンプレックスの状態になると神経症が生じる。アドラーは「神経症とは創造的な行動である」とすら述べている。

    例えば神経症は「未発達な状態への逆戻り(幼児退行)や先祖返り」ではないとアドラーはいう。おそらく、フロイトの防衛機制のひとつである「退行」を批判しているのだろう。

    神経症は自分の劣等感を解消するために創造力によって作られたものであると考えていく。後の精神分析で防衛機制としても分類されることがあるアドラーの考えた「補償(確保の原理)」が重要になる。補償とは、ざっくりといえば「マイナスを補おうとしてプラスのエネルギーが生じること」である。

    たとえば劣等感が過剰になり、自分の価値を感じられず、常に不安でいるとする。

    そこで劣等感を利用し、「もし身長が高かったら…もしお金持ちだったら…もしイケメンだったら…自分は価値がある」というような「言い訳」を創る。こうしたものは退行ではなく発達であるという。ただしそれが適切な発達かどうかは別の話になる。しかし何が適切なのかという基準が難しい。

    創造が共同体感覚を伴っている勇気のある態度や行為とは言えない点は重要である。創造の動機として本人の善(ためになる)が関係するとしても、ある行動が創造的かどうかに善悪や正悪は関係しない。

    キーワード:神経症は創造的な行為である
    「失望が続いて、新たな失望や失敗を恐れる態度は、ショック症状の固辞となって現れます。ショック症状を利用して、共同体の問題の解決から遠ざかっているのです。ときには(訳注:強迫神経症では多いのですが)、患者が弱々しく悪態をついて自分の不満を他者に伝えます。被害妄想では、患者が人生に敵対意識を抱えているのがさらにはっきりと見られますが、人生の問題から遠ざかる段階ではまだ敵対意識は感じていません。思考、感情、判断、ものの見方は、つねに後退の方向へ向かっています。そこから、神経症とは創造的な行為で、未発達な状態への逆戻りや先祖返りではないことがわかるはずです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,138p

    追記(2024/04/29)神経症とはとはなにか、意味、定義、わかりやすく解説

    POINT

    神経症より大きな厄介を避けること、見せかけの価値をなんとか維持するためにあらゆる犠牲を払うこと、そして同時に、なにも犠牲にせずに目標を達成したいと願うこと。アドラーの定義。アドラーは従来の定義である「意識と無意識の衝突」や「科学的な変化」というような定義は議論として扱うことが難しいと批判的である。

    アドラーは神経症の治療には「人生に対する準備を促すこと、人生に参加すること、勇気づけること」を強調している。また、無理強い、罰、厳しさ、強制では成立しないと注意していることがきわめて重要である。

    キーワード:神経症とはなにか
    「まず、これまでに決められた定義――たとえば、神経症と無意識の衝突であるといった定義を一度忘れる必要があります。こうした定義は、議論として扱うことが難しいのです。…高慢な学問の見解から、人体の化学的な変化を持ち出す場合も同じです。…神経症で理解されていることと言えば、興奮しやすさ、不信感、しりごみなど、要するにネガティブな特徴を示す現象です。こうした特徴からは、人生となじめず、感情を高ぶらせていることが見受けられます。神経症が感情の高ぶりと関係していることは、どの学者も認めています。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,164p
    「これで神経症とはなにかわかったでしょう。神経症とは、より大きな厄介を避けること、見せかけの価値をなんとか維持するためにあらゆる犠牲を払うこと、そして同時に、なにも犠牲にせずに目標を達成したいと願うことなのです。あいにくそれはありません。事態を発展させるには、神経症患者に人生に対する準備を促し、人生に参加させ、勇気づけるしかないのです。これは、無理強い、罰、厳しさ、強制では成立しません。」

    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,171p

    howとwhy

    「創造は発見の連続」であるとし、その発見が「何のために(why)」使われるかという目的は問われないことが多い。創造の定義(what)や過程(how)にはあまり関係がないからだろう。現代科学では特にhowを重視し、whyを問わない。マートンが「目的論的機能主義」を強く批判したことに通じている。しかしwhyを強く問うのがアドラー心理学であり、その哲学的要素でもある。

    ただし、whyについて一つの項目に固定するような必要十分条件を明らかにするのでなく、機能的な項目の代替可能性が常にあり、常に刷新されうるものであるという点が重要である。

    仮想である以上、それは必然的で必要十分条件の因果関係にはなりえない。これは弱みではなく、強みであり、武器なのである。〇〇教だけが、〇〇主義だけが、〇〇国だけが世界を良くするというような思い込みを避けることができる。

    マートンについては以下の記事を参照することをおすすめします

    【基礎社会学第三十五回】ロバート・K・マートンの実証的機能分析とはなにか

    創造に正しさはあるのか

    アドラー心理学は「問題を解決するときに人間の精神がどれだけ模索するか、正しいかどうかは別にしても、どれだけ芸術的に活動するかを熟知している」という。

    何が正しいかどうかはたしかにケースバイケースであり、簡単に「これだ」というものはわからない。その都度ごとに判断していくものであり、「理想」として、「極限」として存在しうるものである。

    「個人心理学は、問題を解決するときに人間の精神がどれだけ模索するか、正しいかどうかは別にしても、どれだけ芸術的に活動するかを熟知しています。ライフスタイルから生まれた個人の行動を元にして、ひとそれぞれに問題を解いていくのです。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,156p

    共同体感覚と創造性の関連について

    ・ライフタスクに直面したときに我々は問題を発見し、問題を解決する。この解決の過程で我々は「創造力」を駆使している。それが「永遠の目」から見て正しくても、誤っていても、我々はいずれにせよ創造力を用いているのである。誤っている創造力にも芸術的なものはありうる。

    犯罪すらも現実問題として「創造力」が発揮されている。映画やアニメの悪役や詐欺師の発想の素晴らしさに感嘆することはある。

    図にするとこのようなイメージとなる。正誤(適切・不適切)を判断する基準は「共同体感覚の方向かどうか」が重要となる。

    共同体感覚に基づいていない場合は創造力(創造性)の有無に関わらず☓だといいたいところだが、正直わからない。本人が共同体感覚をもっていないとしても、結果として人類に貢献する場合、他者に貢献する場合もある。しかしいずれにせよ、その個人単位では精神の健全には繋がりにくいという意味では☓なのかもしれない。

    たとえば人類を滅ぼそうとしてウイルスを開発したつもりが、人類を救う薬だったという極端なケースもある。あるいは人類が減ったほうが人類によって良かったというような極論もありうる。犯罪をすることで、犯罪はよくないと知らしめるケースもそうだろう。

    本人はそれを意図していないが、結果としてそうだということがある。しかしそれを容易に○とするわけにもいかない。後々人類に逆機能になる場合もある。この問題は思った以上に複雑である。「不適切」ゆえに「創造力が高くなる」、それゆえに「結果としても多大に貢献する」という組み合わせのケースもありうるからである。小説やアニメでも「復讐のエネルギー」が大きい人物がとんでもないことをしでかすようなイメージである。たとえばニュートンの幼少期を考えると、幸せではなかったゆえに科学への力の注ぎ込み方、想像力が異常だったと思えてしまう。

    「劣等感から生じる行動として最後に挙げるのは、活動範囲が明らかにせまくて、前進の歩みが小さくなっている状態です。このケースでは、人生問題の重要な部分は締め出されています。ただし、共同体の向上にさらに貢献しようとして、芸術家や天才のように人生の問題の解消を放棄しているときは、やはり例外として扱わなければなりません。」
    アルフレッド・アドラー「生きる意味――人生にとっていちばん大切なこと――」,長谷川早苗訳,120p

    参考文献リスト

    今回の主な文献

    岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」

    岸見一郎、 古賀史健「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」

    岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」

    岸見一郎、 古賀史健「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」

    岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」

    岩井俊憲「人生が大きく変わる アドラー心理学入門」

    永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」

    永藤かおる、 岩井俊憲「図解 勇気の心理学 アドラー超入門 ライト版 B5サイズ」</p

    岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」

    岸見一郎「アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書) 」

    アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」

    アルフレッド・アドラー、長谷川早苗(訳)「生きる意味―人生にとっていちばん大切なこと」

    心理学 改訂版 (キーワードコレクション)

    心理学 改訂版 (キーワードコレクション)

    汎用文献

    米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

    米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

    トーマス・クーン「科学革命の構造」

    トーマス・クーン「科学革命の構造」

    真木悠介「時間の比較社会学」

    真木悠介「時間の比較社会学」

    モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

    モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

    グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

    グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

    グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

    グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

    マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

    参考論文

    ※他の記事を含めて全編を通しての参照した論文です

    ・髙坂康雅「共同体感覚尺度の作成」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・髙坂康雅「大学生における共同体感覚と社会的行動との関連」(URL)

    ・山田篤司「アドラー心理学「共同体感覚」とは何か」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・姜信善,宮本兼聖 「共同体感覚が社会的適応および精神的健康に及ぼす影響についての検討 : 共同体感覚の形成要因としての養育態度に焦点を当てて」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照

    ・吉武久美子・浦川麻緒里「青年期の内的作業モデルと, 共同体感覚や SNS での友人とのつながりとの関連性についての検討」(URL)
    – 「共同体感覚」の定義の参照
    ・阿部田恭子,柄本健太郎,向後千春「ライフタスクの満足度と重要度および共同体感覚が幸福感に及ぼす影響」(URL)
    – 統計データ、考察、成人版

    千葉建「共通感覚と先入見: アーレント判断論におけるカント的要素をめぐって」(URL)
    – アーレントの「共同体感覚」の参照。アドラーへの言及は皆無なのだが、しかし人類にとって切実であろうことを語っており、面白かった。これもまた「創造の目的」に繋がりうるものであるといえる。ただし、私はアーレントの主張全体をよく理解しておらず、今回は断片的な摂取に留まる。いずれにせよまずはカントの解説から記事・動画で扱うべきだろう(飛ばしてもいいが)。

    ・熊野宏昭「新世代の認知行動療法」(URL)
    – 認知行動療法について参考に。また、行動主義や機能主義についても参考になる
    ・坂野雄二「不安障害に対する認知行動療法」(URL)
    – 認知行動療法、不安障害について参考に
    ・森本康太郎「論理療法と個人心理学」(URL)
    – アルバート・エリス「論理療法と個人心理学」の翻訳
    – 論理療法、アドラーの主張についての理解
    ・森本康太郎 「アドラーの個人心理学における理性と情動 アルバート・エリス」(URL)
    – アドラーの怒り、悲哀、不安などについて参考になる
    ・森本康太郎「アルバート・エリス博士へのインタビュー マイケル・S・ニストゥル」(URL)
    ・松田英子「夢を媒介とする心理療法の歴史と展開.」(URL)
    – アドラー、フロイト、ユングなどの夢解釈について参考に
    ・中村正和「行動科学に基づいた健康支援」(URL)
    – 行動療法について参考に
    ・石倉陸人, 林篤司, 岩下志乃 「認知行動療法を用いた心理教育 Web アプリケーションの提案」(URL)

    – 認知行動療法について参考に
    ・川合 紀宗「吃音に対する認知行動療法的アプローチ」(URL)
    – 認知行動療法について参考に・増田豊「自由意志は 「かのようにの存在」 か-ディスポジション実在論と行為者因果性論の復権」(URL)
    – ファイフィンガー、二元論、デカルトについて参考に。ディスポジション実在論もなかなか面白そうだ。
    ・小西 美典「法における擬制」(URL)
    – ファイヒンガーの「かのようにの哲学」について参考になる

    ・平山正実「青年のメンタルヘルスと教会」(URL)
    – メサイアコンプレックスの定義の参考に
    吉岡恒生「子どもを援助する者の心の傷とその影響」(URL)
    – メサイアコンプレックスの説明の参考に

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    蒼村蒼村

    投稿者プロフィール

    創造を考えることが好きです。
    https://x.com/re_magie

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